2009年04月28日

小林中と吉田茂資金(4)

前回(3)につづき、『寡黙の巨星 小林中の財界史 (阪口昭)』 より

昭和26年4月、小林(中)は日本開発銀行の初代総裁に就任した。(略)

 小林中:
 最初、吉田さんが池田(勇人・蔵相)に、「小林を開銀総裁にしたいが
 君はどう思うか」と聞いたんだよ。池田は、「私は小林と個人的に
 あまりに親しいので、私の口から可否は申し上げにくい。あなたの
 一存で決めて下さい。」と返事したという。
 (略)

 「どうだい、君(小林)やるかい」と言うから、僕は承知しました。
 ただしひとつだけ条件があります。(略) −−政府のカネを動かすと
 なると、政治家がとやかく口を出す恐れがある。これだけはなんと
 しても避けねばならぬ。すでに復興金融金庫がああいう事件(昭電疑獄)
 を残している。
 (略)
 もし私が総裁に就任したら、たとえ閣僚が頼んできても話は聞かない
 ことにする。
 (略)
 そしたら吉田さんは、「そういうことなら大丈夫だ。そんなやつが来たら
 俺のところへ回してくれ。おれが始末する」というから、「いや、総理の
 お手は煩わせません。私が自分で断ります」と返事してね。

 それで話が決まったんだが、へんなことに、開銀総裁を任命するには
 だれかが推薦者になって総理大臣に小林を推薦する形をとらなきゃ
 いかんわけだ。吉田さんはそれを池田に頼んだところ、池田がまたね、
 「いや、私の様な小林の親友があるのはまずい。前例になっては困る
 から……」と言い出してね。

 池田はその役割を一万田(尚登・日銀総裁)に回した。
 その頃、一万田は吉田さんとも仲が悪かったんだが、渋々引き受けた。
 一万田は僕に向かって、「君のことだから仕様なく引き受けたよ」とか
 なんとか言っていたがね。


小林の開銀総裁就任は吉田がひとりで考え、ひとりで決めた人事である。
吉田得意の側近人事のひとつである。吉田は何故、小林に執着したか。
小林は凡庸に見えて、不思議なくらい経済の勘所を押さえる眼識を備え
ている。そうした小林の才能を吉田は見抜いていたに相違ない。

しかし、それ以上に、やはり自分の政治活動を献身的に支えてくれる
小林に然るべきポストを持って酬いたい、そして小林に箔を付けて、
この先もっと吉田政権のために働いてもらいたい、という気持ちが
強かったものと見られる。
(略)
吉田は自分の政権が生み落とす最大の産業資金供給機関の長に
小林を据えたいと、思ったのだろう。
<以上引用>

◆なぜ、小林中をはじめ戦後の新興財界人はそうまでして
 吉田茂をバックアップしたのか。

 また、吉田茂は政界には殆ど目もくれず、
 視線が常に財界に向いていたのは何故なのか。

 そのキーワードは“見返り資金”

 次回へつづく つづきはこちら 

◎関連エントリ
小林中と日本開発銀行(1)  


k_guncontrol at 01:58│Comments(5)TrackBack(0)clip!昭和史(戦後史) 

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2009年04月30日 22:51
http://web.sfc.keio.ac.jp/~okabe/paper/takaoka/ron3/node29.html

商社が商品ファンドをやっているという噺ですが ジローさんは戦前から やっていたわけですね
文平さんの金主も外資だったのでしょうか

2. Posted by k_guncontrol   2009年05月01日 00:48
> 文平さんの金主も外資だったのでしょうか

文平さんの場合は元金は退蔵さんが土地転がしたカネでしょう。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sakaimiiko-haisenizenno-kazoku.htm
一般に思いこまれていることだが、華族全員が裕福で、戦前上流社会を形成していたわけではけっしてない。公卿(くげ)、大名の旧華族ですら、自分たちの持つ文化や生活様式を最高と思い、お互いに反目し合っていた。
 そこヘ、軍人や官吏や事業家などの成功者の新華族が加わると、旧支配層はまるで異星人をみるようにこれを扱った。とてもとけ合うどころではなく、ヨーロッパのように社交界も育ちようがなかった。
「私たち(明治以降の新興華族)は、一度だってよかったことはありません。
明治維新のときもひどい目にあったらしいし、十五銀行の破綻のときも物凄かった。
私の家なんか、十五銀行のときにスッテンテンになったので、財産税のときは、
もう取られるものなんかありませんでした」
(略)
十五銀行とは華族のみが株主となって発足した銀行のことである。話に聞けば、
明治十年に発足、昭和二年の恐慌を乗り切れず、減資をやむなくされた、という。
そのため、株主の華族たちはひどい目にあったそうだ。頭取の公爵松方巌が
爵位返上を申し出て謹慎したのも、皇室始め皇族や華族に大迷惑をかけた責任を
とったのである。


・・・相場師たちが十五銀行に集めたカネが、のちの川崎汽船の原資になり、
日本郵船、商船三井と並ぶ三大海運業になった点を興味深く思ってます。



3. Posted by k_guncontrol   2009年05月01日 00:55
http://plaza.rakuten.co.jp/Xabier/diary/200904210001/
十五銀行の顛末

武家華族中心の銀行として、行員の多くも各藩の士族出身者を揃え、
殿様じきじきに旧藩の有力者に預金を勧める手紙を書き、村人や待ち人にも
勧めて欲しいとやるのですから、これは効きました。

第十五国立銀行といういかめしい名ではなく、殿様銀行の愛称で有名になるには
時間はかかりませんでした。1年足らずで、預金高日本一の銀行となったのです。
当然宮内省にも頼りにされ、宮内省御用達として、皇室財産の管理も任されています。

20年後の1897(明治30)年に民間銀行として、株式会社十五銀行となりました。
その後も順調だったのですが、関東大震災の結果多額の焦げ付きが生じて、
行き詰まり、1927(昭和2)年のこの日に、取り付け騒ぎが起きたのでした。

因みに高額預金者の内、武家華族は、旧武家出身の行員からの耳打ちで、
事前に預金を引き出して事なきを得たのですが、事情を何も知らされなかった
公家出身の華族や庶民の金持ち達は、大損失を蒙ったのです。
(略)

ところで、第十五国立銀行時代に行章に選ばれたのが、実はサクラでした。
このサクラがその後も受け継がれ、三井銀行(旧帝銀)が太陽神戸銀行と
合併した時も、サクラのマークは残り、遂には行名となったことは
ご存知の通りです。このマークは住友銀行とサクラ銀行の合併、
三井住友銀行となって、消えてしまいました。
4. Posted by k_guncontrol   2009年05月01日 01:01
中外商業新報 1927.9.1(昭和2)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00779581&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
十五銀整理の実現遅れん

十五銀行の破綻原因は宮内省の預金引出が其直接原因ではない
十五銀行休業の直接原因が、専ら宮内省の預金引出しにあるが如く宣伝し、
(略)少くとも実質において誤解のあったことが明瞭となり、その事情につき
今回日銀当局及び十五銀行側から大蔵省側に対し説明があった、

その要領によれば、四月二十五日の日銀帳尻における宮内省口座は
632万円で、この内520万円は十五銀行から宮内省に提供した担保公債であり、
他の120万円は虎之門の東伏見宮邸跡を政府に売却した現金である。

右の担保公債を現金に換算したものは、性質上固より十五銀行において自由に
使用することの出来ないことは言う迄もなく、宮内省は四月十九日十五銀行の
本金庫から119万円を引出したが、残り320万円は遂に引出すことが
出来ずしてそのまま今日に至って居るというのである。

・・・火の無いところに煙は立たず、とも言いますが。
5. Posted by k_guncontrol   2009年05月01日 01:09
http://project.lib.keio.ac.jp/bdke/psninfo.php?sPsnID=31
(1927年3月、金融恐慌が起こった)
大蔵大臣高橋是清の支払猶予(モラトリアム)令によって危機は回避された。
この休業銀行の中に宮内省の銀行である第十五銀行が含まれていた。

第十五銀行の破綻は川崎造船への融資焦げつきによるものであった。
川崎造船の救済は海軍の強い要望でもあった。

高橋蔵相による第十五銀行再建案には、興銀の川崎造船への救済資金融資が
含まれていた。しかし、(略)融資が回収不能になればその損失は興銀の損失になる。

小野は川崎造船への救済融資を拒否し、その旨を6月に政府に伝えた。
政府の閣議内でも反対が起こり、この再建案は結局失敗に終わった。

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