明治・大正

2012年02月10日

三井、北炭買収の理由

◎三井は何故、北海道炭礦汽船(株)を傘下に収めたのか。その理由

『株式短評』 (同好会出版部,大正4年) より 北海道炭鉱汽船株
50円払い込みの同株は16円何十銭かまで低落を示し、会社は総会ごとに大紛糾を繰り返し、室田社長は退席すると言う大騒ぎの幕も今は過去のものになった。
(略)
一時兜町に於いて小池商店(※小池国三、山一證券のルーツ)の炭鉱買いというのは随分注目されていたものだが、(略) その2、3万株というのは全部三井系の買い物であったとは後日になって知れたことだ。
<以上引用>

▼上記の16年前の話

『財界太平記』 白柳秀湖・著 (昭和4年) より
三井三菱 両富豪 日本炭業界の覇權を争ふ事 
三井家部内、物産会社対工業部 大衝突の事

明治32年(1899年)8月、株式仲買人丸上商店(半田庸太郎)が、何等思惑が無いのに(略) 北海道炭鉱汽船株を買い始めた。市場は沸騰を始めた。一体買主は誰であろう。(略)

然るに丸上商店が当月分の受け取りを済ますと、三井銀行からそれを社長三井高保の名義に書き換えてもらいたいという請求が北海道炭鉱汽船に提出された。之で其の買い手が三井であることが初めて一般に知れ渡り、株式市場はもとより、三井部内のものまで唖然として、ただ驚きの目を見張るのみであった。
(この一連の動きは中上川彦次郎を中心としたものだった)

(続き p.371)
(三井グループ内の反・中上川派はこの北炭買収を投機目的だとして批難したが、上中川の本当の目的は) 三井の事業を物産および銀行中心の商業資本主義から、鉱業及び鉱山業中心の工業資本主義へ移そうという大経輪の一端だったのである。
(略)
この他にもう一つの大きい隠れたる動機があった。(略)九州に於ける石炭業者としての三井、三菱が漸くにしてその競争を意識してきたことであった。(略)北炭を買い占めて天下の耳目を聳動(しょうどう)する前後までに(九州において三菱は9つ、三井は4つの炭鉱を手に入れている)。(略)

数の上では三菱が優勢の様であるけれど、三池は九州に於いて絶対優位の炭鉱である上に、三井には物産と言う販売機関があり、是まで貝島太助、安川敬一郎、麻生太吉、毛利家、高取伊好など、九州に於ける小炭鉱の石炭は皆三井が取り扱って居たので、九州に於ける炭業界の覇権はまず三井にあった訳である。

  ※引用注:三菱が「三菱商事」を設立したのは1918(大正7)年。

(続き p.375)
「中上川彦次郎君伝記資料」で、村上定氏が(略) 次の如く驚くべき秘密を発表している。 北海道炭鉱の株式を買収した原因は、九州の炭鉱の命数長からずを看破し、他北海道炭鉱を以て之に代らしめようとしたものである。

  ※引用注: 村上定は中上川の腹心。
          同書中に 「竿の先に鈴を付けた様な男」 との記述あり。

当時門司支店長たる林健氏は、三井をして九州炭鉱界を支配せしめんとの目的で、九州の炭鉱に多額の金を貸し出した。然るに時勢可ならず(略)本店に於いては門司支店に向かって炭鉱資金の回収を命令した。(略)意の如く回収し得ないので、遂に社長の命令を以て、炭鉱に対する貸し出しを一切禁ずるに至った。
(略)
(門司支店長・林健は、資金引揚は三菱に対する九州での優位性を揺るがすこと、三池炭鉱もまだ終わりではないこと等を意見書の形で三井銀行社長に提出した。これが一部の新聞に転載され、当時の三井顧問・井上馨の目に留まった。井上はこれを不謹慎な議論であるとし、中上川、林、三井銀行社長を叱責した)
<以上引用>

◆三井三池炭鉱の閉山が1997年、北炭夕張の閉山が1982年。
 少なくとも 「九州の炭鉱の命数長からず」 は口実だったことは確か。

 要するに三井内部の勢力争い・派閥争いがあり、それは表層的には
 物産&銀行系vs鉱工業系であった。

 三井は他の財閥と違って、当主家が11家あった。
  ※参考:江戸英雄が語る財閥解体
 内部抗争は、この11家の争いだった、とも考えられます。

 銀行系の配下にあったのが九州の諸炭鉱であり、それに対抗するために
 上中川は北海道炭鉱汽船を買収した。 また、それを正当化するために
 「三池炭鉱はもう寿命」 という噂を流した。

 上中川による北炭買収の理由は、以上のような処かと思われます。

 このような経緯があればこそ北炭は 「三井鉱山・北海道支社」 にはならず、
 最後まで 「北海道炭礦汽船」 として独立した子会社だったのではないか。

 後年の北炭社長〜会長・萩原吉太郎の回想録には、三池ほか三井鉱山への
 言及がまったくといっていいほどありません。

▼関連リンク
北海道空知総合振興局HP
北海道炭鉱産業の歴史と『炭鉱(やま)の記憶』
(pdf)
1889(明治22)年、幌内炭鉱は、開拓使の役人であった堀基(ほり もとい)が設立した北海道炭礦鉄道(北炭、後の北海道炭礦汽船)に払い下げられました。

折からの不況で需要が低迷していた1912(明治45)年に、北炭夕張鉱で二度にわたる大事故(それぞれ死者267名、216名)が発生し、製鉄所へ資金が集中していた北炭は、一挙に苦境に陥りました。

その機に乗じて、それまで北炭に資金を貸し出していた三井財閥は、北海道で優良な鉱区を独占していた北炭を系列下に収め、1913(大正2)年に北炭会長として団琢磨(三井鉱山会長、三池炭鉱を近代炭鉱に成長させた技術者、その後三井合名理事長)を送り込みました。

これにより、北海道での石炭生産の基盤を作った三井は、1915(大正4)年に樺太に三井系の王子製紙を進出させ、三井鉱山で産出した石炭を王子製紙へのボイラー炭として供給します。
<以上引用>

『財界太平記』 より
三井の便衣隊長・藤山雷太 王子製紙乗取りの事
(明治25年、王子製紙社長・渋沢栄一から中上川彦次郎に増資の相談が
 あり、中上川は条件として三井から専務を送り込む事を主張。 渋沢は
 三井の中から藤山雷太を指名した)

中上川の目的が王子製紙の実権を三井の手に回収する所謂乗っ取りであったことは云うまでもない。(略) (藤山雷太が後年語ったところによれば) この時中上川氏は、渋沢(栄一)氏が君(藤山)にと言うのだから (王子製紙の専務を) 是非やって欲しいが、その代わり君に命ずることがある。(略) 君が専務になるのは王子を(三井が) 奪りに行くということであるから、必ず彼らに懐柔されるが如きことなく、三井の製紙会社たらしむのだ、という(略)命を受けた。

明治31年には、藤山氏と大川(平三郎、王子製紙の技術長)氏の火の出るような正面衝突になり、(略)会社の技術者は職工を扇動してストライキを起こし、工事中の土工までが之に加わり大川氏に声援するなど、その騒動は一通りでなく、(略) 結局は予定の筋書き通り渋沢氏も社長の任を辞し、大川氏とともに同社を去ることになる。
<以上引用>

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2011年08月28日

抄記 「犬神博士」

『犬神博士』 夢野久作 (1931) 青空文庫 より

[あらすじ]
明治の半ば、筑豊炭鉱の権利をめぐり、「玄洋社」 と 「やくざ代議士with県知事」
が一触即発の状態にあった。そこに図らずも巻き込まれた浮浪児チイの存在を
触媒に切った張ったが開幕するが、混乱は収束の兆しを見せぬまま物語は終劇。
なお、今日では差し障りのある単語&表現が連発で読むと頭がクラクラします。

[以下抜粋]
(略)その時に取次に出た台所の婆やの話によると、浅川(注:玄洋社の若い者)の背後には二、三人の書生体のものが太いステッキを持ってついて来ている模様で
(略)
その当時の直方は現在の直方市の半分もない小さな町であったが、それでも筑豊炭田の中心地として日本中に名を轟かしていた。しかもその当時の筑豊炭田というものが又、まだ開けてから間もない頃のことで、鉄道がやっと通じたばかり……集まって来る人々は何よりも先に坑区の争奪戦に没頭して、毎日毎日血の雨を降らすと言う有様であった。

ところでその坑区の争奪戦の中心となって、互いに鎬を削り合っている二つの大勢力があった。その一つは官憲派とも名付くべきもので、その当時の藩閥政府と、これに付随する国権党の一味であったが、福岡県知事はいつも党勢拡張と炭坑争奪の直接の指導者兼援助者として赴任して来るものと見做みなされていたので、吾が禿茶瓶のカンシャク知事(※物語中の福岡県知事・筑波子爵)もむろんその一人に外ならなかった。

しかも、そのカンシャク知事は、お手のものの官憲の威力と、近頃売り出しの大友親分(※注:県会議員でもある)の勢力を左右に従えて、最も峻烈にして露骨な圧迫を各町村役場に加えつつ、片ッ端から坑区を押えてしまったので、一時筑豊の炭田は尽く、官憲派の御用商人の手に独占されてしまいそうな形勢であった。

ところが、こうした筑豊炭田の争奪戦に関する官憲派の横暴に対抗して起ったのが、有名な福岡の玄洋社の壮士連であった。 玄洋社と言うのは誰でも知っている通り、維新の革命に立ち遅れて、薩長土肥のような藩閥を作り得なかった福岡藩の不平分子が、国士を以て任ずる乱暴書生どもを馳り集めたもので、或は大臣の暗殺に、又は議会の暴力圧迫に、その他、朝鮮、満豪の攪乱に万丈の気を吐いて、天下を震駭していた政治結社であった。

しかもその頭目と仰がれている楢山到(※頭山満)という男は、玄洋社の活躍の原動力として、是非ともこの筑豊の炭田を官憲の手から奪取せねばならぬと考えていたらしく、当時直方で生命知らずの磯山政吉(※吉田磯吉がモデルか)という、やはり売り出しの荒武者を味方に付けて、大友親分に対抗させる一方に、玄洋社一流の柔道の達者な書生どもを多数直方方面へ入り込ませて、官憲の威力をタタキノメス気勢を示したのであった。
(略)
筑豊の大炭田が果してどちらの手に落ちるかは、容易に逆賭出来ない形勢のまま暫く睨み合いの姿になった。
(略)

「ウーム。それでわかった。(略)昨日押しかけて来た奴どもの目星が付かんじゃったが、それであらかた見当が付いた。(略)磯政は一日も早う喧嘩のキッカケを作ろうと思うて焦燥っとるに違いないのじゃ」
「焦燥っとるて、どうして焦燥るとかいねえ」
「(略)磯政の一党は何でもかんでも玄洋社長の楢山が直方に来る前に喧嘩を始めて、知事閣下を初め、吾々官憲と大友一派の勢いを直方から一層して筑豊の炭田を残らず押えてくれようと言うので、盛んに小細工をして見ているのじゃ」
「ウム。そう言えば事実らしいのう。つまり万一手違いがあっても楢山に責任がかからぬようにしようと巧らんでいるのじゃろう」
「ウム。その通りじゃ。彼奴等は皆首領思いじゃからのう。殊に彼奴等は吾々官憲を軽蔑しおってのう。吾々を直方から追い払うのはこの子供が饅頭を喰うよりも容易
たやすいように思うとるでのう。喧嘩さえ始まればと皆思うとるらしいのじゃ」
「ウム。人数から言えば玄洋社の壮士だけでも吾々の三倍ぐらいいるのじゃからのう」
「玄洋社の柔道は強いげなのう」
「講道館へ持って行けば二段三段の奴が、いくらでもいるちゅうじゃなかか」
「ウム。しかし喧嘩となれば別物じゃと大友親分も言いおったがのう。近頃の柔道は体育を主眼としとるで武術のうちには入らん。刃物を持って蒐かれば一も二もない……と署長も笑いよったが……」
「撃剣ならば自信があるわい。アハアハ」
(略)

「知事さんと玄洋社とドッチが悪いのけえ」
「そりゃあ玄洋社の方が悪いてや」
(略)

月あかりで見るとその三人は紛れもない玄洋社の壮士であった。三人が三人とも白地の浴衣に白兵児帯を締めて、棒杭みたような大きな杖を打ち振り打ち振り、(略)
その一人一人が、手に手に長さ三尺ばかりの四角の切石を一ツずつ抱えたり担いだりして来るようである。 吾輩はその腕力のモノスゴイのに感心してしまった。玄洋社の壮士とはコンナにも強いものか。これでは巡査が百人かかっても敵わないだろう……
(略)
ところで、これに対する鬼半(※大友&知事の手下)の同勢は、ちょうど昔の渡世人の果し合いのように、脚絆草鞋の襷がけでドスを引っこ抜いた連中ばかりであったが、それを玄洋社側は物ともせずに、ステッキや素手で睨み合って近寄せない。そのうちに隙をみて組付く。組付いたと見る間に投げ付けるという戦法で行く。

しかも壮士達は皆玄洋社名物の柔道家の中から一粒選りにしたものらしい上に前以て訓練が行き届いていると見えて、その戦法がまるで道場の稽古か何ぞの様に、一人残らず型に嵌まって行くのだから見ていて気持ちのよい事夥しい。見る見るうちに三人五人とバタリバタリ片付いて行く。投げられた者の中から起き上る者の些(すく)ないのは当て身を喰らったものであろう。

中には肩越しに背後に投げ落されて妙な音を立てながら首の骨を折ったらしい者が二、三人見えたが、これは講道館流の柔道の手にはない、双水執流という福岡独特の柔道の手だとか言う話で、投げる前に当て殺して置くのだから、そうなる訳である。しかも喧嘩の後で調べられても「殺す積りではなかった」と言い開きが出来るという、極めて重宝な秘伝になっているという話を後で聞いた。
(略)

吾輩(※主人公・チイ)はさすがにギョッとしながらその者(※玄洋社・楢山=頭山)の姿を見上げ見下した。新しい手拭で頬冠りをしているから顔付はハッキリとわからないが、眼の玉の引っ込んだ、鼻の高い、天狗と狸の間の子見たような薄気味の悪い人相に、占者みたような山羊髯をジジムサく生やしている。それが青だか紫だかのダンタラ縞のドテラに、赤い女の扱帯をダラシなく巻き付けて、竹の皮の鼻緒の庭下駄を穿いていたが、何か考えているのか懐手をしながらジッと吾輩を見下して突っ立っている。むろん喧嘩をしに来た風体ではないが、何だかニコニコ笑っているらしい目付きを見ると、田舎によくいる低能男(アニヤン)ではないかとも思われる。いずれにしても大きな男ではあるが、吾輩に敵意を持っていない事だけはすぐに直感されたのであった。
(略)

「……貴様は……何チュウ奴ケ……」
 吾輩は小便を放り終って身ぶるいを一つしながら向き直った。キチガイの癖に横柄な奴だと思いながら……。
「知らん。お前は何チュウ奴ケエ」
 と向うの真似をして問い返した。すると大男は寒くもないのに、又も悠々と懐手をしながら、吾輩をジッと見下した。
「ウーム俺か……俺は玄洋社の楢山じゃ」
「ナニッ……楢山ッ……」

(略)
吾輩は楢山社長の頭を平手でタタキながら又問うた。
「そんならオイサン」
「何かい」
「知事さんはスケベエけえ」
「ウン。彼奴もスケベエじゃ」
「あんたと知事さんと、どっちがスケベエけえ」
「知事の方が女好きじゃろう」
「アンタ負けるのけえ」
「ウム。負けもしまいが」
「そんなら知事さんとおんなじもんじゃろ」
「ウン。おんなじもんじゃ」

(略)
「知事さん。私じゃ。玄洋社の楢山じゃ」
「ナニッ……楢山……」
「……チョット用があるので会いに来ました」
(略)
「……なあ。そうじゃろうが。その福岡県中で一番エライ役人のアンタが、警察を使うて、人民の持っとる炭坑の権利をば無償で取り上げるような事をば何故しなさるとかいな」
「黙れ黙れッ」
 と知事は又も烈火の如く怒鳴り出した。
「貴様達の知った事ではない。この筑豊の炭田は国家のために入り用なのじゃ」
「ウム。そうじゃろう、そうじゃろう。それは解っとる。日本は近いうちに支那と露西亜ば相手えして戦争せにゃならん。その時に一番大切なものは鉄砲の次に石炭じゃけんなあ」
「……………」
「……しかしなあ……知事さん。その日清戦争は誰が始めよるか知っとんなさるな」
「八釜しい。それは帝国の外交方針によって外務省が……」
「アハハハハハハハ……」
「何が可笑しい」
 と知事は真青になって睨み付けた。
「アハハハハ。外務省の通訳どもが戦争し得るもんかい。アハハハ……」
「……そ……それなら誰が戦争するのか」
「私が戦争を始めさせよるとばい」
「ナニ……何と言う」
「現在朝鮮に行て、支那が戦争せにゃおられんごと混ぜくり返しよる連中は、みんな私の乾児の浪人どもですばい。アハハハハハ……」
「……ソ……それが……どうしたと言うのかッ……」
 と知事は少々受太刀の恰好で怒鳴った。しかし楢山社長はイヨイヨ落ち着いて左の肩をユスリ上げただけであった。

「ハハハ……どうもせんがなあ。そげな訳じゃけん、この筑豊の炭坑をば吾々の物にしとけあ、戦争の始まった時い、都合のよかろうと思うとるたい」
「……バ……馬鹿なッ……馬鹿なッ……この炭坑は国家の力で経営するのじゃ。その方が戦争の際に便利ではないかッ」
「フーン。そうかなあ。しかし日本政府の役人が前掛け当て石炭屋する訳にも行かんじゃろ」
「そ……それは……」
「そうじゃろう……ハハハ。見かける処、アンタの周囲(ぐるり)には三角(みすみ=三井)とか岩垣(いわがき=三菱)とか言う金持の番頭のような奴が、盛んに出たり入ったりしよるが、あんたはアゲナ奴に炭坑ば取って遣るために、神聖な警察官吏をば使うて、人民の坑区をば只取りさせよるとナ」
(略)

吾輩は自烈度くなった。
 これ位わかり易い話がドウして知事にわからないのだろう。今まで解からなかった喧嘩の底の底の理屈が、子供の吾輩にもハッキリと呑み込めたくらい噛んで含めるような談判をされているのに、まだ腕を組んで考えているなんて、ヨッポド頭の悪いアホタレに違いない。しかもそれを又、ニコニコ然と眺め遣りながら山羊髯を撫でまわしている楢山社長も楢山社長で気の長いこと夥しい。四の五の文句を言わせるよりも、手っ取り早く拳骨を固めて、ポカーンと一つあの禿茶瓶をナグリ付けたら宜さそうなものと思ったが(以下略)
<以上引用>

※注記:
1)「双水執流」とは許斐氏利もマスターしていた古武術。(参考:隻流館 WEB
『特務機関長 許斐氏利』(牧久、2010)ではこの技を使って「相手に当身を使い
失神させ」とさらっと書いてありますが、瞬時に相手を失神させる様な技術は
非常に難しい事で、戦後の武道からは排除されていった技術でもあります。

2)同作品には「太いステッキ(杖)」というのが何箇所か登場しますが、特に仕込杖
ではなさそう。太いステッキというと三浦義一の画像を思い出しますが、なるほど
あれは九州流、というか玄洋社の流れを汲む持ち物であったのかと。

◆この作品は玄洋社というものを最小限知らないと楽しめない作品。
 内容がどこまで史実でどこまでがフィクションなのか分りませんが、久作が
 描き出す玄洋社/頭山満は、身近で玄洋社を見てきた人間ならではの
 リアリティが感じられます。これは歴史書では描写しきれないこと。

▼参考
歴代福岡知事(Wikpedia)  ※文中のモデル不明



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2011年07月15日

徳川幕府~明治政府の金銀事情

まずは買い物自慢。
『日本思想体系 キリシタン書・排耶書』(岩波書店、1970年)
Yaso-Cover










購入目的は、収録の 「天地始之事」 を読むためです。
どういう書物かということは他サイトをご参照願います。
自分にとっては、諸星大二郎の「生命の木」の元ネタであります。

さて、これに付属していた月報にちょっと面白い小論文が。
(以下、スキャンしたもの。クリックで拡大します)

『キリシタン宣教師の仲買業』 高瀬弘一郎

その1
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その2
nakagai-2










その3
nakagai-3











◆徳川江戸幕府の鎖国政策というのは、海外から入ってくるもの(宗教or
 軍事的侵略)を防ぐため、と思っていましたが、その対となるものとして、
 「国内から海外へ出て行くもの」を防ぐ為でもあったのだな、と上記論文を
 読んで気がつきました。つまり金銀の海外流出の防止です。

 以下、その関連のサイト。

信長・秀吉の貨幣
信長は銭貨不足を緩和すべく、高額商品を対象として金銀の使用を積極的に認めるとともに(略)金銀と銭貨の比価を施政者として初めて定めた人でもあります。その意味で、信長の貨幣政策は金銀銅貨からなる江戸期貨幣制度の先駆けといえます。
<以上引用>

 ※信長、秀吉は金銀を集め活用したが、金銀の価値と通貨価値を連動させる
   システムを完成させたのは江戸幕府となる。

ぞうへいきょく探検隊 日本の貨幣の歴史
豊臣秀吉が金貨や銀貨をつくり始め(略)これらは、おもにほうび用として使われ、
庶民(しょみん)はあいかわらず明銭やびた銭をつかっていました

徳川家康が日本で初めて貨幣制度を統一し、全国で使うことのできるようにと
金・銀貨をつくりました。
<以上引用>

不如帰〜戦国武将の幻影〜 兼続と秀吉の錬金術
秀吉の錬金術の秘密は貿易にあったに違いない。堺の町人や貿易商人と親交を結んで出資者として投資するのである。当時、これを投げ金、投げ銀という。この手法は織田信長から学んだのであろう。
<以上引用>

経済からみた江戸時代
では、(禁教令が2代秀忠期の1612年に出ているのに)なぜ鎖国がそれこそ1639年という遅い時期(3代家光期)に完成したのか。(略) 貿易で必要なものがなくなれば、(略)わざわざ貿易をする必要がないということです。鎖国が可能になる経済、それは自給自足ができる経済体制にある程度めどがついたという状況に他ならないのです。鎖国とは、幕藩体制確立のための重要な政策であり、キリシタン排斥という一面にとどまるものではないのです。
<以上引用>

元禄・宝永・正徳・享保・元文小判 −徳川幕府の改鋳−
(江戸幕府の)金銀鉱山の産出量は元禄期(17世紀末、5代綱吉期)までに大きく減少をみた。また、寛文4年(1664、4代家綱期)の金輸出解禁に伴い、銀貨に加え金貨もかなりのペースで流出した。
<以上引用>

 ※引用注:幕府金山の採掘量が減り始める時期と鎖国開始の時期がほぼ重なる

江戸時代と米本位制
米本位制を維持せざるを得なかった幕府・諸大名は,時代が進むにつれ困窮。逆に金銀貨幣を日常的に用い,米以外の商品作物を生産する富農や,大都市の商人層は経済的優越を得るようになった。
<以上引用>

金・銀の産出量と経済
注目していただきたいのは、徳川幕府は全国の金山を支配下に置いたが、幕府開びゃく100年くらいでこれらの金山の金を掘り尽したことである。金・銀などの貴金属を貨幣(通貨)に使っている経済では、これは通貨の供給量が増えないことを意味する。
(略)
1873(明治6)年から1896(明治29)年の間、英国だけでなく世界的不況という様相であったが、主に不況に陥ったのは金本位制の国であった。(略)日本は金本位制が建前であったが、実質は銀本位制であった。(略) これは日本の主な貿易相手国(中国・清)が銀本位制であったからである。幸い金とは違い、銀の産出は順調に増え続けた(メキシコ銀)ため、日本は世界不況の影響を最小限に食い止められたのである。
(略)
日本は実質銀本位制であったからこそ、金本位制の国々からの不況の連鎖が断たれ助かっていたのである。もし松方(正義)の主張通り強引に金本位制に移行していたら、明治の日本の経済的発展はなかったと思われる。日清・日露の戦争の勝敗の行方もどうなっていたか分からない。
(略)
さらに1886年にたまたま南アフリカで金が発見されたため、金本位制の国々の経済も1896年頃から回復できたのである。もし日本が早期に金本位制に移行し、南アフリカで金が発見されることがなかったら、明治の日本経済は壊滅状態になっていた可能性が強い。
<以上引用>


◆児玉誉士夫が大陸から持ち帰った物資はダイヤモンド、プラチナ、タングステン
 などで構成され、なぜそこにゴールドが含まれていないのか、ということの理由
 のひとつとして、当時の中国は「銀本位制」をとっていたため大陸にはゴールド
 現物がそれほど存在しなかったから、というのが上記引用文より想像されます。

 また、以下のリンク元を見ると、太平洋戦争中は銀自体も大陸内では枯渇して
 いたこと、国民政府保有のゴールドもあったが、そちらは米国に預けていたこと
 が分ります。

年譜:中国国民政府による幣制改革
1935(昭和10)年 11月11日、為替市場が開くと同時に、日本は横浜正金銀行(外為専門銀行)を通じて大規模に中国通貨を売り浴びせる(大規模オペレーションを発動)。(略)米国は直ちに中国から銀5000万オンスを買うことに同意した。
(略)
買入価格は市場実勢を大きく上回るものだった。そして為替安定化基金の原資として中国政府に売り渡された米ドルと金はそのままニューヨークに留置された。つまり基金は物理的に米国に置かれ、しかもその介入オペレーションは米国の助言の下で実施されることになった。このとき、中国を代理戦争の場として、日本と米国は正面から戦う布陣になっていた。真珠湾攻撃(1941年)に先立つこと6年のことである。
<以上引用>

▼その他参考サイト

江戸の通貨システム

日本の通貨事情

金のインサイド・ストーリー
国ごとにさまざまな事情はありましたが、それでも1929年まで金本位制は大半の国で続けられてきました。しかしこの年、世界大恐慌が起こり、政情や経済に不信をもった人々は次々とお金を金に交換していきます。

こうして各国とも交換するだけの金を保持しきれなくなり、やむを得ず次々と金本位制から離脱していきます。イギリスから始まった金本位制は1937年、最後に残ったフランスの離脱によって、ここで幕を引くことになったのです。
<以上引用>

ゴールドの真相に迫る 〜ブレトンウッズ体制とその崩壊
外国人が所有するアメリカの銀行預金と財務省短期債券は、1950年にはわずか80億ドルだったのが、1960年には200億ドル以上に増えていた。その時点で、外国人がドルによる流動資産をすべて金に交換すると決めたら、合衆国の金保有高は底をついてしまったことだろう。
<以上引用>

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2011年06月28日

ゴットン節

筑豊の炭鉱画、国内初の「記憶遺産」に 山本作兵衛作 Asahi.Com (魚拓)

記憶遺産の功労者 作兵衛作品と再会

希少な炭鉱労働記録 田川・飯塚市が原画公開 毎日jp (魚拓)

Google画像検索 山本作兵衛

宮本常一が 「記憶されたものだけが、記録にとどめられる」 と言い、
佐野眞一が 「記録されたものしか、記憶にとどめられない」 と言った、
まさにその様な 『記録』 が存在したのに驚きました。

さらにこれをユネスコの「世界記憶遺産」に推した人たちの慧眼に脱帽。


炭坑記録画 世界記憶遺産決定


ご本人による炭鉱歌


※この種の労働歌のような音楽がプリミティヴな形で記録されることは
 日本ではめったにないので、これもまた非常に貴重な資料。
 
 歌詞はこちらを参照(かなり異なる)。 殺伐とした歌ですねー。

 曲中、「サマちゃん」という人名らしきものが出てくるが、これは「炭鉱節」
 にも登場する。 詳細はこちらを参照

 今日まで伝えられている「炭鉱節」曲は、原初成立の姿から、後年に手が
 加えられ 近代音楽のノウハで整えられていったものであろうということが、
 作兵衛さんのプリミティヴな歌と聞き比べることで想像できます。


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2010年09月30日

白洲文平(4)

白洲文平(3)のコメント欄が膨大になってきたので以下の通り整理します。

3. Posted by くれど 2009年08月03日 16:30
[白洲商店 ここが疑問]

1)退蔵さんの死後 かなり家業が傾いたとあり 初期投資が
  かなり必要な 輸入業ができるのか疑問

2)輸入業の場合は当時 動いていた 大手 たとえば三井物産に
  どうやって対抗できたのか

3)業務委託していたにしても 倉庫の話とか 現物の綿糸 綿花を
  あつかっていたエピソードがなぜでてこないのか
  また 白洲邸になぜ倉庫はないのか

4)三品市場で相場を張り 短期に儲けてとかは 輸入商でなく 
  相場師がやること

5)綿花のことを調べるのは 綿糸商として当たり前 綿糸の値段は 
  綿花の値段に人件費に燃料代を足して 為替等を考慮したもの
  これが現状の値段より高いか 安いかとの思いで 相場は決まります

6)いくら需要があっても 綿糸や綿花を仕入れて 卸すだけのビジネスでは
  粗利がとれるだけで 豪邸が立つとは 考えられない

7)見当がつかないわけではないが 資金をどこから 調達したのか 
  不動産の賃貸だけでは 無理ではないか

8)ただし 眠っていた不動産が たとえば鉄道を通すことにより
  売却できた可能性は十分にあり そこからの資金調達も考えられる

9)いつ白洲商店ができたのか明確でない 資料がないのか 
  それとも会社組織でない形で 文平さんがビジネスをはじめたのか 
  金貸しなら 個人でもできるが 会社形態でなく 商社ができるのか

4. Posted by k_guncontrol 2009年08月03日 22:13
特にご指摘項目の6)ですね。

モノを動かす実業で豪邸が建つほど儲かるはずがないのは
今も昔も同じです。このことを知らない人が意外と多いです。

11. Posted by くれど 2009年12月13日 22:07
文平さんが 大分に入った時期と 同県内に大型紡績会社が
進出した時期が重なる点


『ジャパン・アドヴァタイザー』(The Japan Advertiser)が
横浜で生まれ どうも微妙な人脈と関連があることについて


33. Posted by くれど 2010年09月29日 21:33
近代デジタルライブラリー 商紛議仲裁判決例

「一八」 ケー、ネムチヤンド商会対白洲商店商紛議仲裁判決書
(孟買棉花取引所ノ検査証書ニ関スル件)


「二一」 神戸貿易商会対白洲商店商紛議仲裁判決書
(棉花品質ニ関スル件)


「二二」 神戸貿易商会対白洲商店商紛議仲裁判決書附帯判決書

孟買と 書いて ボンベイと読むそうです

このビジネスモデルは 貿易商社ともいいますが はっきり言って 
二次卸とか 三次卸であって 船賃取られての 日用品の輸入で 
粗利が 豪邸建てられるほど 取られるものでしょうか

36. Posted by k_guncontrol 2010年09月29日 22:09
仲裁判決書の記載を読むと、相手方は 「さっさとカネ払って綿現物を
引き取れ」 と白洲商店に要求しているようですね。

◆さて白洲商店は綿現物の流通をハンドリングできるのか。

大阪朝日新聞 1924.12.2(大正13) 綿糸激落 狼狽投げ続出
総ての材料を強気的に解釈して買気熱狂の状態にあった三品市場は、
一日の□□発会当日に至って突然各期月十一、三円方の大反落を演じ、
□□の逆□を□□せしむるに至った。

大反落の直接原因としては、市場の□大落であると同時に、市人の
買目標となって居た白洲が日本綿花に□玉の肩代りを□□し、三十日
遂に二千枚の肩代りが成立したので、白洲を買うて居た市人
全然目標を失い、狼狽投げ続出となった結果である
<以上引用> ※「□」 表記は原文の判読不能文字。

 ※注:文平さんは当時、相場を張る人たちの指標でさえあったということ。

◆白洲商店とは、商社でも卸でもなくブローカーに近いものでしょう。
    
良くて通過するのは輸入書類とカネ(仕入れ額と売上げ額)だけで、
綿糸現物は白洲商店を素通りする。

ひょっとすると、仕入れ/売上げさえ無い口銭だけ取る形という可能性も。
(貿易商では実際にある形です)
この方式で信用取引でレバレッジかけると、当たれば御大尽という次第です。

次郎さんの伝記/エピソードに倉庫なり商品なりの描写が一切ない点に注意。

▼参考リンク
『日本商品先物振興協会』より、“戦前期日本の綿業関係者による
取引所利用の実態分析 黄孝春”

いずれにせよ、綿糸について紡績企業は先物販売の形でその価格変動リスクを綿糸商に転嫁し、一方綿糸商はそのリスクを仲間取引か投機市場に再転嫁しようとしたのである。
<以上引用>

 ※紡績業界(≒当時の財界主流)はリスクの部分を上手く外部に切り離し、
  そのリスク(当たればハイリターン)に群がった相場師が大正期には
  多数いたということで、白洲文平はそのひとりであったと。

大阪朝日新聞 1923.9.12(大正12) 棉電 米棉六十銭高
今十一日の三品市場は、昨大反撥の機先銀塊十六分の一高の入報あったのみ、米棉延着不明であったが、日銀の徹底的資金融通声明に人気益安定に向い、利喰の外売物現われず。
(略)
日銀の融通宣言を端緒として斯く反撥力の鋭いのは、一方に米棉の猛騰を告げた影響にも因るが、又一つは前吉を中心とする白洲一派と称せらるる手筋が利喰い買募りの循環に相場を煽って居ることに因由する
<以上引用>

 ※この頃の先物相場や株式相場は「〇〇証券」などではなく、
  個人の名前が前面に出ている点が今日とは大きく異なる。

◆輸入綿の現物は、入港 → 保税倉庫 → 紡績会社 と動くのではないか。
 (いちいち問屋/代理店の倉庫あるいは店頭には置かれない)

文平さんは先物の相場師であって、モノ現物をハンドリングするのが
稼業ではない。白洲商店には倉庫(現物の置き場所)など無いのでしょう。

37. Posted by くれど 2010年09月29日 22:38
これなら 運転資金もそれほど かかりませんね 
コネさえあれば なんとか できそうですね

39. Posted by k_guncontrol 2010年09月29日 22:57
要は先物取引(株の信用取引と一緒)ですから、少ない元手で大きく相場を
張れるということなのだと思います。それが一時期は上手くいっていたと。
そのかわり相場が崩れたらどん底へ一直線。それが1929年の大恐慌。
 ※参考:1929年アメリカ大恐慌の影響を日本も受けたとのこと。なぜ?

◎関連インデックス
あやしい人たち   白洲次郎とは何者だったのか

▼参考リンク
『日本商品先物振興協会』より、
“モノをもってないのに「売る」ことができるのはなぜ?”


『OCNマネー』より、“信用取引のお話”
 



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2008年12月13日

白洲文平 (2)

白洲文平(1)の続き。

白洲次郎の父・白洲文平は「綿貿易商人」であり、「綿貿易で成功した」 と記されていることが多いですが、さてその実態は。

『神戸大学 電子図書館』より、
“三品市場の大飛躍 追証百万円に上る 大阪朝日新聞 1927.5.15”
(昭和2)
三週間臨休続行中だった(大阪の)三品綿糸市場はいよいよ十四日から立会ったが、この間米棉飛躍、為替安、紡績一割五分の操短を向う六ヶ月間実行という鳴物入りで軟派一方の□頭だった白洲筋も戦に利あらずと見てか
(略)
これがために売方が取引所へ納入すべき追証額は91万8800円の巨額に上り、かかる巨額の追証を徴収しなければならぬとになったのは、如何にこの間の並大抵でないことが窺われる(略)
<以上引用>

 ※編注:上記の 追証 の額=91.8万円は、現在価値で数十億円相当。
     これは、あくまで追証の額だけであり、損失総額はこの何倍にもなる。
     なお、文平の白洲商店が倒産したのは翌1928年と言われています。

上記の5年前の記事
“高倉事件動揺熄まず 大阪毎日新聞 1922.12.5” (大正11)
日本積善銀行の破綻暴露は、年末金融に対して漸く楽観に傾かんとして居た一般人気に著しく衝動を与えた(略) 決済不能に陥れる関係店の中にて、高倉氏直属の機関店たる一般取引員の白洲長平、滝川新蔵、両店は廃業して証拠金及び身許保証金にて取引所との決済は了する筈であるが(略)
<以上引用>

 ※編注:白洲長平は白洲文平の弟、つまり白洲次郎の叔父。 参考1
      また、もうひとりの弟、白洲十平は玄洋社メンバー。 参考2
      白洲次郎の公式バイオグラフィでは、この叔父たちへの言及が
      一切無い点にご注意下さい。

 ※その他、白洲筋の綿糸相場がらみの記事はこちらへ。

参考: 大正バブル期における起業活動とリスク管理 (pdf)
高倉一派のひとりとして白洲長平の名前が見受けられます。

◆以上から、白洲文平とその弟たちは先物相場師だった、ということが
 分かるかと思います。

 銀行破綻の連鎖で白洲家の家業が倒産したのではなく、逆に、
 大正期バブル相場の弾ける過程で、白洲筋ほか相場師たちの破綻が
 関連銀行も巻き添えにした、というあたりが実情ではないのか、と。
 (この点は憶測ですが)

 なお、当時の十五銀行は無担保融資が50%を超えていたとか。 参考

◎備考:『吉田茂とその時代』(ジョン・ダワー 著)より
「吉田茂が次官に任命された同じ頃、中国では(略)排日運動が高まっていた。
 (※編注:吉田茂の外務次官就任は1928年、50歳のとき)
 押しかけ次官(吉田茂)も、(略)根本的な政策手直しを打ち出すことが
 出来なかった。吉田が成功したかに見えるのは、多くの輸出業者に
 中国の日本商品ボイコット(日貨排斥)が静まるまで荷揚げさせないこと
 ぐらいであった。

 日本商品ボイコットは、ことに大阪の綿業にとって手痛かったが、
 吉田は三井、特に三井物産を説いて大阪の小企業から一時的に
 大量の綿布を買い付けさせた。」
 <以上引用>

『日経ヴェリタス』より、“相場師列伝 守山又三氏”
守山が思惑買いを始めるのは、1932年半ばのこと。そのころ三品取引所では
中国商人、益東生による綿糸の買い占めが演じられ、この時は取引所の
証拠金増徴で華商が苦杯を喫したばかりだった。守山はインド綿の凶作を
見込んで買い進んだ。4つの仲買店を駆使して買いあおったのだ。

守山が大掛かりな買い占めに動くに当たっては事前に手を回し、北浜銀行頭取の
岩下清周と三井物産棉花部長の山本条太郎(後に常務〜満鉄総裁)から
資金面で協力を取り付けてあった。
<以上引用>

  ※編注:山本条太郎は吉田健三の甥、吉田茂の従兄弟。 参考

◆白洲文平の破綻の後、吉田茂の関係者が大阪市場の綿相場に
 引き続いて登場するのは、さて果たして偶然か。

 市場の状況をコントロールできる人たち(三井物産/山本条太郎/吉田茂)と
 一部の先物相場師がもし、つながっていれば、それは儲かって当然。

▼参考:
『余多歩き』より、“白洲次郎外伝-10”
文平さんと薩摩系、松方系の関係。
および十五銀行をどうやって取り込んだのか。

◎まとめ 白洲次郎とは何者だったのか インデックス 

▼関連リンク
『滋賀大学経済学部HP』より、
“泡沫会社発起の虚構ビジネス・モデルと虚業家のネット・ワーク”
(pdf)
たとえば高倉為三の投機的行動を制御できなかった高倉家,積善銀行等のガバナンスを例にとると,まず高倉為三らが一族で大半を支配する非上場の積善銀行では株主による統治の余地は極めて乏しかったと考えられる。

さらに大阪農工銀行の乗取などの行為を焚き付けた友人の扇動者が存在した。
大阪一流の米穀商で代議士でもある上田弥兵衛は大正中期に海外投資などハイ・リスク投資を説き,自らも一部実践した投機家であった。一連の高倉事件ではたえず裏から糸を引いて、高倉の相棒となって農銀乗取に大阪の金融界を掻き回した。
<以上引用>

大正期日本積善銀行の破綻とリスク管理・ガバナンス不全(pdf)
高倉は、積善取締役の上田弥兵衛(代議士)、広沢耕作(藤平系)とともに
農銀(大阪農工銀行)の乗っ取りをはかったとされる。農銀の経営陣は一般に政友会と民政党の対立が深刻であった。黒幕とされている横田千之助は原敬の懐刀で政友会の幹事長であった。

 ※参考:
  Wikipediaより "農工銀行"
  「1896年に日本勧業銀行法が成立する際に、一緒に成立した農工銀行法に
   基づいて設立された特殊銀行。(※つまり政府系金融機関)
   1921年に勧農合併法が制定され、勧銀と農工銀行の合併が促された。
   全農工銀行は1944までに勧銀に吸収合併されるようになる。」

“高倉為三氏を旗頭とする堂島系の破綻終に暴露す
日本積善銀行本支店の休業 大阪毎日新聞 1922.11.30”
(大正11)
若武者の為三氏は、古い顔の相談役より若手の相棒が結構だというので、同じ堂島畑の上田弥兵衛氏と組んで目覚ましい活躍振りを見せ、上田氏もまた羽振を伸ばして大阪穀物商組合長(正米)の地盤と堂島を背景にして一躍新進の代議士となりすまし、両人手を携えて財界の分野に堂島系なる一根城を構え、木津川土地運河、東洋毛糸、東華紡、港南電鉄(創立中)等各種の新会社を起し(略) 

不況期となって手を出していた各事業はいずれも蹉跌し、欠損続出の有様で(略) この悲境を脱出すべく日本積善銀行から資金を引出して、大新株と鐘新株の大買占めを策したところ、これまた思う壺にはまらず、損失が重むのみ(略) 高倉氏は動きの取れぬ破目となり、同時に日本積善も休業の已むなき場合に立至ったものである
<以上引用>

『余多歩き』より、フィクサーとしての白洲次郎 2
「ここ(高倉為三の父である高倉藤平による、日本郵船の乗っ取り事件)に
 出てくる吉田磯吉という方が、玄洋社の頭山満の片腕・杉山茂丸の
 子分だった方で 白洲次郎の叔父の十平さんが玄洋社の社員だったのも
 ある意味当然かもしれません」
<以上引用>

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2008年12月12日

白洲文平 (1)

さてNHKの白洲次郎ドラマの放映まであと一カ月というところでしょうか。
ドラマ放映記念として、次郎さんの父・白洲文平について記しておきます。

元ネタは 白洲(37) でのコメント欄における くれどさん とのやりとりです。

◆さて、大正のころ北浜銀行という銀行がありました。

『球探』より、“阪神と阪急” 
箕面有馬電車(現・阪急電鉄)の初代社長は岩下清周という人物であった。 岩下は三井銀行時代の小林(一三)の上司で、当時は北浜銀行の頭取をしていた。小林の経済的後ろ盾となっていたのである。

さらに岩下は大阪電気軌道(現・近鉄)社長も兼任し、阪神にも資金援助していた。
(略)しかし急激な成長は反発を呼ぶ。既存勢力の意を受けたゴシップ紙の執拗なスキャンダル報道により大正4年6月岩下は失脚に追い込まれる。
いわゆる北浜事件(岩下事件)である。
<以上引用>

『神戸大学 電子図書館』より、
“岩下事件予審決定書 大阪朝日新聞 大正4.10.24”
 
右被告 岩下清周に対する背任、横領文書偽造行使商法違反、業務横領、(略)に就き予審を遂げ決定すること左(下記)の如し

主文 本件を当裁判所の公判に附す
理由 被告・岩下清周は(略)破綻の己むなきに至り(略)
各左の犯罪を犯したり
(略)
第十四 被告・永田陽太郎(北浜銀行支配人)は、大正元年10月29日、兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市〜神戸市)の内樋口新田に於いて、土地及び建物を
白洲文平より買受くるに当る被告・小塚正一郎(北浜銀行常務)に謀り、其の借金12,000円(現在で5千万円相当か)を金庫の支払係・熊谷常松をして行金より仮出の方法により支出せしめたるも、文平の求めにより、即時之を同行振出の小切手と振替えて同人に交付し以て横領し (略)
<以上引用>

◆さて、これは何でしょう。良く分かりませんねー。

整理すると、
  ・現金を仮払い処理で出す一方、小切手も別に振り出している。
  ・文平さんには土地代として小切手が渡り、
  ・一方、同額の現金を北浜の常務と支配人が自分のふところへ納めた。
というのが予審文の内容です。

一見、文平さんは不動産を北浜銀行へ売却しただけの様に見えますが、注意すべきは文平さんの方から「小切手で」 と要請している点です。

考えられる可能性としては、
  ・支配人と文平さんが、ねんごろである可能性
  ・手持ちの不動産を有利な価格で売却するためのスキームの可能性
  ・支配人個人の犯罪でなく、北浜銀行ぐるみの背任行為の可能性
などが考えられます。

 ※編注:白洲家は先代・退蔵の頃から神戸周辺の土地を買い集めている。
      参考 ピュリタン開拓赤心社の百年 第一章 三田

北浜銀行事件は、岩下清周がスキャンダルに嵌め込まれたというような記述が多いですが、根も葉もない話で追い込まれたのではなく、かなり怪しい動きも実際あったのではないかと想像します。

以下、前掲の大阪朝日新聞記事より別箇所を引用

第十一 被告・岩下清周は(略)大阪府豊能郡箕面公園内に松風閣と名づくる家屋を建築するに当り、(略)其費用金71,500円を一時、箕面有馬電鉄軌道株式会社専務取締・小林一三に託して、同会社より立替払をなさしめありしが(略)残金四万一千五百円に付ては延滞しありと会社より其の請求を受くる(略)金二万円を(略)仮出の方法により支出して同会社の当座預金口に振込ましめ、(略)以て横領し

第二十三 被告・小塚正一郎(北浜銀行常務)は大正3年2,3月頃、箕面有馬電気軌道の沿線売布に土地又は別荘を所有せる、松方正雄 ほか数名の寄附により停留所を建築し、其費用1,290円13銭を、一時同会社をして立替えしが同会社より其督促を受くるに及び、右の金を被告・室田頼章に命じ行金より支出するに当り、金庫仮出の方法により会社の当座預金口に振込ましめ以て横領し(略)
<以上引用>

文中に登場する「小林一三」、「松方正雄」、両名とも
白洲次郎とはゆかりの深い人物です。

 備考:
  『近現代 系図ワールド』より、“白洲次郎 白洲正子” 
     松方正雄=浪速銀行頭取、松方正義の四男、
     妻は白洲宣子(文平の娘、次郎の妹)
   <以上引用>

◆両記事ともいずれも横領の手口は同じです。
 白洲文平/白洲次郎とゆかりの深い人物たちが何故こうも、
 同様の “北浜銀行の謀った” 横領スキームに関わっているのか。


※参考: 『タイガース歴史研究室』より、“松方正雄 初代タイガース・オーナー”
  (松方正雄は)関西財界の雄、元JOBK(現・NHK大阪)会長で
  阪神電鉄の経営者ではない。(タイガースの)オーナー就任後は
  JOBK他すべての要職を辞任して職業野球連盟に余生をささげた。
  宝塚に広大な自宅を持ち、勝利の後タイガース選手をしばし
  招待したという。

   ※編注:宝塚は小林一三が開発し、売り出した新興住宅地。

※参考:Wikipedia - 十五銀行 
1920年(大正9) 8月 浪速銀行、神戸川崎銀行および丁酉銀行を合併。
1927年(昭和2) 4月 昭和金融恐慌により休業。事実上倒産する。

 ※編注:十五銀行の破綻が白洲文平の破産の原因、というのが
     白洲次郎の公式バイオグラフィです。
     その破綻の前に、松方正雄の浪速銀行が十五銀行に
     合併されているのは、いったい何を意味するのか。

※参考:
『法政大学Web』より、“企業勃興を牽引した冒険的銀行家” (pdf)
そもそも、北浜銀行の創立が、「大阪株式取引所の仲買人たちの取引のための『機関銀行』銀行を設立」を目的とするというもので、藤田伝三郎 の存在なしにはあり得なかったものである。
<以上引用>

 ※編注:北浜銀行とは、実業への融資を目的とした銀行ではなく、
      要は相場師たちの胴元機関、ということです。

◆当時、北浜銀行/岩下清周を上手く利用して、最後は切り捨てていった
 人たちが大勢いたのでしょう。 果たして白洲文平は、そのうちの一人で
 あったかのかどうか。

◎つづきは 白洲文平(2) へ

▼参考リンク:
『明治・大正・昭和のベンチャーたち』より、“小林一三” 
小林は、後に書いている。株の過半を握ることで事業を自分のものと実感できるようになったこと、株主事業家になったことで事業自体に理想をもてたこと、人を頼らず、独立独歩の人生を歩むべきである――と。

とりわけ小林が肝に銘じたのは、人を頼まず、己に頼れという精神だった。そう銘じたのは、岩下清周が北浜銀行事件に巻き込まれ、裁判で有罪判決を受け、不遇のうち死んでいくとき、岩下に面倒を見られた人たちを含め、関係者が岩下にどのような態度をとったか――を、つぶさに見たからだ。
<以上引用>

〇まとめ 白洲次郎とは何者だったのか インデックス

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2007年10月14日

Old Folks 1905

詳細は良く分からないが1905年(明治38年、日露戦争の年)のフィルム。

バックに流れる音楽が、西洋のシステマティックな音楽(要するにクラシック)とは
まったく別の系統にあることが実感できる点で貴重なのでは。

スタイルはまったく違うのに、
アメリカ黒人のごく古いブルースに通じる感覚を感じるが、
それは両者とも、譜面でも録音物でもなく、
耳で聞くことのみで覚え、受け継がれてきた音楽に
特有のものではないだろうか。

画面の軽業師の少年たちの動きも、過剰な柔軟性や筋力に頼らず
人間の肉体の自然な機能と動きのみで構成されている点に注目。





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2007年04月30日

國民よ、オーパス蔵を聴け

オーパス蔵という、
SP盤を復刻してCDにしているレーベルがありまして。
ここの復刻(マスタリング)の音が実に良いんですよ。
オーパス蔵の公式WEBはこちら。

これほどの情報量がSP盤には詰まっているのか、と
驚かされること請け合い。

是非このページのクライスラーの「美しきロスマリン」の試聴音源
聴いて欲しい。

人類の至宝、パブロ・カザルスの「無伴奏チェロ組曲」(バッハ)は
本家EMIほかからも出ていますが、
オーパス蔵版を聴いたら、もう他のレーベルのは聴けないっすね。
NAXOSは結構マシですが)

これが外国のレーベルではなく、
日本のレーベルで、日本での復刻マスタリングというのは
かなり誇るべきことではないかと思っています。

またSP盤時代の演奏家の活動期というのは
19世紀末から20世紀初頭という
ロマン派の時代をリアルタイムで生きていたわけですが、
このころの人たちの演奏というのがまた素敵なんですな。

たとえば、ヴァイオリンであれば
ヤッシャ・ハイフェッツを境目に、
演奏は技術が伴わないといけない、という風に
世の中が変わっていったと思うのですが、
フリッツ・クライスラーとかジャック・ティボーなどの
ハイフェッツ以前のvirtuosoを聞いたあとでは
20世紀ってつまんない方向に進んじまったんだなあと
感慨ひとしきりな訳であります。

あ、ハイフェッツは偉大だと思います。
問題なのはそれ以降の人です。

今後の復刻希望としては、ティボー演奏の
フランクの「ヴァイオリン・ソナタ イ長調」を出して欲しいっすね。
EMIの現行盤も悪くはないのですが、
オーパス蔵のマスタリングだったらもっと素敵だろうから。

オーパス蔵、Amazonで扱ってないのが難点だよなあ・・・


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2007年04月27日

うたふやうにゆつくりと‥‥5

行ってきましたよ、蕗谷虹児展(at弥生美術館)
やはりあの場所はどんな展示のときでも良い時間が流れている。

お客さんは平日なので、熟年層の方々ばかりでした。
あの美術館は東大の裏に立地している訳だが、
学生さんはあまり行かないのかなあ。

で、併設で「立原道造 記念館」が建っているのですが、
こちらは自分以外客がおらず、ひとり貸切状態。
じっくり落ち着いて道造の直筆原稿が読めました。
なんという贅沢な時間!

その原稿を見ていると、
当時(大正〜昭和戦前)の一般的な人の筆跡と比べて
道造の書き文字は現代でも非常に読み易い、
という特徴があることに気づく。

おそらく道造の頭の中では
文字は、読む情報というより
見る情報/グラフィックな情報になっているのでは?
そんな風に思いました。

きょうのめし:
東大そばの「ピグ」という洋食屋でステーキ定食¥880円。
入り口も店内も洋食屋なのに、奥に座敷があるという
ちょっといい構えの店でした。
味は値段なりといったところ。

でも帰り際に「相席していただいて有難うございました」と
とても感じの良い言葉をお店の人にいただきました。



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2007年04月21日

螢火の館へ

久世光彦さんが亡くなって、もう一年が過ぎました。

昭和の家屋の薄暗かったこと。

あかりの届ききらないその隅に、
人に知られてはならない甘美な何か潜んでいたこと。

そんなことを教えてくれた素敵な大人のひとでした。

「久世光彦の世界―昭和の幻景」という本が出ています。

再録のエッセイ、対談など再録文なども多く、
まとめて一冊にして手元においておけるのは嬉しいことです。

久世さんが愛した作品で、いまでは入手が困難なもの、例えば

 小沼丹「村のエトランジエ」
 渡辺温「可哀想な姉」

まだGoogleも青空文庫もないころ、
図書館や古書店を随分探して、結局出会えなかった作品たちです。

こういった作品も合わせて収録されていて、
ああ、この人はこういったものを読んできたのか、と
少しだけ自分も近づけたような、そんな気になりました。

自分が初めて手にした、この人の作品集は「昭和幻燈館」、
それは間違いないのですが、それは何時だったか。

この「〜世界」に著作一覧が載っていたので、確認したら
1992年だったことが判りました。

自分はもう15年も! この人の微熱のあとを追いかけていたのでした。

「昭和幻燈館」が教えてくれた、
弥生美術館、という場所。
いつでも時間がゆっくりと流れている、とても大切な隠れ家です。

ここ2〜3年、行く時間が取れなかったので
しばらくぶりに行ってみようかと思います。
(ただいま蕗谷虹児展を開催中の様です)

   きんらんどんすの 帯しめながら
   花嫁御寮は なぜ泣くのだろ    「花嫁人形(大正13年)」


久世光彦の世界―昭和の幻景


昭和幻燈館


花嫁人形 蕗谷虹児詩画集


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2007年04月17日

鏡花萌え5

言霊使いの極北、泉鏡花。

ちくま文庫より
「泉鏡花集 黒壁―文豪怪談傑作選」
というものが発売されていたのでご購入〜。

文庫だと、どうしても「高野聖」とか「草迷宮」など
代表作中心のセレクトになるが、
この本は比較的有名ではない作品を編纂した
ちょっと嬉しいひと品。

年代的には明治、大正、昭和の
各期からの作品が並んでいますが、
初期から最晩年まで、好きなものや価値観が
まるで変わらないのが、この先生の偉大なところ。

明治末期に「自然主義」なんてェ下らねェものが
文壇の主流になったらしいですが、
われらが鏡花先生、そんなものは我関せず、
と、独自のスタンスな訳です。

しかしこの人の文章は、単語ひとつ読み飛ばしただけで
訳がわからなくなるので、読む方も適当に読み流せない、
という恐るべき代物。

何歳になっても、すらすらとは読めないなあ。
誰か知力をくれまいか。


◎鏡花先生、ここが萌えどころ

 ・愛妻家
 ・うさぎが好き。
 ・刺身とか生ものは煮て食べる。
 ・大根おろしは煮て食べる。
 ・いただきものの菓子は火であぶって食べる。
 ・果物も煮て食べる。
 ・真夏でも沸騰しまくった鍋物じゃないと食べない。
 ・不衛生が大の苦手なので、
   アルコール消毒綿を持ってお出かけ。
 ・犬はきらい。
 ・蟹はきらい。
 ・蛸はきらい。
 ・蛇はきらい。
 ・その割に作品中でその嫌いな生き物を
  執拗に、執拗に描写する。

 ・・・鏡花かわいいよ鏡花

青空文庫でかなりの作品が読めるのだが、
やはり縦書き&ルビ付きがオススメではあります。



泉鏡花集 黒壁―文豪怪談傑作選


k_guncontrol at 02:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!