ブログ用に縦書きのHTMLソースを自動生成するサイト「縦書きたい」のプログラムを改良し、縦書き用のタグ等を含むソースの文字量を(内容や長さによって大きく異なるのですが)だいたい3分の1程度になるように変更しました。各ブログはどこも一記事当たりの文字数に制限がありますが、今回の改良によって、より長い文章を縦書きにできるようになったはずです。と言っても、やはり限度があって、普通に横書きする場合からすれば、恐ろしく短い量ではあるのですが…。
以下は、各ブログでどの程度の長さの文章が挿入可能かを調べるテストです。
(ここまで約二八〇文字です)
※なお、改良版「縦書きたい」では、従来の太字、ルビに加えて、部分文字列に対する文字色の指定や、リンクの設定なども可能にしましたが、これをやると、ソースの文字量はグンと増えてしまうので、要注意です。
(ここまで原稿用紙1枚分)
■大昔に書いた小説の出だし部分
窓を開けるとバス会社の車庫があった。二階の窓の下には、申し訳程度に五〇センチ足らずの空間があるだけで、塀のすぐ向こうは車庫の敷地になっていた。手を伸ばせば届きそうな近くに、何台ものバスが並んでいた。まだ子供だったときのように、それは少しだけ胸のときめく眺めだった。
引っ越しは二月の半ばだったから、朝はまだ暗い時間から始発バスの暖気運転の音が響いた。いくつかの白色灯がともり、冬の朝の暗い冷たい空気の底に、さかんに白い湯気が上っていた。
はじめの朝はさすがに目が覚めたが、もちろん引っ越し前から分かっていたことだったし、どうせすぐに慣れるとタカをくくってもいた。たとえば、ヨウスケの最初の部屋は西武線のすぐ脇にあり、窓越しに乗客と挨拶が交わせるぐらいだったが、三回目に泊まった
(ここまで原稿用紙2枚分)
朝からはまったく気にもならなかった。人は多少のことには慣れることができるのだ。
部屋は四畳半に小さな台所とガスコンロがついていた。ヨウスケから譲ってもらった木製のベッドと、二個のスチール本棚、それに何個かのカラーボックスを重ねると、もうたいしたスペースもなかったが、ぼくはけっこう気に入っていた。前の部屋も四畳半だったが、台所はなかったし、それに家主夫婦が一階に住んでいるのがどうにも気重だった。誰かからの電話のたびに家主のおばさんに呼び出されるのもいやだった。夜中の九時をすぎると、不機嫌な様子が露骨だった。
確かにその分家賃は安かった。上京したときには、まずそれが一番で、そのほかは我慢すればいいと思っていたのだ。新しい部屋の家賃はその倍近かったが、この春からは奨学金がもらえることになっていたし、東京でバイトを探すことにも慣れたので、何とかはな
(ここまで原稿用紙3枚分)
りそうだった。それよりも何よりも、ぼくはぼくの生活を変えたくてしかたがなかった。
一九八一年の冬。ぼくはいつの間にか二〇歳になっていた。
駅は中央線の武蔵境だった。ひとつ手前の三鷹を過ぎると、とたんに郊外という雰囲気になった。アパートの近くにはまだ畑地がだいぶ残っていたし、とれた野菜の無人販売所が道端に無造作にたっていたりもした。細い路地がいくつもあり、通りに沿って植木鉢がきちんと並べられた家々もあった。
駅までは歩くと十五分はかかったので、中古の自転車を買った。中央線に沿って国分寺の方へ走ると、のどかな郊外の風景が続いた。雑多な商店が並ぶあちこちの通りも好ましかった。何というか、人の生きている姿の輪郭が見える風景だった。そういう風景の中に自分を置いてみると、ぼくはぼくにとっての東京というものを測れるような気がした。
(ここまで原稿用紙4枚分)
以下は、各ブログでどの程度の長さの文章が挿入可能かを調べるテストです。
(ここまで約二八〇文字です)
※なお、改良版「縦書きたい」では、従来の太字、ルビに加えて、部分文字列に対する文字色の指定や、リンクの設定なども可能にしましたが、これをやると、ソースの文字量はグンと増えてしまうので、要注意です。
(ここまで原稿用紙1枚分)
■大昔に書いた小説の出だし部分
窓を開けるとバス会社の車庫があった。二階の窓の下には、申し訳程度に五〇センチ足らずの空間があるだけで、塀のすぐ向こうは車庫の敷地になっていた。手を伸ばせば届きそうな近くに、何台ものバスが並んでいた。まだ子供だったときのように、それは少しだけ胸のときめく眺めだった。
引っ越しは二月の半ばだったから、朝はまだ暗い時間から始発バスの暖気運転の音が響いた。いくつかの白色灯がともり、冬の朝の暗い冷たい空気の底に、さかんに白い湯気が上っていた。
はじめの朝はさすがに目が覚めたが、もちろん引っ越し前から分かっていたことだったし、どうせすぐに慣れるとタカをくくってもいた。たとえば、ヨウスケの最初の部屋は西武線のすぐ脇にあり、窓越しに乗客と挨拶が交わせるぐらいだったが、三回目に泊まった
(ここまで原稿用紙2枚分)
朝からはまったく気にもならなかった。人は多少のことには慣れることができるのだ。
部屋は四畳半に小さな台所とガスコンロがついていた。ヨウスケから譲ってもらった木製のベッドと、二個のスチール本棚、それに何個かのカラーボックスを重ねると、もうたいしたスペースもなかったが、ぼくはけっこう気に入っていた。前の部屋も四畳半だったが、台所はなかったし、それに家主夫婦が一階に住んでいるのがどうにも気重だった。誰かからの電話のたびに家主のおばさんに呼び出されるのもいやだった。夜中の九時をすぎると、不機嫌な様子が露骨だった。
確かにその分家賃は安かった。上京したときには、まずそれが一番で、そのほかは我慢すればいいと思っていたのだ。新しい部屋の家賃はその倍近かったが、この春からは奨学金がもらえることになっていたし、東京でバイトを探すことにも慣れたので、何とかはな
(ここまで原稿用紙3枚分)
りそうだった。それよりも何よりも、ぼくはぼくの生活を変えたくてしかたがなかった。
一九八一年の冬。ぼくはいつの間にか二〇歳になっていた。
駅は中央線の武蔵境だった。ひとつ手前の三鷹を過ぎると、とたんに郊外という雰囲気になった。アパートの近くにはまだ畑地がだいぶ残っていたし、とれた野菜の無人販売所が道端に無造作にたっていたりもした。細い路地がいくつもあり、通りに沿って植木鉢がきちんと並べられた家々もあった。
駅までは歩くと十五分はかかったので、中古の自転車を買った。中央線に沿って国分寺の方へ走ると、のどかな郊外の風景が続いた。雑多な商店が並ぶあちこちの通りも好ましかった。何というか、人の生きている姿の輪郭が見える風景だった。そういう風景の中に自分を置いてみると、ぼくはぼくにとっての東京というものを測れるような気がした。
(ここまで原稿用紙4枚分)









