2010年10月15日

白洲次郎とは何者だったのか(98)

前回(97)の続き 今回は山田久就(参考)が登場

参考文献:住本利男・著『占領秘録』(昭和27年、毎日新聞社)

[以下要約と引用]
(鳩山一郎の公職追放が)こうした結果になったため、吉田(茂)外相は曾禰(益)政治部長に、明日からもう出なくて良い、と怒った。曾根がGS(民生局)で策動したという見方が一部にあったのである。

曾根氏にすれば、(昭和21年)4月3日、松本(治一郎)事件(参考:白洲95)で辞表を出しているが、松嶋(鹿夫)次官の手元で押さえられて、そのまま「御礼奉公」をしているようなものだ−−と考えていたから憤然として去った、もっとも彼は先輩たちにとめられて、21年8月福岡終連局長になった。

(直後、鳩山・松野頼三が吉田に総裁就任を要請するが吉田はこれを拒否。
 ついで古島一雄松平恒雄に就任要請するも両者とも固辞)

外相の側近たち、麻生太賀吉夫妻や白洲次郎氏も総裁就任には反対だった。岳父牧野伸顕氏も、話をきくとじっとしておれず、隠棲先の我孫子から上京して、柄にもないことをやるなと言って釘を差した。いや決して引き受けない、と吉田外相が断言したので、麻生夫妻も安心して九州に帰ったほどであった。

(結局5月13日、吉田茂は要請を受諾し、組閣に入る。)

鳩山一郎氏の話
「ぼくははじめから吉田がいいと思っていた。(略)しかし河野一郎たちは吉田に反対だった。こんな老人をいまさら引っ張ってどうするんだ、と言った。

芦田均は非常に冷静な男で、ぼくが追放になった時、ぼくに政界を引退したらどうかとすすめた。(略)“戦後新しい党をつくり、第一回の総選挙に最大多数党になった、君が自由党を作って追放になったということは政治史上に特筆大書すべきことだ。それだけのことをしたのだから、これをもって政治の終わりにしたらどうか”という意見であった。(略) それで(芦田は)皆の反感を買った(略)」

(組閣の際、吉田は自由党人事である河野一郎・農相を拒否し、和田博雄
 を農相に据える。こうして第一次吉田内閣がスタートする)

三木武吉氏の話
「(略)もし吉田がだめになれば、自由党は総裁問題でまたひともめする。
 進歩党も社会党も組閣ができそうにない。そうすると(略)総司令部は
 軍政を敷くかもしれないおそれがあった。それで(和田の件で)妥協を
 したわけだ」

河野一郎氏の話
「ひとつには食料問題があった。あの時は、麦の割当を各県がやってい
 たし、組閣ができないと麦の供給は全然止まってしまうし、食糧計画が
 フイになる恐れがあった。そこでやむなく和田農相を認めたのだ」

 (民生局は公職追放は中央だけでなく、地方にも及ぶべきだと考えた。
 昭和21年8月17日、追放を地方(市町村長)にも及ぼすという半公式の
 ステートメントが日本政府に出された。しかし吉田はこれに反対)

曾禰益氏に代わって終連政治部長となった山田久就氏がGSとこの点について話し合った結果、先方もこちらの反対が少しずつ判ってきた。(略)しかし吉田首相はどこまでも市町村長追放には反対だった。だから日本側の案は少しも進まなかった。

ケーディス大佐は、
「(略)それなら我々の方で案を作ってつきつけるほかはない。実はこの問題は
 極東委員会の指令によっている。だから我々はこの問題を変更する自由を
 もっていない。こうしたことが日本政府によく判っているのか。吉田首相にも
 よくいってもらわなければ困る」
と山田部長に強く申し入れたほどだった。

(山田は) 「日本のほうから見て、こんな馬鹿なことをやったら将来笑われる。
 それならわれわれの方で案を出そう」 と答えた。

山田氏は首相と総司令部の板ばさみになってしまったのだ。(略) 山田氏らの意図は、極東委員会がどういおうとも、戦争責任をそこまで追及するのはおかしい。総司令部が「追放」というならいってもよいが、日本の側は「追放」とは考えていない。ただ日本の民主化のひとつの方法として、長く地方政治を牛耳っていた地方の有力者にのいてもらい、新しい指導者に責任を持ってもらうのだ−−と考えたのだ。

これについてはケーディス大佐との間に相当はげしい議論が交わされたが、相手はようやく納得した。大佐は、ホイットニー局長とマ元帥を説くから君は首相を説けという約束で話し合いがついた。
(略)
山田部長は、白洲(次郎)終連局長にケーディスとの話を報告し、さらに吉田首相に話したところ、首相は絶対にいけない、といって怒った。(略) 首相は、向うの情勢々々というが、向うのことなどどうでもよいとやりかえした。

山田久就氏の話
「吉田首相が強かったのは、白洲氏の情報で、総司令部はワシントンのことを
 引き合いに出しているが、ワシントンからの指令ではない、こっちが強く出れ
 ばへこむ−−ということを(白洲次郎から)吹き込まれていたからだと思う。

 (怒るのであれば)それなら直接首相に行ってもらうより方法がないと答えた。
 しかし首相は自分では先方に行かずに、手紙を書くと言い出した。
 むだだとは思ったが、それも良いでしょうと答えた。

 (マッカーサーが極東委員会を説得できるだけの詳細をレターに記述すべき、
  と山田は考えたが)
 白洲次長は、だらだら書いたってだめだ、共産主義がはびこる、と書くのが
 一番良いといって僕の意見に反対した。首相は白洲氏の意見通りに、小さい
 紙に半分ぐらいしか書かなかった。

 (このレターがケーディスを怒らせ、その結果マ元帥のメモランダムが送られ
 てきた) それが内交渉のとは違って振り出しに戻ってしまい、最初の案の通り、
 昭和12年から終戦までの市町村長というだけでなく、翼賛会の地方の支部長は
 もちろん、一切の役員も追放するというのだった。

 白洲氏などはGSから得た情報で、マ元帥に反対の手紙を書けば、GSもへこむ
 という判断らしかったが、覚書(メモランダム)が来てどえらい拡大になった。
 そしたら驚いて、僕にもう一度いって縮小してもらってこい、ということだった」

 (この再交渉の結果、やや適用は緩くなり、S21年1月4日に新しい公職追放の
  基準と制度がひかれた。なお、この中に追放は三親等まで及ぶという規定が
  あり、日本側は反対したが、総司令部はこれを押し通した。

  これに該当するのが岸信介の弟である佐藤栄作であった。鉄道総局長官
  だった佐藤を運輸大臣にするため総司令部の承認をもとめたが、これは
  拒否された)

山田久就氏の話
「GSは吉田首相を怖がっていた。吉田首相にたいする考え方は−−外交官出身
 だし国際情勢もよく判っているだろう、いま追放を総司令部が強く主張するのも、
 極東委員会の要求があるからだ。だからこの点で日本が思い切ってやれば、
 日本のためになることが判っているだろう−−ということでした。

 ところが追放問題が閣議にかかるといつもつぶされる。
 GSは、誰が反対しているのだろうか、吉田首相はよく判っているはずだ。
 そうすると植原悦二郎国務相か、大村清一内相か、それとも木村篤太郎法相か
 といって詮索したほどでした。誰が反対しているのか、といっても
 (吉田茂が反対していますとは) 私にはいえない。

 僕は吉田という人は陰では強いことをいうが、自分では少しも司令部に出かけ
 ていかない。かげ弁慶だと思った」
<以上引用>

(次回 石橋湛山の公職追放 へつづく)

◆こうして山田久就氏は追われることになりました。
 自分らの不手際を山田氏に押し付けたように見えなくもないですね。

 吉田と白洲は 「旧来の枠組みを温存したい層」に所属しているわけです。

 あと、昭和21年末〜22年早々に佐藤栄作を運輸相にする動きがあったことは
 要注意かと。これは下山事件にもなんらかの形で関係してくるはず。

 なお、松平恒雄の長男は東京銀行の会長です。 ※参考
 まるほど横浜正金は戦後もそういう銀行であったか。
 
〇まとめ 白洲次郎 インデックス

k_guncontrol at 01:50│Comments(6)TrackBack(0)clip!昭和史(戦後史) 

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2010年10月15日 07:58
松平は 水平社が 徳川公爵を叩いた際の当主のご縁戚

これも 吉田茂 ないし ジローさんが 松本治一郎の追放に 動いた理由の一つ

公職追放が 恣意的なものであったことはまちがいないですが あれなしで 戦後の民主化もないですから それを抜きにしての占領を背負った男に 感動する人は 面白いものです

2. Posted by k_guncontrol   2010年10月15日 09:40
曾禰益は結果的には松本治一郎の肩を持ちすぎだったような。
それが「戦後の民主化」という気持ちだったのだと思いますが。
今日では曾禰と松本のかかわりに触れた文章ってないですね。

吉田と白洲は民主化などまるで考えていない点がワンダフル。
左翼用語で「反動」というやつ。

ケーディスには恥をかかされたと後々まで怨恨。
いやその原因はあなたがたの不手際でしょうに。
3. Posted by ふくたろ   2010年10月16日 11:39
佐藤栄作の入閣は「戦犯(=妖怪・岸)の血族の入閣は許さん!」とGHQが横槍を入れたためにつぶれた・・・と聞いたことがありますが。はてさて。
4. Posted by k_guncontrol   2010年10月16日 11:56
> GHQが横槍

この本もそういう論調でした。
5. Posted by ふくたろ   2010年10月16日 12:44
で、あれば・・・その通りなんでしょうね。

吉田&ジロさん
・佐藤を入れたい
・戦犯の血族とか関係無い
・民主化などもってのほか

GHQ
・佐藤を外せ
・今、戦犯の血族はダメだ
・日本は民主化すべき(リベラル派の主張。勿論ケーティズも)

面白いですねー。
反米の保守派を今何故英雄に仕立て上げようとするのか?
ますます気になります。
6. Posted by k_guncontrol   2010年10月16日 13:24
なぜここで政歴のない佐藤なのか。

佐藤は吉田系というより、三浦義一の直系ではないかと個人的に思うのですが、
もし佐藤を運輸相にして、国鉄が公社化されなかったら電力再編も異なる様相を
呈していたような気が。(電気=白洲、国鉄=佐藤 という布陣を想定していた?)

これが、人気も人望もない佐藤があれほどの長期間政権を保てた理由につながる。

2000年以降(ネット普及以降)、下山事件は自殺説が当然みたいな論調が急に
増えてきたように見えますが、それとS氏英雄化運動が並行しているのは
果たして偶然かなー、と。


再掲:

1985 某風の男、没

1992 柴田氏、矢板氏を訪問

1994 平成三部作著者3名が顔合わせ

1997 「風の男」(ハードカバー版、新潮社)出版

1998 矢板氏、没
  
1999 8月、週刊朝日の連載(計5回) ※後の「葬られた夏」
   (この直前、ライカビル再発見)

2000 8月、「風の男」(文庫版、新潮社)出版

2002 12月、「葬られた夏」(朝日新聞社)出版

2004 2月、「シモヤマケース」(新潮社)出版

2005 7月、「最後の証言」(祥伝社)出版
    同月、「占領を背〜」(講談社)出版

2006 6月、「プリンシプル〜」(新潮社)文庫化

2007 7月、「最後の証言 完全版」(祥伝社)出版

2009 1月「レジェンド」(朝日新聞出版)出版

2009 6月「謀殺下山事件」祥伝社より再刊
    ※同書巻末解説で諸永氏は「佐藤栄作がキーマン」と力説

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