2007年12月30日

白洲次郎とは何者だったのか (17)

白洲手記-その1

白洲次郎が公式に残した数少ない公文書、いわゆる『白洲手記』。
憲法制定に関してのGHQとのやりとりを白洲次郎がまとめ、
外務省が公文書として保存しているものです。

これは外務省のWEB上で一般公開はされているのですが、
HTML化されていない画像ファイルなので、Google等では検索できません。
よって、この際テキスト化して、ここに挙げておこうかと思います。
参考:外務省 外交史料 Q&A 昭和戦後期 

なお、原文はカタカナのタテ書き旧仮名使い文ですが、
これを新仮名使いのひらがな横書き文に直してあります。
また文字(和文タイプ)が潰れて判読できない文字がいくつかありますが、
その部分は、“〇”で表記しました。

では以下、『白洲手記』になります。(全3回に分けてご紹介の予定です)

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Feb. 13th 1946 (編注:昭和21年2月13日)

1.日本政府案は依然として「アクセプタブル」なものでない
2.司令部にて案を作成したり
  本案は連合国にも司令部にも「アクセプタブル」のものなり
3.本案は強制的に押し付けるものに非ず
4.本案は日本国民の要望するものと信ず
5.司令部は天皇を支持し来たり、本案は天皇制を支持し
  天皇反対者連中より 天皇を護る唯一の方法なり
6.日本の保守派の人々は うんと左に行くことが良いのだ
7.日本の国民が政治意識を得てくればこの案を必要とする
8.本案は原則を示したもので、形式内容共に変更の余地あり
9.本案によって日本が国際間に進出する手段となる

 編注1:Acceptable:[形] 受け取るにふさわしい, ~の意にかなう
 編注2:この日、GHQ側より憲法草案が吉田茂外相ほかへ手渡された。
      日本側で独自の憲法案の作成も進行中であったが、
      GHQはそれを牽制するために、突如日本側に草案を提示した。
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「ウイトニー」の手紙 (1946年2月16日附)
1.松本案も根本精神に於いて同一の目的に向かって進まんとして居る
  ことは認める
2.問題は現内閣が司令部原案に基づいて改革をやる度胸があるや
  なしかである、ないのならある奴に席を譲るべきだ
3.政府及び司令部が賛成なるこの改革案を議会で反対されるなど
  云うことは考えられぬ
4.改革案に依りて初めて皇室の安泰は保持される
5.改革案は総選挙以前に国民に示されるべきだ
6.改革案の字句の修正は認むるもその原則、根本様式に対しては
  絶対に譲歩の余地なし
7.改革案は日本をして国際間に精神的の指導地位を与えるものだ
8.本文題は日本に関することのみでなく、連合国を満足せしめる
  手段として絶対に必要だ
9.日本政府が実行しないなら、司令部で独自の行動に出る
10.もしも連合国側より改革案を押し付けられることになれば
  こんな生易しいものでは済まぬ
---------------------------------
(以下、次回へ続く)

 注:上記昭和21年2月13日の会談の出席者は、
   日本側 吉田茂(当時外相)、白洲次郎
       松本烝治(憲法調査委員長)、長谷川元吉(外務省通訳)、の4名。
   GHQ側 コートニー・ホイットニー、チャールズ・ケーディス 
       マイロ・ラウエル、アルフレッド・ハッシー、の4名

つづきは 白洲手記-2

◆その他参考にさせていただいたサイト

古森義久氏のBLOGより、
“ケイディス会見から(11)”
 
ケイディス:
私は責任者として(憲法GHQ草案の日本語への翻訳が)
“これではいつまでたっても終わらないから、
 なんとか早く仕上げる方法はないか”と問いただしました。

そうしたら白洲氏がおもむろにポケットに手を入れて
紙をとり出し(略)みると彼はGHQの憲法草案を
一般国民にわかりやすい日本語に全訳したものを、持っているのです。

会議のはじめから彼はそれを持っていながら、翻訳の過程で
なにか日本側に有利な訳がでてこないかどうかなどを期待したため、
黙っていたのでしょう。私たちはそのために何時間も浪費したのです。

古森 
白洲氏が自分で訳したわけではないでしょう。

ケイディス 
外務省の公式の翻訳です。(略)
白洲氏はとても抜け目のない人物で、どうしてもそれを
提出せざるをえないという瞬間まで、黙っていたのです。

古森 
白洲氏に関してはいろいろなエピソードがあるようですね。

ケイディス 
彼にはちょっと信用をおけないところもありました。
(略)
その後、白洲氏は大きなパーティーを開く計画を立て、
民生局のメンバーの全員を招待しました。
(略)
しかし私は局次長として、将校がみんなで芸者パーティーに行けば、
アメリカの新聞記者にきっとそれを書かれ、本国で批判をあびるだろうと
考えて、そのパーティーに行くなという命令を将校全員に出したのです。

その後、白洲氏は私の前に全然、顔を見せなくなりました。
パーティーのことで気分を悪くし、きっと日本側に対しても
面子を失う結果となったからでしょう。
彼は民生局とのつながりを日本側に誇って語っていた形跡があり、
きっと私のとった措置に憤慨したのでしょう。
<以上引用>

◆白洲次郎といえばG2(GHQ参謀2部)とずぶずぶという印象がありましたが、
 しかし最初は民生局(GS)に食い込もうとしていたわけです。

 白洲次郎は、
 「独自のプリンシプルに裏打ちされた熱血漢」的な側面と
 このブログで探っている、
 「素性の良く分からない、フィクサーにして策謀家」の側面

 という、相反する2つの側面を併せ持つ人物と認識していますが、
 ケーディスの白洲観は、当ブログの調べで浮き上がってくる人物像に
 矛盾無く一致するものと思います。

備考:
参考:同・古森義久氏ブログの“ケイディス会見記” その他のエントリー 


▼その他参考にさせていただいたサイト

『国際戦略コラム』より、“憲法第九条と日米インナー・サークル”
白洲は「週刊新潮」の回想の中で、マッカーサーがオーストラリアの地で
日本本土侵攻作戦を開始した時(1943年ごろ)に、すでに新憲法草案は
着手されていたと推測していた。白洲によれば、新憲法が公布されると、
政府はこれを記念して「銀杯一組」を作り、関係者に配ったという。

白洲がその銀杯をホイットニーに届けた際に、ホイットニーは
この贈り物を喜んだ。そして、「ミスター・シラス、この銀杯を
あと幾組もいただきたいんだが・・・」と言いだした。

その日、ホイットニーの部屋には、ケーディス以下何人かの
スタッフが詰めていたが、彼の言う幾組という数字は、
このスタッフの数をはるかに上回っていた。
白洲はその点を問いただすと、ホイットニーはつい口を
滑らせたのである。

「ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、
 ここにいるだけではないんだ。日本に来てはいないが、
 豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるんだよ」
<以上引用>


「ラウエル文書」 1946年(昭和21年)年2月13日の会議の記録
 白洲手記の最初と同じ、S21.2.13の会議についてのアメリカ側からの記録。

 「ホイットニー将軍のこの発言(日本案の拒否と米案の提示)に、
  日本側の人々は、はっきりと、ぼう然たる表情を示した。
  特に吉田氏の顔は、驚愕と憂慮の色を示した」
<以上引用>


k_guncontrol at 14:59│Comments(2)TrackBack(0)clip!昭和史(戦後史) 

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2007年12月30日 19:13
北サンの本では、カニのかんつめの販売で 日水に誘われたと書いてありますが

ネットで 当時の日水に海軍とキーワードをつけると さかんに興業銀行から金を借りて 船を作っていた時期です。

平時にはタンカー 戦時には 場合によっては 軍艦に転用ということのようですが 外地部長とは 建前で 海外の造船についての調査が主で 伝を使って 興業銀行から金ひっぱりだしてくれというのが 鮎川義介あたりのお願いだったんじゃないか?と思います。

証拠が薄いのがつらいけど 調べれば この人が戦前 戦時に何をしていたのか 意外に まだわかる話のように思いますが?

戦後のどさくさのフィクサーぶり 経験あってできることだと思いますね?
2. Posted by k_guncontrol   2007年12月30日 21:24
「プリンシプル〜」では鯨油をイギリスに売っていた、とか書いてますね。
白洲のキャリアで一番情報が無いのが30代のころ。
この間にいったい何が彼にあったんでしょうねえ。

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