背中の上部を温めるピュアボライブin博品館

2009年11月28日

工さん講義

11月26日
小平の津田塾大学での公開講座で工さんが講義を行ないました。
自由参加なので、私も聴講してまいりました。

写真は資料として配られたレジュメ
20091127005207











テーマは「”自分”と言う名の境界線 〜シュタイナー教育・世界貧乏旅行記・芸能界から見えたモノ〜」

大学のふつうの講堂で、机がありましたので、メモし放題。
一応ICレコーダーも持っていきましたが、録音不可ということでした。

メモを紐解いたのですが、まとめるのが面倒なので、
速記のごとく、発言の羅列ですけれど、
お暇な方はご覧ください。


**
斎藤工です。28歳、俳優です。
高卒なので、このようなキャンパスライフには憧れをもっていました。

今日、津田塾大学でこのような機会をいただきましたが、
話すにあたって「自分に何があるのか?」ということについて困ってしまいました。。
2年前に『ニッポン脱出』という自叙伝を出版しましたが、
そのときも同じことで困りまして。
そのときは、まず自分のこれまでを振り返ってみました。
すると、ユニークな環境においてくれた親のおかげで、
今があるということが見えてきました。

今日はそのユニークな環境を含め、
これまでの人生で、自分がどういうことをチョイスして
今に至るかを話そうと思います。

俳優業は、「非常職」だと考えています。
普通じゃない職業という意味ですが、
その非常職に就くまでの道のりは、
自分にとって自然なものでした。

ボクは1981年生まれで、
小学校は国が未認可のシュタイナー教育の学校で過ごしました。
シュタイナー教育とは、
感性を育て知識を重視しない教育で、
シュタイナー教育を受けた有名人としては、
ミヒャエルエンデがいます。
児童数は7名、ぼくの2歳上の姉が一期生で、
一学年空いてボクたちは二期生でした。
どこも親が教育に熱心な家庭でした。
7名しかいませんから、
先生と1対1で授業を受けたときもありました。
その学校は、2000年に小泉首相が学校法人に認可し、
現在、藤野にあります。
先日も行きましたが、僕は二期生ということで、
意見を言わせてもらえるんです。


今日は、当時のボクのノートを披露します。
母親が取っておいてくれていました。

小3のときのノートでは、
色鉛筆で書いた木の絵が、
ぱらぱらページをめくっていくと色鉛筆で書いた漢字になっていきます。
シュタイナー教育ではカラフルに色を使って表現させていました。
音楽のノートでは、五線譜に音符ではなく、
背景にイラストを描かせ、その上に音程を線で描いて、
その線に沿って文字を並べていっています。
算数のノートは、クレヨンや折り紙で、
カラフルに図形を表現しています。
どの教科も美術作品を描いているようなノートになっています。

シュタイナーでは小1から英語とドイツ語を習います。
ドイツ語のノートを見ると、母音と子音を色分けして書いています。

すべての教科がこのようにすすめられるので、
授業を受けているというより、創作をしているようでした。

シュタイナー独自の教科として、「人間と動物」というのがあります。
ノートを見ると、人間の身体を月や太陽で表現しています。
アタマが日で、身体が三日月・・・というような感じです。
ボクは、この授業で「イカ」について研究していたものが
残っているので、読み上げます。
「私はイカです。
敵が来たら 墨を吐きます。
私の口は足の真ん中にあります。
海の小さな生物を食べます。・・・・」
このように、自分がイカになりきって説明文を作りました。
ほかにも、猫や馬についても書いたものがあります。
それぞれの動物になって詩的に表現させています。

小6のときのノートでは、
白いノートに、罫線の代わりに背景を2色でボーダーに塗り分けて行をつくり
その上に文字も色分けして書いています。

神話の物語も書いていました。
「世界のはじまり
なんにもない世界
神様が光をつれてきて昼と呼びました
闇を夜と呼びました
昼と夜を合わせて一日と呼びました・・・」

自分のことながら、すばらしい詩の創作をしていたと思います。


このような特殊な教育を受けていたのですが、
もちろん親の意志による学校選択で、
当時は親のエゴだと思っていて、イヤでした。
家庭でも、食事はマクロビオテック、玄米中心の食事でした。
おやつは煮干など、戦後みたいでした。
初めてポテトチップスのようなジャンクフードを食べた時、
あまりに美味しかったことを覚えています。
テレビも禁止で、でもボクはキャプテン翼が好きで、
ノートにキャプテン翼の絵を描いているのが残っていますね。

ですから、ボクの土台はシュタイナー教育です。

そんなボクは小4のときに大きな出来事に出合いました。
サマースクールでイギリスに行ったのですが、
行きの飛行機でみた地図に日本が載っていなかったのです。
それはイギリスの飛行機なので真ん中にイギリスがあり、
右の端に小さくいびつな日本がありました。
子供ながらに、日本が小さいことにショックを受け、
こんな小国にとどまっていないで、世界に行ってみたい、
「自分は、この国で終わらない」という決断をしました。

シュタイナーの学校は七年制でしたが、
ぼくは6年生の3月に公立へ転校しました。
それは地元の公立中がサッカーの名門で、
サッカーがやりたかったからです。
転入して最初の行事が卒業遠足でした。
TDLだったのですが、
友達もいないので本当につまらなくて、
いまだにトラウマになっています。
そして、学習内容がまるで違うことに面食らいました。
シュタイナー学校では、公立の学校で学ぶような知識は
まったく求められていなかったのです。
当然成績は悪く、点数は取れませんでした。
あわてて母親と3ヵ月かけて猛勉強しました。

そのころのことで鮮明に覚えていることがあります。
美術の授業で、「空」といテーマで絵を描くことがありました。
みんなは同じように青い空、白い雲、を輪郭をつけて描いていました。
けれど、ボクはその日は暑かったので、なんとなく空を赤で描きました。
ボクだけ赤い空です。
すると、美術の先生に呼ばれました。
ボクはてっきり怒られるかと思ったら、「これはいい」と褒められたのです。
輪郭(境界線)が描かれていないことを褒められたのでした。
それがとても嬉しかったのです。

ボクは、絵でも境界線を描いていませんでしたが、
人生での選択のときも、境界線を描かないで、ニュアンスを重視します。
また、選択時が成長するとき、だとも思っています。
選択を迫られるような追い込まれた時にこそ、
人間は成長するのだということです。

さて、そのようにシュタイナー教育は
ボクに多大な影響を与えていたのですが、
一つだけ納得できないことがあります。
それはシュタイナーが手を使うことを教育するもので、
物を足で蹴ってはいけない、というルールがあり、
サッカーができなかったのです(笑)。


高校時代に話を移しますが、
ボクは沢木耕太郎の『深夜特急』に共感していました。
そして一人旅をするようになりました。
初めての一人旅は、15歳のとき。
アメリカのデンバーの母親の友人宅へ行きました。
その後、ボクはナポレオンに共感し、
ナポレオンの墓参りに行きたいと思いました。
ナポレオンからフランスへの憧れをもっているうちに、

パリコレに参加する機会に恵まれました。
フランスでは、ふとルイヴィトンの本店に立ち寄ると、
いるのは日本人の客ばかりでげんなりしました。
フランスでは身の丈にあったおしゃれをするのがクールという発想があるけれど、
日本にはそれがないことをザンネンに思いました。
ボクは、ブランドという鎧で身を守るようなおしゃれをする日本人より、
フランス人のほうが本当のおしゃれだと思いました。
そんな風に、日本より外国によさを感じていたのですが、
自分はというと、日本や日本の歴史について質問されても、
何も知らず答えられなかったのです。
世界に興味があったため、世界史を選択し、日本史を学ばなかったからなのですが、
外国人は、信長だとかを自分よりよく知っていました。
そしてそのとき、ボクは自分の国への誇りを見失っていたことに気付いたのです。


ここから、世界貧乏旅行についてお話しします。
旅行に行こうと思い立ったのは、
先ほどお話しした、小4のときの決意と、
父からの映画教育(映画をよく見せられた)が理由だと思います。
ボクは、自分がフツウだと思っていました。
そして、フツウでいることが怖かったのです。
フツウすぎて消えてしまうんじゃないかと思っていて、
自分に味付けをしたかったのです。
そういう考えなので、いまでもスタンダードではない、
安全ではない、ワクワクする方を選んで進んでいます。

ここで、自分の中の境界線、またそのぼかし方について
ボクのやり方をお教えします。

白紙に、思いつくまま「すきなもの」を書き出していきます。
おなじように、「きらいなもの」も書き出します。
書き出すと、自分が見えてきます。
そして、好きなものはすぐに出てきますが、
意外とキライなものはなかなか出てきません。

ボクのキライなものの書き出したのは、こんな感じです。

ポマード
グラッセ
早起き
ハイテンションな人
生ハムメロン
冬の寒さ
タバコ臭
過剰な香水
ブランド品ばかりの人
ネズミ
ゴキブリ
カラス
マニュアル店員
苦労
労働
ってゆーか


このような感じで、自分の願望(目標)を書いて口にすることを
アサネーションといいます。
ボクはとある人に、願望を持った段階で、50%かなっているものだと
言われて、気持ちがとても楽になりました。
ボクは中高時代、自分年表を作りました。
自分の将来計画を年表に書き出すのです。
それは理想の人生グラフです。
それを作ったことで50%が達成できていると考えると、
目標達成は、残りの50%を埋める作業ということになります。


人間は、自分の中で、勝手に境界線を引いて、
ものごとを難しくしているものであると考えます。

目標には、気付いたら近付いているものだし、
人間に急な変化はない、気付いたら変化している、
そういうものだと感じています。

ボクは理想の人やイメージのポスターを貼って、
部屋を自分の世界観にしています。
そこで、「こんなことして意味ないじゃん」という
ボーダーを引かないことが大切です。

ところで、旅行には費用がかかります。
パリコレなどに出演をするにしても、旅費は自腹です。
旅行費用はモデルのバイトで稼ぎました。
各国のモデル事務所の門戸を叩いてはバイトをしていました。
そうしているうちに香港でとある映画監督と出会い、
ボクは9年前に役者になりました。
現在、「宇宙戦艦ヤマト」の撮影中です。
そして今夜放送される「不毛地帯」にも出演しています。
9年前、このような今の自分は想像できませんでした。
仕事のない期間が長く、新聞配達なので食いつないでいました。

ボクは転職願望が強いです。
非常職ですし、いつでも転職を考えます。
でもこれまで、好きで辞められませんでした。

ボクのキーワードは「3」です。
転職したくなったとき、まず3日、
そして3週間、そして3ヵ月、3年・・・と
「3」を区切りに続けています。
そう考えながらも、役者を続けているのは、
好きだからだと思います。
ボクの線引きは結局のところ、
「好きか好きでないか」のようです。

以上75分くらいの講義でした。
残りの15分は質疑応答にあてられました。

文中の小学校のときノートは、
パワーポイントではなく、
壇上の横にあるOHPみたいなもので大写しにされました。

聞くところによると、この内容、ほとんどが「ニッポン脱出」に
載っているそうです。

ちなみに、津田塾のあるあたりは学園都市で、美大などがありました。
玉川上水沿いの小道は、黄色い落ち葉が敷き詰められたように落ちていて、
武蔵野の秋という風情。
まるで小旅行に来たような気分になって、
その上をみしみしと踏んで散策しているうちに、
すごく行き過ぎてしまいました。




kabajiji at 00:01│Comments(0)TrackBack(0)

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