村田京子「娼婦の肖像」






ほしみんの日記さん「アグレッシブなエロゲーだな」


http://d.hatena.ne.jp/hoshimin/20070816/1187283427


[voice]の「フランス映画じゃ分からない、フランス男の女性観」あたりが耳に痛い。


よその国の話ですが、普遍的な話に感じます。男は女が勝手な(男から見て)こと


するの、すごく嫌ですもの。周囲を眺めているだけで、いくらでも実例をみることができます。


[voice]


http://www.fou.com/slash/voice/v38/v020617.htm


「フランスの男性はセックス好きの女性のことを娼婦と同じような目で見るのです」






フランスの娼婦の話題が出ているので、ちょっとこの辺の話題をすると、


私が仏文学や娼婦関連の文献とかで読んだ限りでは、仏文芸畑では


「娼婦」の位置付けが、深く敬愛なる憧憬としても存在するようです。





あくまで仏文学の話なんで、現実をどのくらい反映しているかは不明ですが、


フランス文学では、クルチザンヌ(高級娼婦)と、プロスティチュエ(下級娼婦)


がかなりはっきりと区別されていて、クルチザンヌは尊敬と憧憬の対象なんですね。


だから、フランスで「フランスの男性はセックス好きの女性のことを娼婦と


同じような目で見るのです」と、引用先の文章に出ていますが、これも、


男好きの女性を娼婦に(文学の中において)例えるとき、二通りの意味がある。


それがプロスティチュエとしての娼婦なら、金目当ての娼婦として蔑まれる


意味合いを持ちますが、クルチザンヌとしての娼婦でしたら、それは非常に


優れた高貴なる女性が、大勢の男性と関係を持って、その高貴さを分かち与えている


という、ある種の敬愛の念を含んだ意味合いになり、一概に蔑視とは云えないようです。





例えば文豪バルザックの小説において、女性をプロスティチュエ(下級娼婦)と


呼ぶのは蔑みの意味を持ちますが、女性をクルチザンヌ(高級娼婦)と呼ぶのは


敬愛と憧憬を意味します。この辺はフランス文学の面白いところで、娼婦が


二種類に分かれており、一方は尊敬の対象、もう一方は軽蔑の対象なんですね。


本人の品格が低く、金目当ての娼婦はプロスティチュエとして蔑まれるようです。


逆に、本人の品格が高く(高貴)、見所のある男性、上流階級の優れた男性を相手にし


(男選びが上手く、下種な男は相手にしない)、力(権力や政治力、貴族の血筋)を持っている


娼婦は、クルチザンヌとして、尊敬と憧憬、敬愛の対象となり、市井の力なき者(庶民)にとっては、


畏れの念を持たれることもあるようです。娼婦にして高貴なる女王みたいな感じです。





この文化は、近代・現代においては、フランス文学者達の手により、例え、貧乏で力が無くても、


高貴な優れた女性であれば、彼女がプロスティチュエ的な立場(下級娼婦の立場)に置かれていても、


魂が高貴である、魂のクルチザンヌ(高級娼婦)なのだとして、「ロマン主義的クルチザンヌ」という


位置付けが生まれました。有名なマノン・レスコーとかそうですね。彼女は下級娼婦の立場に


いながらも、高貴なる女性として描かれる。高貴であれば、環境に関係なく、クルチザンヌなのです。





フランスは日本とは文化がかなり違い、日本の文化では一面的に捉えきれない、なかなか理解の


難しい文化的側面が沢山ありますね…。そこがまた、仏文学等の面白さに繋がっていると思います。


また、上記の記述は、村田京子「娼婦の肖像」を参照させて頂きました。優れた良書、お勧めです。





現代日本には、娼婦を尊敬するという文化はほとんど見受けられないように思いますが、


こういう文化(娼婦を敬する文化)があった方が私は良いなと感じますね…。


セックスの実践者をきちんと美と敬意の意識を持って捉える文化形態は私の好みですね…。






それ(クルチザンヌ)は、「王侯貴族など上流階級の男を相手にする娼婦」と


同意語になり、「高級娼婦」を表すようになった。つまりクルチザンヌはもともと、


良家の出で教育や礼儀作法をきちんと身につけた女性、例えばフランス国王


アンリ二世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエや、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人


のような美貌と知性を兼ね備えた女性を意味した。彼女達は、自宅に政界の


有力者や優れた芸術家など自分の崇拝者を集めて社交(社交政治)の中心と


なり、場合によっては政治的な力も有するようになった。したがって、単に男の


生理的欲求を満たすだけのプロスティチュエと、宮廷風の恋愛を楽しむ


クルチザンヌは、全く異なったニュアンスで捉えられていた。


………


バルザックは、その90編を越える膨大な作品群を一つの体系にまとめ、


「人間喜劇」と名付けた。その作品群を注意深く読んでみれば、「クルチザンヌ」


と「プロスティチュエ」の二つの語彙を作者が明確に区別して使っていることがわかる。


………


(バルザックの小説において)歓楽の都パリやその一画を揶揄して「娼婦」と呼ぶ場合、


あるいは「名声」や「世論」、「腐敗したカトリック教会」といった抽象的な対象を批判して


「娼婦」と呼ぶ場合は「プロスティチュエ」という語が用いられる。人を指す場合にも、


登場人物が相手を蔑視して「プロスティチュエ」という呼称を使うことがある。


しかし、バルザック自身は(蔑視的な意味合いの)この言葉を極力避けている。


例えば、「娼婦盛衰記」で、女嫌いのヴォートランが娼婦のエステルを蔑んで


「最下級のプロスティチュエ」と呼ぶことはあっても、作者が「語り手」としてエステル


を指す場合には、必ず(敬意の意味合いのある)「クルチザンヌ」と呼んでいる。


………


比喩や蔑称として使われることが多い、「プロスティチュエ」に対し、


「クルチザンヌ」は作家の(娼婦への憧れの)ファンタスムが色濃く


反映された娼婦像を指している。こうした傾向はアベ・プレヴォーの


「マノン・レスコー」にも見られる。この小説の冒頭で、主人公マノンは


アメリカに流刑になり腰を鎖で繋がれた十二人の「売春婦」の一人と


して登場する。この描写は、小説の舞台となる摂政時代(1715〜1720)、


ジョン・ローの金融政策の一環として国外追放となった売春婦が、


アメリカ・ミシシッピ地方のフランスの植民地ヌーヴェ・ロルレアンに


強制移住させられたという歴史的事実を踏まえている。女達は実際、


下着の替えもなく、何日も繋がれていたので、最後は悪習を放ち虫が


たかっていたという。ところが、小説の中では、マノンだけがその場に


似つかわしくない高貴な雰囲気を漂わせ、「他の状態ならば、上流階級


の娘と見間違えたであろう」と語り手が感想を述べるほどである。


マノンは言わば、現実離れした存在なのだ。


………


(現代の)私達の(全てが金銭に換算される資本主義の)社会の原点である


ブルジョワ社会と、しばしばその価値観を反映したロマン主義文学に立ち戻って


娼婦像を考察することは、現代の女性像の原点にさかのぼることにもなろう。


例えば、バルザック晩年の作品に現れる娼婦は、ナポレオンの死後、


「父」の力が弱体化していく時代において、「女の力」の台頭を垣間見せている。


こうした女性像はあたかも、従来男の領域とされてきた様々な分野に参入し、


頭角を現し始めた現代の女性の力の源流を描いているかのようだ。


本書ではこのように、ロマン主義的クルチザンヌの分析を通じて、現代の


性にかかわる表象や諸価値の源流を探りつつ、読者に文学テクストを読み込む


ことの面白さ、すなわち単に粗筋のみを追うのではなく、行間を読むことで


得られる知的世界の奥深さを伝えることができればと願っている。


(村田京子「娼婦の肖像」)






参考図書(amazon)


村田京子「娼婦の肖像」


アベ・プレヴォー「マノン・レスコー」


デュマ・フィス「椿姫」


バルザック著作一覧