2010年07月22日

下山事件前後(57)

◎国鉄公社化と初代総裁選任の経緯

『桜木町日記 国鉄をめぐる占領秘話』(山川三平、昭和27年刊)より

泡喰ったコポの誕生(昭和23.7〜24.6)
(昭和23年7月、マッカーサーは吉田茂に書簡を送り、公務員の団体交渉権
 と争議権を消滅させることを要求。これにより国鉄は公社化されることと
 なる。組合の罷業権は認可されず、団体交渉権のみ認め、争議の場合、
 仲裁委員および調停委員によって解決することとなった)

またこの他大きな問題となったのは、国鉄を政治から独立させよという
軍の方針を実現するための監理委員という新しい制度についてであった。

政治から国鉄を離すということにあるのだから委員になれる範囲も色々
と制限を設けた。先ず1年以上政党の役員になったことがないということ、
それから国有鉄道と取引関係にないことなどがそれであった。
(略)

いさ監理委員の選定になると(略)大物はみな制限に引っかかってしまう。
(略)顔ぶれを見ても金融代表の佐藤喜一郎氏(当時帝国銀行社長、のち
に三井銀行会長)を除いては財界の大物というような人はいない。
(略)

こうして監理委員の線が決まると今度は、総裁に総理大臣級の大物を
持って来いということになった。しかも(略)毎月50万円の月給を払え
という注文が来た。(略)運輸局(CTS)の方では日銀総裁は毎月月給が
50万円、交際費が100万円となっている。(略)国鉄は日銀より大きい
ではないかというのである。
(略)

なにしろ総理の月給(当時2万5千円/月)以下でなければ政府とも話が
つかないからということで、とうとうこの案を引っ込めさせることに成功
した。(略)この接渉の結果は50万円どころか、名誉職のような薄給総裁
になってしまった。

 ※編注:事件当時の下山総裁の月給は1万8千円。

さて今度は総裁を求めようとすると、うるさい組合だけ引き受けて、
しかも交際費も少なく政治献金もできない(略)誰もなりてがない。

小林中氏(のちに日本開発銀行総裁)などもこのとき交渉を受けたが固辞
した。それで大屋大臣はやむなく、当時運輸次官であった下山定則氏を
推したところ、運輸局では、もう少し大物はいないかと異論を見せたが、
この人以外にないということで、下山氏が初代総裁になることになった。

(略)
この人の死ぬまでの昇進は(略)全く型破りで、一時の幸運が彼の死期を
早めたようにもとれる。なにしろ下山氏は運輸省当時、東鉄局長という
地方の鉄道局から二段飛びをして次官に納まり、その次官がもとで、今度
は国鉄の初代総裁になり、それが原因で殺されたというようなことに
なったのである。
<以上引用>

◆下山本の多くは、「当時の総裁の給料は少なく生活はかつかつで」と
 いう記述をしていますが、月1万8千円というのは、今日では180万円に
 相当します。しかも大田区上池上の下山総裁の自宅は父親の遺産で
 買っていますので、それほど余裕のない暮らしではなかったと思います。

 当時、下山総裁が家に生活費をあまり入れていなかったのだとするなら、
 自費で(政治的な)何かを行なっていたのかもしれません。
 ※参考:下山(46)

 さて、GHQ/CTSは国鉄総裁に総理大臣や日銀総裁級のポジションを
 与えようとした。理由は政治的な独立性ということですが、これは
 有事の際に鉄道網を米軍が利用するための障害を排除しておこう、と
 いうのが第一目的でしょうが、その他にも何か理由はありそうな気が
 します。

 鉄道が政治家や財閥資本に縛られては困る理由がなにかGHQにはあった。
 一方、日本には国鉄を政治のコントロール下に置いておきたい人たちがいた。
 なにしろカネやモノを引き出すのに何かと都合が良いので。
  ※参考:前回
 
▼参考リンク
なぜGHQは佐藤喜一郎の監理委員入りを承認したのか。
財閥解体に協力的であったから、という話。

2chより、“なぜドイツでは財閥解体をしなかったの”
230 :世界@名無史さん:2010/05/23(日) 14:24:21 0
前のほうのレスを見ると、三井不動産の江戸英雄は三井家の株主(が役員に)
復帰を画策していたそうだが、 他の系列企業に拒否され、実現しなかったという。

しかし、自分の支配下にある三井不動産だけでも復帰させることは
できなかったのか?

231 :世界@名無史さん:2010/05/24(月) 14:42:29 0
>>230
三井家の戦後の株主復帰計画は、いい加減な話しではないよ。
ソースは、“日本の15大財閥”という本のP.109を参照して下さい。

三井家の株主(役員)復帰計画は、特に三井銀行に反対されて潰されている。
三井銀行社長(三井は頭取とは言わない)の佐藤喜一郎が、大反対して
潰している。

三井グループの社長会(二木会)等で事あるごとに、江戸英雄氏は、
グループ再結集(株の持ち合い強化)や三井家の株主復帰を訴えたが、
佐藤喜一郎が、時代錯誤と三井銀行の資金力不足を理由に反対している。

結局、三井家の株主復帰計画は、三井グループ社長会の機関決定で
拒絶された場合、あんまりおおっぴらに三井家の資本の三井不動産が
受け入れる事は出来ないのでは?

そんな事したら、三井銀行と三井不動産の関係がおかしくなりかねないし、
社長会でも問題視されるかもしれない。

しかし、三井銀行の佐藤喜一郎社長は、三井家に対して態度がイササカ頑な
な感もある。 三井家と姻戚関係のある江戸英雄氏が三井家の株主復帰計画に
賛同したのは判るとしても、その他の重役達があまり三井家の株主復帰に
賛同しなかったのは、やはり明治の頃から既に三井家と三井財閥各社の
経営陣との間に摩擦が恒常的に発生していた為だろう。

『法政大学』HPより、戦後型企業集団の形成活動 −三菱グループ・石黒俊夫/三井グループ・江戸英雄− (pdf)




k_guncontrol at 23:25│Comments(2)TrackBack(0)clip!昭和史(戦後史) 

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2010年07月23日 05:36
三井家と 江戸って 姻戚でしたっけ
三井家の番頭さんみたいな存在だとはおもいますが

佐藤は 三信不動産事件で 江戸と 微妙な関係だったような気がします

萩原 江戸 佐藤 財界四天王の関係は 財閥解体の余波を 受けていたんでしょうか


2. Posted by k_guncontrol   2010年07月23日 07:57
> 三井家と 江戸って 姻戚でしたっけ

妻・江戸弘子の母が田中香という音楽関係者ぐらいしか
わかりませんが、縁戚ではないような。

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