2008年06月

2008年06月26日

6/25の小説技法

 中山市朗です。
 25日の小説技法の報告です。
 いつもの合評です。

 Oくんの『ヲタク戦記』。題材は以前から言っているように大変面白い。でも、その面白さになんかOくん本人が気づいていないみたいなんだなあ。第一章ではただのヲタク少年が“死にケット”と今や呼ばれるヲタクへのテロ現場に居合わせ、美女姉妹を助ける、という導入部は完成度も高く、のっけからテンションの上がるものだったのですが、第二章に入った途端、主人公と美女姉妹のギャグ的なやりとりに終始してしまっている感がして、プロの投稿用原稿にしては、あまりに稚拙な展開になってしまっている。主人公はプロの作家を目指しているという設定だったはず。だったら、ヲタクの殿堂にテロ事件が発生以来、自費出版やネット表現にどんどん規制がかかって創作活動に支障がかかって、プロの作家たちの表現活動も国が管理、管轄するという展開になる作品の背景を生かすべき作家に主人公がならなきゃ。作品の中の主人公はなんの創作活動もしていないように見えるのです。これでは誰がなにに対して怒り、その終着点をどこにするのか、の目処が立たない。現に今回の原稿は目標を失って漂流しています。
 Tくんの『クリエイターズ・ファイト』もよくはなっていますが、ある場所は地の文がほとんどない。「まるでシナリオみたい」という声もありましたが、それではマズイ。いや、シナリオみたいなほうが読みやすいです、という意見もあったんですが、小説はシナリオと違う。シナリオは映像化されるとセリフを喋る役者の表情や動きがカメラに収まるから説明不要なのですが、小説はそこも書かなきゃ。
 Iさんの小説はいよいよ最終章。第一章から換算すると、ゆうに300枚は超えているはずです。まあ一冊の文庫本くらいの容量。ただ締めくくりにしては、色々なエピソードを詰め込みすぎて、締めくくれていない印象が残ります。枚数に制限は設けていないのですから、じっくりと書きたいことを遠慮なしに書くことです。書いたものはいつでも削れますから。でも書かないことにはどうしようもありません。
 春に入塾してきたSくんとAさんは、今まで書いていた小説を破棄して別のものを書きたいとプロットを持参してきましたが…。
 Sくん、なにがやりたいのかさっぱりわからない。やっぱり頭で考えているから、その形態とか構成とかに妙な理屈がついてきて、その割には「これを書きたい」というものが見えてこないんです。まあプロットを持ってきて「どうしたらいいんでしょう」じゃなくて、とりあえず作品にすること。それで続きを読みたいと思わせるかどうか、です。
 Aさん。古代史をテーマにしたいと古代の人物や出来事をピックアップしてきていましたが…
 古代史は何か常識を覆すものか、新しい発見がないと難しい。Aさんの提案してきたものの中には、どうもそういうものはない。
 もうひとつのやり方は視点を変えて、ある人物を見るという方法。小野妹子から見た聖徳太子なんて書いてありましたが、そこになんらかの勝算はあるのでしょうか?
 「好き」だけでは書けません。
 やっぱりある意味専門家にならなきゃ。
 それも学者のような専門家ではなく、どんどん新しい説や抜け道を見つけ出して、説得力のあるフィクションにすることが必要です。
 とはいえ、どんな傑作がどこから生まれるのかわからないのも文芸の世界。
 まあ思いっきり書きたいことを書くことです。
 


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2008年06月19日

6/18の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 18日の作劇ゼミの報告です。
 当初の予定を変更して、取材の仕方について講義しました。
 と、いうのも最近塾生たちが色々と活発な動きをするようになってきたんです。そのこと事態は大変喜ばしいことです。「霊スポットに行って一晩明かす」なんていうことをやっている猛者もいるようです。先週も5人が取材と称して『新耳袋』第一夜に掲載した“古写真”の舞台となった兵庫県の某山城へ潜入して…それはいいんです。でもね、取材のやり方がまるでわかっていない。現地に行って体感するのは確かに大事なことです。しかし体感するだけなら色んなサークルや霊スポット探索大好き、といった人たちもやっていることです。ネットを検索すると山ほど出てきます。
 しかし、特にこの5人の塾生はプロの作家を目指しているわけです。だから塾長である私のノウハウや媒体をなんとか修得しようとして霊スポットを周っているわけです。その考え自体は大正解です。
 でも、それにしては行き当たりばったり的な取材をしている…。

「なんか成果あった?」と聞くと、
「ちょっと妙な音がしましたし、馬のひずめのような音も聞こえたような気がします」
 という答え。
 それ、例えば10枚の原稿になる? レポートマンガ描ける?
 ならなければ意味がない。
 これはとてもじゃないが、プロを目指す者のやることじゃない。

 それで「プロならこうするよ」という話をしたわけです。
 例えば私が『幽』に連載している「やじきた怪談旅日記」は、体裁としては“行き当たりばったり”的な書き方をしています。でもそれが成り立つのは“やじきた”というキャラクターが存在するわけです。松竹芸能一の霊感タレントを自称し、全国の霊スポットを踏破している北野誠というタレントと、霊に全く鈍感な怪異蒐集家で作家の中山市朗が、そこで何を見て、何を感じ、ボケて突っ込むかで成り立つんです。もちろんそこには計算や下調べもあるわけですけど。読者はこの2人のキャラクターから、その霊スポットに共感するという仕組みです。でも無名の塾生が、ここでこんな体験をしました、と例えばネットで配信したところで、ほとんど注目されないことでしょう。でも、それじゃあダメなんです。アイデア、切り口が必要。そのための企画がなければ。
 企画は大事です。お金にするための算段の第一歩です。
 その例として、20年ほど前に荒俣宏さんが関東周辺の霊的場所を探索した『日本妖怪巡礼団』の企画、アイデアの分析、それをヒントに私が関西テレビに持ち込み番組化した『京都魔界案内』、さらに先月東京からやってきた『新耳袋殴り込み』のテーマ、見せ方を分析しました。というのも、ちゃんと「あること」が仕込んであります。企画が存在しています。それもある共通した見せ方が。読者や視聴者をちゃんと意識してみせる方法がそこにあります。それがないと、原稿は媒体に載らず、映像も放送されたりレンタルビデオ店には並びません。その差を分析して、上記の作品群の効果のほどを示唆しました。
 ただ、行けばなんとかなる、では作品になりませんし、プロとしては不安になるんです。形にするのがプロの仕事ですから。何をやるにしても(たとえ遊びにいくとしても)企画と用意周到は心がけること。なおかつ起こるハプニングが面白いんです。
 1万円使って取材したのなら、これを5万、10万円になることを考える。
 その指向性をもつのがプロ。ただ「おもしろかった」で終わるのは素人です。
 もうひとつ。
 塾生が一晩明かした兵庫県の山城というのは、私の故郷なんです。
 にしては、塾生の誰一人として、私に前もって話を聞きにきた者はいませんでした。あの話が『新耳袋』に掲載された経緯は? 書かなかったエピソードは? 他に写真は? 私しか知らないことです。そんな人物が間近にいるというのに。
 実は、あの話には大きなキーポイントがあります。昭和7年に撮影されたお城の亡霊写真には、出口王仁三郎が写っているんです。大本教の指導者で、神人と呼ばれ、気候を操り、霊界を幻視し、未来を予知し、心霊文書『霊界物語』全83巻を書き上げた近代の日本オカルト界は彼なくしては語れない大巨人です。そんな人物が大本教の奥院を私の故郷、和田町竹田の城跡に建立しようと視察にきたときの町の人たちと撮ったおりに現れたのがあの亡霊。ここに意味があるわけなんです。霊界の巨人とともに写っている亡霊。これ、いまでいうとスクープですよ。だから『新耳袋』に掲載したんです。
 もし私が竹田城を取材するならそこを調べます。なぜ王仁三郎はそこに奥院を作ろうとしたのか? 竹田城とはなにか? そもそも王仁三郎とは何者なのか? 大本教とはいかなる団体か? そこを調べます。大本教は今も活動していて、京都府綾部に本拠地があります。車できていたのなら、竹田城から大阪へ戻る道に寄れます。
 『新耳袋』のエピソードから出口王仁三郎、大本教へと移っていく。写真の撮られた昭和7年という時世も、王仁三郎の当時の活動内容に合わせると、奇妙な日本の裏歴史とオカルトビジョンがリンクしていきます。
 『新耳袋』から幽霊マンションだの山の牧場だの天狗神社だのと話を聞きにきたマスコミ関係者や怪談好事家は数ありましたが、ここに注目した人はまだひとりもいません。
 現代の実話怪談集『新耳袋』と出口王仁三郎の『霊界物語』がリンクする瞬間!
 これ、テーマとして取り上げるだけで立派な作家の仕事ですよ。これを“切り口”というんです。
 もうひとつ言わせてもらうと、竹田城は戦国時代に滅んだ山城です。標高300メートルの山城は、聞くところによると日本に現存している城跡で、もっとも高いところにある城だそうなんですが、戦国に滅んだということは、血と怨霊の歴史をもっている城なんです。そして、私の祖父は郷土史研究家として、この竹田城研究の第一人者であったんです。
 つまり私の手元にも、色々な資料、文献があるわけで。
 私の書斎のあちこちにある古文書や巻物を、塾生達はなんだと思っているんでしょうか?
 我が塾生たちよ、あまいぜ。

 という話から、取材のやり方、についての講義をしました。
 授業が終わったあと、彼らは教室に残って反省会?
 なので、その後みんなでイタメシ食べに行きました。
 金がない? えーい、その分はおごるわい!
 
 


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2008年06月16日

6/13の映画上映会

 中山市朗です。

 毎月第2金曜日は塾生リクエストによるハイビジョン名作上映会。
 今月13日は『慕情』('55)でした。

 ちょっと男性向けの映画が続いたので、今回はよき時代のハリウッド製恋愛映画です。この頃はロマンチックな"大人の恋"を描いた映画が次々と作られ、日本でも軒並み大ヒットしました。しかも海外旅行なんてとてもじゃないができないような時代に、美しい観光地を舞台にした美男美女のラブ・ロマンスは大いにウケたんです。
 モロッコのカサブランカが舞台の『カサブランカ』、ベニスが舞台の『旅情』、ナポリが舞台の『旅愁』、ローマが舞台の『ローマの休日』『終着駅』、パリが舞台の『凱旋門』『昼下がりの情事』、ウィーンが舞台の『忘れじの面影』、大西洋上の豪華客船からニューヨークへと舞台が移る『めぐり逢い』・・・
 日本が舞台で『サヨナラ』なんていうマーロン・ブランドと高美以子共演の映画もありました。いずれも'50代の映画です。
 今回の慕情は1949年の香港が舞台です。

 香港の病院に勤務する女医のハン・スーイン(演じるはジェニファー・ジョーンズ)は父が英国人、母が中国人というハーフです。かつては夫がいましたが、中国共産党員によって殺され、今は医療への献身を生きるすべてに懸けています。
 ところが、あるパーティでアメリカの新聞記者マーク・エリオット(演じるはウィリアム・ホールデン)に出会い、互いに惹かれます。マークは妻がありますが、ここ数年は別居状態でシンガポールにいます。最初は好奇心からの交際でしたが、マークは「妻と別れてでもキミと結婚したい」とやや強引にためらいがちなハンを口説きます。ハンがためらうには色々原因があるわけです。まず、夫がいたこと、自分の中に東洋人の血があること。東洋と西洋はまだまだ遠かったんです。それに中国という国が中国共産党によって席巻されていく時代、マークとの結婚は重慶にいる家族との決別を意味することになります。マークは「だったら中国に残ってでも」と重慶に彼女を追いますが、これは彼が中国人になり、共産党とどう対峙するかという覚悟のいる選択ともいえましょう。しかもハンの夫は共産党員に殺されています。そんな共産党に中国の人たちは希望を見出そうとしています。マークの妻もなかなか離婚に応じません。そのうち朝鮮戦争が勃発し、マークは従軍記者として戦地を向かうことになります・・・。と、まあ2人の愛は互いの気持ちだけではどうにもならない世間の風、情勢、戦争、宗教や風習、国籍といったものが絡んできます。そして突如襲う悲劇の結末・・・。
 当時これをスクリーンで観た女性たちは涙したことでしょう。

 上映後、塾生たちから質問や疑問が飛び交います。
「どうして主人公を20代後半の女性と30代の男性にしたのでしょう?」
 ははあ、今の日本のコミックや映画は10代の恋愛が多いもんな。
 しかし大人の分別、大人の事情がありまがら、それでも堕ちていく恋、というのがいいんじゃないですか。2人ともすいも甘いも知り尽くしています。結婚も経験している。一緒になることがどういうことなのか知っています。それでも愛を取る、純粋な大人の愛が描かれているんです。そこが万人の共感を得、だからこそ、それが引き裂かれる悲劇に涙するわけです。
 10代の恋はあくまで恋であって、それが真実の愛というのはどうも信用できません。まあ個人的見解ですが。若い衝動で突き進むのと、社会や立場を考慮した上で成就する大人の恋愛はまったく違うものです。
 
「恋愛ドラマは悲劇がいいのか、ハッピーエンドがいいのか?」

 たまに「私はハッピーエンドが好きなので、バッドエンドはどうも・・・」という意見を聞きますが、そういう人はあまりいい映画観てないな。上記にあげた『カサブランカ』『旅情』を初めとした名作群は、コメディタッチで描かれる『ローマの休日』でさえも最後は別れで終わります。ハリウッドの恋愛ドラマといえば『風と共に去りぬ』の名もあげられましょうが、この作品も別れで終わります。
 観客は愛の物語で泣きたいのです。
 『慕情』もラストで2人は結婚して幸せになりましたとさ、で終わるとどんな印象でしょう。そこも考えてみました。家族を捨て、どちらかは国を捨てる。動乱の世の中から背を向ける(それは新聞記者という職にあるエリオットにはできないことでしょうが)、東洋人と西洋人の違い、中国とアメリカ・・・やっぱり人種、宗教、風習という壁はそう簡単に越えられないはずです。それでも結ばれたからハッピーエンド・・・なにかスッキリしません。
 愛の絆が堅いほど、悲劇の度合いは深くなります。逆に悲劇で終わるからこそ、2人の愛の絆、深さが認識できるわけです。そこがドラマチックたる所以です。
「2人はどこで本当に好きになったんですか?」
 観ればわかるやん。おそらくマークは一目惚れに近いものがあるでしょう。ハン・スーインはプロポーズされ、キスされた瞬間でしょう。翌日、2人は病院の裏にある小高い丘で会う約束をしますが、このときハン・スーインの表情はパッと輝いています。恋する女の顔です。この表情を見せるジェニファー・ジョーンズという女優さんの演技力はもうさすがです。でも考えてみれば、ストーリーそのものはややありきたりの感もありますが。ウィリアム・ホールデン、ジェニファー・ジョーンズという2大スターの存在が、圧倒的にこの映画の魅力を支えています。映画はスターのもの、という典型的な映画です。
 ちなみにウィリアム・ホールデンは『第17捕虜収容所』('53)でオスカーを受賞。『戦場にかける橋』『ピクニック』『麗しのサブリナ』『ワイルドパンチ』と名作の出演の多い名優でした。でもこの人、孤独死したんです。スターとしての虚構と実生活のギャップに悩んでいたんです。ジェニファー・ジョーンズも『聖処女』('43)でオスカー受賞。『白昼の決闘』『武器よさらば』『終着駅』と名作に出演しました。2人は晩年に『タワーリング・インフェルノ』で再び顔合わせします。
 さて『慕情』に戻ります。実はこれ原作があって、作者はハン・スーイン。そう、これは実話だったんです。原題は『LOVE IS A MANY SPLENDORED THING』、日本語にすれば『愛は多くの素晴らしきもの』となります。つまり映画の中のハン・スーインは悲劇に突き落とされ、絶望しますが、その後その愛は素晴らしいものだったとハン・スーイン自身は回想しているわけです。
 幸福な愛の形は2人が結ばれることだ、とばかりは言えないのが愛の深さではないでしょうか。
 愛について、人間の生き方について、色々考えさせてくれる映画でした。
 そして"作劇法"についても大いに参考になりました。
 
 ちなみに監督はヘンリー・キング。サイレント時代から活躍した名匠です。
 音楽は当時大ヒットしてスタンダード・ナンバーとなった主題曲を作曲したアルフレッド・ニューマン。この曲もオスカーを取りました。
 韓流の美男美女の繰り広げる恋愛ドラマの原点は、この時代のハリウッド映画からきているんだな、と認識できます。

 

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2008年06月13日

秋葉原の事件から考える

 中山市朗です。

 今更ですが、秋葉原、えらい事件起こりましたなあ。
 潜在的にああいう人、多いと思います。

 就職すればいい。就職すれば安心。だから就職しなさい。

 という時代の流れに乗り切れていない大人たちや学校関係者、反省せなあきません。若い人たちも考えなあきません。
 あの事件を知ったとき、そして犯人のプロフィール、性格、状況を見たとき、それってアイツじゃん、と頭をよぎった元教え子が何人かいました。
 夢破れて、仕方なく働き出す。現役の大卒ならともかく、中途半端に年を取っている。だから正規雇用なんて無理。で、派遣に登録。あるいはアルバイト。働いても働いても月の手取り10数万。食べていくのがやっと。彼女もできない。結婚なんて考えられない。もちろん出世もない。気がついたら30歳、40歳…で、抜け出せない。それどころか病気をしたり怪我をしても保証はない。入院してやっと戻ったら解雇されていた。こんなはずじゃない! 

 という図式。「自分がやった仕事が残る」とか「対価が支払われる」とか「名前が出る」ということとは恐らく一生縁がない。つまり生きているという足跡が残らないわけです。
 そうなると、そんな自分を作ったのは誰だ、と考えるわけです。
 社会が悪い。会社が悪い。学校が憎い。とうとう望みもしないのに、なんで産んだと、親を憎む。

 今のままだと、もっと増えますわ、これ。
 もちろんこれは本人が悪いわけなんですが、そうとも言い切れないところもある。
 つまり生き方を大人が教えていないんです
 自立しようとしない。起業しようという発想がない。言ってもわからないんですわ。
 脚本家になりたい、映像の世界で作品を作ってみたい、ライターになりたい。
 そう思うから専門学校や、ウチみたいなところに来る。
 私なんかは、そういう気持ちはとてもわかるし、どこで苦労するか、何が必要かは体験済みですから、そこまでいけるスキルさえ身に付いたら現場実践なり、アシスタントで仕事を覚えてもらう。
 企画力が必要、打ち合わせ能力が必要。意図を読む、ターゲットを考える、予算を知る、見積もりを立てる、仕込みをする、作業をする、調停をする、納品日(締め切り)に間に合わせる。営業も必要、宣伝も必要、作品をビジネスにしなければ食べていけません。だから考える。責任も発生する。次につなげる工夫をする。タイアップをさがす、メディアミックスする…それが実践。

 そしたらこれを嫌がる、逃げる、自分には関係ないと思う。
 つまり作家やクリエイターには憧れながらも、その世界で生きていくことがどういうことかというイマジネーションが完全に欠けているんです。そりゃあ、自分の好きな世界を書いて、それが売れて、何十年もその人気が安定するんなら、そんな結構なことはありません。そんな幸運な作家さんも確かにいますよ。しかし大概は作家やマンガ家になっても、それをビジネスにしていく頭がないとデビューしてそれで終わりです。

 そういう考えが頭の中にリアルなものとしてないから挫折する、夢が破れる。そら、仕事ができないんなら私も編集さんやプロデューサーに合わせられない。もちろん自分から会いにいくこともないわけですから、チャンスの発生もしようがない。
 作品はね、誰でも1本はできます。書けます。
 自分のことを書けばいいんです。
 でも、それをビジネスにできない、そのきっかけがない、という人が多いわけでしょ?
 つまりプロになれない、ということですわ。
 そんな奴ほど夢を諦めて言うわけです。

「じゃあ就職します」

 就職するという意味もわかっていない。アルバイトの延長かなんかやと思ってる。親も悪い。「いい加減に就職しなさい」と言って、実家に帰らせる。私はよく聞くんです。

「それはいいけど、家、なにか経営してはんの? 継ぐものあるの? 親のコネとかでどこかへ入れるの?」

 それがないというのなら、泣くことになるでしょう。
 今や単純労働はアジアからくる安い労働者にいきます。事務的な作業はパソコン1台が10人分やってくれます。そんな時代。キミらの親が就職活動をしていた頃とは全然違います。
 今や就職して、それなりの対価やボーナスをもらおうというのなら、企画力が営業力、どっちかの能力が問われましょう。その人にしかない付加価値、会社に利益をもたらせてくれる人材。そういう人が、これからのサラリーマン社会で重宝されます。そしてそれは、安易なことではないでしょう。

 そういう教育を、どうも親も今の学校もやっていないのではないかと思います。
 言ってもわからないんだもん。
 営業をしたり、企画を考えたりする訓練がいるよ、と言っても。その意味がわからないとまで言われたことがあります。
 とにかく世の中の仕組みだとか、人との関係だとか、生きるための処世術とか、そういうことを教えなきゃ。第2、第3の秋葉原事件なんぼでも起こってしまいます。
 ペンネームで仕事するようになったら、そのペンネームは会社名みたいなものです。作家とはある意味企業でもあるわけです。
 決して好きなことをやっているアーティストじゃない。どちらかというと職人です。そこをシビアに考えましょう。そして案外、そういう世界って面白いものです。

 ちなみに以前、アメリカ人の青年たちと、少し話したことがあります。
 彼らの考えはこうです。
 
 いい大学を出てどうするか?

1、起業する。

ビジネスは自分の才覚でやるものだということです。



2、小さい企業に就職する。

つまり小さい会社は色々な仕事をやらされるから、起業するときのノウハウ備わるし、小さいと出世も早く社長になれる可能性もあるからといいます。



3、大企業に入る。
  
実はこれ、二流大学の学生の志向だそうで。
こんなところに入っても、出世の見込みもないし、いざとなったら潰しも効かない。
その「いざ」がいつくるともわからない時代でしょ?

 
 だって。
 日本の若者の志向はまったく逆ですな。
 しかも、今や日本の企業も外資系に食われているというのに。
 

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2008年06月12日

6/11の小説技法

 中山市朗です。

 10日の小説技法の報告です。
 いつもの合評です。

 Iさんの小説は、どんどん指摘されたことを消化しています。あるエピソードとあるエピソードを入れ替えただけで、同じ内容、情報でも読んだ印象がずいぶん変わりました。流れもよくなった。このまま次は最終章にとりかかってもらいます。これが完成すれば、一冊の単行本の原稿ができあがることになります。もう少しガンバレ。

 Tくん、やっと突き抜けた! おもしろくなった。
 前回もっと量を増やして、ひとつひとつの状況やキャラクターに対しての説明を明確にと指示したんですが、量が増えた分、そこがクリアできて、作品の印象が随分わかりやすく、長くなった分緩急もできて(以前は一本調子だった)、よりアクション部分なども迫力がでた。

 何か掴んだんじゃないかなTくん。
 Oくんの小説。「なんで前半がプロットで後半が小説なの?」と正直な感想を言ったら、これ前半も小説だった…。
 つまり、この小説の中の状況や時間の流れを延々と説明しちゃったんです。オタクの殿堂がテロにあって、という第一章を受けた第二章の冒頭で、そのオタクを取り巻く環境の激変。警察や政府サイドの見解、法令による制限、マスコミの対応、出版社の衰弱、世論の動き…。本当は、これを小説として表現して、その中でOくんの怒りとか、こだわりとか、メッセージとかが強調できて、その上で主人公たちの動機が生まれていくわけなんですが、どうもOくんとしてはあんまり量が多くなってはと、セーブしたらしい。時間的なこともあったんだろうけどでも、私は別に枚数制限しているわけではないので、そんな考えは無用です。書きたいものをセーブして、消化不良を起こすなんてナンセンスです。書きたいだけ書いて、それを削除するという方法をとりましょう。そのほうが作業としてもラクです。しかしちょっと荒削りすぎるぞOくん。

 4月からの新宿製AさんとSくんの作品が未提出です。

 なぜ?

 Aさんはテーマの解釈にとらわれていたんです。まあそれが課題ですから。
 でも「別にそれでファンタジーを書こうがSFにしようが、かまいませんよ。要はそのテーマをどう解釈して、どんな切り口を与えて調理するかが作家としてのセンスです」というと、「だったらやってみたい題材があるんです」というやりとりが先週あったんですわ。
 で、Aさんがやりたいというテーマは?
 古代史、だそうで。
「古代史のなにをテーマにしたいのですか?」
 そしたら、天智天皇や持統天皇の名前が挙がって、その説明を受けたのですが古代史大好きな私でもあまり興味がもてない地味なもの。ましてや「古代ってどのあたりの時代のことなんですか」というOくんや「全然知りません」というSくんの興味をひくにはよほどの何かを見つけないと。古代史には切り口が必要です。まず誰でも知っているキーワード。人の名前でも事件でもいい。聖徳太子、安部晴明、卑弥呼、邪馬台国、大化の改新、平安京…そしてその常識をくつがえすナニかがいる。聖徳太子はいなかった、仏教にあらず、卑弥呼は陰陽道を操る女王だった…みたいな。それをエサにして、自分の書きたい世界へと読者を誘うわけです。妖怪や鬼、怨霊、陰陽道のようなオカルトチックなものもエサになります。そしてオリジナルの説を立てなければなりません。おもしろそうだけど、結構ターゲットは絞られるし、下手をすれば、古代史マニアにそっぽを向かれます。まず古代史マニアがぽんと膝を打って「こらおもろい」と話題にしてくれるだけのものがないと。まあそのあたりの相談にはのりますよAさん。
 古代史論議、やる必要がありますね。ところで私の『捜聖記』(すみません。文庫本化遅れてます。9月頃と角川に言われました)読みました?

 Sくは悩んでいます。
 やっぱり日常を書きたいと言います。なにげない日常こそが感謝すべき素晴らしいことなんだということを…。じゃあその日常ってなに? ということです。サラリーマンの日常と、遠洋漁業している漁師さんとは日常の生活は違う。自衛隊員の日常とニートの日常も違う。私なんて、日が昇るころに寝て、起きたらテレビで『笑っていいとも!』をやっている日常。だから日常と言われても漠然としていてよくわからない。そうではないでしょう。みんな日常の生活を送っています。その日常を強調するために非日常を書くということもありえるでしょうし、日常が狂うみたいなことも書けます。でもSくんはどうもそうではなくて、波風立たない日々平安、みたいなものを書きたいらしい。でもそれも考えようでは非日常ですわな。人生は何があるかわからないし、出会いや再会、別れも繰り返されます。不毛な愛、真実の愛、疑惑の愛、裏切りの愛、そういうものならテーマになりえます。日常の中にもなんらかの愛は存在しているし、愛は誰だってほしいものです。
 まあ要は書きたいものが固まっていないのでしょう。
 人間を磨こうよSくん。
 Sくんはまだ20歳。
 ということで、授業が終わってウチの社長、総務の菅野、Oくん、Sくんたちとギョーザでビール。その後は私の書斎で鍋をつつきながら、人生や哲学について、ちょっと下ネタも入りつつ、語り合いました。
 熱い熱いオールナイトでした。


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2008年06月05日

6/4の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 今週のネトラジで黒澤明監督のお話をしています。
 実は先週、塾生たちの希望で黒澤時代劇の3本立て上映会を私の書斎で行なったのです。
 
『隠し砦の三悪人』(58年 東宝)
  主演 三船敏郎、上原美佐、藤原釜足、千秋実
『用心棒』(61年 東宝)
  主演 三船敏郎、仲代達矢、東野英治郎、山田五十鈴
『椿三十郎』
  主演 三船敏郎、仲代達矢、加山雄三、団令子

 高校のころ、画家になるために大阪の某美術学校へ通っていたとき、ふらっと入った梅田の映画館でこの3本立てを観てすごいショックを受けたんです。そして思った。
 映画監督というのも男の仕事だ!
 そして大阪芸大の美術ではなく映像科を受けることになったのです。
 まあ運命の3本というわけです。

 特に『用心棒』
 始まった途端にヌッと出現する三船敏郎の浪人。これが汚い。着物と袴はよれよれで襟のあたりなんか垢と汚れでテカテカしていて。蚤でもいるのか、身体をゆすってぼりぼりと頭なんか掻いている。それに無精ひげ、今までのチャンバラ映画の着流しの粋なヒーローとは全然違う。そうやろうなあ、浪人なんて汚い格好してたわなあ、と。リアルなんです。それに袴を履いている浪人というのもそれまでなかった。でも『用心棒』以降の豪快ヒーローは子連れ狼の拝一刀を例に出すまでもなく、ちゃんと袴を履くようになった。とにかくそれまで当たり前にあった時代劇の決まりごとを全部打ち壊したんです。
 で、その汚い三船がカッコイイのです。
 今までのチャンバラは、型のある殺陣(タテと読みます)を見せていたのですが、ここでは刀で斬られる殺人を見せた。バシュ、シュバ、という肉を斬る音。この映画ではじめてやった。腕は飛ぶ、血はドクドク流れる…。人が斬られれば血が出ることをはじめて認識させたのもこの映画。しかもラストは刀VSピストル!
『椿三十郎』はその続編のような映画。ラストの三船対仲代の決闘は居合いで瞬殺!
 その衝撃!
 この2本が日本の時代劇のウソを暴露し、時代劇の全盛が過去のものとなり、暴力、バイオレンス映画が急増します。イタリアでも『用心棒』をパクってクリント・イーストウッドで『荒野の用心棒』が作られて大ヒット。これがきっかけに、マカロニウエスタンなるイタリア製西部劇が本場アメリカ製西部劇を駆逐します。イーストウッドもスターになってアメリカへ凱旋。それまで血のでなかったハリウッドのアクション映画も一転し、サム・ペキンパー監督の『ワイルドパンチ』なんて、次々と撃たれる人物たちから、血がスローモーションでピュウと噴き出して…。で、『隠し砦の三悪人』のプロットとキャラクターは、『スターウォーズ』に流用されて。
 劇画も生み出しました。さいとうたかを氏は、リアルな時代劇をマンガの中で表現しようと模索しているとき、『用心棒』を観て「これだ!」となった。劇画誕生の元には黒澤映画があったわけです。

 マンガや小説を書こうとするのなら、黒澤映画は必見です。観ないことは怠慢、大損、無知…。ただしレンタルDVDをパソコンや普通のテレビでは観てほしくない。ピカソの『ゲルニカ』を絵葉書で見て「こんなもんか」と思うのと同じ行為です。
 だから100インチ、ハイビジョンでの上映会をやったわけです。

 黒澤映画から学ぶこと、パクれる要素は山ほどあります。設定やプロット、キャラクターの造形、表情、人物の動き、人の絡み、リアルなセット、小道具の使い方、風や雨、埃、太陽、四季など自然の効果的な使用、ドラマチックな展開、壮絶なアクション、理にかなった話法、構図、そのテンポ、リズム、間。そしてそのテーマ…
 いくらでもあります。ほんま観ないのは怠慢です。大損です。

 まあネトラジでその魅力について私が語っておりますので、そちらで。

 と4日の作劇ゼミですけど。

 取材がきました。私が講義している姿をパシャパシャと写真も撮られて。
 某広告代理店が関西の著名人にインタビューするというwebマガジンに掲載されるようです。
 元気のない関西ですが、なんとか関西人に激励を、という企画だそうでして、インタビューにこられたのは、以前塾にも顔を見せにいらした美術評論家で作家でもある樋口ヒロユキさん。
 でも樋口さんとはこんな話をしたんです。

 関西にはユニークですごい人はいる。でも活躍する場がない。だから東京へ行く。
 私なども収入はほぼ100パーセントが東京の出版社か映像メーカーからの印税や使用料。つまり私が大阪で仕事をしても、それをビジネスにしたり、メディアに載せてお金にしているのは東京の人たち、というわけです。樋口さんも「私も全く同じです」と。これじゃ大阪が潤うわけがない。以前、有栖川有栖さんも、大阪のある企業の研究会か公聴会だかに公演を頼まれたことがあったらしく、そこで企業のお偉方がおっしゃったそうです。
「どうしたら大阪が元気になりますか?」
「みなさんがちゃんと仕事をすることでしょうね」みたいなことを返事したそうです。
 道頓堀なんて、昔は五座といって芝居小屋が5つもあった。
 私が大阪へ来た頃も、松竹座、朝日座、中座と芝居小屋があって、角座という大衆演芸場もあったんです。今ない。飲食店ばっかり。
 文楽の生まれた土地、歌舞伎の殿堂、新派、新国劇の発祥地、漫才、落語もここで生まれた。それが道頓堀。飲食街なんてどこの街でも作ろうと思えば作れます。でも芝居や演芸という大衆芸能の歴史なんて、こら作れませんわ。
 御堂筋に桜植えてるどころやおまへんで、橋下府知事。

 とまあ、ボヤいてる場合やない。
 ともかく、この大阪をなんとかしたい、という熱い気持ちは樋口さんとも共通するものがあったわけです。
 ゼミが終わったあと、塾生たちと樋口さんを囲んでギョウザでビール。
 いやあうまい。

 てなこと書いているうちに、ゼミの報告をするスペースがなくなってしまいました。
 要は「くだらない」ことを真剣にやろう、という話をしたんです。
 「くだらない」はエンターテイメントの魂です。
 「キミのマンガはくっだらねぇ」(まあ言い方にもよりますが)と言われて「はっはっは、そっすか」と言えるか、「くだらないとはなんです。これは立派なマンガです」とくだらないを否定するか、です。
 じゃあ、「くだらない」とは? 
 それを分析していったわけです。

 考えてみれば、歌舞伎も芝居も、落語も漫才も、そもそもくだらないものです。
 芸としては立派、ということはありますが、まあ荒唐無稽というか、アホなことを真剣にやるのが役者や漫才師、落語家というものです。だから大衆が笑ったり泣いたりできるわけですな。立派なもの、の前では笑えませんわ。
 最近の芸人は、「アホなことをアホにやる」というのがよく見受けられますが、あれは本当の笑いじゃない。あれは笑われているんです。笑わすためには緩急がいります。
 その差が笑いを生むわけです。
 だから計算がいる。
 我々の仕事も同じことが言えませんか。
 立派なマンガなんて読みたくないし、なんでそれをマンガで? となるでしょう。
 私のやっている怪談なんて、まあくだらない。怪談がなかっても、ほとんどの人は別に困らない。なのに話を集めて、どう怖がらせてやろうかとニンマリしながら…
 やっぱりくだらないこと、してるでしょ?

 で、講義の中で出た結論。

 くだらない=おもしろい

 以上。


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kaidanyawa at 20:20|PermalinkComments(1)

2008年06月02日

5/28の小説技法

 中山市朗です。

 28日の小説技法の報告です。

 マンガもそうですが、プロを目指すならとにかく書いて、原稿を完成させるクセをつけることです。内容は荒くてもいい。未熟でもいいのです。
 小説なら400字詰め原稿用紙の300枚400枚を書いて、ともかく終結させること。300、400というのは単行本一冊の量です。
 これがどうしても書けないというのなら、小説家にはなれません。
 えっ、自分は星新一みたいな短編で勝負するって?
 それでも同じこと。短編集として400枚500枚と書けるかどうか。
 ともかく一冊の単行本の量が書けないなら、本が出せないということですから。

 夢を追いながら途中で挫折する人の大部分は、書き始めても最後まで行かないんです。頭の中で「これはダメだ」とか「まだまだ技術が足りない」とか言って、挙句の果てに「自分は完璧主義者なので…」なんて。
 こういうヤツが一番ダメ。一生書けませんわ。
 評論家としての眼は確かに必要ですが、それは他人に任せましょう。ともかく一冊分の原稿を書いては人に読ませる。書いては読ませる…。相手は親でも兄弟でも、友達でも誰でもいい。感想を聞くことです。最後まで読ませればまずたいしたもの。どうも読んでいないと思ったら、今度は読ませてやる、とそこを意識して書いてみることです。
 まあプロになっても、このくり返しをやっているわけで、それが作家というものです。

 日本のSF界の巨匠、小松左京さんは大学時代、戦後紙のないころに、原稿用紙をもったいないからと裏表で二次使用、チラシの裏やら母親の家計簿の白紙部分に…
 そうやって書いているうちに、いつの間にか原稿の山になった。下宿の裏庭で燃やそうとしたら、それを見ていた友人が「それ、燃やさないで廃品回収に売れば?」
 かくて小松氏の最初の原稿料は、廃品回収に売った一貫目いくら、という重量換算だったそうです。そのお金で焼酎を買ったといいますから、相当な量だったのでしょう。
 
 最後まで書けない、というのは実は技術の問題じゃないと思います。
 書けない、というのは書きたいものがない、ということでしょう。
 だから過去読んだ小説をなぞって書いて、でもそこに自分の主張がないから書いていて辛くなる。でも小説家にはなりたい。まあそのうち何かが天から降ってくるだろう、と思うようになって、そう思わないとやってられない…マンガもそう。
 
 書きたいもの捜し、といえば語弊がありますが、やっぱり篭っていたらアカン。やっぱり人と接したり、議論したり、世の中を知って欲しい。疑問とかいらだち、失望、嫉妬、怒り、焦燥感みたいな気持ちが作品を生む原動力になります。どうもね、書けないという人はそういう煩わしさから逃れようとしているような気がします。誰だって煩わしいことは嫌ですけどね。でも人や社会って煩わしいだけじゃない。刺激もあり、楽もあり、感動もあり、だから疑問や苛立ち、失望、嫉妬もある。
 やっぱり人を描くのが作家ですから。
 それに煩わしさから逃げようたって、生きている限り煩わしいことは出てきます。そんなとき、「人はこうするべきだ」とか、「あえてこんなことをしたらオモロイんちゃう?」などという作家としての惹眼は持っておかなくっちゃ。
 だからねえ、もっとみんな遊ぶべきです。活き活きとね。

 一方、書き上げることはできても、それを自分のホームページにあげて、そこで満足している人がいます。最初からプロになるつもりのない人は問題ないのですが、そこにくるアクセス数で勘違いを起こしているのも困ったものです。
 私が何年も前の専門学校時代に教えた作家志望者のホームページをいくつかチェックしているんですが、全然成長しとらんどころか、文章は乱れ、自己満足の極めもいいところ。アクセスは多いみたいですが、それって作家目指す他の人たちの安心の目安としてくるんちがうの、と私は思うのです。
「これよりは自分のほうがマシや」と。
 それ一回50円でも取ってみ。たちまちアクセス数減るから。
 プロになるということは、文庫本を出してもだいたい500円。それだけ出してでも読もうとするニーズを最低5000人は生み出す努力をしなきゃ。
 そういう意味で、何度もいうプロの人脈を置いておくこと。そのアドバイスというのは、きっと辛辣なものですが、それを受け入れないとなかなか500円の価値は生み出せません。
 うちとか専門学校は、技術を教わるところじゃない。そういうプロの人が講師のはずですから、いかに接するか。言葉は悪いですけど、いかに利用するかという場所です。
 500円の価値を生み出すには、その価値を実際生んだ人に接するのが一番の近道でしょうから。

 さて、この日の合評です。
 初挑戦のAさん。

「それ」は突然佐知子の前に現れた。

 という書き出しで、確かにみんなを惹きつけたみたいですが、それ以降に読ませどころがない。「それ」というのは主人公佐知子の目の前に彼女しか見えない穴みたいなものがひとつ空中にあって。それが隣に背後にといつも存在している。その発想はいいとして、他の塾生から疑問の声があがります。
「これはホラー? 奇憚? ミステリー?」
 Aさんはちょっと困った顔をして、「主人公を心の動きとか叫びを書いてみました」
「読んだ人にどう思わせたいですか?」
「ハラハラしてほしいですね」
「(課題は連載という体なので)にしては、なんか一話で完結しちゃってますよね」
 これらは読者としての率直な意見。

 私が思うに、「穴」という発想があって、そのまま構想を練らずに勢いだけで書いたんでしょう。だから話が流れないし、方向性がわからない。
 ハラハラしてほしい、というのなら主人公を追い込む必要があるし、謎の投与が次から次へとなければならない。最終章になるころには300枚近い長編にんっているはずだから、その落とし込みや伏線の計算もいるし、ドンデン返しも考えなきゃ…
 ということで、時間はかかりそうですが、全体の構想を練る必要があります。それにミステリーやサスペンスの小説や映画にどんどん接することです。

 Sくんの作品は、あの妙なルビがなくなって読みやすくはなりましたが。
 これも何を読ませたいのかわからない。Sくんは日常をちゃんと書きたい、というんですけど何が書きたいのかが伝わってこない。それに日常っていうけど、これ日常か?
 と言いたくなる部分や、やりとりもあって…
 酷な言い方だけど、「これ、課題やから読んでるけど、そやなかったら冒頭で止めてるわ」とSくんに言ったら、「僕も読まないでしょうね」という返答。
 うーん、Aさん同様、書きたいものがまだない状態。このまま300枚の作品にするには非常に困難が伴うことを示唆しました。
 柔軟な方向転換、というのも今なら許されます。

 Tくんは書きたいものがあるんです。ただ、読者に向けてのサービス精神がない。
 主人公がなぜか作家同士が格闘するクリエイターズファイトの存在を知って、そこで戦いチャンピオンになる、という流れがトントントンと叩き込むように書かれているんですが、多くの設定上の疑問やルールがそのままほったらかし。それ以前に主人公も謎を残したまま戦っているので、感情移入ができないんです。
 そこをもっと丁寧に。原稿用紙20枚ほどの量なのですが、次回はこの話を40枚で書くようにと伝えました。長くすればいいというわけではないのですが、ちょっと詰め込みすぎなんです。20枚にこだわる必要もまったくないし。

 Iさんは第四章まで進行しています。しかも一度最終章まで書き上げての再調整です。つまり連載が終わって今度は300〜400枚の単行本にするための添削、加筆に似た作業なわけです。主人公と確執のあった長男が登場して自殺してしまうというエピソードが加わりました。その必要性があるのかという疑問をもつ塾生もいましたが、私としては、これはOK。長男の自殺が主人公に戒めを与え、もっと成長する糧となります。一本の話としても後半にかかってちょっと中だるみしそうなころ。このエピソードは、ちょっとうるっときました。ただ、新エピソードが挿入されて、その前後のリズムが少々悪くなっています。そこを直せば次のステップです。

 さて、Oくんには冷たい視線が…
「すみません、今回は間に合いませんでした。でも来週は完成形で必ず提出します」
 ということでした。
 


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kaidanyawa at 12:42|PermalinkComments(0)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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