2010年03月
2010年03月27日
3/24の小説技法・後半
中山市朗です。
前回は合評について書いていて、個々の作品評が書けませんでした。
ここに掲載します。
落語作家志望のO田くん。ショートショートのギャグもの。ある塾生は「僕は文章を読んで笑うということはめったにないのに、これは1ページに1ヶ所は笑えました」と、そのギャグセンスに脱帽。確かに半年前には日本語が危うかった彼は、えらい進歩を遂げています。彼は論理的であるより感性の男。でも、後半はセリフばっかりになってしまって、小説とは言い難いことになってしまっています。丁寧にいきましょう。
N子さんのホラー小説。第一章の後半部分が、書き直し書き直しで、といとう九稿を重ねてしまいました。悪くはないんですが、エピソードの順番とか、情景描写の不自然さだとか、恐怖のツボだとか、そういう細かい箇所がなかなか納得できるものにならないんですね。でも、このまま足踏みしてもイカン。もう第二章を書いてみよう、ということに。書き進めているうちに、修正箇所も自然とわかってくることもありますから。
K島くんの活動写真のある大スターに愛情を込めた作品。だいぶ登場する女性キャラがリアルというか、人間ぽくなってきました。そうなると話の中に入りやすい。ただ、私としてはもう少し彼女の色気、つまり主人公が彼女に女性としての思いを寄せる心の動きの描写、ドキッとしたり、思わず目を伏せたり、させる彼女の姿をもう少し書き込む必要があるように思います。それと、主人公の男はその女性と、京都の某場所に映画の取材にいくという設定なのですが、一体何を取材して、どういう記事を書こうとしているのかが不明です。K島くんはライターの仕事現場を見てみる必要あり?
Sくんの奇譚小説。ところがいつのまにやら奇譚というより不条理小説に? 不条理不条理のオンパレードでは、読者はついてきません。また、不条理にヒントがないまま進んでいるので、一体何をこの小説に求めればいいのかがわからない。ただ、その不条理のイメージは、ホントにティム・バートンの映画を見るように脳裏に浮かぶので、そういう一部の人には受けるかも。マニアックは悪くないけど、ちょっと全体的に見直して、主人公と読者との共感性を引き出す工夫を模索してみよう。
T野くんのホラーSFは、仕事上の試験日と重なっていたため、前回指摘された恐怖のシーンのみ修正して提出。
この場合、何をどの順番で表現するか、ということなのです。
誰もいないはずの(月世界の基地内です!)自室のクローゼットの中に半裸の女性がいて、こつ然と消える、という現象に遭遇する当事者が、どこでそれを認知し、そのときどういうリアクションを起こし、どこで恐怖を覚えるのかの構成の仕方。ここは映像にすればどういうカッティングになるのか、というイメージが必要でしょう。読者と当事者がここでは同じモノを見て同じ心境に落とし込むことが大切です。恐怖するのは、女が消えてからでしょう・・・。
Yくんのヒーローもの。読ませます。テンポもいいし、場面場面が映像として浮かびます。本人はB級アクションのノリで、と言いますがその文体はちゃんとした読み物になっています。ただ、それだけに細かいところが気になります。みんなから唐突に思えると指摘された箇所も、本人は伏線を張っていたつもりでも、ちょっと弱かったり、まあそんなことはホンマに細かいこと。どんどん書き進めていってほしいものです。
M下さんの『僕が彼女になった理由』も、前回アパートに婚約者の彼女が突然やってくるというシーンで、香水や化粧品の匂いはどうしても消せないと思うけど、という私の突っ込みに対して、苦肉の策でなんとかクリア。この積み重ねが読者にハラハラドキドキ感を感じさせてくれるエピソードを生み出すわけです。
T田くんの『クリエイターズ・ファイト』は最終章のラストで足踏み。色々修正はしてくるんですが、今ひとつ盛り上がらない。一つは文体の問題。ちょっと説明くさいんですな。それとクライマックスが、とってつけたようなことになってしまった。指摘されたところを確かに言われたように修正してきてはいるんですが、本人の頭の中で練り込まれていないんです。だから見透かされる。せっかくの締めくくりの場面、もう少し注意深くいこう。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
前回は合評について書いていて、個々の作品評が書けませんでした。
ここに掲載します。
落語作家志望のO田くん。ショートショートのギャグもの。ある塾生は「僕は文章を読んで笑うということはめったにないのに、これは1ページに1ヶ所は笑えました」と、そのギャグセンスに脱帽。確かに半年前には日本語が危うかった彼は、えらい進歩を遂げています。彼は論理的であるより感性の男。でも、後半はセリフばっかりになってしまって、小説とは言い難いことになってしまっています。丁寧にいきましょう。
N子さんのホラー小説。第一章の後半部分が、書き直し書き直しで、といとう九稿を重ねてしまいました。悪くはないんですが、エピソードの順番とか、情景描写の不自然さだとか、恐怖のツボだとか、そういう細かい箇所がなかなか納得できるものにならないんですね。でも、このまま足踏みしてもイカン。もう第二章を書いてみよう、ということに。書き進めているうちに、修正箇所も自然とわかってくることもありますから。
K島くんの活動写真のある大スターに愛情を込めた作品。だいぶ登場する女性キャラがリアルというか、人間ぽくなってきました。そうなると話の中に入りやすい。ただ、私としてはもう少し彼女の色気、つまり主人公が彼女に女性としての思いを寄せる心の動きの描写、ドキッとしたり、思わず目を伏せたり、させる彼女の姿をもう少し書き込む必要があるように思います。それと、主人公の男はその女性と、京都の某場所に映画の取材にいくという設定なのですが、一体何を取材して、どういう記事を書こうとしているのかが不明です。K島くんはライターの仕事現場を見てみる必要あり?
Sくんの奇譚小説。ところがいつのまにやら奇譚というより不条理小説に? 不条理不条理のオンパレードでは、読者はついてきません。また、不条理にヒントがないまま進んでいるので、一体何をこの小説に求めればいいのかがわからない。ただ、その不条理のイメージは、ホントにティム・バートンの映画を見るように脳裏に浮かぶので、そういう一部の人には受けるかも。マニアックは悪くないけど、ちょっと全体的に見直して、主人公と読者との共感性を引き出す工夫を模索してみよう。
T野くんのホラーSFは、仕事上の試験日と重なっていたため、前回指摘された恐怖のシーンのみ修正して提出。
この場合、何をどの順番で表現するか、ということなのです。
誰もいないはずの(月世界の基地内です!)自室のクローゼットの中に半裸の女性がいて、こつ然と消える、という現象に遭遇する当事者が、どこでそれを認知し、そのときどういうリアクションを起こし、どこで恐怖を覚えるのかの構成の仕方。ここは映像にすればどういうカッティングになるのか、というイメージが必要でしょう。読者と当事者がここでは同じモノを見て同じ心境に落とし込むことが大切です。恐怖するのは、女が消えてからでしょう・・・。
Yくんのヒーローもの。読ませます。テンポもいいし、場面場面が映像として浮かびます。本人はB級アクションのノリで、と言いますがその文体はちゃんとした読み物になっています。ただ、それだけに細かいところが気になります。みんなから唐突に思えると指摘された箇所も、本人は伏線を張っていたつもりでも、ちょっと弱かったり、まあそんなことはホンマに細かいこと。どんどん書き進めていってほしいものです。
M下さんの『僕が彼女になった理由』も、前回アパートに婚約者の彼女が突然やってくるというシーンで、香水や化粧品の匂いはどうしても消せないと思うけど、という私の突っ込みに対して、苦肉の策でなんとかクリア。この積み重ねが読者にハラハラドキドキ感を感じさせてくれるエピソードを生み出すわけです。
T田くんの『クリエイターズ・ファイト』は最終章のラストで足踏み。色々修正はしてくるんですが、今ひとつ盛り上がらない。一つは文体の問題。ちょっと説明くさいんですな。それとクライマックスが、とってつけたようなことになってしまった。指摘されたところを確かに言われたように修正してきてはいるんですが、本人の頭の中で練り込まれていないんです。だから見透かされる。せっかくの締めくくりの場面、もう少し注意深くいこう。
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興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
kaidanyawa at 04:53|Permalink│Comments(0)│
2010年03月25日
3/24の小説技法・前半
中山市朗です。
24日(水)の小説技法の報告です。
小説の合評です。
ちょっと合評の意味について考えてみましょう。
新しく入ってくる塾生の中には「実は小説書いたことがないんです」という人もいますが、「とりあえず見よう見真似で書いてみよう」と言っています。
書き出しがどうの、キャラクター造形がどうの、テーマがこうの、一人称でいくのか三人称でいくのか、独創的な表現法とはどうするのか、時間軸がどうの、伏線の張り方はどうする、とか・・・書いてみなければわからへんやん、ということ。
それぞれ書きたいものは違うし、その経験値も、スタンスも、目標も違う。
だから「とりあえず下手でいいから、そんなの気にせずに、書きたいことをまず書いてみてください」ということですね。
で、書いてきたものを叩き台とするわけです。
叩き台という言葉を使うと、ボロクソに叩かれる、というイメージを持つ人がいるかもしれませんが、草案とか原案という意味です。
それをあるレベルに押し上げるために修正していくのが、合評の目的です。
ともかく書いてアカ入れ、書いて修正、書いて書き直し・・・これの繰り返ししか、小説の上達法はありません。考えたところで、何も具現化しませんし。
ただ、自分で書いたものを客観的な視点で見直す、ということは難しいものです。そのときそのときで、自分はベストの力で書いているはずですから。
その原稿が自己満足のためのものなら、修正する必要はないのでしょうが、人様に読ませるとなると、その人様の立場になる必要があります。また、プロの作家になりたいというのなら、お金をもらって読んでもらう・・・つまり商品としての価値を見出さなければなりません。
実際、このアカ入れという作業は、プロの作家にもついてまわるもので、まず初稿を編集さんが読んでアカを入れ、差し戻してきます。納得するアカもあれば、理不尽なアカもあります。理不尽なものは、お互いやりあって納得するまで詰めます。そうやって2稿目を編集さんに差し戻す。そしたらまたアカが入って・・・
だからアカ入れという作業とは、どういうものかを知っておく必要もあるわけです。中にはアカを入れられてショックを受ける人もいるようですが、編集さんより読者のほうがよっぽど辛辣かつ残酷ですから、そこは耐えられないことにはプロの作家さんにはなれません。
読者とはお客さんですから、お客さんの厳しい注文や意見に応えるのが、どの世界でもプロのお仕事なのですから。
合評は出席した塾生たちによって読んだ感想や、意味の分からない箇所、不自然な描写、テーマの矛盾、構成の破綻、共感できない箇所、不鮮明な情景描写、ありえない心情といったものがどんどん指摘されます。あるいは逆に、ここは素晴らしい描写、これは共感できる、早く先が読みたい、切なくて涙が出そうになった、など、長所を指摘したり賞賛する声も聞かれます。どちらにせよ、これは読者の声だと思えと、私は言っています。
ただ、塾生に指摘する場合、ではどうすればその箇所はよりいい方向に、より理解しやすいように、より共感できるような描写になるのかも、できればアドバイスするようにとも言っています。できれば、です。これも能力のいることですから。
指摘される作家も、色々言われますが、どれもこれも聞いていたのでは前進しません。無視していい意見もたまにはありますし。だからそれらの意見、指摘に対してどう応えて、どの意見を採択するのかを考えねばなりません。
ここで難しいのは、感情でモノを言わないこと。
ただ、つまらん、とか、おもしろくない、と言われては、言われたほうもムッときます。「どこがどうつまらないから、こうしてはどう?」と論理的な指摘をされると、ああ、と納得ができるのですが、ただの感情でやりあうと、これは険悪なムードになってしまいます。塾ができてまだ合評を始めた頃はこれがあって、「じゃあ、わかる人にだけ読んでもらう!」って泣いてしまった塾生が・・・
わかる人がそれを買ってくれる人が、1万人もいればいいのですが・・・
だから論理的な議論をする必要がある。
この論理的思考にするためにも、合評の意味としてあるわけです。
なぜなら、小説もシナリオもマンガも、論理的な思考能力がないと書けないからです。
論理的思考で批評をする。そしてその目が自分の作品作りに役立つということなのです。作家稼業をやっていますと、たまに文芸評論や映画のレビューを書いてくれという注文がきます。あるいは何か妙な事件が起きたりすると、「この事件についてどうお考えですか」といった意見を求められます。テレビのバラエティ番組なんかでも、なんかご意見番みたいな文化人という意味の肩書きでもって、作家の人が席に座っていて意見を言ったりしますが、それらは作家という人は論理的な話ができるからだ、というマスコミの先入観念によりきていますが、まあそれは言えるということです。
先月、洋泉社の田野辺編集長が塾にやってこられたとき、スガノくんの「最近、ネットで自分のサイトを作って配信しているライターとかいあすが、そういう人たちには紙媒体で活躍する場は与えられるのでしょうか?」という質問に、田野辺さんは「だいたいアカの入らない媒体なんて、プロでは絶対通用しないし、信用はできない」と答えたと3月3日のブログに書きましたが、それはこの論理的思考、読者目線、注文のアカに対応できる、という作家やライターがプロとしての必要最低条件である、ということなんですね。
あ、言っておきますけど、やっぱりネットで書いています、というライター(これは自称ですけど)と、紙媒体に書いているというのとでは、まったく扱いが違うのは事実です。
だから塾生諸君は合評に出たのなら、必ず意見を言う、ということをやってほしいわけです。やっぱり終始黙っている塾生もいるわけですが、こういう機会をもったいないと思わなきゃ、上達はできない。で、やっぱり活発に意見を言い合う塾生は書くのもぐんぐん良くなっているし、論理的思考もだんだん身についてきています。ちゃんとデビューしたあとの編集さんとの丁々発止ができる体勢が整いつつある、ということです。
編集さんというのは、仕事の上でのパートナーですから。
で、合評での私のスタンスは、最終的なジャッジメント。
では、ここをこう修正してみよう、とか、この意見はこういうことだろうけど、実はこうも考えられるとか編集さんならこう言うだろうとか、次へ進もう、とか。
合評での辛辣な意見は、ある意味愛情です。
意見が辛辣であればあるほど、その意見を言っている人は覚悟とエネルギーを使っているわけですから。
なんにも指摘されないということは、どうでもいい、ということ。なんにも指摘しないってことは、ラクしているだけのことですから。
でも今月は合評の出席者が少なかったんだよなあ・・・
つづく
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
24日(水)の小説技法の報告です。
小説の合評です。
ちょっと合評の意味について考えてみましょう。
新しく入ってくる塾生の中には「実は小説書いたことがないんです」という人もいますが、「とりあえず見よう見真似で書いてみよう」と言っています。
書き出しがどうの、キャラクター造形がどうの、テーマがこうの、一人称でいくのか三人称でいくのか、独創的な表現法とはどうするのか、時間軸がどうの、伏線の張り方はどうする、とか・・・書いてみなければわからへんやん、ということ。
それぞれ書きたいものは違うし、その経験値も、スタンスも、目標も違う。
だから「とりあえず下手でいいから、そんなの気にせずに、書きたいことをまず書いてみてください」ということですね。
で、書いてきたものを叩き台とするわけです。
叩き台という言葉を使うと、ボロクソに叩かれる、というイメージを持つ人がいるかもしれませんが、草案とか原案という意味です。
それをあるレベルに押し上げるために修正していくのが、合評の目的です。
ともかく書いてアカ入れ、書いて修正、書いて書き直し・・・これの繰り返ししか、小説の上達法はありません。考えたところで、何も具現化しませんし。
ただ、自分で書いたものを客観的な視点で見直す、ということは難しいものです。そのときそのときで、自分はベストの力で書いているはずですから。
その原稿が自己満足のためのものなら、修正する必要はないのでしょうが、人様に読ませるとなると、その人様の立場になる必要があります。また、プロの作家になりたいというのなら、お金をもらって読んでもらう・・・つまり商品としての価値を見出さなければなりません。
実際、このアカ入れという作業は、プロの作家にもついてまわるもので、まず初稿を編集さんが読んでアカを入れ、差し戻してきます。納得するアカもあれば、理不尽なアカもあります。理不尽なものは、お互いやりあって納得するまで詰めます。そうやって2稿目を編集さんに差し戻す。そしたらまたアカが入って・・・
だからアカ入れという作業とは、どういうものかを知っておく必要もあるわけです。中にはアカを入れられてショックを受ける人もいるようですが、編集さんより読者のほうがよっぽど辛辣かつ残酷ですから、そこは耐えられないことにはプロの作家さんにはなれません。
読者とはお客さんですから、お客さんの厳しい注文や意見に応えるのが、どの世界でもプロのお仕事なのですから。
合評は出席した塾生たちによって読んだ感想や、意味の分からない箇所、不自然な描写、テーマの矛盾、構成の破綻、共感できない箇所、不鮮明な情景描写、ありえない心情といったものがどんどん指摘されます。あるいは逆に、ここは素晴らしい描写、これは共感できる、早く先が読みたい、切なくて涙が出そうになった、など、長所を指摘したり賞賛する声も聞かれます。どちらにせよ、これは読者の声だと思えと、私は言っています。
ただ、塾生に指摘する場合、ではどうすればその箇所はよりいい方向に、より理解しやすいように、より共感できるような描写になるのかも、できればアドバイスするようにとも言っています。できれば、です。これも能力のいることですから。
指摘される作家も、色々言われますが、どれもこれも聞いていたのでは前進しません。無視していい意見もたまにはありますし。だからそれらの意見、指摘に対してどう応えて、どの意見を採択するのかを考えねばなりません。
ここで難しいのは、感情でモノを言わないこと。
ただ、つまらん、とか、おもしろくない、と言われては、言われたほうもムッときます。「どこがどうつまらないから、こうしてはどう?」と論理的な指摘をされると、ああ、と納得ができるのですが、ただの感情でやりあうと、これは険悪なムードになってしまいます。塾ができてまだ合評を始めた頃はこれがあって、「じゃあ、わかる人にだけ読んでもらう!」って泣いてしまった塾生が・・・
わかる人がそれを買ってくれる人が、1万人もいればいいのですが・・・
だから論理的な議論をする必要がある。
この論理的思考にするためにも、合評の意味としてあるわけです。
なぜなら、小説もシナリオもマンガも、論理的な思考能力がないと書けないからです。
論理的思考で批評をする。そしてその目が自分の作品作りに役立つということなのです。作家稼業をやっていますと、たまに文芸評論や映画のレビューを書いてくれという注文がきます。あるいは何か妙な事件が起きたりすると、「この事件についてどうお考えですか」といった意見を求められます。テレビのバラエティ番組なんかでも、なんかご意見番みたいな文化人という意味の肩書きでもって、作家の人が席に座っていて意見を言ったりしますが、それらは作家という人は論理的な話ができるからだ、というマスコミの先入観念によりきていますが、まあそれは言えるということです。
先月、洋泉社の田野辺編集長が塾にやってこられたとき、スガノくんの「最近、ネットで自分のサイトを作って配信しているライターとかいあすが、そういう人たちには紙媒体で活躍する場は与えられるのでしょうか?」という質問に、田野辺さんは「だいたいアカの入らない媒体なんて、プロでは絶対通用しないし、信用はできない」と答えたと3月3日のブログに書きましたが、それはこの論理的思考、読者目線、注文のアカに対応できる、という作家やライターがプロとしての必要最低条件である、ということなんですね。
あ、言っておきますけど、やっぱりネットで書いています、というライター(これは自称ですけど)と、紙媒体に書いているというのとでは、まったく扱いが違うのは事実です。
だから塾生諸君は合評に出たのなら、必ず意見を言う、ということをやってほしいわけです。やっぱり終始黙っている塾生もいるわけですが、こういう機会をもったいないと思わなきゃ、上達はできない。で、やっぱり活発に意見を言い合う塾生は書くのもぐんぐん良くなっているし、論理的思考もだんだん身についてきています。ちゃんとデビューしたあとの編集さんとの丁々発止ができる体勢が整いつつある、ということです。
編集さんというのは、仕事の上でのパートナーですから。
で、合評での私のスタンスは、最終的なジャッジメント。
では、ここをこう修正してみよう、とか、この意見はこういうことだろうけど、実はこうも考えられるとか編集さんならこう言うだろうとか、次へ進もう、とか。
合評での辛辣な意見は、ある意味愛情です。
意見が辛辣であればあるほど、その意見を言っている人は覚悟とエネルギーを使っているわけですから。
なんにも指摘されないということは、どうでもいい、ということ。なんにも指摘しないってことは、ラクしているだけのことですから。
でも今月は合評の出席者が少なかったんだよなあ・・・
つづく
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kaidanyawa at 21:46|Permalink│Comments(2)│
2010年03月24日
中山の静止する日
中山市朗です。
右足粉砕骨折から、早いものでもう5ヶ月経つんですな。
1月には松葉杖から離れて、その頃は結構ウロウロしていたんですが、先月、定期健診ということでレントゲン撮ったら、まだ骨折、というか骨に穴は空いているんです。
途端に歩くのが恐ろしくなって・・・。
痛くはないんですけど、やっぱりプレートが入っているからか、ちょっと右足が重いような気もしますし、ずっと突っ立っているのは辛くなります。ちょっとビッコをひいたような歩き方になっているし・・・まだちょっとかかるかな。
ということで、最近あまり出歩かない私ですが、先週はエンタイトル出版編集長の打越氏の出版パーティに出席。まあパーティの発起人でもあるので、友人代表の祝辞を述べたりして。
打越さんはライターでもあり、小説も過去2本短編を発表されていて、今回の『父のいる風景』は初の長編ものなのだそうです。読んでみると、ちょいとホロリとさせる文学性の高い小説でした。
ところで、当日はなぜか私の周りには、スピリチュアルの研究をしているだとか、ダウジングでうつ病を治す人だとか、霊媒師だとか、霊が見える僧侶だとか、なんか妙な人が集まってきて・・・話の内容がよぉわかりませんでした。
先日は塾生(なぜか野郎ばかり)7、8人引き連れて、阪堺電車で天下茶屋のもう少し南へ行ったギャラリー「あしたの箱」へ。阪堺電車は今も残るチンチン電車。車内に入ったら、その匂いが昭和30年代! なんやろね、あれ。
さてギャラリーでは、壁新聞のツールから派生した11人の作家たちによる合同展が。
塾生もお世話になっているイラストレーターで怪獣絵師でもある田宮教明さんの紹介があったので、出向いてみました。
田宮さんがさっそく我々を見て挨拶に来られ、「昨日はキャディーズみたいな、3人の塾生さんが来てくれましたよ」やて。
うちにキャンディーズみたいなん、いたっけ?
かしまし娘みたいなのはおるけど。
って、どっちも古い?
さてさて、感動したのが、2階のロビーの隅っこにおわす、実物大のロボット・ロビー!
「うわっすげぇ」とロビーくんとツーショット写真撮っちゃいました。
このロビー、ちっちゃなリモコンで反応して、すごいことになるんです。
どうすごいことなのかは・・・現地へ行ってみてください。

禁断の惑星サントラLPレコード。
CDもあるけどこちらの方がジャケットがカッコイイので。
音楽と言うより、電子音楽。
ヒュー、ビビビビッ、ポワン、ポワン
ロボット・ロビーってなに? ですと!
SF映画の古典的大傑作『禁断の惑星』('57)に登場する万能ロボットですわ!
このロボットは、アシモフのロボット3原則に即しながら(そういえばアシモフが最初に書いたロボット小説が『ロビイ』だった)、自己認識をし、人間を観察し、人間と友好であろうと行動するんです。で、言葉も発するんですが、発する直前に頭の部分にあるメカが、ガチャガチャッと計算するような音がするんです。昔のレジみたいな音。なんかアナログ的なんですが、当時はデジタルなんてなかったしね。
おそらくこの形の系統が、『スター・ウォーズ』のC3POとかなんでしょうね。
で、なんでこの会場にロビーがいたのか不思議に思っていたのですが、ここは懐かしい昭和のブリキのオモチャを複製して販売したり、展示したりする場所やったんですね。
そういえば会場の棚には、鉄人28号やロボット・ガロン、鉄腕アトムなどのブリキのオモチャがズラリ。ボウマン船長のオモチャもあったけど、こんなん売れたのかな?
当日はなかったけど崑ちゃん人形という札があったんだけど、きっと大村崑のブリキ人形のことなんでしょうな・・・大村崑のブリキ人形???!
このロボット・ロビーは、オーナーがわざわざアメリカから直輸入したものらしい。
内野和正さんが作成された素敵なロボット・ロビーのイラストも展示してあった。
しばし私は惑星アルティアにいる気分に・・・
ちなみにロビーの造形をデザインしたのはロバート・キノシタという日系人で、この人は私が小学生の頃、テレビでもよく見ていた『宇宙家族ロビンソン』に登場するロボット・フライデーのデザイナーでもあります。このロボット・フライデーの実物大がミナミのフィギュア店の店頭にあった。確か販売価格は120万円・・・。
あっ、田宮さんのこと書かなあきませんな。
実はこのあと、秘密で油絵のゴジラ、というのを見せてもらいました。どこかの社長さんに個人的に頼まれたとかで、ちょっと画像はお見せできないのですが、30号のキャンバスに描かれた初代ゴジラの勇姿!
塾生一同、「カッコイイ!」という言葉も出ないほど、息をも飲む素晴らしさ。
田宮さんは「初代ゴジラってモノクロだから、着色されたポスターなんか見て、どんな色してるんやろうという想像から始まったんです。で、同じ油絵とするなら、ルーブル美術館に展示されてても恥ずかしくないものを描いてやろうと。微妙な色の出し方は、実はモディリアーニを分析したんですよ」ですと。
ゴジラとモディリアーニ!
ちなみにこれが完成品かと思ったら、まだ気に入らないところがあるので未完成だとか。
でも、ぱっと見ただけで、息を飲む絵・・・これがプロ。
イラストレーターを目指している塾生もいるけど、目指すはこのレベルですよ。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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右足粉砕骨折から、早いものでもう5ヶ月経つんですな。
1月には松葉杖から離れて、その頃は結構ウロウロしていたんですが、先月、定期健診ということでレントゲン撮ったら、まだ骨折、というか骨に穴は空いているんです。
途端に歩くのが恐ろしくなって・・・。
痛くはないんですけど、やっぱりプレートが入っているからか、ちょっと右足が重いような気もしますし、ずっと突っ立っているのは辛くなります。ちょっとビッコをひいたような歩き方になっているし・・・まだちょっとかかるかな。
ということで、最近あまり出歩かない私ですが、先週はエンタイトル出版編集長の打越氏の出版パーティに出席。まあパーティの発起人でもあるので、友人代表の祝辞を述べたりして。
打越さんはライターでもあり、小説も過去2本短編を発表されていて、今回の『父のいる風景』は初の長編ものなのだそうです。読んでみると、ちょいとホロリとさせる文学性の高い小説でした。ところで、当日はなぜか私の周りには、スピリチュアルの研究をしているだとか、ダウジングでうつ病を治す人だとか、霊媒師だとか、霊が見える僧侶だとか、なんか妙な人が集まってきて・・・話の内容がよぉわかりませんでした。
先日は塾生(なぜか野郎ばかり)7、8人引き連れて、阪堺電車で天下茶屋のもう少し南へ行ったギャラリー「あしたの箱」へ。阪堺電車は今も残るチンチン電車。車内に入ったら、その匂いが昭和30年代! なんやろね、あれ。
さてギャラリーでは、壁新聞のツールから派生した11人の作家たちによる合同展が。
塾生もお世話になっているイラストレーターで怪獣絵師でもある田宮教明さんの紹介があったので、出向いてみました。
田宮さんがさっそく我々を見て挨拶に来られ、「昨日はキャディーズみたいな、3人の塾生さんが来てくれましたよ」やて。
うちにキャンディーズみたいなん、いたっけ?
かしまし娘みたいなのはおるけど。
って、どっちも古い?
さてさて、感動したのが、2階のロビーの隅っこにおわす、実物大のロボット・ロビー!「うわっすげぇ」とロビーくんとツーショット写真撮っちゃいました。
このロビー、ちっちゃなリモコンで反応して、すごいことになるんです。
どうすごいことなのかは・・・現地へ行ってみてください。

禁断の惑星サントラLPレコード。
CDもあるけどこちらの方がジャケットがカッコイイので。
音楽と言うより、電子音楽。
ヒュー、ビビビビッ、ポワン、ポワン
ロボット・ロビーってなに? ですと!
SF映画の古典的大傑作『禁断の惑星』('57)に登場する万能ロボットですわ!
このロボットは、アシモフのロボット3原則に即しながら(そういえばアシモフが最初に書いたロボット小説が『ロビイ』だった)、自己認識をし、人間を観察し、人間と友好であろうと行動するんです。で、言葉も発するんですが、発する直前に頭の部分にあるメカが、ガチャガチャッと計算するような音がするんです。昔のレジみたいな音。なんかアナログ的なんですが、当時はデジタルなんてなかったしね。
おそらくこの形の系統が、『スター・ウォーズ』のC3POとかなんでしょうね。
で、なんでこの会場にロビーがいたのか不思議に思っていたのですが、ここは懐かしい昭和のブリキのオモチャを複製して販売したり、展示したりする場所やったんですね。
そういえば会場の棚には、鉄人28号やロボット・ガロン、鉄腕アトムなどのブリキのオモチャがズラリ。ボウマン船長のオモチャもあったけど、こんなん売れたのかな?
当日はなかったけど崑ちゃん人形という札があったんだけど、きっと大村崑のブリキ人形のことなんでしょうな・・・大村崑のブリキ人形???!
このロボット・ロビーは、オーナーがわざわざアメリカから直輸入したものらしい。
内野和正さんが作成された素敵なロボット・ロビーのイラストも展示してあった。
しばし私は惑星アルティアにいる気分に・・・
ちなみにロビーの造形をデザインしたのはロバート・キノシタという日系人で、この人は私が小学生の頃、テレビでもよく見ていた『宇宙家族ロビンソン』に登場するロボット・フライデーのデザイナーでもあります。このロボット・フライデーの実物大がミナミのフィギュア店の店頭にあった。確か販売価格は120万円・・・。
あっ、田宮さんのこと書かなあきませんな。
実はこのあと、秘密で油絵のゴジラ、というのを見せてもらいました。どこかの社長さんに個人的に頼まれたとかで、ちょっと画像はお見せできないのですが、30号のキャンバスに描かれた初代ゴジラの勇姿!
塾生一同、「カッコイイ!」という言葉も出ないほど、息をも飲む素晴らしさ。
田宮さんは「初代ゴジラってモノクロだから、着色されたポスターなんか見て、どんな色してるんやろうという想像から始まったんです。で、同じ油絵とするなら、ルーブル美術館に展示されてても恥ずかしくないものを描いてやろうと。微妙な色の出し方は、実はモディリアーニを分析したんですよ」ですと。
ゴジラとモディリアーニ!
ちなみにこれが完成品かと思ったら、まだ気に入らないところがあるので未完成だとか。
でも、ぱっと見ただけで、息を飲む絵・・・これがプロ。
イラストレーターを目指している塾生もいるけど、目指すはこのレベルですよ。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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2010年03月21日
3/17の作劇ゼミ その3
古典落語愛好家・中山市朗です。
世界文学ベスト10です。
異論あるでしょうが、あくまでサロン・ド・ソークラテースによる10大文学です。
ひとつの参考ということで。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
ドストエフスキー『罪と罰』
ドストエフスキー『悪霊』
カミュ『ペスト』
スウィフト『ガリバー旅行記』
セルバンテス『ドン=キ・ホーテ』
トルストイ『戦争と平和』
バルザック『ゴリオ爺さん』
ユゴー『レ・ミゼラブル』
ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』
日本人はロシア文学がお好き?
ちなみに、この世界10大文学というのは、イギリスの作家、W・S・モームによる『世界の十大文学』から得た着想のようです。ということで、本家モームによる10大文学とは?
フィールディング『トム・ジョーンズ』
オースティン『プライドと偏見』
スタンダール『赤と黒』
バルザック『ゴリオ爺さん』
ディケンス『デビット・コパーフィールド』
フロベール『ボヴァリー夫人』
ブロンテ『嵐ヶ丘』
メルヴィル『白鯨』
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
トルストイ『戦争と平和』
やっぱりイギリスの作家が目立つのはご愛嬌?
まあモームは新聞社から依頼されて、気まぐれに選出したようですけど。
ちなみにモームは「世界文学の100選」というアンソロジーを出していて、その前書きの中に小説のなかの小説10編というのも挙げていて、これが上記のものと微妙に違うわけです。
『プライドと偏見』『赤と黒』『デビット・コパーフィールド』『ボヴァリー夫人』『嵐ヶ丘』『カラマーゾフの兄弟』までは重複。これに。
セルバンティス『ドン=キ・ホーテ』
ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスター』
プルースト『失われた時を求めて』
うーん、日本の作品は・・・入らないのか。
ところで貴方はどれだけ読んだ?
私?
フフフフッ。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
世界文学ベスト10です。
異論あるでしょうが、あくまでサロン・ド・ソークラテースによる10大文学です。
ひとつの参考ということで。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
ドストエフスキー『罪と罰』
ドストエフスキー『悪霊』
カミュ『ペスト』
スウィフト『ガリバー旅行記』
セルバンテス『ドン=キ・ホーテ』
トルストイ『戦争と平和』
バルザック『ゴリオ爺さん』
ユゴー『レ・ミゼラブル』
ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』
日本人はロシア文学がお好き?
ちなみに、この世界10大文学というのは、イギリスの作家、W・S・モームによる『世界の十大文学』から得た着想のようです。ということで、本家モームによる10大文学とは?
フィールディング『トム・ジョーンズ』
オースティン『プライドと偏見』
スタンダール『赤と黒』
バルザック『ゴリオ爺さん』
ディケンス『デビット・コパーフィールド』
フロベール『ボヴァリー夫人』
ブロンテ『嵐ヶ丘』
メルヴィル『白鯨』
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
トルストイ『戦争と平和』
やっぱりイギリスの作家が目立つのはご愛嬌?
まあモームは新聞社から依頼されて、気まぐれに選出したようですけど。
ちなみにモームは「世界文学の100選」というアンソロジーを出していて、その前書きの中に小説のなかの小説10編というのも挙げていて、これが上記のものと微妙に違うわけです。
『プライドと偏見』『赤と黒』『デビット・コパーフィールド』『ボヴァリー夫人』『嵐ヶ丘』『カラマーゾフの兄弟』までは重複。これに。
セルバンティス『ドン=キ・ホーテ』
ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスター』
プルースト『失われた時を求めて』
うーん、日本の作品は・・・入らないのか。
ところで貴方はどれだけ読んだ?
私?
フフフフッ。
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kaidanyawa at 22:42|Permalink│Comments(0)│
2010年03月20日
3/17の作劇ゼミ その2
中山市朗です。
小松左京さんの『未来からのウインク』を教本としながら、作家としてのあり方を考えています。『ジャン・クリストフ』の話でした。
こういう文学は、若いうちに読んでおくべきだということ。
映画も芸能もそうなんですけど、やっぱり古典にも触れてほしい。
我々の学生の頃は「知らない」ということは恥だと思っていました。
もちろん知らないものはたくさんある。今も知らないものだらけ。
でも私の学生の頃は友人や先輩と飲んでいて、議論をぶつけられて、歯がたたない、とか、完璧に打ち負かされると、悔しいと思ったものです。で、次の議論では何かと勝負になるように備えなければ、と、その知らなかった分野について知ろうとし、それまで読む必要性のなかった書物をひも解き、辞書をひいたわけです。そういうことが積み重なってきて、今思うと創作の糧になっているとわかる。
今の若い人たちは、まずこの議論をしない。
そして知らないことも恥とは思わない。
「知らなくていーじゃん」と言う。
「知ること」の快感を知らない。「めんどくせー」となる。
実はこれ、恐いことなんです。これでは自分というものが広がらない。
成長するということは、大人になっていくということです。当たり前ですけど。
でも考えてみてください。それは若い特権です。
一旦大人になると、あとは老いていくだけなのです。
このことに気づいたときには、往々にして遅かった、となるんです。
だから大人としてちゃんと成熟することが必要なんですね。大人になると、自然に成熟していくと思ったら大間違い。からっぽで下品で無教養な大人もたくさんいます。それがそのまま何の自覚ももたずに老いて死ぬことは、ロマン・ロランに言わせると「罪」だとなるんでしょうね。
私はからっぽで下品な人たちが、今の日本をダメにしたと思っていますので、やっぱりそれは罪どころか大罪なのです。高尚で崇高なるものを知るのは、人間としての権利です。
福沢諭吉も言っています。
「教育の目的」は、高尚な人間を作ることだと。
成熟しないと高尚にはなれません。
そこを理解しない、いや、しようとしない、「いーじゃん」で片付けるという態度は、人として生まれながら怠慢であると、人生の冒涜だと、ロマン・ロランは今の日本の若者(大人が悪いんですけどね)を見たとしたら、憂い、叫ぶでしょう。
この「知らなくていーじゃん」という考えは、私もケータイ電話、カラオケ、ネットの影響だと思っています。この三つは閉じた世界でも楽しく生きられるという幻想を与えてしまった。ケータイは着信拒否もできるし、相手と直に話さなくても、メールで済ませられる。カラオケもカラオケボックスには親しい友人とだけ楽しめる。ネットも自分を理解してくれそうな人とのバーチャル会話をメールで。嫌な人、自分を理解してくれなさそうな人とは接しなくてもいい。マナーも必要ない。気兼ねもしなくていい。知らないものは知らなくても通用する世界。違った価値観をもった人とは接しなくてもいい。しかし、これでは狭い小さな身の周りの限定された空間でのみに生きられるということになってしまって、従って「知らなくていーじゃん」が通用しちゃうことになる。知らなくても困らない、同じ知性、同じ価値観をもつ人とだけの、しかもバーチャルな交流。
そう考えたら、ゾッとしません?
これでは、主体性というものは生まれないと思うわけです。で、精神的な成熟もしない。知識を広げようという意義も失う。
見かけはオッサン、オバサンだけど中身は子供。
そういうの、これから増えそうな気がします。
そういう時代なんだから、と迎合するのもひとつの生き方でしょう。で、この生き方はラクなんでしょうな。だけども、ジャン・クリストフのように人として生きる意味を模索しながら自己を確立していき、その成果を次の世代に受け継がれていくのを見ながら、人生を閉じていく、というのも生き方。
さあ、君はどう生きるのか。
そういうことを教えてくれるのが、文学であり、名作映画なのだと思うわけです。
また、作家になろうというのなら、少なくとも世の中のものを「こんなもんやで」と肯定してしまうと、衝撃や感動を生む作品は生まれない。芸術は反抗心から始まる、とは『ジャン・クリストフ』から学んだことです。
作品を発表するということは、ある意味、大衆へ向かって自己主張することですから、内にこもった生き方の思考では大衆の心を打つことはできないと思うんです。
古典文学を読んでいるうちに、そういうことに気づくわけです。
だからラノベも読む、コミックも読みながら、文学にも親しむ。もしこれができたら、立派な武器となりますよ。
ということで、古典文学に少しでも興味をもってもらおうと、塾生たちに世界の文学ベスト10とは? というクイズを出してみました。
でもそれでは漠然としていて、正解が見えないので、ひとつは日本の古典文学愛好者たちによるサロン・ド・ソークラテースによる10大文学、もうひとつは『月と六ペンス』の作者であるウィリアム・サンセット・モームによる世界10大文学に選出されたのは、ということで考えてみました。
さあ、一体何が選出されたのでしょう?
皆さんも考えてみてください。
戯曲や短編小説は含みません。
頭の体操です。
回答は明日。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
小松左京さんの『未来からのウインク』を教本としながら、作家としてのあり方を考えています。『ジャン・クリストフ』の話でした。
こういう文学は、若いうちに読んでおくべきだということ。
映画も芸能もそうなんですけど、やっぱり古典にも触れてほしい。
我々の学生の頃は「知らない」ということは恥だと思っていました。
もちろん知らないものはたくさんある。今も知らないものだらけ。
でも私の学生の頃は友人や先輩と飲んでいて、議論をぶつけられて、歯がたたない、とか、完璧に打ち負かされると、悔しいと思ったものです。で、次の議論では何かと勝負になるように備えなければ、と、その知らなかった分野について知ろうとし、それまで読む必要性のなかった書物をひも解き、辞書をひいたわけです。そういうことが積み重なってきて、今思うと創作の糧になっているとわかる。
今の若い人たちは、まずこの議論をしない。
そして知らないことも恥とは思わない。
「知らなくていーじゃん」と言う。
「知ること」の快感を知らない。「めんどくせー」となる。
実はこれ、恐いことなんです。これでは自分というものが広がらない。
成長するということは、大人になっていくということです。当たり前ですけど。
でも考えてみてください。それは若い特権です。
一旦大人になると、あとは老いていくだけなのです。
このことに気づいたときには、往々にして遅かった、となるんです。
だから大人としてちゃんと成熟することが必要なんですね。大人になると、自然に成熟していくと思ったら大間違い。からっぽで下品で無教養な大人もたくさんいます。それがそのまま何の自覚ももたずに老いて死ぬことは、ロマン・ロランに言わせると「罪」だとなるんでしょうね。
私はからっぽで下品な人たちが、今の日本をダメにしたと思っていますので、やっぱりそれは罪どころか大罪なのです。高尚で崇高なるものを知るのは、人間としての権利です。
福沢諭吉も言っています。
「教育の目的」は、高尚な人間を作ることだと。
成熟しないと高尚にはなれません。
そこを理解しない、いや、しようとしない、「いーじゃん」で片付けるという態度は、人として生まれながら怠慢であると、人生の冒涜だと、ロマン・ロランは今の日本の若者(大人が悪いんですけどね)を見たとしたら、憂い、叫ぶでしょう。
この「知らなくていーじゃん」という考えは、私もケータイ電話、カラオケ、ネットの影響だと思っています。この三つは閉じた世界でも楽しく生きられるという幻想を与えてしまった。ケータイは着信拒否もできるし、相手と直に話さなくても、メールで済ませられる。カラオケもカラオケボックスには親しい友人とだけ楽しめる。ネットも自分を理解してくれそうな人とのバーチャル会話をメールで。嫌な人、自分を理解してくれなさそうな人とは接しなくてもいい。マナーも必要ない。気兼ねもしなくていい。知らないものは知らなくても通用する世界。違った価値観をもった人とは接しなくてもいい。しかし、これでは狭い小さな身の周りの限定された空間でのみに生きられるということになってしまって、従って「知らなくていーじゃん」が通用しちゃうことになる。知らなくても困らない、同じ知性、同じ価値観をもつ人とだけの、しかもバーチャルな交流。
そう考えたら、ゾッとしません?
これでは、主体性というものは生まれないと思うわけです。で、精神的な成熟もしない。知識を広げようという意義も失う。
見かけはオッサン、オバサンだけど中身は子供。
そういうの、これから増えそうな気がします。
そういう時代なんだから、と迎合するのもひとつの生き方でしょう。で、この生き方はラクなんでしょうな。だけども、ジャン・クリストフのように人として生きる意味を模索しながら自己を確立していき、その成果を次の世代に受け継がれていくのを見ながら、人生を閉じていく、というのも生き方。
さあ、君はどう生きるのか。
そういうことを教えてくれるのが、文学であり、名作映画なのだと思うわけです。
また、作家になろうというのなら、少なくとも世の中のものを「こんなもんやで」と肯定してしまうと、衝撃や感動を生む作品は生まれない。芸術は反抗心から始まる、とは『ジャン・クリストフ』から学んだことです。
作品を発表するということは、ある意味、大衆へ向かって自己主張することですから、内にこもった生き方の思考では大衆の心を打つことはできないと思うんです。
古典文学を読んでいるうちに、そういうことに気づくわけです。
だからラノベも読む、コミックも読みながら、文学にも親しむ。もしこれができたら、立派な武器となりますよ。
ということで、古典文学に少しでも興味をもってもらおうと、塾生たちに世界の文学ベスト10とは? というクイズを出してみました。
でもそれでは漠然としていて、正解が見えないので、ひとつは日本の古典文学愛好者たちによるサロン・ド・ソークラテースによる10大文学、もうひとつは『月と六ペンス』の作者であるウィリアム・サンセット・モームによる世界10大文学に選出されたのは、ということで考えてみました。
さあ、一体何が選出されたのでしょう?
皆さんも考えてみてください。
戯曲や短編小説は含みません。
頭の体操です。
回答は明日。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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kaidanyawa at 13:02|Permalink│Comments(0)│
3/17の作劇ゼミ その1
もう『ベストハウス123』には出ないであろう中山市朗です。
あとで思い出したのですが、プラットホームの手についてコメント「地縛霊」というのは、ほかのビデオ(未放送分)で言ったコメントなんですわ。
ほんま、あれが地縛霊てなんやねん?
で、テレビ番組と言えば、先週このブログに前後編にわたりドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』を叩きましたが、作劇ネトラジでも私は怒りを爆発させています。ぜひお聞きください。
あっかんなぁ、テレビ。
気を取り直して17日(水)の作劇ゼミの報告です。
小松左京さんの『未来からのウインク』という若者に向けたエッセイを教本として、創作について考えています。今回はその第二回です。
知識の宝庫をどう活かすか。と小松さんの本にあります。
「ある本に出会って、作家の魂の崇高さに触れることの感動、読書の醍醐味のひとつは、そこにあると思います」
「読書のもうひとつの側面は、知識を得ること。本はよほどつまらないものは別にして、情報や知識の宝庫です」
「最初は興味をそそられるままに、あちらのジャンル、こちらのジャンルと貪り読んだという印象なのですが、今にして思うと、それらが体系化されてきたという感じ。アトランダムに蓄えたものがパッとつながる。読書にはそんな瞬間があるのです。その時々の興味を封じ込めないで“野放し”にしてやると、読書のジャンルも格段に広がるし、獲得する知識や情報の量も加速度的に増えていきます」
小松さんは、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』がヨーロッパ人にとっての神とは何かを考えさせ、そこから神と人間、神への失望、それがために起こったある事件、へと行き着き、それが『復活の日』の題材となった、と書いています。
『ジャン・クリストフ』と『復活の日』。
無関係に思われるこのふたつの作品をとりもったのは、読書連鎖だと小松さんは言います。
私の場合、1月21日付けのこのブログに書いたように、『ベニスに死す』から『聖書』を読み始め、読書連鎖を起こして『捜聖記』になったと書きました。同じです。
『ベニスに死す』と『捜聖記』!
比べるのもおこがましいですが、全然つながりが見えないでしょ? 作品てそういうものなのかな、と。
さて、この『ジャン・クリストフ』ですが、作家を目指す塾生の全員が読んでいない、という衝撃の事実に驚き! 名前すら知らないとは言語道断!
私? 大学の頃に読みました。実は私、大学でロマン・ロランの講座をとっていたんです。そのきっかけは・・・なんだったんやろ? 今も思い出せません。しかし、長いことそのとき買った(買わされた?)『ロマン・ロラン概説」というアンドレ・マルローによって書かれた小難しい本が本棚にありました。今、見当たらないけど、どこいった?
そのとき、大長編『ジャン・クリストフ』と格闘しました。このくらいの大作となると、読むというより格闘したと言った方がぴったりきますな。で、その後、ロランが序文を寄せたという倉田百三の『出家とその弟子』も読みました。ロマン・ロランが絶賛して序文を寄せる日本の作家って、すげーやん、といった感じで。
それはそうとして・・・
『ジャン・クリストフ』は青年のもつ独特の焦燥感というか、漠然とした悩み、孤独と不安が切実な問題としてあることを突きつけてきたのだと覚えています。周りから見たら、そう不自由な生活をしているわけでもないし、健康体だし、何をそんなに? という問題でも、若者にとってはこれは大きく、時には押しつぶされそうな悩みと孤独感が漠然と存在するんですな。これは当時の私の心境とも合わさって、痛く心に刺さって涙するほど共感するわけです。ちょっとこの悩む青年の焦燥感というのは、トーマス・マンの『魔の山』を読んだときと同じ感覚・・・で、ジャン・クリストフはそこで人間として生きる道、つまり思想的な束縛とか社会の既成概念といったものに反抗しながら、内にある情熱に対して正直に生きようとするんです。もちろんそこには、ヨーロッパ人の精神の根源にあるキリスト教という問題にも踏み込んでいきます。ヨーロッパ人にとって、キリスト教について踏み込んで反抗する、というのはある意味タブーなわけですな。特に19世紀という時代においては。
ちょっとこれ、憧れますけど勇気のいる生き方です。
普通の人なら、大人になるにつれ、恥をかかない生き方とか、安全策とか、世の中がそうなんだからといって、主体性のない、流された生き方をしてしまう。もっと言えば、働いて生活するためにまた働いて・・・ほかのものを見る余裕も、考える暇もない。
ところがジャン・クリストフはそこで清く戦うんです。で、将来への夢を持ち続け、目標として掲げる。そしてそのように年齢を重ねるごとに精神的成熟をし、作曲家としての芸術性も気高く飛躍していき、傷つきながらも目標へと着々と進んでいく。若い頃の目標は、たいてい年を経るごとに失っていくものなのですが、ジャン・クリストフはそうではない。目標は信念なのです。彼そのものなのです。
クリストフは作曲家という設定になっていますが、ロマン・ロランは『ベートーヴェンの生涯』という大作を著述していて、そのベートーヴェンという人物像がクリストフのキャラクター造詣や精神構造や行動の原型にある、と言われています。ベートーヴェンという人もそれまであったパトロンとの主従関係を拒否して、音楽家は宮廷や貴族に雇われた音楽屋、といった立場だったものを、音楽活動とは芸術活動である、と公言した人です。
ハイドンやバッハは、つまりは誰かの使用人だったわけで、モーツァルトはそれを嫌って苦悩したんです。ベートーヴェンは、そこにけじめをつけたんです。そしてリベラルな政治思想をもっていて、そのことを公然として隠さなかったんですな。その純粋さは確かにクリストフです。ナポレオンに共感したベートーヴェンが彼を讃えて交響曲第三番『ボナパルト』を作曲するも、ナポレオンが皇帝に就いたという報せにベートーヴェンは激怒し、表紙の『ボナパルト』という文字をペンで消し、『シンフォニア・エロイカ(英雄)』と書き換えたというのも(伝説によれば表紙を破った、とありますが、それは嘘のようです)、ベートーヴェンの清いさを象徴していると思うのです。さらにベートーヴェンもクリストフは容姿に優れないといった点も?
若きクリストフは、ドイツという社会の旧態然とした貴族社会の様相や嫌疑を嫌って、自由な精神を求めてパリへ渡ったものの、パリもやはり同じだと知って絶望する・・・といったあたりは、モーツァルトと重なります。
クリストフは、その青年の志をもったまま、色々な裏切り、別れ、事件を経ながら老いていき、しかしその理想主義はいささかの揺らぎもない。そして人知れずに世を去るわけです。その清い精神に、普通の悩む青年だったら、感動し共感するはずです。
ちなみに、『ジャン・クリストフ』は4章よりなり、これは交響曲の四つの楽章に照応させたロランの意図で、第1章が(序奏と展開)、第2章が(スケルツォ)、第3章が(アダージョ)、第4章が(終曲)に対応しているわけなんです。私のクラシック音楽好きというのは、この作品にその根源があるのは間違いのないところです。
さて、新たな問題は、作家志望だといううちの塾生たちが、こういう古典について知らない、読んでいないということ。小松左京さんは「『ジャン・クリストフ』なんて誰でも読んでいる作品」だと書いていますが?
ライトノベルズ、いわゆるラノベを読むのもいいと思います。しかし、ラノベは読者の知識やレベルに合わせたもの、という編集方針が見え隠れします。こんなことを書いても読者には伝わらない、理解しないだろう、高尚すぎる、わかりやすく、もっとカッコよく、エロも入れて・・・いやいや、それを否定するものではない。それもあっていい。しかし、そればっかり読むというのでは、精神も知識も広がらないように思うのです。
『ジャン・クリストフ』なんて読者に迎合しようという精神は微塵もない。ロマン・ロランというひとりの作家の精神の叫びと、真に偉大なるものへの追求の模索と格闘が表されています。文学って? と考えさせてくれます。文学は芸術であると認識します。
読みながら、いち読者としての自分の器量の小ささ、狭さとアホさ加減を自認しながらも、清く尊く生きる価値を見出してくれます。ある意味、勇気を与えてくれます。そしてヨーロッパ人の思想、哲学、神についても教えてくれます。そういうことが違っても、しかし悩む、生きる、成長し、死を迎える瞬間がくる、ということは人間みな同じなのだと教えてくれます。要は本人がどう生きるのかという、できそうで実は勇気のいる人生のあり方を説いてくれます。
若いうちに、こういうすごいもの、高尚なものに触れることは絶対必要だと思うのです。で、そういうことが教養を深める、ということだとも思うわけです。
試験問題を解くための知識?
そんなもん、教養でもなんでもない。本当の知識でもない。
昔の人は、そこを文学で補っていたんですけど。
今や、小説家志望者さえもが文学を読んでいない。
まあ、今は昔と違って、ゲームだのアニメだのAVだの、いろいろあるもんねえ。
しかし、いろいろある中から何を選択するのかは、本人の意義の問題。
この項、つづく。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
あとで思い出したのですが、プラットホームの手についてコメント「地縛霊」というのは、ほかのビデオ(未放送分)で言ったコメントなんですわ。
ほんま、あれが地縛霊てなんやねん?
で、テレビ番組と言えば、先週このブログに前後編にわたりドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』を叩きましたが、作劇ネトラジでも私は怒りを爆発させています。ぜひお聞きください。
あっかんなぁ、テレビ。
気を取り直して17日(水)の作劇ゼミの報告です。
小松左京さんの『未来からのウインク』という若者に向けたエッセイを教本として、創作について考えています。今回はその第二回です。
知識の宝庫をどう活かすか。と小松さんの本にあります。
「ある本に出会って、作家の魂の崇高さに触れることの感動、読書の醍醐味のひとつは、そこにあると思います」
「読書のもうひとつの側面は、知識を得ること。本はよほどつまらないものは別にして、情報や知識の宝庫です」
「最初は興味をそそられるままに、あちらのジャンル、こちらのジャンルと貪り読んだという印象なのですが、今にして思うと、それらが体系化されてきたという感じ。アトランダムに蓄えたものがパッとつながる。読書にはそんな瞬間があるのです。その時々の興味を封じ込めないで“野放し”にしてやると、読書のジャンルも格段に広がるし、獲得する知識や情報の量も加速度的に増えていきます」
小松さんは、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』がヨーロッパ人にとっての神とは何かを考えさせ、そこから神と人間、神への失望、それがために起こったある事件、へと行き着き、それが『復活の日』の題材となった、と書いています。
『ジャン・クリストフ』と『復活の日』。
無関係に思われるこのふたつの作品をとりもったのは、読書連鎖だと小松さんは言います。
私の場合、1月21日付けのこのブログに書いたように、『ベニスに死す』から『聖書』を読み始め、読書連鎖を起こして『捜聖記』になったと書きました。同じです。
『ベニスに死す』と『捜聖記』!
比べるのもおこがましいですが、全然つながりが見えないでしょ? 作品てそういうものなのかな、と。
さて、この『ジャン・クリストフ』ですが、作家を目指す塾生の全員が読んでいない、という衝撃の事実に驚き! 名前すら知らないとは言語道断!
私? 大学の頃に読みました。実は私、大学でロマン・ロランの講座をとっていたんです。そのきっかけは・・・なんだったんやろ? 今も思い出せません。しかし、長いことそのとき買った(買わされた?)『ロマン・ロラン概説」というアンドレ・マルローによって書かれた小難しい本が本棚にありました。今、見当たらないけど、どこいった?
そのとき、大長編『ジャン・クリストフ』と格闘しました。このくらいの大作となると、読むというより格闘したと言った方がぴったりきますな。で、その後、ロランが序文を寄せたという倉田百三の『出家とその弟子』も読みました。ロマン・ロランが絶賛して序文を寄せる日本の作家って、すげーやん、といった感じで。
それはそうとして・・・
『ジャン・クリストフ』は青年のもつ独特の焦燥感というか、漠然とした悩み、孤独と不安が切実な問題としてあることを突きつけてきたのだと覚えています。周りから見たら、そう不自由な生活をしているわけでもないし、健康体だし、何をそんなに? という問題でも、若者にとってはこれは大きく、時には押しつぶされそうな悩みと孤独感が漠然と存在するんですな。これは当時の私の心境とも合わさって、痛く心に刺さって涙するほど共感するわけです。ちょっとこの悩む青年の焦燥感というのは、トーマス・マンの『魔の山』を読んだときと同じ感覚・・・で、ジャン・クリストフはそこで人間として生きる道、つまり思想的な束縛とか社会の既成概念といったものに反抗しながら、内にある情熱に対して正直に生きようとするんです。もちろんそこには、ヨーロッパ人の精神の根源にあるキリスト教という問題にも踏み込んでいきます。ヨーロッパ人にとって、キリスト教について踏み込んで反抗する、というのはある意味タブーなわけですな。特に19世紀という時代においては。
ちょっとこれ、憧れますけど勇気のいる生き方です。
普通の人なら、大人になるにつれ、恥をかかない生き方とか、安全策とか、世の中がそうなんだからといって、主体性のない、流された生き方をしてしまう。もっと言えば、働いて生活するためにまた働いて・・・ほかのものを見る余裕も、考える暇もない。
ところがジャン・クリストフはそこで清く戦うんです。で、将来への夢を持ち続け、目標として掲げる。そしてそのように年齢を重ねるごとに精神的成熟をし、作曲家としての芸術性も気高く飛躍していき、傷つきながらも目標へと着々と進んでいく。若い頃の目標は、たいてい年を経るごとに失っていくものなのですが、ジャン・クリストフはそうではない。目標は信念なのです。彼そのものなのです。
クリストフは作曲家という設定になっていますが、ロマン・ロランは『ベートーヴェンの生涯』という大作を著述していて、そのベートーヴェンという人物像がクリストフのキャラクター造詣や精神構造や行動の原型にある、と言われています。ベートーヴェンという人もそれまであったパトロンとの主従関係を拒否して、音楽家は宮廷や貴族に雇われた音楽屋、といった立場だったものを、音楽活動とは芸術活動である、と公言した人です。
ハイドンやバッハは、つまりは誰かの使用人だったわけで、モーツァルトはそれを嫌って苦悩したんです。ベートーヴェンは、そこにけじめをつけたんです。そしてリベラルな政治思想をもっていて、そのことを公然として隠さなかったんですな。その純粋さは確かにクリストフです。ナポレオンに共感したベートーヴェンが彼を讃えて交響曲第三番『ボナパルト』を作曲するも、ナポレオンが皇帝に就いたという報せにベートーヴェンは激怒し、表紙の『ボナパルト』という文字をペンで消し、『シンフォニア・エロイカ(英雄)』と書き換えたというのも(伝説によれば表紙を破った、とありますが、それは嘘のようです)、ベートーヴェンの清いさを象徴していると思うのです。さらにベートーヴェンもクリストフは容姿に優れないといった点も?
若きクリストフは、ドイツという社会の旧態然とした貴族社会の様相や嫌疑を嫌って、自由な精神を求めてパリへ渡ったものの、パリもやはり同じだと知って絶望する・・・といったあたりは、モーツァルトと重なります。
クリストフは、その青年の志をもったまま、色々な裏切り、別れ、事件を経ながら老いていき、しかしその理想主義はいささかの揺らぎもない。そして人知れずに世を去るわけです。その清い精神に、普通の悩む青年だったら、感動し共感するはずです。
ちなみに、『ジャン・クリストフ』は4章よりなり、これは交響曲の四つの楽章に照応させたロランの意図で、第1章が(序奏と展開)、第2章が(スケルツォ)、第3章が(アダージョ)、第4章が(終曲)に対応しているわけなんです。私のクラシック音楽好きというのは、この作品にその根源があるのは間違いのないところです。
さて、新たな問題は、作家志望だといううちの塾生たちが、こういう古典について知らない、読んでいないということ。小松左京さんは「『ジャン・クリストフ』なんて誰でも読んでいる作品」だと書いていますが?
ライトノベルズ、いわゆるラノベを読むのもいいと思います。しかし、ラノベは読者の知識やレベルに合わせたもの、という編集方針が見え隠れします。こんなことを書いても読者には伝わらない、理解しないだろう、高尚すぎる、わかりやすく、もっとカッコよく、エロも入れて・・・いやいや、それを否定するものではない。それもあっていい。しかし、そればっかり読むというのでは、精神も知識も広がらないように思うのです。
『ジャン・クリストフ』なんて読者に迎合しようという精神は微塵もない。ロマン・ロランというひとりの作家の精神の叫びと、真に偉大なるものへの追求の模索と格闘が表されています。文学って? と考えさせてくれます。文学は芸術であると認識します。
読みながら、いち読者としての自分の器量の小ささ、狭さとアホさ加減を自認しながらも、清く尊く生きる価値を見出してくれます。ある意味、勇気を与えてくれます。そしてヨーロッパ人の思想、哲学、神についても教えてくれます。そういうことが違っても、しかし悩む、生きる、成長し、死を迎える瞬間がくる、ということは人間みな同じなのだと教えてくれます。要は本人がどう生きるのかという、できそうで実は勇気のいる人生のあり方を説いてくれます。
若いうちに、こういうすごいもの、高尚なものに触れることは絶対必要だと思うのです。で、そういうことが教養を深める、ということだとも思うわけです。
試験問題を解くための知識?
そんなもん、教養でもなんでもない。本当の知識でもない。
昔の人は、そこを文学で補っていたんですけど。
今や、小説家志望者さえもが文学を読んでいない。
まあ、今は昔と違って、ゲームだのアニメだのAVだの、いろいろあるもんねえ。
しかし、いろいろある中から何を選択するのかは、本人の意義の問題。
この項、つづく。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
kaidanyawa at 02:31|Permalink│Comments(0)│
2010年03月18日
何が中山に起こったか?
「ある霊能者によると・・・」
誰やねんそれ!
「地縛霊です」
そんなもんねえよ!
中山市朗です。
いや、ほんと。テレビなんて編集でいかようにもなりますな!
あれ、1編のビデオにつき、3分くらいコメントしているんです。撮りでは!
それも3パターン。
1つめは、私の解釈。
2つめは、それにディレクターが、これは付け加えておいてください。
3つめは、押さえ。
押さえの分を使われた!
地縛霊とか呪縛霊なんて、そんなものありません、と断ったのですが、視聴者に一番わかりやすい言葉だから、是非言ってくださいと言われて。で、言った。ただ、その前後にちょっと今となっては何を言ったのか忘れましたが、一つの考え方として云々というコメントをしているんですが、そこもバッサリ!
いや、やられました。
編集したのは現場のディレクターではなく、フジテレビの別の人だったとも聞きましたが・・・いやはや、ほんまにテレビは信用できん!
でもビデオは不思議だったでしょ?
あの3本は、どうにも説明のしようがないんですよね。
あのプラットホームの手は(新宿駅だそうです)、手袋とかじゃない。よく見ると、ちゃんと手の肉としてある。影もあるので物体としてある。でも、あそこで飛び降り自殺があったという事実もない。だから地縛霊のはずがない。霊かどうかもわかりません。
でも手です。あれは!
廃病院の窓から入ってくる子供は怖いですなあ。
あそこは解説にあったように二階で、窓は板で塞がっているので、人間にはああいうことはできません。で、撮った人間があれに気付いていないんですよね。あれが意図的なものなら、もうちょっと撮りようがある。あれは写り込んじゃった、という映像でしょう。
最後の映像は、何度かこのブログで書いたとおり。
『幽』の「やじきた怪談旅日記」で検証した通り、どうやっても人間がああいうふうに写り込むことはできなかったんです。後ろじゃない、天井に近いところにあるんですよ、あの顔は!
で、まばたき!
あれでわかる。あれは顔のようなもの、ではなく、顔だと。
なんだろうね、あれは。
17日の塾の模様は・・・
明日。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
誰やねんそれ!
「地縛霊です」
そんなもんねえよ!
中山市朗です。
いや、ほんと。テレビなんて編集でいかようにもなりますな!
あれ、1編のビデオにつき、3分くらいコメントしているんです。撮りでは!
それも3パターン。
1つめは、私の解釈。
2つめは、それにディレクターが、これは付け加えておいてください。
3つめは、押さえ。
押さえの分を使われた!
地縛霊とか呪縛霊なんて、そんなものありません、と断ったのですが、視聴者に一番わかりやすい言葉だから、是非言ってくださいと言われて。で、言った。ただ、その前後にちょっと今となっては何を言ったのか忘れましたが、一つの考え方として云々というコメントをしているんですが、そこもバッサリ!
いや、やられました。
編集したのは現場のディレクターではなく、フジテレビの別の人だったとも聞きましたが・・・いやはや、ほんまにテレビは信用できん!
でもビデオは不思議だったでしょ?
あの3本は、どうにも説明のしようがないんですよね。
あのプラットホームの手は(新宿駅だそうです)、手袋とかじゃない。よく見ると、ちゃんと手の肉としてある。影もあるので物体としてある。でも、あそこで飛び降り自殺があったという事実もない。だから地縛霊のはずがない。霊かどうかもわかりません。
でも手です。あれは!
廃病院の窓から入ってくる子供は怖いですなあ。
あそこは解説にあったように二階で、窓は板で塞がっているので、人間にはああいうことはできません。で、撮った人間があれに気付いていないんですよね。あれが意図的なものなら、もうちょっと撮りようがある。あれは写り込んじゃった、という映像でしょう。
最後の映像は、何度かこのブログで書いたとおり。
『幽』の「やじきた怪談旅日記」で検証した通り、どうやっても人間がああいうふうに写り込むことはできなかったんです。後ろじゃない、天井に近いところにあるんですよ、あの顔は!
で、まばたき!
あれでわかる。あれは顔のようなもの、ではなく、顔だと。
なんだろうね、あれは。
17日の塾の模様は・・・
明日。
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kaidanyawa at 20:45|Permalink│Comments(4)│
2010年03月13日
中山市朗出演情報
中山市朗です。
皆様に報告です。
今度の水曜日、つまり3月17日。
関西テレビで20時から放送予定の『ベストハウス123 3時間スペシャル』の、最恐ビデオ123のコーナーに、出演いたします。
というか、この報告を受けたとき、「なんのこと?」とわからんかった・・・。
だって最近、そんな撮影してないし・・・。
そしたらなんと、去年の7月7日(収録の模様は7月8日、7月27日のブログで)に収録したものが、まだ未放送やったんですな。
で、今回それがオンエアされるようです。
忘れてた!
ということで、私も最恐だと思う心霊ビデオ・・・。北野誠氏(芸能活動復帰されました!)にとり憑いていた、かも知れない亡霊を、とくとご覧あれ。
決して、ひとりでは見ないように。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
皆様に報告です。
今度の水曜日、つまり3月17日。
関西テレビで20時から放送予定の『ベストハウス123 3時間スペシャル』の、最恐ビデオ123のコーナーに、出演いたします。
というか、この報告を受けたとき、「なんのこと?」とわからんかった・・・。
だって最近、そんな撮影してないし・・・。
そしたらなんと、去年の7月7日(収録の模様は7月8日、7月27日のブログで)に収録したものが、まだ未放送やったんですな。
で、今回それがオンエアされるようです。
忘れてた!
ということで、私も最恐だと思う心霊ビデオ・・・。北野誠氏(芸能活動復帰されました!)にとり憑いていた、かも知れない亡霊を、とくとご覧あれ。
決して、ひとりでは見ないように。
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kaidanyawa at 22:34|Permalink│Comments(8)│
2010年03月12日
ドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』をメッタ斬り! 後編
中山市朗です。
ドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』についてムカついている、という後編です。
今回はネタバレします。
気をつけてお読みください。
アンジェイ・ワイダ監督は黒澤監督の『悪い奴ほどよく眠る』のヒントは、『ハムレット』にあったのではないかと指摘しました。
父王を殺した叔父に復讐するハムレット。黒澤監督は、そう言われてハッとしたと言います。意識はしていなかったが、自然とその世界観を踏襲していた・・・。
ワイダ監督の見識、さすがです。
さて、新婦の佳子は、西の愛情を信じています。彼女は片足が不自由で純粋無垢の女性として描かれます。岩淵の父としての優しい顔しか彼女は信じられないでいます。
これは黒澤明の作家性によるところが大きいわけです。黒澤明という人は、女性、とりわけセックスという問題に対して(『羅生門』という強姦をテーマとした傑作がありながらも)ストイックなんですね。特に初期の作品『素晴らしき日曜日』『静かなる決闘』なんてそうですな。『用心棒』の浪人でさえ女郎を抱こうとしない。溝口健二や成瀬巳喜男、木下恵介といった日本の巨匠たちは、女性の世界を描いたのですが、黒澤明だけは男の世界を描いた、というのはそこに原因があるのでしょう。おそらく黒澤明という人は、女性をあまりに美しいものとして崇めたがために、女性の性という問題を扱うことをはばかったんです。ある意味明治の堅物でもあります。もの凄い照れ屋でもあったようですし。だから『蜘蛛巣城』の浅茅、『どん底』のお杉、『乱』の楓、みたいな正反対の悪い女も描けた。清純派と徹底した悪女。極端な言い方ですが、黒澤映画に登場する女性は、この2つのタイプに分かれます。そして清純な女性は決して犯してはならないのです。
『静かなる決闘』の三船敏郎と三条美紀の関係は、まさに黒澤明の世界だけに(おそらく)存在するものでしょう。あれこそが黒澤明の世界なのです。
特にこの作品では、西は佳子とベッドを共にしない。佳子との結婚そのものが、復讐の道具でしかないのなら、せめて佳子の純血は守らなければ、と西は思っている。それが却って佳子を苦しめているんだということに途中まで気がつかないんですね。そしてそれが、愛情の裏返しなんだということになる。これが黒澤明という作家性を象徴しているんです。
しかしドラマ版では妙にここを強調して、佳子の姉(映画では兄の設定で三橋達也。ドラマでは姉でとよた真帆が演じる)が「夫婦するのよ!」とやたら意味不明の言葉を言い、岩淵の養女(佳子の生まれる前に跡継ぎがいないので岩淵家に養女にもらわれた、と自身が告白するシーンがあったが、なぜ財閥の跡取りにわざわざ女の子の養子を?)であるがために、岩淵に強姦されたことがあるとか、西との恋仲を示唆するシーンがラストにあったりとか、これはムチャクチャです。これは絶対草葉の陰から黒澤監督が見ていたら、激怒するはずです。
黒澤明という作家性の冒涜です、これは!
わかっとらん!
しかもですよ!
最終的には、西は佳子の姉、双葉に諭され、復讐を諦め佳子との愛をとるという、とんでもないラストになるわけです。
なんたって、最後のシーンで、西と佳子がモーターボートに乗って幸せそうにしているのを見せられて、なんやねんこれ、と。
西は復讐という名の下に犯罪を冒している。自分でも言っている。
「戸籍法違反、結婚詐欺、不法監禁、不法侵入、脅迫、誘拐・・・」
つまり警察にこれだけの罪を自白して出頭すれば、動かぬ証拠を手にしている限り岩淵たちにも手が出せなくなる。計算の上での実行。警察内でじっくり告発するわけ。
告発という行為は、命を賭けねばならない。
西は、復讐のために告発をする。悪事を暴露するために、自らも悪事に手を染める。
映画では、この西の罪は、あることで制裁される。だが!
リメイク版では、その罪はどうなった?
オリジナル版は凄まじい。
西は、途中でその正体がバレてしまいます。それも子も無く、孤独でアパート経営をしている古谷の本妻に、親切心という化けの皮を被った岩淵の部下が聞き出すんです。聞き出して、西を消そうとするわけです。
岩淵へのその報告を盗み聞きした辰雄は、それとも知らずに帰ってきた西に、猟銃を向け発砲します。
かわいい妹を騙した許せない男として。
西はバレたらそれまでと、逃走します。そして西は、誰も使っていない防空壕に、戸籍交換した本物の西と落ち合い、汚職の証拠固めに守山管理部長を誘拐し、脅迫しながら、隠蔽された汚職の証拠を聞き出します。そしてその証拠提示と、死んだはずの和田課長補佐を紹介して、彼らの悪事を暴露するための記者会見を準備します。
和田は、自分と同じように自殺という名の殺人で、殺された西の父親のことと、上役の下劣な言動、汚職の実態を西から知らされ、苦しみながらも幽霊役を買っています。その和田は、復讐の鬼と化しながらも佳子のことを西が愛していると察知すると、佳子に西が防空壕にいることを知らせます。足を引きずり、ここまでやってきた佳子。向かい合った2人は、ここで初めて抱擁しあうのです。
帰宅した佳子。岩淵は佳子が西に会ってきたと確信し、カマをかけて西の居所を聞き出します。すると、
ドラマでは岩淵に雇われた三人組のピストルを持った殺し屋が西の隠れ家に現れ、西は追われます。その直後佳子が西を助けようと現れ、さらに現れた双葉によって諭されるという・・・このあたりが、なんやこれ、ほんまに安物のサスペンス劇場ですわ・・・。
ピストルを持った殺し屋?
また、おそらくプロ中のプロを3人も雇っているはずなのに、彼らの銃弾は決して西には当たらない。『ウィンドトゥーカーズ』の日本兵の銃弾が、決してニコラス・ケイジに当たらないように? ん?
オリジナルでは、父に西の居場所を喋ったという佳子とともに、直感で親父は西を殺すと悟った兄、辰雄はすぐに車で現場に直行します。その途中、踏切でぺしゃんこになった車と誘導している警察と人垣が画面になにげに映ります・・・。
そして西がいるはずの防空壕にいたのは、西と戸籍交換をしたという友人、板倉。つまり板倉が西の本名なんですね。
もう西には戻れない板倉は、佳子を見て言います。
「あなたですね。西がここにいることを話したのは? おめでとう。おかげで西は殺されましたよ!」
佳子の表情にショックが走ります。
兄は言います。「佳子を責めるのはやめろ。佳子はただ、親父にだまされただけだ!」
「だまされただけ? これでまた、日本中がだまされるんだ。ここへ来る途中で見たろ! 貨物列車にぶつけられて、スクラップのように潰れた自動車を、西があの中にいたんだ!」
佳子の身体から力が抜けます。
そう、西はおそらく居場所を知った岩淵の部下たちによって大量のウイスキーを無理やり飲まされ、失神状態のまま車に押し込められ・・・
「和田課長補佐も殺された・・・あの人は昨夜までここにいた。今はどこにもいない。どうせ一度死んだはずの人間だ。始末するのは訳ないさ」
板倉は、西が殺されたことを知る唯一の証言者であるが、戸籍も交換し、西という男が消えてしまっては、なんの証拠もなく、何も言えない・・・。和田も殺されたというのに! そしてこのことは決してマスコミには出ることはないのだ!
板倉は叫びます。
「これでいいのか!」
一方、記者会見のシーンとなります。
だが、ここの記者会見はもともと西が、岩淵の悪事を報道陣に告発しようとして準備したもの。しかし、詰めかけた報道陣に向かって岩淵は悲痛な顔で報道陣に応対します。
「死体から大量のアルコール分が検出されたという話だが・・・私には到底信じられん・・・あの男が、そんな、いや、私としては、かけがえのない、いや身びいきで言うのではないが、才能といい、実行力といい、実に申し分のない秘書・・・しかも娘の婿を失って茫然自失というより他に・・・」
岩淵の、もの凄い演技です。我々はこんな悪い奴の記者会見に、延々だまされてきたのでしょう。
・・・静まり返った報道陣から質問がでます。
「ところで副総裁、昨夜、西さんの名前で各社に電話があって、記者会見をしたいという話でしたが、あれは・・・?」
「それはね、私が言いつけたんです。しかし、この際、どうも・・・いずれまた、日を改めて・・・」
と岩淵はよろよろと立ち上がります。そして、副総裁室に入って、ホッとした表情を見せます。と、ギクッとなる岩淵。部屋の入り口に、辰雄が、ショックに辛うじて立っているだけの佳子を抱きかかえています。そして言います。
「あなたは西を殺すとともに、佳子まで殺した・・・」
「辰雄! 佳子!」
「近寄るな。もう佳子はあなたの娘じゃない。俺もあなたの息子じゃない。2人とも二度とあなたの顔を見たくない。それを言いにきたんです」
そう言って出て行く辰雄と、抱きかかえられた佳子。
西がハムレットなら、たしかに佳子はオフィリアです。そして辰雄は、レアティーズかもしれない・・・。
岩淵は我が子を追おうとすると、電話のベルが。
姿勢を正して、その電話に出る岩淵。
「ご心配をおかけいたしまして。ハ・・・、ハ・・・つきましては、私の一身上のことでございますが、この際、公団のためにも身を引いたほうが・・・ハ? 一時外遊? ハ・・・、私もそのように考えて・・・なにぶん、よろしくご配慮を・・・。では、おやすみなさい・・・ハ? これはどうも、昨夜は一睡もしなかったものですから、つい昼夜を取り違えまして・・・ははは、それでは失礼いたします」
岩淵は、電話に向かって深々と頭を下げます。
そしてタイトルが出ます。
「悪い奴ほどよく眠る」
これです!
だからこの題名なのです!
観客は、このエンドタイトルを見て、権力の恐ろしさと巨大な力、そして本当の悪は闇に潜むものだと戦慄したはずです。映画による告発です。しかしそれは、西とともに敗北するんです。そしてそれがなんだか妙にリアルに思えるわけです。
これは、今のように汚職はそんなに明るみに出ていない、50年前の映画ですよ!
それが今回のリメイク版のエンディングは・・・
モーターボートに乗って、幸せそうにしている愛に目覚めた西と佳子!
それを岸辺で見守る双葉、その表情が涙から微笑みになるのは、なに?
つまり、西の悪事の追求は、双葉の愛の説得により途中で放棄され、西の悪事も愛に目覚めたがために許された・・・と?
それが黒澤明へのオマージュなのか!
アホタレ!
と言いたい。
愛のためならすべては許されるなどという陳腐な題材に、黒澤明という人は愛想をつかし、『乱』では愛のすべてが神の前に消し飛ぶ、無妙の境地を表現した人ですぞ!
ネットでこのドラマのことを検索すると、今回、西を演じた村上弘明氏のこんなコメントが載っていた。
自殺者が12年連続3万人を超える現代、「どんな辱めを受けても生きていりゃ、なんとかなる。そこにこの作品の今日的意味がある」
違う。
問題は、12年連続3万人を超える現代を作り出している原因でしょう!
政治と大企業の癒着、公的な税金が投入されたはずの銀行の貸し渋り、中小企業切り、派遣切り。和田のような小人物は使い捨てされ、官僚や高官は肥え太る。
ここにメスを入れなきゃ、『悪い奴ほどよく眠る』を今にリメイクした意味はない。
えっ、テレビには限界がある?
なら、やめとけ!
黒澤明は闘いました。映画とはいえ、やはり東宝という企業、産業で成り立つ媒体です。反政府、反対制を露骨にやると上映中止、会社自体もそのあおりをくらう。だから、このような問題を扱うには苦難もあり、限界もあり、やりたいことができなかったと言います。しかしあえて、黒澤はこの問題に挑戦したのです。
そしてこの重いテーマを観客に2時間30分観てもらうがための、サスペンスの演出には工夫を凝らした。それは際立ったものがあります。どちらかというと、数多ある黒澤映画の中では、失敗作として挙げられることのあるこの作品ですが、この手法や犯罪組織の描き方から、フランシス・コッポラは『ゴッドファーザー』のヒントを得たと言います。
その、映画としての『悪い奴ほどよく眠る』の何ひとつ、今回のドラマは踏襲しなかった。ただ、そのプロットを改悪し、サスペンス劇場風にしただけ。
とても黒澤明という人を真にリスペクトしているとは思えない。
そういえば、映画では殺されてしまった和田課長補佐。
ドラマでは・・・ん?
あれ、生きてますやん。
話、終わってませんやん!
このドラマを制作した人々・・・。
な〜んにも、わかっていません!!
いや、何をしてもいいけど、黒澤明の作家としてのスピリッツをこんなことにするのは許せん!!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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ドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』についてムカついている、という後編です。
今回はネタバレします。
気をつけてお読みください。
アンジェイ・ワイダ監督は黒澤監督の『悪い奴ほどよく眠る』のヒントは、『ハムレット』にあったのではないかと指摘しました。
父王を殺した叔父に復讐するハムレット。黒澤監督は、そう言われてハッとしたと言います。意識はしていなかったが、自然とその世界観を踏襲していた・・・。
ワイダ監督の見識、さすがです。
さて、新婦の佳子は、西の愛情を信じています。彼女は片足が不自由で純粋無垢の女性として描かれます。岩淵の父としての優しい顔しか彼女は信じられないでいます。
これは黒澤明の作家性によるところが大きいわけです。黒澤明という人は、女性、とりわけセックスという問題に対して(『羅生門』という強姦をテーマとした傑作がありながらも)ストイックなんですね。特に初期の作品『素晴らしき日曜日』『静かなる決闘』なんてそうですな。『用心棒』の浪人でさえ女郎を抱こうとしない。溝口健二や成瀬巳喜男、木下恵介といった日本の巨匠たちは、女性の世界を描いたのですが、黒澤明だけは男の世界を描いた、というのはそこに原因があるのでしょう。おそらく黒澤明という人は、女性をあまりに美しいものとして崇めたがために、女性の性という問題を扱うことをはばかったんです。ある意味明治の堅物でもあります。もの凄い照れ屋でもあったようですし。だから『蜘蛛巣城』の浅茅、『どん底』のお杉、『乱』の楓、みたいな正反対の悪い女も描けた。清純派と徹底した悪女。極端な言い方ですが、黒澤映画に登場する女性は、この2つのタイプに分かれます。そして清純な女性は決して犯してはならないのです。
『静かなる決闘』の三船敏郎と三条美紀の関係は、まさに黒澤明の世界だけに(おそらく)存在するものでしょう。あれこそが黒澤明の世界なのです。
特にこの作品では、西は佳子とベッドを共にしない。佳子との結婚そのものが、復讐の道具でしかないのなら、せめて佳子の純血は守らなければ、と西は思っている。それが却って佳子を苦しめているんだということに途中まで気がつかないんですね。そしてそれが、愛情の裏返しなんだということになる。これが黒澤明という作家性を象徴しているんです。
しかしドラマ版では妙にここを強調して、佳子の姉(映画では兄の設定で三橋達也。ドラマでは姉でとよた真帆が演じる)が「夫婦するのよ!」とやたら意味不明の言葉を言い、岩淵の養女(佳子の生まれる前に跡継ぎがいないので岩淵家に養女にもらわれた、と自身が告白するシーンがあったが、なぜ財閥の跡取りにわざわざ女の子の養子を?)であるがために、岩淵に強姦されたことがあるとか、西との恋仲を示唆するシーンがラストにあったりとか、これはムチャクチャです。これは絶対草葉の陰から黒澤監督が見ていたら、激怒するはずです。
黒澤明という作家性の冒涜です、これは!
わかっとらん!
しかもですよ!
最終的には、西は佳子の姉、双葉に諭され、復讐を諦め佳子との愛をとるという、とんでもないラストになるわけです。
なんたって、最後のシーンで、西と佳子がモーターボートに乗って幸せそうにしているのを見せられて、なんやねんこれ、と。
西は復讐という名の下に犯罪を冒している。自分でも言っている。
「戸籍法違反、結婚詐欺、不法監禁、不法侵入、脅迫、誘拐・・・」
つまり警察にこれだけの罪を自白して出頭すれば、動かぬ証拠を手にしている限り岩淵たちにも手が出せなくなる。計算の上での実行。警察内でじっくり告発するわけ。
告発という行為は、命を賭けねばならない。
西は、復讐のために告発をする。悪事を暴露するために、自らも悪事に手を染める。
映画では、この西の罪は、あることで制裁される。だが!
リメイク版では、その罪はどうなった?
オリジナル版は凄まじい。
西は、途中でその正体がバレてしまいます。それも子も無く、孤独でアパート経営をしている古谷の本妻に、親切心という化けの皮を被った岩淵の部下が聞き出すんです。聞き出して、西を消そうとするわけです。
岩淵へのその報告を盗み聞きした辰雄は、それとも知らずに帰ってきた西に、猟銃を向け発砲します。
かわいい妹を騙した許せない男として。
西はバレたらそれまでと、逃走します。そして西は、誰も使っていない防空壕に、戸籍交換した本物の西と落ち合い、汚職の証拠固めに守山管理部長を誘拐し、脅迫しながら、隠蔽された汚職の証拠を聞き出します。そしてその証拠提示と、死んだはずの和田課長補佐を紹介して、彼らの悪事を暴露するための記者会見を準備します。
和田は、自分と同じように自殺という名の殺人で、殺された西の父親のことと、上役の下劣な言動、汚職の実態を西から知らされ、苦しみながらも幽霊役を買っています。その和田は、復讐の鬼と化しながらも佳子のことを西が愛していると察知すると、佳子に西が防空壕にいることを知らせます。足を引きずり、ここまでやってきた佳子。向かい合った2人は、ここで初めて抱擁しあうのです。
帰宅した佳子。岩淵は佳子が西に会ってきたと確信し、カマをかけて西の居所を聞き出します。すると、
ドラマでは岩淵に雇われた三人組のピストルを持った殺し屋が西の隠れ家に現れ、西は追われます。その直後佳子が西を助けようと現れ、さらに現れた双葉によって諭されるという・・・このあたりが、なんやこれ、ほんまに安物のサスペンス劇場ですわ・・・。
ピストルを持った殺し屋?
また、おそらくプロ中のプロを3人も雇っているはずなのに、彼らの銃弾は決して西には当たらない。『ウィンドトゥーカーズ』の日本兵の銃弾が、決してニコラス・ケイジに当たらないように? ん?
オリジナルでは、父に西の居場所を喋ったという佳子とともに、直感で親父は西を殺すと悟った兄、辰雄はすぐに車で現場に直行します。その途中、踏切でぺしゃんこになった車と誘導している警察と人垣が画面になにげに映ります・・・。
そして西がいるはずの防空壕にいたのは、西と戸籍交換をしたという友人、板倉。つまり板倉が西の本名なんですね。
もう西には戻れない板倉は、佳子を見て言います。
「あなたですね。西がここにいることを話したのは? おめでとう。おかげで西は殺されましたよ!」
佳子の表情にショックが走ります。
兄は言います。「佳子を責めるのはやめろ。佳子はただ、親父にだまされただけだ!」
「だまされただけ? これでまた、日本中がだまされるんだ。ここへ来る途中で見たろ! 貨物列車にぶつけられて、スクラップのように潰れた自動車を、西があの中にいたんだ!」
佳子の身体から力が抜けます。
そう、西はおそらく居場所を知った岩淵の部下たちによって大量のウイスキーを無理やり飲まされ、失神状態のまま車に押し込められ・・・
「和田課長補佐も殺された・・・あの人は昨夜までここにいた。今はどこにもいない。どうせ一度死んだはずの人間だ。始末するのは訳ないさ」
板倉は、西が殺されたことを知る唯一の証言者であるが、戸籍も交換し、西という男が消えてしまっては、なんの証拠もなく、何も言えない・・・。和田も殺されたというのに! そしてこのことは決してマスコミには出ることはないのだ!
板倉は叫びます。
「これでいいのか!」
一方、記者会見のシーンとなります。
だが、ここの記者会見はもともと西が、岩淵の悪事を報道陣に告発しようとして準備したもの。しかし、詰めかけた報道陣に向かって岩淵は悲痛な顔で報道陣に応対します。
「死体から大量のアルコール分が検出されたという話だが・・・私には到底信じられん・・・あの男が、そんな、いや、私としては、かけがえのない、いや身びいきで言うのではないが、才能といい、実行力といい、実に申し分のない秘書・・・しかも娘の婿を失って茫然自失というより他に・・・」
岩淵の、もの凄い演技です。我々はこんな悪い奴の記者会見に、延々だまされてきたのでしょう。
・・・静まり返った報道陣から質問がでます。
「ところで副総裁、昨夜、西さんの名前で各社に電話があって、記者会見をしたいという話でしたが、あれは・・・?」
「それはね、私が言いつけたんです。しかし、この際、どうも・・・いずれまた、日を改めて・・・」
と岩淵はよろよろと立ち上がります。そして、副総裁室に入って、ホッとした表情を見せます。と、ギクッとなる岩淵。部屋の入り口に、辰雄が、ショックに辛うじて立っているだけの佳子を抱きかかえています。そして言います。
「あなたは西を殺すとともに、佳子まで殺した・・・」
「辰雄! 佳子!」
「近寄るな。もう佳子はあなたの娘じゃない。俺もあなたの息子じゃない。2人とも二度とあなたの顔を見たくない。それを言いにきたんです」
そう言って出て行く辰雄と、抱きかかえられた佳子。
西がハムレットなら、たしかに佳子はオフィリアです。そして辰雄は、レアティーズかもしれない・・・。
岩淵は我が子を追おうとすると、電話のベルが。
姿勢を正して、その電話に出る岩淵。
「ご心配をおかけいたしまして。ハ・・・、ハ・・・つきましては、私の一身上のことでございますが、この際、公団のためにも身を引いたほうが・・・ハ? 一時外遊? ハ・・・、私もそのように考えて・・・なにぶん、よろしくご配慮を・・・。では、おやすみなさい・・・ハ? これはどうも、昨夜は一睡もしなかったものですから、つい昼夜を取り違えまして・・・ははは、それでは失礼いたします」
岩淵は、電話に向かって深々と頭を下げます。
そしてタイトルが出ます。
「悪い奴ほどよく眠る」
これです!
だからこの題名なのです!
観客は、このエンドタイトルを見て、権力の恐ろしさと巨大な力、そして本当の悪は闇に潜むものだと戦慄したはずです。映画による告発です。しかしそれは、西とともに敗北するんです。そしてそれがなんだか妙にリアルに思えるわけです。
これは、今のように汚職はそんなに明るみに出ていない、50年前の映画ですよ!
それが今回のリメイク版のエンディングは・・・
モーターボートに乗って、幸せそうにしている愛に目覚めた西と佳子!
それを岸辺で見守る双葉、その表情が涙から微笑みになるのは、なに?
つまり、西の悪事の追求は、双葉の愛の説得により途中で放棄され、西の悪事も愛に目覚めたがために許された・・・と?
それが黒澤明へのオマージュなのか!
アホタレ!
と言いたい。
愛のためならすべては許されるなどという陳腐な題材に、黒澤明という人は愛想をつかし、『乱』では愛のすべてが神の前に消し飛ぶ、無妙の境地を表現した人ですぞ!
ネットでこのドラマのことを検索すると、今回、西を演じた村上弘明氏のこんなコメントが載っていた。
自殺者が12年連続3万人を超える現代、「どんな辱めを受けても生きていりゃ、なんとかなる。そこにこの作品の今日的意味がある」
違う。
問題は、12年連続3万人を超える現代を作り出している原因でしょう!
政治と大企業の癒着、公的な税金が投入されたはずの銀行の貸し渋り、中小企業切り、派遣切り。和田のような小人物は使い捨てされ、官僚や高官は肥え太る。
ここにメスを入れなきゃ、『悪い奴ほどよく眠る』を今にリメイクした意味はない。
えっ、テレビには限界がある?
なら、やめとけ!
黒澤明は闘いました。映画とはいえ、やはり東宝という企業、産業で成り立つ媒体です。反政府、反対制を露骨にやると上映中止、会社自体もそのあおりをくらう。だから、このような問題を扱うには苦難もあり、限界もあり、やりたいことができなかったと言います。しかしあえて、黒澤はこの問題に挑戦したのです。
そしてこの重いテーマを観客に2時間30分観てもらうがための、サスペンスの演出には工夫を凝らした。それは際立ったものがあります。どちらかというと、数多ある黒澤映画の中では、失敗作として挙げられることのあるこの作品ですが、この手法や犯罪組織の描き方から、フランシス・コッポラは『ゴッドファーザー』のヒントを得たと言います。
その、映画としての『悪い奴ほどよく眠る』の何ひとつ、今回のドラマは踏襲しなかった。ただ、そのプロットを改悪し、サスペンス劇場風にしただけ。
とても黒澤明という人を真にリスペクトしているとは思えない。
そういえば、映画では殺されてしまった和田課長補佐。
ドラマでは・・・ん?
あれ、生きてますやん。
話、終わってませんやん!
このドラマを制作した人々・・・。
な〜んにも、わかっていません!!
いや、何をしてもいいけど、黒澤明の作家としてのスピリッツをこんなことにするのは許せん!!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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kaidanyawa at 11:25|Permalink│Comments(4)│
2010年03月11日
3/10の小説技法
中山市朗です。
フジテレビのドラマ『悪い奴ほどよく眠る』のメッタ斬り、後編は明日更新します。
ほんまにヒドすぎて、腹のムシが収まらん!
本日はいつものように小説技法の報告です。
この日は欠席者が多かったのですが・・・
年度末で仕事が忙しいのでしょうか?
風邪をひいた人もいるようですし、プロレスを観にいっている塾生もいるようです。
ちゃんと理由があるならかまいません。
以前、私は黒澤エンタープライゼズ(黒澤明監督をマネージメントしている制作会社です)に出入りしていたことがあったんですが、そこの渡辺さんというプロデューサーの方が言われていました。
「うちは会社だけども、仕事がないのに忙しいフリをして会社にいてもらってもしょうがない。だったら観劇でも映画館でも図書館にでも行ってほしい。そういうこともこの世界では大事な仕事のうちだから。ただしちゃんとどこで何を観ているのかの連絡だけはしてほしい」と。
私も専門学校の講師をしていた頃、ただ漠然と教室に来ているだけの学生には、その渡辺プロデューサーの言葉を聞かせたものです。真のクリエイターになりたいのなら、授業の出欠なんて関係ない。だったら映画でも観に行けと。
塾生諸君にも、どんどん色んなものに接してもらいたいです。
さて、第二水曜日は小説の合評です。
S山くんの奇譚小説。だいぶ書きなれてきた感があります。内容は虚実入り乱れ、何が現実世界で、どこが嘘の世界なのか、のあたりの不鮮明さが面白いのだと思うのですが、ちょっと虚の部分が暴走して、このままだと全部の世界が虚だと読者に誤解を招きかねない。収拾もつかなくなりそうです。もう少し整理し、セーブする必要があります。
前回で長編小説一編を仕上げたHさんの新作は、戦国時代を舞台にした歴史小説。最初の19枚(400字詰め換算で)が提出されましたが、その部分ではまだドラマが展開していないので、カラスと呼ばれる主人公への感情移入ができかねます。それとその方向性もまだわからない。まだ最初のあたりなので・・・というのはあきません。新人の投稿作は最初が肝心。最初の10枚が勝負です。下読みの審査員たちは、よっぽどのことがない限り、それ以上は読んでくれませんから。
K島くんの活動写真ものの小説も、だいぶまとまってきましたが、やっぱり男と女の関係の描写がイマイチ冴えません。主人公の益男は温子との初対面で、どこをどう観察しているのか。緑のスニーカーはない! 温子も仕事が終わっていきなり益男を飲みに誘うからには、やっぱりそれなりの好意をもっている。その微妙な関係を、どう読者に伝えるかが、実は作家の腕の見せどころです。Kくん、素敵だと思う女性がいたら、一度ふたりだけで飲みに誘ってみては?
Yくんのヒーローもの。やっと主人公がヒーローと化して、肉弾戦となります。が、近代兵器があるのになぜわざわざ肉弾戦? という声も上がりました。ヒーローものの定番やん、とはしないのがこの小説の意図だとしたら、そこに作り込みが必要
なのでしょうか。それと、ヒーローと悪玉との距離感がよくわからないところも。
T下さんの24歳の主人公が64歳のまことじいさんに一目ぼれし、結婚しているという設定から始まるこの話。前回、64歳の男性について描写しないと共感できない、と何人かに指摘され、そこを描写してきたのですが、よく言うと文学的な表現となったのですが、言い方を変えると非常に観念的で押し付けがましいんですね。「比喩を使ったら?」とか「キャサリン・ヘップバーンの自伝を読んでみたら?」という意見が。キャサリンが生涯愛した名優スペンサー・トレイシーとの出会いの表現が簡潔で、秀逸なのだそうです。T下さんは「思いを伝えるのは難しいなあ」と悩み始めました。ここからがスタートだと私は思います。
T野くんのSFホラー。2004年に米国で発表された、2020年に再び月面に有人探査を行ない、遠くは火星に人を運ぶことをも視野に入れた「コンステレーション計画」が、予算が出ずに中止になったというニュースが・・・。T野くんの小説は、その世界観が基本にあったらしく、これを受けてどう軌道修正していくかが「自ら抱える問題」と本人は言います。まあSFはそこが難しい。ところで前回修正を求められた、月面基地での怪奇現象の描写。怖くない。なぜかというと、体験者がその怪奇現象を非常に細かなところまで観察していて、怖がっていないんですね。体験者は科学者ということもあるのでしょうけども。しかし学者も人間。驚くリアクションのタイミングはあるはず。そこが恐怖の描写となります。で、怪異がふと消滅してからでしょう。あれやこれやと疑心暗鬼になって、理論的解釈をあてはめるのは・・・
落語作家志望のO田くんのギャグもの。ショートショートのエピソードが、ようやく一つの作品としてつながるような構成になってきた。しかし細かな点では、まだまだ矛盾や説明しきれていない部分も多々あります。ただ、O田くんは登場人物たちのキャラ分けの極意みたいなものを、この作品を書いていて掴んだみたいで。「これがわかったら、喜劇でも落語でも、なんぼでも書けますわ」とのこと。その極意は正しい。手塚治虫先生もやっていたことだし、そもそもその手法は、古典落語のなかにあるんですけど。まあそれに彼は気がついた。やっぱり他のことをやってみて、その道の極意を知るということは、あるんです。やっぱり色々やってみることです。
M下さんの『僕が彼女になった理由』という作品。主人公の男の子がどうしても女性に変身しなければならない状況にあって、新宿の歌舞伎町で働き始める・・・のあたりの不自然さは、もうほとんどなくなって、エンターテイメントとしてわくわくして読めるようになりました。ただ、そのアパートに婚約者の彼女が突然やってくる、というシーンで、香水や化粧品の匂いはどうしても消せないと私は思うのですが、そこをどう処理するか・・・
T田くんの『クリエイターズ・ファイト』は、最終章で足踏みしています。古本屋が大火災となるクライマックスシーンは、ある意味『華氏451』へのオマージュみたいになって、そこはいいんですけど、そこにいたる経過がやや荒削り。突っ込みどころが何箇所も出てきました。そしてそこを書き込んだがために、ヒロインの存在が薄くなった。
小説は難しいものなのですねぇ。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
フジテレビのドラマ『悪い奴ほどよく眠る』のメッタ斬り、後編は明日更新します。
ほんまにヒドすぎて、腹のムシが収まらん!
本日はいつものように小説技法の報告です。
この日は欠席者が多かったのですが・・・
年度末で仕事が忙しいのでしょうか?
風邪をひいた人もいるようですし、プロレスを観にいっている塾生もいるようです。
ちゃんと理由があるならかまいません。
以前、私は黒澤エンタープライゼズ(黒澤明監督をマネージメントしている制作会社です)に出入りしていたことがあったんですが、そこの渡辺さんというプロデューサーの方が言われていました。
「うちは会社だけども、仕事がないのに忙しいフリをして会社にいてもらってもしょうがない。だったら観劇でも映画館でも図書館にでも行ってほしい。そういうこともこの世界では大事な仕事のうちだから。ただしちゃんとどこで何を観ているのかの連絡だけはしてほしい」と。
私も専門学校の講師をしていた頃、ただ漠然と教室に来ているだけの学生には、その渡辺プロデューサーの言葉を聞かせたものです。真のクリエイターになりたいのなら、授業の出欠なんて関係ない。だったら映画でも観に行けと。
塾生諸君にも、どんどん色んなものに接してもらいたいです。
さて、第二水曜日は小説の合評です。
S山くんの奇譚小説。だいぶ書きなれてきた感があります。内容は虚実入り乱れ、何が現実世界で、どこが嘘の世界なのか、のあたりの不鮮明さが面白いのだと思うのですが、ちょっと虚の部分が暴走して、このままだと全部の世界が虚だと読者に誤解を招きかねない。収拾もつかなくなりそうです。もう少し整理し、セーブする必要があります。
前回で長編小説一編を仕上げたHさんの新作は、戦国時代を舞台にした歴史小説。最初の19枚(400字詰め換算で)が提出されましたが、その部分ではまだドラマが展開していないので、カラスと呼ばれる主人公への感情移入ができかねます。それとその方向性もまだわからない。まだ最初のあたりなので・・・というのはあきません。新人の投稿作は最初が肝心。最初の10枚が勝負です。下読みの審査員たちは、よっぽどのことがない限り、それ以上は読んでくれませんから。
K島くんの活動写真ものの小説も、だいぶまとまってきましたが、やっぱり男と女の関係の描写がイマイチ冴えません。主人公の益男は温子との初対面で、どこをどう観察しているのか。緑のスニーカーはない! 温子も仕事が終わっていきなり益男を飲みに誘うからには、やっぱりそれなりの好意をもっている。その微妙な関係を、どう読者に伝えるかが、実は作家の腕の見せどころです。Kくん、素敵だと思う女性がいたら、一度ふたりだけで飲みに誘ってみては?
Yくんのヒーローもの。やっと主人公がヒーローと化して、肉弾戦となります。が、近代兵器があるのになぜわざわざ肉弾戦? という声も上がりました。ヒーローものの定番やん、とはしないのがこの小説の意図だとしたら、そこに作り込みが必要
なのでしょうか。それと、ヒーローと悪玉との距離感がよくわからないところも。
T下さんの24歳の主人公が64歳のまことじいさんに一目ぼれし、結婚しているという設定から始まるこの話。前回、64歳の男性について描写しないと共感できない、と何人かに指摘され、そこを描写してきたのですが、よく言うと文学的な表現となったのですが、言い方を変えると非常に観念的で押し付けがましいんですね。「比喩を使ったら?」とか「キャサリン・ヘップバーンの自伝を読んでみたら?」という意見が。キャサリンが生涯愛した名優スペンサー・トレイシーとの出会いの表現が簡潔で、秀逸なのだそうです。T下さんは「思いを伝えるのは難しいなあ」と悩み始めました。ここからがスタートだと私は思います。
T野くんのSFホラー。2004年に米国で発表された、2020年に再び月面に有人探査を行ない、遠くは火星に人を運ぶことをも視野に入れた「コンステレーション計画」が、予算が出ずに中止になったというニュースが・・・。T野くんの小説は、その世界観が基本にあったらしく、これを受けてどう軌道修正していくかが「自ら抱える問題」と本人は言います。まあSFはそこが難しい。ところで前回修正を求められた、月面基地での怪奇現象の描写。怖くない。なぜかというと、体験者がその怪奇現象を非常に細かなところまで観察していて、怖がっていないんですね。体験者は科学者ということもあるのでしょうけども。しかし学者も人間。驚くリアクションのタイミングはあるはず。そこが恐怖の描写となります。で、怪異がふと消滅してからでしょう。あれやこれやと疑心暗鬼になって、理論的解釈をあてはめるのは・・・
落語作家志望のO田くんのギャグもの。ショートショートのエピソードが、ようやく一つの作品としてつながるような構成になってきた。しかし細かな点では、まだまだ矛盾や説明しきれていない部分も多々あります。ただ、O田くんは登場人物たちのキャラ分けの極意みたいなものを、この作品を書いていて掴んだみたいで。「これがわかったら、喜劇でも落語でも、なんぼでも書けますわ」とのこと。その極意は正しい。手塚治虫先生もやっていたことだし、そもそもその手法は、古典落語のなかにあるんですけど。まあそれに彼は気がついた。やっぱり他のことをやってみて、その道の極意を知るということは、あるんです。やっぱり色々やってみることです。
M下さんの『僕が彼女になった理由』という作品。主人公の男の子がどうしても女性に変身しなければならない状況にあって、新宿の歌舞伎町で働き始める・・・のあたりの不自然さは、もうほとんどなくなって、エンターテイメントとしてわくわくして読めるようになりました。ただ、そのアパートに婚約者の彼女が突然やってくる、というシーンで、香水や化粧品の匂いはどうしても消せないと私は思うのですが、そこをどう処理するか・・・
T田くんの『クリエイターズ・ファイト』は、最終章で足踏みしています。古本屋が大火災となるクライマックスシーンは、ある意味『華氏451』へのオマージュみたいになって、そこはいいんですけど、そこにいたる経過がやや荒削り。突っ込みどころが何箇所も出てきました。そしてそこを書き込んだがために、ヒロインの存在が薄くなった。
小説は難しいものなのですねぇ。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
kaidanyawa at 20:51|Permalink│Comments(1)│
2010年03月10日
ドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』をメッタ斬り! 前編
中山市朗です。
以前、このブログで森田芳光監督版『椿三十郎』をぶった斬りましたが、今回も堪忍できん! ぶった斬る!
1960年に公開された黒澤明監督『悪い奴ほどよく眠る』をリメイクしたドラマ。
フジテレビで3日にオンエアされた「金曜プレステージ 黒澤明生誕100年企画『悪い奴ほどよく眠る』」ですわ。ぶった斬らねばならぬものは!
まずは譲歩しよう。
これはテレビドラマだ。映画ではない。
テレビには規制があるし、映画とは表現方法も違う。
2時間という放送枠。
オリジナル版は2時間31分もの大作。ドラマ版はCM抜きで93分にまとめなければならない。脚本も演出も担当者は大変苦労なさったと思います。
しかし、視聴者はそんなこと知ったこっちゃない。
これはそうまでしてリメイクする意味があったのか!
黒澤明生誕100年とテロップを打つからには、黒澤明監督やその作品をリスペクトしてなきゃおかしい。視聴者が、特に黒澤映画を知らない世代の人たちに、「なんか黒澤さんの映画、観たくなった。すごいじゃん」と言わせなきゃ意味がない。でも、私の見たところ、名作映画が○曜サスペンス劇場に成り下がってしまった!
これほどひどいリメイクは初めてですわ!
爆発ですわ!
『悪い奴ほどよく眠る』は、50年前に黒澤監督が政治と公団の癒着による汚職事件の真相に迫ろうとした社会派映画でした。もちろんフィクションではありますが。
「悪党にもずいぶん種類があるけれど、汚職関係のやつくらい悪いやつはいない。大きな機構の影に隠れて普通の人のやれない悪を営む。こいつをなんとかえぐりだそうという気持ちで取り掛かったわけだ」とは、当時の黒澤監督の言葉。今も小沢だの鳩山だの金にまみれた政治の問題が後を絶ちません。全然、この汚職というヤツはなくならない。そして秘書が秘書がと、下っ端の人間が汚名を浴びせられ、ホントに悪いヤツをかばい、増長させていく。食われるのは国民の血税。黒澤監督はこれを50年前に告発したんです。
だからせめて、今回のリメイクドラマでは、そこに焦点を当て、50年前の告発をもう一度世に問う、それが『悪い奴ほどよく眠る』を現代風にアレンジして、リメイクする意味となる。それが黒澤明監督のこの映画に込めたテーマなのだから。
でも、リメイクドラマは、そうではなかった!
オリジナル版は、そのファーストシーンからして秀逸です。
ある結婚式の披露宴会場にスキャンダルの匂いを嗅ぎつけてやってくる、新聞記者の一群。西家・岩淵家 御結婚披露宴席、とそのロビーの立て札にあります。
そこに来賓として出席している紳士然としている登場人物たち。それは公団や政府関係者・・・そこに新聞記者を入れたことで、その紳士ヅラした高官たちの悪事を、新聞記者たちの雑談によって解説していく構成法。同時にこの物語の登場人物たちの紹介もされていくわけです。黒澤明という人の天才的手腕とは、このことです。
その披露宴の真っ最中、二人の刑事が受付にて一人の男を呼び出して逮捕する。記者たちはざわめき立ちます。男は和田という公団の契約課の課長補佐。披露宴も緊張感が漂いはじめる・・・。そこにウェディングケーキが。しかも二つ。その一つは、八階建てのビルの形をしていて、七階の窓には赤いバラが突き刺してあって・・・
それを見て硬直する来賓たち。新聞記者たちは思い出します。
そのビルは汚職の疑惑のある新庁舎ビル。そしてその七階の窓からは、古谷という課長補佐が飛び降り自殺をして事件がウヤムヤにされた、まさにその飛び降りた窓!
では一体、このケーキは何者が?
なんとか平常を保とうとする来賓各人。
それを皮肉の目で見ている新聞記者たちが言う。
「えらい結婚式だな」
「奇々怪々。こんな面白い一幕物は見たことないな」
「一幕物? これは序章さ」
そして踊る新聞記事。
「大汚職に発展か?」「三浦重役、和田課補 本日送検 身柄拘束」「疑惑の的、契約公費総額実に120億!」「入札の影にカラクリか?」・・・
で、地検の取調室となります。調べを受けている和田。どうやら差出不明の密告書が毎日のように舞い込んでいる。ただ、その証拠と証言がない。和田も当然、口を割らない。公務員として上司を守ることが最優先の使命であるかのように。
和田課長補佐はこの後釈放されると、噴火口へ飛び込んで自殺をはかります。公団に不利な証言を、自分の身とともに消滅させることが、上役への奉公だと信じて。
しかしそこに先の結婚披露宴の娘婿、公団局長、副総裁岩淵の秘書である西幸一(今は岩淵幸一)が現れます。黒ぶち眼鏡をかけた三船敏郎が演じています。岩淵は和田にとってトップの上司。その娘婿。秘書。和田は青ざめます。
「す、すみません、今すぐ・・・」と四つんばいになって崖を這い上がって、火口へ行こうとする。その和田を西がひっつかんで言います。
「よくも飼いならされたものだな! 昨日、守山と白井に因果を含められて大真面目に死ぬ気らしいが、大笑いだ! 貴様が忠義立てをしているその上役は、今頃祝杯をあげているぜ」
・・・。
和田課長補佐は驚きます。「わからない・・・あなたが、なぜ、こんな・・・」
西は和田課補の襟首を掴んで、火口を覗かせます。
「どうする、死ぬか!」
噴火口の煙、和田課長補佐の叫び声が聞こえます。
翌日の新聞の見出し。
「和田課長補佐自殺す」
リメイク版には、披露宴会場に新聞記者はいなかった。事件が刻々と動く印象的な新聞記事のモンタージュもなし。もっとも劇中で新聞の見出しを見たり、テレビニュースの報道を視聴しているシーンはありましたが、重要な演出にはなっていません。
黒澤監督は、この新聞の見出しが大衆の認知する表の事件の顔という位置づけとするために、壁一面の巨大な新聞紙を作らせ、その見出しを望遠で撮ったといいます。東宝スコープに踊る迫力ある新聞の見出しのモンタージュは、ラストへの布石にもなるんです。
新聞、報道が報じる汚職の実態。
しかしその実態とは・・・?
そこを黒澤監督は、えぐり出したかったんです。この映画で。
だから、報道関係者の目で始まった。
しかしリメイク版の主軸は、あくまで主人公、岩淵副総裁の秘書で花婿でもある西幸一と、汚職の黒幕(ドラマではエネルギー開発機構)岩淵(映画では森雅之、ドラマでは中野誠也)の娘で新婦の佳子(映画では香川京子、ドラマでは岩井なおみ)との愛の物語になってしまっていた・・・
西は実は、汚職にからんで岩淵に詰腹切らされ、新庁舎ビルの七階から投身した古谷の私生児であり、母もとうに亡くし、天涯孤独の男なのです。その父の無念を晴らすために、友人と戸籍交換をし、まずは岩淵の秘書となり、続いて婿養子となって岩淵家に潜伏した男なんです。復讐の鬼となって。
汚職。悪い奴は何十億というリベートを着服し、その責任を下っ端役人に押し付け、また上司の命令には絶対服従を誓うように飼いならされた課長クラスの人間は、どんどん事故、自殺という形によって消されていく・・・おそらく今も、50年前に黒澤明がこの映画で告発したにも関わらず、現状としてある。
自民党も民主党も官僚もみんな言います。
「秘書が、秘書が・・・」
そして秘書が詰腹切らされる。もっと探れば謎の心不全・・・。
黒澤演出における西の復讐の描写は、佐藤勝の秀逸な音楽とモノクロ映像があいまって、フィルム・ノワールの世界観なんですな。当時、佐藤勝さんは日活のアクション映画をよく担当されていて、やっぱりこのフィルム・ノワールは意識したらしい。と同時に黒澤監督からはブードゥ教の音楽のレコードを聴かされ、バーバリズムな音楽を画面に展開させ、映画に見事なテンポと流れを展開させています。
ノワール、とはフランス語で暗い映画、を意味するそうで、総体的にフィルム・ノワールとは影のある退廃的でクールな犯罪映画を指します。私は勝手に『悪い奴ほどよく眠る』と『天国と地獄』は、黒澤のフィルム・ノワールだと位置づけています。
で、父親に対するねじれた愛情と、その執拗な復讐の様。その心の葛藤を、ポーランドの名監督アンジェイ・ワイダが見て、黒沢監督にこう言ったといいます。
「これはハムレットだ!」と。
この項続く(金曜日の予定)
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
以前、このブログで森田芳光監督版『椿三十郎』をぶった斬りましたが、今回も堪忍できん! ぶった斬る!
1960年に公開された黒澤明監督『悪い奴ほどよく眠る』をリメイクしたドラマ。
フジテレビで3日にオンエアされた「金曜プレステージ 黒澤明生誕100年企画『悪い奴ほどよく眠る』」ですわ。ぶった斬らねばならぬものは!
まずは譲歩しよう。
これはテレビドラマだ。映画ではない。
テレビには規制があるし、映画とは表現方法も違う。
2時間という放送枠。
オリジナル版は2時間31分もの大作。ドラマ版はCM抜きで93分にまとめなければならない。脚本も演出も担当者は大変苦労なさったと思います。
しかし、視聴者はそんなこと知ったこっちゃない。
これはそうまでしてリメイクする意味があったのか!
黒澤明生誕100年とテロップを打つからには、黒澤明監督やその作品をリスペクトしてなきゃおかしい。視聴者が、特に黒澤映画を知らない世代の人たちに、「なんか黒澤さんの映画、観たくなった。すごいじゃん」と言わせなきゃ意味がない。でも、私の見たところ、名作映画が○曜サスペンス劇場に成り下がってしまった!
これほどひどいリメイクは初めてですわ!
爆発ですわ!
『悪い奴ほどよく眠る』は、50年前に黒澤監督が政治と公団の癒着による汚職事件の真相に迫ろうとした社会派映画でした。もちろんフィクションではありますが。
「悪党にもずいぶん種類があるけれど、汚職関係のやつくらい悪いやつはいない。大きな機構の影に隠れて普通の人のやれない悪を営む。こいつをなんとかえぐりだそうという気持ちで取り掛かったわけだ」とは、当時の黒澤監督の言葉。今も小沢だの鳩山だの金にまみれた政治の問題が後を絶ちません。全然、この汚職というヤツはなくならない。そして秘書が秘書がと、下っ端の人間が汚名を浴びせられ、ホントに悪いヤツをかばい、増長させていく。食われるのは国民の血税。黒澤監督はこれを50年前に告発したんです。
だからせめて、今回のリメイクドラマでは、そこに焦点を当て、50年前の告発をもう一度世に問う、それが『悪い奴ほどよく眠る』を現代風にアレンジして、リメイクする意味となる。それが黒澤明監督のこの映画に込めたテーマなのだから。
でも、リメイクドラマは、そうではなかった!
オリジナル版は、そのファーストシーンからして秀逸です。
ある結婚式の披露宴会場にスキャンダルの匂いを嗅ぎつけてやってくる、新聞記者の一群。西家・岩淵家 御結婚披露宴席、とそのロビーの立て札にあります。
そこに来賓として出席している紳士然としている登場人物たち。それは公団や政府関係者・・・そこに新聞記者を入れたことで、その紳士ヅラした高官たちの悪事を、新聞記者たちの雑談によって解説していく構成法。同時にこの物語の登場人物たちの紹介もされていくわけです。黒澤明という人の天才的手腕とは、このことです。
その披露宴の真っ最中、二人の刑事が受付にて一人の男を呼び出して逮捕する。記者たちはざわめき立ちます。男は和田という公団の契約課の課長補佐。披露宴も緊張感が漂いはじめる・・・。そこにウェディングケーキが。しかも二つ。その一つは、八階建てのビルの形をしていて、七階の窓には赤いバラが突き刺してあって・・・
それを見て硬直する来賓たち。新聞記者たちは思い出します。
そのビルは汚職の疑惑のある新庁舎ビル。そしてその七階の窓からは、古谷という課長補佐が飛び降り自殺をして事件がウヤムヤにされた、まさにその飛び降りた窓!
では一体、このケーキは何者が?
なんとか平常を保とうとする来賓各人。
それを皮肉の目で見ている新聞記者たちが言う。
「えらい結婚式だな」
「奇々怪々。こんな面白い一幕物は見たことないな」
「一幕物? これは序章さ」
そして踊る新聞記事。
「大汚職に発展か?」「三浦重役、和田課補 本日送検 身柄拘束」「疑惑の的、契約公費総額実に120億!」「入札の影にカラクリか?」・・・
で、地検の取調室となります。調べを受けている和田。どうやら差出不明の密告書が毎日のように舞い込んでいる。ただ、その証拠と証言がない。和田も当然、口を割らない。公務員として上司を守ることが最優先の使命であるかのように。
和田課長補佐はこの後釈放されると、噴火口へ飛び込んで自殺をはかります。公団に不利な証言を、自分の身とともに消滅させることが、上役への奉公だと信じて。
しかしそこに先の結婚披露宴の娘婿、公団局長、副総裁岩淵の秘書である西幸一(今は岩淵幸一)が現れます。黒ぶち眼鏡をかけた三船敏郎が演じています。岩淵は和田にとってトップの上司。その娘婿。秘書。和田は青ざめます。
「す、すみません、今すぐ・・・」と四つんばいになって崖を這い上がって、火口へ行こうとする。その和田を西がひっつかんで言います。
「よくも飼いならされたものだな! 昨日、守山と白井に因果を含められて大真面目に死ぬ気らしいが、大笑いだ! 貴様が忠義立てをしているその上役は、今頃祝杯をあげているぜ」
・・・。
和田課長補佐は驚きます。「わからない・・・あなたが、なぜ、こんな・・・」
西は和田課補の襟首を掴んで、火口を覗かせます。
「どうする、死ぬか!」
噴火口の煙、和田課長補佐の叫び声が聞こえます。
翌日の新聞の見出し。
「和田課長補佐自殺す」
リメイク版には、披露宴会場に新聞記者はいなかった。事件が刻々と動く印象的な新聞記事のモンタージュもなし。もっとも劇中で新聞の見出しを見たり、テレビニュースの報道を視聴しているシーンはありましたが、重要な演出にはなっていません。
黒澤監督は、この新聞の見出しが大衆の認知する表の事件の顔という位置づけとするために、壁一面の巨大な新聞紙を作らせ、その見出しを望遠で撮ったといいます。東宝スコープに踊る迫力ある新聞の見出しのモンタージュは、ラストへの布石にもなるんです。
新聞、報道が報じる汚職の実態。
しかしその実態とは・・・?
そこを黒澤監督は、えぐり出したかったんです。この映画で。
だから、報道関係者の目で始まった。
しかしリメイク版の主軸は、あくまで主人公、岩淵副総裁の秘書で花婿でもある西幸一と、汚職の黒幕(ドラマではエネルギー開発機構)岩淵(映画では森雅之、ドラマでは中野誠也)の娘で新婦の佳子(映画では香川京子、ドラマでは岩井なおみ)との愛の物語になってしまっていた・・・
西は実は、汚職にからんで岩淵に詰腹切らされ、新庁舎ビルの七階から投身した古谷の私生児であり、母もとうに亡くし、天涯孤独の男なのです。その父の無念を晴らすために、友人と戸籍交換をし、まずは岩淵の秘書となり、続いて婿養子となって岩淵家に潜伏した男なんです。復讐の鬼となって。
汚職。悪い奴は何十億というリベートを着服し、その責任を下っ端役人に押し付け、また上司の命令には絶対服従を誓うように飼いならされた課長クラスの人間は、どんどん事故、自殺という形によって消されていく・・・おそらく今も、50年前に黒澤明がこの映画で告発したにも関わらず、現状としてある。
自民党も民主党も官僚もみんな言います。
「秘書が、秘書が・・・」
そして秘書が詰腹切らされる。もっと探れば謎の心不全・・・。
黒澤演出における西の復讐の描写は、佐藤勝の秀逸な音楽とモノクロ映像があいまって、フィルム・ノワールの世界観なんですな。当時、佐藤勝さんは日活のアクション映画をよく担当されていて、やっぱりこのフィルム・ノワールは意識したらしい。と同時に黒澤監督からはブードゥ教の音楽のレコードを聴かされ、バーバリズムな音楽を画面に展開させ、映画に見事なテンポと流れを展開させています。
ノワール、とはフランス語で暗い映画、を意味するそうで、総体的にフィルム・ノワールとは影のある退廃的でクールな犯罪映画を指します。私は勝手に『悪い奴ほどよく眠る』と『天国と地獄』は、黒澤のフィルム・ノワールだと位置づけています。
で、父親に対するねじれた愛情と、その執拗な復讐の様。その心の葛藤を、ポーランドの名監督アンジェイ・ワイダが見て、黒沢監督にこう言ったといいます。
「これはハムレットだ!」と。
この項続く(金曜日の予定)
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
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2010年03月04日
3/3の作劇ゼミ
中山市朗です。
もう3月ですねえ。
花見いつしよ?
で、3日の作劇ゼミ。
「企画書」の書き方について考えてみました。
塾生たちの中で、実際にプロの人と組んで出版企画をやろうとしている者も出てきましたし、映像関係を目指す塾生にとって「企画」の売り込みは必須アイテムです。作家やマンガ家を目指す人も、マルチメディアのこのご時世に、企画力はクリエイターとして生きていくために不可欠なものでしょう。
しかし、「企画を売り込む」ためには、まず営業をかけなければなりません。
先日来ていただいた山口プロデューサーや田野辺編集長のような人たちと、丁々発止を交えなければなりません。
「緊張しました」とか「言いたいことを言えませんでした」なんて言うてる場合やおまへん。ああいう人たちと取引して、作品つくってお金にせな!
もっとコミュニケーションとらな。
そのコミュニケーション。
総体的に日本人は、これが下手やと言われています。
黙して語らず、が何か美徳のように思われる日本文化ですが、今はもうそんな時代ではありません。でも幕末の幕府が突如黒船に乗ってやってきたペリーたちに対して行なった外交交渉は堂々たるもので、ペリーたちを唸らせたと言います。明治を作った人たちも、日本という国を一等国にするための血のにじむ戦略的外交交渉をやって、近代日本を作り上げたんです。当時の日本人のコミュニケーション能力は、イザというときには、ものすごく高いものがあったようです。
今の民主党なんて、なんですかあれ?
思うに、我々の世代からしてそうですが、どうも正解がないことはわずらわしい。
なかでもコミュニケーションというのは正解がありません。つまり変数が多い。
これに対応できない、というものが今の日本人にはあるように思います。
個人のキャラクター、利害関係、立場、能力、経験の違いを承知した上で、どう戦略的に展開させるか。また、偶然偶発的に言ったり、行動したことで、コミュニケーションが取れる場合もあります。そのプロセスが面白いし楽しいのではありますが、そこが苦手、という人が多い。
教育の問題もあるのでしょうか?
括弧の中に正解を入れよ、とか、マークシート方式での正誤式問題とか、正解が存在していることが前提の試験問題がほとんど。英語なんて、話せる、書ける、読める、ということが重要なのにマークの塗りつぶし試験なんて、あんなん採点する側の都合です。
楽ですから。
で、そういうなかでコミュニケーションという観点を入れることは、困難なのでしょう。
よくあるのが「過程はいいから正解はなんですか?」と聞かれること。
私にとっては、その回答(正解かどうかはわからない)に導かれる過程がおもしろかったり、重要だったりするのですが・・・
企画にも正解がない。
通れば正解といえるのでしょうが、通ってもグダグダな作品になっちゃったり、売れなかったり、失敗したりするかもしれないし、ボツ企画を他のところでも買ってもらって、思わぬヒットを飛ばすことだってある。どこの出版社も買ってくれなかったので自費出版したら、大ヒットを飛ばして、後に大手出版社から話がきた、なんてことも。
ハリウッドの映画界なども、鳴り物入りで超大作を公開したら、大失敗こいて大手映画会社が倒産しかかったこともあった。
企画は難しいんです。
とはいえ、我々はフリーで生きている者ですから、とりあえず企画を通して、ビジネスとして作品を作らねばなりません。
私も、このブログで何度も書いたように、サラリーマンまっぴらごめん、好きなことしかできない大バカ野郎ですので、とにかく企画書を書きまくって、色んな映像メーカーや出版社、広告代理店、テレビ局なんかに持ち込んで、成ったものもあれば、成らなかった(こっちのほうが圧倒的に多かったですが)ものもあります。
で、そのうち企画を通すための秘策、やり方みたいなものが、私の中でわかってきたことがあったんです。
それは・・・塾生だけの特権、ということで。
でも企画を売り込む、ということは、スポンサーになってくれ、お金を出してくれ、言うてるようなものですから、持ち込んだ相手とのコミュニケーションをうまくやって、ビジネスパートナーにふさわしいか、あるいは「こいつ、おもろいな」と思わせるためには、「緊張した」とか「言いたいことが言えなかった」なんて、言ってる場合やないんです。
企画書の書き方にもコツがあります。
企画書は、業界や会社によってそのフォーマットは違いますが、売り込むためのセールスポイントは同じ。そこをどう論理的に展開し、相手を納得させるか。
あっ、これ、私がやりたい、て書いたらあかん。
「あんたのやりたいことを、なんでウチが金ださなあかんねん」と言われる。
あくまで・・・あっ、これも塾生だけの特権、ということで。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
もう3月ですねえ。
花見いつしよ?
で、3日の作劇ゼミ。
「企画書」の書き方について考えてみました。
塾生たちの中で、実際にプロの人と組んで出版企画をやろうとしている者も出てきましたし、映像関係を目指す塾生にとって「企画」の売り込みは必須アイテムです。作家やマンガ家を目指す人も、マルチメディアのこのご時世に、企画力はクリエイターとして生きていくために不可欠なものでしょう。
しかし、「企画を売り込む」ためには、まず営業をかけなければなりません。
先日来ていただいた山口プロデューサーや田野辺編集長のような人たちと、丁々発止を交えなければなりません。
「緊張しました」とか「言いたいことを言えませんでした」なんて言うてる場合やおまへん。ああいう人たちと取引して、作品つくってお金にせな!
もっとコミュニケーションとらな。
そのコミュニケーション。
総体的に日本人は、これが下手やと言われています。
黙して語らず、が何か美徳のように思われる日本文化ですが、今はもうそんな時代ではありません。でも幕末の幕府が突如黒船に乗ってやってきたペリーたちに対して行なった外交交渉は堂々たるもので、ペリーたちを唸らせたと言います。明治を作った人たちも、日本という国を一等国にするための血のにじむ戦略的外交交渉をやって、近代日本を作り上げたんです。当時の日本人のコミュニケーション能力は、イザというときには、ものすごく高いものがあったようです。
今の民主党なんて、なんですかあれ?
思うに、我々の世代からしてそうですが、どうも正解がないことはわずらわしい。
なかでもコミュニケーションというのは正解がありません。つまり変数が多い。
これに対応できない、というものが今の日本人にはあるように思います。
個人のキャラクター、利害関係、立場、能力、経験の違いを承知した上で、どう戦略的に展開させるか。また、偶然偶発的に言ったり、行動したことで、コミュニケーションが取れる場合もあります。そのプロセスが面白いし楽しいのではありますが、そこが苦手、という人が多い。
教育の問題もあるのでしょうか?
括弧の中に正解を入れよ、とか、マークシート方式での正誤式問題とか、正解が存在していることが前提の試験問題がほとんど。英語なんて、話せる、書ける、読める、ということが重要なのにマークの塗りつぶし試験なんて、あんなん採点する側の都合です。
楽ですから。
で、そういうなかでコミュニケーションという観点を入れることは、困難なのでしょう。
よくあるのが「過程はいいから正解はなんですか?」と聞かれること。
私にとっては、その回答(正解かどうかはわからない)に導かれる過程がおもしろかったり、重要だったりするのですが・・・
企画にも正解がない。
通れば正解といえるのでしょうが、通ってもグダグダな作品になっちゃったり、売れなかったり、失敗したりするかもしれないし、ボツ企画を他のところでも買ってもらって、思わぬヒットを飛ばすことだってある。どこの出版社も買ってくれなかったので自費出版したら、大ヒットを飛ばして、後に大手出版社から話がきた、なんてことも。
ハリウッドの映画界なども、鳴り物入りで超大作を公開したら、大失敗こいて大手映画会社が倒産しかかったこともあった。
企画は難しいんです。
とはいえ、我々はフリーで生きている者ですから、とりあえず企画を通して、ビジネスとして作品を作らねばなりません。
私も、このブログで何度も書いたように、サラリーマンまっぴらごめん、好きなことしかできない大バカ野郎ですので、とにかく企画書を書きまくって、色んな映像メーカーや出版社、広告代理店、テレビ局なんかに持ち込んで、成ったものもあれば、成らなかった(こっちのほうが圧倒的に多かったですが)ものもあります。
で、そのうち企画を通すための秘策、やり方みたいなものが、私の中でわかってきたことがあったんです。
それは・・・塾生だけの特権、ということで。
でも企画を売り込む、ということは、スポンサーになってくれ、お金を出してくれ、言うてるようなものですから、持ち込んだ相手とのコミュニケーションをうまくやって、ビジネスパートナーにふさわしいか、あるいは「こいつ、おもろいな」と思わせるためには、「緊張した」とか「言いたいことが言えなかった」なんて、言ってる場合やないんです。
企画書の書き方にもコツがあります。
企画書は、業界や会社によってそのフォーマットは違いますが、売り込むためのセールスポイントは同じ。そこをどう論理的に展開し、相手を納得させるか。
あっ、これ、私がやりたい、て書いたらあかん。
「あんたのやりたいことを、なんでウチが金ださなあかんねん」と言われる。
あくまで・・・あっ、これも塾生だけの特権、ということで。
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
kaidanyawa at 22:43|Permalink│Comments(2)│
2010年03月03日
ダイヤル「プロ」を廻せ!
中山市朗です。
クリエイター志望者たちよ、考えている暇はない!
一歩踏み出せ!
テンションを上げろ!
てなことを、このブログで言っていましたが、そのテンションの高い、好きなことしかしていない、素敵な大バカ野郎たちが東京から来られました。
詳細は、2月28日付の作劇公式ブログをお読みください。
まず、キングレコードのプロデューサー、山口幸彦氏が教室に単身で到着。
キングレコードというと音楽メーカーというイメージがあるかもしれませんが、映画制作や映画ソフトの買い付け、配給をしている映像メーカーでもあるんです。TBSと提携して、『新耳袋』のテレビドラマ、劇場用映画の制作も手がけていて、いつもお世話になっています。
打ち合わせが終わる頃、洋泉社の田野辺編集長と、ライターのギンティ小林氏、シャイカー(清水崇、豊島圭介監督らの所属する会社。ちなみにシャイカーとはシャレで会社をひっくりかえしたネーミングで、まさかここまで会社として長持ちするとは思わなかった、と清水監督から聞いた話です)の代表の後藤剛氏、演出担当の大郷水雄氏が来室。
今度は塾生たちが見物するなかで、『新耳袋・殴り込み』に使用する映像ということで、インタビューを受けました。この内容は『殴り込み』のDVD以外にも、洋泉社やミリオン出版から発売される書籍にも掲載されるようです。
『新耳袋』誕生秘話から再検証「山の牧場」、「八甲田山」裏話など、1時間以上にわたってのインタビュー。
その掲載媒体の詳細は、また追ってお知らせします。
ちなみに、なぜか頼みもしないのに『新耳袋・殴り込み』のGメンのメンバーたちは、『新耳袋』20周年をなんとか盛り上げたいと、この春いよいよあの禁断のスポットへ殴り込みをするようです。ひょっとしたら、彼らのうちの何人かは、この夏にはいないかもしれません・・・
「これは行ってもいいものなんでしょうかねえ?」
ギンティ小林が、ちょっと涙目で訴えるものだから、私は言いました。
「そんなに行きたきゃ、行けば?」
「えっ、止めてくれないんですか!」
「お葬式には香典もって行きますよ」
「中山さんなら、止めてくれると思ってたのにー!」
男ギンティ小林よ、こうなったら怪奇ライター(そんな肩書きだったっけ?)としての本懐を遂げよ! みんなはそれを期待している!
実はこの話には伏線がありまして。
以前、新宿ロフトワンでの「新耳袋トーク」で、田野辺さんやギンティさんが「その(禁断の)場所へ突撃取材に行こうと思う」とお客さんの前で宣言したんです。
そしたら木原は「行けば」とすすめた。
私は「行かないほうがいい」とマジで止めた。
そしたらその瞬間、私のマイクのみ活きて、木原、田野辺、ギンティたちのマイクが故障してしまった、ということがあったのです。
ビビって彼らは結局、今にいたるまで、そこには行っていなかったんですが、ついに。
もう私は止めないよ。
さて、お仕事が終わったら、お待ちかねの飲み会です。
いつの間にやら見学している塾生の数も増えています。
みんな、プロの人たちとの交流が目当てで来ています。
土曜の夜なので、いきなり20人ほどの数の予約はなかなか取れなかったのですが、なんとか村上ショージさんがやっているというミナミの居酒屋がやっと取れた。
シナリオや映像関係を目指す塾生たちは山口さんやシャイカーの人たちの周りに、文筆やマンガ家志望の塾生は田野辺さんの周りに。ここからです。
門外不出の情報や秘策、具体的なアドバイスが聞けるチャンスは。
途中からは怪談社の紗那、紙舞の両氏も参加。
めちゃくちゃ盛り上がって、二次会は私の書斎で。
何人かの塾生は買出しをして、キッチンで酒の肴を用意していたんですが、山口さんは「もういいよキミたち。そんなことよりこっちへ来てトークしよう、トーク。僕たちはキミたちとのトークを欲しているんだ」とハイテンション。
一方、ギンティ小林の超エロトークも炸裂しています。
塾生たちがそろったところで、山口さんは「質問あったら受けるよ。なんでも言ってよ」と言ってくれたのですが、塾生たちは緊張しているのか、ホントに質問することがないのか、誰も質問しない。ようやくKレンジャーが質問したかと思うと、どうでもいい質問。あまりにくだらない質問で、彼が何を質問したのかも忘れた。
もったいないよ!
何度も言います。
わかっているでしょうけども。
山口プロデューサー、田野辺編集長なんて、何の実績もないクリエイター志望の者がキングレコードや洋泉社に作品の持ち込みをして「会ってください」と頼んだところで、会える人たちではありません。そんな人たちと膝を突き合わせて飲める。アホな話ができる。作品を見てもらえる。アドバイスもくれる。これは塾なればこそです。
そこはスガノくんなんかは、東京の出版社や編プロに営業をかけて、ライターとしてメシを食っている立場にあるから、田野辺さんに食らいついて文筆家としてのこれからの生き方、戦略、出版業界の今後について質問を浴びせていましたが、田野辺さんはそこは親切丁寧に、しかし厳しく、その質問に答えていました。
スガノくんは塾生のSくんと、洋泉社にある出版企画を持ち込んでいるのですが、田野辺さんの意見は本当に厳しい。でも、Sくんには「あれからどうなってる?」と、企画を通すための準備の仕方、リサーチはどこにあたる、何が必要、と具体的なアドバイスをしていました。
彼らの出版企画、いつかは書籍となるのでしょうか?
映像、シナリオを志す塾生は、クライアントをどう捜すかがプロへの手がかりです。
映像制作にはお金がかかりますし、配給してくれる会社が必要です。
シナリオのコンクールに出して賞を狙うのも正攻法としてあります。それはどんどんやればいいのですが、要は自分の作品を買ってくれるところがあればいいわけです。
山口さんなんて、その身近な人。
私が塾生だったら、山口さんを「すげえ」と言わせる作品を撮ることに全力をかけますよ。もちろん豊島監督や清水監督をも震え上がらせるつもりで。
いつもこの時期には、彼らは塾に来てくれるのだから、何を怠けているんだ、と私は言いたい。そんなことではこの業界には、いつまで経っても入れない。
シナリオ・コンクールで賞をとっても、結局、製作費が出なければ映像化にはならないし、賞金だけもらっても食うことはできませんから。
もっと、こういう人たちにアピールしなきゃ。
緊張しました、だなんて言っている場合やない。
なんにせよ、怪談社のお二人も含め、やっぱり飲み会でオモロいトークを展開させて、テンションが高いのは毎度ゲストの人たち。塾生なんて、酔いつぶれた不届き者もいて。
でもクリエイターになるということは、こういう人たちと丁々発止やりあって、共に仕事をするということです。コミュニケーションが取れなきゃ、プロのクリエイターにはなれない。
田野辺さんも、スガノの「最近、ネットで自分のサイトを作って配信しているライターとかいますが、そういう人たちには紙媒体で活躍する場所は与えられるのでしょうか?」という質問に「そんなの問題外」と答えていました。
「だいたいアカの入らない媒体なんて、プロでは絶対通用しないし、信用もできない」
とも。
アカ入れや修正は、編集さんと作家の大事なコミュニケーションです。それこそ丁々発止やりあって、お互い納得する方向性にもっていくわけです。初稿があがってから、この作業が一番の踏ん張りどころなのです。
映画作りも、コミュニケーションなしにはありえないし。
スキルとコミュニケーション。
クリエイターにとっては両論です。
一つが欠けたら走れませんよ。
だから我が塾では、教室内のカリキュラムはスキルを。
それ以外で行なっている飲み会や行事、実践作業は、コミュニケーション能力を培う場としてあるのです。
コミュニケーション能力が養われないと、マンガのスキルはあるのにノイローゼになってしまったS藤くんやMくんのようになっちゃうよ・・・
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
クリエイター志望者たちよ、考えている暇はない!
一歩踏み出せ!
テンションを上げろ!
てなことを、このブログで言っていましたが、そのテンションの高い、好きなことしかしていない、素敵な大バカ野郎たちが東京から来られました。
詳細は、2月28日付の作劇公式ブログをお読みください。
まず、キングレコードのプロデューサー、山口幸彦氏が教室に単身で到着。
キングレコードというと音楽メーカーというイメージがあるかもしれませんが、映画制作や映画ソフトの買い付け、配給をしている映像メーカーでもあるんです。TBSと提携して、『新耳袋』のテレビドラマ、劇場用映画の制作も手がけていて、いつもお世話になっています。
打ち合わせが終わる頃、洋泉社の田野辺編集長と、ライターのギンティ小林氏、シャイカー(清水崇、豊島圭介監督らの所属する会社。ちなみにシャイカーとはシャレで会社をひっくりかえしたネーミングで、まさかここまで会社として長持ちするとは思わなかった、と清水監督から聞いた話です)の代表の後藤剛氏、演出担当の大郷水雄氏が来室。
今度は塾生たちが見物するなかで、『新耳袋・殴り込み』に使用する映像ということで、インタビューを受けました。この内容は『殴り込み』のDVD以外にも、洋泉社やミリオン出版から発売される書籍にも掲載されるようです。
『新耳袋』誕生秘話から再検証「山の牧場」、「八甲田山」裏話など、1時間以上にわたってのインタビュー。
その掲載媒体の詳細は、また追ってお知らせします。
ちなみに、なぜか頼みもしないのに『新耳袋・殴り込み』のGメンのメンバーたちは、『新耳袋』20周年をなんとか盛り上げたいと、この春いよいよあの禁断のスポットへ殴り込みをするようです。ひょっとしたら、彼らのうちの何人かは、この夏にはいないかもしれません・・・
「これは行ってもいいものなんでしょうかねえ?」
ギンティ小林が、ちょっと涙目で訴えるものだから、私は言いました。
「そんなに行きたきゃ、行けば?」
「えっ、止めてくれないんですか!」
「お葬式には香典もって行きますよ」
「中山さんなら、止めてくれると思ってたのにー!」
男ギンティ小林よ、こうなったら怪奇ライター(そんな肩書きだったっけ?)としての本懐を遂げよ! みんなはそれを期待している!
実はこの話には伏線がありまして。
以前、新宿ロフトワンでの「新耳袋トーク」で、田野辺さんやギンティさんが「その(禁断の)場所へ突撃取材に行こうと思う」とお客さんの前で宣言したんです。
そしたら木原は「行けば」とすすめた。
私は「行かないほうがいい」とマジで止めた。
そしたらその瞬間、私のマイクのみ活きて、木原、田野辺、ギンティたちのマイクが故障してしまった、ということがあったのです。
ビビって彼らは結局、今にいたるまで、そこには行っていなかったんですが、ついに。
もう私は止めないよ。
さて、お仕事が終わったら、お待ちかねの飲み会です。
いつの間にやら見学している塾生の数も増えています。
みんな、プロの人たちとの交流が目当てで来ています。
土曜の夜なので、いきなり20人ほどの数の予約はなかなか取れなかったのですが、なんとか村上ショージさんがやっているというミナミの居酒屋がやっと取れた。
シナリオや映像関係を目指す塾生たちは山口さんやシャイカーの人たちの周りに、文筆やマンガ家志望の塾生は田野辺さんの周りに。ここからです。
門外不出の情報や秘策、具体的なアドバイスが聞けるチャンスは。
途中からは怪談社の紗那、紙舞の両氏も参加。
めちゃくちゃ盛り上がって、二次会は私の書斎で。
何人かの塾生は買出しをして、キッチンで酒の肴を用意していたんですが、山口さんは「もういいよキミたち。そんなことよりこっちへ来てトークしよう、トーク。僕たちはキミたちとのトークを欲しているんだ」とハイテンション。
一方、ギンティ小林の超エロトークも炸裂しています。
塾生たちがそろったところで、山口さんは「質問あったら受けるよ。なんでも言ってよ」と言ってくれたのですが、塾生たちは緊張しているのか、ホントに質問することがないのか、誰も質問しない。ようやくKレンジャーが質問したかと思うと、どうでもいい質問。あまりにくだらない質問で、彼が何を質問したのかも忘れた。
もったいないよ!
何度も言います。
わかっているでしょうけども。
山口プロデューサー、田野辺編集長なんて、何の実績もないクリエイター志望の者がキングレコードや洋泉社に作品の持ち込みをして「会ってください」と頼んだところで、会える人たちではありません。そんな人たちと膝を突き合わせて飲める。アホな話ができる。作品を見てもらえる。アドバイスもくれる。これは塾なればこそです。
そこはスガノくんなんかは、東京の出版社や編プロに営業をかけて、ライターとしてメシを食っている立場にあるから、田野辺さんに食らいついて文筆家としてのこれからの生き方、戦略、出版業界の今後について質問を浴びせていましたが、田野辺さんはそこは親切丁寧に、しかし厳しく、その質問に答えていました。
スガノくんは塾生のSくんと、洋泉社にある出版企画を持ち込んでいるのですが、田野辺さんの意見は本当に厳しい。でも、Sくんには「あれからどうなってる?」と、企画を通すための準備の仕方、リサーチはどこにあたる、何が必要、と具体的なアドバイスをしていました。
彼らの出版企画、いつかは書籍となるのでしょうか?
映像、シナリオを志す塾生は、クライアントをどう捜すかがプロへの手がかりです。
映像制作にはお金がかかりますし、配給してくれる会社が必要です。
シナリオのコンクールに出して賞を狙うのも正攻法としてあります。それはどんどんやればいいのですが、要は自分の作品を買ってくれるところがあればいいわけです。
山口さんなんて、その身近な人。
私が塾生だったら、山口さんを「すげえ」と言わせる作品を撮ることに全力をかけますよ。もちろん豊島監督や清水監督をも震え上がらせるつもりで。
いつもこの時期には、彼らは塾に来てくれるのだから、何を怠けているんだ、と私は言いたい。そんなことではこの業界には、いつまで経っても入れない。
シナリオ・コンクールで賞をとっても、結局、製作費が出なければ映像化にはならないし、賞金だけもらっても食うことはできませんから。
もっと、こういう人たちにアピールしなきゃ。
緊張しました、だなんて言っている場合やない。
なんにせよ、怪談社のお二人も含め、やっぱり飲み会でオモロいトークを展開させて、テンションが高いのは毎度ゲストの人たち。塾生なんて、酔いつぶれた不届き者もいて。
でもクリエイターになるということは、こういう人たちと丁々発止やりあって、共に仕事をするということです。コミュニケーションが取れなきゃ、プロのクリエイターにはなれない。
田野辺さんも、スガノの「最近、ネットで自分のサイトを作って配信しているライターとかいますが、そういう人たちには紙媒体で活躍する場所は与えられるのでしょうか?」という質問に「そんなの問題外」と答えていました。
「だいたいアカの入らない媒体なんて、プロでは絶対通用しないし、信用もできない」
とも。
アカ入れや修正は、編集さんと作家の大事なコミュニケーションです。それこそ丁々発止やりあって、お互い納得する方向性にもっていくわけです。初稿があがってから、この作業が一番の踏ん張りどころなのです。
映画作りも、コミュニケーションなしにはありえないし。
スキルとコミュニケーション。
クリエイターにとっては両論です。
一つが欠けたら走れませんよ。
だから我が塾では、教室内のカリキュラムはスキルを。
それ以外で行なっている飲み会や行事、実践作業は、コミュニケーション能力を培う場としてあるのです。
コミュニケーション能力が養われないと、マンガのスキルはあるのにノイローゼになってしまったS藤くんやMくんのようになっちゃうよ・・・
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
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