2010年01月

2010年01月28日

1/27の小説技法

 中山市朗です。

 27日(水)の小説技法、合評の報告とまいりましょう。
 
 この授業は、3年ほど前までは5、6人しかいなかったのに、今日数えてみたら見学者2名を含めて17人。欠席が2人。
 そろそろみんなの原稿を読むのが大変になってきました。
 枚数制限を課してはいるんですけど。
 合わせると文庫本一冊は超えている量になるのでは?
 しかし、いい兆候です。

 以前は小説家になりたい、といいながら書かない、あるいは書けない、という学生(専門学校)や塾生(塾創設当時)があまりに多かったものですから。
 あの人たちは、小説家になりたい、という憧れを持っていたけど、書きたいものや、よっしゃあやるでぇ! というパッションがなかった。
 これはもう、どうしようもありません。
 この世界は書かないことには、どうもなりませんから。

 しかし今は違います。
 みんな書いていきます。そして合評での厳しく愛情(?)ある突っ込みや疑問、そして赤入れに毎回耐え抜いて、グングン腕を上げています。おそらく本人たちがそれを実感していると思います。中には若干名、やっぱり書いてこないのや、あまりに遅筆なのもいますけど。

 O田くんの『窓際のトトちゃん』。落語作家らしいギャグ小説です。ていうか「ストーリーがないやん」という声があがりました。「小説としてはどうかな?」とか。でも彼の目指すものは、読者をどう笑わせるか。そこに特化すればいいと私は思います。私は笑えました。彼は不思議なセンスをもっています。中島らもさんを読みましょう。
 S山くんの奇譚小説。塾生のひとりからは「ティム・バートンの世界みたい。メルヘンチックで狂ってる」という表現がピッタリです。妙な世界と現実の世界が交差する内容で、わかりやすい文章。ただセリフと地の文のバランスが悪い。けど本人もそれには気がついているようなので心配はない。ただ遅筆なのが心配。
 K島くんの活動写真をテーマにした小説。ずいぶん遠回りしてやっと固まってきた。映画を描写する文書能力はうまい。というか、もう乗っている感じ。ただ主人公をはじめとした登場人物たちの動機やキャラクター説明が不足しています。もう少し、男と女、というものを観察してみましょう。
 M下さん。『俺が彼女になった理由』。小説として読ませる力はあります。テンポもいい。ただ題材を活かしきっていない。「それ、見つかるで!」「そこ、アブない!」というハラハラするシーンが作れるのに、スルーしてしまっています。この手の小説は、主人公をどこまで追い詰めるか、それをどう乗り切るか、という展開の妙が読ませどころのはず。
 T野くん、SFホラー。最近ではSFのT野と呼ばれています。最初の頃はずいぶん無機質な作風(それも味でしたけど)だったのが、人間を動かせるようになった。SFは苦手という塾生も「これなら読める」との評判です。私は早くホラーとなるシーンを読みたい!
 Kレンジャー・・・じゃない、ペンネームは本名K田くん。前回テーマは一体なに? と指摘され「今回はサスペンスです」とキッパリ。しかし3行のあいだに矛盾点が2、3。これは推敲していないのバレバレ。書いた原稿は自分でちゃんと読み直すこと。それに指摘されたところを修正しないと成長しない。出すたびに違うもの読ませられても・・・
 T下さん。最近数年ぶりに塾復帰。料理人のマコトじいさんというキャラが出てきますが、この人は実はベトナム戦争の体験者であるらしい。今回提出分はまだそのファーストシーンなので、そこまでは描写されていません。しかし、小説の題名がそれではまずい。そして、どんな戦争体験が展開されるのか・・・読んでみないとわかりません。もっと枚数を書いてみよう。
 N子さんのホラー小説。だいぶよくなってきたけど、怖さに決定的な何かが不足しています。池の中に沈んだ友人、疑惑、狂った友人の母、池でめぐり合ったバケモノ・・・池です。池が私を呼ぶ、という闇の構造がもうひとつ欠けています。ここでちゃんと描写できたら、恐怖度はもうワンランク上がるはずです。
 Hさんの不倫小説。最終章です。完成度は高い。高いだけに終わらせ方が難しい。愛の不毛のために犠牲になったと思い込んでいる娘が語って、その不毛な愛を見つめなおす・・・一人称という表現の限界のあるなかで、どれだけ娘のねじれた心のうちが描写できるのか・・・
 Yくんのヒーローもの、やっとヒーローの正体が出てくる場面となりました。難しいのは超感覚、というものをどう説明するのか、どう設定するのかで本人は悩んでいます。SFだったらそれは必要かもしれないけど、ヒーローものだし・・・
 しかしそこであえて新しいことに挑戦するのもアリです。私はとにかく、このノリで最後まで書いて、そこから修正するのがいいと思うんですけど。
 T田くんの『クリエイターズファイト』も最終章。因縁の深い悪キャラと主人公の死が描写されます。しかし、悪キャラの心情のうちが見えない。主人公の死の場面もやや不燃焼気味。大作を読み終えた感がありません。塾生からは「目」の表現を書いてほしい、という指摘が。確かに目は、その心を映し出します。
 Aさんの日本神話を題材にした恋愛ファンタジー。ドラマの展開やセリフのやりとりは自然に行なっているのですが、 やっぱり神様たちの稚拙なキャラクター造詣がここにきて、障害をもたらせています。少女用の小説で、なるべく神様たちを馴染んでもらえるように、という意図はわからないでもないが、やっぱり彼らは神様。日本の国を生んだ神様なので・・・

 さて、授業が終わってもみんな帰りません。
 これがいつもなんです。
 なにか教室にオモロいmのでもあるのでしょうか?
 どうやらみんな、テンションが上がって抑えられないようです。

 ということで、今回も朝まで飲むのでした。
 みんなが帰ったのは、朝10時。
 あー、しんど。

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2010年01月23日

ワッハ上方は燃えているか

 中山市朗です。

 上方演芸資料館『ワッハ上方』の現地存続が、とりあえずは決まったようです。
 しかし平成23、24年度の年間入館数が40万人に達しないと、有無もなく廃館だそうです。今の約8倍だとか?
 今のままでは、無理です。

 私はこのブログに何度か書いたように、上方演芸資料館は継続すべきだと思っています。ただ、ワッハ・ホール、レッスンルーム、小演芸場の3つのライブスペースと資料館が両立しているから価値があると思っています。アーカイプ資料の保存、閲覧だけじゃあかん。同時に芸人の養成、育成、プロとアマの交流があっての価値ですわ。
 これはなくしたらあかん。
 未来へ繋がんとね。

 さて、資料館ですが、私のようなお笑いオタクでも、有料で入ったのは2度ほど。感想は「ツマラン」の一言でした。
 会場はそう広くないのですが、それにしても展示物が少なく、また行ってみないと何が展示してあるのかわからんわけです。エンターテイメントになっていないんです。
 
 『ワッハ上方』のホームページを開いても、お役所仕事のようなデザインと構成。あれでは、まず若い人は見ない。
 資料館でありながら、資料的価値が皆無のホームページ。なんやこれ?
 私、思うのですが、『ワッハ上方』にはどんな資料があるのか、ネットで公開すべきです。6万点もの貴重な資料があると言いますが、いったいどんなものがあるのかわからん。お笑いや芸能、あるいは大阪の文化や歴史を調べたりするときに、学生や作家、研究家、マニア、コレクターたちが、まず「ワッハ上方」と検索することを常識化せんとあきません。今、「ワッハ上方」で検索しても、館の案内やライブの告知、移転問題についてばっかりヒットします。言うたら身内向けの情報しかない。
 これでは「ワッハ上方」に寄贈された貴重な資料が、有効利用できてませんわ。
 まず、ただちにリストを作ってネットで公表すべきです。そしたら、えっ、そんなもんがあるんや、とか、それ見てみたいなあ、と、お笑いファンならきっとそれだけでも楽しくなる。リストをクリックすると、ものによっては全ページが閲覧できたり、コピーもできたり。それは有料にすればいい。
 映像と音声も貴重なものがあるようで、そのハイライトを聞ける居酒屋風の「懐かしの映像館」(意味分からん)とか、SPやラジオの音源が聞けるミルクホール(やっぱり意味分からん)などあるんですけど、正直腰を落ち着けて視聴する雰囲気でもないし、そんな人もおらんでしょう。友達や家族連れで来ても、それはほっといて一人じっとそこに1時間も居続け・・・二度と友人や家族なんて来ませんわ。
 共に遊ぶ、共に体験するものがない。

 演芸ライブラリーには、各放送局から寄付されたテレビやラジオ音声が視聴できるそうですけど、これはよっぽど好きな人でないと利用しません。
 こういう映像や音声も有料でネット配信すべきです。全国の人たちに上方の演芸を見てもらわないと、寄贈された意味がない。
 私だったら、いろいろ企業や関係団体にかけあって、演芸専門のCSチャンネルを作りますわ。百数十チャンネルあるCSに、未だ演芸や落語の専門チャンネルがないというのはどうも理解できん。演芸、お笑いのファン、マニアはいっぱい全国にいてるはずですから、そこをターゲットにしてビジネスにすればいいんです。
 資料館に寄贈されている映像だけでなく、若手芸人のライブや落語会、勉強会なども収録して放送するんです。とにかく早朝から夜遅くまで、落語漬け、漫才漬け、懐かしの新喜劇の日もあったりして・・・
 『道頓堀アワー』『和朗亭』『お笑いネットワーク』『あっちこっち丁稚』『花の駐在さん』『藤山寛美劇場』『NHKお好み演芸会』『演芸指定席』『枝雀寄席』『平成紅梅亭』『桂米朝・上方落語大全集』『特選!落語全集』『米朝ばなし』・・・といったアーカイブ番組。サンテレビの『上方落語大全集』はさすがに残ってないか。それに澤田隆治さんのところにある『名人劇場』『てなもんや三度笠』、未公開の『上方落語らいぶ100選』・・・そんな映像がどんどん放送されるなら、私は月3000円でも契約します。
 「ワッハ上方チャンネル」でいいじゃないですか。そしたら知名度も高くなるし、利用客も増えます。今はメディアミックスの時代。「ワッハ上方」はそこにまったく対応していない、と断言します。
 だから、移転問題が起こったとき、市民からこんな声が多く寄せられたんです。
「えっ、ワッハ上方? そんなん聞いたことないわ」
「あっ、あれは税金の無駄遣いや」

 さて、私は上方落語と漫才のビデオ、レコード、CD、DVD・・・とにかくコレクションしています。昔、本格的な落語のテレビ番組がなかったころ、25年ほど前のことですか。上方落語を家のビデオでじっくり見たいという欲求から、「ビデオ板・上方落語大全集」なる企画書をもって、上方落語協会や松竹芸能、あるいは市の教育委員会、文化保存協会、はては東京のメーカーさんに営業をかけたことがあったくらい好きなんです。しかし、当時はビデオが貴重なアーカイブ記録になって、しかもビジネスになるという感覚が特に大阪の人にはまったくなく、「あんた、何がしたいんや?」と言われて、結局頓挫してしまったわけですが(あのとき実現していれば、あまり残っていない六代目松鶴の映像がもっと残せた!)、そんな私がコレクションのためにまず行くのは日本橋のCDショップ「大十」です。ここの中古なんか、たまに「えっ」というものが出る。私の知り合いにも、お笑いの映像、音源を蒐集している者が何人かいますが、やっぱり大十へ行く、と言います。
「ワッハは?」と聞くと、「あそこないやん」と大抵返事がかえってきます。
 同意見です。
 あかんでしょ。

 「ワッハ上方」にも上方演芸笑店ありまんねん。でも、ここは品揃えが悪い。
 やっぱりマニアの心をくすぐるのは、そこにしかないものを、そこでしか売っていないものを手に入れること。これです。それだけでも集客させる方策があります。
 中古のレコードやCD、ビデオなどを豊富に揃えて、またプライベート版のものなんかも委託販売するなり、非売品のサンプルを置くなり、なぜしないのか?

 やっぱりお笑いは、ライブが一番ですけど、次は家でゆっくり楽しむこと。
 これだと家族や友人も楽しめる。
 「繁昌亭」は、そこわかってますから、「ライブ繁昌亭」をどんどん配信して、そのなかの一部をCDとDVDにしてお店やネットで買えるようになっています。あれ、ちゃんとビジネスになっていると思います。
 そこ『ワッハ上方』はわかっていない。やる気がない。
 来れば視聴できるよ、では集客に結びつかない。まあ、ドッと来てもあのスペースでは対応できんやろうけど。

 とにかく何をおいても、お笑いに関するグッズや情報がほしかったら『ワッハ上方』に行くなりネットで検索する、ということを常識とせんと。
 運営に関わっている人は大変でしょうが、それをやらないと、2、3年後にはほんまに廃館になる。寄せられた6万点の資料を、ともあく無駄に眠らせてはいかんのです。
 それと、小演芸場を借りていると9時30分撤収完了のこと、と大きな字で楽屋に張り出されて、ほんまに時間を過ぎると怒られます。
 これはお役所仕事。
 ライブは生きもの。伸びることだってある。来てくださったお客さんとも、ちょっとは話したりもする。もう少し臨機応変があっても、と思います。
 ワッハは役所やない。サービス機関なんやと思わな。
 それにオールナイト落語会「東の旅」とか、「オールナイト納涼怪談特集」とか、そんなことをやってもええん違います?

 どうも運営側の人たちの顔が見えてきません。
 府民、あるいは他府県の人たちとともに、お笑いを仕掛けまっせ、楽しんでくなはれ、という姿勢が見えないんですな。
 東京では大銀座落語祭なんていうのをやっています。ワッハには行く気がせんけど、あれには行きたいと思う。パワーがあるし、落語一色の銀座って、想像するだけで楽しい。出演メンバーがまたものすごいし。なんでお笑いは大阪や、とか言いながら大阪人はああいうことをやらんのやろうね。松竹も大阪撤退とか言うてるみたいやし。
 ワッハも吉本、松竹、各放送局、自治体、繁昌亭も巻き込んで、上方演芸祭り、いうて大阪の街をお笑い一色にする日を作るのもありなんと違います? そういうことができる力なり、政治力をもった人たちが、放送局から“天下り”しているはずです。
 ほな、やりなはれ。
 今のままでは、ほんまに天下りしてると、市民から思われてしまいます。

 とにかく「ワッハ上方」を維持しようとしたらあきません。
 積極的に打って出ましょう。
 それが広報にもなるんです。

 運営している方々、関係者の方々、市民に「ワッハは必要です」と呼びかける前に、まず動くことです。市民に「あれがなかったら寂しいなあ。おもろなくなるなあ」と言わせんとダメです。

 老婆心ながら失礼しました。
 これも「ワッハ上方」の存続を憂う声だと、ご理解ください。



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2010年01月21日

1/20の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 20日(水)の作劇ゼミの報告です。
 
 たまに教え子からこんな質問を受けることがあります。
「僕、SF小説を書きたいんですけど、どんなSFを読めばいいんでしょう?」
 SFを書きたいヤツがそんな質問をしてくること自体、手遅れですわ。
「本はどれくらいの量を読んだらいいのですか?」
 そんなん知らん。
 ある塾生に「読書してる?」と聞くと「はい!」という返事。「何読んでる?」「大槻ケンジのエッセイです!」
 うーん。
 半年ほど前のシナリオの授業。彼は映画監督志望だというのに、映画にまったく興味がない。ここが不思議でしょうがないのですが・・・だからシナリオがまったく上達しないんです。で、聞いた。
「おい、映画ちゃんと見てる?」
「いや、最近は・・・」
「最近、なに?」
「読書をしていまして」
「ほお、何を読んでるの?」
「・・・マンガを」
 あのな、そういうのは読書とは言わん!
 要するに好奇心に欠如があり、危機感がないわけですな。

 いや、あの・・・
 塾生のレベルがあまりに低いと思われるのもなんです。これは一部の塾生ですから。
 まあ、この世界で生きていこうとするのなら、フツーじゃあかんわけですから。

 10年ほど前、小松左京さんが書かれた『未来からのウインク』というエッセイが出版されました。21世紀を目前にした若者たちに向けての左京氏のメッセージです。副題として「神ならぬ人類に、いま何が与えられているか」とあります。
 この本が出たとき、私は専門学校の講師をやっていましたので、左京さんが言わんとするjことに私は大きな共感をもったわけです。やはり学生たちには好奇心が足りない、危機感がない、ゲームばっかりやってポンコツになるやつも多い・・・正直、マンガ家や小説家を養成する専門学校を出たって、デビューしなきゃ粗大ごみ。こういう学校出ても、何の資格があるわけでもないから(専門士という資格をもらえるらしいのですが、断言します。そんなもの何の役にも立ちません)ポンコツになった者は、おそらくポンコツのまま生涯を送ります。あるマンガ家が言いました。
「好奇心なきヤツは去れ!」
 そう、好奇心こそがクリエイター魂を喚起させ、作品を作り、その質を高めるのです。
 小松左京さんは、そう若者に言い聞かせている、そんな本だったのです。

 そこで今回から何度かにわたって、この小松左京さんのメッセージを教本として、クリエイターとしての好奇心の誘発といいますか、読書の活かし方、といったものを考えてみることにしました。

 左京さんはこの本で取材や会合、講演で各地を移動する際、鞄の中には時代の情報が詰め込まれている週刊誌以外に、必携の書があるといいます。
 さあ、なんでしょう?
 SF作家なのだから、J・ヴェルヌやH・G・ウェルズらの作品を持ち歩き、自らのSF作家としての原点に思いをはせる・・・とお思いでしょうが、SF関連の本を持ち歩くことはむしろ少ない、のだそうです。
 では必携の書とは?
 
 日本史年表
 世界史年表
 高等地図帳

 の3冊です。
 学生時代にはまこと無味乾燥としていて度し難い代物・・・これがデータベースとしてみると、すさまじい情報量を秘めた貴重な存在に変貌する。それは歴史小説を読んでいるときに、その時代の日本史年表を探ると、時代の流れや背景が一目瞭然でわかるし、世界史年表に照らせば小説の中に描かれている事象が、地球規模の時代のうねりの中で、どんな意味合いをもっていたか、ということも見えてきます。さらに進めれば、歴史の中で人間の営為がある種の必然としてなされたのか、特定の人が権力を求めて暴走した結果だったのか、ということもうかがい知ることができる・・・と書いています。
 私も小松左京さん同様、この3冊をことあるごとに広げています。

 私にはもう1冊の必携の書があります。それは『聖書』です。別にクリスチャンではありません。うちは日蓮宗です。これは私が学生の頃、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を見て「なんだこれは!」と、その得も知れない魅力に取り付かれ、マーラーの交響曲第五番を聴きながら、トーマス・マンの原作を読んだんです。するとこれは『聖書』と『ギリシア神話』を理解せんことには、こういうヨーロッパの作品はわからんな、と思ったわけです。フェリーニやパゾリーニなんていうイタリアの映画が好きになってきた頃でしたが、彼らからカソリックを取れば何も残らないほど、その思考、哲学、スタイルまでもがカソリックというものからきているんですね。それに気がついた。で、彼らの作品をもっと読み解きたい、という好奇心から『聖書』を読み始めたんです。
 まあ、最初はさっぱりわかりませんわ。でも映画好きが高じて『天地創造』『ソドムとゴモラ』『十戒』『サムソントデリラ』『偉大な生涯の物語』『キング・オブ・キングス』てな聖書劇をかなり見てた。外伝的エピソードともいえる『ベン・ハー』とか『聖衣』とか。『レイダイース/失われたアーク』もね。そうしたら、わからんことはない。ここはあの映画の原作か、てなことを思いながらとにかく目を通した。そしたら『オーメン』や『エクソシスト』の神VS悪魔の図式も理解できるようになった。近未来もののSF映画なんかもヨハネの黙示録からの語録や成就、みたいな使われ方もしている。
 で、10年ほどして、あるきっかけで四天王寺の関係者から、昔はキリスト教の寺院だった可能性がある、なんてトンデモ発言があったわけです。フツーだったら「いくら関係者とはいえ、んなアホな」で終わることでしょう。ところが神道研究家の人と四天王寺と聖徳太子を探っていたら、なんと『聖書』に行き着いたわけです。
「ええーっ!」ですわな。
 後、その研究の一部を小説風に書いたものが『捜聖記』になったわけです。
 これ、『聖書』を何度も読んでいたからわかった。
 まさかね『ベニスに死す』をもっと理解したいがために読み始めた『聖書』が、後に聖徳太子や日本の古代史を読み解く鍵になろうとは・・・それに『聖書』を読んでいると世界の情勢がわかる。キリスト、イスラム、ユダヤ。この3つの宗教がわからずしては、世界の事は何もわからない、といってもいい。バイリンガルになることが国際人になることだという考えは間違い。その上で『聖書』を読んで初めて国際人、やと私は思います。

 私にとっては『聖書』が人間を読み解くデーターベースなのです。
 もういっぺん言うときます。
 私、クリスチャンやないですから。キリスト教関係の勧誘がきたときは、はっきりお断りしていますから。キリストが唯一絶対な神・・・思っていませんから。
 でも『聖書』は面白い。3冊は読み潰しましたわ。
 今は『コーラン』を読んでいます。

 でも、色々なものが絡み合っているでしょ。そういうものなんです、読書は。
 SF作家になりたいからSF読まなきゃ、というレベルじゃアカンのです。
 小松左京さんも、そういうことをおっしゃっています。

 さて、そういう読書で得た知識をどう活かすか。
 それはまた次回の作劇ゼミで考えましょう。
 

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2010年01月20日

桐の一門は永遠に

 中山市朗です。

 遅まきながら、桐の一門による落語界『第九回へたなら寄席』が終了しました。
 ご来場くださった方々、まあそのほとんどは演者の身内かと思われますが、ありがとうございました。
「こんなもんに金払わしやがって。二度と来んわ!」というお叱りのお言葉もなく、無事終わったということは、これ、一重に桐の一門の総帥たる私、桐の雄加留斗の人格の賜物・・・というのは嘘です。ちょっと人生幸朗のマネをしてみたかっただけです。
 今回は私も出る気満々でしたが、ご承知のように右足粉砕骨折では・・・
 次回はリベンジ!

 それにしても打ち上げのとき「一体、桐の一門は何人いるんですか」という一番弟子のうだんの質問を受けて「はて、何人やろ」と私も首をひねりました。
 で、書き出してみました。

 桐の雄加留斗−
         −桐のうだん
        |
         −桐のうさん
        |       
         −桐のええとこ
        |
         −桐のはてな
        |
         −桐のぎりぎり
        |
         −闇のかなた− −闇のオカマ
        |         |
                    −闇のカナダ
        |
         −桐のぐだぐだ
        |
         −桐のよぎり
        |
         −桐のもぎり
        |
         −桐のはこぶた
        |
         −桐のはなを
        |
         −桐のでじたる
        |
         −桐のびょうぶ
        |
         −桐のびわこ
        |
         −桐のおたく
        |
         −桐のれんじゃあ
        |
         −桐のほらあ
        |
         −桐のころあい
        |
         −桐のいそろく
        |
         −桐のわしょく
        |
         −桐のまんま
        |
         −桐のめばえ
        |
         −桐のかんくう
        |
         −桐のななねん

 客演  両口屋是清
     田舎家君吉(大阪芸術大学・落語研究会)

 いやあ、人数だけはすごいですなあ。
 そのうち米朝一門を抜くんちがいますか? 人数だけですけど。
 もっとも、今は連絡がつかない者、破門になった者も若干名おりますので、実質は4、5人は減ると思います。
 最初入門する頃は、ほとんどがあまり落語は知らない、人前で話すのは苦手、と言う者ばっかりです。それが、一門の落語会を見学すると、なんかやりたくなるらしいんですな。あるいは打ち上げに参加したら、いつの間にやら名前をつけられていたのもいます。
 あと、私が2年に一度のペースでやる塾の落語講座。
 ちゃんと落語の魅力を提示してやると、みんな興味をもってくれます。

 やっぱり高座を務めた弟子たちは、打ち上げのビールが最高と、いい笑顔を見せてくれます。それに落語をやる塾生は、暗かったのが性格も明るくなり、平気でギャグをかましたりしてきます。人格形成にもええみたいです。それにやっぱり、人を楽しませることが、自分も楽しいことなんだ、ということが体感できるんです。
 プロの作家に必要なのは、このサービス精神ですからな。

 この日は、まあみんな声は出てたかな。
 れんじゃあは、上下が逆で始まって、ハラハラしました。声も裏返ってましたな。
 かなたは、創作落語。自作自演です。いや、なかなか面白かった。妙な噺でしたけど。
 君吉くんは客演ですけど、うまくなった。彼はプロ志望です。
 ぎりぎりもマンガ家がダメやったら噺家になれる。えーなー、潰しが効いて。
 おたくは『強情灸』でご機嫌伺い。実は客席にいらした桂都んぼさんの師匠、都丸さんの十八番のネタ。よおやるわ!

 さて、次回は9月、ということになりそうです。
「ワッハでやります?」とうだん。あっ、彼は『時うどん』のネタ見せやってて、うどんが食べられなかった。で、芸名がうだん。もっちゃりとした彼のキャラクターに似合った名前やと思いますけど。
 「ワッハでやります?」という問いには、色々複合的な意味合いがあるようです。 存続は決定したというものの、9月大丈夫か? ちょっとワッハの体質に問題ないか? とか。
 うだんもあちこちでお笑いライブを仕掛けている男なので、色々な場所との違いがワッハにはあるようです。
 で、打ち上げの後半は、ちょっと「どうなの? 『ワッハ上方』」という議題で盛り上がりました。

 次回、いや次々回のこのブログで『ワッハ上方』に対する私の提言を申し上げたいと思います。あそこは存続させなあかんのですが、確かに体質に問題あるな・・・



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2010年01月18日

1/15のシナリオ講座

 中山市朗です。

 あまりブログにもあげていませんし、塾のHPにも正式にはうたっていませんが、第一と第三の夜7時30分から約2時間、シナリオ講座をやっています。
 私の書斎で、ボランティアです。
 右足粉砕骨折のため、部屋も片付けられず、リハビリ日にあたる日もあったので、しばらく休講にしていましたが、15日(金)に約3ヵ月ぶりに開講しました。

 塾にはシナリオ作家志望者が2名、映像作家志望者が1名、映画監督志望者が1名いますので、彼らにとっては必須科目です(のはずなのに、映像作家志望者はここのところ休塾中、映画監督志望者は“野暮用”で来なかった。なぜ?)。
 マンガ家志望者にとっても、シナリオを学ぶことは重要です。
 今は連載ストーリーマンガの大半は、原作と作画は別作業となります。原作はシナリオでくるので、マンガ家にはそれを読み取る力がいる。その力を養うのと同時に、ストーリーの構築やセリフの勉強にもなります。素人は、どうもセリフは説明文になりがちですので、そうはならずにかつ効果的で簡潔なセリフが書けるようにする必要もあります。
 セリフはなるべく簡潔に、というのは映画用のシナリオも同じです。
 
 小説を学ぶ塾生も、シナリオを書いてみることで、小説の書き方、ストーリーの転がし方などを見つめ直すいい機会になります。その手法は同じストーリーを語っても、まるで違うわけですから。
 またシナリオを書いてみたら、あっ、こっちのほうが合ってるわ、ということもあるでしょうし。この日、インフルエンザでお休みのN子嬢も、マンガ原作として初めて書いたというシナリオを見たら、キラリと光るものがありました。
 やってみるものです。
 まあ、いろいろ創作してみることが、プロへの近道です。

 シナリオは小説技法と同じく、合評方式で進めています。
 書き方がわからないひとりに、ト書きはこう、セリフはこう、構成するには・・・と講義するより、まず書いてみよう、という主義です。書いては直し、また書いては直す。上達法は何事もこれしかありません。直していくうちに、自然とト書きはこう、セリフはこう、と身で覚えていくものです。
 課題は、
 最初からシナリオにしたい題材があるというのなら、それに対応しますが、特別になければ『新耳袋』からシナリオにしたい話を4〜5話選んで企画書にしてもらいます。
 シナリオはまず企画からです。そして企画したものをプレゼンする。そこでどれをシナリオにするのか決定します。シナリオに適した題材と適さない題材、ひねり方次第ではおもしろくなる題材・・・色々ありますから、その判断を仰ぐ意味もあります。また、プレゼンは自分のやりたいテーマを明確にしなければ成り立たないので、テーマ探しの勉強にもなります。それに『新耳袋』の原作者がここにいるわけですから、本来のテーマや、落としどころ、どういう話がこうなったのかも聞けるわけです。それをシナリオにしてみる・・・
 『新耳袋』の映像化権はキングレコードが所持していますが、課題のシナリオはそのフォーマットに従っています。あとは、プロデューサーのY氏にどう売り込むかは本人次第?

 この日の合評の報告です。
 
 まずは落語作家志望者のO田くん。
 プレゼンです。でもプレゼンになっていません。これがやりたい、というだけで、その方策や意図が説明されないんです。そこを指摘すると、どうもそこが苦手で「まず書いてみないとわからない」と言います。それはわかります。でもそれは時間を食うし、プロとしてみれば作品にしてみないとわからない、ではあまりに要領が悪い。O田くんの感性は、実はあまり理論にしないところにあるのは確かなんです。でも、やっぱり企画のプレゼンはできないと、これからしんどい。これからの課題です。

 小説家志望のYくん。小説はスラスラいくのですが、シナリオはそうはいきません。最後に子供の幽霊が出て終わるのですが、出るぞ、出るぞ、と最初から言い過ぎなんです。それに短編ホラーのプロトタイプという感じがします。
 緊張と緩和、これを忘れずに。

 シナリオ作家志望のUさん。袋小路に入ってしまった。原作ではブタペストの古いホテルであった、ある音楽家の体験談を日本の古い旅館に移し替えたのはいいんですが、原作では時間が歪んだ恐怖、だったのが色んな要素がくっつきすぎて要領を得なくなったんですね。原作では読者の想像にまかせるところを、映像では観せなきゃならない。その「何を観せるのか」で悩んでいるうちに、色々なものが入り込んだようです。でも原作通りにやる必要はない。原作からのインスパイアでいいんです。『怪談新耳袋』のプロの監督たちの多くはインスパイア作品です。文字としての恐怖と映像としての恐怖は、違うわけですから。

 Oくんのシナリオはマンガ原作です。『新耳袋』から1話選んで24ページの想定。ある東南アジアの島で行なわれる現地の祭りに参加した日本人が、不思議な神様を見たという話です。その神様の正体は何で、この結末は何を意味していて、この後どうなるの、が投げっぱなしです。原作も神様の正体には触れていません。短く終わるからそこに疑問はいかないのですが、24ページで展開するとなると、そうはいかなくなる。登場人物たちの動機もすべてが「なぜ?」になってしまって。
 裏設定は絶対に考えておくこと。裏設定が作者の頭にあると「神様の正体はこれだ!」と別に言わなくても読者には伝わります。妙な味が彼の作品にはあるんですけど。

 小説家志望で、落語作家デビューを果たしたT田くん。彼は塾生Mくんと共作でマンガを投稿していて、賞は何度かとったもののデビューにはいかない。その原因は何なのでしょう? 彼は小説もそうですが、アイデアは面白いし、世界観も彼独特のものがあるんですが、どうも全体の構成から見ると、そのアイデアが後付けの感がするんです。つまり、そのアイデアは面白いけど、別にそれでなくてもいいじゃん、ということ。だからアイデアとストーリーがうまく噛み合ないところがあるんです。これは噛み合うまで頭をひねることです。別のアイデアでいくのか、そのアイデアでいくように伏線を張るなり、登場人物の感情をそこに至るよう誘導するのか・・・

 シナリオ作家志望のT井くん。彼は撮ることを前提にしたシナリオを書いています。彼はもう塾の最古参。とはいえ3度ほど塾を離れていますので、トータルすれば3年ほどですか・・・そろそろプロの世界へ踏み出すための実践をしなきゃならない段階です。彼もそれを感じています。だいぶ書き慣れてきたのがわかります。無難な出来です。つまり悪くもないが、特別すごい、というわけでもない。ただ、演出次第で面白くなるかも、というシーンもあり、そこは彼自身が演出するというので、どうなるかは見物。
 彼はもう書いて書いて、撮って撮って、チャンスを作るしかない。塾で作ったチャンスをことごとく逃がした彼も、もう分かってきたようです。
 
 ところで映画監督志望と言いながら、映画監督志望としては日本で一番映画を観ていないと思われるKレンジャーが、久しぶりのシナリオ講座に出席しなかったのは謎です。彼が今、やるべき優先順位はいったいなんなのか?

 今回からマンガ家志望のK西くんと、小説家志望のSさんが参加。
 塾生諸君のより多い参加を期待しています。
 
 

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2010年01月14日

1/13の小説技法

 中山市朗です。

 17日(木)は、我が塾の落語研究会とも言うべき、桐の一門による落語会が開催されます。
 落語を演じてみるということは、エンターテイメントの本質を勉強するよい機会です。エンターテイメント、人を楽しませる術、と言いますか。
 プロとアマチュアの違いは、この精神が根底にあるのか、ないのか。
 アマチュアは自分が楽しいことをやる。それはいいんですけど、人がそれを読んだときどう感じるだろうか、ということが欠如しがちです。
 プロは、もちろん自分の楽しいことを作品にしているのでしょうが、やっぱり読者、視聴者に伝える目、術があります。これは大きな違いです。
 それを身でもって感じられるのが「落語」です。
 落語はすべて一人で演じる芸ですから、ボケ、ツッコミの両方を演じます。これはセリフのやりとり、間、の勉強になります。そしてストーリーテリングの妙が、なんとなく理解できます。エピソードの積み重ねがうまくできているものもありますし、ひとりのキャラクターの喜怒哀楽がにじみ出る名作もあります。単純に笑わせるための仕掛けがよく考えられているものとか・・・それを客の前で演じる。
 お客さんは正直です。おかしいと思えば笑ってくれるけど、何をしてもシーンと静まりかえってどうしようもなくなるときも。
 プロの落語家さんなら、ドッと笑いがくる話なのに、こない。
 身をもって、人の感情を揺り動かすワザということを、考えさせられるいい機会です。
 とはいえ、いっぺん演っちゃうと、楽しくてしょうがないのも落語の魅力。
 塾生以外での入門者もオーケーなので、一度落語を演じてみたい、という人は塾へメールください。

 『へたなら寄席』の詳細はこちら
 桐の一門による座談会はこちら

 さて、小説技法です。
 合評です。

 欠席者が目立ちました。インフルエンザで倒れた者も2名います。
 こういう世界は、自分の代替がありません。また、あっても困りますけど。
 体調を崩そうが、鬼の編集者は原稿の取立てをします。それは恐ろしいものです。体調管理には、くれぐれも気をつけて。
 と、不摂生で朝まで飲んでいて、しかも骨折した私が言うのもなんですけど。

 O田くんの黒柳徹夫なるペンネームでのなんとも不思議な小説。
 「ひき逃げ」ならぬ「ひかれ逃げ」なる事件から始まります。落語作家志望者ならではの味のある妙なギャグテイストのものですが、この事件、体験によるものとか。でも体験を小説にする場合、描写がアマくなりがちです。「だってあったことなんだもん」では読者は納得できません。読者はそれを知りませんから、手を抜かずに。
 Kレンジャーも久々に小説を提出。奇上空論というこれもヘンなペンネーム。でも姓名判断で見てもらうと最悪の名だったので、これっきりになるとか? 彼の作品にしては、まとまってよく書けているとの評判ですが、私はよくわからない。これは何がやりたいの? 題名はヒーローものだけど、中身は社会派? アクション? やっぱりヒーロー?
 K島くんの「活動写真」をテーマにした小説も、ちょっと袋小路に入り込んだ感が。テクニックは確かに当初よりスキルアップして、まとまった文体になってきた。でも、映画は楽しいものだ、というハジける思いが消えてしまった。この小説を書こうとした動機、テーマに立ち戻る必要があります。
 M下さんの『俺が彼女になった理由』。軽妙洒脱な文章力。テンポもよく読ませます。前回指摘された、地の文の固さとか、説明くさかった箇所も、うまく人物のセリフや動きの中に取り込んでいます。不自然な描写もありますが、それを直すことより次へ進むことが、全体を通しての構成力を育むことになります。次へ進みましょう。
 Dくんの時代劇小説。意見が割れます。季節とか風景とか情景を丁寧に書いているところが時代劇っぽくていい、という意見と、それがストーリーの進行を邪魔していると言う意見。私は時代劇にはある程度の描写が必要だと思います。ただそういうことが伏線になるといいですね。展開で見せるのか、描写で見せるのか。彼自身迷っています。でも山本周五郎の世界観でいきたいんでしょ?
 Yくんのヒーローものは、順調です。アクション、アクションでやってきたうえで、今回は今までちょっと見えなかった主人公の気持ちや動機が語られます。もう文庫本にすると200ページくらいはいったところ。そろそろ次なる展開に。
 Sさんの書く小説は、ひとりの女の子の繊細な心の動きを描写するもの。ただ、その気持ちには理論はありません。しかし文章にするからには、ある程度の説明が必要です。そのはざまに、Sさんは悩んでいます。説明ではなく、エピソードを語る、という気持ちが必要なんですね。そこには、なぜ、があるはず。それが描写できれば。
 Mくんの『ヲタク戦記』。前回指摘した距離感とか、説明不足が解消されていない。何かストーリーの中に主人公の感情のテンションを合わせている感がぬぐえません。もっと主人公をいち人間として見つめてみよう。少々粗けずりな表現力は、当初から言っているように、それなりの味があるんですけど。なんせ執筆速度が遅い。
 Aさんの日本神話をテーマとした恋愛小説。前回は神様の世界なのに、登場人物の精神年齢が幼い、との指摘を受けて少々改変。リアリティのある登場人物たちにはなりましたが・・・女子中学、高校生向きの小説が、どうも男性陣の首を縦に振らせません。ここが難しいところなんです。男性陣たちがムムッと疑問に思うところが、少女たちの夢の部分でもあるんですね。逆もまたある。
 T田くんの『クリエイターズファイト』は最終章で足踏み。作家である主人公の激動に満ちた人生、その間、日本の文化も崩壊・・・そんな主人公の最後が語られる場面なのですが・・・なんかダンディズムというか、カッコよさがない。そのカッコよさとは、泥にまみれた、とか裏切りの中で死ぬ、とか。ブロンソンのダンディズム? 塾生の誰かが言ったように「死に方は生き方である」。死に方の研究を。
 Hさんの、ある女性の不倫に生きた、愛の不毛(?)の物語。こちらも最終章。でも本人も「なんか納得いかない」と言います。ちょっと変わった視点で、今までの主人公たちの人生の総決算が語られますが、意外性に乏しい。この小説は、章のどこかでゾッとさせる女の性が語られていたはずですが、ここにはそれがないんです。ここは総決算です。とんでもないワザがないと読者は納得しないでしょう。もうひとひねり。


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2010年01月13日

もう松葉づえはつかない

 中山市朗です。

「Good News Good Nwes! ミナサン、ヨリコンデクダサイ」
 このセリフは東宝映画『地球防衛軍』で、インメルマン博士を演じる、ハロルド・コンウェイという正体不明の外国人俳優が、地球防衛軍の会議をしている日本人たちの中へ、突如設計図らしきものを持って登場したときのもの。
 この続きがあります。
「アタラシ、キカイデス」
 つまり、地球征服にやってきた謎のミステリアンに対抗する兵器のことです。
 その設計図に書かれた文字を誰かが読みます。
「マーカライト・ファーブ!」
 インメルマン博士が言います。
「カンタンニイウト、チョッケイ、ニハク、メートルノ、レンズ、デス」
 つまり敵の光線をそのまま反射し、敵に発射する、と同時にそれにほぼ匹敵する熱線を中心から放射する! これはすごい!
「有効射程距離、1.5キロ・・・」
「すると敵のすぐ近くで作らなければならんということですな」
「しかし、それでは完成しない間に、破壊されてしまいませんか?」
「ソウデス。ドコデ作り、ドシテ運ブカ・・・」
 沈黙する一同。
 いや、ええ、シーンですな。

 えっ、何が言いたいのかって?
 そう、Good News Good Newsですよ。

 松葉杖、外れましたんですわ。
 杖なしで歩く。

 ♪歩け、歩け、私は元気♪
 です。

 ただ、まだスタスタとはいきません。ヨロヨロですわ。
 実は8日に某産業機械製作の大手工場に呼ばれまして、新年会で怪談を語ってくれ、というお仕事が入ってきまして。初語りですわ。
 しかし、そこに松葉杖で現れるというのも、なんだかなあ、と、この日を目標に松葉杖脱却作戦をひそかに進行させていたのです。そして8日の朝、満を持して・・・
 立てました。そして歩いてみました。
 足首痛い! 足の裏も痛い! でも骨には痛みはない。
 ということは、あとはリハビリの問題。
 ということで、夕方、松葉杖なしにタクシーに乗り込み、現場へ。
 しかし控え室から、新年会をやっている社員食堂まで50メートルも歩かされるとは思わなんだ・・・
 持ち時間15分。
 さっさと語って、さっと引き上げ。

 そして11日には、ついに自転車を購入。
 以前乗っていた自転車は、私が骨折した日、現場近くに置かれたまま。その後当然のごとく行方不明となりました。新自転車は14800円。
 私が入院していた間に、入金された国のバラ撒き・・・いや国民定額給付金(こんなん愚策や、と反感もちながらも、もらえるように手続きした自分が小さい)が、自転車購入費になったようなものか。ちなみに総務のスガノくんは、定額給付金でフィギュアを買って、後日金に困ったときにそのフィギュアを二束三文で売り払ったそうな。これぞ税金の無駄遣い!

 さて、久しぶりの自転車!
 これは快適! スイスイ、ですわ。
 そして3ヶ月ぶりに日本橋へ!
 中古CDショップ、古本屋などをハシゴ。
 今書いている原稿は、どうしても資料とのにらめっこになる。で、ネットで本を買ったりしてたんですが、やっぱりパラパラと中身が確認できなきゃあ。あれ、こんな内容? というのがあったんです。専門書ですから、値段も安くはないし。
 やっぱ古本の匂い、これですわ。
 おっ、欲しかった喜田貞吉の『民族と歴史』全巻があるぞ!
 12万円!
 ・・・。

 ところで帰りに銀行に寄ったのですが、ここで腹立たしいことが!
 ここではやめときましょう。

 とにかく自転車にも乗れます。
 でも階段の上り下りは、ちょっと難儀、とくに降りるのは・・・
 やっぱり足首の稼動部分がやや限定されています。
 それに5分以上立っているのは辛い。
 足の裏、体重かけてなかったからなあ。

 昨日(12日)あたりになると、足の裏の痛みはなくなりました。
 で、先ほど久しぶりに風呂に湯を張ってザブリ!
 久しぶりですわ、と両足を見る。
 左足はふくらはぎがあって、足首のくびれがあります。しかし右足は・・・
 丸太みたいな形。足首にもくびれがありません。
 これは驚きですなあ。道理で階段の上り下りのとき、足首、痛いはずや。
 まあ中に2枚のプレートと釘が入ってますしね。

 でも、女性でなくてよかった。
 なぜって?

「こんな足だと、スカートが履けませんもの」

tikyuboueigun
『地球防衛軍』サントラCD
モゲラの左右にある円型の兵器がマーカライト・ファーブだ!
ジャケデザインは、塾もお世話になっている田宮教明氏。
伊福部昭のマーチがひびく!!!





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2010年01月07日

1/6の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 お正月気分ももう終わり。
 6日からは塾も始まりました。

 2010年最初の授業です。

 塾生たちの顔ぶれを見たら、塾創設以来ずっと在籍している者、一旦消えて最近また復活した者、1年ほどの者、入って数ヶ月の者・・・様々です。
 うちは卒業というものがありません。
 月謝さえ払えばいつでも学べるし、「もういーや」と思ったら来なくてもいい。
 だからもうプロ級(というか、もう実際にライターやマンガで活躍している塾生も何人かでてきました)から、まったくの初心者までが、同じ教室で学び、ともにつくり、飲んだり。
 年齢層も経験値もまったく違うけど、同じ塾生。
 サラリーマン、OLから学生、プータローみたいなのまで、色々います。
 そんななかに、編集者や作家、マンガ家、アニメ作家、映画監督、プロデューサー、イラストレーター、落語家、ミュージシャンといった人たちが、たまに顔を見せては塾生たちと飲み交わし、アドバイスをくださいます。
 私が専門学校の講師をしていた頃に作りたかったクリエイター志望者のための環境が、ようやく塾に根付いた感じがした昨年でした。

 さて、今年です。
 いくら環境があっても、利用しなけりゃ意味もない。
 誰の言葉でしたか・・・「馬を水飲み場まで連れてくることはできても、飲ませることはできない」
 そう、やるのは、作るのは、書くのは、塾生です。

 ということで、今年一発目の授業は、塾生たちの今年の目標を言ってもらいました。
 もちろん私がそれに質問をし、それをなすために何をしているか、どこまで進んでいるのか、その考えは違うぞ、みたいなアドバイスをしながら、細かくノートに書き留めました。そう今年の最終の授業では、その目標は達成されたのか、達成できていたら、なぜ達成できたのか、できていなかったらその反省を披露してもらうつもりで。
 そういう枷がないと。やっぱり何もないでは人間怠けてしまうし、道にも迷う。

 色々出ました。
 狙う新人賞を具体的に設定して、すでに始動している者、あるプロの人と組んで出版企画を進めている者から、合評には絶対原稿を落とさない、一度も原稿を完成させたことがないので完成させるといった人まで。なかには映画好きで実際映画人に会っている塾生は、なんとしてでも原節子さんに会いたいと言っていましたし、絶対幽霊を見たい、という変わったのまでいました。今更ながら、本を読んだり映画を観たりしなあかんことを痛感したので今年は・・・という愚か者も。

 さあ、みんな今年をどういう年にし、どういう将来を作っていくのか楽しみです。
 
 この日も早々に、東京からテレビ番組の制作の方が挨拶に来られ、授業後は塾生たちと朝まで。お疲れ様でした。
 スガノのホラ話が炸裂していましたが、信用しないように・・・?

 今年の私?
 怪談蒐集は続けますが、古代史における日本、日本人の謎追求に本腰を入れます。まあずっと本腰を入れていたんですけど、深くてむっちゃ難しいんです、やっぱり。
 しかーし!
 今年の夏頃には、なんらかの成果を皆様にお見せできると思います。
 やっと、です。
 


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2010年01月04日

海部の太陽

 あけましておめでとうございます。
 2010年ですねぇ。

 高校生の頃、『2001年宇宙の旅』を観て、まだまだ先だと思っていた21世紀になって、もう10年・・・
 あの頃のイメージとしてあった21世紀は、平和で、人々の生活も安定していて、科学が人を幸福にしてくれている、というものでしたが、なんかちゃいますねえ。

 ところで、今年もいい天気でまばゆい太陽が元旦の空にありました。
 私は足が完治していないので初詣には行かず、自宅の窓から射し込む日の出をみたわけですけど。
 しかし、お正月は毎年いい天気に恵まれますねぇ。私の記憶では、元旦に雨が降ったというのは一度もなかったような気がします。日本人はその元旦の太陽を拝む。
 この太陽を拝むという習慣は、日本人独特のもののようです。
 アメリカやヨーロッパだけではなく、中国や韓国にもありません。
 日本人にとって太陽は神様なんです。
 どうしてでしょう?

 と思っていたら、2日の日テレ系で『ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎』という特番で、日本人と太陽信仰の謎を解く、というのでワクワクして観たんですが・・・なんやこりゃ? 全然謎に迫っとらん。

 日本、という国名、日の丸の国旗、世界で一番東にある国・・・。日本は太陽と深い関係にある。しかし、じゃあなぜ、日本人は太陽を拝むのか、これは確かに謎です。
 太陽は農業に恵みをもたらすから、というのなら、農業をやっているのは日本だけじゃないはずです。東の国だから? 古代の日本人がそんな概念をもっていたのでしょうか?
 中国や朝鮮半島よりは、確かに東にある国、という概念はあったでしょう。
 アメノタリシヒコは、隋の煬帝に「日出る処の天子、日の没するところの天子に云々」という国書を送ったと『隋書倭国伝』に記されます。これ、聖徳太子のことだとされていますが、隋の記録にはアメノタリシヒコとなっています。日本のどの文献にも出てこない名前です。まあ、その話は長くなるのでおいといて。
 その聖徳太子ですが、『旧事記』によりますと、元旦に生まれているんです。元旦とは元日の太陽を指すわけですから、太陽に関係してくるんですよね。さらに私は、アメノタリシヒコこそが聖徳太子の本名だったと確信しているのです。隋の役人は聞いた日本語に適当な漢字「阿毎」をあてていますから。この阿毎は「アメ」ではなく「アマ」、つまり天だったと考えられます。天(アマ)とは海(アマ)でもある。これは太陽を信仰していた渡来人のことであると、元伊勢籠神社の宮司、海部(アマベ)さんに伺ったことがあります。元伊勢、ということは天照大御神にかかります。もちろんこの天皇の祖神は太陽神。
 そう、天皇は太陽信仰によって成り立つのです。
 大誉祭は東側が解放されて執り行われます。これは太陽の威光と天皇霊がイコールであるということでしょう。そして今の伊勢神宮は、淡路島のイザナギを祀る多賀神社からまっすぐに「太陽の道」と呼ばれるレイラインとなって一直線に繋がり、その線上に天神を祀った神社や遺跡があると、奈良県の写真家、小川光三氏は説いています。これはかつてNHKで番組にもなったようです。
 天皇ばかりではありません。
 戦国時代にイエズス会の宣教師たちがヨーロッパから来ます。彼らは、バチカンやアジア本部にあったインドのゴアに多数の報告書を送っていますが、そこにはやたら太陽と月に拝む日本人の信仰を奇異な目で見ていることがわかります。元禄時代に日本に来たケンペルというドイツ人は、ヨーロッパでは初めて本格的に日本を紹介した本『日本誌』を執筆しますが、ここにも日本の町、村のどこへ行っても太陽を拝むための神社が必ずあると書いています。

 で、もう一度言います。
 こんなに太陽を崇める民族は日本民族だけなのです。
 ただし、太古にはいました。まったく同じ信仰形態をもった人たちが。
 古代のエジプト人です。
 ファラオは太陽神ラーの子孫です。ナイルに恵みを与えるのは太陽、そして洪水をもあらすのも太陽と思われていあした。だから太陽を信仰した。誕生、死、復活も、昇り、沈む太陽に重ね、イシス、オシリスの神話の元になりました。
 去年にも書きましたが、天皇家の菊の御紋とまったく同じ紋章がファラオの紋としてあり、それは菊ではなく太陽の象徴なのだそうです。これはエジプトの考古学者から聞いた話です・・・
 日本とエジプト。どこかで繋がっているのでしょうか?

 ちなみに仏教世界でも、真言密教では大日如来が中心に坐します。この真言密教は日本独自で発達したものです。大日如来もまた太陽仏なのです。で、これは・・・えっ? そんなむずかしいこと、正月早々に考えんでもええやんかって?
 いやいや、こういうことも考えんと、正月は朝からずっと酒飲んで、アホになるような気がするので・・・
 それに『ビートたけしの〜』という番組が、あまりに期待はずれでちょっと腹が立ったもので・・・
 
 ともあれ、今年も塾ともども、よろしくお願いします。


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kaidanyawa at 08:38|PermalinkComments(17)
プロフィール
中山市朗(なかやまいちろう)

作家、怪異蒐集家、オカルト研究家。
兵庫県生まれ、大阪市在住。


著書に、
<怪 談>




<オカルト・古代史>




などがある。
古代史、聖徳太子の調査から、オカルト研究家としても活動している。






作家の育成機関「中山市朗・作劇塾」を主宰。



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