2012年12月

2012年12月27日

会場のメリークリスマス

 中山市朗です。

 24日から東京にいてまして、本日午前に大阪へ戻ってまいりました。
 今はもうヘロヘロな状態です。

 私の実家はもともと兵庫県の朝来市、最近日本のマチュピチュとか言ってマスコミに取り上げられるようになった竹田城下にあったのですが、現在両親が妹を頼って神奈川に住んでおりますので、まずそちらで一泊。
 今年84歳の親父が歩けなくなったとか言って入院しておりますので、見舞いに行ったら「足はもうあかんわ」と言いながらも、電子書籍で『レ・ミゼラブル』を読んだりしていたので、まあ大丈夫かな。

 翌25日の夜は赤坂の草月ホールでのクリスマス怪談のために東京へ。
 午後はまず、池袋にて某出版社の編集さんと待ち合わせ。
 実は2月ないし3月には新刊を出す予定でして、そのご挨拶と打ち合わせ。
 怪談ではございません。私がやりたかった古代史ものです。古代史探偵団とリンクした内容になっております。以前、角川書店から出した『捜聖記』をさらに掘り下げ、今度はドキュメンタリーの形式で書き上げました。現在出版に向けて作業中です。
 あ、「古代史探偵団」の石上神宮編と丹後編の動画も出版に合わせて貼りつけます。本の詳細などはまたいずれ告知します。

 さて、夕方4時30分にはオフィス・イチロウのスタッフ山本、真名子と合流して草月ホールへ。
 楽屋に入るともうみなさんお揃いでした。
 久しぶりに岩井志麻子さんとお会いしたわけですが、まあ相変わらずの絶舌調。
 いろんな人のいろんなエピソードを面白おかしく志麻子さんの口から語られますが、すごいのは必ず下ネタのオチになること。「幽霊より人、特に美女ってすごく怖いんだよ」といつも言っている彼女ですが、ある有名人のゾゾッとする壮絶なエピソードを聞かされて、ほんまやなあと。えっ? どんな話かって?
 そんなん書けますかいな。

 西浦和也さんに「犬神に祟られたとか言いながら元気そうやなあ」と言うと、「いやあ、でもホント死にそうになったんですから」と悲惨なエピソードがまた展開。話を聞いていると、志麻子さんの話といい、楽屋で繰り広げられている話のほうがマジで怖いんじゃないだろうかと。そんな話、公ではできませんもん。
 松島初音さんは以前、しょこたんの番組で共演以来、久しぶりです。
 疋田紗也さんとヒカリゴケの国沢くんとは初めての顔合わせ。
 男女いっしょくたの楽屋なのに、疋田さんはいつの間にやら、かわいいサンタクロースの衣装に着替えて。私は和服でしたので非常に違和感のあるツーショットではなかったのかと思います。この初音、紗也のグラビアアイドルがお化粧直しをしている最中も志麻子節は全然止まりません。二人にウケてましたけど。

 私は製作の人にちょっとした苦言を?
 いや、制作がTBSラジオなので、おそらくラジオ番組の作りを意識したのでしょうが、台本がすごく書き込まれていて、しかも90分で6人が5分の怪談を2話ずつ語るという構成。これ無理です。このブログで何度か書きましたように、怪談は相乗するもの。1話の話に乗っかっていくところが面白いわけです。
 打ち合わせして段取りを組めば組むほど、実は複数人で語る怪談は怖くなくなるんです。
 だからもう少し余裕をもった構成にするべきだと。
 5分の怪談というのも案外難しいんですよね。その世界観をお客さんに共有してもらうための話の導入や、登場人物たちの日常とそれが崩れて怪異となる肝、その状況を再現するような語り、展開などと意外に怪談語りには仕掛けがあるんです。
 3分や5分で終わる怪談もありますけど、おそらく今回のお客さんの中には初めて怪談を聞くという方も大勢おられるでしょうから、しっかりとした怪談をじっくり聞かせるべきなんですね。
 まあ構成の人もそのあたりのことはわかっていたはずなんですけど、やっぱり普段バラエティをやっているディレクターとかプロデューサーの方は、ギチギチに構成を組まないと不安なんでしょうね。
 そこに助け舟が!
 名古屋での番組収録を済ませて、一番後に楽屋入りしてきた北野誠さん。
 その第一声が「この構成、無理やで!」
 「やろ?」と私。誠さんも同じことをスタッフに呈し始めて。
 そんなこんなで直前になって台本が急遽変更。ということで、ステージではひとつの怪談をじっくり披露する、ということになりました。あとは誠さんがその話を受けて各出演者に振っていくタイミングやそこで語られるプチ怪談が聞きモノ、というところ。
 そのほうが一つひとつの怪談が生きるんです。話も広がるし。
 これやったら、私と誠さんだけでオールナイトでもやれますわ。

 ということで各人が1話を語る形式となったわけです。
 志麻子さんの生霊の話(やっぱり生きている人間が怖いということか?)と、西浦さんのある因縁を解こうとして亡くなった友人の話が私には印象に残りました。
 でも考えてみたら、このお二人の話は怖いというよりヤバい話? 

 私はスタッフ側からリクエストがありましたので、「雪山賛歌」という話を十数分。
 お客さんは楽しんでいただけたのでしょうか?

 終わったあとはスタッフの方やうちのメンバー、西浦さんたちと渋谷で打ち上げ。
 クリスマス怪談、なかなか楽しかったです。こんな粋な企画を「成功するんでしょうか?」とちょっと恐れながら実行していただいたスタッフの方々に、そしてこちらの言い分を通してくださった器量に、お礼を申し上げたく思います。
 翌26日には、いつもの私の講演、ライブに東京から来てくださっている「と学会」のメンバーの方と合流。と学会の運営委員のお一人であります皆神龍太郎さん、B社の編集のTさん、K書店の編集Sさんたちも加わって深夜までの飲み語り。
 実はみなさん、私の著書である『捜聖記』のファンだということで、その集まりだったんです。ですから古代史トーク、とりわけ本に書けなかったところを皆神さんに鋭く質問され、隠していたタブーを暴露するという危ないトークとなりました。
 編集のSさんは、私がやろうとしている電子出版について興味をもたれ、「出版社は今はどこも電子書籍をやっていますが、やっぱり出版といえば既成の形から脱却する頭をもつことは難しいんです。結局新しいことをやろうとしても出版になぜそんなことが必要なの? と言って理解されない。だから中山さんがゲーム会社でシステムを作って今までにないものを出版するのは正解だと思います」賛同をいただき、なかなかappleから承認の出ない『モーツァルトの血痕』の出版形態について勇気をいただいた次第です。
 Tさんにも「古代史もので企画であれば協力いたします。モーツァルトももし紙媒体で出したいとおっしゃるなら営業しますよ」と言っていただき、ただ感謝。
 もつべきは、こういう人たちなのです。

 で、チョーシに乗って話しているうちに、最終の新幹線に乗り遅れた、というわけでして。
 で今朝、ヘロヘロになって帰ってきた、というわけです。




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2012年12月23日

中山市朗、東へ

 中山市朗です。

 クリスマス怪談のため東京へ出発します。

 久しぶりなので3、4日ほど逗留します。取引作の出版社や人とも会うので予定がギュウギュウに詰まってしまいました。
 面白いおみやげ話がありましたら、またこのブログで。

 


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2012年12月20日

ショウほど素敵な映画はない

 中山市朗です。

 特集:生誕100年! ジーン・ケリー。

 ということで、WOWOWで25日(火)に『踊る大紐育』(49)、26日(水)に『巴里のアメリカ人』(51)、27日(木)に『魅惑の巴里』(57)がオンエアされます。
 3本とも傑作ミュージカルです。

 ジーン・ケリー。
 『雨に唄えば』で雨の中で傘さしてメチャメチャ踊る、あのダンサーといえば、おわかりの方もおられますかな? こんな感じ
 1912年8月23日生まれ。映画の中では若々しいこの人も、今年生きていれば100歳なんですね。でも1996年に83歳で亡くなっています。
 
 ジーン・ケリーという人は、もともとブロードウェイでダンサーをしていて、1942年、つまり第二次世界大戦真っ只中でハリウッドデビューしたんです。
 この1940年代というのは、ハリウッドにおいてミュージカル映画の全盛の時代でした。暗い世相を陽気なミュージカルで、ということだったのでしょうか。
 デビュー作の『For Me and My Gal』はMGM製作で日本未公開。戦争中に公開された多くの傑作ミュージカルが、実は日本未公開なのです。
 WOWOWかスターチャンネル、どこでもええからこの頃のミュージカルを放送してくれ! さっぱり見る機会がないぞ!
 もっとも私は輸入DVDを購入しました。当時のMGMミュージカルの屋台骨を支えていたジュディ・ガーランドと共演。ただただ楽しい、というだけの映画です。
 そうなんですね、当時のミュージカル映画は、Boy Meets Girl。つまりは男の子が訳ありの女の子と出会って恋をする、という月並みなプロットから成り立っていました。その恋心を歌い、求愛の歌やダンス、そして最後にはレビュウがあるわけです。あるいはバックステージもの。ミュージカルの興行を打とうとしてそのために金策に走ったり、興行の邪魔しようとする勢力と戦って、最終的にはレビュウが打てて成功に終わる、というパターン。もちろんBoy Meets Girlでハッピーエンドという要素は物語の核を成します。
 
 そんな映画をハリウッドはその頃、量産していたんです。特にMGMはミュージカルに力を入れていました。ちなみにワーナーはミュージカルも作っていましたが、ボギーやキャグニー、エドワード・G・ロビンソンといったスターを揃えてギャングもの、ユニバーサルはベラ・ルゴシ、ボリス・カーロフなどでホラー映画を得意とし、パラマウントはビング・クロスビーとボブ・ホープのミュージカルやコメディ、ゲーリー・クーパーの西部劇を量産していました。そのちょっと前には20世紀FOXはシャーリー・テンプルという子役にお熱をあげていました。テンプルちゃんはアステアも一目置く最高のタップダンサー、ビル・ボージャングル・ロビンソンとの競演もあって、これも可愛くてすごいわけです。
 天才子役とはあれです。
 ハリウッドが一番輝いていた時代です。戦争とか不景気とか、そういうときに映画は元気になるんですね。

 ミュージカルはニューヨークのブロードウェイに40以上の劇場が集中しているようにアメリカを象徴する文化です。しかも唯一ともいっていい、アメリカのアングロサクソンが作った文化とも言えます。
 おそらくはヨーロッパのオペレッタ(オペラは全編歌っていますが、オペレッタはセリフだけの部分もある。喜劇が多いので日本では喜歌劇とも言います)が元で、これがアメリカにやってきた移民を相手にニューヨークで演じられていたんです。これをジーグフェルドという人が小沢ガールズじゃない、ジーグフェルド・ガールズを結成しモダンな演出に仕立てて、レビュワ形式にしてビジネスにしたんです。
 これがアメリカ独自のミュージカルになったんですが、これをアメリカ全土に広めたのは映画だったわけです。1927年にトーキー第1作『ジャズ・シンガー』が作られますが、白人であるアル・ジョンソンが黒人に扮して歌うのが象徴的です。で、トーキー映画はすぐブロードウェイのミュージカルに目をつけて、シネ・ミュージカルとして量産するわけです。そしてアメリカ独自の音楽をもたらせます。スタンダードのジャズやポップスでミュージカルから生まれたものは数多くあります。また多くの音楽家を育てました。

 しかし、さすがに同じようなストーリー、ただハッピーなだけの内容、というのではそら観客に飽きられます。そんなとき、ジーン・ケリーという才能がブロードウェイから引っこ抜かれてくるわけです。この人はテクニックという面でミュージカルに新風を巻き起こしました。
 『カバーガール』では、人間の内面をちょっとダークな振り付けでダンスで表現したり、『錨を上げて』ではアニメのキャラクターをパートナーにして踊り、『踊る大紐育』はミュージカル初の野外ロケを慣行、何より当時はタップダンスが主流だったところにモダンバレエをもちこみ、アクロバティックな要素も取り入れました。
 『巴里のアメリカ人』はジョージ・ガーシュインがパリに滞在していたときの街の喧騒から誘発されて作曲した、シンフォニック・ジャズ(交響的なクラシック音楽とジャズを融合させた音楽)『パリのアメリカ人』という曲からインスパイアされたミュージカルですが、この曲に合わせて延々20分弱展開するクライマックスのダンスシーンが、その集大成といってもいいでしょう。
 アカデミー賞を6部門で採り、MGMのミュージカル史を映画化した『ザッツ・エンターテイメント』でも最後のダンスシーンがトリとして紹介された名作ですが、アメリカを象徴するミュージカル映画の舞台がパリ、最後のダンスシーンの中でイメージとして出てくるのがパリの印象派の画家たちの世界、そしてモダンバレエとの融合、ジャズとヨーロッパの管弦楽との融合ともなると、ハリウッドの監督たちがヨーロッパの文化、とりわけオペラにコンプレックスを持っていたことを証明しているとも言えます。
 アメリカにはそういう伝統がないんです。だから憧れたんです。

 コンプレックスといえば、ジーン・ケリーはどうやらフレッド・アステアという人にそれをもっていたんじゃないかと思います。
 アステアは30年代からハリウッドのミュージカルを象徴するような人でした。もうエレガントで粋で洒脱なんですね。で、そういうスタイルやダンスのテクニックには、ジーン・ケリー自身、及ばないと思ったんです。
 「アステアがいなければ僕がナンバー1。だけどアステアがいなかったら僕はこの世界にはいない」とジーンは言っていたようです。
 アステアは女優さんと二人で踊ると女優さんを立てるんですね。オードリー・ヘップバーンとかボーレット・ゴダードとか。と言って自分のテクニックを下げるわけじゃない。女優さんをうまく見せるんです。一方、エレノア・パウエルとかヴェラ・エレンのような達者な女優さんと踊ると、もう最高なものを引き出す。おまけにエレガントでロマンティックなムードを持っていると来るともう、どうしようもないわけです。こんな感じ
 だからジーンは、タップダンスをペアで踊らず、男二人と女一人というトリオで踊るナンバーが多いんです。『カバーガール』のジーン、フィル・シルバース、リタ・ヘイワース、『雨に唄えば』のジーン、ドナルド・オコーナー、デビー・レイノルズなんてそう。アニメと踊ったり、アクロバティックな演出をしたり、モダンバレエの導入もアステアのやらないことをやろうとしたんでしょう。
 結果、アステアとは違う、若々しくて躍動的な芸風がジーン・ケリーの持ち味となりました。過酷なショウビジネスの世界での生き残る方法を身をもって示しています。
 アステアが好きか、ジーン・ケリーか、とはよく聞く質問ですが、私はどちらも好きです。

 『ウエストサイド物語』以降、ミュージカルも思想や社会を語り、テーマとするようになって重い作品も出ました。その価値は私も認めますし、『ウエストサイド』も大変に好きな映画ですが、やっぱりアステアかジーン・ケリーが出ていないと、なんとなくツマラないんですよ、私は。

 というわけで、WOWOWの3本のミュージカル映画は私のオススメ。
 『巴里のアメリカ人』は私の青春とともにある映画、『踊る大紐育』は底抜けに明るく楽しい映画。そして『魅惑の巴里』は、その下敷きにあるのが明らかに黒澤明監督の『羅生門』。ミュージカルと『羅生門』・・・?
 

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2012年12月18日

インタビュー・ビフォア・クリスマス

 中山市朗です。

 12月25日のクリスマス怪談が近づいてきました。
 これについてインタビューを受けています。「クランクイン」という映画関連の情報を取り扱うサイトで、なぜか私のインタビューを受けました。
 そのトピックが掲載されているページがありますので、紹介いたします。
 
 なんでもハリウッドスターが受けるインタビューサイトだそうです!
 
 

kaidanyawa at 23:32|PermalinkComments(0)

2012年12月17日

楽聖ジャパン その3

 中山市朗です。

 交響曲日本生誕100年。

 交響曲を書いた音楽家というと、印象派(絵画だけでなく音楽にもありました)までのロマン派の人たちというイメージがあります。確かにフランスの印象派の音楽家たち、ドビュッシー、ラベル、サティ、オーリック、タイユフェールといった人たちは交響曲を書いていません。ミョーやオネゲルは書いていますが、ほとんど演奏されません。20世紀において交響曲を積極的に書いたのはソ連の音楽家たちでした。ストラヴィンスキーも書きました。プロコフエフは7曲、ショスタコーヴィッチは15曲の交響曲を発表しました。その表題も「十月革命に捧ぐ」「メーデー」と政治色を思わせます。
 ソ連という国の情勢上、気分を鼓舞させるこういう大型の勇ましい交響曲が必要だったのでしょうか。
 この頃、アメリカでは自国の音楽作りに苦心します。黒人霊歌、そこから発展したブルース、ゴスペル、あるいはジャズ、カントリーなどはありましたが、クラシックの技法、スタイルでのアメリカ音楽が必要だったんですね。ジャズと管弦楽とのコラボ、融合やインディアンの旋律を管弦楽にしたり・・・。しかしアメリカの音楽はショウビジネスとハリウッドで花開くことになります。ミュージカルとハリウッドサウンドは、紛れもないアメリカサウンドです。

 そんな中、日本では、ということで山田耕筰が現れたわけです。
 日本の作曲家はわりと交響曲を書いているんです。でもあまり演奏されません。よって耳にすることもない。でも日本人が聴かないで誰が聴く?
 ということで、日本人作曲家が作曲した交響曲のいくつかを紹介しましょう。
 これらを聴くと、日本人はユニークで小器用で生真面目であることがわかります。そしてっ交響曲は実はそんなに肩肘張って堅くなって聴かなくてもいいんだよ、楽しく聴こうよ、というメッセージが聞き取れるような気がします。

 貴志康一 交響曲「仏陀」
 
 初演は1934年。貴志自身の指揮でベルリン・フィルの演奏がCDに残っています。なんだこれは! 真面目に交響曲に挑んだというのがわかります。デュカスの「魔法使いの弟子」のパクリと思える旋律も?
 この貴志康一という人は大阪の人で、朝比奈隆さんより1年下の1909年生まれ。ジュリアード音楽院に留学して、フルトヴェングラーに指揮法を学び、ベルリン・フィルを指揮してレコーディングまでした人でしたが、28歳で亡くなっています。音楽界の山中貞雄みたいな人です。朝比奈隆は93歳まで生きたので、我々もよく知っています。
 二人は交友があったようで、ちょっと面白いエピソードもあるのですが、またの機会に。

 伊福部昭 タブカーラ交響曲

 『ゴジラ』を初めとした東宝特撮のサウンドといえばこの人。この人の管弦楽法が大変にうまい。だから超大作映画となると、この人が起用されたのでしょう。第1楽章と第3楽章はストラヴィンスキーも真っ青のド迫力のリズムと旋律。荒々しいなんか土の匂いがするんだけど、メロディがしっかりしていて美しくて聴きやすい、というのが伊福部サウンドの特色。
 特撮映画はよく見るけど、クラシックは聴いたことがないという人にオススメ「SF交響ファンタジー」という曲もCDで出ています。

 芥川也寸志 エローラ交響曲

 リズムが快良くってメロディに何とはなく哀愁のある曲を書くのがこの人の特色、あの芥川龍之介の三男です。エローラというのはインドのエローラ岩窟のことで、日本人がインドの遺跡にインスパイアされて西洋の音楽法でそのイメージを楽曲にするというものです。ということでこれは西洋文化に対するアンチテーゼがテーマにあるんだとか。
 西洋の芸術は建築物などは無から構築するものですが、石窟とかそこに彫ってある東洋の仏像は、有を削っていくところが東洋的であるということで・・・、いやいや、そんな小難しいことを考えずとも、だんだんとクライマックスに向かって静と動の緊張と緩和が繰り返しながらどんどんと大音量で躍動するリズム、旋律は聴いていて快感です。

 黛敏郎 涅槃交響曲

 これ、お経です。お経とオーケストラのコラボ。でも男女混声のコーラスで歌われる音読がもう迫力があるわけですが、ここに巨大オーケストラが加わってくるわけですから、なんかすごいです。目をつむって聴いていると、仏教の荘厳な曼陀羅の中にいるような感覚になります。そういえば黛さんは「曼陀羅」という曲も書いています。ただ、これは交響曲なのか? だとしたら交響曲ってなに? という疑問も。まあスゴければいいか。
 ちなみにこの曲を聴いて『聖書』の創世記を映画化していたジョン・ヒューストン監督とプロデューサーのラウレンティスが、その音楽担当にと黛敏郎を撮影所のあったイタリアのチネチッタに呼び、結果、日本人として初めてハリウッド映画の音楽を担当することとなります、映画はもう一つでしたが、音楽は傑作でアカデミー作曲賞にノミネートされました。ジョン・バリーの『野生のエルザ』に賞は持っていかれましたけど。
 それにしても仏教音楽を聴いて「聖書の世界」の音楽を書かせるとは!

 その他にもいろいろあります。あのアニメとゲーム音楽でおなじみの、すぎやまこういちさんも交響曲を3曲書いています。ニコニコ動画で聴けるようです。そのうちのひとつは、交響曲第3番「イデオン」です。


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2012年12月15日

楽聖ジャパン その2

 中山市朗です。

 交響曲が日本で誕生して100年の年、という話をしていました。

 ところで本場ヨーロッパでは、この交響曲はいつ、誰の手によって作られたのでしょう。中世ヨーロッパの音楽の主体は、やはり教会音楽だったと思われます。
 ミサが人類最大でもっとも荘厳な曲だったと思われます。14世紀頃に単声の朗読から多声のコーラスを用いるようになったわけです。これはカソリックの教会で歌われましたが、プロテスタントの教会では神を称える賛美歌が歌われます。これは、モーゼが海を割ってエジプト軍を波で飲み込んだとき、イスラエル人たちによって歌われたのが最初と『聖書』に書かれていますが、それはどんなものだったのでしょう?
 いずれにしても、声楽が音楽の中心にありました。
 で、16世紀になって、ルネッサンス運動のひとつとして、古代ギリシャの演劇を復興させようと考え出されたのが、歌による演劇、オペラだったわけです。これも声楽が主となりますが、このオペラには劇が始まる前に、楽器の合奏による序曲、前奏曲が演奏されます。どうやらこれが交響曲の元になったようなんですね。

 昔のハリウッドの大作を見ていると、例えば『ベン・ハー』とか『十戒』『スパルタカス』『西部開拓史』なんて映画が始まる前に前奏曲が流れて、でメインタイトルになる。
 休憩時間が終わると第2幕の序曲、なんていうのが聴かれました。サントラCDにちゃんと収録してあります。そしてドラマになってもずっと伴奏曲が聞こえている。あれはオペラなんですね。
 黒澤明監督は「今のハリウッド映画はずっと音楽が鳴っているけど、あれは意味がない。もっと効果的な使い方があるはずだ」と常々言っていて、一度ジョージ・ルーカスと議論したらしい。ルーカスの『スター・ウォーズ』もジョン・ウィリアムスの音楽が鳴りっぱなしでした。結局議論は、ルーカスが負けを認めたと言うんですが、だからといって彼らの映画作りが変わったわけではない。ハリウッドの監督たちは、オペラへのコンプレックスがあったんです。『スター・ウォーズ』はワーグナーの『リング』なんです。
 黒澤監督はそこを理解できなかったんですね。ところで黒澤監督は交響曲の愛好家で、オペラは嫌いで聴かない人だったらしい。あるインタビューで野上照代さん(元スプリクターで黒澤プロダクションのマネージャー)が「実はバイロイトから黒澤さんのところに(ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の)演出の依頼が来たことがあるんだけど、オペラは興味ないって黒澤さん断っちゃった」なんて言っていました。実現していたら世界中で話題になっていたことでしょう!

 さて、オーストリア出身のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは「交響曲の父」と呼ばれています。彼は27歳(1757年)から63歳(1795年)までの間に交響曲を100曲以上も書いています。当時の音楽家はみな召使として主人に雇われる身でした。ですから家事全般の仕事もやっていたんです。そしてご主人の命令によって作曲したわけです。著作権などない時代ですから、音楽家の作曲した曲は主人の所有物になっていました。
 ですからハイドンの曲は主人であるエステルハージー家のサロンで演奏されることが前提として注文されたんだと思われます。そんな中でハイドンは歌詞とか、その原作にあるものだとか、そんな呪縛から離れて純粋に楽器の編成だけで完結するオーケストラ曲に、その本質を見出したのかもしれません。それにハイドンは宮廷楽団の楽長でもあったので、声楽を使わない複雑な管弦楽で、楽団員の質を上げていく目的もあったのでしょう。
 もうひとつ、サロンで演奏される音楽にはアンサンブルというのがありました。例えばヴァイオリンの名手という人を呼んできて、自分の楽団員と合奏させるというもの。協奏曲の走りですな、これは。これも交響曲を生む土台となっていることに違いないでしょう。
 ともかくハイドンは交響曲の基礎を作り、24歳年下のモーツァルトがこれを継承します。交響曲第1番はモーツァルト8歳のときに作られました。やっぱり神童です。彼は音の美というものをものすごく繊細なものに高めました。ただ、モーツァルトがもっともやりたかったものは、ドイツ語による本格的オペラでした。当時、オペラといえばイタリア語だったんですねえ。
 交響曲を音楽の中で「絶対価値」としたのはベートーヴェンでした。彼は9曲の交響曲を作曲します。この人はなんでしょう、音楽を通して芸術を語った人です。それまでの音楽家の生み出す音楽は、宮廷の王族や貴族の注文によって作られ、金銭的対価が支払われました。そら、音楽家も食っていかなきゃならないですから。この頃(18世紀の頃)の芸術家たちがこぞってフリーメーソンの団員になったのは、まさにこの人脈ほしさだったわけです。しかしベートーヴェンはそういう常識を無視し、全人類に向けて聖なる音楽を書き上げていくわけです。もっともベートーヴェンの時代になると、楽譜が出版されてその利権が作者にいくシステムになった、ということもあります。それで食えたんですな。
 そして、ブラームス、ブルックナー、マーラーといった人たちによって、交響曲は長大なものになり、複雑な構成をもつようになります。演奏には難しいテクニックが求められ、それを指示する指揮者によって、出来不出来が分かれるようになったんです。

「ブラームスとブルックナーの違い」は、ブラームスはプロテスタント、ブルックナーはカソリックだそうです。マーラーは音楽活動をしたいがために、カソリックに改宗したユダヤ人でした。


つづく






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2012年12月13日

楽聖ジャパン その1

 中山市朗です。

 先日、テレビで「題名のない音楽会」という番組をなんとなく見ていたら、今回2012年は日本で交響曲が生まれて100年なんだそうです。
 えっ? それがどうしたって?

 いや、明治になって日本という国は何かにつけ、西欧化を急いでいたんだなあと。それは政治や工業や軍隊だけじゃない。芸術や娯楽も西欧化に突き進んでいました。
 音楽もそうだったんですね。
 交響曲というのは、大編成の管弦楽(オーケストラ)で演奏される、ソナタ形式を含む複数章から構成される管弦楽というべきなのでしょうか。今は色んな形式がありますが、まあ、だいたいは4楽章よりなるものがオーソドックスでありまして、詳しいことは辞書でも引いてもらうとして、とにかくあの分厚い迫力のある、そして美しい神々の世界の音が聴こえてきそうな交響曲は、私は好きでよく聴いているんです。
 でも日本人が作曲した交響曲なんて、クラシック音楽の愛好家の中でもそんなにいないのでは?
 
 ちなみに、日本で初の交響曲が生まれた1912年は明治天皇が崩御された年、つまり明治が終わった年でした。乃木希典大将が夫人とともに殉死、中国では清朝が滅亡し中華民国が建国、北大西洋ではタイタニック号が沈没し、大阪に通天閣ができました。昨年亡くなった新藤兼人、木下恵介、今井正といった映画監督、俳優の藤田進、『八甲田山の彷徨』の著者、新田次郎、『戦場にかける橋』『猿の惑星』の作家ピエール・プール、音楽家のジョン・ケージ、ドン・シーゲル監督が生まれた年です。
 浅草に日本初の西洋風バー、銀座にカフェができ、映画会社日活の前進である日本活動写真とシャープの前進、早川電機工業が設立されました。
 そんな年におそらく東洋人として初めて交響曲を作曲したのは山田耕作という人でした。そう、「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」「鐘が鳴ります」など、この人の歌を子供の頃歌わなかった日本人はいないでしょう。
 山田耕作は、今は当たり前に聴いたり歌ったりしている音楽というものを、日本人の言葉を風土、風習、リズム、そしてそれまであった日本の古典音楽から導き出し、その教育や環境作りに至るまで、近代日本の音楽の基礎を作った人でありました。
 明治になる前の日本の音楽とは、いや、その頃は音楽という言葉すらなかったわけですが、三味線や太鼓、琵琶、琴といった楽器による今で言う邦楽であったわけです。
 宮廷音楽としては雅楽があり、庶民には祭囃子や大道芸人の祭文読み、芝居や寄席小屋での囃子、音曲、歌舞伎や文楽の長唄、浄瑠璃、舞踏音曲、遊郭では新内流し、お座敷では小唄、端唄が唄われた、ようです。子供たちはわらべ唄を歌っていました。
 三味線はわりと身近な楽器で、田舎はともかく町ではあちこちから三味線や、それに合わせて唄う声なんかが聞こえてきたでしょうねえ。
 でも今は音楽聞こうかと言って、長唄を聞いたり、浄瑠璃をうなったりなんてしませんわな。少なくとも音楽(MUSIC)と聞いて邦楽をイメージする人はいないでしょう。
 カラオケに浄瑠璃の台本なんてありませんわな。でも明治時代にカラオケがあったら、きっとあったでしょう。ベベーンなんて三味線の音が鳴ったりして。

 明治になって、政府は各学校にオルガンを置き、楽譜(世界共通の五線譜)に書かれたものを忠実に再現する西洋音楽の教育をするようになりました。唱歌、童謡はこのとき生まれました。
 もともと日本に入ってきた最初の西洋音楽は明治の初期(正確には戦国時代に来たイエズス会の宣教師たちなのでしょうが、それがどんなものかはよくわからない・・・)、アメリカから来た宣教師たちが巣鴨の教会で賛美歌を唄っていたものでして、これを唱歌として応用したのが最初だそうで、その教会にオルガンがあったことから、日本の学校の唱歌にはオルガンが欠かせないものとなったんですな。

 やっぱり西洋のものは文学にせよ、絵画にせよ、美術工芸品にしろ、キリスト教に教会にその基礎はあるわけです。
 その賛美歌を下地にして、唱歌、童謡、そして校歌をも山田耕作さんは作曲し、日本人のクラシック音楽界の草分け的存在となったわけです。
 山田は交響曲のみならず、日本最初の本格的オーケストラ、日本交響楽協会を設立し歌舞伎座で初演。山田の指揮によるものでした。大正13年(1942)のことでしたが、なんと山田耕作はこの年、ベルリン・フィルを振って指揮者デビューしていたんです!
 この日本交響楽協会は後に新交響楽団となり、戦後にNHK交響楽団となるわけです。
 そして日本で最初に本格的オペラを手がけたのも彼。『黒船』という3幕ものの日本語のオペラがそうですが、これ以前に山田は『天女』『あやめ』という1幕ものの小品を作曲しています。こんな中で山田は最初の交響曲を作曲したのでした。
 交響曲へ長調『勝鬨(かちどき)と平和』という4楽章よりなるもの。
 東京にある勝鬨橋と同じで、日露戦争の勝利からこの表題になったといいます。とは言っても勇ましい曲ではなく、平和への祈りといった清々しい曲です。何も知らずに聴くと日本人の作曲とは思わないでしょう。でも私にはちょっと退屈でした。
 山田はその後も妙なのを作曲していまして、長唄交響曲第3番『鶴亀』という曲がある。これは長唄『鶴亀』をそっくりそのまま演奏して、そこに管弦楽がついていくという、これ、コラボとでも言うのでしょうか。管弦楽はスコアがありますが、長唄は口頭伝承のものを忠実にやろうとするものですから、これは大変なことなんですよ。
 もっとも邦楽とオーケストラはわりと合うんですね。武満徹さんが後に琵琶と尺八と管弦楽のいわば協奏曲ともいえる『ノヴェンバー・ステップス』を作曲し、これを小澤征爾さんがニューヨーク・フィルを振ってのカーネギーホールでの初演(1967年)が行なわれたところ大成功し、武満徹という名がこの曲から世界的奈ものになったわけですが、これも邦楽とオーケストラが反発しあいながらもピタリと合う不思議な効果を聴かせるんです。
 でも実を言うと、こんなことは結構、1950年代後半から60年にかけて東映の時代劇がやっていました。旗本退屈男が悪の巣食う屋敷に乗り込むと、大勢の女性たちが三味線、琴のオーケストラをBGMに華麗なる踊りを披露している。そこに管弦楽がかぶさってきて。『ノヴェンバー・ステップス』のような洗礼さも鋭さも深さもない、どがちゃが音楽ですけど、結構面白いし実験作もある。美空ひばりや島倉千代子などのヒット曲を数多く手がけた万城目正、アジア民謡の音階をクラシック音楽に取り入れた作曲家深井史郎、童謡や邦楽の作品を手がけた富永三郎、といった人たちがそういうチャンバラ時代劇の中で、いろいろな試みをしているんです。決して陽の目を見ない作業だったと思いますけど。サントラも出ないでしょうなあ。
 で、この頃、京都の撮影所で東映や松竹のチャンバラ映画や大映の文芸作の伴奏音楽を演奏していたのは当時、創設したての大阪フィルの楽団員たちで、朝比奈隆さんも指揮をとっていたとか。『羅生門』のボレロの部分は「私が指揮した」なんて朝比奈さんはある対談でおっしゃっていました。映画音楽としてもあれは秀逸でしたもんね。平安時代の物語にボレロが使われて。これが絶妙に合った!

つづく


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kaidanyawa at 20:18|PermalinkComments(0)

2012年12月11日

常識の創生

 中山市朗です。

 中村勘三郎さんが亡くなったというニュースは皆さん、ご覧になられたことでしょう。
 57歳、さんざん言い尽くされた言葉ですが、早すぎる、惜しい、としか言葉が出ません。歌舞伎役者というとなんだか敷居が高い、ちょっと別世界の人というイメージが私なんかあるわけですが、この勘三郎という人は、いい意味でそれを取っ払らった人ですね。
 この人の舞台は、テレビでは拝見しておりましたが生で、というのがまだ無かった。
 いつかは見に行こうとしていたのですが、とうとうかなわず。
 ほんま残念です。

 勘三郎さんは「歌舞伎は江戸時代の若者が最先端のおしゃれをして見に行ったものなんだ」とおっしゃっていて、若者の街、渋谷で「コクーン歌舞伎」をおやりになって。
 そういえば落語を聞いていると、丁稚が芝居の真似をしたり、お店一同が芝居馬鹿、みたいは噺がたくさんあることから、江戸時代の都会人の憧れは歌舞伎であったことが伺えます。
 相撲と歌舞伎は江戸と上方の華でしたんやな。

 また勘三郎さんは立川談志師匠の「イリュージョン落語」に刺激を受けていたと言います。イリュージョン落語というのは、ちょっと難しいんですけど、人間というものはどうしても常識の中で暮らしているわけですが、非常識とか不条理という部分は各人持っていますよねえ。それを落語の中で解放してやろうと。つまりシュールな世界。リアリズム落語とは違うんですね。談志師匠は「落語は人間の業の肯定だ」と言っていましたから、この不条理、非常識という業を肯定し、デフォルメすることを「イリュージョン」と言ったのだと思うんですけど。
 ピカソですな。

 その落語は座布団一枚の上に正座した噺家が一人芝居することによって成り立っています。落語の所作は歌舞伎から来たんです。

 ちょっと前、桂三枝改め六代文枝さんがあるテレビ番組で、「落語は一人の落語家が右向いて話しかけ、左を向いて答えることで成り立つ芸」というようなことをおっしゃっていましたが、もっと掘り下げると、右を向いて話す所作と左を向いて話す所作の間に目線の交差があるから、会話をしているように見えるんです。
 これ、なんでもないようですが、これを考案した人はスゴいですよ。
 というのは、映画のカットとカットのつながりで、別々に撮った役者が会話をしているように見える技術は、この目線の交差によることで成り立つからです。映画用語ではイマジナリーラインと言います(詳しくは2009年6月5日の私のブログをお読みください)。イマジナリーラインを映像上で発見したのは誰なのか、ちょっと調べてみたけどわかりませんでした。初期のグリフィスはやっていません。エイゼンシュタインはやっています。いずれにせよ、1995年に映画が誕生100年というイベントが世界各地で行なわれたことから考えてみると、18世紀生まれの落語における目線の交差は、エイゼンシュタインが映画におけるモンタージュ技法を発見する遥か以前から、日本の落語家がこの手法を舞台で発見し、使用していたということになります。ただ、今のような落語になったのはいつからなのか、という疑問はあります。しかし江戸末期から明治にかけて作られた大作落語の数々は、この目線が交差した会話を中心に物語を進めるという形である以上、映画の生まれる以前から、落語の世界にはイマジナリーラインは存在していたと考えられます。

 また、クローズアップやロングショットというのも、エイゼンシュタインが効果的に使ったのが最初と言われていますが、落語ではこの手法も使われていたようです。
 「軽業」という噺は、綱渡りをしている軽業師の顔の表情(アップ)と、扇子の上に手の指を乗せて軽業師の足元を見せ、「八艘飛び」と言って無茶苦茶な動きを見せる(ロングショット)の巧みな構成からなっていますし、「桜の宮」なんて噺は「待てーっ!」「待ってたまるか」なんていう場面がありますが、これはアクション映画に使われるカットバックです。
 「三十石」という噺は、最後の部分は船頭の舟歌になるのですが、船頭の舟を漕ぐ動作をしながら舟歌を歌い、最後は声の調子を少し落として扇子を横にします。つまり扇子を三十石船と見立てた、これはロングショットですね。たいていの映画は最後ロングショットで終わるんですが、このロングショットで終わる落語は多いんです。

 歌舞伎においてもクローズアップは使われていました。いわゆる見得を切る、というもの。昭和3年(1928年)に二代目左団次を座頭としたモスクワ公演は、歌舞伎界初の海外公演でした。ソ連の映画監督セルゲイ・M・エイゼンシュタインはこのときの公演を見ています。私は大学で「映画のクローズアップを発見したエイゼンシュタインは、そのヒントを歌舞伎の見得からもらった」と教わりましたが、エイゼンシュタインが見た歌舞伎がこれが初めてというなら、その説は間違っていたことになります。1928年の時点ではもう映画はトーキーの時代に入っていましたから。しかし「歌舞伎の見得は映画におけるクローズアップと同じだ」という発言はこの時確かに言っています。エイゼンシュタインという人は、歌舞伎、文楽に造詣のある人でした。だから映画の創世記に日本の古典芸能の手法が取り入れられた可能性はあると思います。
 いずれにしても、クローズアップが映画や写真の世界で手法として開発されたのは1910年前後と思われますから、これも遥か江戸時代に日本人が演劇に使っていたということになります。

 日本の浮世絵はパリの印象派の画家たちに多大な影響を与えたと言いますし、1950年の終わり頃から始まったフランス映画におけるヌーヴェルバーグは、それまでのスタジオで撮られていたハリウッド形式だった商業映画を、印象派のように野外ロケや即興演出、自然光のみの照明、同時録音、そして何より説明的な演出法からの脱却をさせたと言われていますが、なんのことはない。日本の映画はそんなことはとっくにやっていました。
 劇映画のBGMに最初にジャズを使用したのもヌーヴェルバーグの監督と言われていますが、阪妻は戦前にそのジャズのリズムに合わせたチャンバラをしていました。
 現にヌーヴェルバーグの監督の一人であったトリュフォーは、「中平康の『狂った果実』に多大な影響を受けた」と言っています。この映画は当時パリで上映され、ゴダールやリヴェットらも見ていたんですね。
 
 なんやかんやと元気のない日本、と言われていますが、日本人の発想とセンスはこのように先見的で画期的なものです。そして世界で通用するわけです。だから日本人はもっと自信をもってやっていけばいいと思うんです。「イリュージョン落語」やないですけど、今の日本人は常識とかマニュアルを気にしすぎているように思います。だから小さくなって可能性が見えなくなる。

 中村勘三郎さんは、歌舞伎の常識をある意味壊し、面白いと思ったものはどんどん歌舞伎の中に取り入れた人でした。そして海外公演に積極的に出て成功させました。
 それは自信のなせる業ですよ。
 自信ですよ、自信。
 根拠のない、空自信はあきませんけど。


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kaidanyawa at 22:25|PermalinkComments(2)

2012年12月06日

アップル・ワイド・シャット

 中山市朗です。

 私が怪異を語る動画『幽怪案内』に配信にまたトラブルがありました。
 オフィス・イチロウのツイッターでお知らせしましたように、配信を依頼していた代理店に問題ありと判断し、契約を解除しました。
 そして新しい代理店と交渉し、契約いたしました。
 ここは以前からお付き合いのあるゲーム会社です。即、手続きを開始して配信の準備にかかります。詳細はいろいろ決まり次第お知らせいたします。
 誠にお待たせし、また疑惑を思われ、心配をおかけしました。

 第一回目の配信に関しましては、全話無料で視聴できるようにいたしまして、お詫びに代えさせていただこうと思っております。

 それと、これも長い間お待たせし、宣伝動画も配信している電子書籍『モーツァルトの血痕』ですが、「どうなっているんだ」という声、もっともです。実は私が一番それを言いたい思いです。
 実はもうとっくの昔にAppleに審査を出しておりまして承認待ちなのですが、何ヶ月経っても何も言ってこないのです。普通は1〜2週間の審査でOKかNGが出るところで、いずれにせよ結果は知らせてくるはずなのですが、いくら問い合わせても審査中の1点張りで何も言ってこないという異常事態にあります。
 なにが起こっているのでしょう?

 この書籍は普通の電子書籍とは違い、タブレット機能を最大に活かしてさまざまなアプリと連動させるものでして、だから出版社ではなくゲーム会社に開発を依頼して、Apple仕様としてシステムを作ったわけです。これは今、私が考えている次の企画に応用するためのシステムでもあるわけでして、発売が延び延びになっていたのはこのシステム作りに思った以上に時間がかかったことにありました。にしても、それがAppleの審査で止まるとは?
 あるいは内容が危険視されたのでしょうか?
 内容は下に貼り付けてある「モーツァルトの血痕」CM動画を参照のこと。

 さてさて。これは書き上げるのに2年半かかったわけですが、その大半は調べる、文献を探す、解読するというものでした。
 体としては、モーツァルトの死の謎を知っているというモーツァルトの親友シカネーダーという男が我々、現在の日本人に向かって語りかけている、という奇妙なモノです。一応小説のつもりですけど、そう思ってもらえないかも?

 でも、アプリと合わせると、オカルト大辞典ともなりそうな大作なんですが。
 
 審査する側が、この内容を問題視したのか・・・な?
 いや、それにしても問題があったら言ってくるはずなんですけど。


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kaidanyawa at 19:27|PermalinkComments(9)

2012年12月03日

明日に向かって残せ! 続き

 中山市朗です。

 今回はオタク的なことを書きます。ついていけない人はゴメンなさい。
 
 前回、デジタルデータでの文化保存について書きましたが、2、3年前でしたか、ショッキングなニュースを見たんです。
 某製作会社だか協会が在庫に困ってテレビ創世時代の貴重なCFを大量処分したというんです。その数が数千本! わあ、もったいない!
 CFはテレビ文化を知るための文化遺産です。作られた当時は誰もそんなこと思ってなかったでしょうけど。その画質、色、空気、音楽、出ているタレント、そのファッションや言葉使い、センス、コンセプト、宣伝される商品ネーミング、形、デザイン、性能など、その時代の流れ、流行を反映させた、この時代でしかできないのがTVCFです。
 ちなみに昔はテレビCMはフィルムで撮られていたので、テレビコマーシャルのことをCFと言っていました。CMとなると本来、ラジオスポットや新聞、雑誌など広告全体を指したわけです。でも処分されたらもう二度と見れない。特にテレビ創世代ともなると家庭にビデオの無い時代でしたから、なおさらのことです。

 私は、その時代のものを記録し将来へ保存する、という作業に非常に興味をもっています。今は懐かしのレア映像が、テレビ局の倉庫から掘り起こされてDVDとして売ると商売になるとメーカーはわかっていますが、25年前はそんな感覚は世間のほとんどの人は持ち合わせていませんでした。
 関西のテレビ局なんて、ビデオテープ代がもったいないということで、場組を収録したマスターテープは1年間だけ保存して、もう一度別番組をそのテープに録画する、というのが主流でした。経費の節減です。だからその頃のテレビ番組はほとんど残っていないんです。テレビドラマはフィルムで撮っていたので、これは残っています。
 SONYレーベルで以前、夢路いとし・喜味こいし師匠の漫才映像のBOXがDVDとして発売されました。この企画をした人は私のよく知っている人でして、「ダイマル・ラケットが見たいなあ。そっちはやらないの?」と聞いたら「探したんですけど、関西のテレビ局にはダイラケの映像、あんまり残っていないんです」と言っていました。
 3年ほど前、NHKのアーカイプで、島田洋之助・今喜多代と上方柳次・柳太の漫才を放送していて、それが私、初めて見る映像でしたので「こんなん残ってたんや!」と喜んでいたら、東京のNHKで収録されたものでした。東京のNHKは残しているんですよね。大阪はダメ、残ってない。かしまし娘、鳳啓助・京唄子、若井はんじ・けんじ、六代目松鶴、先代小染なんてあまり残っていない。橘ノ円都なんて私は音源でしか聞いたことがないんですが、読売テレビの倉庫に未放送の「掛け取り」が残っているらしい。

 私、そういう落語、漫才の映像ライブラリーを作りたくて、25年前、メーカーさんやテレビ局、大阪の芸能プロダクションや上方落語協会に協力要請したことがあつたんですが、「そんな古いビデオ、誰が金出して見るんや」と皆冷たい反応でした。「第一、そんなもん残ってない」と言われて、それで調べだしたんですね。そしたらほんまにない。
 ただ個人的には「それは残すべきや」という発想をもったプロデューサーもいて、読売テレビの有川さんという人は、1970年代の半ばから放送を開始した「お笑いネットワーク」はかなり放送されたものをビデオで残すことをされ、もう一人、澤田隆治という人は「てなもんや三度笠」や「花王名人劇場」のプロデューサーで、MANZAIブームを作った人と言われているんですが、この人も自分が製作した番組は処分せずに残しているんですね。
 テレビ番組以外でも近鉄劇場で昭和50年代に「上方落語ライブ100選」なんて落語会を開催して、残すというコンセプトでビデオ収録されていて、実は6代目松鶴、先代小染をはじめとして、先代春蝶、音也(枝雀の一番弟子)、明石家さんまの高座姿もあるらしい、テレビでは未放送。去年発売された「四代目林家小染」のCD、DVD-BOXに収録された映像のほとんどはこのライブ100選のものでした。
 その権利、まるまる私に譲ってくださいって、澤田隆治さんに交渉しに行ったことがあるんです。ビデオによる『上方落語大全集』というのをどうしても作りたくて。
 澤田さんもおっしゃっていました。「これに理解してくれるのはあんただけや。うちの社員は、ビデオの保存だけでも場所と経費がかかるから、もう処分しましょうと言われる」と嘆いてはりました。
 この有川、澤田という二人がいたから、まだ昭和を生きた大阪の芸人の舞台姿が映像で残ったわけです。

 やっぱり製作会社やテレビ局となると、経営とか合理化とか費用対効果という考えから、こういうものは処分せざるを得なかったんですね。で、今残っている貴重なライブラリー映像は、そういう人たちが資材を投げ打ってでも残そうとした結果のものなんです。そういうのもデジタル化して、100年後になったら消えていた、なんてちょっと笑えないですな。

 そういえば、私の家には1999年に日本テレビで放送されていた『怖い日曜日シリーズ』の全話のビデオがありますが、これは製作会社が処分に困って、私のところへ送ってきたものなんです。
「中山さんだったら保存してくれるだろう」ということだったそうで。
 この番組は『新耳袋』が原作で、ジャニーズJrがナビゲーターとして出演してドラマにも出演したというもので、ジャニーズJrが出演したものは2次使用しないというジャニーズ事務所の方針があったんです。だから製作会社も保存していても商売にならないと判断したんでしょうね。嵐というグループはこの番組の延長上できたものなんです、ということらしいんですが・・・?
 ということは、貴重な映像を私が持っているってこと?

 貴重といえば、1985年の黒澤明監督『乱』の製作現場の100時間以上の映像記録。これも黒澤時代劇がどうやって製作されるのかを記録保存し、後世に伝えるべきだと持って、私がヘラルドと黒澤プロに何度も通って実現させたものです。
 当時一緒に仕事をしていて、VEをやってくれていた河村くんがちゃんと当時撮影されたものをデジタル化して持ってくれています。いずれこの記録は、世に出さねばと思っています。黒澤監督が生きていらっしゃれば、納得していただける形で。



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kaidanyawa at 23:11|PermalinkComments(6)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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