2009年07月02日

第18回*不退転の信心


* 御聖訓 *

 

日蓮其の身にあひあたりて

大兵を・をこして二十余年なり

日蓮一度もしりぞく心なし

  (辦殿尼御前御書、1224㌻)

 

勝負は一歩も退くな

 「一歩も退くな! 広宣流布の前途を勝ち開け!」

 恩師・戸田城聖先生の遺言であります。

 信心とは、断じて貫き通すことです。御本尊に祈り抜き、「法華経の兵法」で戦い切っていくならば、勝ち越えられない試練などない。そこに必ず、無上の幸福境涯が開かれていくことは、御書に照らして絶対に間違いありません。

 今回は、不退転の信心を強調された「べん殿尼御前御書」の御聖訓を拝読します。(べん=辨の“リ”部分が“カ”)

 「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度も退く心なし」(御書1224㌻)

 この御書は、べん殿(大聖人門下の弁阿闍利日昭)と、その縁者である尼御前に送られた御手紙です。

 本抄を記されたのは、佐渡流罪中の文永10年(1273年)9月19日のことです。

 絶海の佐渡での御生活は、窮乏を極め、常に死と隣り合わせの状況であられました。

 その大聖人の御身を案じ、尼御前は鎌倉から佐渡まで、自分が頼みとしている使用人を遣わして、お側で仕えさせるなど、不二の心で赤誠を尽くしたのです。

 大聖人は、こうした尼御前の真心に最大に感謝され、賞賛されています。

国土を変革する戦

 御文では、大聖人が「法華経の行者」の身として、仏法正義の「大兵」を起こしてから、二十余年を経たと仰せです。

 この「二十余年」とは、建長5年(1253年)4月28日の立宗から、本抄御執筆の時期までを指します。立宗の日より、ただの一度たりとも退く心なく、戦い抜いてこられたと師子吼なされているのです。

 「一度もしりぞく心なし」!——これほど誇り高き魂の勝利の宣言があるでしょうか。信心の真髄である「生涯、絶対不退転」の精神を教えてくださった御金言であります。

 それでは、「大兵を・をこして」とは、どのような大闘争であられたのか。

 この御文の直前には「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう」(同㌻)と記されております。

 第六天の魔王が十種の魔軍を率いて戦を起こしてくる。そして、法華経の行者と、この娑婆世界を取られまい、奪おうと、あい争うことを、喝破されているのです。「生死海の海中」とは、生老病死の苦悩が荒れ狂う、この現実世界を譬えた表現であります。

 それは、末法の衆生が実際に暮らしているこの国土を、穢土から浄土へ変革できるかどうかの法戦です。

 まさに広宣流布とは、仏が陣地を取るか、魔に奪われるかという熾烈な死闘なのです。

 「十軍」とは、さまざまな煩悩を、魔軍として十種類に分けたものです。

 「大智度論」には——

 ㈰欲㈪憂愁(憂えること)㈫飢渇(飢えと渇き)㈬渇愛(五欲に愛着すること)㈭睡眠㈮怖畏(恐れること)㈯疑悔(疑いや悔い)㉀瞋恚(怒り)㈷利養虚称(財を貪り、虚妄の名聞に執着すること)㉂自高蔑人(自ら傲り高ぶり、人を卑しむこと)——という十の魔軍が挙げられています。

 衆生が住む世界を支配しようとする第六天の魔王が、これら「十軍」を従えて、あらゆる手を使い、法華経の行者を圧迫し、蝕もうとするのです。

 この「十軍」に対して大兵を起こすとは、まず、自分自身の「己心の魔」との真剣勝負であります。

戸田先生

  さあ来い!

  負けてたまるか!

  この覚悟で向かえば

  魔は退散する

「信の一字」で勝て

 そして、胸中の魔性に打ち勝つ要諦とは、第一に「不退転の信心」であると、大聖人は教えてくださっているのであります。

 何があろうと、わが信仰の戦闘を続行しゆく「不退の人」こそが「勝利の人」です。

 牧口先生は叱咤なされた。

 「大聖人は『大悪をこれば大善きたる』『各各なにをかなげかせ給うべき』と仰せである。

 どんな時、どんな場合でも、それをバネとして、大きく転換していけ!」

 少しも嘆かない。前へ前へ進む信心こそ、「大悪」を打ち破り、「大善」に転じ切っていく力です。

 「進まざるは退転」である。もう一歩、あと一歩と忍耐強く攻め抜く。勝利をつかむ最後の一瞬まで前進をやめない。この心が大切なのです。この一念が勝敗を決するのです。

 第2の要諦は「挑戦の心」です。「大兵」を起こすとは、第六天の魔王という、大宇宙に瀰漫する根源的な魔性に対する断固たる挑戦だからであります。

 第六天の魔王の正体とは、「元品の無明」(=根源的な無知)です。

 政治も経済も、教育も文化も、さらに国際社会全体も、この見えざる生命の魔性を打破していかなければ、民衆の真の幸福を確立することはできない。

 大聖人の御在世当時がそうであったように、末法がさらに進んだ現代においては、創価学会の躍進に対し、あらゆる誹謗・中傷が浴びせられてきました。

 それは、元品の無明に心を囚われ、怨嫉の炎に焼け焦げた姿にほかなりません。

 こうした生命次元の「戦」に厳然と勝つ力が信心です。

 大聖人は、「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御書751㌻)と仰せです。

 「信の一字」の利剣で、生命の元品の無明を断ち切るのが、我らの折伏行です。社会の精神土壌を根底から変革し、民衆が喜び栄える仏国土を築きゆく運動が、広宣流布なのです。

永遠の信念と正義

 魔というものは、皆を悩ませ困らせる働きをいう。だから戦わなければいけない。いかなる作戦も、その根本は強盛なる祈りです。敵が「魔」だから、「仏」に祈る。それで断ち切っていけるのです。

 戸田先生は叫ばれました。

 「さあ来い! 魔などに負けてたまるものか! この覚悟で向かった時は、魔は退散するのです」「命がけで戦っている人を、仏様がいつまでも悩ませておくわけがない」

 臆病では、功徳は出ません。

 「戦う!」「挑む!」「断じて勝ってみせる!」——この強靱な一念に、絶対の幸福境涯が必ず開かれていくことを確信していただきたい。

 題目は、そして信心は最強無敵の「利剣」であります。

 「十魔軍」と言っても、信心の利剣で打ち破れないはずがない。すごい妙法なのです。

 戸田先生は語られました。

 「大聖人は、流罪にされようが、何をされようが、大切な民衆を救うために戦い抜かれた。だからこそ偉大であられるのです。迫害のなか、全人民を救うために一歩も退かずに戦い続けられた。この大精神を忘れてはいけない」と。

 何があろうと、毅然と広宣流布へ「前進し続ける」ことができれば、その人はもう勝っている。生命の勝利者なのです。

 広宣流布のために行動すれば自分が得をする。やらなければ自分が損をする。これが信心であり、仏法であります。

 「日蓮と同意」(御書1360㌻)で広布へ邁進しゆく人は、未来の勝利の因を、わが生命に積んでいるのです。三世にわたる大功徳を積むための今日の活動です。今世の修行です。

 正義の人に、敗北はない!

 勇気の人に、不幸はない!

 皆様は、何の報酬も求めず、人々に正しい幸福の道を示し、最高の立正安国の哲学を実践されている。「永遠の信念」と「究極の正義」に生きておられる。これほど尊い使命と栄光の人生はありません。皆様こそ真の菩薩であり、真の仏です。

女性門下の───┐

師弟不二の心を御賞賛

逆境の時にわかる

 中途半端では悔いが残るだけです。戸田先生は、よく言われました。「戦いとは、最後に『本当に楽しかった』と言えるまでやるのだ」と。

 「私は、やるだけやり切った!」——それが、永遠の「所願満足」につながります。

 「所願満足」とは「不惜身命」と表裏一体です。

 大師匠であられる大聖人は、不退の御決意で戦われました。しかし、大聖人が大難を受けられると、多くの忘恩の弟子が卑怯にも退転してしまった。

 本抄にも「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(御書1224㌻)とまで厳しく仰せられています。

 その中で、この尼御前は地道に辛抱強く信仰を貫き通しました。大聖人は「尼御前が、経文に通じてもいない身でありながら、今まで退かなかったことは、申し上げようもないほど嬉しい」(同㌻、通解)とねぎらわれ、賛嘆なされています。

 そして、尼御前が佐渡の大聖人に尽くした真心についても、「必ずや、釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御存じのことでしょう」(同㌻、通解)と感謝されているのです。

 いざという時に強いのは、女性です。逆境の時に、人間の真価がわかる。師匠が大難に遭われた時にこそ、弟子の真実の心がわかるものです。

識者

「創価の青年に世界の未来が」

本物の弟子として

 昭和54年(1979年)の3月、私の妻は東京・練馬区の座談会にうかがいました。参加した方々から記念にと求められて、妻は色紙に認めました。

 「不退転

  七つの鐘 総仕上げの年」

 以来、30年——。大東京をはじめ全国の婦人部の皆様方は、まさしく「不退転の信心」で戦い歩んでくださいました。

 今日の創価の栄光は、わが婦人部の栄光であります。皆様の幸福と勝利を、私も妻も、日々真剣に祈り抜いております。

 「不撓不屈の精神をかたむければ、何でも楽しい」(蓮実重彦訳)とは、19世紀フランスの作家フロオベールの言葉です。

 師も不退! 弟子も不退!

 師も前進! 弟子も前進!

 これが師弟不二の実像です。

 この不二の闘争があるところ、三世十方の仏菩薩、諸天善神が、動きに動き、護りに護ります。冥の照覧は絶対です。

 戸田先生は願われました。

 「よき広宣流布の闘士として、末代にまで、自己の名を歴史に残していただきたい」

 昭和25年(1950年)の6月3日。22歳の私は、「べん殿尼御前御書」の御聖訓を日記に記し、こう綴りました。

 「青年よ、快活であれ。青年よ、理想に、厳粛に進め」

 「先生、見ていて下さい。きっとやります」

 この決意のままに、私は走り通してきました。本物の師匠に、私は本物の弟子としてお仕えし抜いた。広宣流布のご構想を実現するため、執念、また執念で全魂を尽くしました。

 昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」では、私は関西の同志とともに、1万1千111世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てました。

 「勇戦」の二字を墨痕に託し、友を鼓舞したこともあります。戦後の日本社会の闇を照らしゆく目覚めた民衆の潮流を、私は巻き起こしていったのであります。

 あの「夕張炭労事件」に続いて、「大阪事件」が勃発したのは、翌32年の7月です。

 御聖訓通り、三類の強敵との闘争なくして、広宣流布はない。正義の民衆が勝たずして、日本の民主主義の真の夜明けもない。これが、戸田先生から平和勢力の確立を託された私の覚悟でした。

 

戦が7月3日の魂


悪を抑えてこそ!

 一切の艱難よ、わが身に来い。戸田先生には、指一本たりとも触れさせてなるものか! 私はこの一念で、わが胸中から「大兵」を起こしました。不二の誉れの直弟子として、「しりぞく心」なく、獄中闘争に臨んだのです。

 7月3日に入獄。奇しくも、12年前の戸田先生の出獄と同じ日、同じ時刻でありました。

 そして、2週間後の7月17日に出獄。私は、中之島公会堂の大阪大会で宣言しました。

 「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」

今もまったく変わらず、私は燃え上がる「必勝」の情熱で、世界広布の指揮を執り続けております。断固たる勇戦!これが師弟の7月の魂であります。

 御聖訓には、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」(御書762㌻)と仰せです。悪を滅して善を生じる、その戦いに大功徳があるのです。

 悪を抑えなければ、善は伸びない。邪悪と戦わなければ、功徳も成仏もありません。

 「学会は『日本の潮』」——かつて戸田先生は、こう題して講演されました。

「この創価学会の潮を、全東洋に流し、地上に楽土をつくらんとするのが、我らの理想であります」

 恩師の烈々たる大音声が轟いてから50余年——。

 初代・牧口先生、2代・戸田先生が起こされた妙法流布の「大兵」を受け継いで、私は、尊き仏の陣列を世界192カ国・地域へと拡大しました。

 今日、創価学会は「世界の大潮流」と広がっております。我らの世界広宣流布は、いよいよこれからが本番であります。

人類を勇気づける

 インド独立の父マハトマ・ガンジーの直系の大哲学者であるラダクリシュナン博士は、語ってくださいました。

「師の心を心として行動する一人の弟子の峻厳な態度と、揺るぎない師への

思い。

 あらゆる機会に、その前進を阻もうと容赦なく押し寄せてくる想像を絶する困難を、悠々と乗り越えゆく創価の師弟——。

 その姿は、人類を最高に勇気づける振る舞いとして、歴史に残っていくでしょう」

 「今、全世界に幾百万の戦う創価の青年の連帯が築かれています。皆、偉大なる非暴力の闘士です。ゆえに私は、今後の世界の動向は、ひとえに、この目覚めた献身的なSGIの青年の躍進にかかっていると確信してやみません」

 世界の命運は創価の青年にあり! 創価は世界の希望なり!

 この大確信で、「しりぞく心」なく、前進また前進、勝利また勝利の歴史を綴ろうではありませんか!

  勝ちにけり

   また勝ちにけり

    学会は

   君らの戦闘

    君らの勇気で




kagetora_h at 20:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 御書と師弟 

2009年06月18日

第17回*末法流布の大陣列


*御聖訓*

日蓮さきがけしたり

わたうども二陣三陣つづきて

迦葉・阿難にも勝ぐれ

天台・伝教にもこへよかし
   

(種種御振舞御書、
910ページ) 


 青年よ続け 歴史を創れ

 広宣流布は大河の流れです。人材の限りなき流れです。

 創価の師弟は、この迸る大河を全世界に漲らせてきました。

 世界の一級の知性が、私たちの前進を心から喜び、賞賛を寄せてくださっています。

 「SGI(創価学会インタナショナル)が発展し、人類の幸福のために前進を続ける限り、世界はより良い場所であり続けることでしょう」(オーストラリア・オーバン市のラム前市長)

 「このネットワークのなかで日々、幾百万もの人々が日蓮大聖人の仏法を実践できることに、私は心から賛嘆申し上げます」(ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長)——。

 すごい学会になりました。

 明年で創立80周年。学会は、平和と幸福の「静かなる大革命」によって、いまだかつてない幾百万の人間主義の連帯を創り上げました。

 これは誰人も否定できない、歴史に燦然と輝く事実です。民衆と民衆が成し遂げた大偉業であります。

 わが同士の皆様こそ、人類の未来を切り開く「先覚者」にほかなりません。

*大闘争の“自叙伝”*

  今回は、「種種御振舞御書」の一節を拝読します。仏法史上、いな人類史上、最高に尊い広宣流布の大闘争に勇敢に踊り出でよと、日蓮大聖人が後継の弟子たちに力強く呼びかけられた御金言であります。

 「法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり、わたうども(和党共)二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にもこへよかし」(御書910㌻)

 ——法華経の肝心・諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経を、末法の初めに一閻浮提(全世界)に弘めゆく瑞相(前兆)に、私は先駆けした。わが門下たちよ、二陣三陣と続きなさい。そして、迦葉や阿難にも勝れていきなさい。天台や伝教をも超えていきなさい——。

 この「種種御振舞御書」は、文永5年(1268年)から建治2年(1276年)までの約9年間にわたる、日蓮大聖人御自身の御振る舞いを述べられています。いわば、大闘争の歩みを振り返られた“自叙伝”と拝されます。

 この9年間は、竜の口の法難(文永8年)から佐渡流罪(同年〜同11年)という、大聖人の御生涯において最も激しい大難が競い起こった時期です。

 また日本社会にとっても、内憂外患がうち続いていた。二月騒動(文永9年)という内乱(自界叛逆難)。そして蒙古の襲来(同11年)という他国からの侵略(他国侵逼難)——。日本中が、未曾有の国難に騒然としていました。

 この末法濁世にあって、大聖人は、邪法邪師に誑かされた幕府の権力者の狂いを堂々と諫められたのです。

我らは人類の先覚者

偉大な師を持つ栄光

 大聖人は、「法華経の肝心・諸仏の眼目」たる南無妙法蓮華経を、ただ御一人、末法万年尽未来際の民衆を救いゆくために弘め出されました。

 妙法を一閻浮提に広宣流布する瑞相に「日蓮さきがけ(魁)したり」。御本仏の大確信が脈打っておられます。

 本抄で「二陣三陣」と仰せられたのは、大難に立ち向かって、広宣流布の戦いが繰り広げられている真っ只中でした。

 あらゆる難を「本より存知」として受けとめられて、「各各思い切り給へ」と御指導され、「わが門下よ、二陣三陣、続け」と厳命なされているのです。

 師匠は、常に「先覚の道」を不惜身命の決意で、さきがけておられる。ならば弟子もまた、その道に恐れなく続いてこそ弟子である。

 師が開かれた道に続くことは、弟子もまた先覚の誉れの道を歩ませていただくということにほかならない。

 偉大な師匠を持つ人生ほど、誇り高い栄光はないのです。

 そして、それは、釈尊の後を継いだ迦葉尊者や阿難尊者にも勝れ、さらに像法時代の正師であった天台大師や伝教大師をも超えゆかんとする道である。

 末法の広宣流布に生きゆく使命の人生が、どれほど崇高であるか。「うれしきかな末法流布に生れあへる我等」(御書1439㌻)と仰せの通り、それは大歓喜の行進なのであります。

*学会は仏勅の教団*

 戸田先生は、この「種種御振舞御書」の御文を拝し、叫ばれました。

 「我ら創価学会員こそ、この御聖訓に応えたものであり、この名誉と功徳は、何ものにもかえることはできえない」

 釈尊、そして日蓮大聖人が仰せになられた「一閻浮提広宣流布」の御遺命を実現しているのは、いったい誰か。創価学会以外にありません。学会こそが、仏意仏勅の最極の教団なのであります。

 これもすべて、創価三代の師弟が、大聖人の御金言を寸分も違えず、競い起こる三障四魔、三類の強敵と戦い、死身弘法を貫いてきたからです。

 「さきがけ」——この一言には「広宣流布の大精神」が凝結しております。それは、困難であればあるほど、勇気を奮い起こして、自分自身が、まず一歩を踏み出すことであります。

 私も「さきがけ」との仰せを心肝に染めました。戸田先生の弟子の「さきがけ」として走り、妙法流布の拡大と勝利を切り開いてきました。

 この祈りと闘争に、わが門下も必ずや「二陣三陣」と続いてくれるにちがいない。そう信じて、私は青年を育て、鍛えてきました。二世代、三世代、四世代と、全魂を注いで後継の友また友を薫陶してきたのです。

*「紅の歌」の心意気*

 あの昭和56年(1981年)の秋、正義の反転攻勢の息吹の中で誕生した学会歌が「紅の歌」です。

 真剣な輝く瞳の四国の青年たちと一緒に、私は二十数回の推敲を重ねて完成させました。この歌で、最初から最後まで一貫して残った言葉が「魁光りぬ」の「さきがけ」でした。

 どんなに「邪悪の徒」が立ちはだかろうとも、我ら青年が、師と共に断じて「さきがけ」の戦を起こしゆくのだ この一節に託された青年の心意気が、私は嬉しかった。

 さらに「先駆の誉れの大九州」の同志、「若き先駆の英雄・学生部」の友をはじめ、学会には「さきがけ」の大情熱が溢れています。

 日本のみならず、世界192カ国・地域で、正義の炎と燃える門下が陸続と起ち上がっている。世界に澎湃と涌き起こった使命の青年の大河こそ、創価の勝利の証しです。

 迦葉や阿難をはじめ釈尊の高弟たちも、仏法正統の大指導者であった天台や伝教も、この広布後継の俊英の群像を見たならば、きっと驚嘆するにちがいない。そして心から喝采を送り、賛嘆するでありましょう。

 三代の師弟は「さきがけ」の勇気で勝ちました。そして、これからも、「二陣三陣」の後継の闘魂で永遠に勝ち続けていくのです。師弟不二なる創価の師子吼の前には、いかなる誹謗・中傷も、「風の前の塵」(御書232㌻)にすぎません。

 大聖人の御在世と同じく、今、時代は乱気流の中に入っている。しかし、いかに社会が動揺していても、いな社会が動揺しているからこそ、自分の信心だけは微動だにしてはならない。“広布のため”“学会のため”という心の操縦桿を握りしめていけば、必ず打開できる 勝利できる こう確信して、師子奮迅の力を出しきっていくことです。

 戸田先生は指導されました。

 「悪口などに驚いていたら何もできません。最初から悪口を言われるのは覚悟のうえです」

 古今東西の歴史を見ても、先駆者には、無知や偏見による迫害はつきものです。

わが勝利の頂上へ駈け登れ
 

*上行菩薩の力用が*

 いわんや私たちは、全人類を照らす妙法を弘めている。妬まれ、圧迫されることは、経文の通り、御書の通り、我らの正義が大きく時代を動かしている証左なのであります。

 さらに、広宣流布の「さきがけ」の意義を、地涌の使命という点からも拝しておきたい。

 「諸法実相抄」に仰せです。

 「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(御書1359ページ)

 ここでも大聖人は「さきがけ」と言われています。

 また、「生死一大事血脈抄」には記されております。

 

 「上行菩薩が、末法今の時にこの法門を弘めるために御出現になられることが経文に見えるが、どうであろうか。上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮は、その先駆けとして、ほぼ弘めたのである」(同1338ページ、通解)

 「上行菩薩」とは、地涌の菩薩の上首(=最高リーダー)です。大聖人が言われる「さきがけ」とは、「上行菩薩」が末法で果たすべき使命を、事実の上で、ただ御一人だけが遂行されたという厳然たる大宣言にほかなりません。

 そして、この地涌の実践を不二の弟子として継承していきなさいと命じられているのです。

 「若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや」(同1359ページ)

 大聖人の教えを信じ、広宣流布の陣列に身を投ずる人は、全員が上行菩薩と一体で進む地涌の菩薩であるとの御断言です。

 地涌の菩薩でなければ、広宣流布はできません。菩薩とは、広布のために行動する闘士の異名です。

 それぞれの使命の戦線で、自分が先頭に立って、広宣の勝利のために前進しゆく皆様の生命には、「上行菩薩」の力用が、必ず漲ってくるのであります。

 上行とは、勝れた修行を行うという意味ですが、「上へ行く」とも読めます。もっと上へ もっと高く いかなる障壁も乗り越え、新たな勝利へ、向上し、上昇しゆく生命であります。

 法難の投獄を勝ち越えて、戸田先生は綴られました。

 「南無妙法蓮華経の信仰は、向上を意味する。無限の向上である」「まだまだ、その上へ、その上へと、向上して行く法である」

 ともあれ、リーダーは、自分が一人立って一切を勝ち開くのです。これが「行」です。勝ち戦のさきがけを これこそ人生の最高の誉れであります。

 19世紀、英国の歴史家カーライルは論じている。

 「人の長たる者は、人びとの先頭に立って、他のあらゆる人びとを尻ごみさせるような危険にも、すすんで立ち向かう人である」「気高い冠は、いずれもいばらの冠である」(上田和夫訳)

 決然と一人立て 自分が模範と輝け それが真の勇気です。そこに生涯の勝利の基盤が出来上がる。

 大勢いるかどうかではない。まず一人です。いざと言うときに戦えない臆病な人間が、いくら集まっても勝利はありません。

 末法万年の人類を救う広宣流布を成し遂げ、世界に根本的な寄与をする“さきがけの誇り”に胸を張ることです。その人を、三世十方の仏菩薩が守りに護らないわけがありません。

 戦いを決するのは「真剣さ」と「粘り」です。「執念」と「勇気」です。「絶対に勝つ」という「決意」と「祈り」である。「断じて勝つ」と決めて、戦い抜いたほうが勝つ。勝つために、最大の努力を尽くし切っていくことです。

戸田先生
 
「広宣流布の暁には大聖人門下に劣らぬ弟子が出てくる

*トップを目指せ

 なかんずく、わが直系の青年に私は呼びかけたい。

 君たちよ、広宣流布の最先頭を走れ 勝利の人生の頂上に駆け登れ 仕事も、闘争も、自分らしく、トップを目指せ

 青年ならば、何かで第一になれ——と。

 何もせず、何も残せない青春は侘びしい。広布の歴史に何かを残す。それは永遠の栄光であり、福運です。

 そのための学会活動である。思う存分、活躍できる使命の舞台があるということが、どれほど幸せな充実した人生か。学会ほど、ありがたい世界はありません。

 御聖訓には「勝ぐれ」「こへよ」と仰せです。先人の築いた歴史を超えて、新たな金字塔を打ち立ててこそ、真正の弟子であります。

 戸田先生は語られました。

 「広宣流布の暁には、釈迦や大聖人門下の弟子に劣らない弟子が出てくる」

 「このときには上行菩薩、安立行菩薩、浄行菩薩、無辺行菩薩、その他もろもろの菩薩が出られ、また、もったいなくも、日目上人をはじめとして、太田入道夫妻、四条金吾夫妻等、大聖人の御在世当時に活躍した方々が、今度の広宣流布に遅れることなく、全部出ておいでになることと、絶対に信じて疑わざるものであります」

 「従藍而青」(青は藍より出でて、而も藍より青し)であります。師から弟子へ、未来の世代へと、時代を経るにつれ、ますます立派で強力な指導者が涌出していく。新しく踊り出てくる勇者ほど強い。後輩を自分より立派に これが常勝後継の不滅の方程式であります。

 その意味で、21世紀使命会をはじめ、未来部を育成してくださっている方々の尊き奮闘は、令法久住の真髄です。

*三代の炎は青年に*

 中国の「史学大師」と仰がれる章開○先生(華中師範大学元学長)は語ってくださいました。(○=さんずい+元)

 「牧口先生から戸田先生へ、戸田先生から池田先生へと、三代の会長に平和の信念が厳然と受け継がれてきたことは、まさに『薪火相伝』(薪は自らを燃やすことによって火を伝えていく)と呼ぶにふさわしい壮挙であります。

 その偉大なる炎は、これからも、池田先生から若き後継の青年たちへと、綿々と受け継がれていくことでしょう」

 21世紀の日本、そして世界各国で、広宣流布へ進みゆく地涌の大行進——この創価の大連帯を、いよいよ勇敢に「二陣三陣」と広げていこう 偉大な「さきがけ」の勝利を、人類の栄光の歴史に残していこうではありませんか

 勝ちまくれ

  創価の力は

   無限なり

  正義の陣列

   いや増し 強固に

 

kagetora_h at 16:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 御書と師弟 

2009年06月04日

第16回*題目の大音

 御聖訓 

今 日蓮等の類い

南無妙法蓮華経と唱え奉るは

大風の吹くが如くなり


   (御義口伝、742ページ)

 

唱題の声は大宇宙に轟く


 「私は今、御本尊に命が惜しいとは願いません。たとえ5分でも10分でも、生きている限り、広宣流布のために、ご奉公させていただきたいと願っているのです」

 恩師・戸田城聖先生は、晩年よく語られました。先生の題目は、広宣流布に全生命を注がれゆく深く強き一念の祈りです。

 先生と共に唱題させていただくたびに、勝利への生命力が全身に躍動してきました。

 「師弟共に唱うる」(御書748ページ)妙法の師子吼を、わが生命に轟かせながら、私は、あらゆる闘争に連戦連勝の栄光史を残してきました。師と心を合わせた「不二の祈り」は無敵であります。

 師弟一体の強情な祈りに、十方(=全宇宙)の仏菩薩、諸天善神も感応する。広布の闘士を守りに護るのです。

 「御義口伝」には仰せです。

 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹く如くなり」(同742ページ

 題目は、わが生命を限りなく強くし、そして人々の生命をも変えゆく「大風」を起こしているのだ、との大宣言です。

 この御金言は、法華経見宝塔品第11の「譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し」(法華経388ページ)の経文について、日蓮大聖人が講義なされた口伝です。

仏が放った光と風

 宝塔品では、有名な「虚空会の儀式」が展開されています。

 この説法では、仏が「光明」や「妙香」を放ち、光りと風が、十方の国々まで、遍く広がりゆく様子が説かれています。

 この光明を浴び、妙香を受けた衆生は、心から感激し、堪えがたいほどの喜びに包まれます。あらゆる人々が、仏の大慈大悲の薫風によって蘇生していく様子を「大風が小さな枝を吹くようなものである」と譬えているのです。

 すなわち「大風」とは、民衆に随喜の心を呼び起こす、正法正義の威光勢力の表現にほかならない。大聖人は、南無妙法蓮華経の題目こそ、全民衆を歓喜と幸福で包む「大風」であると結論されているのです。

 大聖人は、この経文の「大風の如く」とは「題目の五字なり」、「小樹の枝を吹く」とは「折伏門なり」とも仰せです(御書742ページ)。

 朗々と題目を唱え、勇敢に仏法の正義を語り、厳然と邪義を破折する。そして友また友の生命に歓喜の旋風を巻き起こす。この唱題と折伏の「大風」を、日本中、世界中に広げてきたのが、わが創価の同志であります。

 私たちの唱える題目は、「生きる力」であり、「幸福になる源泉」です。「勝利していく原動力」なのです。題目の音律には、大宇宙のリズムに則って、自他共の生命を根底から変えゆく偉大な力用があります。

 法華経において、七宝に飾られた宝塔の出現から展開される虚空会の儀式は、十界のあらゆる衆生が歓喜踊躍し、成仏の道を歩む生命変革のドラマと言ってよい。

 経文を拝すると、この虚空会には、十界の衆生が一界も欠けることなく、すべての人々が虚空(=大空)に引き上げられていることが伺えます。


仏の大生命を涌現し勝て
 

「十界同時」の変革

 いかなる境涯の衆生も、妙法の光明に照らし出される。妙法の薫風を受けない存在はない。誰人も仏になれるという平等と尊厳の思想が、法華経の魂です。

 その思想的な基盤として、「恩義口伝」には次のように述べられています。

 「所詮釈尊も文殊も提婆も竜女も一つ種の妙法蓮華経の功能なれば本来成仏なり、仍って南無妙法蓮華経と唱え奉る時は十界同時に成仏するなり」(御書798ページ

 ——釈尊も、文殊などの菩薩たちも、さらには提婆達多や竜女たちも、皆、妙法という一つの種の働きを示す存在であるから、本来成仏しているのである。ゆえに南無妙法蓮華経と唱える時、十界の衆生が同時に成仏するのである——

 十界の衆生が、等しく、いついかなる時も仏になれる。これは法華経のみの秘伝です。

 南無妙法蓮華経は、大宇宙の根本法則です。この妙法を唱え、行じ弘める生命は、大聖人と一体なのです。ゆえに、何ものも恐れることはありません。

 「恩義口伝」には、他にもこう仰せです。

 「十界同時の成仏なり」(同712ページ

 「歓喜とは善悪共に歓喜なり十界同時なり」(同735ページ

 「南無妙法蓮華経と唱え奉るは十界同時の光指なり」(同741ページ

 大聖人は繰り返し「十界同時」と仰せです。これは甚深の御聖訓です。ダイナミックな生命変革の原理です。

 南無妙法蓮華経は、身近な活動も、さらに大宇宙の運行も動かしていく法則であり、力であります。自分と社会を共によりよき方向へ発展させていく根源の大法なのです。

 その原点は、あらゆる生命は「十界の本有の仏」(同1506ページ)であるとの悟りにある。

 私たちの唱題は、自他共の十界の生命を妙法の大光で照らし、誰もが本来具えている仏の大生命を引き出し、輝かせゆく人間革命の修行なのです。

「幸福感は伝わる」

 「幸福感は人に伝わる」——昨年、米ハーバード大学医学部などの研究者たちが英国の医学誌に発表した貴重な洞察です。

 この知見によれば、誰かの幸福感に変化が起きると、それは周囲にも伝わり、幸福な人々の社会学的・地理的な集団の形成に寄与する。

 つまり、幸福感や充足感というものは、個人がそれぞれに感じるだけではない。人から人へと伝わり、大勢に共有される傾向があるというのです。

 とくに、この幸福感は隣人や友人によって伝わりやすいという結果も示されています。

 この幸福感の伝播があれば、「健康を広めることも可能となり、政策や医療方針を設計する上で大きな影響を及ぼす」とも指摘されています。

 人間は、決して一人だけで生きているのではない。大きな生命のネットワークの中で、互いに支え合い、影響し合いながら生きています。

 信心に励んで功徳を得た歓喜と確信を、友から友へ語りに語る。そして、友また友の成長を祈りに祈る。この一念随喜の万波こそが、私たちの広宣流布のエネルギーです。

 今日、世界192カ国・地域に広がる唱題の歓喜の大旋風は、最先端の学問研究の成果とも見事に一致するのです。

 戸田先生はわかりやすく言われておりました。

 「功徳のよろこびを百回語っていけば、さらに百倍の功徳となって返ってくる。それが信心のすごさだよ」

 私たちは今、「十界の衆生」の大海原の真っ只中で、朗々と妙法を唱え、人間革命の金波、銀波を巻き起こしている。わが同志の皆様こそ、娑婆世界を、光り輝く仏国土に「三変土田」しゆく変革劇の主役なのです。


「十界」の社会に歓喜の旋風を


御本尊とわが生命

 戸田先生は語られました。

 「今こうして折伏を行じ、御本尊を信じまいらせて題目を唱えているならば、いつ御本尊を拝んでも、日蓮大聖人の生命と我々の生命とがピタッとふれ合うのであります」

 「大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たる我々の生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう」

 私たちが拝する御本尊は、十界互具の大曼荼羅であられる。御本尊には、十界の衆生の代表が納まり、南無妙法蓮華経の光に照らされています。

 御本尊も十界、私たちの生命も十界です。そして、社会も十界の生命で成り立っている。

 御本尊に題目を唱えると、三世十方の仏菩薩が、私たちと同じく合掌します。また、全宇宙の無数の諸天善神が、絶対に従います。十界の生命を揺り動かすのですから、悪鬼・魔民さえも強い味方となって、妙法を護り広げる働きをすることは間違いないのです。

 社会も、人生も、そして私たちの生命も、変化変化の連続です。森羅万象、変わらずに停滞しているものは何一つない。人の心もまた、瞬間瞬間、めまぐるしく変化していく。御書には「一人一日の中に八億四千念あり」(471ページ)と仰せです。

 今まで怒っていた人が、次の瞬間にはもう笑っている。何の悩みもないと言っていた人が、翌日には深い苦悩の淵に沈んでいる。このように人生は、常に変転してやまない流転の劇であります。

 この移ろいゆく心を、妙法という大宇宙の根本法則に深く合致させていくのが、私たちの祈りです。

 御本尊は、大宇宙の縮図です。そして、自分自身の生命も御本尊と同じです。自身のを仏界の生命で固め、三世永遠に崩れ得ぬ幸福境涯を勝ち開く。これが「絶対勝利の信心」にほかなりません。

 友のため、社会のために必死に祈る皆様の姿それ自体が、日蓮大聖人に直結した最高の慈悲の振る舞いであります。

 一切を、大確信の祈りで勝ちまくるのです。

十方世界に届け

 御書には「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし」(808ページ)とも説かれています。

 題目の声は、「十方世界」すなわち大宇宙に届くとの御金言です。

 唱題に励むとき、大宇宙の根本の法則である妙法と、わが生命が融合する。小宇宙である自身の生命の扉が大宇宙に向かって全開し、全宇宙の頂点から一切を広々と見わたすことができる。宇宙に包まれていた小宇宙が、大宇宙を包みかえしていく——これが我らの祈りです。

 悠々と大宇宙を旅しながら、生命を浄化できる。そして十界のあらゆる衆生の境涯を深く知って、幸福に導く「慈悲」と「智慧」が、こんこんと沸き上がってくるのです。

 この祈りの大きさこそが、広宣流布の真髄です。

 大聖人は、「あらゆる衆生の具えている仏性を、妙法蓮華経と名づけるのである。ゆえに、一遍、この題目を唱え奉れば、一切衆生の仏性が、皆、呼ばれてここに集まるのである」(御書498ページ、趣意)と述べられています。

 「法」は見えない。しかし「音」となって表れれば、わかる。だから「声」が大切なのです。妙法を唱え弘める我らは、信心の長者なり 境涯の王者なり この誇りで進んでいきましょう。


“師匠と不二”の祈りは無敵


師匠と心のギアを

 なかんずく、広宣流布の師匠と心のギアを合わせ、師弟の魂に燃える祈りを貫くならば、わが生命の奥底から、仏の力が発光していくことは間違いありません。

 昭和32年(1957年)73日、あの「大阪事件」で、私は権力により不当逮捕されました。戸田先生の怒りはすさまじかった。

 「民衆の味方である創価学会をいじめ、弾圧する。これほど卑劣なことはない!」

 戸田先生は、無実の罪で獄中に繋がれた私の解放を、ひたぶるに祈ってくださった。

 「権力の魔性との戦いは、題目をあげなければ勝てないんだよ」と先生は言われました。

 私の拘留中、大阪に駆けつけてくださった先生は、関西本部の会長室と3階の仏間を、幾度となく往復してくださったのです。

 邪悪を弾呵する先生の題目の大音声が、同志の心に正義の炎を燃え上がらせたのです。

 私の生涯は、この恩師への報恩の二字に尽きます。師の祈りに、死身弘法でお応えする以外に弟子の赤誠はありません。

 若き日、私は日記に綴りました。青春闘争の結論です。

 「第1にも、題目しかない。第2にも、第3にも宿命打開は、題目しかない。実践。——実行。——勇敢に、撓まず。観念論では、一分の変革もなし得ない」

必ずや変毒為薬と

 今こそ題目をあげきって、どういう結果が出るか、実践し切ろう 解決してみよう だれが何と言おうが、私は私なりに御本尊にぶつかってみよう——この決心で、十万遍、二十万遍、三十万遍、五十万遍と、題目をあげて、あげて、上げ抜きました。

 先生のお体、先生のご家族、先生の会社、そして、先生の創られた学会、先生が育てられた同志……歩いていても、電車に乗っていても、いつもいつも心で題目を唱えながらの闘争でした。

 祈りが、まだまだ足りない。まだまだ弱い。まだまだ小さい。自らを叱咤しながらの勇猛精進だったのです。

 戸田先生の弟子として、御本尊に願い切っていこう 働き切っていこう 同志のために勝ちきっていこう この一念しかありませんでした。

 そして、生活の上に、境涯の上に、厳然たる解決の証拠が出たのです。「御本尊はすごい」という大確信を、若き命に刻んだのであります。

 今、未曾有の大不況にあって、全国・全世界の同志が、地域社会の一大変革のために、真剣に題目を唱えながら、人生の現実と格闘されています。

 崇高なる仏の大音声が、生命を揺さぶらないわけがない。必ずや変毒為薬し、その地その国を、宝土と変えていけることを確信し抜いてください。

諸天よ弟子を護れ

 大聖人は仰せです。

 「各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(御書1132ページ

 湿った木から火を出す思いで、乾ききった土から水を出す思いで、私は皆の無事を強盛に祈っている——。御自身が流刑の真っ只中にあった佐渡の地から、遠く鎌倉の門下たちの身を案じられています。

 法華経よ、諸天善神よ、わが弟子を断じて護りたまえ これが師匠の祈りです。師匠とは何とありがたいものか。私はこの御文を拝するたびに、感謝と不惜の念がわいてきます。

 私もまた、尊き同志の皆様方、そして全世界の民衆が、あらゆる辛苦を乗り越え、晴れ晴れと幸福・栄光の勝鬨を上げられるよう、ひたぶるに祈っていきます。

 戸田先生は断言されました。

「題目で勝ちなさい。何があっても、あげきった題目の福運は厳然と残る。絶対に消えないのだ」

 勝負は、我ら自身の一念です。行き詰まったならば、それは「前進している証しだ」と胸を張って、何ものにも負けず、堂々と歩み抜きましょう。

 創価の師弟の大音声——唱題と対話の「大風」を、縦横自在に社会へ吹きわたらせようではありませんか


  颯爽と

   また決然と

     指揮とれる

   君が動けば

     勝利の天地に



kagetora_h at 22:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 御書と師弟