2009年09月

2009年09月28日

小堀さんの特別講義

 中山市朗です。

 先日、フリーの編集者、小堀純さんをお招きし、特別講義をしていただきました。→作劇公式ブログ

 編集者。
 我々作家が原稿を書いて、商業誌や単行本として書店に並ぶまでの作業で、ともに仕事をする、いわばパートナーであります。
 作家となり、作品を書き続ける上で、いい編集者とめぐり合うことは、作家として幸福なことです。また、新人を発掘し世に出す、ということも編集者の仕事です。

 ちょっと話は、私が以前講師をしていた専門学校のことになりますが。
 私は直接教えたことはありませんが、マスコミ科に雑誌編集コース、という学科がありました。で、何をしているのかというと、ミニコミ誌を自分たちで作成することに明け暮れているわけです。自分たちで書いて、レイアウトをして、製本する。いうても別にソレを出版するわけではない・・・
 で、マスコミ科の学生の何人かが私の講義を受けたいと来ていたので、彼らに言うたわけです。
 「編集の仕事は、作家に原稿を書かせることや。なんで編集コースだけで雑誌作ってるの? この学校にはマンガ科コースや小説科コースもあるんやから、そこの学生と絡んで彼らに書かさんかい。彼らと一緒に共同作業せんかいな」と。
 でも彼らは「私たちは本を作りたいので」と言って(正直意味がわからん)そういう学生たちとの絡みを拒否していた。拒否というのは、ほんまにあきません。これは自分が損するだけのこと。それに、これでは雑誌編集コースなんて詐欺です。カリキュラムの中で、マンガ科や小説科コースとの共同作業をやらなきゃあ。
 きっと縦割りの教務の関係でそうなっていたのでしょうけど、それは教務側の勝手な理由です。高い授業料を払わせておきながら、本当に編集者を育てようという気がない。

 さて小堀さんは、作家たちと歩んだ人生をお話してくださいました。

 ここでその詳細は語れませんが、小堀さんが言われたキーワードを提示しながら、編集者という仕事を、考察してみたいと思います。

 ☆ないから作っちゃおう

 雑誌は企画です。企画があって、編集方針が決まり、本のコンセプトやサイズや売り方、そしてどんな執筆者に何を書いてもらうかが決まります。
 小堀さんは、『プレイガイドジャーナル名古屋』の編集長を勤められました。私の学生時代、『プガジャ(もっとも大阪版でしたが)』と呼んで、このB6サイズの小冊子から演劇や映画、寄席の情報を得たものです。小堀さんが、『プレイガイドジャーナル名古屋』に入社された'70年代後半の頃は、カウンターカルチャーが若者に支持された頃でした。これは対抗文化といいますか、伝統的なものや既成な文化、権威に対して、違ったことをやるんだ、という運動です。アングラ(アンダーグラウンド文化)とも呼ばれていました。それは従来の劇場から離れたテント劇場であったり、路上でのパフォーマンスであったり。ロック、前衛、ATG映画、エログロナンセンスや、マンガ・・・今はサブカルのカテゴリに入るものなのでしょうか? 当時はヒッピーいうのもいましたな。
 ロックやマンガは、もうサブカルではないと思いますけど。
 ところが当時、それらの文化に正当な評価はなく、権威の象徴であるマスコミも取り上げない。だから情報がない。どこに何があるのかわからない。だったらそんな情報を掲載する情報誌を作っちゃおう、ということで生まれたのが『プガジャ』だったわけです。
 ないから作る。考えたら企画の基本なんですが、ないものが突如現れると、最初は世間は理解しないものなんですな。小堀さんが言うには『プガジャ』の編集部にはお金もなく(狭い編集室で自炊してネギを栽培していたそうです)、編集者自らが名古屋市内の本屋さんなんかを回って置いてもらっていたそうです。
 「なんや、芝居や映画のスケジュールが書いてあるだけやないか」と本屋さん。
 
 「そのスケジュールを若者たちは欲しがっているんです」
 「そんなもん売れるんか? ほな試しに5冊ほど置いていって」
 そんな出発。しかし、やがてサブカルの世界から、寺山修司、唐十郎、横尾忠則といった人たちが出てくるわけですな。そして、小堀さん自身は当時無名の劇作家、北村想さんと出会うわけです・・・

 ないから作る。権威への対抗。これは物作りで大事なスピリッツではないでしょうか?
 権威への対抗・・・これについて色々、私なりに思うことがあるのですが、長くなるのでまた後日。

 ☆編集は作家の伴走者。

 編集者だけでは本は生まれません。
 作家だけでも本は生まれません。
 両者の出会いが重要です。
 小堀さんは北村想さんとの出会いで、はじめて作家発掘をし、ともに歩んだエピソードを語ってくださいました。北村想さんの処女出版は、お金のないなかでの半ば自費出版だったそうで、この作品は岸田國士戯曲賞候補となります。作家と共に走る。もちろん走者は作家ですが、「編集者は作家の伴走者である」と小堀さんは言います。作家にいい原稿を書いてもらうために、自分(編集)のできる最大限のことをする。情報や資料集め、お酒もともにします。そうやって作家の作品を世に出す努力を惜しみなくするわけです。小堀さんはやがて大阪の『プレイガイドジャーナル』の編集人となり、編集長となります。大手出版ではないけれども、アングラ、カウンターの人たちと出会い、一緒に成長したことが、今の小堀さんの財産だと言います。小説家、劇作家、演劇主催者、演出家、役者、マンガ家、イラストレーター、同業の編集者・・・そんななかでの出会いが、中島らもさん。
 らもさんは、我が塾の経営代表を務める大滝哲雄氏の友人でもあり、その衝撃の数々のエピソードはよく聞いていますが、編集者から見た中島らも像も、非常にユニークなものでした。でもそのお話を聞くほどに、小堀さんは中島らもという人がよっぽど好きだったんだな、と、その作家と編集の関係はちょっとうらやましくも思いました。

 ☆メディアとは場所だ。

 作家志望者がやりがちなミステイクは、作家は自分ひとりの世界で成り立つのだという考え。これは間違い。もちろん書くという作業はひとりでするものですけど。
 出版はメディアです。それは作家ひとりで成り立つものではありません。大勢の人間が関わりあいながら、出版物が世に出るわけです。「メディアとは場所だ」と小堀さんは言います。『プガジャ』はまさに人と人が出会う場所だった。だからそこから新しいものが生まれ、仕事をするバネになった。そして『プガジャ』はネット情報の拡大の中で、その役目を終えたかのように廃刊となり、小堀さんもフリーランスの編集者となりますが、そのとき共に仕事をし、飲んだ人たちとは今もつながっていると言います。「だから人寄りの場所は必要なんだ。それがメディアなんだ」と。私もまったく同じ思いで作劇塾を作り、関西陣を立ち上げました。人寄りの場所は必要です。夢を語り合って、共に作る場所が。

 また、小堀さんはこうもおっしゃられました。
 作家は作品が読まれている間はずっと現役である、と。中島らもさんのことでしょうか? 編集者は亡くなった作家ともつきあっている、と。そういえば、明治や大正、昭和の文豪やシェイクスピア、ドストエフスキー、ヘミングウェイ・・・みな現役です。

 作家冥利に尽きるのはここですよね。
 自分はこの世からいなくなっても、作品は生き続けるんです。
 みんな、生き続ける作品を書こうぜ! それが作家の特権!

 小堀さん、どうもありがとうございました。


中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。



kaidanyawa at 18:52|PermalinkComments(1)

2009年09月26日

プロデューサー坂本十三に関する報告

 報告いたします。

 度重なる塾及び塾生への背信行為とも思われる行動をとり続けたプロデューサー志望の塾生坂本十三くんは、その都度厳重に注意し、かつ擁護し続けましたが、これ以上彼の擁護を続けることは困難と判断いたしました。
 よって9月25日付けで、坂本十三くんには退塾を勧告いたしました。

 塾生および関係者、また作劇塾を応援してくださっている皆様へ、ご心配とご迷惑をおかけいたしましたことを、ここに深くお詫びさせていただきます。

 作劇塾 中山市朗


******
 坂本十三くんへ。

 とうとうこういう結果になってしまったことは、誠に残念であり、悔しくもあります。
 キミの一連の言動は、決して悪気があってのことではないと承知していますが、すべては結果であり、注意されて説教されても、まったく改められないその一連の言動が、塾の信用を失墜させ、関係者や取引先に迷惑をかけ、何人かの塾生を傷つけることになったのです。それが結果です。
 これを真摯に受け止め、反省して改めるには、塾を離れて誰にも甘えず、ひとりで生きていくことを学ぶことです。生きていく上では何が必要で、何が大事なものなのかを考えてみるべきです。
 しかし、キミの人生です。
 一旦、こちら側の世界の面白さを知ってしまったならば、再びこの世界で生きていくことを希望し、考えることもあるでしょう。
 もしそのとき、やはり作劇塾で学ぶ必要があるとキミが思うならば、近い将来再入塾することは止めません。
 しかしそれは、関係者の誰もがキミを許し、坂本君がんばってるみたいやん、という状況をキミ自身が作り上げるしかありません。それには相当の努力と研鑽が必要です。それを逃げずに積み重ねてください。このまま、またその怠け癖と言い訳癖とウッカリ病と、上から物を言う癖を改めなければ、本当にキミはダメ人間になってしまいます。
 そして、他人を思いやるということを学んでください。

 キミの頑張りがあり、もし再入塾することがあれば、このときは一からやり直してもらいます。離れたところから塾を見る経験は、本当に作劇塾とはどういう場所なのかを見定めるいい経験になることでしょう。
 このときの坂本君は、人間としてたくましく成長していることを期待するものです。

 一旦はさようなら、坂本君。


 中山市朗



中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。



kaidanyawa at 15:04|PermalinkComments(4)

2009年09月24日

9/23の小説技法

 中山市朗です。

 23日の小説技法の報告です。
 いつもの合評です。

 K島くんの『活動大写真』
 400字換算で31枚。
 まだ第一章の書き出し部分で手こずっています。
 K島くんは、時代劇、とりわけ戦前のチャンバラ映画の魅力に取り憑かれ、そういう世界をマンガで表現したいというマンガ家志望者。しかしチャンバラ映画の世界が表現できるのはマンガばかりじゃない、と小説にも取り組んでいます。
 そのチャンバラ映画の魅力を、小説という形で伝えようとするのがK島くんの作品ですが、エピソード、エピソードの書き込みが粗いので、印象に残らない。オープニングの主人公が、出版社の人に原稿を付き返されるシーンなども、K島くんの実体験からきたものらしいんですが、実体験がリアルで説得力をもつとは限りません。実体験を活かしながら、ドラマを作らなきゃあ。ジョンという日本文化に造詣のあるアメリカ人の青年の登場は、日本の青年でありながら何も知らない主人公の立場を強調できるいいアイデアなのですが、ジョンという青年のキャラクターもインパクトだけで終わってしまっています。枚数を気にせず、どんどん書き込むこと。書いたものはどんどん削れますが、書かないものはわかりません。

 N子さんの『闇の隙間』
 400字詰め原稿用紙29枚。
 第一章の後半部分です。
 こちらはホラー小説。
 恐怖が訪れるまでの雰囲気を重視してみましたといいます。全体的に重い文体なのが味なんですけど、これを読ませるには改行を考える必要があります。改行をわりと行なって読みやすいシーンと、あえて改行せずに文字を追っている読者にあえて精神的にしんどさを生じさせる、とか。それと主人公の少女の行動には、心の動きを反映させること。そうでないと、彼女は自ら恐怖のなかへ踏み入ってしまうという印象になってしまいます。池の辺りで、一見普通の中年男性が、少女の目の前で化け物に変化していく状況は、ホラー好きのN子さんの腕が冴えています! あと、音のイメージがくわわれば!

 T野くんの『ファ−スト・ライト』
 400字詰め原稿用紙38枚。
 SFホラーです。舞台は地球ではありません。某宇宙基地です。
 「恐怖は日常が崩れるところから発生する」という問題を、T野くんなりに解決しようとしています。宇宙基地こそが読者にとって非日常。だからこそ、宇宙基地内での隊員たちの他愛のない日常の様子をきっちり描写してみた、と言います。全体的にせりふと地の文のバランスもよくて読みやすくなっています。無機質な文体にもSFの雰囲気が漂っています。が、幽霊、らしきものが登場する場面は怖いかというとそうでもない。異様なものを見た主人公の心情があまりに詳細に説明されていることが、ひとつの要因。動きの描写も、ただ動くではなく、追ってくる、とか、こちらに向かって、とビジュアルとして具体的に浮かぶ描写をすれば、主人公の恐怖の度合いが強調されます。

 Yくんの『戦闘員 〜The Peace Keeper』
 400字詰め原稿用紙26枚。
 ヒーローものの後日譚という体の物語です。総枚数はもう200枚〜250枚はいっているのでは? 相当な長編ものになりそうです。Yくんの文体もテンポよくて読みやすい。しかもアクションも映像として想像しやすいものです。登場人物たちの芝居が綿密なんでしょう。ただ舞台設定はわかりやすく。現代の物語で登場人物は全員日本人の名前なのだから、戦闘が行なわれる場所が政府機関の省庁が立ち並ぶ街という描写があれば、誰でも永田町を想像します・・・架空の国?

 Aさんの『とよあしはら恋奇譚』
 これは投稿用作品で、第四章の後半部分になります。
 彼女の作品は、正直批評するのが難しいところがあります。対象は女子中学〜高校生。中学生の仲のいい女の子(主人公)と男の子が、日本神話の世界に誘われ、ある神様の恋愛事件にかかわります。男の読者とすれば、神話、というとスペクタクルや神々の戦いをイメージしますが、そういうものは一切出てきません。神様の恋愛・・・そこが切り口といえばそうなのですが、ちょっと男性の塾生諸君には伝わらない? しかし女子は「おもしろい」という感想です。私としてはひとりよがりにならず、あくまでエンターテイメントになっているかを見定めます。いろんな神様の名前が出てきて、それぞれがキャラクターとして意味をもって動いているけど、女子中学生にはたして理解できるのかな? それと、恋愛がテーマというわりには、艶っぽいシーンや描写もないのは、どうなのかな?

 Tくんの『クリエイターズ・ファイト』
 最終章に入っています。この章が完成すれば、文庫本1冊分の小説になります。
 ところが、なかなか終わりそうにありません。いろいろな謎や人間関係、そして主人公の目的達成のために振りまいたものを刈り取って、決着をつけなければならない、のですが、まだ謎が投与されています。計算がずれたのか、後付になってしまったのか? 前半、会話だけで進むシーンが粗い印象です。読者の視点にたって、いろいろな情報の開示をするには、会話だけでなくもっと動きや小道具、仕掛けを利用する必要があります。
 ちょっとまとめるのに苦労しそうですな。

 Hさんの『花鎮めの森』
 400字詰め原稿用紙41枚。
 クライマックスの寸前まできました。物語は二重構造となっていまして、ひとりの初老の男性の妻と、彼との関係で子どもを作った30代の女性(主人公は彼女)の確執、嫉妬、愛憎・・・主人公の女性の一人称、同じ状況を浮気されている妻の一人称で、一章が構成されます。ある意味、女性にしかかけない恐ろしい世界・・・ライターとして活躍している彼女だけに、書きなれています。しかも、エッ! という衝撃の展開。思っていた展開とはまったく違ったので、そこは戸惑いましたが、思っていた展開を裏切るというのがまたテクニックです。やられました。しかし章のラストが、それ誰の目から見た状況なのよ、という疑問も。つまり、一人称の登場が死んでしまうわけです。Hさん本人も、書きながらそこにひっかかったようです。
 そこでビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』の話に。いきなりプールに死体として浮いている主人公の語りから始まる映画なんですが、そこらにヒントがある。
 まあ怪談ではないけれど、恐ろしい小説です。

 以上7編。
 みんな書けば書くほど、何かを掴んでいます。
 書いていない人、自分のペース配分はあるでしょうが、少々無理をしてでも提出日には何かを出す、ということを繰り返すことです。



中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。



kaidanyawa at 20:01|PermalinkComments(0)

2009年09月23日

山田誠二さんと怪談イベント

 中山市朗です。

 昨日22日(火)は、山田誠二さんとの怪談イベント『妖奇怪談全集』に出演してきました。忙しかった8月から、ガラリと変わり、今月唯一の怪談ライブです。

 やってきましたのは、兵庫県神戸市にあります六甲アイランド。20年ほど前に海上に出現した人工文化都市でして、人口は1万7700人ほどなんだそうです。
 六甲ライナーという、東京でいう「ゆりかもめ」のような運転手不在の乗り物に乗って、アイランドセンター駅で下車。
 ここは初めてですが、なにか昭和45年の大阪万博の頃に、人々が夢に描いた未来都市、みたいな風景。整備されていて綺麗で、建物も近代風なんですが、言うたらちょっと無機質なんですな。そこがレトロな未来都市みたいで・・・。人が思う価値観なんていうものは、移り変わる・・・

 海上は島内の専門学校アートカレッジ神戸ジュリアホール、というところ。
 マンガ科、アニメーション科、声優科などがあるクリエイター系専門学校のホールですわ。

 困ったのは、学校内もそうなんですが、街に灰皿がない。つまり暗黙に禁煙や、というわけなんですが、なんなんでしょうねぇ、この喫煙者バッシングは! な〜んか、非常に悪いことをしているような・・・タバコ吸いたかったら、駐車場の隅っこでおとなしくしとれ、みたいな。でもタバコはコンビにで売っているはいるんですな。
 これ、なんかエコに心がけましょう、と言いながら、高速道路は無料みたいな・・・ちょっと違うか?

 さて、怪談イベントそのものは、山田誠二さんが監督された短編ホラー映画の鑑賞と、山田さんと私による、怪談を生で聞かせようという趣向。上映を含めて2時間30分(のところ、30分オーバーの3時間でやっちゃったみたいですけど)のイベントです。
 今更、というか、再認識させられたのは、山田監督の映画のナレーションや効果音を担当されている京極夏彦さんのお仕事ぶり。1本目の上映が終わったあと、私と山田さんが舞台袖から出てくる、ということで、舞台袖でその音響だけ聞いていたのですが、大きなホールの音響装置から聞こえてくる音は、まさに映画館で聞く音そのもの。プロです! で、またそのナレーションも、『ウルトラQ』の石坂浩二ばりの京極さんの声質と言い回し!

 その後、舞台に登場した私と山田さん。段取りだけの打ち合わせをしただけで、ほとんどガチでの怪談対決(?)です。
 考えたら、私が神戸で怪談会をするのは初めてなんです。なので、神戸、西宮周辺にある怪談を披露。もちろん久しぶりに「件」に関するお話も。でも印象として、あんまり語れなかったような気がしますが、「いやいや30分もオーバーしましたから」と一笑されました。

 今回のイベントの主催者、オフィスレッドレターの代表の方は、実はこの日上映された山田監督の映画にも出ていた女優さん。以前、私が大阪日本橋で上演された「こみなとレンジャー(カマレンジャーじゃないよ)」の『おもてなしのお仕事』というお芝居に、ゲスト出演していたときに出ていらして、お知り合いになったんですが、そこに山田誠二さんが楽屋に陣中見舞いに来られて初対面。この後、山田監督の映画出演と相成ったということだそうです。で、その繋がりで今回のイベント。
 私の怪談会のほぼ常連さんである亥戸碧さんも、この日上映された山田作品で女優デビューをされていまして、山田誠二さんの人材発掘力には脱帽します。碧さんも、全然ものおじせずに、素人とは思えない、りりしい存在感でステキでした。

 この日お客さんとして、またまた東京からNHK-BS『最恐! 怪談夜話』の山本ディレクターと、同じ制作会社の村田さんが来られていまして、共に打ち上げに。
 またなにか、来年に向けて新たなる「たくらみ」が発動しそうな気配です。

 二次会は例によってわが書斎で。山本さん、村田さんは、最初から徹夜モード。そこでこの日もまたまた大きなミステイクを犯してしまったプロデューサー候補のSくんに、山本、村田両氏により愛情のある艦砲射撃! しかし猛爆です。演習にあらず! それはもう、ガダルカナルのヘンダーソン飛行場に38センチ砲弾を撃ち込む我が帝国海軍の戦艦・金剛、榛名を思わせます。Sくんはボコボコにされるアメリカ軍の飛行場です。炎上飛行機78機。反撃なし。この反撃なしというのがダメなんですけどね。
 塾生でありながら、現役バリバリの業界人にこれほど説教を受けるというのも、ある意味ウチならではでしょう。山本さんも村田さんも、Sくんには本当に業界人になつてほしいと思っているんです。

 しかし、朝にはSくんはあることを決意し、長期を見渡した反撃の準備がなされ、山本、村田両氏は、それを脅威と感じ、東京へ引き返したのでした。それは・・・

 あれですよ。
 歴史を見ましょう。
 ヘンダーソン飛行場が壊滅して1年後、ガダルカナルから撤退したのは、なんと日本軍のほうだったんですよ!
 何が言いたいかって?

 それは・・・あっ、巨人3連覇!!


中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。



kaidanyawa at 19:42|PermalinkComments(8)

2009年09月19日

テーマVSテクニック

 中山市朗です。

 前回、映像の撮り方と語り口についてお話しましたが、その続きです。

 同じ脚本を映像化した山田誠二さんの撮った作品と、塾生が撮った作品の違い、その最大の違いは作る側のスタンスでした。

 塾生たちは、作品を完成させる、ということが最終目的。
 だからテクニックの使いどころは間違っているし、見る人を楽しませてやろう、というところに気持ちがいっていない。
 だから視聴者不在の作品を作ってしまった。これではお金になる作品にはならない。
 視聴者、あるいは読者不在の作品を、不親切な作品といいます。
 これがアマチュア。

 山田誠二監督は、見る人をどう怖がらせようか、どう楽しませようか、ということが目的。
 だからテクニックは、使うべきところで効果的に使われ、風景もいろいろ楽しめて、ミニスカートの美女も見られる。で、怖い。これがお金になる作品。
 これがプロ。

 わかります?
 同じ条件で撮ったわけですよ、これ。

 この物作りのスタンスは、おそらく塾生たちが小説やマンガを書いているのと同じスタンスだと思います。つまり、読者不在。読者を楽しませるには、とか、興味をもってくれるには、とか、そこに神経がいっていない。
 塾生に限らず、小説やマンガ家、あるいは脚本家や映像作家志望で、やつているのになかなか芽が出ない人は、ただ漠然と、自分のためだけに作品を書いているからダメなんじゃないでしょうか?
 作家になりたい、マンガ家になりたい、という気持ちはあっても、人を楽しませるんだ、とか、恐怖のどん底に陥れてやろう、とか、ハッピーな気持ちにさせるんだ、といった気持ちがない。いや、志した当初はあったとしても、作品を書き続けるうちに、そういうスタンスを忘れてしまう・・・

 映像作品は、作ったものをみんなで鑑賞し、みんなで批評できるから、そういうことに気づかされるんです。わかりやすい媒体なんです。

 あそこは説明不足だろ、とか。
 その後、ロングのカットを入れなきゃ、とか。
 それ、カットのつなぎが逆だろ、とか。
 方向性、間違ってるよ、とか。
 それじゃあ、主人公の気持ち伝わらないよ、とか。
 どうせやるなら、もっとこういうことできないだろうか、とか。
 で、テーマはなに? それ伝わってないよ、とか。
 そんな状況で、人間そんなリアクションしないよ、とか。
 いろいろ・・・

 で、映像は見ればわかる媒体だから、指摘されたほうも、なるほど、とうなづける。
 
 でもねえ、これ、小説の合評で言っていることと同じことなんです。
 そこは説明不足やん、とか。
 ここで、こういう情景描写書いとかないと、わかんないだろ、とか。
 この文章とこの文章、順番入れ替えないと、読者は混乱するよ、とか。
 これは人物の動きが定まっていないよ、とか。
 その書き方じゃあ、主人公の気持ち、伝わらないよ、とか。
 もっとこういう書き方してみたほうが効果的だよ、とか。
 つまり、よりよく理解できるように、おもしろくなるように、もっとエキサイティングになるように、そこで世界観に矛盾をきたさないように、という・・・
 つまり読者の視点に立った商品にするための批評。

 テーマはなに? と聞くこともあります。

 聞くと、こう答える教え子が大勢います。
 つまり、これはああで、ここのところはこうで、で、やりたいことはこうですけど、それじゃあ伝わらないだろうから、こうも考えて・・・

 ええい、だからテーマはなんや!
 一言で言わんかい!

 私がよく言うセリフです。
 テーマが定まっていないのに、何を書くというの?
 テーマは船の舵取りです。

 作家は船長です。技術、技法とか、資料とか、取材で得たものが船員です。
 ところが船長がどこに行きたいか迷っていて、しかも客の安全を考えていなかったら?
 サンフランシスコに行きたいんですけど、今のボクには無理なのでハワイにしようかなあと。でも台風が来る季節だし、それを考えると韓国くらいがボクには合っているのかなあと思うんです。でも本来それはボクの意図ではないので、サンフランシスコに行くつもりで、とりあえず香港あたりで様子を見て・・・
 どうしたいねん!
 乗客をどこまで連れていくつもりやねん!
 
 こんな船長だと、船員はやる気なくしてしまいますわな。つまり技術、技法の活かしようがない。いくら腕のある船員が集まっていても、その手腕の発揮のしようがない。テンションや士気もさがる。つまりテーマなき原稿執筆は、技術の使いどころがわからない、というわけです。だからテクニックの習得にあれもこれもとキリがなくなってしまい、おまけにその使いどころがわからないから、身に入らない。で、しんどい上につまらなくなる。
 また、客の安全やサービスよりも、とにかくどこかの港に辿り着くことしか考えていないわけですから、気がついたらお客は途中で下船しちゃって、乗客(読者)不在。
 そんな船長には、次の航海のチャンスは絶対にない。

 以前教えていた専門学校なんて、結局テクニック、テクニック。で、作品あげるのが苦痛になって、辞めちゃう学生が多かった。うちの塾にも若干いますけど。
 これは小説家になりたい、マンガ家になりたい、という気持ち最優先の学生に多い。
 で、人を楽しませようなんて心は微塵もない。だから自分勝手でわがままで、プライドの高い人は、まあ卒業までには消えていました。
 で、講師の人たちも実は教えられることはないわけです。教科書もないし。
 だって、自分のもっているテクニックは、おそらく自分の作品にしか通用しない、その人独特のものだろうし、またあっても、そんなマル秘事項を、学生にみすみす与えてなるものか、という講師がほとんどでしょう。そりゃあそうですわな。メシの種だもん。企業秘密だもん。でも、学生は小説やマンガはテクニックの上達にある、と思い込んでいる。
 で、マンガでいえば、デッサン力が不足だの、人体の骨格がどうの、バランスがどうの、パースがどうの、動いたときの筋肉がどうの、効果線がどうの、背景が描けていない、だの、三点描写がわかっていない、とか、コマ割りがなっていない、とか、流れていない、とか、構成がなっとらん、とか、ペン入れが下手だ、とか・・・
 教えてくれ、言うから教えていたら「なんか面白くなくなった」とか「苦痛になった」とか言うわけですな。で、辞める。
 そら、苦痛になるわ。
 マンガを完成させることが最優先で、そこにテーマも読み手もないんだもの。これって、めっちゃおもしろいやん、とか、怖がらすためにこんなことを考えてみた、みたいなワクワク感が作り手側にない。
 だから苦労して、やっと完成した原稿を出版社にもちこんだらボロクソ。
 そりゃあそうだ。読者目線じゃないもん。
 自己主張しかしてないもん。
 ただただ、無難に上手に描けたマンガなんて、出版社はいらない。
 まあ、そう言われて萎えちゃって・・・
 こんなことを何度繰り返しても、報われない、もう自分には才能がない・・・
 で、熱意も冷めて、就職でもするかって。

 今や就職はアマくないわ!
 
 だからテーマは必要なんです。
 自分に徹底したこだわりのテーマがあると、そのテーマを浮き彫りにする、あるいは的確に表現できるテクニックを自分で探すようになります。いうたら、船で太平洋を航海したいのか、インド洋に行きたいのか、希望岬をまわるのか、それともお隣の国の釜山へ行くのか、という、明確な目標があると予定が組めます。必要なものも定まります。それで、それにあった経験や技術をもった船員や船が決まる。そうなれば長い航海も楽しくなるし、くじけそうなことになっても、なんとか諦めずに進むことができます。そういうとき、プロの先輩航海士に相談すると、的確で実践的なアドバイスがもらえるわけです。

 私は、映像系の大学で映画ばっかり見て、作って、作家になるための訓練も勉強もしてません。文章を書く技法とか、法則とか、なんにも知りませんでした。しかし、大学で知り合った木原くんとともに、「なんで怖い現代怪談がないねん。ないんやったら、俺らで書いてみようか」で、「どうせなら、一冊に百の怪談、百物語はどうや」という、いわば明確なテーマだけがあった。それだけで認められて作家になったんです。
 でも映画で物語を構築するという訓練はしていて、落語をよく聞いていたので、それがおそらく役に立っていたんでしょうけど。

 だからさあ、難しいこと考えないで、楽しいことを探して、いろんなものに興味をもって、人を観察して、仲間を作って、夢を語り合う。それでいいんですよ。そしたら自ずと書きたいもの、テーマが見つかる。
 わあ楽しい、おもろい、という高揚感が出てきたら、それを原稿用紙にぶつけてみる。きっとそんな作品に、読者がついてくると思うんです。我が塾は、そのために作った。毎週の飲み会、映像制作、ネトラジ配信、落語を演じる、怪談会の開催、プロの人との交流、映画やテレビ番組制作、イベントのお手伝い、吉本の若手芸人との交流キャラクターグッズの作成、出版企画、講師の先生方やスタッフからいただく、ちょっとした文章やイラスト、マンガのお仕事・・・全部大事なものです。

 ここを、ことごとくスルーしちゃっている塾生は、やっぱり辞めて行くし、これらに関わっている塾生は、やっぱりテンションが高いし書き続けています。
 テンションの高い人の作品と、低い人の作品。どっちが読みたいですか?
 この業界の人たちって、みんなテンションが高いですよ、ホンマに。そこもいろいろ関わっているうちにわかってくる。
 とにかく、映像制作って、特にテンションもあがるし、そういうことが大事なんだと感じるんだよねー

 ところで、先日のブログにも書きました、山田誠二さんのショートホラー映画。
 今月の22日(火・祝日)の神戸での山田さんと私の怪談イベントで見ることができます。
 詳しくはこちら




中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 16:32|PermalinkComments(0)

2009年09月17日

塾生たちの短編映画上映会

 中山市朗です。

 塾生たちのブログを読んでおられる方々はお気づきでしょうが、何人かの塾生たちが自主的に映像制作をやっております。

 えっ、なんで作家やマンガ家養成塾で映像制作? と思われる方もおられるでしょう。物語を構築する、といういい訓練になるんです。

 世の中、話下手な人と、話の巧い人がいますよねぇ。
 どっちの人の話を聞きたいですか?
 そりゃあ、話の巧い人ですよねえ?
 では、物語の展開が巧くて、わかりやすくて面白い小説やマンガと、これ、何が言いたいの? と思うような自己中心的な小説やマンガと、どちらが読みたいですか?

 何度もこのブログで書きましたが、やっぱりプロの作家さんというのは、みなさん話が巧いわけです。おそらくそれは、言いたいことが明確で、その言いたいことをどう構築すれば聞き手が面白がって聞いてくれるのだろう、という論理的思考が働いているのでしょう。それが作品にも表れるわけですな。どうすれば読み手は面白がってくれるのだろう・・・
 いわばこれ、語り口の問題でもあります。

 映像制作は、この物語を論理的に進めるいい訓練なんです。それにみんなで協力しあって作るのが映像ですから、仲間としての意識も高まるし、小説やマンガがなかなか上がらない人も、1分や5分程度の映像なら、みんなのノリに乗って、ともかく完成作品というものが手元に残る。作家志望者として重要なことは、ともかく作品を作ることです。常に自分をそういう状態においておくと、脳がクリエイティブな思考になっていきます。家でゲームばっかりやっていると、ポンコツになります、ポンコツにね!

 で、なんで映像制作が語り口の勉強になるのかというと、映像はごまかしが効かないわけです。映像は理論で成り立っています。マンガと映画の論理的手法は、似ているんですけどね。
 それで、今回面白い試みをやってみました。

 作家で映画監督でもある山田誠二さんから、「僕の書いた1分映画用のホラーシナリオがあるよ。これ、それぞれ映画化してみたら?」という提案があったんです。
 つまり、同じシナリオを何人かの塾生が、それぞれの解釈で監督として撮ってみる。そして、その作品をみんなの前で上映してみようという試みです。塾生たちはのりました!

 昨日(15日)の作劇ゼミは、その上映会と相成ったわけです。
 もちろん山田さんもゲストとして、わざわざ京都からお越しです。

 同じシナリオを映像化した8人の監督の作品。
 しかも、そのシナリオは、プロの書いたもの。話の題材はみな同じ。それを各々がどう演出するか、語るか、の勝負となるわけです。
 映画は監督のもの、と言われますが、それを実感できます。
 そしてなんと、塾生作品の後は山田さんが同じシナリオで撮った映画も上映。つまり、プロはこう撮るよ、といういわば正解編です。
 こんなに明確に、演出、語り口について勉強できる場はありません!

 そして上映。
 見終わって山田監督の一言。
 「やっぱりと思っていたけど、みんな同じミスをやっちゃってるね」
 私も思った。

 女性が町を歩いているところからシナリオは始まりますが、みんな最初から女優さんが怖がっているんです。ええっ?

 これダメです。わかります?
 これも以前、このブログで書きましたが、恐怖というのは日常が崩れるから怖いんですよ。日常に怪異が忍び寄るから怖ろしいんですよ。
 みんな、これはホラーだ、ホラーだ、怖くしなきゃ、という意識がどこかにあるから、いきなり冒頭から恐怖モードで始まっちゃってるんですね。でも、まだ幽霊も出ていないのに怖がっている女性を見せられると、ストーカーに遭っているか、挙動不審者にしか思えません。これはまず、監督が観客の目を全然意識していないということです。
 で、女性が後ろから肩を叩かれる。振り向くと、誰もいない。というシーン。
 みんな肩を叩く手を堂々と出しちゃっている。確かに「肩を叩かれる」とシナリオにはありますが、これはシナリオを読み込む解釈力の問題となります。
 ポンと肩を叩かれたので振り返った、誰もいない。「あら、気のせいかしら」ですよね、普通。
 でもみんな手をしっかりと見せているから、確実に誰かいる、という演出になっちゃうわけです。すると、登場人物の心境と観客の心理がシンクロして、恐怖に誘うというシナリオの意図が、そこにいる、という描写をしちゃったから「志村、後ろ後ろ!」という演出になってしまって、登場人物と観客のシンクロが生じないわけです。あるいは意図が手の幽霊を見せる、という全然別のモノになってしまう。でもシナリオの進行上、それではその後が続かない。
 で、ポンと肩を叩かれてふと振り返る、の後のショットをどうするかです。
 振り返って首をひねって、またそのまま歩き出す、という演出をやっちゃった塾生がいたけど、そうじゃない。振り返る、ロングショット、誰もいない、とつなぐと、「今叩いたの誰よ」ということが映像で表現できる。そうなりゃ、「えっ、誰?」みたいなセリフもいらんわけです。
 で、これだけだったら勘違い、で終わっちゃう。また肩を叩かれます。えっ、と振り向くと、やっぱり誰もいない・・・この辺りからでしょう。ちょっと怖くなるのは。でも最初に言ったように、最初から女優さん怖がっているから、その怖くなる、という心理の変化が表現できない。本来ここは、誰もいないけど、女性は半信半疑になる。ここから視聴者も、恐怖モードに入っていく。主人公と視聴者の同化です。
 そして、もう一度肩を叩かれる。やっぱり・・いない! で、シナリオでは、ここで足元にまとわりつく幽霊、となるわけですが。

 全員がやっちゃったことが、

 女優さんが下を向く。
 足元に幽霊が。

 とショットをつないでしまったわけです。これ、女優さんが下を向く、という時点で「あっ、足元に幽霊おるな」と観客にバラしてしまう。そしたらやっぱり怖くない。

 いきなり足元にまとわりつく何か!
 はっ、と足元を見る女性!
 それは幽霊!

 とならなきゃ。

 山田誠二さんの作品は、桜の花から始まって、にこやかな女性が歩いている、から始まります。「そういう発想ないだろ?」と山田さん。このにこやかな女性が、だんだん恐怖に陥るからホラーなんですな。もちろん肩を叩く手は極力見せない。そして三度肩を叩かれるというシチュエーションも、塾生は一本の道での出来事、としているのを、桜が満開の公園、喫茶店のなか、神社、と場所が変わります。これが映画です。
 で、幽霊登場のシーンは、肩を叩かれる、振り返る、またいない、ホッとする
何かが足元に、足元を見る、幽霊! という流れ。
 このホッとする、というのが効くわけです。よく私言うでしょ。
 物語は緩急。緊張と緩和。
 ホッという緩和の直後、緊張を投げかけるから、緊張が効く。
 塾生作品は、みんな緊張、緊張、緊張・・・
 野球でも、直球を3つ続けたら、そら打たれまっせ。

 「これ、シナリオをどう読み込むか、の問題だよ。ト書きにこう書いてあるからそう撮った、じゃなくて、これは何を意味しているのか、を解釈しなきゃあ」とは山田さんの言葉。
 もうひとつ。あっ、山田さんはエンターテイナーだな、と思うのが出てくる女性がパンチラするんじゃないかと思うくらい、スカートが短い。
 「そりゃあ同じ幽霊が足元にまとわりつくんだったら、ミニスカートの女性の足にまとわりつかすのを客は見たいでしょう?」と、山田監督。
 こういう発想も観客を意識したもの。そうです。客は何を見たいか、です。
 塾生作品では、ミニを履いた女優さんは一人もいなかった。
 照れくさかった? でもそこを考えるのが商売になる作品を作る、プロのスタンス。サービス精神。キミらAV好きなくせに。

 これは専門学校時代の教え子の話。マンガ家デビューした女の子。
 編集に「もっとパンチラを描け!」と言われて、悩んでました。「だって、私の描きたいものは、そんなことじゃない」
 で、この子はマンガ家としての発注が二度と来なくなった。
 そりゃあそうです。読者はあんたの描きたいものなんて、どうでもいいわけですから。
 そういうことは売れっ子になってから言いなさい。

 さて・・・
 今、映画、映像作家の養成といえば、専門学校や映像系の大学ではCG制作に重きが置かれているようですし、学生も映画はいかに美しい画面を作るか、派手なアクションや特撮シーンを作るか、カッコいいキャラクターを作るか、みたいなことが映画だと思っています。違う! 違う! そんなことは小手先のこと。
 肝心なのは、物語の語り口。それはいいシナリオと、それを的確に読み取る演出家、監督の存在と、それを肉体で表現する役者の存在にかかります。もちろんそれを理解し、支えるスタッフも、それで感動が生まれる。人は、人の生き方や行動に共感し、感動するんです。
 美しい画面とか、派手なアクションとか、カッコよさ、は、表現の問題。映像としてはよくできても、けっして感動は生まれない。
 派手なCGアクションの連続だった『ICHI』と、CGはないけど勝新太郎が体を使った盲目の居合い斬りの名人と、平手造酒との友情の物語を人間ドラマとして見せた『座頭市物語』のまさに違いの要因ですよ! 
 だから映画監督、映像作家志望の若い人は、文学的要素を培うべきなんです。人間に興味をもたなきゃならないんです。これは私が言うんやない。スピルバーグが言っていた言葉です。

 これ、小説家志望、マンガ家志望の若者にもそのまま言えること。
 これも何度も言います。

 小説家になるには、文章力のスキルアップ。マンガ家になるには画力のスキルアップ。それを教えてくれとくる。確かにそれは重要。でももっと重要なのは、人に興味を持ち、おもしろいものを見つけ出し、それを面白く語る語り口なんです。それがあれば、小説やマンガの原作はおろか、シナリオやエッセイも書けるようになります。
 これが作劇塾のテーマ。 
 今回映画を撮った塾生たちは、そのことを実感したことと思います。
 
 それにしても、プロの人からシナリオを渡されて、それで映画を作って。上映して、サンプルも見せられて、ひとつひとつ批評してもらって、その後は朝まで創作談義。
 私、映像系の大学に4年間通っていて、いっぺんもそんなこと経験しなかった。
 いや、ほんま。


中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 21:33|PermalinkComments(0)

2009年09月16日

ライスカレーVSカレーライス

 中山市朗です。

 民主党・鳩山内閣のスタートです。
 でもあんまり政治に興味がありません。
 政治家同士のドロドロの権力争いには、別の意味で興味がありますが。
 民主党、自民党、どう違うのでしょうか?
 細かな政策の違いはありますし、それは言い方を変えているだけやがな、なんていうのもありましたが、ここが明確に違う! という国家戦略を提示した公約って、ありましたっけ?

 現代は、自民だから、民主だから、どうという時代ではなく、要は外交戦略。世界情勢を見極めつつも、日本の舵取りをしなきゃならない。日本一国だけでは経済も、平和も、エコ、エネルギーも食料も、どうにもなりませんからな。
 総理大臣は表の顔。何事も側近ですよ。
 東郷平八郎に名参謀・秋山真之がいたように! 吉田茂内閣に、側近十三人がいたように! 山本五十六には名参謀・黒島亀人がいたように?
 さあ、日本の国家戦略の設計図は誰が書き、誰が折衝し、決断をくだすのか!

 ちょっと楽しみなのは、消費者行政、少子化対策、男女共同参画、食品安全担当相の任に就く、社民党の福島瑞穂代表の手腕。わけわからんこと、するんやないやろうね。
 彼女の言うてることはいつもわからんのですが、以前自らのブログで自民党と民主党はカレーライス、ライスカレーの違いでしかない、と言うてました。今はどう思うてるんでしょうね。

 ちなみに、カレーライスとライスカレー、どう違うかわかりますか?
 「ライスが多けりゃライスカレー。カレーが多けりゃカレーライス」なんて昔のククレカレーのCMのコピーにありましたし、ご飯にカレーがかけられているとライスカレー、別々に出されるレストラン方式がカレーライス、と誰かに教えてもらった記憶があります。
 実は日本海軍が模範とした英国海軍のカレーを取り入れて、英国人はパンをつけて食べてたのを、とろみをつけて米飯にかけてみた。これイケるやん、ということでカレーライスと名づけたわけですな。カレーライスの発案者は、なんと日本海軍やったんですわ。で、陸軍がこれを取り入れてライスカレーと言った。
 つまり同じものに、仲の悪い海軍・陸軍が微妙に違う名前をつけた・・・。あっ、そう考えたら福島代表は、自民、民主の違いの説明に、的を当てたこと言うてるんかな?
 で、自らの社民党は、オムライスやて。
 やっぱりわからん。

 ちなみに東郷平八郎が、留学先で食べたビーフシチューのイメージを料理長に説明したら、ワインもデミグラスソースもないので、カレーの素材を醤油と砂糖で調理したら、肉じゃがになったそうです。
 バルチック艦隊を打ち破った名将は、肉じゃがの発案者でもあったわけですな。
 偉い人はなんでもしはる。

 あれ?
 政治の話をするつもりが、なんでこんな話に・・・
 あっ、どっかからカレーの匂いしてきてんのや!



中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 16:46|PermalinkComments(4)

2009年09月14日

中山市朗の居合い抜きで『ICHI』を斬る

 中山市朗です。

 久しぶりに映画レビューです。

 WOWOWで、三人の座頭市という粋な企画をやっておりました。
 
 勝新太郎の座頭市『座頭市物語』
 ルドガー・ハウアーで『ブラインド・フューリー』
 綾瀬はるかの女座頭市『ICHI』

 ネタバレします。未見で、これから見ようとする人は、あしからず。

 『ICHI』は初見。これがねぇ・・・

 あの、チャンバラ映画をこよなく愛する者としての意見です。これ。

 時代劇、というよりはチャンバラ映画の魅力は、出演者の剣のさばき、殺陣、そして痛快さ、だと思うわけです。『ICHI』は、全部はずした・・・。
 綾瀬はるかで座頭市を撮ろうというところから、剣さばきと殺陣については期待していなかったんだけど、これはマズい! マズすぎる!
 脚本の時点では、女座頭市の逆手斬りか、剣は抜けない一見ヘタレ侍だが、木刀での勝負では女座頭市以上の腕をもつ浪人、藤平十馬(大沢たかお)か、女座頭市を軽く蹴散らす凄腕の元幕府の指南役、今では盗賊の親分・万鬼(中村獅堂)の、さて誰が本当の凄腕で、誰がどう勝つのか、と思わせるアイデアは面白いんです。主人公が勝つのはわかっているのですが、どう勝負をつけるのか、敵はどんなに強いのかが、チャンバラの醍醐味。それに、綾瀬の市は盲目、十馬は刀を抜けないコンプレックス、万鬼は顔半分がやけただれて、という三人とも健常者ではない。というところもミソといえば、まあ・・・
 ホントはメクラの座頭市が、健常者に挑むから痛快なんですけど。
 そういえば、これも時代かな。メクラとか、カタワといった言葉が出てこない。北野武版ではありましたけどねぇ。とすれば、盲目を主人公にする意味があるのか?

 で、ですよ。殺陣のシーンとなると、必ずスローモーションと、肝心なときにカット割りで処理されるものだから、三人が三人とも、どう強いのかが、さっぱり描写できていないんですな。勝新太郎の座頭市は、何がスゴイって、ロングで撮っていて、勝が仕込み杖に手をかけて、相手がサッと斬りかかるとそのままカット割りもなく、目にも留まらぬ一挙動で見せるんです。パッと鞘が収まったときには、相手は全員倒れている。というのが見所やったんです。それがまたすごみがありながら、美しくもあった。
 もちろん綾瀬にそれを期待すべきではないだろうが、こうもスローモーションばかり見せられると、なんのために綾瀬で、座頭市を撮ろうとしたのかの意図が分かりませんわ。もっとも監督は、あくまでスタントを使わず、綾瀬で撮るというスタンスだったというのはわからんでもないし、盲目の(といっても、勝新とは違い彼女は目を開けている)設定でのアクションは、相当難しいものがあるのは承知です。
 でもその上で、もう少しあの殺陣、なんとかならんかったのか。というのは、ソコがミソであることを承知での映画化のはずだから。見せ所は、ソコでしょうが!

 勝新太郎は、あの座頭市剣法は「オレが苦心の末あみだした」と言い、毎回趣向を凝らしていた。それと勝負しなきゃならないのは、観客がそこをお手並み拝見とすることはわかりきったことじゃないか! またそんな売り方だったし。

「いや、あれは座頭市とは違うものとして見るべきだ」なんて意見も聞こえてきそうですけど、タイトルにちゃんと原作・子母沢寛「座頭市物語」となっていましたよ。でも、本当に座頭市を作ったのは、勝新太郎と監督の三隅研二で、子母沢は・・・まあ、長くなるからやめとこ。

 大沢たかおの十馬とかいう浪人も、トラウマで真剣が抜けない剣豪という役柄なんですけど、綾瀬との木刀の勝負がサマになっていないから、どれほどの剣豪なのかわからん。おまけにイザというときに刀が抜けないという、あの演技は、てっきり刀が錆びついていて抜けないのかと思っていた。だったら、死体の刀を手にして戦え、と思っていたら、万鬼との対決で刀を抜きやがった。きれいに磨き上げられとるがな! ということは、ちゃんと毎日刀を抜いて手入れはしとったってこと?
 で、十馬対万鬼の対決も、全然サマになっとらんから、なんやねんこれ、と。
 お互いの太刀筋がわからないんです。

 『座頭市物語』の座頭市対平手造酒の太刀筋の動きを見よ!
 『十兵衛暗殺剣』の近衛十四郎の十兵衛と、大友柳太朗の幕屋大休の対決を見よ!
 『用心棒』『椿三十郎』の殺陣がなぜすごかったのかを見よ!
 黒木和雄も『浪人街』では、そこをちゃんとやっていた。石橋蓮司の居合い、カッコ良かった!

 中村獅堂の万鬼も、元幕府の指南役だったというのなら、もうちょっとキャラクターとして、侍の影というか、毅然としたところがあってもええと思いますが、あれじゃあ、うすっぺらのマンガのキャラクター。竹内力も、あんなカオルちゃんみたいな役ばっかりじゃ、ちょっとねえ。

 で、最後は屍累々となるほどのバイオレンスシーンがあるわけですが、見終わったらまったく痛快感がないんですな。これはこの映画そのものが勧善懲悪ものではない、という監督なり製作者の狙いだったのだろうけども、あれだけ人を殺しておいて、愛の確信だの、物事の境目がどうの・・・その演出も、なんか思わせぶりで、正直切れ味がない。そこがあえてねらい目だった? そんなこと言うてるから、興行成績ふるわなかったんと違う?(北野武版『座頭市』は、28億の興行収入。綾瀬版は3億いかず)

 結局、日本海軍の潜水艦に女の子を乗せちゃった『ローレライ』で、戦争映画マニアにそっぽ向かれたのと同じで、女の子で座頭市を撮るという変化球勝負は、結局チャンバラ映画のマニアと、座頭市ファンにそっぽを向かれたところに敗因アリと思うのですが?
 普通のチャバラ映画を撮ったところで、客はこない。だったら女の子の剣士で、ということなんでしょうけども。でもそれ、本当なんでしょうか?
 『七人の侍』を『サムライセブン』という妙なSFアニメにしたり、ゲームにして、やっぱりホントの黒澤ファンにそっぽを向かれ、黒澤ファン以外には話題にもならなかったという事態なども。日本のプロデューサーの感覚は、なんかおかしいぞ、と思うわけです。

 綾瀬はるかが美しい、という批評もあるようですけど、女優が美しい映画なんて腐るほどありますから。これで彼女が美しくなかったら、映画としての意味もない。
 ちょっと辛辣すぎたかな?
 綾瀬はるか、23歳・・・やっぱり若すぎたんでしょうね。

 その点、勝新太郎。当時32歳の、座頭市の第一作『座頭市物語』。
 これは一作目からして座頭市のすごみがあって、メクラでヤクザで生きる人物設定が際立っていて、しかも愛だの友情だの生きるとは、なんて高らかに言わなくても、天地茂扮する平手造酒との友情は、宿命的な対決のあとの、座頭市の沈黙からちゃんとそれは伝わってくる。しかも、勧善懲悪の価値観をふっ飛ばしながら、その痛快感は余韻として残す、ということもちゃんとやっています。座頭市はちなみに、この映画では三人しか斬っていません。それでもすさまじいアクションの印象があるのは、構成が見事、勝新の存在感がすごいんでしょうな。殺しゃいいってもんじゃない、というお手本。

 『ブラインド・フューリー』(89)は勝プロから正式に許諾を得て製作されたアメリカ製座頭市。
 ベトナム戦争で失明した主人公が、なぜか命を救われたベトナム人に居合い抜きの手ほどきを受け、その数年後『ランボー』みたいに戦友を訪ねてみると・・・。
 なんで主人公が居合い抜きをやらにゃあかんのか、そのへんがわけわからぬまま、ストーリーが進むわけですが、これ『座頭市血煙街道』のリメイクなのだそうな。
 えええっ! ですわ。

 居合い抜きは相手も刀でくるから映えるわけで、相手銃でっせ。マシンガンでっせ。ちょっと設定に無理が。で、実際、アクションがどうも好都合に進みます。まあ最後に真剣を持った日本人の殺し屋、ショー・コスギとの対決がありますが、まあご愛嬌。まあアメリカのアクション作品としては楽しめますけどね。でも『血煙街道』と比べたら・・・

 『座頭市血煙街道』(67)を見なはれ!
 これは勝新太郎が剣豪スターNO.1近衛十四郎を迎えてのラストの対決は壮絶! 近衛十四郎は、ほんまに居合いの抜き打ちスピードは一頭地を抜く早業。しかも逆手斬りを最初に考案したのは松竹映画『竜虎活殺剣』で柳生十兵衛に扮した近衛だったのですよ!
 で、『血煙街道』では二人が、立ち回りの手順を決めずに真剣勝負!
 ものスゲエ迫力、緊迫感、迫真、互いの太刀筋と太刀筋とが激突する。
 しかも雪がひらひらと降っているんです。二人の対決時に。

 やっぱり役者ですな。時代劇は。
 そして時代劇のスピリットを引き継ぐ監督やスタッフがきっちり支える。
 これは考えたら伝統芸なんでしょうか。
 黒澤明は、この伝統芸を『用心棒』『椿三十郎』でブッタ斬ってしまうわけですが、それも三船敏郎という、また型破りな役者がいたからこそ現実となったわけです。で、『座頭市物語』はまさに『椿三十郎』が、この年のお正月映画として公開された年。
 時代劇のなかに常識としてあった殺陣が、バシュ! という擬音と、目にも留まらぬ三船の居合い、そして血がドバッ! あっ、刀で人が死ぬんや、と観客も映画関係者も、発見した年。それが1962年。
 だから『座頭市』という、これもまた型破りなヒーローが出た。
 型破りではありながら、近衛十四郎という戦前派の剣豪スターを迎え入れ、『血煙街道』で真剣にチャンバラ映画の面白さに、次なる可能性に挑戦した!

 それが座頭市! それが勝新太郎! 
 それが・・・ねえ・・・

 私思うに、こういう日本のチャンバラや日本映画独特のアクションのスピリッツをホントに継承している監督は、実はタランティーノじゃないかと思うんです。『キル・ビル』を見たとき、そう確信したんです。正直それまでタランティーノは評価してなかったんですが、あれで私はビックリしました。
 日本のチャンバラ映画がなぜかロックや洋楽を流しているこの頃に反して、梶芽衣子の「恨み節」と「修羅の花」でっせ。そんなん、今の日本の監督はやらない。
 
 そういえば、黒澤明のスピリッツも日本の監督は引き継がずに、ジョージ・ルーカス、スピルバーグ、コッポラがついでいますしね・・・。
  
  


中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 20:06|PermalinkComments(5)

2009年09月10日

小説技法についての講義

 中山市朗です。

 9日は小説技法の講座でした。いつもの合評です。
 最近このブログを読み始めた、という人のためにもこの講座の説明を。

 小説家になりたい、という人のための講座です。
 
 小説家になりたい、というのならば書くより他に方法はありません。
 そして特に初心者の人は、ともかく文庫本1冊くらいの量は書いてもらいたい、と思うわけです。
 新人賞などでは400字詰め原稿用紙30枚、50枚、100枚という規定のものもありますが、ともかく作家になるには1冊の自分の著作物を出すこと。
 それにはだいたい300〜400枚くらいの量を書く必要があります。
 300枚で文庫本1冊分です。

 しかし、初心者でいきなり300枚と言われても、なかなか書けないでしょう。ですが、なんとか300枚という量をこなして、その感覚とともかく書いたという自信をもってほしいわけです。
 小説技法では、その書く、という作業は家でやってもらいます。4枚や10枚の短編小説の課題を出して、それを教室で書いても意味がないと私は思います。やっぱり長編に挑むには構成力や持続力、継続力が求められます。そこを鍛えねばプロにはなれない。
 それに創作活動には調べ物も必要です。辞書や参考資料との格闘は、自宅の書斎か図書館で行なうぺきでしょう。教室で書けと言われても、私は書けませんから。

 で、家で書いたものを毎月2回持ち寄って合評する。と言う形が今のところ理想かな、と思っています。
 初心者にはあるテーマを与えます。そのテーマをもとに小説にしてもらいます。
 テーマはどう解釈しようが自由。塾生たちもそのテーマでSFを書くもの、ファンタジーを書くもの、青春モノを書くもの、ホラーを書くもの、コメディを書くもの、女の恐ろしい怨念を書くもの・・・いろいろです。
 しかし、いきなり300枚というのは書けないでしょうし、読むほうもしんどい。最低でも10枚。だいたい20〜40枚くらいのものを書いてもらって、合評でオーケーが出ると次に進む。これが今の形態です。まあ、連載形式でじょじょに300、400枚にしていこうというものです。
 
 合評とは、アカ入れ作業です。
 同人誌と違うところがここ。
 プロの場合は、どんな大物作家でも、編集さんからアカが入れられて返却されます。これは編集という客観的な立場(読者に近い目線)からみて、もっとわかりやすい表現はないか、首尾一貫した文体であるか、ここは文体が乱れている、これを書くのだったらもっと別の方法はないか、構成に難アリ、みたいな指摘が入るわけです。出版社によっては漢字表記の問題や、自主規制の言葉などの指摘もあります。
 納得するアカもあるし、「おいおい」とムッとするアカもある。なかには原稿が真っ赤っか、勝手に編集さんに変えられて、それが賞をとっちゃった、という例もあるようです。
 このようにプロには作家と編集との攻防が必ずあるわけです。こういう作業にも、プロになるなら慣れておく必要があります。
 
 合評は参加者全員で、出された原稿についての感想や批評を、ひとつひとつ、していく作業です。原稿は合評日の1週間前に提出することにしていますので、参加者はその間に原稿を読んでおくわけです。だいたいみんな、30枚から多い人は50枚ほど書いてくる人もいるので、10人の提出者がいるとだいたい1冊の小説を読むくらいの量になります。これを毎回読んで、批評(批判じゃないよ!)する目を養うのも作家になるための訓練です。
 表現力、構成力、文体、設定や世界観の構築、セリフの回し方、キャラクターの造詣、その動き、心理の描写・・・細かくなれば、漢字の使い方、句読点の使い方、段落のつけ方まで、いろいろ注意をしながら、要はひっかかることなく読めて、かつ次を読みたいか、というところを重視した合評になるように、みんな努めています。
 また偏った批評にならないよう、なるべくみんなが意見を言う場にしたいと思っていますが、相変わらず合評で一言も言葉を発しない塾生もいます。まあ、そのうち慣れるでしょう。しかし、なかには非常に批評能力の優れた人、もう編集さんとやりとりをしている人などもいますので、なかなか高い次元での批評会になっていると自負しております。
 みんなの意見が飛び交ったところで、私が最終的に、じゃあどこをどう修正するか、書き直すか、の具体例を指示します。あるいは、次へ進むように要請します。

 こうやって、書いて書いて、いつの間にやら合評での辛辣かつ愛情あふれた意見をかいくぐっての文庫本1冊分の原稿が手元にある。これが合評の最終地点。あとは全体的な修正をして、新人賞に送るのもよし、編集部に持ち込むもよし。ここでやっと、小説家への本当の第一歩となるわけです。

 言っておきますが、うちは新人賞の獲り方という狭い視点の講座ではありません。
 新人賞を獲っても、それっきり、という人も多いようですし、新人賞で食っていけるわけでもありません。
 作家として、いかに生きていくか、ということを塾では主眼においています。
 だからテクニックというよりは、面白いものを捜す能力、ものの見方、エピソードを作る、というところが必要かなと。
 映画を撮ったり、落語をやってみたり、ネトラジの収録、テレビの収録や映画撮影現場でのお手伝い、スタッフとしての参加、イラスト(これはマンガコースか)やライターとしての仕事の依頼などが発生するのも、うちの塾の特色です。出版社とも提携していますので、塾生主導で出版物の刊行の企画なども可能です。
 もちろん強制ではありませんので、これらを大いに取り込んでいる人と、全然活用していない人とに分かれます。
 しかしこれらは、モノの見方を変えてみる、人とは違う体験をしてみる、プロの人と交流したり、プロの現場のレベルや緊張感を知る、人脈の大切さを知る、作品をお金に変える喜び、それらを実績として積み重ねるといった意味になります。おそらく、書くということは1人でできても、そういう業界のありかたや、プロの人たちと交流したり、創作仲間と共同して何かを仕掛ける、ということは1人ではできないことです。

 とはいえ、書いていないことにはそういう活動も意味のないものになってしまいます。
 まあ経験としては、面白いものが残るので、これは他の仕事をする場合でも大いに活かせるとは思いますけど。
 
 書くには強制力も必要です。
 締め切りがないと、いかにプロ作家でもそれはなかなか上がらない。
 ということでも、合評1週間前の原稿提出は、最優先事項としてもらいたいものです。
 守るべき締切日です。これがあるだけでもありがたい。
 
 さて、合評で難しいのは、辛辣な意見をちゃんと言い、聞けるのかということ。
 あんまり辛辣なことを言うと、傷つくんじゃないだろうか、自分も厳しいことを言われるとどうしよう・・・みたいな感情が入ってくると、これは真の合評としての機能が低下しちゃいます。甘い批評のなかで書き上げた300枚の原稿。これを出版社にもっていったらコテンパンにされた、ではそれまで積み重ねた合評の意味がありません。プロはほんまに厳しいですから。
 
 そこで合評が終わると、必ず私の書斎で朝までの飲み会をやっています。
 翌日、お仕事のある人もいますので、もちろん自主参加です。
 やっぱり互いに膝を突き合わせて語る、これが信頼関係を構築します。また、その人の創作意欲やスタンス、隠れたエピソードなども飛び出ます。もちろん他愛のないエロ話になったり、グチッぽくなる日もありますが、それらも含めて本音で語り合える仲間を作ることが精神的な支えにもなりますし、辛辣な意見を言われても、なるほどとその意図が汲めるようになるわけです。
 互いに創作する関係、ライバルなんか蹴落とせ、なにアマイことを言うとるんじゃ、というスタンスの人もいるでしょうが、そういう人は1人でおやりになればいい。
 世の中に出る方法は2つ。

 1つ、自分の努力と才能のみで世に出る。
 2つ、世に出た人間に引っ張り上げてもらう。

 塾の中からそういう人が出れば、それはチャンスというものです。
 だから互いにスクラムを組んで、刺激しあいながら創作活動を楽しむ。

 楽しんでいる塾生を見るのが、また私の楽しみでもありますしね。
  

中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 21:03|PermalinkComments(2)

2009年09月04日

9/2の作劇ゼミ Part.2

 中山市朗です。

 2日の作劇ゼミで「妖怪について」の講義を急遽行ないました。
 その報告です。

 妖怪。
 いろいろなアプローチがありますな。民俗学、都市伝説、図像学、芸能、事象・・・

 私が怪異蒐集をしだした頃、こんなことがありました。
 いろいろ怪異体験をした人たちに取材していると、どうもそれは「妖怪」じゃないかと思われる事象にあたったものです。体験者自身は決してそれを「妖怪」だと認識しているわけではありません。ただ、どうも聞いていて、あるいは帰って資料を紐解いてみたりすると、それは「河童」じゃん。「大入道」やないか。「天狗」と違う? 「座敷わらし」そのものやんって。キツネやタヌキに化かされたなんていう話も、私の幼少の頃、よく祖父や父から聞きましたね、リアルな体験談として。
 だから『新耳袋』には、必ずそういう現代の妖怪たちのための章を設けたのです。そして、そんな話が蒐集できると、まだ妖怪たちはひっそりとこの世知辛い日本にひそんでいる・・・と、ちょっと嬉しくなったものです。

 ところが、ある有名な妖怪研究家の方と会って、お話をしたときのことです。
 その方は、特に河童の研究で有名な方で、河童の歴史にお詳しく、どこそこの文献にそういう記述がある。それは実はこういうことが由来している・・・。わあ、すごいと。
 で、私は取材で得た色々な河童の体験談をその先生に話した。
 すると「へーえ、そういうことがあるんですか・・・」と目つきが変わった。
 あんた、そんなこと信じてるの、みたいな。
 あれれれ、と思った。
 で、何度かそんなことが繰り返されました。

 阿部正路という妖怪にもお詳しい文学博士が『日本の妖怪たち』という本を著述されているのですが、巻末に「妖怪出現略年表」が掲載されているのですが、これが慶応三年、8月26日、明治天皇は讃岐の白峯山中の大王を鎮めた、で妖怪出現の歴史は終わっているんです。つまり明治という近代国家になったとたん、妖怪は絶滅したと!

 んなバカな−
 ですわな。

 もっとも阿部先生は、日本の文化を形成した妖怪たちの諸相、ということで、私とは全然違うスタンスで妖怪を調べていらっしゃるので、私のやっている実話怪談のなかの妖怪とはまた違って当たり前なんですけどもね。
 また、学術研究としての妖怪学のなかに、私のやっている怪談をもちこんでしまうと、これも問題が起こるかもしれない。

 何年か前、京都の某大学で「妖怪サミット」みたいなことが行なわれ、妖怪研究をされている何人かの大学教授とお話をさせていただいたのですが、やっぱり「怪談」にはあまり興味をおもちでないんですな。やっぱり「へー」なんて顔される。で、これでもか、と楽屋で「妖怪怪談」をまくしたてると、それでも何人かの先生方が興味をもたれて「『新耳袋』ですか? 読んでみます」と、おっしゃられた。ちょっとホッとした。

 で、作劇ゼミですわ。
 私の妖怪についての講義は、あくまで怪談蒐集家からのアプローチだよ、ということを断って・・・怒涛の妖怪体験談を!
 要するに、妖怪は深いんですな。で、結論は出ない。
 だから妖怪、なわけでして。

 私が思うに、妖怪の最初は、動物がモノを言った、ということかも知れないと。
 阿部正路氏の「妖怪出現略年表」にも、最初の事例が神代の時代、草木がものを言った、から始まっていますしね。
 私の妖怪談義の発端は、根岸鎮衛の『耳袋』の「猫、物を言うこと」のエピソードから、あるいは主婦の飼い猫がしゃべったという話、さらに作家の高橋克彦さんから聞いた「近所の猫が“あいさつをする”」という話などから、キツネ、タヌキに化かされたという話へ。

 中村希明という医学博士は、その著書『怪談の科学』では、霊や妖怪はすべて精神医学的に説明できるとして、典型的な化かされ話を例にとって、これは酩酊や闇夜の感覚遮断できれいに説明できる、とその精神や脳のメカニズムを解かれるわけですが、しかし、こういった化かされる話が、どうして都会の道路や町で報告されず、もっぱら山の中か田舎の田んぼ道で起こるのか、が説明されないわけです。酩酊状態にある人は都会のほうに圧倒的に多いし、同じような町並みをした薄暗〜い場所って、ぎょうさんおまっせ・・・

 まあ、このあたりの私の考えなりを提示しながら、怪談としての妖怪を話していきました。

 で、妖怪についての私のひとつのテーマは「件(くだん)」について、です。
 顔が牛、身体が赤い着物を着た少女の姿・・・またの名を牛女。
 『新耳袋』をご愛読の皆々様は、ああ、あれ! と思われる一連の実話としての「件」は、なぜか兵庫県西宮市のみに伝わる怪談なのです。現に、今回も塾生のなかに1人、西宮在住の女の子が「その話、今も地元の怪談として伝わっています」と言う。
 小松左京さんの奇妙な小説「件の母」も、西宮、芦屋の周辺の話でしたし。

 件は、どうも六甲山のふもとにあるJ寺、K寺という2つのお寺に関連してくるんですな。
 で、このお寺は、ある女性にかかわってくる。その女性の名は真名井御前。このお方はなんと元伊勢・篭神社の祝部の血を引く巫女やったんですな。平安初期の頃のことです。
 篭神社は、私が思うところの聖徳太子の母方の血脈の出たところです。祖母の小姉君がどうやら篭神社の斎姫。聖徳太子の建てた四天王寺は、牛王尊が主要神として祭られ(仏教ではない?)、聖徳太子の頃、日本国最初の牛市が開かれていた場所でもあるのです。その側近、秦氏は京都太秦に本拠地があり、その地に長く伝わっている奇祭・牛祭り。そして真名井御前のお寺周辺につたわる牛女の怪談。
 海部神道は、どうも古来は牛をトーテムとした祭祀であったらしい。

 まあ詳しく書くスペースはありません。
 興味のある方は『捜聖記』、これは聖徳太子と牛を犠牲とするミトラ神との関連。興味のある方は『捜聖記』、これは聖徳太子と牛を犠牲とするミトラ神との関連。
 その上で『幻想文学56』、『怪4号』にある私の考察を読んでいただければ・・・

 と、まあ「件」という一見他愛もない実話怪談の考察が、古代史や古神道の謎、家畜の日本史などに行ってしまう。

 やっぱり妖怪は、深い、深い、深〜い!

 ということで、妖怪についての講義を2時間。
 無事終了しました。 

 きょとんとしている塾生もいたけど、ついてきてくれたかな〜? 



中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 16:30|PermalinkComments(0)

2009年09月03日

9/2の作劇ゼミ Part.1

 中山市朗です。

 9月2日の作劇ゼミの報告です。
 以前から思っていたことですが、マンガ家でも小説家でも放送作家、脚本家、劇作家・・・いわゆる作家という看板をあげて現役で突っ走っている人たちって、なかにはあまり人との関わりはもちたくない、という人も含めてお話がうまい! そのお話のうまさというのは、膨大な知識の裏づけ、という要因はあるし、聞いている人を楽しませてやろう、というサービス精神もあるだろうし、論理的思考からなるお話の構成力にもあるような気がします。
 お話の構築のしかたが、とにかくお上手なわけで。
 これは作家だからお話がうまいのか、お話がうまいから作家になれたのか・・・

 以前、中島らもさんとお話をさせていただいたとき、彼はほとんどしゃべらないのに、一言しゃべっただけで全部もっていかれる・・・。
 天然なのか、計算なのか・・・。
 
 さて、今回はストーリーの構築というのを考えてみよう、というものです。
 先々月ですか。塾生たちと怪談会をやったとき、やっぱり怪談として成り立っていたのは、ライターとして活躍しているスガノくんぐらいだったし、マンガにしても絵は描けるんだけどもお話が面白くない、小説も文体、文法よりもストーリーからグイグイと引っ張っていくものがない・・・。
 どうもそう思うんです。

 で、今回はある映画のダイジェストをもってきました。
 私がひとりで編集した力作です。
 この映画、非常にストーリーの語りが巧妙で、理路整然とした構築がなされているんです。またその一つ一つの要素を見せるための映像的演出!
 あまり話題になりませんでしたが、傑作です! 
 DVDに焼いてきたので、上映します・・・
 あれれ、読み取ってくれないぞ。
 スタッフのスガノくんが飛んできてくれて「こういうときには、裏技があるんです。まかせてください」と自信満々で裏技を披露!
 ・・・で、読み取れない。
 私の部屋のブルーレイ対応(自慢!)のデッキで焼いて、ちゃんと再生したのになあ。
 デジタルって、いいのか悪いのか?

 しかし視聴不能となれば、授業内容変更しかない。
 いろいろ付随する資料とか持ってきたのになあ。

 ということで、今回やる予定だった内容は、今月の第五週目になります30日に開講します。第五週、忘れないでね。

 で、変更して急遽なったのが「妖怪について」
 塾生たちに「じゃあ、何について講義してほしい?」と聞いたら、「妖怪!」と。
 
 ということで、妖怪についての2時間の講義と相成りました。
 どんなことを話したのかって?

 それは次回。


中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。


kaidanyawa at 22:17|PermalinkComments(4)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


Archives
ギャラリー
  • 東京で千日前怪談の詳細を語る!パート2
  • 東京で千日前怪談の詳細を語る!パート2
  • 東京で千日前怪談の詳細を語る!パート2
  • 東京で千日前怪談の詳細を語る!パート2
  • 東京で千日前怪談の詳細を語る!パート2
  • 東京で千日前怪談の詳細を語る!