Fate/hollow ataraxia公式サイト  TYPE-MOON「Fate/hollow ataraxia 初回版」(amazon






「私が死んでも、代わりはいるもの」


(綾波レイ)






今年最大の大作ソフト「Fate/hollow ataraxia」が発売されて一週間――





各地で評判も出揃いましたが、私のみたところ皆、戸惑っておられる。





この戸惑いの原因は明らかです。本作は本筋の物語自体がメタ・レベルに


おける虚構批判(物語批判)として機能している作品であり、物語論としての


エポックメーキングなアニメ作品「エヴァゲリオン」をより洗練させる(現実を


意識させる要素を出さずに現実―虚構関係を批判する)ような手法で、


虚構性の批判――即ち、”現実に帰れ!”をテーマとして打ち出している。


これは物語に惑溺したいエロゲーマーにとっては、耳の痛い話であり、本作


においては本筋の物語のカタルシスとともに、物語のメタ・レベルにおいて、


アンチ・カタルシスが湧きあがることから、全体として分裂したメッセージが現れる。





これが、多くのプレイヤーが本作の戸惑った原因であることは明らかでしょう。





なぜ戸惑うのか。それはメタ・レベルのメッセージが、エヴァンゲリオン映画版の


ように直接的に提示されるのではなく、最後まで、隠された形で、暗黙のメッセージ


として機能し続けるからです。メッセージそのものが空虚であり、空虚は否定性と


してしか示すことはできない。然し、その否定性自体が、示されることはない。


それは示されるのではなく、現れている――これを見ぬくには物語の構造全体をメタ的


に俯瞰することが必要であり、それができなければ永遠にモヤモヤし続けるだけでしょう。


単純なメタ・レベルの示唆だけを見るだけでは、決して紐解くことができない、メタ・レベル


とオブジェクト・レベルの内容の直接性としてのメッセージを読み解かねばならない。






メタジャンル的な試みは、過去の作品の執拗な引用・パロディというかたちで、


閉鎖した「アニメ界」にはむしろ溢れている。にもかかわらず、『エヴァンゲリオン』


が優れていたのは、この作品が、その表現上のずれを作品の内容的な水準へ


反映させる物語構造の設定に成功していたからである。例えば第拾八話(トウジ


へのエヴァ攻撃)や第弐拾弐話(アスカへの使徒侵入)の印象は、シリーズ前半の


「学園コミカルドラマ」的(パロディ的)なトウジやアスカの存在によってむしろ増幅


されている。つまりそこでは、作品に対してメタレヴェルにあるはずの表現のずれが、


オブジェクトレヴェルの内容を直接に支えているのだ。この種のねじれた構造を


採用した作品こそ本当のメタフィクションだとするならば、『エヴァンゲリオン』は


きわめて良質なメタフィクションだと言ってもよい。


(東浩紀「郵便的不安たち#」)






上記引用で述べられていることは、Fate/hollow ataraxiaにも確実に当て嵌まります。


Fate/hollow ataraxiaの構成自体が、ねじれた構造の中にある虚構性=物語性の批判、


思いきり簡単に云えばエロゲ批判として機能するように組み建てられている。


それはあたかもエヴァンゲリオンがメタ・レベルにおけるアニメ批判を強めていったように。





回りくどく云うのは私の性にはあわないのでストレートに云いましょう。


本作は、楽しい日々が続くことを願った観察者=主人公に憑りついた悪魔アンリマユ


が日々を延々とループさせますが、これは明らかにプレイヤーのモティーフです。


メタレベルにおいてアンリマユ=プレイヤーの重ね合わせが行なわれているのは


火を見るよりも明らかです。アンリマユのパートナー(マスター)である魔術師バゼットは


極めて空虚で物理的強さはともかく精神的には頼りない人物として描かれますが、


彼女はアンリマユの”部分”です。そしてそれはアンリマユは彼女の部分であることを示す。


アンリマユが彼女の左腕であることを見れば明らかです。アンリマユ=バゼット


であり、プレイヤー=アンリマユ=バゼットの重ね合わせであるのです。


アンリマユがバゼットを大切にするのは、彼女が、自分自身のような存在であるからです。


そんなアンリマユと恋人になり、そして瀕死だったバゼットの身体を癒すカレンの


キャラクター性は明らかに普遍的なエロゲヒロインの象徴性としての意味合いを


付加されています。普遍的なエロゲヒロインの象徴性とは何か。





それは”プレイヤーへの絶対の献身”です。カレンは周囲の”醜い欲望”(作中で


醜い欲望として指示されているのは明らかに性的欲望)に身体が自動的に反応し


(つまり相手が発情すれば自動的に発情する)相手の欲望のはけ口として機能


するようになっている。明らかに普遍的なエロゲヒロインの象徴であり、そして


彼女の存在自体がエロゲーマーに対する原罪として機能する。カレンは外界


(=現実世界)に犯される為だけの存在であり、犯すのは当然現実世界からの


観察者=プレイヤー=アンリマユです。彼女は犯されることで機能を失う。


彼女の身体の臓腑は機能を果たさなくなってゆき、彼女の目はもう何も見えない。


当たり前です。なぜなら、現実世界のプレイヤーは、ヒロインを犯した後(攻略した後)


は、別のヒロインに移って、犯した彼女をHDDの中に放置=機能停止させるからです。


カレンは普遍的な”攻略される前/攻略された後”をその身で示すヒロインなのです。





私のようなひねくれたプレイヤーだと、寧ろこのねじれが美味しく感じるんですが…。


メタレベルまで読み解かずにただ感覚的にこの物語を受け入れれば戸惑うのは


当然でしょう。なぜなら、ここには無言の、隠された、エロゲーマーへの告発がある。





Fate/hollow ataraxiaのアンリマユ、バゼット、カレン、この三人をメタレベルとして


読み解けば、後は非常に分かりやすい構造です。アンリマユが虚無=虚構、非時間性


としての終わらない日々=エロゲプレイ中(笑)を示しているとすれば、バゼットは


実在=現実、流れて行く時間性を示している。バゼットは現実に帰ることを拒否し、


永遠に非時間性の世界――エロゲ世界にいることを望みますが、それをバゼットと


同にして非なるもの――バゼットの半身たる純粋なエロゲプレイヤー的価値観の


象徴であるアンリマユは拒否し、エロゲヒロインたるカレンに導かれて、無へと至り、


バゼットを現実世界へ返すのです。いやあ…なんというか…。物凄い嫌味で…。





正直云って、嫌味が効き過ぎてラストではゲラゲラ笑っちゃいましたよ。アンリマユは私に


とって物凄く共感できる奴でしたが、当たり前です。彼は”エロゲーマーの仮象”ですから、


私のような生粋のエロゲーマーの価値観を共有するタイプの存在として描かれている。





メタ・レベルのメッセージを読み解けば、”エロゲは無!!””現実に帰れ、帰れよう!!”


といったメッセージをシャウトしている作品で、いや、この作品もエロゲなんだがなあと


思わずツッコミを入れずにはいられない。それと、エロゲは本当にFate/hollow ataraxia


が云うように”無”なんですかね…私はそこが誤りだと思う。有無の二元論に嵌っている。





Fate/hollow ataraxiaでは、現実世界=有、エロゲ世界=無としての意味を置いていますが、


無なんてないんですよ。無というのは、善悪二元論で、悪の否定性を示す為に無いことに


悪の属性を付けたんですが、我々の世界は全て有で構成されていて、無なんてどこにもない。


敢えて云えば、”無”という概念はありますが、それを有るものに付与するのは誤りです。


エロゲ世界は明らかに”有るもの”なんですよ。それは、”有る”訳ですね、実際の実在


として、一つの創造活動から生み出された物質とそれを鑑賞するプレイヤーとしてそこに


有る訳ですね。本作では神の空虚とエロゲの空虚が同一視されていますが、神の空虚


(否定神学)とエロゲの空虚は明らかに違うものであることにもっと留意すべきではないかと。


神の空虚は人間では図れないものを、人間が図ろうとすることを防ぐ為に、否定として


存在するのですが、エロゲの空虚は、別に空虚ではない。それは概念であり想念です。


創造されたアイドル(偶像)との生活を”今、ここ”として想念する世界――それが


エロゲ世界だとするならば、それは”今、ここ”であるがゆえに、それ自体が実在なんですよ。


実在は物質性には囚われません。私達は有の存在として想念の存在を生み出すことが


出来て、それが”今、ここ”として有るのならば、それは私達の実在として存在する。


神の空虚に問題があるのは、来世――”いつか、どこかで”を理想化して、”いつか、どこかで”


(可能性)の為に”今、ここ”(実在)を蔑ろにすること――それこそが、生(実在)を蔑ろに


する行為として戒められるべきであって、その為に否定神学は存在する。





然し、エロゲ世界は”今、ここ”の世界であり、実在としての世界です。


それを神学的虚無と混同して批判した挙句、”現実へ帰れ!”というのは、


カテゴリーミスだと私はどう考えても思いますね…。





Fate/hollow ataraxiaは優れた、挑戦的な作品です。凡佰のエロゲが束になっても


叶わない本気のエロゲ批判=エロゲ批評、自らを解体するメタフィクションとしての


エロゲとして創造された、挑戦的な作品であり、個々のクオリティやその挑戦する


ドラスティックな姿勢は大いに買うのですが――それでも、凡庸であることから、


逃れられていない…。大いなる凡庸としか云いようのない、現実―虚構の二元論


に嵌ってそこから逃れられず、それを無批判に継承して現実讃歌を歌ってしまっている。





もし、本気でメタレベルに挑戦するならば、既成概念を疑い、徹底的に思考を


詰めてゆかねば。現実とは何か、虚構とは何か、存在とは何か、無とは何かを、


徹底的に思考してゆかねば。その思考がFate/hollow ataraxiaはできなかった。


既存の枠組(現実―虚構の二元論)に甘えてしまった。それが凡庸を生み出した。





Fate/hollow ataraxiaは優れた作品です。メタフィクションとして極めて優れている。


然し、そのメタレベルを支えるメタレベルが、あまりに凡庸だ。





Fate/hollow ataraxiaは大いなる挑戦作であり、そして大いなる失敗作――


尖鋭を目指し、月を目指しながら、凡庸なる市井に堕天した作と云えると思います。





もし、アンリマユのことを、もっと調べ、それに敬意を払っていれば、こうは


ならなかったかなと思います。アンリマユは、二元的には捉えられない。


それは、自由の条件として、選択の結果、生じる有としての悪神なのですよ…。


アフラ・マズダが生んだ双子の霊、それがスプンタ・マンユ(善霊)とアンリマユ


(悪霊)であり、アフラ・マズダはそれら双子の矛盾を超越している存在なのですから。





ゾロアスター教の名誉の為に語るならば、Fate/hollow ataraxiaで語られる


ようなアンリマユの創造は決してゾロアスター教において行なわれなかった。


ゾロアスター教は自由意志を最高に貴ぶ宗教であり、人間は自由であり、


善を選ぶのも、悪を選ぶのも、その人間の自由意志であると考える。


Fate/hollow ataraxiaでアンリマユを生み出す契機として語られるシャーリー・ジャクソン


の「くじ」みたいなことをやったのはFateの土台にして根幹たるキリスト教の方ですよ。


異端審問、魔女狩りですね。ゾロアスターはそういった馬鹿げたことを否定した宗教、


人間の自由意志が善悪を選んで行くと認めた、極めて自由精神を貴ぶ宗教ですよ。


私は別にゾロアスター教徒ではないけれど、Fate/hollow ataraxiaによって


ゾロアスター教をおかしな勘違いされたら、嫌だなと思いますね…。


ニーチェがツァラトゥストラを書いたのは、ゾロアスター教の先見性


(自由精神を貴ぶ姿勢)に感銘を受けたからだと云われています。


私も、自由精神を貴ぶ姿勢に共感するし、それは異端者を狩り立てる


贄の宗教とは全く違うものですよ。それは、ちゃんと皆さんに分って欲しいな…。






ザラスシュトラ(ツァラトゥストラ)は、新しい宗教(ゾロアスター教)の啓示を


アフラ・マズダから直接に受けた。それを受け入れることによって、彼は主の


原初的行為――善の選択(『ヤスナ』32・2参照)――を模倣したのであって、


信者に対してもほかのことは要求していない。………





人はアフラ・マズダの例に倣うように勧められるが、(善行が推奨されるが)


選択は人の自由である。(ゾロアスター教は悪に降る自由すら認められている)


人は神の奴隷であるとか、下僕であるとか感じることはない。


たとえば、ヤハウェの信者が感じるようには。………





有名な『ガーサー』の伝えるところでは、(アフラ・マズダに生み出された)


始源時にこれらニ霊(善霊スプンタ・マンユ、悪霊アンリ・マンユ)は選択をし、


一方は善と生命を、他方は悪と死を選んだのだという。………





このことは、二霊――聖なる霊と邪悪な霊――が本性ではなく、


選択によって異なっていることを示している。ザラスシュトラの神学は、


アフラ・マズダが「反-神」と対決していない以上、厳密な意味では


二元論ではない。対立は、始源の時に二霊のあいだで始まるのである。


他方、アフラ・マズダと善霊(スプンタ・マンユ)が一体であることは何度も


言及されている。(『ヤスナ』43・2等を参照)要するに、善と悪も、聖なる者


も破壊的悪魔も、ともにアフラ・マズダから生じたのであるが、アンリ・マンユ


は自らの意志によってそのあり方と悪しき職務を選んだために、最勝者


(アフラ・マズダ)は悪の出現に責任があるとは考えられていない。


然し、全智であるアフラ・マズダは、(自らが善を選んだ霊とともに生み出した)


悪霊が、どのような選択をするか始めから知っていたはずだが、


それ(アンリ・マンユの選択)をやめさせようとはしなかった。





これは、神があらゆる種類の矛盾を超越していること、悪の存在が


人間の自由意志の必須条件をなしていることを示しているのかもしれない。


(ミルチャ・エリアーデ「世界宗教史 第2巻」)






もし、Fate/hollow ataraxiaがキリスト教ではなく、ちゃんとしたゾロアスター教


に則って、自由意志や有を示す作品に仕上がれば、本当に素晴らしい作に


なったかもしれない。それは、Fate/hollow ataraxiaを単なるエヴァ的な


ジャンル批判としてのメタフィクションを超えた作品として仕上げたかもしれない。






最終話で挿入された別の『エヴァンゲリオン』世界シーン――そこではエヴァは


存在せず、シンジ達は幸福な学園生活を送っている――は作品自体を


メタフィクション化する同時に、一部ファン達の欲望を嘲笑した明確なジャンル


批判だった。………『エヴァンゲリオン』に関して、学園コミカルドラマ風の


SS(二次創作サイドストーリー)が放映中から大量に出回っていた。


無論それはアニメファンの欲望を如実にあらわしている。


(東浩紀「郵便的不安たち#」)






Fate/hollow ataraxiaの最大の問題は、上記引用でエヴァがやっていること


に終始していることであり、ただジャンル批判(エロゲ批判)して嘲笑するだけ


なら物語のメタ構成技術があれば誰だってできるんですよ。やるべきことは、


なぜ批判するのか、なぜ嘲笑するのか、そういったことを徹底的に思考し


詰めてゆくことで、批判や嘲笑を超えた新しい枠組を生み出すことなのですが…





Fate/hollow ataraxiaはそれができなかった。批判と嘲笑に終始してしまった。


それは、メタフィクションとしては極めて優れているが、それでも”自らへの問題意識”


を持たないがゆえに、既存の枠組にそのまま乗るがゆえに、例えようもなく凡庸だ。





優れた、とても優れたメタフィクション。凡庸な、とても凡庸な諷刺作品。


可能性は感じられるのに、それは凡庸のなかに沈んだ――。





私はFate/hollow ataraxiaの”今、ここ”を惜しむ――。





参考作品(amazon)


TYPE-MOON「Fate/hollow ataraxia 初回版」


TYPE-MOON「Fate/stay night」


東浩紀「郵便的不安たち#」


ミルチャ・エリアーデ「世界宗教史 第2巻」


ミルチャ・エリアーデ「象徴と芸術の宗教学」


フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 上巻」


フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 下巻」