2013年04月
2013年04月30日
某国語イージス その3
中山市朗です。
聖徳太子について書きたいところですが、こっちの話題を片付けます。
最近、塾の講義で取り上げた国語力について書いています。
塾をもっている私がこんなことを言うのはなんですが、昔は作家になりたい若者は、自分が師と崇める作家のもとへ行って、書生となって修行したものです。とはいっても師は何も教えてくれません。ただ、師匠のやること、なすことを身近で見て、ともに過ごすということができます。生き方を勉強するわけです。マンガ家とアシスタントの関係がそれに近いわけですが、これも最近、アルバイト制になったりして、ちょっと師弟の関係とは違うことになっているようですけど。
作家コースのある専門学校は、この関係を排除しています。講師の先生方とのプライベートなお付き合いは、問題を起こす可能性があるので、御法度というわけです。
でも、本当に学ぶべきなのは、この生き方なんですけどね。
技術的なことは、師匠の文体を真似て書いてみることで学びました。学ぶは真似るだ、と言われますが、この真似るというのは師弟関係において重要なものでした。まあ、最初は師匠ソックリの作風になっちゃうこともあったでしょうが、そこから脱皮することで、プロになっていく。でもその礎は、師匠の作風、考え方にあるわけです。
絵師なんかも、先輩諸氏の絵をそのまま描き写すことでその技法を習得しました。文章も多分、同じです。
そして、書生の特権は、師匠と食事をしたり、酒のお相手をしたり、碁や将棋を指しつつ雑談することだったと思います。この雑談の中に、先生の教えがある。
これは書物に書かれない、生きた証言です。こういうのが宝物になるんです。
私は落語家さんに何人か知り合いがいますが、みなさんは、師匠の教えは雑談の中にあったと言っています。これは、聞く、という修練でもあるわけです。
自分の師匠だけではない、書生たちは師匠のつてで、ほかの作家さんや編集さんを紹介してもらったり、顔を覚えてもらったりして、そういう人たちの話も聞く。そしてお相手をする。そして門下の兄弟弟子、あるいはほかの門下生たちと議論する。
そういうことが、昔の作家の卵たちを育てていったと思うんです。トキワ荘もそうですよね。あの人たちもしきりに映画や文学について議論したと言っています。
議論するために読む、聞く。そして語る。それが作家として書くことにつながる。
そういうものだと思うんです。
議論というのは反応がありますから。その反応に答える、そのために思考する、この場合、いろんな角度から思考するわけです。相手がどういう角度から議論を挑んでくるのかを考えるわけですね。すると思考能力が上がる。そういうことが思考力を高める。思考能力の高い人は、作家になれる可能性が高い。そして思考力の基礎は国語力である、ということなんですよ。
役者の世界、映画の世界の人は、この議論、よくやっています。『呪怨』の清水崇監督も「僕は石堂さんとのお酒の席で育ちました」と言っていました。石堂さんとは、『日本の夜と霧』から『マグマ大使』までの脚本を書いた石堂淑朗さんのことです。と思ったら、最近の若い人はお酒を飲まないので、あんまりそういう席にはいないって。
おいおい、ほんまに酒飲んでどうすんねん。
ネットを見ていますと、作家になりたい人たちのスレがあって、よく「俺は書いているのにデビューできない。なんでだ」なんて書かれていますが、ネットに書き込んでいるからデビューできないんだ、と言いたいですな。
ともかく、こもって読んで書いているだけでは、作家になれない。
聞く、話すことも伴っての国語力。
聞く、話すために、人と会う。誰でもいいけど、できれば同じ業界で活躍している人がいい。そして師匠といえる人を作る。できればその師匠と呼べる人と交流をもつ。これを実践しつつ、読み、書く、を続けると、きっと言語活動が活発化して、作家になれる道も開けてくると思います。
私の塾はそういう場なんですけど、塾生たちが塾を使いこなしているのかは、各自の問題。
国語力の大切さ、この続きの講義は5月2日の木曜日に作劇塾で行ないます。
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
聖徳太子について書きたいところですが、こっちの話題を片付けます。
最近、塾の講義で取り上げた国語力について書いています。
塾をもっている私がこんなことを言うのはなんですが、昔は作家になりたい若者は、自分が師と崇める作家のもとへ行って、書生となって修行したものです。とはいっても師は何も教えてくれません。ただ、師匠のやること、なすことを身近で見て、ともに過ごすということができます。生き方を勉強するわけです。マンガ家とアシスタントの関係がそれに近いわけですが、これも最近、アルバイト制になったりして、ちょっと師弟の関係とは違うことになっているようですけど。
作家コースのある専門学校は、この関係を排除しています。講師の先生方とのプライベートなお付き合いは、問題を起こす可能性があるので、御法度というわけです。
でも、本当に学ぶべきなのは、この生き方なんですけどね。
技術的なことは、師匠の文体を真似て書いてみることで学びました。学ぶは真似るだ、と言われますが、この真似るというのは師弟関係において重要なものでした。まあ、最初は師匠ソックリの作風になっちゃうこともあったでしょうが、そこから脱皮することで、プロになっていく。でもその礎は、師匠の作風、考え方にあるわけです。
絵師なんかも、先輩諸氏の絵をそのまま描き写すことでその技法を習得しました。文章も多分、同じです。
そして、書生の特権は、師匠と食事をしたり、酒のお相手をしたり、碁や将棋を指しつつ雑談することだったと思います。この雑談の中に、先生の教えがある。
これは書物に書かれない、生きた証言です。こういうのが宝物になるんです。
私は落語家さんに何人か知り合いがいますが、みなさんは、師匠の教えは雑談の中にあったと言っています。これは、聞く、という修練でもあるわけです。
自分の師匠だけではない、書生たちは師匠のつてで、ほかの作家さんや編集さんを紹介してもらったり、顔を覚えてもらったりして、そういう人たちの話も聞く。そしてお相手をする。そして門下の兄弟弟子、あるいはほかの門下生たちと議論する。
そういうことが、昔の作家の卵たちを育てていったと思うんです。トキワ荘もそうですよね。あの人たちもしきりに映画や文学について議論したと言っています。
議論するために読む、聞く。そして語る。それが作家として書くことにつながる。
そういうものだと思うんです。
議論というのは反応がありますから。その反応に答える、そのために思考する、この場合、いろんな角度から思考するわけです。相手がどういう角度から議論を挑んでくるのかを考えるわけですね。すると思考能力が上がる。そういうことが思考力を高める。思考能力の高い人は、作家になれる可能性が高い。そして思考力の基礎は国語力である、ということなんですよ。
役者の世界、映画の世界の人は、この議論、よくやっています。『呪怨』の清水崇監督も「僕は石堂さんとのお酒の席で育ちました」と言っていました。石堂さんとは、『日本の夜と霧』から『マグマ大使』までの脚本を書いた石堂淑朗さんのことです。と思ったら、最近の若い人はお酒を飲まないので、あんまりそういう席にはいないって。
おいおい、ほんまに酒飲んでどうすんねん。
ネットを見ていますと、作家になりたい人たちのスレがあって、よく「俺は書いているのにデビューできない。なんでだ」なんて書かれていますが、ネットに書き込んでいるからデビューできないんだ、と言いたいですな。
ともかく、こもって読んで書いているだけでは、作家になれない。
聞く、話すことも伴っての国語力。
聞く、話すために、人と会う。誰でもいいけど、できれば同じ業界で活躍している人がいい。そして師匠といえる人を作る。できればその師匠と呼べる人と交流をもつ。これを実践しつつ、読み、書く、を続けると、きっと言語活動が活発化して、作家になれる道も開けてくると思います。
私の塾はそういう場なんですけど、塾生たちが塾を使いこなしているのかは、各自の問題。
国語力の大切さ、この続きの講義は5月2日の木曜日に作劇塾で行ないます。
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kaidanyawa at 21:20|Permalink│Comments(4)│
2013年04月29日
某国語イージス その2
中山市朗です。
今回は25日の続きです。塾での講義内容、国語力についてです。
思考力の根源は、国語力から来ているという話でした。
国語は子供のころから学校で教えられていますが、国語で成績5を取ることと、国語力はまた別です。まあ、国語の先生が作家になれるのかというと、これは別だということですね。
前回にも書きましたが、たいていの編集さんや作家さんは、「作家になるなら、読んで書け」と言います。私もそう思います。ただ、ならば毎日ブログを書いている人は文章能力が上達するのか、というとそうではないわけです。たくさん本を読め、といわれても、作家になりたいと思う人はたいてい読書好きなわけでして、そういう条件を満たしている作家志望者はたくさんいると思います。
極端な話をしてしまいますと、私はもともと映画監督志望で、10代、20代は映画ばっかり見ていましたし、文章を稼業にするとは思ってもいなかったので、そんなに書くことはしていませんでした。書くことは好きでしたが、今の教え子たちに比べると、全然書いていない部類に入るでしょう。おそらく木原浩勝もそうだと思います。
となれば、作家になるための条件として、読んで書け、というのは実はウソなのかも、と思ってしまいます。ただ、私は文筆だけで生きていく自信もありませんし、また、他にもやりたいことがありますので、正当な作家の部類には入らないでしょうけど。
とはいえ、文筆でギャラをもらい、本も出版しているのも事実です。
私の場合、思うんですけど、聞く、語る、という要素が私を作家たらしめたのではないかと、思うわけです。
作家たる者、好奇心をもて、ということもよく言われることです。
これはなんだ、どうしてこんなことになるんだ、一体この原因はなんなんだ、これを理論にするとどうなるんだ、そういったことは好奇心から始まります。
こういうことを考えることは好きでした。学生のころ、木原なんかとよく一つのテーマについて議論し、追求したものです。「幽霊はいるのか」なんていうことについても、徹底的に議論しました。『新耳袋』などはこの延長線上にできあがったもの、と言えないこともありません。で、この議論に備えるためには、知識がいるわけです。その知識を詰め込むためには文献にあたるわけですが、ただ、読むだけではダメです。読解して理解しないと自分の意見として消化できないわけです。で、酒を飲みながら、夜を徹して議論する。考えてみれば、この場にいた友人たちが、今CMの世界にいたり、テレビ番組のディレクターになったりして生き残っています。
議論に必要なのは、まず相手の話、論説を聞くことです。そしてそれに対する反論や同意を話すという行為で表示することも必要。つまり、この議論によって聞くことと、話すことを自然と鍛錬していたことになったのだと思うんです。まあ、正直、議論がそういう鍛錬になるなと意識していたんですけど。映画監督には膨大な知識と、スタッフや俳優に指示するときの説得力がなくてはならん、そう思っていましたから。
で、ですね。論破するというのは、意見が正しいというよりは、話術が長けたほうが正しく思われるという側面があります。いくら意見があっても、そしてそれが正しかったとしても、それを他人が理解しやすいように説明しないと、誰にも理解されないわけです。
実はこれ、小説の技に近いんです。
小説なんて、ウソを書いているわけです。正しいもクソもない。ただ、それを読者が理解してオモロイと思ってくれたら成り立つのです。それをやるのが作家なわけです。
国語の授業で教わったものは、このウソを書くということは含まれません。だから、学校の国語で5を取ったからといって、作家になれるとは別だということは、ここにあるわけです。
小説家になりたいと塾に入ってきて、いざ書いてみると、頭の中にあるものがうまく文章にならない、という話はよく聞きます。あるいは文章にしたつもりでも、合評の場で酷評されたり、別の意味にとられたりして、他人に伝わっていないという実感をもつ、ということもしばしばあるようです。
書くことは書いても、それを他人に伝える能力、これが不足している。私も教えている立場から、それを教え子たちから感じることがあるわけです。
ずっとこもって書いている人の文章は、この他人に伝えるという技がない。というか、そこを重要だと思っていない節があるようなんです。そういう人の書く文章は、自己満足の世界です。やたら難しい比喩や言葉を並べ、見慣れぬ漢字を使う。私は難しい言葉や語彙を知っています、と言いたいのでしょうか。そういうものを文学的だと思っているのでしょう。え、それ、ラノベ?
これ、初心者が特にやってしまいがちなことです。本来は逆なんです。
読者に伝えるためには、わかりやすい言葉で表現しなければならないんです。難しいことをわかりやすく解説してみせる。この能力が作家には必要なんです。
論文じゃないんだから。
読む、書く、というのは、確かに作家になりたいというのなら必須です。しかしこの、読む、書く、というのはこもってもできますから、勘違いしちゃうとずっとそのまま気づかないで人生を終えちゃう。ということにもなりかねません。またそういう人、知ってます。悲惨ですわ。
こもって書く、ということは必要です。作家の仕事はそれですから。
しかし、聞く、話す、ができない、では国語力が身についているとは言えません。
そして、聞く、話す、は相手がいないと身につかないことです。
小難しいことを相手にわかりやすく話す。相手に興味のないことでも思わず相手が身を乗り出してくるような話術がある。そういう技が、本来作家には必要なんだと思います。
現に私も、出版社や通信社の人と雑談しているうちに、「その話、おもしろいです。原稿にしてください」と、原稿依頼されたことは何度もあります。
ある編集者も言っていました。
「話がうまくて、おもしろい人は、おもしろい原稿が書ける人だと判断します。なぜならおもしろい話ができるというのは、そういう話の構成が頭の中ですでにできているからなんです。そしたら、それをそのまま原稿にしてくれたらいいわけです。細かい修正はこっちでやりますから」
つづく
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興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
今回は25日の続きです。塾での講義内容、国語力についてです。
思考力の根源は、国語力から来ているという話でした。
国語は子供のころから学校で教えられていますが、国語で成績5を取ることと、国語力はまた別です。まあ、国語の先生が作家になれるのかというと、これは別だということですね。
前回にも書きましたが、たいていの編集さんや作家さんは、「作家になるなら、読んで書け」と言います。私もそう思います。ただ、ならば毎日ブログを書いている人は文章能力が上達するのか、というとそうではないわけです。たくさん本を読め、といわれても、作家になりたいと思う人はたいてい読書好きなわけでして、そういう条件を満たしている作家志望者はたくさんいると思います。
極端な話をしてしまいますと、私はもともと映画監督志望で、10代、20代は映画ばっかり見ていましたし、文章を稼業にするとは思ってもいなかったので、そんなに書くことはしていませんでした。書くことは好きでしたが、今の教え子たちに比べると、全然書いていない部類に入るでしょう。おそらく木原浩勝もそうだと思います。
となれば、作家になるための条件として、読んで書け、というのは実はウソなのかも、と思ってしまいます。ただ、私は文筆だけで生きていく自信もありませんし、また、他にもやりたいことがありますので、正当な作家の部類には入らないでしょうけど。
とはいえ、文筆でギャラをもらい、本も出版しているのも事実です。
私の場合、思うんですけど、聞く、語る、という要素が私を作家たらしめたのではないかと、思うわけです。
作家たる者、好奇心をもて、ということもよく言われることです。
これはなんだ、どうしてこんなことになるんだ、一体この原因はなんなんだ、これを理論にするとどうなるんだ、そういったことは好奇心から始まります。
こういうことを考えることは好きでした。学生のころ、木原なんかとよく一つのテーマについて議論し、追求したものです。「幽霊はいるのか」なんていうことについても、徹底的に議論しました。『新耳袋』などはこの延長線上にできあがったもの、と言えないこともありません。で、この議論に備えるためには、知識がいるわけです。その知識を詰め込むためには文献にあたるわけですが、ただ、読むだけではダメです。読解して理解しないと自分の意見として消化できないわけです。で、酒を飲みながら、夜を徹して議論する。考えてみれば、この場にいた友人たちが、今CMの世界にいたり、テレビ番組のディレクターになったりして生き残っています。
議論に必要なのは、まず相手の話、論説を聞くことです。そしてそれに対する反論や同意を話すという行為で表示することも必要。つまり、この議論によって聞くことと、話すことを自然と鍛錬していたことになったのだと思うんです。まあ、正直、議論がそういう鍛錬になるなと意識していたんですけど。映画監督には膨大な知識と、スタッフや俳優に指示するときの説得力がなくてはならん、そう思っていましたから。
で、ですね。論破するというのは、意見が正しいというよりは、話術が長けたほうが正しく思われるという側面があります。いくら意見があっても、そしてそれが正しかったとしても、それを他人が理解しやすいように説明しないと、誰にも理解されないわけです。
実はこれ、小説の技に近いんです。
小説なんて、ウソを書いているわけです。正しいもクソもない。ただ、それを読者が理解してオモロイと思ってくれたら成り立つのです。それをやるのが作家なわけです。
国語の授業で教わったものは、このウソを書くということは含まれません。だから、学校の国語で5を取ったからといって、作家になれるとは別だということは、ここにあるわけです。
小説家になりたいと塾に入ってきて、いざ書いてみると、頭の中にあるものがうまく文章にならない、という話はよく聞きます。あるいは文章にしたつもりでも、合評の場で酷評されたり、別の意味にとられたりして、他人に伝わっていないという実感をもつ、ということもしばしばあるようです。
書くことは書いても、それを他人に伝える能力、これが不足している。私も教えている立場から、それを教え子たちから感じることがあるわけです。
ずっとこもって書いている人の文章は、この他人に伝えるという技がない。というか、そこを重要だと思っていない節があるようなんです。そういう人の書く文章は、自己満足の世界です。やたら難しい比喩や言葉を並べ、見慣れぬ漢字を使う。私は難しい言葉や語彙を知っています、と言いたいのでしょうか。そういうものを文学的だと思っているのでしょう。え、それ、ラノベ?
これ、初心者が特にやってしまいがちなことです。本来は逆なんです。
読者に伝えるためには、わかりやすい言葉で表現しなければならないんです。難しいことをわかりやすく解説してみせる。この能力が作家には必要なんです。
論文じゃないんだから。
読む、書く、というのは、確かに作家になりたいというのなら必須です。しかしこの、読む、書く、というのはこもってもできますから、勘違いしちゃうとずっとそのまま気づかないで人生を終えちゃう。ということにもなりかねません。またそういう人、知ってます。悲惨ですわ。
こもって書く、ということは必要です。作家の仕事はそれですから。
しかし、聞く、話す、ができない、では国語力が身についているとは言えません。
そして、聞く、話す、は相手がいないと身につかないことです。
小難しいことを相手にわかりやすく話す。相手に興味のないことでも思わず相手が身を乗り出してくるような話術がある。そういう技が、本来作家には必要なんだと思います。
現に私も、出版社や通信社の人と雑談しているうちに、「その話、おもしろいです。原稿にしてください」と、原稿依頼されたことは何度もあります。
ある編集者も言っていました。
「話がうまくて、おもしろい人は、おもしろい原稿が書ける人だと判断します。なぜならおもしろい話ができるというのは、そういう話の構成が頭の中ですでにできているからなんです。そしたら、それをそのまま原稿にしてくれたらいいわけです。細かい修正はこっちでやりますから」
つづく
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kaidanyawa at 20:56|Permalink│Comments(0)│
2013年04月26日
配信アリ
中山市朗です。
本日金曜日は、「幽怪案内」の配信日であります。
今回のメニューは、まずは長編怪談です。
「5号室」という怪異談です。
このお話は、戦後まもなくの冬に京都府のある町であったものですが、なんとも不可解で奇妙な話です。まさに怪異談です。この怪異があった建物は今も残っています。五号室という札もかかっています。もちろん今は使われていませんけど。
前ふりは無料で観れますが、興味をもたれたら、その後は有料で。すみません、そういうサイトですので。前後編で20分。
もう一本は「泥温泉」という話と、「夜の教室」という短編怪談を2本。
「泥温泉」は、ちょっといい話。怖いばかりが怪談じゃない。泥温泉は私も入ったことがあります。別府にあります。いいところでした。混浴でしたし?
「夜の教室」は、実は我が塾のことです。今の教室ではありません。以前使っていた教室です。あそこはねぇ、いろいろあったみたいです。総務のスガノ(作家名・菅野日曜日)くんの体験談です。
「幽怪案内」、だいたい月に20本の怪談を配信することになっています。1年続けると単純計算で240本。短編の場合は1本に2話お届けしますので、実質それより多くの怪談をお届けすることになるでしょう。
ですから、みなさまのご協力を賜りたく思います。
近日中に、オフィスイチロウでは、怪談蒐集箱を設置いたしますので、みなさんの体験談を投稿してもらいたく思います。ただし、使用にあたっては直接か、お電話で再取材させていただきます。
また、電話、FAXでも受け付けます。
詳しくはオフィスイチロウまで。
ところで、昨日、怪談取材の録音テープをチェックしていたのですが、それは数年前、私の書斎で、あるイベント会社の社長さんをお招きして取材したものなんですが、録音テープに人が歩いている音がしっかりと入っているんです。コンクリートの廊下を歩いている音。でもですね。私の書斎の入っているマンション、最上階でして、そんな廊下は存在していないんです。まあ、エレベーターを降りて、玄関までは少し歩くわけですが、そんなに歩かないし、第一そんな音は聞こえない。私の書斎を訪れたことのある方はおわかりだと思いますが。しかも入っている音は、ヒールの音。しかもしきりに歩いている。
うーん、なんなんだろ。
まあ、事情を知らずに聞けば、単に廊下を誰かが歩いているんでしょ、という音なんですけど。
『幽怪案内』はこちら、TBSらじこんからどうぞ。
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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本日金曜日は、「幽怪案内」の配信日であります。
今回のメニューは、まずは長編怪談です。
「5号室」という怪異談です。
このお話は、戦後まもなくの冬に京都府のある町であったものですが、なんとも不可解で奇妙な話です。まさに怪異談です。この怪異があった建物は今も残っています。五号室という札もかかっています。もちろん今は使われていませんけど。
前ふりは無料で観れますが、興味をもたれたら、その後は有料で。すみません、そういうサイトですので。前後編で20分。
もう一本は「泥温泉」という話と、「夜の教室」という短編怪談を2本。
「泥温泉」は、ちょっといい話。怖いばかりが怪談じゃない。泥温泉は私も入ったことがあります。別府にあります。いいところでした。混浴でしたし?
「夜の教室」は、実は我が塾のことです。今の教室ではありません。以前使っていた教室です。あそこはねぇ、いろいろあったみたいです。総務のスガノ(作家名・菅野日曜日)くんの体験談です。
「幽怪案内」、だいたい月に20本の怪談を配信することになっています。1年続けると単純計算で240本。短編の場合は1本に2話お届けしますので、実質それより多くの怪談をお届けすることになるでしょう。
ですから、みなさまのご協力を賜りたく思います。
近日中に、オフィスイチロウでは、怪談蒐集箱を設置いたしますので、みなさんの体験談を投稿してもらいたく思います。ただし、使用にあたっては直接か、お電話で再取材させていただきます。
また、電話、FAXでも受け付けます。
詳しくはオフィスイチロウまで。
ところで、昨日、怪談取材の録音テープをチェックしていたのですが、それは数年前、私の書斎で、あるイベント会社の社長さんをお招きして取材したものなんですが、録音テープに人が歩いている音がしっかりと入っているんです。コンクリートの廊下を歩いている音。でもですね。私の書斎の入っているマンション、最上階でして、そんな廊下は存在していないんです。まあ、エレベーターを降りて、玄関までは少し歩くわけですが、そんなに歩かないし、第一そんな音は聞こえない。私の書斎を訪れたことのある方はおわかりだと思いますが。しかも入っている音は、ヒールの音。しかもしきりに歩いている。
うーん、なんなんだろ。
まあ、事情を知らずに聞けば、単に廊下を誰かが歩いているんでしょ、という音なんですけど。
『幽怪案内』はこちら、TBSらじこんからどうぞ。
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興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
kaidanyawa at 12:00|Permalink│Comments(0)│
2013年04月25日
某国語イージス その1
中山市朗です。
聖徳太子、いなかった説に対しての反論を掲載しておりますが、今回は休載。
最近、塾で何を教えているんですか? という問い合わせが何件か来ていますので、最近の塾のことを。
先週の講義では、「国語力」について考えました。
国語力。
当然のことですが、作家稼業は文字でもっていろいろな表現をします。
私たちは日本語を用いて表現活動をしていますので、当然日本語力をつけねば、満足な表現活動はできません。つまり国語力ですね。
国語力、というと小学校の科目でもうやってんじゃん、という人もいるでしょうが、就活のときに作文を書かされたりしませんでしたか? あれ、国語力が試されているわけです。つまり、ビジネスをする上での基礎能力を計られているのです。
人間、誰だって思考能力はあります。で、肝心なのは、その思考をどう他人に伝達するのか、これが重要なわけですね。
企画書が書けるのか、会議で発言できるのか、人の話はちゃんと聞けるのか、情報をちゃんと読み解けるのか、こういうことは社会人として必要なわけです。で、面白いことにそういうことが苦手なので就職せずに作家になります、という作家志望者がいるわけです。
わかります。そういう心理。私もそんなでしたから。
しかし、作家というのは、通常の社会人以上にこの、国語力が必要とされる職種であるという、ごくあたりまえの思考がこのとき欠如しているとい驚くべき事態に陥っているわけです。
「作家になるためには、どうしたらいいですか?」と聞けば、まあほとんどの編集さんや作家の人たちは、「読んで、書きなさい」というはずです。で、作家志望者は家にこもってひたすら読んで書くわけです。それで成果を出す人もいるでしょう。きっとそういう人は、国語力がもともと身についた人だと思います。
しかし、これは私の経験上ですが、ただこもって書いているだけの人は、デビューする確率も、生き残る確率もきわめて低い、というのが実態です。最悪なのは、社会人経験もなし(アルバイトかニート)にずっとこもって30代を超えてしまうこと。最悪です。こんなん作家になれるどころか、社会人にもなれません。身に覚えのある人、気ぃつけなはれ。
作家になるために、こもって誰よりも読んで書く、これに特化しているのになぜ?
そう思いますわな。
考えました。
誰よりも読んで書く、このこと自体はおそらく間違っていません。
しかし考えてみれば、国語力とは読んで書く、だけではないわけです。
聞いて語る、これも同時に習得しないと、真の国語力にはならないわけです。
聞く、話す、読む、書く。これが伴って国語力と言います。国語力のない作家の作品なんて、読む気になれます? それ以前にそんな人が作家になれるんかいなと、思いますわな。
この国語力を言語活動とも言うわけですが、言語活動というのは、思考能力の根源であるわけです。私たちは、モノを考えるときに、原語で考えるからです。で、バイリンガルな人はわかりませんが、私たち日本人は、その思考する言語を日本語でするわけです。日本文化というのは、その礎に日本語、というものがあるわけです。
この言葉、というのはその土地の風土や気候、環境や風習、そして各民族の身体的特徴なんかで生まれ培われたものですから、それぞれの民族の思考性は、この言語より成り立っている、と、まあ思うわけです。
国際化時代、ということで、今はまず英語、という風潮がありますが、日本人ならまず日本語という国語力をしっかりやっておかないと、英語はしゃべれても思考ができない、なんていうことになりはさいないかと、これは余計な心配ですかね。
そう、作家と国語力でした。
作家というのは(作家にもいろいろあります。小説家、劇作家、脚本家、マンガ家、放送作家、造形作家・・・もちろんみんな含めての意味です)、書くこと、作ることが本業なわけですが、それには、内に思考性がないと書くことも作ることもできないわけです。
当たり前ですよね。
で、この思考性というのは、聞く、話す、読む、書くの4つの要素から成り立つわけで、読む、書く、だけでは思考性はアップしないわけなんです。
思考というのは、たくさんの情報、知識があってその礎があります。脳みそからっぽでは、思考できません。しかし、ただの物知りというだけでも、作家にはなれません。
情報、知識を理解し、読解する能力が必要です。そしてなおかつ、それをアウトプットする技術がなければなりません。
作家志望者の若者は、このアウトプットする技術の習得をしようとしますが、知識の理解、読解ということがいかに大事かということがわかっていない、あるいはやっていない、そう私には思えるわけです。ずっとこもって書いている、という人は特にそうだと思います。
どうも私が何か言い出すとながくなっちゃいますなあ。
国語力の不足か?
ということで、これも続きますが、聖徳太子のお話と同時進行します。どっちを書くのかは、私の気持ち次第?
つづく
『モーツァルトの血痕』CM動画配信中!
中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
聖徳太子、いなかった説に対しての反論を掲載しておりますが、今回は休載。
最近、塾で何を教えているんですか? という問い合わせが何件か来ていますので、最近の塾のことを。
先週の講義では、「国語力」について考えました。
国語力。
当然のことですが、作家稼業は文字でもっていろいろな表現をします。
私たちは日本語を用いて表現活動をしていますので、当然日本語力をつけねば、満足な表現活動はできません。つまり国語力ですね。
国語力、というと小学校の科目でもうやってんじゃん、という人もいるでしょうが、就活のときに作文を書かされたりしませんでしたか? あれ、国語力が試されているわけです。つまり、ビジネスをする上での基礎能力を計られているのです。
人間、誰だって思考能力はあります。で、肝心なのは、その思考をどう他人に伝達するのか、これが重要なわけですね。
企画書が書けるのか、会議で発言できるのか、人の話はちゃんと聞けるのか、情報をちゃんと読み解けるのか、こういうことは社会人として必要なわけです。で、面白いことにそういうことが苦手なので就職せずに作家になります、という作家志望者がいるわけです。
わかります。そういう心理。私もそんなでしたから。
しかし、作家というのは、通常の社会人以上にこの、国語力が必要とされる職種であるという、ごくあたりまえの思考がこのとき欠如しているとい驚くべき事態に陥っているわけです。
「作家になるためには、どうしたらいいですか?」と聞けば、まあほとんどの編集さんや作家の人たちは、「読んで、書きなさい」というはずです。で、作家志望者は家にこもってひたすら読んで書くわけです。それで成果を出す人もいるでしょう。きっとそういう人は、国語力がもともと身についた人だと思います。
しかし、これは私の経験上ですが、ただこもって書いているだけの人は、デビューする確率も、生き残る確率もきわめて低い、というのが実態です。最悪なのは、社会人経験もなし(アルバイトかニート)にずっとこもって30代を超えてしまうこと。最悪です。こんなん作家になれるどころか、社会人にもなれません。身に覚えのある人、気ぃつけなはれ。
作家になるために、こもって誰よりも読んで書く、これに特化しているのになぜ?
そう思いますわな。
考えました。
誰よりも読んで書く、このこと自体はおそらく間違っていません。
しかし考えてみれば、国語力とは読んで書く、だけではないわけです。
聞いて語る、これも同時に習得しないと、真の国語力にはならないわけです。
聞く、話す、読む、書く。これが伴って国語力と言います。国語力のない作家の作品なんて、読む気になれます? それ以前にそんな人が作家になれるんかいなと、思いますわな。
この国語力を言語活動とも言うわけですが、言語活動というのは、思考能力の根源であるわけです。私たちは、モノを考えるときに、原語で考えるからです。で、バイリンガルな人はわかりませんが、私たち日本人は、その思考する言語を日本語でするわけです。日本文化というのは、その礎に日本語、というものがあるわけです。
この言葉、というのはその土地の風土や気候、環境や風習、そして各民族の身体的特徴なんかで生まれ培われたものですから、それぞれの民族の思考性は、この言語より成り立っている、と、まあ思うわけです。
国際化時代、ということで、今はまず英語、という風潮がありますが、日本人ならまず日本語という国語力をしっかりやっておかないと、英語はしゃべれても思考ができない、なんていうことになりはさいないかと、これは余計な心配ですかね。
そう、作家と国語力でした。
作家というのは(作家にもいろいろあります。小説家、劇作家、脚本家、マンガ家、放送作家、造形作家・・・もちろんみんな含めての意味です)、書くこと、作ることが本業なわけですが、それには、内に思考性がないと書くことも作ることもできないわけです。
当たり前ですよね。
で、この思考性というのは、聞く、話す、読む、書くの4つの要素から成り立つわけで、読む、書く、だけでは思考性はアップしないわけなんです。
思考というのは、たくさんの情報、知識があってその礎があります。脳みそからっぽでは、思考できません。しかし、ただの物知りというだけでも、作家にはなれません。
情報、知識を理解し、読解する能力が必要です。そしてなおかつ、それをアウトプットする技術がなければなりません。
作家志望者の若者は、このアウトプットする技術の習得をしようとしますが、知識の理解、読解ということがいかに大事かということがわかっていない、あるいはやっていない、そう私には思えるわけです。ずっとこもって書いている、という人は特にそうだと思います。
どうも私が何か言い出すとながくなっちゃいますなあ。
国語力の不足か?
ということで、これも続きますが、聖徳太子のお話と同時進行します。どっちを書くのかは、私の気持ち次第?
つづく
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反論の鍵貸します その3
聖徳太子はいなかった説、反論パート3
中山市朗です。
前回の続きです。
『隋書』には、アメノタリシヒコはこんな国書を送ったと言います。
「日出る処の天子、この書を日没する処の天子に致す・・・」
日出る処の、つまり昇る太陽を神聖視している、天子、ということですね。
煬帝はこの文書を読んで怒ったといいますが、単純に「私、太陽が出ようとするところの天下を治める者です。登り調子ですわ。あんたとこ、その太陽、沈みますねんな。もう落ち目でんな」みたいなこと言われたら、そらムカッとするところでしょう。しかも中国は世界の中心にある国、そこの皇帝に向かってなんじゃこれは、ということでしょうな。
しかも天子という言葉が使ってある。天子というのは、天命によって天下を治める者、という意味で、これは道教から来た言葉です。つまり天子はこの天下にただひとり、中国皇帝よりほかにあってはならないわけです。
煬帝が怒ったのは、日出る処の、という文言より、この天子を勝手に名乗っている、ということにあったことでしょう。
ところがここは、アメノタリシヒコの外交戦略だったわけです。
歴史学では何度も述べたように、天皇号は天武天皇あたりから、というのが通説なわけですが、天子とは天皇、あるいは皇帝と同義語なわけです。
学説によると、推古の時代は天皇号は使われていない、つまり大王(おおきみ)であったということになる。
この場合、そのまま正直に、我は大王、などというと、これはもう皇帝の属国になるという意味となります。王とは、中国の圏内においては皇帝から与えられるものだったわけで、冊封の関係を受け入れる、ということを意味します。
アメノタリシヒコはそうではない、中国皇帝と倭国の天子は同じ格である。対等な外交をしよう、というための中国皇帝への遣いだったわけです。
つまり、天皇、あるいはそれに近い概念をもって、アメノタリシヒコは外交をやろうとした、ということになります。
『日本書紀』は、聖徳太子は蘇我馬子と共同し『天皇記』と『国記』を編纂したと記しています。天皇という表記が使われていないということで、これを疑う学者もいます。それは『大王記』ではなかったか、という意見もありますが、『大王記』では何の意味もないわけです。中国皇帝に「倭国の支配者は天子である」と明言したからには、その根拠となる系譜、歴史がなくてはならない。つまりは天子の正当性を示す系譜がなければならない。そのために『天皇記』は編纂されなくてはならないわけです。
ということは、天皇という言葉を推古天皇の時代、その意味を知っていて、実際に使っていた、ということになると思うのですが。
『書紀』によると、煬帝にあてた国書には「東の天皇、西の皇帝に曰す」と記したとあります。これはウソなのでしょうか。さっきも書きましたように、この国書は、当時は隋は滅んで唐となっていましたが、国書は保存されていると考えるのが普通の感覚でしょう。
「国書もチェックしてみたけど、そんなこと書いてねえじゃん」と相手の国に言われると、もう『書紀』の信憑性は失われます。しかも『書紀』成立は西暦720年、編纂事業はその何十年か前から始まっています。そして隋に遣いを送ったのは607年。
その後も遣隋使は数度にわたり派遣されています。そんなに昔のことではない。『書紀』編纂時において、聖徳太子の時代はまだ近代であったことを考慮せねばなりません。
だからこそ、ここに根拠の無いこと、勝手な捏造は書けないわけです。
『隋書』に記された「日出る処の天子〜」と『書紀』に記された「東の天皇、西の皇帝に〜」という文言は同じ意味です。この記述は実際に記された、と思います。
ともかくも、大王ではなく中国皇帝に対する、天子、天皇を意識的に使った外交をやった倭人がいた、これは事実であったと認識していいでしょう。
いや、当時の人が天皇号を意識していたという証拠は現物としてあります。
それが、四天王寺です。
四天王寺は何度も倒壊したり、全焼したりしていて、あまり聖徳太子の研究にはふさわしくないと判断されるのか、法隆寺ばかりが聖徳太子の研究対象になっている感がしますが、『書紀』には、四天王寺は聖徳太子が建てた、としっかり表記されています。
今建っている四天王寺の建物は、空襲でほとんど焼けてしまって、確かに戦後造られたものが大部分なのですが、その伽藍配置葉は創建されてからまったく動いていないのです。法隆寺は、世界最古の木造建築が残っているような価値ある寺院ですが、聖徳太子の時代のものではない。一度全焼して、別のところに建てられています。しかし四天王寺は創建当時から動いていない。ということは、あの四天王寺の伽藍配置は生きた考古学的物証です。古代史学のシーラカンスです。
四天王寺の伽藍配置は、南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が真北に向かって一直線に並んでいます。これは北辰信仰を意味しているわけです。で、当寺には聖徳太子の七星剣というものが伝わっていて、剣の裏表に北斗七星が刻んであるんです。
この、北辰信仰とはやはり中国の道教からきた信仰で、宇宙の最高神が北極星であるとされ、これを帝と呼んだわけですね。または、道教で最高の神、高僧を天皇といったわけで、これを天皇大帝と称したわけです。
で、この寺の称号が、してんのうじ。これを天皇寺と記した平安時代の記録もあるわけです。私はこれ、天皇寺ではなかったかと思っています。詳しくは『四天王寺の暗号』を読んでいただきたいですけど。
ともかく、北辰信仰に伽藍配置、四天王という東西南北を守護する仏、この概念は四神相応を意味し、四天王寺には青龍というキーワードが出てきます。それだけの知識がある人物が当時いて、四天王寺を建てているわけです。天皇大帝という言葉は当然理解しているはずで、いや、この天皇大帝の証として、四天王寺は建てられたというのがほんとのところでしょう。四天王寺の建てられた難波は、外交や貿易の港が開けた当時の国際都市といっていいところです。そこに天皇大帝を意図する寺を建てた、ということが重要なのです。そして隋との外交に、天子、という言葉を使ったことから、もう天皇が天下を支配するのが、日出る我が国である、という概念はあったと考えるべきだと思うんです。
天子、というのは、そういう意味であるということ。
そういう道教の知識をもって、おそらくは実践していた人物がいたということを、四天王寺が物語っているわけです。じゃあ、それが誰だったか、ですよね。
聖徳太子、あるいはアメノタリシヒコという人物です。
天子とは何か、という概念を、この二人は少なくとも持ち合わせているわけです。
そしてこの二人以外に、それだけの知識、実践能力をもった人物はほかに見当たりません。
あとは、この聖徳太子とアメノタリシヒコは別人なのか、同一人物なのか、という考察となるわけです。
そして、四天王寺の西門には鳥居があります。ふつう、鳥居は神社の前に建てられますが、なぜかこの鳥居は寺にある。いや、寺の前にも鳥居がないことはない。あれは神仏習合の痕跡だ、という人は、とりあえず私の本を読んでください。
あの鳥居こそが、「日出る処〜」という部分を示しているんです。
つづく
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中山市朗です。
前回の続きです。
『隋書』には、アメノタリシヒコはこんな国書を送ったと言います。
「日出る処の天子、この書を日没する処の天子に致す・・・」
日出る処の、つまり昇る太陽を神聖視している、天子、ということですね。
煬帝はこの文書を読んで怒ったといいますが、単純に「私、太陽が出ようとするところの天下を治める者です。登り調子ですわ。あんたとこ、その太陽、沈みますねんな。もう落ち目でんな」みたいなこと言われたら、そらムカッとするところでしょう。しかも中国は世界の中心にある国、そこの皇帝に向かってなんじゃこれは、ということでしょうな。
しかも天子という言葉が使ってある。天子というのは、天命によって天下を治める者、という意味で、これは道教から来た言葉です。つまり天子はこの天下にただひとり、中国皇帝よりほかにあってはならないわけです。
煬帝が怒ったのは、日出る処の、という文言より、この天子を勝手に名乗っている、ということにあったことでしょう。
ところがここは、アメノタリシヒコの外交戦略だったわけです。
歴史学では何度も述べたように、天皇号は天武天皇あたりから、というのが通説なわけですが、天子とは天皇、あるいは皇帝と同義語なわけです。
学説によると、推古の時代は天皇号は使われていない、つまり大王(おおきみ)であったということになる。
この場合、そのまま正直に、我は大王、などというと、これはもう皇帝の属国になるという意味となります。王とは、中国の圏内においては皇帝から与えられるものだったわけで、冊封の関係を受け入れる、ということを意味します。
アメノタリシヒコはそうではない、中国皇帝と倭国の天子は同じ格である。対等な外交をしよう、というための中国皇帝への遣いだったわけです。
つまり、天皇、あるいはそれに近い概念をもって、アメノタリシヒコは外交をやろうとした、ということになります。
『日本書紀』は、聖徳太子は蘇我馬子と共同し『天皇記』と『国記』を編纂したと記しています。天皇という表記が使われていないということで、これを疑う学者もいます。それは『大王記』ではなかったか、という意見もありますが、『大王記』では何の意味もないわけです。中国皇帝に「倭国の支配者は天子である」と明言したからには、その根拠となる系譜、歴史がなくてはならない。つまりは天子の正当性を示す系譜がなければならない。そのために『天皇記』は編纂されなくてはならないわけです。
ということは、天皇という言葉を推古天皇の時代、その意味を知っていて、実際に使っていた、ということになると思うのですが。
『書紀』によると、煬帝にあてた国書には「東の天皇、西の皇帝に曰す」と記したとあります。これはウソなのでしょうか。さっきも書きましたように、この国書は、当時は隋は滅んで唐となっていましたが、国書は保存されていると考えるのが普通の感覚でしょう。
「国書もチェックしてみたけど、そんなこと書いてねえじゃん」と相手の国に言われると、もう『書紀』の信憑性は失われます。しかも『書紀』成立は西暦720年、編纂事業はその何十年か前から始まっています。そして隋に遣いを送ったのは607年。
その後も遣隋使は数度にわたり派遣されています。そんなに昔のことではない。『書紀』編纂時において、聖徳太子の時代はまだ近代であったことを考慮せねばなりません。
だからこそ、ここに根拠の無いこと、勝手な捏造は書けないわけです。
『隋書』に記された「日出る処の天子〜」と『書紀』に記された「東の天皇、西の皇帝に〜」という文言は同じ意味です。この記述は実際に記された、と思います。
ともかくも、大王ではなく中国皇帝に対する、天子、天皇を意識的に使った外交をやった倭人がいた、これは事実であったと認識していいでしょう。
いや、当時の人が天皇号を意識していたという証拠は現物としてあります。
それが、四天王寺です。
四天王寺は何度も倒壊したり、全焼したりしていて、あまり聖徳太子の研究にはふさわしくないと判断されるのか、法隆寺ばかりが聖徳太子の研究対象になっている感がしますが、『書紀』には、四天王寺は聖徳太子が建てた、としっかり表記されています。
今建っている四天王寺の建物は、空襲でほとんど焼けてしまって、確かに戦後造られたものが大部分なのですが、その伽藍配置葉は創建されてからまったく動いていないのです。法隆寺は、世界最古の木造建築が残っているような価値ある寺院ですが、聖徳太子の時代のものではない。一度全焼して、別のところに建てられています。しかし四天王寺は創建当時から動いていない。ということは、あの四天王寺の伽藍配置は生きた考古学的物証です。古代史学のシーラカンスです。
四天王寺の伽藍配置は、南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が真北に向かって一直線に並んでいます。これは北辰信仰を意味しているわけです。で、当寺には聖徳太子の七星剣というものが伝わっていて、剣の裏表に北斗七星が刻んであるんです。
この、北辰信仰とはやはり中国の道教からきた信仰で、宇宙の最高神が北極星であるとされ、これを帝と呼んだわけですね。または、道教で最高の神、高僧を天皇といったわけで、これを天皇大帝と称したわけです。
で、この寺の称号が、してんのうじ。これを天皇寺と記した平安時代の記録もあるわけです。私はこれ、天皇寺ではなかったかと思っています。詳しくは『四天王寺の暗号』を読んでいただきたいですけど。
ともかく、北辰信仰に伽藍配置、四天王という東西南北を守護する仏、この概念は四神相応を意味し、四天王寺には青龍というキーワードが出てきます。それだけの知識がある人物が当時いて、四天王寺を建てているわけです。天皇大帝という言葉は当然理解しているはずで、いや、この天皇大帝の証として、四天王寺は建てられたというのがほんとのところでしょう。四天王寺の建てられた難波は、外交や貿易の港が開けた当時の国際都市といっていいところです。そこに天皇大帝を意図する寺を建てた、ということが重要なのです。そして隋との外交に、天子、という言葉を使ったことから、もう天皇が天下を支配するのが、日出る我が国である、という概念はあったと考えるべきだと思うんです。
天子、というのは、そういう意味であるということ。
そういう道教の知識をもって、おそらくは実践していた人物がいたということを、四天王寺が物語っているわけです。じゃあ、それが誰だったか、ですよね。
聖徳太子、あるいはアメノタリシヒコという人物です。
天子とは何か、という概念を、この二人は少なくとも持ち合わせているわけです。
そしてこの二人以外に、それだけの知識、実践能力をもった人物はほかに見当たりません。
あとは、この聖徳太子とアメノタリシヒコは別人なのか、同一人物なのか、という考察となるわけです。
そして、四天王寺の西門には鳥居があります。ふつう、鳥居は神社の前に建てられますが、なぜかこの鳥居は寺にある。いや、寺の前にも鳥居がないことはない。あれは神仏習合の痕跡だ、という人は、とりあえず私の本を読んでください。
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つづく
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2013年04月22日
反論の鍵貸します その2
聖徳太子いなかった説、反論! パート2
中山市朗です。
とうとう教科書でも「聖徳太子はいなかった」説を掲載しだした日本の歴史。
要は「後世の人たちが『書紀』などを編纂するにあたって、聖徳太子という人物を作り上げて、厩戸王というあまり実績のない人物の功績として記録した」ということらしいんですけど。
まず疑問。厩戸王という人物の功績にしたとして、それに何の意味があるのでしょう。
いろいろな説を読んだり聞いたりしましたが、そんなことをする動機がどうも私にはわからんのです。
さて、聖徳太子の時代、中国は隋という国でした。文帝、煬帝という人が皇帝でした。ただこの文帝、煬帝というのも後につけられた名前で、煬というのは、悪逆を示す諡号だそうです。
この煬帝に倭国の使者が拝謁して、例の「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや・・・」という書に渡しました。それで煬帝は怒ったという、このことは『隋書倭国伝』に書かれていることです。なので自らを、あるいは倭国の王を、天子だと言った人が倭国にいたわけですね。もっともこの書を送ったのはアメノタリシヒコという大王(おおきみ)だと『隋書』は書いています。
アメノタリシヒコ。それ、誰やねん、というわけですね。日本の記録にはそんな名前、一切出てきません。これは、卑弥呼も同様で、これも当時、魏であった中国の文献『魏志倭人伝』に載っている倭国の女王というわけですが、これも日本の文献にない。
だから謎がいっぱい残るわけです。
アメノタリシヒコが誰なのかはわかりませんが、なんとなく「日出る処の天子〜」の書を送ったのは聖徳太子だ、ということになっています。
『隋書倭国伝』には大業三年とか、使者が来た年号が書いてありまして、これがまさに推古天皇の時代なのです。したがって、この遣いは推古天皇の側近が遣わした者ということになります。そして大業四年に、煬帝は怒ったにも関わらず、裴清という遣いを倭国に遣わした、と『隋書』にあります。で、このことは『日本書紀』にも記述されていて、大業四年は推古天皇十六年にあたり、「大唐の使人裴世清と下客(しもべ)十二人が、妹子に従って筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った・・・」などと書いています。この時の接待係の名前も記されていて、アメノタリシヒコの外交は実際にあったわけです。
ところが面白いことに、『隋書』では裴世清はアメノタリシヒコに拝謁したと書いているんですが、『書紀』には裴世清は、「書を帝の机の上に置いた」と書くだけで、天皇が相見えたとも何とも書いていないわけです。
アメノタリシヒコという名は、『書紀』は隠蔽したかったのかもしれません。
いや、アメノタリシヒコは大和の王ではなく、九州王国の大王であったという有名な説もありますが、『書紀』には海石(キヘンに留)市、ツバイチという市の路上に迎えたとあり、この市は奈良県桜井市にあった商業地です。
ここで重要なことは、『日本書紀』とは何か、ということです。
それは、以前このブログにも書きましたように、国内に向けて書かれたものではない、ということです。おそらくこの外交を中国と再開するにあたって、その歴史や皇帝の正当性を記した文献が中国にあって、国体というものがちゃんとある。しかし我が日本にはそれが無い。だから多分に、日本国という国の威信とその歴史、そして天皇の正当性を中国や朝鮮の国々に知らせようとして書かれた、というのがその編纂の意図でしょう。漢文で書かれていますし。
まあ、内々の権力闘争や系図の正当性についての記述は、いろいろ細工をやったことは考えられますが、こと外交についてはウソは書かなかったはずです。
なぜなら、中国や朝鮮の人が読むとき、自国の資料と照らし合わせて読まれることは必然であるからです。特に、妹子は煬帝に国書を渡しており、その返書を預かったとされています。国書は、国の元首がその名でもって発行する外交文書です。これは印が押され、保存されることが考えられます。何年に、誰の使節は、どこで誰と会い、何を取り決めたか、という内容は残るわけです。そして記録として残されます。そういうことは『書紀』編纂チームは意識していたはずです。
また、この編纂チームには滅亡した百済から亡命してきた学者たちもいました。自国の記録である百済や新羅の記録なども引用、参考にしたこともあったでしょう。
ですから、アメノタリシヒコという大王は当時存在していて、煬帝に遣いを送り、その遣いが翌年隋からの使者を連れて帰った、その遣いが朝廷で誰かに拝謁した、ということは事実であったと考えていいと思うわけです。
問題は、その誰かとは、誰やねん、ということですわな。
『隋書』には裴清(『書紀』では裴世清)は、冠位十二階のメンバーと思われる大勢の遣いに迎えられたことを記し、アメノタリシヒコの都へ赴き、その王が相見えた、と書いています。裴世清はアメノタリシヒコと会ったわけです。
で、『書紀』はそこをごまかした。謎が残る原因がここにあります。
ただ、『書紀』の記述の流れからすると、裴世清は天皇に拝謁せねばならない。天皇とは推古のことです。でも、推古天皇は女性です。
『隋書』には、倭王は男であるとしています。
あれれ、ですよね。
おそらく、裴世清が会ったのはアメノタリシヒコです。天皇ではなく、大王(おおきみ)です。では、アメノタリシヒコとは誰ぞや、ということになります。
『隋書』にそのヒントが書かれています。
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中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
興味がおありの方は、作劇塾ホームページをご参照ください。
中山市朗です。
とうとう教科書でも「聖徳太子はいなかった」説を掲載しだした日本の歴史。
要は「後世の人たちが『書紀』などを編纂するにあたって、聖徳太子という人物を作り上げて、厩戸王というあまり実績のない人物の功績として記録した」ということらしいんですけど。
まず疑問。厩戸王という人物の功績にしたとして、それに何の意味があるのでしょう。
いろいろな説を読んだり聞いたりしましたが、そんなことをする動機がどうも私にはわからんのです。
さて、聖徳太子の時代、中国は隋という国でした。文帝、煬帝という人が皇帝でした。ただこの文帝、煬帝というのも後につけられた名前で、煬というのは、悪逆を示す諡号だそうです。
この煬帝に倭国の使者が拝謁して、例の「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや・・・」という書に渡しました。それで煬帝は怒ったという、このことは『隋書倭国伝』に書かれていることです。なので自らを、あるいは倭国の王を、天子だと言った人が倭国にいたわけですね。もっともこの書を送ったのはアメノタリシヒコという大王(おおきみ)だと『隋書』は書いています。
アメノタリシヒコ。それ、誰やねん、というわけですね。日本の記録にはそんな名前、一切出てきません。これは、卑弥呼も同様で、これも当時、魏であった中国の文献『魏志倭人伝』に載っている倭国の女王というわけですが、これも日本の文献にない。
だから謎がいっぱい残るわけです。
アメノタリシヒコが誰なのかはわかりませんが、なんとなく「日出る処の天子〜」の書を送ったのは聖徳太子だ、ということになっています。
『隋書倭国伝』には大業三年とか、使者が来た年号が書いてありまして、これがまさに推古天皇の時代なのです。したがって、この遣いは推古天皇の側近が遣わした者ということになります。そして大業四年に、煬帝は怒ったにも関わらず、裴清という遣いを倭国に遣わした、と『隋書』にあります。で、このことは『日本書紀』にも記述されていて、大業四年は推古天皇十六年にあたり、「大唐の使人裴世清と下客(しもべ)十二人が、妹子に従って筑紫に着いた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った・・・」などと書いています。この時の接待係の名前も記されていて、アメノタリシヒコの外交は実際にあったわけです。
ところが面白いことに、『隋書』では裴世清はアメノタリシヒコに拝謁したと書いているんですが、『書紀』には裴世清は、「書を帝の机の上に置いた」と書くだけで、天皇が相見えたとも何とも書いていないわけです。
アメノタリシヒコという名は、『書紀』は隠蔽したかったのかもしれません。
いや、アメノタリシヒコは大和の王ではなく、九州王国の大王であったという有名な説もありますが、『書紀』には海石(キヘンに留)市、ツバイチという市の路上に迎えたとあり、この市は奈良県桜井市にあった商業地です。
ここで重要なことは、『日本書紀』とは何か、ということです。
それは、以前このブログにも書きましたように、国内に向けて書かれたものではない、ということです。おそらくこの外交を中国と再開するにあたって、その歴史や皇帝の正当性を記した文献が中国にあって、国体というものがちゃんとある。しかし我が日本にはそれが無い。だから多分に、日本国という国の威信とその歴史、そして天皇の正当性を中国や朝鮮の国々に知らせようとして書かれた、というのがその編纂の意図でしょう。漢文で書かれていますし。
まあ、内々の権力闘争や系図の正当性についての記述は、いろいろ細工をやったことは考えられますが、こと外交についてはウソは書かなかったはずです。
なぜなら、中国や朝鮮の人が読むとき、自国の資料と照らし合わせて読まれることは必然であるからです。特に、妹子は煬帝に国書を渡しており、その返書を預かったとされています。国書は、国の元首がその名でもって発行する外交文書です。これは印が押され、保存されることが考えられます。何年に、誰の使節は、どこで誰と会い、何を取り決めたか、という内容は残るわけです。そして記録として残されます。そういうことは『書紀』編纂チームは意識していたはずです。
また、この編纂チームには滅亡した百済から亡命してきた学者たちもいました。自国の記録である百済や新羅の記録なども引用、参考にしたこともあったでしょう。
ですから、アメノタリシヒコという大王は当時存在していて、煬帝に遣いを送り、その遣いが翌年隋からの使者を連れて帰った、その遣いが朝廷で誰かに拝謁した、ということは事実であったと考えていいと思うわけです。
問題は、その誰かとは、誰やねん、ということですわな。
『隋書』には裴清(『書紀』では裴世清)は、冠位十二階のメンバーと思われる大勢の遣いに迎えられたことを記し、アメノタリシヒコの都へ赴き、その王が相見えた、と書いています。裴世清はアメノタリシヒコと会ったわけです。
で、『書紀』はそこをごまかした。謎が残る原因がここにあります。
ただ、『書紀』の記述の流れからすると、裴世清は天皇に拝謁せねばならない。天皇とは推古のことです。でも、推古天皇は女性です。
『隋書』には、倭王は男であるとしています。
あれれ、ですよね。
おそらく、裴世清が会ったのはアメノタリシヒコです。天皇ではなく、大王(おおきみ)です。では、アメノタリシヒコとは誰ぞや、ということになります。
『隋書』にそのヒントが書かれています。
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2013年04月19日
配信アリ
中山市朗です。
聖徳太子、いなかった説への反論、と行きたいところですが、お知らせです。
本日は、「幽怪案内」の配信日であります。
まず無料配信は、前回、オフィスイチロウのスタッフの証言にありました、MBSラジオ番組収録時に起こった怪異のドキュメント映像をお送りします。
まあ、ささいなことですが、本番中にケータイ電話の音がしているの、聞こえますでしょうか。ディレクターやミキサーの人たちが慌てている様子は見て取れると思います。
何より武川アナウンサーのビビりは尋常ではありません。この後、武川さんは私にお祓いを依頼して(できないと言うたんですけどね)、「私、子供もいるし、平和に暮らしていたのに、こんな世界があるなんて、知らずにすむならそのまま知らずにいたかった」なんて半泣きで言っていました。
ミキサーのおじさんは、なんと私の大学の先輩にあたる人らしく、『新耳袋』のファンだといいます。
私の顔を見るなり、「中山さん、ここ(このスタジオ)ヤバイんですよ。しょっちゅう妙な音が入り込むんです」なんて言ってまして、後にその入り込んだ妙な音、というのを聞かせてもらいました。
北野誠さんがパーソナリティをしている番組の録音テープ。ブースの中は三人なのに、もう一人の声がするんです。ふふふっ、と笑ったり、うめき声が聞こえたり、誠さんたちの話に同調するように「うん、うん」と返事をしたり。
で、ミキサーのおじさん、言うてはりました。
「まあ、なんせここ、昔墓場でしたからなあ。この建物の裏に碑も建ってますし」てなことをおっしゃってました。
このスタジオは、大阪梅田にありますMBSの放送局からちょっとだけ離れたマンション内にあるのですが、実は古地図を見ると、江戸時代までは梅田周辺には何もなくて、ただ、梅田墓地とだけ書いてある。ちょうど、その墓地が今のMBSの周辺なのです。
近松の「曽根崎心中」にある曽根崎も葦の生えているような寂れた場所として描かれています。梅田近辺は今は大繁華街となっておりますが、実は梅田というのは梅林でもあったのかと思ったりしますが、そうではなくて、もともと湿地帯で、泥土を埋め立てて田畑を造ったということで、埋田というのが本当のところのようです。
そういえば、大阪環状線で梅田の隣駅が「福島」なのですが、ここは古来お婆捨ての地で餓鬼島と呼ばれていて、それでは縁起が悪いと福島と名づけられた、と言いますが、この福島に以前ABC(朝日放送)があったんですが、ここもよお怪奇現象が起こっていました。あっ、いろいろ思い出した。また『幽怪案内』で語りますわ。
さて、有料動画は私の語りで怪談四題。
一人暮らしを始めた若い女性のマンション部屋が、なにかおかしい。季節は春から初夏になろうとしているのに・・・「てるてる坊主」。
ある男性は引っ越し先で、一本のビデオテープを発見。前の住人が忘れていったものなのかと見てみると、奇怪な現象が・・・「ビデオテープ」。
いやあ、一人暮らしには気をつけましょう。引っ越し先を誤ると、とんでもないことが起こるようです。
そして、あるパーマ屋さんに現れた「奇妙な客」の話と、引っ越した友人の家に訪ねていったら、やたら二階の住人が騒がしい。しかし友人にはその騒音が聞こえないらしい。おかしいなと、その正体を探ってみたら・・・「友人の家」。
決して他人話ではない、いかにも身近にありそうな怪異談をどうぞ。
TBSラジオ『らじこん』からどうぞ。
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まず無料配信は、前回、オフィスイチロウのスタッフの証言にありました、MBSラジオ番組収録時に起こった怪異のドキュメント映像をお送りします。
まあ、ささいなことですが、本番中にケータイ電話の音がしているの、聞こえますでしょうか。ディレクターやミキサーの人たちが慌てている様子は見て取れると思います。
何より武川アナウンサーのビビりは尋常ではありません。この後、武川さんは私にお祓いを依頼して(できないと言うたんですけどね)、「私、子供もいるし、平和に暮らしていたのに、こんな世界があるなんて、知らずにすむならそのまま知らずにいたかった」なんて半泣きで言っていました。
ミキサーのおじさんは、なんと私の大学の先輩にあたる人らしく、『新耳袋』のファンだといいます。
私の顔を見るなり、「中山さん、ここ(このスタジオ)ヤバイんですよ。しょっちゅう妙な音が入り込むんです」なんて言ってまして、後にその入り込んだ妙な音、というのを聞かせてもらいました。
北野誠さんがパーソナリティをしている番組の録音テープ。ブースの中は三人なのに、もう一人の声がするんです。ふふふっ、と笑ったり、うめき声が聞こえたり、誠さんたちの話に同調するように「うん、うん」と返事をしたり。
で、ミキサーのおじさん、言うてはりました。
「まあ、なんせここ、昔墓場でしたからなあ。この建物の裏に碑も建ってますし」てなことをおっしゃってました。
このスタジオは、大阪梅田にありますMBSの放送局からちょっとだけ離れたマンション内にあるのですが、実は古地図を見ると、江戸時代までは梅田周辺には何もなくて、ただ、梅田墓地とだけ書いてある。ちょうど、その墓地が今のMBSの周辺なのです。
近松の「曽根崎心中」にある曽根崎も葦の生えているような寂れた場所として描かれています。梅田近辺は今は大繁華街となっておりますが、実は梅田というのは梅林でもあったのかと思ったりしますが、そうではなくて、もともと湿地帯で、泥土を埋め立てて田畑を造ったということで、埋田というのが本当のところのようです。
そういえば、大阪環状線で梅田の隣駅が「福島」なのですが、ここは古来お婆捨ての地で餓鬼島と呼ばれていて、それでは縁起が悪いと福島と名づけられた、と言いますが、この福島に以前ABC(朝日放送)があったんですが、ここもよお怪奇現象が起こっていました。あっ、いろいろ思い出した。また『幽怪案内』で語りますわ。
さて、有料動画は私の語りで怪談四題。
一人暮らしを始めた若い女性のマンション部屋が、なにかおかしい。季節は春から初夏になろうとしているのに・・・「てるてる坊主」。
ある男性は引っ越し先で、一本のビデオテープを発見。前の住人が忘れていったものなのかと見てみると、奇怪な現象が・・・「ビデオテープ」。
いやあ、一人暮らしには気をつけましょう。引っ越し先を誤ると、とんでもないことが起こるようです。
そして、あるパーマ屋さんに現れた「奇妙な客」の話と、引っ越した友人の家に訪ねていったら、やたら二階の住人が騒がしい。しかし友人にはその騒音が聞こえないらしい。おかしいなと、その正体を探ってみたら・・・「友人の家」。
決して他人話ではない、いかにも身近にありそうな怪異談をどうぞ。
TBSラジオ『らじこん』からどうぞ。
リンク先はこちら。
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2013年04月18日
反論の鍵貸します その1
聖徳太子いなかった説、反論!
中山市朗です。
さてさて、今の日本の歴史学、どないなってまんのやろね。
自虐史観を子供たちに植え付けたと思ったら、このたび、高校の日本史教科書の一部は、聖徳太子は実在したか、という項目が掲載されることになったといいますやん。
まあ、この説を載せた編集部によると「近年『日本書紀』や法隆寺系の史料研究をもとに、聖徳太子の実像について多くの疑問が提起されています。そこで資料にはさまざまな見方があり、定説を疑うことを考えてもらうために掲載しました」と言います。
もっとも、聖徳太子がいなかったという説も、いろいろな見方があるのでして、まずは聖徳太子という名は死後百年経って呼ばれたから、というのがありますが、じゃあいたんじゃないの、とツッコミを入れたくなりますわ。
聖徳太子というのは諡号でありまして、これは言霊を重んじる日本ではよくあることです。偉人が生きているときはあんまり名前で呼ばないんですね。昭和天皇というのも諡号です。だから後に聖徳太子と名づけられたから、聖徳太子はいなかった、というのは屁理屈に聞こえます。これだと昭和天皇もいなかった、なんて解釈にもなりまねません。
ちなみに聖徳太子が生きていたとき、どう呼ばれていたのかは実はわかっていません。
厩戸という名は「書紀」にも出てきますが、他にもいろいろな名が記されています。
このほかにいなかった説が唱えられる原因としては、憲法十七条は後に作られたぽい、とか、モデルになった厩戸王という人物はいたが、摂政として国政を担当していた人物は別だった、とか。だから実はそんなにスゴイ人ではなかったとか、権力者何人かの業績を聖徳太子という人の功績にしたのだ、とか、そういうことでして、厩戸王という人がいなかったと完全否定するものではないようです。
ただ、まあそんなに大した人物じゃなかったんじゃない? ということですね。
もっとも、聖徳太子は蘇我入鹿だった、蘇我馬子だった、九州王朝の王だった、という本も出ています。
このブログで何度も書きましたように、歴史学とは文献批評、批判なんですね。
ですから文献を疑おうと思えばいくらでも疑うことはできるわけです。
極端な話、『日本書紀』は聖徳太子死後百年経って書かれた。だからウソだ、という言い方は誰にだってできるわけです。ただ、聖徳太子の実在を示す文献は『日本書紀』だけでなく、法隆寺の薬師如来後背の金碑文に「東宮聖王」という文字が見え、前後の文脈から見て、これは聖徳太子のことを指すと思われるわけです。ひょっとしたら生前、聖徳太子は「聖王様」と呼ばれていたのかもしれません。また、中宮寺が所蔵する国宝「天寿国繍帳」という飛鳥時代の工芸品には、等巳刀弥弥乃己等という名が見られ、これは『書紀』にある聖徳太子の名前の一つ、豊聡耳命(とよとみみのみこと)であることは明らかでして、この帳にはその他当時の皇族の名前が記される貴重な資料ということになります。しかもこれらは『書紀』成立以前のもの、つまりは聖徳太子の時代、あるいは死後すぐに記されたものということになります。ところがこの資料に信憑性なし、という疑問が投げかけられているわけです。それは、いずれにも「天皇」という文字が見られることなんですね。
歴史学の世界では、天皇という表記は聖徳太子の時代よりもっと後のこととなる天武天皇の時代から、というのが通説になっているんです。ですから、それ以前に「天皇」という表記があることはまずい。これは後代になって作られた偽者である、としたいわけです。
ということで、聖徳太子の実在をリアルタイムで記したであろう史料は、学者の間でもその成立年代について、信頼すべき、いや、信憑性はない、と分かれているわけです。
私は、天皇という称号を最初に使ったのは聖徳太子だと思っておりまして、その詳しい理由は拙書『聖徳太子 四天王寺の暗号』を読んでいただきたいところですが、そこも含めて、聖徳太子いなかった説に反論したいと思います。
文献ばかりじゃ、そりゃわからん。外にも見るべきものがあるやろ!
ということで、次回に続きます。
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中山市朗です。
さてさて、今の日本の歴史学、どないなってまんのやろね。
自虐史観を子供たちに植え付けたと思ったら、このたび、高校の日本史教科書の一部は、聖徳太子は実在したか、という項目が掲載されることになったといいますやん。
まあ、この説を載せた編集部によると「近年『日本書紀』や法隆寺系の史料研究をもとに、聖徳太子の実像について多くの疑問が提起されています。そこで資料にはさまざまな見方があり、定説を疑うことを考えてもらうために掲載しました」と言います。
もっとも、聖徳太子がいなかったという説も、いろいろな見方があるのでして、まずは聖徳太子という名は死後百年経って呼ばれたから、というのがありますが、じゃあいたんじゃないの、とツッコミを入れたくなりますわ。
聖徳太子というのは諡号でありまして、これは言霊を重んじる日本ではよくあることです。偉人が生きているときはあんまり名前で呼ばないんですね。昭和天皇というのも諡号です。だから後に聖徳太子と名づけられたから、聖徳太子はいなかった、というのは屁理屈に聞こえます。これだと昭和天皇もいなかった、なんて解釈にもなりまねません。
ちなみに聖徳太子が生きていたとき、どう呼ばれていたのかは実はわかっていません。
厩戸という名は「書紀」にも出てきますが、他にもいろいろな名が記されています。
このほかにいなかった説が唱えられる原因としては、憲法十七条は後に作られたぽい、とか、モデルになった厩戸王という人物はいたが、摂政として国政を担当していた人物は別だった、とか。だから実はそんなにスゴイ人ではなかったとか、権力者何人かの業績を聖徳太子という人の功績にしたのだ、とか、そういうことでして、厩戸王という人がいなかったと完全否定するものではないようです。
ただ、まあそんなに大した人物じゃなかったんじゃない? ということですね。
もっとも、聖徳太子は蘇我入鹿だった、蘇我馬子だった、九州王朝の王だった、という本も出ています。
このブログで何度も書きましたように、歴史学とは文献批評、批判なんですね。
ですから文献を疑おうと思えばいくらでも疑うことはできるわけです。
極端な話、『日本書紀』は聖徳太子死後百年経って書かれた。だからウソだ、という言い方は誰にだってできるわけです。ただ、聖徳太子の実在を示す文献は『日本書紀』だけでなく、法隆寺の薬師如来後背の金碑文に「東宮聖王」という文字が見え、前後の文脈から見て、これは聖徳太子のことを指すと思われるわけです。ひょっとしたら生前、聖徳太子は「聖王様」と呼ばれていたのかもしれません。また、中宮寺が所蔵する国宝「天寿国繍帳」という飛鳥時代の工芸品には、等巳刀弥弥乃己等という名が見られ、これは『書紀』にある聖徳太子の名前の一つ、豊聡耳命(とよとみみのみこと)であることは明らかでして、この帳にはその他当時の皇族の名前が記される貴重な資料ということになります。しかもこれらは『書紀』成立以前のもの、つまりは聖徳太子の時代、あるいは死後すぐに記されたものということになります。ところがこの資料に信憑性なし、という疑問が投げかけられているわけです。それは、いずれにも「天皇」という文字が見られることなんですね。
歴史学の世界では、天皇という表記は聖徳太子の時代よりもっと後のこととなる天武天皇の時代から、というのが通説になっているんです。ですから、それ以前に「天皇」という表記があることはまずい。これは後代になって作られた偽者である、としたいわけです。
ということで、聖徳太子の実在をリアルタイムで記したであろう史料は、学者の間でもその成立年代について、信頼すべき、いや、信憑性はない、と分かれているわけです。
私は、天皇という称号を最初に使ったのは聖徳太子だと思っておりまして、その詳しい理由は拙書『聖徳太子 四天王寺の暗号』を読んでいただきたいところですが、そこも含めて、聖徳太子いなかった説に反論したいと思います。
文献ばかりじゃ、そりゃわからん。外にも見るべきものがあるやろ!
ということで、次回に続きます。
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2013年04月12日
配信アリ
中山市朗です。
本日は、「幽怪案内」配信日であります。
今回は、一昨年、毎日放送ラジオで「茶屋町怪談倶楽部」という番組に出演したときに起こった、ちょっとした怪異を紹介しております。そして来週は、そのスタジオにビデオカメラを持ち込んでいましたので、偶然撮れたその怪異のドキュメントをご覧いただけることになっております。無料です。武川アナウンサー、めっちゃびびってます。
そして有料番組は、西宮市にあります有名な霊スポット、お○○岩を紹介しております。
○○の部分は自主規制であります。東京ではお○○○岩となります。
なんでそんな名前がついたのかは、動画で説明しています。
最近、あの岩の近辺の道路の拡張工事をしていましたが、またまた奇妙なことになっています。どうしてもあの岩は避けなければならないようですね。
そしてもう一本は、ある男性が出張先の旅館で遭った怪異談を。セールスで日本全国を回っているサラリーマンの方、大変ですね・・・。
TBSラジオ「らじこん」からどうぞ。
あ、それとオフィスイチロウのホームページにあります、スタッフのブログ「魔界見聞録」では、ちびちびと、庫出し(引き出し?)の心霊写真を紹介しております。 まあ、怪しいものもありますけど。持ってこられた方は大変にびびっておられますので。
処分に困った心霊写真(のようなもの?)や動画などがありましたら、ぜひ、オフィスイチロウまで送ってください。私が預かれば大丈夫です。多分・・・。
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最近、あの岩の近辺の道路の拡張工事をしていましたが、またまた奇妙なことになっています。どうしてもあの岩は避けなければならないようですね。
そしてもう一本は、ある男性が出張先の旅館で遭った怪異談を。セールスで日本全国を回っているサラリーマンの方、大変ですね・・・。
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2013年04月11日
おお神は太子の匂い その12
中山市朗です。
ちょいとパソコンの調子がよくなくて、ブログが途絶えておりました。
こういう世界にも流行病があるのでしょうか、買ってまだ二ヶ月のプリンターも調子が悪くなり、結局メーカーが「取り替えいたします」と言ってきよった。
ところで、塾生東野くんが自身のブログで、私が『聖徳太子 四天王寺の暗号』を出版したことに関連付けて、父、東野治之教授の著作のレビューを書いています。
彼が入塾してしばらくしたとき、「うちのオヤジが言っている日本の古代史と、中山先生が言っている古代史のアプローチが全然違うところに興味をもって、入塾しました」というので、「キミのオヤジさんは歴史の研究してはんの?」と聞くと、「平城京から出る木簡の研究をしています」と言って、そこで「もしや!」と思ったわけです。
それ、読んだ。『木簡が語る日本の古代』。著者は東野治之。あ、あの著者、キミのオヤジさんかいな。『遣唐使と正倉院』『遣唐使船東アジアの中で』『日本古代史科学』もそうやん。読んでるで。
ということで、我が塾生の御父上は紫綬褒章も受けられた、歴史学者なのであります。
「いっぺん、キミのお父さんと対談したいわ。Dark Nightで古代史やるからゲストに来てもらわれへんかなあ」と不遜にも提案したら「その時間、オヤジ寝てます」とやんわり拒否されました。
とはいえ、私はこのブログで何度も書きましたように、歴史の専門家でもなんでもありません。ましてや東野教授のような学者の先生方に認められようとか、挑戦してやろうなんてことも考えていません。東野くんが言うように、そもそもアプローチの仕方が違うわけですから。
聖徳太子の話をすると、必ず「聖徳太子はいなかったという説がありますが、どうなんですか?」という質問が出るんですが、文献だけを追うと確かにそこは疑問となる。
古代の文献というのは記録であり、そこに人間性は表現されていません。
でも、聖徳太子が建てたとされる四天王寺を起点にして、謎となる部分を追っていくと、神道を崇め、道教の専門知識があり、物部の血を引く、聖徳太子の一族がいたことが実感として出てくるわけです。そしてそれは丹後半島に行き、太陽信仰をする海洋民族にまでそのルーツは辿れるわけです。人間がいるんです、そこには。神とともに生きる古代の人間が。そこは文献批判、批評が主たる歴史学会は扱えないわけです。
塩野七生さんは、私の好きな作家のおひとりでして、イタリア史やイタリアに関連した作品を多く書かれていて、ルキノ・ヴィスコンティに気に入られた、なんていう人ですが、彼女はあるインタビューでこんなことを言っていました。
「私はまず歴史学者ではありません。学者は他人の書いたものを研究する人です。私は他人が書いたものを研究するよりも、自分自身で歴史を書きたかった」
これは、ほんまにおこがましいことですが、私も同じです。
怪談作家は、怪談書いてりゃええのに、という意見があるんですが、どうしてもこれは書きたい衝動にかられたわけです(未だ陽の目を見ない『モーツァルトの血痕』もその衝動にかられ、2年半も書き続けたわけですが)
塩野さんはこうも言っています。
「私が書いたのは、あくまで作家が書いた歴史です。学者が書く歴史と作家が書く歴史のどこが違うのかといえば、調べる史料ならまったく違わない。何が違うのかと言えば、人間に対する興味が作家のほうが断じて強い。ですから作家の書いた歴史作品では、登場する人間たちが生きてくるということはあります」
聖徳太子の母、間人皇后なんて文献のみで研究すると、皇子たちをお産みになったということと、崩御されたことが碑文に残っているくらいなんでですけどね。だいたいあの時代の記録には、身分高き女性でも子供を産まないと名前さえ記されません。ですから、あとはもうほとんどわずかな伝承や社寺の由緒などを拾いながら、人間ならば、あるいは一人の女として、という観点からの推測しかできないわけで、これはもう作家だから許されることだと思うわけです。
そして、聖徳太子はいなかったなんていう説がはびこって、最近の教科書までも、疑わしい、なんて書いているそうですけど、とんでもない。いましたよ。確実に。聖徳太子というとてつもない偉人がいたからこそ、四天王寺を起点に、丹後の海部氏へとたどり着けたわけです。
そして四天王寺を造った人物は、神道、道教の知識、実践能力に非常に長けた尋常ならない人物であることも確かなこと。聖徳太子がいなかったとすれば、一体そのオカルティストは誰なのか。そしてそのオカルトの奥義が取り込まれて、天皇がなったわけです。
でもまあ、私の提示する古代史ですから、肩肘張らずに、ふーん、そんな考え方もあるんだ。と、少しでもそういうことに興味をもっていただければ、それで幸いであります。
古代史ツアーなんてやりたいですな。
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ちょいとパソコンの調子がよくなくて、ブログが途絶えておりました。
こういう世界にも流行病があるのでしょうか、買ってまだ二ヶ月のプリンターも調子が悪くなり、結局メーカーが「取り替えいたします」と言ってきよった。
ところで、塾生東野くんが自身のブログで、私が『聖徳太子 四天王寺の暗号』を出版したことに関連付けて、父、東野治之教授の著作のレビューを書いています。
彼が入塾してしばらくしたとき、「うちのオヤジが言っている日本の古代史と、中山先生が言っている古代史のアプローチが全然違うところに興味をもって、入塾しました」というので、「キミのオヤジさんは歴史の研究してはんの?」と聞くと、「平城京から出る木簡の研究をしています」と言って、そこで「もしや!」と思ったわけです。
それ、読んだ。『木簡が語る日本の古代』。著者は東野治之。あ、あの著者、キミのオヤジさんかいな。『遣唐使と正倉院』『遣唐使船東アジアの中で』『日本古代史科学』もそうやん。読んでるで。
ということで、我が塾生の御父上は紫綬褒章も受けられた、歴史学者なのであります。
「いっぺん、キミのお父さんと対談したいわ。Dark Nightで古代史やるからゲストに来てもらわれへんかなあ」と不遜にも提案したら「その時間、オヤジ寝てます」とやんわり拒否されました。
とはいえ、私はこのブログで何度も書きましたように、歴史の専門家でもなんでもありません。ましてや東野教授のような学者の先生方に認められようとか、挑戦してやろうなんてことも考えていません。東野くんが言うように、そもそもアプローチの仕方が違うわけですから。
聖徳太子の話をすると、必ず「聖徳太子はいなかったという説がありますが、どうなんですか?」という質問が出るんですが、文献だけを追うと確かにそこは疑問となる。
古代の文献というのは記録であり、そこに人間性は表現されていません。
でも、聖徳太子が建てたとされる四天王寺を起点にして、謎となる部分を追っていくと、神道を崇め、道教の専門知識があり、物部の血を引く、聖徳太子の一族がいたことが実感として出てくるわけです。そしてそれは丹後半島に行き、太陽信仰をする海洋民族にまでそのルーツは辿れるわけです。人間がいるんです、そこには。神とともに生きる古代の人間が。そこは文献批判、批評が主たる歴史学会は扱えないわけです。
塩野七生さんは、私の好きな作家のおひとりでして、イタリア史やイタリアに関連した作品を多く書かれていて、ルキノ・ヴィスコンティに気に入られた、なんていう人ですが、彼女はあるインタビューでこんなことを言っていました。
「私はまず歴史学者ではありません。学者は他人の書いたものを研究する人です。私は他人が書いたものを研究するよりも、自分自身で歴史を書きたかった」
これは、ほんまにおこがましいことですが、私も同じです。
怪談作家は、怪談書いてりゃええのに、という意見があるんですが、どうしてもこれは書きたい衝動にかられたわけです(未だ陽の目を見ない『モーツァルトの血痕』もその衝動にかられ、2年半も書き続けたわけですが)
塩野さんはこうも言っています。
「私が書いたのは、あくまで作家が書いた歴史です。学者が書く歴史と作家が書く歴史のどこが違うのかといえば、調べる史料ならまったく違わない。何が違うのかと言えば、人間に対する興味が作家のほうが断じて強い。ですから作家の書いた歴史作品では、登場する人間たちが生きてくるということはあります」
聖徳太子の母、間人皇后なんて文献のみで研究すると、皇子たちをお産みになったということと、崩御されたことが碑文に残っているくらいなんでですけどね。だいたいあの時代の記録には、身分高き女性でも子供を産まないと名前さえ記されません。ですから、あとはもうほとんどわずかな伝承や社寺の由緒などを拾いながら、人間ならば、あるいは一人の女として、という観点からの推測しかできないわけで、これはもう作家だから許されることだと思うわけです。
そして、聖徳太子はいなかったなんていう説がはびこって、最近の教科書までも、疑わしい、なんて書いているそうですけど、とんでもない。いましたよ。確実に。聖徳太子というとてつもない偉人がいたからこそ、四天王寺を起点に、丹後の海部氏へとたどり着けたわけです。
そして四天王寺を造った人物は、神道、道教の知識、実践能力に非常に長けた尋常ならない人物であることも確かなこと。聖徳太子がいなかったとすれば、一体そのオカルティストは誰なのか。そしてそのオカルトの奥義が取り込まれて、天皇がなったわけです。
でもまあ、私の提示する古代史ですから、肩肘張らずに、ふーん、そんな考え方もあるんだ。と、少しでもそういうことに興味をもっていただければ、それで幸いであります。
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2013年04月05日
らじコン・エアー
中山市朗です。
いよいよ「幽怪案内」スタートです。
私が語る怪談を中心に、無料動画では心霊スポット案内、怪異ドキュメント、怪談談義などもぞくぞくと配信していきます。
TBSラジオ「らじこん」から。
また、「幽怪案内」に「古代史探偵団」をリンクさせました。
四天王寺編、四天王寺七宮編、元四天王寺編に続いて、石上神宮編も貼り付けています。
天理市・穴穂神社、石神神宮、元石上神社と桃尾の滝、そして八尾市にある“聖徳太子のお母さん、間人皇后の出生”のカギを握る、穴太神社に皆様を誘います。
拙書『聖徳太子の暗号』のビデオ編ともいうべき動画であります!!
こちらは全編無料となっております。
真名子の古代史ユルユル四コママンガも合わせてどうぞ。
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2013年04月04日
素晴らしき月曜日
中山市朗です。
先日4月1日(月)は、作劇塾創設十周年目の記念と私の生誕日。
そのお祝いの飲み会を塾生たちが催してくれました。
十周年。ここまで続くとは思いませんでした。
何度も危機があり、それでもなんとか乗り越えてきたわけです。
慢性の赤字、給料なし、塾生たちの若気からの裏切り(これが一番辛いですわ)、言うこと聞かない奴(たいてい消えますけど)、私が呼んだゲストの方々への失礼な態度(ほんますみません)、そんなことの連続で、まあ私もこの間、よおぐれんと続けてきたなと。
それでもここまでやってこれたのは、夢を実現し「先生、今度こんな作品出ます」とか「こんな依頼がきました」と報告してくれる塾生たちの笑顔、自信に満ちた表情があってこそです。それに、人に教えるということは、いつもは漠然と考えていたことを理論化し、体系化することが必要となり、随分とそのことが私自身にとって大いに勉強になったということもあります。そして、若い人たちの考えていることや、行動などにも接することもできます。これもえらい勉強になります。
我が作劇塾を選び、通ってくれたすべての塾生たちに感謝いたします。
そして、今マンガコースをもってくださっている中島先生、法山先生。そして過去、講師を引き受けてくださっていた落合先生、山崎先生、堤谷先生、高木先生にも感謝いたします。
そして運営面で尽力くださり、今もサポートいただいている大滝社長なしでは、この十周年を迎えることはできなかったでしょう。
また、塾と提携してくださったエンタイトル出版の打越編集長、塾生と親しく懇親くださり、お仕事までくださった業界の皆様方、一つ欠けても塾はなりませんでした。
人のつながりがあってこその塾であり、わたくし、中山市朗であります。
この場を借りて、感謝いたします。ありがとうございました。

二次会に参加してくれた、元教え子の山崎童々が「また新作を出しました」と『BET.』を献本してくれました。『FEEL YOUNG』で連載中です。
さて、翌日の夜六時三十分より、大阪天満繁昌亭にて、新撰落語「もぎた亭」がありました。今やすっかり落語作家という肩書きが伊達ではなくなってきた塾生高田豪くんの新作落語を桂文福師匠が演じるというので見に行ったわけです。
なんだ、この変態、いや、斬新な落語は!
「蜂の恩返し」という演題だったわけですが、ある男に助けてもらった蜂が、女王蜂、いや、女王となって男に恩返し。女王といってもSMのほうでして。
えーっ、これは高田の台本がそうなっているのか、文福師匠の恥も知らない演技がすごいのかよくわからないんですが、とにかく、なんですわ。そのう・・・爆笑とってました。内容はペラペラですけど。まあ落語に内容を求めちゃいかんか。
露の団四郎「2050年(向山正家・作)」 林家そめすけ「替え玉屋(神崎辰也・作)」 森乃福郎「猫の手(神崎京一・作)」とそれぞれ楽しめましたが、高田くんのは、ある意味画期的作品でした。
文福師匠、このネタを再度演じることはあるのでしょうか?

塾生からもらった神の酒をパチリ!
賀茂氏と八咫烏!!
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中山市朗作劇塾は新規塾生を募集中です。
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先日4月1日(月)は、作劇塾創設十周年目の記念と私の生誕日。
そのお祝いの飲み会を塾生たちが催してくれました。
十周年。ここまで続くとは思いませんでした。
何度も危機があり、それでもなんとか乗り越えてきたわけです。
慢性の赤字、給料なし、塾生たちの若気からの裏切り(これが一番辛いですわ)、言うこと聞かない奴(たいてい消えますけど)、私が呼んだゲストの方々への失礼な態度(ほんますみません)、そんなことの連続で、まあ私もこの間、よおぐれんと続けてきたなと。
それでもここまでやってこれたのは、夢を実現し「先生、今度こんな作品出ます」とか「こんな依頼がきました」と報告してくれる塾生たちの笑顔、自信に満ちた表情があってこそです。それに、人に教えるということは、いつもは漠然と考えていたことを理論化し、体系化することが必要となり、随分とそのことが私自身にとって大いに勉強になったということもあります。そして、若い人たちの考えていることや、行動などにも接することもできます。これもえらい勉強になります。
我が作劇塾を選び、通ってくれたすべての塾生たちに感謝いたします。
そして、今マンガコースをもってくださっている中島先生、法山先生。そして過去、講師を引き受けてくださっていた落合先生、山崎先生、堤谷先生、高木先生にも感謝いたします。
そして運営面で尽力くださり、今もサポートいただいている大滝社長なしでは、この十周年を迎えることはできなかったでしょう。
また、塾と提携してくださったエンタイトル出版の打越編集長、塾生と親しく懇親くださり、お仕事までくださった業界の皆様方、一つ欠けても塾はなりませんでした。
人のつながりがあってこその塾であり、わたくし、中山市朗であります。
この場を借りて、感謝いたします。ありがとうございました。

二次会に参加してくれた、元教え子の山崎童々が「また新作を出しました」と『BET.』を献本してくれました。『FEEL YOUNG』で連載中です。
さて、翌日の夜六時三十分より、大阪天満繁昌亭にて、新撰落語「もぎた亭」がありました。今やすっかり落語作家という肩書きが伊達ではなくなってきた塾生高田豪くんの新作落語を桂文福師匠が演じるというので見に行ったわけです。
なんだ、この変態、いや、斬新な落語は!
「蜂の恩返し」という演題だったわけですが、ある男に助けてもらった蜂が、女王蜂、いや、女王となって男に恩返し。女王といってもSMのほうでして。
えーっ、これは高田の台本がそうなっているのか、文福師匠の恥も知らない演技がすごいのかよくわからないんですが、とにかく、なんですわ。そのう・・・爆笑とってました。内容はペラペラですけど。まあ落語に内容を求めちゃいかんか。
露の団四郎「2050年(向山正家・作)」 林家そめすけ「替え玉屋(神崎辰也・作)」 森乃福郎「猫の手(神崎京一・作)」とそれぞれ楽しめましたが、高田くんのは、ある意味画期的作品でした。
文福師匠、このネタを再度演じることはあるのでしょうか?

塾生からもらった神の酒をパチリ!
賀茂氏と八咫烏!!
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kaidanyawa at 19:49|Permalink│Comments(4)│
2013年04月01日
配信アリ
中山市朗です。
情報解禁です。
何度かお知らせしながらも、なぜかトラブル続きで、なかなか配信にいたりませんでした『幽怪案内』、ついに配信の場所と日程が決まりました!
これは私が語る怪談をビデオ収録したもので、大量の未発表怪談を中心に、200話以上のストックをしているものです。
配信場所はTBSラジオが運営する「らじこん」という有料コンテンツのポータブルサイト。本来、TBS系列のラジオ局などが放送した番組やオリジナル・コンテンツを聴けるよう、インターネットで配信しているサイトですが、今回初めてこの「らじこん」から、動画の配信をやることになったわけです。怪談も初めて。
第一回配信日は4月5日午後12時より。
以後、毎週金曜日の同時刻に、配信していく予定です。
基本的に、10分前後の動画を一回につき3本配信。1本は無料動画としますので、まずは無料動画をお試し下さい。で、気になったら有料で・・・いや、無料動画だけでも毎週楽しめます。怪談好きな方はぜひ。
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もうしばらく、もうしばらくのご猶予を!
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