2009年06月

2009年06月25日

6/24の小説技法

 中山市朗です。

 24日の小説技法の報告です。

 合評です。
 うちのシステムは、合評で指摘されたり、アカが入ったりしたら次の週の水曜日までに修正版ないしは、次に進んだ原稿を提出することになっています。つまり、合評は2週間に一度なんですが、書くという期間は実質1週間しかないということです。
 なぜ、そうなるのかというと、小説はみんなで合評するわけですから、確実にみんなの手に渡るように、ということと、みんな400字詰め換算で40枚くらい平気で書いてくるので、前もって熟読しておかないと、合評ができない、というわけです。
 1週間は書く。
 1週間は、他人の作品を読んで批評する目を養う、ということです。アカが入るとはなんぞや、ということを考えるわけです。
 アカ、私も嫌です。でも私の原稿にも編集さんから戻される原稿には必ずアカは入りますし、読み直しているうちに自分でもアカを入れ、修正します。アカにもいろいろありますが、ダメですね、というアカもありますが、ここをこうすれば、もっといい表現になりますよ、という80点を100点に、100点を120点にする作業でもあります。それは、読者にどう伝えるか、ということを念頭に置いた作業です。
 「私はこういうことを、こういう文体で書きたい」と思っても、プロになるということは読者に伝えなきゃいけないので、よりいい方法、わかりやすい方法を模索し、考えて、他人に読ませることに意識を転換させていくわけです。
 これをこなしていくうちに、スキルは確実にあがりますし、書くことへの体力、持続力、物事の理論的思考を養います。
 「書かない天才より、書く凡人が小説家になる」という言葉は、有栖川有栖さんの受け売りですけど、これは事実です。

 うちの塾生にも同人誌をやっているのが何人かいますが、まったく違うスタンスが学べると言い、あるいはたちまち書けなくなるのも出てきます。Iくんがそうですけど。
 でも書けなくなる、というのはどうなんでしょう?
 テーマがない。ということでしょうか?
 文章は誰でも書けます。作家になろうという人は、この書くという行為が好きなはずです。同人の場合は、アカが入ることは滅多にありませんから、書くという好きな行為は満たされます。悦に入れます。Iくんも書くのは好きなようで、彼の書いた小説の同人誌を私も読みました。その装丁、デザイン、製本と、作家に憧れるオーラがでています。でも中身は正直辛い。最後まで読めませんでした。本人が楽しんでいる、ということは伝わりますが、読者のことをまったく意識していない。で、合評で、読者を意識した描き方を指摘し、書き出した途端、書けなくなる、というのは読者に伝える意識になれない、つまり書くことは好きだけど、伝えたいものがない、ということなのでしょうか? 塾では最近、いっぱいいっぱいの感があるIくんも、同人誌となると生き生きしているようですから。

 テーマは必要です。そのために社会の矛盾に怒り、人間に興味をもち、おもしろいものを見つけるんです。こもっていたらあきません。
 最近の塾生たち、また少しこもりがちになってません?

 さて合評です。

 N子さんのホラー小説。修正箇所を確実に直しているうちに、ホラー小説の体になってきました。正直、一番最初に書いてきたものは、人物設定もその関係も、事件が起こる場所の風景も状況も、よくわからんかったんですが、そこが解消されてきたので、読みやすくなり、そこに彼女独特の湿った文章が重なって、なんとも味が出てきたんです。3ヶ月で急成長です!
 Sさんの小説は、女の子のちょっとした心情をつらつらと書き綴った、ちょっとエッセイ風のもので、その世界観には好感がもてます。男にはこれは書けない。ただ、その柔らかい感性を生かすなら、漢字の選択にも気を使うこと。それと、これはここで完結したわけでなく、これからいろいろなことが主人公の前に降りかかるはずですが、この文体でそういう動きのあるシーンにどう対応していくのかが楽しみであり、不安でもあります。このあと、合コンシーンになっていくのだとか。
 K島くんの『活動大写真』は、大河内伝次郎の殺気立つ映画に魅了され、若いマンガ家志望の男が時代劇に没頭していくというものですが、大河内伝次郎を知らない人がもう大半になってしまったので、その魅力が文体を通して伝わらないとダメなんです。そこで、こうしてみたら、ああしてみたらと塾生たちから意見が。映画もいいけど時代劇小説をもっと読んでみよう。映像はなくても丹下左膳や鞍馬天狗、旗本退屈男が目に浮かびます。
 Yくんのヒーロー小説は、ここまでリズミカルでアクションシーンが目に浮かぶように展開していたのに、ちょっと足ふみ状態に。ちょっと地の文で説明しすぎなんです。説明されることでいろいろな状況、人物の動き、セリフの裏にあるもの、が詳細に読者に伝わりますが、そこまで親切にしなくとも、読者は勝手に想像力で埋めてくれます。ここは難しいんですけど、読者の想像力にまかせることも必要。今回提出の原稿の枚数、気持ちでいいから半分にしてみるつもりで書き直してみること。
 T野くんのSF怪談は、あれれ、月面基地に現れる幽霊のシーンがないぞ? 前回無機質な文体、世界観を指摘され、いろいろ月面基地にいる人々の描写や、説明を書いているうちにそこまで行かなかった? うーん、私は前回も言ったとおり、その無機質さがよかったんやけどなあ。それにもう少し段落を増やして、一つひとつの文体を読ませるという工夫もあったほうがいい。私が薦めた立花隆さんの「宇宙からの帰還」はさっそく読んでいました。人生観が変わるほど素晴らしかった、そうで。
 Tくんの未来の作家たちが不条理な世界に閉じ込められて、というコメディ調の小説は、いよいよ佳境。ところがこれ、まだまだ終わりそうもない。次から次へと不思議な事件が起きては、主人公が苦境に追い込まれる。このあたりのエンターテイメントに仕込む技術はだいぶ養われてきたようですが、でももう最終章・・・。まあいいか。おもいっきり小説の中で暴れてみようぜ!
 Hさんの不倫小説。ひとりの初老の男をめぐって不倫をしている女と、されている女の恐ろしい情念と嫉妬心が、じとじと描写されます。Hさんはすでにライターとして活躍している人なので、文章能力は当初からあったのですが、どうも人物たちがなかなか動かせず、ドラマを生み出すのに四苦八苦していましたが、ここにきてドキッとするシチュエーションや、人の所作が書けるようになってきました。これも男にはわからない女の世界・・・ああ、恐ろしい。

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2009年06月23日

在阪の若手映像作家たちと交流をもって思ったこと

 中山市朗です。

 21日(日)、橋下府知事により近々売却されるというプラネットホールでの催し「OMI2009(オープンマーケット・ミーツ・ザ・インディペンデンツ)」のフォーラムに出演してきました。
 プラネットホールは、インディペンデント映画を撮っている若い人たちのたまり場なんですけどもねぇ。ここもなくなるのか。

 さて、私が出演したフォーラムにはテーマがありまして、それは、
 “クリエイターが活躍できる街、大阪をめざして、大阪スタジオ化計画始動”というもの。いつも私が言っている大阪文化復興に、その理念は同じモノだと思って、出演を快諾したのです。ボランティアです。
 出演に際して言われたのは、「方針として、マイナス面の問題定義ではなく、各々活動していく中で、いい点、大阪だからこそやりやすい点など、プラス面を紹介いただきたい」と・・・
 で、打ち合わせで私は言ったんです。「それは違う。そもそも大阪でクリエイターが活躍しにくいから、こういうフォーラムがあるんでしょ?」と。
 「ほんま大阪は今ダメですから。だから私はそこをハッキリ言いますよ。東京で仕事をしている人間は、絶対このままでは大阪はアカンと思うはずです。あるいは東京へ行ってしまうはずです」とも。プラス面だけ提示して、大阪はどこよりもモノの創りやすいところや、ていうの嘘やもん。また、マイナスを提示せんと、プラスが強調されない。
 だから私は本番のフォーラムで、大阪はここがアカン、とハッキリ言うたわけです。
 でもアカンから俺は大阪を見捨てる、ではなく、でも大阪に居残って身銭をきって塾を作って、懸命に維持し「関西陣」を作った意味を知って欲しかったわけです。
 出演者6人で、フォーラムは予定より巻きで30分しかなかったので、ほんまに問題提起しただけで終わってしまいましたが。

 しかし、私の問題提起をきっかけに、フォーラムが始まる前の控え室では、延々2時間出演者一同による熱いトークバトルが繰り広げられたんです。終わって控え室に戻ってからも、また「大阪どうしたらええんでしょう」またまたバトルが!
 特に大阪ロケーションサービス協議会のチーフ・コーディネーターの大野さんは、若いながらも熱い人で、「やっぱり東京と大阪にはこんなにビジネスのスタンスに差がある」と、いろいろ具体例を話されて。彼は映画の現場の叩き上げだそうで、作る側のスタンスも、スポンサーや行政のスタンスも、よくご存知なんです。
 でも、大阪スタジオ化計画(この根底には、ハリウッド映画『ブラック・レイン』の大阪ロケにおける行政の失態、非協力的な態度からしばらくはハリウッドから日本はロケに適さない国の烙印を押されてしまった反省があるはずです)として、映画の撮影隊を大阪に誘致しただけでは映画の街にならない。そんなん、大阪以外の都市もロケ誘致のサービス機関はできていることだし、ロケが行なわれた、で地元にお金が落ちることにはなるでしょうけど、クリエイターが活躍することには繋がらない。大阪から発信するという考えに立たなくては。
 そういう話を延々、大野さんとしていました。

 大阪はクリエイターにとって危機の状態にある、と言うてもピンとこない出演者もなぜかいたので、大野さんがわかりやすく言うてました。
 「たとえば関西テレビ制作のドラマがあるとします。昔は大阪が舞台、大阪でロケ、撮影隊の大阪の制作者、大阪のクリエイターたちが作った。でも今は、全部そういう環境が東京に集中しているので、大阪の風景だけ撮影部が新幹線で往復して撮って、あとは全部東京で撮る。東京の制作会社、東京のクリエイターたちに制作費が落ちる。クレジットタイトルだけに関西テレビ。結局、大阪に環境がないから、どういう形にしても大阪のクリエイターは経済的になかなか潤えない。仕事もない・・・」
 でも、若いクリエイターたちは、そこがわかっていないから「大阪と東京って、そんなに違うんですかぁ?」なんて聞いてくる。だからクリエイターは貧乏していて当たり前、というか、もうそんな環境が当たり前やと思っている節があります。

 8時から打ち上げに参加して、色々なことがわかってきた。
 インディペンデント映画の若い映像作家、監督、脚本家から、ライター、デザイナー、劇団の人たち、ミュージシャン・・・60〜70人ほどはいたのでしょうか。
 皆さん、大阪でがんばっている。熱い。そしてみんな映画が好き。
 これだけ面白い人たちがいる。けど、まとまっていない。これだけの人間がスクラムを組めば、面白いプロジェクトが生まれるような気がします。
 でも気になったのは、みんなの欲のなさ。
 さっき書いたように、それが当たり前やと思っているんですね。
 大阪にいても映画は撮れる。ボランティアで手伝ってくれる友人や仲間もいてる。上映会もそこそこ人が来てくれる。来てくれなかったら無料でもいい。観てくれれば。
 でもそのスタンスでは長続きしません。これをビジネスにしていこうという発想が絶対にいります。でも、「創作と金は別だ」という人が多かったんです。でも、お金がないと撮れないでしょう。仲間もいつまでもボランティアというわけにもいかない。じゃあ、プロになりたくないのか、メジャーになりたくないのか、というと、それはなれるに越したことはない、と言う。
 スポンサーがつくと、そのスポンサーが撮れと言われたことを撮らなければならない。それが創作と言えるのか、という意見もありましたが、東京の現状を見てこい、と。
 それに映画はCMじゃないから、そんなことはスポンサーも言ってこないし、また言われたとしてもそれを反映した作品を創るのも創作者の腕。マスターベーションは己を満足させるかもしれないし、楽でしょうけど、それは続けられるとハタが迷惑する。インディーズの存在を否定する気はまったくありませんし、そこから若いクリエイターが育つのだから、むしろ肯定します。私も学生の頃は撮っていたし。しかし、資金を提供してもらって、観客を意識した映画作りのスタンスはもたなあかん。夢を売るはずのクリエイターがきゅうきゅう言うてるのは、なんか違うと思うんですな。
 要するに、クリエイターたちはスポンサー捜しの営業が苦手なんです。
 それはわかります。私もそれは苦手・・・。でも、そんなこと言うてる場合やない。
 だからクリエイターたちと企業、行政を仲介し、資金を調達するプロデューサーがやっぱり必要なんです。そういう人を私は捜しているわけだし、時間はかかるだろうけど、育成したいと思っているわけです。
 もちろん出資者を「うん!」と言わせる企画、シナリオは必要です。
 でも、「うん!」と言わせる企画、シナリオを作るのが、クリエイターの大きな、いや本来あるべき姿勢ではないのでしょうか? そこから逃げようとか、めんどうくさいなんて思っているから、まとまらんのかなぁ、ともちょっと思ったんです。正直。
 だから、クリエイター自身も、もうちょっと自覚をもたないと。
 そこのモチベーションも、東京に負けている。

 AIBOのデザインを手がけたイラストレーター、空山基さんは、そのお弟子さんの韮沢靖さんの作品集「カメレオン」での対談で、こういうことを言うてます。
 「メジャーは正解だと思う。マイナー好きって、引かれ者の小唄っていうか、負け犬の遠吠えなのよ。マイナーって楽なんだよ」
 「マイナーっていうのは、戦略上でしょ。本質はみんなメジャー志向。そのとき、口でマイナー志向って言い出すとダメなんだよ。一生うだつ上がらないよね。そういう奴とは口聞かなくてもいいの。女子供騙して、世間をギャフンと言わせるほうが難しいんだ。音楽だって常にヒット出してなおかつ凄い音出す奴はいっぱいいるじゃん」
 「体制や金や地位は敵じゃないんだよ」
 こういう考えの人が東京にはいっぱいいるし、そういう人でないと成功はしていないと思うんです。でも、そういう人って、もとは関西人だったりする。
 でも大阪にいると、その道で成功した人を見たことがない。知らない。

 きっとみなさん、そうなんでしょう。
 うちの塾生なんかも、どうも欲がありません。

 プロ野球選手がそうですやん。ドラフト1位で阪神に入団しても、阪神の選手、で満足したら絶対1軍に上がれない。「でも俺、2軍で4番が打てればいいんです。2軍でも好きな野球できるし、給料もらえるし」てな選手、応援できまっか?
 絶対、うだつが上がらない。

 昨日の大阪のクリエイターたちの集まりを見て、ちょっとそう思いました。
 でも自分をそんなに過小評価せんでも、という人たちばかりでしたよ。
 みんな、創作するエネルギーは、やっぱりすごい。
 だからもっと、メジャーな人と会って、モチベーションをあげましょうよ。

 で、大野さんと考えたのです。
 「大学の学食(学生食堂)みたいな場所作りからやりたいねぇ」と。
 大学の学食は(大野さんは私の大学の後輩でしたので同じイメージをもったと思うのですが)色々な学科の学生(私の大学の場合、映像、美術、彫刻、写真、建築、作曲、指揮、舞台芸術、放送・・・)たちが共に語り合い、そこに教授もいて、ゲストの人もいて、互いに情報交換し、夢を語り、企画を練り、作品の打ち合わせをし、スカウトをする場所だったんです。
 それ、クリエイターたちに絶対必要。

 で、みなさんを誘いました。

 「とりあえず毎週水曜日、塾の授業が終わったら飲み会を必ずやってますので、来てください」
 


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2009年06月22日

山本プロデューサー来阪

 中山市朗です。

 えーっ、まだ詳細は明かせませんが、8月に画期的な怪談特番がオンエアされます。
 その怪談番組の企画を通した山本さんというプロデューサーが、塾にお越しになられました。山本さんは東京の某映像制作会社に所属しておられます。つまり東京から来られたわけです。
 山本さんが所属する制作会社を立ち上げられた人は、過去、大阪朝日放送で大ヒットを飛ばしたコメディ番組『てなもんや三度笠』や『スチャラカ社員』『新婚さんいらっしゃい』などの企画・演出をした澤田隆治さんです。『てなもんや』は日本芸能史上に残る伝説的番組ですねんで。最高視聴率64パーセントやて。
 知らないという若い人。お父さんかおじいさんが言うてません?
 「俺がこんなに強いのは、あたりまえだのクラッカー」
 ・・・
 漫才ブームの仕掛け人で漫才をMANZAIと表記したのも、そのきっかけとなる『花王名人劇場』を手がけたのも澤田隆治さんです。ドラマも『裸の大将』とかいろいろ手がけられていますが、この方は先代の松鶴、春蝶、小染、文我、音也といった貴重な大阪の民放やNHKにも残っていない上方の落語家の高座姿をVTRでいっぱい持っていらっしゃるので、昔「その権利を私に譲ってくれませんか」と大胆にも交渉しに行ったことがありました。澤田さんは「いろいろな権利が複雑に絡んでいるので今はそれはできないが、あんたみたいな若い人が、上方芸能をこんなに愛してくださるのは、ほんま嬉しいことです」とおっしゃって。
 まあすごい人です。尊敬する人です。

 ただ、山本さんと知り合ったのは全然それとは関係なく、去年の夏、3日連続して行なわれた私の出演した怪談会を全部観に来られて、「怪談番組を作りましょうよ」と夢を語り合ったところから始まったわけです。そしたら本当に各放送局へ熱心に通われて、遂にある局で通ってそれが実現した、というわけです。
 私はことあるごとに山本さんから途中報告や相談を受けていたのですが、いよいよ制作するという段になっての、詰めの相談に来られたわけです。で、相談の後、「ご飯でも食べましょうよ」という話になったのですが、「すみません、金曜日の夜は私の書斎で塾生相手にシナリオゼミをやっているもので。それにその後、塾生の作った映画の上映をやることになっているんです」
 そしたら山本さん、「それ、私も観たいなあ」ということで、急遽9時30分から予定していたカマレンジャーの大学時代の作品2本と、新しく入ってきた有村くんの短編映画の上映に山本プロデューサーも観に来られることに。当然、その後は朝まで続く飲み会へ・・・。
 山本さん、ちゃんと塾生たちと膝を付き合わせて色々と語っていただきました。
 感謝、感謝です。

 さて、2人の映画の批評はいずれということにして、山本さん。
 「さあ、大人の流儀として名刺交換をしよう」と自ら名刺ホルダ−を鞄の中から。
 「キミがカマレンジャーか。大人になろうな」とか「マシンガンお嬢は、今夜は来ていないの?」と、塾のみならず、塾生のこともよくご存知。
 「そりゃあ中山さんのブログはちゃんと読んでいるわけだから、塾のブログへいくよね。そしたら塾生さんのブログに飛ぶよね。だから知ってるよ、みんなのこと」
 私なんて20代の頃、山本さんのような立場の人に顔を覚えてもらって、なんとか仕事をするキッカケを作ろうと、東京へ何十回も行き、名刺をどれだけ配って、どれほど門前払いや「なにキミ?」みたいな態度をとられたことか。
 カマレンジャーなんて、今は単なる23歳のフリーターでっせ。なのに案外業界では名が知れている。ブログの、塾の、なせるワザです。羨ましいですよ、いやホンマ!

 さて、プロデューサーといえば、最近マンガ家志望から転向した坂本十三くん。
 「プロのプロデューサーとは」という現実を、彼は理解しただろうか・・・

 坂本くんは、今私が語る怪談ラジオ番組を作るための営業をしたいと、いろいろ考えているようです。プロデューサーの仕事とは、端的に言えばスポンサー捜しです。で、彼は私に聞いてくるわけです。怪談の歴史とか、今まで私がやってきたことを。
 「バカか。それは自分で調べるんや。俺から聞いた受け売りなんて、身に入らへん。それ、スポンサーから別の角度から質問されたり突っ込まれたとき、何も答えられへんやろ。そしたら先方は、コイツ大丈夫かなと不安になるやろ。そんな不安を感じるヤツに金を出すわけがない。俺を売ろうというのなら、俺のこと全部自分で調べてみろ」と私は言うんですけど。
 あるとき怪談番組の構成案についての質問を坂本くんがしてきた。
 あまりの勉強不足に私は言いました。

 「それ、奈良テレビの『怪談の間』でやってたことや。今、Gyaoで配信されてるやろ。観てみいな」

 そしたら坂本くんの返事が、まあ驚き。

 「だって、あのサイトは有料じゃないですか!」

 は、話にならん。「キミは私の怪談はタダやと思っているわけ? そんなキミがどうやって私にスポンサーつけるの?」
 そう言うたら、ハッとした顔してましたけど。
 で、これがド素人のスタンス。

 山本さんのスタンスは、私に密かに渡された極秘資料から見えた。
 それは、ありとあらゆる怪談作家、タレントの著作と、ネットに配信されている全怪談をチェックしたリスト。その語り手、ジャンル、タイトル、内容、著作の場合は何の本の何ページ、語りの場合は時間尺がビッシリ描きこまれた分厚いA4用紙の束。
 これがプロのスタンス。ここまでやっても、企画なんて通るか通らないか、まったく未知数。いや、没率95パーセント以上。でも坂本のスタンスでは万が一にも通りません。
 それでも仕事にするために、頭を使い、情報を収集し、足を運んで、人に会い、頭を下げ、全力で売り込む。それがプロデューサーの仕事。

 実をいうと、このプロデューサーを育成したい、という考えは以前からあったんです。
 専門学校で教えていたときから、プロデューサーになりたい、と言ってきた学生はひとりもいなかったんです。ということは、なり手が少ない!
 それにクリエイターが何人、何十人と集まっても「あれをやりたい」「これをやりたい」言うてるだけでおそらく仕事やプロジェクトは生まれません。で、そういうクリエイターたちをプロデュースしようという人も大阪にはいないように思うんです。
 私がいつも言うてる大阪復興、なんていう問題も、ひとりの敏腕プロデューサーが現れてくれれば、半分実現したようなものです。
 プロデューサーは、そういうプロジェクトの要ですからな。
 だから、そういう人を育てたい。

 坂本十三くんには、そういう意味でもがんばって欲しいのだけど、まだ全然、何もわかっていない。だから山本さんの隣に座らせようと気を配ったのに・・・
 まあ、気長に見守りましょ。

 さて、最後に「プロデューサーとは」の秘訣を山本さんが澤田隆治会長からこう聞かされたという言葉。
 「プロデューサーはなあ、自分がやりたいことをやるんやない。相手がしたがっていることをやるもんや」
 深いイイ。

 でもこれプロになったマンガ家、作家もある意味言えています。
 「自分が書きたいものを書くのではなく、出版社が求めるものを書くのや」と。
 あるライトノベルズを書いている作家さんから、こんなことを聞いたことがあります。
 「書きたい小説なんて書かせてくれない。そんな作家はわずかです。僕なんて出版社から依頼されたものを延々書き続けていますから」
 まあ、作家にもいろいろありますけど、それも職業作家の生きていくための方法。

 何度も言いますが、いろいろなジャンルの、いろいろなタイプの、プロのクリエイターと会っておくというのは、そういう生き方や業界の現状がわかるということです。こういうナマの声は、作家になるためのハウツウ本やテクニックだけを教えている教室では、得られない貴重なものです。この世界は哲学、方法論が大事ですからな。それは先輩諸氏から学ぶしかない。テクニックこそ、ハウツウ本でもええこと書いてますからな。それで間に合わんこともない。
 こういう機会を、ことごとくスルーしている塾生は、もったいないと思わな。

 それにしても山本さん。
 早朝まで、ほんまにありがとうございました。
 


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2009年06月18日

6/17の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 17日(水)の作劇ゼミは、前回に続いて映画の演出技法について。

 先日、千之ナイフさん邸へお邪魔したお話を書きましたが、このときに千之さんはこういうことをおっしゃっていました。
 「コミックはもう雑誌ではなく、ケータイ配信が主流になります。そうなると今まではページを開くと、ページ全体の印象、綺麗な絵とかでごまかしができたんですが、ケータイとなると、一つひとつのコマで勝負しなきゃならなくなるので、画力よりもますます演出力が問われることになりますよ」
 つまり、今まで見開き2ページの全体の印象で読者がなんとなく理解していたものが、コマ、コマの連動、繋がり、関係のみで理解されることになりますから、前回お勉強したイマジナリィ・ラインが作画の中でしっかり機能していないと、読者はキャラクターの位置関係や立ち位置の把握に、混乱を起こすことになるわけです。きちっとした演出プランが求められる、というわけです。
 マンガ家志望の人はマンガバカにならず、映画やお芝居をたくさん観ておきましょう。

 さて、前回はそのイマジナリィ・ラインとモンタージュについて解説しました。

 今回はヒッチコックの『サイコ』の有名なシーンを解析しました。
 やっぱり名作ですな。映画監督志望の塾生がこれを観ていないのはなんで?

 ソウル・バスのタイトルデザイン。暗闇の映画館で黒地のタイトル。いきなり恐い!
 白い直線があちこちから現れて、題名やスタッフ、キャストの名前が生まれ、その文字が壊れていきます。
 バーナード・ハーマンの不気味なバイオリンとチェロによる音楽が重なります。
 タイトルが終わると、アリゾナ州フェニックスの街全体のロング。カメラはそのままある建物へと接近し、半開きになっている窓へとさらに接近。部屋の中で昼間の情事にふける男女が映し出されます。女は不動産屋に勤めるマリオン。ジャネット・リーが扮します。
 男はサム。カリフォルニア州で雑貨屋をやっていますが、別れた妻への慰謝料や死んだ父親の借金などから2人は結婚できずにいます。
 さてマリオン。事務所に戻ると4万ドルの取引が成立し、社長がマリオンに4万ドルを貸し金庫に預けるように言いつけます。その4万ドルを持ってマリオンは車を走らせ、金庫へは預けずそのまま夜の道を走り続けます。朝になり、小さな街で新聞を購入し、このことが記事になっていないかを調べ、それを不快そうな目で見る警官を気にしながら、700ドルで中古車を購入し、さらにハイウェイを走ります。また夜になり、雨も降り出します。そこで見つけたネオン。ベイツ・モーテルの文字。モーテルの裏手には黒ずんだ不気味な家が・・・。クラクションを鳴らすと、その家からひとりの青年が飛び出してきて、マリオンをフロントに入れ、「今夜は誰も泊まっていない」ことを言い、フロントの隣、1号室に案内します。青年のノーマン・ベイツをアンソニー・パーキンスが演じます。
 さて、マリオンがモーテルのシャワーを使うシーンです。

 そこを塾生たちと鑑賞です。

 バスローブを脱ぐマリオン。バスタブに入っていきます。その足、手前のビニールカーテンが閉まる。カーテン越しのマリオン。シャワーから噴出す湯・・・。

 鑑賞終わって、質問してみました。
 このシーンがなぜ恐いのか?
 殺人のイメージを喚起させたのか?

 マリオンはシャワーを浴びているところ、突然入ってきた何者か(顔はシルエットになっていて見えない)によって、ナイフでメッタ突きにされて、シャワー室で息絶えます。

 これを演出するには、色々な方法があると思うのです。
 スプリクト(脚本)にはどう書かれていたのかわかりませんが、そんなに細かい指定はないはずです。ヒッチコックはこのシーンをすべてモンタージュで構成しました。
 45秒のシーンをカメラアングルを70回変えて、撮影に7日かけたといいます。

 モンタージュ。
 ひとつのカットだけではさほど意味の無いものでも、もうひとつのカットを繋ぐと、大きな意味が表現できる。観客は裸の女性がナイフでサクサクと刺される殺人シーンを目撃するわけですが、実はナイフが女性の肉体に突き刺さるショットはひとつもないんです。
 なのに、ショッキングな殺人に見える。

 なぜ、そういう印象が与えられたのか?
 そのメカニズムを徹底分析したわけです。

 いったいどのような手法で、どういうカットが何を喚起し、カットとカットの繋がりが何を効果的にし、不安と緊張を何でもって表現し、マリオンが死んだ、と観客が理解するために何を強調し、その強調にどのような技法が使われたのか・・・。
 その回答は、講義を受けた塾生だけのもの、ということでお許しを。

 やっぱり映画は監督のものと言われますが、ヒッチコックは特にそうですね。
 この人の観客を恐怖させる、日常が非日常に移り変わる構造、夜とか影とか小道具を利用した恐怖の強調、予感・・・。
 これは映画のみならず、コミックにも活かせますし、この構造、ストーリーの構築、強烈なビジュアルインパクトは小説にも活かせます。
 『サイコ』なんて観客はマリオンが主役だと思って観ていたら、途中でマリオンは惨殺されてしまうんです。「ええーっ!」ですわな。物語が異常性に向かってどんどんエスカレートするんです。『サイコ』はこのあとも殺人が行なわれ、精神異常の世界になっていく・・・。

 私の講義はこの後も続き、画面の中にどうキャラクターを入れ込むのか、という議題にも触れました。下手(しもて)、上手(かみて)の問題。実はこの話は2007年10月17日にも講義しましたので、そちらのブログも合わせてどうぞ。


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2009年06月17日

中山市朗、千之ナイフ邸へ赴く

 中山市朗です。

 15日から翌日にかけて行ってきました。
 千之ナイフ邸。

 メンバーは、タレント活動謹慎中のMさん。
 「私の背後には大僧正がいて除霊をしている」と指摘した霊能者のOさん。
 怪談ライターとして最近大活躍中のNさん。

 いろいろ千之ナイフさんに事情をお聞きし、家宅霊査したところ、
 結論から言いますと(もっともOさんの見立てですけど)、「なまなりさん」現象ではない、ということらしいです。
 しかし・・・。

 まあ、いくつか機会があれば、どこかの怪談会でお話しましょう。
 何かが起こっていたのは事実、のようです。
 「中山くんが千之邸へ行くと言うた瞬間から『なまなりさん』は退散したん違うか?」とMさん。そういえば、私が電話で「行きましょう」と言った翌日からは、割りと平常になったらしいんですな。
 霊を見ない、感じないだけでなく、行くだけで霊スポットを壊し、霊障のある人を清浄化させてしまうという私は、なんなのでしょう? 
 霊障に悩んでいるという人があれば、行きますよ。
 きっと霊障は消える?

 ところでMさんは、次なる展開を考えて今月中にはある取材のための旅行に行くようです。心配されている方はご安心を。

 千之ナイフさんと奥さんの猫井るととさん(この方もマンガ家。イラストレーターです)は大の怪談好きでありますので、いつの間にやらアシスタントの女の子たちも参加しての怪談会へと進展。Mさん、Oさん、Nさんは終電でお帰りになりましたが、私は帰れないのでそのまま千之邸の地下仕事場で怪談会。
 気が付いたら朝10時近くになっていました。
 一旦寝て、1時くらいから朝食(昼食?)をいただいて、再び怪談会。
 怪談といっても、怪しい談ということで、マスコミの裏話から政治の闇話、日本の古代史、フリーメーソン、イルミナティの話にも・・・。アシスタントの女の子たちは「そっちのほうが怖い」と。もちろん私も千之さんたちから、新しい話などを仕入れました。
 大型ネズミキャラのいる、Dランドの話とか。
 それと、「ウルトラセブン」の第二話で、妙なものが映りこんでいる場面があるんですが、それについても千之さんと分析。わかった人は報告を!

 話は変わりますが、仕事場に「なまなりさん」の生原稿が置いてあったんですけど、まあ美しくて怖い。ケータイ配信では、あれはちゃんと伝わらないですな。やっぱり雑誌ですよ。
 コミックはやっぱりケータイ配信がますます主流になるようなんですが、そうなると従来のマンガの描き方も変わってくるんです。そのあたりのことも、千之さんから聞いてありますので、マンガ家志望の我が塾生は、私の講義を聞き逃さないように。

 それから、「なまなりさん」の文庫本が、今月25日より書店に並びます。
 読んでいない人は、わかっているだろうね!


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2009年06月12日

コミックなまなりさんに関するあれこれ

 中山市朗です。

 今、『怪異実耳録・なまなりさん』のコミックがケータイ配信されています。
 作画は千之ナイフさんです。
 コミック本は、8月25日に発売と、私はネットで知りました・・・?
 コミックもマジ怖く、編集さんもスタッフもビビりながら作業をしているようです。

 『なまなりさん』は生霊であり、死霊であり、怨念の塊であり、先祖代々の因縁であり・・・。いろいろな悪霊がひとつとなった呪殺霊です。この名前は、天台の教えの中にあるそうです。
 私も、これを執筆していた頃、多少なりとも奇妙な現象に見舞われたのですが、まあ関係した人間のほとんどが死ぬか狂うか、行方不明になります。
 私だけ、無事です。

 今、千之ナイフさんの周囲が妙だというのです。
 まあ、編集から「なんか、千之さん、大変みたいで・・・」という報告は受けていたのですが、とうとう先日、千之さんご自身から電話が!
 「いや、気のせいだ。偶然だ。ずっとそう自分に言い聞かせてきたんです。でも、このコミックが決まった瞬間からそれは始まっていて・・・。昨日これはやっぱり『なまなりさん』だと確信しました。中山さん、どうしたらいいんでしょう?」

 かなり怯えている。
 そして色々起こった現象を聞いて思ったのは、
 ・・・私が行くしかないでしょう!

 ということで、来週頭にでも東京へ行って、千之ナイフ家で起こっている「なまなりさん」(かどうかはわかりませんけど)の実態を取材します。
 でも、私一人で行ったところで、なんもわからんやろし・・・。

 そや、芸能活動謹慎中の、「彼」を誘おう。

 ちなみに、「お宅にお伺いします」と千之ナイフさんに言うと、あれほど怖がってSOSを発していたのに「わあ、それは楽しみだ。泊まっていきます? 怪談会しましょうよ」やて。

 プロや。


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2009年06月11日

6/10の小説技法

 中山市朗です。

 授業前、塾生のAさんから「今度あるネットゲームのシナリオの依頼を受けました」と報告を受けました。彼女は携帯小説も何本かケータイサイトに配信されていて、ギャラももらっているというので、もうプロ、とまでは言わなくてもセミプロまではいっているのでしょうか?
 いわゆるケータイ小説がヒットして書籍化されるという昨今ですので、これは結構なことだと思うんです。
 総務のスガノくんも携帯コンテンツで、もう長いこと怪談ものをレギュラーで書いていて、本人に言わせると人気もあるようです。
 2人とも書くことによってギャラがもらえると喜んでいます。
 しかし、
 どうもその単価を聞くと「エッ!」というくらい安い。
 依頼する会社、配信する会社、スポンサーなどが存在しているので、ちゃんとこれはビジネスになっているはずなのですが、書き手は不当な金額で書かされているという気がしてなりません。
 書き手の若者たちは、プロの作家が原稿用紙1枚でいくらくらいもらっているのか(もちろんケースバイケースですけど)、あるいはどういう条件で契約を交わしているのかの相場をおそらく知らないし、だから足元を見られている、なんかそんな感じがします。
 ちゃんと契約書を交わしているのかな?
 著作権や二次、三次の使用権などはちゃんと守られているのか、心配になります。
 今はこういう若者たちの権利を守って、正当な報酬を得られるためのエージェントが必要なのかもしれません。私も以前ケータイコンテンツで怪談をやっていましたが、ちゃんとパーセンテージの契約と売上げ数値の開示を求めたら、まあ結構な金額が毎月入ってきていました。ただ、間に入っている配信会社や代理店が膨大な権利金を貪っていて、クリエイターや原作者はチャリーン、という信じられない条件を出されたこともあります。もちろんこれは断りましたが。

 今は多少改善されたようですが、一時期のアニメ業界がそうでした。
 アニメーターへの報酬が不当に安かった。東京に出て、給金があまりに安いのでアパートも借りられず、仕事場で寝起き。ある朝、同僚が出社してみたら、うつぶせになってそのまま過労で死んでいた、なんて。これはマジにあったことです。
 あまり安いので、プロデューサーに交渉すると「じゃあ、辞めたら? 代わりになんぼでもアニメーターやらせてくださいっていうヤツ、おるから」って言われたらしい。で、現実を知らない専門学校あがりの若者が入ってきて、いいように利用されて・・・また代わりがくる・・・。
 奴隷制度が残っていました。
 ゲーム会社の下請けは今もそんな状態です。
 労働基準法違反、と言うと「これは給与ではない。ノルマに対する報酬や」やて。
 以前私の教え子で、エロゲームのキャラクターを作っている会社に就職して、一ヶ月ほとんど残業して休みなしで、最初の給与7000円というのがいました。7万円と違いまっせ。7000円。給料20万円という話やったのに、「これは?」と談判すると、キャラ一個作ったら、それがひとつにつき何百円ということやと。最初は慣れずにいたから、これだけしか支払えないと言われたらしい。
 半年ほどして、その教え子に偶然会った。
 「どうしてんの?」と尋ねたら「まだあの会社にいてます」
 「給料あがった?」「ええ、今は3万7000円もらってます」
 ・・・・・・。
 「食っていかれへんやん」「貯金取り崩してます」 
 「辞めたら?」「ゲーム好きですから」
 「そんな会社、すぐ潰れるで」
 その2ヵ月後、その会社は倒産して、その教え子も田舎に帰った・・・。
 ゲームの下請け会社の実態は、一度ゲーム会社に就職した経歴をもつスガノくんに聞いてみてください。彼は涙を流しながら、まだ古代ローマの奴隷のほうがいくらかマシだという、日本の奴隷制度の現実を話してくれます。
 でも、それが業界やと思ったら、それは違う。
 ちゃんとしたところは、正当な報酬をくれますから。

 我が塾は、そういう場合には折衝、交渉も代行しますので、これはどうなの? と思ったら遠慮なしに私か大滝に相談してみてください。

 さて、昨日(10日)の小説技法の報告です。

 仕事の報告をして、ネトラジに出演したAさんが、今月は塾お休み。
 マシンガンお嬢がいない! 
 しかし活発な意見、批評が飛び交いました。

 Kくんのサバイバル小説。うーん、やっぱり自分のために小説を書いている。小説は人に読ませるために書かなくちゃ。あまりに説明不足でわかりにくい。彼は合評で意見を言われると、次にそこを直してこずに別のものを書いてくる、ということを繰り返しているんです。それではスキルはあがらないし、アカが入る意味がわからない。編集が入れてきたアカと闘うのがプロの作家ですから。それ、覚えんと。
 Kレンジャーの小説もKくんと同じ。また別のものを書いてきちゃった。ホラーを書きたいようなんだけども、全然ホラーになっていない。主人公となる男女の関係性もよくわからない。情報の出し方も相変わらずバラバラで。本人も書きたいことの方向性がわからないと言いますが、それが「タイトル未定」というのが原因。タイトルは作品の世界観を表す表題であり、作品を知ってもらう手段です。タイトルは重要だ!
 K島くんの『活動大写真』は、そういう意味でタイトル通りの世界観、期待度を満喫させてくれます。ただ、映画の内容を説明しながら主人公の感想や心理状態も入り込んでくるところが、どうも混乱しがち。映画の説明はちょっと講談調を意識して、もっとテンポよくいくと、丹下左膳の魅力が全面に出ます。
 N子さんのホラー小説は、他の塾生からの感想で「全体的に湿度の高い文体なのが印象的です。ホラーにはその湿度が必要なので、そこは巧いと思う」という意見も。確かに主人公とその親友、2人の女の子の偽善的な関係、被害者妄想といったドロドロ感が出てきました。ただ、キーワードとなる池の描写をもっと丁寧に描写する必要があります。その池を主人公は知らなかったのか? 昼間見るとどんなもので、夜はどうなっているのか? 暗闇なのに水面が見える?
 Sさんの小説は原稿用紙4枚のショートもの。まだ続きはあるんでしょうけど。同世代の女性に向けて、私の恋愛感を書いてみましたという世界観は良く出ています。女性独特の感性が光るというか、男には書けない文体です。ただ、これは本当にあったことなので書いてみました、と本当を強調しすぎて却って妙な描写も出てきています。別に小説なんだから、嘘でもいいんです。
 Yくんのヒーローものは相変わらず読ませます。テンポのいいアニメを観ているように思えます。ただ、今回提出されたパートでは、主人公たちがその危機に瀕した状態、状況を丁寧に説明してくれて、またそれも小気味いい会話で進行するので、違和感はないのですが、原稿用紙16枚分、アクションが止まってしまって、延々登場人物たちが突っ立っている、という印象。「こんなこと言っている間に、戦闘員はとりあえず動くのでは?」とみんなから疑問も出ました。それでも読ませる台詞回しは巧いものがあります。
 Hさんは一ヶ月お休みでしたが、意外と早く塾復帰。バスガイドとして最も忙しい時期が、インフルエンザ騒ぎで暇になっちゃったらしい。
 で、彼女の小説は不倫相手の子供を産んで、それでもその相手に結婚を求めず、その子供のない奥さんに対する女としての勝利の匂わせと、義母、自殺した実の母への複雑な女としての立場の憂い・・・。女のねっとりとした世界が描かれています。この作品はその不倫をしている30代の女性と、不倫相手の奥さんの心情が重なって、表裏一体となる小説ですので、もっとすごいことになると期待。Hさんはすでにコラムやエッセイを商業誌に書いているだけあって、細かい仕込みや計算が文章に落としこめるようになってきています。
 Tくんの小説は理不尽な環境の中に閉じ込められて、創作を強いられている近未来が舞台のコメディタッチの小説。最終章に入って、いろいろばら撒いた種に目を出させる段になってきました。なぜ彼らはそんな環境にいなきゃならないのか、出版界はどうなっているのか、いや日本という国がもはや今とは違う・・・ということの実態をそろそろ発露し、決着が着く。にはもっと枚数が重なりそうな。でも小説としての形は随分とサマになってきて、だからこそ、あれもこれもと注文をつけたくなる、という段階です。



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2009年06月05日

イマジナリィライン

 中山市朗です。

 『戦艦ポチョムキン』から観た映画技法の確立。
 ここではクローズアップが効果的に使用されています。が、クローズアップ。
 これ、案外難しい。

 皆さん、デジカメで友達を撮ったりするでしょうが、それって、いつもルーズショットになっちゃいませんか?
 頭の中では友達を撮っているつもりでも、撮った写真を見たら、案外友達は小さく写っていて、いらん周りのものが写っている。あるいは、アップで撮ったつもりが、バストショットがせいぜい。
 そうです。普通の人が撮る写真と、プロのカメラマンが撮る写真の違いはここです。
 普通の人はクローズアップは撮れない。

 なぜ撮れないのでしょう?
 クローズアップを撮るには、被写体にググッと近づく必要があります。それは通常友達と接しているよりも、ずっと近距離。言うたら恋人同士でないとありえないような距離まできて、シャッターを押すわけです。
 すると普通、たじろきます。
 なんか、やっちゃいかんことをやっている・・・みたいな。
 それで引いちゃうんです。
 で、せいぜい近づいてバストショット。これがまあ普段に接する人との距離です。
 クローズアップは実は非日常的な視野なんです。
 もっといくと、目のアップとか。目のアップなんて、まず普段は見ない。見るとすれば、映画とかプロの撮った写真。あと目にごみが入ったので、取ってあげるとか?
 だからこの顔のパーツのクローズアップなんて、映画とかマンガに使ったら、すごく意味深なカットになるわけです。ヒッチコックがよく使う手法ですね。
 大友克洋さんは、見開きでおっさんのクローズアップ。その顔がまた日本人のおっさん・・・。それって、すごく新鮮で、思わぬ発見があるわけです。
 皆さんもクリエイターを目指すのなら、今度からはグッと一歩二歩踏み込んで、友達のクローズアップを撮ってみましょうよ。
 今まで見えなかったものが、きっと見えるようになります。
 モノの見方もきっと違うようになる。
 
 さて、映画はカットとカットの連続です。
 2人の人が会話をしているというシーンを想定しましょう。
 
 ご存知のことを今更、ですけど。

 1フレームの中に会話する人物を2人とも入れ込むことを、ツーショットといいます。まあ、2人が向かい合って話している、ということをストレートに表現します。
 2人を別々にアップで撮って、交互に繋げる方法もあります。
 こちらは、キャラクターの顔の表情を見せることができます。黒澤明監督によれば、話をしている人物より、聞いている人物を撮るほうが難しいそうです。
 で、前回のこのブログで書きました、学生の描くマンガは分かりづらい、学生映画は観るのも苦痛だ、みたいなことを書きましたが、ここにその要因がありそうです。
 
 アップとアップをどう繋ぐか?

 向き合う人物の頭の中心と中心を結ぶ線を想定します。
 これをイマジナリィラインと言います。
 映像線とも言います。
 この線を越えて撮影してはならない、というのが映像の原則なんです。
 ところが、そのことを知らずに撮っちゃう学生たちはたくさんいるんです。だから画面に混乱が起こる。

 説明しづらいので、塾生の島さん、小坂さんに協力してもらいました。
 カメラは総務のスガノくんです。不安です。彼も「イマジナリィラインてなに?」みたいな顔をしています。

   
a
 写真A。
 これはよく普通に撮られるショットです。
 いわゆるツーショット。
「島さんと小坂さんが会話しているところを撮ってくれ」と私が言ったら、スガノくんはこういう写真を撮りました。彼にはなんの意図もありません。
 これが映画だとして、これで2人にセリフを喋らせれば、それで成立はします。
 でもなんか、ドキュメンタリーっぽいですね。あるいはより日常的というか。
 でも、これを延々と見せられても辛いので、2人のアップを撮ります。


 

b
 写真B。
 ツーショットだけど、アップ気味に撮ってみました。アップにするために2人に接近してもらいました。背の高さも調整しています。こういう構図は、案外通常では撮られないものですね。何かの意図があるように感じられませんか?
 今度は一人ひとりアップで撮りました。
 カメラの腕は、不問にしてください・・・。



c
 写真C。島さんのアップ。






d
 写真D。小坂さんのアップ。





 ホントは顔の大きさ同一に撮らんと・・・。あっ、カメラの腕は不問。
 写真Cと写真Dを交互に繋いで、会話シーンを構成します。するとどうなるか。
b








c








d








c








d





 どっちがどっちか混乱しそうです。それに2人が向かいあっているという状況がわかりづらいですよね。実はアマチュアの描くマンガにこれが多いんです。正面を向いて話す。相手も正面を向いて話す。これ2人の距離感がわからない。立ち位置もわからない。これを何度もやられると、読者はそこで混乱します。
 実はこれ、映画ではめったにやらない方法なんです。なぜなら、これをやっちゃうと、観客へ向かって語りかけるイメージになるからです。それはストーリーを構築していくのに邪魔になっちゃうんです。
 ただし意味づけの強調で使われることもあります。ウディ・アレンがこの手法でお客に語りかけたり、『七人の侍』の菊千代が、観客に語りかけるように百姓の擁護をするシーンがあります。『素晴らしき日曜日』のラストでヒロインにこれをやらせて、これは失敗しました。
 小津安二郎監督は、ほぼこのアングルで撮っています。世界の映画監督、観客が驚くところです。笠智衆の正面アップ、原節子の正面アップ、笠智衆の正面アップ、原節子の・・・。ところが小津さんはこれができるんです。小津ワールドです。決して真似したらあきません。

 正面を向いてセリフを言う場合は、島さんの目線をちょっと右に向けてもらい、対する小坂さんの目線をちょっと左に向けてもらいます。すると島さんと小坂さんの目線が交差するようにイメージされ、2人が会話しているという状況が表現できます。

 今度はちょっと横を向いてもらって撮りました。

e_01

写真Eの島さん。







f_01

写真Fの小坂さん。








これを交互に繋ぐことによって、会話シーンを作ります。



b







e_01









f_01









e_01









f_01








 なーんか、違和感ありません?
 この2人は向き合っていません。つまり会話が成立していないように感じられるわけです。
実はこれ、イマジナリィラインをカメラが越えて撮ったものを繋げた状態なのです。
 一度、被写体を結んだラインを想定して撮ってしまったら、何があってもそのラインを越えて撮影してはならないのが、映画の鉄則です。
 では、写真Eのカットの次に、写真Gの小坂さんで繋いでみましょう。
g_01
 写真Gの小坂さん。










 これと写真Eの島さんと繋げます。

b






e_01









g_01










e_01









g_01









 これなら島さん、小坂さんが同じ場所にいて、向き合って話しているという意味づけになりました。これは目線の方向性がぶつかりあっているから、そう感じるわけです。実は写真EとGは、別々に撮ったんです。彼女らの前には誰もいません。あくまで映像はイメージの構築です。
 カメラがイマジナリィラインを越えなければ、写真EとFのような失敗は起こりません。このことは例え頭で分かっていても、実写の撮影現場の条件とか状態、あるいは役者さんの都合などで案外混乱しがちなのです。ですから絵コンテにする場合、このイマジナリィラインを常に守ることに終始しなければならないのです。

 目線の交わりと上下(かみしも)で、観客にイメージさせる。
 これ、実は落語の鉄則でもあるんですね。
 落語はひとりで演じる芸ですが、何人ものキャラクターを演じます。このとき、お客にキャラクター同士の会話、距離感、立ち位置を上下と目線と仕草で演じわけ、イメージを起こさせるわけですから。考えたら映画の理論が構築される前に、日本の噺家たちはこの重要性を認識していたんですな。すげえ!

 ちなみにモンタージュ理論を構築したエイゼンシュタインは、その方法を日本の歌舞伎の見栄を切るポーズ(あそこで観客の意識の中で、主役のクローズアップを見る!)からヒントを得たといいます。
 そして漢字の仕組み。
 「口」「新」合わさって噺。つまり、一つひとつの意味を重ねると別の意味になる。「身」+「美」=「躾」。「日」+「寺」=「時」というように。
 一つひとつのカットは別々でも合わさると別の意味をもつ、という、これもモンタージュ理論と共通するところがありますな。
 映画理論の発端は日本の文化にあったんです。
 とすると、その映画理論をもう一度昇華して、マンガの理論に天下して、マンガ王国になるというのは、必然的なことだったのかも。


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イマジナリィラインの説明図。
クリックすると拡大します。














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2009年06月04日

6/3の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 塾のホームページでは、3日の作劇ゼミは「逆説から見る古代史」をやる予定になっていましたが、近く塾生たちが短編映画の撮影を行なう、ということなので、映像のテクニックについての講義に急遽変更いたしました。マンガにも応用できるテクニックです。

 現在では、素人でも作品を創ってネットや自費出版で発表できる時代です。
 一見、プロとアマチュアの境がなくなりつつある昨今ではありますが・・・。

 ところで映画やアニメ、マンガなどに接していて、「ん? なんかこれ変や」とか、「これ、ぽくないよね」という違和感をもたれたことはありませんか?
 私は学生や我が塾生たちのマンガや映像作品をずっと観てきて感じるのがそれです。簡単に言えば、わかりにくい、ということです。
 持ち込み用のマンガを見てくださいと言われて、よく見るんですけど、プロの描いているマンガはその内容はともかくとして、なんの抵抗もなくススッと読めるんですけど、彼らの作品はそうはいかない。人物同士の距離感や立ち位置、方向性に一貫性がなかったり、コマに連続性がなかったり・・・。ですから理解しようと何ページか前に戻ったり、本人に「これ、どうなってんの?」と尋ねてみたり。頭にススッと入ってこないことが多いんです。
 描き手本人の頭の中のイメージはあって、そのつもりで描いているんだけど、そうは読み手は受け取ってくれない。
 学生映画もまったく同様で。何年か前に学生映画の審査委員みたいなことをやったんですが、何本も何本もそんなのを観せられると、いやあ、辛い。

 辛さの原因は、もちろんテーマが悪かったり(無かったり?)、ストーリーがつまらなかったり、構成が甘かったりと色々あるんですが、原則を無視している、ということが大きな原因といえましょう。

 原則とは?
 カットや構図の意味、キャラクターの動き、方向性の鉄則、コマの連続性といったものに、実はそれがあるのです。方程式のようなもの、ですね。
 その原則を理解するだけで、わかりやすい作品ができるはずなんです。

 教室に何冊か、どこかの専門学校のマンガ学科の卒業作品集があったので、ちょっとサンプルを見せました。確かになんかの違和感はあります。絵は巧くて描き込んでいるんですけど、マンガとしては読みづらい。なんでやろう? というわけです。
 先月の塾生たちの1分映画の上映会で、ゲストで来ていた山田誠二さんが、ある作品を通して「この人物とこの人物、そんな風につなげると、同じ人物に見えちゃうよ」とか「イマジナリィラインの意味、知ってる?」なんて言われたのも、原則を知らなかった、ということなんですね。

 映画もマンガもコマが連続してストーリーを語る、ということは同じです。特に長編のストーリーマンガのテクニック、法則は手塚治虫さんが映画の技法からもってきた、ということは周知のことでしょう。では、その映画の技法とは何か、ということの講義です。

 映画の最初は、カメラの前で対象物が動く。ただそれだけのものでした。
 舞台上の芝居をフィルムで撮った、という程度のものです。
 戦前の日本のマンガがそうですね。『のらくろ』とか『冒険ダン吉』なんて読むと、コマの中の人物はほとんどが同じフルショットで表現されています。
 ところがそのうち、映画はストーリーを語り出した。そうなるとストーリーを語る新たなる手法が必要となるわけです。チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、あるいは鞍馬天狗なんていう強い個性をもったキャラクターが登場します。これはストーリーの牽引者です。

 でも話術もそうなんですけど、物語には状況を説明するところ、人物の紹介、心理の動きの描写、アクションの描写、間を空けてみたり、語気を荒げたり、動きの方向、山場へのもって行きかた、クライマックスの展開、などと緩急を計算しないと、話はさっぱりおもしろくないわけです。
 それを映画の中で表現できないか、と考えた監督がいたわけです。
 セルゲイ・M・エイゼンシュタイン(1898〜1948)です、ソビエト連邦の大監督です。彼が構築したのは、モンタージュ理論です。
 映画はカットカットの繋がりによって構成されますが、その繋がりに意味をもたせようと考えたわけです。その意味とは、作品の狙い、感情、思想を映像で伝える手法。映画にまだ音声がない時代です。観ただけで、視覚法だけで、思想を伝える・・・

 『戦艦ポチョムキン』('25)が、そのモンタージュ理論を実践した傑作です。
 特に有名なのが「オデッサの階段」のシーン。実際にその"映画史上もっとも有名な"シーンを塾生たちと鑑賞し、分析してみました。

 物語は1905年の帝政ロシアが舞台。オデッサ海上のロシアの戦艦ポチョムキンの艦上で、あまりに無慈悲な士官たちに水兵たちが反乱を起こし、オデッサの民衆たちに歓迎されることになります。ところがその民衆たちに皇帝の軍隊、コサック兵たちがオデッサの階段の背後から民衆たちを制圧し、銃を向けて発砲します。皇帝=悪、民衆=善、共産党国家、かく成りき、というプロパガンダ映画です。で、エイゼンシュタインは、カットカットをただ繋ぐのではなく、カットとカットの連続の中で、対立する、衝突する、といった意味づけをしたのです。

 画面下から現れ、階段を下りてくるコサック兵。
 右へ逃げる民衆。右へ進むコサック。右へ逃げる民衆。
 これをカットバックで組み立てて、子供が殺される母や、頭から血を出して叫ぶ老婆のクローズアップを挿入します。
 右へ逃げる民衆たちの流れの中に、左に顔を向ける抵抗の顔、立ち上がる人たちの姿も挿入されます。
 カットとカットに激突の印象が生まれます。
 そしてその根底には、イマジナリィラインの確立があります。これが首尾一貫として監督の頭の中にあるならば、カットとカットが見事に繋がるというわけです。
 民衆はバラバラに逃げ、コサックの軍靴は整然と歩調を合わせています。
 対比です。
 コサックの軍靴に踏みつけられる子供。
 叫ぶ母親のクローズアップ。
 我が子が殺される母親の心情の強調です。
 母親は子供を抱き、コサック兵の前へと進み出て、止めるように説得しようとします。
 コサック兵は左から右へ、母親は右から左へ。
 というカットバックにより、衝突と抵抗が印象付けられます。
 立ち止まるコサックの兵の前で、我が子の重症を訴える母親。
 しかし無慈悲にも発砲され、母親は倒れます。
 民衆たちは、必死にオデッサの階段を駆け下り、逃げようとします。
 階段は、通常逃げる、追う、という動きを左から右、という動きだけでなく、上から下という動き、構図が構成され、より衝撃度を強調します。
 民衆は階段を上から下へと逃げますが、コサックは同じ階段を下りるカットでも、画面の下から現れ、上へと進む構図で捉えられます。コサックの優位性の表現です。
 抵抗しきれずに悲惨な状況に落ちていく民衆と、毅然と進むコサック兵の対比です。
 発砲しながら民衆たちに迫るコサック。
 乳母車を引く若い母親が迫るコサック兵を見て、恐怖に動けなくなり、銃弾を受けます。
 そのクローズアップにより、死が強調されます。
 母親が倒れた衝撃で、赤ん坊を乗せた乳母車がオデッサの階段を落ちていきます。
 デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』に出てくるあのシーンは、このオデッサ階段へのオマージュです。というかパクリ?

 とまあ、これがエイゼンシュタインのモンタージュ。
 誰もセリフを言いません。解説もありません。しかし映像を見ているだけで伝わってくるダイナミズム。制作者の叫び、思想、主張!
 これが映画です。

 モノ作りのテクニックは、まず古典からとはこういうことです。
 その考えの試行錯誤がわかりやすく出ているんです。
 その理論が後々色々と展開され、オマージュが捧げられながら、映画を発展させ、そのテクニックから手塚治虫がストーリーマンガを生み出すわけです。
 手塚マンガもよく見てみたら、クローズアップの使用、画面を展開させる、上下斜めの構図の使い方、方向性の一貫性など、やっぱり映画の手法なのだとわかるはずです。
 
 さて、今度はクローズアップと、イマジナリィラインについて考察してみましょう。

 長くなるので、それは次回。



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2009年06月03日

文化の発信基地がどんどんなくなっていきまんなあ

 中山市朗です。

 大阪新歌舞伎座が今月いっぱいで閉館します。
 また大阪ミナミのシンボルが消えるわけです。
 建物の老朽化ということだそうで、来年の夏に上本町の13階建ての総合ビルの中へ引っ越すと言いますが・・・

 あの建物がええねん!
 桃山風の唐破風造り!
 それがミナミにあるのが価値やねん!

 新歌舞伎座の建物は毎週のように本物を見ているのに、昭和41年の大映映画『ガメラ対バルゴン』で大阪上空に飛来してきたガメラが、新歌舞伎座の上を回転しながら通過するシーンを、なぜか思い出します。
 あっ、これ言うとかなあきません。新歌舞伎座という名前ですが、ここで歌舞伎はめったに上演されません。杉良太郎、五木ひろし、舟木一夫、田村正和、氷川きよし、松平健、石川さゆり、天堂よしみ・・・。昔は美空ひばり、市川雷蔵、勝新太郎も出てたんでっせ。つまり座長公演の殿堂です、ここは。
 新歌舞伎座の周辺には、オカマバーや知る人ぞ知るスナックがあって、役者さんや芸人のたまり場でもあるんですが、それも消えるのかな・・・。
 これでミナミの大劇場は大阪松竹座とNGKだけになってしまいました。映画館も少なくなったし・・・。
 松竹座は一時映画館やったこともあるんですが、今は歌舞伎、新劇、松竹新喜劇を上演、関ジャニ公演なんかもやっています。それから春と秋には、OSK日本歌劇団公演。もともとは、ここから京マチ子、笠置シヅ子、といった人たちがデビューしたんでっせ! 米朝師匠の奥さんも、ここで駒ひかるという女優さんをやってはった。
 東京だけやないんです。大阪からもすごい人が出てきたんです。
 この松竹座だけが、大正から昭和にかけてミナミを支配していた松竹芸能の持ち小屋になってしまう・・・。
 この上、ワッハ上方演芸資料館とホールが、橋下府知事の言うとおり、どこかへ移転してしまうと、江戸時代より続いてきた大阪ミナミの文化が消えてしまいます・・・。
 橋下さんも、御堂筋に桜を植えるとか、ライトアップするとか、そんなことより大阪古来の文化を守ってほしいものですな。ここで途切れると、再生は非常に困難になります。
 300年続いてきた文化・・・。近松門左衛門、井原西鶴、坂田藤十郎から始まる上方歌舞伎と文楽という財産。そこから落語、仁輪加、漫才、新喜劇が出た。それが大阪ミナミ。

 その一方で、「国立メディア芸術総合センター」というハコ物のために、平成21年度補正予算に117億円が計上されました。これが「アニメの殿堂」とか「麻生太郎肝いりのマンガ喫茶」などと揶揄されています。特にマンガ家の人たちからは「そんなんいらん」とえらく不評で。
 私もまずハコ物ありき、という発想なら、いらんと思います。
 マンガ家にも苦労して貧乏している人もいる。飲まず食わずでマンガ家になろうと努力している若者もいる。そんな中で、マンガ資料館を作って、マンガを餌に甘い汁を吸う天下り役人がまた出るわけです。
 それが見え見栄で、またそれしかビジョンが見えないから腹立ちますわな。

 大阪にあるワッハ上方は、確かにハコ物ですが、これは大ホールと小ホールという設備と資料館が一体としてあるから意味があるんです。特に小ホールは割りと安く借りられるので、若手の芸人たちの勉強会が開かれたり、素人だって芸が披露できます。我が桐の一門もここが拠点。そしてプロとアマチュアが交流できる場があります。これが大きな付加価値です。うちの社長がずっと続けている「キタイ花ん」も大ホールがホームグラウンド。いつぞやも書きましたが、ここから若手芸人がどんどん巣立っています。そしてミナミという場所にあることが重要なんです。

 「アニメの殿堂」はお台場にできるそうですが、その意図は?

 私は、国が率先してメディアや文化に注目して保存し、発信できる場や人材育成はやるべきだと思うんです。なかには「国に金を出させたら、文化は国に媚びることになる」と言う人もいますが、媚びる媚びないは、各々のクリエイターの気質に任せればいいと思うんです。でも国は国立図書館、国立劇場、国立美術館は作って維持することが義務。今は新しいメディアができたわけだから、それらを収集、保護、保存するという考えは間違っていない。やっぱり昔から演劇や音楽、美術、建築といった芸術が花開いたのは、国や教会の庇護や援助があってのこと。また、王室、貴族、富豪たちのパトロンのもとにありました。ミケランジェロもダヴィンチも近松門左衛門も、モーツァルト、ハイドン、ワーグナー・・・。権力の庇護の元にありながら、彼らは媚びなかった。ここに彼らの芸術家としての命があったと、いうわけです。
 もっともオペラハウスや交響楽団の維持は、援助なしには不可能でしょうしね。

 だから「国立メディア総合センター」を国が作ること自体は、いいと思うんです。
 里中満智子さんはこれを肯定し、ブログで最新のデジタルアートを含んだ日本のメディア発信の基地であり、劣化したマンガの原画などの修復、保管、収集はこのような公的機関でないとできない、としています。

 ただ問題は、「ワッハ上方」は大阪の文化人や興業会社やメディアがこぞって必要としていたところに大阪府が計画。吉本興業などがこれに協力したという経緯がありました。
 「メディア総合センター」には、どうも業界の人たちへの根回しとか、要請協力をしないまま、あのような発表をしたことが、そもそも間違いだったように思います。
 これでは、またまたお上たちの既得権益か、と思われてもしようがない。
 メディアの世界にいる人たちが何を必要としているのかのリサーチもないようでは、そら勝手なことするな、になりますわ。また、メディアの発信というのなら他にもやらねばならぬことはたくさんあるでしょう。
 要は今の日本の政府やお偉方は、文化人に信用がないわけです。
 今のままやったら京都にあります「私のしごと館」みたいになるやろうと。
 マンガ家なんて基本的に反体制思想なんだから、マンガやアニメがダシに使われた挙句、「役人の天下り館」になろうものなら、絶対に許さじ、というところがある。

 その辺が分からない政府の計画は、やっぱり信用できません。

 しかしなんですなあ、一方必要ない、と言われる「メディア総合センター」が117億円で東京にできて、必要ある、と大阪の芸人やマスコミが闘っている「ワッハ上方・上方演芸資料館」が家賃が高いから近々立ち退きやって。

 どないなってまんのやろうねえ。


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kaidanyawa at 20:03|PermalinkComments(2)

2009年06月01日

中山市朗が思う、才能とは?

 中山市朗です。

 先日ある人から「中山さんは“若い才能”とよく言われるが、才能とはなんです? 私に言わせれば才能などありません。すべては努力の結晶です」と言われました。
 またある人は「才能は言い訳にすぎない。諦めたときに、俺には才能がなかったんだ、あいつは才能があるから・・・後付に使われるものです」とも言われました。
 努力に勝る天才はなし、と言いますが、皆さんはどう思われますか?

 かのエジソンはこう言っています。
 「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」と。

 しかしこの努力が、人間なかなかできない。
 クリエイターを目指す若い人たちと接していて、一番思うのはこのことです。
 だから私は、あることをやるために塾を作ったわけです。それは・・・

 例えば、マンガ家になりたいという若者がいます。専門学校に入ってほとんど描かずに卒業していく実態を見てきました。まあ全体の90%でした。そこは3年制でしたから、3年間ずっとマンガのカリキュラムを受けているわけです。で、この90%の学生に「お前たち、それではプロにはなれんぞ」と言って尻を叩いて、気が付いてプロになった子も確かにいましたが、まあ1人か2人。あとは尻を叩いても動かず、結局マンガを一本も完成させることなく卒業していくわけです。こういう若者は努力をまったくしなかったわけですから、当然天才であるはずがありません。
 残りの10%。この子たちは言わなくても作品を仕上げていきます。マンガを描くのが好き。好きだから描く。簡単なことです。もちろん創作の苦しみはあるでしょうし、色々遊びたいという誘惑もあるでしょう。しかし、マンガを読み、描くことが第一。
 手塚治虫さんは「マンガ家になるなら、マンガは読むな」と言っていますが、こういう人たちへのメッセージなんでしょうな。マンガ漬けのマンガ馬鹿になってはダメだ、他のことも知りなさい、と。
 塾に水木しげるさんの色紙があります。そこには、こう書いてあります。
 「なまけなさい、寝なさい」
 本気にして(?)、21時間も寝たという困った塾生がいます。

 描かない学生たちと話をすると、どうしてマンガ家になりたいのか、という動機がどうもあやふやなんです。誰の何という作品に感動したとか、何というマンガ家に憧れて、とかが無いんです。ただ、小さい頃からマンガを読んでいて、マンガが面白いと思ったから、という漠然とした動機が多かったですな。映画監督志望で、ヒッチコックを知らないのという子がいて、黒澤明は一本だけ観ましたと。じゃあ、なんで映画監督になりたいの? と聞いたら、中学の頃テレビで観た『エイリアン2』が面白かったからだと。で、映画は明らかに観ていない。ゲームばっかりしとった。もちろん彼、映画監督なんてなれなかったですけど。
 で、「それでは映画監督は無理やから、こういうことをやってみたら?」と提案しても、全然やらんのです。
 他のことを知らないんです。動機が漠然としているだけに、目標も愛情もない。
 で、それでは当然描けないわけです。課題を出しても上げてこない。教室へ通わずゲームセンターへ通っている。まあ別にいいけど。けど、学費百数十万円が泣く。
 私はそこに講師として雇われている。放っておけないわけです。
 だから私は彼らを呼んで、膝を突き合わせて話すわけです。
 「マンガが描きたいの? 絵が描きたいの? ストーリーを創りたいの?」
 絵が描きたいなら、イラストの勉強が合っているかもしれないし、ストーリーを創るのならマンガでなくとも、シナリオや小説、マンガの原作だってある。
 小説家を目指している子たちもそう。本当に小説が書きたいのか?

 書けないのなら、そうではないのだろう。
 だったらモノ書きという仕事は小説だけじゃない。エッセイ、コラム、ドキュメント、詩、論文、批評文、散文など色々あるし、シナリオ、放送作家の道もある。
 色々やってみて、そこで合うものを見つける。これをやるべきなんです。
 やってもみないのに、「やりたくない」「意味がない」ではアカンでしょう。そりゃあ、作家になりたいというヤツに「家電の修理ができるようになれ」とか、「料理人のプロを目指さんか」って言うたら「なんでやねん」ですけど、書くことを勧めているわけですから、やってみる価値はアリでしょう?
 小説が書けないんやから。またライターやイラストの仕事なら紹介できますしね。

 最近塾生Sくんが、プロデューサーに興味が湧いてきて、マンガを辞めたいと言ってきました。彼はマンガを描くのを非常に苦としていて、私からは、仮に間違ってデビューでもしたら、本人には言えませんが、余計に苦しむやろうなと思っていたところだったので「そのほうがお前には合っている」と言ったんです。これも塾生たちで1分映画を創って、製作に携わることで自分の気質に気が付いたんですかね。実は映画を撮る前からSくんは、プロデューサーとしての発想をしていて、なにかと動いていたのですが、本人はそれがプロデューサーの仕事だとは知らなかったようなんです。だから実はそっちに向いているんです。この道なら、彼も努力することでしょう。

 総務のスガノくんは、作家デビューして、今はライターの仕事を嬉々としてこなしていますが、専門学校時代はマンガ家志望でした。彼は投稿用のマンガを仕上げて持ち込みをしたそうですけど、全然つまらんものを描いていて、「お前、いっぺん小説書いてみんか」と書かせたところ、マンガよりはいい線を行っていたんです。だから書く仕事を彼に与えた。マンガより文字を書くことが、彼の性に合っていたわけですね。あのままマンガを描き続けていたら、彼はとっくにこの世界にはいないでしょう。
 そういえば、塾でシナリオ作家志望のUNI、寺井、小説家志望の青谷、高田は、専門学校にマンガ家志望で入ってきたんですな。色々やった末、今の進路を選んだ。4人ともマンガより今のほうが確かに合っています。本人たちはプロになることしか考えていないようですしね。

 だから「色々やってみろ」が塾の方針なわけです。
 やってみないと、自分に何ができるのか、何が向いているのかなんてわからない。
 ネトラジで構成・パーソナリティをやってみたり、落語をやったり、映画を作ったり、シナリオを書いたり、イベント作りに参加したり、お笑い芸人と飲んだり、テレビ番組の制作に関わったり、携帯コンテンツの企画を出したり・・・
 塾は色々な実践の場を与えていますから、やってみて「これだ!」と思うものがあったら、それをやればいいんです。
 何も言わなくても小説やマンガをどんどん書いて、持ち込みをしている塾生には、もちろん何も言いません。そのまま突き進んでいけばいい。

 実は私もそうだったんです。学生時代は映画監督になる、と誰よりも映画を観て、映画を自分で作って、こんな楽しいことはなかった。生活費のほとんどは映画に吸い取られ、パンのミミで飢えを凌いで・・・ちっとも苦ではなかった。むしろ、映画なしでは死ぬと思った。でもプロの監督になることは、映画の業界へ入ることだと気が付いたのが大学を出てから。8年間の放浪(?)生活の末、怪談作家でデビューして、放送作家になった。映画に未練がないわけじゃないけど、この世界も面白い。
 これも色々やっていたから、どうやらこの世界にしがみつけたんです。で、作家になれたから、映画を作れる立場にもなったわけです。

 生まれてこの方、私は運動が嫌いです。「運動は体に悪い」とは立川談志師匠の名言ですが、体を動かす努力を強要されても苦痛なだけです。死んだほうがマシだと思うでしょう。つまり私はスポーツ選手になる才能は皆無だったと断言します。この“才能は皆無”ということは、きっと他での才能は、ある、と思うのです。それは強要されなくても努力ができる世界。努力が楽しい、いや、苦しいけどその世界で報われることを考えると、他のものは犠牲にしてもいい、と思える分野。それが発見できればいいわけです。

 努力に勝る才能は無し。

 ならば努力できる楽しいものを見つけよう。
 というのが私のメッセージ。塾の方針もそうなっております。絶対に、これなら努力は苦ではない、という分野が誰にでもあるはずです。それが見つかったところで、才能という種が土に落ちるのです。

 でも、言っておきます。
 だからと言って、それでメシを食うというのは難しい。並みの努力では、ある一定のところまで行くんですけど、そこから先がなかなか突破できないものです。そのときに、ひらめきがある人がそこを突破するのでしょう。
 そのひらめきが、エジソンという才能です。
 つまりひらめきは、努力を積み重ねて初めてくるもの、なのでしょう。
 考えてみたら、私の学生のときの同期生を見てみると、周りから見るとくだらないことをコツコツやっていたヤツが、この世界に残っています。普通の人はやっぱりいない。

 湯川秀樹博士は夢の中で、中間子論を発見したことで有名ですが、これも寝ても覚めても研究に没頭していたから、寝ている間に“ひらめいた”のです。

 ゲームだのネットだの携帯だの友達作りだの、楽しいこと、誘惑が多い中、どんなアホなことにでも没頭できるものがある若者。これが私の言う「若い才能」です。この人は幸せです。

 でも正直、天才はいると思います。

 これ、あるプロデューサーから聞いた言葉です。
 「手塚治虫先生は、僕らに向かってこう叫んだんです。『僕はキミたちと違うんだ、天才なんだよ!』」
 やっぱり手塚先生は、自分が天才だと認識していた?

 『男はつらいよ』の山田洋次監督は、「天賦の才がなければ映画監督にはなれない」と言っています。

 サルバトール・ダリは自らを天才と称し、自身の評価比較表によれば、その天才の上をいくのは、ダヴィンチ、ピカソ、ヴェラスケス、ラファエル、フェルメールだとしています。

 ゲーテは言います。
 「音楽の才能はまったく生まれつきのもの。外部からの大きい養分とか、人生から得る経験を必要としないものだ。しかも時折、神がどこからかやってきて、理解できないような偉大な人間に奇跡を仕掛ける・・・」

 モーツァルトのことです。

 まあ、我々は努力しましょ。
 


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kaidanyawa at 22:03|PermalinkComments(0)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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