2013年01月

2013年01月31日

ケマリンに逢いたい

 中山市朗です。

 槻の木の広場につながる石敷き跡が発見されたというニュースが流れました。
 ちょつと興味があったので、産経ニュースより抜粋します。

 奈良県明日香村の飛鳥寺西方跡で、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかり、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。645年に乙巳(いっし)の変(大化の改新)を起こした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が出会ったとされる「槻(つき)の木の広場」のすぐ西で、橿考研は「広場の景観を復元する重要な資料になる」としている。

 槻という木は古代の朝廷において大変に神聖視されたんです。ですからその下で契約が交わされたり、宴会が行なわれたりしたわけですが、飛鳥の槻の木の広場では、飛鳥時代に蹴鞠の大会が行なわれていたそうで・・・。今で言うサッカーのスタジアム?
 『日本書紀』皇極天皇3年(645)の条には、中大兄が法興寺の槻の木の下で、蹴鞠の催しに加わっていると、蹴った瞬間、皮靴が脱げ落ちたのを鎌足が拾って両手に捧げ進みひざまずくと、中大兄もひざまずいてうやうやしく受け取られた、と記しています。
 ここから二人は親しく語り合う仲になり、大事を謀ったといいます。
 大化の改新です。
 蘇我氏を討ち、以後朝廷の実権は藤原氏に移るわけです。

 この蹴鞠というのは、当時大変に流行ったらしいんですね。蹴鞠の選手のことを鞠足といい、名手を名足と呼んでいたそうで、人気名足もいたそうです。
 いつも辛口の清少納言も『枕草子』の中で「遊びわざは小弓、碁、様あしけれど、鞠もおかし」
 と書いています。「遊戯には弓を使ったもの、碁、みなみっともないが、蹴鞠は面白いわ」と言っているわけです。

 蹴鞠は勝敗のない競技だとされていますが、お互い鞠を落とさないようにパスをし続けるもので、落としたら渡したほうが悪いとなるんだそうです。でも負けの概念はない。 
 蹴鞠は中国から7世紀頃に渡ってきたものだとされていますが、中国の蹴鞠はまるでサッカーのようです。
 ジョン・ウー監督の『レッドクリフ』に、まるでサッカーそのもののような球技をしている場面がありましたが、あんなんほんまかいな、と調べてみたら12人編成のチームに分かれて球門に鞠を蹴り入れた数を争うという蹴鞠は、三国時代にはすでにあったようです。日本の蹴鞠はあんなに過激ではないですね。
 こんにちでも、京都の下賀茂神社では1月4日に蹴鞠始めとして平安時代の蹴鞠が再現されますが、時代は奈良から平安となっても蹴鞠の人気は衰えることなく、かえって大ブームを巻き起こします。貴族たちは練習に懸命に打ち込み、名足になることを名誉と思っていました。そして藤原成道という名足が出ます。この人の蹴り上げる鞠は人の3倍の高さがあり、また清水の舞台の欄干に靴を履いたまま飛び乗ると、その端から端までを右足でのみ蹴り上げ往復したといいます。そして蹴鞠の精霊とも出会います。なんや、わからん。
 さて、この成道は、もっと蹴鞠が上手くなりたいと思い、50回も熊野詣に出かけました。なぜ、蹴鞠上達を熊野の神に祈願したのでしょう?
 うーん・・・調べてみたけどわかりません。ただ、熊野の神紋は八咫烏(やたがらす)なんですね。3本の足を持つ鳥として描かれます。
 成道はこのもう1本の足が欲しいとでも思ったのでしょうか? それとも日向の国から東征してきたカンヤマトの軍を大和に先導し、結果、初代神武天皇となったという故事から、成就祈願の神であるという信仰があったのかもしれません。

 ところで、面白いことに日本サッカー協会のシンボルマークがこの八咫烏なんですね。
 日本サッカー協会のHPには、1931年、大日本蹴球協会旗章制定。3本足の鳥は、東京高等師範の内野台嶺(大日本蹴球協会理事)ら協会役員が発案し、彫刻家の日名子実三がデザイン化したもの、とあります。
 戦前からあのマークやったわけです。

 戦前という時代を考えると、天皇を大和に導いた聖なる鳥を、勝利に導く聖鳥と解釈して採択したことと、成道の信仰も無関係ではないでしょう。また、中村覚之助が熊野の聖地のひとつ、和歌山県那智勝浦町の出身であったことも関係していると言います。
 中村覚之助は日本で最初にサッカーの指導書を出版し、ア式蹴球部を東京高等師範学校に創設、これが日本最初のフットボールチームなんだそうです。内野台嶺は中村覚之助の東京高等師範学校での後輩だったんですね。しかも覚之助は1906年、29歳の若さで病死するのです。

 さて、この八咫烏。どうも日本の古代の謎、とりわけ天皇の謎にどうしても関わってくるんです。それと八咫烏という裏天皇の率いる「真正の神道組織」たる秘密結社が今も日本にあるという人もいますが、これは本当のことなんでしょうか・・・?


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2013年01月28日

さらば青春の拳

 中山市朗です。

 先日、塾生のTくんと久しぶりに飲み交わしました。
 塾生といっても、もうTくんはライター、プランナーとしてひとり立ちしていて、色んな人と会い、取材をして作品にしています。

 彼は先日、桜宮高校のOBの人たちと会って話をしたと言います。
 するとOBたちのほとんどが、あの暴力事件を起こしてしまった教師の擁護をしていて、悪口を言った人は一人もいなかったと言うんです。自殺者が出たことは本当に残念であるが、あの先生は非常に生徒思いの熱血先生で、生徒たちに慕われていた、と。
 ところが今回の事件。あまりに一方的な報道やバッシングにいたたまれなくなり、問題の教師を擁護する会を結成しようとするOBの動きさえあるらしいのです。そしてOBたちは言ったそうです。「自殺した子はかわいそうだけど、あの先生も同じだ」と。
 問題のバスケットボール部は、代々主将を叱られ役として作るというケースがあり、その上での熱血指導により、インターハイの常連校になることができ、また、生徒や父兄もそれを望んでいたはずだ、というのです。
 
 私はTくんから聞いただけで、このニュアンスを私がどこまで理解できているのかはわかりませんし、これがOB全員の総意であるわけでもないでしょう。
 ただ、橋下市長が桜宮高校に出向き、1時間ほど生徒に説明し、2人の生徒とも話して帰ったあと、在校生たちが「たった1時間でわかってもらえるはずがない」とか「なぜ、私たち高校生がこんな辛い目に合わなければならないのか」「明確な答えはなかった」などとメディアに向かって、その悲痛な胸のうちを語る生徒たちの、誰もが問題の教師を責めていないことに気付いたのです。

 亡くなられた生徒さんは、2、30発も殴られたと言っていたようですし、それが確かなことなら、それは確かに暴行です。許されることではありません。
 しかし、だからといってマスコミの全部が、この機をして体罰は絶対に容認すべきではない、とか、体罰は今の教育にそぐわない、という論調になびくのはいかがなものかと。
 一回コツンと叩く体罰と、今回のような暴力を一緒にして語っていいものなのかと。

 橋下市長もこの問題が発覚するまでは、ある程度の体罰は仕方がない、でないと教育はできない、という発言をしていました。私も程度の問題で、体罰は教育上必要なことではある、と思っています。
 でも今それを言うと、いかにも人命が失われているのにそれを軽視するのかとか、暴力を容認するのか、と言われかねない風潮です。テレビのニュース解説やワイドショーを見ても、出てくるコメンテーターは、自分は少なからずも体罰を受けて育ってきたと認めつつも「今はそんな時代ではない」と言う。
 誰もが同じ意見。
 中国かここは!
 なんか稲川淳二さんの『新耳袋』からのパクリ問題が露見されるや、マスコミは加害者の稲川さんの話のみ取り上げ、稲川さんの一方的見解だけを報道、被害者たる我々にはまったく取材も無かったという当時のマスコミのやり方を思い出します。
 2009年4月15日の当ブログ参照。
 
 教育とは強制だと思います。
 2012年3月14日15日の当ブログ参照。
 その強制の一手段として体罰はあって当然だと、私は思います。
 子供もバカじゃないですから、自分がやったことの重大性はわかっています。それに対してちゃんと制裁してくれる先生は、信頼したものです。
 で、ガーンと一発ゲンコツをくれる先生には、一目置いていたし、今も覚えています。
 ゲンコツもらってその先生を恨む子はいませんよ。自分が悪いと思うわけです。
 ただ、度を過ぎた先生には「あいつ卒業式のとき、見とれ」なんて恨みを買う。
 叱るための体罰と、怒りのあまりの暴力は、一線を画すべきです。

 要は節度の問題であり、教師と生徒の信頼関係であると思います。体罰は絶対ダメ、体罰があれば教師はクビ、学校も存続を危うくする、なんてことにビクビクし出したら、学校教育はますます萎縮し、先生は生徒にナメられ、本来子供の教育を論ずる場が「体罰を学校から排除する」ということで、学校側が自分たちを守るための論理とすり変わってしまったら、それこそ本末転倒でしょう。
 
 もうひとつ、世の中には言論での暴力というのもあるのです。誹謗中傷、暴言、ネットでの書き込み、これも体罰以上の精神的ダメージがあります。これは我々クリエイターは少なからず経験することです。ネットでの誹謗や反応が元で、殺人をやったのもいましたし、自殺をした人もいます。夢を断たれた人はいくらでもいます。
 こっちはほったらかしでええんかい!
 体罰を働いた教師はマスコミで叩かれ、世間で叩かれ、職を失い、告訴されるが、ネットなどでの無責任な暴力で人を苦しませる罪を犯しながら、懲りもせずにやにやしてまた次の人に正義感面して、また誹謗を書き込んで楽しんでいる、というのは、もう私の中で想像するだけで気持ち悪いのひと言です。許せん!
 
 えー、冷静になりましょう。
 ともかく、一律体罰はダメとなると、先生は言葉で生徒をわからせようとします。でも、言うことを聞かない、語気も荒く強くなる、でも聞かない、つい暴言も出る。子供が帰って親に言う。「これも暴力だ」と騒ぎ、父兄が訴え、マスコミが飛びつく・・・ということも今後あるんじゃないでしょうか。ケータイ持ってりゃ、簡単に証拠の暴言、録音できますしね。そこだけ切り取れば、先生が圧倒的な不利になります。
 そうなると、先生方はどうやって子供たちに向き合えばいいのでしょう。
 私が以前、講師をしていた専門学校も、結局、学生思いで真摯に問題と向かい合う、という講師は、周囲から誤解を受け辞めさせられ、何もしない無気力な講師は問題なしとして残る、という図式がありました。あれは学校の経営者や校長などにとっては都合のよいことですが、学生にとっては不幸なことです。
 しかしこの論調のままでは、小中高校の教師たちも、何もしないほうが無難、なにがあっても目を瞑る、ということになってしまうのではないでしょうか?

 問題の教師は、バスケットボール部の主将にした生徒を叱られ役としていたと言いますが、我々の世界でもテレビ番組の製作や映画の現場があります。
 テレビにはAD(アシスタント・ディレクター)、映画なら助監督がいて、このADなり助監督チーフは、たいてい叱られ役としてあるんです。監督も、みんなに叱ったり、暴言を吐いたりはできない。だから叱られ役を意図的に作って、何かあると彼に罵声を浴びせたり、怒鳴ったりするわけです。周りはそれで引き締まり、あ、監督怒ってる、とその意図を汲んで、監督の指示通りに動き、現場にいる全員がひとつに向かって進むわけです。チーフが現場の責任を問われるわけです。
 黒澤監督もそうでしたよ。大島渚監督もそうだったと、北野武さんも言っていました。
 建築の工事現場なんてそうでしょう。一つのミスが命に関わる。だから現場監督は口は荒くなるでしょうし、ときには鉄拳も飛ぶ。
 スポーツも、インターハイに常時出るとか、甲子園で優勝するとか、オリンピックに出るとか、プロの世界で生きていくとか、これは我々の想像を絶する大変な世界です。
 いや、異様な世界と言ってもいいでしょう。
 そこに一般の常識をもってきても、通用しないこともあるでしょう。
 学校教育で勝利優先はいかなるものか、という批判もあるようですが、それを求める子供や親もいるわけでしょう。だからそういう学校を目指す、受験する。
 その期待を一身に背負うコーチや監督も、物凄いプレッシャーなはずです。
 だから熱血指導にならざるをえない。要は子供たちがそれに耐えられるか、です。今回のような暴力は別ですよ。でもチームの結束力、勝ち続ける使命は、やはり特別な環境下で育み、訓練されるわけでしょう。
 また、何をしても体罰のまったくない環境から卒業したとき、いろんな現場や仕事場で、子供たちは耐えられるのでしょうか? また、平気で暴力的な態度や外交をやる外国に対して、対処できる能力が備わるでしょうか?
 最近はADは続かない、助監督もすぐ辞める。責任もたせた途端に潰れる、という若者への嘆きをよく耳にします。私も教え子を見ていて、確かにそういうのが多いと実感しています。
 だからと言って、私は暴力肯定、容認とは言っているわけではありません。ただ、いっせいに体罰はダメというマスコミや論調が怖いと言っているんです。もっといろんな意見があっていいんじゃないか、コメンテーターも本心を言えば、番組から干されるんじゃないかと思った発言もあるんじゃないかと思うんです。個人が言いたいことを封じることもまた暴力です。

 ちなみに私は、子供の頃はケンカで殴りあったことはありますが、それ以後、手を挙げたことは一度もありません。暴力は映画の中だけで結構。
 もちろん教え子を殴ったり叩いたことも一度もありません。
 だって、殴り返されたら怖いですやん。


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2013年01月24日

怒良犬

 中山市朗です。

 奇妙なモン、見ちゃいました。
 なんじゃこりゃ! ですわ。

 先日放送されたテレビ朝日55周年記念・黒澤明ドラマスペシャル『野良犬』。
 そうです。昭和24年(1949)年に公開された黒澤明監督の『野良犬』をテレビドラマとしてリメイクしたものです。
 黒澤明の『野良犬』は刑事ドラマの先駆けになった映画で、刑事が二人コンビとなって事件調査をするという形を、バディムービーというんですが、この形の映画も『野良犬』がはじめてなんです。

 映画の冒頭、「なに? 拳銃をとられた?」というセリフから始まり、まだ若くてギラギラしている三船敏郎が「ハッ、申し訳ありません」と頭を下げる、という始まりなんですが、当初のシナリオでは、射撃練習所で、三船演じる村上刑事が警官たちと標的を射抜いているところから始まり、続いてバスでの帰り、ひどい混雑の中で目の前にいる厚化粧の中年女に辟易しながらうだっている三船が描写され、バスが停まって乗客もろともよろけて体勢を整えて、はっとしてポケットに手をやるとコルトがない!
「と、停めてくれ!」と夢中で叫びながら乗客をかきわけ、飛び降りる。そこから、コルトをスッた男との追跡が始まるわけです。もう走る、走る。で、ある四つ角で見失うわけです。
 シナリオには、そこはこう描写してあります。

 村上、走ってくる。
 立ち止まって見回す。
 どの道にも人影はない。ガランと静まり返った炎熱の街−、どこからか聞こえてくる陽気なラジオの音。村上、荒い息を吐き、滝のよな流れる汗を拭おうともせず、呆然と立ち尽くす。

(WIPE)

 #10 扉
 警視庁 捜査第一課

 #11 同・室内
 「何、ピストルをとられた!?」
 書類を調べていた係長の中島警部がギラッと眼を光らせて、机の前に直立している村上を見上げる。
 課員たちもいっせいに村上を見る。
 村上「ハッ、申し訳ありません」
 
 つまり、編集の段階でシーン11にあったものを、冒頭に差し替えたんですね。射撃訓練の場面から入るのはストーリーの構成上、間違いではないのですが、最初に拳銃が盗まれた、というストーリーの核となるものを映像的なインパクトで見せようとしたとき、「何、拳銃をとられた!?」から始まるほうが効果的で、いきなりサスペンスが生まれる、という黒澤監督の計算なんです。で、このあと、射撃練習とバスの中の事件、そして追跡と見せながらナレーションでそのいきさつを説明し、画面はまた警視庁に戻る。
 で、盗まれた村上刑事のコルトは、戦後まもなくの闇市の中に消えていき、やがてこの拳銃による殺人事件が起こるわけです。それを村上刑事が志村喬演じる老練の刑事とともに犯人探しと、ピストルの行方を追う、という物語になっていくんです。
 殺人事件が村上のこるとから発射されたとわかる場面は、冒頭の射撃場が伏線となって、鑑識課でのやりとりが面白いんですが、ジョン・ミリアスはこのシーンから『ダーティハリー2』のプロットが生まれた、と言っていて、同じようなシーンが確かにあります。
 とまあ、ともかく戦後間もない真夏の東京で起こったという架空の事件をセミ・ドキュメンタリーの手法で描いた、ともかくギラギラした映画でした。
 モノクロの撮影なのですが、だからこそ夏の雰囲気を強烈な白と黒のコントラストで表現して、しかし戦後間もない東京の風景と人々は汚くて、活気があって。
 刑事が犯人を追って後楽園球場に入るシーンがあるんですが、巨人対南海の試合が行なわれているんですが、このとき巨人の青田昇選手に会ってファンになり、以後、黒澤監督は巨人ファンとなりました・・・って関係ないか。でも青田昇主演で映画を撮るつもりだったらしいですよ、黒澤監督。周囲に止められたらしいですけど。

 『野良犬』でした。
 それがテレビドラマとしてリメイクしたというんです。
 なんで? 今、リメイクする必要があるんかいな、と思いながら、当然たいした期待もせずに、でも録画はしていたので見てしまったわけです。
 村上刑事を演じるのは江口洋介。冒頭、やはり真夏という設定で、麻薬をやっている組織の張り込みをやっているところから始まるんですが、なんかね、ギラつく太陽を撮ったりセミ時雨が聞こえてきたり、汗を拭うようなシーンはあるんですが、シャツは洗濯したてみたいにキレイで、そこには汗もにじんでいない。もうそこからダメでした。
 人物関係も、村上の拳銃をとったのは中学の同級生だったとか、そこに一年先輩の中村獅童が現われて協力するだとか、実はこの三人には中学時代のイジメが絡んでいて、拳銃を村上から奪ったのも、そのときからのひねくれだったとか・・・なんじゃこりゃ、ですわ。刑事の村上が、バスの中で拳銃をとられた。とった犯人は遊佐という男。ということ意外は『野良犬』じゃない。
 黒澤の『野良犬』は、拳銃を盗んだ遊佐という男も、盗まれた村上も、二人とも復員兵で、一方は狂犬、一方は猟犬という野良犬となっていた、という意味での『野良犬』だったんですけど、ここを中学のイジメにしちゃったところが、なんか同窓会を見せられているみたいで、私には、なんじゃこりゃ、だったわけです。
 野良犬、というほどのバーバリズムも、刑事ドラマとしてのハードボイルドさも、アクションとしてのスタイリッシュさも、オリジナルの『野良犬』のエネルギッシュでスリリングな展開も、微塵もないドラマでした。
 ドラマ関係者は「リメイクというより新作」なんて言っているようですが、だったら黒澤明ドラマスペシャルというのは違うよね。

 黒澤明という冠がなければ、まあ「『野良犬』やん!」とツッコミながら楽しめたのかもしれませんが。でも黒澤明という監督の名前は知っているけど、という人が今回の『野良犬』を見ても、きっと「ふーん、こんなもんか」で終わってしまうのが恐ろしい。
 
 リメイクするんだったら、いっぺん「おお、黒澤明の映画、見てみたくなったなあ」と思わせるモンを作らんとあかん。
 『荒野の七人』と『荒野の用心棒』はアメリカとイタリアで製作されたリメイクでしたが面白かったですやん。あれは余計なことをやっていないから。
 つまり失敗の元は、みな、余計なことをやっちゃっているからなんですね。

 現代を舞台に、とか、テーマとメッセージが、とか。黒澤映画のリメイクをするにあたっては、そのテーマとメッセージは、基本的には黒澤監督の哲学、精神を継承すべきであり、それができない、違う、というのならリメイクをすることはやめていただきたいと思います。

 以下の二作品もぶった斬っています。読んでいない方、私の怒りを聞いてください。

 リメイク版『椿三十郎』→2008年11月21日より、3回に分けて掲載。
 テレビドラマ版『悪い奴ほどよく眠る』→2010年3月10日より2回に分けて掲載。
  


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2013年01月20日

真・レイ・ライン その2

 中山市朗です。

 日本の国は、昔は瑞穂の国と言いました。瑞穂とは稲穂のことなんですね。
『古事記』では我が国のことを「豊葦原千五白秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)」と表記しています。
 葦というのも稲科の植物で、ともかく稲が豊かな国というわけです。
 我が国での稲作のはじまりは、なんと3000年前といいますから、もう生粋の農業国です。当然、国の支配者はこの農業を支配せねばなりません。
 なぜなら国の支配者がやるべきことは、徴税です。徴税するには、時期、予算立て、国家運営の方向性、そういうことが必要です。それがこの農作物の収穫から成り立つわけで、そうなると当然、暦が無くてはならないことになります。また農民たちも、ただ漠然と種を蒔き、漠然と収穫をしていたというのでしょうか? それでは農作物は壊滅するでしょう。私は遥か紀元前より、日本の独特の暦は存在していなければならない。そう思うわけです。これは文献主義の歴史学とは違います。農業という人が生活する基盤と、それを支配する王がいる、ということを考えるわけです。
 徴税なくて国はありません。
 国があれば王がいて、宮中での祭祀や行事が執り行なわれるはずです。
 暦が無くては、いつ徴税して、なんの祭祀をして、行事はどういう日程で行なわれるというのでしょう? 暦が無いということは、日程が無いということですから。
 少なくとも卑弥呼(私は日巫女の当て字だと思います)という支配者が3世紀にはいたわけですから、邪馬台国にも国家行事もあって、徴税もしたでしょう。
 暦がなくては、それが成り立たないんです。
 
 ということは、大陸から来る前から暦はあったと考えるべきでしょう。
 それは中国の道教のロジックによるものとは当然違い、もう少し原始的なものであったのかもしれません。その暦を作る装置が、レイラインに並ぶ巨石群であり、後になってその上に建てられたのが、レイラインに並ぶ社寺となったと思うわけです。

 それはレイラインは太陽の運行に関わっているからです。
 日本の大抵のレイラインは、東から西へと伸びているんですね。あるいはそのラインが東北東や東南東にズレていたりしているんです。

 春になると、太陽は真東から昇って真西へ落ちます。春分です。
 夏になると、太陽は勢力を増し日照時間がピークになるとき、東北東30度から出て、西北西30度に沈みます。夏至です。
 ここから太陽の力は衰え、再び真東から上って南西へ沈みます。秋分です。
 そして太陽が一番衰え、日照時間がもっとも短くなる時、東南東30度から出て西南西30度に沈みます。冬至です。
 この冬至から夏至に至る太陽の運行を測量すると、少なくとも四季の起点となるものはわかるわけで、そこから種つけと収穫の時期を知り、それに合わせて豊饒の祭祀や四季の行事が行なうことができるわけです。何よりその太陽こそが、神であり、天皇にとっては祖神となるわけですから、なおさらでしょう。
 その測量器が、山の上や聖地に置かれた巨石群であり、人々はそこから昇る太陽を見て時期を知り、農業に携わったのです。それが地図上でレイラインを形成することになるのでしょう。
 ネトラジで例に出ている太陽の道の発見者、小川氏もこのレイラインは春分、秋分の日の出、日没ラインであると指摘しているのは、おそらく、そういうことです。
 レイラインは、ごく初歩的な天文地理技術の痕跡であったと言っていいでしょう。

 その巨石のある場所に社が建てられます。社という建築物が聖域に建てられるようになったのは5世紀後半から6世紀ごろからでしょう。ですから古社の神体は巨石、つまり磐座なんですね。
 各地の磐座は、各地の豪族ないしは王が支配した神(太陽)の降りる場所でしたが、大和朝廷がその勢力を拡大するにつれ、磐座のある場所に神社を建てるわけです。支配したという証です。そしてその出入り口に鳥居が建てられました。
 日本に現存している最古の鳥居は山形県山形市の元木の鳥居で、平安時代のものですが、この鳥居は、春分、秋分の日には鳥居の中央から太陽が昇るといいます。
 四天王寺の西の鳥居がおそらく日本で最初に造られた鳥居であると私は思いますが、この鳥居は、彼岸の日に西に沈む太陽を見るもので、日想観にもとづいて発生したものであると四天王寺は言っています。日想観とは「西に沈む太陽を見て、極楽浄土を見る修行」であるわけですが、私は違うと思うのです。あれは東の生駒山から昇り、鳥居の真ん中へと至る太陽を見るためのものです。今は四天王寺の伽藍の向こうはビルになってしまって、生駒山は見えないですけど。
 このように、春分、秋分の太陽の位置を計算して、これら造られた聖域に、神社が建てられたわけです。そして磐座はもっとも古い神道の形態です。

 初期において、天皇の祭祀を司っていたのは物部氏でした。物部の祖神は饒早日命と言って生駒山に降臨したと言います。ニギハヤヒノミコトと読みます。
 饒とは豊饒、肥饒の饒。つまり農作物のこと。
 早は、太陽の運行。
 日は、太陽を指します。

 太陽の運行が豊饒をもたらす。つまりこれ、レイラインの概念が古人に存在していたことを示す名前だと思うのです。四天王寺の鳥居は、実にこの神が降り立った生駒山を向いているわけです。
 ただ問題があります。饒早日命とはいつ命名されたのか、ということです。
 それは・・・やめときます。長くなりそうなんで。



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2013年01月18日

真・レイ・ライン その1

 中山市朗です。

 今回の作劇ネトラジでは「レイライン」についてお話しています。
 
 ちょっとネトラジで言い切れなかったことを書きます。

 オカルトに興味のある方なら、このレイラインという名と、日本の古墳、神社などにも法則性があって、やはり一直線の線の上に乗る、つまりレイラインが存在する、という事象のいくつかはご存知だと思います。ただ、これが考古学とか歴史学となるとまったく相手にされないわけでして、古代文字(ペトログラフ)同様、もっぱらアマチュアの研究家によって発見、提唱されているというのが現実です。
 イギリスのレイラインの事情については、私は行ったことがないのでよくわかりませんが、日本のレイラインはおそらく古代人の知恵と信仰により、計算してひいたラインであろうと私は思っています。
 その日本のレイラインにはどんなものがあるのかは、まあネトラジを聞いていただくとして。

 では、レイラインとは何かというと、太陽信仰の証なんですね。
 そして暦を読む装置でもあった。

 ちょっと私、この暦について考察しているんです。
 なんか知りたくってね。いつからこの暦は日本にあったのだろうと。

 暦、カレンダーですね。我々は今何の苦労もなく、今は何年の何月何日で、何時何分まで知ることができます。でも昔はこのような暦が無かったというんです。
 不便なこってす。
 しかし、時間の流れというものに単位をつけて計るというのは、考えたら物凄いことですよね。少なくとも長い年月の星や太陽の運行をデータとして蓄積しなければならないし、それをどういう数字で、どうカウントしていくのかも考案しなければならない。
 この暦の技術が精密なものとして編み出されたのは、古代エジプトにおいてです。
 一時間、一日、一週間、一ヶ月、一季、一年、こういうものは古代エジプトで編み出されたんです。

 では、日本にこの暦ができたのはいつからなのでしょうか?
 暦の歴史を調べるのに、文献をあたれば容易にわかります。
 
 暦が日本に入ってきたのは『日本書紀』によると、継体天皇七年(512)に、五経博士が来朝したとあり、この五経の中に易があったんです。
 易はト筮のことで、占学ですね。その基礎にあるのが陰陽二種の元素の相生(相性)と相克(対立)により森羅万象を読み解くという、陰陽道のこれは基礎なわけです。
 そして欽明天皇十五年(554)に朝鮮の百済の国から易博士、暦博士らが来朝、推古天皇十年(602)にも百済から観勅という僧が来朝して、天皇に暦、地理天文、遁甲法術を伝えたとあります。
 日本の暦は、このとき導入されたというわけです。
 暦が導入されたといったも、これは中国のものですから、やはり独自の暦を作る必要が出てくるわけです。しかもそれは正確ものでなければならない。そのためには天文観測をする天文台を作る必要が出てくる。日本初の天文台は天武天皇四年(675)のことらしく、『日本書紀』には「春、始めて占星台を興つ」と記されます。陰陽師というのは、この星を読み、未来を占うものだとされていますが、実は星を読んで、暦を作ることこそ重要な職務だったわけです。
 ということは、日本に暦がもたらされたのは4〜5世紀であるということになります。ある説によると、聖徳太子の時代、推古天皇のとき、暦が正式に採用されたと言います。

 では、それ以前に暦は本当になかったのかというと、それは中国で3世紀末に書かれた『魏志倭人伝』にはこうあります。
「その俗は、正歳四時を知らず、ただ春耕秋収して年紀とする」とあり、つまりは我々の祖先は3世紀には暦を知らなかったということになるわけです。

 結論は出ました。暦は我が国において、4〜5世紀に大陸から持ち込まれた。
 推古天皇の時代に朝廷により採用された。
 それ以前に暦は無かった。

 でもちょっと待てよ、と。私はこれは納得いかないわけです。
 なぜなら、日本は太古より農業の国だったわけです。
 実は、日本のレイラインは、この農業と暦に密接な関係があるのです。

 つづく


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2013年01月17日

さよなら、さよなら大島渚

 中山市朗です。

 映画監督の大島渚さんがお亡くなりになりました。
 
 それで思い出したのが私の20代、まだ映画監督を夢見ていた頃のことです。
 当時住んでいた淀川区の安アパートに帰ったら、留守番電話が。
「誰やろ」と再生すると、
「大島です。中山くん、キミのことは聞いているよ、キミは映画を撮るべきだよ」
 えっ? 大島渚監督の声じゃないか!
「ばかやろう! エロと芸術の違いがわからないのか! ばかやろう!」
 ここで気付いた。
 キッチュさんからのイタズラ電話でした。よお似とる。

 大島渚監督の映画は『愛と希望の街』『青春残酷物語』『日本の夜と霧』『銃死刑』『新宿泥棒日記』『少年』『儀式』『夏の妹』・・・。みな学生の頃に見ました。
 正直このときは難しかった、というのが本当のところ。
 大島映画を見ると、とてもハッピーな気分にはならない。
 異常な性愛、演者の口から発せられる小難しい理屈、政治的発言、反体制、脈絡のない物語、映画の中での論争といったものに、黒澤やヒッチコック、ジョン・フォードに夢中だった私は反感をもっていたということにもあったと思います。
 大島監督は「溝口健二も黒澤明も認めない、尊敬する監督などいない。パゾリーニもフェリーニもインチキだ」とも発言していて、「闘っているのは大島渚だけだ」ともあるインタビューで発言していたかと思うと「監督ほどいい商売はない」と言っていたことにも若かった私は反発していたのだと思います。
 それでも大島作品は上映されるたびに見に行ったのは、その、何かそれを冷めた目で見るカメラ、無常感を思わせる世界観に得も知れない魅力を感じていたからなんですね。しかしどうも私は、同性愛、男色というテーマにはついぞ共感がもてず、『戦メリ』も、新撰組が一人の美青年によって統制が取れなくなるという遺作『御法度』もとうとう共感できなかったものです。これは生理的のなのですな。
 しかしその後、日本は戦国時代から男色はかなり頻繁にあったことと、新撰組にもこの問題は実際にあったらしい(映画はフィクションですけど)とわかり、今見れば、また違う感想になるかなと思うわけです。
 また、晩年の黒澤明にインタビューする姿などは、明らかに黒澤へのリスペクトがあり、気付きもしたわけです。反骨精神の塊みたいな人が「黒澤映画が好きだ」というのも、なんか違いますもんね。大島渚は大島渚という社会現象でなければならなかったことを、彼自身が思っていたんでしょう。それが『戦メリ』あたりから吹っ切れたようで。

 実は大島作品はBSなどで放映するたびに全部録画してあるので、これを機会に系統だてて見直してみようかなと思っています。当時はわからなかった発見が次々と出てくるような気がします。

 だいぶ前ですが、大島作品の助監督をやっていたという人と話す機会があり、その人が大島監督からこんなことを言われたという言葉が印象に残っています。
「ベンチに男と女が座っているのを見て、この二人がどういう関係か、どこまで行ってるかが一見してわからないようじゃ、監督なんかにはなれない」
「男が女を美しく撮ることはできる。その女に惚れればいいわけだから。でも男を美しく撮ることもできなきゃ。監督はある意味バイ・セクシャルでないとね」

 これ、小説家を目指す人にもある意味参考になる言葉かも。 
 


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2013年01月14日

1/10の作劇ゼミ

 中山市朗です。

 先週の2013年最初の塾の授業の報告です。
 塾生たちに今年の抱負を語ってもらいました。

 某新人コンテストに応募するために、期限内に書き上げたい。
 滞っている小説の執筆をなんとかしたい。
 マンガを描くためのペンの練習をしたい。
 さぼり癖を直して目標を定め、何とか一冊の本を出したい。
 何か面白いことを、小説に限らずいろいろな分野で探してみたい。
 創作落語に挑戦してみたい。
 ひとつのテーマを掘り下げて、作品づくりに活かしてみたい。
 などなどが出ました。
 
 うーん・・・。では、夢でいいから10年後、20年後の自分はどうなっていたいか、何をしたいか、それを語ってもらいました。
 
 勤めながら作家を目指しているので両立させたい。
 好きなことを生業にしていたい。
 小説家になっている。
 文章を書いてお金がもらえるようになりたい。
 夢でもいいのなら、小さな喫茶店を出してみたい。あるいはフランスに住みたいなんていう人もいました。
 でも中には「夢」と聞かれて、うーん、と考え込んじゃう塾生もいました。

 目標をもってその夢を語る、というのはクリエイターになるには必要なことです。
 でも「小説家になりたい」とか「好きなことで食っていきたい」なんて言うと普通は「何を夢みたいなことを」と言われるか、「働けよ」なんて説教されたりします。
 まあ、普通はそうでしょうね。
 みんな子供や学生の頃はそれぞれ夢があり、次第にその夢は叶わぬものだと悟って、諦めていくわけです。大抵の夢はかなわないものですから。
 だから夢を語ることをタブーとしたり、語らないことを良しとする風潮もあるようです。
 私は30歳で作家デビューをして、放送作家にもなって、そこでようやく食えるようになったわけですが、後で聞くと、就職もせずに夢ばっかり追っている私を見て、家族や親類で会議があって、「息子の教育に失敗した」なんて親父は言っていたそうです。
 恐ろしい話です。

 私の出た大学は芸術系で、特に映像科なんて教職の免許が取れるわけでもなく、クリエイターになるしかなかったんです。当時は「映画撮ってました」とか「アニメを作ってました」と言っても就活が有利になるものではなかったですし。
 ですから脚本家や映画監督、アニメのクリエイター、マンガ家、CMプランナー、役者志望といろいろいましたが、ほとんどが30歳までに挫折していきました。自ら挫折したのもいれば、周囲の目が耐えられなくてと言うのもいました。経済的な苦労は最初から覚悟はしていても、精神的に参ってしまった人も多かったようです。
 私が30歳まで折れずに好きなことをやり続けられたのは、夢を語り合う仲間がいたことに尽きます。そして夢を語り聞くことは、私には楽しくてしょうがなかったんですけどねえ。腹は空かせていましたが、それがある意味栄養、滋養でした。
 その仲間には『大映テレビの研究』でブレイクした頃の竹内義和さんや、キッチュ(今の松尾貴史)さん、売れる前の北野誠さん、作家で当時はSF雑誌『FANGORIA』の日本語版を出されていた石田一さんらもいました。後に出版社の編集さんになった人も何人かいました。
 で、みんなで夢を語り合ったんです。こんなことやりたい、あんなことやりたい。
 これはね、精神衛生上非常によろしい。モチベーションも上がるし、言ったことを実現しなければ、という空気も作れる。そして中には「こうやって夢を実現した」という人もいて、その方法論やチャンスの掴み方、なんて聞かせてもらえるわけです。人脈の大切さをこのときに聞いたわけですが、正直20代の私にはまだピンときていなかったのかも。
 そして何より実際にちょっとした仕事がもらえたり、竹内さんなどは『フジオ・キッチュ』や『サイキック青年団』へと結びつくわけです。私も原稿を依頼されて最初のギャラをもらったのは、この夢を語り合う場からでしたし、映画の助監督の仕事もここから来たわけです。日本で最初の特撮解読本『大特撮』を企画、執筆した若きメンバーもここにいました。熱い情熱とロジックがあれば、なんでも可能であると、彼らによって学びました。

 無論、夢ばかり語って実践が伴わない、というのは困り者ですが、やっぱりそういう場にいる人のほうが楽しそうで、仕事が回っていたように思うんです。
 私が黒澤明監督の下へ、メイキングビデオの企画を持ち込むといったときも、周囲からは相当バカにされ、「絶対無理」とか「勝新がビデオを現場に持ち込んで『影武者』を降ろされた事件を知らんのか」なんて、こちらは百も承知のことを聞かされ、説教されました。そんな中、ここの人たちだけは真剣に話を聞いてくれて、応援してくれて、アドバイスもくれたわけです。これは心の支えになりました。

 そしてプロになっても、夢を語り合える人たちが常に周囲にいました。
 この場合、夢を語るというのは、プレゼンテーションでもあるわけです。夢をしっかりとイメージして、どうやって叶えるのかの計画、手段も提示するわけです。
 クリエイターたちはみんな、夢を食って生きています。ですからそこを共鳴し、協力してくれる人もいます。そこから壮大なプロジェクトが動き出すことだってあります。
 私は大学時代の仲間、そして専門学校以来の教え子を見ていて思ったのは、人が夢を諦めるのは決してテクニック上の問題ではないということ。テクニックは充分プロ
でも通用する若者はいました。おそらく諦めた人たちの周囲に夢を叶えた人がいない(いてもその人たちとの交流がなかったか、気が付かなかった)か、応援し協力してくれる人がいなかった(いても拒否したか、勝手に閉じこもってしまった)かの、どちらかであったかと思われます。これは精神的に病むパターンにあります。

 今塾生たちもひとり立ちして、好きな道を歩みだしている者も何人かいますが、彼らは「やっぱり夢を語り合ってできたことのつながりから、仕事はくる」と言っています。
 ですから大いに夢は語ってもらいたいわけです。そして私もそんな夢に協力できることがあれば協力したいし、私の夢と合致するもの、あるいは方向性が似ているものがあれば、共に進みたいと思っているんです。

 塾はそのために作ったわけです。クリエイター志望の若者たちは、夢を語り合う場が必要なんです。夢があって、それを実践するためのテクニックが身に付くわけです。
 授業後に行なっている飲み会は、そういう場にしたいといつも言っているのですが、なかなかみんな夢を語らないんですね。
 で、今回、塾生たちの夢を聞いてみたわけです。そしたらやっぱり、私にはもうひとつピンと来なかった。
 もちろん各人の夢ですから、私が口を挟むことでもないわけですが、その夢が聞いていて他人がワクワクするものではない。企画やロジックが伴ったものでもない。「キミの夢は?」と聞かれて無理やり夢をひねり出した、という人もいるみたいです。でも、そんなんでクリエイターになれるの? という疑問が私には湧くわけです。

 クリエイターの企画や仕事は、わくわくする夢から始まります。そしてその夢を叶えるためにクライアントやスポンサー、あるいは編集さんに伝えるわけです。仕事はそこから始まります。
 そこは飲み屋で一般の人がただ単に叶わぬ夢を語るのとは違うわけです。
 読者や観客はそのクリエイターたちによって具現化された夢に、対価を払うわけです。その具現化する道程が、創作なのです。だからそこに信じられないような常軌を逸したエネルギーが注がれ、新しい価値観や世界が構築され、プロとしての作品が生まれるわけです。
 夢なくて創作無しです。
 ですから、夢が語れなくて、何を読者や観客に伝えられるのか、と、今回は塾生たちに問いかけたかったわけです。

 塾生諸君、もっと夢をもたなきゃ。
「そんなん叶うわけない」と言われてもいいやん。叶わないことをやるのが、クリエイターの本文。でなきゃ、すでに誰かがやったことをなぞるしかない。
 そんなんツマらん。
 
 今年は互いに、大いなる夢を語り合えることを望みます。


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2013年01月10日

カメラ3 邪霊覚醒

 中山市朗です。

 オフィスイチロウのホームページのデザインがリニューアルされました。
 スタッフが手探り手探りでやってくれています。
 2013年は色々とコンテンツを増やしていくつもりです。有料もあれば無料もあります。こんなのあれば、というリクエストやご意見いただければありがたいです。
 ただしテレビ番組のように製作費がふんだんにあるわけではない、場面によってはスタッフや私が手弁当で作っているものもあることをご了承ください。

 さて、心霊写真というものが本当に存在しているのかどうかは、私にはなんとも言えませんが、不思議な写真もいろいろとオフィス宛に送られてきています。郵便ポストに入れられていたこともあります。
 それらの中には、プロのカメラマンに見てもらっても解読不明、意味不明のものも存在しています。
 そういうものも、徐々にホームページにアップしていこうかな、と思います。

 ところで今月6日付のホームページ内のブログ、「魔怪見聞録」に妙な写真が貼り付けてあります。ちょっと解説してみたいと思います。
sinrei
 これがその写真です(クリックで拡大)。
 これは今はライターをしている元教え子のTくんが、学生の頃に私に預けた写真です。
 10年ほど前のことでしょうか。
 元はデジカメで撮ったもので、ファイルには「貞子・危険」とマジックで表記されていて、「先生、これ返さなくていいです。なんかこれ持っているの怖いんで」と言って、正解にはくれた、というか、私に処分を頼んだというか・・・。

 撮影場所は奈良県の有名な古墳だそうです。時間は昼間でよく晴れていたそうです。
 Tくんはその古墳を何気にカメラに収めたのですが、あれ、とすぐに勘付いた。
 まず白い霧か雲のようなものが写り込んでいますが、そんなものは目の前にない。
 さっき書いたように、よく晴れて見通しもいい。じゃ、なんで?
 そして左端に、わかりますかねえ、
 青色の着物の上に灰色の羽織か留袖のようなものを着ている女性の後ろ姿があります。それも首を吊っている。
 目の前にはそんなものはないのに、デジカメにはそれが写っている。
 で、Tくんはゾッとしてその写真をファイルに起こして封印。私に預けたという次第です。
 画面ではわかりにくいかもしれませんが、ファイルをパソコン画面で見てみると、はっきりと和服姿の女性があって、白い足袋も確認できます。明らかに首吊りです。ただし首から上がはっきりとしない・・・。
 で、覚えていらっしゃる方もおられるかもしれません。
 当時、ロフトプラス・ワンの「新耳袋トーク」で公開したんです。大写しにして。
 ところがこのとき、楽屋から悲鳴が上がったんです。一体何が起こったのかというと、スタッフがパソコンの解像度を上げていたらしいんですが、そしたらぶら下がっている女が瞬間、中年の男になった。作業服の男。そして同じ首を吊っているわけですが、青い着物の部分が長靴に変わってそのつま先がこっちを向いている。つまり正面を向いて首を吊っている男の姿となったわけです。それで楽屋にいた連中が思わず悲鳴を上げたそうなんですね。
 このとき、前に座っていたお客さんから、こんな指摘を受けました。

「写真の真ん中に測量棒が刺さっています。いかにぶら下がっている人物が遠近法で大きく見えているといっても、測量棒と比較すると、あれは異様に大きな人物であろうと考えられます」と。
 指摘してくれた人は土木関係者なのだそうです。

 オリジナルのファイル?
 預けたままなんですよ、元相方に・・・。

 このように奇妙な写真、動画、オフィスイチロウまでお寄せください。
 祟り? 私に預ければ多分大丈夫! 



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kaidanyawa at 20:17|PermalinkComments(9)

2013年01月09日

空海大戦略

 中山市朗です。

 ブログの更新に間が空いてしまいました。

 実は正月明け早々から秦氏についての原稿を書いていて、壁に当たってしまい、しばらくその研究に没頭していたんです。気が付いたらもう9日。

 秦氏。古代日本における謎の氏族で、3世紀ごろに大陸から大挙渡来してきたとされています。
 少しでも詳しい方なら、この氏族は日本の古代史や天皇の出自などに様々な謎を投げかけ、古代イスラエル人の末裔ではないかという説もあることをご存知だと思います。
 私は最近、京都太秦にある三本鳥居は、そのイスラエルだのキリスト教だのというのは違うという結論になりました。それは・・・。
 まあ、やめときます。いずれ書籍にします。今書いています。

 私は年に2、3度は京都の太秦に行っておりまして、秦氏が創設したという神社にもいろいろ調査をかけているわけでして、まあ、だいたいは分かったつもりで執筆をしていたわけですが、いざ原稿を起こすとなると、これが困難を極めることになるわけです。
 一筋縄ではいかないものです。

 秦氏は神道に深く関わるわけですが、どうもこの正体を見極めるキーは空海にあるようなんですね。そう、平安時代初期の僧侶、真言宗の開祖、弘法大師です。
 『新耳袋』で取り上げた半牛半人の怪物くだんは、場所的に兵庫県西宮市の神呪寺と鷲林寺に関わり、これはどうやら牛の犠牲祭の名残ではないかというのが私の考えで、この2つの寺は空海と真井(まない)御前という籠神社出身の巫女が関係してくるわけです。
 この二人が牛の犠牲を伴う神事をしていた張本人ではないか、というこの私の説は『怪』や『幻想文学』などで、すでに書いたことではありますが、しかし空海は仏教の僧ではないのか? なんでそれが神事を? しかも仏教の忌み嫌う動物犠牲? という問題が立ちはだかるわけです。それより、こんなことを記した文献なんてないですしね。
 文献にないのは歴史学にならんわけです。

 しかしそれを言うなら、神呪寺の秘仏本尊で重要文化財の指定を受けている如意観音像は、真井御前の御姿を模して空海が彫ったとされるのですが、この御前も神道の巫女であり、しかも元伊勢とされ、現在伊勢外宮に祀られる豊受大神がそもそも最初に降臨したという真名井(現在籠神社の奥の院・真名井神社となっている)に関係している・・・となると、神呪寺、鷲林寺の正体そのものが怪しいと考えるべきなのでしょう。
 また、西宮市と牛のただならぬ関係は、実はまだまだあるのです。

 私は『捜聖記』にて、聖徳太子の母方の血筋は丹後半島の海部(あまべ)氏に行くことを示唆しましたが、籠神社こそはその海部氏の本家がずっと神代の時代より祝部として奉祭してきた神社で、ここに存在する海部氏系図によれば、海部氏は物部氏の祖となる、というわけです。
 で、空海の母方は阿刀(あとう)氏で、阿刀氏はもともと今の大阪府八尾を本拠地とした氏族なんですね。八尾市は物部氏の本拠地でもあり、跡(あと)部という地名が残っていますがそこに阿刀氏の住居郡があったらしいのです。阿刀氏は『新撰姓氏録』には、「饒早日命之後也」とあり、物部であることを記しています。
 また、近くには聖徳太子の母・穴穂部間人が生まれ育ったという場所があり、今は穴太(あのう)神社になっています。
 物部は本拠地出身の聖徳太子と空海の母の血統。
 私はここが気になってならないわけです。

 思うに空海という名前。これは空海自身が自分でつけた名前ではありますが、これは自らが海部の出であることを示したのではないかと思うわけです。
 海部氏とは、「海(あま)である天(あま)である。つまり海と空の間、遥か水平線からやってきた渡来人であるところから海部と自らを称した」と籠神社の宮司さんからしかと聞いたことがありますが、まさに空海という名がそれと同じなのです。
 そして空海の幼名な真魚。これは「まお」とも「まな」とも読むわけです。
 まなは真井のまな、籠神社の奥の院の真名井と関係するのかもしれません。

 そして彼が伝えた真言密教とは、言葉にその真理、実在の表れを見るというものですが、これはまさに物部神道の奥儀なのですね。言霊です。
 そして空海は、真言の寺を物部神道の聖地、今の奈良県布留にある桃尾の滝の近辺に建立したわけです。
 で、このことがだんだん秦氏に絡んでくる。稲荷信仰を始めたのは秦氏ということになっていますが、どうも本当は空海らしい。全国に3万社あるとされる稲荷神社は空海から発する? ここがミステリアスで面白くて、調べていてすっごく難しいんです。
 で、時間を忘れていました。

 とまあ新年早々、小難しいことを書いてしまいましたが、怪談ももちろんですが、今年は古代史より日本のオカルト、いや、歴史の謎に挑み、その成果をそろそろ2013年はいろいろ発表できるのではないかと思っています。

 古代史探偵団もそろそろ再開せねば。


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kaidanyawa at 23:25|PermalinkComments(2)

2013年01月01日

夕陽の元旦

 中山市朗です。

 あけましておめでとうございます。

 塾からのお知らせです。
 今年1月の授業は第2週の木曜日(マンガコースは水曜日)から始めます。
 1月は第5週でありますので、きっちり4回やります。

 それでは、本年もよろしくお願いします。
 


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kaidanyawa at 12:40|PermalinkComments(2)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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