関西乗車券研究会[関乗研]

切符や乗車券の研究、コレクションの紹介や活動報告のブログです

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058 名松線 全線復旧2周年 スタンプラリー

058 名松線 スタンプラリー 景品の硬券

今年、平成30年3月26日に、JR東海の名松線が復旧されてから2年が経ち、スタンプラリーが行われていて、景品が硬券きっぷらしい、という情報をいただきまして、今年4月に行ってきました。
津市のHPで見る限り、景品の硬券はちゃんとした?もののように見えますが、台紙に直接のり付けなどしていないか、一抹の不安もありました。
結論から申しますが、景品の硬券はちゃんとしたもので、(関東交通印刷製だと思います)台紙にも貼っていなく、硬券、景品として満足するものでした。まだスタンプラリーは行われているようなので、きっぷファンの皆さんにお勧めしたい景品です。(詳しくは津市のHPを参照して下さい)

名松線02
名松線03


名松線04
名松線05







名松線01



















ただ、このスタンプラリー、名松線に乗って、ただ、そこらへんのスタンプを10個押してくるともらえるものでは無く、名松線に乗って、沿線の商店等10カ所で、お金を使って、スタンプを押してもらい、それを津市に送ったら、後から、景品が送ってくるというものです。

まず、スタンプ台帳を入手して、一体どこにいけばスタンプを押してくれるのか、スタンプラリー参加店を調べないといけません。(HPにも載っていますが)その参加店にいけば、台紙はもらえます。
名松線に乗るのが原則なのですが、名松線での利用スタンプは無く、沿線の店舗ばかりです。

スタンプラリーの主旨は、名称線を利用してもらって、地元の店舗、観光施設を回って旅を楽しんでもらい、そのおまけとして、景品があるのですが、私たちコレクターにとっては主目的が硬券の景品をもらうことにあるので、誠に心苦しいといいますか、罰当たりなのですが、いかに、短時間で、経費を安く、景品が入手できるか、を考えてしまします。

最初に、名松線の終点、伊勢奥津駅前にある観光案内所兼お土産店に行ったところ、1000円以上買い物してもらったらスタンプ押しますといわれ、ショック!、一軒1000円だと10軒で1万円もかかっちゃうの?しかし、スタンプ台紙には明確なスタンプ押印基準が書いていないので、とりあえず、ここでの買い物はよして、他店へ行くことにしました。

他店といっても、全てが駅前にあるのでは無く、駅から歩いて行けるのは少しだけ、駅前の貸し自転車で行くか、土日祝運行のコミュニティバスで行くか、大変なスタンプラリーです。
スタンプを求めて10カ所以上回りましたが、やたら親切な店舗、勝手に休んでいる店舗、スタンプラリーはやめた、と勝手に脱退した店舗など、いろいろ、全体としてはグダグダ感があるスタンプラリーです。朝早く伊勢奥津駅に着かないと、一日で10カ所を回るのは難しいと思います。(ラリーの主旨が一日で早周りをするものではないので当然ですが)

何とか、10カ所押印してもらって、津市に送りましたが、これが、一向に送ってきません。主催者側がグダグダなんや、と変に納得して、2ヶ月近く経ち、そろそろ問い合わせの電話でもしようかと思っているある日、景品のきっぷが届きました。
景品は上掲のごとく、出来のよいものなので、裏面に書かれている有効期限が切れている!、ことにも文句はありません。ありがとうございました!楽しいスタンプラリーでした!

老婆心ながら、景品にはきっぷ台紙をつけるイーゼルがついてまして、おしゃれかもしれませんが飾れるようになっています。JRきっぷの赤色地紋は、紫外線、日焼けに大変弱いもので、飾っておくとすぐ退色しますので、ゆめゆめ、飾ることの無いよう、皆様に、ご注意、お願い申し上げます。
(きっぷは日光、蛍光灯などのあたらない、暗くて空気の出入りが少ないところに、大事にしまっておいて下さいませ。)





057 大阪地下鉄 梅田三駅 乗継乗車票

057 大阪地下鉄 梅田三駅 乗継乗車票

皆さんご存じと思いますが、平成30年4月1日についに民営化され、大阪市交通局は幕を閉じました。大阪市営地下鉄最後の日の乗車券を残そうと考えた時、梅田三駅で使用されています「乗継乗車票」が一番ふさわしいと考えたのは私だけではないと思います。最終日は普段より多くの発行例があったのでは無いでしょうか。

今回は、この「乗継乗車票」とはどのような経緯で設定された乗車票なのかという事を紹介したいと思います。

「乗継乗車票」は、自動改札機の導入と共に誕生したきっぷです。
昭和46年に玉出駅で初めて導入された、大阪地下鉄の自動改札機ですが、その後、全駅にわたって導入することが決定し、昭和49年5月29日の谷町線天六~都島開業時に普通きっぷを裏面に磁気情報の入った券に一斉切替、梅田三駅(梅田、東梅田、西梅田)のうち、東梅田駅に初めて自動改札機が導入されました。
梅田の三駅は、同駅扱いで三線の乗換が出来る駅に規定されていますが、構造上離れた位置にあり、乗換には一旦改札口を出る必要があるということを覚えておいて下さい。

例えば、東梅田のとなりの駅、中崎町から東梅田・西梅田を経由して肥後橋までゆく場合、中崎町から1区のきっぷを買って乗車、東梅田の乗り換え時に、自動改札機にきっぷを投入すると、中崎町⇒東梅田も1区、中崎町⇒肥後橋も1区なので、改札機は乗車が終了したとして、きっぷを回収してしまいます。また、2区以上のきっぷであっても回収してしまう、というのが当時の自動改札機の機能でした。
地下鉄側ではこのため、東梅田から先に乗車しようとする旅客は、きっぷを自動改札機に投入しないで、有人改札口からきっぷを係員に見せて通って欲しいと案内しましたが、間違って、自動改札機に投入してしまい、まだ先に乗車するつもりなのに、きっぷが無くなってしまった!という旅客の継続乗車のために設定されたのが、この「乗継乗車票」です。

きっぷが間違って無くなってしまった、という旅客の代わりのきっぷ、扱いですから、「乗継乗車票」は、「票」扱いで「券」ではなく、乗車券番号もなく、料金収受欄も無く、報告片もないという、きっぷであって、きっぷでないという特殊扱いです。(大阪の地下鉄は、軌道法下にあり乗車券の扱いも鉄道法下よりも緩やかなため、このような扱いが可能だと考えられます。東京の地下鉄は鉄道法下ですので、似たような扱いでも乗車券による発行し直しとなりました。)

この最初に設定された大阪地下鉄の「乗継乗車票」はこのような様式でした。
(地模様無し、白券、原寸88㎜×63㎜)
この時は、自動改札時は東梅田駅にしか無く、きっぷが改札機に誤投入されるのは、東梅田乗換時だけです。したがって、きっぷの左側に東梅田へ来るであろう可能性の駅名が並んでいて、発駅をチェック、まん中に東梅田の乗換印、そして、矢印があって、着駅は全乗車区間の区数を記入する様式でした。

地下鉄乗り継ぎ01のコピー

この時、梅田、西梅田駅には自動改札機は無いので、誤投入は発生しません、もし梅田まで不足額のきっぷを持って他線に乗継ぎたい場合は、有人精算口(当時はありました)で不足額を払って、レジスターのレシート(精算出場券)に最終目的までの駅名をゴム印で押してもらって、これが、前途用のきっぷとなりました。

昭和51年に、(正確な日付は調査中です)西梅田駅にも自動改札機が導入、西梅田駅でもきっぷの誤投入が発生することとなりました。この時、東梅田駅と共通使用できる様式に変更。掲載のように、大型となり(原寸128㎜×92㎜)地下鉄路線図が描かれる様式となりました。
この券、一見すると、路線図から御堂筋線の梅田以北の区間が描かれていない事がわかります。路線図の方に発駅チェックするため、東梅田、西梅田駅では、梅田以北から来る旅客はありえないので、路線図がありません。

地下鉄乗り継ぎ02

その後、守口延長後の昭和53年11月に初めて梅田駅にも自動改札機が導入、梅田駅にも設備が必要となり、三駅共通、路線図全駅掲載の現在の券の基本形となりました。

地下鉄乗り継ぎ03

その後、路線の延長と共に少しずつ様式が変化し、平成2年7月1日から、「おおさかしこうつうきょく おおさかちかてつ」地模様橙色券に変更されました。地模様が入って、きっぷらしい立派なものとなり、当時嬉しく思いました。地模様が入った理由は、コピー偽造防止でしょうか?正確なことはわかりません。

地下鉄乗り継ぎ04

その後、また延長等による様式変化があり、平成17年7月1日から、乗継ぎ30分間制限がおこなわれ、左上に乗継ぎ時間を刻印することになりました。それまでは、乗継ぎは当日有効でしたので、梅田で乗り継ぎの際に百貨店に行ったり、時間をつぶしてもOKで、便利なものでしたが、乗継票一枚での往復乗車的使用が目立ったための措置だといわれています。

地下鉄乗り継ぎ05

また、自動改札機自体の機能の向上も行われ、前途まで買っていれば回収しない改札機や、同額運賃でも回収しない乗継用自動改札機も導入、きっぷの誤投入、誤回収は激減したと思われ、自動精算機にも乗継券発行機能がつくなどして、この手書きの「乗継乗車票」の使用も減っていると思われます。

さて、大阪市営最後の「乗継乗車票」が掲載の券です。我々、コレクターだけが騒いでいるのですが、実はミス印刷券で、よく見ると、谷町線の天満橋と谷町九丁目の間の路線図(黒線)が欠落しており、
天満橋~谷町九丁目は廃止されたのか!と言いたくなる券です。
交通局では、気づいていないのか?利用上たいした問題でも無いし印刷代ももったいないとおもったのか?、わかりませんが、そのまま最終日まで使い続けました。

地下鉄乗り継ぎ06

平成30年4月1日、民営化初日、梅田三駅の「乗継乗車票」は大阪市高速電気軌道(株)表記の新券に切り替わりました。地模様が大阪市電気局マークに変更になり、上記の谷町線ミスも修正、路線図が見やすい券にかわりました。正確には確認していませんが、誕生からこれが20種類目くらいの券になると思います。

地下鉄乗り継ぎ07

今後も、大阪の地下鉄のきっぷで一番おすすめする現行使用券として、末永く使用し続けて欲しいと思っています。
なお、一番おすすめと言いながら、じゃあ、どうやってふつうに入手すればよいのか、という解説は全く書いていないのが心苦しいのですが、その辺のところは各自で考えてお願いしたい、くらいしかネットでは書かない方が良いという思いです。

最後までお読みいただきましてありがとうございました。加田芳英(平成30年4月3日)

056 角田炭鉱(株)経営の、新二岐炭鉱 5円電車

皆様、ご無沙汰しております。しばらく、ブログの更新をお休みしておりましたが、再開しました。短い文章で、月2~3回くらいの更新の予定です。おつきあいいただきまして、ありがとうございす。    
加田芳英



056 角田炭鉱(株) 新二岐炭鉱 5円電車

 北海道、夕張鉄道の新二岐(しんふたまた)駅から、角田(かくた)炭鉱までの間に敷設されたのが、北海道炭礦汽船(株)角田炭鉱専用鉄道です。開業は昭和9年4月(日付不明)で、戦後、昭和25年に電化されて、旭川市街軌道(株)のちんちん電車を2両譲り受けて、坑員、家族輸送を行いました。
 正式な旅客営業では無いため、市販の時刻表には掲載されず、不明な部分が多い電車です。
北炭角田炭鉱は、戦後、合理化で昭和29年4月1日付けで直営としては廃鉱になり、子会社が経営することとなり、昭和29年7月20日に角田炭鉱(株)が設立、同年8月2日から同社の経営に変わりました。このとき、社名は角田炭鉱(株)ですが、炭鉱名は「新二岐炭鉱」という名前に変わり新スタートしました。
電車は、夕張鉄道の新二岐駅から新二岐炭鉱までの5キロ弱を結び、運賃は、末期は片道5円でした。

 不明な部分が多い専用線です。5円電車は、たまに写真を見かけますが、肝心の炭運列車の写真は見たことがありません。旅客を運ぶ電車は、昭和40年6月18日が最終運行日で、翌日から夕張鉄道(株)バスが同区間の旅客輸送を担当したとされます。炭運列車は電気機関車だったのでしょうか?ディーゼル機関車でしょうか?
 旅客電車が走らなくなって、5年後の昭和45年4月(日付不明)に専用鉄道自体が廃止され、撤去されました。

 また、「角田炭鉱5円電車」という名前が現在広く使われていますが、電車の車体にも大きく「新二岐炭鉱」と書かれ、乗車券にも「新二岐炭鉱」と書かれていますので、角田炭鉱(株)が経営する、「新二岐炭鉱5円電車」と呼んであげた方が良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

 ちなみに、角田(kakuta)の由来は、この地方を開墾した仙台藩士の出身地が、宮城県の角田(kakuda)だったからだそうです。ネットの検索でも、角田炭鉱、または、栗山炭鉱はすぐ出てきますが、新二岐炭鉱という名前はなかなか出てきません。

 最後に乗車券です。正式な旅客営業では無いため、乗車券では無く、「整理券」というタイトルの小型軟券で金額もありません。裏面には、事故が起きても知らない旨の明記があります。白い券と桃色の券を見たことがありますが、どのような使い分けか不明です。

新二股01
新二股02


055 大阪市営 無軌条電車

大阪市営トロリーバス

 トロリーバスとは、架線から電気を受けて走る電気バスです。戦前に兵庫県の川西、都市では京都市営で走り始め、東京大阪などの大都市に路面電車を補完する役目で走っていましたが、路面電車が撤去されていくのと同じく、架線の下しか走れない機動性の無さや、車両、施設がコスト高という理由で都市交通からは閉め出され、昭和47年の横浜市営トロバスの廃止を最後に都市のトロリーバスは全滅しました。
 現在、日本のトロリーバスは、黒部、立山アルペンルート内の、関西電力(株)が経営するものと、立山黒部貫光(株)の2カ所が存在します。両方とも、自社の専用トンネル内を走行するため、排気ガスの問題を克服するためにトロリーバスとなっていますが、関西電力の扇沢~黒部ダムのトロバスは、来年の営業をもって廃止されることになりました。
 関電のトロバスは、お客がいなくなったのでやめてしまうのでは無く、設備の交換時期にあたり、蓄電池バスに転換して、コスト減を図るという発展的解消です。

 トロリーバスは漢字で表記すると、無軌条電車、無軌道電車といい、法規上は鉄道(特殊鉄道)として扱われるため、乗合自動車=バスよりも厳しい監督を受けます。
 
 関電トロバスは、蓄電池の小型化や性能が良くなり、2019年春の蓄電池バス化で、法律上は、鉄道ではなくなるのか、そのままの法規で行くのか、正確なところは不明ですが、乗合自動車の範疇に移るのであれば、事務手続きの簡略化などができると思われます。

 前置きが長くなりましたが、大阪市営のトロリーバスは、昭和28年に大阪駅前~神崎橋で走り始め、その後、最盛期には8系統、38キロ弱の路線を有しました。

大阪トロバス01










 大阪市営のトロリーバスは深い緑色の車体でした。

 筆者が子供の頃、阪急電車に乗ると、中津あたりで、大阪市営のトロバスと、阪神の北大阪線電車が見られるので、窓側にへばりついていた記憶があります。
 路面電車が地下鉄へと転換していくと、トロバスも孤立的存在となり、結局、全線廃止へと向かい、大阪市営のトロリーバスは昭和45年6月14日限りで廃止されました。

大阪トロバス02      大阪トロバス03

左は昭和33年の通学定期券、後に横型となります。
右は昭和40年の回数乗車券の表紙部分。回数券は昭和41年から電車、市バス共通券となる。






054 日東航空 定期乗合飛行艇・ヘリコプター

日東航空株式会社 

 飛行艇とは飛行機としての機能に、海上にも着陸(水)できる機能をつけたもので、日本のような島国には適していると言えます。戦前から開発がおこなわれ、世界でもトップレベルの技術を持つ飛行艇を製造できるまでになりましたが、当然軍事優先でした。
 この飛行艇を、民間旅客航空路に使用できないか、という試みは戦前からありましたが、戦争で影を潜めました。戦後、昭和27年に、大阪の日本観光飛行協会によって計画が再開され、昭和30年1月1日に大阪~白浜間で、民間旅客定期航空路としてスタートしました。
 飛行艇は、海上に着水するため、飛行場設備の無いところでも発着することができ、飛行場施設が不要という大きな利点があります。(ただし、海上の飛行機までの船、はしけ=艀は必要です。)欠点は、天候に左右されやすく、波の状態によって発着ができない、ということでした。
 日本観光飛行協会は、昭和33年に日東航空(株)に社名を変更して、本格的に民間航空業界に参入、その後、昭和39年に富士航空、北日本航空と3社合併し、日本国内航空(株)に、昭和46年に東亜航空と合併して東亜国内航空(株)と、発展していきました。

日東航空01日東航空02




























 掲載は、日東航空の飛行艇の搭乗券ではありませんが、手荷物の預かり証です。飛行艇が描かれており、グラマン社製マラード、15人乗りだと思われます。裏面には当時の飛行艇による航路が描かれており、昭和35~36年頃のものです。

 もう一枚は、ヘリコプターの搭乗記念航空券です。
日東航空は、飛行艇より進んだ、ヘリコプターによる旅客定期航空路も計画し、昭和36年にシコルスキー社製のジェットヘリコプターS62、12人乗りを初めて輸入、昭和37年に八尾空港で有料の体験飛行を行いました。

日東航空03










 ヘリコプターによる旅客定期輸送は、当時日本に無く、運輸省も扱いに困惑しているうちに、日東航空も会社合併へと動き、ヘリコプターによる定期航空路は開設されませんでした。
 
 その後、いくつかの定期ヘリコプター航路が開設されましたが、長続きせず、現在は、東京と八丈島、伊豆大島などを結ぶ、東邦航空(株)による定期乗合ヘリコプターがあります。
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