里帆ちゃん1 - コピー 現在、仙台市にある仙台二華中に通う菊地里帆子さんは、宮城県名取市閖上(なとりしゆりあげ)小学校5年生の時に東日本大震災に遭った。自宅も含め、生まれ育った閖上の街並みが津波にのみ込まれて行く様を目の当たりにした。

津波が2階まで押し寄せた校舎で一夜を明かした。市外にいたご両親とようやく会えたのは、周囲の水が引いた翌日の夕方のことだった。

私が彼女を知ったのは、それからひと月後の2011年4月。彼女が書いた、ある作文がきっかけだった。

閖上小はその年度、校舎は別の小学校に間借りをし、授業は遅れて始まった。里帆子さんは、新任の先生を迎える着任式で児童代表として挨拶をした。思ったことは「自分の体験した津波の事をしっかり伝えたい」。親御さんは「他の児童たちが怖かった体験を思い出すのではないか」と心配したが、彼女は「語りたい」ときっぱり言ったと言う。そして、その体験を超え、「もっと良い町をつくれるように、応援してくれる人への感謝を忘れず、精一杯生きていきます」と力強く宣言した。

 里帆子さんのメッセージはその後、学級通信に掲載された。担任教諭が、親御さんたちにも伝えたいと考えたからだ。

 私は、その通信を上記のようなエピソードと共に受け取った。そして、どうしても彼女に会いたくなった。大きな痛手を心に受けた少女に、それだけの強い意志を持たせたのはいったい何なのか…。私は直に会って確かめたかった。

 2011年5月初旬、私は彼女と一緒に閖上の町を歩いた。家々の土台だけが残る、痛々しいふるさと。私は意を決して疑問を声にした。

「里帆子ちゃんは、どうして津波のことを言おうと思ったの? 怖くないの?」
彼女はあどけない表情で、こう言葉を継いだ。

「里帆子だって、今でも怖い夢を見るよ。でもね。どうしてか分からないけど、『言わなきゃいけない。これを言わないと、何もはじまらない』ような気がしたの…」

 その春、小学6年生に進級したばかりの少女が、自分の運命から目をそらさずに、受け入れることを選んだ事実。それは、震災後を生きる私にとっての大きな指針になった。

 その後里帆子さんは、2011年7月に仙台市で行われた「東北六魂祭」のフィナーレで、感謝のメッセージを朗読するよう依頼を受けた。被災地復興応援企画として東北6県の祭りが集結する場で、世界中に感謝の思いを届けることを期待されたのだ。

書き下ろしたメッセージのタイトルは「希望の光~世界への感謝~」。津波から逃れ避難した小学校の校舎での体験がベースだった。

 避難した校舎には友達の家族が次々とやってきた。しかし、里帆子さんの両親はいつまでたってもやってこない。当時2年生だった弟の清史くんを見守りながら、心細い一夜を過ごした。
夜、電気がつかず真っ暗な校舎。始めのうちは、周りのお母さんや町の人たちの携帯電話の明るさで何とかしのいでいたが、バッテリーも残量が少なくなってきた。
その時、友達がバックに付けていて小さいライトのキーホルダーが役に立った。その明かりを頼りに、みんなでトイレに行った。

 「小さな光でも、希望だった…」。
後にその時のことを振り返り、「自分も小さい子どもかもしれないけれど、誰かの希望になれるかもしれない」と考えた。その想いが、作文につながった。

 感謝のメッセージは、こう締めくくられた。
「あの日私たちは大切な多くの命だけでなく、すべてを失ってしまいました。でも、どんなに苦しい思い出あっても、私たちはひとつの経験として未来へ一歩をふみだそうとしています。だから、この震災を心の片すみでかまわないので覚えていてください。
震災をきっかけに、たくさんの人の優しさや温かさを感じることができました。将来、私は元気をあたえてくれた方々に『ありがとう』と恩返しをしたいです。感謝を忘れず精一杯生きて行きたいです。
~中略~
輝く太陽がなくなったら、私が小さく輝けばいい、小さな私でもだれかの心の光、希望のひかりとなるように一生懸命頑張ります」

 強い意志を持って歩もうとする少女の姿に、どれだけの人が勇気づけられたことだろう。
 しかし、そんな里帆子さんにも、震災以降沢山の葛藤があった。

 震災後しばらくして里帆子さんは、それまで通っていた塾などをやめ、目標としていた中学受験も「やめる」と言い出した。

それは、津波が押し寄せてきた時、「誰も、何も助けられない自分がみじめだった」ことや、「自分はなんの役に立つのだろう」との問いかけ、「自分がやらなくても世の中は動く」というあきらめの感情など、様々な思いが自分の中で交錯していたからだと言う。

 しかしその思いは徐々に変わっていった。ライフラインが回復し、生活が落ち着いて学校に通うようになると、気持ちも少しずつ上向きになった。学校にはノートや鉛筆、教科書など、沢山の支援物資が寄せられた。先生から、「きみたちは恵まれている。世界中の他の国には勉強のできない子供がたくさんいる」と聞き、勉強ができる喜びを知った。そして、「そのような開発途上国の子供のために、何かできないか」と考えるようにもなった。

 さらに、中学生になるまでずっと言えなかったけれども、心にずっと引っかかっていた事があったとも話してくれた。震災の翌日、ようやく避難所にたどり着いたお母さん。二人を見つけるや否や、「清史~!!」と駆け込んだ。後から到着したお父さんも同じように、清史くんを心配していた事に、里帆子さんは何かふと寂しさを感じたという。
もちろんご両親は、里帆子さんの事を心配していなかったわけではない。当時2年生だった清史くん。授業が早く終わっているだろうから、海に程近い自宅に戻っているのではと、その気持ちが強かった。里帆子さんに対しては、「お姉ちゃんは絶対に大丈夫!」という、確信と信頼のようなものがあったそうだ。けれども、お姉ちゃんと言ってもまだまだ幼い里帆子さんにとって、それは小さな心の傷となった。

 しかしその後、着任式での作文の朗読や、学級通信への掲載、東北六魂祭でのメッセンジャーと大役をこなすにつれ、徐々に自信を取り戻した。その後も東京の復興支援イベントに招待されて朗読すること2回。さらに2012年6月には、アメリカ・ロサンゼルスのドジャーズスタジアムで始球式に参加し、被災地からのメッセージを届けた。

 皆の前で作文を読むということは、里帆子さんにとってどんな意味を持つのかとの私の問いに、彼女はきっぱりこう答えた。
「私が、私であるという事」

 そして、続けた。
「こういう作文を書いたり読んだりすると、『家族も亡くしていないのに大げさではないか?』などと言う友達もいて、傷ついたこともあります。でも、私にとっては、3月11日の夜を学校で明かした時に、親がいなかったことが大きかった。それまで自分にとって身近ではなかった死が一瞬にして現実のものになった。亡くなっていく人を見て、自分がその立場になってもおかしくないと思ったし、閖上の町だって、ずっと暮らしていくものだと思っていたから、それまでは、それほど大切な場所だとは思っていなかった。でも、それが、本当に大切なものだったことを知ったから、それが無くなる前に、皆に気付いてほしい。私も、それまでやるべきことをやっていたかを振り返られるようにしたいから、それを伝えたいと思う…。

親戚が津波で亡くなってしまったのですが、遺体安置所に連れて行ってもらえなかった。
お葬式の時に、遺体とお別れするチャンスはあったけれど、おばあちゃんから見ないようにと言われた。自分はあの時、ちゃんとお別れをするべきだったと思っている。
遺体安置所にいた人たちが、誰かの大切な存在だったように、私も、今ここにいて、ここから歩いていくという、自分の存在を知ってもらうために、作文で思いを伝える事は、自分にとってとても大事だと思う。
小学校6年生の春に、新しく学校に来てくれた先生たちに津波の事をしっかり伝えたいと思ったのも、今ここにいる私たちと同じように、多くの人の命がここにあって、素晴らしい町がここにあった事を分ってほしいと思ったのかもしれない…」

 最後に「絶対に起こってほしくなかった事だったけれど、もし津波を体験しなかったら、里帆子ちゃんは今とは違っていたと思う?」と訊ねた。

 里帆子さんは、間髪をいれずに大きく頷いた。
「きっと、何にも挑戦していなかったと思うし、将来、途上国の子どもたちを支援する仕事に就きたいとは思わなかったと思う。目の前で、全てが失われて行く様を見たからこそ、失われた命の尊さを知ったからこそ、生きて、世界で働く子どもたちが多くなるといいと思えた。亡くなる命だからこそ大切にしたい。生きる時間をどう使うかを皆が真剣に考えて、少しでも良いから行動すれば、世界は変わると思う」

 出会いから3年。はにかみながらも、一言一言丁寧に言葉を紡ぐ少女の成長を眩しく見ながら、私は辛い体験を自らの使命に変えて生きることができる人間存在の大きさを、確かに感じた。

(仙台市・言の葉アーティスト 渡辺祥子 2013年10月31日公開)