2008年08月17日
白洲次郎とは何者だったのか(46)
白洲次郎に不興を買い、追い払われたと言われる人物のひとりに
曾禰 益 (そね えき) という人がいます。
この人はどのような経歴の持ち主か、
そして白洲パージの対象となった理由は何か?
『日本近現代史研究』より、“西尾末廣”
昭和22年4月25日の衆議院総選挙(参考) で、社会党が第一党となった。
この選挙で西尾末広が考えていた本当の筋書きは、西尾首班ではなく、
「社会党閣僚が多数を占める、第二次吉田茂内閣」であったので、閣僚の
選択について吉田茂に協力を求めた。
しかし吉田は、「自由党が挙国一致内閣をつくるとき、私が七重の膝を八重に
折るといったが、社会党は協力していただけなかった。ですから、その言葉は
お返しします」と協力を断った。
5月24日、片山哲社会党委員長が全閣僚を兼ねる形で社会・民主・国民協同
の三党連立内閣が発足。
6月1日、西尾は内閣官房長官(旧称内閣書記官長)に就任。
西尾は、運輸次官・佐藤栄作、大蔵次官・池田勇人などに、官房次長として
自分を助けてくれないかと依頼してみたが、それぞれがそれぞれの理由で
謝絶した。 西尾が次に白羽の矢を立てたのが曾禰益であった。
(その後も曾禰は西尾の最側近として、民社党に参加)
曾禰は、終戦連絡事務局の政治部長であったが、当時外相の吉田茂と反りが
合わず、昭和21年に九州に左遷されていた。それを西尾が中央へ呼び戻した。
<以上要約引用>
※編注:この九州への左遷が、白洲次郎によるものらしい。
『日本近現代史研究』より、“曾禰 益”
昭和六(1931)年、満州事変勃発の際には、芳澤謙吉(犬養毅の女婿)が
駐仏大使兼臨時代表としてジュネーヴの国際連盟に赴き、曾禰益も随行した。
芳沢は吉田茂、松平恒雄らと代表部を組織し、対日宥和方針がとられるよう
努力したが、(略)対日非難決議が理事会を通り、リットン調査団の来日を
招くこととなった。
芳沢は、曾禰を秘書官として一緒に連れて帰ろうとしたが、帰朝の途中、
五・一五事件(1932年/昭和7年)の報と犬養内閣の退陣と芳沢外相の
辞職を聞かされた。
曾禰を待っていたのは、(外務省)アジア局第一課勤務の辞令であった。
アジア局第一課は、(満州を除く) 中国の政治と経済のことを扱う部署で
あった。ここに在籍後、駐支大使館書記官・兼・上海領事として赴任。
この前後に、五島慶太(東急グループの総帥)の長女・春子と結婚。
終戦に到るまで曾禰の任地は日本と上海とを行ったり来たりという
状態であった。
昭和20年、終戦連絡事務局(岡崎勝男長官)という組織が重光葵外相の
もと外務省の中にできた。続いて吉田茂が外相が就任すると、この組織も
人事が刷新され、事務局次長に白洲次郎、政治部長に曾禰が就任した。
外務省は形骸的な存在となり、この終戦連絡(中央)事務局がGHQとの
「外交」を切り盛りすることとなった。
ところが、松本治一郎の総選挙立候補と公職追放の件をめぐり、曾禰と
GHQと吉田外相の間で軋轢が生じ、曾禰は辞職も辞さない覚悟であったが、
結局九州終戦連絡地方事務局に「都落ち」した。これが決定的な吉田との
決別になった。
<以上要約引用>
※編注:松本治一郎は当時、社会党左派に所属、反吉田の人物。
松本龍の祖父。
◆この松本治一郎の処遇に関する方針の対立が、「吉田/白洲」 と
曾禰益が決裂した最大の原因となっているようです。
※参考:白洲(95) 松本治一郎の公職追放と吉田茂
『占領を背負った男』 方式の史観で例えるなら、
「民主化(左傾化)を推進したGHQ民生局は、松本治一郎を支持した。
それに幇間のごとく従った曾禰に、次郎の怒りは爆発した」
といったところなのでしょうが、実情はそんな安直なストーリーではなく、
松本の出自からして、他にディープな理由があるのでしょう。
五島慶太、佐藤栄作など鉄道がらみの人名が出てくるあたりにも
何か遠因がありそうな気がします。 吉田茂の実父・竹内綱も、
茨城および朝鮮の鉄道に絡んだ人です。
参考: 鉄道に関係する人物一覧
(追記2008.3.15)
曾禰益を追い払った理由のひとつは、白洲次郎と吉田茂が
樺山愛輔の公職追放指令を握りつぶしたことにもありそうです。
※参考:岡崎勝男談話(3)
◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか
▼関連リンク
外務省で、吉田茂と曾禰益の中間のポジションにいた人。
田尻 愛義(たじり あきよし) (Wikipedia)
曾禰益と同様に、この人も中国から東京に戻り、
1933年、外務省アジア局第一課へ。
その後、中国と日本を行ったり来たり。
『東亜連盟戦史研究所』より、“ハルノート再考”
汪政権の樹立に猛反対した外交官、田尻愛義は 「蒋介石政権を相手とせず
之を抹殺すると宣言したこと自体、信義にもとる行為であるにもかかわらず、
汪に対する信義を重んじて南京政権を樹立承認し、支那事変解決の道を自ら
閉ざしてしまった 「日本政府の外交方針」 を非難していた。
<以上引用>
『近代史の人物データベース』より、“芳澤謙吉”
芳澤謙吉の公職追放解除(昭和二十八年)を受け、岡崎勝男外相は芳澤に
初代の台湾国民政府駐在駐使を要請した。緒方竹虎からも口説かれた芳澤は、
これを受けて赴任した。
<要約引用>
曾禰 益 (そね えき) という人がいます。
この人はどのような経歴の持ち主か、
そして白洲パージの対象となった理由は何か?
『日本近現代史研究』より、“西尾末廣”
昭和22年4月25日の衆議院総選挙(参考) で、社会党が第一党となった。
この選挙で西尾末広が考えていた本当の筋書きは、西尾首班ではなく、
「社会党閣僚が多数を占める、第二次吉田茂内閣」であったので、閣僚の
選択について吉田茂に協力を求めた。
しかし吉田は、「自由党が挙国一致内閣をつくるとき、私が七重の膝を八重に
折るといったが、社会党は協力していただけなかった。ですから、その言葉は
お返しします」と協力を断った。
5月24日、片山哲社会党委員長が全閣僚を兼ねる形で社会・民主・国民協同
の三党連立内閣が発足。
6月1日、西尾は内閣官房長官(旧称内閣書記官長)に就任。
西尾は、運輸次官・佐藤栄作、大蔵次官・池田勇人などに、官房次長として
自分を助けてくれないかと依頼してみたが、それぞれがそれぞれの理由で
謝絶した。 西尾が次に白羽の矢を立てたのが曾禰益であった。
(その後も曾禰は西尾の最側近として、民社党に参加)
曾禰は、終戦連絡事務局の政治部長であったが、当時外相の吉田茂と反りが
合わず、昭和21年に九州に左遷されていた。それを西尾が中央へ呼び戻した。
<以上要約引用>
※編注:この九州への左遷が、白洲次郎によるものらしい。
『日本近現代史研究』より、“曾禰 益”
昭和六(1931)年、満州事変勃発の際には、芳澤謙吉(犬養毅の女婿)が
駐仏大使兼臨時代表としてジュネーヴの国際連盟に赴き、曾禰益も随行した。
芳沢は吉田茂、松平恒雄らと代表部を組織し、対日宥和方針がとられるよう
努力したが、(略)対日非難決議が理事会を通り、リットン調査団の来日を
招くこととなった。
芳沢は、曾禰を秘書官として一緒に連れて帰ろうとしたが、帰朝の途中、
五・一五事件(1932年/昭和7年)の報と犬養内閣の退陣と芳沢外相の
辞職を聞かされた。
曾禰を待っていたのは、(外務省)アジア局第一課勤務の辞令であった。
アジア局第一課は、(満州を除く) 中国の政治と経済のことを扱う部署で
あった。ここに在籍後、駐支大使館書記官・兼・上海領事として赴任。
この前後に、五島慶太(東急グループの総帥)の長女・春子と結婚。
終戦に到るまで曾禰の任地は日本と上海とを行ったり来たりという
状態であった。
昭和20年、終戦連絡事務局(岡崎勝男長官)という組織が重光葵外相の
もと外務省の中にできた。続いて吉田茂が外相が就任すると、この組織も
人事が刷新され、事務局次長に白洲次郎、政治部長に曾禰が就任した。
外務省は形骸的な存在となり、この終戦連絡(中央)事務局がGHQとの
「外交」を切り盛りすることとなった。
ところが、松本治一郎の総選挙立候補と公職追放の件をめぐり、曾禰と
GHQと吉田外相の間で軋轢が生じ、曾禰は辞職も辞さない覚悟であったが、
結局九州終戦連絡地方事務局に「都落ち」した。これが決定的な吉田との
決別になった。
<以上要約引用>
※編注:松本治一郎は当時、社会党左派に所属、反吉田の人物。
松本龍の祖父。
◆この松本治一郎の処遇に関する方針の対立が、「吉田/白洲」 と
曾禰益が決裂した最大の原因となっているようです。
※参考:白洲(95) 松本治一郎の公職追放と吉田茂
『占領を背負った男』 方式の史観で例えるなら、
「民主化(左傾化)を推進したGHQ民生局は、松本治一郎を支持した。
それに幇間のごとく従った曾禰に、次郎の怒りは爆発した」
といったところなのでしょうが、実情はそんな安直なストーリーではなく、
松本の出自からして、他にディープな理由があるのでしょう。
五島慶太、佐藤栄作など鉄道がらみの人名が出てくるあたりにも
何か遠因がありそうな気がします。 吉田茂の実父・竹内綱も、
茨城および朝鮮の鉄道に絡んだ人です。
参考: 鉄道に関係する人物一覧
(追記2008.3.15)
曾禰益を追い払った理由のひとつは、白洲次郎と吉田茂が
樺山愛輔の公職追放指令を握りつぶしたことにもありそうです。
※参考:岡崎勝男談話(3)
◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか
▼関連リンク
外務省で、吉田茂と曾禰益の中間のポジションにいた人。
田尻 愛義(たじり あきよし) (Wikipedia)
曾禰益と同様に、この人も中国から東京に戻り、
1933年、外務省アジア局第一課へ。
その後、中国と日本を行ったり来たり。
『東亜連盟戦史研究所』より、“ハルノート再考”
汪政権の樹立に猛反対した外交官、田尻愛義は 「蒋介石政権を相手とせず
之を抹殺すると宣言したこと自体、信義にもとる行為であるにもかかわらず、
汪に対する信義を重んじて南京政権を樹立承認し、支那事変解決の道を自ら
閉ざしてしまった 「日本政府の外交方針」 を非難していた。
<以上引用>
『近代史の人物データベース』より、“芳澤謙吉”
芳澤謙吉の公職追放解除(昭和二十八年)を受け、岡崎勝男外相は芳澤に
初代の台湾国民政府駐在駐使を要請した。緒方竹虎からも口説かれた芳澤は、
これを受けて赴任した。
<要約引用>
トラックバックURL
この記事へのコメント
1. Posted by くれど 2008年08月17日 04:49
松本治一郎の追放解除に動いたのは 楢橋も同じ 同郷だからのようです
吉田の資金源の一つの麻生財閥の炭坑には 労働者にいろんな人が集まります。当然 いわゆる 地元では食えない被差別部落民も
彼らに影響力のある人間は当然 叩きたいと思うのは 政治としてありかと
ただ 松本治一郎は 笹川良一 三浦義一とも付き合いがあり 児玉系の方々にとっては 松本センセイなんで さらに複雑なんです。
吉田の資金源の一つの麻生財閥の炭坑には 労働者にいろんな人が集まります。当然 いわゆる 地元では食えない被差別部落民も
彼らに影響力のある人間は当然 叩きたいと思うのは 政治としてありかと
ただ 松本治一郎は 笹川良一 三浦義一とも付き合いがあり 児玉系の方々にとっては 松本センセイなんで さらに複雑なんです。
2. Posted by k_guncontrol 2008年08月17日 06:04
松本治一郎−楢橋渡というラインが
福岡反麻生というのは、なるほど、という感じですね。
楢橋、元炭鉱夫ですしねー。
一方、松本−曾禰ラインというのが
どうもいまいち見えてこないのですが、
これは曾禰と吉田が元々関係が良くなかったという
その延長線上に、たまたま松本治一郎がいたのでしょうか。
そもそも吉田と曾禰は何が合わなかったのでしょうか。
それぞれの親の代をみても、特に確執はなさそうに見えます。
福岡反麻生というのは、なるほど、という感じですね。
楢橋、元炭鉱夫ですしねー。
一方、松本−曾禰ラインというのが
どうもいまいち見えてこないのですが、
これは曾禰と吉田が元々関係が良くなかったという
その延長線上に、たまたま松本治一郎がいたのでしょうか。
そもそも吉田と曾禰は何が合わなかったのでしょうか。
それぞれの親の代をみても、特に確執はなさそうに見えます。
3. Posted by くれど 2008年08月17日 22:13
一つの仮説ですが 松本治一郎は 政治家で社会運動家です。
ただ このかたは 松本組という土建屋のドンです。松永の爺さんの引きでおおきくなったかたです
いまでも福岡の談合の仕切は この会社がしているらしいんですが このあたりを叩くと 損をするのが誰か 得をするのがだれかが 松本のバージの本質かもしれません
ただ このかたは 松本組という土建屋のドンです。松永の爺さんの引きでおおきくなったかたです
いまでも福岡の談合の仕切は この会社がしているらしいんですが このあたりを叩くと 損をするのが誰か 得をするのがだれかが 松本のバージの本質かもしれません
4. Posted by k_guncontrol 2008年08月18日 02:00
公共工事が多そうです。
http://www.matsumotogumi.co.jp/01/index.htm
松本系企業と麻生系企業、少なくとも今は上手くやってるみたいです。
松永を媒介に電力再編で手を結んだか?
http://www.matsumotogumi.co.jp/01/index.htm
松本系企業と麻生系企業、少なくとも今は上手くやってるみたいです。
松永を媒介に電力再編で手を結んだか?