2007年02月
2007年02月27日
『怪怪怪』について解説
中山市朗です。
『怪怪怪』について、ちょっと解説させてください。
これはマンガ、小説家コースの塾生たちの作品集です。
ただし、これは専門学校や大学の卒業制作集とは、まったく違うものです。
発端は、2年前、エンタイトル出版の打越編集長の言葉でした。
「ここは中山さんという作家の興した塾なんですから、うちと提携して、塾生さんたちの作品集を出版して、流通させてあげましょうよ」
私はありがたいお言葉ながら、最初は辞退したんです。
出版は、まあ自費という形をとれば、誰にでもできます。しかし、流通させるというのは難しい。これができれば、実質デビューとなるわけですから。これは質の高いものが求められます。
1人、2人をデビューさせるならともかく、「集」ですから、10人近い塾生をデビューさせるわけです。それは正直、塾も立ち上がって間もないこともあって、願ってもないことですが、無理だと判断したわけです。
ところが、その後、塾生たちが専門学校で出しているような作品集を出したいんですが、と言ってきたんです。まあ、他の学校の経済事情は知りませんが、うちは原価割れに近い月3万の塾費です。そんな余裕はない、と正直に返事をすると、いや、出版にかかる経費、印刷代などは参加者で出し合うことにしている、と言う。
そこで、エンタイトル出版からこんな提案があるんだけど、とその塾生に打ち明けたわけです。やるなら、塾生の作品集が、ただの冊子になりましたと関係者に配るだけではつまらない。どうせなら、出版社から流通させる商業誌にしてみたら、と。
物凄い難関が立ちふさがるだろうけど、完成すればデビューになるよって。
それで決まったわけです。
作品集とはいえ、これは書店に並ぶ。だから編集方針があって、編集長のチェックが入る。作品が甘いと載せられないことになる。そしてテーマは怪談。これは打越編集長からの絶対条件でした。描き手は全員無名です。これでは、恐らく本屋は取ってくれない。
だから塾長である私の監修という体が必要だったわけです。
また、ある制約の下に描くという体験も必要ですし、なによりも怖く見せるテクニックは最も難しいハードルです。これをこなすことが、なによりの勉強です。
そして当然ですが、打越編集長が、編集の目からチェックしてくれる。これが大きい。私は作家、講師の先生方はマンガ家ですので、ここの目がちょっと違うわけです。
まあ、プロになったら原稿のダメ出しをしてくるのは編集の人間なので、ここでそういうやりとりをしておくことは、大きな経験です。
大抵は持ち込みに行けば、ボロクソに言われるのがオチですから。
打越さんは、どうすれば出版物に耐える作品になるか、という観点からのアドバイスをしてくれるわけです。
まあ、こんな環境は絶対他にはない、と自負しています。
その第一弾は、昨年の3月に出ました。
このとき、塾生は精一杯やったんですが、まだ「プロ」というスキルにまでは達していませんでした。
あれから1年。
今、進行中のものが第2弾。スキルは確実に上がってきている。
予感はあります……。
『怪怪怪』について、ちょっと解説させてください。
これはマンガ、小説家コースの塾生たちの作品集です。
ただし、これは専門学校や大学の卒業制作集とは、まったく違うものです。
発端は、2年前、エンタイトル出版の打越編集長の言葉でした。
「ここは中山さんという作家の興した塾なんですから、うちと提携して、塾生さんたちの作品集を出版して、流通させてあげましょうよ」
私はありがたいお言葉ながら、最初は辞退したんです。
出版は、まあ自費という形をとれば、誰にでもできます。しかし、流通させるというのは難しい。これができれば、実質デビューとなるわけですから。これは質の高いものが求められます。
1人、2人をデビューさせるならともかく、「集」ですから、10人近い塾生をデビューさせるわけです。それは正直、塾も立ち上がって間もないこともあって、願ってもないことですが、無理だと判断したわけです。
ところが、その後、塾生たちが専門学校で出しているような作品集を出したいんですが、と言ってきたんです。まあ、他の学校の経済事情は知りませんが、うちは原価割れに近い月3万の塾費です。そんな余裕はない、と正直に返事をすると、いや、出版にかかる経費、印刷代などは参加者で出し合うことにしている、と言う。
そこで、エンタイトル出版からこんな提案があるんだけど、とその塾生に打ち明けたわけです。やるなら、塾生の作品集が、ただの冊子になりましたと関係者に配るだけではつまらない。どうせなら、出版社から流通させる商業誌にしてみたら、と。
物凄い難関が立ちふさがるだろうけど、完成すればデビューになるよって。
それで決まったわけです。
作品集とはいえ、これは書店に並ぶ。だから編集方針があって、編集長のチェックが入る。作品が甘いと載せられないことになる。そしてテーマは怪談。これは打越編集長からの絶対条件でした。描き手は全員無名です。これでは、恐らく本屋は取ってくれない。
だから塾長である私の監修という体が必要だったわけです。
また、ある制約の下に描くという体験も必要ですし、なによりも怖く見せるテクニックは最も難しいハードルです。これをこなすことが、なによりの勉強です。
そして当然ですが、打越編集長が、編集の目からチェックしてくれる。これが大きい。私は作家、講師の先生方はマンガ家ですので、ここの目がちょっと違うわけです。
まあ、プロになったら原稿のダメ出しをしてくるのは編集の人間なので、ここでそういうやりとりをしておくことは、大きな経験です。
大抵は持ち込みに行けば、ボロクソに言われるのがオチですから。
打越さんは、どうすれば出版物に耐える作品になるか、という観点からのアドバイスをしてくれるわけです。
まあ、こんな環境は絶対他にはない、と自負しています。
その第一弾は、昨年の3月に出ました。
このとき、塾生は精一杯やったんですが、まだ「プロ」というスキルにまでは達していませんでした。
あれから1年。
今、進行中のものが第2弾。スキルは確実に上がってきている。
予感はあります……。
kaidanyawa at 23:27|Permalink│Comments(0)│
2007年02月26日
『怪怪怪』大詰め!
中山市朗です。
塾生たちの執筆による『怪怪怪』が大詰めにきています。
先ほども塾生たちのマンガと小説のチェック、ダメ出しをしたところです。
マンガに関しては、もうプロデビューしてもおかしくない画力、構成力を持った子から、一編のマンガを描きあげるのは初めてという子までいるわけです。
初心者の塾生は、今更ながら、マンガは画力だけじゃない、観察力や雑学の集積だということを、イヤというほど思い知ったことでしょう。
小説の方は、文章のテクニックは打越編集長に見てもらうこととして、まず、怖くなる仕掛けや、設定やストーリー上の矛盾、世界観の破綻などは無いかを指摘して、どんどん書き直しをさせています。
一人は大正時代の大阪を舞台にした怪談という、ユニークかつ難解な作品に挑戦中で、当時の風俗や風習、地理、言葉とクリアすべき問題が山積み。しかし、それを敢えてやってみる冒険心は、心強くもあります。
原稿締め切りはもう僅か。
描き手は教室に泊まり込んで、合宿状態。
これにも意味があります。
マンガは一人で描くもの、というイメージがありますが、実は分担作業ができるのです。いわゆるアシスタントを使うというヤツ。下描きまでは本人が描くわけですが、ペンが入るとなると、背景の建物は誰、人物は誰、トーンを貼るのは誰、と、分担するわけです。
ここで、各々の演出力が問われることになります。
つまり、指示は本人がする、ここはどう描く、ここはこういう意味だから、こう処理する、ここは押さえて、そこはもっとリアルに…と、アシスタントを使うことの楽しさ、難しさも体感できるわけです。まさに現場実践です。
小説は…やっぱり一人で書くもの。こればっかりは、他人にこの場面書いといて、とは言えない。
まあ、徹夜続きで必死に、かつ楽しげに作業している塾生たちを見ると、塾を作ってよかった、と思うわけです。
(本音)
お前ら、普段からこれくらい描けよ!
それでデビューできへんはずがないから。
塾生たちの執筆による『怪怪怪』が大詰めにきています。
先ほども塾生たちのマンガと小説のチェック、ダメ出しをしたところです。
マンガに関しては、もうプロデビューしてもおかしくない画力、構成力を持った子から、一編のマンガを描きあげるのは初めてという子までいるわけです。
初心者の塾生は、今更ながら、マンガは画力だけじゃない、観察力や雑学の集積だということを、イヤというほど思い知ったことでしょう。
小説の方は、文章のテクニックは打越編集長に見てもらうこととして、まず、怖くなる仕掛けや、設定やストーリー上の矛盾、世界観の破綻などは無いかを指摘して、どんどん書き直しをさせています。
一人は大正時代の大阪を舞台にした怪談という、ユニークかつ難解な作品に挑戦中で、当時の風俗や風習、地理、言葉とクリアすべき問題が山積み。しかし、それを敢えてやってみる冒険心は、心強くもあります。
原稿締め切りはもう僅か。
描き手は教室に泊まり込んで、合宿状態。
これにも意味があります。
マンガは一人で描くもの、というイメージがありますが、実は分担作業ができるのです。いわゆるアシスタントを使うというヤツ。下描きまでは本人が描くわけですが、ペンが入るとなると、背景の建物は誰、人物は誰、トーンを貼るのは誰、と、分担するわけです。
ここで、各々の演出力が問われることになります。
つまり、指示は本人がする、ここはどう描く、ここはこういう意味だから、こう処理する、ここは押さえて、そこはもっとリアルに…と、アシスタントを使うことの楽しさ、難しさも体感できるわけです。まさに現場実践です。
小説は…やっぱり一人で書くもの。こればっかりは、他人にこの場面書いといて、とは言えない。
まあ、徹夜続きで必死に、かつ楽しげに作業している塾生たちを見ると、塾を作ってよかった、と思うわけです。
(本音)
お前ら、普段からこれくらい描けよ!
それでデビューできへんはずがないから。
kaidanyawa at 13:32|Permalink│Comments(1)│
2007年02月24日
硫黄島に関しての考察・寸言
中山市朗です。
『硫黄島からの手紙』についての考察、パート3です。
先日、私の元教え子という女の子が、ちょっと見てくださいと小説の原稿を持ってきたんです。その時、たまたまこの映画の話になりました。その子は戦争映画に偏見を持っていて、観た事がなかったんですけど、この映画はすばらしい、これからは戦争映画をよく観るようにしますと言ってくれました。いや、いいことです。
ところで、戦争映画としても『硫黄島からの手紙』は『父親たちの星条旗』と共に、ひとつのエポック・メイキングだと思います。私が思うに戦争映画の三大エポック・メイキングは『史上最大の作戦』『プライベート・ライアン』そしてこの『硫黄島の手紙・二部作』ですな。
『訴状最大の作戦』は、第二次世界大戦のターニング・ポイントであるノルマンディー上陸作戦「D-day」の全貌を映画の中で再現したという意味で画期的でした。だからアメリカ・イギリス・ドイツといった各国の立場から描くという手法が取られたわけです。映画のために、あれほど大規模な戦闘シーンが再現されたのも初めてのことでした。
この時のノウハウが、D-dayの2ヶ月後のパリ解放を描いた『パリは燃えているか?』であり、日本海軍の真珠湾攻撃を日米両方から描いた『トラ・トラ・トラ!』に生かされるわけです。しかし『ミッドウェイ』は失敗ですね。戦争シーンは再現していませんし、日本の軍人は英語をしゃべってしまう、おまけに三船敏郎以外は、妙な日系俳優・・・なんじゃこりゃ? でした。
また、ソ連が国家予算を計上して作り上げた、壮大にして退屈な『ヨーロッパの解放・5部作』も、これらに対抗して作られたものでした。これも『史上最大の作戦』があったからこそ。
歴史を再びスクリーン上で再現するという、映画ならではの興奮をもたらせたという意味でのエポック・メイキングが一つ。
『プライベート・ライアン』は、同じD-dayの激戦区となったオマハ・ビーチを舞台にした、ある小隊の物語。そういう話自体はテレビ映画『コンバット』を始めとして過去にたくさん作られはしました。しかし、これはその描写のリアルさに驚きました。兵士たちの一挙一動のそうなんですが、ドキュメンタリーの手法で撮られた画面で、生きた人間が単なる肉片と化して飛び散ったり、内蔵が飛び出たり、機関銃の弾がヘルメットを貫通したり、その音も含めて今まで戦争映画で出てきた戦闘シーンは、嘘だったと気づいてしまったほどのリアルさでした。思わず引いてしまう戦闘シーンというのは、この映画が初めてでした。
この一作から、ハリウッドの戦争映画は、このリアル路線を踏襲するんです。『スターリング・ラード』の導入部や、テレビドラマの『バンド・オブ・ブラザース』がそうですね。
そして『硫黄島・二部作』。
『史上最大の作戦』の歴史を再現するという方法と、『プライベート・ライアン』のリアルな描写。この二つを合わせ、その上で同じ戦場で戦った双方の立場から。別々に撮って二部作とする。これは凄い着眼点です。また、実際に作ってしまう才能と企画力と行動力、そして資金力はもの凄いですな。
この方式が、今後も生かされることえお期待したいですな。
ちなみに・・・、
何の映画でしたか、おそらくサミュエル・フラー監督の『陽動作戦』だったか、と思われますが、劇中にあるアメリカ兵がつぶやきます。
「これでも50年先には、日本人と友人になってるんだろうあんぁ」と。
まぁ政治的には奴隷になっちゃいましたが・・・。
でも、まさかアメリカ映画が日本人の立場から硫黄島の激戦を描くとは、誰一人として思わなかったでしょう。時代も変わったんでしょう。
こんなシーンがありました。
負傷したアメリカ兵を残壕の中へ連れ込んで「手当してやれ」と、伊藤剛志扮する西大佐が言います。薬も何も不足している中、手当をしている中、手当をして西大佐がやさしく、友達として語りかけます。
「俺の東京の家に、ダグラス・フェアバンクスやメアリー・ビックフォードが遊びに来たことがあるんだよ」
この二人は、サイレント映画時代の大スター! 驚いてアメリカ兵が問います。
「あなたは有名人なのか?」
一方で、降伏した日本兵を撃ち殺すアメリカ兵。
今までのアメリカなら、論争の火種になること間違い無し。『トラ・トラ・トラ!』など、日本が勝利した戦争映画に軍隊が協力するのは何事かと、アメリカの政府内で問題になったりしました。
『許されざる者』でも、正義も悪も立場次第としたイーストウッド監督の変わらぬ見識はたいしたものです。これは勇気のいることです。
ところで、この西大佐、なぜかこの映画では描写されない部分がありました。
西竹一男爵。この人はバロン西として、本当に有名な人だったんです。33年のロス・オリンピックの大障害馬術競技の金メダリスト。このことは映画に出てきます。
しかしそれだけでなく、二十代のバロン西はモダンな騎兵将校で、野暮ったい日本陸軍のイメージとはかけ離れたリベラリストだった人です。国際感覚に優れ、いかなる要人とも対等に話し合い、その度胸、見識に、彼に接した誰もが感服したといいます。
馬術の腕もオリンピックのみならず、フランス、ベルギー、ドイツ、オランダなど、ヨーロッパ中の馬術競技に次々と参加、ことごとく入賞を果たしたのでした。D・フェアバンクスやM・ビックフォード、スペンサー・トレーシーなどハリウッド俳優とも豪快に遊び、注目の的であったそうです。
そのバロン西が、硫黄島に来ているという事はアメリカ側は知っていたんです。
そして上陸が開始されたその日から、スピーカーによるバロン西への降伏を呼びかけたんです。
「バロン西、あなたは軍人として成すべき事をした。我々はあなたを歓迎します。どうか出て来て下さい、バロン西!」この呼びかけは作戦が終わるまで、ずっと続けられたといいます。
米国の兵士たちは、このバロン西に死んでほしくなかった、だから尊敬の眼差しで西への投降を呼びかけたのです。
しかし西竹一男爵は、四十二歳の生涯を、硫黄島で閉じたのです。
『硫黄島からの手紙』についての考察、パート3です。
先日、私の元教え子という女の子が、ちょっと見てくださいと小説の原稿を持ってきたんです。その時、たまたまこの映画の話になりました。その子は戦争映画に偏見を持っていて、観た事がなかったんですけど、この映画はすばらしい、これからは戦争映画をよく観るようにしますと言ってくれました。いや、いいことです。
ところで、戦争映画としても『硫黄島からの手紙』は『父親たちの星条旗』と共に、ひとつのエポック・メイキングだと思います。私が思うに戦争映画の三大エポック・メイキングは『史上最大の作戦』『プライベート・ライアン』そしてこの『硫黄島の手紙・二部作』ですな。
『訴状最大の作戦』は、第二次世界大戦のターニング・ポイントであるノルマンディー上陸作戦「D-day」の全貌を映画の中で再現したという意味で画期的でした。だからアメリカ・イギリス・ドイツといった各国の立場から描くという手法が取られたわけです。映画のために、あれほど大規模な戦闘シーンが再現されたのも初めてのことでした。
この時のノウハウが、D-dayの2ヶ月後のパリ解放を描いた『パリは燃えているか?』であり、日本海軍の真珠湾攻撃を日米両方から描いた『トラ・トラ・トラ!』に生かされるわけです。しかし『ミッドウェイ』は失敗ですね。戦争シーンは再現していませんし、日本の軍人は英語をしゃべってしまう、おまけに三船敏郎以外は、妙な日系俳優・・・なんじゃこりゃ? でした。
また、ソ連が国家予算を計上して作り上げた、壮大にして退屈な『ヨーロッパの解放・5部作』も、これらに対抗して作られたものでした。これも『史上最大の作戦』があったからこそ。
歴史を再びスクリーン上で再現するという、映画ならではの興奮をもたらせたという意味でのエポック・メイキングが一つ。
『プライベート・ライアン』は、同じD-dayの激戦区となったオマハ・ビーチを舞台にした、ある小隊の物語。そういう話自体はテレビ映画『コンバット』を始めとして過去にたくさん作られはしました。しかし、これはその描写のリアルさに驚きました。兵士たちの一挙一動のそうなんですが、ドキュメンタリーの手法で撮られた画面で、生きた人間が単なる肉片と化して飛び散ったり、内蔵が飛び出たり、機関銃の弾がヘルメットを貫通したり、その音も含めて今まで戦争映画で出てきた戦闘シーンは、嘘だったと気づいてしまったほどのリアルさでした。思わず引いてしまう戦闘シーンというのは、この映画が初めてでした。
この一作から、ハリウッドの戦争映画は、このリアル路線を踏襲するんです。『スターリング・ラード』の導入部や、テレビドラマの『バンド・オブ・ブラザース』がそうですね。
そして『硫黄島・二部作』。
『史上最大の作戦』の歴史を再現するという方法と、『プライベート・ライアン』のリアルな描写。この二つを合わせ、その上で同じ戦場で戦った双方の立場から。別々に撮って二部作とする。これは凄い着眼点です。また、実際に作ってしまう才能と企画力と行動力、そして資金力はもの凄いですな。
この方式が、今後も生かされることえお期待したいですな。
ちなみに・・・、
何の映画でしたか、おそらくサミュエル・フラー監督の『陽動作戦』だったか、と思われますが、劇中にあるアメリカ兵がつぶやきます。
「これでも50年先には、日本人と友人になってるんだろうあんぁ」と。
まぁ政治的には奴隷になっちゃいましたが・・・。
でも、まさかアメリカ映画が日本人の立場から硫黄島の激戦を描くとは、誰一人として思わなかったでしょう。時代も変わったんでしょう。
こんなシーンがありました。
負傷したアメリカ兵を残壕の中へ連れ込んで「手当してやれ」と、伊藤剛志扮する西大佐が言います。薬も何も不足している中、手当をしている中、手当をして西大佐がやさしく、友達として語りかけます。
「俺の東京の家に、ダグラス・フェアバンクスやメアリー・ビックフォードが遊びに来たことがあるんだよ」
この二人は、サイレント映画時代の大スター! 驚いてアメリカ兵が問います。
「あなたは有名人なのか?」
一方で、降伏した日本兵を撃ち殺すアメリカ兵。
今までのアメリカなら、論争の火種になること間違い無し。『トラ・トラ・トラ!』など、日本が勝利した戦争映画に軍隊が協力するのは何事かと、アメリカの政府内で問題になったりしました。
『許されざる者』でも、正義も悪も立場次第としたイーストウッド監督の変わらぬ見識はたいしたものです。これは勇気のいることです。
ところで、この西大佐、なぜかこの映画では描写されない部分がありました。
西竹一男爵。この人はバロン西として、本当に有名な人だったんです。33年のロス・オリンピックの大障害馬術競技の金メダリスト。このことは映画に出てきます。
しかしそれだけでなく、二十代のバロン西はモダンな騎兵将校で、野暮ったい日本陸軍のイメージとはかけ離れたリベラリストだった人です。国際感覚に優れ、いかなる要人とも対等に話し合い、その度胸、見識に、彼に接した誰もが感服したといいます。
馬術の腕もオリンピックのみならず、フランス、ベルギー、ドイツ、オランダなど、ヨーロッパ中の馬術競技に次々と参加、ことごとく入賞を果たしたのでした。D・フェアバンクスやM・ビックフォード、スペンサー・トレーシーなどハリウッド俳優とも豪快に遊び、注目の的であったそうです。
そのバロン西が、硫黄島に来ているという事はアメリカ側は知っていたんです。
そして上陸が開始されたその日から、スピーカーによるバロン西への降伏を呼びかけたんです。
「バロン西、あなたは軍人として成すべき事をした。我々はあなたを歓迎します。どうか出て来て下さい、バロン西!」この呼びかけは作戦が終わるまで、ずっと続けられたといいます。
米国の兵士たちは、このバロン西に死んでほしくなかった、だから尊敬の眼差しで西への投降を呼びかけたのです。
しかし西竹一男爵は、四十二歳の生涯を、硫黄島で閉じたのです。
kaidanyawa at 01:37|Permalink│Comments(0)│
2007年02月07日
噺の極致。真冬怪談終了
中山市朗です。
『真冬怪談』盛況にて終了いたしました。
ご来場くださった方、誠にありがとうございました。
「怪談の間」の常連さんも多数お越しいただいたようで、感謝しております。
楽屋には、最近怪談噺に力を入れられている笑福亭純瓶さんが、ご挨拶に来られ、怪談蒐集の方法や怪談の表現に関することなど、えらく盛り上がりまた。五郎兵衛師匠ともいろいろお話ができて、いや、ほんまに楽しかったです。
舞台では、露の五郎兵衛師匠の『怪談・累ヶ淵』は、本当は全編演じると十日かかるという大作ですが、今回はその中で「水戸門前お久殺し」をたっぷり四十分。もう、こういう本格怪談噺を演じる人は、東西見回しても五郎兵衛師匠しかいません。ほんま貴重ななものをこの目で拝見いたしました。
露の団四郎さんの『雪の戸田川』は、最後に会場が真っ暗になり、火の玉とともに幽霊が出るという趣向。しかも高座の団四郎さん早変わりもあるという、露の一門独特の演出で、これもなかなか観れるものではございません。というか、怪談と落語好きの私が初めて観たわけですから、ほんま珍しいんです。
繁昌亭スタッフの方も、舞台の途中で照明を変えるというのが初めてだったとおっしゃっていたので、繁昌亭にて本格的怪談噺が演じられたのも初めてなんでしょう。
私自身も、いつもの怪談を披露したわけですが、寄席から見て違和感なかったかどうか? やっぱり大御所の後の出番というのと、お客さんが、いつもとは雰囲気が違うとおうこともあって、珍しく緊張してしまいました。
しかし終了後、ある中年の男性が私を見つけて近寄って来て「あのね、中山さんのお話聞いてて、思い出しました。こんな体験があったんですが・・・」と、とうとうと体験談を語られまして。いやあ、こういうことを私は待っていたんですけども。
当日の模様は、『ダ・ヴィンチ』3月号にて、我が作劇塾の塾生がレポートという形で、掲載させていただく予定です。
『真冬怪談』盛況にて終了いたしました。
ご来場くださった方、誠にありがとうございました。
「怪談の間」の常連さんも多数お越しいただいたようで、感謝しております。
楽屋には、最近怪談噺に力を入れられている笑福亭純瓶さんが、ご挨拶に来られ、怪談蒐集の方法や怪談の表現に関することなど、えらく盛り上がりまた。五郎兵衛師匠ともいろいろお話ができて、いや、ほんまに楽しかったです。
舞台では、露の五郎兵衛師匠の『怪談・累ヶ淵』は、本当は全編演じると十日かかるという大作ですが、今回はその中で「水戸門前お久殺し」をたっぷり四十分。もう、こういう本格怪談噺を演じる人は、東西見回しても五郎兵衛師匠しかいません。ほんま貴重ななものをこの目で拝見いたしました。
露の団四郎さんの『雪の戸田川』は、最後に会場が真っ暗になり、火の玉とともに幽霊が出るという趣向。しかも高座の団四郎さん早変わりもあるという、露の一門独特の演出で、これもなかなか観れるものではございません。というか、怪談と落語好きの私が初めて観たわけですから、ほんま珍しいんです。
繁昌亭スタッフの方も、舞台の途中で照明を変えるというのが初めてだったとおっしゃっていたので、繁昌亭にて本格的怪談噺が演じられたのも初めてなんでしょう。
私自身も、いつもの怪談を披露したわけですが、寄席から見て違和感なかったかどうか? やっぱり大御所の後の出番というのと、お客さんが、いつもとは雰囲気が違うとおうこともあって、珍しく緊張してしまいました。
しかし終了後、ある中年の男性が私を見つけて近寄って来て「あのね、中山さんのお話聞いてて、思い出しました。こんな体験があったんですが・・・」と、とうとうと体験談を語られまして。いやあ、こういうことを私は待っていたんですけども。
当日の模様は、『ダ・ヴィンチ』3月号にて、我が作劇塾の塾生がレポートという形で、掲載させていただく予定です。
kaidanyawa at 18:01|Permalink│Comments(0)│
2007年02月05日
硫黄島からの手紙・その2
中山市朗です。
フェデリコ・フェリーニというイタリア映画界の巨匠がいました。
『道』という映画なんて、小学5年生だった私はテレビで見て、ボロボロ泣きました・・・。
フェリーニという人はローマを愛した人で、幾多もローマを映画で表現しました。あるインタビューで「なぜあなたは、ローマを描くのか?」という質問に対して「ローマを知っているから。ニューヨークを描けといわれても、知らないから描けない」と答えました。
ところが、クリント・イーストウッドはパンフレットに掲載されているインタビューによると、「日本語はアリガトウくらいしか知らない」と言うんです。なのに、この映画はちゃんと違和感のない"日本映画"にして成り立っています。
これは何なんでしょう? 言葉の問題だけではない、思想、風習、習慣、生活様式など、これが日本で生活をしたことがないアメリカ人が撮ったとは思えないんです。そりゃあまったく違和感がないかと言うと、細かい指摘は出てくるでしょう。でも、それは日本の映画監督が撮っても同じこと。いや、もっとひどいものだってありました。特攻隊員役のキムタクがロン毛だったり、軍人のくせに降伏して、米国に日本を売ろうというキャラが出てきたり、戦艦大和の乗員の慰霊に対して、陸軍式の敬礼やっちゃった、とか。
日本の映画監督、ちゃんと戦争映画撮ってみろよ、と言いたくなる。
ある意味、この映画と同じ驚きを感じたのは黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』でした。
ソ連のモス・フィルム製作のソ連映画。出演者はオール・ロシア人、もちろん全編ロシア語。これ、日本人が撮ったとは思えない。黒澤も「俺、ロシア語なんてわかんないよ」と言ってたから、これほどの監督となるとやっぱり映画に言語はない、というのは本当なんだな、と思うわけです。『デルス・ウザーラ』は現にロシア人たちにも違和感なく受け入れられたようで、モスクワ映画賞グランプリ、次いでアメリカでオスカーの外国語映画賞を取ったんです。もちろんオスカー像は、モスクワに行っちゃいましたけど。
失敗したのは、あのデビット・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』。ノーベル文学賞を取りながら、ソ連政府の圧力により辞退せざるを得なかったパステルナークの小説を映画化した大作でした。ロシア革命を背景とした詩人、ジバゴの激動の生涯をオマー・シャリフを主演としたロシアを舞台にした、ロシア人の物語なんですが、こちらは当時の米ソの関係から、スペイン・ロケ、英語の台詞、ロシア人俳優のいないキャスト。私は映画としては名作だとは思うんですが、ロシア人からは総スカンくらいました。
「あの監督はロシア人のことを、何も知らない」と。
ニコラス・レイ監督の『北京の55日』も、妙な中国人と北京の街が出てきたっけ。
クリント・イーストウッド監督。スティーブン・スピルバーグ製作による日本映画。
ほんま、こんなこと、あるんですねえ。
フェデリコ・フェリーニというイタリア映画界の巨匠がいました。
『道』という映画なんて、小学5年生だった私はテレビで見て、ボロボロ泣きました・・・。
フェリーニという人はローマを愛した人で、幾多もローマを映画で表現しました。あるインタビューで「なぜあなたは、ローマを描くのか?」という質問に対して「ローマを知っているから。ニューヨークを描けといわれても、知らないから描けない」と答えました。
ところが、クリント・イーストウッドはパンフレットに掲載されているインタビューによると、「日本語はアリガトウくらいしか知らない」と言うんです。なのに、この映画はちゃんと違和感のない"日本映画"にして成り立っています。
これは何なんでしょう? 言葉の問題だけではない、思想、風習、習慣、生活様式など、これが日本で生活をしたことがないアメリカ人が撮ったとは思えないんです。そりゃあまったく違和感がないかと言うと、細かい指摘は出てくるでしょう。でも、それは日本の映画監督が撮っても同じこと。いや、もっとひどいものだってありました。特攻隊員役のキムタクがロン毛だったり、軍人のくせに降伏して、米国に日本を売ろうというキャラが出てきたり、戦艦大和の乗員の慰霊に対して、陸軍式の敬礼やっちゃった、とか。
日本の映画監督、ちゃんと戦争映画撮ってみろよ、と言いたくなる。
ある意味、この映画と同じ驚きを感じたのは黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』でした。
ソ連のモス・フィルム製作のソ連映画。出演者はオール・ロシア人、もちろん全編ロシア語。これ、日本人が撮ったとは思えない。黒澤も「俺、ロシア語なんてわかんないよ」と言ってたから、これほどの監督となるとやっぱり映画に言語はない、というのは本当なんだな、と思うわけです。『デルス・ウザーラ』は現にロシア人たちにも違和感なく受け入れられたようで、モスクワ映画賞グランプリ、次いでアメリカでオスカーの外国語映画賞を取ったんです。もちろんオスカー像は、モスクワに行っちゃいましたけど。
失敗したのは、あのデビット・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』。ノーベル文学賞を取りながら、ソ連政府の圧力により辞退せざるを得なかったパステルナークの小説を映画化した大作でした。ロシア革命を背景とした詩人、ジバゴの激動の生涯をオマー・シャリフを主演としたロシアを舞台にした、ロシア人の物語なんですが、こちらは当時の米ソの関係から、スペイン・ロケ、英語の台詞、ロシア人俳優のいないキャスト。私は映画としては名作だとは思うんですが、ロシア人からは総スカンくらいました。
「あの監督はロシア人のことを、何も知らない」と。
ニコラス・レイ監督の『北京の55日』も、妙な中国人と北京の街が出てきたっけ。
クリント・イーストウッド監督。スティーブン・スピルバーグ製作による日本映画。
ほんま、こんなこと、あるんですねえ。
kaidanyawa at 06:36|Permalink│Comments(0)│
2007年02月02日
真冬怪談、明日に迫る!
中山市朗です。
明日3日、いよいよ天神天満繁昌亭にて『真冬怪談』を行います。
繁昌亭は、昨年60数年ぶりに大阪に復活した落語専門の寄席小屋です。
東京には浅草や池袋など、何軒かこういう寄席小屋があるんですが、落語家が200人以上いてる大阪に、戦後こういう寄席小屋はなかったんですな。
大阪にあったのは、難波花月や梅田花月、角座といった漫才中心の大衆演芸場やったんです。
今、難波花月はNGKとして大阪唯一の大衆劇場となり、梅田花月と角座は小さくなってしまいました。新世界新花月という劇場も、20年ほど前に消滅してしもたし…。
ともあれ、繁昌亭での『真冬怪談』の開催は、私にとっては感慨深いものがあるわけです。何度か雑誌やインタビューで、私の怪談語りと表現の根源は落語にある、と言い続けてきたわけですから。
さて、当日は、まさか私が落語をするわけではなく、いつも通りの『新耳袋』的怪談を話芸という形で聞いていただきます。そして、露の団四郎さんとの、怪談についての対談コーナーもありますので、ここでは怪談の歴史や楽しみ方などをご披露させてもらおうかな、と思っております。
その露の団四郎さんは『雪の戸田川』という珍しい演目を高座に掛けられます。これは、テレビや録音などではお目にかかれない、ライブならではの仕掛けがありまして、これをやる落語家は、もう東京にもおられません。落語マニアと怪談好き人間には、必見中の必見です。
実は、落語というのはいろいろある噺(はなし)の中のひとつでありまして、いつも耳にしている落語は滑稽噺というヤツ。ところが噺には、泣かせる噺、つまり人情噺や、お芝居を仕立てた芝居噺というのもありまして、笑わせたり、感動させたりするものもあるわけです。だから落語家のことを噺家というわけですが、中でも怖がらせる芸が一番難しく、しかも手間がかかる(当日観てもらえればわかります)ということで、怪談噺をやる人は、もう東京にもいない、というのが現状なのです。
その唯一のスペシャリストが、ゲストで登場される露の五郎兵衛師匠なのです。団四郎さんのお師匠さんです。
露の五郎兵衛という名前は実は落語怪にとっては、物凄く大きな名前で、江戸元禄時代に近い頃、京都で活躍した一番最初の落語家やとされています。
その後出た、米沢彦八という人が大阪落語、鹿野武佐衛門という人が江戸落語の祖やとされているわけです。
で、今の露の五郎兵衛師匠は二代目というわけです。
以前は、露の五郎という名で活躍しておられ、京極夏彦さんたちと立ち上げた「怪談之怪」にもゲストとしてお呼びしたこともあります。滑稽噺はもちろん、怪談調の落語をたくさん手がけられていまして(いわゆるオチのある怪談)、師匠の演じる『夢八』『一眼国』『栴檀(せんだん)の森・異聞』などは、先ほど述べた通り、私の怪談語りの元となりました。
今回の『怪談・真景累ヶ渕』は、本格的怪談。めったに高座にかかるものではありません。
原作は幕末から明治にかけて活躍された三遊亭円朝。『怪談・牡丹灯篭』などの原作者としても有名です。この円朝師匠の語りから、近代日本文学が形成されたということは、以前、このブログで私が示唆した通りです。
ともかく、今回見逃せば、ひょっとして一生お目にかかれないかも知れない貴重な怪談噺と、私の怪談語りの競演を、お見逃しなさらぬよう…。
明日3日、いよいよ天神天満繁昌亭にて『真冬怪談』を行います。
繁昌亭は、昨年60数年ぶりに大阪に復活した落語専門の寄席小屋です。
東京には浅草や池袋など、何軒かこういう寄席小屋があるんですが、落語家が200人以上いてる大阪に、戦後こういう寄席小屋はなかったんですな。
大阪にあったのは、難波花月や梅田花月、角座といった漫才中心の大衆演芸場やったんです。
今、難波花月はNGKとして大阪唯一の大衆劇場となり、梅田花月と角座は小さくなってしまいました。新世界新花月という劇場も、20年ほど前に消滅してしもたし…。
ともあれ、繁昌亭での『真冬怪談』の開催は、私にとっては感慨深いものがあるわけです。何度か雑誌やインタビューで、私の怪談語りと表現の根源は落語にある、と言い続けてきたわけですから。
さて、当日は、まさか私が落語をするわけではなく、いつも通りの『新耳袋』的怪談を話芸という形で聞いていただきます。そして、露の団四郎さんとの、怪談についての対談コーナーもありますので、ここでは怪談の歴史や楽しみ方などをご披露させてもらおうかな、と思っております。
その露の団四郎さんは『雪の戸田川』という珍しい演目を高座に掛けられます。これは、テレビや録音などではお目にかかれない、ライブならではの仕掛けがありまして、これをやる落語家は、もう東京にもおられません。落語マニアと怪談好き人間には、必見中の必見です。
実は、落語というのはいろいろある噺(はなし)の中のひとつでありまして、いつも耳にしている落語は滑稽噺というヤツ。ところが噺には、泣かせる噺、つまり人情噺や、お芝居を仕立てた芝居噺というのもありまして、笑わせたり、感動させたりするものもあるわけです。だから落語家のことを噺家というわけですが、中でも怖がらせる芸が一番難しく、しかも手間がかかる(当日観てもらえればわかります)ということで、怪談噺をやる人は、もう東京にもいない、というのが現状なのです。
その唯一のスペシャリストが、ゲストで登場される露の五郎兵衛師匠なのです。団四郎さんのお師匠さんです。
露の五郎兵衛という名前は実は落語怪にとっては、物凄く大きな名前で、江戸元禄時代に近い頃、京都で活躍した一番最初の落語家やとされています。
その後出た、米沢彦八という人が大阪落語、鹿野武佐衛門という人が江戸落語の祖やとされているわけです。
で、今の露の五郎兵衛師匠は二代目というわけです。
以前は、露の五郎という名で活躍しておられ、京極夏彦さんたちと立ち上げた「怪談之怪」にもゲストとしてお呼びしたこともあります。滑稽噺はもちろん、怪談調の落語をたくさん手がけられていまして(いわゆるオチのある怪談)、師匠の演じる『夢八』『一眼国』『栴檀(せんだん)の森・異聞』などは、先ほど述べた通り、私の怪談語りの元となりました。
今回の『怪談・真景累ヶ渕』は、本格的怪談。めったに高座にかかるものではありません。
原作は幕末から明治にかけて活躍された三遊亭円朝。『怪談・牡丹灯篭』などの原作者としても有名です。この円朝師匠の語りから、近代日本文学が形成されたということは、以前、このブログで私が示唆した通りです。
ともかく、今回見逃せば、ひょっとして一生お目にかかれないかも知れない貴重な怪談噺と、私の怪談語りの競演を、お見逃しなさらぬよう…。
kaidanyawa at 15:13|Permalink│Comments(0)│
2007年02月01日
硫黄島からの手紙・その1
中山市朗です。
ようやく、やっと『硫黄島からの手紙』を鑑賞することができました。
『父親たちの星条旗』の時とは違い、若い人たち、特に女性の姿が多く見られました。
というか、男の子、こういう映画を観んかいな!
ご存知の通り、クリント・イーストウッド監督による、日本人が出演者のほとんどを占める、日本人の視点による、全編日本語によるアメリカ映画。こんなこと、映画史はじまって以来のことです。大事件であります。
私には、まず、ここに感慨深いものがあります。
日本人が出てくるアメリカ映画は、それこそたくさんあります。
戦前(というかサイレント時代)には早川雪洲とおう大スターをはじめ、青木鶴子、ヘンリー大川、上山草人などが活躍していました。でも、英語を喋らなくてもいい無音声映画ということと、アジア人としてのオリエンタルばエキゾチック性を担う役柄が多かったようです。モンゴルの王様とかね。トーキーとなって、これら日本人の役者たちも仕事が減り、やがて戦争へと突入してしまいます。
戦後は、日本人は排除され、日本軍が出てくる戦争映画なんかには、中国人が日本兵役として出演し、妙な日本語が聞かれるようになりました。『東京JHO』『東京暗黒街・竹の家』『八月十五夜の茶屋』『サヨナラ』『トリコの橋』といった日本ロケ、ハリウッドのスターと日本人役者の共演というのはありましたが、やっぱり、エキゾチック・ジャパン以外の何者でもない、というのが現状でした。まあ、世界の人が望む日本人、日本文化のイメージを、勝手にハリウッドの映画人たちが作り出していたというのが、本当のところです。
一方、太平洋戦争を舞台にした戦争映画には、50年代の末頃からは、日本人役者が重宝されだしたのも事実。『戦場にかける橋』『戦場よ永遠に』『深く静かに潜行せよ』『太平洋紅に染まる時』『地獄の戦場』などに日本人の役者が登場しました。
『戦場にかける橋』の早川雪洲の演じた斉藤大佐は、武士道精神を貫こうとするキャラクターがあり、重要な役柄でしたが、あとはただ敵として描かれたり、一方的なアメリカのヒューマニズムの押し付けに利用されたようなものでしかありませんでした。
そんな中で、三船敏郎という役者が出て、はじめて日本人が見て違和感の無いキャラクターが生まれたんだと思います。
『グラン・プリ』の本だ総一郎をモデルにしたキャラクター。『太平洋の地獄』で、リー・マーヴィととがっぷり四つに組んだ演技なんかがそうでしょう。
しかし『黒船』『007は二度死ぬ』『ザ・ヤクザ』『侵略』『戦場にかける橋2』『ガン・ホー』『ハンテッド』から『ラスト・サムライ』に至るまで、笑っちゃう日本人像のオンパレードで、まあハリウッドの描く日本人てこんなもの、と、こちらも思うしかなかったわけです。だったら、日本人がちゃんとした日本人を描いて、世界の人に見せればいいじゃん、と言うわけですが、まあ、そうはならなかったんですね。黒澤明、溝口健二、小津安二郎なんて大巨匠がいたんですけど、日本映画はローカルなもの、という現実は否めなかったんです。
「西洋人は東洋人の主役の映画なんて見たくない」
そういうジンクスがあったんです。日本人側にも。
私が以前、映画の助監督をしていた頃、制作や他の助監督の人たちと飲みながら、話したことがあるんです。当時、香港映画がハリウッド進出目指して「ゴールデンハーベスト社」という映画会社ができた頃でした。確かその第一弾が、ロジャー・ムーア、バート・レイノルズ、ファラ・フォーセット、ディーン・マーティンとかいった節操のない大スターを並べ、そこにジャッキー・チェン、マイケル・ホイを共演させた『キャノンボール』でした。これ、スピルバーグの『レイダース/失われたアーク』とほぼ同時公開で、こっちより日本でヒットしたんです。
このやり方は凄いと思ったんです。で、まあ制作の人なんかに質問したわけです。
「何で日本の映画人は、ああいうことをやらないんですか?」と。そしたら言われた。
「東洋人の顔が出ただけで見ねえんだよ、西洋人は。三船が侍やるんだったら別だけどね」と。
「じゃあ、ブルース・リーは何なんだよ?」って、かなり反論しましたけどね。
そういえば、黒澤監督もあるインタビューで言ってた。
「会社の宣伝部、宣伝しねえんだもの。アメリカじゃあゴジラしか当たんないって、決め込んでいる。でも、いい映画あるんだよ。宣伝してくれなきゃあ」
まあ、そうこう言っているうちに、香港、中国、台湾の映画が先にどんどん世界進出しちゃいました。国際スター、国際監督を次々に生み出して、マーケットをどんどん大きくしていって・・・。
で、『硫黄島からの手紙』で大ヒットですよ。
東洋人の顔。英語じゃない言葉・・・。
まあ時代がそうなったと言えば、そうなんでしょうけども。
こんな映画をクリント・イーストウッドとスティーブン・スピルバーグというコンビに作られようとは・・・。
いや、感服しているわけです。
ようやく、やっと『硫黄島からの手紙』を鑑賞することができました。
『父親たちの星条旗』の時とは違い、若い人たち、特に女性の姿が多く見られました。
というか、男の子、こういう映画を観んかいな!
ご存知の通り、クリント・イーストウッド監督による、日本人が出演者のほとんどを占める、日本人の視点による、全編日本語によるアメリカ映画。こんなこと、映画史はじまって以来のことです。大事件であります。
私には、まず、ここに感慨深いものがあります。
日本人が出てくるアメリカ映画は、それこそたくさんあります。
戦前(というかサイレント時代)には早川雪洲とおう大スターをはじめ、青木鶴子、ヘンリー大川、上山草人などが活躍していました。でも、英語を喋らなくてもいい無音声映画ということと、アジア人としてのオリエンタルばエキゾチック性を担う役柄が多かったようです。モンゴルの王様とかね。トーキーとなって、これら日本人の役者たちも仕事が減り、やがて戦争へと突入してしまいます。
戦後は、日本人は排除され、日本軍が出てくる戦争映画なんかには、中国人が日本兵役として出演し、妙な日本語が聞かれるようになりました。『東京JHO』『東京暗黒街・竹の家』『八月十五夜の茶屋』『サヨナラ』『トリコの橋』といった日本ロケ、ハリウッドのスターと日本人役者の共演というのはありましたが、やっぱり、エキゾチック・ジャパン以外の何者でもない、というのが現状でした。まあ、世界の人が望む日本人、日本文化のイメージを、勝手にハリウッドの映画人たちが作り出していたというのが、本当のところです。
一方、太平洋戦争を舞台にした戦争映画には、50年代の末頃からは、日本人役者が重宝されだしたのも事実。『戦場にかける橋』『戦場よ永遠に』『深く静かに潜行せよ』『太平洋紅に染まる時』『地獄の戦場』などに日本人の役者が登場しました。
『戦場にかける橋』の早川雪洲の演じた斉藤大佐は、武士道精神を貫こうとするキャラクターがあり、重要な役柄でしたが、あとはただ敵として描かれたり、一方的なアメリカのヒューマニズムの押し付けに利用されたようなものでしかありませんでした。
そんな中で、三船敏郎という役者が出て、はじめて日本人が見て違和感の無いキャラクターが生まれたんだと思います。
『グラン・プリ』の本だ総一郎をモデルにしたキャラクター。『太平洋の地獄』で、リー・マーヴィととがっぷり四つに組んだ演技なんかがそうでしょう。
しかし『黒船』『007は二度死ぬ』『ザ・ヤクザ』『侵略』『戦場にかける橋2』『ガン・ホー』『ハンテッド』から『ラスト・サムライ』に至るまで、笑っちゃう日本人像のオンパレードで、まあハリウッドの描く日本人てこんなもの、と、こちらも思うしかなかったわけです。だったら、日本人がちゃんとした日本人を描いて、世界の人に見せればいいじゃん、と言うわけですが、まあ、そうはならなかったんですね。黒澤明、溝口健二、小津安二郎なんて大巨匠がいたんですけど、日本映画はローカルなもの、という現実は否めなかったんです。
「西洋人は東洋人の主役の映画なんて見たくない」
そういうジンクスがあったんです。日本人側にも。
私が以前、映画の助監督をしていた頃、制作や他の助監督の人たちと飲みながら、話したことがあるんです。当時、香港映画がハリウッド進出目指して「ゴールデンハーベスト社」という映画会社ができた頃でした。確かその第一弾が、ロジャー・ムーア、バート・レイノルズ、ファラ・フォーセット、ディーン・マーティンとかいった節操のない大スターを並べ、そこにジャッキー・チェン、マイケル・ホイを共演させた『キャノンボール』でした。これ、スピルバーグの『レイダース/失われたアーク』とほぼ同時公開で、こっちより日本でヒットしたんです。
このやり方は凄いと思ったんです。で、まあ制作の人なんかに質問したわけです。
「何で日本の映画人は、ああいうことをやらないんですか?」と。そしたら言われた。
「東洋人の顔が出ただけで見ねえんだよ、西洋人は。三船が侍やるんだったら別だけどね」と。
「じゃあ、ブルース・リーは何なんだよ?」って、かなり反論しましたけどね。
そういえば、黒澤監督もあるインタビューで言ってた。
「会社の宣伝部、宣伝しねえんだもの。アメリカじゃあゴジラしか当たんないって、決め込んでいる。でも、いい映画あるんだよ。宣伝してくれなきゃあ」
まあ、そうこう言っているうちに、香港、中国、台湾の映画が先にどんどん世界進出しちゃいました。国際スター、国際監督を次々に生み出して、マーケットをどんどん大きくしていって・・・。
で、『硫黄島からの手紙』で大ヒットですよ。
東洋人の顔。英語じゃない言葉・・・。
まあ時代がそうなったと言えば、そうなんでしょうけども。
こんな映画をクリント・イーストウッドとスティーブン・スピルバーグというコンビに作られようとは・・・。
いや、感服しているわけです。
kaidanyawa at 12:05|Permalink│Comments(0)│