2013年03月21日

実相・今里広記(6)

◎『魅力学』では曖昧に記述されていた、
 今里広記の日本精工社長就任の経緯について

引用元:『私の財界交遊録 - 今里広記』(1980、サンケイ出版)

(昭和21年の水野成夫との出会いの後、昭和23年7月に今里は日本精工社長に就任する)
日本精工は、2.26事件で倒れた名蔵相・高橋是清翁が安田銀行の安田善次郎と相談し、山口武彦という実業家を起用して作ったベアリング業界の名門である。山口氏のあと、二代目社長は是清翁の長男・是賢氏が就任するなど、高橋家の経営という色彩が当初は強かった。

ベアリングは飛行機・機関車などの重要部品で、よく 「ベアリング工場さえつぶせば戦争はできない」 といわれた。当然、日本精工は軍需産業に見なされ、財閥解体の担当機関・持株整理委員会(笹山忠夫会長)の管理下に置かれた。
(略)
(経営陣のうち、公職追放の対象とならなかったのは)平取締役3人で、この3人が常務になり合議制で経営を再開したが、今度は組合が暴れ出した。組合の横暴を恐れて、誰も社長になって経営の責任を取ろうとするものがいなかった。
(略)
遂に3人の経営陣は、主力の富士銀行(※日本航空機工業のメインバンクでもある)に泣き込み、(略)銀行側は、丸山二郎常務が中心となって私を推薦することを決め、持株整理委員会の笹山さんに話を持ち込んだのである。

その頃、私(※今里)は何かもうひとつ、大きな事業をやりたいと考えていた。一番興味があったのは鉄道経営だった。当時、佐藤栄作元首相は運輸省事務次官で、運輸行政に隠然たる勢力を持っていたので、三鷹の佐藤さんの家を朝早くたずねた。

  ※引用注:佐藤と今里の間に仲介役が1、2人居そうな気もしますが、
         同書中には記載はありません。

「資金はどれくらいあるのか」 と佐藤さんに効かれ、私は 「3百万円くらいは用意できます」 と答えた。それで佐藤さんは 「考えておこう」 という話だった。

  ※引用注:3百万円などという額はレールを1kmも敷いたらお終いの額。
         ここも未記載の隠し事があるはず。

私は以前から笹山さんと面識があった。笹山さんは興銀時代に福岡支店長をつとめたことがあり、戦時中、私は九州採炭を経営していた頃、よく借金しに行っていた。日本精工社長として私が候補にのぼった背景には、富士銀行出身で日本精工の常務をつとめていた千家活磨君が、笹山さんに強く私を推薦していたからであった。

千家君はパージの対象になり、その時点では日本精工の経営から手を引いていた。千家君は出雲大社の宮司の次男であったが。社長不在の日本精工が労働旋風に吹き荒らされ、窮状を招いていることに、心を痛めていた。東京の大崎工場などを閉鎖され、多摩川と藤沢のたった2工場しか残されず、日本精工の前途はきわめて厳しい情勢であった。

千家君は笹山さんに話を持ち込んだときに、「いま日本金属の社長をやっている今里広記さんは労働組合ともよい関係をつくっている(略)」 と推薦したようだ。私の日本精工入りは、富士銀行の丸山常務と千家君の合作で実現したといってもよい。

  ※引用注:千家活磨が富士銀行出身ならば、「合作」 というより富士銀行単独
         の意向で今里が選ばれたことになる。
         実相(4)で見た通り、野村證券と決裂した日本航空機工業の
         メインバンクへ取って代わったのが富士銀行。

こうして私は、鉄道事業のほうはあきらめて(略)日本精工の再建を引き受け、社長に就任したのである。(※日本金属の後任社長は矢野範二専務が昇格)

(中略)

組合のはね上がりに苦労させられた私だが、実際、荒れ狂う労働情勢の前には、財界でも大半の人が浮き足立っていた。(略)左翼陣営からの攻勢に一歩もひるまず、反撃にでたのが、水野成夫さんをはじめとする、鍋山貞親、田中清玄両氏ら転向者たちであった。

転向者といえば、さげすまされがちだが、戦後間もなく、「左翼にあらずんば、人にあらず」というほど左翼が力をつけているときに、これら転向者は身体を張って左翼と渡り合った。

その転向者の一人、鍋山貞親氏は元日本共産党中央委員までつとめた人物である。私はその鍋山氏を社員として使ったことがある。日本金属の前身、日本航空機工業の社員として鍋山氏を雇った。昭和18、9年の頃の話だ。

だから鍋山氏は戦後間もなくして「後にも先にも、私が月給をもらったのは、今里さんのところだけだ」と、よく人にいいふらしていたそうだ。でも鍋山氏の仕事は単純なものだった。(略)株主総会の招待状を(郵送ではなく、自分の足で)配って歩くのが、日本航空機での鍋山氏の仕事だった。そのうち鍋山氏は忽然と姿を消してしまった。特務機関に使われていたらしいが、理由は今でもはっきりしない。

  ※引用注:要は総会屋とか面倒な筋の株主との交渉担当だろうと。

元左翼の水野さんが財界で活躍できるようになったきっかけは(略)日清紡績の宮島清次郎氏と知り合ったことと大いに関係がある。 参考

(略)確かに、水野さんは人を魅了する何かを持っていた。経団連元会長の石坂泰三さんも水野さんをよく可愛がった。(昭和24年4月、帝国銀行の佐藤喜一郎の要請で石坂は東芝社長に就任した、その際、石坂は対労組に詳しい者の招聘を水野に依頼した。水野は腹心の南喜一を紹介したが、南の東芝入りは実現することなく終わってしまった)
<以上引用>

◆佐藤栄作が三鷹に住んでいたという話は、少なくとも当方は他では聞いた
 ことがありませが、さて昭和24年頃も三鷹にお住まいだったのか否か。

▼同書別頁より

石坂泰三とペニシリン:
追放令といえば(略)石坂泰三さんは第一生命社長の座から追放され、その頃は失意の身だった。誰も格別の面倒は見られないし全く気の毒な状態だったと思う。このとき舟崎(由之)さんが元日本航空機工業の津田沼工場を「私にくれ」と言ってきた。舟崎さんはすでに政界に転ずる意思を固めていたが、旧津田沼工場で抗生物質のペニシリンを作りたいということだった。
(略)
舟崎さんは、荒井さんという人の紹介で石坂さんを後見人にしてペニシリン製造に乗り出したのだ。
<以上引用>

  ※引用注:航空機製造とは即ち金属加工業であるのに、なぜそれがペニシリン
         工場に転用できるのかがまず疑問。この頃ペニシリン大手というと
         明治とか森永とかの食品系企業。
         「石坂さんを後見人に」というのも何かありそうな。

『本邦パルプ会社紹介』- 国策パルプ 紡織雑誌社調査部(昭和13年)
既存製紙業界と人絹業界の反発があり、国策パルプの設立は相当もめたらしく、
国策という口実で押し切って設立されたらしいこと。
(要するに、陸軍の後押しがあったということ)
特に王子製紙(※三井系)との対立が大きかったらしいこと。

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この記事へのコメント

1. Posted by くれど   2013年03月23日 23:57
http://www.galerie-yoshii.com/profile.php?p=takashi_imazato

養子に建築家あり
アートなんとかさんと 微妙にかぶるかな
2. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月24日 01:11
そういえば交遊録での妻子に関する記述は、疎開させていた妻子を東京に呼び戻した、とのわずかな記述のみ。

養子になったのはこの当人が43歳、広記62歳。実子はどこへ行った。
折口信夫と春洋をちょっと連想。

手がけた物件に金田中がありますねー。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E9%87%8C%E9%9A%86
3. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月24日 01:18
> http://www.galerie-yoshii.com/

この画廊のオーナー
http://www.asahi.com/news/intro/TKY201207020186.html
当たり前ですが、人脈を作るのに便利なコツはありません。(略)
私は小林(秀雄)さんにかわいがってもらうようになり、ルオーの絵を見てどのように感じたかを夜遅くまで語らうこともありました。(略)観念的にモノを見るのではなく、経験や体験からモノを見ることを小林さんは重視していましたね。

画商としての実感ですが、企業のトップの多くは、皆さん絵がお好きです。「会社でつまらない会議があって疲れた」と言いながら、私どもの画廊にいらっしゃる方がいます。


4. Posted by くれど   2013年03月24日 12:07
時期が微妙なんですが 今里の娘が 会社再建の神様 早川種三の息子の嫁になってます

鉄道関係の事業といっても 誰かと組んでやるという意味では?払い下げとか
5. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月24日 12:41
早川種三は昭和27年まで公職追放になってますね。代理に今里を立てた?

今里が戦前やっていたことは要するに株式公開と新株発行でカネを作るという仕事で、実業家というイメージとは一寸違うような。兄が戻ったので家業を継がなかったのではなく、その逆じゃないのかと。

再建屋・早川と総会屋・上森の間にが今里が居るのは偶然じゃなさそうですね。

6. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月24日 13:16
国鉄から私鉄への車両払い下げ(新車だが戦時設計の車両、および中古)があったようです。私鉄も昭和24年をピークに電化が推進された様子。

戦後の私鉄の復興と発展――敗戦からの20年――
http://ktymtskz.my.coocan.jp/sitetu/s0.htm#0
7. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2013年03月24日 14:12
割と目立たないところにさらっと書いてありました。

「その早坂氏の二男で仙台放送専務の早坂二郎君と私の三女・有卦子が結婚したのである。二郎君は、長男で三菱電機勤務の一郎君とは双生児である」

三女ということは少なくとも他に二人の娘がいるということ。
このうち一人が建築家の某氏なのか。
今里の年齢で娘を嫁に出す時期というと昭和30年代あたりになるはずで、
建築家の某氏が養子になるのは随分あとのような。

「私の母加代は黒坂家から嫁入りした。母は大村藩士・黒坂要平の娘で、兄弟には長兄の黒坂勝美(東京帝大教授)、伝作(月島機械創業者)の両氏がいた。(同社現社長)駿策氏は伝作氏の長男である。またテレビ朝日の三浦甲子二専務も親類筋にあたる。(甲子二の父は)長崎選出の代議士をつとめた今里準太郎氏の息子である」

読み返しても、妻に関する記述はありませんねー。
8. Posted by くれど   2013年03月24日 19:46
今里準太郎が死んだのが 1976年 またこの人は 平野力三の皇道会副会長でした この人が 三浦甲子二の父だとすると 大勲位のマスコミ人脈とか 今里広記と大勲位の関係が より深く見えてきます
9. Posted by くれど(junksai5)   2015年03月08日 13:55
https://twitter.com/Truppenamt/status/574432515437424642 早川種三伝の感想
10. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2015年03月09日 15:42
今里広記の母方の祖父が黒板要平という人で、その息子が黒板勝美(=今里の従弟)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9D%BF%E5%8B%9D%E7%BE%8E

これの3番目に名前が登場
http://itest.2ch.net/test/read.cgi/history/1307842480/
11. Posted by くれど(junksai5)   2015年03月22日 07:44
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%94%B2%E5%AD%90%E4%BA%8C#.E8.84.9A.E6.B3.A8 wikiに 注釈で引用されるぐらいになりました
12. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2015年03月25日 14:06
『興亜聖業財界人譜』 今里廣記
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280758/58
今里氏が九州採炭に入ったら瞬く間に資本金10倍に成長。
13. Posted by くれど(junksai5)   2015年03月26日 05:54
これ ようするに 乗っ取りをやって 増資をして 元を取ったということですね 元エロ本屋の 総会屋との付き合いあってからと
14. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2015年03月26日 14:48
https://books.google.co.jp/books?id=xZWxAAAAIAAJ&q=%22%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A1%E7%82%AD%22&dq=%22%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A1%E7%82%AD%22&hl=ja&sa=X&ei=Dp0TVfZKy4PyBcGKgNAI&ved=0CEAQ6AEwCA
「小林炭鉱の実権を握った広記は、社名を九州採炭と変更し、株を公開し莫大な金をつかむ。広記が三十歳そこそこのことである。時局は風雲急を告げ、大陸で事変が勃発、日中戦争(昭和十二年)へ突入する中で、,石炭ブ—ムが到来し、広記は九州採炭を十分に」
15. Posted by k_guncontrol改め瓜井目々太   2015年03月26日 14:52
https://books.google.co.jp/books?id=l0wCAAAAMAAJ&q=%22%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A1%E7%82%AD%22&dq=%22%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A1%E7%82%AD%22&hl=ja&sa=X&ei=Dp0TVfZKy4PyBcGKgNAI&ved=0CCoQ6AEwAw
「中小炭鉱の賃下げ、整理をめぐる労資の交渉で、経営者が閉山という伝家の宝刀を引抜けば、組合はたいていは妥協をせざるを得なかったものである。だが九州採炭の場合はそうではなかった。このような組合の強砭な態度の裏には、まず第1に」

続き気になるわー。

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