2016年02月

2016年02月29日

三柱鳥居の謎を追って・9 

中山市朗です。

海部は物部であり、秦氏であり鴨氏でもある。
う〜ん、わからん。

まあ、海部は海洋族。倭人です。倭人は九州、出雲、朝鮮半島などを行き来したわけです。
今の国境線で考えると、韓国の人と激論になりますが、二千年も前の話です。今とは国の概念もその環境も人の生き方も違います。
この海人が日本列島に住み着き、やがて内陸部に入って開拓をしていく。
もともと、列島に住んでいた、いわゆる縄文人たちの土地を奪うための争いもあったでしょうし、譲渡された場合もあったでしょう。彼らは武器を持ち、戦い方を知っていましたから、平和に生きていた縄文人たちは駆逐されていきます。国譲りの神話も、実態は血なまぐさい歴史があったとみるべきかもしれません。
もちろん、攻められる前に献上物を差出し、和平交渉に臨んだ国の長もいたでしょう。
そうやって、ある者が河内に入り、天皇の祖となる大王に会い、最初は戦うが途中で従うべき天神だと悟って、大王に仕え、その大王の祭祀と軍を掌握していく。これが天皇となるわけで、このことは『書記』に記されるものです。
思うに、おそらく、天皇も元をたどると同じ海人で、河内でそのことをお互い知った、と思うわけです。

太古のことは文字にもなっていない、したがって記録が無い。
記録が無ければ歴史学も成り立たないわけでして、実に曖昧模糊としていまして、これはもう想像をたくましくするしかないのですが……。
ところで、この海部、物部というのは、族名ではないのです。

籠神社の先代宮司・海部穀定氏が記された『元初の最高神と大和朝廷の元始』には、「海部といえば海に関係があり、山部といえば山に関係があり、物部といえば軍門兵器に関係があるが、それはその職掌による姓(かばね)であって……」
つまり、海部、物部という一族がいたわけではない。朝廷に命じられ、丹後や河内、尾張といった国を治める国造氏が賜った姓であり、海部直(あまべのあたい)という姓は応神天皇の御代に賜ったものである、としています。
だから、物部といっても血族上の系統は、実はいろいろあるわけです。
だから、ただ物部という姓ではあるが、饒早日命とはまったく別系統、というのもいたわけです。海部もそうだというわけです。海部の人ぜんぶが、同じ祖先であるわけがない。ただし、丹後国の海部直(あまべのあたい)氏は、本来、神別氏姓に属している、とします。海部も直も、朝廷からもらった姓です。その系統上にあるのが、今の籠神社の宮司一族である、というわけです。
神別氏姓とは、天津神か国津神の子孫である、ということで、海部氏直氏は、天津神の子孫であるとします。
この神の子孫は祝部(はふりべ)といって、神に奉仕することになります。
伊勢の斎姫の発祥も、この海部直氏の血を引く女子からで、丹後の竹野神社を調べると、そういうことが出てきます。
この神別氏姓に属する、ということは、天皇家と同じ系譜に属する、ことを意味します。
だから、海部直から分かれた物部連(もののべのむらじ)は、神別氏姓の血統にあると認められたから、天皇の祭祀権を独占できたのです。
この、神別氏姓の血統があって、はじめて神と人とをつなぐ巫(かんなぎ)となり、神と交流することができるわけです。蘇我氏には、そういう血はなかったんです。
私が、聖徳太子には物部、いや、海部直の、神別氏姓の血が流れているとみるのは、そこです。

だから、物部の祖である饒早日命は、海部直氏の血を引くものであり、すなわち彦火明命の系統である。
天照國照彦火明櫛玉饒早日命、という名は、それを現すわけです。

京都太秦の三柱鳥居のある神社、木嶋神社の祭神が、それでありました。

そうなると、私の手元にある『物部家譜』にある、木嶋神社の祭神は、物部守屋也り、という記述に合点がいきます。しかし、太秦という名は、秦氏のものであり、京都山背は、秦氏が開墾した土地であり、平安京造営以前は大勢の秦氏が住む、本拠地であった、のも事実。
物部と秦氏は、いかなる関係にあったのでしょう。

その前に、秦氏とはなんぞや、という問題をもう一度見てみましょう。
『日本書紀』によれば、応神天皇の御代に、弓月君が百済から百二十県の民を率いてやって来て、帰化したとあります。
さらに、雄略天皇の御代にも、大量にやってきます。数万人の規模で何度かやってきているわけです。
弥生時代の日本列島の人口が十万人に満たなかった、といいますから、これ、そうとうな数です。
今、ドイツで難民の受け入れがどうのこうのと問題になっているようですが、比率で言うとそれどころやない数です。なぜ、この時点で、秦国にならなかったのか不思議なくらいです。

彼らは百済から来たことになっていますが、どうも朝鮮半島の人達ではない。聖徳太子の時代、隋の使者が記した『隋書・倭国伝』に、その秦氏のことに触れていて、「竹斯国(ちくし=筑紫?)に居たり、また東して秦王国に至る。その人華夏(中国)に同じ、以って夷洲(野蛮な国)となすも、疑わしくは、明らかにする能わざるなり」

この秦王国というのは、おそらく秦氏が住んだ国であり、筑紫の東とあるだけで、どこにあるのかもわからないんですが、隋の使者は、その生活ぶりが中華と同じだ、とするわけですから、中国大陸から朝鮮半島を経由してやってきた民であろう、と。
自分たちは、秦始皇帝の末裔で、秦国にいたから秦氏と名乗ったというのですが、これも、そういう人たちもいただろうし、そうでない人もいただろうと。中国大陸はよく戦乱が勃発し、農民たちは田畑を荒らされ、夫人にこき使われ、時には殺され、強姦されと、大量の難民が流出したことは想像できます。その人たちが、海を隔てた島国に疎開したわけです。ただ、彼らは、秦始皇帝の末裔だとするからには、朝廷とはりあっさて権力争いをやってもよさそうなものですが、そういう形跡がない。だまって朝廷に服従し、それを喜んでいる風でもあります。

おそらく、秦氏も純粋な中華人というわけでもなさそうです。

続く











kaidanyawa at 09:12|PermalinkComments(6)

2016年02月27日

来週怪談会!

中山市朗です。

今日は告知をいたします。

私の書斎で行います「怪談会」、いよいよ3月5日、来週土曜日の深夜から、となります。
ちょっと今回、常連さんからの参加も少なく、人数にめちゃくちゃ余裕があります。

遠慮せずに、どんどん参加くださるようお願いいたしまする〜。
もちろん、初参加の方も大歓迎。私もいくつか怪談を披露いたします。

参加費は無料ですが、怪談を一話は語っていただくことが条件となります。
あなたの体験談、あるいは身近な人から聞いた話、地元で噂になっている話などをお待ちしています。

24時からオールナイト。
膝つきあわせて、怪談を語ったり聞いたりと、本来の怪談会を楽しんでください。

お酒やおつまみなどはご持参してください。

参加希望の方は、オフィスイチロウへメール info@officeichirou.com

お電話は 06−6264−0981

連絡いただきますと、集合場所、時間をお知らせいたします。


そして、次の土曜日、12日はネットラジオ『気まま酒家』の収録を、同じく私の書斎で収録いたします。
二本録りで、1本目は22時よりの生放送、2本目は録音放送となります。

テーマは「フリーメーソンとは?」

知っているようで知らないフリーメーソンの実態とは?

3月末に学研プラスから発売される『聖徳太子・対談 飛鳥昭雄VS中山市朗』に合わせての企画です。

聖徳太子の『未来記』とモーツァルトの『魔笛』をつなぐのは、フリーメーソンの奥義なのであります!
そしてフリーメーソンが世界支配を目論んでいた、という噂は真実なのか?
4時間にわたって、お話しましょう。

ネットラジオでしか絶対にできないテーマです。
ただ、2本目の収録の頃には、いい具合に酒がまわっておりますので、責任はもてません?

番組に出てしゃべりたい、または、聞くだけでもいいから、参加したいという方、募集いたします。

参加希望の方は『気まま酒家』のアドレスか、オフィスイチロウのメールにご一報くださいませ。



kaidanyawa at 09:11|PermalinkComments(7)

2016年02月25日

三柱鳥居の謎を追う・8

中山市朗です。

さてさて、三柱鳥居の謎について書いていますが、なんと8回目になりました。

そろそろ、決着を、ということで。

もう、お分かりの方もおられましょう。

三柱鳥居のある、木嶋坐天照御魂神社は、秦氏の神を祀りながらも、鴨氏の神紋がある。
秦氏は鴨氏である。
そして、美濃の山奥、山の山頂に人知れず建っていた三柱鳥居。
このあたりは秦氏が開墾し、鴨縣主が治めた地域である。

つまり、三柱鳥居は、鴨氏の神の象徴なのであります。

鴨氏といえば、その祖は賀茂建角身命を祖とする一族で、それは神武天皇東征のおり、高皇産霊(タカミスビ)尊によって遣わされ、皇軍を熊野から大和へと導いたという、八咫烏を思い出します。
その八咫烏こそは、賀茂建角身命であったというわけです。
京都下賀茂神社の祭神はこの賀茂建角身命で、御蔭神社の祭神でもあります。

この八咫烏は、太陽の化身です。
そして、三本の脚があります。

熊野本宮によれば、三本の脚は、それぞれ天、地、人を現す、としています。
太陽の下に、神(天)と自然(地)と人が、血を分けた兄弟であることを示したものである、と。

太陽の光を上部の三角形の入り口から取り入れ、神、自然、人の柱より放出し、聖域を清浄化させる三柱鳥居こそは、八咫烏です。

八咫烏の秘密




















三柱鳥居













美濃の山奥に建つ三柱鳥居は、景教の痕跡と言うよりは、八咫烏を象徴としたものである、と考えた方が自然でしょう。私の聞いた『怪談』には、地元の人は、山神として恐れていたと言います。そして、頂上の三柱鳥居は、山全体を神域として清浄化するような存在だったと思われるのです
そこには、三柱鳥居以外は何もなかった、というのです。
山頂に降り注ぐ太陽の光を、三柱鳥居がとりいれ、三面より拡散させ、山を浄化したのです。
いわば、ピラミッド・パワーのようなもの?

木嶋神社の三柱鳥居も、糺の池の水の中にあり、その水は浄化されたものとされました。その水は禊に使われ、牛祭りの摩多羅神も、ここで禊をしたのです。

蚕の社三柱鳥居












下賀茂神社の糺の森に、古代において三柱鳥居があったのかも知れませんね。

で、この前、飛鳥昭雄さんと対談したとき、飛鳥さんは「古代において、三柱鳥居はいっぱいあったが、事情があって消されたと思う」と言っていましたが、それは私も同感なんです。
岐阜の山奥にあったものは、おそらく発見されずにたまたま残ったのではないでしょうか?
そして、木嶋神社にだけそれは残された。いや、江戸時代に再建されたといいますから、ある年月は無かった可能性もあります。そもそもその創建がわからないわけですけど。
とにかく、そういう一切がわからないのが、三柱鳥居なのです。

しかし、なぜ三柱鳥居は、消されたのかを、推測してみましょう。
これを探るのは、どうもタブーのようですので、言えるところまでですよ。

私は秦氏は鴨氏と言いました。

ここにヒントがありそうです。

いや、そもそも木嶋坐天照御魂の天照御魂とは、最初に述べたように海部であり物部の神です。
『物部家譜』によると、木嶋神社の祭神は、もともと物部守屋だったという記述もあります。
木嶋神社は物部? とすると、物部の社に三柱鳥居があったということ?
しかし、あの一帯、太秦は確かに秦氏が開拓し、治水を行った場所で、秦氏の本拠地でもありました。
平安京造営の折り、秦氏はその土地を朝廷に譲った、といいます。
秦氏の土地に……?


となると、ですね。

海部は物部であり、それは秦氏であり、鴨氏である……?



説明しましょう。


次回に続く。




kaidanyawa at 09:00|PermalinkComments(12)

2016年02月23日

三柱鳥居の謎を追う・7

中山市朗です。

三柱鳥居の謎を追って、つらつらと記事を書いておりましたら、『ムー』の三上編集長から「対馬の三柱鳥居は、宮司に取材してみたところ『新しく作ったもの』だと言われた」とツィッターで知らせてくれました。
う〜ん、やっぱりこういうことは、現地取材してみんとあかんわけですな。


原稿料の発生するお仕事として書く場合は、必ず取材させてくれ、と言っておりますので、そういうお仕事があった場合、ちゃんと取材して、書かせていただきます。いえ、ブログだからって手を抜いてはいませんよ。

さて、それではなぜ和多都美神社が、新しくあそこに三柱鳥居を作ったのか?

やはりそれは、聖域を糺す、海を糺す、という本質は違わないと思うわけです。

和多都美(渡津海)が海族の神であり、丹後の籠神社とそれは同神であること。
籠神社の主祭神は京都太秦の木嶋坐天照御魂神社にも祀られること。
その木嶋神社の境内、元糺の池に、三柱鳥居が存在していること。
つながりはあります。

ちなみに、元糺の池にある石造りの三柱鳥居は、享保二年(1717年)に再建されたものと、鳥居の柱に書かれています。その始源は、当社の宮司さんにして「不明」とのことでした。
ちなみに、1717年てなんか記憶にあるな、と思ったら、近代フリーメーソンがロンドンで発足した年だった!


さて、前回、この木嶋神社にあることを証明するものが存在すると書きました。
それは、神社に入ってまっすぐ歩くと、拝殿があります。
その拝殿に、提灯がぶら下がっています。

木嶋神社の賀茂紋










なにかお気づきでしょうか?
え〜、神紋にご注目を。
次の提灯は、別の神社にぶらさがっているものでして、

賀茂神社の紋











京都下賀茂神社の神紋です。

似てる? というか、同じですわ。
どちらも、双葉葵(ふたばあおい)。同じ神紋、ということは、両社とも同神を祀っているということか、はたまた同族であるということです。
そういえば、下賀茂神社には糺の森が境内に広がっています。

木嶋神社には、元糺の池があります。
元糺の池と、糺の森。

糺の森のある、下賀茂神社には御手洗池があり、土用の丑の日は地元民たちが足を浸し、無病を祈るという風習があり、木嶋神社の元糺の池にも同じ風習があります。

昔は、木嶋神社の周囲はこんもりとした森があって、それが嶋のように見えたので、木嶋と名付けられたと当社の由緒に書かれています。
とすると、今は池しかありませんが、その森は糺の森であったのかも知れません。
それが、
平安京が遷都され、嵯峨天皇の御代のとき、下賀茂神社の鎮守の森に、糺すの名称が移された、と言います。
だから、木嶋神社の糺の池は、元糺の池と、元が付いた。
これ、両社の祭神が共通したものであったと考えないと、そういうことは起こらないでしょう。

また、京都最大の例祭、葵祭(あおいまつり」があります。祇園祭が庶民の祭りの風情なら、葵祭は王朝の風情がある祭りです。しかし、京の都では、昔は祭り、といえば、葵祭のことを指しました。

葵祭は、上鴨、下賀茂両社の祭りで正式には賀茂祭といいます。

賀茂祭の神は、左京区上高野の山中にある御蔭神社から勧請されます。

御蔭(みかげ)神社。観光スポットから外れた場所に、ぽつんと鎮座しています。

神社御蔭











御蔭神社は拝殿が二つあり、西殿に賀茂建角身命、東殿に玉依姫命が祀られます。
この御蔭の神は、丹後籠神社の神である、と、籠神社は主張しています。

実は、葵祭と同日、丹後の籠神社でも葵祭がおこなわれます。これは欽明天皇の時代から続いているものだとされます。ただ、京都の賀茂祭の神官等が冠に葵の花をかざすのに対し、籠神社の例祭では、藤の花を飾りとするので、籠神社の例祭は、藤祭とも呼ばれています。ただ、欽明天皇以前の例祭は藤祭であり、籠神社がその名称の起源であり、それは紀元前507年までに遡る、と、籠神社社務所発行の『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』に記されています。

御蔭(みかげ)とは、太陽の射す、という意味で、その御蔭をいただくのが、「御生(みあ)れの神事」又は「御蔭の神事」であり、その主神の正体は彦火明命である、そして天照御魂である……。
要は太陽信仰ですね。そして豊穣を祈ったんです。

海部の藤祭の主祭神が、葵祭と同じ御蔭(太陽)だとすると、天照御魂と賀茂大神、これは神意が同じであることは間違いありません。
すると、木嶋神社の祭神は、本来、天照御魂であり、それは彦火明命であるということと、葵祭の源神がその彦火明命であることを考えると、木嶋神社の神紋が下賀茂神社と同じということに合点がいきます。
いや、木嶋神社の祭神は、賀茂社の祭神である。
秦氏は鴨氏である……。

古代史の謎の最奥部に入り込んでしまいました。
このことは、次回に述べることにしまして、では、岐阜の山頂にあったという三柱鳥居は、どうつながるのか。

つながります。
実は、美濃は秦氏が開拓したようなのですが、同時に彼らは鴨氏でもあったのです。

美濃に縣主神社(旧賀茂郡太田町)が鎮座しておりまして、彦坐王命が祭神となっています。縣主(あがたぬし)とは、律令制以前に朝廷の直轄地に置かれた行政区分を治めた王政の代表のことで、それが彦坐王(ひこにますのみこ)であるというのです。彦坐王は丹波にも派遣され、丹波国の縣主になります。当時の丹波国は、今の丹波、丹後、但馬、淡海(近江)を連合する大国でした。しかし、その丹波の縣主は海部のことでもあります。美濃の縣主神社は、彦坐王の子孫がこれを祀ったと伝わっています。
で、美濃縣主神社、賀茂神社(美濃賀茂市)、坂祝神社(賀茂郡坂視町)の三坐を三賀茂神社とし、美濃を治めたのは鴨縣主である、とされるわけです。律令下では、このあたりは賀茂郡でした。
鴨氏です。

斉明天皇の頃、つまり7世紀には鴨族は美濃に入って開拓したようで、木曽川の中流は加茂川となります。

また、鴨縣主は、美濃、飛騨を本拠地としていた尾張氏との関係も深くあったと想像できます。海部氏勘注系図や『先代旧事本紀』に掲載される尾張氏系図によりますと、尾張氏は海部の一族であると示唆しています。また、尾張とは、丹波の葛城(高尾張)に関連するとします。
尾張氏の祖も、やはり彦火明命であるわけです。

となれば、あの山頂の三柱鳥居は、鴨氏の信仰の痕跡であった可能性が、大きく存在するわけです。そしてそれは、木嶋坐天照御魂である、彦火明命のことでもある……。
まあ、いずれ現地取材をしてみなければ、はっきりとは言えませんが、おそらく間違ってはいない。

あ、ついて来てます?




続く。

kaidanyawa at 00:15|PermalinkComments(7)

2016年02月21日

三柱鳥居の謎を追う・6

中山市朗です。

太秦、木嶋坐天照御魂神社にある三柱鳥居。
これは、太秦、秦氏の関連から、ユダヤ人である秦氏が信仰した原始キリスト教・景教の痕跡ではないかと言われ、注目を浴びるところですが。
しかし、そうであるなら、唐の長安には景教は確実に来ていて、大秦寺を建てたわけですから、そこに三柱鳥居が無いとおかしい。でもそんな話は聞きません。
三柱鳥居は、日本だけにある。

それが、一つは太秦の三柱鳥居。
そして、対馬の和多都美神社にもありました。実は二つあります。
一つは、神社に入って左手、潮が満ちると海に浸かる三柱鳥居。そして社殿左に、もう一つ。
一つは、安曇磯良の墓(磐座)、もう一つは、

和多都美神社 三柱鳥居1
















豊玉彦命の墓(磐座)とされています。

さらに、岐阜県郡上市の山奥山頂にあった三柱鳥居。バブル期に壊されてしまったが、実はいつからあったのか地元の人も知らないほど昔からあったと聞きました。

この三か所の三柱鳥居が、古来の三柱鳥居の信仰について物語っているはずなんです。

もし、太秦の三本鳥居が景教の痕跡であるというのなら、対馬と岐阜の山奥に、景教の痕跡があったことを証明せねばなりません。私は現地取材をしていないので、何とも言えませんが、おそらくその実証は困難でありましょう。ともかく、その謎を解くには、思い込みは排除し、まずはその三柱鳥居のある背景を見るべきですなのです。

そしたら、岐阜の郡上市からは、八幡というキーワードが出てきた。八幡は秦氏の信仰でありながら、前回、海神が本質であることが見えてきました。そうなると、対馬の和多都美との関連が結び付けられます。

では、京都太秦とは結びつくのでしょうか?
木嶋坐天照御魂神社は、八幡の神を祀るものではありません。ただ、秦氏というつながりはあります。

でも、太秦と対馬の三本鳥居は、その形態に共通点があることがわかります。

まず、京都太秦の三本鳥居。元糺すの池に建っています。

蚕の社三柱鳥居











続いて、対馬は和多都美の三柱鳥居。

和多都美神社 三柱鳥居2










お分かりでしょう。
どちらも、水の中に立っています。おそらくここが、三柱鳥居の本質です。

普通の鳥居は二本の柱で構成されます。裏と表、入て出る。参拝人たちはこの鳥居に入って聖域に入り、また、出るわけです。しかし本来鳥居は、神が通る門なのです。ですからみなさん、神社に参拝するときに、鳥居のまん真ん中を通ってはいけません。そこは、神様の通り道です。

すると、三本の柱で構成される鳥居は、それだけ出入り口が複雑になるわけです。

三柱鳥居











まず、三本の柱で構成されることにより、三つの面、三つの出入り口が構成されます。この鳥居は四方から見ることができます。これは、どの方向から見ても、一つの柱(神)を見ることができる。つまりこれ自体が御神体なのです。
その証拠に、どちらの鳥居にも、真ん中に神籬ないしは磐座があります。人が通ってはいけない神域です。

そして、真上から見ると三角形が構成され、ここも出入り口となります。四つ目の出入り口です。
ここから、何が出入りするのでしょう?
太陽です。
木嶋神社の天照御魂とは、海族の太陽信仰のことであると、前項で示唆しました。和多都美神社のある対馬もその太陽信仰である海族が住み、前進基地とした島です。安曇磯良という名がさっきありましたが、安曇(アズミ)とは海(アマ)と同意語で、海部も安曇も和多津見の神を信仰しています。

太陽が、四つ目の入り口から入るとは、どういう意味を成すのでしょうか?

太陽の光が、上の三角形から入ると、神籬および磐座を照らし、そのまま四方に拡散し、三本の柱から放出されます。すると、その水が浄化されるのです。だから、糺すの池なのです。

糺すとは、聖なる水で禊をすることです。実際、太秦広隆寺で行われていた牛祭りで、神々を演じる氏子たちは、一週間前からここで禊をしたと言います。
和多都美の三柱鳥居も同じく、海の神を迎えるにあたって、境内に入り込む海水を浄化させる意味として作られたのです。

では、岐阜の三本鳥居は?

こちらも、同じことでしょう。
標高千メートル近い何もない山頂に、これだけが立っていた、ということは、太陽の光を取り込む以外に、目的は考えられません。太陽の光は神籬にあたって拡散し、山頂から下って、信仰の山を浄化したのです。

このことを証明する、あるものが木嶋神社にあります。


続く

kaidanyawa at 18:27|PermalinkComments(4)

2016年02月20日

再告知

中山市朗です。

三柱鳥居の続きはちゃんとやります。

本日は再告知。

2週間後の3月5日(土)、プライベート怪談会を開催します。
5日の24時よりスタートで、早朝、始発電車が出るころに一旦終了します。
その後は各自自由、居残り組は飲み会に流れ込む模様。
怪談会の間のお酒は、遠慮してくださいね。

会の趣旨としては、私の怪談蒐集の一環です。

参加費は無料ですが、各自一話は怪談を語ること。
マスコミやネットなどから拾った話はNG。ご自身の体験談、あるいは身近な人から聞いた話、地元に伝わる話などは大歓迎であります。
語って聞く、というのが、本来の怪談会の形です。

場所は、大阪中央区南船場にあります私の書斎。

参加希望の方は、オフィスイチロウ  info@officeichirou.com
電話  06−6264−0981

まで、ご連絡ください。集合場所と時間をお伝えいたします。

そして本日、ホラー漫画家の集まるサイト『恐ろし屋』にて、私の語る怪談動画が本日中に配信されます。
今回は『怪談狩り・市朗百物語』より「黒いバイク」を語っております。無料で視聴できます。


また、4月より、私の書斎に教室を移して仕切り直しをいたします「作劇塾」も塾生を募集いたしております。

小説家、ライター、シナリオ作家、放送作家志望者のための少人数制の塾です。

デビューの仕方というより、業界での生き残り方を重点に考えております。
デビューより、その後プロとして生き残ることの方が難しいのです。その道案内ができればなと。
要は、環境と志が大事なのです。

もちろんデビューへの指南もいたします。
初心者の方もOKです。
年齢の制限もございません。

授業後は、自由参加ですが、創作について語り合う『作劇ネトラジ』の収録。そしてオールナイトの飲み会と言う、語り合いの場を設けております。
オフィスイチロウとも直結させますので、怪談に興味のある方もぜひ。

4月より毎週金曜日の夜19時より2時間。
入塾時に入塾料として1万円を納めていただきますと、塾生登録いたします。
あとは月謝制で1万円。

入塾希望者も、上記「怪談会」と連絡先は同じです。


昨日収録した「作劇ネトラジ」は本日配信。
グラミー賞を受賞した小澤征爾さんについて、小澤ファンの私が、その小澤音楽の魅力について語っております。
作劇塾ホームページから聞けます。

kaidanyawa at 12:37|PermalinkComments(8)

2016年02月19日

祝・小澤征爾

中山市朗です。

指揮者の小澤征爾さんが、58回目グラミー賞を受賞されたということで、ニュースになっていましたねえ。
2013年8月に、サイトウキネン・フェスティバル松本で録音した、ラベルのオペラ『こどもと魔法』による快挙。
クラシック部門最優秀オペラ・レコーディング賞。ですから演奏も日本のオーケストラ。


小澤さんは、初受賞(ノミネートは8回)ということだそうで、そこは意外。
ずっと第一線でやってこられて、特に全盛時代は米国が本拠地でしたから。
カナダのトロント交響楽団の音楽監督からはじまって、サンフランシスコ交響楽団、ボストン交響楽団。とくに人種差別が激しかったというボストンにおいて、音楽監督を29年務めたというのは、よっぽどその実力と人気が認められていたということでしょう。
で、2002年からは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督。これは、クラシック音楽界の中に、地位というものがあったとすると、最高の地位。
ウィーン国立歌劇場の前身は、ウィーン宮廷歌劇場で、かのモーツァルトがその音楽監督の地位を望み、その地位にあったサリエリが、そのモーツァルトを妨害したという事件が、本当にあったりしました。
オーストリアでは大統領になるより難しい、とされ、世界中が小澤の就任を祝福しましたが、日本の音楽マニアたちは、上から目線で「ジャパン・マネーが必要だったんだ」とか「小澤に、ウィーンの音楽は理解できない」などと叩いていましたけど。

でも、注目度が違うのと、オペラという、小澤さんが若いころにあまりやっていなかった分野ということ、激務などもあって、ウィーンに就任してからは、元気だった小澤さんはそのストレスからか、しばしば体調を崩すようになって。
その小澤さんも、80歳。
今はフリーになられ、今回のレコーディングは2年半の療養から完全復帰しての成果。

素直に祝福しましょう。


ところで、人種差別と言うと、丸山議員の「奴隷」発言。
あれは核心を突いた発言。あれを差別発言として封じ込めるのなら、世界の近代史は封印される。
あれ、ニュースを見る限り、何について言及したのかわからないんですが、「日本が米国の51番目の週になったとしたら憲法上どういう問題があるのか、に言及し、集団的自衛権、安保条約はまったく問題にならないとして、日本州から大統領が出る可能性を示唆したんですね。その比喩として、奴隷であった黒人から大統領が出るなど、リンカーンの奴隷解放やキング牧師の公民運動のころの米国人は、そんなこと考えもしない。それだけダイナミックな変革をして行く国」と言ったんです。間違ったことは言っていない。
オバマのルーツではなく、米国の歴史いや、かつての白人至上主義の話をしたわけでありまして。しかも、今はそういう壁は取っ払われた、という話をしたかったということでしょう。

今、米国では、黒人奴隷が出てくるから、ということで『風と共に去りぬ』が公の場での公開が出来ない、とか。
あほくさいわ。

でも、小澤征爾やイチローなど、その世界でトップの実力があれば、それを受け入れ正当に評価する、というのも米国という国の本質。米国人は、丸山議員の発言、どう聞くのでしょう?


ちなみに、私にいわせれば、日本州からの大統領は、候補になった場合、プロテスタントに改宗せねばならない、と思います。大統領宣言は、国民ではなく、『聖書』に手を当て、聖書の一文を読むことからはじまります。
まさか、『祝詞』を読み上げ「かしこみ〜、かしこみ〜」では……。個人的にはおもろいけど。





kaidanyawa at 04:00|PermalinkComments(5)

2016年02月17日

三柱鳥居の謎を追う・5

中山市朗です。

さてさて、謎の三柱鳥居とは何か?
岐阜県郡上市の山奥にあったという三柱鳥居を探ると、八幡というキーワードで出てきました。
八幡はヤハタ、つまり秦氏であると、言いました。

では、八幡とはどういう神なのでしょう?
八幡神社というのは、全国四万社はあるとされますが、その総本山は、九州大分県にあります宇佐八幡、つまり宇佐神宮です。
ここの本殿は三つあり、一之殿・八幡大神(誉田別命)、二之殿・比売大神(宗像三女神)、三之殿・神功皇后が祭神としてあります。
誉田別命というのは、応神天皇のことです。
宗像三女神は、宗像大社の祭神で、それは、玄界灘を望む福岡県宗像市にある辺津宮、そこから本土を11キロ離れた筑前大島に中津宮、そこから49キロ沖の沖ノ島に沖津宮と、これもまた、三つの宮で構成されています。

宗像大社 位置











宗像女神は、明らかに海の神ですが、それが宇佐の神でもあるというのです。

神功皇后は、応神天皇の母。夫が仲哀天皇ですが、早くに天皇は崩御され、いわば皇后でありながら、軍を率いて熊襲征伐、そして、三韓征伐を行い、朝貢させることに成功し、畿内の反乱も抑えます。武勲のある皇后、女傑として後、仏教と習合した八幡大菩薩は、武勲の神様として武将に信仰されました。
そして、明治14年、初めて肖像画が使用された日本国の紙幣に、その姿が現れました。

神功皇后









誰が見たんや、とツッコミたくなります。えらい、現代ぽいというか、西洋人ぽいというか。モデルは印刷局の美人職員だったそうです。
まあ、富国強兵の明治政府のイメージに、神功皇后はふさわしかったというわけですな。

とはいうものの、古来の八幡神は、本来、よくわからない、とも言います。
記録が無いんですわ。
少なくとも、応神天皇は明らかに後世になって付け加えられたようです。
ですから、こう見てみます。
宇佐神宮の拝殿は後でできたものでして、本来の宇佐の神は、宇佐神宮の背後にある御許山(おもとやま)に坐しています。これは宇佐神宮ができるずっと以前から信仰されていたものです。

御許山の位置










御許山になにがあるのかというと、三本の巨石、磐座なんです。烏帽子岩ともいわれますので、細く長い岩なのでしょう。というのも、この三つの磐座は禁足地にあって、誰も見ることができないのです。
この古地図を見ると、一、二、三、と磐座が存在していることを示しています。
拡大できます。

八幡 御許山







右側と中央の岩は高さ4、5メートル、左側は1,2メートルと小さいそうです。これは古代からの信仰の跡で、宇佐神宮の祭神、比売大神は、ここに降臨した、というのです。その比売大神が海神である宗像三女神だというわけです。
で、この磐座信仰というのが、物部神道の特徴なんですね。
しかもですよ、この御許(おもと)というのは、大元を意味し、ここを起点として、日本列島全体に大きなレイラインが形成され、それを読み解くと、物部神道の奥義を示唆するのですが、それはまた、別項で。

ここで言えることは、八幡の神には神功皇后に関する伝説が多く、八幡と神功皇后とは、深いつながりがあることは無視できないでしょう。神功皇后という依り代に八幡の神が憑依した、と考えるべきか。

宇佐という場所は、周防灘に面し、大陸へ向かう航路と、瀬戸内海へ向かう航路の中継地点にあたるわけで、海人が支配していた地域です。そして、神功皇后も海人の系譜にあります。
さっき、神功皇后と言う依り代、と書きましたが、神功皇后は、自らが神託を得る巫女でもありました。
巫女である系譜は、一つ。
海部の祝部(はふりべ)の血です。
諱が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)。息長とは、息を止めて海中に潜る海女(あま)のことです。父が開化天皇子孫の息長宿祢王でやはり海部の本拠地、丹波を治めた彦坐王(ひこいますのみこ)にその系譜は行き、母も、天日矛の末裔といいます。天日矛は新羅からやってきた渡来系で、どうやらこちらは秦氏と関係するようです。
神功皇后は、住吉大神とも関連し、住吉大社の神託により、応神天皇を懐妊したことを告げられ、そのまま三韓征伐に向かいます。住吉もまた海神で、住吉三神といって、三柱の神となります。
だから三柱鳥居、などという短絡的なことを言うつもりはありません。そうではなくて、八幡の神は、秦氏の神でありながら、海部の神でもあるというわけです。
でね、海部の神は、やっぱり三柱で現れるのですよ。

ちなみに、やはた、の八は、八つ、多くのという意味。はた、は秦氏のはた、で旗も意味します。
旗は、古代、神の依り代とされました。日本の古戦の絵や映画を見ますと、幟旗を上げ、背に旗を掲げた騎馬兵や徒士を目にしますが、あれは八幡なのです。
おそらく、古代において、物部の徒士たちがそうしていたのでしょう。

こういうの。

旗印







黒澤映画!

乱









惑星ナブーにも、八幡の軍が!
スターウォーズ









まっ、それはさておき、
物部とは秦です。

宇佐大神は鷹の姿をしていた、といいます。鷹は秦氏のトーテムです。また、宇佐は豊の国(後に豊前、豊後に分かれる)にありまして、『隋書倭国伝』に記される秦王国とは、豊の国のことではないかとする説もあります。
とすれば、岐阜の山奥にあった八幡は、秦でありながら、彦火明、あるいは饒早日の神であると推測されるわけです。そしてそんな山頂に、三柱神社が建っていた。
そういうわけですよ。

ええっ、よおわからん?

そうなんですね。古代の謎は、どうしても、秦、物部といった袋小路に入っていくのです。
しかし、ちょっと見えてきましたよ。三柱鳥居の正体が。




kaidanyawa at 09:37|PermalinkComments(4)

2016年02月15日

三柱鳥居の謎を追う・4

中山市朗です。

景教の跡か、それとも……。

日本の古代史の謎を解くキーとなるかもしれない、京都太秦、木嶋坐天照御魂神社にあります三柱鳥居について、考察しております。

前回では、天照御魂神という祭神に注目してみました。
同じ祭神と思われる四坐が近畿にありました

新屋坐天照御魂神社。
池田坐天照御魂神社。
鏡作坐天照御魂神社。
粒坐天照御魂神社。

いずれも、天照國照彦火明命が祭神で、彦火明命とは、海人である海部氏の祖神であり、天照國照彦火明は、正式には天照國照彦火明櫛玉饒早日命となり、饒早日は物部の祖神となる、と書きました。
櫛玉、というのは、どうやら玉作りに関連がある神様のようで、そういえば海部の里、丹後半島には紀元一世紀の勾玉大工房群、とされる奈具遺跡が発掘されています。
今行くと、ビニールハウスがあって、遺跡の痕跡も無い。看板だけあった。近所のおっちゃんに聞いてみると「そんなん発掘されるたんびに残しとったら畑も田んぼもできんわ。このあたり掘ると遺跡がなんぼでも出るねんから」と言っておりました。

ま、いずれにしても、勾玉、櫛玉は、海部および物部の祭祀に欠かせない神具だったと思われます。

で、上記にある天照御魂神社四坐を調べてみると、いずれも山や遺跡との関係が読み取れ、太陽を崇める、物部系の祭祀場であることがわかります。
特に、鏡作坐天照御魂神社は、天照御魂神とともに、鏡作部の祖である、石凝姥命が祭神としてあります。
あの、天照大神が天の岩戸に御隠れになった時、八咫鏡を作ったのが石凝姥(イシコドメ)とされます。
石は石の鋳型で銅鏡を作る、凝るというのは精通していることを指し、姥は女性を指します。
ですからここを調べると、天照御魂から、天照大神という皇祖神が出た経緯がわかってきます。
天照御魂と天照大神は、無関係ではない、ということです。
ちなみに、鏡作部というのは、銅鏡を作る技術集団のことですね。

部(べ)、というのは、天皇のために奉仕する御名代部(みなしろべ)のことで、弓削部(ゆげべ)は弓を作る、矢作部(やはぎべ)は矢を作る、忌部(いんべ)は祭祀の道具や衣装を作る、というように技術集団のことを指すわけです。、
今も渡辺、錦織、犬飼、という名前がありますが、それぞれ渡辺は渡部であり、官道の川渡りや交通業、錦織は、錦や綾を織る部、犬飼は犬を調教し、狩や守衛を担当した部、の名残でありまして、この部は、伴造(とものみやつこ)に統括されていて、伴造とは、朝廷に奉仕する供、友と、部という集団の長である造、を意味し、御名代部は主に物部に所属していたようです。そして中央にいた伴造には、連(むらじ)とか、臣(おみ)、直(あたい)という姓を与えられのでした。物部は連、蘇我は臣、でした。

かくいう物部という名称も、天皇に関する物を調達、管理する、ということを意味していまして、軍隊から祭祀全般を取り仕切っていたわけです。ですから物部というのも朝廷から与えられた、これも姓(かばね)でありまして、姓は、朝廷における地位や職掌、系統を示すものであったわけです。
饒早日の七代目の子孫が物部と名乗ったとあり、つまり、このとき朝廷から、物部という姓をもらった、ということになるわけです。

いずれにしても、物部とは太陽信仰をする豪族であり、それは=天皇の祭祀を意味していました。
その物部の太陽信仰が、元は海部という海洋民族から来ていた、ということになれば、天皇は渡来系ということになります。そら、消されますわな。
籠神社の海部宮司は「長らく秘儀として隠さねばならない事情があった」とおっしゃっていました。
で、海(あま)が天(あま)に変えられ、天津神は高天原から天降ったことになった。でも、高天原の神は舟に乗って降臨しますな。

今は、官僚たちの天降り、なんて言いますが、あれは意味を取り違えてます。ああいう呼び方は変えた方がいい。
ああいうのは、成り上がり、成り上がり者、と言うんです。


どうも、話が逸れます。

話をもとに戻して、京都太秦の木嶋神社を見てみます。
木嶋坐天照御魂神社と、神社の名には天照御魂を残しながら、祭神は変えられている。

私は『京都魔界案内』というCS番組で、当社の服部宮司にいろいろお話を伺っているんですが、「わからない、としか言いようがない」とおっしゃっていました。

ところで、服部(はとり、はっとり)という名は、秦氏の機織り部から派生した名で、秦氏です。
服部は神服を意味しました。後に伊賀の忍者が出ますが、これはまあ、だいぶに後世のこと。
機織、養蚕の守護神、萬機姫(よろずはたひめ)を勧請したのが、蚕ノ社であり、その境内に三柱鳥居があるわけですから、三柱鳥居は秦氏の信仰の形跡だと思われていたわけですね。
しかし、他の天照御魂神社を見ると、秦氏ではなく、物部がある。
また、天照(あまてる)は、前回記しましたように、海人たちの信仰の名残でもあるし、対馬の阿痲氏留(あまてる)神社の祭神からもそのことがうかがえる。で、同じ対馬の海神を祀る和多都美(わたずみ)神社に、三柱鳥居があることも、書きました。

つまり!!!!!!!(飛鳥昭雄風にしてみました)

三柱鳥居は海部の神を、シンボリックに現したものだ!
なぜなら、





と、結論を急いではならない。

岐阜の三頂にあった三柱鳥居の正体を見なくてはならない。

二か所あるようです。
一つは、岐阜県郡上市大和町の三柱鳥居。海抜930メートルの山頂に、平成6年8月1日に建立されたというもの。
しかし、私が怪談として聞いた、ある建設会社にいたIさんという人の証言によると、古くからあったものを壊して、ヘリポートを作ったとのこと。その後怪異現象が起こって、新しく建立したと言いますから、今ある三柱鳥居がそれでしょう。
古い三柱鳥居の周りに神社も祠も無く、ただ、三柱鳥居だけが山頂にあったと言います。
その鳥居が、地元の人さえ、いつからあったのか知らなかったというものです。

これが新しく建てられた三柱鳥居。

三本鳥居・岐阜県大和町


















この写真はいろいろ三柱鳥居について書いていらっしゃるサイトから転用させていただきましたが、その方のレポートによると、やはりヘリポートらしきものがあったとか。


三柱鳥居・ヘリポート














で、麓の郡上市大和町を調べてみました。
すると、こんな地図がありました。

郡上市八幡











八幡だらけやん!
こういう町の広報誌も。

エリア郡上市八幡











八幡は、「はちまん」と読みますが、本来は「やはた」。
秦氏の神様です。
実は、秦氏に御野(美農)の秦氏というのがいまして、岐阜県南部から入植していることが『日本書紀』や『続日本紀』などに書かれています。
となりますと、岐阜大和町のあたりは、秦氏が開墾、開拓し、山頂にある三柱鳥居は、その秦氏の信仰の跡と思うのが道理となるわけです。

もう一つの三柱鳥居が関市洞戸奥という、これも山中にあるようで、穂積の鳥居というそうです。
こちらの経緯は、よくわかりません。これからの課題です。
で、関市は郡上市に隣接する町で、ここにも八幡町がある。
岐阜の二つの三柱鳥居は、どうも秦氏と関係があるようで。

あれれれ、話が戻ってもたやん。やっぱり、木嶋神社の三柱鳥居は、秦氏?
それとも?


わあーっ、あーだこーだと考えるの、楽しい!


続く。




kaidanyawa at 15:57|PermalinkComments(2)

2016年02月14日

ちょっと休息

中山市朗です。

先日の『気まま酒家』、テーマが特撮にも関わらず、いろいろ不可解なことが起こったようで……。
部屋の中のモノが突然揺れたり、妙な音が鳴ったり、放送終盤間際に、ネットが落ちて聴けなくなったり。
Cainさんも怖がったり、焦ったりしておりましたが、まあ、なんでもありませんわ。

ただこの収録時に、たらふく飲んだcainさん差し入れのウイスキーと、Sさん持参の京都の地酒、そして真名子からの差し入れのチョコレートなんかが胃の中でバトルを繰り広げまして、それでも昼ごろまでなんやかんやと話の続きをしておりまして、Cainさんたちが帰った途端に、ダウン。

夜になって目覚めたら、もうスッキリしておりました。
ウイスキーと清酒の飲み合わせには注意。わかっちゃいるんですけどねえ。
で、清酒とチョコレートは合わない。
わかっちゃいるんですけどねえ。

というわけで、三柱鳥居の謎を追う、パート4は、明日か明後日には更新します。

ところで、飛鳥昭雄さんとの『聖徳太子』についての対談本が学研プラスより、3月29日に出版されることは告知済みですが、気になったことがあります。
amazonなどにあるコピー。

「聖徳太子『未来記』は実在した。彼はユダヤ系の預言者であり、古代物部の血を引いていた。」

まあ、ここまでは間違ってはいない。「『未来記』が実在する可能性がある。太子は海部氏の血を引いている」という話はしました。

「バックにユダヤ原始キリスト教徒秦氏を従えた聖徳太子が組織した秘密結社「八咫烏」の壮大なる国仕掛けが今、ついに明らかになる」

そんな話やったっけ?




kaidanyawa at 23:53|PermalinkComments(4)

2016年02月13日

本日配信!

中山市朗です。

ホラー漫画の集まるサイト「恐ろし屋」にて、私の語る怪談動画が配信されております。
今回は『怪談狩り・四季異聞録』より「タカシの引っ越し」。
別れ話は、きっちりとしておきましょうね。

オフィスイチロウのホームページから見れます。

そして、本日22時配信のネットラジオ『気まま酒家』と、配信されております『作劇ネトラジ』もよろしく。
『気まま酒家』のお題は、特撮映画。
日本映画全盛期の頃の雰囲気を、みなさんにお届けできればなあと、思っております。

『作劇ネトラジ』は、塾生たちと創作の観点から、あれやこれやと語り合おうというもので、もう10年は続けていると思います。
本日のお題は「聞き上手」。
作家にとって重要なことは、取材。
取材は、私の得意とするところですが、塾生諸君にはなかなか難しいようで。
取材のためには、相手に質問をあびせるのですが、それは、こっちにメリットはあっても、先方にはメリットではない。また、先方が言い渋る情報ほど、こっちは欲しい情報であったりします。
では、どうすれば、言い渋る、ヤバい情報を聞き出すことができるのか。

そんな話をしております。
「聞き上手は話し上手」

『作劇ネトラジ』は毎週土曜日に配信しております。
こちらもオフィスイチロウのホームページから聞けます。



kaidanyawa at 13:08|PermalinkComments(5)

2016年02月12日

ネトラジのお知らせ

中山市朗です。

明日はネットラジオ「気まま酒家」の生放送があります。

テーマは特撮映画。
主に円谷英二さんについて語りたい、とCainさんの要望がありました。

ただ、私は特撮の専門家でも、現場を体験したでもないので、お話しできること、あるかなあ。
『乱』の現場で、本多猪四郎さん、録音の矢野口文雄さんといった人たちとは、お話したことはあります。
本多さんは、監督補佐という形で、黒澤明監督を裏から支えていらっしゃいました。
黒澤監督以上に完璧主義者、という印象がありました。

特撮にはマニアというのがおりまして、すっごく詳しい専門家みたいな人が、周りに何人かいますが、私はそこまでのマニアではありませんので、まあ、ぐだぐだと、懐かし話になるのかなあ、と。
番組のコンセプトが、酒を飲みながらぐだぐだとよもやま話している普段の(?)私をネットに配信するというものなので、それでええのでしょうが、酔っぱらいの特撮話なんて、聞く人おるのんかいな?

まっ、楽しければええか。

22時スタート。

放送UR
Std1.ladio.net:8030/aberu.m3u/sberu

作劇塾の塾生たちとの「作劇ネトラジ」も明日放送。

こちらは、夕方ころアップ。オフィスイチロウのホームページから聞けます。

kaidanyawa at 17:30|PermalinkComments(3)

2016年02月11日

三柱鳥居の謎を追う・3

中山市朗です。

景教の痕跡ではないかという、木嶋神社の三柱鳥居の正体を追っております。

三柱鳥居・蚕の社









木嶋神社は、このしま、と読みます。
昔はこの神社の鎮守の森が、嶋のように見えたことから、木嶋とよばれるようになったそうです。
正式名称は、木嶋坐天照御魂神社といいます。

木嶋坐天照御魂神社














蚕の社とも呼ばれますが、実は境内に秦氏による養蚕の神を祀るための摂社があり、これが蚕の社なのです。

杉田六一という古代イスラエル文化研究理事長という肩書を持ったオリエント研究家がいました。
彼は『日猶同祖論を追って〜東アジアに来たユダヤ人』という論説で、日猶同祖論(つまり古代にユダヤ人が日本に来ていて日本人となったという説)こそは驚くべき無知の蔓延である、とバッサリ斬りつけ、木嶋神社の三柱鳥居についても次のように書いています。
「矢崎敏光氏は『三即一、一即三とか古来三位一体は景教に限りません。三柱鳥居は時人が糸巻の形を鳥居で表現したものではないか』と示唆され(略)、「大陸渡来の人達が太秦寺の鎮守として建てたものであろうが、それが三柱鳥居とくっついて、佐伯好郎、木村鷹太郎の説、小谷部然一郎氏の論とからんで後世ユダヤ化したものでしょう。いずれにしてもイスラエルにもユダヤにも関係ないでしょう」

日猶同祖論は無知の蔓延。
いゃあ(ボリボリ)。
しかし、ですよ。そうなると、対馬の海に面した和多都美神社の三柱鳥居と、岐阜の山頂にあった三柱鳥居は、じゃあ、糸巻の形を模したのか、という話になる。
もっとも、岐阜の三柱鳥居については誰も知らなかったわけですが。

祭神を見てみましょう。そこにおそらく、ヒントがあります。

木嶋神社の由緒書きにこう記載されています。

主祭・天之御中主。
大国魂神、穂々出見命、ウガヤフキアエズ命、ニニギ尊。
創建は不明(一説に広隆寺創建、推古天皇12年(604)に伴い勧請。この中に摂社として蚕ノ社。
養蚕を独占していた秦氏が蚕に感謝して、養蚕、織物、染色の守護神である萬機姫(よろずはたひめ)を勧請し祀った。

天之御中主というのは、『書記』に出る、日本神話の最初に出現した神様であります。天地開闢に関わったとされています。形無く、男でも女でもない、というもの。この論理の無いところが、道教思想が影響されない、古代の日本の神様を思わせます。
神社の名称も、木嶋坐天照御魂神社ですから、うん?
これは、木嶋に居ます、天照の御魂の社、という意味です。そのままやんか、と言われたらそうなんですが、意外とここ、気づいている人が少ない。

実はこの天照御魂、というのがこの神社の正体に関わるんです。

天照御魂社は、他にもあるんです。

池田坐天照御魂神社(奈良県桜井市)
鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡)
新屋坐天照御魂神社(大阪府茨木市)
粒坐天照御魂神社(兵庫県竜野市)

なんか、いずれも近畿にあります。で、祭神が四社とも同じです。
天照国照彦火明命。この神様は皇祖神であるとされます。
とすれば、自然と、木嶋坐天照御魂神社にも、本来、天照国照彦火明命が祀ってあるはずなんですが、その名前は、由緒には無い。

消された?

実は、京都府丹後にあります、元伊勢・籠神社の宮司さんから、私はこのように聞いております。
「京都太秦にあります木嶋さんの祭神は、うちと同じものです」

籠神社の祭神は、
天照国照彦火明命。

ということは、

やっぱり、消されてますやん!

ところで、天照国照彦火明命って、なんの神様?
これ、『記紀』には出てこないんです。『先代旧事本紀』にあり、籠神社に伝わる『勘注系図』に出てきます。
正式名称は長いです。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命。

ニギハヤヒ命




















日本国皇祖神となっています。
いろんな神様の名前が取り込まれた感がありますねえ。
彦火明というのは、籠神社の祝部、万世一系の海部氏の最初の祖先として、「海部氏系図」に出てきます。そして、饒速日命とは、物部氏の祖神です。
彦火明命と饒早日は、異名同神である、ということです。
「系図」からしますと、海部から尾張氏と物部氏が出るんですね。

つまり、こういうことです。
「上古代の人名には実名と諱がある。生存中の実名を漢字表記されだしたのは雄略天皇の頃であろう。それ以前、上古代の人名は実名でないことが考えられ、多くはオクリナで、何世、あるいは何代という代数だけで明らかではない人名に適当な名前を付け伝えたものである。同一人物でも、その子孫である氏が、二氏以上、数氏、数十氏もあるその格氏が、共通の同一祖先に、異なった名を付けることもあり得るわけで、ここに異名同神が生まれる一因があった」
そうおっしゃったのは、籠神社第81代宮司の海部穀定氏です。

海部氏系図

































国宝となっている『海部氏本系図」。
始祖彦火明命から、一本の縦系図として、籠神社の宮司の宮司名を示しているのが、わかる。

彦火明命と饒速日命は、別神ではあるが、その世系は正しい。ただ、年代に相違がある。だから同神とは言い難い。ただどちらも同じ天神の御子であることは正しい、ということです。つまり、血統。血統が同じということが、重要なんです。天皇も万世一系、同じ血としてずっと存在しております。
古代において、血統は重要。血統によって職についたのが、部ですから。
特に海部は海族の神を祭祀する祝部(はふりべ)ですから、ものすごく重要。この血がなければ神は降りてこないわけですから。

ということは、彦火明命と饒速日命は、血統において同じ、ということ。
それが重要なんですね。
どちらにも、火か日の字があって、火の神、太陽神であることからもそれは立証できる、と。
解ったあ?

要は、天照御魂神社の祭神は、彦火明命を祖神とする、海部をルーツとした饒早日命であるといっていいでしょう。丹後から大和地方に派遣され、開拓し、天皇の祭祀を司るようになったのが、物部です。海部の分家ということになります。

三柱鳥居のある木嶋坐天照御魂神社は、そうすると、物部の祖神が祀ってあった。ということになります。
あれれ、秦氏ではないのか?

私の手元に『物部家譜』という古文書があります。
そこにはこう記されています。
「播磨國赤穂郡坂越浦 大酒大明神 所祭 物部守屋公
 太秦   同社  右同
 近江國浅井郡田根庄村社 荻野大明神 右同」

木嶋神社の西、広隆寺の守護社として大酒神社というこれも秦酒公を祀る神社の祭神は、実は物部守屋だというんですね。同じく赤穂市に大酒神社(大避神社)があり、秦川勝の墓が近くにあるんですが、そこも守屋が祭神。荻野神社は知らなかったのですが、以前『捜聖記』を記すにあたって、電話で取材してみたら「うちは守屋公を確かにお祀りしています」ということでした。

三本鳥居は、そうすると、物部、いや、その祖となる海部氏に関係するモノかも知れない。
とすると、対馬にある和多都美神社の三柱鳥居に説明がつきます。

海部は対馬海流にのって日本に漂着した海人であるわけですから。
まず、海の彼方から来た彼ら海人は、対馬に着いて、彼らの神を祀った。
対馬には阿麻氏留神社といって、これアマテルと読む神社があります。やはり、天照國照彦火明命が祭神。
アマテルとは、海を照らす、という意味で、つまりアマは、天にある太陽と、それを受けて白く光る海を現す、ということになります。
「海部(あまべ)は、天(あま)であり海(あま)である」と、これも私が海部宮司からしっかりと聞いた話です。
海人はあまびと、であり、あまぞく、です。

そして、第二派が丹後半島に漂着。対馬海流に乗り、日本列島沿岸に進むと、若狭湾へと入り込みます。そこに、海部の本拠地が築かれ、籠神社が一宮としてある。彼らは天照國照彦火明命を祖神としました。
彦火明の彦は、日子のことでしょう。

そう考えると、確かに、丹後と九州に三柱鳥居ならぬ、三柱神社というのがあるんですね。
九州に15社。兵庫県と京都府に90社。兵庫と京都は北部、特に丹後半島と、但馬に集中。丹後も但馬も古代は同じ丹波國でしたから。
他府県には数えるほどしか無いんです。
つまりこれ、三柱は海人、海部の信仰に関係することがわかります。
いずれの三柱神社にも、海部氏に関係のある豊受神が祀ってありますしね。

昔は、これら三柱神社には三柱鳥居があったのかも知れないですね。
では、なぜ、木嶋坐御魂神社から、祭神が消されたのか。

そして同時に、だったら、岐阜の山中にあった三柱鳥居はなんなんや?

さっ、そこですわ。



kaidanyawa at 14:39|PermalinkComments(12)

2016年02月09日

お知らせ

中山市朗です。

お知らせです。

私の書斎で、恒例の怪談会を開催いたします。
3月5日(土)、深夜24時よりオールナイト。
私の怪談蒐集のための会ですので、入場料は無料。
ただし、一話は怪談を語ることが、参加の条件です。

膝突き合わせて、みんなで夜を徹して聞き語る、本来の怪談会の形であります。

参加希望の方は、info@officeichirou.com
あるいは、06−6264−0981 までお電話ください。



なお、四月より仕切り直しをいたします、作家養成塾「作劇塾」も塾生を応募しております。

小説家、ライター、シナリオ、放送作家志望者のための、少人数制の塾です。
私が責任をもって、目標へ道案内いたします。
やるのは、あなたですけど。

こちらも、メール、お電話は怪談会と同じアドレス、番号となっております。

教室は四月より、私の書斎に移し、毎週金曜日の夜19時より2時間の講義、合評を行います。
また、授業の後は自由参加ですが、ネットラジオ「作劇ネトラジ」の収録、飲み会もあります。

月謝制で月1万円。入塾費として入った時に1万円。
働きながら、学べる塾です。
作家に年齢の制限は無い!



kaidanyawa at 12:53|PermalinkComments(7)

2016年02月08日

三柱鳥居の謎、パート2

中山市朗です。

「聖徳太子と『未来記』」についてのブログが次に続く、「三本鳥居の謎」が次に続くて、どっちがどうなんだ! というお叱りの言葉もなく、いや、要は、モノの見方、というものを提示しようとするものでして、『未来記』とか「三柱鳥居」は、あくまでモチーフなわけです。
なので、どちらでもいいのですが、『未来記』については、対談本や『ムー』大特集が控えておりますので、改めてその時に書けると思いますので、「三柱鳥居」についての考察をつづけましょう。

実は、ロフトプラスワン・ウエストのトーク上で、私が明かした三柱鳥居とは、岐阜県の山中に存在するものなのです。今立っている鳥居は新しく作られたものなのでして、三上編集長及び『ムー』取材班は、知ってはいたけどいまだ行っていなかったということでした。
しかし、私はある建築会社の人から、バブルの時代、岐阜県の山村の開発のために山の中に入り、その山の頂上に、ぽつんと三本の柱による鳥居が立っていたことと、それを村の人たちが古くから山神様として信仰していたこと。それにまつわる怪異談を取材したことがあったんです。
鳥居のほかには何にもなかったそうです。
その古い鳥居は、いつからそれがあるのか、村人の誰もが知らないが、それほど古くからある鳥居があったが、開発のため取り壊してしまい、ヘリポートを作ってしまった。すると、工事関係者が怪異に襲われ、結局、開発はならなかったことなどを聞き、怪談として仕上げてはいたのです。
その怪談を、この日、披露したわけです。
客席、ひいてました(笑)。
三上さんも、驚きの声をあげるし。

ただ、この話は怪談として聞いたもので、私が現地に行って取材したものではない。なので、調査する必要はあるのですが、ネット上で調べると確かに新しい三柱鳥居は存在し、地元のことを調べると、秦氏が住み着いていた痕跡は、土地の名や寺社を調べると出てきます。
そうとうな山の中にあって、『ムー』の取材班も知らなかった、あるいは学術調査も行われた形跡がない、ということは、地元の人たち以外は誰にも知れず、だから結果として排除されずに残ったと考えられるわけです。
つまり、全国各地にこういう三本鳥居は、昔は存在していたと思われるんですね。それが何かの意図をもって排除されていったのでしょう。三柱神社という名の神社は、丹後地方を中心に数十社ありますから、そこには三柱鳥居があったのかも知れません。憶測でしかありませんが。
ちなみに、岐阜県にはもう一か所、三柱鳥居があったようで、これも山にあります。

さて、この岐阜の奥深い山頂にぽつんと立っていた三柱鳥居が、果たして景教の痕跡なのか、ということを考えねばなりません。う〜ん、ちょっと考えにくい。景教のシンボルであるなら、なぜ人知れぬ山頂にそれを作ったのか。確かに秦氏が景教徒であるユダヤ人であるとすると、その可能性も無くは無いのですが、秦氏が景教徒であったという疑いはあるが、確証が無い。確証が無いのに、景教の痕跡だ、とは言えない。

ヒントがあるとすれば、もう一つ、対馬の和多都美神社にある三柱鳥居を見ることでしょう。
岐阜の山奥にあった三柱鳥居は、祭神は不明。ただし、山の神だと地元の人たちは崇めていたらしい。

一方、対馬の和多都美神社は、海神です。
ワタツミ、とは渡海、渡津海とも表記し、海洋族が信仰した神ということになります。
祭神は、彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト』と豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)です。
ですが、創建不詳と言う古い神社です。
ここに、三柱鳥居がある。

山神としての三柱鳥居と海神としての三柱鳥居。
これをどう見るか、です。

実はそのキーワードを解く存在が、京都太秦の木嶋神社にある三柱鳥居なのであります。





kaidanyawa at 17:41|PermalinkComments(8)

2016年02月07日

三柱鳥居の謎を追う1

まず、お知らせです。
学研プラスより『聖徳太子対談(仮) 飛鳥昭雄VS中山市朗』が単行本として3月29日に発売決定いたしました。
その発売記念としての『学研ムーの世界不思議紀行6』が3月31日に開催されます。場所はいつものロフトプラスワンウエスト。
「東京でもやりましょうよ」と三上さんに進言しまして「検討します」ということでしたので、東京でも何かやらかすかも知れません。場所がなあ、今からとれるのかな?

ということで、月刊『ムー』の三上編集長との

三上編集長








『月刊ムーの世界不思議紀行5』、盛況にて終わりました。
あっ、今回はバレンタインデーも目の前、ということで何人かの女性客からチョコレートをいただきました。
誠に感謝いたします。
貴女たちのために、私は古代史の追及に命を懸けられます……。

さてさて、
前々回、「聖徳太子と『未来記』」というテーマを掲げながら、トークが脱線。
そのためか、前回は客席が少なめ。で、三上編集長と珍しくまじめなトークをやったところ、今回、お客さんが戻ってきたのかな?
でもまあ、ビールを飲みながらのトークですしね。かる〜く、しかも深淵(?)なテーマについて、語って行ければなあと、思っていますけど。なかなかそれは難しい。

さて、今回は訳があって緊急に真名子が司会進行としてステージに上がって、『ムー』の三上編集長と私とのガチトーク。でも今回はお題も決めていなければ、打ち合わせも無し。
流れでいえば、聖徳太子と『未来記』、あるいはモーツァルト、フリーメーソンといった問題を中心に展開するところですが……。
ただ、次回に飛鳥昭雄さんが再びゲストに登場、そしておそらく本の内容についてトークが展開するはずなので、そのあたりの話は、そのときにしようかなと思って、今回は客席からテーマを募ってみました。
あれれ、聖徳太子についての質問はほぼ無し。なんか個人的な質問やスピリチュアルな質問も多い。

その中で、京都太秦の蚕の社にあります、三柱鳥居は秦氏ではなく、物部、海部の信仰ですか?
という質問がありましたので、これについて考察しました。
秦氏についての質問もほかにありましたし、秦氏は聖徳太子を考えるうえでも避けては通れないものですから。

三柱鳥居・蚕の社









このブログでも何度もお見せしたこの不思議な形をした鳥居。
京都市太秦に鎮座いたします、木嶋神社、蚕の社とも呼ばれていますが、その境内の中に糺の池というのがありまして、その池の中に立っております。
三本の柱で成り立っておりますので、三本鳥居といいます。鳥居はたいてい2本の柱と、それを結ぶ貫と鳥木により成り立ちます。
たいていは神社の前にたっていますから、鳥居があれば、そこに神社か、参道があることがわかります。
実はこの鳥居が、なんにもわからないんですね。
いつ発祥したのか、どういう意味があるのか。
それは門ではあろうが、単なる門なのか、宗教思想によるものなのか、なぜあのような形をしているのか、なぜ鳥居というのか。
そこに、三本柱の鳥居があったとすると、余計わからない、となるわけです。

この三柱鳥居は、ひょっとしたらザビエルがキリスト教を日本に伝える遥か前、千二百年前に実はキリスト教が伝わっていて、その痕跡ではないか、とする説があります。
このブログをお読みの歴史好き、オカルト好き、アスカリアンの人たちはご存じのことでしょうが、知らない方も多いと思いますので、ちょっと解説します。

そのキリスト教は、ネストリウス派、中国では景教と呼ばれるもので、唐の時代には長安に景教の寺院である大秦寺がありました。このネストリウス派は三位一体説に異をとなえ、431年のエフェソス公会議にて異端としてヨーロッパを追われた、いわば原始キリスト教の一派とされています。
ユダヤ教に近いキリスト教、と、日本でユダヤ教のラビ(司祭)を務めたことのあるマービン・トケーヤさんもある本に書いていました。
景とは、光り輝く、の意であります。
この、ネストリウス一派が平安時代には日本に来ていて、ここにその景況の形跡を残した、という説があるんです。

最初にこの説を提唱したのは、東京帝都大学の文学博士、佐伯好郎(1871〜1965)でした。
この博士は景教についての世界的権威でもあったんですが、そもそも太秦じたいが、景教を意味していると佐伯博士はいうわけです。
だいたい、太秦と書いて、なぜウズマサと読むのか。ここから謎が提示されます。
さっき、大秦寺という景教寺が長安に会ったといいましたが、大秦と太秦、似てますわな。
ここに、大秦景教流行中国碑の写真を掲載します。このレプリカが高野山にありますが、大秦とは、ローマのことを意味するんです。キリストが生まれたエルサレムは、当時ローマ帝国の領土でした。現在はローマは羅馬と書くようですけど。





景教の碑














大秦と太秦。字としては似ていますな。
それに太秦・広隆寺の守護社として東に隣接する大酒神社は、昔は大闢(オオサケ)と書いたとして、大闢は中国ではダビデを意味するとか、広隆寺の西側にある、いさら井という井戸はイスラエルのことである、と、佐伯教授は指摘し、木嶋神社にある三本鳥居も、三位一体を現すものである、とも主張しました。飛鳥昭雄さんは、違う、景教は三位一体を否定しているから、天、子、聖霊は別々だけど、天ではつながっているという意味だと、していました。

で、木嶋神社ではその佐伯説を引用して、ネストリウス派のことも由緒書きに書かれています。

木嶋神社・由緒書き












非常にこれは、ロマンのある話で、つまり太秦を本拠地にしていた秦氏は、ユダヤ人で、景教徒であったということなんですね。しかし、歴史の専門家でこの説を支持する人はあまりいません。歴史学は文献学ですが、景教のことも、それらしきことも、どの文献にも出て来ません。また、具体的に彼らが景教徒であったと実証する物も発見されていません。もっとも、景教は我々がイメージするカソリックやプロテスタントと違い、教会ではなく寺としてあって、仏教化したキリスト教であったので、『聖書』なども仏典として空海あたりが持ち帰った可能性は否定できないでしょう。というか、真言密教には確実にキリスト教の影響はあると思われます。

さて、この三柱鳥居。

これは本当に、キリスト教の痕跡なのでしょうか?
それには、他に三本鳥居を探す必要があります。その鳥居周辺に、同様なものがあるのかどうか。

最近、三柱鳥居がブームらしく、新しい三本鳥居が宗教施設に復興されているようですが、これは古代から存在する三柱鳥居を探す必要がある。
これ、長いこと太秦にしかないと言われていましたが、対馬にあるんです。
和多都美神社。わだづみ、つまり海の神様が祭神の宮です。

三柱鳥居・和多都美神社














さて、ここまでは三上編集長もご存じのこと。
そしてもう二か所、大変に古くから伝わっていた三柱鳥居があったんです。
実は、それにまつわる怪談を蒐集しておりまして、それを会場で披露したところ、三上さんは驚愕の声を上げ、「そこ、行っていませんでした。今度、行きましょう」と言わしめた三柱鳥居の話。
どんな怪談だったのかは、その場にいた人だけの特権?

これ、続きます。

kaidanyawa at 20:30|PermalinkComments(7)

2016年02月06日

ムーの世界不思議紀行、本日!

中山市朗です。

さて本日は、ロフトプラスワンウエストにて、『ムー』編集長三上氏とのトーク。
テーマは特に決まっていません。
お客さんからお題をくだされば、助かります。

あんまり無茶ぶりせんように。

そして、飛鳥昭雄さんとの対談本がいよいよ出版されることになりました。
その出版記念のトークを、飛鳥、三上、私で行うことも決定しています。
『未来記』と『魔笛』に関する詳しいお話は、またその時に。

いつ? ですって?

トーク内で告知します。

kaidanyawa at 16:07|PermalinkComments(0)

2016年02月05日

聖徳太子と『未来記』、第二回の講義

中山市朗です。

先日の水曜日の夜、京都造形芸術大学主催の大阪芸術学舎での講義、「聖徳太子と『未来記』」の第二回目を終えました。

このテーマに関しては『捜聖記』や『四天王寺の暗号』などで書いてきたものですが、私が講義の主眼としているのは、『未来記』があるか、ということではなく、何をどう見るか、なのであります。

人間というものは、どうも常識とか慣例に疑問を持とうとしないものなんです。
「常識じゃん」と言われると「そうだよな」と思う。
「みんながやっていることだから」と言われれば、多少の疑問はあっても「そうか」と従う。
流行、というものがそれですな。

みんながやっていること、考えていることに合わせれば、これは楽です。
人間社会の秩序、ということを考えると、常識を疑ったり、慣例に従わなかったりする人は迷惑千万です。非常識な人というのは、嫌われ、疎まれます。

また、人間は目で見たものしか信じない、という面もあります。中には「私はこの目で見たものしか信じない」と言い切る人もいます。しかし、見たものは、脳が理解しないと見たことにはならないのです。

だいぶ前でしたが、ビートたけしさんがあるバラエティで「アフリカの奥地に飛行機が落ちて、捜索に現地人を雇って探しに行ったんだ。そしたら飛行機の残骸を発見した。そしたら現地のアフリカ人は、それが見えないんだ。どこにそんなものがあるんだって言っている。つまりね、彼らは飛行機というものを知らなかったんだ。知らないから見えない」

自分が見えているものを他人が見えているとは限りません。また、他人が見えていることを自分は見えていない、ということもある。黒澤明監督はあのシャガールの独特の紫をして「シャガールにはこう見えたんだよ」と言っていました。ああいう画家と私たちが同じものを視ているとは思えないでしょう。
ピカソは、ああ見えたんだろうし、ダリも、ああ見えたんですよ。

大勢人が行き交う場所にいるとします。
服飾デザイナーは今はやりのデザインや着こなしを行き交う人たちの中で見ているだろうし、靴職人は靴を見ているでしょう。建築関係者なら「おっ」とセンスのいい建物や年代物の建物に感心したり、音楽のプロの人は雑踏に何かを聞いていると思うんです。女好きの奴は、女の子ばっかり見ているだろうし、一方で何も考えないでただ、ぼーっと歩いているだけの人もいる。
その人の人生観、価値観、立場、知識、意識、意欲、そしてその日の体調次第で、見えるもの、見るもの、聞こえるもの、聞くものは、実は違うんです。
そう考えると「あっ、ここ、人が死んでいるな」という感覚がビンとくる、いわゆる霊感のある人もいるのかなと。
「自分に見えないから、それは存在しないのだ」と言う考えは、そういうことでいささか傲慢である、と言えるのかも知れません。

私は、学問と言うのは、この見えないものを見るようにする、ということじゃないかと思うんですよね。
見えないのは、知らないから。だから知ろうとするわけです。で、学問をやる。
知ろうとすると、見たいけど見えないものを論理化する必要がある。体系化(システム化)して、数式にしたり方程式にしたり、別の似たシステムを利用したり応用する。そのために、データを蓄積する。蓄積したデータを整理しカテゴリーに分け、相違点を見つけ、矛盾するものを排除する。あるいは矛盾がなぜ起こるのかを考える。そうしていくと、体系化されるわけです。すると、無くてはならないもの、あってしかるべきものが、データで、数値で現れる。目に見えないものも数値で存在することがわかる。あるいは理論で証明できたりする。
それを実証するために、測定したり実験をする。
でも、その発端は、直感、閃き、なんです。
閃き、直感は、あるいはセンスなのかも知れません。そのセンスを訓練で磨き上げることで、真のプロフェッショナルが生まれる。

野球の世界で、打撃の神様と言われた川上哲治さんは、「ボールが止まって見えた」と言った。止まったボールを打つのは簡単です。王貞治さんは「全盛時には、投手が投げた瞬間、もうボールがスタンドに消えるのが見えた。そしてその通りになった」と言っていました。江夏投手は、投げた瞬間、ボールが糸をひいてキャッチャーミットにおさまるのが見えた、と言います。
常人には見えないものを、超一流のプロは見ているわけです。


私はオカルト研究家という肩書を持っていますが、これは何度も言います。怪談とは違うんです。
怪談は、話芸、文芸という芸、エンターティメント。
オカルトは、隠された神々の叡智を読み解き、そこから世界を観る、という作業なのです。

200年ほど前までは、アジアの人たちも、ヨーロッパの人たちも、ごく一部の人たちを除くと、自分たちの信じる神々の教えのもとに生活していました。キリストのカソリック信者なら、科学よりバチカンの言うことが正しい。『聖書』の福音は一言一句神の言葉だから、疑ってはならない。それが正しいクリスチャンのあり方、すなわち常識であり、それが秩序をもたらせました。
でも、考え方を変えれば、人民を支配する側からすれば、そういう常識と秩序を作って、逸脱した人間は法で罰する、とした方が支配しやすい。つまり、常識や秩序は、支配する側の都合によって作られたもの、と言えるわけです。そのためには、支配者は教育を管理します。18世紀頃までのヨーロッパの教育機関は、教会が管理していました。フランス革命がこれを変えたんです。

秩序と常識は、『聖書』とか、神託で語られました。神がそう言っている、と言われれば、科学もほかの考えも知らない一般の人たちは、それに従うしかない。わが国の天皇も、もとは神託をする王でした。天皇は本来スメラミコトと読みますが、これは総べる御言、という意味で、御言とは天皇の口から発せられた言霊、というものなのです。つまり、神託です。

歴史は、歴史学と考古学で読み解きます。歴史学は文献批評が中心の学問。だから書いていない、書かれていないものは取り扱えない。
となれば、たとえば、聖徳太子の時代についてリアルタイムで書かれた文献は、碑文とか、そんな程度しか残っていない。よって太子死後100年余にして完成された『日本書紀』から読み取るしかない。すると、100年たっているから疑問が残るよな、書き換えられているんじゃない? と歴史学者は疑いにかかる。まあ、疑がうのが学者としてのスンタス。そこで聖徳太子の実在も疑うようになる、ということになるわけです。
しかも、ことをややこしくしているのは、中国に残る書物。
『隋書』倭国伝に、聖徳太子の時代に遣いが倭国の王に拝謁したことが書かれるんですが、推古天皇も、馬子も聖徳太子も出てこない。ただ、アメノタリシヒコというオオキミに会ったと書いてある。
そんな名前、日本の古文献には全然出てこないわけです。邪馬台国もほぼ同様で、邪馬台国も日本の古文献には出て来ません。

考古学は、出土したものを測定し、実測して年代も測る。それを文献に照らし合わせる。
大阪府、奈良県から出た古墳や祭祀場、宮廷跡などは『書記』と照らし合わせると、ほぼ認定できる。
となれば『書記』は意外と正確なことを書いていることがわかります。

ただね、私は兵庫県の今、朝来市となっている竹田(あの天空の城竹田城のある町です)の出身で、祖父が郷土史の研究をしていた。二千基におよぶ古墳があるんですよ。但馬には。ところが何も解明されていない。それが誰によって造られて、誰が埋葬されているのか。どういう神様がいたのか。
解明されないのは文献が無いから。『書記』には但馬のことはほとんど書いていません。書かれないものは、歴史学からはじかれる。
そうなると、『古事記』『日本書紀』という文献から、古代の日本の姿を見るには限界がある、ということがわかるんです。とすれば、他の分野から見ていくしかない。

で、オカルトで観よう、ということなんですよ。
つまり、古代の日本は、アニミズムの神々が人々の心の中にあったのですが、その神を利用して、人を治めるシステムを作った。明治における国家神道がそうでした。天照大神という高天原の神々と天皇の系譜を結ぶことによって、神国日本を作った。これにより、世界に君臨すべく日本のありようを国民に知らしめた。
でも、最初に天皇と言うシステムを作り、日本の礎を築いたのは、聖徳太子です。
で、やっぱりねえ、古人はそういう神々と共棲していたんです。これは科学や文献では測れない真実があるわけです。人間は科学で生きているのではない。信仰で生きたんです、古人は。
歴史学では、そこが見えないんです。どっちかと言うと、民俗学的なアプローチが必要。

聖徳太子は、歴史学でいう文献から読み解こうとすると、確かにその存在に疑問が湧く。しかしですよ。たとえば、聖徳太子が作ったとされる四天王寺を実際に見てみると、聖徳太子はいた、ということがわかる。

四天王寺。

一見すれば、仏教の寺です。
西門の鳥居の横には「佛教最初四天王寺」と書かれた石碑が立ち、中に入ると、五重塔、金堂、講堂があり、金堂には救世観音像が本尊に、その周りに四天王が配置されます。お盆やお彼岸には仏教の法要があり、檀家の人たちもいます。管内にはお坊さんもいます。
おそらく、鳥居をくぐって四天王寺の管内に入る参拝人たちの99%は、それを疑っていないでしょう。

しかし、ある見方をすれば、たちまち四天王寺は謎に満ち満ちたお寺に変貌します。
ほんとうに、仏教の寺なのか、という疑問とともに、聖徳太子の正体が浮かびあがります。

実は、これは目で見えるものなんです。ただ、これは道教や神道の知識が無いと見えてこない。
知識があると、疑問が湧く。なぜだろうと考える。比較対象してみる。そうすると、見えていないものがみえるようになる。
オカルトは、隠された神々の叡智を指しますが、それは、ベールで被われた、という意味でもあるんです。
ということは、完全に隠されているわけではない。
見ようとすれば、見えるものなんです。

では、どうすれば見えるのか?

それが、この講義の主眼です。
私は、何度も足を運んだ四天王寺に関する疑問を呈する。それをどう考えるかは、みなさん次第。

たとえばですよ。
四天王寺の西門に、鳥居がある。

あの鳥居を疑問に思っている人がどれだけいるのか、ですよ。
鳥居は、本来神社にある。
お寺にあるのはおかしいでしょ。

え、お寺にも鳥居が無いことは無い?

それですよ。神仏習合でしょ?
でもそれだけでは、「あなた、取材していないでしょ」と言いたくなる。

ものの見方、見るための知識、データの積み重ね、取材の積み重ねで、常識と思っていたものが覆る。
そういうこともあるのです。
ちょっと今回は、えらそうなことを書いてしまいましたが、お金をもらって講義をする側ですからねえ。

これ、続きます。




kaidanyawa at 05:30|PermalinkComments(8)

2016年02月04日

ホームランは打てない

中山市朗です。

清原和博元プロ野球選手が、覚せい剤容疑で逮捕。
一世風靡した人なりの苦しみがあったのでしょう。

で、思い出すのが、清原が西武の選手時代、大阪府警が大阪のあちこちに貼りまくった「覚せい剤打たずにホームラン打とう」というクソ・コピーのポスター。そこには、フルスイングする清原選手の写真がデカデカと。
「ホームラン打て、と言われてもなあ。そんなん打たれへんわ」と素直に思ったのと、こんなアホコピー、誰が考えたんやろと思ったのでした。
大阪府警内で公募したので、プロのコピーライターのものではなかったようですな。

経費をケチったのか、コピーライターという存在を大阪府警は知らなかったのか?

今となっては、ホームランを打って、覚せい剤も打つとは、誰も思わんかった。
スタンドに入れて刺青も入れたし。

でもですね、清原さんにはぜひ、立ち直ってほしい。

立ち直った人がいます。
江夏豊。王貞治選手をライバルとして活躍した阪神タイガースの大エース。王から一番三振を奪ったのが江夏なら、江夏は王にもっとも多くのホームランを打たれた。後に南海、広島、日ハム、西武と渡り歩き、メジャー挑戦をしました。
現役引退後、プロ野球解説者として活躍するも、1993年3月3日に覚せい剤所持で現行犯逮捕。
2年4ケ月の実刑判決後、解説者に復帰。
江夏自身「捕まらなかったら、自分は死んでいた」と当時を回顧。

現役引退したら、達成感が無くなった、と言っていた清原氏。
外から入って来た巨人の4番も、つらかったんだろうなと。同時に松井秀樹がいましたしね。

われわれ常人にはわからない苦しみはあったんだろうけど、やっぱり覚せい剤はねえ。

清原さん、これからもある人生。
立ち直っていただきたいものです。








kaidanyawa at 00:45|PermalinkComments(3)

2016年02月01日

堺筋の怪異

中山市朗です。

先日報告しました、堺筋の交差点に立ったおばちゃんの幽霊、らしきもの。

我が塾生の東野明くんが、彼のブログで、おもしろいデータとともに、二度にわたる私の目撃談にある推測を行っております。
その日、奇妙な事故が堺筋であったらしい。
え、事故なんて、探せば毎日のように起こっているって?
そのことも含めて、SF作家を目指す彼なりの考え。

私も知らんかった。

東野明くんのブログは、オフィスイチロウのHP、私の写真の目の下にあります、作劇塾ヲクリック。
下段に塾生のブログがありますので、そこから。



kaidanyawa at 12:00|PermalinkComments(4)
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


Archives