2012年11月
2012年11月30日
明日に向かって残せ!
中山市朗です。
私は怪異蒐集家という肩書きがありますが、これは興味のあることはなんでも蒐集してしまうという性分が元になっております。
ということで、本、ビデオ、レコード、LD、DVD、ブルーレイとコレクションが膨大な数になって部屋が狭く感じます。以前は塾の教室を倉庫代わりにして、塾生たちに自由に利用してもらっていましたが、この春の教室の引っ越しのときに大量のアナログソフトや古書を泣く泣く処分。それでもまだまだ残っておりまして、といって捨てることができない。
で、捨てずに少しでも容量を減らそうとアナログのビデオとLDを50GBのブルーレイにコピーすることにしました。以前もこの作業したことがあるんですが、まだまだ大量のアナログ映像がありまして。デジタルに変換すると画質もよくなりますしね。
現在、ハードディスクが休む暇もなく作動中。
落語、漫才、新喜劇、歌舞伎、オペラ、コンサート、ドキュメンタリー、ニュース映像、そして特に、'80年代のCM。バブル期のCMはなかなか面白いし、懐かしい。
CMは十数時間分もコレクションがあります。レア物です。
CM業界にいる友人に頼み込んで、製作会社の蔵出しCMをコピーしてもらったものもあります。昭和40年代のものです。
演芸に関してもきっとワッハ上方にも無いやろな、と思われるものも多数あります。
で、これらをブルーレイにコピーしたのはいいんですけど、元のビデオテープ、これが処分できないんですよ。それじゃあ、なんにもならないんですけど。
これらのレア映像、デジタルにしたのはいいけど、このデジタルってある日きれいさっぱり消えている、という可能性があるんですね。というのも実際、台湾製のマクセルのブルーレイは、録画して1年したら百枚近くあったほぼすべての録画データが再生不能になったんです。愕然としましたよ。
こんなんで、ほかのメーカーも10年、20年と保存できるのでしょうか?
それとも再生機との相性?
DVDも何枚か同じことが起こっています。
メーカーは100年保証なんて言っていますが、デジタルデータなんて普及してまだ数年ですから、わかんないわけです。
テレビから録画したものならまだしも、結婚式や子供の成長記録なんて、子供が中学生になる頃には、赤ん坊だった頃の記録は消える、なんてことも?
だったらバックアップしとけ、ということになるんですが、テレビ番組はコピーワンスでバックアップできない。んなアホな! バックアップが取れないメディアって欠陥メディアですやん。著作の保護はわかりますが、次世代メディアへのバックアップ機能だけはなんとか考えていただきたい。
アナログは強いですな。トラッキングが合わないとかの問題もありますが、消えることはない。ベータで録画した30年前のものが再生できます。レコードは私の持っているものでは70年前のものが再生できます。でもデジタルデータはどうなんでしょう?
なんか100年後になると、1990年の後半から2015年ごろまでの約20年間のデジタルデータの大半がきれいサッパリ消えてしまって、文化のミッシングリンクが起こる・・・なんてことが起こるかもしれません。それ以前のものはアナログで、以後のものは進化したデジタル技術で残るわけです。でもそうやっても200年、300年後は残るのでしょうか?
恐ろしいのはアナログをデジタルに変換して、元となるアナログ(紙媒体の書籍、資料、ビデオテープなど)を処分してしまうこと。そうなったら貴重な文化遺産の大量喪失につながります。
専門家によると「デジタルデータ自体は理論的には劣化しない」ということらしいのですが、保存環境次第では10年もたないという説もあり、我々の家庭にある個人のライブラリーは、いつ、消失の危機にあるのかも知れません。
それに、昔あったUマチックやベータ、VHDなんてビデオディスクも、今はもうその規格そのものがないので、記録はあっても読み込むことができなくなりますしね。
ちなみに最古の写真は1825年のもので、これは今も見れるわけですから190年はもっているわけです。映画のフィルムも退色や傷みがあるとはいえ、処分しなければフィルムに焼きついたものが消えるということはない。ですから修復はできるわけです。
あ、でも100年後にはフィルムを映写する映写機なんて博物館に行かないと無いか。そんなことを思うと1000年単位で残っている古文書や絵画、美術装飾品、芸能なんてすごいものなんですね。それともデジタルが脆いのか?
てなことを考えていたら、ちっとも部屋は片付くことなく、むなしくアナログビデオとデジタルディスクが共存することになってしまいました。
うーん。
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
私は怪異蒐集家という肩書きがありますが、これは興味のあることはなんでも蒐集してしまうという性分が元になっております。
ということで、本、ビデオ、レコード、LD、DVD、ブルーレイとコレクションが膨大な数になって部屋が狭く感じます。以前は塾の教室を倉庫代わりにして、塾生たちに自由に利用してもらっていましたが、この春の教室の引っ越しのときに大量のアナログソフトや古書を泣く泣く処分。それでもまだまだ残っておりまして、といって捨てることができない。
で、捨てずに少しでも容量を減らそうとアナログのビデオとLDを50GBのブルーレイにコピーすることにしました。以前もこの作業したことがあるんですが、まだまだ大量のアナログ映像がありまして。デジタルに変換すると画質もよくなりますしね。
現在、ハードディスクが休む暇もなく作動中。
落語、漫才、新喜劇、歌舞伎、オペラ、コンサート、ドキュメンタリー、ニュース映像、そして特に、'80年代のCM。バブル期のCMはなかなか面白いし、懐かしい。
CMは十数時間分もコレクションがあります。レア物です。
CM業界にいる友人に頼み込んで、製作会社の蔵出しCMをコピーしてもらったものもあります。昭和40年代のものです。
演芸に関してもきっとワッハ上方にも無いやろな、と思われるものも多数あります。
で、これらをブルーレイにコピーしたのはいいんですけど、元のビデオテープ、これが処分できないんですよ。それじゃあ、なんにもならないんですけど。
これらのレア映像、デジタルにしたのはいいけど、このデジタルってある日きれいさっぱり消えている、という可能性があるんですね。というのも実際、台湾製のマクセルのブルーレイは、録画して1年したら百枚近くあったほぼすべての録画データが再生不能になったんです。愕然としましたよ。
こんなんで、ほかのメーカーも10年、20年と保存できるのでしょうか?
それとも再生機との相性?
DVDも何枚か同じことが起こっています。
メーカーは100年保証なんて言っていますが、デジタルデータなんて普及してまだ数年ですから、わかんないわけです。
テレビから録画したものならまだしも、結婚式や子供の成長記録なんて、子供が中学生になる頃には、赤ん坊だった頃の記録は消える、なんてことも?
だったらバックアップしとけ、ということになるんですが、テレビ番組はコピーワンスでバックアップできない。んなアホな! バックアップが取れないメディアって欠陥メディアですやん。著作の保護はわかりますが、次世代メディアへのバックアップ機能だけはなんとか考えていただきたい。
アナログは強いですな。トラッキングが合わないとかの問題もありますが、消えることはない。ベータで録画した30年前のものが再生できます。レコードは私の持っているものでは70年前のものが再生できます。でもデジタルデータはどうなんでしょう?
なんか100年後になると、1990年の後半から2015年ごろまでの約20年間のデジタルデータの大半がきれいサッパリ消えてしまって、文化のミッシングリンクが起こる・・・なんてことが起こるかもしれません。それ以前のものはアナログで、以後のものは進化したデジタル技術で残るわけです。でもそうやっても200年、300年後は残るのでしょうか?
恐ろしいのはアナログをデジタルに変換して、元となるアナログ(紙媒体の書籍、資料、ビデオテープなど)を処分してしまうこと。そうなったら貴重な文化遺産の大量喪失につながります。
専門家によると「デジタルデータ自体は理論的には劣化しない」ということらしいのですが、保存環境次第では10年もたないという説もあり、我々の家庭にある個人のライブラリーは、いつ、消失の危機にあるのかも知れません。
それに、昔あったUマチックやベータ、VHDなんてビデオディスクも、今はもうその規格そのものがないので、記録はあっても読み込むことができなくなりますしね。
ちなみに最古の写真は1825年のもので、これは今も見れるわけですから190年はもっているわけです。映画のフィルムも退色や傷みがあるとはいえ、処分しなければフィルムに焼きついたものが消えるということはない。ですから修復はできるわけです。
あ、でも100年後にはフィルムを映写する映写機なんて博物館に行かないと無いか。そんなことを思うと1000年単位で残っている古文書や絵画、美術装飾品、芸能なんてすごいものなんですね。それともデジタルが脆いのか?
てなことを考えていたら、ちっとも部屋は片付くことなく、むなしくアナログビデオとデジタルディスクが共存することになってしまいました。
うーん。
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kaidanyawa at 23:19|Permalink│Comments(3)│
2012年11月26日
不安奇異・モンキー・ティーチャー その後
中山市朗です。
夜を徹しての「不安奇異夜話」、無事終了いたしました。
この回に参加するのは3回目なのですが、過去2回は会場の楽屋にいろいろ怪異が起こったようなのですが、この日は何も起こらず。
お店の人も「ちょっと前まではうちのスタッフも、こんなことがあった、あんなことがあったと言っていたんですが、最近なぜか落ち着いたようなんです」と言っていました。
会場となるこの建物は、もともとマネキン人形の製造工場だったらしく、ライブ会場となる1階はぶち抜きでお客さんはそんなに違和感は感じられないでしょうが、2階の楽屋はちょっと妙な間取りになっていて、なんか無駄な空間があったり、妙なところに階段があったり、その割りにはトイレは3階に上がらないとなかったり。そのトイレの前に盛り塩が・・・。
で、お店のスタッフの方も「ここ出ますよ」とほんと軽いノリ。
ところでこの日、私自身がなんか妙だったようなんです。
なんか楽屋で元気が出ない。体調不良ということはないのですが、なかなかエンジンがかからないんですよね。ライブを目の前にして、こういう状態ははじめてでした。
で、ライブの第4部でお客さんも見てらしたと思いますが、私のピンマイク(服の襟などに取り付ける小型マイク)の電源が入っていないという音声さんの指摘があって、隣の雲谷斎さんのマイクをお借りしたわけですが・・・。
実は会場撤収作業のとき、その音声さんに呼び止められまして「中山さんのピンマイク、やっぱり電源入ってました」と言われたんです。
「でしょ?」と私。指摘受けてポケットに入れていたピンマイクの受信機の電源を見たんですが、実はちゃんとオンになっていて、ランプも点いていたんです。だいたいそれまで正常に動いてましたしね。
「それがありえないことが起こっていたんですよ」と音声さん。
電源がオンでランプも点いているのにミキサーに音声が届かないことはありえない。「あれ、どういうこと?」と調べても原因不明。そしたら送受信機の横についている小さな周波数の調整機がズレていたらしい。これ、カバー外して、ドライバーを使って回さないとズレることはない。だからそんなことが急に起こることはありえないというんです。
読者の方にはピンとこないかもしれませんが、私もピンマイクを使うことが多いんですが、こんなことは初めて。私のポケットの中に誰かがいた?
そしたらあるお客さんは、ステージにいる我々4人を写真に収めていたところ、どうしても私の顔だけがボヤけて、何枚撮っても同じだったんですって。で、とうとう1枚も私の顔がまともに写らなかったらしい・・・。
トイレでも妙なことが。
誰もいない3階は、あみさんがもっとも恐れる場所。そこにトイレがあるわけですが。
ここに立って小をしていたら、私の腰あたりにコン、コンと何かが当たってくるんです。人の指のような感触なんですが、何気に背後に目をやると、開けっ放しのドア(閉めると真っ暗になるし、誰もいないので)が私のすぐ背後にあるので、閉まろうとして私の体にあたってそのドアのノブが当たってるのかな、と。でも用が終わってドアを見ると、壁際までいっぱいに開いて自然に閉まるという状態じゃないんですよ。うん? と思って2階に戻ったんですが。
でもその夜に同じトイレを使ったファンキー中村さんが、楽屋に戻るなり「さっきトイレでさあ」と私が体験したのと同じことがあったことを話し出したんです。「ドアノブだと思いたいんだけどさあ、子供の手のような感触なんだよね。で、トイレを出ようとドアを見たら、閉まるどころか壁際にあったんだよ。気持ち悪いなあと思って」
まあでも、そんなのは気のせいでしょ。
さて、翌25日、私の書斎で囲炉裏怪談。
ファンキー中村さんのスタッフの方が、20人前の豚汁を仕込んでくださっている、というので、こちらからは大阪名物ホルモン焼きを2キロ分用意。囲炉裏に火を入れて準備万端。お客さんも約束の時間に入られて、やがてファンキー中村さん一行が来られて。
「中山さん、何度も電話したんですよ。18回。全然出ないんですもん、部屋番号わからなくって・・・」とファンキー中村さん。
こっちの電話、全然鳴ってないんですけど。それはお客さんも証人。
しかしファンキーさんのケータイからは確かに私の電話番号への発信記録がずらり。
でも他の電話は入ってきていたので、うちの電話がファンキーさんからの電話だけを拒否していた?
やっぱり妙なことは続いていたようです。
囲炉裏怪談、盛り上がりました。そのうち「うち、呪われているんです」という女性もいて、なんか凄い話・・・また怪談解説家というおかださんの話がとても面白かった。
ファンキーさんは飲む気満々で来られたのですが、「帰り車でしょ? 運転は誰?」という指摘を受けて「あ、飲めないじゃん。忘れてた」ということでお酒はお預け。
無茶苦茶残念がってました。「なんだよ〜」って。
私はいただきました。ウマい日本酒と豚汁(この豚汁、大変濃厚ながらも上品な仕上がり。大変おいしゅうございました)
こういう怪談会もいいもんですねえ。
ファンキーさんたちは午前2時ごろに退散。私は残られたお客さんと早朝5時半までお付き合い。いや、面白かったです。やっぱり最後はフリーメーソンだの古代史だのの話になって。
また、こういう機会を作ってみたいと思います。
お疲れ様でした、豚汁大変おいしかったです!
あ、差し入れくださったお客さん、ありがとうございました。
今朝、おいしくいただきました。
追伸
オフィス・イチロウの魔怪見聞録に囲炉裏怪談会の写真が掲載されています。
存分にご覧ください。
こちらからも飛べます。
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夜を徹しての「不安奇異夜話」、無事終了いたしました。
この回に参加するのは3回目なのですが、過去2回は会場の楽屋にいろいろ怪異が起こったようなのですが、この日は何も起こらず。
お店の人も「ちょっと前まではうちのスタッフも、こんなことがあった、あんなことがあったと言っていたんですが、最近なぜか落ち着いたようなんです」と言っていました。
会場となるこの建物は、もともとマネキン人形の製造工場だったらしく、ライブ会場となる1階はぶち抜きでお客さんはそんなに違和感は感じられないでしょうが、2階の楽屋はちょっと妙な間取りになっていて、なんか無駄な空間があったり、妙なところに階段があったり、その割りにはトイレは3階に上がらないとなかったり。そのトイレの前に盛り塩が・・・。
で、お店のスタッフの方も「ここ出ますよ」とほんと軽いノリ。
ところでこの日、私自身がなんか妙だったようなんです。
なんか楽屋で元気が出ない。体調不良ということはないのですが、なかなかエンジンがかからないんですよね。ライブを目の前にして、こういう状態ははじめてでした。
で、ライブの第4部でお客さんも見てらしたと思いますが、私のピンマイク(服の襟などに取り付ける小型マイク)の電源が入っていないという音声さんの指摘があって、隣の雲谷斎さんのマイクをお借りしたわけですが・・・。
実は会場撤収作業のとき、その音声さんに呼び止められまして「中山さんのピンマイク、やっぱり電源入ってました」と言われたんです。
「でしょ?」と私。指摘受けてポケットに入れていたピンマイクの受信機の電源を見たんですが、実はちゃんとオンになっていて、ランプも点いていたんです。だいたいそれまで正常に動いてましたしね。
「それがありえないことが起こっていたんですよ」と音声さん。
電源がオンでランプも点いているのにミキサーに音声が届かないことはありえない。「あれ、どういうこと?」と調べても原因不明。そしたら送受信機の横についている小さな周波数の調整機がズレていたらしい。これ、カバー外して、ドライバーを使って回さないとズレることはない。だからそんなことが急に起こることはありえないというんです。
読者の方にはピンとこないかもしれませんが、私もピンマイクを使うことが多いんですが、こんなことは初めて。私のポケットの中に誰かがいた?
そしたらあるお客さんは、ステージにいる我々4人を写真に収めていたところ、どうしても私の顔だけがボヤけて、何枚撮っても同じだったんですって。で、とうとう1枚も私の顔がまともに写らなかったらしい・・・。
トイレでも妙なことが。
誰もいない3階は、あみさんがもっとも恐れる場所。そこにトイレがあるわけですが。
ここに立って小をしていたら、私の腰あたりにコン、コンと何かが当たってくるんです。人の指のような感触なんですが、何気に背後に目をやると、開けっ放しのドア(閉めると真っ暗になるし、誰もいないので)が私のすぐ背後にあるので、閉まろうとして私の体にあたってそのドアのノブが当たってるのかな、と。でも用が終わってドアを見ると、壁際までいっぱいに開いて自然に閉まるという状態じゃないんですよ。うん? と思って2階に戻ったんですが。
でもその夜に同じトイレを使ったファンキー中村さんが、楽屋に戻るなり「さっきトイレでさあ」と私が体験したのと同じことがあったことを話し出したんです。「ドアノブだと思いたいんだけどさあ、子供の手のような感触なんだよね。で、トイレを出ようとドアを見たら、閉まるどころか壁際にあったんだよ。気持ち悪いなあと思って」
まあでも、そんなのは気のせいでしょ。
さて、翌25日、私の書斎で囲炉裏怪談。
ファンキー中村さんのスタッフの方が、20人前の豚汁を仕込んでくださっている、というので、こちらからは大阪名物ホルモン焼きを2キロ分用意。囲炉裏に火を入れて準備万端。お客さんも約束の時間に入られて、やがてファンキー中村さん一行が来られて。
「中山さん、何度も電話したんですよ。18回。全然出ないんですもん、部屋番号わからなくって・・・」とファンキー中村さん。
こっちの電話、全然鳴ってないんですけど。それはお客さんも証人。
しかしファンキーさんのケータイからは確かに私の電話番号への発信記録がずらり。
でも他の電話は入ってきていたので、うちの電話がファンキーさんからの電話だけを拒否していた?
やっぱり妙なことは続いていたようです。
囲炉裏怪談、盛り上がりました。そのうち「うち、呪われているんです」という女性もいて、なんか凄い話・・・また怪談解説家というおかださんの話がとても面白かった。
ファンキーさんは飲む気満々で来られたのですが、「帰り車でしょ? 運転は誰?」という指摘を受けて「あ、飲めないじゃん。忘れてた」ということでお酒はお預け。
無茶苦茶残念がってました。「なんだよ〜」って。
私はいただきました。ウマい日本酒と豚汁(この豚汁、大変濃厚ながらも上品な仕上がり。大変おいしゅうございました)
こういう怪談会もいいもんですねえ。
ファンキーさんたちは午前2時ごろに退散。私は残られたお客さんと早朝5時半までお付き合い。いや、面白かったです。やっぱり最後はフリーメーソンだの古代史だのの話になって。
また、こういう機会を作ってみたいと思います。
お疲れ様でした、豚汁大変おいしかったです!
あ、差し入れくださったお客さん、ありがとうございました。
今朝、おいしくいただきました。
追伸
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kaidanyawa at 19:48|Permalink│Comments(6)│
2012年11月23日
幽怪に何が起こったか
中山市朗です。
一体何が起こっているのでしょう。
またまた『幽怪案内』の配信にトラブルが起こったようです。
ホンマにこの動画、呪われています。
配信に関しては、私のコントロール下にあるわけではないので、私にはどうしようもありませんが、関係者全員青ざめています。
しかし、なんとしてでも12月5日には、お祓いをしてでも配信をいたします。
誠に申し訳ありません。
12月5日までお待ちください。
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誠に申し訳ありません。
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2012年11月21日
不安奇異・モンキー・ティーチャー
中山市朗です。
さて、ファンキー中村さんの怪談トークイベント、『不安奇異夜話』の開演日が近づいております。24日(土)23時30分開場、24時開演です。
もうほとんど前売り券は売り切れ状態と聞きましたが、まだ入れるかもしれません。
連絡先はこちら
さて、何件かお問い合わせのありました、翌日の夜に開催されます「新耳屋敷囲炉端怪談」ですが、24日にお越しくださったお客様から、希望される方を10人ほど、ということになりました。
囲炉裏のある私の書斎で、鍋とお酒を楽しみながら怪談を語り聞こうという酔狂な催しです。仕切りはファンキー中村さん。オールナイトですのでお覚悟を!
怪談から脱線するのもご愛嬌?
なお、当日は『幽怪案内』で配信する動画を撮らせていただきます。顔出しダメという方は、サングラス持参か変装するか?
その『幽怪案内』ですが、サーバーも取得できセットアップもされていて、いつでも配信できる状態にあります。なので11月24日の「不安奇異夜話」開催日に第一回の配信を行ないます。
以後、毎月5日と25日に、怪談動画をどどっと配信していく予定です。
無料動画もありますので、まずはごらんくださいませ。
いろいろトラブりまして、あいすまんこってす。
詳細は23日のこのブログが、オフィス・イチロウのツイッターでお知らせします。
そして来月12月25日の東京での「クリスマス怪談」。
うーん、前売の売れ行きがイマイチなようです。
まあクリスマスパーティだの、忘年会だの、行事納めだの、いろいろある時期ですが「怪談は夏のもの」という悪しき風習を抹殺するためには、どうしても成功させたいと思います。
というわけで「クリスマス怪談」、みなで聞きに行きまひょ。
MC・北野誠 前説・西浦和也
語り手 岩井志麻子(ホラー作家)、国沢一誠(ヒカリゴケ)、松嶋初音(グラビアアイドル)、疋田紗也(霊感アイドル)、中山市朗。
場所 東京都港区赤坂 草月ホール
開場 18:30 開演19:00
お問い合わせ
バックステージ・プロジェクト 03-5786-2400(Week Day 12:00〜19:00)
TBS RADIO クリスマス怪談
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さて、ファンキー中村さんの怪談トークイベント、『不安奇異夜話』の開演日が近づいております。24日(土)23時30分開場、24時開演です。
もうほとんど前売り券は売り切れ状態と聞きましたが、まだ入れるかもしれません。
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さて、何件かお問い合わせのありました、翌日の夜に開催されます「新耳屋敷囲炉端怪談」ですが、24日にお越しくださったお客様から、希望される方を10人ほど、ということになりました。
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怪談から脱線するのもご愛嬌?
なお、当日は『幽怪案内』で配信する動画を撮らせていただきます。顔出しダメという方は、サングラス持参か変装するか?
その『幽怪案内』ですが、サーバーも取得できセットアップもされていて、いつでも配信できる状態にあります。なので11月24日の「不安奇異夜話」開催日に第一回の配信を行ないます。
以後、毎月5日と25日に、怪談動画をどどっと配信していく予定です。
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いろいろトラブりまして、あいすまんこってす。
詳細は23日のこのブログが、オフィス・イチロウのツイッターでお知らせします。
そして来月12月25日の東京での「クリスマス怪談」。
うーん、前売の売れ行きがイマイチなようです。
まあクリスマスパーティだの、忘年会だの、行事納めだの、いろいろある時期ですが「怪談は夏のもの」という悪しき風習を抹殺するためには、どうしても成功させたいと思います。
というわけで「クリスマス怪談」、みなで聞きに行きまひょ。
MC・北野誠 前説・西浦和也
語り手 岩井志麻子(ホラー作家)、国沢一誠(ヒカリゴケ)、松嶋初音(グラビアアイドル)、疋田紗也(霊感アイドル)、中山市朗。
場所 東京都港区赤坂 草月ホール
開場 18:30 開演19:00
お問い合わせ
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2012年11月20日
11/15の作劇ゼミ その2
中山市朗です。
「僕は運だけできた」と言っている人がいます。
あの秋元康さんです。
この人はあるインタビューにこう答えています。
「トーマス・エジソンの格言に『成功とは99パーセントの汗と、1パーセントの才能である』と言うのがありますが、僕は98パーセントの運と1パーセントの汗と1パーセントの才能だと思うんです。それは決して才能や努力を軽んじているわけではなく、やはりその2パーセントがないと100パーセントにならないわけですから、とても大切なことだと思いますが、『この人はすごく努力しているな』と思ってもそれが報われない、あるいは『すごく才能があるな』と思っても花開かないタレントさんをたくさん見てきたんですね。だからそういう人たちを見ていると、本当に才能とか努力とか汗だけじゃなくて、なにか大きな運が動いているような気持ちになるんですよ」
ではその「運」とは、どうすれば掴むことができるのでしょう。
NHKの解説委員室というブログにも秋元さんの言葉がアップされておりまして、こうも言っています。
「なにか一つのこと、プロジェクトを立ち上げるときに僕はジャンケンをしようと言います。つまりスタッフを集めて、あるいはこれからタレントになりたい、スターになりたい、俳優になりたい、歌手になりたいという皆さんとジャンケンをします。ジャンケンをして勝ったら、あなたは運があるんだということを言います。ところが本当の目的はそうではありません。
つまりジャンケンに必勝法もないし、ジャンケンに強い弱いはないんですね。でも、そのジャンケンをすることによって、あることがわかります。
それは何かというと、勝負を諦めるか諦めないか、たとえば5回勝ったら勝ちにしましょうと、そういうジャンケンをします。そうすると、まずジャンケンをして、最初に3回勝たれると、ああ、あと2回負けたら負けてしまうんだと、そう思う人は3回、いや2回負けたところで諦めモードになってしまうと、ところが自分はジャンケンに強いんだと思う方は、相手が4回勝っても、そのあと自分がストレートで5回勝てるんじゃないかと、そんな気がするんですね。だから勝負を投げることがない、諦めることがない。それを見たくて僕はいつも、ジャンケンをしようと言います。
運なんて本当は、みんな平等だと思うんですね。ただそれを自分は運があると思い込めるか、あるいは自分は運に乗れないんだということを思えるか、そこじゃないかと思います。それぞれチャンスの順番があるんですね。僕がこのまま何十年か放送作家として作詞家としてみると、やはりこう順番があって、その順番では人は悔しい思いをしたり、あるいは成功してよかったと思う、でも必ずチャンスの順番は巡ってくると。
ですから、そのチャンスの順番を待つ、必ず自分は運が巡ってくるんだと思えるかどうか、それを持っているほうが芸能界でもスターになれるわけですね。
つまり途中で諦めてしまったら、そこでその願いは途切れてしまうわけですね。つまり夢のほうからは絶対に背中を向けません。必ず自分のほうから背中を向けてしまうわけですから、諦めないことがどれだけ大切なことかということがわかります」
つまり秋元さんは諦めないことが運を呼び込める方法なんだと言っているわけです。
なんかこれ、今シーズン最下位でペナントレースを出発し、3連敗のCSから3連勝した読売巨人軍を彷彿させます。諦めない、勝てる、という選手、監督、コーチの思いが今年の巨人にはあった。
今、夢を実現している人たちに「その秘訣は?」と聞くと「諦めずにやっていたから」という返事が返ってくることが確かに多いんです。
「それは結果論でしょ?」という人もいますが、そういう人はこれまた大抵、たいしたことをやっていない。つまりそういう言葉に実感がもてない人のようです。
私も大学生のころ、同じく夢を語り合い、切磋琢磨してきた仲間や友人たちが、今はほとんどこの世界に残っていないことを考えると、結局去っていった仲間たちは、確かに自ら背を向けてしまっているんですね。
数多く見てきた教え子たちもそう。
たいした努力もせずに、チャンスとも向き合わずに勝手に辞めていっています。
自分はチャンスに強い、運がいい、という思い込みは、辛辣な意見や叱咤を取り込みます。タレントや芸人同様、作家やマンガ家もまずは編集さんの辛辣な意見やダメ出しに耐え、世に出たら一般読者の辛辣であるいは理不尽な批評、批判にさらされることもあるわけですが、それは次のステップアップに必要なものだと思って種にしていく人と「ああ、否定された」と思って落ち込み、やがては辞める人との違いのようにも思えます。
私も塾生に接するのに困ることがあります。
辛辣なことを言うと、辞めていく塾生。塾の経営のことを考えると、これはやってはいけないことですが、プロの編集さんはきっとその10倍は厳しいでしょう。読者の批評はまたその10倍辛辣なものでしょうから、私はわりと辛辣なことを塾生に言うわけです。
私は塾を経営するために始めたのではなく、夢を叶えたいという人の手助け、道案内ができればと思って始めたわけで、その場の確保のために経営が必要ということですから、教え子たちには私は正直に「行く先は厳しい道だから、十分に備えて覚悟せえよ」と言うわけです。
プロのクリエイターになりたいというのなら辛辣な意見に耐え、何かを犠牲にするくらいの覚悟はもってほしいわけです。
で、「そんな装備じゃ道は越えられん。そんな半端な覚悟じゃ目的に行き着かんぞ」と具体的な意見をすると、「叩かれた」と思って辞めちゃうのがいるわけです。
だからと言って半端に甘やかすと「これで通用するんだ」と勘違いし、結局はプロのレベルに行かずに年月は過ぎ去り、諦めざるを得なくなる。専門学校はそうでした。
こうなったらそれは運がない、と言えるでしょう。
逆にこちらの辛辣な意見、批評を受け入れ、作品をあげ行動を起こす人には、もっと正直に安心して意見が言えます。それに応えられると互いの信頼も生まれる。そうなるとどんどんスキルは上がります。本人にはそれが自信となっていきます。自信のある人には安心して何かを頼めます。すると何かあったときは、その人に優先的にチャンスを与えられますわな。それが第一歩となって、結果目標が達成できる、というパターンもよくあることです。で、そういう人が言うわけです。
「気が付いたら、残っていたのは私だけだった」と。
これは運のいい人と言えるでしょう。
プロのクリエイターを目指す人に必要なものは、スキルや理論ではなく(それも必要ですが)プロの厳しさです。それを覚えるには、プロの現場で実践で学ぶことしかない。
そのプロの現場にいるプロの人に信頼してもらわないと、チャンスは来ないし、なんとか潜り込んでも用済み扱いされて、二度と使ってもらえない。
つまり人との関係を大切にし、業界の先輩たちに経緯を表わすことは必要なんです。なかにはプロの人をバカにするプロ志望者もいましたから。
こういう人にはチャンスは来ない。つまり運がない。
だから私はいつも言うわけです。
この世界で生きていくには、人間関係が重要と。
この世界、誰も固定給なんてくれないわけですから。食っていくには、どれだけ自分に取引先があるかどうかです。それは全部、クリエイター自身が構築するわけです。
そのことを理解すると、周囲の人に感謝できるようになります。
業界の人たちとの出会いを積極的に受け入れる体制となります。
これが松下幸之助さんの言う「運」のある人ということでしょう。
素人の仲間内で楽しくやるのがいいと言っているようじゃ、運も離れますわ。
私はプロの人、特に一流の人と飲んだりするのが一番楽しいし、テンションも上がるけどなあ。仕事にもつながるんやけどなあ。
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
「僕は運だけできた」と言っている人がいます。
あの秋元康さんです。
この人はあるインタビューにこう答えています。
「トーマス・エジソンの格言に『成功とは99パーセントの汗と、1パーセントの才能である』と言うのがありますが、僕は98パーセントの運と1パーセントの汗と1パーセントの才能だと思うんです。それは決して才能や努力を軽んじているわけではなく、やはりその2パーセントがないと100パーセントにならないわけですから、とても大切なことだと思いますが、『この人はすごく努力しているな』と思ってもそれが報われない、あるいは『すごく才能があるな』と思っても花開かないタレントさんをたくさん見てきたんですね。だからそういう人たちを見ていると、本当に才能とか努力とか汗だけじゃなくて、なにか大きな運が動いているような気持ちになるんですよ」
ではその「運」とは、どうすれば掴むことができるのでしょう。
NHKの解説委員室というブログにも秋元さんの言葉がアップされておりまして、こうも言っています。
「なにか一つのこと、プロジェクトを立ち上げるときに僕はジャンケンをしようと言います。つまりスタッフを集めて、あるいはこれからタレントになりたい、スターになりたい、俳優になりたい、歌手になりたいという皆さんとジャンケンをします。ジャンケンをして勝ったら、あなたは運があるんだということを言います。ところが本当の目的はそうではありません。
つまりジャンケンに必勝法もないし、ジャンケンに強い弱いはないんですね。でも、そのジャンケンをすることによって、あることがわかります。
それは何かというと、勝負を諦めるか諦めないか、たとえば5回勝ったら勝ちにしましょうと、そういうジャンケンをします。そうすると、まずジャンケンをして、最初に3回勝たれると、ああ、あと2回負けたら負けてしまうんだと、そう思う人は3回、いや2回負けたところで諦めモードになってしまうと、ところが自分はジャンケンに強いんだと思う方は、相手が4回勝っても、そのあと自分がストレートで5回勝てるんじゃないかと、そんな気がするんですね。だから勝負を投げることがない、諦めることがない。それを見たくて僕はいつも、ジャンケンをしようと言います。
運なんて本当は、みんな平等だと思うんですね。ただそれを自分は運があると思い込めるか、あるいは自分は運に乗れないんだということを思えるか、そこじゃないかと思います。それぞれチャンスの順番があるんですね。僕がこのまま何十年か放送作家として作詞家としてみると、やはりこう順番があって、その順番では人は悔しい思いをしたり、あるいは成功してよかったと思う、でも必ずチャンスの順番は巡ってくると。
ですから、そのチャンスの順番を待つ、必ず自分は運が巡ってくるんだと思えるかどうか、それを持っているほうが芸能界でもスターになれるわけですね。
つまり途中で諦めてしまったら、そこでその願いは途切れてしまうわけですね。つまり夢のほうからは絶対に背中を向けません。必ず自分のほうから背中を向けてしまうわけですから、諦めないことがどれだけ大切なことかということがわかります」
つまり秋元さんは諦めないことが運を呼び込める方法なんだと言っているわけです。
なんかこれ、今シーズン最下位でペナントレースを出発し、3連敗のCSから3連勝した読売巨人軍を彷彿させます。諦めない、勝てる、という選手、監督、コーチの思いが今年の巨人にはあった。
今、夢を実現している人たちに「その秘訣は?」と聞くと「諦めずにやっていたから」という返事が返ってくることが確かに多いんです。
「それは結果論でしょ?」という人もいますが、そういう人はこれまた大抵、たいしたことをやっていない。つまりそういう言葉に実感がもてない人のようです。
私も大学生のころ、同じく夢を語り合い、切磋琢磨してきた仲間や友人たちが、今はほとんどこの世界に残っていないことを考えると、結局去っていった仲間たちは、確かに自ら背を向けてしまっているんですね。
数多く見てきた教え子たちもそう。
たいした努力もせずに、チャンスとも向き合わずに勝手に辞めていっています。
自分はチャンスに強い、運がいい、という思い込みは、辛辣な意見や叱咤を取り込みます。タレントや芸人同様、作家やマンガ家もまずは編集さんの辛辣な意見やダメ出しに耐え、世に出たら一般読者の辛辣であるいは理不尽な批評、批判にさらされることもあるわけですが、それは次のステップアップに必要なものだと思って種にしていく人と「ああ、否定された」と思って落ち込み、やがては辞める人との違いのようにも思えます。
私も塾生に接するのに困ることがあります。
辛辣なことを言うと、辞めていく塾生。塾の経営のことを考えると、これはやってはいけないことですが、プロの編集さんはきっとその10倍は厳しいでしょう。読者の批評はまたその10倍辛辣なものでしょうから、私はわりと辛辣なことを塾生に言うわけです。
私は塾を経営するために始めたのではなく、夢を叶えたいという人の手助け、道案内ができればと思って始めたわけで、その場の確保のために経営が必要ということですから、教え子たちには私は正直に「行く先は厳しい道だから、十分に備えて覚悟せえよ」と言うわけです。
プロのクリエイターになりたいというのなら辛辣な意見に耐え、何かを犠牲にするくらいの覚悟はもってほしいわけです。
で、「そんな装備じゃ道は越えられん。そんな半端な覚悟じゃ目的に行き着かんぞ」と具体的な意見をすると、「叩かれた」と思って辞めちゃうのがいるわけです。
だからと言って半端に甘やかすと「これで通用するんだ」と勘違いし、結局はプロのレベルに行かずに年月は過ぎ去り、諦めざるを得なくなる。専門学校はそうでした。
こうなったらそれは運がない、と言えるでしょう。
逆にこちらの辛辣な意見、批評を受け入れ、作品をあげ行動を起こす人には、もっと正直に安心して意見が言えます。それに応えられると互いの信頼も生まれる。そうなるとどんどんスキルは上がります。本人にはそれが自信となっていきます。自信のある人には安心して何かを頼めます。すると何かあったときは、その人に優先的にチャンスを与えられますわな。それが第一歩となって、結果目標が達成できる、というパターンもよくあることです。で、そういう人が言うわけです。
「気が付いたら、残っていたのは私だけだった」と。
これは運のいい人と言えるでしょう。
プロのクリエイターを目指す人に必要なものは、スキルや理論ではなく(それも必要ですが)プロの厳しさです。それを覚えるには、プロの現場で実践で学ぶことしかない。
そのプロの現場にいるプロの人に信頼してもらわないと、チャンスは来ないし、なんとか潜り込んでも用済み扱いされて、二度と使ってもらえない。
つまり人との関係を大切にし、業界の先輩たちに経緯を表わすことは必要なんです。なかにはプロの人をバカにするプロ志望者もいましたから。
こういう人にはチャンスは来ない。つまり運がない。
だから私はいつも言うわけです。
この世界で生きていくには、人間関係が重要と。
この世界、誰も固定給なんてくれないわけですから。食っていくには、どれだけ自分に取引先があるかどうかです。それは全部、クリエイター自身が構築するわけです。
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kaidanyawa at 00:17|Permalink│Comments(4)│
2012年11月15日
11/15の作劇ゼミ その1
中山市朗です。
すみません。『幽怪案内』の配信が非常に遅れております。
原因不明のトラブル解消のため、配給する代理店が新たなサーバー契約をサーバー会社と契約したのですが、契約したのが固定サーバーで、その納品が遅れているようです。海外からの組立発注なので、いつという確約ができないということで、本日、固定サーバー契約を破棄し、クラウド契約するように要請しております。クラウドサーバーになりますと、あと2、3日ということになるそうです。
セットアップは完了していますので、サーバーさえ取得できましたら配信できる・・・はずですけど。
もうしばらくお待ちください。
さて、作劇ゼミでは「運」って何? ということを考えております。
ネットを徘徊しておりますと、「作家になりたいけど、どうしたらいい?」という質問が多く見られます。「才能は必要か?」とか「運がない」とか、作家を目指して努力してるけどなかなか世の中が答えてくれないことに悲観する書き込みが多いようです。
松智洋さんは「作家になるのに一番大切なものは? と聞かれたら確実に『運』と答えるだろう」とツイッターでつぶやいておられました。
ネットに書き込んでいる人たちの意見を読むと、この人たちは一生懸命に投稿作を書いているんだろうけど、結局人とめぐり合っていないんだなあ、と思えてなりません。
作家になりたくて作品を書いている人は、全国におそらく何十万人。セミプロや本を出したというライターも含めると、ひょっとしたら百万人単位といてるでしょうから、そのデビュー枠や昨今の出版不況も考えると、東大の入試に合格するよりこれは遥かに狭き門と言えるでしょう。
ある編集さんは「作家志望者なんて掃いて捨てるほぢいる」と言っておりました。
その机の上は封が切られていない投稿作の封書がうず高く積まれていて。
作家になるのに一番必要なものは、運である、というのは私もそう思います。
作家になりたいと思って原稿を書いても、結局は編集さんの目に止まらなければ出版もないわけですから、そんな編集さんと会う、ということは必然です。
この出会いも運です。
で、何度も言います。篭って書いているだけでは出会いもない。
私の教え子たちで、何年経っても全然どうにもならないという人は、この出会いを求めていない。この前なんか「塾の忘年会にそういう業界の人を呼ぼうか」と私が提案したら「塾生の中では忘年会くらい仲間内で楽しくやりたいという意見もあるので・・・」と拒否されて、「はあ? 忘年会くらいって、じゃあ普段そういう人と話す機会があるのかよ」と私は言ったんですけど。
こいつらプロになる気あんのかよ、と愕然としましたけど。
仲間内で飲んで楽しいなんて学生か!
やっぱりプロの人たちと接して楽しい、とならなきゃ。
そうなるには知識も経験も独自の哲学も必要です。それが負担なのでしょうが、そんなこと言ってたら、万人の読者を納得させられる作品なんて書けないでしょうし、それ以前に編集さんとのやりとりができひんやろが!
そら、業界の人と知り合ったからそれが必ず仕事になるわけでもないですし、名刺交換しただけでおしまい、なんていうパターンが多いのかもしれませんけど。でもそうなるのは、積極的に打って出ないあんたが悪い。
私が塾生だったら利用したい人脈はいっぱいあるし、作品の持ち込みをどんどんしてますけどね。つまりこれは自ら運を掴もうとしていないってこと。
作家の世界で言うと、新人賞とってデビューしても後が続かないという話もありますし、デビューしたから食えるものでもない。でもこんなときに仕事をくれ、相談に乗ってくれるのが、売れない頃に知り合った業界人たちであるわけです。私がそうでしたもん。
案外こういう人たちって、デビュー前に会ったことを覚えているものですよ。
また、作品の持ち込みも小説となると基本的に門前払いですが、縁とタイミングで読んでもらえることもあります。これも門前払いにめげずに挑戦しているのか、人脈を活かしたか、いずれにしても運がいい、と言えるわけです。
「運」があると思える人たちは、この出会いを活かしているんですよ。成功している塾生たちは例外なくそうですから。塾の人脈を使って誰かと会って、そこからどんどん人と会って、仕事が派生しています。塾生にとっては同じ環境ですよ。
仕事が派生したり、業界の人たちと飲んだり話たりするようになったら、なんともならない自分をグチグチ責めたり、ネットで質問したりする暇もなくなります。
ともかく編集さんとの出会いは作家になるための第一歩であり、プロデューサーとの出会いは映像作家、シナリオライターになるための第一歩です。
その出会いを拒否する塾生が本当にいるとしたら、もうこの世界辞ちまえば? と本当に思います。時間の無駄ですもん。当人もそこに関わる私も。
まだ続きます。
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興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
すみません。『幽怪案内』の配信が非常に遅れております。
原因不明のトラブル解消のため、配給する代理店が新たなサーバー契約をサーバー会社と契約したのですが、契約したのが固定サーバーで、その納品が遅れているようです。海外からの組立発注なので、いつという確約ができないということで、本日、固定サーバー契約を破棄し、クラウド契約するように要請しております。クラウドサーバーになりますと、あと2、3日ということになるそうです。
セットアップは完了していますので、サーバーさえ取得できましたら配信できる・・・はずですけど。
もうしばらくお待ちください。
さて、作劇ゼミでは「運」って何? ということを考えております。
ネットを徘徊しておりますと、「作家になりたいけど、どうしたらいい?」という質問が多く見られます。「才能は必要か?」とか「運がない」とか、作家を目指して努力してるけどなかなか世の中が答えてくれないことに悲観する書き込みが多いようです。
松智洋さんは「作家になるのに一番大切なものは? と聞かれたら確実に『運』と答えるだろう」とツイッターでつぶやいておられました。
ネットに書き込んでいる人たちの意見を読むと、この人たちは一生懸命に投稿作を書いているんだろうけど、結局人とめぐり合っていないんだなあ、と思えてなりません。
作家になりたくて作品を書いている人は、全国におそらく何十万人。セミプロや本を出したというライターも含めると、ひょっとしたら百万人単位といてるでしょうから、そのデビュー枠や昨今の出版不況も考えると、東大の入試に合格するよりこれは遥かに狭き門と言えるでしょう。
ある編集さんは「作家志望者なんて掃いて捨てるほぢいる」と言っておりました。
その机の上は封が切られていない投稿作の封書がうず高く積まれていて。
作家になるのに一番必要なものは、運である、というのは私もそう思います。
作家になりたいと思って原稿を書いても、結局は編集さんの目に止まらなければ出版もないわけですから、そんな編集さんと会う、ということは必然です。
この出会いも運です。
で、何度も言います。篭って書いているだけでは出会いもない。
私の教え子たちで、何年経っても全然どうにもならないという人は、この出会いを求めていない。この前なんか「塾の忘年会にそういう業界の人を呼ぼうか」と私が提案したら「塾生の中では忘年会くらい仲間内で楽しくやりたいという意見もあるので・・・」と拒否されて、「はあ? 忘年会くらいって、じゃあ普段そういう人と話す機会があるのかよ」と私は言ったんですけど。
こいつらプロになる気あんのかよ、と愕然としましたけど。
仲間内で飲んで楽しいなんて学生か!
やっぱりプロの人たちと接して楽しい、とならなきゃ。
そうなるには知識も経験も独自の哲学も必要です。それが負担なのでしょうが、そんなこと言ってたら、万人の読者を納得させられる作品なんて書けないでしょうし、それ以前に編集さんとのやりとりができひんやろが!
そら、業界の人と知り合ったからそれが必ず仕事になるわけでもないですし、名刺交換しただけでおしまい、なんていうパターンが多いのかもしれませんけど。でもそうなるのは、積極的に打って出ないあんたが悪い。
私が塾生だったら利用したい人脈はいっぱいあるし、作品の持ち込みをどんどんしてますけどね。つまりこれは自ら運を掴もうとしていないってこと。
作家の世界で言うと、新人賞とってデビューしても後が続かないという話もありますし、デビューしたから食えるものでもない。でもこんなときに仕事をくれ、相談に乗ってくれるのが、売れない頃に知り合った業界人たちであるわけです。私がそうでしたもん。
案外こういう人たちって、デビュー前に会ったことを覚えているものですよ。
また、作品の持ち込みも小説となると基本的に門前払いですが、縁とタイミングで読んでもらえることもあります。これも門前払いにめげずに挑戦しているのか、人脈を活かしたか、いずれにしても運がいい、と言えるわけです。
「運」があると思える人たちは、この出会いを活かしているんですよ。成功している塾生たちは例外なくそうですから。塾の人脈を使って誰かと会って、そこからどんどん人と会って、仕事が派生しています。塾生にとっては同じ環境ですよ。
仕事が派生したり、業界の人たちと飲んだり話たりするようになったら、なんともならない自分をグチグチ責めたり、ネットで質問したりする暇もなくなります。
ともかく編集さんとの出会いは作家になるための第一歩であり、プロデューサーとの出会いは映像作家、シナリオライターになるための第一歩です。
その出会いを拒否する塾生が本当にいるとしたら、もうこの世界辞ちまえば? と本当に思います。時間の無駄ですもん。当人もそこに関わる私も。
まだ続きます。
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
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kaidanyawa at 21:12|Permalink│Comments(4)│
2012年11月12日
11/1の作劇ゼミ その2
中山市朗です。
芸術には才能と運が必要。そう瀬戸内寂聴さんはおっしゃった。
運とはなんでしょう。
ある作家さんとの対談に、塾生を同行させたことがあります。対談内容を原稿に起こすために録画を頼んだわけです。ところがこの塾生、「もっと前で撮れ」とか言っても遠慮して後ろのほうから撮っている。そんなん会話が録音できへんやん!
で、いかにも私は素人です、というオーラを出しまくっていたんです。ところが私が対談した作家さんは、その塾生と同じくらいの年。
後に指摘して、「なんで同じ年の作家さんにビクビクして遠慮してんのや」と言うと「だってその作家さん、帰国子女で高学歴で、僕らと出来が違いますもん」
もうコイツあかん、そう思いました。
「運なんて、生まれついたときから、美人、金持ち、才能があるでもう決まっている」という人もいます。さしずめこの塾生の言ったことは、それを肯定しています。
でも大金持ちが没落することもあるし、美男美女だから幸福かといえば必ずしもそうじゃないでしょう。小学校のときに読んだ偉人伝なんて、ほとんど貧乏からの出発じゃないですか。でも私の教え子たちを見ていると、そんなに極端な貧乏というほどのこともない。普通の家庭の普通の教育を受けてきた若者たちじゃないですか。なんで自分をそう卑下するのかなあ、と。
よく教え子から聞く言葉で「これはやっておくべき」とか、「俺は若い頃、こんなことをしたぞ」と言うと、「それには先立つものがないので」と言うんです。
つまりなんら行動を起こしたり、取材をしたり、資料を集めたり、人と交流するための飲み会に参加するということにあたって、その資金、お金がないと言うんですね。
「俺だってなかったわ!」と言うんですけど、結局そういうことを言う人は、まだまだ自分の目指していることが本物ではない、レベルではない、ということでしょう。
でないと、その論理からいくと、金持ちは好きな勉強をできるが、貧乏人はできないということになる。じゃあ自分がお金持ちになるのを待つというのでしょうか?
こういうことを言っている人には「運」もこないでしょう。
ところで、運が来るとか来ないってなに?
そういう質問、くると思っていました。
松下幸之助さんは新人社員の面接でこう質問したと言います。
「あなたは運のいいほうだと思いますか?」
「いいほうです」と言った人を採用したと言います。
なぜか?
運がいい、という人は、自分と結びついている人たちがいて自分がいると理解している。そして自分が置かれた環境や周囲の人たちに感謝をしている人なのですね。
成功している人の話を聞いていると、「この人と出会って運命が変わった」「この人がこう言ってくださったので今の自分がある」「この人がいなかったら今の私はない」
必ずそうおっしゃります。「全部ワシの実力や」なんて吉本新喜劇みたいなことを言う人はまずいません。
「運」とは営業だ、と言ったある会社の経営者がいました。
自分を売り込むことで運がくる。経営者的発想ですけど、我々の世界にもある意味言えることです。
若いクリエイター志望者は、どうもそれが美学としてあるのか、人の助けはいらない、自分が努力してスキルアップしてプロになるんだ、という人がいます。それは大事。スキルアップしないといざ人と会っても対応できません。
でもプロの世界はそのスキルがあって当たり前。また、作品が商品となりその対価をいただいて食っていくという過程には、自分以外の人たちの協力や尽力があるわけです。
我々の世界では原稿や企画の売り込み、投稿などが営業にあたります。営業をして仕事を取ってこないと会社が立ち行かなくなるように、クリエイターも仕事を取るための行動を起こすわけです。ただ私の経験では直接的な営業より、人のつながりで仕事に発展したり、プロジェクトが動くことのほうが多かったように思います。
そしてそういった人とのつながりを大事にして感謝していると、人も寄ってくるし、その分チャンス も訪れる。そういう人を松下幸之助さんは採用したわけです。
運がない、悪い、と思っている人は、おそらく人より何をやってもうまくいかない自分を嘆き、それは運がないからだ、という発想になっている人でしょう。これはつまりは、責任の転嫁です。そんな人には人は寄ってこないし、一緒に仕事をしようなんて思いません。
運は、人との出会いで起こるものです。まあ宝くじが当たったから運がいい、なんてこともあるでしょうが、それは人生のオマケ。宝くじが当たったがために、家族も友人も失ったなんてこともあるようですし。
さっきの「先立つものがない」という人は、じゃあ先立つものがあればできるんでしょうか? 言葉だけ聞くとそう聞こえます。でも「先立つもの(お金)がない」と言い続けてコンビニで9年間バイトしていた奴がいたんですが、こんなん永遠に先立つものなんてできませんやん。人間、残酷なことに年はとりますから。クリエイター志望者にとってこれは年々不利になるばかりです。30歳でコンビにでバイトしかしたことがないという男に、誰が仕事をくれます? だから「これをやっておけ」「これはやるべき」と勧めたのに全部反故。で、言い訳が「先立つものがないから」。
私はバイトをするなと言っているわけではありません。しかし「チャンスが来たらいつでもシフトできるよう準備しとけ」と言っているわけです。でも動かない。
いますよ、そんな若い奴。
これはもう、運に付き離された、としか言えません。
つまり「運」は掴むも離すも己次第、ということなのだと思うわけです。
なかなか成長しない塾生を見ていると、どうもこの出会いを遮断しているように思うんです。で、その言い訳が「先立つものがない」「今はまだ早い」「それは私とは関係がない」というもの。早いかどうか、関係ないかどうか、会って話してみなきゃ、やってみなきゃ、わからんやん。で、出会いがあれば人との接し方も考えるようになるわけです。昔は師弟の関係でそういう人間関係を構築したんですけどねえ。 逆に、好きな道に進んだ塾生たちを見ていると、例外なしに人間関係を作って、そこから仕事をもらったりチャンスをもらったりしています。そしてそのことに感謝しています。
そしてそこからでしょう。読者や観客という人たちのことを考えるようになるのは。
人は何を欲しているのか、何を喜び、何に共感してくれるのか。
人間関係の構築でそれがわかる。あるいは気付かせてくれる。
読者や観客のことを思って作品をつくる。そういう意識が芽生えたとき、はじめてプロのクリエイターになるべく第一歩を踏み入れたのかな、と私は思うんですけど。
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芸術には才能と運が必要。そう瀬戸内寂聴さんはおっしゃった。
運とはなんでしょう。
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で、いかにも私は素人です、というオーラを出しまくっていたんです。ところが私が対談した作家さんは、その塾生と同じくらいの年。
後に指摘して、「なんで同じ年の作家さんにビクビクして遠慮してんのや」と言うと「だってその作家さん、帰国子女で高学歴で、僕らと出来が違いますもん」
もうコイツあかん、そう思いました。
「運なんて、生まれついたときから、美人、金持ち、才能があるでもう決まっている」という人もいます。さしずめこの塾生の言ったことは、それを肯定しています。
でも大金持ちが没落することもあるし、美男美女だから幸福かといえば必ずしもそうじゃないでしょう。小学校のときに読んだ偉人伝なんて、ほとんど貧乏からの出発じゃないですか。でも私の教え子たちを見ていると、そんなに極端な貧乏というほどのこともない。普通の家庭の普通の教育を受けてきた若者たちじゃないですか。なんで自分をそう卑下するのかなあ、と。
よく教え子から聞く言葉で「これはやっておくべき」とか、「俺は若い頃、こんなことをしたぞ」と言うと、「それには先立つものがないので」と言うんです。
つまりなんら行動を起こしたり、取材をしたり、資料を集めたり、人と交流するための飲み会に参加するということにあたって、その資金、お金がないと言うんですね。
「俺だってなかったわ!」と言うんですけど、結局そういうことを言う人は、まだまだ自分の目指していることが本物ではない、レベルではない、ということでしょう。
でないと、その論理からいくと、金持ちは好きな勉強をできるが、貧乏人はできないということになる。じゃあ自分がお金持ちになるのを待つというのでしょうか?
こういうことを言っている人には「運」もこないでしょう。
ところで、運が来るとか来ないってなに?
そういう質問、くると思っていました。
松下幸之助さんは新人社員の面接でこう質問したと言います。
「あなたは運のいいほうだと思いますか?」
「いいほうです」と言った人を採用したと言います。
なぜか?
運がいい、という人は、自分と結びついている人たちがいて自分がいると理解している。そして自分が置かれた環境や周囲の人たちに感謝をしている人なのですね。
成功している人の話を聞いていると、「この人と出会って運命が変わった」「この人がこう言ってくださったので今の自分がある」「この人がいなかったら今の私はない」
必ずそうおっしゃります。「全部ワシの実力や」なんて吉本新喜劇みたいなことを言う人はまずいません。
「運」とは営業だ、と言ったある会社の経営者がいました。
自分を売り込むことで運がくる。経営者的発想ですけど、我々の世界にもある意味言えることです。
若いクリエイター志望者は、どうもそれが美学としてあるのか、人の助けはいらない、自分が努力してスキルアップしてプロになるんだ、という人がいます。それは大事。スキルアップしないといざ人と会っても対応できません。
でもプロの世界はそのスキルがあって当たり前。また、作品が商品となりその対価をいただいて食っていくという過程には、自分以外の人たちの協力や尽力があるわけです。
我々の世界では原稿や企画の売り込み、投稿などが営業にあたります。営業をして仕事を取ってこないと会社が立ち行かなくなるように、クリエイターも仕事を取るための行動を起こすわけです。ただ私の経験では直接的な営業より、人のつながりで仕事に発展したり、プロジェクトが動くことのほうが多かったように思います。
そしてそういった人とのつながりを大事にして感謝していると、人も寄ってくるし、その分チャンス も訪れる。そういう人を松下幸之助さんは採用したわけです。
運がない、悪い、と思っている人は、おそらく人より何をやってもうまくいかない自分を嘆き、それは運がないからだ、という発想になっている人でしょう。これはつまりは、責任の転嫁です。そんな人には人は寄ってこないし、一緒に仕事をしようなんて思いません。
運は、人との出会いで起こるものです。まあ宝くじが当たったから運がいい、なんてこともあるでしょうが、それは人生のオマケ。宝くじが当たったがために、家族も友人も失ったなんてこともあるようですし。
さっきの「先立つものがない」という人は、じゃあ先立つものがあればできるんでしょうか? 言葉だけ聞くとそう聞こえます。でも「先立つもの(お金)がない」と言い続けてコンビニで9年間バイトしていた奴がいたんですが、こんなん永遠に先立つものなんてできませんやん。人間、残酷なことに年はとりますから。クリエイター志望者にとってこれは年々不利になるばかりです。30歳でコンビにでバイトしかしたことがないという男に、誰が仕事をくれます? だから「これをやっておけ」「これはやるべき」と勧めたのに全部反故。で、言い訳が「先立つものがないから」。
私はバイトをするなと言っているわけではありません。しかし「チャンスが来たらいつでもシフトできるよう準備しとけ」と言っているわけです。でも動かない。
いますよ、そんな若い奴。
これはもう、運に付き離された、としか言えません。
つまり「運」は掴むも離すも己次第、ということなのだと思うわけです。
なかなか成長しない塾生を見ていると、どうもこの出会いを遮断しているように思うんです。で、その言い訳が「先立つものがない」「今はまだ早い」「それは私とは関係がない」というもの。早いかどうか、関係ないかどうか、会って話してみなきゃ、やってみなきゃ、わからんやん。で、出会いがあれば人との接し方も考えるようになるわけです。昔は師弟の関係でそういう人間関係を構築したんですけどねえ。 逆に、好きな道に進んだ塾生たちを見ていると、例外なしに人間関係を作って、そこから仕事をもらったりチャンスをもらったりしています。そしてそのことに感謝しています。
そしてそこからでしょう。読者や観客という人たちのことを考えるようになるのは。
人は何を欲しているのか、何を喜び、何に共感してくれるのか。
人間関係の構築でそれがわかる。あるいは気付かせてくれる。
読者や観客のことを思って作品をつくる。そういう意識が芽生えたとき、はじめてプロのクリエイターになるべく第一歩を踏み入れたのかな、と私は思うんですけど。
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kaidanyawa at 19:29|Permalink│Comments(7)│
2012年11月08日
11/1の作劇ゼミ その1
中山市朗です。
遅まきながら前回の作劇ゼミの報告です。
才能と運について考察してみました。なんか宗教かスピリチュアルのカルチャー教室みたいなテーマですが、決してそうではありません。
最近、ケータイ小説までお書きになった瀬戸内寂聴さん、今年で90歳におなりなんですね。
高齢の秘訣は、意外や意外! 肉好きの酒好きにあるようです。よっしゃ、俺も長生きするわ。
ある講演で寂聴さん、こういうことをおっしゃっています。
「60年近くペン1本で食べております。ほかのことで生きたことがありません。私を見習って、もし皆さんの中で小説を書いていこうと思っていらっしゃる方がいらっしゃるのなら、お勧めしかねます。非常に険しい道でございまして。その人が認めようが認めまいが、芸術というものにはその人に才能がなければ意味はありません。一に才能、二に才能、三に才能。あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。これは芸術だけでございます」
わあ、どう思います? 才能、才能、才能、そして運、やて。
でも言われてみると、モーツァルトやベートーベン、ピカソ、ダリ、ドストエフスキーやトルストイが頑張ったなんて陳腐な言葉、聞いたことがないですもんね。モーツァルトなんて努力せずとも天から音楽が降ってきたらしい。
ベートーベンは創作のためにはえらく苦しんだという話は聞いていて、努力の人であるという評をよく見るんですが、あの曲を聴いたら間違いなく天才です。
ピカソは92歳まで生きましたが、その生涯で16万点の作品を残しました。16万! この数はもう尋常やない。努力とか頑張りなんて超越した世界でしょう。
ドストエフスキーは天才(と自覚していた)、トルストイは巨人なんて評もあるようですが。
ピカソが16万点なら手塚治虫は40数年のマンガ家生活で15万枚の原稿を完成させています。これに加えてアニメの制作もしていました。これ、努力でこなせるものじゃないですな。天才です、これは。
一流の芸術家は確かに、生まれながらに天才、という逸話をよく聞きます。山田洋次監督も「映画監督は才能がないとなれない」とはっきり言っています。
私は黒澤明という人と仕事をしたことがありますが、ちょっともう違う人です。いくら努力してもああはなれない。そう実感したものです。
ただ、私がやっていることが芸術かというと、そんなこと意識したことはありません。多分、私のやっていることはもっと俗っぽいもの、エンターテイメントです。
この世界は大天才でなくとも、なんか運で世渡りしている、という人が多いように思います。
でも、ここにも少なくともセンスは問われるんですねえ。
マンガにしても文章を書くにしても、一枚の写真を撮るにしても、話す内容、表現力にしても、あるいは料理を作ったり、身につけている服装や部屋のインテリアにしても、何をするにしてもその人のセンスってあります。
これは確かにもって生まれたものかなあと。
料理人や職人も、この一流になるかどうかは、センスが勝負どころなのではと思います。
『羅生門』や『雨月物語』の名カメラマン、宮川一夫先生は、非常におしゃれな方でしたが、そういえばカメラマンっておしゃれな人が多い。
「カメラマンは自分に何が似合うかを知っているんだ。でないと被写体となる役者や小道具に何が似合うか似合わないかの判断ができない。だからまず、自分にあったおしゃれから始まるんや。センスや、カメラマンにはセンスが必要なんや」
と、これは私が直に聞いたお言葉です。
センス、これはねえ、伝授のしようがない。
センスの悪い、無い人は、なかなかそれを修正できない。
ある程度のレベルならば、これは努力の積み重ねでいける。おそらく一流まではこの努力次第でなんとかいけるのではないでしょうか。でも超一流となるとこれはもう・・・。努力など意味をなさない。才能がないとここにはいけない。
瀬戸内寂聴さんは、この超一流のレベルまでいっている人として、そういう実感があっての発言だと思うんですよ。
でも人それぞれに長所と短所はあるわけで、つまりは本人の気が付かないところにセンスは眠っていると思うのです。そしてそのセンスを見つけて磨けば、大きな才能になるんですよ、きっと。
センスというのは先天的に備わった特別な能力とでも言うのでしょうか。もっと細かく言えば、ひとつには物事の理解力、認知する感覚、分別や判断力という意味があります。つまりは、自分が目指すものに向かって前進するときに、必要なものとそうでないものを自然に見分け、無駄な努力をしない、ということにも結びつくように思うのです。つまりはセンスのない人を横目にしながらさっさと前進するのがセンスのいい人。だから傍目には気軽に問題解決しているように見えるんです。
あるいは傍目から見てすごい困難、解決できようもない問題にあたって努力しているように思えても、本人はさほどでもない。もちろん創作の苦悩はあるに決まっているでしょうが、一般の人からすれば「すごく努力している」ように見えても、当の本人は当たり前のことをしているだけ。
ただ、そういうと勘違いをするのもいて、無駄な努力をしなくてもいい、というとすぐに「じゃあ、これはやりたくありません」「これも私には必要ありません」と本来やるべきことをやらない人がいる。ここもセンスの問題。これを今することがなぜ必要なのか、なぜこれをやっておけと言われているのかを理解できる、できないというのもセンスのある、無しに関わってくるように思うんです。
最近、塾生に「だったら言ってください」と言われるんですが、そういうもんじゃないんですよ。言ってわからない奴に言うと「強制ですか」なんてバカなことを言ったりするしね。
好きなことに邁進している人は、頑張りとか、努力なんて無縁の言葉なのかもしれません。現に私の周りにいる作家やマンガ家、映画監督やシナリオライターなんて、一流の人ほど「俺は好きなことだけをやってきた」なんて幸せそうな顔をしていますもん。でもそういう人たちと話してごらんなさいな、半端ない知識と経験を積んでいますから。好きなことをただだらりとやっているのとは違うわけです。つまり、端から見ると尋常ならざる努力と工夫をしているはずなんです。ただ、そこに苦痛が伴わないわけですな。
対して努力するというのは、苦痛が伴っているんでしょうね。だから努力しなきゃ、と言って辛い思いをして。それはきっと、まだ開花していないか、ほんとは好きじゃないのか、どちらかです。
でも、瀬戸内寂聴さんは「努力なんかしなくても、才能があればモノになる」とおっしゃっていますが、じゃあ彼女はただ才能の上にあぐらをかいていたのか、そうじゃないはずです。あるところで寂聴さんはこうも言っています。
「人間はもともとそんなに賢くありません。勉強して修行して、やっとまともになるのです」「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性を諦めず、与えられた才能や日々の仕事に努力し続けることです」
それでも芸術の世界の頂点は、その努力ではとうてい及ばない特殊な世界であるということなんでしょうか。
でも私のような凡人でもなんとか20年、機嫌よくこの世界でメシ食っているということは、そんなに根詰めなくても、やりようでやっていけると思うんです。
ただ、何か犠牲をしなきゃならない。その覚悟があるかです。
考えてみれば、私には大した才能もないのになんとかやってこれたのには、人との出会いやタイミングのようなものがあったからだと思うんです。
それが運というヤツなんでしょう。
私は運のいいヤツだと自分で思っています。
寂聴さんも言っている、才能、才能、才能、そして運・・・。
では、運て、なんなのでしょう。
そんなことを考えてみました。
つづく
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
遅まきながら前回の作劇ゼミの報告です。
才能と運について考察してみました。なんか宗教かスピリチュアルのカルチャー教室みたいなテーマですが、決してそうではありません。
最近、ケータイ小説までお書きになった瀬戸内寂聴さん、今年で90歳におなりなんですね。
高齢の秘訣は、意外や意外! 肉好きの酒好きにあるようです。よっしゃ、俺も長生きするわ。
ある講演で寂聴さん、こういうことをおっしゃっています。
「60年近くペン1本で食べております。ほかのことで生きたことがありません。私を見習って、もし皆さんの中で小説を書いていこうと思っていらっしゃる方がいらっしゃるのなら、お勧めしかねます。非常に険しい道でございまして。その人が認めようが認めまいが、芸術というものにはその人に才能がなければ意味はありません。一に才能、二に才能、三に才能。あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。これは芸術だけでございます」
わあ、どう思います? 才能、才能、才能、そして運、やて。
でも言われてみると、モーツァルトやベートーベン、ピカソ、ダリ、ドストエフスキーやトルストイが頑張ったなんて陳腐な言葉、聞いたことがないですもんね。モーツァルトなんて努力せずとも天から音楽が降ってきたらしい。
ベートーベンは創作のためにはえらく苦しんだという話は聞いていて、努力の人であるという評をよく見るんですが、あの曲を聴いたら間違いなく天才です。
ピカソは92歳まで生きましたが、その生涯で16万点の作品を残しました。16万! この数はもう尋常やない。努力とか頑張りなんて超越した世界でしょう。
ドストエフスキーは天才(と自覚していた)、トルストイは巨人なんて評もあるようですが。
ピカソが16万点なら手塚治虫は40数年のマンガ家生活で15万枚の原稿を完成させています。これに加えてアニメの制作もしていました。これ、努力でこなせるものじゃないですな。天才です、これは。
一流の芸術家は確かに、生まれながらに天才、という逸話をよく聞きます。山田洋次監督も「映画監督は才能がないとなれない」とはっきり言っています。
私は黒澤明という人と仕事をしたことがありますが、ちょっともう違う人です。いくら努力してもああはなれない。そう実感したものです。
ただ、私がやっていることが芸術かというと、そんなこと意識したことはありません。多分、私のやっていることはもっと俗っぽいもの、エンターテイメントです。
この世界は大天才でなくとも、なんか運で世渡りしている、という人が多いように思います。
でも、ここにも少なくともセンスは問われるんですねえ。
マンガにしても文章を書くにしても、一枚の写真を撮るにしても、話す内容、表現力にしても、あるいは料理を作ったり、身につけている服装や部屋のインテリアにしても、何をするにしてもその人のセンスってあります。
これは確かにもって生まれたものかなあと。
料理人や職人も、この一流になるかどうかは、センスが勝負どころなのではと思います。
『羅生門』や『雨月物語』の名カメラマン、宮川一夫先生は、非常におしゃれな方でしたが、そういえばカメラマンっておしゃれな人が多い。
「カメラマンは自分に何が似合うかを知っているんだ。でないと被写体となる役者や小道具に何が似合うか似合わないかの判断ができない。だからまず、自分にあったおしゃれから始まるんや。センスや、カメラマンにはセンスが必要なんや」
と、これは私が直に聞いたお言葉です。
センス、これはねえ、伝授のしようがない。
センスの悪い、無い人は、なかなかそれを修正できない。
ある程度のレベルならば、これは努力の積み重ねでいける。おそらく一流まではこの努力次第でなんとかいけるのではないでしょうか。でも超一流となるとこれはもう・・・。努力など意味をなさない。才能がないとここにはいけない。
瀬戸内寂聴さんは、この超一流のレベルまでいっている人として、そういう実感があっての発言だと思うんですよ。
でも人それぞれに長所と短所はあるわけで、つまりは本人の気が付かないところにセンスは眠っていると思うのです。そしてそのセンスを見つけて磨けば、大きな才能になるんですよ、きっと。
センスというのは先天的に備わった特別な能力とでも言うのでしょうか。もっと細かく言えば、ひとつには物事の理解力、認知する感覚、分別や判断力という意味があります。つまりは、自分が目指すものに向かって前進するときに、必要なものとそうでないものを自然に見分け、無駄な努力をしない、ということにも結びつくように思うのです。つまりはセンスのない人を横目にしながらさっさと前進するのがセンスのいい人。だから傍目には気軽に問題解決しているように見えるんです。
あるいは傍目から見てすごい困難、解決できようもない問題にあたって努力しているように思えても、本人はさほどでもない。もちろん創作の苦悩はあるに決まっているでしょうが、一般の人からすれば「すごく努力している」ように見えても、当の本人は当たり前のことをしているだけ。
ただ、そういうと勘違いをするのもいて、無駄な努力をしなくてもいい、というとすぐに「じゃあ、これはやりたくありません」「これも私には必要ありません」と本来やるべきことをやらない人がいる。ここもセンスの問題。これを今することがなぜ必要なのか、なぜこれをやっておけと言われているのかを理解できる、できないというのもセンスのある、無しに関わってくるように思うんです。
最近、塾生に「だったら言ってください」と言われるんですが、そういうもんじゃないんですよ。言ってわからない奴に言うと「強制ですか」なんてバカなことを言ったりするしね。
好きなことに邁進している人は、頑張りとか、努力なんて無縁の言葉なのかもしれません。現に私の周りにいる作家やマンガ家、映画監督やシナリオライターなんて、一流の人ほど「俺は好きなことだけをやってきた」なんて幸せそうな顔をしていますもん。でもそういう人たちと話してごらんなさいな、半端ない知識と経験を積んでいますから。好きなことをただだらりとやっているのとは違うわけです。つまり、端から見ると尋常ならざる努力と工夫をしているはずなんです。ただ、そこに苦痛が伴わないわけですな。
対して努力するというのは、苦痛が伴っているんでしょうね。だから努力しなきゃ、と言って辛い思いをして。それはきっと、まだ開花していないか、ほんとは好きじゃないのか、どちらかです。
でも、瀬戸内寂聴さんは「努力なんかしなくても、才能があればモノになる」とおっしゃっていますが、じゃあ彼女はただ才能の上にあぐらをかいていたのか、そうじゃないはずです。あるところで寂聴さんはこうも言っています。
「人間はもともとそんなに賢くありません。勉強して修行して、やっとまともになるのです」「生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性を諦めず、与えられた才能や日々の仕事に努力し続けることです」
それでも芸術の世界の頂点は、その努力ではとうてい及ばない特殊な世界であるということなんでしょうか。
でも私のような凡人でもなんとか20年、機嫌よくこの世界でメシ食っているということは、そんなに根詰めなくても、やりようでやっていけると思うんです。
ただ、何か犠牲をしなきゃならない。その覚悟があるかです。
考えてみれば、私には大した才能もないのになんとかやってこれたのには、人との出会いやタイミングのようなものがあったからだと思うんです。
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では、運て、なんなのでしょう。
そんなことを考えてみました。
つづく
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2012年11月07日
時計じかけのアップル
中山市朗です。
まぐまぐで配信しております『幽怪案内』。
一部リニューアルしたものを、いよいよポッドキャストから配信、携帯タブレットから手軽に楽しんでいただけることになりました。
私が語る怪談動画(『新耳袋』以降に取材したもの)を150話ストックしており、随時配信、なおも新たな撮影も行なっているところです。
価格は10〜15分の動画が1ドル、85円くらい?
※appleですのでその規定レートによるドル換算となります。
1話が10分以上の長編動画もあれば、短編2〜3話による動画もあります。
また、ファンキー中村さんとの怪談談義や特典映像など、無料動画の同時配信も予定しております。こちらは怪談あり霊スポット探索あり心霊ビデオ(?)あり。
配信日は毎月5日と25日。
動画は月に有料動画を6〜8本(6〜16話)、無料動画を2本以上配信する予定です。
実は今月より配信、ということでもappleからは認可が出ているのですが、8日の現在、まだ配信がありません。
実はトラブってます。
配信する代理店のサーバーが2昼夜の作業をしても動かない。原因は不明。
考えられません。
撮影中からいろいろ妙なトラブルがある『幽怪案内』なのですが・・・。
ということで新たにもうひとつサーバーをレンタルするよう要請し、本日申請を出したところです。10日には配達できると思います。
配信いたしましたら、このオフィスイチロウのツイッター、ブログで詳細も含めてお知らせします。
でも本当に配信できるのでしょうか?
なんかヤバい!
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配信日は毎月5日と25日。
動画は月に有料動画を6〜8本(6〜16話)、無料動画を2本以上配信する予定です。
実は今月より配信、ということでもappleからは認可が出ているのですが、8日の現在、まだ配信がありません。
実はトラブってます。
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考えられません。
撮影中からいろいろ妙なトラブルがある『幽怪案内』なのですが・・・。
ということで新たにもうひとつサーバーをレンタルするよう要請し、本日申請を出したところです。10日には配達できると思います。
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2012年11月06日
11/1の作劇ゼミ
中山市朗です。
前回、頑張りについて書きましたが。
よく「頑張っても報われない」という言葉を聞きます。
どう思います?
実は私、頑張るという言葉が嫌いです。
頑張った、という記憶がありませんし。
踏ん張ったことはあります。
塾を作った当初はもう、慣れない経営、運営、トラブル対処、塾生の悩み相談、スタッフの育成と大変でした。体重18キロ減ったんでっせ。それで眠れなくて深酒するようになって、気がついたらリバウンドしてた。
でも頑張った、じゃないんだなあ。
なんかうわべの言葉という印象なんです。
頑張る、という言葉の語源を調べてみますと、頑張る、つまりは見張る、その場を動かない、という意味からきているという説があります。これが我を張る、という言葉にもなり、ある場所を占めていてテコでも動かない、という意味合いになるようです。
根を生やしたように動かない、つまりは変わらないということ。
そうなると、頑固、という言葉に通じますな。
となると「頑張っている」とは不動である、忍に耐えている、ということなんでしょうか。
似た言葉に努力というものがあります。努力とは、奴、つまり奴隷や奴婢が農作業をするにあたって、力を尽くす、という意味合いだそうです。今は目標達成のために、身や心でもって尽くす、ということになるのでしょうか。
「頑張っても報われない」というのは、おそらく自分ではこれが正しいと思う気持ちでいてある程度はやってみたけど、そのことは正しくなかった、ということではないでしょうか?
「目標に向かって頑張っています」という人がいるんですが、頑張っています、という言葉が出た時点で、なんか嘘くさいんですよね。そんな言葉を聞くと、
「別に頑張らんでいいやん、しんどいやろ」と忠告したくなります。
まだ「努力しています」のほうが伝わる気がします。
努力は、血と汗の結晶という意味が含まれましょう。おそらくこの言葉の裏いは実際寝る間を惜しんで、残業を終えてヘトヘトになって帰っても、私はやっています、という自信があるように受け取ります。実際は知りませんけど。
でも「あいつ頑張ってますよ」というのと、「あいつ努力してますよ」というのは、言葉としての重みが違います。おそらく「努力していますよ」と第三者が言うからには、その人は本当に目標に向かって、やるべきことを積み重ねているのが見えるんですよ。
たまに私「頑張ってください」と見知らぬ方(きっとファンだと思うんですけど)から声をかけられることがあります。まあ挨拶だと思って「ありがとうございます」と言うんですけど、「努力してください」と言われると、なんだか怠けているのを見透かされたような気がするでしょうね。まあ、言われたことないですけど。
つまりは「頑張っても報われない」は、ありえるわけです。
「マンガ家になれるように頑張っています」には、おそらく努力が伴っていない。
だから努力しています、とか具体的にこういうものを描いています、という言葉にはならない。この頑張っています、はただ、マンガ家になりたいという夢は捨てていません、そのうち、いや、いつか努力します、というニュアンスに私は思ってしまう。
「頑張っています」という奴に「どんな作品書いているの?」と聞くと、
「今、資金貯めるためのバイトをしています」「今、アイデアを考えるために映画を観たり本を読んでいます」みたいな返事が返ってくることが多かった。
そんな教え子、山ほどいましたから。
世の中ねえ、頑張ってもなんともなりません。
イチロー選手は頑張っていますか。頑張ってませんよ、ただ努力は積み重ねているでしょうね。ちなみにイチロー選手は「頑張る」という言葉が嫌いだそうです。
努力は、やれば何かしら身につくと思います。
たとえ、目標達成がかなわなくても、積み重ねた結晶は自信となり、ほかのことをやり遂げる指針にもなります。だから努力は報われるわけです。
「いや、努力は報われない」という人もいるかもしれません。
「努力よりコネだ」と言った人もいます。でも、コネを作り、維持するのも努力が必要なんですよ。コネは友達の関係ではない。利害関係ですから。
「あ、コイツと仕事しても儲からない。メリットがない」と思われたら切れますよ。中にはコメツキバッタのようにへつらい人もいますが、あれも生きるための努力のひとつだと思います。それが正解かどうかはわかりませんが。
しかし、しかしですよ。
小説家になるには、努力なんていらない、と言う人もいてます。
瀬戸内寂聴さんです。
彼女は言います。
「努力なんてしなくても、才能があればモノになるんです」
はたしてその真意は?
11月1日の塾の講義は、そこを探りました。
長いフリやな!
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前回、頑張りについて書きましたが。
よく「頑張っても報われない」という言葉を聞きます。
どう思います?
実は私、頑張るという言葉が嫌いです。
頑張った、という記憶がありませんし。
踏ん張ったことはあります。
塾を作った当初はもう、慣れない経営、運営、トラブル対処、塾生の悩み相談、スタッフの育成と大変でした。体重18キロ減ったんでっせ。それで眠れなくて深酒するようになって、気がついたらリバウンドしてた。
でも頑張った、じゃないんだなあ。
なんかうわべの言葉という印象なんです。
頑張る、という言葉の語源を調べてみますと、頑張る、つまりは見張る、その場を動かない、という意味からきているという説があります。これが我を張る、という言葉にもなり、ある場所を占めていてテコでも動かない、という意味合いになるようです。
根を生やしたように動かない、つまりは変わらないということ。
そうなると、頑固、という言葉に通じますな。
となると「頑張っている」とは不動である、忍に耐えている、ということなんでしょうか。
似た言葉に努力というものがあります。努力とは、奴、つまり奴隷や奴婢が農作業をするにあたって、力を尽くす、という意味合いだそうです。今は目標達成のために、身や心でもって尽くす、ということになるのでしょうか。
「頑張っても報われない」というのは、おそらく自分ではこれが正しいと思う気持ちでいてある程度はやってみたけど、そのことは正しくなかった、ということではないでしょうか?
「目標に向かって頑張っています」という人がいるんですが、頑張っています、という言葉が出た時点で、なんか嘘くさいんですよね。そんな言葉を聞くと、
「別に頑張らんでいいやん、しんどいやろ」と忠告したくなります。
まだ「努力しています」のほうが伝わる気がします。
努力は、血と汗の結晶という意味が含まれましょう。おそらくこの言葉の裏いは実際寝る間を惜しんで、残業を終えてヘトヘトになって帰っても、私はやっています、という自信があるように受け取ります。実際は知りませんけど。
でも「あいつ頑張ってますよ」というのと、「あいつ努力してますよ」というのは、言葉としての重みが違います。おそらく「努力していますよ」と第三者が言うからには、その人は本当に目標に向かって、やるべきことを積み重ねているのが見えるんですよ。
たまに私「頑張ってください」と見知らぬ方(きっとファンだと思うんですけど)から声をかけられることがあります。まあ挨拶だと思って「ありがとうございます」と言うんですけど、「努力してください」と言われると、なんだか怠けているのを見透かされたような気がするでしょうね。まあ、言われたことないですけど。
つまりは「頑張っても報われない」は、ありえるわけです。
「マンガ家になれるように頑張っています」には、おそらく努力が伴っていない。
だから努力しています、とか具体的にこういうものを描いています、という言葉にはならない。この頑張っています、はただ、マンガ家になりたいという夢は捨てていません、そのうち、いや、いつか努力します、というニュアンスに私は思ってしまう。
「頑張っています」という奴に「どんな作品書いているの?」と聞くと、
「今、資金貯めるためのバイトをしています」「今、アイデアを考えるために映画を観たり本を読んでいます」みたいな返事が返ってくることが多かった。
そんな教え子、山ほどいましたから。
世の中ねえ、頑張ってもなんともなりません。
イチロー選手は頑張っていますか。頑張ってませんよ、ただ努力は積み重ねているでしょうね。ちなみにイチロー選手は「頑張る」という言葉が嫌いだそうです。
努力は、やれば何かしら身につくと思います。
たとえ、目標達成がかなわなくても、積み重ねた結晶は自信となり、ほかのことをやり遂げる指針にもなります。だから努力は報われるわけです。
「いや、努力は報われない」という人もいるかもしれません。
「努力よりコネだ」と言った人もいます。でも、コネを作り、維持するのも努力が必要なんですよ。コネは友達の関係ではない。利害関係ですから。
「あ、コイツと仕事しても儲からない。メリットがない」と思われたら切れますよ。中にはコメツキバッタのようにへつらい人もいますが、あれも生きるための努力のひとつだと思います。それが正解かどうかはわかりませんが。
しかし、しかしですよ。
小説家になるには、努力なんていらない、と言う人もいてます。
瀬戸内寂聴さんです。
彼女は言います。
「努力なんてしなくても、才能があればモノになるんです」
はたしてその真意は?
11月1日の塾の講義は、そこを探りました。
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2012年11月01日
がんばってるベアーズ
中山市朗です。
最近、ある塾生と総務のスガノにこんなことを指摘されました。
その塾生が「Kくん(元塾生)は今、ADやってて九州に行っているようです」
私、「奴は映画監督志望やなかったか?」
塾生、「なんか、ほんまはテレビがやりたかったって言ってます」
私「はあ? ADなんて27歳にもなってやるもんと違う。何してんねん」
塾生「先生、ええやないですか。Kくん頑張っているんやから、頑張ってるな、でええやないですか」
そういえば以前、専門学校で教えていた教え子たちが同窓会を久しぶりに開いたんですが、その席に私も呼ばれました。
当然、「あいつはどうしている」とか「あの子は今こんなことしてるよ」という話のなかで、Uくんが声優になっているという話になった。
「なんか彼、なんとかという声優の事務所のプロフィールに登録されているよ(とケータイで検索して)、あ、あったあった。ほら」
席にいたみんな、「ほんとや。すごーい(女子が多かったのでそういう口調)」
「何か、アニメで1本吹き替えしたって聞いた」
「ほんま? 頑張ってるやn」
私「あのな、事務所に入るだけやったら誰でも入れるわ。下手したら研修費という名目で登録料も取られて。声優で食っていくの大変やぞ」
そしたらどうも後に「先生はなんであんなこと言うん? Uくん頑張ってるな、でええやん」
同席していたスガノも後に言うわけです。
「Uくんが声優になっているっていうのは意外でしたけど、ああ、Uくん頑張ってるんやな、でええやないですか」
さて、「頑張っている」と彼らを素直に評さない私は間違っているのでしょうか?
AD、つまりアシスタントディレクターは私も大学卒業した頃にやったことがあります。
放送作家になってからもADくんたちと一緒に仕事をしていました。だからその実態はわかっています。局のADと制作会社のADもまた違うし。
Kくんは制作会社のほうらしい。バイト先に来たお客さんがその業界の人だったらしく、ADが不足しているからと声をかけられて、で、どういう契約かは知りませんが、ADをやっているということらしい。
Kくんは、映画監督になりたいと塾へ入ってきて、まともな映画を1本も撮れず、企画も立てられず。私は彼は映画監督には100パーセント無理と思っていたのですが、彼は果たして本気でテレビのディレクターになりたいのでしょうか?
「お前、映画監督になるって無理やで」
「ボク、本気で映画監督になりたいと思ってます」とタンカ切ったんでっせ。
いつテレビ番組の制作に携わりたいと思ったのかわかりませんが、何が目的でADをやっているのかわからんヤツに、なんで「おお、彼も頑張ってんねんな」と言わなあかんのや?
それにADは現場で一番下っ端の仕事、パシリです。
で、25〜30までにはディレクターに昇進しないと辛い。30歳になってのADは正直きつい。いくらなんでも20代のディレクターが30代のADを罵倒できませんから。
でも大半は辞めていく。
罵倒され、殴られ蹴られがADの仕事ですもん。
よっぽど志がないと、ほんまノイローゼになるほどこれも厳しいものです。
そんな実態を知っています。しかもですよ、
マンガ家になりたくてマンガ家のアシスタントやって、そこでマンガの世界にいることに満足して、気付いたら年ばっかり食っていて田舎に帰ったという教え子を山ほど見てきた私が「おお、KくんADになったか。頑張ってるな」と言うほうが、冷たい態度だと思うのですが。
声優になったというUくんも、何年か前、私が手がけていたCS局の番組作りを手伝ってもらったのが最後。そのときは声優になりたいとか演技をしたいなんて聞いてなかったけど?
私も声優を抱えている事務所の実態は知っています。事務所に所属したからと言って仕事があるとは限らない。事務所によるのかもしれませんが、専属はしていてもまったく仕事がないという人は非常に多いのです。それに役者として舞台を踏んで修練を重ねた声優さんがたくさんいらっしゃいます。芝居の世界も当然厳しい。
私はプロの声優さんを何人か知っていますが、「声優になるにはまず俳優、タレントとして活躍できる素養が必要。舞台には立たないとダメ。今、若い声優志望者はほんま勘違いしている」と、みんなボヤいているわけです。
食っていけないからと、風俗でバイトしている声優事務所所属の女の子もいました。
「ヨゴレになるからそのバイト辞めろ」とさすがに注意しましたけど。
私の教え子で、ある映画監督に役者として1本使ってもらって、そこから大勘違いして「俺はいつかアクション映画で主役をする」と言っていたのが、その後オファーはまったくなく、今は田舎にこもっている男もいます。彼、もう30代半ば?
そんな勘違いを起こしたバカ野郎は一人や二人ではありません。
もうUくんも30歳。うまくいっているのならいいですけど、彼もKくんと一緒で本気でやろうとしているのかな? という疑問と、勘違いしていないかな、という不安があるわけです。彼の名(珍しい名なので)で検索したら、確かに大手の声優マネージメント会社に所属していて、舞台には立っているようで、でもプロフィールはほとんどない。
これは頑張っているにしても、こら大変やなあ、と思うわけです。
だから声優の事務所に入っているから「頑張ってるよね」とは私は言えない。
「大変な世界に飛び込んだな、覚悟あるのか」と言いたいのが本音です。
応援はしてあげたい。でも頑張っているのかどうかはわからない。
まあ彼のツイッターも見つけて、楽しそうにはしているようだけど。
でもねえ、その塾生もスガノも、同窓会にいた元教え子たちも、一度はマンガ家や作家を夢見た(なった人もいますが)わけですから、そういう世界がいかに大変で、少々の頑張りではどうしようもないことがわかっているはず。
「頑張れ」「頑張ってるね」なんて言葉は誰でも言えます。無責任な言葉なんです。この業界のことを知らない人ほど言うと思いますよ。
「へえー、頑張ってるんだ」
でもその頑張りの基準はなに?
つまり「頑張ってるやん」て言葉は、実はどーでもいいということです。
もし私の口からその言葉が出るときは、どーでもええときです。
ということは、みんなはKくんが、Uくんが、ほんとはどうなろうとも、どーでもいいわけ?
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最近、ある塾生と総務のスガノにこんなことを指摘されました。
その塾生が「Kくん(元塾生)は今、ADやってて九州に行っているようです」
私、「奴は映画監督志望やなかったか?」
塾生、「なんか、ほんまはテレビがやりたかったって言ってます」
私「はあ? ADなんて27歳にもなってやるもんと違う。何してんねん」
塾生「先生、ええやないですか。Kくん頑張っているんやから、頑張ってるな、でええやないですか」
そういえば以前、専門学校で教えていた教え子たちが同窓会を久しぶりに開いたんですが、その席に私も呼ばれました。
当然、「あいつはどうしている」とか「あの子は今こんなことしてるよ」という話のなかで、Uくんが声優になっているという話になった。
「なんか彼、なんとかという声優の事務所のプロフィールに登録されているよ(とケータイで検索して)、あ、あったあった。ほら」
席にいたみんな、「ほんとや。すごーい(女子が多かったのでそういう口調)」
「何か、アニメで1本吹き替えしたって聞いた」
「ほんま? 頑張ってるやn」
私「あのな、事務所に入るだけやったら誰でも入れるわ。下手したら研修費という名目で登録料も取られて。声優で食っていくの大変やぞ」
そしたらどうも後に「先生はなんであんなこと言うん? Uくん頑張ってるな、でええやん」
同席していたスガノも後に言うわけです。
「Uくんが声優になっているっていうのは意外でしたけど、ああ、Uくん頑張ってるんやな、でええやないですか」
さて、「頑張っている」と彼らを素直に評さない私は間違っているのでしょうか?
AD、つまりアシスタントディレクターは私も大学卒業した頃にやったことがあります。
放送作家になってからもADくんたちと一緒に仕事をしていました。だからその実態はわかっています。局のADと制作会社のADもまた違うし。
Kくんは制作会社のほうらしい。バイト先に来たお客さんがその業界の人だったらしく、ADが不足しているからと声をかけられて、で、どういう契約かは知りませんが、ADをやっているということらしい。
Kくんは、映画監督になりたいと塾へ入ってきて、まともな映画を1本も撮れず、企画も立てられず。私は彼は映画監督には100パーセント無理と思っていたのですが、彼は果たして本気でテレビのディレクターになりたいのでしょうか?
「お前、映画監督になるって無理やで」
「ボク、本気で映画監督になりたいと思ってます」とタンカ切ったんでっせ。
いつテレビ番組の制作に携わりたいと思ったのかわかりませんが、何が目的でADをやっているのかわからんヤツに、なんで「おお、彼も頑張ってんねんな」と言わなあかんのや?
それにADは現場で一番下っ端の仕事、パシリです。
で、25〜30までにはディレクターに昇進しないと辛い。30歳になってのADは正直きつい。いくらなんでも20代のディレクターが30代のADを罵倒できませんから。
でも大半は辞めていく。
罵倒され、殴られ蹴られがADの仕事ですもん。
よっぽど志がないと、ほんまノイローゼになるほどこれも厳しいものです。
そんな実態を知っています。しかもですよ、
マンガ家になりたくてマンガ家のアシスタントやって、そこでマンガの世界にいることに満足して、気付いたら年ばっかり食っていて田舎に帰ったという教え子を山ほど見てきた私が「おお、KくんADになったか。頑張ってるな」と言うほうが、冷たい態度だと思うのですが。
声優になったというUくんも、何年か前、私が手がけていたCS局の番組作りを手伝ってもらったのが最後。そのときは声優になりたいとか演技をしたいなんて聞いてなかったけど?
私も声優を抱えている事務所の実態は知っています。事務所に所属したからと言って仕事があるとは限らない。事務所によるのかもしれませんが、専属はしていてもまったく仕事がないという人は非常に多いのです。それに役者として舞台を踏んで修練を重ねた声優さんがたくさんいらっしゃいます。芝居の世界も当然厳しい。
私はプロの声優さんを何人か知っていますが、「声優になるにはまず俳優、タレントとして活躍できる素養が必要。舞台には立たないとダメ。今、若い声優志望者はほんま勘違いしている」と、みんなボヤいているわけです。
食っていけないからと、風俗でバイトしている声優事務所所属の女の子もいました。
「ヨゴレになるからそのバイト辞めろ」とさすがに注意しましたけど。
私の教え子で、ある映画監督に役者として1本使ってもらって、そこから大勘違いして「俺はいつかアクション映画で主役をする」と言っていたのが、その後オファーはまったくなく、今は田舎にこもっている男もいます。彼、もう30代半ば?
そんな勘違いを起こしたバカ野郎は一人や二人ではありません。
もうUくんも30歳。うまくいっているのならいいですけど、彼もKくんと一緒で本気でやろうとしているのかな? という疑問と、勘違いしていないかな、という不安があるわけです。彼の名(珍しい名なので)で検索したら、確かに大手の声優マネージメント会社に所属していて、舞台には立っているようで、でもプロフィールはほとんどない。
これは頑張っているにしても、こら大変やなあ、と思うわけです。
だから声優の事務所に入っているから「頑張ってるよね」とは私は言えない。
「大変な世界に飛び込んだな、覚悟あるのか」と言いたいのが本音です。
応援はしてあげたい。でも頑張っているのかどうかはわからない。
まあ彼のツイッターも見つけて、楽しそうにはしているようだけど。
でもねえ、その塾生もスガノも、同窓会にいた元教え子たちも、一度はマンガ家や作家を夢見た(なった人もいますが)わけですから、そういう世界がいかに大変で、少々の頑張りではどうしようもないことがわかっているはず。
「頑張れ」「頑張ってるね」なんて言葉は誰でも言えます。無責任な言葉なんです。この業界のことを知らない人ほど言うと思いますよ。
「へえー、頑張ってるんだ」
でもその頑張りの基準はなに?
つまり「頑張ってるやん」て言葉は、実はどーでもいいということです。
もし私の口からその言葉が出るときは、どーでもええときです。
ということは、みんなはKくんが、Uくんが、ほんとはどうなろうとも、どーでもいいわけ?
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kaidanyawa at 19:25|Permalink│Comments(6)│




