2006年07月

2006年07月31日

大阪文化復興について(続き)

大阪文化復興について、今回も書かせていただきます。
“復興”というからには、かつて大阪が文化があったわけです。
“大衆文化”。
これ、まさに大阪、あるいは関西から発祥しているんです。

日本古来の芸能である“能”。

この元である猿楽は、聖徳太子の前で秦河勝が紫辰殿で踊ったのが始め、とされていますが、これは大阪・四天王寺のことのようです。秦氏は謡曲の祖ともされています。

歌舞伎の発祥は京都。それを今のような形にしたのが近松門左衛門や富永平兵衛という大阪の作家たち。近松は文楽という大阪独自の芸能も作りました。これは未だに東京にはない、大阪独特の芸能です。

落語は江戸は鹿野武佐衛門、京都で露乃五郎兵衛、大阪は米沢彦八とほぼ同時期の江戸元禄の時代に発祥しています。ところが鹿野は大阪・摂津の出身。つまり落語も関西人の作った芸、というわけです。

明治になって、芝居の型が変わってきました。それまでは、芝居、とは歌舞伎のことでした。
しかし、明治の近代ものや外国の翻訳ものなどは、歌舞伎の型ではできない。そこで、新派とか新国劇などという新しい演劇が生まれます。

新派というのは歌舞伎を旧劇と見立てて名付けたもので、よりリアルな演出、演目が上演されましたが、最初の上演は大阪の新町でした。新国劇も歌舞伎が国劇なら、これは新しい国劇だぞという意味です。
その生みの親は沢田征ニ郎。最初は東京で旗上げしましたが、失敗して大阪・道頓堀を拠点としました。これに白井松次郎という人が注目して、発展するわけです。
新国劇の功績は、歌舞伎の立ち回りをよりスピーディにした剣劇、つまりチャンバラを生み出したことです。これが大衆演劇のはじまりとなりました。
白井松次郎は松竹を京都に創設した人です。
松竹は演劇興業を主体とした会社でしたが、後に映画制作と配給にのりだすことは周知の通りです。

映画も、ビジネスにしたのは関西人です。最初の映画(活動といってました)の上映は明治28年、神戸の神港倶楽部でした。これが金になると思ったのが、横田永之助という京都の人。この人が横田商会という日本最初の映画会社を作って、マキノ省三監督や日本最初の映画スター、尾上松之助を生み出しました。
後、他の小会社と合併して日活となります。
私はゴジラをはじめとする特撮モノや黒澤映画のファンということもあって東宝映画が好きなのですが、これは東京宝塚という意味です。宝塚、そうあんもタカラヅカ。これは阪急電車を作った小林一三がもともと宝塚温泉の客寄せとして作った少女歌劇が母体です。
音楽レビューの発祥です。これは東京の浅草オペラより早かったそうです。
ついでながら、映画解説を話芸としていたのは淀川長治。
この人は神戸出身でした。彼の後継者がいませんね。

新喜劇は曾我廼家五郎・十郎の大阪での旗上げが最初。後に松竹新喜劇、吉本新喜劇へと発展します。東京にはもともとない演劇です。

漫才ももちろん大阪。エンタツ・アチャコという名前はご存じでしょうが、マイクを前に2人の人間が立ってボケとツッコミで喋りを演じる、という形はまさに彼らが最初です。
これをさらに発展させたのが秋田實という漫才作家で、漫才台本の書き手と演じ手の育成をしたわけです。
いとし・こいし、Aスケ・Bスケ、お浜・小浜、はんじ・けんじ……。
今の人は知ってるのかな。

風俗産業なんていうのも大阪から、なんですね。新国劇から剣劇が出て、後に女剣劇が生まれる。
客はこれにチラリズムを期待して、そのうちストリップを生む下地を作るわけです。そういうこともあってか、関西ストリップなんちゅうものが東京で生まれたのでしょう。関西のものはスゲェっていうわけです。東京の歌舞伎町にある色んないかがわしいサービスも、ほとんどは関西人の発想ではないでしょうか。

さて、私の教え子などはマンガの持ち込みに東京へ行く。
以前言いましたとおり、出版社は東京に集まってますから。
今、大阪にマンガ産業は皆無です。でも昔はあったんです。
貸し本というヤツ。今でいうレンタルビデオみたいなもの。
この版元は大阪にあったんです。
さいとうたかを、水島新司なんて大阪でマンガ描いてた。
マンガの神様手塚治虫は宝塚出身で、処女出版の『新宝島』は大阪の育英出版でしたしね。

と、まあ、まだまだあるんですが、私が言いたいのは大阪・関西は、オモロイもの、エネルギッシュなものをエンターテインメントとして仕掛けたり、生み出したりしていたわけです。
地があるわけです。ということは、今もできるはずなんです。

東京も大阪がオモロないと、張りもないでしょう。
やらんといかです。大阪は。
それも大阪人が一致団結して。
なかなか団結せんのですな、大阪人は……。




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2006年07月28日

大阪文化復興

中山市朗です。

先日、有栖川有栖さんと、きたる8月6日の作劇空間の打ち合わせをしました。
テーマは「大阪文化復興」。

作劇空間は作劇塾の塾生たちによって運営されるイベントで、今回が第一回となります。
実は2年と半年前、作劇塾を開塾したとき、四天王寺で同じテーマ、同じ有栖川有栖さんのゲストで、トーク・イベントをやりましたが、このときはお互い憂いただけで、結論が出ずに終わってしまいました。今回はそのリベンジです。

大阪文化復興。
これは私の中の大きなテーマです。

はっきり言って、今の大阪は元気がありません。
経済的に落ち込み、なんやお役人のやらはった仕事が大きな無駄遣いやったと叩かれています。
芝居のできる小屋も次々と閉鎖。
あ、天満に寄席ができるんですね。これは明るい話題。

しかし、宗衛門町も風俗の街になってしまったし、新世界の雰囲気も変わってしまった。
なにより、クリエイター(といっても種類はありますが)たちの活躍の場がない。
例えば、出版社が無い。

あることはありますが、東京に全体の94%が集中、2%が大阪。残りが各地方に点在、といいますから実質、出版は東京の独占業です。
実際、私自身も大阪に住んでいますが、出版だの映像だの、取引先はほとんど東京なんです。

映画のスタジオが大阪に無い。音楽産業を支えるメーカーも無い。だから作家になりたい、マンガ家になりたい、映画に関わりたい、ミュージシャンになりたい、役者になりたい、そういった若者は東京へと流れていってしまいます。

それって、ほっといていいんでしょうか?
「大阪にはお笑いがあるやないか」と言いますが、それとて今は、東京で売れなければ認められないのです。

じゃあ、東京で世界に通用する凄いモノが生み出されているかといえば、私はそうも思わないわけです。日本映画なんて韓国や中国、台湾製の映画のパワーに負けています。
アニメ製作も安いから、とアジア諸国に発注しているうちに、どうやらその技術を盗まれてしまった(ちょっと言葉は悪いですが)ようですし、役者だって『SAYURI』の主役は中国の女優さん。ブルース・リーやジャッキー・チェン、ジェット・リーなんて国際スターもなかなか生まれない。
プロデューサーや監督も。
香港映画界なんてもう20年以上前にはハリウッドに拠点を作ったりしていたんです。
それで『キャノンボール』なんて映画をオールスターで作ったりしていました。

以前、千葉真一さんのマネージメントをしている会社の人と話したことがあるのですが、中国系の映画産業はちゃんとハリウッドに根を張って、ユニオンみたいな組織がある。でも、日本人はそれをしていない。
だから千葉さんにして、ハリウッドで仕事を取るのはなかなか難しいんだそうです。
コロンビア映画をソニーが買収しても、結局その辺りは変わらんのですな。

そんな話を聞くと悔しいわけです。
それでもクリエイターになりたい若者は、食っていくために東京へ出て行く。
でも、ほとんどは何ともならず、ボロボロになって帰ってくるんです。
あるいは、東京の価値観を植え付けられてしまうんです。

「大阪はあかんな」という声は大阪の人の口からもよく聞きます。
ある東京の映画プロデューサーと話したとき、「大阪のイメージは?」と聞くと、「たこやき」と答えられました。「他には?」と聞くと、「う〜ん、ヤクザ」やって。

何人かの作家に「大阪って行ったことあります?」と聞くと、ほとんどの人に「京都までは行くんですけどねぇ」と言われてしまいました。
つまり大阪には仕事が無いわけです。

これ、あかんでしょ。
作家が来ない街。そんなんで大丈夫やろか?

そんな話を2時間ほど、有栖川さんと話しました。
作劇空間では、私なりの大阪文化復興の提案をさせていただこうかと思います。





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京都魔界巡礼団

8月2日深夜の関西テレビにて、『京都魔界巡礼団・粟田口刑場編』がオンエアされます。
これば2年前の今ごろ、塾生たちと共にCS京都の番組として製作した一本です。

粟田口というのは、江戸時代の京都の東山周辺。今の国道一号線沿いにあった刑場のことで、15000人あまりの罪人がここで処刑されたといいます。
その罪人は六角獄舎、今で言う刑務所から引き出され、粟田口刑場へ好くわけですが、その間、京の目抜き通りを見せしめとして練り歩く。いわゆる「市中引き回し」というヤツです。

番組では、罪人が通ったであろうその市中引き回しのコースを辿ってみました。
もちろん、明治14年にその制度は廃止されましたが、京都の町の名前にそれが残っているんですよこれが。

六角獄舎跡は日本近代医学発祥の地(処刑された遺体を解剖し、日本で最初に観臓を記した山脇東洋の記念碑)として残っていますし、十念ヶ辻、松原京極(極は果て、極めという意味)、首途神社、西京極、五条大橋を渡って蹴上げ(刑場近くにして足がすくんだ罪人を役人が蹴り上げたという)、万霊供養の塔……、その道々に怪談も伝わっていました。

今までの『京都魔界巡礼団』は秦氏とユダヤ人の謎とか、太秦の牛祭りの謎とか、御所の鬼門散策とか、古代史をテーマにすることが多かったのですが、今回は江戸時代の闇を取り上げてみました。
処刑の種類とか、意味とか、やり方なども紹介していまして、地上波ではちょっと作れない(まあ放送してしまうんですが)番組です。

ナビゲーターは私、中山市朗です。是非ご視聴ください。

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2006年07月26日

第一回怪談の間

22日の第一回怪談の間、盛況にて終了致しました。

ご来場いただきました皆様、ありがとうございます。
また、なによりありがたかったのは、今回初めて催した交流会に大勢参加してくださったことです。

遠くは名古屋から来たという物過ぎ、いや、殊勝な人もいまして、結局二次会、三次会と気がつけば、早朝6時まで盛り上がっていました。(1次会は居酒屋、2次会はジンギスカン料理、3次会は私の書斎で)。

今回、このような交流会をいたしましたのは、怪談好きな人たち同志の情報交換や密会(?)の必要を感じていたからです。
また、怪談はお互いに披露して相乗するのが面白いしていただきたいという思いもありました。

皆様も、同じようなことはお考えだったようで、まわりに怪談好きな友達がいないので寂しい、とか、もっと怪談を楽しむ空間が欲しいなどといった意見を聞かされました。
また、私としても今までおこなってきました怪談夜話のお客さまの顔は覚えているのか、何をされている人なのか、どんな人なのかを知らないというのはちと寂しい、という思いもありました。

交流会、やってよかったというスタッフ、塾生ともども喜んでいます。

これからの怪談の間も、このようなネットワーク作りをしようと思います。

第二回も交流会つきで9月頃に、と思っています。詳細の決まり次第、このホームページで告知いたします。

まだ、怪談・怖い話、あるいはオカルト好きな人も(2次会では怪談よりオカルト話で盛り上がりました。秘匿された古代史とかUFOとか)、どうぞお気軽に参加してください。

お待ちしております。



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2006年07月20日

中山です。

よお降りまんな。
さっき近所の本屋の立ち読みから帰ってきたところですけど、ずぶ濡れですわ。

実は私、雨降っても傘ささん主義でして。
なんでって?

いや、傘さすいう行為が嫌なんです。なんか雨に負けてる感じというか、まあこのくらい死なんやろ、みたいな気がするというか。それに大阪の中央区に住んでますので、地下街に入れば平気やし、帰りに晴れたら傘忘れそうやし……。

いや、さすがに大降りのときはさしますよ。
でもまあ「変わってますね」と、たまに言われます。

しかし、いろいろ昔の文献を紐解くと、江戸時代の侍は、めったなことでは傘などささなかったそうです。しゃんと背を伸ばして、小雨の中を傘無しで歩いたそうです。しかも、道を曲がるときは、直角に曲がったのです。そして、なんと右足を出せば右手が前へ、左手が前へ出る、というのが侍。というか、日本人の習性だったのです。
だから走れなかった。走るというのは特別な技術だったようです。山田洋次監督の『隠し剣・鬼の爪』で侍たちが歩きの練習をする場面があります。
「左足を踏み出し、手は互い違いに出す。これがエゲレス式の新しい歩き方なんです」と教練の動きに侍たちがブッと吹き出す。

侍たちは袴に両手を当ててそのままスススッと歩く……。あれがホントの侍の動き。

しかし、戦のときは走ったろう、と思われるのですが、どうも両手を上げて頭の前につきだすようにして走ったようです。
手を頭の前に突き出す、というのは身体をちょっとでも早く前に進めなければ、という気持ちのあせりなのだそうです。

訓練を受けた者は、黒澤明監督の『椿三十郎』で三船敏郎が見せる、腰を低くして左手は刀の柄を持って右手はグッと拳を振り動かさないで走る、というあの動きをした。

まあ、オリンピックの短距離走でなかなかいいタイムが出なかったり、サッカーであっさり負けたりするのは、いわば当たり前なんですな。150年前まで、日本人はあんな動きできなかったんですから。

雨、でちょっと、そんなようなことを考えてしまいました。

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2006年07月14日

イベント情報その2

中山です。

 以前、この夏の怪談イベントのお知らせをさせていただきましたが、追記です。
8月6日(日)、ミステリー作家・有栖川有栖氏をゲストに『作劇空間』という催しをします。こちらは怪談ではなく、大阪文化復興をテーマにした交流会です。
 大阪文化復興、というのは私の中の大きなテーマです。
 この思いについてはいずれ、そのたけを書かせていただきます。

 7月31日(月)は、大滝エージェンシーと吉本興業の主催する若手お笑いライブ『キタイ花ん』にゲスト出演します。この『キタイ花ん』の会場では芸人をキャラクター化した缶バッジやカードを売っていますが、これは作劇塾の塾生たちが制作したものです。『キタイ花ん』はまさに新人のお笑い芸人に、チャンスを与えようと言うものです。だったら、イラストやマンガを描いている新人にも同じ場所があっていいじゃないか、ということでコラボしたもの。ですから売り子も塾生です。どうやれば自分の描いたものが売れるのか、といういい勉強になる
 ―しかしねぇ、戦略がない。ただ描いて売ってるだけでは売れない。どの芸人が人気があるのか、あるいは行きそうなのか、もっとキャラクターを知らねば、と楽屋に出入りして取材したり、打ち上げに参加したりして友達になる必要がある。そしたら、芸人のノリを知ることができるし、客席からは見えない芸能界の部分も少しずつ見えてくる。人を笑わせるとは、というところも共に追求出来るし、もしその中からスターが出ると……。ともかくそれらがマンガやイラストを描く時の武器になる…んですけどね。なんでマンガやイラストを勉強してる若い子らは、そういう対外的なこと、できないんでしょうね。また、お笑い芸人とコラボしろなんて考えている場所もウチ(作劇塾)しかないんでしょうけどもねえ。もっと利用してもらいたい。

 ところで、実は私の初舞台(別に俳優でもタレントでもありませんが)は、やっぱりお笑いライブでした。十五年ほど前の心斎橋・駄菓子屋倶楽部というお店を昼間借りての月一度のライヴ。漫才やコントが一通り終わって(中に箪笥を背に背負って妙なコントをする女の子がいて、これが山田花子の初舞台)、私の登場。当時出版されたばかりの扶桑社版『新耳袋』から、゛くだん″に関する話をして、会場がし〜んと硬直したのを覚えています。あれが快感になった。結構お笑いにきた客にはウケるんです。まあ、二、三人は拒否反応を起こして、トイレに駆け込む人も必ずいますけど。

 それから劇場版『怪談新耳袋/ノブヒロさん』の上映は、大阪では西九条のシネ・ヌーヴォで8月19日から。この日の最終上映の前に、私の舞台挨拶もあります。詳しくはシネ・ヌーヴォのホームページで。

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2006年07月07日

総務について

中山です。

今日は作劇塾総務をやっている菅野と言う男について書かせていただきます。
まぁ、最近、作家でもない菅野と言う奴が作家養成の講師してるそうやと叩かれて落ち込んでいるようで。
「あほ、ネットとかで悪口言われるようになったら一人前やぞ」と笑っているのですが。

菅野は私の専門学校時代の教え子です。

七年前、その専門学校に漫画家志望で入ってきたのです。ところがこれがダメダメ学生で、私の講義にはあんまり出てこないし、漫画もウマくない。まあヘラヘラと遊んでいるわけです。しかし、文章を書かせると漫画よりはマシなものを書いてくる。何かある。で、卒業した日に「お前漫画では絶対プロになれん。でもライターやったらひょっとするかも知れん」と言うたわけです。何で卒業した日になのかって?

その専門学校で講師契約した時、条件として、学生には「お前は無理だからやめろ」と言ってはならない、というものがあったのです。学生はお客さん、「それを言って辞められたら困る」と言うわけです。でも卒業したら、もう学生ではない。
 
で、その頃、怪談の携帯コンテンツの仕事をしていたので、取材と台本の仕事をやらせてみたわけです。もちろん原稿は赤だらけ。しかしそれは当たり前。要は仕事に対する姿勢を見たいわけです。そこに少し脈があった。まあ楽しそうに書いてくる。その上、自分の書いたものがメディアに載って、ギャラがもらえる。だから余計楽しくなる。この頃から彼は作家になろうと心に決めたようです。
その後、彼はゲーム会社に就職し、ゲームの脚本を書いていたようです。ところが、その会社を辞めたいといって、ある日私のところに相談に来ました。

ちょうどその頃、私も専門学校を辞め、塾を立ち上げる準備をしていたので、彼はそれを聞いて協力したいと諸手を上げてくれたのです。とはいえ、すぐに採用とはいかない。私からみればまだダメダメ学生。しかし、後、三ヶ月の無給期間(こちらとしてはお試し期間)に耐え、熱心に塾のために働いてくれたので、今、総務にいるわけです。

ただ、彼の目標は作家になること。彼は作家になるためには塾に身を置くのが懸命だと思ったようです。
とはいえ、塾の総務は激務です。
それをこなしながら、一人で投稿用原稿を書き続けなければならない。

その根性だけはあるので、怠けがちな塾生たちの身近な見本になってくれれば、という期待もこちらにはあったのです。
年齢的には菅野と同じ塾生(最近は年上の塾生が増えましたが)も何人かいます。
その折り合いも難しいでしょうが、少なくとも塾生より上にいなければならない。
身を律するという点でも、彼の大きな勉強になればと思うのです。

もう一つ言うと、給料は食っていくギリギリしか与えていません。これで食えてしまうと、作家にはなれないでしょう。その代わり塾のラインを使ってライターとしての仕事は、どんどん遠慮なしに取れと言っています。

菅野は昨年あたりから、あちこちの新人文学賞に投稿するようになって(私にはほとんど相談も無しに!)、ある賞では最終選考まで残ったりしたようですし、二次、三次くらいはコンスタンスに残るようになりました。
私から見れば、テクニックはまだまだなのですが、やっぱり楽しそうに書いているのが分かる。だから何となく読ませるのです。

そんな中、東京のある出版社からうちで本を出さないかという話があったわけです。
彼の待ちに待った作家デビュー(私にすれば五年は早い!)。

それで、四月から授業を持たないか、と私が持ちかけたのです。

作劇塾は三十人前後がキャパ。まさに少人数制です。うち、半数以上は漫画家、イラスト志望、あとは作家、ライター、シナリオライター、それにプランナーや映像志望。そう、あんまり作家志望がいなくて、実は五人ほど。しかし新しく入ってくる塾生には何人か作家志望がいるようなので、作家用のカリキュラムを一つ増やす事にしたのです。

しかし、新入生の全員がどうやらまったくの初心者。これはプロになるための難しいテクニックを教えるのはまだ早い。そこで菅野くらいのキャリアの者が教えた方がいいと判断したわけです。上から教えるより、さあ、一緒に書いていこう、というスタンス。
初心者クラスだと最初は大きな夢を持って入ってくるのですが、すぐ壁にぶち当る。

すると、書かなくなる。なぜ書かん、ここはこうしろ。と言ったところで「そら先生はプロやもん、そんなん俺ら無理やわ」となりがちなんです。
しかし、菅野クラスの者が教えていると、鼻っ柱の高い物はいつでも越したるわい、という目標になるし、書けない者にも「俺は総務という激務やりながらこんだけ書いてるぞ、だから作家になれたんやぞ」と言える。
そうなると彼らは言い訳が出来ないわけです。

初心者にはまず書かすこと。書くということが日常になってから、プロになるためのワザを教えていかないとついて来れないし、身にもつかない。人によりますが、まあ、三年かかりますな。

それで菅野が授業を持つことになった。
ところが三月三十一日付で、出版の決まっていた出版社が倒産したわけです(笑)。で、デビューの話は、泡と消え…。

つまり、彼の講師としての後ろ盾が無くなったわけです。しかし、授業を止めるわけにもいかないし、簡単に代替講師が見つかるものでもない。菅野は自分でテキストを作り、私に持ってきました。熱くてわかりやすい上に、どっから引っ張って来たのか、理論的な小説技法論。これなら、と、菅野にそのまま総務兼講師をやってもらうことにしました。

今は塾生たちと一緒に書いて、合評しながら、ライターとして生きることも教えているようです。
塾生たちを大阪で行われるプロのライターや編集者の会合やセミナーに連れていったり、彼自身が大阪中の出版社に営業をかけたりしながら。

まあ、私から見るとまだまだ甘い。定例会議では説教ばっかり。詰も甘い。要領も悪い。気配りが足りない。でもまあ私の二十四歳の頃を考えると…。

というわけで、菅野も修行中。以前より増して投稿原稿も書いているようです。

しかも、私の見てきた専門学校の給金だけの為にやっているやる気のない講師たち(多い!)よりもよっぽど熱く、塾生たちのことを真剣に思ってくれています。近いうちに、きっと菅野は作家になって本分真っ当していることだろうと…これは私の読みが甘い?

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2006年07月06日

怪談文学賞について

中山です。

先日、東雅夫氏とコンタクトを取り、『幽』怪談文学賞の審査員を辞退する由伝えました。

怪談文学賞はメディアファクトリーの『ダ・ヴィンチ』と『幽』編集部が主催するもので、短編部門はもう締め切りましたが、長編部門は8月10日まで投稿できます。

私はこの賞の審査員のひとりとして、これからその作業をすることになっていました。

しかし、以前から懸念していたことがありました。
それは、塾との兼ね合いです。

私は私財を投じて作劇塾を作りました。
その理由は複合的なものですが、ひとつには30歳まで食えなかった私の下積み時代を思う時に、当時、何を自身が与えてほしかったか、何が必要だったか、そして今思うと、「これが必要だった」「あれは遠回りだった」としきりに考えるに至りました。

特に専門学校の講師を長年やっていましたので、余計その部分が見えてくるわけです。専門学校といえども企業。学生のことを思うことと、学校の方針とは合い矛盾するものだと。

専門学校の経営者の中で、“千三つ【せんみつ】”という言葉が聞かれます。
これは、1000人の中で3人スターを育てれば、学校経営は成り立つ、ということ。
作家やマンガ家になるのは、それだけ厳しいということです。

では、後の997人は?

まあ、その学校の卒業生たちのその後の姿は悲惨そのものでした。無理矢理就職させられ(学校としては就職率が上がる)てもすぐに辞める者も多かったし……。

しかし、スターになれなくても、好きな道で食うことはできるのです。それを専門学校では教えていない。

そこで作劇塾を立ち上げたわけです。
ただ、「好きな作品を書(描)いて持ち込む」だけではなくて、「仕事としてこなす訓練もする」「人脈を作る」「作品をお金にするスキルを養う」「もっとプロの人間と交流して、共に仕事をする」など、専門学校ではやらせてもらえなかったことをできる場所を作りたかったのです。

3年目を迎えた今、ようやく塾生たちに仕事が与えられるようになりました。
また、他の専門学校や養成所とは違う特色も出てきたように自負しています。

そして怪談文学賞です。
何らかの文学賞の審査員が私塾を開いている。となれば、そこに入る塾生はその文学賞に応募するなら、他にない何らかの有利な環境にいることは確かでしょう。と、いうことは裏を返せば、そこに公正な審査が行えるのかという疑心が起こるのも致し方のないことでしょう。
審査員の私が審査の段階で見ている原稿が塾生のものだと知ったとき、どう対処すればよいのか、という問題も起こります。塾生だから優遇することは絶対にできませんし、だからといって、他より辛口になる、というのもおかしい。作家を輩出するのが塾の命題ですし、多少とも有利になるのでは、と入ってくる塾生も正直いるでしょうから。

この葛藤は、怪談文学賞の話があったときからずっとありました。

そして今回、塾から2名ほど賞に応募しました(私の知らないうちに応募している塾生もいるかもしれませんが)。その原稿に私が赤を入れているとか、私が書き直したのではないか、という憶測が流れているということも耳にしています。

もちろん、彼らの原稿に赤を入れるとか、私が書き直すという行為は一切していません。

しかし、賞に応募するための対策や傾向は、相談に来られたら教えないわけにもいかないし、それができるところが塾の特色でもあるはずです。

また、この賞が来年以降も続くとなると、その線引きも難しくなる。

例えば、課題で怪談を書かせたとします。課題だから私の赤は当然入るし、書き直しもする。それを根気よく重ねて、そのうちこの原稿が水準以上のものになったとき、怪談文学賞に応募できるのかどうかという問題。

それはできない、となれば、塾の意味も無くなると思うのです。

しかし今後、私が塾をもっている限り、審査員である私がどの時点で、その原稿にどう関わったのかということは、立証できるものではありません。ましてや私と塾生たちの間には、いつでも膝をつき合わせられる環境にある(それが塾だと思います)。となれば、自然と外部の人たちからは、疑心、不公平感、妬み、やっかみ、憶測、といったものは当然出てくるだろうと思うのです。

これでは怪談文学賞の権威と信用を失墜しかねない、また、投稿者(塾生を含めて)の皆さんへ心配や迷惑をおかけすることになり、また憶測が憶測を呼んで、どんな問題に発展してしまうか予測もできません。

ですから、そうなってからでは遅い、今のうちに審査員から身を引くべきだと決断するに至ったわけです。

『ダ・ヴィンチ』の担当者は引き止めてくれましたが、今、書き並べたものと同じことを告げ、了承いただきました。

ただし、その担当者と東氏に私はこう言いました。

「その代わり、今後怪談文学賞が続くなら、入賞を狙える塾生を輩出するためにも作劇塾はあり続けます」と。

怪談文学賞は怪談作家を世に出そうという意図のもと発足しました。
ならば養成する塾があって当然だと思うのです。

私財をはたいて作った塾です。つまり、私のすべてがそこにあります。

あとは……塾生のやる気と本気と根気。
書くのは私じゃない、塾生諸君なのだよ……。

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2006年07月02日

ホラーアイドルとは

中山です。

昨日、ホラーアイドルということを書きました。
「何のこと?」とおっしゃる方々にご説明します。

実は“怪談夜話”に参加くださっていたお客さんは御存じかと思いますが、私の怪談ライブに若い女性にも登場してもらっていました。

ところが、あの子たちも劇団を退団したり、スケジュール調整が難しかったりと、なかなか固定しませんでした。

ホラーアイドルと言っても、幽霊みたいなキャラ、ではなく、怪談を語ったり、聞いたりして共感してくれるキャラ。それを明るく自然にやってほしいわけです。

いないですよね、そんなタレント。

怪談を語るのは稲川淳ニとか、織田無道とか、桜金蔵とか、私とか、木原とか。おっさんばっかり。
でも、怪談に美女はつきもの。日本では女が男を襲うのが昔の怪談の定番なら、西洋では女が襲われる。必ず美女。で、そういうことに敏感なのも女性。
巫女はもちろん女、霊能者にも女性が多いし、ホラーマンガもレディースものとして扱われたりしているんです。

でも、女性から見る、あるいは語る怪談の世界が、文芸の世界には最近、岩井志麻子さん、加門七海さん、工藤美代子さんなど色々出てきましたが、ナマの芸(白石加代子さんの『百物語』というのがありますが、朗読なのでちょっと違う)としてはない。美女が語る恐怖、あるいは、身近な不思議への疑問……。

男はここを理論的に説明しようとしますが、女性ならではの感覚や考えがあるはずです。これがエンターテイメントとして語れる女性。ただし、霊能者では断じてない。「霊感が」なんてことも言わない。そんな芸があれば、どんな世界が展開するのか。ちょっと楽しみなんですけどね。

俺だけか、そんなん考えてんの……。 

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2006年07月01日

イベントについて

中山です。

この夏の怪談イベント情報です。
作劇塾からのインフォメーションでも提示してありますが、まず、7月22日(土)に『怪談の間』が作劇塾の教室内で。

このイベントはお客様と円座になり(もっとも場所の関係でパイプ椅子ですが)、共に怪談の恐怖と不思議を共有しようというものです。以前は私の書斎で囲炉裏を囲んでの怪談会をプライベートで行っていました。
この時の条件が、「参加者は必ず怪談を用意し、みんなの前で披露すること」でした。

考えたら、ここで誰かの話した怪談が本に掲載され、コミック化され、ドラマ化されたり、映画化されたりしているわけですね。

今回のこのイベントは、その拡大版とでもいいましょうか。

前回も一度、同じ形態で開催して結構好評いただきました。
ただ、前回は怪談を必ず披露すること、という縛りがあったため、参加したくてもできない、という声もありましたので、今回はその縛りは無し、ということで。

でも怪談は、やっぱり膝を付き合わせて互いに楽しむもの。
「1本くらいは持ってきて」というのが本音です。その方が楽しいですよ。

8月15日(火)は『怪怪怪』という怪談イベントをうめだ花月で。
一昨年もうめだ花月で怪談をやりました。その時のゲストは太平シローさん。その前の年には、ブレイク寸前の友近さん、$10の2人。

で、今回は、ロザン、元シェイクダウンの後藤くん。
もうひと組はある女性芸人に交渉中です。

司会進行は映見内咲さん。彼女には8月4日発売のDVD『怪怪怪』でもナビゲーターとして出演してもらっています。「おっ」、と思う華のある子で、以前から私が作ろうとしていたホラーアイドルに適役では、と私が勝手に思っております。

北野誠さんとは、毎夏、河内長野市のラブリーホールでやっていましたが、「この夏はないの?」とよく聞かれます。そう、残念ながら、今夏はいろいろ事情があってありません。

しかし、御安心あれ。
10月頃にラブリーホールで開催します。早く情報が欲しい人は、作劇塾のホームページをまめにチェックしておいてください。秋の夜長の怪談も、いいんじゃないですか。


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プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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