2012年09月

2012年09月30日

東部開拓史

 中山市朗です。

 ポジティブになるなら得意分野を持て。そしてそれについて語れ。
 そんなことを前回書きましたが。

 得意分野があれば、まずそれを体系立てて説明すること。ただし、ほんとに説明しちゃったら誰も聞いてくれない。自分の言葉で相手が興味をもってくれるように語るわけです。話のうまい人はそれをストーリーのように話します。
 それって小説やシナリオの構造と同じですよ。
 そんな話をしたら、「得意分野はどうしたらできますか」なんて質問を受けるハメになりそうですが。
 要は好奇心だと思います。それとアンテナ。
 その分野はすでに開拓されているのか、未開拓の分野なのか。
 これは見極めねばなりません。

 誰もがやっているような分野じゃ、意味がありません。
 例えば、映画が好きだから映画ライターになりたい、という人。映画ライターなんて掃いて捨てるほどいます。そこでどうやってその先輩の映画ライターたちから仕事を奪うのか、です。まあ、映画ライターでもない私のレベルに及ばないようでは映画ライターは無理。
 「やめとき」と何人にも言った覚えがあります。
 やるとしたら今いるその分野のトップの人を凌駕するくらいの存在にならなきゃ。趣味にはなってもギャラが発生する付加価値にはならない。難しいですけど、そんな世界です。クリエイターの世界は。
 塾生の小島雪は、時代劇映画に精通していて、特に戦前の時代劇に関しては私以上に見ていて調べこんでいます。
 また太秦の撮影所に通って阪妻や嵐寛、勝新といった人たちと仕事をしたという監督や裏方さんに会って、どんどん話を聞き出しています。
 おそらく20、30代の人の中では、彼の時代劇における知識、愛情は日本一だと思います。私もこの分野については白はたを掲げざるをえません。
 あとは小島自身にそれをどう作品にするのかの意識がいつ芽生えるか、ですが。
 インプットするばかりでは単なるオタクになっちゃいます。
 作品にしてなんぼ。

 私が20年前、『新・耳・袋』を出した頃は、怪談は一旦滅んでましたから、未開拓みたいなもんでした。だから私のようなものでもなんとかなったわけです。
「中山先生のときはそうだったでしょうが、今は大抵のものはやられてますやん」
 そんな塾生たちの声が聞こえてきそうですが、そうか?
 私の見たところ、結構開拓されていない分野、ありまっせ。
 いくつかは今、私も手を出して具現化しているところです。
 成功するかどうかはわかりませんけど、誰もまだやっていないことです。それを仕掛けているという自分が楽しい。

 こんなの見たいのに無いなあ、とか、こんなこと書いている本、無いなあ、と思ったらそれです。で、見たい、読みたい、というその欲求があるんなら、それにあなたが興味をもっているということなので、それをあなたがやればいいわけです。
 ポジティブ思考ですね。

「でも前例無いしなあ」
 だからやるんです。
「ネット探したけど、情報無いんです」
 ネットで出るくらいなら、誰でも知っているということ。出てないからやるんや。

 私たちクリエイターの付加価値は、ほかの人にやれないことを表現することにあると思うんです。私の代替があってはいかんのです。私にしかできないことがクリエイターの命なのです。そこがこの稼業の面白いところ。
 誰でもできる仕事、たとえばコンビニや外食店でのアルバイトなんて安い時給で働かせられるわけです。あれはなんぼでも代替がいる世界。なので給料は上がりません。
 クリエイター志望の人にはそこに行ってもらいたくない。
 その人にしかできない特別な蓄積、技術、知識があれば、そこに付加価値がついて対価が生まれる。そこを知って、そこを目指して欲しいんです。
 それがなければクリエイターとして生きていくのは難しい。
 え? どうしたらそんな蓄積や知識が得られるのかって?
 そんな一朝一夕とは行きますかいな。でも今すぐ、というのなら、頼まれた原稿は誰より早く入稿するとか、企画を頼まれたら誰より数多く出すとか、そんなところから始めてもいいと思います。そういうことの積み重ねが自信となるわけです。
 
 今後はこの、得意分野という特殊性が顕著に問われることになるでしょうね、クリエイターの世界は。
 そして得意分野が無いということは、自信をもって語れないということになりますから、人と会っても受身にならざるをえないわけです。受身な人には仕事はきません。
 語るということは、それほど大事なことなんですよ。

 ただしこれ、出版社の編集の人たちも冒険していただきたいと思います。
 編集の人は言うわけです。
「若い人でいいのいませんか?」
「誰も読んだことのない世界、新しい切り口で書ける人がいいんですけど」
 そういうので、まったく新しい切り口の原稿を持ち込むと「こういうのうち、やったことがないんで・・・」
 どっちやねん!
 私の教え子でちょっと面白い世界観の小説を書いたのがいたので、「持ち込みしてみ」と勧めたんです。それで持ち込みをしたら「面白いけど、ここをああして、ここはこうしたほうがいい。なんて言われて直していくうちに、どこにでもあるラノベみたいになっちゃって。これ、私の書きたいものと違うってなっちゃいました」と言っていました。
 アカの入ったその原稿を見ると、なるほど私が面白いと思ったところが普通にあるものに変えられていました。無難だけどパンチがなくなってた。
 出版不況で本が売れないところにもってきて、冒険するのは難しいかもしれませんが、これではますます疲弊してしまいますよ。あなたがたが疲弊してしまったら、大抵の作家はひとたまりもない。

 聞くところによると、今、東京の大手出版社ほど疲弊していて、中小出版社か京都の出版社が冒険してくれるとか?


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2012年09月26日

元気に体を張れ

 中山市朗です。

 ネガティブ思考、ポジティブ思考とかよく言いますね。
 あなたはどちらの思考でしょうか?

 塾生にもどちらのタイプもいます。が、どちらかというとポジティブ思考の人のほうが好きなことを継続してやっていて、楽しそうで、それがうまく仕事になって成功しているように思えます。
 ネガティブな人は、どうも一緒にいて面白くないし、不愉快に思うことさえもあります。私から見ると、チャンスを与えてもモノにできないのはこのタイプの人たちです。

 塾の飲み会でもいるんです。ネガティブな人。
 みんなで盛り上がっていても、ひとりポツンと離れたところにいてずっとケータイをいじっている。そんなのつまらないので、しばらくするとウトウト。
 こういう人は飲み会はつまらないと思いますし、嫌々来ているオーラが出まくっています。そんな人にこそ言うわけです。
「飲み会来い!」

 正直言いまして、私個人としては隅っこでケータイいじっていたり、すぐ寝たりという人がいても、やっぱり全然面白くないわけですよ。場合によっちゃ場を白けさせることだってある。ホントは参加してほしくない。
 でもね、何度も言いますように、コミュニケーションは取れるようになってほしい。でないと自力で仕事を取ってくることは難しいし、情報が入ってこない。感化されるとか、発想力を磨くとか、これは案外、飲み会に限らずですけど、人との交流から生まれるんです。
 しかしネガティブな人は、基本的に人のいる場所を嫌う傾向にあるので、人間観察をスルーしちゃうわけですよ。すると自分の感性のみで勝負するしかない。そんなんでいいマンガも小説もシナリオも書けないわけですよ。
 それって損なわけですよ。

「いやいや、好きな友達とかといると性格変わって、結構はしゃぎますよ」という人もいるでしょうが、それ仕事と関係ないし、はしゃぐのとポジティブはちょっと違う。
「飲み会でポジティブになる訓練をしろ」と私が塾生に言うのは、実は私なりの意図があるわけです。

 ポジティブ、ネガティブというと、どちらか一方という選択になりがちですが、実は両方もちあわせることが重要なんです。
 ポジティブとはなんでしょう?

 行動的、積極的、肯定的、プラス思考、自信がある・・・といい意味で使われることが多いですね。ネガティブはその反対、あまりいい意味のイメージでは使われません。
 確かにネガティブ思考な人はどうも自信なげに見えてしまいますし、ネガティブが高じてノイローゼになっちゃった人も何人かいます。
 しかしネガティブは言い換えると、慎重であるとか、リスクを避けるといういい面もあるわけです。あんまりポジティブな一辺倒というのもしんどいですし、大丈夫かな、と思ってしまいますよね。

 実はネガティブがあってポジティブがあるわけです。ネガティブのないポジティブは怖いですがな。それって根拠のない肯定、前進ですから。

 我々のやっている作業は非常にネガティブな仕事なんですよ。
 文献あさったり、構成考えたり、解体したり、検証したり、そこから原稿をかいたり、企画書を作ったりするわけです。これらは基本、一人の作業です。夜遅くまで何時間も机に向かって文献を紐解いて、パソコンのキーボードを叩いて。電話か来客でもない限り、誰とも話しません。
 何かに取り組むという作業はネガティブなわけです。だんだん内に入っていくわけですから。
 つまり、ネガティブでないと作家稼業はできないわけです。
 しかし、その作品は発表するわけです。
 プロの場合、その作品に対して対価がつくわけです。不特定多数の人がお金を出して買ってくれて、そこで成り立つわけです。
 そこは自信がないとダメ。覚悟が問われるわけです。
 自信がない。覚悟もない。そんな作品は読者なり観客なりが敏感に読み取って、辛辣な反応が返ってくるだけです。おそらく次のオーダーはない。
 だから、そこはポジティブ思考にならないとあかんわけです。

 ポジティブとは何か。それは自信です。
 自信という裏づけがあるから前進しようとする、行動が起きる、行動というより衝動かもしれません。動きたい、早く動かないとチャンスを逃す、そんな焦りにも近いもの。
 そして自分に肯定的になり、プラス思考になるわけです。
 ネガティブ思考というのは、そこまでいっていないわけです。
 まだ自信がない。だから覚悟ができていない。だから進むのが怖い。行動にならない。

 プロの編集やプロデューサーはそこを見ます。
 自信がない、覚悟が見られない、という雰囲気なり言動を見たり聞かされたりすると、そんな人には仕事は振れないですし、だいたい一緒にいてもプラスになる人材とは思わないですから、以後連絡はくれないでしょう。

 ネガティブというのは、おそらく人間の本能だと思うんです。誰でもネガティブな面はもっているはずです。グジグジしたり、煮え切らなかったり、ふっきれなかったり、泣きそうになったり・・・それが人生。
 しかしポジティブ思考は、本来そこを踏み越えることによって起こすものなんです。

「よし行ける」「お、自信がついた」「これ、早くみんなに問いたい」「早く世に出したい」
 そうなると、誰でもポジティブな心になっているはずです。自信に満ちた顔になっているはずです。そういう人と一緒にいると、こっちにも何か与えてくれそうな気がしますし、なんだかワクワクしてきます。
 そして、それこそがプロと言われる人たちなのです。
 一流の人と一緒にいると、テンションが上がるわけですが、まさにそれです。

 ネガティブな塾生に「お前が一番こだわるものはなに? 何について語れる?」と聞くと、十中八九「それがないんです」と言うんです。
 そら自信をもって語るもの、提示するものがなけりゃ、話の輪に入っていけない。共感もできなきゃ、共感もしてくれない。だからケータイをいじりだす、退屈する、寝る、おもしろくない、しんどい、となる。飲み会に来なくなる。閉じこもる。余計ネガティブになる・・・この繰り返し。何千パターン見てきたことか。

 だから「人に語れる得意分野を作れ」と言うわけです。人に語れる得意分野がないという人が、小説やマンガで何を書こうというのでしょうか?
 人に語れる得意分野が見つかれば、おそらくそれを探求するためにネガティブな作業を根気強く続けながらも、人に会っての取材や調査も必要となります。それを繰り返しているうちに、人と会って話を聞き出すにはポジティブな態度が必要であることも知り、そこからポジティブな心も養われるのだと思います。
 塾の飲み会は、志を同じにする者の集まりです。だから遠慮もいらない。少々恥をかいたっていい。本音できてもいい。そこで語ったり、聞いたり、共感したり、反発の意見を述べたり、とにかくいずれプロの人たちと丁々発止することになるのですから、ここで意見を述べることを覚えてもらいたいのです。人の話に反応する、あるいは楽しませる、ということを意識してもらいたいわけです。
 それにはある程度、ポジティブでなければそれができないわけですね。

 私が会ってきたプロの作家さんやマンガ家、映画監督、プロデューサー、脚本家、俳優、芸人、ミュージシャンたちは、自分の仕事の分野においては例外なくポジティブな人たちばかりでした。一緒に飲んでてみんな熱いわけです。次のステップを夢見てるんです。「あーどうしよう」なんて陰気臭くボヤいている人などいません。家では悩んでいると思いますけど。
 それは自信の裏づけ、覚悟の証なのです。

 あ、ところで先週の木曜日の授業後、例のゲーム会社の社長さん、約束どおり塾の飲み会に参加していただき、朝まで塾生と語らい、質問に答えてくれていました。
 身をもって、同じ夢をもった者同士が朝まで語ることがいかに必要で、楽しいものであるかを塾生たちに教えてくれたわけです。

 というわけで皆さん、お疲れ様でした。


  

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2012年09月23日

ナチュラル・ボーン・ホラーズ その5

 中山市朗です。

 西洋の怪談と日本の怪談。

 おそらくですが、アメリカ人の想像の中にはジェイソンはいるのでしょう。
 トウモロコシ畑が延々と広がる何もない土地に車で迷い込む。ガス欠。どうしよう。
 すると一軒の家があった。
 ガソリンを分けてもらうか、電話でも借りよう(今はケータイがありますが)。そう思ってその家を訪ねたところ、突如・・・!
 ジェイソンはキリスト教徒の常識や教えとは無縁な存在です。つまりあのキャラクターは異教徒のイメージなんです。異教徒と聞いて、彼らは悪魔教をイメージします。
 こういった下地が秘密結社を生んだりするわけです。
 あるいは言語が通じない恐怖。これはアメリカが西部開拓時代を経たことの証です。
 18〜19世紀にかけて、アメリカ大陸にはそれこそいろいろな国から、様々な言語をもった民族が渡ってきました。ということは、そこではコミュニケーションをとることの難しさがあったのでしょう。
 アメリカ映画の西部劇を見ていると、みんな流暢な英語を話していますが、実はスパニッシュやイタリアンなども飛び交っていて、白人でも英語を解さない人たちもたくさんいたはずです。だからあのイタリア訛りの妙な英語が飛び交うマカロニ・ウェスタンの世界のほうが、言語的な意味では史実に近いのかもしれません。
 で、言葉のコミュニケーションがとれないから最終的には、
「えーい、抜きやがれ!」
 バーン!
 なんて、拳銃で解決という銃文化となったわけです。

 言語によるコミュニケーションができない。「聖書」という絶対的な教えが彼らに必要だったのはここで、同じ神の価値観をもっているということが不可欠だった理由がここに存在したわけです。でもひょっとしたら、この言葉の通じない奴らは聖書以外の悪魔教を崇拝する信者、あるいは悪魔の血筋の家系ではないのか、という疑念が生まれ、それが様々な恐怖のイメージとなるわけです。
 フランケンシュタイン博士の作ったモンスターはその化身でしょう。『メトロポリス』のマリアがなんか怖いのも、そのイメージで作られたからでしょう。血が通っていないモノはキリスト教徒としての血筋がない。これが西洋のホラーの恐怖の肝なのです。
 このモンスターが洗礼を受ければ悪ではなくなります。『ブレード・ランナー』のレプリカントが教会に通ったら、なんかいい奴なキャラクターになっちゃいますけど。

 こういう感覚は我々日本人には存在しません。どんな田舎に行こうともまあ日本語で通じるし、異教徒がいるという概念もありません。まあ同じ価値観。ただ、得も知れない幽霊は出るかもしれない。でもその幽霊は襲ってこない。ただ、現れて、うらめしそうに立っているだけ。これがなんか怖い。その怖さの原因のひとつが、おそらく死んだ人間なのでコミュニケーションがとれないんだろうな、というもの。話し合いができる幽霊というのはなんか怖くないですもんね。
 日本でロボットアニメが独自に登場したのも、日本人は血筋がない、というモノに恐怖は抱かず、そこに新たな生命を吹き込むことに抵抗がなかったんでしょうね。最近になって日本のロボットものは西洋でもウケて、同じような作品が作られていますが、長いことハリウッドではロボットのヒーローは作られませんでした。ロビーのようなマスコット的なロボットは存在していましたが。

 西洋のモンスターや幽霊は直接襲ってくる。
 日本の幽霊は直接襲ってこない。日本と西洋の怪談とホラーの違いは、このあたりにあるようです。ただ、日本の幽霊は人にとり憑きます。これが目に見えない。目に見えないからコミュニケーションが不可能。やはりここが怖いわけです。
 『リング』の恐怖も、あの呪いのビデオの存在が、まったく意味不明であることで、主人公たちはなんとかその呪いを解くために、そこに込められたメッセージを読み取ろう、つまりコミュニケーションの可能性を探るところが軸なわけで、とうとうそれが解けなかったために、貞子が登場してしまうわけです。映画の貞子の造形は確かに恐ろしいものでしたが、原作にはあのような貞子は登場しません。
 呪縛が解けない、コミュニケーションが不可能。
 命に関わるような一方的なメッセージに対して、まったくアクセスできない。
 ここがホントに恐ろしいわけです。

 ということで私の大阪芸術学舎での講義はこれにて。
 ホントは祟りと呪いについてやりたかったんですけど、時間切れ。
 機会があったら、どこかでお話いたしましょう。



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2012年09月20日

ナチュラル・ボーン・ホラーズ その4

 中山市朗です。

 前回からの続きです。
 西洋人の作るホラーの本質は、キリスト教文化を知ることだ、と書きましたが。

 怪異という恐怖は、異様な人間関係から生じます。異様というのはその人間関係が、東西に関わらず一方は生きていない、死の世界からの使者、あるいは異質な人、あるいは人ではない人、ということで成り立つようです。ということは、まずは日本人と西洋人の思う異質なもの、あるいは死観の違い、宗教観を考えねばならないことになります。

 日本人の宗教・・・これは難しいですね。「私は無神論者です」と言う人を多く見ましたが、それでも初詣に出かけ、お盆にはお墓参りに帰省し、お礼をもらったり、お守りをもってたり、クリスマスを祝ったり。新興宗教もどれだけあるのかわかりません。神棚と仏壇とクリスマスツリーが一件の家の中に同時に存在していたり。
 つまり、日本人にとって神様や仏様は色々なところに存在していて、そこに厳格な教えはないわけです。神道には聖典がありませんし。だから神が祟ったり妖怪になったりしても不思議に思わないわけです。
 一方、西洋人はかなりの確率でキリスト教の信者というイメージがあります。いや、西洋文化とはイコール、キリスト教文化なんです。そのキリスト教には「聖書」という絶対的な教えがあります。西洋人にとって、無神論とは「聖書」の神を否定することを意味するわけです。
 しかし長らく「聖書」の教えに否定し反逆する者は悪、悪魔とされてきました。
 あの魔女狩りは、ローマ・カソリックの主導のもとに行なわれたわけです。
 「聖書」の神に逆らう者は、絶対的悪であり、一旦対峙したからには決着をつけねばなりません。ですから、西洋のホラーの展開は、だんだん陰惨たるものになり、血の生贄ともいうべき殺人が起き、主人公や主人公を代理する神父との対決の様相となります。これが西洋のホラー小説、ホラー映画のテイストによく見られるパターンとなるわけです。やっぱりそういう陰惨なホラーは、カソリックの本場、イタリアに多いようですな。

 今も多分そうでしょうが、18世紀の頃までは西洋人はこの「聖書」を疑いなく絶対視していました。
 だからそんな彼らがもっとも恐れるのは、血筋なんですね。異教徒の血筋。
 家族に変異があると、その血筋を調べるわけです。そしてもし異教徒の血が入っていることがわかると、「あっ、これだ!」ということになるわけです。で、結構そういう中世代まで遡る記録や系図が残っているんですね。だからこの頃の異教徒の怨念が突然この現代によみがえったり、現れたりします。これが往々にしてホラーの題材になるわけですね。

 日本には、あまり平安時代や鎌倉時代の幽霊は出てきませんね。出たところで死んだ祖父、祖母。5代前の先祖がもう誰だかわからない。また、異教徒という感覚もないですね。だから案外日本人は、転生というものにリアリティをもっていないんです。だから恐ろしい怪異は確かに起こるわけですが、そんなにそこに根があるわけじゃない。
 西洋には中世代の悪魔や亡霊が出たりよみがえったりするホラー作品がいっぱいあります。
 それは旧カソリックへのアンチテーゼの延長であり、その教会から追われた悪魔たちの復讐劇であったりするわけです。
 西洋は貴族社会ですから、その貴族の証は血筋なんですね。だから系図が残っているんです。あるいは図書館に行けば何々家についての歴史や人名がちゃんと出てくるわけです。わがご先祖様は十字軍としてイスラエルに入ったとか、テンプル騎士団の一員だったとか、カリオストロ伯爵と交流があったとか。そんなことがわかる。
 そしたら、そこに異教徒の血が入っているようだ、ということだってわかるわけです。
「うちの子供が変だ。どうやら悪魔がとり憑いているようだ。しかし、その原因はなんなんだ。うちは代々敬虔なるクリスチャンなのに」とか言って、家系図を調べる。するとどうも妙な名前がある。調べていくと、どうもこれは異教徒らしい。
「原因はこれだ! 悪魔の血がよみがえったんだ!」
 それが西洋人の恐れるもの。悪魔。

 日本人で系図が残っている家系って、そんなに無いんじゃないですか?

 それに西洋のホラーには陰惨な殺人やスプラッター的要素があるのは、この絶対的な悪のもつ圧倒的なパワー、メッセージが存在するわけです。だから西洋の幽霊やモンスターは、善良なクリスチャンである人々を襲って、皆殺しにして復讐を果たそうとするわけです。
 日本の場合、個人に対する恨みや神木を切ったり井戸に埋めたりした祟りはあっても、なかなかおぞましい殺人は起こりません。
 どうやらその祟りが原因で死んだようだ、ということはありますが。でもご神木がモンスターとなって現れて、工事現場のおっさんたちを手にかけ、体を裂くようにして殺していく、なんて話は無いですもんね。
 日本の幽霊の多くは、ただ現れるだけ。
 この現れるだけの現象を「怖い!」と思わせるためのテクニックが、怪談の難しさである美学であると思います。

 つづく。



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2012年09月19日

ナチュラル・ボーン・ホラーズ その3

 中山市朗です。

「西洋の怪談と日本の怪談」。
 これは、西洋のホラーと日本の怪談、としたほうがしっくり行くかもしれません。
 ホラーと怪談の違いは、怪談は談、語り聞く、から成る怪異談であり、ホラーは談がなくても成り立つものだと前回書きました。
 ホラー(horror)は、恐怖、という意味です。
 ということは、恐怖を味わう、恐怖を演出するエンターテイメントがホラーということになります。お化け屋敷もホラーでしょう。
 あまりああいうところに行かないんですけど、お化け屋敷の恐怖はアトラクション、驚愕の恐怖。暗闇でいきなり後ろから「わあっ」とやられたら、そりゃ誰だって驚きます。
 あの世界は怪談ではないですけどね。

 ホラーの範囲は広いです。猟奇殺人、精神異常、スリラー、オカルト、モンスターもの、幽霊もの、なんでもありです。SFホラーなんてのもあります。SF怪談なんて成り立ちそうにありません。ゴシック・ホラー、モダン・ホラーなんていうカテゴリーもあるようです。
 SF怪談は成り立たないと言いましたが、前回に書いたように、話を聞くという行為において、どんな嘘話でも、なぜか人は、耳から入った話はホントのことなんだと思うわけです。だからSFというカテゴリーが噂話にならないわけです。「この話はある惑星での話なんだけど・・・」なんて前置きがある長話って付き合ってられます?

 ただ、話芸としてのテクニックがあるなら、嘘でもホラでも、面白けりゃなんでもありなんですけど、まあ気をつけないと、嘘ばっかりついているとやっぱり嘘つき呼ばわりされて信用なくしちゃいます。
 落語は嘘話ですけど、最後にオチをつけることによって収めるわけですね。漫才も「もうええわ!」と客の突っ込みを演者がやって収める。
 やっぱり、これは嘘でした、すみません、という〆が、話芸にはいるんです。
 ところが文芸や舞台、映画やテレビという一度演出の入ったものとなると、今度は嘘話のほうが受けるようです。これ不思議ですね。あったことをそのまま映像に撮って見せたところで別に面白くもなんともない。怪談とホラーの違いは、このあたりにあるのかもしれません。なるべく簡素なものにするのが怪談。作りこむのがホラー。
 小説家はいくら小説で嘘の世界を書いても、嘘つき呼ばわりされることはありません。
 その嘘話に、賞もらって表彰されたりして。

 怪談は、怪異を語る話芸です。怪異ということは不可思議を語るわけで、聞き手を怖がらせることのみが怪談というわけではないのです。ちょっとした身近にある不可思議、が怪談となるところが怪談の魅力なんです。
 ホラーはお客を怖がらせることによってのみ成り立ちます。するとその手法は作者のやりたい放題(?)でもいいわけです。脳みそ、パーン! チェーンソーで体まっ二つ! 血がドバー! 宇宙人の子が腹を突き破って出てくる! 人間とハエが同化する! 語りでこれをやっちゃうと、きっと怖くないし、笑いがきます。これは映像として見せるから怖い。というか気持ち悪い?

 私が好きなホラーは、ヒッチコックの『レベッカ』。あれはすごいですね。
 幽霊も化け物も出ない。人殺しの場面もない。何も不思議なことは起こっていない。なのになんか怖いですね、あの雰囲気。ジュディス・アンダーソン演じるダンバース夫人というのが特に怖い。ヒッチコックはなるべく彼女が歩くシーンを排除し、それによってどこか人間らしからぬキャラクター描写をしたと言っています。
 ああいう作品は、ヒッチコックにしかできません。
 今のホラー映画なんて、これでもか、これでもか、と陰惨で残酷なシーンを見せてくれますが、私は怖いとは思わない。まあ、興味はあるし、面白いとは思いますが、怖いとは違う。

 さて、『レベッカ』に出てくるマンダレイの屋敷の雰囲気は、ゴシック・ホラーを彷彿させます。ゴシックというのはヨーロッパの北方にいたゲルマン系民族のゴート族のことを指します。世界史の教科書で「ゲルマン民族の大移動」というのを習いましたが、その中にゴート族もいたわけです。4、5世紀、彼らは北方からローマ帝国に入り込み、ローマを占領します。中世ヨーロッパの基礎はこのローマとゲルマンの融合から築かれるわけですが、ルネッサンスの時代には古典の復興運動が起こり、ゲルマン民族がもたらした文化や様式がローマの様式や建築物を壊した野蛮なものであった、という考えとなって広がりました。それでゴート族風が野蛮を指す、ゴシックと呼ばれるようになったわけです。ゴスロリはゴート風のロリコンという意味です。なんやねんそれ。

 今は、ゴシック様式が野蛮であると思っている人はいません。いわゆる我々のイメージするヨーロッパの教会や古城の様式がゴシックですから。パリのノートルダム大聖堂とかミラノ大聖堂とか。
 ゴシック様式は19世紀頃に見直され、再び復活しましたが、それ以前の18世紀の頃には、ゴシックと呼ばれた古城は誰も住まない廃墟となり、幽霊屋敷みたいなことになっていました。管理人もいない。今で言う霊スポットです。
 そこでそういった城や屋敷に住み着いた悪魔や亡霊、あるいは狂人や異常殺人などをモチーフとした小説が書かれるようになったのです。『オトラント城奇譚』『フランケンシュタイン』『ドラキュラ』『招霊妖術師』『オペラ座の怪人』などがそうですね。

 ところでこれらゴシック小説の根底にあるのは、ローマ・カソリックへのアンチテーゼであったりします。アンチ・キリスト教ではない。あくまでカソリックへのアンチテーゼ。ちょうどこの16〜18世紀という時代は、絶対の真実と思われていた『聖書』の福音に関する疑問が、インテリ層たちのなかで生まれてきた頃でした。皮肉にもそれはイエズス会の世界布教のための世界大航海によるものだったんです。エジプトと中国という『聖書』にある天地創造の起源よりも遥かに古い文明があったことを知り、同時に最先端の知識と科学という技術が出てきたのもこの頃。
 当時のほとんどのヨーロッパの人たちは、紀元前5000年頃が『創世記』に記される天地創造された時代だと思っていました。でも、それ違うぞ、もっともっと古いぞ、と気付き始めた。

 するとそれまで、絶対の真理と思われていたローマ・カソリックの教義や権威に科学や啓蒙主義の台頭などに相まって、疑問が起こったわけです。そしてローマ・カソリックこそが怪しげな「魔術」や「神秘主義」の温床であった、とする反カソリック思想が出てきます。それが特に、イギリスやドイツのカソリックに対するプロテスタント運動となっていきます。
 そんな時代、ゴシックの古いカソリック建築の古城や廃墟の教会は、古い神秘主義者や妖術使いの巣窟となったと、当時の作家たちはその想像力をかきたてたわけです。
 『フランケンシュタイン』なんて、その魔術、妖術の思想が科学という技術をもった学者によって、神を恐れぬ怪物を作りだした、というお話でした。
 当時のヨーロッパ人にとっては、これはホントに恐ろしい、神への反逆を思ったことでしょう。でもこの神への反逆、というところが我々日本人にはピンと来ないんです。
 やっぱり日本人は、闇にたたずむ幽霊が怖い。でも西洋人は、神に反逆した者が恐ろしいのです。この感覚の違いはどこから来るのでしょう。

 このカソリックなりプロテスタントという宗教、どちらもキリスト教には違いないのですが、西洋のホラーについて考えねばならないのは、このキリスト教というキーワードなんですね。というのは、ヨーロッパ文化というのはイコール、キリスト教文化なのです。今もそれは変わりません。
 そこを理解しないことには、西洋人の作るホラーは真のところがわからないわけです。

 つづく。


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ナチュラル・ボーン・ホラーズ その2

 中山市朗です。

 日本の怪談と西洋の怪談(ホラー?)について考えています。
 怪談というのは、身近にあるかもしれない怪異を語ります。
 この「身近にあるかも」というスタンス、題材が、話芸としての怪談には重要なわけなんです。
 きっと話す、語る、というのは直接的で生々しいんでしょうね。話している人のキャラも重要。
 隣のおばあちゃんが語るのと、警官が語るのとでは同じ話でもその見方や印象、目の付けどころ、口調、説得力などが違うわけです。だからそういう人間ぽさ、生々しさが、談、の特色となります。この談がもっとも面白いのは、噂話の類かもしれません。怪談ももともとは本当か嘘かわからないものです。だけど「どうやらあれは、ここだけの話、本当みたいだよ、なぜなら私はその人の知り合いというのに会って、話を聞いたんだけどね」みたいな、あやふやな真実らしさに人間は興味がひかれ、想像力をかきたてるわけです。
 芸能人のゴシップで必ずある、ある情報筋によると、とか、関係者によると、というあの手法ですね。ほんまかいな、と言いながらどこか信じちゃう。
 そんなウソかホントかわからないような噂話や井戸端会議、それが談の本質でしょう。で、にわかには信じたがたいその話のニュースソース、つまり真実を知る人物か、体験した本人に近い人からの情報を、私は知っているという体で語ることもまた、語る人物の優越感であったりするわけです。
 しかもその噂話の主人公、ないしは情報源はなるべく聞き手に近い人、知った人とか有名人でなければ興味はわかないんですね。だからあんまり自分に関係ないことや、普段の生活とは遠い噂話をされてもピンと来ないんです。よって、それは友達の友達とか知り合いの知り合いから聞いた、ということになる。
 この距離感が、噂話の情報源にぴったりくるわけです。
 都市伝説はまさにこれですね。
 都市伝説という言葉は、1970年代に作られましたが、その形態はずいぶん昔からあったわけです。

 読むという行為はこれとは違います。
 読むというの知りたい、理解したい、という能動態から起こります。あるいは、これはこういう人、作者が書いた物語であるということを知った上で読みます。暇つぶしもあるでしょう。だからだまされてみよう、夢や非現実の世界に誘ってもらおう、という意識でもって読むわけです。それで面白くなかったら本を閉じればいいわけです。演劇や映画も、たぶん同じ衝動が起こっていると思われます。大いなるウソがウケる世界です。

 談は、直接的なコミュニケーションなので、そうはいかない。
 特に日本人は、人は嘘をつかない、善人であるという思想があり、また言霊という言葉があるように、口から発する言葉は大切なものとされてきました。日本の外交なんか見ていると、この性善説で外交やっちゃったツケを今払わされているような気がします。
 この、口から発せられることは、真実である、あるいは真実を元にしたものである、という前提が無意識のうちに人々はもっている、と、私は思うのです。
 ただしその真実性は、非常にあやふやなものではあります。ですから聞き手は100パーセント信じているわけではありませんが、口から出た言葉は、それを信じようとする深層心理が聞き手に作用するようです。だから詐欺や裏切りがあるのです。
 同じ話でもこれを原稿に起こすとなると、信じさせなきゃ、とか、読み返しもできるので矛盾は排除しようとかなって、うわさ話にある独特のあやふやさやつたなさが排除されてしまいます。排除された分は著者の解釈なんかが入ってきます。文芸はやっぱりそういう意味で格調が高く、洗礼されていきます。
 あとは作家の腕で、それが怪談であるならどう読者を怖がらすのかのテクニックにかかってきます。ひょっとしたらその書き記された怪談の方が、語られた怪談よりはるかに恐ろしく、闇を呼び込んでいるのかもしれませんが、私もそれは肯定しつつ、やはり怪談は、口から語られる、粗削りで生々しいものこそが、怪談の根であり、文芸となるのは最終手段である、と思うわけです。
 えっ、難しい?

 つづく


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2012年09月18日

ナチュラル・ボーン・ホラーズ その1

 中山市朗です。

 先週の大阪芸術学舎での私の怪談講座。
 今回で最後。テーマは「西洋の怪談と日本の怪談」でした。
 西洋と日本の怪談、怪奇に対するスタンス、その描写の違いを考えてみました。 

 でも、実際に西洋に怪談ってあるのでしょうか?
 幽霊や悪魔の出てくる怖い話というのはどの国にもあるでしょう。
 しかし、これらは怪談というよりホラー・ストーリーと言ったほうがふさわしい。
 ホラー。
 では、ホラーは怪談とは違うのでしょうか?

 ホラーと怪談、ここにどんな違いがあるのかは私もよく聞かれる問題です。
 これは、いろいろな人がいろいろな立場から見解を述べています。だからいろいろな説があるようです。
 実のところ、国の財政破綻やコンサルタント戦略において、最悪のシナリオを考えシミュレートするときのシナリオを、ホラー・ストーリーともいうそうです。となれば、怪談のもつニュアンスとはずいぶん違ってきますよね。

 私の意見を述べさせていただくと、怪談はあくまで怪異を語ることを意図とした芸です。談とは、語るなりという意味です。漫談、講談、談話、談合、談義、猥談・・・。みんな口から出るものですね。そしてそれを聞く人がいて成り立ちます。
 そしてここが重要。その怪談を語るプロが存在することで、それが芸となるわけです。
 三遊亭円朝はその草分けかもしれません。今なら稲川淳二さん。私も及ばずながらそこを模索しているわけですが。
 で、語りは書き残せば文芸になる。小泉八雲の『怪談』も奥さんの語る怪談を書き起こしたわけです。円朝の語る噺も速記本が残り、稲川さんも多くの語りから起こした出版物を出されています。我々が参考にした江戸時代の奇書『耳嚢』も根岸というお奉行さんが語られ聞いたことを書き記したものですし、平安末期の怪異談も多く記される『今昔物語』もおそらく同様の成り立ちをしているはずです。
 怪談はまず語りからはじまって、それを聞いた作者が書き残して文芸怪談となる。それが怪談の本質であると私は思っているんです。『新耳袋』も私と木原が取材してきた怪異を語り聞かせるところからはじまり、徐々に怪談ライブで披露し、練りこんだところで執筆にかかりました。だから、談、語ることが私にとっては重要なんです。

 では西洋に、そんなホラー話を聞かせるプロの芸があるのでしょうか?
 おそらく無いと思われます。落語や講談のような話芸が無いのと同様です。
 怪談は、日本独自の座の文化(これは寺の僧侶の説教から来たと思われます)、四季のある気候、風土、生活様式、そして家屋の形などにあるようです。
 障子や襖をスッと開ける、という描写はなんか怪談に不可欠のような気がします。押し入れ、蚊帳、襖の透き間、外にある便所、仏壇のある仏間、裏の蔵、昔の家には妙な空(スキ)があって、夜は真の闇となり、その隅に怪異がひそんでいる気配を漂わせていました。鍵がない文化というのもあるでしょうね。襖や障子には鍵はありません。だから、怪異はいつの間にやら忍び寄るのです。
 そして擬態、擬音のある日本語の形態。間という文化。間なんて英訳できません。擬音、擬態、そして間を巧妙に使用することは、怪談語りにおいての高度なテクニックとなりえるわけです。ここに、怪異に対する畏怖の念もあいまって、怪談という芸を生んだのだと思います。
 怪異の気配を、語りで感じさせるのが怪談の肝なんです。
 まあ、それが難しいわけですけど。
 日本の怪異はどこかに隠れています。あるいは出てきても一部が隠れています。
 幽霊画の幽霊は足が消えていて、舞台の幽霊は傘で顔を隠したりします。障子にスッと影だけが写り込みます。それは怪異の気配です。これを語りで表現するわけです。
 だから日本の怪談は、それを直接見ちゃうより、話で聞いて想像したほうが怖いのかもしれません。

 一方ホラーは、同じ気配の演出はあっても、それは、出るぞ、という前フリなんです。そして、出ると襲ってくるわけです。
 しかも襲ってくるのは幽霊とは限りません。もっと直接的な、チェーンソーを持った怪人であったりします。そりゃ、誰でも怖いがな。
 怪談は怪異の雰囲気を想像で怖さを感じる。ホラーは死ぬかもしれないという直接的な刺激、肉体的な痛み、危機感を想像させるところから成るようです。
 またホラーは語るのではなく、最初から文芸とか映画やドラマの企画から始まったものなんですね。ですからこれは話芸になりにくい。『リング』や『13日の金曜日』を怪談調にして語ってくださいと言われても、これはきっと成り立ちません。話の構成や肝が違う。
 一度私、『13日の金曜日』を語りで再現したことがありましたが、爆笑でした。えっ、私の語りが悪い?

 つづく 

 


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2012年09月13日

真・デッド・ライン その2

 中山市朗です。

 Sくんがやらかした、もう冷や冷やモノの事件。
 社長さんが私に会って発した第一声。
「Sくん、寝ました!」
 どういうことかというと、

 実は先方の会社が、大箱さんとSくんの2人の歓迎会をやってくれたといいます。そしてSくんは、会社の株主さんと会長さんに誘われ、3人で新地のキャバクラに連れて行かれたそうです。その席で、彼は寝たというのです。
 わちゃー!
 Sくんに後で問いただしました。
「寝たんか!」
「寝てませんよ。寝たフリしただけです」
 余計あかんわ!
 みなさんはわかりますよね。彼がやらかしたことの重要性。
 Sくんは私の紹介があって社長さんに雇われた。そして歓迎会までしてくれた。
 そこにその株主さんや会長さんが来ていた。つまり期待されたわけです。
 そんな人に高級店に飲みに連れて行かれて、おごってくれた。
 これ、株主さんと会長さんがSくんのことを知ろうとコミュニケーションを求めてきたわけですよね。「今後頼むで。まあ今日はええところで飲ましたる」
 しかし、Sくんはそこで寝たフリをした!
 いつも私たちに取る態度が出ちゃった。「誘われたから行ってやる」という態度。
 つまり「あんたらの話は面白くないし、ほんまはこんなん興味ないねん」という上から目線。失礼千万とはこのこと!
「お前、ことの重要性わかってんのか?」と叱っても「しゃあないですやん」と、何が悪いのか? みたいな顔をしている。
 もう中学生レベルです。
「お前、叱れなかったか?」
「別に。ただキャバ嬢に思いっきり、ひっぱたかれました。まあゲームです」やて。
 馬鹿者! どこのキャバ嬢が客をひっぱたいたりすんねん。それはよほど腹にすえかねたからや。
 これはもう、雇ってくれた社長さんや推薦した私に対する恩も義理も欠いた作法です。
 Sくんのことを思って採用し、歓迎してくれた周囲の人間を何と思ってる!
 常々注意していたことをスルーするからこんなことが起きる。自分の価値観でしか物事を見れないから、そういうズレたことをする。
 人間関係がわからない、こういうところが、コミュニケーション能力を養っていない証拠なんです。コミュニケーション能力とは、人を見る力でもある。人が見れていないから、こんな失礼なことが平気でできる。
 コミュニケーションを軽んじているから、社会の常識に気が付かないでいる。おそらく実社会に出たことがない彼は、学生時代の価値観がそのまま身についてしまっているのでしょうね。で、それは違う、と言っても、もう30歳近くになると、その価値観を変えることができなくなってしまうんです。今まで30年近く生きてきた価値観を否定するのが恐いわけです。

 社長さんが私に会って第一声「Sくん、寝たそうです」となったのも、きっとその翌日、会長さんから「あの新人を雇ったのはキミかね。なんだあの無礼な態度は!」と言われたのでしょう。そうなると、推薦した私も悪いということになる。それ、塾生全体の信用も損ねる。もう私のところに依頼はこない。もちろんSくんもアウト! 先方のゲーム会社もその間作業が止まる。みんなの気持ちが萎える。
 誰もが損をして、誰もが得をしない。
 唯一、Sくんのつまらんプライドがそのときに満足できただけのこと。そんなの世の中の何の役にも立たんわ。
 ほんま、冷や汗ものです。
 まあ、そうはならなかったのは、社長さんがいろいろ言い訳してくれたのでしょう。まあ、ゲーム業界という特殊な世界でもありますから。
 でもなあ、29歳。わかろうや、社会の仕組み。
 そしてそんな若者、いっぱい見てきましたよ私。

 でもSくんのこの態度、小説家を目指す者としての疑問も湧きます。
 おそらくSくん初の新地の高級店。キャバクラも初めてでしょう。
 興味湧かんかなあ、と。高級クラブってどんな構えでどんな内装で、ママはどんな人で、女の子たちのサービスはどんなで、衣装や仕草、どんなものを飲んで、どんな会話をして、また客は何を喜んで・・・、取材の対象はいっぱいある。別にそこでメモしろとは言わないですけど、女の子たちと話をして、小説に使えるもの、いっぱいあるのに、そこを寝る。
 アホですわ。
 好奇心なきものはこの世界から去れ、ですけど、Sくん大丈夫か?

 寝るといえば、Sくんはよく寝ます。飲み会では必ず寝てます。バイトしているわけでもないのに? 何してるん? だからでしょうね。もうだらけているんです。
 だから眠たい。

 社長さんはSくんのことが心配のようです。私もです。
「中山先生、Sくん、塾に通っていないとか、飲み会に来ないとかなりませんかね。大箱さんもそうですが、第一優先は本分である作家になるための修行。塾へは行く。飲み会は休まない。そう言ってあるはずですが?」
「実は2人とも先月塾に来ていません。特にSくんはおそらく飲み会は、今月から仕事が忙しくなるから、という言い訳で来なくなるでしょう」
「どうしてですか?」
「帰って寝るんでしょ」
「それダメです。寝て何があるんですか!」

 案の定ですけど、6日の授業後の飲み会は顔を出したものの、「ボク、すぐ帰りますよ。明日会社がありますから」
 総務のスガノのところにも「今月から忙しくなるので、飲み会は行けません」というメールがあったらしい。
「あ、会社があるからという理由で飲み会に出ない、は無しね」
「なんでですか」
「社長命令」
「はあ、もう、意味分かりませんわ。寝不足で仕事ミスしてもいいんですか」
「だから社長命令やて」
 社長さんはこう言ったのです。
「私が欲しいのはクリエイターです。ストーリーが書けるライターです。だから先生の塾にお願いしました。そのクリエイターが寝るなんてありえません。寝て何があるんですか。寝るのがもったいない、そう思わないとダメですよ。自分が寝ているうちに面白いことがあるかもしれない。面白いことができるかもしれない。傑作なエピソードが生まれるかもしれない。誰かと会えるかもしれない。情報が得られるかもしれない。そう思わないんですかね、Sくんは。そういう意味で飲み会に不参加は無しです。そして翌朝ケロッとしているタフさがないと、この業界は無理です。明日、仕事があるから帰って寝ます、という人は、うちにいりません」
 そう伝えてもSくん、不服そうに帰り支度をしたまま突っ立っています。
「それでも帰って寝て、ちゃんと仕事できたほうがいいでしょう」
「だから社長命令やて。実はお前がそう言うやろうと思ってな・・・」

 私、社長さんに言ったんです。「きっと、そうは言ってもSくんは帰るでしょう」
 すると社長さんはどう言ったと思います?
「だったら近いうち、僕も先生の塾の飲み会に顔を出します。私が参加して、2人が参加しないはありえないでしょう。そして朝、2人と一緒に会社に行きます。それがこの世界だと教えます」

 つまり2人はゲームライターとして働いてもらうけど、それは修行の一環、または経験の蓄積、また私が監修しているゲームも進行しているのでそれを手伝ってもらうことによって、仕事とはどういうものかも覚えてもらう。それだけのこと。クリエイターとしての本懐を忘れてもらっては困る、ということなんです。
 あ、就職が決まったと安心してもらっては困る、ということなんです。私は就職を斡旋したつもりはない。先方にもそんなつもりはないし、サラリーマンはいらない。
 それより、これを機に仕事を覚えて、色んな知識を吸収して、情報収集力のある、面白いこと好きな、好奇心あふれるタフはクリエイターになってもらいたい。そういう力を貸して欲しい、というのがその社長さんの求めるところです。
「明日仕事があるので、はよ帰って寝ます」というSくんの発言は、予想通りでしたがそんなヤワなことでは勤まらないわけです。29歳、一徹二徹くらい平気でなきゃ。
 徹夜したらミスします、なんて言っている人、この世界無理です。
 だいたい世の中の人の忙しいは、こんなレベルじゃない。

 Sくんに限らずですが、素人とプロの違いは、素人は勝手に自分のできることの線引きをしちゃっているんです。だから「ボクには無理です」と平気で言う。
 プロは「無理」とは言わない。たとえ無理だと思っても期待に答えて全力でやり通し、納入日、締切日にはキッチリ上げるわけです。そしたら二徹、三徹だって当たり前にありますよ。それで完遂して、しかも一定のレベルを上げる。これがプロ。
 だからこそ付加価値や対価が生じて、ギャラになる。
 それが無ければ、仕事は無い。
 Sくんは、まだこの仕事を時給換算のアルバイト感覚で捉えているようです。
 大箱さんはまだ大学生なので、卒業したら鍛えます。

 あ、言うときます。Sくんは帰って寝ないと仕事ミスするかもって言ってますけど、出社時間は10時。早朝に帰っても寝れます。何時間寝る気やねん!
 それに7時以降の残業は無し。出社日は自由に指定できる。塾ないしオフィスイチロウでの仕事があれば、そちらが優先、という契約になっております。
 だから彼らのスケジュールは実は私が管理しているわけです。
 つまり私がNGと言ったらNG。それが嫌なら辞めてもらいます。それだけのこと。
 これは彼らを社長さんに合わせたとき、社長さんからもそういう説明が直接ありました。
 なのに、そこも聞いてないんか?

 それと「私も飲み会参加します」と言っている社長さん。この前会ったら、三徹してはった。「先生、私、ここ3日帰ってなくて靴下も替えてないので、先生の部屋へ上がれません。どこか行きましょう」なんて言ってました。そんな人が飲み会に参加する。
 一方、別にほかの用事もない、7時定時に終業という契約のSくんが、帰って寝ないとミスするかもって心配をしている。

 素人とプロ、ここにこんな違いがあるんです。
 馬力が違う。タフさが違う。考え方も違う。姿勢も違う。
 人間が違うわけです。だからプロは人を評価するわけです。
 人の悪口言って叩いたり、頭から否定したり、卑劣な言葉や態度をとるのは素人なんです。

 ともかく、コミュニケーション能力の不足が、結局先輩や目上の人の存在を軽んじて、その態度がいかに無知を生むか。いかに勘違いを増長させるか。そして本人がいかに消えていくのかが、これでわかったと思います。

 キミたち。好きな作品を創って終わりじゃないんだよ。
 そこまでだったら誰でもできる。
 その作品をビジネスにして、お金にしてこそプロなんですよ!
 そこに、人がいるんです。
 だから、もっと人と関わらなきゃ。



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2012年09月12日

真・デッド・ライン その1

 中山市朗です。

 この前、放送作家志望だという女子大生を紹介されて、「この子にアドバイスしてやってください」と言う。その子も「放送作家になるためには何が必要ですか?」というので「コネ」と言ってやったら、はあ? みたいな顔しとった。
「だって放送作家になるんやったら、フリーでは局に出入りできへん。どこかの事務所に入らんと。で、そういう事務所は採用試験しているわけやないので、つまり誰かの紹介で入るわけや。これコネや。放送作家になるには、これしかないわ」
「プロになるための放送台本の書き方を教えてください」
「書き方? そんなんいらん。事務所に入ったらいきなり現場に入れられて、自然と覚えさせられる」
 そういうもんです。
 放送台本なんてスタッフが集まって番組会議の中で決めていくわけですから。後は作家がそれをまとめるだけ。あと、出演者との打ち合わせも必要。
 ですから必要なスキルは、と聞かれたら「コミュニケーション能力」としか言えません。

 でも、この子は果たして本気なのか、という疑問も。
 私だったら「例えばそれはどんな事務所がありますか」とか「中山さんはそういう事務所に入ってらしたんですか」とか「一度見学させてください」なんてしつこく食い下がると思うんですが、全然そういうことはなかった。
 つまりコミュニケーション能力ゼロ。従って放送作家、この子は無理。
 大学の放送学科みたいなのに席を置いているとか聞きましたけど、何を学んでた?

 これはうちの塾生に限らない。クリエイター志望の若者は、そういうコミュニケーションなど必要ない、それよりいい作品を作る、より高いテクニックを身につける、そういうことのみがプロになる条件だと思っているようです。かつての私もそうでした。
 もちろん高いテクニックは重要な1本の柱です。
 しかし、もう1本の重要な柱はコミュニケーション能力。人との接し方、人脈の作り方が仕事を与えてくれるのです。
 この2本の柱がプロには必要なんです。
 だって、いくらいい作品を創っても、誰も見せないで仕事の依頼きます?
 そんなんきません。人と会って自分を売り込んで、初めて仕事になる。
 作家もライターもマンガ家も一緒。だまっていて依頼がくるのは大御所だけ。

 でもコネとか人脈というと若い人、いや若造どもは「そんなものにボクは頼りません」とか「この世界は実力でしょう」と言って、大人の事情を軽蔑し理解しようとしません。
 で、飲み会に来ない、会話ができない、礼儀を知らない、部屋にこもって作品を作ることがすべてだと思っています。いや、それも大事。でもねえ。
 以前、映画の現場の人が言っていたのですが、「現場で叱って、後の飲み会の席で『あれはなあ』とフォローする。現場ではいちいち説明している間などないですから。でも、今の若い人は現場が終わると帰っちゃうので、叱られたままの状態でいる。そのうち来なくなる。困ったもんだ。それにそこにコミュニケーションが生まれないから、次の現場があっても誘ってやろうとは思わない。だから新人が育たない」とボヤいていました。

 サラリーマンの世界は、こういう人間関係のあり方を社員教育で仕込まれます。だから理解するわけです。誰がどういう立場の人で、誰と誰とはどういう関係で取引先はどこで、先方の誰がいちばんエラいのか。そういうことは会社勤めの人にはなくてはならないスキルです。人間関係の構築がビジネスを生むわけです。
 我々クリエイターだって、ビジネスをするわけです。作品を売るわけですから。
 でも就職したことのないクリエイター志望者は、ここのところを理解できないままでいるわけです。クリエイター系の専門学校もこのことは教えない。
 これ、コワいことなんですね。

 実はこんなことがあったんです。
 ここが本題。
 もうSくんは反省しているようなので、責めるわけではありません。ただ、コミュニケーション能力を軽んじているクリエイター志望者が同じような行動を起こさないようにと思って書きます。いましたよ、同じような若い人。本人はそれがどんな意味なのか、知らずに消えてますけどね。

 7月にこのブログで塾生の大箱さんが某ゲーム会社にシナリオライターとして出向することが決まった、と報告しましたが、彼女の能力が高かったのか(?)、「もう一人、塾生さんの中からライターを紹介してくれませんか」と連絡があったのです。先方は一人の塾生の名を挙げて、彼が欲しいといってきましたが、その案件が「打ち合わせをしながらゲームの進行を決めるので、なるべく会社に詰めてほしい」ということでした。でもその塾生はサラリーマンなので、ちょっとそれは難しい。そこでSくんを紹介したわけです。
 そして先週より出向が決まったわけです。
 めでたし、めでたし・・・とはいきません。さあここからです。私が危惧するのは。
 Sくんは小説家志望。小説を書くスキルは塾生の中でもっとも高い。特にキャラクター造形は抜群のものがあります。ここがゲームに対応できるかな、というのが私の推薦理由。プロではありませんが、そこはそのレベルでいいという先方さんの注文です。
 問題がもうひとつの柱です。
 コミュニケーション能力。彼はここが欠如しています。
 Sくんは飲み会に参加しています。
 だから今回声をかけた、という部分もある。
 顔をよくあわせる、というのも重要なことです。人は情で動きますから。
 でもSくんのその言動には、何か人を不愉快にさせるものがある。そこを注意するのですが、「そうは言ってませんやん」とか「それがボクのキャラですから」とか言って、聞き入れる態度がない。というか、自己主張をするわけです。
 恐ろしいのは、彼はちゃんと働いたことがないし、自分で何かをしてそれをお金にしたという経験もないということ。つまり客観的に物事が見られないんです。そこには自分勝手な価値観しかない。そんな価値観をこの世界で20年以上も生きている私に押しつけられても、何の説得力もない。そこがなぜわからん?
 で、29歳でっせ。

 このSくんも「飲み会に出たから有利とか、そういうの嫌です」と言うわけです。こっちが何か得るものがあるよと誘っても、それを面倒くさがる。余計なお世話、「仕方なく行ってやる」という態度で来ます。
 そんなだから、年上の人とか業界の先輩を敬うことができない。敬っているのかもしれないんですが、それが態度に出ない。私も彼と接していてカチンとくることが多々あります。「それ、あかんで」と指摘しても「しゃあないですやん」とか「価値観の違いです」とか言って、素直じゃない。
 なんか、彼を見ているとネガティブな感じです。そこを指摘したら、
「そんなん言われても、ボクはそういう性格ですやん」
 て言うけど、「いやいや、直せよ。お前それ損するで。きっとそれ、そういう考えしてるから表情に現れるんやで。お前、自分で何もやってないから自信がなくて、だからそれが顔に出るんや。自信のもてることを何か完遂してみろ」と言うんですが・・・。そんな彼もちゃんと仕事をしてギャラももらえれば多少は変わると思うんです。彼の成長を促す最初で最後のチャンスかもしれない。だからそこを覚悟した上で、ゲーム会社の社長さんに紹介した。
 さて、そんな彼が、先日採用されたんです。テクニックはあるんですが、失礼なことをしていないかという心配がたちまち起こった。

 さて、Sくんの初出勤があった翌日。
 その社長さんと打ち合わせのため会って話をしたのですが、Sくんのことが気になる。
 そしたら案の定、Sくんはやらかしてしまっていたのです。
 社会人としては、あってはならないことを!
 それは?
 それは明日!

 続く



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2012年09月06日

揺れる大地・怪の実話 その2

 中山市朗です。

 『新・耳・袋』を出版したとき、怪談はまだまだオカルト扱いされていました。実のところ、このオカルトという言葉も大変な誤解を受けているのですが・・・その話は置いといて。

 その翌年に出たのが『超怖い話』でした。『新耳袋』は7年後、メディア・ファクトリーによって復刊、全十夜として最初から企画されましたが、その7年の潜伏期間、身近な人にあった怪異な話、というコンセプトは、こちら『超怖』がある意味継承し、読者の掘り起こしをするわけです。
 『新耳』と『超怖』は、うまく両立していたんです。けっして対立してませんから!

 稲川淳二さんが、怪談を語ることで伝える、稲川怪談を本格始動させるのもこの時期からです。私が構成を担当していたKTV『恐怖の百物語』の放送開始は、1991年4月からでした。これ、おそらく稲川さんの怪談番組の初レギュラー。
 そうして、ここ数年ですよ。今やもう、怪談、怪談。
 そんなおり、メディア・ファクトリーの編集部と東雅夫さんが、実話系怪談という言葉を作ったわけです。確か私が『なまなりさん』を出版するとき、編集部から「実話怪談がいいのか、実話系怪談がいいのか」という相談を受けた覚えがあります。

 実話怪談ではなく、実話系怪談。
 『新耳袋』の場合、その話のソースは基本的に誰、と特定できることがコンセプトでした。つまり意識したわけではありませんが、それは都市伝説とはまったく違うスタンスだったわけです。だから都市伝説怪談ではまったくない。すると実話なのか、ということになりますが、実のところ、それが実話なのかどうかは私たち作者にもわからないわけです。

 現場検証とか、目撃の第三者がいないかだとか、その物的証拠は? 再現性は? なんてやらないとそれはわからない。でも、本人は本当にあった、と語る。
 また、こっちは科学特捜班でもないですし、検証なんてする気はありません。
 ただ、その人が体験談と語ったその話のゾクッとした肌感覚を伝えたいわけです。
 だから系とした。つまり、若者がよくファッションやキャラの選別に使う○○系と同じで、断定を避けてちょっと曖昧を持たせた、というのが実話系怪談、というわけなのだと思います。

 ただし、こちらとしては明らかに嘘、作り話、勘違い、よくあるパターンは排除し、また目撃談ではなく、あくまで短くても物語性のある話をチョイスし、吟味していることは断言しましょう。でも今、『新耳袋』の特に初期のものを読み直すと、なんでこんな話、選んだんやろと自分でも思ったりするわけですが、当時はそんな話、なかったのは事実です。千日前のタクシーなんて、今はよく語られるパターンですしね。
 もうひとつ、単なる怪異目撃談を、怪談に仕立てる方法というか、要素、肝の見つけ方というものがあるのですが、これはまあ、講座の受講者の特権ということで。

 そんなわけで、20年ほど前までは曖昧としていた怪談が、今ではその書き手の意識やワザの生かし方、読者の期待度、あるいは出版社のセールス戦略の上で、カテゴリーに分けられるようになったというわけなのです。

 というわけで、こういうことが言えると思います。

☆都市伝説
 マスメディア(今はネットが主流か?)などによって広がる根拠が曖昧、不明でありながら、身近な話として伝播する怪談。根拠が曖昧なわりには伝説の人物名や地名、起業者は聞き手、話し手によって身近なものへと変化する。

☆実話系怪談
 体験者や場所が特定され、それが上にその名はAさん、Bさん、C市、D町とイニシャル表記される。場合によっては実名が明かされることがあるが、その場合、そこに肝が生まれることが多々ある。実際にあったリアル感を著者、語り手が表現する生々しさに、そのワザが問われる。

☆現代怪談
 奈良大学、高藤史憲氏のリポートによると、名前や地名、登場シチュエーションや登場する場所が固定される怪談、とあります。とすれば、稲川さんの「生き人形」などはこのカテゴリーになるのかもしれません。あとテレビ局で起こったり、決して切ってはならない神木のある場所、将門の首塚などもそうですね。私と田辺さんの「声を出した人形」もいずれ・・・?

☆創作怪談
 これは作者が創作であるといえば、創作ですね。怪談のひとつの肝は、こんなことが自分にもあるかもしれない、あったら・・・という恐怖にあるのですが、創作は、それはさておき、読者を怖がらせるテクニックを駆使した文芸なわけですが、その分説得力が必要となり、そこがホラー作品となりがちである、と私は思うのですが。

 
 しかしこの4つのカテゴリーは、実はどれもが絡み合っています。
 読者や聞き手を怖がらせる、という意味においては、どのカテゴリーにもテクニックは必要なわけで、そういう意味では実話系も作者の意図とするものの強調や仕込み、話の構成を考え、脚色するわけです。そういう意味では創作怪談とも言えなくはない。
 創作怪談も、実話をヒントに創作されるものであるわけで、その構成や内容は、事実に近いかもしれません。
 だから、複雑なわけです。

 しかし、私はあくまで「あったこと」をどう伝えるか、に重きを置いていることははっきり言っておきますよ。
 妙な演出をくわえるより、なるべくシンプルなのが、実話系怪談は怖いんです。

 ということで、次回の講座は「西洋の怪談と日本の怪談」です。


 

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2012年09月05日

揺れる大地・怪の実話 その1

 中山市朗です。

「Dark Night Vol.7」、早くも予約が定員に達しました。
 キャンセル待ちの方、オフィスイチロウのブログ「魔怪見聞録」、ツイッター等でお報せします。ありがとうございました。

 さて、29日(水)は大阪芸術学舎の講座、第4回目を開講いたしました。
 「都市伝説と実話系怪談」というのが今回のテーマです。
 これ、ちょっと難しい問題です。
 どんな講義をやったのか、怪談好きのみなさんにも一部公開します。

 ある学者は今、怪談には4つの種類があると指摘しています。
 実話系怪談、都市伝説、現代怪談、創作怪談。

 私と木原が『新・耳・袋』で作家デビューした1990年には、このようなカテゴリーはありませんでした。都市伝説という言葉もこの頃に初めて耳にしたように思います。

 怪談という話芸、文芸の歴史は古く、おそらく平安時代にはあったと思われますが、おそらく明治の時代を迎えるまでは、伝説も虚言も実話も創作もごっちゃに存在していたと思われます。江戸時代までの人たちは、歴史の事実を認識するという概念がスッポリ抜け落ちていたんですね。この時代、庶民たちは講談を聞いて歴史を知りました。
『太平記』『太閤記』『赤穂義士』『難波戦記』・・・。
 これらに語られることが歴史だと思われていたわけです。
 ところが明治になって、新聞というものができました。西洋合理主義とか科学というものも入ってきました。そして嘘と事実の認識もようやく生まれるに至ったわけです。
 怪談も、おそらくもっと曖昧なものだったことでしょう。
 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、ギリシャ系アイルランド人で、後に日本国籍を取得した人ですが、おそらくは日本に伝わっていた怪異談を集成しスポットをあてた最初の人でしょう。実はこの人の教え子に浅野和三郎という人がいるのですが、浅野は幽霊、化け物にされるこれらのものを西洋のスピリチュア運動で説明しようとし、大正12年に「心霊科学研究会」なるものを開設します。
 日本古来より伝わる怪異の数々を科学合理主義の中に取り込もうとしたわけです。
 一方、柳田國男などが蒐集した怪異談は今でいう民俗学的アプローチの草分け・・・。
 このあたりから、幽霊、化け物の存在に疑いの目が向けられたりします。
 しかし、その存在の是非は別として、やっぱり怪談のその独特の雰囲気、何よりゾクッとするあの皮膚感覚の虜になった文化人たちは、明治から大正にかけて大勢いたようで、彼らは「百物語」の会を開催して怪談を語り聞いたり、それを文芸として書き記したり、舞台の題材にしたりしました。
 泉鏡花、市川団子、岡田三郎助、小山内薫、森鴎外、佐藤春夫、芥川龍之介、幸田露伴、山田耕筰・・・

 しかし、戦争という国家をあげての危機感が、怪談という非生産的な迷言を一掃してしまいます。おそらく取材するとものすごい怪異談がこの頃目撃され、語られたはずなんですが、それどころじゃなかった。
 そして戦後。働け働けの日本人は高度成長に向かって突き進み、科学的でないもの、合理的でないものは必要ないとされ、相変わらず怪談は隅っこのほうに追いやられたままでした。やがて、視聴率をあげるためなら何でもありというテレビというメディアが、怪談を復活させ、日本の一般の人たちの好奇心と怖いもの見たさ、知りたさに刺激を与えます。
 懐かしいですね。「あなたの知らない世界」。この番組製作に携わった放送作家が新倉イワオさん。この人は日本心霊科学協会の理事で、その前身が浅野和三郎が創設した心霊科学協会であったわけです。漫画では水木しげるさんの妖怪の世界、つのだじろうさんの心霊の世界。
 中岡俊哉さんは子ども向けの怪談本を多く出版しましたが、この人はテレビに出て、UFOから超能力、ネス湖の恐竜や雪男のようなものにも解説をすることによって、怪談とオカルトをごっちゃにしてしまいます。
 私が放送局に怪談ものの番組を提案しても「うちはオカルトはやらない」なんて言われるのは、このイメージが未だに放送関係者に持たれているからなのです。 
 まあ、怪談は怖ければ嘘でもホントでも、オカルトでもなんでもオーケーだったわけです。

 さてさて、このように一方で怪談を話芸、文芸として昇華させようとする作家や芸術家がいて、一方でうさん臭い非科学的な話として好奇な視点で扱うマスメディアという、この二つの相矛盾した中に怪談はあったわけです。
 おそらくこれは日本だけではなく、世界的な現象だったと思われます。このマスメディアという媒体はもっと怪しげで、しかし身近にありそうな怪談を生み出します。
 いかにもありそうな、本当にあった、事実だとされている、しかしそのニュースソースはまったく明らかにされていない、同じようなバリエーションが存在する奇妙な話。
 これは口コミに加えて、テレビ、ラジオ、雑誌、新聞などによって急速に広範囲に伝播していくことになります。アメリカの民俗学者、ジャン・ハロルド・ブルンヴァンがこの伝播し生まれる話に注目し、都市で信じられる話、つまり都市伝説に関する著作を1980年代に発表することによって、その言葉が日本でも知られるようになります。

 都市伝説。「トイレの花子さん」「口裂け女」「リカちゃん」。怖かったですねー。
 私の学生の頃は「キジマさん」なんていう話もありました。
 でも、これらの話。よく考えたら、その体験者は死んでしまったというパターンが多かったのですが、「え、じゃあそのあった事実は、誰が伝えたの?」という矛盾があり、しかも口裂け女が時速80キロで追いかけてくるなんて、ちょっと考えれば、怖がらそうとするが上についた尾ひれの部分が、どうも話を陳腐にしている、と、当時学生だった私や木原も思ったんです。
 まあ映画監督になるんだと息巻いていた頃で、「こんなの演出として最低だね」なんて今思えば生意気なことを言っていたのでしょう。
 でもね、私たちの通っていた大学は、どうやら幽霊の巣窟だったようで、友人や先輩から聞かされるちょっとした怪異、それは決して時速80キロで追うものでもないし、「死ねばよかったのに」なんてセリフも吐かない。遭遇したからといってそんなに実害はない。ただ、そこにたたずんでいるだけ、ただ何もない2階の窓の外を歩くだけ、ただこつ然と消えるだけ、みたいな現象に強く惹かれたわけです。
 しかも、体験者の話は大変リアルで、少し日常が崩れるその様がかえって怖い。
 そうやって聞いた話を書き貯めていて、しかしまさか、これが出版されるなんて思ってもみませんでした。出版されても「これ、怪談なのか?」ときっと首をかしげる読者も多いだろう、そんな不安と、でもこんなリアルで身近な話もあるよ、これも立派な怪談でしょう、と自負する部分もあった。
 でも、実話系怪談なんていう言葉はなかった時代。
 1990年、しかも怪談の季節が終わった秋に、扶桑社から出版されたのが『新・耳・袋 〜あなたの隣の怖い話』だったわけです。

 つづく

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kaidanyawa at 23:14|PermalinkComments(5)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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