2008年08月30日

白洲次郎とは何者だったのか(50)

白洲パージに会ったと言われる寺崎太郎。
その理由を人脈から推測する、その3回目です。
 参考: 寺崎−1 寺崎−2  

ジョージ・アチソン = 米国務省が派遣した最高司令官の政治顧問。

『日本テレビ』HPより、“知ってるつもり?:暗号名はマリコ” 
終戦後、連合国総領事官マッカーサーの政治顧問であった
ジョージ・アチソンが(寺崎)英成を探していた。

アチソンはFBIファイルによって、英成の開戦前の
平和活動に向けた行動を知り、高く評価していたのである。
そして英成を探し出したアチソンは言った。
「今度こそ君の力を平和のために発揮するときだ。」

こうして英成は日本政府とGHQの連絡業務をする連絡官として
復職することになる。翌年、吉田茂首相から宮内庁御用掛を命じられ、
天皇とマッカーサーの通訳担当官になる英成。
<以上引用>

『あるJCOBのトレーニングルーム』より、“昭和天皇とマッカーサー”
昭和21年(1946年)1月7日、
アチソン政治顧問はマッカーサーに極秘メモを渡す。 
「私の信念ですが(略)問題がなければ、天皇は戦犯として
 裁かれるべきであります(略)」と報告している。 
 天皇とマッカーサーの会見後も根強く天皇への戦争責任追求が示されている。


『国会図書館』より、
近衛をめぐるアチソン政治顧問の動き”
アチソンは、幣原内閣が憲法問題調査の開始を発表したこの時点でも、
まだ近衛(文麿)の憲法改正作業を擁護していた。

一方、マッカーサーは、本国政府に直結しているアチソンを
憲法改正問題から除外し始めた。

(S20)11月7日付けの国務次官宛てアチソンの書簡は、
マッカーサーが憲法改正問題から国務省を除外しようとしていることを
報告している。アチソンはこの書簡を、GHQに読まれる可能性のある電報を避け、
わざわざ航空郵便で送った。この時期からマッカーサーは、憲法問題を
GHQ内で扱う方向へと向かった。
<以上引用>

 ※編注:1945年10月4日付けでアチソンが国務省宛に
       「憲法案のアウトラインを送付せよ」とレターを出しています。

“対日理事会米国代表文書” 
対日理事会(Allied Council for Japan)は、1945年12月24日、
モスクワでの米英ソの三国外相会議の共同コミュニケにより
ワシントンの極東委員会とともに東京(丸の内明治生命ビル)に
設置された、最高司令官の諮問機関。

日本の占領及び管理条件並びにそれに係る補足的な指令の実施に関して、
最高司令官の諮問を受け、助言した。

議長である最高司令官(又はその代理)と
米、ソ、中、英連邦の各委員により構成された。

議長は、最高司令官の代理として、
 第1〜2回会議は、マーカット (William F. Marquat)、
  3〜38回は、アチソン(George Atcheson)、
 その後、最終164回まで、シーボルト(William J. Sebald)が務めた。

 ※編注:
   対日理事会(Allied Council for Japan)
    →これは、アメリカ対日協議会(American Council on Japan)
      とは違いますね。
      頭文字がどちらも “ACJ” となるので、
      これまで一寸ごっちゃになっていたかも。

『如水会12月クラブ』より、“アメリカの対日戦後政策 中村政則”
実は日本がポツダム宣言を受諾した八月三日に(ジョセフ・)グルーは
国務次官を辞めます。(略) バーンズ国務長官から(略)政治顧問として
マッカーサーを補佐してほしいと頼まれたのですけれどもグルーは断ります。

そのかわりに(グルーは)、ユージン・ドゥーマンを推薦するんですが、
実際に来たのは対日強硬派のアチソンです。

結局グルーは、この初期改革というのは行き過ぎているということで、
1948年にアメリカ対日協議会というのをつくりまして、
いわば日本占領政策の軌道修正を図る方向で動くんです。
(略)
言ってみれば日本ロビーでありますけど。
1947年(昭和22年)の夏ぐらいからアメリカは明らかに
対日占領政策を転換したわけです。
<以上引用>

 ※編注:ジョージ・アチソンは1947年8月、公務で帰米の途中、
      ハワイ沖で航空機事故により急逝。

◆なぜ寺崎太郎は白洲次郎に追われたのか、

 1.反・天皇制/国務省寄りのアチソンに近く、
   国体護持などのためにGHQを利用したい吉田茂と対立した?
 2.憲法制定過程のなかでは近衛寄りのアチソンが急逝し、近衛も自決。
   結果、その政治/外交の基盤が揺らいだこと?

 そのあたりでしょうか。どうもすっきりしません。
 フェラーズ(GHQ副官)と寺崎兄弟の関係の方を見ると
 吉田/白洲に切られるのも不可解ではあります。

 もうひとつ考えられるのは、外交畑/外務省では傍流だった吉田茂と
 白洲次郎などの周辺が、外交と、それに伴う政治力の基盤を固める為、
 戦前の外交主流派が再度台頭してくるのを嫌い、遠ざけた。
 そんなあたりでしょうか。

(追記2008.03.01)
 白洲次郎が寺崎太郎を遠ざけた理由:
 樺山愛輔の追放指令を吉田茂と白洲次郎が握りつぶしたのですが、
 そのために寺崎太郎の存在が不都合であったことが理由と思われます。
  ※参考:岡崎勝男談話(6)

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか

▼参考リンク
『相澤謙一郎ブログ』より、“寺崎太郎”
  ※注:寺崎兄弟の血縁の方のブログです。

(寺崎太郎は) 「枢軸派」全盛の外務省で対米開戦反対の声を上げ、
1941年(昭和16年) 10月の東条英機内閣発足とともに辞職。

戦後は外務次官に抜てきされたが、首相吉田茂と衝突して、
また外務省を飛び出す。

戦前に枢軸派にべったりだった官僚が戦後、幹部になることに
嫌悪感を隠さなかったという。
<以上引用>

※その戦後幹部になった(そして吉田の戦前の責任を追及しなかった)官僚を
 重用した吉田茂とは合わなかった、ということも考えられそうです。


k_guncontrol at 12:25│Comments(4)TrackBack(0)clip!昭和史(戦後史) 

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2008年08月31日 01:02
枢軸派べったりで 幹部になったというのは ジローさんの親友の牛場のことなんでしょうか
 
とりあえず仲間で固める
これかなー



2. Posted by k_guncontrol   2008年08月31日 08:42
戦前枢軸派で出世した人シリーズ

高瀬侍郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%BC%A5%E5%90%89%E9%83%8E
群馬出身〜拓大総長、大勲位の子分?

須磨弥吉郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%BC%A5%E5%90%89%E9%83%8E
スペイン公使業務の一方で、敗戦までの5年間に2000点に上るスペイン絵画を
購入している。その目的や資金原資に関しては謎が多い。

3. Posted by k_guncontrol   2008年08月31日 08:54
与謝野馨HPより
http://www.yosano.gr.jp/article/200409kouken.html
外務省では時流に乗る人たちが増えて、父(与謝野秀)たちは少数派になっていった。

戦後になってコロッと転向したのは、
牛場信彦(元駐米大使)さんですよ。

4. Posted by くれど   2008年08月31日 23:41
高瀬センセイは 田中清玄と 同窓ですね
鹿島守之助さんは拓大にも縁がありますね

それからエントリーのほうでは ジローさんの秘書をみつけましたが この方 エスボワールの人脈にも出ていました。

あの表 ググるだけでも まだ発見がありそうです



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