2013年03月18日

実相・今里広記(5)

◎今里と水野成夫の出会いと交遊

引用元:『私の財界交遊録 - 今里広記』(1980、サンケイ出版)

(昭和21年、今里は郷司浩平と帆足計から経済同友会設立の勧誘を受けた)
帆足計氏は、戦後長らく社会党代議士をつとめた人物で、戦時中は民間企業の戦争協力機関である重要産業協議会の事務局長をやっていた。郷司君自身、重産協で帆足氏の下で働き、重産協事務局長をつとめたことがある。(略)

  ※引用注:帆足計は東京帝国大学在学中に新人会に居た。
         浪人/留年がなければ田中清玄と同期のはず。

(今里は経済同友会に参加したことをきっかけに水野成夫を知る。参考
私が同友会に参加したのは金儲けとは全く関係がなく、日本をどうするかという一念からである。そういう信念から水野さんに会った。(略)

水野さんは左翼出身とあって、(日本労働組合)総同盟の高野実氏や産別民主化同盟の細谷松太氏など労働界のリーダーとも面識があった。(略)

(昭和23年、諸井寛一を代表理事に日経連が結成され)
私は25年4月日経連の広報委員長に就任するが、その日経連入りも水野さんの推薦である。(※ポストは上から代表常任理事→総理事→広報委員長)

昭和28年ごろ、東京・築地の金田中で、一万田尚登日銀総裁と水野さんと私たちが、夕刻、酒席をともにした。(略)たしか金のライターだと思ったが、一万田さんが「これは実にいい品物だよ」と自慢していたら、いきなり水野さんが、「おい、一万田君、それを僕にくれよ」(略)すかさず水野さんは「それだけ自慢するのなら、誰かにあげるつもりで話しているだろうから、僕がもらうよ」と、たたみ込んだ。

こうなると、一万田さんも立場が弱い。「そうかあ……」と言う調子で、余り気乗りがしないまま水野さんに手渡した。その後がまた、水野さんらしかった。「おい、今里君、これは僕には少し重いようだ。君にやるよ」と私にそのライターをくれたのである。
(略)
これにはさすが、一万田さんも憮然としておられた。困ったのは私である。二人の間にはさまって、どうしていいか、大いに迷ったものである。

この一事をみても、水野さんには人の心のあや、というか微妙なところをつく巧みさがあり、実に天才的なものがあった。

(略)30年の初め頃だったが(略)日経連総会が開かれ南(喜一)氏が客員スピーチをやらされた。南氏は「今や、日本国は危機に瀕している。資本主義の弊害だけを大きく取り上げ、この危機をあおっているのは朝日新聞である」と朝日新聞攻撃をぶちはじめた。(略)ところが、この演説の後が大変だった。国策パルプの筆頭株主は、何と朝日新聞なのである。
(略)
「南は私(水野)と打ち合わせもせずに、ああいう発言をやらかしたんだよ。朝日に知らん顔するわけにいかないので知り合いの信夫君(信夫韓一郎、当時朝日新聞専務)に電話で詫びようと思ったけど、結局やめにした。(南のいう事も一理あるので)こちらも慌てちゃいけないからね」と平然としていた。
(略)
(水野は一計を案じ、南を外遊させた)南氏は最初の訪問地ローマで湯水のごとく金を使い、放蕩三昧で明け暮れた。(略)約4ヶ月の外遊だったが、この間、朝日新聞との“終戦処理”は、水野さんが信夫氏との間で済ませていた。

(略)水野さんとの付き合いで、私はノイローゼにかかったことがある。昭和33年のことであった。(日本生産性本部一行の欧米視察の際、朝ホテルの集合時間に水野が姿を見せない)その頃、水野さんの秘書は、同友会出身の三好基之氏(※サンケイ新聞副社長、三島製紙社長、父は三好英之)であったが、(略)「風邪をひいて寝ている」という返事だった。しかしご本人はナショナルリーグの野球観戦に出かけてしまった後だった。(略)

我々が真面目に工場視察から帰り、夕食を済ませてゆっくり休もうとしていると、(水野が)「私の部屋に集まってくれ」と呼出しがかかる。出向くと「さああ、麻雀をやろう」である。翌朝2時、3時までぶっ通しでジャラジャラやるから、体には自身のあった私もさすがに疲れてしまう。(略)

旅行中、ずっとこの生活パターンを押し付けられた。とうとう一種のノイローゼになり、帰国後も治るまで半年かかった。(このため、同年に経済同友会の代表幹事に選任されるはずであったが、これを辞退した) いやノイローゼのおかげで辞退できたといってもいい。(略)

(財界四天王では小林中が一歩抜きん出た存在であったが) 残りの三人の交情はこまやかで濃いものがあった。しかし合法な水野さんは、こうした親友にもズバズバといいたいことを言ってのけた。(略)桜田武氏もずいぶんとからまれて閉口していた。(略) 「君(桜田)の目付きは容易ならざるものがある。大陸戦線で暴れた眼だ」 と突っかかったものである。

また、ひとつ年下の永野重雄氏に対しては一層遠慮がない。
「お前の富士製鉄は、少し荒れているようだ。会社を荒れさしちゃ、社長の資格はないぜ」(略) “荒れる”とは色んな意味合いを込めていっていたのであろう。

水野さんの周囲には、よく人物が集まった。(略)水野さんは東大在学中に日本共産党に入党、のち党委員長をを努め、志賀義雄氏などと親交を深めた。大正13年大学卒業後、中国に渡り、革命のため上海の市街戦にも加わったという。
(略)
上海で水野さんの秘書をつとめたのが中国共産党の李立三という人物である。李立三は中国共産党創設期の幹部で、(略)文化大革命で失脚した劉少奇・元国家主席のかつての上司である。この有能な中国共産党員を秘書に持つぐらいだから、水野さんも、中国では、それなりの評価をされたのだと思う。

  ※引用注:桜田のことをどうこう言えないだろう、と。

帰国後、獄中に放り込まれた水野さんを助けてくれたのが、東大時代の恩師・末広厳太郎氏である。水野さんはこの恩を終生忘れず、末広さんの妹を死ぬまで面倒みていた。

また、傾倒したフランス文学のでも恩師である仏文学者の辰野隆氏にも随分と世話になっている。(水野が、水野は当局に追われていた頃、富津の猟師宅へ画家を自称して潜伏していたが、ここも危なくなり、辰野宅へ身を寄せたが) 辰野教授も大変な勇気が必要であったろう。だから、水野さんは辰野氏を最後まで「先生、先生」と慕い、よく面倒をみていた。その水野さんが経営者になってからよく他人の世話をみていたのも、よくわかるような気がする。

水野成夫さんは、度量の大きい人であった。あの笹川良一氏(日本船舶振興会会長)さえ水野さんが言い出すと、あまり抵抗もできないようで絶対頭があがらなかった。

ある日(※昭和38年年11月9日)、水野さんと笹川氏、そして私の三人が東京・新富町の「松島」という料亭で酒を楽しんでいた。この時は笹川氏の鎮枝夫人が琵琶を弾いてくれ(略)三人ともホロ酔い加減になったときであった。

「田中清玄が撃たれたぞ!」 という知らせが入った。東京丸の内会館前で、田中氏が何者かにピストルで狙撃されたのである。(※田中清玄銃撃事件
(略)
水野さんと田中氏は、ともに若い頃、共産党に籍を置いた仲間だが、将の器たる二人はお互いにそれでもソリが合わなかった。

水野さんは 「誰が撃ったかは知らんが、後ろに控えている男はわかっている。おい笹川君、君は病院に行って様子を見にいってくれ」 と笹川氏に頼んだ。

「そうしよう」−−笹川氏もすぐさま、その席を立ち上がり、田中清玄氏が運び込まれたという築地の聖路加病院にすっ飛んでいった。笹川氏は手術にずっと立ち会ったのである。
<以上引用>

◆水野/今里/笹川とは興味深い顔あわせ。単なる宴席かどうか。
 書かれている3人以外にも誰かいたのではないのか。

 田中清玄が撃たれたのは午後6時9分ごろだそうですが、
 すると随分早い時間から「松島」に入っていたことになりますが。
 
 これまた何か記載を意図的に省略した部分がありそうな。
 (料亭以外のどこかに居た、という可能性はないのか)

 笹川良一が水野に気後れする理由も良く分りません。
 接点ができたのは何時の時期なのか。

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2013年03月19日 21:14
http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13069797/

松島じゃなくて 松し満みたいですが どうでしょうか?

笹川先生 いわく この時は 田岡君と飲んでいたと 新評という雑誌に出てました
三代目もいたようです

それにしても 清ちゃん先生
タクシーで移動ですか?ここは専用車で移動といきたいところですが このあと松し満にいく予定じゃなかったんですかね 
2. Posted by くれど   2013年03月19日 21:24
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/313731.html

これも
3. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月19日 22:08
今里は松島という表記にしています。記憶違いってあるよねー(棒)

公私いずれにせよ3人(+α)が集まっているところに、妙に都合よくしっかりと連絡が入ってくる点は違和感がありました。揃って何らかの連絡が入るのを待つための待機のように感じられましたが、田岡君も居て、清玄の到着を待っていたという状況なら合点がいきます。

ちなみに同書には田岡とか児玉とか町井とかいった名前の人は登場しません。
4. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月19日 22:24
「新評」、当サイトではこんなところに登場。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51337907.html
5. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月19日 23:25
「ソリが合わなかった」という水野と田中清玄。
仲が悪いんじゃなくて兄弟げんかみたいなものでしょうか。
清玄って兄弟は居ましたか。(神戸方面の兄弟ではなく実の兄弟は)

水野成夫と白洲次郎のつながりも今ひとつ見えにくいです。
一方には事情のある養女が居て、もう一方はそれを息子の嫁にもらうという
間柄は、単に銀座の寿司屋で紹介され気が合ったから、では済まないはず。
6. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月20日 00:03
一見さんお断りの店ってレジが無いそうです。
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-5944.html
7. Posted by くれど   2013年03月20日 22:15

水野とのソリの合わなさの意味については 最初は 共産党解党派を 清ちゃん先生が除名したことを根にもっているのかなとおもったのですが
単純に考えて 共産党の席次でいうと 水野の方が上なんです 清ちゃん先生は 水野より格下なんです
ただし それで収まる人じゃないのは 自伝を読めば ご理解できると思います 淡谷先生の叔父さんとも 弘前高校の時に ともに運動をした
と言ってますが 叔父さんの歳は ひとまわりほど 上なんですね 水野とか 南喜一が清ちゃん先生をどう見ていたか なんとなく想像できませんか?


8. Posted by くれど   2013年03月20日 22:48
ところで 手術の立会いなんて 無縁の人間ができるもんなんですが?

やたらな人がくれば おいかえされるだけでしょうが
9. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月21日 00:19
ヒント:聖路加病院
10. Posted by くれど   2013年03月24日 12:26
http://blog.livedoor.jp/junksai5/archives/24919587.html

そして 二人は出会ったという可能性や 如何

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