2009年01月

2009年01月29日

1/28の小説技法

 中山市朗です。

 昨日のブログで「黒澤明は金をかけているだけか?」というテーマで、立命館の学生たちとちょいとやりとりをしましたが・・・。

 今、塾生たち自らが動いて映像作品を作ろうということで準備をしているようです。(昨年12月4日のブログ参照)
 ただ、映像作品を作るだけなら、機材さえあればいつでもできます。
 そうではなくて、プロの人に監修に入ってもらい、プロの人にも現場に入ってもらって、製作費はなんとかスポンサーを見つけ、できた作品は流通させる、ということを実現させるというものです。つまりプロとして作品を作るということを目的とする。
 こういうことを考える塾生たちは、随分と意識的に成長したものだと感慨深いですな。学生の自主制作と、プロが関わっている流通させるための作品とは、全然違う現場になることでしょう。この現場を通して、あらゆる面で彼ら彼女らは鍛えられ、真の意味でプロの意識をもつことができるでしょう。

 学生映画と流通させる映画。
 ここにある違いは「資金を出すスポンサー」があるか、ないか。
 ここが決定的に違います。
 お金がかかってくるということは、その責任、管理、運営が伴い、かかった資金以上の利益をスポンサーにもたらすことも考えないといけない。
 きっと胃の痛くなる思いをするでしょうが、流通した瞬間、おそらく塾生たちはモノを作る真の楽しさを知り、この世界からは逃れられなくなることでしょう。
 まあ、これ以上の勉強の場もない。
 立命館の映研のメンバーたちも、カマレンジャーで繋がりがもてたんだから、コラボどう? まあ、私が決めることやないけど。

 山田誠二さん、何かとご苦労おかけします。よろしくお願いいたします。
 京極夏彦さん、何かありましたら、ぜひアドバイスを。

 一方、塾生Sくんと、スタッフでライターでもあるスガノくんは、現在、洋泉社に売り込むための企画を練っているところです。編集の田野辺さんから条件が示されたそうです。こちらも、もし実現するとSくんは初めて依頼された原稿を書くための本格的な取材、調査をすることになります。そしてもし出版されることになると、もう彼は一冊の本の著述者のひとりとなります。作家デビューです。
 う〜ん、甘くはないぞ! 気を抜くなよ。
 でも、在阪のプロのライターたちにでさえ巡ってこない、これは大チャンス!
 そのことをしっかり理解するように。

 UNIさんのキングレコード用のシナリオも含めて、ようやく私の思う塾の動きになってきました。私塾にしかできないこととは、これです。
 来年の今頃には、なんらかの報告ができることでしょう。
 三つとも実現できていない可能性もあるけど。それも経験。そうなったら、次を企めばいい。企み続けることが、すなわちプロとして生き残っていくということだから。
 ともあれ、塾長の私としてはすごく楽しみなことになってきました。

 さてさて、小説技法の報告です。ちょっとスペースの問題で詳しくは書けなくなってしまいましたが。
 カマレンジャーが大学行事のためにお休み。あとは今月入塾の二人も含めて9本の小説が合評の場にあがりました。だいぶ小説技法もにぎわってきました。

 Oくん、オタクの世界を舞台としたコメディアクション。文体は悪くないし発想もいいんだけど、ストーリーの構成力の問題。それに筆が遅いのも致命的。まあ彼もスガノくんについて、ライターの勉強もしているというから、そこで鍛えてもらうんやな。

 T野くんのSF小説。SFに対する愛情はわかるし、彼なりの理論も理解できる。メカの動きの描写は綿密で、脳裏にその画面が浮かんできますが、やっぱり人間描写がしっかりしないと、誰からその世界を見るのかという視点が定まらない。キャラクターの書き込みをしっかりと。以前私が指摘したように、もっと人と交わろう。

 Sくん(上記のSくんとは別人)。奇譚小説、やと私は思っているんですが、Sくんはまだ奇譚小説のことを知らない・・・。「小説らしく、らしく、と意識していたら、袋小路に入ってしまったので、言いたいことを提起してみました」というけど。その部分はいらない。色々試すのはいいけど、もっと本を読もうよ。遊んでばかりいないで。

 T田くんの小説家・マンガ家が出版権をめぐって格闘技をする、という独特なナンセンス小説は、世界観も固まってきて、キャラもそれぞれ立ってきた。次のステップ、第四章へ進むことを進言。

 新塾生のMさん。女性だと思っていたら、彼女は男性だった、という話の転がし方は巧い。これはそうとう書き慣れているか、センスがあるか。「恋愛がテーマです」と言った途端、他の塾生がエッとびっくり。それほど意外な展開です。ただ、自己破産とか父親への復讐とか、なんで彼は女装をしているの? という疑問が山積み。もう少しその先を書いてもらって、私はそこで判断したい。Mさんには次回、この続きを書いてもらいます。

 高校生のKくんは、サバイバルゲームの世界を小説に。以前から、なぜゲームなの? 本当の戦争モノ書けば? と随分言われながら、やっぱりこれがテーマということは、よっぽど書きたいんでしょう、ホビーやゲームのうんちくも出てきますが、これがデタラメ。私に指摘されるようではマニアには受けない。もっと調べながら書くこと。それにアクションの描写があまい。そこは、次で触れるYくんの作品を参考にするのがいい。

 新塾生のYくん。本格ヒーローもの小説です。彼も書き慣れています。アクションの描写が巧い。文体もシビアでムードがある。でもそれだけに、設定をしっかり決めておかないと、少しでも矛盾が出てくると、小説自体が崩壊します。で、やっぱりYくんの中では、そこがまだ固まっていないようで・・・。それとシビアな文体でありながら、わかりやすい。ということも意識して。

 Iさんの日本神話をテーマとしたファンタジー。ようやくインパクトの弱かったファーストシーンが改まり、第二章へと進みます。伊勢神宮の場面で、いろいろお参りの方法や儀式などが出てきます。そこに疑問があるという意見も出ましたが、まあそれが神道の決まりなんだから・・・。

 Hさんの不倫小説は、彼女自身もちょっと迷っています。読みやすくはなったけど、ねっとりとした女の情念みたいな心境が希薄になった・・・。難しいですな、小説は。
 ライトノベルズだと、わかりやすくスリムに、でいいでしょうけど、これはアダルトな女性がターゲット。ねちっこい30歳半ばの女の、年上の妻持ちの男との情事に馳せる思いは、地の文で読ませるところでもある。ちょっとスタイルが定まっていないのでしょう。Hさんも、この先を書いてもらって、そこから調整することを提案しました。

 さて合評が終わると、今度は落語作家志望のO田くんの落語台本にアドバイス。
 昨日の作劇公式ブログで、彼の台本を読んで爆笑している私の写真を掲載していましたが、別に彼の落語で笑ったんやない。日本語の使い方に矛盾が多くて、想像した世界がとんでもないことになったので爆笑しただけ。
 O田くんは、私を笑わせたんやない。笑われたわけやね。

 彼が華々しく活躍する日は・・・まだまだ遠い。


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2009年01月28日

黒澤明は金をかけているだけか?

 中山市朗です。

 うちの塾生に、立命館の大学生が在籍しています。
 カマレンジャー(もちろん本名ではない)という男です。
 彼は大学内の映画サークルに入っています。
 そのホームページ、わりとよく拝見しているんですが、ちょっとあることが気になってコメントを入れたのです。

 何に対して、どうコメントをしたのかは、下記のカマレンジャーのブログとそのコメントのやりとりを読んでいただきたいのですが・・・


 立命館大学映画サークル輪彩
 2008-12-17付のブログ


 「黒澤は金をかけているだけ」
 カマレンジャーの言うイケメンくん(本人の書き込みでは Not IKEMEN)が、どんなニュアンスで言ったのかは知りませんが、彼の意見に対してどうしても言いたいことが、また出てきました。
 本当は、映画サークルのコメント欄に書き込みをしたかったのですが、えらい長くなりそうなので、ここで。

 イケメンくんの言う、
 ホンモノのプロは、監督力、美的センス、演出力、脚本力、技術・・・、全てにおいてズバ抜けてレベルが高い人のことを指すと思います。

 そう、そのとおり。
 だから、スポンサーがつく。資金調達できる。
 他の世界でもそうでしょ?
 腕のある人は高いギャラをとる。
 大きなプロジェクトを任される。
 イチローだって超一流のプレイヤーだから、メジャーから高い契約金がもらえる。
 根性、考え方、資質、センス、技術、言動・・・そこにお金がつく。
 映画も同じ。

 だから、かけられるお金が集められるのがプロ、と私は言うわけです。

 学生は、お金というと毛嫌いする傾向があるけど、プロとなったらそうはいかない。
 プロだもん。それで食っていくんだもん。
 大勢のスタッフや関係者をも食わせることをしなきゃならないんだから。
 会社に、業界に、利益と信用をもたらすというのも、こういう人には責任がついてまわる。映画はプロジェクトでもあるからね。

 当時、『乱』はヘラルドエースと、フランスのゴーモン社の日仏共同資本で26億円の制作費が集められたと記憶している。26億円。10億で超大作という当時の日本映画の枠では確かに破格です。これ以上の制作費を調達ということになると、海外市場を視野に入れないと制作は不可能になる。制作費の回収ができないから。
 つまり『乱』の脚本、イメージ、黒澤の演出力、センス、技術力、統率力からして、世界公開ができると、フランスの映画会社が判断したわけです。ゴーモン社はフランス映画の老舗会社です。プロデューサーのシルベルマンは、ルネ・クレマンやルイス・ブニュエルといった名匠の映画を手がけた人です。
 実は当時、フランスの出資法が枷になっていて、なかなかゴーモン社がその気でも思うようにいかなかった。で、法律を改正させてまでして出資した。
 そして10年越しにクランクイン!

 この動きの一連をプロと言わないでどうする?
 フランス政府までも動かした黒澤のこの思い、執念と言わずしてなんというか?
 
 映画は、もちろん自主映画、インディーズでいい映画もあるし、それも立派な映画。
 それも認めます。
 でも一方、映画は産業でもある。
 当時、日本の映画産業で一番実績、知名度、実力、信用のある監督は黒澤明でした。それこそズバ抜けて。日本映画界の重責を、黒澤明はひとりで負っている状態でした。
 それだけに、ヘラルドエースは、『乱』の制作に向けて、必死の資金調達をしていたのです。日本の映画産業の可能性もここに見出そうとしていたわけです。

 だから、もう一度言う。お金になるからプロ。
 ならなきゃ、プロではない。
 ただ黒澤明という人は、日本映画の枠を超えていたんですな。
 それをプロ中のプロと言う。

 さて、イケメンくんの言う、発信側と受けて側のギャップの問題。
 ちょっとこの言葉の真意が分かりかねるのですが。

 そもそも、発信側(作り手)が、いくら制作費を使おうが、どんな環境や条件で作ろうが、それは確かに受けて側(観客)には関係のないこと。
 ただ、面白かったか、つまらなかったか。それだけの話。
 それだけに作り手側は、責任をもって作るわけです。それにかかる資金にも責任が必要です。見切り発車したら、制作費なくなった、では公開はできない。プロ失格。
 客が「なんだこれ、訳わかんねえや」と言って、作り手側が「いやあ、もうちょっとお金があれば、なんとかできたんだけど」と言ったところで、そら客は知らんこと。
 そうならないように資金調達するのも、プロの仕事なんです。
 大勢のスタッフや出演者、映画会社の人たちの生活もかかってるからね。
 監督自身の作品の評価、芸術的価値もそこで計られるからね。
 だから黒澤監督は、資金がちゃんと調達できるのを何年も待った。
 ヘラルドのプロデューサーたちも、必死になって資金集めに走り回ったわけです。

 前作の『影武者』も、コッポラとルーカスが米資本の20世紀FOXに援助を申し出て制作が動いたんです。これも大作でしたが、実はこの映画で黒澤監督は『乱』の制作費を軽減するための試みをしていたのです。馬(クォーターホース)を米国から購入し、軍馬に調教する。それまでは撮影ごとに借りていたんですね。そら効率悪い。そして三十騎の会を結成して、戦闘シーンをスムーズに撮影できるような仕組みを作る。鎧、兜、武器などは『乱』を想定して作成。つまり使い回しをした。小道具、衣装などは美術製作の会社に発注せずに手作りで行なう。マルチカメラの使用。これは3度カットを撮るより、1回の撮影で、3カット撮るほうがはるかに効率もいい・・・、など。
 つまり制作費の使い方が巧妙だったわけです。
 合戦のロケの方法なんて、私直に見ていたけど、物凄い省エネ撮影。これはここでは書けない。
 イケメンくん、その方法はまた機会があれば教えてあげるよ。
 そういう思考は、まさにプロ中のプロの技!
 ああいうことは、素人には考えもつかない!
 お金を有効に、効率よく使うのもプロなんだよ。

 あれをハリウッドで作ったら、ゆうに3倍はかかる!
 まあ、仕組みが違うから。ハリウッドは。
 
 いい画面、美しい映像、感動的な、ユニークな、センスの光る映画を作る。
 それが映画監督の仕事だと、学生は思うんです。
 でもそれは、実は意外に簡単に撮れるんです。
 そうなるまで粘ればいいんだから。
 しかし限られた期間、制作費の枠内、管理されたスケジュールの中で、これだけのレベルのものを、この条件で作ってと注文されたら、たちまちアマチュアはなにもできなくなって、きっと逃げ出してしまいます。プロの現場はそれほど厳しく、大作になるほど難しくなる。プロこそが、実は妥協がないと作れない・・・。
 まあ、プロの現場に入れば思い知ることです。

 とはいえ、そんなことは観客には関係ないこと。でも、観客を満足させる(というか、作り手側が責任をもって映画を作る)ということでは、妥協できない。だから、きっちりと予算を組んで、その中でいいものを作って、ちゃんと出資した会社に黒字を残す。 
 これもプロならではの技。そして使命。

 スイルバーグもコッポラも、いやハリウッドのメジャーな映画人たちは、そんな中で映画を撮っている。25億なんてハリウッドじゃ大作じゃない。100億、150億円・・・。
 でも彼らは「お金をかけているだけ」みたいなことは言われない。
 なぜか、黒澤明だけが「お金をかけているだけ」と言われるんですな。
 そして、それを言うのは、なぜか日本人だけなのです。
 はて・・・?

 では、なぜイケメンくんの言うような、「黒澤はお金をかけているだけ」というイメージが残ったのか。こういう意見、私もよく耳にし、記事で読みますけど。
 実はこれこそ、作り手側にも観客側にも関係のない、ひがみ根性のスポンサーのつかない日本映画人とマスコミが作り上げた勝手なイメージ、虚像だったのです。

 「30億円大作にスポンサー」(昭和57年1月25日・サンケイスポーツ)=ホントは26億円。
 「前代未聞! 制作保健30億かけ・・・『乱』」(昭和59年4月26日・読売新聞)
 「『乱』富士・中腹に4億円の城」(昭和59年10月・日刊スポーツ)=ホントは3億円。
 「26億円ライフワーク完成試写」(昭和60年5月22日・報知新聞)

 これは別に黒澤監督がそう書いてくれと言ったわけではない。
 「そんなの観客には関係ないことだから」と、監督はそういう制作費何億報道に不快感を顕にしていました。
 ただし、新聞の見出しには、30億円、としたほうが新聞の購買が増える。また、制作会社とすれば、それが大作という広告効果がある。当時の日本映画ではホントに桁の違う数字でしたから。
 そういう思惑が、「黒澤=お金」というイメージを作った。それが未だに残っている、というわけです。

 もうひとつ、ここにプラスして、ひがみ根性丸出しの、当時の日本映画の監督たちがこう言い出したわけです。
 「黒澤は、お金が使えるから、あれだけのものが作れるんだ」
 「黒澤の映画なんて、馬が走っているだけ」
 「結局、金をかけているだけなんだ、あれは」
 誰、とは言いませんが、私は発言者の全員を覚えている。

 この発言が、未だ資金調達できない日本の映画人たちの口癖になっちゃった。
 学生上がりの監督が言うならまだしも、鈴木清順監督まで、そんな発言をしてた。

 当時、日本のこういう監督たちとディスカッションするためにステージに上がっていたコッポラ監督は、彼らの態度にゲンナリして、こう言ったんです。
 「僕だって満足な資金調達ができないんだ。だから自分のプロダクションを作って、自分がプロデューサーになって、必死になって資金を集めているんだ。資金が集まらなきゃ、映画は作れない。なのにキミたちはボヤいてばかりで何もやっていないじゃないか!」
 私はこのコッポラの言葉を聞いて、恥ずかしい思いをしました。
 ひがんでいる監督と、作りたいもののために必死に資金調達をする監督。
 どっちがプロか?

 ちなみにATGで1000万円映画を撮っていた大島渚監督も、当初、大作主義の黒澤明に批判的な言動が見られたが、彼としては初の大作となる『戦場のメリークリスマス』を撮ったあとは、翻って黒澤擁護にまわるようになった。

 「大作を自分で撮ってみてわかった。資金が調達できて、その資金を効率よく使うことがプロだって実感した。これは難しい・・・。黒澤明の偉大さを今更ながら痛感した」と言って。


 あっ、それからカマレンジャー。 
 仲代達也ではなく、達矢、だからね。




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2009年01月27日

しょこリータ

 中山市朗です。

 番組の出演依頼は、ほんま急でした。
 担当のRくんから「今度の土曜日なんですけど、しょこたんの番組で怪談特集をまたやるみたいで。出演依頼が・・・」
 「土曜日? 今度の?」というやりとりがあったのは20日のことでした。
 しょこたん、の番組は一昨年。『溜池NOW』というネット番組に出演させてもろうたんですが、その流れで出演依頼がきたようです。ほらな、人脈やろ。

 で、本当はスガノと、京都でワークショップに出る約束をしていたんだけど、まあそれはスガノがやってくれるだろうと、出演を了承。
 これに出れば、何かあるぞ、という感触がしたんですよ。なぜか。
 「で、どんな番組? 他には誰が?」
 Rくんに聞くが・・・。
 一切わからず。ただ番組の名前はわかった。
 『しょこリータ』 
 ネットで調べたら、
 昨年の10月に始まった、テレビ東京の深夜番組。
 大阪では、今月の9日から放送。ってことは、4ヶ月遅れ?

 さて、わけもわからず、当日タクシーで収録のある東京大田区の某寺に。

 ゴ〜ン・・・。
 
 ほんまに本堂で法事やってはった。

 で、楽屋(というか、お寺の控え室)に入ると、いやあ、いるいる。
 怪談仲間の面々が。『幽』の執筆陣たちが。
 東雅夫編集長はもちろん、「怪談徒然日記」の加門七海さん、「超・怖い話」の平山夢明さん、「憑云草」のマンガ家(私のこともマンガに登場させていただいた)伊藤三巳華さん、「山の霊異記」の安曇潤平さん(安曇さんはお初です)。それに怪談サイト「逢魔が刻物語」の雲谷齊さん・・・。怪談タレントか芸人かわからないような、東京のタレントさんたちも。夏の『幽』の怪談イベントくらいでしょう。こんなに怪談語り師が一堂に集まるのは。
 しかもRくん以外にも、メディアファクトリーの編集陣も。
 大事な作家さんのお守りなのでしょうか?
 そこに、黒い和服姿の京極夏彦さんが、ひょっこり現れて。
 「出番はないけど、遊びに来た」だって。
 本当は、都内で用事があるので、まあ時間潰しだったようだけど・・・。
 「原稿、脱稿したって!?」と、ポンと背中を叩かれた。
 このブログ、ちゃんと読んでくれてますな。うかつなこと、書けんなあ。
 と思いながらも、うかつなことを書いちゃうのがブログ。

 「どうです、塾生さんは」と、京極さんから話をふられて。塾生諸君、京極さんはちゃんと見てるよ・・・。でも、ちょっとあることを指摘され、わちゃーっ。でも、うちの塾生はやりかねん・・・。

 さて、現場に入って、番組の全貌がわかってきた。
 しょこたんが司会。東さんが隣で、怪談についての解説。
 そして語り師たちは、あらかじめ、この話とこの話、と三題怪談を用意しておいて、そのお話を短冊に書く。その短冊は、無作為にしょこたんが抜いて、例えば「『合コン』、これはどなたですか?」「はい、私です」と言って、前に用意された座布団に座って、しょこたんに向かって怪談を一席・・・。とまあ、そんな番組。
 そしたら。
 な、なんと、恐れを知らない番組スタッフは、京極さんのところへ行くと、なにやら耳打ち。「ええっ、しょうがないなあ」と言いながら、京極さん、いつも持ち歩いてる筆と硯箱を取り出すと、白紙の短冊に、そのお題をサラサラ。さっきの「合コン」というのはホントにあったお題で、京極さん曰く、「合コンって、生まれて初めて書くよ」。お祓い済みの印も押されて。Rくんは、それをハラハラしながら見てる。
 まあ、オンエアされたらどうせわかることだから・・・。

 平山さんは、いつものごとく江戸前のべらんめぇ口調で、変な人話をひとり語って、控え室にいる人たちを笑わせている。「そんな奴いねーよ」と何度突っ込もうと思ったことか。加門さんはヘビースモーカー。控え室は禁煙なので、下の喫煙室でおいしそうに。
 東さんによると、あれはタバコ好きということもあるけど、霊が寄ってくるのを防いでいるんだそうで。まあタバコとか線香といった煙を霊は嫌う、というのは聞いたことがある。
 伊藤三巳華さんは、『幽』の「やじきた」の鎌倉ロケで一度ご一緒させていただいた。その後、私のブログにコメントをいただいていたのに、うちのスタッフが認知するのを忘れていたようで。ほんま、ごめんなさい。
 安曇さんは、寡黙な人です。こういう人が、怪談をはじめたら怖いんですな。

 番組自体は30分。
 で、2回にわけてオンエア、となっているので、まあタカをくくっていると・・・。
 なんと、18時30分くらいに撮影がはじまって、終わったのが23時。
 たっぷり収録。
 編集、どうすんのやろ?
 「今から水曜日まで、編集作業で寝られません」て、スタッフの人は言うてた。
 前日の夜中は、山口さんや洋泉社、豊島監督たちと霊スポットに行ってたからなあ。終わったらヘトヘトでした。
 しょこたんとも、ツーショットの写真を撮って。
 でもブログには上げないよ。

 で、帰りのタクシーで、送ってくれたスタッフに言われた。
 「3月に、しょこたんの怪談イベントを催す予定です。スケジュールを開けておいてください」

 ほら、何かあるぞという感触、当たった!
 この頃、こういう感覚に目覚めてきたみたい。

 大阪でオンエアされるのは、いつかって?
 だから知らないって。 
 


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2009年01月26日

企みをもて!!!

 中山市朗です。

 えー、東京から戻ってまいりましたので、たまっていた報告をいたします。
 
 作劇ブログスタッフ菅野塾生UNI塾生高田豪、のブログにありますように、1月23日の金曜日に、東京からお客さんがやってこられました(あれ、猪名山門士だけ何も書いてないぞ?)。 

 用件の1つは、昨年5月に撮影(5月19日のブログ参照)、7月に発売(7月23日のブログ参照)された、キングレコードと洋泉社共同企画の『新耳袋・殴り込み』が大好評だったので、第2弾を製作したい、ということでして。
 やってきたのは七人の侍、いや、七人の怪談オタク? メンバーについては作劇ブログにて。
 ロケ場所や演出の仕方、見せ方などの打ち合わせです。
 やっぱりこの人たち、テンション高いわ。
 私も七人を向こうに回して、大阪の霊スポットや逸話、新作怪談などを連射砲のごとき連発。そしたらあとで拉致同然に車に押し込められ、ロケハンも兼ねて霊スポット案内をやるハメに・・・

 2つめは、私の原作による怪談の映画化の話。
 これは別企画なので、「食事をしながら話しましょう」と山口さん。
 塾生も何人か、まあ4人ですけど、見学に来ていたので「一緒にご飯食べようよ」と山口さんに誘っていただきました。
 場所は、大阪随一の心霊スポット、千日前で、というゲストの皆々様のリクエストにより、大滝社長に居酒屋の予約をとっていただいて、ひとときのプロと塾生の懇談タイム。

 映画化の話はまだ企画段階ですから何とも言えませんが、UNIがブログで書いているように、あるシナリオを彼女に依頼して、稿を重ねて、叩き台として前もって提出しておいたのです。山口さんも映画化は考えていたようで、前向きな話が出たところで、早速彼女を紹介し、映画化を前提に直接シナリオに注文してもらっていました。
 まあ、こんなこと、他ではない。
 少なくとも、私の4年間の芸大生活と、9年間の専門学校講師時代には。
 専門学校でこれをやると、怒られちゃった。
 「専門学校は教えるところで、仕事をさせるところじゃありません」って。
 そのクセ、提携したり、お世話になっている企業へは、研修という名の仕事をノーギャラでやらせて・・・まあ、やめとこ。
 ただ、映画の企画は土壇場でひっくり返ったり、白紙になることが多いので、それだけはUNIに言っておきます。けど、これ以上のチャンスもない! 俺やったら猛然とアピールする。この機会を逃したら命がない、というくらいの思いで。

 さて、恒例。塾生へのお小言を。

 なんで塾生、4人しか来とらん?
 本来ならば(今月は元旦で一週ずれたけど)この日はシナリオの授業。だから正規のアルバイトなどは入っていないはず。それに、この日は東京からゲストが来られるから授業はない、という告知もしてあったはず。教室に来て隣で話を聞くだけでもいい勉強になるよ、とも誘ったはず・・・
 でもって、シナリオの授業を受けている塾生は10人ほどいるはずやのに。
 しかも、みんなで映画を撮ろう、ということで山田誠二監督のところへアドバイスをもらいに行ったところやろ?
 で、なんでプロの集団が、わざわざ教室まで来てくれているのに、いないのか?
 しかもアドバイスを気楽に言ってくださる気の良い人たちばかりやぞ。
 坂本十三くんも、ブログで映画監督からベタくださったと騒いでいる場合やない。教室には、映画のプロデューサーと、映画監督が2人も来ているというのに、何してんねん?
 で、またもう1人のシナリオライター志望者は、はたして本気なの?
 影も形も見えん。

 また洋泉社、ミリオン出版の方も来ておられる。
 普段から企みをもっているなら、これはもう大チャンスの到来・・・。
 文章もイラストもマンガも、ある!
 ・・・そうか。みんな企みがないんやな。
 企み。

 これは持たなあかん。

 ここは塾。専門学校との一番の違いは、ここはデビューするところじゃなく、この業界で生きていくことを学ぶことにある。
 文章を書いて生きる、マンガやイラストを描いて生きる、映像やイベントなどの業界で生きる。それができるところ!
 もちろん、そのためには、各々技術の研鑽は必要。それは第一条件。
 でもそれだけでは仕事はこない。
 仕事は人脈でくる。だからこういうチャンスには顔を出しておくこと。
 しかし、何も考えていないのに名刺だけ渡しても、先方は覚えてくれないし、場合によっては迷惑になる。だから、こういう人たちが来たときに、「それっ」と持っていける企みを普段からしておくこと。

 私なんぞ、芸大出た途端、何も業界との繋がりがないと気がついて、必死になってしがみつこうとした。出版社、映画会社、映像制作会社、プロダクション、映像メーカー・・・。何十社とまわった。素人の企画なんて、誰も相手してくれない。門前払いもあった。編集長や、メインのプロデューサーに会えることも、滅多になかった。
 だから企んで、企んで、営業(持ち込み)をして、営業をして、また営業を・・・。
 企みがなく、ただ漠然とシナリオを書いているだけだったら、私は確実にこの世界にいなかっただろう。
 黒澤監督とも会っていないし、大滝との出会いもなかったし、『新耳袋』もなかった。
 当然、塾もなかったろうから、キミたちとは出会っていない。
 この塾だって、私にとっては大きな企みです。

 キミたちはそういう営業をやっていないから、そういう人たちがわざわざ東京から大挙してやってくるという“ありがたみ”を知らない。だからスルーしちゃうんやな。
 まあ、私が大学を出たばかりの頃に、こんな機会があったら、映像企画や出版企画、それに書き上げた原稿なりを10は持っていく。
 とにかく「なんだコイツは!?」と思わせる。
 こいつと酒でも飲みたいな、と思わせる。
 そこまでしないと、素人に仕事をくれるはずがない。
 しかもキミたちは、中山市朗作劇塾という後ろ盾がある。
 オモロい奴、やる気のある奴、腕のある奴、そういう塾生を推す。
 もしそれで仕事がもらえりゃ、もうデビューしてるやん。そこで信頼得たら、きっと次の仕事をくれる。そうやって、好きなことで飯を食う。ということに繋がっていく。
 専門学校との違いは、ココ。
 でも、塾生にその意識がなかったら、塾は専門学校の小型版にしかならない。

 コンビニのバイトなんて、高田くんがブログで書いていたように誰でもできる仕事。でもそれが仕事やと勘違いしている者もいるのかな。
 楽やもん、仕事。キリキリやけど食ってはいけるもん。
 しかし、そこから脱出せな。
 仕事がクビになったり、仕事場が倒産したりと、塾生諸君もこの不景気に翻弄されていることは聞いているし、そりゃあ食っていかなアカンし、塾の月謝だって払ってもらわないと困る。でも、そろそろ2年くらい通っている塾生は、頭を使って企みをしないと。
 それか人の5倍、10倍とマンガなり小説の原稿を描(書)き続けるか。
 
 と、企んでいる奴がいた。
 さすがは塾スタッフ、スガノくん。
 というか、まあプロとして食っていくためには、当たり前のことやけど。
 
 時代劇マニアのSくんの知識を使って、どうにか物書きの仕事にならないかと、以前から企んでいたのは知っていたんや。企画書を作ったり、Sくんと打ち合わせをしたり。
 その企みのことを知っていたから、言うたわけです。
 「洋泉社の田野辺さん来るよ(田野辺さんは、男の子のための映画雑誌『映画秘宝』の2代目編集長だった人=『スクリーン』『ロードショウ』は女の子向けやったからね。どっちかと言うと)。だったら田野辺さんに売り込んでみれば? そのコンセプトなら絶対、洋泉社は欲しがるから」と。ただし企画書は甘い。Sくんは知識はあるが、それを創作に活かすことを知らない。スガノくんは、ライターとして売り出し中だが、時代劇の知識がない。だから企画がムック本みたいになって、これではウチが編プロみたいになっちゃうし、それではウチでやる意味がない。だからもっと練らんと・・・。
 で、田野辺さんに居酒屋で見せて、アドバイスをもらってた。
 聞いてはもらえて、また練り直して再度、企画書を提出するように言われたとか。
 どうなるかわからんが、普通、洋泉社にいきなり飛び込んで、こんな企画がありますと売り込んでも、門前払いか、少なくとも田野辺さんクラスの人は会ってくれない。
 それは誰よりも、スガノくんがわかっていることだろうと思う。
 彼は、営業をしているから。
 仕事をとるのが、いかに困難なことか、知っているから。
 小説家としてデビューしたけど、それだけでは食っていけないと、わかったから。
 しかし、中山市朗作劇塾ならば、その可能性もあるということも。
 だから普段から企んでいた。
 これ、企み。
 企んでいたから、田野辺さんと企画の話ができた。
 少なくとも、プロはこうする、出版社はこういうものを求める、スキルはこのくらいなきゃあ、というストレートなアドバイスをもらっているはず。
 こんな勉強の場ってない!
 言っちゃあ、UNIさんにシナリオを書かせて、山口プロデューサーに送ったのも、私の企みと言えば企みだもんね。何事も、企み。

 さて、交流会もそこそこに私は、彼らの車に乗せられて、遠く幽霊の出ると噂のトンネルを案内することに・・・。
 男8人じゃねえ、出るもんも出んわ。
 しかし、ロケーションには抜群。
 ということで、5月頃に本番の撮影でまた、この人たちは大阪へ来られます。
 塾生諸君は、その頃にはどのくらい意識を持てているのか?

 翌日(24日)には、東京へ。
 しょこたんの番組に出演してきました。
 楽屋には、出番もないのになぜか京極夏彦が・・・
 
 この続きは、また次回。




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2009年01月22日

1/24の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 なんかもう20日の参院予算委員会で、民主党の石井一副代表が、麻生太郎首相に漢字テストをしたら、その途端に民主党本部に国民から苦情の電話が相次いだという。
 麻生さん、漢字読めないことが露呈して、なんやかんや言われてますけど。
 まあ、こんなん言うたらなんですが、マンガばっかり読んでたら馬鹿になるよと、身をもって示してしまった感のある、首相ではありますが・・・。

 石井副代表もなにしとんねん。
 なんでも麻生さんが昨年10月にある月刊誌に寄せた原稿に「就中」とか「唯々諾々」「叱咤激励」「中興の祖」「愚弄」といった12の漢字熟語が使われていたとかで、そのパネルを出して「これらを使ったあの文章は、とてもあなたの漢字力からして、他の人が書いたものとしか思えない」とやったらしい。
 そしたら「こんなに経済が大変なときに何やっとんじゃあ!」
 「それがなんの意味があんねん!」
 「お前ら税金使こうてお笑いでもやっとるつもりか、どあほ!」みたいなクレームが民主党本部にきた言うんですな。

 そんなんねえ、パソコンで原稿書いてたら「しったげきれい」と打てば「叱咤激励」って自然に出てまいますわ。「ぐろう」も「愚弄」と当然出るし。おや、「面目躍如」「朝令暮改」「合従連衛」「唯々諾々」「中興の祖」も打つと出るやん。「なかんずく」は「なかんずく」としか出ないですけど、辞書引きゃわかるし。「かんこんいってき」は「冠婚いってき」としか・・・あとは・・・えっと・・・?
 ということで、石井一さんは、どうやら文章をお書きになったことないようですな。
 マンガバカと文章書いたことない者同士のバトル。
 どっちがえらくて、どっちがバカなのでしょう・・・。
 って、なに中学生レベルなことを国会でおやりになってんでしょ?
 それともまあ莫大な税金を使って、国営放送が全国にテレビ中継している前で・・・。

 さて一方、国からは私塾がゆえになんの援助ももらえない、大阪のある小さな教室では・・・、21日の作劇ゼミの報告です。
 「落語講座・其の二」であります。
 前回は、どうして落語は着物なの? 座布団に座るの? ひとりなの? という落語の根本的構造と、その成り立ち、歴史についてお話したうえで、私自ら「青菜」という噺を演じてしまったわけですが・・・。その後、我が桐の一門による「へたなら寄席」がワッハ上方で催されたこともあり、塾生たちの間では、今落語ブームが来ているようです。
 素人の落語で、オモロイと思えるんやから、プロの芸見たらもう、あなた・・・。
 こうしてみると、やっぱりなんですな。
 みんな落語は難しそうとか、とっつきにくそうと、勝手に思い込んでいるだけ。
 ちゃんと接すれば、ちゃんと面白いと思うんです。
 ただ解説が必要。
 解説してあげると、それがガイド代わりになって、そーか、とわかりやすくなる。
 歌舞伎や能、狂言もそうやと思います。
 いきなり観せられても、なんやようわからんし。
 上方落語界も繁昌亭は常に満員とか聞いてますけど、やっぱり若い人たちに向けての広報活動は絶対重要でっせ。将来は楽観してはいかん。

 で、講義ですな。今回「其の二」は、落語の空間のおはなし。
 ひとりで演じる落語ですが、登場するキャラクターは複数ですので、その人物間の距離、動き、人数、そして背景などを、お客に違和感なく伝える、という実は高等テクニックをプロの噺家さんはおやりになる。それは、まず目線。素人と玄人の違いはここやそうですわ。それに声の張り方、これで距離感が出る。
 例えば、演者が左向いて小声で「こんちわっ」、右向いて「あっ、びっくりした、そこにいてたんかいな」とやると、この2人は物凄く近い距離にいるようにイメージされますわな。ところが、同じ左向いても、ちょっと目線を上にして「こんちわーっ」大声でやって右向いて、同じくちょっと目線を上にして「おっ、おまはんか。こっちこっち」と手招きでもすると、距離感がえらく遠くにイメージされます。で、ここを調整するわけですな。

 武家屋敷の一室でのお殿様と家来の距離、まあそんなに近くはない。四畳半一間での夫婦のやりとり、これは近い。長屋の路地での立ち話、道行く人同士の挨拶、お店での対応、お客と芸者・・・、距離感って大切なんです。そのお勉強は落語から。
 だってそうでしょ。男と女がベンチに2人で座っている。このときの微妙な距離感で、2人の関係が演出されなければ、映画監督にはなれない、とは大島渚監督の言葉ですけど。
 マンガ、アニメもそう。カット割りでひとりのキャラクターをアップで描くとして、はたして相手はどこにいるのか。目の前なのか、5メートルくらい離れているのか、もっと遠くにいるのか。その相手人物は座っているのか、立っているのか、動いているのか。そういうことをちゃんと、この1人のキャラクターの「アップ」で伝えなきゃならん。目線の位置ですわ。で、対話するには、次のカットに描かれる人物との関係を示すためには、目線がちゃんと交わらなあかん。
 実写の映画やドラマですと、「目線ここです」と指示が出て、役者さんはそこを見てセリフを言う。「もっとセリフ、張ってみてください」とか注文されて、演出家の言うとおりやって「はい、OK!」。で、数日後、相手役の役者さんに同じ注文。これを編集すると、この2人はいかにもその場で会話しているように見える。
 ほんまは、忙しい2人。現場では顔も合わせていない・・・。これが映画。
 マンガ家やアニメーターは、それを絵でやるわけです。カットのつながりで、空間をイメージさせるわけです。目線は大事。そのいいサンプルが落語なんです。
 私、前回「青菜」という噺を演りました。冒頭で、出入りの植木屋さんに家の旦那が声をかけるという場面がある。ここで、目を一点集中させて「植木屋さん、植木屋さん」とやると、そこに帰り支度している植木屋さんがいる。で、2回呼ぶ、というのも距離感ですわな。こういうのは、小説やシナリオに生きます。同じことでも、「植木屋さん、植木屋さん」と呼びながら、目を平行に右、そして何かを追うように左へと動かすと、向こうでウロウロしている植木屋さんをお客はイメージする。
 もうひとつ、実は落語に限らず、お芝居にも上手、下手というのがあります。
 じょうず、へた、と読んではあきません。
 かみて、しもて、と読みます。
 ここにも実は規則がありまして、「こんちは」と入る人は下手から上手に入る。
 応対する人は、上手から下手に対応する。
 目上、身分の高い人と低い人、でも上手、下手の法則の上で表現します。
 ここにも実は意味がありまして・・・。
 それはまた今度。これだけで、1時間は講義できます。

 ともかく・・・。
 こういうテクニックは、私は怪談を語るときに使わせてもらっています。
 いかに聞き手を、バーチャルな異次元に誘い込むか、ですから、間やテンポも大切ですが、体験者たちはどんな距離で、何を見て、どうリアクションしたかは、怪談語りにとっては命ですから。それがあって『新耳袋』はあった。これは事実です。

 で、さんざん解説、分析したあと、桂春団治師匠の『皿屋敷』のDVDをみんなで鑑賞。芸術ですな。
 若い奴らが、ひとかたまりになって、幽霊を見に皿屋敷へ向かうところ。
 怖がりの喜ィやんが、最初は洋々と歩くんですが、だんだん目指す皿屋敷の塀が見えてくる。そしてだんだん悪寒に襲われてくる。友達の清やんに話しかける。喜ィやんと清やんがもう歩き方が違う。さらに塀が近くに見えてくる。ブルッと震えがくる。
 喜ィやん、清やんに「もう帰りたい」言い出す。
 清やんは、なんやかんや言うて、喜ィやんを帰さんようにするわけです。ほんまは清やんも怖いんで、ひとりでも多いほうが心丈夫。でも喜ィやんは、「命にかえられん」と帰ろうとします。
 清やんは言います。「ほな帰れ! けどな、去ぬのやったら気をつけて去ねよ」
 「な、何に気ぃつけんねん」
 「幽霊かてな、大勢いてるより、少ないほうが出やすい、てなもんや。ひとりでトボトボ歩いてるやろ。そう、来しなにな、あの藪際を通ってきたやろ」
 「あの、じ、地蔵さんのあるとこか」
 「そうや、あそこはなあ、なるべく通らんようにぃ・・・しては、いねんかぁ・・・、いに!」
 「わあ、よけ帰られへんわ、つ、連れて行ってもらう!」
 てなわけで、喜ぃやん、みんなについて行きます。でも、怖い。
 で、気がついたら一番後ろを歩いている・・・。ヤバイ。
 「清やん、お前の前歩かして。えらいすんまへん。あ、あの徳さん、えらいすんまへんけど、あんたの後ろ歩かせてえな。ほんで、あの、みなさんすんまへんけど、わいの周りずっと囲んで、もっとひっついて、もっと・・・」
 この心境わかります。私もよう心霊スポットてな行かされて、やっぱり一番後ろを歩くのは・・・清やん、言いますな。この人Sです。私に似てます。
 「なにがそない怖いねん。そらな、お前の思うてるように幽霊、ぐるりから出たらええわい。人のいん隙狙うて、頭の上からニュー・・・」
 「わあああ、頭の上、ガラ空きや。あのう、誰ぞ上へ上がって横になり」

 この間の、心境の変化、塀が近づいてくる距離感、移動している数人の若者の集団、喜ぃやんがその集団の中でどう動いて、誰とどういう距離感をもって、なおかつ、全員が前にさして歩いている、ますます近づく皿屋敷・・・。
 これ、座布団の上に正座したまま、全部描写してはる!

 そしてこの後、お菊さんの幽霊が出るんですが、これがまた・・・
 書ききれませんわ。

 さて、2月も落語講座続けます。

 立川談志師匠だったかな。
 「落語は人生の百科事典である」と。
 その辺りの話をしましょう。
 そういや、私の友人が言うた名言があります。
 「結婚は人生の墓地である」
 ・・・。


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2009年01月21日

中山市朗、ある原稿を書き上げる

 中山市朗です。

 えーっ、ただいま、ある原稿が一応終わりました。
 本編と注釈で800枚くらい。
 書いて削って、また足して、書き直して、資料が見つかるたびに書き直し。
 半年かかりました。
 登場人物は18世紀のウィーンの人間。
 モーツァルト、シカネーダー、ジングシュビール、フリーメーソン、イルミナティ、アダム・ヴァイスハウプト、啓蒙主義、フランス革命、エジプト象徴学、錬金術、カバラ、旧約聖書、ソロモンの神殿、預言、ピラミッド、モーゼ、黄金の国ジパング、イエズス会、ザビエルの書簡、神道秘儀、先代旧事本紀、太陽神、聖徳太子・・・。
 こんなに難儀した原稿ははじめて。
 しかし、これ、第一部なんです。
 明日から第二部へ突入です。

 なんの原稿って?
 例の『捜聖記』の姉妹編です。
 ところで、プロの音楽家の方、いてはりましたら協力していただきたいことが。
 第二部は、モーツァルトの『魔笛』の封印を解きます。
 でも、楽譜がどうも・・・。
 音楽きっちりやっときゃよかった。

 なんでもやっとかな、あきまへんなあ。
 できれば、ウィーンへ行きたい。
 せめて今から、ハイビジョンでモーツァルトのオペラ観よっと。 


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2009年01月16日

プロとして生き残る人

 中山市朗です。

 塾生の高田くんのちょっと前のブログで、「さらば友よ」という題で、専門学校時代の同期生・Mくんとは二度と会わないだろうということを書いていました。
 するとそのブログに、「ものすごく末端の文筆家」という方から、コメントがつきました。

 たとえ人に認められずとも描き続けるものを持っている人を少々魅力的に思わないでもない。
 そういう方の生き様に「残念」のひとことで片付けられない何かを感じる。
 自分にない価値観をもっている人がとても興味深い。また会えば面白いと思いますよ。

 というようなものでした。

 この文筆屋さんはきっと、心の優しい、大きな人だと思います。

 しかし、あまりの価値観の違いに決別した高田くんの悲痛な思いもわかります。

 高田くんが決別したMくんというのは、私の専門学校時代の教え子です。もう10年ほど会ってませんが、彼のことは覚えています。確かにマンガのテクニックはトップクラスのものがありましたが、なんせ頑固で人の言うことを聞かないという面が当時からありました。その性格さえ直せば、彼はもっとゆうゆうとした気持ちで作品を描き、ひょっとしたらデビューをしていたかもしれません。ほんまにそう思います。

 マンガ家や作家になろうと、ただ閉じこもって誰とも話もせず、延々苦しみながら描(書)いている人は、この全国に何万人、ひょっとしたら何十万といることでしょう。そういう人の中から、ひょっとして大作家が出ることだってあるかもしれません。
 また、小説やマンガは基本的にはひとりでやる作業ですから、こもることも多くなります。そういうMくんみたいな人たちに、ちょっと私なりの意見を言います。

 確かに作品を書くには、反社会性というか、何か満たされないという状態は必要なんでしょう。手塚治虫さんは「マンガはハングリー・アートだ」と言っていますが、その通りです。腹が減ったら飯を食いたくなるように、モノカキの性分のある人は、ハングリーなことがモノを表現したい衝動となって、作品を生み出したりするものです。私がそうですから。
 女の子なんて、結婚する前にデビューして、担当さんでもいれば、仕事として描き続けるのですが、デビューしていない子が結婚しちゃうと、まあ、書かなくなる。そこで終わり。満たされたんですな。夫が許してくれないなんて、絶対言い訳で。
 男も彼女ができたりすると、途端に彼女への貢ぎ物のためにバイトのほうに力が入ったりして、結婚すると守りに入ってしまう。まあ仕方ないことなんでしょうが。

 だからモテない、貧乏、社会不適応者、みたいな人は、じゅうぶん作家になれる資質と環境をもっていると思います。
 その点でいうと、Mくんは合格ですな。

 しかし、Mくんには致命的に駄目なところがある。
 それは。
 30歳になった男なのに、実家にいて、実家の手伝いをしていると。これがいかん!
 つまり彼は本当の社会を見ていない。それでは作品は書けませんわな。
 社会を見ていないからMくんは、そこが不安なんです。わかっているんです、そのことは自分で。だから、その不安を解消するためにマンガを描いているんです。でもね、家にこもってマンガだけ描いている甲斐性のない男に、女が惚れるわけがない。また、そういう出会いもない。だから女性に対してMくんは憎悪の念が湧くんです。でもそうなったら、女性だけではない。憎悪をもった人間からは、友人も離れていく。高田くんのように。だからMくんはそこに不安と今度は人間そのものに憎悪をもち、ますますマンガを描くという行為で、自分をごまかし、プライドをなんとか自分の中で保っているんです。
 だから、「俺は芸術家なんだ」という言葉が出る・・・。最悪です。
 彼は、イヤなことを遠ざけているだけ。
 しかし、イヤなことと折り合いをつけるのが、人間のいる社会。
 そこで人を学び、友人もでき、理解者もできる。イヤなことがある分、喜びも大きい。
 人の痛みや苦しみもわかってあげられる。そこに本来初めて社会の矛盾や怒り、あるいは発見があるはず。自分の立ち位置、居場所もなんとなくわかる。でも、それをどうやらMくんは拒絶している。
 あかん。
 だから高田くんという、おそらく唯一の作品を語れる友人も失った・・・
 今のままだったら、再会はないでしょう。
 もし、あったとしたら、ますます深まる溝に、お互い戸惑い、ため息をつくだけでしょう。願わくば、高田くんがそっちの世界に行かないこと? 大丈夫やろうけど。
 30歳。この年齢もねえ・・・

 マンガの持ち込みに行くと、たいてい編集さんから「今、おいくつ?」と年齢を聞かれると思うんです。で、よく言われるのが、少女コミックは24歳、少年誌も30歳になるともうしんどいと言われる・・・これには3つ、訳があるんです。
 1つは特に少女コミックにそれが顕著なんですが、読者層と同じ感覚、考えをもった作家を求める、というのが表向きの訳で。まあ、今の芸能界と同じで、使い捨て、使い捨て。言うたらコミックで2万、3万部しか売れないなら、そんな奴はゴロゴロいるから20万部、50万部売れる作家を探そうという、まあ、これです。
 で、この子は売れる、となったら力を入れて・・・おばさんでも少女コミックを描いている人、いますもん。

 2つめは、30歳近くになると頑固になる。やっぱり雑誌には色があるし、こんな作品、あんな絵、こういうキャラと、編集は欲しいものを作家に求めます。売り上げ、その雑誌の特徴、読者やライバル誌の状況や数字などから、それは判断されます。売れないと雑誌潰れますもん。そうなると編集さんのクビが飛ぶ。
 その編集の要求に、30歳になると応えられなくなるんです。今までやってきた自分の方法、考え方は変えられない。まあ怖いんですな。それが30歳になると。すると編集とすれば、「じゃあもっと柔軟に対応してくれる若い人が」と、なっちゃうわけです。

 3つめは、30歳の人がマンガを持ち込んだとして、「キミ、今まで何やってました?」と聞かれて、「マンガ描いてました」と答えられると、アウト! ですわな。なんでって?
 30歳になるまでずっとマンガだけ描いててもこれか、という失望感です。これはアカンのです。マンガ馬鹿はマンガ家になれませんわ。マンガしか知らんとなると、これはオモロいものは描けないし、読者の共感は得られんな、と判断せざるを得ません。マンガ家はマンガを描くんじゃなく、社会の歪みとか、愛とか友情とか、冒険心とか、人生を描くわけですから、そういう人生の経験値は絶対もってもらわないと。マンガから得た知識だけでは、絶対読者の心は掴めないですわ。
 もし、30歳の彼が「実はサラリーマンやってました」と言うのなら、サラリーマンの世界が描けるだろうし、「学校の先生やってます」と言われれば、先生やってるマンガ家が武器になる。「映画撮ったことあります」と聞けば、創作のおもしろさやチームプレイを知っているな、と安心するし、「世界一周してました」と聞くと、おもしろそうな奴だな、と興味が湧く。そうなれば30歳でも40歳でもデビューできます。私の大学時代の友人で、40歳近くになってマンガ家デビューした奴、いますもん。

 これは多分に小説家志望にも言えることですが、小説は雑誌掲載がなく、ほとんどが書き下ろしなので、マンガ家ほど年齢のことは気にされません。人生が豊富であるほどいいんです。だから50歳、60歳でもデビューできます。

 さてMくん(に限らず、ただこもって作品を創っている人たち)。
 できれば、人の意見を素直に聞くべく、人にどんどん会うべきです。そして、自分の描きたいものをお金にすることを考えること。お金になると、はじめて創作することが楽しく、やりがいのあることだと思えるはずです。今のMくんは、マンガを描いていても楽しくなく、やりがいもないと思うのです。それは絶対、方向性が間違っているのです。
 で、お金にするためには、相手の望むものを知らなきゃならないし、プロのレベルを思い知らされる。締め切りだ納期だと、自分のペースではどうにもならないことも知る。
 そういうことを知った上で、芸術家を気取るのならいい。
 結局、「俺のは芸術やから、お前らにはわからん」というのは逃げでしかない。

 確かに過去、死んでから評価されたような芸術家はたくさんいました。
 しかし、今はそういう時代ではないと思います。出版社は数えきれないほどあるし、ネットを始めとしたメディアがこれだけ発達しています。ホームページだって開設できるし、コピーがこれだけ自由に取れる時代、冊子にすることも簡単にできる。そういうサークルもあるし、販売してくれる場所だってある。頭の使いようで、どんどん自分の作品を不特定多数の人に見てもらえる環境にあります。芸術家を気取るなら、ギャラリーを開くことだってできる。
 昔は、それがやりたくてもできなかったんです。
 ネットはないし、コピー代は高い(その昔はガリ板)。出版社も少なかった。メディアをもっている人がプロ。アマチュアにはそれがない、という時代。
 今はもう、プロとアマチュアの境がないに等しい時代。おもしろければ、向こうからお声もかかる。ネットでひっかかって作家になった人もいます。
 おもしろい人、あるいは、おもしろい作品を描いている、というのにまったく日の目が出ない、という時代ではないはずです。
 日の目がいつまでたっても出ないのは、その人が本当におもしろくないのか、やり方が間違っているか、どちらかです。

 なぜ、私がこういうことをここに書いたのかというと、
 私が専門学校の講師を辞して6年になる。その間、Mくんのようになって、しまいに消えて、そして世の中に適応できなくなって、という元教え子を山ほど知っているから。
 私の大学の同期も、ほぼ同じ運命をたどった者が多かったから。
 ほんま、まったく判で押したように同じ道を辿る。怖いでっせ。
 でまあ、そんな彼らと久しぶりに話をしても、全然テンションあがらん。
 時間の無駄。

 その反対に、夢を現実にした人たちの、なんと幸福そうな、世の中を楽しんでいるというあの表情。彼らと話をしていると、元気をもらいます。
 夢を掴んだ人と、挫折した人、そこに技術の差なんて、実はほとんどなかったりします。
 違うのは、意識。そして周りの人(これ絶対にあるからね!)。
 それだけだったような気がするのです。

 マンガ家志望、作家志望の若者よ、思い切って外に出よ!

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2009年01月15日

1/14の小説技法

 中山市朗です。

 昨日14日は今年最初の小説技法でした。
 いつもの合評がはじまります。

 新入生が2人。一時は5人ほどしかいなかった受講者も、12〜3人になりました。
 ただし、欠席者も2人。
 高校生のKくんは、作品を出すことは出すんですが、次の回の合評は休んでしまう、ということの繰り返しなので、原稿がなかなか直らない、修正ができない、ということを繰り返しています。まだ合評の意味がわかっていないのかもしれません。
 Sくんは、う〜ん、本人は「やる気ありますよ」というのですが、ちょっと休みがち。いいモノはもっているので、気持ちの問題なんだけど。まあ岐阜出身の彼としては、大阪に刺激的なモノを発見して、それどころじゃないのかもしれません。それは私にも覚えがあること。高校卒業して、兵庫県の片田舎から大阪へきた途端。映画館通いばっかりしてましたから。
 まあ、若いんだし、色々なものを見て、体験することは必要です。
 遊べ! エンジョイせよ! 友達を作れ!
 ただし、こもってゲームをやっているというのなら許さん!
 断じて、許さ〜ん!

 原稿が全然上がってこない、かといって何をやっているという気配もない。バイトをやっているわけでもない。一体コイツは普段何をやってんのやろ、という塾生は、まずもってゲームをやっていました。時間を莫大に使って、その結果何も残らない、というのがゲームです。たまにやるのならいいんですけど、大抵はハマッてしまって・・・。で、塾から消えるというパターンは、もうウンザリや。一日中ゲームやってます、という人を雇おうとか、何かまかせようとか、やってくれるなんて期待、もてまっか?
 悲惨でっせ、そんなヤツらの末路は。
 生きていくための何のノウハウも身につけていないわけですから。
 せいぜいコンビニのバイトくらい。
 もっと悲惨なのは、それでも本人はゲーム漬けを続けていて、悲惨である自分の状況を全然わかっていないこと・・・。
 大人の商業主義に毒される子供たち。
 ええんかな〜。
 アメリカでは、リアルなシューティングゲームを子供にやらせて、いざというときに躊躇せずに人を撃てる、兵隊教育をさせている、というし。
 
 ゲームの何があかんて、
 映画だと超大作と言われる『ベンハー』や『十戒』でも3時間半くらい。
 でも40時間ゲームやってました、なんて、アホですやん。
 ゲームにそれだけ時間を費やして、原稿が上がらないというのは作家にはなれません。
 その時間がもったいない、と思えないのなら、わしゃもう口利かん。

 もっとも今のうちの塾には、そんな塾生はひとりもいませんけど(と、信じています)。

 えっ、宮部みゆきさんはゲーマーやん、て?
 あの人はプロになってからハマリはったの。
 デビューしはった頃には、今みたいなゲームなんてなかった。

 て、ゲームの話してる場合やないか。

 合評です。

 Hさんの京都を舞台とした禁断の愛をテーマとした小説は、第一部で30歳の妻のある夫しか愛せない脱OLしたライターと、中年の大学の先生の不倫の、その状況と心の流れが女性視点で描かれ、第二部では浮気を気づいている妻の心の中を描きます。おそらくこの後、だんだんえげつなくなり、主人公たちは地獄に落ちていく・・・。この先が早く読みたい作品となってきましたが、45歳の男にしてはちょいフケすぎ。30歳の女性も、まだまだ年齢的に美しいとき。もっと、特に男性の年齢設定をあげたほうが、枯れていく男の寂しさ、焦り、老いへの恐怖が描写されるでしょう。
 45歳の男なんて、元気真っ盛りですわ。酒も底なしで・・・それ、私のこと?
 文体もスリムになっているんですが、いらないものを削ればよくなる、というものでもない。いらないものが味になることもあるんですな、小説は。そこが難しいのですけど。
 Kくんは、前回書いていたものは書きたくないものだったと。まったく新しいものを書いてきました。本人はヒーローものが好きなので、それを書いてきましたといいますが・・・掴みはバッチリ。いきなりフェリーの乗客乗員108人が突如消失、といった新聞記事から始まって、私に似た学校の先生が、それを超常現象の能書きを言ってバミューダ海域の話になる。おもしろい。インディ・ジョーンズみたいな話になるのか? ところが話は別の方向へいってしまって・・・。
 「このフェリーの事件と仲山というキャラクターは今後出てくるの?」
 「いえ・・・」
 あかんやん。この掴みは絶対そっちを期待させる。また、今後の伏線にならないのなら、これを書いちゃ駄目。まだ小説がわかっていないようです。
 掴み、といえば、そこを指摘されていたIさん。そこを意識して書きなおしてきましたが、まだ掴みきれていない。描写がアマい。このシーンはスペクタクルにしなきゃあ。もう一歩です。あとの流れやテンポ、描写はそんなに問題はないのですが・・・。
 Oくん。筆が遅い、と説教したら書いてきました。86枚!
 読んでみたら、テンポがよくておもしろいシーンと、テンポが悪くてダレるシーンとにきっちり二つに分かれちゃってます。いいシーンは、オタクどもがテレビ局を取り巻いてデモをしたり、コミケらしき会場に警察がガサ入れしてくるシーン。つまらないシーンとは、そのコミケにおける延々続く即売会のシーン。同人誌をやっているOくんとしては、書きたいシーンなのかもしれませんが、本人が知っているからそこは想像力が働いていないんですな。だから読んでいる我々にイメージが伝わらないし、伝わったところで同人誌の即売会にはさほど興味がもてない。一方、デモだの警察のガサ入れだのという非日常の部分は読ませる。きっとOくんは色々想像して書いているんでしょう。それがイメージとなって読み手に伝わってきています。今後、このギャップをいかに埋めるかが課題です。
 Tくんの小説。なぜか出版権をかけて作家同士が格闘技をするというもの。どちらかというとひ弱で体育系ではないインテリが、取っ組み合うというギャップがおもしろい。作品も人物の整理ができていきて、話自体も自然に流れるようになった。ただところどころ説明不足があったり、伏線を張っているつもりが生かされていなかったり・・・。でも微調整の話。もう一歩です。
 SF小説を書いているT野くんは、今回は原稿未提出。
 落語作家を目指すO田くんは、合評のあと私が個別に評価。落語になっていない。
 笑いは緊張と緩和であるとは前回のブログでも書きましたが、O田くんの落語には、緊張の部分がない。ボケとボケでは笑いにならないわけです。

 さて、次回は今日初参加の2人も課題提出をすることになります。
 楽しみです。

 さ〜あ、今年も、プロの小説家、もの書きを、このメンバーの中から出す。
 これが私の誓い。
 でも書くのは君らやから。
 
 

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2009年01月10日

笑いの緊張と緩和について

 中山市朗です。

 先日、塾の講義の中で落語講座をやった、と書きましたが、ちょっと笑いについて。

 長年、マンガ家を夢見る若者たちのマンガのネーム(まあ下書きです)を、山ほど見てきましたが、笑いのツボがわかっていない。
 笑えないんですな。
 バカなキャラクターがバカやっても、これは笑いにならないのです。
 最近、そんなマンガが多いのでしょうか?
 今の吉本新喜劇も駄目。
 バカなキャラクターが次々出てきて、バカをやる。それだけ。
 あれ、おもろいでっか?
 昔の吉本新喜劇は違いました。
 少なくとも人情があったし、ホロリともした。そこにギャグがあるから、そのギャグにインパクトがあったし、笑いも涙も喚起させた・・・。
 松竹新喜劇の藤山寛美さんは、涙があって、笑いが生きた。あれはすごかった。
 つまり緊張と緩和です。

 寅さん。あの人はバカかもしれません。でも真剣に生きています。でも、やっていることが世間の常識と違う。そのズレが笑いを生むんです。でも、その常識とのズレ、ズレの部分こそが、実は人間の本質を浮き彫りにします。つまらない社会のしがらみから逸脱した寅さんの考え、行為に、視聴者は共感を覚えるわけです。それこそが笑いではないでしょうか?
 このパターンは、実は『おそ松くん』のイヤミやチビ太のキャラクターから『天才バカボン』のパパにも見受けられます。マンガですから、その見かけのキャラからおかしいですが、彼らは常識と戦っているんです。そのズレが面白い。
 『こち亀』の両さんは、まったく寅さんですしね。あのマンガは破壊的でハチャメチャなことに毎度なっていきますが、本質はそこにはない。
 そのルーツは、チャップリンでしょう。
 チャップリンは山高帽、ちょび髭、キチキチのチョッキ、だぶだぶのズボンにドタグツ、恰好からして大きいものと小さいものの緊張と緩和を表しています。
 チャップリンは、周りの人間を笑わそうと思って行動しているわけではない。懸命に生きているわけです。真剣に恋をして、真剣に悩みます。そして最後には身を引く、というパターンのものが随分作られました。笑いながらホロリとする。『キッド』や『街の灯』なんて最後は涙でボロボロになってしまう。これぞ喜劇、コメディです。
 おバカキャラ、なんてタレントがもてはやされる昨今ですが、あれもイケメン、カワイイから、バカキャラとして成立する。緊張と緩和です。
 バカがバカをやるという緩和と緩和は、笑いを生みません。
 ただ、嘲笑はあります。
 これがウケた、と思ったら大間違い。
 たちまち、世の中から受け入れられなくなります。

 対して、悲劇も緊張と緊張はしんどい。
 緩和があるから緊張が生きる。
 黒澤明監督の作品なんて、緊張と緩和の見事な連鎖です。

 ギャグマンガ家の寿命は3、4年と言われます。
 2年前に『エンタ』に出ていた芸人さんのほとんどが消えています。
 ここはちょっと考えてみる課題でしょう。

 一方、チャップリンの映画は未だに不滅です。
 世界のどこかで、必ずチャップリンの作品は観られていることでしょう。
 落語という芸も、もう三百年近くも伝承され、今も繁盛亭は満員だと聞きます。
 だとすれば、何を見るべきなのか。 
 何を読み取って、どうそのメカニズムを分析して、どう応用するか。
 ちょっと真剣に考えてみるべきでしょう。

 デビューしても、それで終わり、とならないように。 

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2009年01月08日

1/7の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 今年も塾が始まりました。
 私は着物で教室へ向かいました。
 新年だからです、というのは嘘です。
 落語講座に備えてのことでした。

 ところで落語、聴いたことあります?
 生の高座で、聴いたことあります?

 ない?

 わあ、もったいなーい!

 落語。こんなシンプルで、洗礼された、ユニークな芸は世界に類を見ません。
 
 例えば、お芝居は、まあお芝居によりますが、大勢が出演して、みんな扮装して、お化粧して、背景のセットを作って、小道具用意して、BGMが流れて、踊りがあって、殺陣があって、大仕掛けがあって、照明で効果を出して、演出家がいて、スタッフがぎょうさんいて・・・。

 ところが落語は、出演者は1人。着物姿。メイクも背景セットも何もありません。ただ、座布団に正座して、小道具は扇子と手ぬぐいだけ。まあ踊りのある落語もありあすが、それも基本、座布団に正座したまま。照明もチカチカしません。演出家は演者自身。
 つまり、座布団に着物姿のおっさんが正座して、たったひとりでしゃべる芸。
 それが、演目によっては40分、1時間、もっと長いものもある。
 それを聴いて、客席は笑ったり、涙したり、拍手したり・・・。

 これ、なんでしょう?
 すごいでっせ!
 こんな芸、アメリカにも、イギリスにも、韓国にも中国にもパキスタンにもエクアドルにもブータンにもパラグアイにも・・・どこにもない!
 例えば、ひとりで演じる笑いに、スタンダップ・コメディというのがあります。アメリカがその本場です。エディ・マーフィやウディ・アレンなんて人が演っていました。日本でも演る人はいます。舞台にひとりで出て、話芸を披露する、ということについては落語と共通します。しかし、スタンダップ・コメディは、演者がある人物になりきって、直立姿勢で客席に直接話しかけるというスタイルです。一人称の芸なんです。イッセー尾形という人は、最小限の小道具と衣装で一人芝居を見せる芸人さんですが、でも看護婦の衣装を着ていれば、ある看護婦の(今は看護士か・・・気に入らん!)一人称の芝居になる。スーツで出れば、サラリーマンの一人称・・・。それは私も好きな芸です。
 でも、落語は違うんです。
 座布団に座ったまま、さまざまなキャラクターを演じ分けるのです。
 長屋の喜ぃやん、清やん、という漫才コンビみたいなキャラ。ボケ、ツッコミ、どちらも落語家が一人で演じます。嫁はんのお咲さん、長屋の家主、物知りの甚兵衛はん、お寺の坊主、小僧、魚屋の八つぁん、床屋の磯はん、船場の大家の大旦那、番頭、手代、丁稚、いとはん(娘さん)、御僚んさん(奥さん)、若旦那、芸者、太鼓持ち、お殿様、浪人、お百姓、山猟師の六太夫さん、博打打から狸、狐、犬、猫、妖怪、幽霊・・・いやいや、サラリーマンや女子高生、アパートの管理人、警察官、お医者さん、政治家、連合艦隊司令長官からアメリカの大統領、はては宇宙人まで、演じられないものはありません。古典落語でいっても、地獄や天国、海の底から、お月様、はては女ヶ島なんていうところまで、舞台設定も意のまま。
 もう一度言います。
 一人で、こんなに違和感なしに、なんでも演じられるお芝居は、世界に類を見ません。
 スタンダップ・コメディの方式では、こんなことは無理なんです。
 つまり、イマジネーションを喚起させ、お客もイマジネーションで楽しむ、バーチャル・リアリティの世界を構築できる何かが、落語の中にはあるのです。

 では、その何かとはなんだ、ということです。
 なぜ、それが日本にしか生まれなかったのか。
 なぜ、未だに日本にしかないのか。

 そのヒントは、着物と座布団にあります。
 ということで、私は着物姿で講義をしたわけです。

 実際に、教室の前に高座を作って、座布団を敷いて、その上に私が正座。
 そして、落語という形と所作が、何を可能たらしめているのかを、身をもって実践したのであります。まっ、ついでですので、小咄を・・・。おっ、ウケた。じゃあ、こんな咄、またウケたなあ・・・、で、なんだか落語を一席披露したくなって。
 「青菜」という落語を一席、演じてしまいました。
 いやあ、ウケるのは気持ちがいいなあ。
 こんなにサービス精神のある塾講師は、私よりほかにありませんなあ(林家三平口調で)。

 ところで、マンガや小説を書くのに、なんで落語なの?
 と思ったそこのアナタ、手遅れ。

 キャラクター、パターン、ギャグ、展開、会話、所作、視線、イメージ、オチ。
 全部、作品を書くのも必要でしょうよ。
 マンガというものが日本で発生し、発達し、今や世界市場を席巻していますが、根本は映画と宝塚、そして落語が大好きで、それを作品に取り入れた手塚治虫という人に行き当たります。
 落語は、日本のエンターテイメントの基礎です。
 エンターテイメントの世界を目指すなら、そこを素通りしてはあきません!
 
 今週のネトラジでは、塾生の高田くんが笑いをテーマに取り上げていますが、そこでも私が落語について語っていますので、併せてお聴きください。

 そして『へたなら寄席』は、1月11日、次の日曜日です。
 詳しくは、こちらをチェック!
 

http://hp.kutikomi.net/hetanarayose/ 

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2009年01月04日

中山市朗、経済不況について語る

 中山市朗です。

 2008年も終わってしまいました。
 何回も忘年会に参加しましたので、もう去年のことは忘れてしまいました。ただ先を見つめるのみです。

 しかし、今回だけは書かせてください。

 今は経済不況、しかも尋常ではない世界的規模の破綻、金融危機とか言われています。
 100年に一度の深刻なものとも。

 私はずっと十数年以上も前から、専門学校の講師に就任した頃から、教え子たちにこのことを警告してきました。
 このブログにも、何度も何度も書いてきたように、就職は危ない、就職に夢をもつな、と言い続けてきたのは、それがわかっていたからです。
 雇用、派遣切りは、今や私の周りの人たち、塾生だって煽りをくっています。
 ほら、言うたやろって。

 思えば、1980年代のバブルが弾けて、「あっ、これは外資系に騙された」と、普通は思うんですが、思わなかったんですね。人の良い日本人は「騙された」とは。
 反対に、「外資系かっこいい」になっちゃった。
 それと同時に、日本の経済は日本だけじゃない、世界と連動しているんだと、実感したはずなのに、ここも深く考えなかったんですね。
 ただ、海外へマーケットを広げると、これは儲かるぜ、とは思ったんですけど。

 問題はもうひとつあって、アメリカの経済の実体はユダヤ企業である、ということに対して、あまりに無策だったことです。
 こんなことを言うと、ユダヤ人差別になるだとか、アメリカ合衆国の3%に満たないユダヤ比とにそんなことができるわけがない、挙げ句にすぐ陰謀論を持ち出すのは無知蒙昧の考える馬鹿なことだと、経済学者や評論家は言ってきたわけです。それで、目をくらませられた。ことの真偽を見る目が養われなかった。

 しかし、私は思ったわけです。
 現にバブルという実体のない経済に踊らされた日本の企業は、土地を買い、ビルを建て、設備投資をし、会社や工場の拡張、拡大を終えた瞬間に、金詰まり現象(デフレ)が起こって、たちまち資産価値が減少し、これを救済するという形で外資系が入ってきたわけです。デフレは、アメリカからもたらされました。ドル詰まり現象。
 そしてこのとき、日本の企業のシステムが外資系のモデルに変えられ、ここで終身雇用制度が崩壊しました。本来はここで、企業に雇われることに危機感をもたなければ駄目だったはずです。それでもそうはならなかった。就職さえすれば、と学生は就職先を探すわけです。あれから学生の意識が変わった、なんて聞いたことがない。今の教育こそが無知蒙昧ではないでしょうか?
 日本の教育のことを考えると、はらわた煮えくり返ります。
 教育もマスコミも、世の中は急変するぞと。これをどう考え、どう対策を練るのかという考えが、まったく欠如したままきたんです。バブル崩壊以前の価値観と、同じモノを大人は子供に押しつけている。
 就職という他力本願でなく、自分で生きていく価値観、ノウハウを教えんといかんのに、やってない! だからかわいそうに、今の若者は、真っ先に犠牲になって対処する方法がなく、路頭に迷っているじゃないですか!
 そして今回、アメリカでまったく日本のバブル崩壊と同じことが起きました。ただ、その規模や広さが桁違いに大きかったという点が違うんですな。で、これを救わねば世界に深刻な経済危機をもたらすどころか、銀行や企業の信用まで喪失してしまう。危機を煽りたてるために従業員を大量にリストラさせる・・・。同じです。
 で、日本の場合、外資系がきたわけなんですが、その外資系の資産が今回は空っぽになった。空っぽになったということは、そこにあったものはどこかに移動しているわけです。誰かの懐に入ったわけです。
 そして、この状況を救うため、という口実で、何者かがこれらの企業に潜入し、価値が上昇した折りには、その何者かが利益をゴッソリと持って行くことでしょう。
 これ、日本が実験材料にされたように思いませんか?
 日本はそれでもなんとか立ち上がりましたが、そのデータが分析されたと思いませんか?

 ともかく、これは救出が必要、と世間を煽りたてて、危機感を募ります。このままでは倒産する、職がなくなる、給与もカットされる、物価は上がる、政府の借金は膨らむ。そう言い続けます。テレビも新聞も雑誌も・・・「世界がそうなんだ」と。
 そうやって、まあ貧者から切って、貧者から搾り取る。
 そうやって貧富の差、僅かな富者と圧倒的多数の貧者の図式がここにできあがります。
 ピラミッド社会の形成です。ただその形はいびつです。真ん中がありませんから。
 それは2011年がメドに達成される、と私は10年ほど前から学生たちに言ってきていました。だからクリエイターになれ。己の力で生きていく世界に対応しろと。さもなくば、会社や経済の仕組みの犠牲になってしまうぞ、と。

 さて、じゃあ、その企業に潜入する、何者かの正体とは?
 それはここでは書けません。
 ここで命を張る必要もないですから。

 でも、ここで先の学者たちの言っていたことを思い出してみましょう。
 この学者たちの言うことを信用して、みんなエラい目にあっているわけですから。
 
 アメリカ経済の実態はユダヤ企業である。これを言うことは、日本のマスコミではタブーとされていました。さっき述べたことが主な要因です。

 それはユダヤ人差別である。
 ・・・ここが彼らの巧みな作戦なのですね。企業のあり方を分析することと、ユダヤ人を揶揄することとは違うんです。そもそもユダヤ人ってなに? ということすら、日本人にはわかっていませんから。ただ、今回はユダヤ系企業も狙われています。つまりこれを仕掛けたのはユダヤ系の仕業ではない?(実はここに巧妙にあるものが仕掛けられているんです・・・)

 アメリカ合衆国の3%に満たないユダヤ人にそんなことができるわけがない。
 ・・・この論説はまったく私には理解できません。少人数が圧倒的な人民を掌握して、実権を握ることを支配、と言いませんか?

 陰謀論を持ち出すのは無知蒙昧者のすること。
 ・・・では言い方を代えて、戦略・策略はどうです。企業や団体があったとして、戦略もそれを実行するための策略も諜報活動も、情報分析も、秘密のプロジェクトも一切もたない、なんてことありますかね? 当然ながら、それらはライバル会社に知られないように巧妙に隠匿されます。各国政府、軍部、国際協定、首脳同士の確約などにももちろんそれはあります。それが、国際的な経済を取り仕切ろうとするエリート集団がいたとして(いたとして、仮定ですよ)そこに一切の戦略がないなんて考えられるでしょうか? その戦略が巧妙に隠されると陰謀になります。陰謀のない人間社会こそ、ありえないと私は思っています。


 まあ、私は明らかに世の中で起こっていることに対して、日本人は疑いをもたなすぎた。人を信用し過ぎたと思うんです。
 陰謀なんてない、世界支配を企てている者なんているはずがない。
 国際協定があるじゃないか、そんなことがあったらマスコミが報道してますよ、と。

 でも私は報道関係の知り合いは多いのですが、必ず「とてもじゃないが、報道すると消される、というものはある」と言います。

 まあ知らぬが仏、という言葉がありますが、それではもう、世の中の犠牲になるばかりかもしれません。怪談より怖いです、これは。

 暗い話をしてしまいました。

 だからみなさん、自分の力です。世の中どうなろうと、人間が生きている限りには、需要と供給はあるわけですし、これだけの人がいるんです。頭を使うといくらでもビジネスチャンスはあると思うんです。だから、絶対的な価値観はもう崩れた、と思うと気が楽ですし、そうなれば、別の価値観を生み出せばいいんです。
 つまり、パーソナルな価値観が通用する時代が到来しつつある。
 オタク文化がこの伏線を作ってくれています。

 ということは、これからはクリエイターの時代!?

 だからずっと私は言い続けてきた、言うてるやん。
 だから塾を作ったんや、て。

 でもこれも言っておきます。

 お金を儲けることだけが人間の幸福の追求ではない。
 他にも素敵なものは、いくらでもあります。



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2009年01月02日

中山市朗、初詣に行く

 中山市朗です。

 2009年のお正月、いかがお過ごしでしょうか?
 私は酒正月です。

 さて、皆さん初詣は行かれましたでしょうか?
 私も塾生たちにせがまれて、某神社へ行ってまいりました。

 で、参拝している人たちを観察していたのですが、いや、どうも・・・
 あれでは神様からご利益もらえません。
 皆さん、神社での参拝のやり方を知らなさすぎます。
 神様にもちゃんとしたルールと、マナーをもってお祈りしないと、かえって無礼なことになっちゃいます。いつも初詣に行って祈願しているのに、全然ご利益ないじゃん、という人、今年の最初のサービスとして、ご利益のもらい方をお教えしましょう。
 神社、お寺、教会、どこへ行ってもかまいません。
 まあ普段行かない人がいきなり教会、ということもないでしょうが。
 今回は、神社を想定します。日本古来の神様の坐する神聖な場所です。

 まず、その神社には、何の神様がお祀りしてあるのか調べておくこと。
 一体、何の神様に祈願しているのか、知らない、ではお話になりませんわな。
 
 鳥居をくぐります。でもその前に、鳥居の前で一礼します。
 まあ、お人様の玄関の前だと思うことです。
 右側通行でくぐります。
 真ん中は神様の通り道です。歩いてはいけません。

 正面の鳥居から入ったならば、必ずそこに手水舎があります。
 そこで身を清めます。禊ですな。
 右手でひしゃくを持ち、左手を洗い、持ち替えて右手を洗い、また右手に持ち替えて口をゆすぎます。飲んではあきません。
 ゆすぎ終わると、ひしゃくを洗って、元に戻しておきましょう。

 大きな神社の場合、たくさんお社や祠があります。その場合、左回りで順番に参拝いたします。
 各々、二礼、二拍手、一礼、です。
 神様によってご利益が違うので、お賽銭は目的の神様だけでよろしいかと。
 あるいは、本殿で上げれば良いでしょう。
 鈴がある場合は、まず鳴らします。神様はこれを合図に出てこられます。
 お賽銭は小銭で結構。銭は、お賽銭箱の縁に置きます。
 このとき、真正面に立たないこと。ちょっと端にずれて立ちます。
 そして二礼。
 で、お願いごとをします。名前と住所も神様に心の中で申告します。
 でないと神様は、あなたがどこの誰だかわかりません。
 申告し終えたら、縁に置いていたお賽銭を、箱の中に落とします。
 お賽銭を投げる、なんちゅうのは、言語道断です。
 入れたら、二拍手。
 そして一礼。
 お尻を神様に見せないように下がるか、横へ完全にずれてから、少し後退。
 で、帰りの道へ。
 鳥居をくぐって、外へ出たら、再び神社に向かって軽く一礼。

 これでご利益もらえること、間違いなし!

 ただし、神様によって違いもあります。
 四天王寺さんの鳥居の前では七拝。
 伊勢神宮では八拝、八拍。
 出雲大社では四拍手、が正しい参拝の仕方です。

 あっ、それから、お賽銭やおみくじを買うお金は、人から借りては駄目です。
 まかり間違えば、お金を貸した人にご利益がいってしまいます。
 
 私、今年の初詣の様子を観察していたんです。みんな一礼もせずに、どやどやと鳥居の真ん中を平気で通り、ほとんどの人は手水舎で身を清めることもなく、拍手と礼のしどころや、回数が無茶苦茶でした。
 「おい、お賽銭の金、貸してくれ」とか言うてる人もいました。

 私の近くでフランクフルトを食べていた若い男性など、「あっ、汚してしもた」と言うと、脱兎のごとく手水舎へすっとんで、ほんまに手を洗っていました。
 手水舎の流れに、ケチャップが・・・不浄!

 不浄というと、今年は行かなかったのですが、いつも四天王寺の西の鳥居の前に、牛のバーベキューを焼いている露店が出ていました。殺生を禁じた仏教最初のお寺の前でバーベキュー! このお店、見るたびに一人笑っていたのですが、今年は出店してたのでしょうか?

 ところで、私が詣でたその神社、天照大神を祀ったお社があったのですが、どうもこれ、西向きの拝殿なんです。天照大神は太陽神なので、東を向いてなければ意味がない。
 で、太陽神というと、本殿の幕に天皇家の菊の御紋(十六弁八重表紋菊)が大きく染め抜いてあったのですが、あるエジプト人の考古学者から、あの紋は、古代エジプトのファラオに同じ紋章があり、それは菊ではなく、太陽の象徴であると聞いていたのです。
 だから「あそこの拝殿の位置が違う。あの神様は本来そういう神ではない。菊の御紋はエジプトのファラオに・・・、ファラオと日本の皇室には、こんな秘密が・・・」なんていう話を大声でしていたら、傍で禰宜さんが私の話をじっと聞いていたらしい。
 どんな心持ちで聞いていたのでしょうか?

 今年も良い年でありますように。






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kaidanyawa at 21:16|PermalinkComments(3)

2009年01月01日

2009年です

あけまして
 おめでとう
  ございます


 全作劇塾生および関係者
 中山市朗のファンの皆様
 このブログを読んでくださっている紳士淑女の方々の、
  ご多幸をお祈りいたします。

 それ以外の方々の・・・
  やっぱりご多幸をお祈りいたします。


 本年も何卒、よろしく。

 授業開始は7日から。
 へたなら寄席は11日です。
 少しは落語、お聞きになら、ど〜え?

     2009年・元旦 中山市朗



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プロフィール
中山市朗(なかやまいちろう)

作家、怪異蒐集家、オカルト研究家。
兵庫県生まれ、大阪市在住。


著書に、
<怪 談>




<オカルト・古代史>




などがある。
古代史、聖徳太子の調査から、オカルト研究家としても活動している。






作家の育成機関「中山市朗・作劇塾」を主宰。



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