2015年04月

2015年04月30日

安倍首相の演説に思う。

中山市朗です。

怪談とオカルトについてのパート3と、行きたいところですが、また近いうちに。

言わせてくださいな。

安倍首相の米議会演説。いや、感動です。
こういう機会が与えられた背景には、チョーシにのりすぎた中国の脅威と、米国国債の保有額が日本が中国を抜いてNo1になったこと、また、今年は戦後70年という節目、ということもあったのでしょう。
しかしまあ、外交というのは、現金なものですなあ。
前にオバマ大統領が日本に来たときは、完全に上から目線、でしたのにねえ。
民主党政権下の頃は、むしろ中国、韓国が重要だ、なんて言っていたと、日本のマスコミは悲観もしていたし。
で、安倍さんは、米国にリニアモーターカーのセールスもやったとか。
で、ほぼ、実現しそうだとか。
したたかですやん。

今回の演説は、中でも先の大戦のことをどう表現するか、が注目されましたが。

太平洋戦争では、日米がすさまじい戦いを展開し、大勢の人たちが犠牲となりました。これは双方ね。     でも、日本のほとんどの大都市は瓦礫と化し、広島、長崎には原爆が落とされ、沖縄は連合軍の本土進出の防波堤として、これも大勢の一般市民も犠牲となりました。戦争が終わっても、シベリア抑留、満州、朝鮮半島における一般の日本人への暴行暴漢。
しかし日本は、戦後、米国やソ連に、恨み言の一つも言わず、協定を守り、憲法上戦争を放棄し、経済大国を目指し、見事それを成し、アジアや中東の発展に大きく貢献してきました。
その証には、中国、韓国以外のアジア、中東は実に親日的であり、先日の天皇陛下のパラオ訪問の地元の人たちの歓迎ぶりなどからも、それは理解できましょう。ちなみに、パラオは激戦地、ペリリュー島のあったところ。スピルバーグ監修のテレビドラマ「ザ・パシフィック」にも、その凄惨な戦争が再現されていました。
つまり、先の大戦、というと日本はすぐに謝罪、反省をと日本人自身が気にするが、誇るべきこともあったということ。

もちろん、日本は他国を戦場にしたわけですから、そこの人たちには迷惑をかけ、犠牲者も出した。そこは、今回安倍首相が演説に盛り込んだように、今回の演説では「痛切に反省」という弁で触れておけばいい。
あまりそこを強調すると、かえって、民間人を殺傷し、原爆を使った米国を責めちゃうことになりかねない。
で、朝日新聞は見出しで一言。
おわびなし。
誰にお詫びすんねん?
米国の上下両院合同会議やぞ。
お詫びは、本来、米国が日本にすることが、本来の筋合い、やと私は思います。しかし日本は敗戦国となって、そういうことは求めない、ということにしたわけです。
また、米国は絶対に謝罪はしませんし、というか、そんなに謝罪を繰り返している国って、日本以外にありますか?
日本人のお人よし加減が、こんなことになっちゃったわけです。まあそれも、日本人の美徳ですか。
またほんで、あいも変わらず、安倍首相の演説を妨害したり「従軍慰安婦問題の謝罪」を求めてヒステリックになる韓国という国はなんなんですかねえ。

ただ、日本のマスコミも、いつまでも先の大戦の反省だのお詫びだのばっかり言っていないで、これからの日米同盟、世界への貢献、経済的連携、平和維持について語り、報じるべきです。
戦争への反省、お詫び、と書けば叩かれない、無難、だという意図が、なんか厭ですね。
70年前ですよ。
今、日本人のほとんどが、もう知らない世界ですやん。

とはいえ、もちろん、歴史は学ぶべきです。これは重要!
ただし、何のために歴史を知るべきかを、肝に銘じること。そして自分で調べる。
腐った教科書(最近はだいぶ改良されたようですが)は、いらない!

そしたら、今、日本が置かれている状況は、第二次大戦前のアジアの情勢に似ている、ということがわかる。
ただ、ちがうところは、当時米国がそれを仕掛け、敵にまわったこと。
今回は、米国が日本との同盟国であること。

日本はこれからどうするべきか。
それは、我々日本人が考え、実行すること。

戦争を反省しろ、詫びろという考えもあって当然。思想は自由。
ただし、何に対して反省し、何を持って詫びるのか、そこを考えるべきでしょう。


 

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2015年04月28日

お知らせ

中山市朗です。

5月23日(土)、私の怪談蒐集のためのプライベート怪談会を24:00より開催いたします。
オールナイトで、怪談を語り聞こうという、本来の怪談会を楽しみましょう、というものです。
参加費は無料ですが、怪談を一話は語ること。
ネットや雑誌、テレビなどで発表されているものはNG。
あなたの体験談、もしくは、周りから聞いたお話などを語っていただければ、嬉しいのですが。
オールナイトですので、飲み物やおつまみ、菓子類などの持ち込みはOKです。

予約状況ですが、まあまあ、ぼちぼち。
メールでくださった方には全員に返信をしておりますが、場合によっては届いていないこともあります。
「届いてないぞ」という方、もう一度メールを下さるか、お電話で予約ください。

「月刊ムーの世界不思議紀行3」の日程が決まりました。

6月16日(火)、Loftplasone West(大阪ミナミ、宗衛門町)
18:00〜開店
19:30〜開演
出演
三上丈晴(月刊ムー・編集長)
飛鳥昭雄(サイエンス・エンターティナー)
中山市朗(怪異蒐集家、作家)
ロビ前田
尾崎テロル

前売 2500円  当日3000円

問合せ 06-6211-5952(16:00〜24:00)

今度こそ、聖徳太子「未来記」、やります。
こちらは、ほんとうにオカルトの世界。日本にもオカルトは存在する、ということがわかります。
「未来記」から見えてくる、神道、道教、陰陽、そして聖書の世界。秦氏、賀茂氏、そして、エジプトの秘儀、フリーメーソン、イルミナティ、モーツァルトの「魔笛」!
その「魔笛」に暗号化され、封じ込められた「日本人よ、覚醒せよ!」 というモーツァルトのメッセージ。
こんな話は、絶対に他では聞けない!
て、どこまで話せるかな?

そして、「Dark Night 15」は、7月に開催します。
ゲストは北野誠さん、松原タニシくん。
詳細は、5月の下旬あたりに、ツィッター、このブログ、魔界見聞録で。

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2015年04月27日

怪談とオカルト その弐

中山市朗です。
 
前回の続きです。

宗教、神がオカルトに関わってくる、と、ここまで書きました。

ちょっとこれは、以前にこのブログで書いたことですので、ずっと私のブログを読んでいる人は、ご存知のエピソードですが……。

京都の某大学の宗教学の教授でタレントでもあるJさんが、パーソナリティをつとめるラジオ番組に出たときのことです。
Jさんはアメリカ人。典型的なアングロサクソンです。
知り合いが担当の作家さんでして、Jさんに「中山さんは、オカルト研究家なんです」と紹介したら、彼の目の色が変わった。そして言うわけです。
「日本人に、オカルトがわかるわけがない。あれは『聖書』を読み込まないとわかりません。あなた、『聖書』、ちゃんと読んでるの? 日本人はオカルトを勘違いしている」
私言いました。
「いや、日本にもオカルトはあります」
「ない。あれは『聖書』がありきなんだ。『聖書』の神とそれに対抗する悪魔、サタンを知ることがオカルトなんだ」
と、J教授ははっきりと言った。
で、ちょっと言い合いになった。
ここで、知り合いがストップをかけて、本番。もちろん何事もなかったように番組収録は行いましたが。

一時期、所属事務所がパワーストーンを販売していたことから、オカルト芸人と叩かれた女性タレントが「私はクリスチャンなので、オカルト関連の活動はしていない」と言っていました。
つまり、オカルトなんて、私たちクリスチャンは関係ない。キリスト教徒はそんなもの信じていない。だから私は関わっていない、という原理。
そうですね。普通のキリスト教徒の人たちは、どちらかというと、そういう話を嫌がる。信じていません、という。

さて、宗教学が専門のアメリカ人教授は「オカルトは『聖書』を読み込まないとわからない」と言い、一般のキリスト教の信者は「キリスト教はオカルトとは関係ない」という。この二面性に、オカルトを解く鍵があるんです。

ものすごく(?)判りやすい例で説明しましょう。

敬虔なキリスト教徒の大部分の人は、蛇はサタンの化身だと思っています。なぜなら、蛇は、「創世記第3章」でイブを惑わし、神が「食べてはならない」と命じた、知恵の木の実を「食べてもよい」と言った、とあります。
イブは、アダムと一緒にその実を食べてしまい、裸であることに気づきます。知恵がついちゃったんです。
それを知った神は怒ります。
結果、蛇は、あらゆる獣より呪われるものとなり、アダムとイブは、楽園を追われ、一生苦しんで食を得なければならない、と、まあ、今私たちが懸命に働かねば生きていけない原因を説明しております。
これをもって、蛇はサタンの僕だったとか、人間はサタンの支配化に置かれた、という解釈がなされ、蛇とサタンを同一視する考えも出たりします。だから、蛇は、キリスト教では嫌われる、悪魔的存在と受け取られます。
人類の堕落は、神の言葉を疑った、このサタンの謀略によってはじまった、と教える教会もあります。
だから蛇はキリスト教徒からは忌み嫌われる。少なくとも良いものではない。狡猾な象徴とまでいわれています。

ところが、こう考える人たちもいます。
つまり、蛇は神と話すことが出来た。神の叡智を知っていた。蛇こそが崇める対象である。
神が、食べてはならないと言った知恵の木の実を食べたことで、人は神のような知恵を持った。で、もう一つ、神が食べてはならないと言った木の実がある。それが生命の木。この実を食べると、人は永遠に生き、神と同じになる。では、その生命の木とは、どこにあるのか? 蛇が、サタンがそれを知っているはずだ、と解釈されます。だから蛇は狡猾どころか、神に近い存在だと。
それが、いろいろな象徴学に封じ込められ、神秘学に取り込まれる。生命の木の秘密を知るために、あらゆる叡智が結集する。つまり、「聖書」に書かれた文言は、神の言葉ではあるが、それは暗号化され、真の奥義が隠されているに違いない、と小難しいことを考え、具現化しようとする人たちが出てくるわけです。この象徴学は、古代エジプトの神々の奥義に求められ、そこにはちゃんと、生と死の象徴としての蛇が出てくるわけですけど。

「聖書」に書いてある文言を、一般にはその通りに信じさせ、一部の人たちは、その奥に潜む暗号を読み解こうとする。後者の人たちが、いわゆるオカルティスト、ということになります。
 
で、こういった、「聖書」の奥義は、権力者たちによって隠されます。そんなこと、庶民が知らんでよろしい、というわけですな。また、理解しようにも、難しくてよくわかりませんですけどね。
ちなみに、今は知りませんけど、18、19世紀頃までのヨーロッパでは、「聖書」に書いてある文言、特に福音は、神の言葉だから、一言一句疑うな、ということを学校で教え、信者に言っておりました。また、教会が学校教育に大きく関与しておりました。オカルトなんて、教えるわけが無い。

オカルトとは、「隠されたもの」、というラテン語から派生した言葉だとされています。で、オカルトは、「ベールに包まれたもの」という意味を含み、つまりは、ある意図をもって隠されたもの、と言う意味となるわけです。で、隠されたもの、とは、神の奥義、ということなのです。
神の奥義。それは生と死の秘密を知り、宇宙のすべてを読み解く叡智、行為。古代エジプトのファラオも秦の始皇帝も、中世ヨーロッパの貴族や騎士たちも、この秘密を欲しがりました。
オカルトは、隠秘学とも訳されますが、これが正しい日本語訳かも。ベールで包まれたもの、なので、完全に隠された、というものでもない。我々がよく目にするもののなかに、オカルトは象徴となって現われ、暗号となって隠されています。そして言っています。
「読み解けるものなら、読み解いてみよ」と。

なあんとなく、わかってきましたかな?

ちなみにこの、生命の木の概念は、実は古くからありまして、ユダヤの神秘学(カバラ)に、セフィロトの樹として取り込まれています。このセフィロトの樹は、森羅万象を読み解く象徴概念を投影したものと、考えられていまして、これは西洋魔術、とりわけ「黄金の夜明け団」にも取り込まれています。
まず、そういった知識を知らないことには、また、神秘学とはなんぞや、ということを知らずして、オカルトを語るなかれ、ということになるわけです。

J教授が「聖書」を読まない日本人にオカルトがわかるはずがない。と言った意味は、端的に言えば、そういうことだったと思われます。
「『聖書』における、正統派のキリスト。それに対抗する、悪魔、サタンを知ることがオカルトである」と。
すっごい端的な言葉ですけどね。
ちなみに、J教授とは、いっぺん、対談してみたいなあと。

で、また上なんとか龍太郎さんに、これは私自身がラジオで叩かれたことがありまして。
私、別に出演していたわけやない。たまたま友人が聞いていて、「こんなこと言われてますよ」と知らせてくれた。
「中山というヤツは、オカルトの研究をしているらしいが、その時点でもうこいつは怪しい。オカルトなんて無いんやから。無いことを研究するなんちゅうのは、愚の骨頂。話にならん」
そんなこと、言われる筋合いは無いんですが、まあ、笑ってしまいました。
「聖書」から、神秘学を、オカルトを読み解くという行為は、実はヨーロッパの近代史を知るための重要な鍵でございまして。
あるとか無いとかという問題ではないのです。

で、J教授は「(日本にオカルトは)無い」と、はっきり言っていましたが、どっこい。ある。
そう言う話をまた、このブログで。

ということで、前々々回に出しました、どれがオカルト映画でしょう、クイズ。
実はみなさん、いいとこに行っていました。正解の方もおられます。

正解は

エクソシストとオーメン。

『エクソシスト』は、神父と悪魔の戦い。
『オーメン』は、「聖書」のヨハネの黙示録にある、悪魔の刻印666をもった子供が(ヨハネの預言どおりに)うまれたことから展開する、人間と悪魔が戦う話。
最初、この映画を見たとき、確かに「聖書」を読んでいなかったから、666の意味がよおわからんかった。
ガラスで首が、チョン切られたり、教会の避雷針が、神父に突き刺さったり、ということのみが日本人にはイメージに残って、オカルト=怖い話、ということになったんでしょうね、おそらく。
J教授の言う「『聖書』を読まない日本人は、オカルトが理解できない」とは、まさにこのことですね。

『シャイニング』はホラー。『怪猫有馬御殿』は怪談映画。
リストには載せませんでしたが『サスペリア』なんかは、オカルトに入りますかな。











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2015年04月26日

怪談とオカルト その壱

中山市朗です。

お待たせいたしました、どれがオカルト映画だったでしょうクイズの、正解の発表です!
の、前に(と、引っ張る)。

オカルトと怪談は、どう違うの? と言う話。
特にコレ、マスコミの方に読んでいただきたい。

怪談は、何度もいいます。怪異なるお話を語り書き、聞き読むこと。怖い、あるいは、人智では理解できないような不思議な話というのがその対象でして、猟奇殺人とか精神異常者のお話などは「怪談」には含みません。ホラーですな、これは。ホラーと言うのは、端的に恐怖を指しますので、ホラーと怪談はまた、違う。ということは、怪談=怖い話、ということでもない。
稲川淳二さんは、以前「正確には、怪談は怪異談なんですよね」と、私に言っていた。その通りです。
怪談という言葉は、江戸時代には、ポピュラーなものとして、使われていました。
ただ、この頃は、科学というものが無かったですから、精神異常者をキツネ憑きとしたり、猟奇的殺人を鬼や悪霊のせいにしたり、奇病を祟り、呪いと解釈したりと、厳密なカテゴリーと言うものが無かったわけです。
だから、怪談といえば、奇妙で不気味な怖い話、の総称でもあったんです。
しかし、今は、いろいろなことがわかってきた。
科学、というものが明治になって輸入され、発達した。「妖怪や幽霊なんていねえよ」と考える人たちも増えてきた。「霊なんて、ありゃ神経で見てるんだ」ということが、正しい、ということになる。
明治の名人、三遊亭円朝の創作した怪談噺『真景・累ケ淵』の真景は、神経のシャレである、ていうことも言われています。
でも、人間は、それでも不思議で奇怪な話を見聞きし、また体験するわけです。
そういう話に、作家という人種は敏感なんですね。話はそのものは、奇妙でユニークですからね。聞いてゾワッとした感覚を文字として残しておきたい、読む人たちに、そのゾワッと鳥肌をたてた感覚を、伝えたいと思う。怪異話を怪談として、文芸化したり、舞台化する行為がここにある。
恐怖の感覚を伝えるのは、実は、人間の感情の中で一番難しい。鳥肌、なんて外的な何かがないと立たない。それを文芸でやろう、と試みるわけですから、作家としては、ここは腕のみせどころなんです。
大正から昭和にかけて、そういう怪談文学が花開いたこともありました。
とはいっても、この作家の人たちが、幽霊、化け物を信じたのかというと、それはまた別。かえって、科学というモノがこういうものを否定しだしたからこそ、怪異を現すテクニックは複雑にならざるを得ない。そこに、作家は挑戦する。あるいは、古きよき日本という風土、精神を残したいと思う。霊や化け物を客観的に見るから、それができる。
霊はいる、悪霊もいる、あなたはそれを知らないだけだ、なんてスタンスでいると、どこかの新興宗教の教祖様か、スピリチュアルの電波系の本になってしまう。それを怪談でやられると、引いちゃうでしょ?
ということで、怪談とスピリチュアルもまた違う。

でも、昔の日本人は、科学が無くてもちゃんとそこはちゃんと、合理的な解釈をしたんです。
キツネ憑き。今はあれは精神を病んだんだ、おかしくなったんだ、ということで、精神病院に送られます。すると、退院して帰ってきても「あいつは、キチ〇イや」、とか、「精神異常者だ」というレッテルは貼られたままで、周りの人の目というのは変わらない。
でも、キツネ憑きとなると、それはキツネのせいですから、治ると「ああよかった。キツネが出てったわい」と、通常の生活に戻る。
こういうことは、昔の人の知恵だったのでしょうね。
それに、闇というのがね、今より断然暗かったでしょうし、自然界にある不思議や超常的な力を、もっと身近に感じ、また、危険とも隣り合わせだったと想像されます。だから、神だの仏だのの守護を求める心も、現代人以上に強くあったでしょうし。
今は、山の中へでも入っていかない限り、夜中でも何らかの明かりはありますから。鼻をつままれてもわからない、という真の闇なんて、今の人は知らないかも知れませんね。ありゃ、怖いですよ!
そういうことが身近にあった昔の人たちの語る怪談と、今の我々が語り聞く怪談は、そら、性質も変わってくるし、カテゴリーも出来る。

そういうわけで、科学的なアプローチと、怪談は、まず相容れないもの、といっていい。
今回、市松人形が話題になりまして、何局かから、「他にそういう題材ありませんか」と電話もありました。
でもね、怪談は怪談。それを科学的に実証してみようとか、そんなものはない、といったところで、そこに何の意味があるというのでしょう。
つまりは「この怪談を語った人はウソつきや」とレッテルを貼ることが、おもろいでっか、ということです。仮に、ほんとにあったようだ、と肯定したところで「ヤラせや」ということになる。
そういって、怪談の意を汲み取ってくれない要請は、お断りさせていただいた。怪談は話芸であり、エンターティメントだ、と理解していただけるなら、喜んで協力はさせていただきます。ということでして。

とはいえ、私も聞いたり取材した怪異談を全部無条件で信じて採用しているわけではありません。
10話、20話取材して、使えるのは、せいぜい一話か二話。信憑性もさりながら、話のユニークさ、リアリティ、ゾッとくる肝、のようなものを話の中に発見すれば、怪談としてなりたつ。
『新耳袋』というのは、わりとプロの作家さんから支持されていたのですが、その要因の一つは、
「この話がウソとは思えない。なぜなら、こんな話を一般の人が想像だけで語ったのなら、プロの作家はお手上げだ」ということもあったようでして、私も同意。
まあ、お話ですから、虚偽が入ってもかまわないわけですけど。盛ることもありましょうし。
お話って、物語って、そういうものです。
で、そうやって蒐集した話の中から信憑性のありそうなものを選んで、再構成し、文芸なり、話芸なりにするのが、私のお仕事なわけでして、これは、懐疑主義的な立場からでないとみなさんに納得していただけるものにはならない。私の未熟な腕では、という意味ととってもらってかまいません。
つまり、不可思議、怪異を肯定しちゃうと、それは珍しくない、ということになるので、珍しくもなんともないものを語ったり書いたりしても、面白くないし、読んでも、聞いてもくれません。
死んだはずの人が、あそこに立っている。これ、珍しい、というか、あるわけがない。でも、今目の前に起こっている。これ、怖いですよね。日常が、非日常に変わる瞬間。その瞬間が怖い。
当然、対処法がわからない。
そんなものに出くわしたとき、一般の人たちは、何を思い、どうリアクションするのか。そこが肝になるわけでして、そこが、幽霊なんて見たことの無い人たちのイマジネーションというか、想像力を掻き立てる。
それが成功したら、怪談になる。
そしてそれは、再現性がおそらく無い。無いから怪異、なのでして。
それがたとえ、その人の幻影、精神的な現象だとしても、その人は体験した。そこに、ウソだの本当だのといった議論をはさむことは野暮なこと。人間、科学的なもののみ感じ、合理的見地から生きているのではない。だから、人はしばし矛盾し、思い込み、信じようとし、うそもつく。

ただし、こちらもプロ。あきらかな嘘、虚言、勘違い、捏造の怪異談は見抜きますよ。ただし、少々疑わしいものでも、怪談として成り立てば採用ということも。そこの真偽のほどどは、正直わからないですもんですけどね。あと、これだけ怪異蒐集をすると、同じパターンの話、よくあるテンプレ的体験談や現象が目撃されただけで、「談」にならないもの、といったものを省いていくと、一割も残らない、ということになりますわけでして。

ですから、怪談は、実証とか、科学的な、なんて関係ないわけです。まずもって怪異体験などというものは、科学的に解釈することは出来ない。ただ、仮説はいくらでもたてられますから、ああだ、こうだと否定することは簡単。
でも、科学的に否定して「あなたの見たものは、よまいごと。あるいは、ウソをついたんだね」と、上なんとか龍太郎さんのように決め付けられても、体験者は、見た、感じた、という真実を否定することはできない。
客観的な事実と、その人の真実は、また違う。真実は、人の数だけある。
また、世の中、すべて科学で読み解ける、とすることも傲慢な考えでしょう。
そうであるなら、科学はこれ以上、進歩する必要は無くなる。まだまだ世の中、わからないことはあるし、科学の侵入を許さない場所だってある。宗教、つまりは神、というのがそれですな。

と、これがオカルトに関わってくるわけです。

わちゃあ、また長くなりそうや。
ということで、続きます。

えっ、オカルト映画の解答はって?

また、オカルトを述べたそのときに。







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2015年04月24日

今年も恒例、怪談講座

中山市朗です。

お知らせです。
今年の夏も、恒例の京都造形芸術大学と東北芸術工科大学による公開講座を担当いたします。
真夏の夜の怪談講義でありまして、もちろん当学生の皆さんは単位の対象、大学生でない方の受講もできます。公開講座です。

昨年は、「日本人と怪談」で全五回の講義を行いましたが、今年は「続・日本人と怪談」となります。
「続」とありますが、昨年にやらなかったテーマをする、ということですので、今年の講義だけを受けられても何の支障もございません。気楽に楽しく、怪談についての薀蓄を学んでくだされば、と思います。
真夏の夜の怪談、といっても、大学の講義ですので、怪談をちょっと学問的にやります。
怪談から、日本人とはなにかを、みつめてみましょう。

内容は以下のごとく。

7月8日(水)  怪談と日本の話芸
7月22日(水) 古典文学の中の怪談
8月5日(水)  オカルティズムと怪談
8月26日(水) 呪いと祟りの世界
9月9日(水)  怪談の描写について

時間はいずれも19:00〜21:00
受講料は18000円。
会場は、大阪芸術学舎 大阪サテライト・キャンパス
大阪市北区小松原町2-4 大阪富国生命ビル5F(JR大阪駅、徒歩5分、地下鉄谷町線・東梅田駅、徒歩3分)

受付は2015年5月18日からですので、ご検討のほどを。
今回は、ああ、夏にそんなんがあるんか、日程どうやろな、とだけ頭の隅に置いていただければ。

受付が近くなってきましたら、また詳しい情報などお伝えします。

本日はこれから、作劇塾での講義ですので、オカルト映画はどれだ! の解答は、また後日。


 

kaidanyawa at 18:19|PermalinkComments(0)

2015年04月23日

オカルトと怪談

中山市朗です。

市松人形ちゃんのおかげで、このブログの閲覧者がにわかに増えましたが、まあ、また元に戻っていくでしょう。いや、戻っていっています。でもそのおかげで、初めてこのブログにたどり着いた、という人も当然おられましょう。
昨夜、偶然そういう中の一人の方と、飲む機会がございまして。
「怪談とオカルトは違うと書かれていましたが、どう違うのですか?」と質問されました。
そういえば、ネットに「オカルト検定問題集」なるものが掲載してありまして、こんな問題がありました。

次のうち、「新耳袋」シリーズで知られるライターをすべて選びなさい。
木原浩勝 中山市朗 加藤一 平山夢明

う〜ん、て、

「新耳袋」はオカルトちゃうわー!
ちなみに、あのオカルト検定を受けたところで、何がどうなるんでしょうか?
また、あの質問は、ぜんぜんオカルトの本質をわかってないし。あれは「ムー」検定ですな。
ちなみにムーの三上編集長は「ムー」をオカルト誌とは言っていません。「ムー」は「ムー」だと。

何年か前ですけど、ある広告代理店から依頼がありまして、イベントでミステリーものをやりたいから、その台本を書いてくれと言うんです。
「私、怪談は書いていますが、ミステリーはやってません。なんなら有栖川有栖さんでも紹介しましょか?」
この代理店の人、怪談もミステリーも人が死ぬ話やから、一緒やろうと。
ちゃうわー!

これは随分前ですけど、上なんとか龍太郎という人が司会をしている番組で、オカルトを批判する番組がありました。スタジオにはオカルト肯定派、というか、霊能者、霊媒師、占い師、研究家、ライターと一緒ごたにひな壇に座っていまして、「お前ら」扱いされとった。また研究家といっても、UFOの専門とか、超常現象の専門家とか。なんかかわいそうでしたな。
霊能者と霊媒師は違うし、霊媒師と占い師は違う。ましてや、研究かとかライターは……。まあ、一般はそんな扱いなんですな。十把一絡げ、とはこのこと。十羽唐揚げは好きですけど。
研究家は、別に肯定しているわけではなく、知りたいから研究しているのであって、おそらくですけど。
ひな壇の人たちも、ちゃんと、「これは違う」といえばいいんですが、言ってもカットされるか。

26日深夜ににTBSで放送される「あけるなキケン』と言う番組にも、私、出ていますが、胸に「心霊」というプレートを付けられた。で、本番中に司会者の小藪さん、オードリーの若林さんに「私、心霊となっていますが、ちゃいますからね。私のやっているのは怪談ですから」というようなことを発言しまして、これがカットされているのかどうなのか。

これは、私が放送作家をしていた頃のこと。
同じ番組を担当していたベテランの放送作家と、意見の食い違いがあった。で、ちょっと口論になったんですね。
そしたらあろうことか、彼の口からこんな発言が。
「だいたいオカルトなんかやってるからや。オカルトなんて、辞めちまえ」
そんなん言われる筋合いはない。で、言葉を返した。
「お言葉ですが、では、オカルトの意味を言ってください」
沈黙しました。オカルトを否定しながら、実はオカルトとは何かと聞かれると、わからない。

昨年、浄土宗のお坊さんたちに呼ばれて、講演をやりました。浄土宗というのは、霊の存在を否定している、というか、問題としない、という立場にある。でも、檀家さんからは、霊の相談を持ちかけられる。どう対処すればいいのかわからない、というんですね。で、私が呼ばれた。
そこで、オカルトというキーワードが出たので、お坊さんたちに質問した。
「では、オカルトって、なんですか? 意味がわかる方、おられますか?」
三十人ほどいた浄土宗のお坊さん、誰一人、これに答えられなかったんですよ。

そんな状況で、なぜかオカルトが叩かれる。なんなんでしょうね、これ。

実は私、怪談とオカルトは違うと言いつつも、実はオカルト研究家という看板もあげています。
やっぱり同じやん、て言われそうですけど。
重なる部分は確かにあるんですよ。
でも、怪談とカオルトは、別物。

どう違うか、はやく言えって?

ではこんな問題。

次のうち、オカルト映画はどれでしょう?

リング
呪念
エクソシスト
悪魔のはらわた
ミザリー
死霊の盆踊り
シャイニング
東海道四谷怪談
怪猫有馬御殿
13日の金曜日
オーメン
怪談新耳袋







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2015年04月22日

女の念とヒトガタ

中山市朗です。

市松人形ちゃん、ネットでいろいろ話題になっていますねえ。
怖かった、とか、ヤラセに決まってんじゃん、とか。中には、俺のフィギュアも話してくれないのかなあ、という意見も。フィギュアが声を出したら、きっと怖いと思うんですが。
でも、この話題はよく出るんですよ。
私の部屋も、ゴジラだのガラモンだのカネゴンだのといった東宝特撮か円谷プロの怪獣モノや、塾生たちがくれたアニメのキャラクターモノ、七人の侍のフィギュアとか、いっぱいございまして。
そういったフィギュアが声を出したという話は、少なくとも私は、いっぺんも聞いたことございません。怪しいこともございません。

もっぱら怪談として語られるのは、日本人形。あるいはフランス人形。市販されているリカちゃんの話もありますね。で、なんだかこういった人形に関する怪談は、ホント、怖いですね。
なんで人形怪談は怖いのか?

よく言われるのが、人形はもともと、ヒトガタといって、人の怨念が篭るとされること。
丑の刻詣り、といわれる呪詛は、わら人形が、呪う相手の身代わりでして。
ただ、最近は、呪うべき相手の身代りは、呪うべき相手の写真や持ち物、つまり靴とか帽子、ハンカチなど、身に着けていたものになっているようでして。これがまた、呪われるのは、決まって男性。つまり、呪うのは、女性の専売特許なのでして。怖〜っ。
男性で、最近彼女をフッたとか、ひどいことをしたという人、玄関にあった靴が片一方無いとか、ありませんか? 気ぃつけなはれや。

そんなんで、まず人形が怖い、という認識の根底には、こういった呪詛にあるんでしょうね。
こういう概念はいつごろ、うまれたのでしょう?
その起源は「宇治の橋姫」だとされています。「平家物語」の異本「剣巻」に出てくるもので、これについて語ると長くなるので、ネットででも検索してご覧いただければと思うしだいです。この話を元としたのが能の「金輪」という演目で、その金輪の井戸というのが京都の街中に残っております。ただ、これらは丑の刻詣りの原型とされるもので、人形を呪いの対象としたことはもっと古いわけで、奈良県は平城京跡から、木製のヒトガタがいっぱい出土していて、目のあたりに釘をさした跡とかがある。コレ、呪詛の跡じゃね? ということになっておりますし、文献としては『日本書紀』に出てきます。用明天皇の時代、中臣勝海が、太子彦人皇子と竹田皇子の像(みかた)を作って厭(まじな)ふ、とあり、これはヒトガタを作って呪った、ということでありましょう。聖徳太子の時代です。
聖徳太子自身も物部の軍勢と戦うとき、ヌリデの木で四天王の像(みかた)を作って誓いをたてた、と祟俊天皇紀にありますので、日本ではそうとうな昔から、そういう概念が伝わっていた、ということになるわけです。   いやいや、このヒトガタを、人間の代わりに、という概念はなにも日本だけでなく、古代エジプトにも中国にもありました。ですから、人形を見て「なんだか怖い」と思う心境は、人類共通のものなのです。
しかしですね。そのなかでも、日本人形、とりわけ市松人形は怖い。
コレ、日本人だけが思うのでなく、外国人も思うらしいですよ。
これは江戸時代中期から作られ始めたものだそうで、女児の着せ替え人形だったんですが、だんだん観賞用になっていくわけです。コレがまた非常に写実的な造形なんですね。その造詣が怖い。
本来はかわいいものなんですけどね。年季が入るとなんだか怖くなる。
しかも女児たちが肌身離さず持っていたものですから、念が篭る。
人形を抱きかかえての着せ替え、という行為がね、なんか篭りそうですやん。
で、昔はよく子どもは死にましたから、その人形に、亡くなったわが子の姿を見た、身代わり人形ということもあったでしょう。
第三者からすると、その写実的な造詣が、人であって、人ではない、という微妙な距離感が怖いわけです。魂が入っていない人間、というか。
しかも、戦前は、一般的に人毛が使われていた。それも太すぎず、細すぎず、ほどよい艶と腰のある人毛。で、女の子の市松人形はオカッパ頭として植毛。
昔から、髪には念が篭る、とか、髪は女の命とかいわれて、これも不気味な要素となる。人体の一部ですし、髪は神に通じるもの、と考えられましたから。
子どもの幽霊の目撃で、よく、黒髪のオカッパ頭、というのを聞きますが、おそらくこの市松人形から来る恐怖のイメージからではないでしょうか。
そういう、歴史的背景からして、フィギュアは新しいですし、あくまで観賞用で抱っこしたり着せ替えもしないでしょうから、念が篭る、ということも考えられない。また、アニメや特撮ヒーローに似せたものですから、人であって人でない、という微妙な距離感も無い。また、男の子の念というのが、なかなか入らない。
男は人形の着せ替えなんてやらないしね。着せ替えは女の子のもの。あれは、自分がかわいい衣装を着るという代償行為なんでしょうね。だから、着せ替え人形はその女の子の分身となる。念も入りますわ。
女の念は一途。男はなんだか浮気性というか、あっちこっちに興味が行くので、幽霊となって出てきて恨みをはらすのも、昔から女性でして。恨まれるのは、男。美女の幽霊が男を呪い殺す、と言うのは、昔の日本の怪談の定石。まあ、エンターティメントとして、その方がウケるということもあったでしょうし。

フィギュアはねえ、そういう女の執念が入るとは思えない。
だから、フィギュアに関する怪談は、今のところ、私のところには届いていない。でも、八十年とか、百年を経たフィギュアは、なにかしでかすかも、知れませんね。

今は、コレに変わってリカちゃん人形とかの怪談があります。
やっぱり女児の念が篭っているのでしょうか?
三本足のリカちゃんなんて、都市伝説もありました。

けっきょく、女の念がこもるヒトガタ、と言うのが、恐ろしいんですね。






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2015年04月21日

近日公演

中山市朗です。

閲覧者が多いうちに、いろいろ告知をしてしまえ!
すみません。このブログに初めてアクセスされた方、私は怪談を書いたり、語ったりしている者です。
稲川淳二さん以外にも、そういうヤツがいるわけです。いや、私だけではない。怪談を語る怪談師たちは、最近増えているんです。
怪談は、文芸であり、話芸です。怪異を信じているわけではありません。信じている怪談師もいますけど。
私も一時、怪談本を出版しただけで、オウムのようなオカルト集団に加担するのかと、叩かれたことがあります。
だったら、SF作家は宇宙人が実際にいるとか、恐竜がどこか辺境の地に生きているとか、本気に思っているのか、児童文学の作家が、ウサギさんや、犬、猫かしゃべるなんて、本気で思って書いているのか、ということになります。
んな、わけはない。
ですから、霊だの超常現象だのを、私は肯定しているわけではありません。話芸、文芸で、恐怖や不可思議を疑似体験させるのも、エンターティメントです。お笑いと同じです。それはまた、懐疑主義というスタンスの方が、それを伝えやすいのです。
なぜかというと、霊現象が怖いのは、非日常のことだから。霊感のある人がいつも霊を当たり前に見ていると、怖くない。非日常でもない。霊感のある人にとってはそれは日常でしょう。日常の話をされても怖くない。霊は、非日常の現象だから怖いわけでして。
だから、霊感と怪談というのは、実は反比例する。意外でしょうけど、一般の人が怪異に会うから怖いのですよ。
ですから、怪談師の仕事は、怪異に遭ったことの無い人に、怪異の疑似体験をせることなんです。一般の、普段は霊なんて考えたことも無い人が、どんな状況で怪異に出会い、どういう瞬間に怪異だと認識し、非日常の瞬間に導かれるのか。そのとき、なにが起こるのか。そこを意識して語っております。これを怪談の肝といいます。怪談に肝があれば、成立し、肝がなければ、怖くない話になっちゃいます。

そして、怪異の世界に誘うために、物語、というものが出来たのです。
そういう、その恐怖と言うか、不可思議(キリスト教的にいえば奇跡!)を語り、出版することが私の仕事です。
ホント、申し訳ないですが、こんなにアクセスが増えたことを機会に、いろいろ、私のことを、怪談の世界を知ってもらいたいわけです。ただ、これは声を大にして言いたい。
私は全国各地で怪異体験談を一万数千話蒐集しております。まあ、9割は使えないとしても、千数百話は残る。ここの面白さですよ。
ということで、そういう不思議、怪異をなんとか皆さんに伝えたい。笑いとはまた違う芸の世界を楽しんでもらいたい。そう思って、毎日精進しております。そんでもって、ほんま、申し訳ありません。
告知させていただきます。
といってもまだ、ほとんどが具体的な日程が出ていないものばかりですので、そのあたりを注意して、私のブログなり、オフィス・イチロウのツィッターなどを見てください、という状態ですけど。

5月23日(土) 24時〜、プライベート怪談会を開催します。
早朝までのオールナイトです。
これは、私中山市朗の怪談蒐集のための怪談会ですから、参加費は無料。
ただし、参加するには、怪談を一話は語ってもらいます。メディアやネットの話はNG。
貴方の体験か、近い人たちから聞いたお話を語ってください。
私も語ります。
膝をあわせての聞き語る怪談会。
場所は、大阪市船場にあります、中山市朗の書斎です。だいたい20人ほどで締め切ります。

参加希望の方は、メール(info@officeichirou.com)か、お電話(06-6264-0981)まで。

雑誌「ムー」の三上編集長とのトーク・イベント、「月刊ムーの世界不思議旅行3」は、大阪宗衛門町のロフトプラスワン・ウエストで、6月中旬頃の予定。飛鳥昭雄さんの参戦はあるのでしょうか?
今度こそ「聖徳太子と秦氏、そして『四天王寺・未来記』について」の論証を!
こちらは、19:30〜22時頃まで。
詳細は、もうそろそろ出るはずです。

市松人形が声を発したイベントは「Dark Night Vol.1」でしたが、次回はその「Vol.15」となります。
ゲストは『お前ら行くな』の北野誠さん。道頓堀ZAZAハウスで、七月の中ごろになりそうです。
ガチでヤバい、呪いのトーク?
そして、「Vol.16」は、8月末か9月?
怪談最新刊は、その頃か?

毎夏恒例のプラネタリウム怪談なども、決まってきててます。
私のブログ、あるいはオフィスイチロウのツィッターなどを小まめにチェックしてくださいませ。



kaidanyawa at 08:00|PermalinkComments(8)

2015年04月20日

喜怒哀楽怖!

中山市朗です。

えー、テレビというのは、なんのかんのといって凄いですね。
新刊を出すと、このブログの閲覧者はだいたい1、5倍ほど増えるんですが、昨日は10倍増えていました。
テレビというより、あの市松人形ちゃんが凄いのでしょうか。

私は何度もこのブログに書いてきましたように、怪談を書いたり語ったりしていますが、どちらかというと懐疑的な立場を取っていまして、「ほんまにそんなことがあるのか?」と、知りたい一心で、怪異(つまり怪談)の蒐集をはじめた、というのが怪異蒐集のはじまりでした。
そういう看板を上げますと、いわゆる霊スポットという場所に取材に行ったり、いわく因縁のある土地に調査に行ったり、また、霊能者だの霊媒師だのといった人たちに遭うことが多くなります。
すると、確かに奇妙なことが起こったり、カメラ関係に支障が起こったり、ということはあるわけです。しかし、それが霊なのか、といわれると、そうと断言するだけの根拠はない。特に、霊能力があるとか、いわゆる霊感があると自称する人たちによって、「ああだ」「こうだ」と論じてしまうこともしばしばでして。見た、聞いた、という第三者の見解の入れない、体験から言われると、それは否定も肯定もできないですから。
特に、私はそういう感覚が鈍いというか、感じない方ですから、おいてけぼりをくったりします。
真実というのは、人によって違うのです。変わるのです。

しかし、あの人形の声だけは、私、田辺さん、雲谷斎さん、そして司会の佳波さんの四人の出演者のみならず、80人のお客さんもそれを聞いた、というところが、空前絶後、といいますか。
「そんなこと、あるんや」と確信した瞬間でした。
あれはヤラセではないのか、という意見は、確かにイベント直後からありました。おそらくそれは、会場にいたお客さんではなく、ネットやツィッターなどで知った人たちからだったと思います。
いや、瞬間、私も田辺さんも疑ったんです。「あれ、この人形、そういう仕掛けがあるの?」という田辺さんの、あのあとのリアクションがあるんです。あの直後、田辺さんは、人形をたてにしたり横にしたり。
その前には、お客さんに抱っこまでしてもらいましたしね。若い男性。
その後でしたね、人形の顔がやさしくなって、それで声を発した。
だいたいあの人形は、だいぶ前に宅配便で送られてきた箱を、お客さんの前で空けたわけです。そして、その箱は、開場したときからずっとお客さんから見えるステージの机の下に、開封するまでので2時間半以上、置いてあったわけですから。あのタイミングで声を発する、というのは……。

そして、テレビで見ていただいたとおり、あのステージ上の出演者の四人四通りのリアクションと、客席の雰囲気で察していただけたと思います。
まあ、人形に何か入れたのではないかとか、いろいろ言われましたが、その疑いはホントに、私が持ったくらいですから。ただ、それなら、カメラ二台の声の拾い方がおかしい。また、コメントに指摘があったように、最短距離にいた、私と田辺さんのピンマイクには何の反応も無い。というのが、おかしいわけでして。
また、ヤラセは一切やらない、というのが私のポリシーですから。それがイヤで、放送作家を辞めたわけですから。また、それを一度でもやると、私の怪異蒐集家としての信頼を完全に損ねますから。
それでも、信用しない、と言う人がいても、それはその人のスタンス、ポリシーもあるでしょうし、まあそういう世界なんです。みんなが信じてはいけない世界。でも、否定もできない世界。そこが魅力でしょう。

ただ、あまり霊の真偽を探れ、なんていうことになると、また不毛な論争を生むことになります。
人間は、ずっとずっと、その論議を繰り返してきました。そこには見識のある学者や宗教家や作家もいました。ですから、今、これをもって、こうだ、なんて結論はまず出ない。
それでもって怪談は、これも何度も言っていますように、オカルトではないのです。エンターティメント、芸、ですから。そういう風に楽しんでいただければいいわけです。

恐怖を娯楽として楽しみたい、というのは、人間の本質としてあるわけで、また、恐怖は人間が生きていく中で、もっとも重要な感情なのです。よく、喜怒哀楽という言葉が聞かれますが、中国ではこれに怨が、朝鮮では恨が加わって五大感情となるらしい。私は常々、人間の感情は、喜怒哀楽に恐怖の怖、を加えるべきだと言っています。恐れ、不安、危ぶむ、という心が、結局、怨や恨を生み出すわけですし、怖の心があるから、行動を自重したり、閉じこもったり、逆に奮い立たせたり。また、怖は哲学を生んだりする。いずれ訪れる、死という概念、恐怖が、人間の生き方を形成している、といってもいい。また畏怖、という感情は、神を作り、宗教を作る。
神、という概念を持つ動物は、人間だけです。人間は、神という存在を信じて宗教を作り、そこから文明が生まれた。文明の礎は、神の概念です。偶像崇拝をする形を作ることからはじまりました。そんな神の概念は死への恐怖から生まれた。それを権力に利用したのが、王や皇帝たちです。彼らの側近は、神官であり、巫女であった。あっ、そんな話しだすと長くなるので、止めます。
ですから、人間の感情を喜怒哀楽だけにすると、見えないものが残る。人間の本質を見失う。
そう思います。
ですから、喜怒哀楽怖、なのですよ。
ですから、怪談を聞いたり読んだりして、ホラー小説や映画を見て、恐怖を娯楽として楽しむことは、人間として健全なのです。なんか、それ、悪いこと、みたいな風潮、ありません?
ちょっと、マスコミが、あのオウム以来、怪談とオカルトをごっちゃにしてしまったんですね。それで一時期、怪談も排除されたり、私もバッシングを受けたりもしました。
しかし、三遊亭円朝の「真景累ケ淵」も、桂米朝の「怪談市川堤」も、怪談であってオカルトではない。

そういうことからしますと、今回の市松人形の件は、検証メインで、それはそれでいいのですが、怪談という要素がバッサリ無い、というのが、ちょっと残念といえば残念でした。あれでは、何も知らない人は「なんやねん、あの怪異収集家とかいう、怪しいおっさんは」で終わってしまう。まあ確かに、怪しいですけど。

それにしても、人形の顔。みなさんが指摘するとおりでして。
4年前に会場で初お目見えしたときと明らかに違う。かわいくなっています。これ、テレビの収録時にじっくり見たわけですが、印象とか、照明の具合ではない。田辺さんも、怪異については懐疑的な人ですが「やっぱり、かわいくなっていますよね」と。
コメントで書かれた方がおられましたが、ホントに、テレビカメラに収まる人形が、キラキラ輝いていたんです。ドヤ顔していたとも見えた。大勢の人に見られることを、彼女は望み、何かの導きでそれが成就したと、そんな感じ。

えっ、怪しい宗教みたいやって?
とんでもないです。でも、ほんとに、人形の顔はどんどん変わっています。いい意味で。

今もって、私は怪異については懐疑的な立場ではありますが、不思議なことは、この世にある、ということは、否定できませんな。

kaidanyawa at 16:25|PermalinkComments(12)

2015年04月19日

ザワつく市松人形ちゃん

「はい、みなさんこんばんわ。中山市朗でございます(淀川長治調で)。
いかがでしたか? ザワつきましたか? 声を出す市松人形、まあ、怖わございます」

とまあ、冗談はさておき、珍しく煽らない、淡々とした編集じゃなかったかと思います。
ホントは、あのイベントで他にも奇妙なことは起きておりましたし、後にもいろいろあったことをお話したのですが、時間帯のことも考えて、そのあたりのことは触れずに、ということだったのでしょうね。
まあ、そこ、触れちゃうと時間を完全にオーバーしてしまいますし、まとまりませんもんね。

ところで、人形の体ですが、イベントのときはお腹の部分が、えぐられたようになっていましたが、もっとありましたよ。だんだん無くなっている。田辺さんは、いろいろな霊能者に預けていたらしいので、その過程で、体が切り取られたり、妙なお経や呪文がが書かれたような和紙が代わりに詰め込まれたりしています。和紙には血がついていました。たすけて、という文字も、背中の内側にあたるところに小さく書いてあったし。

で、顔がね、後になるほど、穏やかになってきています。
あのとき、ZAZAでご覧になり、あるいは写真を撮ったお客さんもおられましたが、テレビで見た印象はどうでしたか?
あの番組のためにZAZApocketsで、インサート用に人形を別撮りしているのを、私と田辺さんとで見ていたのですが、なんかね、キラキラ輝いていたんですよ。晴れ舞台、という感じで。
ですから、やっぱり大勢の前に出たかったんやな、と。
しかも、田辺さんによると、この人形を番組やビデオ作品に取り上げたいというオファーが何回かあったそうなんです。私もそういう関係者から「田辺さんを紹介してくれ」という連絡ももらっていたのですが、それらは全部、いつの間にか立ち消えになったらしい。
ですから、田辺さんと私の手によって、テレビに出るお膳立てが出来るのを、人形は待っていたのかも知れない。とまあ、こういうことにはどちらかと言うと否定的な私ですが、そう思ってしまうような過程もあったのです。

で、音声分析。子供か女性の声。ただしステージ上にいる女性二人と声が重なっている部分があるので、ステージ上の女性の声ではない。悲鳴というか、生命の危機にあるようなかなり興奮した状態の声、というのが専門家の解析結果と放送されました。実は制作ディレクターは、私のブログからこの人形の騒動を知り、TBSらじこんの「幽怪案内」に辿りついて、そこに収録してあるドキュメント動画の音声を拾って、音声分析の専門家に依頼。これはヘンな声だ、ということで、おそらくこの人形の事件をテレビで取り上げることを決めた、ということのようなんです。
ですから、あらかじめ、その分析結果を私も聞いていたのです。でもそのときは、人間の声の周波数には違いないけど、振動周期が薄い、重なりが無い、と専門家が首をひねっていた、と聞いていましたが、そこは触れられませんでしたね。私にはよくわかりませんけど。

そんなこんなで、もうあの人形は落ち着いたんじゃないですか。

その「幽怪案内」ですが、今月いっぱいは、TBSらじこんで配信しております。
市松人形の発端から、イベントであったこと、その後のエピソードなどを私が怪談に構成しなおして(捏造ちゃいます、あくまであったことを語りやすいように脚色した)語っているのが視聴できますので、興味をもたれた方はぜひ。
#019 第24話「市松人形part1」〜#023 第28話「市松人形part5(+イベント記録映像)」の部分です。

ご視聴なりたい方は、オフィスイチロウのHP、怪談配信「中山市朗presents幽怪案内」をクリックしてみてください。あっ、有料コンテンツです。すみません。

以上、宣伝終わり。
えっ、宣伝やったん?

officeichirou.com








kaidanyawa at 21:58|PermalinkComments(28)

市松人形ちゃん、いよいよテレビ、デビュー?

中山市朗です。

本日の夜7時58分より、フジテレビ系「ニュースな晩餐会」にて、いよいよ、あの市松人形ちゃんのテレビ・デビューいたします。アイドルか!

ことの起こりと、当日、なにがあったのかを、事件現場となった道頓堀ZAZApocktsで収録。私と田辺さんが語っております。また、イベントは記録用にビデオで撮ってありましたので、その原版を制作会社にお渡しし、音声解析の専門家に分析をお願いししております。

いかなる結果がでるのやら?


イベント当日の様子、お客さんの反応などは、2010年11月28日付けの、このブログ「怪奇現象、みなで体験すれば怖くない」を参考にしてください。


kaidanyawa at 00:26|PermalinkComments(7)

2015年04月17日

ムー的な世界

中山市朗です。

15日(水)、ロフトプラスワン・ウエストでの「月刊ムーの世界不思議紀行2」が盛況に終わりました。
今回は、月刊「ムー」の三上編集長に加え、漫画家でサイエンスエンターティナーの飛鳥昭雄さんが参加されました。
飛鳥さんは、オカルト・マニア、「ムー」の読者の方ならもうご存知のことでしょう。

飛鳥昭雄さんとは、実は二十数年ぶりだったんです。
私が放送作家をしていた頃、KTVで『百綺夜想』という深夜番組を担当いたしまして、これが、『恐怖の百物語』で司会をしていたKTVアナウンサー、畑中氏が毎回ゲストを招きいれ、怪しい話題について掘り下げていくというものでした。1991年の頃でしたかねえ。
テーマは「ノストラダムスの大預言は当たるのか」で、どこかの教会の牧師さんをお呼びしたり、「エリア51」や「ロズウェル事件」については超常現象研究家の大家、南山宏さん、「妖怪伝説」については、民俗学の小松和彦さん、といった方々を番組にお呼びして、30分、自説を披露してもらうというものでした。
そのなかで、当時、えらいとんがっていた説をマンガと「ムー」で展開していたのが、飛鳥さん。
真偽は別として、説としてはテレビ向けだと思い、茨城県の飛鳥さんの自宅へ出演交渉に行ったことからお知り合いになったわけです。
番組には二回、出ていただいて、その後、私は聖徳太子の「未来記」が四天王寺にある、と四天王寺の関係者からお聞きし、その真偽と謎を追いかけるようになって、飛鳥さんと同じ、オカルト研究をすることになったんです。
で、飛鳥さんと、「未来記」の情報のやり取りをするようになったんです。

このとき、Y氏というアマチュアの古代史研究家が私に接近してきて、一時、国立図書館から出てきた「日本国未来記」や「未然本紀」などを現代語に訳したり、出所を調べたりしていたのですが「日本国未来記」は、四天王寺の「未来記」とは完全に別物。「未然本紀」も出所が怪しい、ということで、決別。
Y氏は、その後、私のルートを使って飛鳥さんに接近。そして飛鳥さんと手を組んで、いろいろ活動していたらしいんですが、後にその飛鳥氏とも決別。

まあ、いろいろあったわけです。
飛鳥さんとは、別に何があったというわけでもなく、たまに電話でお話しするくらいで、ずいぶんご無沙汰してしまったというわけです。
まあ、どちらかというと、私は怪談が主な活動拠点。
飛鳥さんは「ムー」のメインライター、ということで、自然と住み分けをしていた、ということでしょうか。私、「ムー」では書かなかったですから。

で今回、二十数年ぶりの再開。あれからずいぶん怪しい方面でご活躍で、また、おっしゃることもぶっ飛んでいますから、ついて行けるのかなあと、心配していたのですが、全然変わってなかったですな。
なんか、三上編集長によれば、飛鳥さん、いつもより機嫌がよかったようで。
大阪は、藤井寺の出身ですから、飛鳥さん。故郷に帰ったということで、大阪のノリが大変に懐かしく、肌にあったようでした。私と楽屋でお会いしたときから、もうお互い、ボケ、ツッコミの応酬で。

ただ、飛鳥さんは、最近、某テレビ番組に出演した際、陰湿なヤラセ、というか発言に対して捏造されたことを立腹されていて、口調は陽気ながらも、ずいぶんとその番組の体質というか、やり方を批判されていて、それがそのままステージに上ったということでして。
でも、テレビ局は、怪談やオカルトを一緒くたにした上で、怪しいもの、と決め付ける体質が確かにある。
まあ怪しいに違いは無いんですけど。扱い方がね。
私が「百綺夜想」の構成をしていたときは、説を唱える人になるべく時間いっぱい語ってもらい、真偽のほどは、視聴者に預ける、ということをコンセプトにしていました。畑中さんには、ちゃんと疑問を持って質問は的確にするよう台本上に指示もしていました。その疑問をどう論破するのかが、出演者の使命であり、見せどころ。
でも今のテレビ番組は、たまにそういうものを扱えば、番組の中でその真偽を決めてしまっている。
一般視聴者へは、「これはうそだ」「常識とは外れている」「科学的根拠が無い」とか言って、ニセモノだ、とした方が、叩かれないし、良心的な番組に見える。その生贄に、在野の研究家や専門家が捧げられるんです。
自説を唱えて論文を発表したり、出版物にするというのは、実はなかなか出来ない事なんです。
人の唱えた説をうまくコラージュして、自分が言ったことにしている人がほとんどですしね。これも見せ方、読ませ方が面白ければいいと思いますが、研究となればね。
大学教授といっても、いっぱいいますが、自説の論文が書けない教授なんていっぱいいますから。学生の卒論からパクッたりするのもいます。でも、大学の教授、助教授という肩書きだけで存在できる。
我々、在野はそういう肩書きが無いですから、自費で取材し資料を集め、積み重ねて、作家として出版物にするしかない。
それを受けて側は、「こんなんうそや」とか「またトンデモか」なんて笑っておしまい。「うそや」と否定するのは簡単ですから。ただ、確かにトンデモなものも多いですけどね。
でも、普段我々が疑問を持っていない一般常識、あるいは科学的な裏つげがある、と思っていたものが、実は根拠が無かったり、都市伝説の類だったり、定説がひっくり返ったりということが頻繁にありますしね。
常識を疑え、というのが、作家の、クリエーターの世界の合言葉みたいなものですから。
あたりまえの、みんなが言っていることを書いたり言ったりしても、なんにも生まれないですからな。また話題にもならん。おもしろくもない。でも、常識ってわりと崩れるんです。というか、常識と言う蓑の中に、恐ろしいものが隠されていたりします。それこそ、常識って、なに? といっていい。だから、崩しちゃいかんタブーもあるわけでして。そういうタブーに挑むのが我々みたいな怪しいヤツらなんで、余計に怪しい、と思われるんでしょうけど。

新説と言うのは、みな、最初は眉唾扱いですから。既成の説とは違う、いわば異端的な説が新説なわけですから。特に、オカルトを触るのは難しい。これは、いろいろ地道に積み重ねて、場合によってはタブーの域まで踏み込むわけです。当然、キケンです。情報がある、といって怪しい人も近づいてくるし、電話は盗聴される、公安に目を付けられたりする。自費で渡航して取材したり。全然儲かりませんねんで。我々のやっていること。出版されて、取材費とトントン。出版されない場合は、全部持ち出し。そうまでしてやる。これは好奇心が勝る、というか、誰も知らない、あるいは封印されている世界を開封する、解読するというときめき感がそれをさせる、というのでしょうか。

そこまでして積み重ねてきたものを、面白半分で、テレビでオモチャにされ、おそらく視聴者から叩かれる。
私も放送作家でしたから、テレビ側の言い分もわかる。実は、まともな論説は、テレビにならないんです。ちょっとズレているのが面白い。だったら、出演者とちゃんと打ち合わせして、出演者にもメリットのあることも考えてあげなくっちゃ。
我々は、こんなときだけ、文化人とかいって持ち上げられるんですけど、文化人というのはギャラは格安になるんです。タレントや芸人と違って、本業じゃないからって。それだけにね。
飛鳥さんの出演したその番組内では、全然怒らない、仏の矢追といわれた、矢追純一さんまで怒り心頭だったらしい。話を聞くと、ほんとうに酷い。
そういうことが「許せない」と飛鳥さん。その通りですが、私も言うた。
「飛鳥さん、仕事、選びなはれ」

ちなみに、ネットでの叩き。やっている方はストレス発散、言いたいことを言う、私が正義、でいいのでしょうが、今、ずいぶん放送局がそれを怖がって萎縮しています。で、ますます無難な番組作りになって、で、面白くないと叩かれる。また萎縮する。これ、なんとか考えんといかんのでしょう。
最近、テレビや雑誌の人が来て、いろいろやろうと盛り上がるんですが、「それをやるとネットで叩かれる」と言って、けっきょく仕事にならないことが多いんです。おもしろい、ということは、ある意味とんがっている、ということですが、とんがると、叩きのターゲットになる。
あえて、とんがらせているんですが、なぜとんがっているんだ、というクレームが来る。で、とんがっていなかったら、誰も注目しない。我々個人が叩かれるならまだしも、局とか会社になると、コンプライアンスがどうとか、やれやれ、ですわ。
まあ、そういう時代、なんですかねえ。ますますこれから、テレビは面白くなくなりまっせ。

まあその流れで、「ムー」的な世界とマスコミの関係から、「ムー」的な世界で噂になっている、あの人の人物像や、なんでそんなことになった? という裏話が、今回の議題になってしまいました。まあ、お客さんのノリも、「それ聞かせて」みたいな感じでしたし。
この日、オカルトを論じるなら必需品の『聖書』と、『魔笛』のテキスト、いろいろ画像や資料を取り込んだパソコン、四天王寺「未来記」の存在を間接的に証拠づける巻物、など用意していたのですが、今回は(も?)お預け。
次回、飛鳥さんが来られたときは、「じっくりやりましょう」と約束しました。
そう、これ、1時間やそこらで説明できるものではないので、やるときは、時間いっぱい使わせていただかないと、聞くほうもよくわからないと思いますしね。

楽屋で、飛鳥さんと三上編集長にいろいろ口説かれましたので、なんか、オカルトの中山が、近々動くかもしれません。









kaidanyawa at 13:45|PermalinkComments(4)

2015年04月16日

声を上げた市松人形! ついにテレビで公開!!

中山市朗です。

情報解禁です。

KTV「ザワつく!?ウィークエンドTV・ニュースな晩餐会」
テレビ初公開!魂が宿った!声を上げる人形。
あるトーク・イベントで声を上げたという市松人形。本当に声を上げたのか。
音声科学の専門化が分析。さらに実物の人形がスタジオに!

そうです。
「中山市朗・Dark Night」の第一回目にお披露目した市松人形。
あの声をあげた、あの事件。
ついにテレビにて、その詳細が語られ、調査されます!

フジテレビ系、関西ではKTV、19日(日)、夜7:58〜8:54分にオンエア!

必見!

あのイベントに参加していたお客さん、まあ、オンエアされるときの人形の表情、見てやってください!
びっくりしますよ!


20数年ぶりに飛鳥昭雄さんと会った、「ムー」イベントの報告は、また後日!

kaidanyawa at 02:36|PermalinkComments(14)

2015年04月14日

隠し告知の三悪事

中山市朗です。

昨夜は、オフィスイチロウの定例会議。
プライベート怪談会の日取りが決まりました。
5月23日(土)の24時からオールナイトで。
いつものように私の怪談蒐集のための会ですので、参加費は無料。
ただし、怪談を一話は語ることが条件。
ネットや放送、雑誌などで発表されているものはNG。
あなたの体験談、もしくは、身内、友人、仕事仲間の人たちから聞いたお話でもOK。
膝突き合わせて、語り聞くのが、本来の怪談の魅力です。
ぜひとも怪談好き、怪談マニアの方はご参加くださいませ。
場所は、オフィスイチロウ(私の書斎)となります。

参加希望者の方は、info@officeichirou.com

あるいは、お電話、06-6264-0981まで。

その他、夏に向けての怪談イベントなどが決まってきました。各々情報解禁をお待ちください。

さて、3月いっぱいで終了いたしました、TBSらじこん「幽界案内」。
視聴は4月いっぱいまでは出来ます。
オフィスイチロウ、HPにて、第一話「メリーさんの館」から第233話「人形の部屋」までの全話、リストアップいたしましたので、ご視聴の参考にしていただきたく存じます。聞き逃した作品、気になる作品をこの機会にぜひ。

また、「作劇ネトラジ」では、大人の条件をテーマに、いろいろお話しています。
なんか塾生はサラリーマンがいるので、そのしがらみが嫌らしいですな。会社の飲み会、送別会、行事。
そんなん私は全然、関係ない。
逆にお給料もらってんだから、少々のお付き合いぐらいしたら、と思います。
私ら、給料なんてどこからももらっていないですから。その代わり自由。
しかし、自由というのは、責任と義務が生じるものでございまして。

「作劇ネトラジ」は、オフィスイチロウ・HP、右端下のバナーからお入りください。




kaidanyawa at 04:06|PermalinkComments(2)

2015年04月10日

酔いどれ市朗

中山市朗です。

明日、ネトラジに出演いたします。
とはいっても、怪談は語りません。いや、ちょっとは語るかな?
cainさんの「気まま酒家」
この企画は、私にたらふく酒を飲ました上で、いろいろしゃべらせようという、私にとってはキケンな番組でありまして。
怪談語りは、私の本職のようなもので、ライブや各種メディアなどで聴いていただけます。
しかし、私はその怪談を集め語り、書くという怪異収集家、以外にもいろいろな顔をもっておりまして。

たとえば、オカルト研究家としての顔。
オカルトは、何度もいいます、怪談とは違う。怪談は芸です。
オカルトは、つきつめると学問になる。人間と神、という問題を提起します。人間と神、というのは人間にとってはもっとも深遠で永遠のテーマですからな。神無くて、人類の進化も文化も無い。
聖徳太子を語りたい。空海を語りたい。神道について道教の秘儀について語りたい。陰陽師について語りたい。聖書について語りたい。ザビエルの背後にあったものについて語りたい。日ユ同祖論について語りたい。西洋文明とフリーメーソンについて語りたい。モーツァルトとフリーメーソン、「魔笛」について語りたい。イルミナティの正体について語りたい。いろいろ語って、みなさんに考えていただきたい。

戦争と歴史を語る顔。
オカルトをやっていますと、歴史が裏で作られているということがわかります。また、私に言わせると、天皇というのは、究極のオカルトです。悪い意味でとらないように。天皇の神性が、その系譜が、隠された秘儀が、日本という国体を連綿と今日まで維持させているのです。こんな国は、他にはありません。私が歴史を語り、戦争を語るというのは、日本人とはなにか、という問いかけです。
よく、自分探しに旅に出る、という人がいますが、まず、日本人とは何か、というアイデンティテイがないと、そんなものは見つからない。日本と言う国は、ほんとうに不思議な国です。日本人であることを誇りに思っていい。そんな、日本人とは何か、を探求するために、私は歴史を語り、戦争を語りたいのです。

クリエーターとしての顔。
ちょっと私は特異な経歴を持っておりまして。もともと映画の現場が出発点。黒澤明監督の現場にもいた。映画監督になりたかったですからな。その間、テレビCMを演出したり、イベントを仕掛けたり、司会もやりました。
気づいたら作家になって本を出して、同時に放送作家としてテレビやラジオ番組に携わった。イベントやメディアに出て、しゃべるようになった。ラジオ番組のパーソナリティもやった。出版物は、映画化され、コミック化され、ゲーム化され、自らも映画の演出も経験させてもらい、コミックの原作者にもなった。
専門学校の講師をやって、大学でも教えた。塾も作った。
今はオフィスを構えて、ネットやオンデマンドでの作品の制作、配信。怪談を何百話も語り、「古代史探偵団」も作って、古代史を追う旅もした。いろんな人と対談や座談会もさせていただき、いろんな経験をさせてもらって、いろいろ面白い体験も、イヤな体験もしました。そういうよもやまばなしがいっぱいありまして……。

映画を語る顔。
ネットで私のあるプロフィールが出てきたとき、映画評論家となっているのがありました。
映画評論家であったことは一度もありませんが、映画についてはよくしゃべっています。今の人は、こんなになんでも観られる時代に、昔の映画を観ないですね。昔の映画こそが、語るにふさわしい名作がいっぱい!考えたら、今は淀川長治がいないんですね。私の中学、高校時代は淀川さんの語りで、昔の映画を知った。ビデオなんてなかったし。「『サンセット大通り』観ましたか? 観てない? まあ、あなた、死になさい」なんて。ああ、観なあかんのやって。まあ、淀川さんというのは、あまりに大きく偉大な映画の宣伝塔でしたが、ああいうことを私もやってみたいですな。いい映画がいっぱいあるのに、なんで観ないんだ、と。
映画とは、矛盾したものです。妥協の産物です。そして、美しいものです。

その他、宗教について、教育について、文芸や芸術について、芸能界について、サブカル、音楽、語りたいことはいっぱいあります。もちろん出版を考えているものもありますが、まずはいろいろ提起し、皆さんに受け取ってもらいたい、そう思っていたわけです。
そういう私の抑えられない動機に、cainさんが場所を与えてくださったのが、私の出演する「気まま酒家」というわけです。ただ、cainさんに言わせると、お酒を飲んでしゃべっている私が面白い、のだそうで、実際にお酒を飲みながらの生放送となるようです。
私は、こういう場で、本で読んだ知識と言うよりは、私がこの耳で聞き、この目で見たこと、その皮膚感というものを提示したいと思います。

ちなみに、cainさんは、月に一回、というペースでやりたかったようですが、私としては、せめて隔週にしてください、と。大勢の人に認知していただくには、そのくらいのペースは維持しないと。
というわけで、2本録り。1本目は生放送。2本目は録音放送。ただし、2本目収録時には、もう4時間ほど飲んでいますので、これはアブないかも知れません。不適切発言があっても、酔っ払ってて覚えてません、と言いますから?

というわけで、第三回目となります「気まま酒家」。
明日、11日、午後22時より放送。テーマは……。なんやろ。cainさんが何を私から聞きだすのか。
また、私に対する質問なども募集しておりますので、遠慮なしにどうぞ。
第四回目は、隔週土曜日の同じ時刻となります。

関連URA  jbbs.shitaraba.net/radio/27627/

さて、同日は、作劇塾より、作劇ネトラジも放送いたします。こちらは毎週土曜日の夕刻の頃にはアップ。
塾生たちが持ち寄ったテーマを、クリエーターを目指す視点からなんやかやと議論したり、アドバイスしたり、深い話をしたり、不発で終わったり。こちらは、オフィスイチロウのHPから入れます。

そして、オカルト研究家としての私の片鱗をお見せできそうなトーク・イベントが15日(水)に、ロフトプラスワン・ウエストであります。「月刊ムーの世界不思議紀行2」。
「ムー」の三上編集長に加えて、今回は飛鳥昭雄さんが来阪!
テーマは前回同様なんにも聞いていませんので、おそらく本番ぶっつけ。
20年ぶりの飛鳥さんのノリに、ついていけるのか。それが心配。まあ、聞き手にまわりますわ。

「月刊ムーの世界不思議紀行2」の詳細も、オフィスイチロウのHPからどうぞ。







kaidanyawa at 16:13|PermalinkComments(8)

2015年04月08日

あけるなキケン

中山市朗です。

「芸能人の(マル秘)ヒキダシバラエティ・あけるなキケン」というTBSのテレビ番組からの情報です。
オカルト編、というのが近くオンエアされますが、私が出ております。
4月1日のこのブログで「憧れの砧」として、ちょっとボヤいた番組は、コレでした。
この番組の担当ディレクターという人が、なんでも20年以上前、私の自宅で、陰謀論だの古代史だのUFOだのの話を私から聞かされて、すっかりこの世界に興味を持ってしまったそうで。
電話で出演交渉いただいたとき「20年ぶりです」といわれても、ピンときませんてした。
20年前、どんなこと言ってたっけ?
まあ、あんまり今と変わらんか。
出演にあたっては、別に怪談でなくとも、陰謀論で5分間しゃべって、席に座っているE-girlsの女の子を納得させてください、というお話でしたが、これもピンとこない。
それもそのはず、この番組、関東のみの放送なので、観た事がない。
私、オカルト研究家でもありますので、そういう話はいっぱいいっぱいある!
ただ、話すにあたって、何か物的な証拠を提示してほしい、というわれて、テレビ的発想やなあと。
陰謀といわれても、いろいろありますし、真実を話すときっと、オンエアできないだろうし。
また、証拠が隠されているからが陰謀なのであって、しいていうなら、おそらく20年前に私が語っていた通りの世の中になっているでしょ、と言ったわけですが。
まあ、そのときそのときの新聞の裏読み、たとえば、日付、当事者の名前、背後にあるもの、発表の仕方、タイミング、世の中の動き、前後にあった事件、出来事との関係性、法則などで年表でも提示すると、あっ、そういうことだったか、とわかりますけどね。つながっていますから。ただ、それが証拠かと言われるとね。
そんなこんなで、心霊について語る、と言うことになって、その流れで、心霊写真とか動画を、という話になったわけです。
心霊写真、確かに私、いろいろ預かったのや、持ち込まれたものがありまして、いろいろもってはいます。
おそらく、ホンモノなんでしょう。でもそれは、私の仕事じゃない。
私のやっていることは、心霊ではなく、怪談ですから。
怪談をやっているから、心霊を信じている、というスタンスにはしたくない。そうでなくとも、世間の人はそう思っているみたいですけどね。
怪談を書いている作家は、実は懐疑主義者が多い。疑っているから、客観的な見方をする。疑っているから、その現象の特徴、特性を見極めようとする。そのスタンスが現代の怪談を表現していると思うのです。
語っている人は、肯定者が多いですけどね。これは、自らの体験、というのが語りの場合はわかりやすい、ということもあるのでしょうか。
語りと文芸は、説得力が違う。ただし、怪談でもっとも重要な、肝、は同じです。

もっとも怪談、というか怪異体験談というのは、もう一万数千話を集めていますので、霊的なものは「ある」としか思えない、という証言や、客観的視点からきわめて冷静に怪異を見た、という体験談、などもありますから、怪が存在するのか、という議題には、大いに盛り上がれるだけの材料はありますけど。
怪異は、心霊写真とか動画という点ではなく、談というストーリーが面白い。点と点をストーリーがつなぐ。
それが面白い。歴史と同じですよ。心霊写真は年号に似ている。何年どこそこで、これがあった(かも?)。
怪談はさしずめ講談ですか。あった(かも)、ということの背景をストーリーとして語る。もちろん真偽はまた別。
講談はエンターティメントで、学問ではないですから。でも、昔の人は、講談から歴史を知ったんです。おもしろいですからな、物語というやつは。
ちょっと今のテレビ番組は、物語より瞬間芸、一発芸、見たインパクト、というところに行っていますが、それ、ネットの世界ですやん。と思いますがな。現にそういう題材は、テレビの人は、ネットから拾ってますもん。
そりゃ、テレビ離れが起きますわ。
一方で「朝生」とか「そこまで言って委員会」なんていうのは、やっばりテレビ向け。あれ、自説を強調するために、ストーリーを語りますやん。物語とまではいきませんけど。そしたら同じテーマで別の人から、まったく別のストーリーが語られて、視聴者はどっちやねん、ずるずると見ちゃう。
みんな数値だの数字だの新聞記事だのを証拠として見せるんですが、どこまで説得力があるのか。
けっきょく、ストーリーが面白いところに、軍配が上がる。そんなふうに思えますけどね。
まあ、時間的余裕が無いか。

と、そんなこんなで、5分間、怪談語り一本で収録いたしました。
私以外にオカルトを語るのは(怪談はオカルトじゃあ無いんですけどね)、ジャーナリストの宇田川敬介さん、ライターでウィークリー・ワールド・ニュース・ジャパン編集長の近兼拓史さん、そして、吉田悠軌さん。
司会は、『幽』の取材から久しぶりの小藪千豊さんと、オードリーの若林正恭さん。

オンエアは、TBSテレビで、4月26日(日)、24:50〜25:20の予定。
関東のみのオンエアですので、私も観れませんわい。

kaidanyawa at 12:36|PermalinkComments(4)

2015年04月06日

特報!

中山市朗です。

昨日、久しぶりに、田辺青蛙さんに会い、例の声を発した人形と面会しました。
なぜ、ということはまだいえません。
近日、情報公開いたします。
驚愕の事実が判明しました!

以上。

kaidanyawa at 10:28|PermalinkComments(11)

2015年04月05日

こんな夢を見ろ

中山市朗です。

前回、作劇塾のことを書きましたが、今回は補足です。

「夢を語れ」というお話です。
このことは、今までもこのブログに取り上げたテーマでして、またか、と思われる人もいるでしょうが、これは非常に大切なことなのです。

「夢を語れ」とよく塾生に言うわけですが、私にとっては、なんで夢の実現をするために塾に入ってきているはずなのに、夢を語らないのか、と思うわけです。なかなかみんな、夢を語らない。

「夢は語るものじゃないといわれました」
「夢を語る暇があったら行動しろと言われました」
「夢を語っても、そんなんムダや。現実を見ろ、と説教されました」なんていう声がありました。

おそらくそれは、サラリーマンの社会。
サラリーマン同士で飲みに行って「俺はいつかビッグになるんだ」とか「俺には夢があるんだ」なんて言われると、確かにシンドイですわな。おそらくみんなも若い頃は夢があって、でも今は現実に働いている。それに、「オレは〇〇になるんだ」なんて言われても、〇〇の世界のことも知らないから、アドバイスのしようもない。ただただ、作り笑いをして聞くか、「お前、ええかげんに現実を見ろ」と説教していさめるかしかない。また、そうなると言っていた方も、夢がしぼんで、しゅんとなっちゃいますしね。
だったら、夢なんて語らない方がいい。

でもですね。夢は必要ですよ。そら、いくつ何十になっても。
サラリーマンの人だって、入社試験や面接で聞かれませんでしたか?
「あなたの夢はなんですか?」
「将来、この社会に入って、なしとげたいことはなんですか?」
ほら、夢を聞かれたはずです。
一時、サラリーマンの間では、スティブ・ジョブスやビル・ゲイツの生き方がクローズアップされたことがあります。今もですか?
彼らが身一つから起業し、世界的な企業に成長させたその手腕と哲学、夢を実現させたその過程……。
ほら、夢が出てきた。
ジョブスは「商品を売るのではなく、夢を売れ」と言った人です。また、ジョブスとウォルト・ディズニーは「最高の夢を語る人だ」と何かで読んだ記憶があります。
夢は、やっぱり語ったほうがいいんです。

それは、相手と場所が重要です。
私の周りにいる、たとえば作家になって十年、二十年と第一線を突っ走っている人たちを見ると、いまだに夢を語っています。「あんなことをしたい」「こんなことやりたんだけど、どうかな」なんて。
またそういう人たちは、デビューする前から、夢を語り合い、切磋琢磨し、共に成長した仲間がいたことがわかります。

一方で、なかなか芽が出ない人がいる。
人一倍努力して、スキルやテクニックをひたすら身につけ、何年も何年も踏ん張っている。けど、結果が出ない。そういう人もいっぱい見てきた。こういう人は自分だけでなんとかしようと思っているわけで、それはそうなんです。特に作家になろうとするならば、独り部屋に閉じこもって延々と原稿を文字で埋めていく作業をするわけで、そら、孤独なわけです。しかし、それを続けているだけなら、モチベーションは下がっていく。そしたら、ネットには「作家になりたいけどなれない人のためのスレッド」みたいなのがあるそうで、そういうところに不満やストレス発散の書き込みをする。でもそれは、一時的にはスッとするかも知れませんが、モチベーションが上がることは無い。また、そんな精神状態にある人の作品は、まあ、読みたくは無い、ですわな。

夢を実現したいならば、その夢を、具体的に持ってなきゃなりませんわな。夢が無いのに夢が叶うわけないですから。
夢とは、一つは覚悟です。本気で達成したいモノとは何か、です。その、モノ、が夢です。
どんな犠牲を払おうとも、成し遂げなければ成らない目標です。それを仲間に語ることで自覚するわけです。すると仲間もその夢を語ってくる。それは参考になります。そのスケールの大きさや、戦略。共に夢を語ることによって共感が湧きます。それが発奮材料になり、切磋琢磨する仲間となり、そこから人脈も出来ることになる。応援してくれる人もできる。すると勇気も湧き、前進することができます。
モチベーションが上がります。そんな精神状態のときは、きっといいものが出来ているはずです。
夢は、情熱で無ければなりません。その情熱は、自然、周りの人に伝わります。また、その情熱は、語らずにはいられないでしょう。
「才能の無きことを憂う必要は無いが、情熱なきことを恐れなくてはならない」とは、松下幸之助さんの言葉です。
前進して、玉砕することもある。いや、最初はそんなもんです。でも、情熱は消えないはずです。挑戦し、敗退しても、その経験とノウハウは残る。次なる挑戦へのステップに、大いに生かされます。この繰り返しです。夢の成就にいたるには。
そうなると「夢を語る暇があったら、行動しろ」という言葉は一理あるわけです。

夢とは情熱であり、情熱は、周りの人を動かし、挑戦への原動力となる。
だから、夢を語ることは必要なんです。
精神衛生上的観点からもね。

作劇塾は、そういう場所でなくてはならない、と、私はずっと思い続けているわけなのです。
また、語ってくれないと、アドバイスのしようも無いですし。

そして、消えていった塾生たちもいる。
私は思います。
「限界は、自分で決めているだけ」

私が辞めろ、といったことは無い。



kaidanyawa at 02:09|PermalinkComments(5)

2015年04月02日

12年めの作劇塾

中山市朗です。

昨日、4月1日は三船敏郎さんの生誕日ですが、私、中山市朗の生誕日でもございまして。
また、作劇塾が教室をもって開講したのも、11年前の4月1日。
ということで、昨日は、真代屋秀晃くんの呼びかけによって、元塾生、あるいは塾生たちが集ってくれて、祝杯をあげました。かんぱーい。

塾もここまでよー続いたなと。
もうずっと赤字ですから、経営的にはまったくなりたっていないのですが、それでも続けているのは、やっぱり、サラリーマンにはなれず、個人でなにやら作品を作って売る、というクリエーターになるしか生きいていくすべがなかった私が、20代に、えらく苦しんだから。
これまでの人生、20代にだけは戻りたくありません。光が見えなかったんですもん。無理やり見ようとはしていましたけど。

実績が無い、バックボーンもない、信頼もされない、そもそも必要とされていない。それが、デビューできていないクリエーター志望者の実情。もちろん金もなし。仕方なくバイトをしてしのぎますが、そもそも人に使われることが嫌なので、この道を選択しているわけで、もうバイトは苦痛以外のなにものでもない。
芸大を卒業して早々と、サラリーマンになった友人たちは別として、やっぱり夢を追っている友人たちは、私とほぼ同じ境遇にいました。でもまあ、それは覚悟の上。
楽しいことや、やってよかったと思ったことはありましたよ。
黒澤明監督の現場に入れたし、映画の助監督の体験もしたし、ライターの仕事もさせていただいた。普通じゃ会えないような憧れの人、著名な人とも酒を飲んだり、話をさせていただいたり、悩み相談をしたりもした。
何より、いろいろな業界人たちに積極的に会いに行き、営業をかけて、人脈作りもコツコツとやった。
30歳になって作家デビューした途端、営業をかけていた業界の人たちから、仕事のオファーを受けるようになり、ほんとうの飲み仲間にもなった。そこから、いきなり人生が面白くなった。この世界で生きていてよかった、で、今に至る。
つまり、こういう人脈作りをしていなかったら、デビューはしても、後に続かないのだ、という現状も知ったし、ヒット作を出せば、世間の扱いがまったく違うようになる、という現実も知った。そこがまた、正直、愉快なわけですよ。

でも、そうなってから改めて周りを見ると、同じように目標を持って進んでいたはずの仲間たちが、次々と辞めていたわけです。
食えないし、親や親戚から「就職しろ」と言われる。夢を追ってて本当にいいのか、という疑問も、30歳が近くなると考えるようになる。限界を見たような気がする。
そう言う人たちは、けっきょく、営業をかけるとか、人脈を作るという行為をせず、ただ、悶々と悩んでいた、というふうに見えたわけです。
作家も漫画家も映画監督も、芸術家というよりは職人に近い。ニーズや注文に応じて最良のものを作って納品する。これがクリエーター。職人と言うのは、親方や師匠がいて、彼らについて修行し、真似ながらプロになっていく。
だとしたら、作家になる近道は、プロの作家のそばにいる。現場にいる。仕事を手伝うということだと思うんです。
プロの作品作りの過程がわかる、そのレベルがどんなものかも見れる、そして、そこに出入りする編集さんやプロデューサー、技術さん、クライアントとも知り合える。その現場にいるということで、ある程度の信頼ももらえる。作品を仕事として納品するということも理解できている。
「トキワ荘」というのがそれですがな。
その一方で、一人でやっていて、好きなことを好きなペースでやっていて、いざ発注を受けると、仕事としてのスタンスがとれず、結局、プロになれなかったという人もたくさん見てきました。

そういう過程は、専門学校では教えられない。業界は人脈作りだ、なんてカリキュラムも無い。
ただ、教えなくても、そこを理解する学生は、勝手にプロの現場に潜り込んで作品作りをして、しれっと営業活動をしているわけですが、まぁ、ほとんどの学生は、そこにきづかず、勘違いしたまま卒業している。
デビューも出来ないし、そういう仕事のオファーも無い。で、消える。これが大部分。
塾は、それができる。
そう思って、塾を作って、現場実践をやってきたわけです。
我が塾は、何度も言いますデビューするための塾ではない。デビューしたいだけなら、そういう教室や講座はほかにあります。そうではなくて、この業界で食っていくことができる人材になる、こちらにすれば育てる、というのがテーマですから。デビューしても後が続かず、食っていけなかったらプロとはいえないし、華々しいデビューはしなくても、ちゃんと好きな道で食っていければ、それはプロですから。私がそうですもん。
11年間で、塾に1年以上通った人は、全部で50人はいない。ただし、何年通ってもかまわないので、ヌシみたいなのが2、3年前まではいましたけど。
でも、クリエーターとして生きている塾生、元塾生は把握しているだけで10人はいます。12年でそれだけかよ、と言われそうですが、まあ最初は駆け込み寺みたいなところからの出発でしたしね。5人に一人なら、不満は残るけどやった甲斐はある。それに、もう連絡も途絶えてどうしているのかわからないのもけっこういますので、彼らがいったい何をしているのかはわかりません。なんだか、あちこちで、中山市朗作劇塾にいたという人物が、某有名雑誌の編集部に売り込んできて、専属作家になっていたり、有名な脚本家のもとにいたりしているらしいので、私の知らないうちで、私の理念である、人脈作りをコツコツとしているのもいてるらしい。それはそれでけっこうなことです。
今の塾生たちは、OLとかサラリーマンが中心で、仕事の合間に書いているという人たちばかりなのですが、やっぱりメジャーを目指してもらいたいし、妙な妥協はしてほしくない、という不満もあります。閉じこもっとらんと、もっと人とあって、飲め、遊べ、おもろいもん見つけて来いと。
だから、なかなか塾は辞められない。一人でも二人でも、自分の目指す世界に羽ばたけることに対して、少しでも貢献できるのであれば、ずっと続けていきたいと思うわけです。20代の私がそう言っている。
たった独りで、クリエーターの道を歩むのは辛く、くじけそうな茨の道だが、仲間がいると、共に進める。その道をすでに歩んで来た、プロの人たちのアドバイスは何より貴重なものである、おろそかにするなと。
それに私自身、教える、ということは、物凄い勉強になる。自分のやっていることを一旦理論にし、法則にあてはめなければならない。そうしないと教えられませんからな。でもそんなこと、普通は考えていません。だから、おそらく塾を作って、いちばんインプットし、いろいろ考えたのは塾生よりも私かな、と。

まあそんなんで、12年目のスタートが3日の授業からスタートします。

昨日のパーティ、みんなで熱き創作談義。そう、それが大事。





kaidanyawa at 13:50|PermalinkComments(6)

2015年04月01日

憧れの砧

中山市朗です。

昨日、テレビ番組収録のため、久しぶりに東京の砧へ行ってきました。
砧(きぬた)と言ったら、あの『七人の侍』や『ゴジラ』、『社長シリーズ』『若大将シリーズ』『用心棒』などを生んだ、東宝撮影所のあるところですわ!
ところで、テレビ出演のお話は、たまにいただくのですが、どうも心霊写真はお持ちではないか、とか、動画はありませんかと、ほとんどがそうなるわけです。
で、私は言うわけです。
「怪談だけでもちますよ」
だいたい私は、心霊研究家でも鑑定家でもない。怪談語りが私の仕事。
なのに、持ち時間、ぜいぜい5分間を、心霊動画や心霊写真の解説に使っても私のプロモーションにもならない。
近頃、CGで何でもできる環境になって、完成度の高い心霊ビデオとか、UFO目撃ビデオがどんどん作られ、ユーチューブなどにアップされています。テレビ製作の人たちはここからピックアップして、許諾を取った上で放送しているというのが現状。
聞くところによれば、海外にそういう権利を持っている会社がいて、そういう海千山千の動画を売っているらしい。で、一番よく買っているのが、日本のテレビ局だとか。
日本には、せっかく怪談と言う、世界に類を見ない話芸がありながら、なぜ、日本のテレビ局はそこに注目しないのか。
いや、テレビですからね。そういうのをオンエアするのは別に悪いとは思いません。でも、近頃の怪奇特集と言ったらそんなんばっかり。これじゃあ、なにも育たないし、次にもつながらない。何も生まない。視聴者からもソッポ向かれる。こういう番組を見ている視聴者は、もうネットで見てますから。まあ、現場としちゃあ、それが楽なのかもしれませんけど。
今回の収録も、本当は心霊写真を、と頼まれていたのですが、「そんなもんより、わしの怪談でじゅうぶん持つわい」とばかり、心霊写真の持参を拒否。怪談を語るだけの収録に望みました。べつに怪談番組じゃないですよ。バラエティの一コーナーですけどね。

実は、もう一社のテレビ番組制作会社の人と、ここんとこずっとお電話でやりとりしていたのですが、「東京にこられるのなら一度お会いしたい」ということで、収録前にその制作会社の演出の方とお会いして、90分ほど、テレビ番組に対する私の意見を述べさせていただいたしだいでして。私も放送作家をやっていましたから、テレビ側の人たちの考えもわかる。だからといって、ずっと同じものを無難に作って、無難にオンエアするのはいかがなものか。
それで、「視聴率、あかんかったなあ」て。
「怪談以外に、何か面白いテーマはありますか」と聞かれて「なんぼでもある」といろいろ披露いたしました。
いつも担当レベルでは「面白い。ぜひやってみたい」と言われるのですが、会議にあげると、プロデューサーからストップがかかるみたいで。こういうものは、タブーきわきわのところが、面白いんですけど、そのタブーを局は怖がる。それじゃあ、面白いネタは提供できないじゃん、て、話。

というわけで、昨日収録したテレビ番組情報は、近日、オフィスイチロウのHPにて。
こっちはほんま、30分番組で、一人持ち時間の5分ほど、怪談を語っただけ。
ただし、東京ローカル。私も見れませんわ。

ところで番組で共演した、E-girlsの女の子たちから、なぜかサイン入りのCDもろた!
えっ? そうや。自慢や!





kaidanyawa at 13:38|PermalinkComments(11)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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