2020年11月
2020年11月29日
ええ年こいたおっさん二人、怪談について、夢について語り合う! ツイキャス配信番組『市桜怪談夜話』、今後もよろしく!
中山市朗です。
昨夜のツイキャス配信番組『市桜怪談夜話』、ご覧いただいたでしょうか?
実は、配信直前までいろいろなことが決まっておらず、というのは、私と桜井館長、お互いにやりたいことはあるんだけど、それをどう構成し、何を発信するべきなのか。ということで、メールでのやり取りはしていたのです。
というのも、怪談を語る動画というのは、随分と増えたし、視聴できるわけです。中には何十万回転している怪談動画もあったりするわけですが、有料となった途端、バタッと視聴者の数は減るんですね。
昨今、本が売れない、DVDが売れない、ライブが出来ないというこのご時世、有料コンテンツの視聴者もいないんじゃ、怪談はビジネスとして成り立たないということになってしまいます。
となると、せっかくこれだけ語り手が増え、それなりに客がついてきたとしても、それらは結局素人芸、いや、芸にもなっていないという評価で終わって、ブームは去ってしまうのではという危惧があるわけです。
ただ、私は、怪談というのは日本古来からある語りの世界で、文芸としても平安時代からあったりします。つまり、ブームとかなんとかという一過性のものではなく、日本人ならば、好き嫌いは別として、怪談、幽霊談には興味を惹かれ、畏怖もし、イメージ化し、エンタメとして楽しむという習性を持っていると思うのです。
その魅力や面白さを、どう伝えるか、ということが問題なのかなあと。このあたりは桜井さんと考え方が似ているわけです。じゃあ、そのためには何をするべきか。
まあ、そんなことを普段から桜井さんとは話したりしていたので、そろそろそれを形にして、いろいろ実験してみよう、ということで今回の『市桜怪談夜話』の試作が始まった、ということなのです。

そんなこんなで、今回のテスト配信は、打ち合わせの延長みたいな内容になってしまいましたが、怪談に対する思いや、過去のエピソード、考察などを語る回となってしまいました。
ただし、話している我々は大いに盛り上がり、90分の予定が25分ほどオーバー。
実は収録終了後もそのまま、2時間以上も話は続いていたんですよ。それだけ楽しかったということ。
でもカメラが回っていないとなると、表には決して出せない、御法度話も?
でも、いい年こいたおっさんが、夢を語り合って、どう具現化しようなんて、真剣に話し合うっていうのも、いいことじゃないかなと。また、我々がしっかりとコンテンツを作らないと、増えて来た怪談師たちも、出口がないんじゃないかと。
それができるか、できないかはわかりませんが、出来るようにあがいてみることが必要かなと。
そう言う思いでおります。
今回はテスト配信ということで、無料でご視聴いただきましたが、来年からは2ケ月に一度の3時間番組としてレギュラー化し、有料配信とする予定です。ちゃんと怪談も語ります。怪談番組ですから。
出口の見えないコロナ禍の時代、ロフトプラスワンにでも行って、濃い怪談トークを聴くつもりで参加していただければ幸いです。
また、桜井さんとは怪談ではなく、オカルトについての配信番組をやりたいね、という話にもなりました。たとえば、日ユ同祖論なんて、外国人が聴いたらどんな反応を示すのだろうかと、興味のあるところです。つまり、世界を意識した配信番組??
いずれにせよ、皆様の叱咤激励が、我々の原動力になります。
よろしくお願い申し上げます。ほんまに。
次回は1月、中旬ごろかな?

↑ やっぱり堅気ではないこの二人。
道であったら要注意!?
『市桜怪談夜話』テスト版、アーカイブご視聴はこちら。
https://twitcasting.tv/somberrain666/movie/653670568
昨夜のツイキャス配信番組『市桜怪談夜話』、ご覧いただいたでしょうか?
実は、配信直前までいろいろなことが決まっておらず、というのは、私と桜井館長、お互いにやりたいことはあるんだけど、それをどう構成し、何を発信するべきなのか。ということで、メールでのやり取りはしていたのです。
というのも、怪談を語る動画というのは、随分と増えたし、視聴できるわけです。中には何十万回転している怪談動画もあったりするわけですが、有料となった途端、バタッと視聴者の数は減るんですね。
昨今、本が売れない、DVDが売れない、ライブが出来ないというこのご時世、有料コンテンツの視聴者もいないんじゃ、怪談はビジネスとして成り立たないということになってしまいます。
となると、せっかくこれだけ語り手が増え、それなりに客がついてきたとしても、それらは結局素人芸、いや、芸にもなっていないという評価で終わって、ブームは去ってしまうのではという危惧があるわけです。
ただ、私は、怪談というのは日本古来からある語りの世界で、文芸としても平安時代からあったりします。つまり、ブームとかなんとかという一過性のものではなく、日本人ならば、好き嫌いは別として、怪談、幽霊談には興味を惹かれ、畏怖もし、イメージ化し、エンタメとして楽しむという習性を持っていると思うのです。
その魅力や面白さを、どう伝えるか、ということが問題なのかなあと。このあたりは桜井さんと考え方が似ているわけです。じゃあ、そのためには何をするべきか。
まあ、そんなことを普段から桜井さんとは話したりしていたので、そろそろそれを形にして、いろいろ実験してみよう、ということで今回の『市桜怪談夜話』の試作が始まった、ということなのです。

そんなこんなで、今回のテスト配信は、打ち合わせの延長みたいな内容になってしまいましたが、怪談に対する思いや、過去のエピソード、考察などを語る回となってしまいました。
ただし、話している我々は大いに盛り上がり、90分の予定が25分ほどオーバー。
実は収録終了後もそのまま、2時間以上も話は続いていたんですよ。それだけ楽しかったということ。
でもカメラが回っていないとなると、表には決して出せない、御法度話も?
でも、いい年こいたおっさんが、夢を語り合って、どう具現化しようなんて、真剣に話し合うっていうのも、いいことじゃないかなと。また、我々がしっかりとコンテンツを作らないと、増えて来た怪談師たちも、出口がないんじゃないかと。
それができるか、できないかはわかりませんが、出来るようにあがいてみることが必要かなと。
そう言う思いでおります。
今回はテスト配信ということで、無料でご視聴いただきましたが、来年からは2ケ月に一度の3時間番組としてレギュラー化し、有料配信とする予定です。ちゃんと怪談も語ります。怪談番組ですから。
出口の見えないコロナ禍の時代、ロフトプラスワンにでも行って、濃い怪談トークを聴くつもりで参加していただければ幸いです。
また、桜井さんとは怪談ではなく、オカルトについての配信番組をやりたいね、という話にもなりました。たとえば、日ユ同祖論なんて、外国人が聴いたらどんな反応を示すのだろうかと、興味のあるところです。つまり、世界を意識した配信番組??
いずれにせよ、皆様の叱咤激励が、我々の原動力になります。
よろしくお願い申し上げます。ほんまに。
次回は1月、中旬ごろかな?

↑ やっぱり堅気ではないこの二人。
道であったら要注意!?
『市桜怪談夜話』テスト版、アーカイブご視聴はこちら。
https://twitcasting.tv/somberrain666/movie/653670568
kaidanyawa at 13:07|Permalink│Comments(4)│
2020年11月28日
ツイキャス配信による新たな怪談番組『市桜怪談夜話』、本日24:00よりテスト配信、だよ!
中山市朗です。
本日、28日(土)の深夜、24:00より、何かが始まる……。
ツイキャス配信による新たな怪談番組?
その名も『市桜(いちろう)怪談夜話』。
えっ、朗とするところ、桜になっているって?
いや、これで正しいのです。
市桜の桜は、桜井の桜。
つまり、怪談図書館桜井館長と、怪談を語り、その怪談に関する背景や解釈、知られざるエピソードを語ろうという配信番組なのであります。しかも、オンラインではなく、桜井館長は明日、わざわざ大阪の私の書斎に来ると言いますから、桜井さんの気合も十分。

↑とても堅気の衆には見えない二人……?
まあ、今後のことも含め、いろいろ二人で企みを話し合い、その一環としてこの『市桜怪談夜話』を配信するわけです。
今後の詳細は、配信前に桜井氏といろいろ打ち合わせをしながら決めてゆきますわ。
で、おそらくですが、今後『市桜怪談夜話』は、2ケ月に一度の配信。
3時間番組で有料コンテンツとなる予定です。料金はまだ未定。
本日は、テスト配信ということで、90分。視聴料は無料ですのでどなたも観れます。
詳細は、ツイッターで
か、で告知があると思いますので、こまめにチェックしておいてくださいね。
視聴配信時にURLが告知されます。

怪異歓迎!
どんどん来いやぁ!!
本日、28日(土)の深夜、24:00より、何かが始まる……。
ツイキャス配信による新たな怪談番組?
その名も『市桜(いちろう)怪談夜話』。
えっ、朗とするところ、桜になっているって?
いや、これで正しいのです。
市桜の桜は、桜井の桜。
つまり、怪談図書館桜井館長と、怪談を語り、その怪談に関する背景や解釈、知られざるエピソードを語ろうという配信番組なのであります。しかも、オンラインではなく、桜井館長は明日、わざわざ大阪の私の書斎に来ると言いますから、桜井さんの気合も十分。

↑とても堅気の衆には見えない二人……?
まあ、今後のことも含め、いろいろ二人で企みを話し合い、その一環としてこの『市桜怪談夜話』を配信するわけです。
今後の詳細は、配信前に桜井氏といろいろ打ち合わせをしながら決めてゆきますわ。
で、おそらくですが、今後『市桜怪談夜話』は、2ケ月に一度の配信。
3時間番組で有料コンテンツとなる予定です。料金はまだ未定。
本日は、テスト配信ということで、90分。視聴料は無料ですのでどなたも観れます。
詳細は、ツイッターで
怪談図書館@trust no one
https://mobile.twitter.com/somberrain666
https://mobile.twitter.com/
か、
視聴配信時にURLが告知されます。

怪異歓迎!
どんどん来いやぁ!!
kaidanyawa at 00:00|Permalink│Comments(1)│
2020年11月27日
行先は黄泉の国? 黒いバス、この不思議な怪異談の情報を求めます!!
中山市朗です。
ツイッターに告知が出ましたが、ライブ『中山市朗・三百物語』で語った怪談が、動画として公開されました。
●あの子はだあれ?
●黒いバス
●鉄扉の扉
●禁断のアルバイト
●犬期の店
他 10本13話。
1本380円で販売しております。

さて、この中に「黒いバス」という話があります。本には書いていません。
大阪での「Dark Night」で一度語って、今回で2度目の語りでの披露です。
この「黒いバス」というのが、奇妙な話で、ほんとうに真っ黒の長方形の窓も何もない箱のような車体で、車輪が4つついただけのバスが登場するのですが、どうもこのバス、冥界行のバスではないかと思われるのです。
ところが、こんなバスの話はいままで聞いたことも無く、なんやろな、珍しい話やな、と、不思議に思いつつ語ったのですが、去る7日のプライベート怪談会にて、この同じ黒いバスと思われるものが出てくる怪談が何話か披露されたのです。ほんまに奇妙な話で。
これはなんやろと、実は頭から離れません。
そう、『怪談狩り・四季異聞録』に「無人駅」という題名で、福井県のある無人駅に音もなくやってきて停止し、いつのまにか消えている幽霊列車にどこかイメージが似ているな、と。
黒いバス……、冥界、幽霊、消える、何か聞いたことあるぞ、という方がおられましたら、情報&お話をお聞かせください。
その黒いバスって、どんな話かって?
まずは下記をクリックして、聞いてみてくださいな。
次回の『怪談狩り』のメインディッシュになるかも?
情報は、
info@officeichirpu.com
06-6264-0981
まで。
kaidanyawa at 08:12|Permalink│Comments(2)│
怪談・黒いバスという奇妙な話、情報求めます!!
中山市朗です。
ツイッターに告知が出ましたが、ライブ『中山市朗・三百物語』で語った怪談が、動画として公開されました。
●あの子はだあれ?
●黒いバス
●鉄扉の扉
●禁断のアルバイト
●犬期の店
他 10本13話。
1本380円で販売しております。

さて、この中に「黒いバス」という話があります。本には書いていません。
大阪での「Dark Night」で一度語って、今回で2度目の語りでの披露です。
この「黒いバス」というのが、奇妙な話で、ほんとうに真っ黒の長方形の窓も何もない箱のような車体で、車輪が4つついただけのバスが登場するのですが、どうもこのバス、冥界行のバスではないかと思われるのです。
ところが、こんなバスの話はいままで聞いたことも無く、なんやろな、珍しい話やな、と、不思議に思いつつ語ったのですが、去る7日のプライベート怪談会にて、この同じ黒いバスと思われるものが出てくる怪談が何話か披露されたのです。ほんまに奇妙な話で。
これはなんやろと、実は頭から離れません。
そう、『怪談狩り・四季異聞録』に「無人駅」という題名で、福井県のある無人駅に音もなくやってきて停止し、いつのまにか消えている幽霊列車にどこかイメージが似ているな、と。
黒いバス……、冥界、幽霊、消える、何か聞いたことあるぞ、という方がおられましたら、情報&お話をお聞かせください。
その黒いバスって、どんな話かって?
まずは下記をクリックして、聞いてみてくださいな。
次回の『怪談狩り』のメインディッシュになるかも?
情報は、
info@officeichirpu.com
06-6264-0981
まで。
kaidanyawa at 03:41|Permalink│Comments(0)│
2020年11月25日
本日は、「市朗怪全集」第四弾の収録! そして28日(土)深夜、新しい配信f番組が???
中山市朗です。
本日は、「市朗怪全集」第四弾の収録であります。
第三弾は先月収録済みで、12月発売予定。
従って、本日収録分は、来年1月に発売されると思われます。
何を語るのかは、まだナ・イ・シ・ョ。

Amazonでは、品切れとなっておりました『市朗怪全集一』は、現在は在庫ありとなっております。
『市朗怪全集二』は、在庫切れ状態。すんません。
でも、注文していただければ、入荷次第通知がいきますので、よろしくお願いいたします。
また、『圓山町怪談倶楽部〜遠国奇譚』もよろしく。
こちらは、DVD仕様となっております。
おうちで怪談。
あっ、28日(土)の深夜から、新しい配信番組をやらかすつもりです。
情報は、近日このブログで。
本日は、「市朗怪全集」第四弾の収録であります。
第三弾は先月収録済みで、12月発売予定。
従って、本日収録分は、来年1月に発売されると思われます。
何を語るのかは、まだナ・イ・シ・ョ。

Amazonでは、品切れとなっておりました『市朗怪全集一』は、現在は在庫ありとなっております。
『市朗怪全集二』は、在庫切れ状態。すんません。
でも、注文していただければ、入荷次第通知がいきますので、よろしくお願いいたします。
また、『圓山町怪談倶楽部〜遠国奇譚』もよろしく。
こちらは、DVD仕様となっております。
おうちで怪談。
あっ、28日(土)の深夜から、新しい配信番組をやらかすつもりです。
情報は、近日このブログで。
kaidanyawa at 07:59|Permalink│Comments(4)│
2020年11月24日
FreshLive『中山市朗・怪チャンネル』、4年と半年のご愛顧、ありがとうございました!
中山市朗です。

ちょっと間が空いてしまいましたが、FreshLive『中山市朗・怪チャンネル』、第八十回の配信を持ちまして、終了いたしました。
最後まで見ていただいた方には、サービスとして未公開の心霊(?)動画もお見せいたしました。
ま、我々としては、FreshLiveというプラットホームが無くなることによる強制終了のような形でしたので、また、別のプラットホームで、条件の合うところがありましたら、番組復活もやってみたいと思います。
レギュラー総出の最終回。
左から、製作の中村壮快君、技術のとっさん、MC・はるみちゃん、私、秘書・ののさん。

思えば、いろいろ怪異に見舞われましたな。否定論者だった壮快君も、おっていくうちにだんだんと、肯定的になってきたりして。私は今も懐疑主義ですが、不思議なことはある、と断言します。
ただ、それが心霊現象なのか、ということになると……。
こら、永遠の謎であり、テーマですな。
会員としてご視聴くださった方々には、深く御礼申し上げます。皆様の視聴があったからこそ、実現し、ここまで継続できたのです。
また、『怪チャンネル』が装いも新たに配信したおりには、これまで同様に、私たちを育ててくださるように、しかとお願い申し上げるものです。
約4年と半年、ありがとうございました。


ちょっと間が空いてしまいましたが、FreshLive『中山市朗・怪チャンネル』、第八十回の配信を持ちまして、終了いたしました。
最後まで見ていただいた方には、サービスとして未公開の心霊(?)動画もお見せいたしました。
ま、我々としては、FreshLiveというプラットホームが無くなることによる強制終了のような形でしたので、また、別のプラットホームで、条件の合うところがありましたら、番組復活もやってみたいと思います。
レギュラー総出の最終回。
左から、製作の中村壮快君、技術のとっさん、MC・はるみちゃん、私、秘書・ののさん。

思えば、いろいろ怪異に見舞われましたな。否定論者だった壮快君も、おっていくうちにだんだんと、肯定的になってきたりして。私は今も懐疑主義ですが、不思議なことはある、と断言します。
ただ、それが心霊現象なのか、ということになると……。
こら、永遠の謎であり、テーマですな。
会員としてご視聴くださった方々には、深く御礼申し上げます。皆様の視聴があったからこそ、実現し、ここまで継続できたのです。
また、『怪チャンネル』が装いも新たに配信したおりには、これまで同様に、私たちを育ててくださるように、しかとお願い申し上げるものです。
約4年と半年、ありがとうございました。

kaidanyawa at 01:29|Permalink│Comments(4)│
2020年11月22日
FreshLiveで配信しております、本格怪談番組『中山市朗・怪チャンネル』は、今夜の配信を持って、一旦終了いたします。
中山市朗です。
2017年7月23日に第1回の配信をいたしまして、約3年半。
回数にして80回とプラスα。
FreshLiveで配信しております、本格怪談番組『中山市朗・怪チャンネル』は、今夜の配信を持って、一旦終了いたします。
あくまで、FreshLiveのサービス終了に伴うものですので、また別の配信サービスから、有料コンテンツとして再開する、つもりではあります。
我が書斎からの配信。
いろいろおましたなあ。



ということで、今夜の配信は、私、秘書ののさん、はるみちゃん、中村壮快君、とっさんと、関係者総出で、『怪チャンネル』の思い出を語ります。
ゲストにお迎えした方も、西浦和也さん、稲森誠さん&大木ミノルさん、飛鳥昭雄さん、雲谷斎さん、桜井館長、川奈まり子さん、城谷歩さん、それに北野誠さんなど、結構豪華なメンバー。そして山の牧場からの生配信を試みたことがありましたが、電波が届いてなくて断念したこともありました。
写真は、飛鳥昭雄さんゲストの時。実は手前には飛鳥さんのファン、アスカリアンがずらり!!

また再開すれば、グレードアップして、いろいろと挑戦していきたいと思っております。
ご視聴いただきました皆々様方、ほんとうにありがとうございました。
では、今夜の『怪チャンネル』で。
最初の15分は、会員でなくとも無料サービスが視聴できます。
今夜21:00より。
こちらをクリック→https://freshlive.tv/ichiroukai/282070…
2017年7月23日に第1回の配信をいたしまして、約3年半。
回数にして80回とプラスα。
FreshLiveで配信しております、本格怪談番組『中山市朗・怪チャンネル』は、今夜の配信を持って、一旦終了いたします。
あくまで、FreshLiveのサービス終了に伴うものですので、また別の配信サービスから、有料コンテンツとして再開する、つもりではあります。
我が書斎からの配信。
いろいろおましたなあ。



ということで、今夜の配信は、私、秘書ののさん、はるみちゃん、中村壮快君、とっさんと、関係者総出で、『怪チャンネル』の思い出を語ります。
ゲストにお迎えした方も、西浦和也さん、稲森誠さん&大木ミノルさん、飛鳥昭雄さん、雲谷斎さん、桜井館長、川奈まり子さん、城谷歩さん、それに北野誠さんなど、結構豪華なメンバー。そして山の牧場からの生配信を試みたことがありましたが、電波が届いてなくて断念したこともありました。
写真は、飛鳥昭雄さんゲストの時。実は手前には飛鳥さんのファン、アスカリアンがずらり!!

また再開すれば、グレードアップして、いろいろと挑戦していきたいと思っております。
ご視聴いただきました皆々様方、ほんとうにありがとうございました。
では、今夜の『怪チャンネル』で。
最初の15分は、会員でなくとも無料サービスが視聴できます。
今夜21:00より。
こちらをクリック→https://freshlive.tv/ichiroukai/282070…
kaidanyawa at 08:48|Permalink│Comments(6)│
2020年11月21日
黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵資料Making of 乱、誕生秘話! Part・7 黒澤組に日本映画初の、ビデオ班誕生!
1984年5月の中旬、だったと思います。
ヘラルドエース、プロデューサーの井関惺氏より電話が!
「中山さんですか?」
「はい、そうですが」
「ヘラルドの井関です」
「えっ、井関さん? あの、あの節は大変お世話になりました」
「その件でお電話しました。7月1日より姫路城ロケが始まります。カメラを入れてメイキングを撮ってください。スタッフは中山さんとカメラマン、アシスタントの3人にしてください」
「へっ、あの、スポンサー、もういないんですけど」
「わかっています。実はその方が我々としてはやりやすいんです。『乱』のスタッフとして行動してください。ビデオ班というのを黒澤組の中に作りますから、この後、九州や御殿場ロケと続きますが、スタッフとして共に行動してください。6月30日に、姫路の〇〇ホテルに入ってください。手配はしてあります。では、よろしくお願いいたします」
日本映画で初のビデオ班!!
つまり、ヘラルド側が我々をスタッフとして雇ってくれて、その撮影現場を記録してくれ、という要請です。そして、現場にはビデオ班以外のビデオカメラは入れさせない。ニュースやテレビ番組等で現場の素材を使うのなら、ビデオ班が撮ったものを渡す。
つまり『乱』の現場でビデオカメラを回すことができるのは、私たちだけ。
物凄い特権、かつ責任重大です。
実は、4、5年前、新宿で久々に井関さんとお会いして、食事をしたことがあるんです。
井関さん「今だから話すんですけどね」と、こんな話をしてくれたのです。
「最初、中山さんがメイキングを撮らせてくれ、と、うちに企画を持ち込んできましたねえ。鮮烈に覚えています。正直、メイキングってなに? 周りも私もそんな感想でした。そんな言葉は日本映画になかったですから。でも、なんか面白いし、若い人に託すことによって、何かが起こりそうな気がしたんです。それに、黒澤監督もライフワークだと言ってましたから。その現場をビデオで記録しておく、というのもありかなと。だから、あれはほぼ、僕の独断で決めたんです。予算の捻出もいろいろ考えて……」
私、カメラマン、VE(ビデオ・エンジニア)の3人を新たにスタッフとして雇ったわけですから、宿泊費、食費、その他経費諸々、ヘラルドエースが持ってくれたわけです。それにプラスして、3人のギャラや機材費等に、2000万円出してくれたんです。
25歳の、なんの実績も無い若造にですよ!
後に、ビデオ班誕生については、下記のように「ビデオ班の目」という新聞記事にもなりました。
私はまだ作家ではないので、中山市朗ではない。本名。

2000万円というと、当時、ちょっとした映画の製作費です。私がその前に助監督として入った『魔女卵』という映画は、公称5000万円。でも、宣伝、広報などで半額は消える。現場では直接製作費は2000ほどだな、と言っていました。
しかし、当時はバブルの時代。
都内のマンションに何億という値段がついたのに、映画の製作費はそんなもん。
『乱』も資金難でなかなか進まなかった経緯があって、フランスに出資してもらわないと出来なかったけですね。
何十億円という絵画は買っても、映画への投資はなかなか誰もしてくれなかった。バブルはほんとに、はじけた後は、何も残さなかったですよね。
さて、突然そんな話をふられて、緊急にスタッフを探すことになったわけです。一流のカメラマンを雇うけにはいかない。ギャラも相当持っていかれそうだし、第一、もう日が無い。少なくとも半年、ひょっとしたら1年、ずっとスケジュールが空けられる人を見つけるのも難しいですしね。
数日後、『乱』の台本も送られてきました。

なんかね、ここ数か月でいろんなことがあった、というか、もう熱が出てきそうでした。
しかし、ぼおっとしている場合ではない。さっそく動かないとダメなわけです。
人伝てで、当時30歳くらいだった、ミュージシャンのライブやイメージビデオを撮っていた谷口裕幸さん、そして私より若い河光彦君を見つけ出して、事務所の管理やマネージメントをやってくれる高橋良信君、私を含めた4人を編成して、条件や打ち合わせをやると、6月30日、高橋君を大阪へ残し、姫路へと飛びました。機材等は、ヘラルドが用意してくれているらしい。
そして、当日。
井関さんに挨拶すると、大広間に連れていかれた。
そしたら、スタッフ、出演者たちがそこで宴会をやっていた。
もう映画好きなら、たまらない光景。
仲代達矢さんがいる。原田美枝子さんや寺尾聡さん、根津甚八さん。『七人の侍』のカメラマン、中井朝一さん、『用心棒』のカメラマン、斎藤孝雄さん。美術の村木与四郎さん。そして『ゴジラ』『モスラ』など東宝特撮の監督、本多猪四郎さんの姿が……。
すると斎藤カメラマンが、私たちを手招きして……。
kaidanyawa at 04:47|Permalink│Comments(8)│
2020年11月19日
黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵資料Making of 乱、誕生秘話! Part・6
中山市朗です。
NHK-BS1『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
秘密資料、Making of 乱、誕生秘話! Part・6
スポンサーが降りて、Making of 乱、撤退の危機!!
『乱』のキャスティング発表記者会見も終わり、6月1日から『乱』は、この黒澤フィルム・スタジオにてクランク・インと発表されました。
しかし、その現場の一部始終を記録するはずだった、日本映画初のMakingプロジェクトは、スポンサーが降りることによって、頓挫の危機に陥ったのです。
製作・配給会社、ヘラルド・エースと、黒澤監督のマネージメントと肖像権を管理する黒澤エンタープライゼスから、許可が出ている中での、事態。
専務は大阪へと帰り、中止の報告を。
私は、撮影隊として集めたメンバーを解散させました。大学時代の友人もいた。
「いいもの、見させてもろたわ」「夢を見させてもろて、ありがとう」とか、みんな言ってくれた。
でもね、なんかこう、納得行かない。いや、ここまでのことが奇跡だったと考えるべきか。
考えてみれば、『乱』の製作そのものだって、何度も資金難によって製作が中止されたり、次から次へと問題も起こったんです。黒澤監督の気持ちや境遇を考えたら、私の前にある問題なんて、とか、思うべきなんでしょうけれど、やっぱりねえ。



私は大阪へ帰らず、翌日、黒澤エンタープライゼスに赴き、川村プロデューサーに改めて、今回のことを報告しました。
川村氏は私の話を聞いてくれ、無念さを察してくれました。そして言ったんです。
「うちとしては、ダメと言ってはいないし、撮らせてあげたいという気もある。でも、スポンサーが降りたんなら仕方がないじゃない。撮影隊と行動をともにするにも、宿泊代、移動費、それに機材費、人件費、食事代だっているよ。それを中山君一人で工面できる、ていうんならそのままこの企画は続行できるんだろうけど、そんなことできないだろうしね。まあ、気持ちはわかるけど、いつまで東京にいたって状況が変わらないなら、大阪へ戻るべきだろうね。残念だけど、僕には何もしてあげられない」
でもこの時、川村さんがいろいろ黒澤監督から聞いた演出法やエピソードをいろいろ話してくれた。
そして、俳句の本をくれた。
「君はこれからも脚本書いたり、映画の道目指すんだろ。だったら、俳句や川柳を学ぶべきだ。いろいろな要素、心情、状況、季節までがこの決められた短い語句の中に全部入っている。これって、すごく勉強になるから」
そう言われたけど、当時はピンとこなかった。バカなんですよ、若いってことは。後に、この俳句、川柳はモノを書く上での参考になりました。プロの言うことは、やっぱり聞かなあかん。
それと、いろいろ川村さんと話しているうちに、実は「その気があるなら」とこんな提案をされた。
「実は、オヤジ(黒澤監督のことをそう言っていた)さん、お能のドキュメンタリー映画の総監修をやろうとして企画が動いていたんだけど、今、『乱』が動き出したので中断しているんだよ。その為の脚本が未完でね。どお? このドキュメンタリーの脚本、書いてみない?」
これ、承諾していたら、私の人生変わっていたでしょうね。
聞けば、能の歴史や流派、様式についての記録や能楽堂で舞われる実演もフィルムに収めるのだとか。
でもねえ、その時の私は、Makingのことで精力使い果たしていましたから、それを受ける余裕が無かった。それと、能なんて、見たことも無いし、難しくて近寄りがたいイメージがしていました。
しかし、能と黒澤映画の様式美については、黒澤ファンである私は知ってはいました。昨日観た、『乱』のキャスティング記者発表会の演出にも、それを感じていました。
時代劇は、たいてい歌舞伎や新国劇の様式から作られますが、黒澤時代劇の特色は、能の様式から作られることが多々あるんです。
『蜘蛛巣城』なんてそうですね。
下のスチール。立ち振る舞い、そのメイク、能ですよ。
しかもシェイクスピアの悲劇を日本の戦国時代に置き換えて、能の様式で作る、とは!!!

でも思った。
とてもじゃないが、『能』に関する記録映画の脚本なんて、書ける自信が無い。しかも、黒澤明監修ですよ。血反吐吐きながらの執筆になるだろうなと思った。それはいいんですが、やっぱり『能』という古典芸能に対してあまりに知らなさ過ぎたという、自信の無さが躊躇する心を生んだんだと思います。
今だったら、聖徳太子や秦氏の研究から、伎楽から猿楽、能となる歴史や流れ、怪談と相通じるテーマ性などから、多少の知識や蘊蓄はありますから、喜んで受けるところですけど。
実は私、黒澤明関係の新聞記事はほとんどスクラップしていて、こんな新聞記事があります。
昭和58年の報知新聞。『乱』が始動する2年ほど前のもの。

製作は黒澤エンタープライゼス。『現代日本の能』。後に『能の美』に改題。
『乱』がなかなか具現化しなかったときに、集めたスタッフに仕事を与えようとしたのが、この企画だったらしい。
黒澤監督は総監修と、自ら出演して能についての考察を語るというもの。監督は佐伯清。東映の『昭和残侠伝』シリーズを手掛けた人。記事にはコッポラも日本の文化を伝える為に支援を申し出ていたとか。
結局、この映画も具現化しませんでした。
でもねえ。モノ作りする人間は、どんな知識でも一応はかじっておいて、得意分野はどんどん深く探求する必要がある。でないと、ホンモノは出来ない。そう、この時痛感したわけです。
これは、以後の私の仕事に大きく影響しています。もちろん、怪談語りにも。
その夜、私は都内のある赤ちょうちんの屋台で、黒澤フィルム・スタジオで仕事をしてもらった大学の友人と飲んでおりました。なんだか、やけ酒っぽかった。
すると、どういういきさつでそうなったのか、記憶が定かではないけど、私と同年代か少し上くらいの見知らぬ男が、私の話を涙しながら聞いてくれて、彼は「俺、全財産、中山さんに寄付する。100万にも満たないから微々たるもんだけどさ。メイキング・オブ・乱。すばらしい夢じゃないか。俺も映画ファンで黒澤映画のファンだ。それ、やるべきだよ、まずは俺のお金で継続してよ」なんて言ってくれたけど、もちろん断りましたよ。でも、彼は本気で、会社の同僚や取引先、大学の後輩たちに話して寄付運動をする、なんて言っていて、お互い酔ってはいたのでしょうけれども、あの男の人の涙は、いまだに忘れられません。
で、数日後、私は大阪へ戻りました。いつまでも友人宅に居候しているわけにもいかないし。
でも正直、その頃、なにをして過ごしていたのかの記憶が無い。
ただ、次は何を企もう。何をしたらフリーでメシが食えるんだろう。そんなことを考えて、シナリオを書いたり企画書を作ったり、名刺をもってあちこちに営業したりが日常でしたから、そんな日々を送っていたのでしょう。
そして、もう黒澤監督の現場へ入る、という大胆不敵な企てのことは忘れよう、とした6月中旬の、夜でした。
私の部屋の電話が鳴りました。
「はい」と出ると、「ヘラルドの井関ですが」
「えっ、井関さん?」
「中山さんですか?」
「はい、そうですが、あの節は大変お世話になりました」
「その件でお電話しました。姫路城ロケからカメラを入れてください。スタッフは、中山さんとカメラマン、そしてアシスタント、3人にしてください」
「へっ? あのぅ、スポンサー、もういないんですけど」
「わかっています。7月1日、〇〇ホテルに来てください。手配しておきますから」
なにがあった?
NHK-BS1『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
秘密資料、Making of 乱、誕生秘話! Part・6
スポンサーが降りて、Making of 乱、撤退の危機!!
『乱』のキャスティング発表記者会見も終わり、6月1日から『乱』は、この黒澤フィルム・スタジオにてクランク・インと発表されました。
しかし、その現場の一部始終を記録するはずだった、日本映画初のMakingプロジェクトは、スポンサーが降りることによって、頓挫の危機に陥ったのです。
製作・配給会社、ヘラルド・エースと、黒澤監督のマネージメントと肖像権を管理する黒澤エンタープライゼスから、許可が出ている中での、事態。
専務は大阪へと帰り、中止の報告を。
私は、撮影隊として集めたメンバーを解散させました。大学時代の友人もいた。
「いいもの、見させてもろたわ」「夢を見させてもろて、ありがとう」とか、みんな言ってくれた。
でもね、なんかこう、納得行かない。いや、ここまでのことが奇跡だったと考えるべきか。
考えてみれば、『乱』の製作そのものだって、何度も資金難によって製作が中止されたり、次から次へと問題も起こったんです。黒澤監督の気持ちや境遇を考えたら、私の前にある問題なんて、とか、思うべきなんでしょうけれど、やっぱりねえ。



私は大阪へ帰らず、翌日、黒澤エンタープライゼスに赴き、川村プロデューサーに改めて、今回のことを報告しました。
川村氏は私の話を聞いてくれ、無念さを察してくれました。そして言ったんです。
「うちとしては、ダメと言ってはいないし、撮らせてあげたいという気もある。でも、スポンサーが降りたんなら仕方がないじゃない。撮影隊と行動をともにするにも、宿泊代、移動費、それに機材費、人件費、食事代だっているよ。それを中山君一人で工面できる、ていうんならそのままこの企画は続行できるんだろうけど、そんなことできないだろうしね。まあ、気持ちはわかるけど、いつまで東京にいたって状況が変わらないなら、大阪へ戻るべきだろうね。残念だけど、僕には何もしてあげられない」
でもこの時、川村さんがいろいろ黒澤監督から聞いた演出法やエピソードをいろいろ話してくれた。
そして、俳句の本をくれた。
「君はこれからも脚本書いたり、映画の道目指すんだろ。だったら、俳句や川柳を学ぶべきだ。いろいろな要素、心情、状況、季節までがこの決められた短い語句の中に全部入っている。これって、すごく勉強になるから」
そう言われたけど、当時はピンとこなかった。バカなんですよ、若いってことは。後に、この俳句、川柳はモノを書く上での参考になりました。プロの言うことは、やっぱり聞かなあかん。
それと、いろいろ川村さんと話しているうちに、実は「その気があるなら」とこんな提案をされた。
「実は、オヤジ(黒澤監督のことをそう言っていた)さん、お能のドキュメンタリー映画の総監修をやろうとして企画が動いていたんだけど、今、『乱』が動き出したので中断しているんだよ。その為の脚本が未完でね。どお? このドキュメンタリーの脚本、書いてみない?」
これ、承諾していたら、私の人生変わっていたでしょうね。
聞けば、能の歴史や流派、様式についての記録や能楽堂で舞われる実演もフィルムに収めるのだとか。
でもねえ、その時の私は、Makingのことで精力使い果たしていましたから、それを受ける余裕が無かった。それと、能なんて、見たことも無いし、難しくて近寄りがたいイメージがしていました。
しかし、能と黒澤映画の様式美については、黒澤ファンである私は知ってはいました。昨日観た、『乱』のキャスティング記者発表会の演出にも、それを感じていました。
時代劇は、たいてい歌舞伎や新国劇の様式から作られますが、黒澤時代劇の特色は、能の様式から作られることが多々あるんです。
『蜘蛛巣城』なんてそうですね。
下のスチール。立ち振る舞い、そのメイク、能ですよ。
しかもシェイクスピアの悲劇を日本の戦国時代に置き換えて、能の様式で作る、とは!!!

でも思った。
とてもじゃないが、『能』に関する記録映画の脚本なんて、書ける自信が無い。しかも、黒澤明監修ですよ。血反吐吐きながらの執筆になるだろうなと思った。それはいいんですが、やっぱり『能』という古典芸能に対してあまりに知らなさ過ぎたという、自信の無さが躊躇する心を生んだんだと思います。
今だったら、聖徳太子や秦氏の研究から、伎楽から猿楽、能となる歴史や流れ、怪談と相通じるテーマ性などから、多少の知識や蘊蓄はありますから、喜んで受けるところですけど。
実は私、黒澤明関係の新聞記事はほとんどスクラップしていて、こんな新聞記事があります。
昭和58年の報知新聞。『乱』が始動する2年ほど前のもの。

製作は黒澤エンタープライゼス。『現代日本の能』。後に『能の美』に改題。
『乱』がなかなか具現化しなかったときに、集めたスタッフに仕事を与えようとしたのが、この企画だったらしい。
黒澤監督は総監修と、自ら出演して能についての考察を語るというもの。監督は佐伯清。東映の『昭和残侠伝』シリーズを手掛けた人。記事にはコッポラも日本の文化を伝える為に支援を申し出ていたとか。
結局、この映画も具現化しませんでした。
でもねえ。モノ作りする人間は、どんな知識でも一応はかじっておいて、得意分野はどんどん深く探求する必要がある。でないと、ホンモノは出来ない。そう、この時痛感したわけです。
これは、以後の私の仕事に大きく影響しています。もちろん、怪談語りにも。
その夜、私は都内のある赤ちょうちんの屋台で、黒澤フィルム・スタジオで仕事をしてもらった大学の友人と飲んでおりました。なんだか、やけ酒っぽかった。
すると、どういういきさつでそうなったのか、記憶が定かではないけど、私と同年代か少し上くらいの見知らぬ男が、私の話を涙しながら聞いてくれて、彼は「俺、全財産、中山さんに寄付する。100万にも満たないから微々たるもんだけどさ。メイキング・オブ・乱。すばらしい夢じゃないか。俺も映画ファンで黒澤映画のファンだ。それ、やるべきだよ、まずは俺のお金で継続してよ」なんて言ってくれたけど、もちろん断りましたよ。でも、彼は本気で、会社の同僚や取引先、大学の後輩たちに話して寄付運動をする、なんて言っていて、お互い酔ってはいたのでしょうけれども、あの男の人の涙は、いまだに忘れられません。
で、数日後、私は大阪へ戻りました。いつまでも友人宅に居候しているわけにもいかないし。
でも正直、その頃、なにをして過ごしていたのかの記憶が無い。
ただ、次は何を企もう。何をしたらフリーでメシが食えるんだろう。そんなことを考えて、シナリオを書いたり企画書を作ったり、名刺をもってあちこちに営業したりが日常でしたから、そんな日々を送っていたのでしょう。
そして、もう黒澤監督の現場へ入る、という大胆不敵な企てのことは忘れよう、とした6月中旬の、夜でした。
私の部屋の電話が鳴りました。
「はい」と出ると、「ヘラルドの井関ですが」
「えっ、井関さん?」
「中山さんですか?」
「はい、そうですが、あの節は大変お世話になりました」
「その件でお電話しました。姫路城ロケからカメラを入れてください。スタッフは、中山さんとカメラマン、そしてアシスタント、3人にしてください」
「へっ? あのぅ、スポンサー、もういないんですけど」
「わかっています。7月1日、〇〇ホテルに来てください。手配しておきますから」
なにがあった?
kaidanyawa at 07:00|Permalink│Comments(5)│
2020年11月18日
ひぇ〜、記事が消えた!!!
中山市朗です。
たった今、3時間近くもかかって書いた、
黒澤明映画はこう作られた〜スピンオフ! 映画評論、レビューの難しさを知ろう Part2
の記事が、アップさせる寸前に、消えました。
あらら?
何もしていないのに、アップする寸前に……。
どこにも保存されていないし???
祟り? 呪い? 霊現象?
怪談とは全然関係ない記事やったんやけどな〜。
力尽きましたので、本日アップするのは諦めます。ほかにやることがありますし。
明日は、
を掲載する予定です。
波乱万丈の、Making of 乱!!
実話です。
もう、飲んで寝よ! (完全夜型人間)

たった今、3時間近くもかかって書いた、
黒澤明映画はこう作られた〜スピンオフ! 映画評論、レビューの難しさを知ろう Part2
の記事が、アップさせる寸前に、消えました。
あらら?
何もしていないのに、アップする寸前に……。
どこにも保存されていないし???
祟り? 呪い? 霊現象?
怪談とは全然関係ない記事やったんやけどな〜。
力尽きましたので、本日アップするのは諦めます。ほかにやることがありますし。
明日は、
黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵資料Making of 乱、誕生秘話! Part・6
を掲載する予定です。
波乱万丈の、Making of 乱!!
実話です。
もう、飲んで寝よ! (完全夜型人間)

kaidanyawa at 07:53|Permalink│Comments(3)│
2020年11月17日
黒澤明映画はこう作れた〜スピンオフ! 映画評論、レビューの難しさを知ろう!
中山市朗です。
NHK-bs1『黒澤明映画はこう作れた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵映像、Making of
乱、誕生秘話! Part・6
と行きたいところですが、ちょっとここで、以前から思っていたことを書きます。スピン・オフ・ブログと思って、読んでください。
今は、インターネットでの手軽な書き込みによって、誰もが評論家になれる時代になってしまいました。
映画についても、観たり、購入したりした映画の批評を誰でもできるし、SNSで拡散させることもできます。Amazonなどのレビューにも、自分の意見や感想、辛辣な批評も出来るわけです。
そのこと自体は、もうこういう時代ですから、否定のしようもありませんし、また、何をどう発言しても自由であることは、この国も認めているところであります。
しかし、プロの評論家と、一般人の評論は、その責任というところが大きく違うと言わざるを得ません。
表現の自由という言葉がありますが、自由という言葉の裏には責任が伴う、という意味があるはずです。私もプロの作家のしはくれとして、このことは肝に銘じております。責任が伴うからこそ、表現するにあたってはいろいろ調査し、いろいろな意見にもあたるわけです。特に私は、反対意見を参考にします。そうやって書いた原稿こそが、編集や校閲をパスして、原稿料を生じさせるわけです。
プロの作家や評論家が、あまりに無知蒙昧なことを言うと、評論家としての信頼、信用度は地に落ち、どこからも仕事がもらえなくなることだったあります。
一方、一般の方の評論、評価は、名前も素性もわからないことがほとんどで、責任も負いません。だから調べもせずに書き散らし、無知蒙昧な態度で製作者に対して失礼なことを言ったとしても、まあ、許されちゃうこともあります。
例えば、黒澤映画について「あんなものはつまらないし、映像も古い。評価できるものなど何もない」と、何かに書き込んだとしましょう。そのこと自体は自由です。本人は本当にそう思ったのでしょう。
『七人の侍』の何がいいのかさっぱりわからない。私にとって名画とは『第三の男』や『カサブランカ』『風と共に去りぬ』のことだ、というレビューを読んだこともあります。ま、それはいいんです。人それぞれに好みはあるし、価値観も違います。それは認めます。
ただ、こんなことがありました。
フランスの名監督で、フランソワ・トリュフォーという監督がいました。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手とされた監督の一人で、彼はもともとは『カイエ・デュ・シネマ』という映画評雑誌で辛辣な評論を仕掛けてくる映画評論家でした。
トリュフォーて、誰? ヌーヴェル・ヴァーグってなに? という人は映画を論じてもらいたくない。
印象派を知らずに、絵画を論じているのと同じです。
トリュフォー監督は、1984年に52歳で亡くなった名匠。ちょうど『乱』の撮影中で、製作の人が泣きながら「トリフォー監督、亡くなったよ」と現場に知らせに来て、みんな一瞬、えっ、となったのを覚えています。まだ若いのに!
あっ、『未知との遭遇』にフランス人の学者として出てましたよ。
この人!

その彼が、ある女性評論家がフェリーニ監督の『カサノバ』に0点を付けたことに激怒したことがありました。『カサノバ』は、ヴェニツィア生まれの好色男、ジャコモ・カサノヴァの波乱に満ちた人生を描いた作品でした。ドナルド・サザーランドが主人公を演じていましたが、確かに嫌悪を誘うキャラクターでしたし、なんだかまとまりがないという印象でした。
しかし、トリフォーは0点を付けた女性評論家に、抗議したのです。
「0点というのはさすがに無い。フェリーニ独自の感覚や美くしさなど評価するべきところはある。この映画を0点というのは、この人は映画をまったく知らないとしか思えない」
私もそう思います。確かに『カサノバ』はフェリーニの作品の中でも失敗作だと思います。女性からすると、カサノヴァの、女とみればベッドに誘い込むような生き方、その人生を嫌悪の対象とするであろうことも理解できます。しかし、フェリーニはあえてそのカサノヴァのそういった人生をテーマに選んだのには意図があるわけで、そこにあるのは、低俗な描写、庶民的なエログロを、フェリーニ独自の美の感性で表現したもので、一見、まとまりがないように思われる描写は、正直ストーリーより、その低俗的な美の映像、あるいはデカダンス的要素をスクリーンというキャンバスに大胆に描こうとしたためのものだと思うのです。そしてそれは、彼が尊敬するヴィスコンティ監督、彼は貴族的な洗礼された美が退廃していく世界を描くわけですが、その対照的な世界を描いたと理解するべきでしょう。
『カサノバ』の猥雑で下品で庶民的なカーニバルのイメージを元にした美の描写。

対してヴィスコンティの貴族的な洗礼された美の描写。しかしどこか退廃的でもある。
『ルードウィッヒ』の戴冠式の場面。

フェリーニとヴィスコンティ、この二人のほぼ同時期に活躍したイタリア映画の巨匠でした。フェリーニは自分とは対照的なヴィスコンティの美の表現との対局の美を、カサノヴァという人物を通して、カリカチュアライズしたものだと解釈されるものです。そしてどちらも、イタリアの美だったのです。
すると、これが0点ということは、あり得ない、と私も思うのです。
0点ということは、こういう意図や美的感覚、演出などの一切をまったく評価しないということになる。しかし、そうなると、芸術そのものの知識や分析力が、この女性評論家に備わっているのか、という疑問がわいてきますよね。トリフォーが怒ったのはここだと思うのです。
要は「お前、映画のことも芸術のこともわかっとらんのやろ。0点て、どこ見とるんや。そんな了見なら、評論家、辞めてまえや」と言いたかったのでしょう。少なくとも『カサノバ』は、アカデミー衣装デザイン賞を獲得していますから、この女性評論家は、アカデミー賞に投票した人たちの美的感覚をも否定する行為をしていることになるわけです。0点、ですからな。
一般の人が、なんの予備知識も無しに、いきなりフェリーニの『カサノバ』を見ると、そのゴテゴテとした下品な美的感覚についていけず、また、主人公を演じるドナルド・サザーランドを好印象で観る人も少ないでしょうから、まあ、0点と、レビューに採点することも考えられましょう。でも、モノの解る人、映画について少々専門的な見地で評論する人にとって、そのような評価は、ド素人の下した、理解力の無い意見として捉えられてしまうことでしょう。
正直、的外れの批評が作家や芸術家の野心や才能を傷つけ、汚し、貶めている部分があるかと思います。もちろん、昔も作家と批評家は対立し、罵り合ったこともありました。しかしそれは、相手を認知し、あえて批判したことが多かったのです。闘う手段がありました。
的外れの批評というと、たとえば、ドナルド・サザーランドをなぜ使った。誰誰を使ったらもっといい作品になっていたのに、なんて書かれても、作り手としては、辛いわけです。

『カサノバ』に関しては、実は米国資本が入った、米国資本とイタリア映画との共作で、サザーランドの起用は、米国の出資者からの注文だったようです。契約、出資、権利等々、映画には様々な条件が付き、その範囲内で作ることが求められます。ビジネスですからね。ですから、映画を知らない一般人の言うことなど、プロは解っているんです。でも、そうしなきゃならない事情がある。そこを汲んで、なおかつ、苦言を呈したり、辛辣な論評をするのが、プロの評論家、のはずです。そして、評価する処はちゃんと評価する。これはその評論家の美的センスや物事の分析力、知識が問われるところです。
中にいますよね。世間は認めていても、私は認めない、という人。
でも裏を返せば、世間が認めているものが、私にはわからない、アホです、と、公言していることになるわけです。そこを本人は気づいていないだけ。もちろん、認めないもあっていいわけで、その場合は、そこに確たるロジックがあるはずです。そこを提示しなければなりません。
ちょっとこの話、長くなります。次回この続きを書いて、19日の木曜日に、NHK-bs1『黒澤明映画はこう作れた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵映像、Making of 乱、誕生秘話! Part・6
をお送りします。
またまたどんでん返しが!?
NHK-bs1『黒澤明映画はこう作れた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵映像、Making of
乱、誕生秘話! Part・6
と行きたいところですが、ちょっとここで、以前から思っていたことを書きます。スピン・オフ・ブログと思って、読んでください。
今は、インターネットでの手軽な書き込みによって、誰もが評論家になれる時代になってしまいました。
映画についても、観たり、購入したりした映画の批評を誰でもできるし、SNSで拡散させることもできます。Amazonなどのレビューにも、自分の意見や感想、辛辣な批評も出来るわけです。
そのこと自体は、もうこういう時代ですから、否定のしようもありませんし、また、何をどう発言しても自由であることは、この国も認めているところであります。
しかし、プロの評論家と、一般人の評論は、その責任というところが大きく違うと言わざるを得ません。
表現の自由という言葉がありますが、自由という言葉の裏には責任が伴う、という意味があるはずです。私もプロの作家のしはくれとして、このことは肝に銘じております。責任が伴うからこそ、表現するにあたってはいろいろ調査し、いろいろな意見にもあたるわけです。特に私は、反対意見を参考にします。そうやって書いた原稿こそが、編集や校閲をパスして、原稿料を生じさせるわけです。
プロの作家や評論家が、あまりに無知蒙昧なことを言うと、評論家としての信頼、信用度は地に落ち、どこからも仕事がもらえなくなることだったあります。
一方、一般の方の評論、評価は、名前も素性もわからないことがほとんどで、責任も負いません。だから調べもせずに書き散らし、無知蒙昧な態度で製作者に対して失礼なことを言ったとしても、まあ、許されちゃうこともあります。
例えば、黒澤映画について「あんなものはつまらないし、映像も古い。評価できるものなど何もない」と、何かに書き込んだとしましょう。そのこと自体は自由です。本人は本当にそう思ったのでしょう。
『七人の侍』の何がいいのかさっぱりわからない。私にとって名画とは『第三の男』や『カサブランカ』『風と共に去りぬ』のことだ、というレビューを読んだこともあります。ま、それはいいんです。人それぞれに好みはあるし、価値観も違います。それは認めます。
ただ、こんなことがありました。
フランスの名監督で、フランソワ・トリュフォーという監督がいました。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手とされた監督の一人で、彼はもともとは『カイエ・デュ・シネマ』という映画評雑誌で辛辣な評論を仕掛けてくる映画評論家でした。
トリュフォーて、誰? ヌーヴェル・ヴァーグってなに? という人は映画を論じてもらいたくない。
印象派を知らずに、絵画を論じているのと同じです。
トリュフォー監督は、1984年に52歳で亡くなった名匠。ちょうど『乱』の撮影中で、製作の人が泣きながら「トリフォー監督、亡くなったよ」と現場に知らせに来て、みんな一瞬、えっ、となったのを覚えています。まだ若いのに!
あっ、『未知との遭遇』にフランス人の学者として出てましたよ。
この人!

その彼が、ある女性評論家がフェリーニ監督の『カサノバ』に0点を付けたことに激怒したことがありました。『カサノバ』は、ヴェニツィア生まれの好色男、ジャコモ・カサノヴァの波乱に満ちた人生を描いた作品でした。ドナルド・サザーランドが主人公を演じていましたが、確かに嫌悪を誘うキャラクターでしたし、なんだかまとまりがないという印象でした。
しかし、トリフォーは0点を付けた女性評論家に、抗議したのです。
「0点というのはさすがに無い。フェリーニ独自の感覚や美くしさなど評価するべきところはある。この映画を0点というのは、この人は映画をまったく知らないとしか思えない」
私もそう思います。確かに『カサノバ』はフェリーニの作品の中でも失敗作だと思います。女性からすると、カサノヴァの、女とみればベッドに誘い込むような生き方、その人生を嫌悪の対象とするであろうことも理解できます。しかし、フェリーニはあえてそのカサノヴァのそういった人生をテーマに選んだのには意図があるわけで、そこにあるのは、低俗な描写、庶民的なエログロを、フェリーニ独自の美の感性で表現したもので、一見、まとまりがないように思われる描写は、正直ストーリーより、その低俗的な美の映像、あるいはデカダンス的要素をスクリーンというキャンバスに大胆に描こうとしたためのものだと思うのです。そしてそれは、彼が尊敬するヴィスコンティ監督、彼は貴族的な洗礼された美が退廃していく世界を描くわけですが、その対照的な世界を描いたと理解するべきでしょう。
『カサノバ』の猥雑で下品で庶民的なカーニバルのイメージを元にした美の描写。

対してヴィスコンティの貴族的な洗礼された美の描写。しかしどこか退廃的でもある。
『ルードウィッヒ』の戴冠式の場面。

フェリーニとヴィスコンティ、この二人のほぼ同時期に活躍したイタリア映画の巨匠でした。フェリーニは自分とは対照的なヴィスコンティの美の表現との対局の美を、カサノヴァという人物を通して、カリカチュアライズしたものだと解釈されるものです。そしてどちらも、イタリアの美だったのです。
すると、これが0点ということは、あり得ない、と私も思うのです。
0点ということは、こういう意図や美的感覚、演出などの一切をまったく評価しないということになる。しかし、そうなると、芸術そのものの知識や分析力が、この女性評論家に備わっているのか、という疑問がわいてきますよね。トリフォーが怒ったのはここだと思うのです。
要は「お前、映画のことも芸術のこともわかっとらんのやろ。0点て、どこ見とるんや。そんな了見なら、評論家、辞めてまえや」と言いたかったのでしょう。少なくとも『カサノバ』は、アカデミー衣装デザイン賞を獲得していますから、この女性評論家は、アカデミー賞に投票した人たちの美的感覚をも否定する行為をしていることになるわけです。0点、ですからな。
一般の人が、なんの予備知識も無しに、いきなりフェリーニの『カサノバ』を見ると、そのゴテゴテとした下品な美的感覚についていけず、また、主人公を演じるドナルド・サザーランドを好印象で観る人も少ないでしょうから、まあ、0点と、レビューに採点することも考えられましょう。でも、モノの解る人、映画について少々専門的な見地で評論する人にとって、そのような評価は、ド素人の下した、理解力の無い意見として捉えられてしまうことでしょう。
正直、的外れの批評が作家や芸術家の野心や才能を傷つけ、汚し、貶めている部分があるかと思います。もちろん、昔も作家と批評家は対立し、罵り合ったこともありました。しかしそれは、相手を認知し、あえて批判したことが多かったのです。闘う手段がありました。
的外れの批評というと、たとえば、ドナルド・サザーランドをなぜ使った。誰誰を使ったらもっといい作品になっていたのに、なんて書かれても、作り手としては、辛いわけです。

『カサノバ』に関しては、実は米国資本が入った、米国資本とイタリア映画との共作で、サザーランドの起用は、米国の出資者からの注文だったようです。契約、出資、権利等々、映画には様々な条件が付き、その範囲内で作ることが求められます。ビジネスですからね。ですから、映画を知らない一般人の言うことなど、プロは解っているんです。でも、そうしなきゃならない事情がある。そこを汲んで、なおかつ、苦言を呈したり、辛辣な論評をするのが、プロの評論家、のはずです。そして、評価する処はちゃんと評価する。これはその評論家の美的センスや物事の分析力、知識が問われるところです。
中にいますよね。世間は認めていても、私は認めない、という人。
でも裏を返せば、世間が認めているものが、私にはわからない、アホです、と、公言していることになるわけです。そこを本人は気づいていないだけ。もちろん、認めないもあっていいわけで、その場合は、そこに確たるロジックがあるはずです。そこを提示しなければなりません。
ちょっとこの話、長くなります。次回この続きを書いて、19日の木曜日に、NHK-bs1『黒澤明映画はこう作れた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵映像、Making of 乱、誕生秘話! Part・6
をお送りします。
またまたどんでん返しが!?
kaidanyawa at 07:00|Permalink│Comments(1)│
2020年11月16日
黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵資料Making of 乱、誕生秘話! Part・5
中山市朗です。
NHK-BS1放送『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵資料Making
of 乱、誕生秘話! Part・5
キャスティング記者発表会。
1984年4月25日、黒沢フィルム・スタジオにおける「『乱』キャスティング記者発表会。
単に、監督や主演の役者がテーブルに座って、記者の質問に答えたり、やりとりする、というものではなく、スタジオの中は、さながら黒澤戦国時代劇の世界。
300人を超える報道陣の前で、黒澤監督が役名を呼ぶと、衣装、メイク、髪結で役になり切った俳優が、その立ち振る舞いをステージで見せると、次の役名が告げられる、という、さながら、戦国ファッション・ショー。マーラーの交響曲第1番の3楽章が流れておりました。
スクリーンでしか見たことが無かった、黒澤時代劇が、黒澤監督の元、目の前にライブとして展開しているわけです。こんなん、滅多に見れるもんやない。
その役者も、仲代達矢をはじめ、寺尾聡、根津甚八、隆大介、原田美枝子、宮崎美子、野村萬斎、井川比佐志、植木等、そして、黒澤監督が名前を呼んだ。
「狂阿弥、ピーター!」
ピーターは、戦国大名に仕える道化という役柄。威風堂々としたこれまでのキャラクターとは違って、軽やかでちょっと小走りの足取りで登場。舞台中央に来ると、監督から、
「狂阿弥、なんか踊ってみせろ」
一瞬驚いて見せると、パッと持っていた扇を手に取ると、

「家もとらしょう 田もとらしょう 村の長者は、よいお人、末は田んぼの〜案山子殿」
と、おどけた踊りを見せると、
黒澤監督は、不機嫌気味に「狂阿弥!」
すると狂阿弥はぺろっと舌を出すと、そそくさと舞台裏へと逃げる。
この時撮った映像、私持っているんだけど、ベータなんですよね。再生できない。
あっ、そうだ。
余談ですが、私は以前、狂言師の茂山あきら氏と対談をやったことがありまして、テーマが「室町時代のわらべ歌、謡曲」だったんですよ。戦国時代のわらべ歌って、なに?
こんなん、何を私が質問したり、答えたりすんねん、という状況ですけど、あきら氏が謡レクチャーといって、実際に歌ったり演じてくれたんです。そしたら、『乱』でピーターが歌ったり踊っていたモノと同じものだったんです。それは、室町時代に狂言で一番短い、小舞といって狂言の中で謡いに合わせて舞ったもので、歌詞も実際にあったモノだったとわかった。能では仕舞というらしい。で、小舞とは、今でいうナゾナゾなんです。茂山氏に「その歌、黒澤監督の『乱』でピーターが歌って舞ってました」と指摘すると「時代背景は? あっ、結局中世の……、その時代です」と茂山さん。
「家もとらしょう 田もとらしょう 村の長者は、よいお人、末は田んぼの案山子殿」
これもナゾナゾですね。『乱』は仲代達矢演じる、秀虎という戦国に名をはせた武将が、長男に家督を譲ったところから始まる悲劇、何もかも秀虎は失う、無明の世界が描かれるのですが、それを暗示する小舞なんですね。茂山あきら氏とは、このことから興味深い対談をすることができました。
黒澤明という人は、出てくるもの全てをリサーチして発掘してくるわけで、フィクションだからこそ、細部は本物にこだわって作っていくのです。役者の着る衣装や小道具だってそう。
いい映画を見ておくと、ほんとに勉強になりますから。ただし、ぼーっと見とったんでは、そういうものはスルーしてしまいますけど。
とまあ、すべて演出。黒澤ワールド。
また、この作品でアカデミー衣装デザイン賞をとることになる、ワダ・エミさんがデザインした衣装や鎧、兜、小道具なども展示され、鎧武者もずらりと並んでおります。
私が連れて来たカメラマンは、適格にそれらの動きを察知し、どんどん被写体に近づいて、井関さんや周りの人間をハラハラさせております。
「あんまり近づくと、ショウの邪魔になるし、監督に怒られちゃうますよ」と、周りは止めようとするんだけど、カメラマンはぐいぐい行く。私も、最初は好意で撮らせてもらっている、という事情をしっているので、カメラマンに「それ以上は」と袖を引いて止めようとしたんだけども、無視して行っちゃうんです。
このカメラマンは、前々回かに書いたドキュメンタリー監督から推薦してもらった人。だから一流なんです。あとでこのカメラマンに叱られた。
「いいショットを撮るのが僕の仕事なんだから、止めちゃダメだよ」
いい勉強になりました。ぐいぐい被写体に近づくから、見る側としたら迫力のある映像を見ることができるわけです。クローズ・アップというのは、映像の世界にしかないモノです。あの距離は恋人でもなければ、ありえませんわな。つまり、クローズ・アップとはある意味ファンタジーです。あるいは、アオリを使って、映像ならではのアングル、チョイスを切り取ることができるわけです。
それを撮る、作るのがプロの仕事だと。それがお金を取れる作品の素材になるんだと。
プロになるなら、プロと仕事しろ、とは大学時代に教えられたことですが、まさにそうだと実感。
さて、ショウの後は、黒澤監督を報道や記者陣が取り囲んでの質問タイムとなりましたが、25歳の私でさえ、「なに言うてんねん」みたいな質問ばかりだったのを覚えています。
質問「今回は原田美枝子、宮崎美子といった女優が出るわけですが、女性を描くのが苦手とされている監督は、この二人にどういった演出を……」
監督「僕だって、ちゃんと女性を描いてるよ」

質問「さっき流れていた曲は、こんどの映画に使う曲ですか?」
監督「……さっきの曲は、マーラーだけど」
質問「『乱』はシェイクスピアの『リア王』ですよね
監督「違うよ。似たところはありますけど。まだ観てないでしょ?」
質問「今回、3億円使ってお城を作って燃やすそうですけど、もったいないと思いませんか?」
監督「燃やすから作るんだよ。姫路城を燃やすわけにはいかないでしょ」
質問「今回の映画は製作費30億円だそうですが」
監督「ほかに聞くことないの?」
さて、キャスティング記者発表会が終わると、東京のドキュメンタリー監督の事務所に、その監督、カメラマン、私、専務の4人で集まって、お互い泣いたんです。
超一流のモノを今日見せてもらった。とんでもないものを見た、というのは4人の一致した感想。
しかし、資金面では撤退。要は、もうこの黒澤監督の『乱』には関われない。けど、一瞬でも関わられることができた。凄いことじゃないか、と。
「中山君もやることはやった。今の若いモンは(この言葉はいつの時代にも言われるものですけど)ダメだと思っていた。けど、日本映画初のMakingを作るだなんて、その発想力と行動力は、僕にも希望を与えてくれたよ」
ベトナム戦争の戦場の戦火の中を潜り抜けたドキュメンタリー監督はそういって、私の手を握ってくれた。専務も泣いていた。
しかし、それももう終わり。明日は専務は大阪へ帰って、弁当屋さんの会社の専務に戻る。
私は……、なんかこのまま帰れないじゃないですか。
翌日、ふらっと黒澤エンタープライゼスに行ったら、川村プロデューサーが相手をして私の話を聞いてくれました。
「スポンサーが降りたのなら仕方ないよ。もう大阪へ帰りなさい」
そう言われました。
そやな。諦めるしかないかあ。
続く
NHK-BS1放送『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』秘蔵資料Making
of 乱、誕生秘話! Part・5
キャスティング記者発表会。
1984年4月25日、黒沢フィルム・スタジオにおける「『乱』キャスティング記者発表会。
単に、監督や主演の役者がテーブルに座って、記者の質問に答えたり、やりとりする、というものではなく、スタジオの中は、さながら黒澤戦国時代劇の世界。
300人を超える報道陣の前で、黒澤監督が役名を呼ぶと、衣装、メイク、髪結で役になり切った俳優が、その立ち振る舞いをステージで見せると、次の役名が告げられる、という、さながら、戦国ファッション・ショー。マーラーの交響曲第1番の3楽章が流れておりました。
スクリーンでしか見たことが無かった、黒澤時代劇が、黒澤監督の元、目の前にライブとして展開しているわけです。こんなん、滅多に見れるもんやない。
その役者も、仲代達矢をはじめ、寺尾聡、根津甚八、隆大介、原田美枝子、宮崎美子、野村萬斎、井川比佐志、植木等、そして、黒澤監督が名前を呼んだ。
「狂阿弥、ピーター!」
ピーターは、戦国大名に仕える道化という役柄。威風堂々としたこれまでのキャラクターとは違って、軽やかでちょっと小走りの足取りで登場。舞台中央に来ると、監督から、
「狂阿弥、なんか踊ってみせろ」
一瞬驚いて見せると、パッと持っていた扇を手に取ると、

「家もとらしょう 田もとらしょう 村の長者は、よいお人、末は田んぼの〜案山子殿」
と、おどけた踊りを見せると、
黒澤監督は、不機嫌気味に「狂阿弥!」
すると狂阿弥はぺろっと舌を出すと、そそくさと舞台裏へと逃げる。
この時撮った映像、私持っているんだけど、ベータなんですよね。再生できない。
あっ、そうだ。
余談ですが、私は以前、狂言師の茂山あきら氏と対談をやったことがありまして、テーマが「室町時代のわらべ歌、謡曲」だったんですよ。戦国時代のわらべ歌って、なに?
こんなん、何を私が質問したり、答えたりすんねん、という状況ですけど、あきら氏が謡レクチャーといって、実際に歌ったり演じてくれたんです。そしたら、『乱』でピーターが歌ったり踊っていたモノと同じものだったんです。それは、室町時代に狂言で一番短い、小舞といって狂言の中で謡いに合わせて舞ったもので、歌詞も実際にあったモノだったとわかった。能では仕舞というらしい。で、小舞とは、今でいうナゾナゾなんです。茂山氏に「その歌、黒澤監督の『乱』でピーターが歌って舞ってました」と指摘すると「時代背景は? あっ、結局中世の……、その時代です」と茂山さん。
「家もとらしょう 田もとらしょう 村の長者は、よいお人、末は田んぼの案山子殿」
これもナゾナゾですね。『乱』は仲代達矢演じる、秀虎という戦国に名をはせた武将が、長男に家督を譲ったところから始まる悲劇、何もかも秀虎は失う、無明の世界が描かれるのですが、それを暗示する小舞なんですね。茂山あきら氏とは、このことから興味深い対談をすることができました。
黒澤明という人は、出てくるもの全てをリサーチして発掘してくるわけで、フィクションだからこそ、細部は本物にこだわって作っていくのです。役者の着る衣装や小道具だってそう。
いい映画を見ておくと、ほんとに勉強になりますから。ただし、ぼーっと見とったんでは、そういうものはスルーしてしまいますけど。
とまあ、すべて演出。黒澤ワールド。
また、この作品でアカデミー衣装デザイン賞をとることになる、ワダ・エミさんがデザインした衣装や鎧、兜、小道具なども展示され、鎧武者もずらりと並んでおります。
私が連れて来たカメラマンは、適格にそれらの動きを察知し、どんどん被写体に近づいて、井関さんや周りの人間をハラハラさせております。
「あんまり近づくと、ショウの邪魔になるし、監督に怒られちゃうますよ」と、周りは止めようとするんだけど、カメラマンはぐいぐい行く。私も、最初は好意で撮らせてもらっている、という事情をしっているので、カメラマンに「それ以上は」と袖を引いて止めようとしたんだけども、無視して行っちゃうんです。
このカメラマンは、前々回かに書いたドキュメンタリー監督から推薦してもらった人。だから一流なんです。あとでこのカメラマンに叱られた。
「いいショットを撮るのが僕の仕事なんだから、止めちゃダメだよ」
いい勉強になりました。ぐいぐい被写体に近づくから、見る側としたら迫力のある映像を見ることができるわけです。クローズ・アップというのは、映像の世界にしかないモノです。あの距離は恋人でもなければ、ありえませんわな。つまり、クローズ・アップとはある意味ファンタジーです。あるいは、アオリを使って、映像ならではのアングル、チョイスを切り取ることができるわけです。
それを撮る、作るのがプロの仕事だと。それがお金を取れる作品の素材になるんだと。
プロになるなら、プロと仕事しろ、とは大学時代に教えられたことですが、まさにそうだと実感。
さて、ショウの後は、黒澤監督を報道や記者陣が取り囲んでの質問タイムとなりましたが、25歳の私でさえ、「なに言うてんねん」みたいな質問ばかりだったのを覚えています。
質問「今回は原田美枝子、宮崎美子といった女優が出るわけですが、女性を描くのが苦手とされている監督は、この二人にどういった演出を……」
監督「僕だって、ちゃんと女性を描いてるよ」

質問「さっき流れていた曲は、こんどの映画に使う曲ですか?」
監督「……さっきの曲は、マーラーだけど」
質問「『乱』はシェイクスピアの『リア王』ですよね
監督「違うよ。似たところはありますけど。まだ観てないでしょ?」
質問「今回、3億円使ってお城を作って燃やすそうですけど、もったいないと思いませんか?」
監督「燃やすから作るんだよ。姫路城を燃やすわけにはいかないでしょ」
質問「今回の映画は製作費30億円だそうですが」
監督「ほかに聞くことないの?」
さて、キャスティング記者発表会が終わると、東京のドキュメンタリー監督の事務所に、その監督、カメラマン、私、専務の4人で集まって、お互い泣いたんです。
超一流のモノを今日見せてもらった。とんでもないものを見た、というのは4人の一致した感想。
しかし、資金面では撤退。要は、もうこの黒澤監督の『乱』には関われない。けど、一瞬でも関わられることができた。凄いことじゃないか、と。
「中山君もやることはやった。今の若いモンは(この言葉はいつの時代にも言われるものですけど)ダメだと思っていた。けど、日本映画初のMakingを作るだなんて、その発想力と行動力は、僕にも希望を与えてくれたよ」
ベトナム戦争の戦場の戦火の中を潜り抜けたドキュメンタリー監督はそういって、私の手を握ってくれた。専務も泣いていた。
しかし、それももう終わり。明日は専務は大阪へ帰って、弁当屋さんの会社の専務に戻る。
私は……、なんかこのまま帰れないじゃないですか。
翌日、ふらっと黒澤エンタープライゼスに行ったら、川村プロデューサーが相手をして私の話を聞いてくれました。
「スポンサーが降りたのなら仕方ないよ。もう大阪へ帰りなさい」
そう言われました。
そやな。諦めるしかないかあ。
続く
kaidanyawa at 04:11|Permalink│Comments(4)│
2020年11月14日
中山市朗・怪談CD『市朗怪全集』一、二、本日よりamazonより発売!!
中山市朗です。
本日は、秘蔵資料Making of 乱、誕生秘話は休載。
怪談関係の記事を期待されている方たちからは総すかん。でも一部の人たちからは物凄い評価をいただいております。よければ、こんなおもろい記事があるよと、拡散してください。
Part5は、16日月曜日の朝7:00頃にアップする予定です。読んでさえいただければ。
さて、本日は告知となります。
パンローリング発売の怪談CD、『市朗怪全集二』が、本日発売されました。
また『市朗怪全集一』とともに、Amazonでも発売されました。
プチッと押していただくと、Amazonへ飛びます、飛びます!
〇サユリ
〇旅の途中
〇コンピュータ怪談
〇15日に行きます
〇大阿闍梨
〇阿闍梨のお札
第二集は、「くだん」の特集を語ってみました。
『新耳袋』の第一夜に登場し、話題になった半身牛、半身女という「件」という怪物。
この話はどこまでが真実でどこまでが噂や都市伝説なのかよくわからないわけですが、こういった混とんとした噂や体験談らしきものが語られても怪談になっていく、というのも、立派な怪談でしょう。これは、実話系怪談という言葉もない時代、昭和やそれ以前に流布した怪談とはそういうものでした。
数十年前、西宮市内の中学校の教師が甲山で目撃した、牛の顔をした女からはじまり、戦後、芦屋、西宮、あるいは六甲山付近に噂された牛女、それにリンクする小松左京氏の小説「くだんのはは」。
また、阪神大震災時に目撃された「牛」や、『怪談狩り』に収録した牛に関する怪異3話も。
聞き終わると、奇妙な夢に侵されるかも・
また、2枚目はテーマに縛られず、自由に怪談を語ってみました。
〇くだんに関する3つの話
〇六甲のうしおんな
〇異常なし、ただし牛
〇邪鬼の正体
〇くだん
〇牛の首
〇笑っていやがった
〇深夜の訪問者
〇キッチンの修繕
〇狐狸妖怪はいる
〇顔半分
〇突風
来月は第3弾発売予定。
本日は、秘蔵資料Making of 乱、誕生秘話は休載。
怪談関係の記事を期待されている方たちからは総すかん。でも一部の人たちからは物凄い評価をいただいております。よければ、こんなおもろい記事があるよと、拡散してください。
Part5は、16日月曜日の朝7:00頃にアップする予定です。読んでさえいただければ。
さて、本日は告知となります。
パンローリング発売の怪談CD、『市朗怪全集二』が、本日発売されました。
また『市朗怪全集一』とともに、Amazonでも発売されました。
プチッと押していただくと、Amazonへ飛びます、飛びます!
〇サユリ
〇旅の途中
〇コンピュータ怪談
〇15日に行きます
〇大阿闍梨
〇阿闍梨のお札
第二集は、「くだん」の特集を語ってみました。
『新耳袋』の第一夜に登場し、話題になった半身牛、半身女という「件」という怪物。
この話はどこまでが真実でどこまでが噂や都市伝説なのかよくわからないわけですが、こういった混とんとした噂や体験談らしきものが語られても怪談になっていく、というのも、立派な怪談でしょう。これは、実話系怪談という言葉もない時代、昭和やそれ以前に流布した怪談とはそういうものでした。
数十年前、西宮市内の中学校の教師が甲山で目撃した、牛の顔をした女からはじまり、戦後、芦屋、西宮、あるいは六甲山付近に噂された牛女、それにリンクする小松左京氏の小説「くだんのはは」。
また、阪神大震災時に目撃された「牛」や、『怪談狩り』に収録した牛に関する怪異3話も。
聞き終わると、奇妙な夢に侵されるかも・
また、2枚目はテーマに縛られず、自由に怪談を語ってみました。
〇くだんに関する3つの話
〇六甲のうしおんな
〇異常なし、ただし牛
〇邪鬼の正体
〇くだん
〇牛の首
〇笑っていやがった
〇深夜の訪問者
〇キッチンの修繕
〇狐狸妖怪はいる
〇顔半分
〇突風
来月は第3弾発売予定。
kaidanyawa at 07:11|Permalink│Comments(8)│
2020年11月13日
HK-BS1放送『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』 秘蔵資料Makingof乱、誕生秘話! Part・4
中山市朗です。
HK-BS1放送『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
秘蔵資料Makingof乱、誕生秘話! Part・4
25歳の若者が、本映画界初のプロジェクトを黒澤明に提案! 波乱万丈の実話!!
昨夜、NHK-BS1で再放送。
『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
その秘蔵資料の一つである、黒澤明監督作品『乱』のMaking映像の誕生秘話。
今は当たり前に撮られて、DVDやブルーレイの特典映像、特番、パブリシティとして使用される映画のMaking。日本映画初の本格的Makingプロジェクトは、ここから始まる!
『乱』の撮影現場をほぼ毎日撮り続けた証が、番組内に紹介された、この4分の3ビデオテープにあるのです。

Part1〜3のブログ。
Part1
Part2
Part3
1984年春。
『乱』の出資と配給会社であるヘラルドエースと黒澤明監督のマネージメントをする黒澤エンタープライゼスからmakingプロジェクトに対する許可が出て、協力体制を構築し、いよいよ黒澤フィルム・スタジオでキャスティング記者発表会が行われることに。
私も、これに合わせてスタッフ編成を行い、makingの第一歩となる撮影の準備万端。
いよいよ、あこがれの黒澤明監督とそのスタッフ、出演者たちに遭える、いや、一緒に仕事ができる!
映画マニアの私としては、世界でも最高の水準にある映画人たちと仕事ができるという、これはもう凄いことです。
日本映画最高の技術と実績を持ったスタッフとキャスト、それに『ゴジラ』などの監督、本多猪四郎氏が監督補佐として就任。ルイス・ブニュエルの作品やチャールズ・ブロンソンの『さらば友よ』『雨の訪問者』などを製作したフランス、ゴーモン社のプロデューサー、セルジュ・シルベルマンといった、世界に名をはせた映画人たちが関わる大作です。
いきなりそんな人たちのいる現場に行ける!
信じることを一途に貫けば、不可能なんて無いんだ、なんて、そら思ってしまいますわな。
ところが、キャスティング発表会の直前となって、出資を約束してくれていた専務から、会社に来てくれと連絡が。行ってみると、専務が私の手を握りしめたかと思うと、泣き出した。
HK-BS1放送『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
秘蔵資料Makingof乱、誕生秘話! Part・4
25歳の若者が、本映画界初のプロジェクトを黒澤明に提案! 波乱万丈の実話!!
昨夜、NHK-BS1で再放送。
『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
その秘蔵資料の一つである、黒澤明監督作品『乱』のMaking映像の誕生秘話。
今は当たり前に撮られて、DVDやブルーレイの特典映像、特番、パブリシティとして使用される映画のMaking。日本映画初の本格的Makingプロジェクトは、ここから始まる!
『乱』の撮影現場をほぼ毎日撮り続けた証が、番組内に紹介された、この4分の3ビデオテープにあるのです。

Part1〜3のブログ。
Part1
Part2
NHK・BS1『黒澤明の映画はこう作られた』 黒澤明監督『乱 ..
Part3
NHK・BS1『黒澤明の映画はこう作られた』 黒澤明監督『乱 .
1984年春。
『乱』の出資と配給会社であるヘラルドエースと黒澤明監督のマネージメントをする黒澤エンタープライゼスからmakingプロジェクトに対する許可が出て、協力体制を構築し、いよいよ黒澤フィルム・スタジオでキャスティング記者発表会が行われることに。
私も、これに合わせてスタッフ編成を行い、makingの第一歩となる撮影の準備万端。
いよいよ、あこがれの黒澤明監督とそのスタッフ、出演者たちに遭える、いや、一緒に仕事ができる!
映画マニアの私としては、世界でも最高の水準にある映画人たちと仕事ができるという、これはもう凄いことです。
日本映画最高の技術と実績を持ったスタッフとキャスト、それに『ゴジラ』などの監督、本多猪四郎氏が監督補佐として就任。ルイス・ブニュエルの作品やチャールズ・ブロンソンの『さらば友よ』『雨の訪問者』などを製作したフランス、ゴーモン社のプロデューサー、セルジュ・シルベルマンといった、世界に名をはせた映画人たちが関わる大作です。
いきなりそんな人たちのいる現場に行ける!
信じることを一途に貫けば、不可能なんて無いんだ、なんて、そら思ってしまいますわな。
ところが、キャスティング発表会の直前となって、出資を約束してくれていた専務から、会社に来てくれと連絡が。行ってみると、専務が私の手を握りしめたかと思うと、泣き出した。
「中山君。すまない。出資は出来ない。約束が果たせなくて、本当に申し訳ない……」
「え、どういうことですか?」
私は固まりました。
この件、会社として否決されたというのです。
こういうことでした。
関西一円のお弁当屋のチェーンを展開するのが、この会社の母体。
専務は社長の実子に当たり、新しく映像部門の立ち上げを目論んだのですが。
専務は言います。
「黒澤エンタープライゼスでは、製作費は7とか8000万必要と言われた。それは覚悟はしていたし、なんとか僕の夢でもある新事業展開の為にも、これは実現したかった。でも、この8000万円というお金は、少なくとも1年は寝ることになる。
※1年寝る、というのは、8000万円の出資をしたら、1年間は利益がでないということ。撮影に1年かかり、編集、調整、パッケージ化され、またテレビなどで特番として放送されるのは映画が公開した後のこと。それまでは権利金、放映料、ソフトの売り上げは望めないということなのです。
専務は泣きながら言うわけです。
「本部の人間に言われた。お店ではおばちゃんが、のり弁300円とか、とんかつ弁当450円、なんて言いながら、その日の売り上げを出している。なのに、何千万円というお金が1年以上寝るという事態は会社として、そのおばちゃんたちに忍びない、と。中山君にはこんな話、情けないと思うだろうけど、この会社で食っている人間には、そんなリスクは犯せない、と……」
なんだか私も涙が出て来た。まあ、会社の事情は私にはわからないけど、大人の世界というものが解ったような気もしました。私は就職活動も一切しなかった、いわば現実離れをした考え方、生き方を選んでいましたから。
「約束が違う。出資してやるから行ってこい、と言うたやないですか。しかもここまで全部、僕の自腹ですよ」とは、言えません。まあ、私の夢に、専務たちは賭けて、ここまで来たわけです。こんなまだ何の実績も無い24歳の若造に、専務は賭けていてくれていたのです。それだけでも、ありがたい話ではありませんか。
私も泣きながら「そうですか。残念ですが仕方ありません。ここまでありがとうございました」
そう言って頭を下げた。今はそれしかできない。そう思ったんです。そして部屋を出ようとした。すると専務。
「ここまで来たんだ。キャスティング記者発表会は撮ろう。井関さんから許可ももらっているし。黒澤監督に会いに行こう。もちろんその経費はうちが持つ。そのくらいのことはさせてくれ」
1984年4月25日(水)
横浜市緑区の黒澤フィルム・スタジオ。
このスタジオは、黒澤監督の長男、久雄氏が「おやじに芸術面に専念してもらいたい。それも新しいホームグラウンドで」と、昭和57年に設立したもの。
専務や私が集めたスタッフたちを乗せた車が、スタジオに近づいて行く。と、そこに異様な光景が!
スタジオの屋上に何十本という幟旗がはためいているのです。
『隠し砦の三悪人』や『蜘蛛巣城』『影武者』で観た、戦国の武将たちが使った軍旗、旗印です。なんだかもう、黒澤時代劇ワールドが展開しております。
黒澤時代劇の旗。


玄関口には、鎧武者姿の男たちが立っていて、もう、黒澤映画は始まっていた!!
昭和59年(1984)4月26日付け『報知新聞』にはこう報じられ問います。
「黒沢明監督が六月一日から撮影を開始する時代劇大作『乱』(東宝・ヘラルド共同配給)のキャスティング発表会が二十五日、横浜緑区の黒沢フィルム・スタジオで盛大に行われた。戦国大名の仲代達矢、寺尾聡、根津甚八、道化のピーター、姫君役の原田美枝子らは、重厚な衣装をつけ、緊張した表情。八年前から制作を準備していた黒沢監督はエネルギーをたっぷりたくわえての登場だ。今回は、製作費二十五億四千万円を投入するため、日本映画では初めてかけ金一億円、総額三十億円の製作保険がかけられる」

普通は、キャスティング発表となると、出演者と監督が、単に記者たちとなごやかに質問されたり答えたり、ということになるのですが、そこは黒澤映画。
いわば、役者たちが戦国の衣装とメーキャップで役になり切り、その立ち振る舞いを黒澤監督の演出で記者たちの前で披露するというもの。
その舞台が整った、尋常ならぬ黒澤スタジオ。せりだした舞台、3メートル四方の白幕に『乱』のタイトル。そして、待機している数十人の鎧武者。
会見が始まる前から、もう300人の記者、報道陣が待機していて、黒澤監督の登場を待っています。我々、makingチームは、井関さんの計らいで、いちばんいい席を与えてもらって、他の記者から「なんであのビデオの人たちは特別待遇受けてるんだよ」と文句も出て。とにかく、報道陣がざわめいていたのです。
ところが、空気が、変わった。
それを察知したのか、300人の報道陣が、急に静まり返った。
しーん、としたスタジオ。
なんだ、なにが起こったんだ?
すると、製作の人から、「黒澤監督が今、スタジオに入られました」
ええっ、黒澤監督がスタジオに入っただけで、まだ姿を現していない、なのに、それで空気が変わって、報道陣がそれを感じたわけです。
オーラというやつです。
やがて、黒澤監督が、報道陣の待機するこの1120平米のスタジオに姿を現しました。
もう割れんばかりの拍手。
我々、makingチームのカメラはもう廻っています。
舞台端に用意されたパイプ椅子に、黒澤監督が腰かけると、場内にマーラーの交響曲第一番『巨人』の第三楽章が流れます。
そして、黒澤監督の開口一番。
「一文字秀虎、仲代達矢!」
すると、ステージに衣装とメイクで、一文字秀虎になり切った仲代達矢さんが、

刀を手に、ステージを歩く。そして中央で見えを切って。
そう、戦国ファッション・ショーとイメージしていただければ。
続く
「え、どういうことですか?」
私は固まりました。
この件、会社として否決されたというのです。
こういうことでした。
関西一円のお弁当屋のチェーンを展開するのが、この会社の母体。
専務は社長の実子に当たり、新しく映像部門の立ち上げを目論んだのですが。
専務は言います。
「黒澤エンタープライゼスでは、製作費は7とか8000万必要と言われた。それは覚悟はしていたし、なんとか僕の夢でもある新事業展開の為にも、これは実現したかった。でも、この8000万円というお金は、少なくとも1年は寝ることになる。
※1年寝る、というのは、8000万円の出資をしたら、1年間は利益がでないということ。撮影に1年かかり、編集、調整、パッケージ化され、またテレビなどで特番として放送されるのは映画が公開した後のこと。それまでは権利金、放映料、ソフトの売り上げは望めないということなのです。
専務は泣きながら言うわけです。
「本部の人間に言われた。お店ではおばちゃんが、のり弁300円とか、とんかつ弁当450円、なんて言いながら、その日の売り上げを出している。なのに、何千万円というお金が1年以上寝るという事態は会社として、そのおばちゃんたちに忍びない、と。中山君にはこんな話、情けないと思うだろうけど、この会社で食っている人間には、そんなリスクは犯せない、と……」
なんだか私も涙が出て来た。まあ、会社の事情は私にはわからないけど、大人の世界というものが解ったような気もしました。私は就職活動も一切しなかった、いわば現実離れをした考え方、生き方を選んでいましたから。
「約束が違う。出資してやるから行ってこい、と言うたやないですか。しかもここまで全部、僕の自腹ですよ」とは、言えません。まあ、私の夢に、専務たちは賭けて、ここまで来たわけです。こんなまだ何の実績も無い24歳の若造に、専務は賭けていてくれていたのです。それだけでも、ありがたい話ではありませんか。
私も泣きながら「そうですか。残念ですが仕方ありません。ここまでありがとうございました」
そう言って頭を下げた。今はそれしかできない。そう思ったんです。そして部屋を出ようとした。すると専務。
「ここまで来たんだ。キャスティング記者発表会は撮ろう。井関さんから許可ももらっているし。黒澤監督に会いに行こう。もちろんその経費はうちが持つ。そのくらいのことはさせてくれ」
1984年4月25日(水)
横浜市緑区の黒澤フィルム・スタジオ。
このスタジオは、黒澤監督の長男、久雄氏が「おやじに芸術面に専念してもらいたい。それも新しいホームグラウンドで」と、昭和57年に設立したもの。
専務や私が集めたスタッフたちを乗せた車が、スタジオに近づいて行く。と、そこに異様な光景が!
スタジオの屋上に何十本という幟旗がはためいているのです。
『隠し砦の三悪人』や『蜘蛛巣城』『影武者』で観た、戦国の武将たちが使った軍旗、旗印です。なんだかもう、黒澤時代劇ワールドが展開しております。
黒澤時代劇の旗。


玄関口には、鎧武者姿の男たちが立っていて、もう、黒澤映画は始まっていた!!
昭和59年(1984)4月26日付け『報知新聞』にはこう報じられ問います。
「黒沢明監督が六月一日から撮影を開始する時代劇大作『乱』(東宝・ヘラルド共同配給)のキャスティング発表会が二十五日、横浜緑区の黒沢フィルム・スタジオで盛大に行われた。戦国大名の仲代達矢、寺尾聡、根津甚八、道化のピーター、姫君役の原田美枝子らは、重厚な衣装をつけ、緊張した表情。八年前から制作を準備していた黒沢監督はエネルギーをたっぷりたくわえての登場だ。今回は、製作費二十五億四千万円を投入するため、日本映画では初めてかけ金一億円、総額三十億円の製作保険がかけられる」

普通は、キャスティング発表となると、出演者と監督が、単に記者たちとなごやかに質問されたり答えたり、ということになるのですが、そこは黒澤映画。
いわば、役者たちが戦国の衣装とメーキャップで役になり切り、その立ち振る舞いを黒澤監督の演出で記者たちの前で披露するというもの。
その舞台が整った、尋常ならぬ黒澤スタジオ。せりだした舞台、3メートル四方の白幕に『乱』のタイトル。そして、待機している数十人の鎧武者。
会見が始まる前から、もう300人の記者、報道陣が待機していて、黒澤監督の登場を待っています。我々、makingチームは、井関さんの計らいで、いちばんいい席を与えてもらって、他の記者から「なんであのビデオの人たちは特別待遇受けてるんだよ」と文句も出て。とにかく、報道陣がざわめいていたのです。
ところが、空気が、変わった。
それを察知したのか、300人の報道陣が、急に静まり返った。
しーん、としたスタジオ。
なんだ、なにが起こったんだ?
すると、製作の人から、「黒澤監督が今、スタジオに入られました」
ええっ、黒澤監督がスタジオに入っただけで、まだ姿を現していない、なのに、それで空気が変わって、報道陣がそれを感じたわけです。
オーラというやつです。
やがて、黒澤監督が、報道陣の待機するこの1120平米のスタジオに姿を現しました。
もう割れんばかりの拍手。
我々、makingチームのカメラはもう廻っています。
舞台端に用意されたパイプ椅子に、黒澤監督が腰かけると、場内にマーラーの交響曲第一番『巨人』の第三楽章が流れます。
そして、黒澤監督の開口一番。
「一文字秀虎、仲代達矢!」
すると、ステージに衣装とメイクで、一文字秀虎になり切った仲代達矢さんが、

刀を手に、ステージを歩く。そして中央で見えを切って。
そう、戦国ファッション・ショーとイメージしていただければ。
続く
kaidanyawa at 07:11|Permalink│Comments(4)│
2020年11月12日
NHK・BS1『黒澤明の映画はこう作られた』 黒澤明監督『乱』のmakingビデオ、秘話! part3 邦画界初のMaking企画の誕生!!
中山市朗です。
1984年の春。いよいよ、出資してくれるという大阪のお弁当店をチェーン展開している会社の専務さんと、東京赤坂にあった黒澤エンタープライゼスへ。
この会社は映画やテレビドラマ、CMなどの企画、製作をする会社。相談役が黒澤明。代表取締役会長が黒澤久雄氏。黒澤監督のマネージメントもしています。making映像を撮った場合、黒澤監督の肖像権はここが持っていると言います。
NHK-BS1 で本日再放送。
『黒澤明映画はこう作られた〜証言・秘蔵資料からよみがえる製作現場』
20:00〜21:50

番組冒頭で紹介される見られぬビデオケースの数々。
ナレーション「スタジオ(砧の東宝撮影所)に、1985年公開された、黒澤明監督がライフワークと呼んだ映画『乱』の撮影現場を収めた映像、約30時間分が運ばれてきた……」
これは、4分の3、あるいはUマチックという、今はほとんど再生不能(再生機が無い)のビデオ・テープ。当時はこのフォーマットがプロ仕様の記録メディアだったのです。

さて、この『乱』の撮影現場を収めた映像の、秘話を、ここに初めて明かすものです。
黒澤明監督『乱』のMakingビデオ、秘話! Part3であります。
Part1
Part2
NHK・BS1『黒澤明の映画はこう作られた』 黒澤明監督『乱 ..
黒澤エンタープライゼス。
会議室に通されると、大きな長いテーブルがあって、その向こうに3人の男が鎮座しておりました。
一人は、プロデューサーで黒澤エンタープライゼス取締役副会長という肩書の渡辺氏、プロデューサーで取締役社長の川村氏。そして若い男が一人。
渡辺氏は口ひげを蓄えたいかにも業界人という風体。
私と専務が着席すると、川村氏が口を開きました。
「あなたが、中山さん?」
「そうです」
「お若いようですが、今、おいくつ?」
「24、いや、じき5になります」
今度は渡辺氏。
「中山さんの実績を聞かせてください」
「え、実績ですか?」
「そう、映画じゃなくても、テレビドラマの脚本を書いたとか、演出したとか」
「あの、2年ほど前まで僕は学生でした。ですから学生映画は何本か脚本を書いて演出もしましたが、商業用の作品を作ったことはありません」
「なるほど。プロの方じゃないわけですね。じゃあ、なぜ、この企画をやろうと思ったのですか?」
そうですよね。みんな若い頃はこれがネックになるわけですよ。
実績。
この世界、営業無しでは仕事はもらえない。しかし、営業をしても実績が無ければ相手にもしてもらえない。ここをどう考え、立ち振る舞うか。みんなここを通るのです。
そら、先方は、プロの人、プロのチームに仕事は発注したい。学生上がりのド素人に仕事をくれるわけがない。でもですよ、どんな一流のプロも、最初の一歩は素人からなんですよ。だから、熱意をもって繰り返し営業をして認めてもらうか、よっぽどすごいアイディアとかテクニックを相手に認めさせるか。
今回の攻めどころはある。黒澤明という人は、将来の日本映画を本気で憂い、『影武者』では役者の一般オーデションを行い、何人かの一般人を役者として登用し、今回の『乱』では、スタッフを要請する為に研修生を3人現場に入れている。
『乱』における研修生募集の新聞広告。

だから、そこは臆することはない。そう、自分に言い聞かせた。
「僕は黒澤映画を観て、それに憧れて、映画の世界に飛び込もうと、大阪芸術大学の映像科に入りました。映画のことを学んでいるうちに衝撃的なものに出会いました。それは、ハリウッドで製作された『Making of スター・ウォーズ』と『Making of レイダース』というビデオ作品です。ジョージ・ルーカスとスピルバーグ監督の大ヒット作の製作現場をドキュメントして、映画の製作過程を映画を学ぶ若い人たちに見てもらうというものです。しかも、これを撮ったのは映画を学ぶ学生たちだそうです。
黒澤監督は、映画を学ぶなら現場しかない、と研修生を募集されているじゃないですか。ましてや、ルーカスやスピルバーグが師匠と仰ぐ黒澤明が、戦国絵巻を撮るわけでしょ。この現場の記録をビデオに残すのは日本映画界の宝になると思いますし、これからのビデオの時代を考えると、こういうものも商業的価値を持ってくると思います。何より、こういうものは今の日本映画には無いわけでしょ。いわばこれは、ハリウッドへの挑戦です!」
そのようなことを私は言った。そして、「これは、ハリウッドへの挑戦です!」と言った瞬間、渡辺氏と川村氏の顔がほころんだ。またこの時、私は両手の拳でテーブルを、ドン、と叩いた覚えがある。
興奮しておりました。すると、
「おもしろい。中山さんにおまかせしましょう」
そう、渡辺氏が笑顔で言ったのです。
そんなこと、ある?
「しかし」と川村氏。
「NHKスペシャルが『影武者』の現場にテレビカメラを持ち込んで、ドキュメンタリーを撮ったのはご覧になりましたか?」
「もちろんです」
参考の為に何十回と観た。『NHKスペシャル 黒澤明の世界』。

「あの時、MHKのディレクターは黒澤監督の怒っているシーンばかりを撮ってた。ディレクターは監督に何度も怒鳴られ、また現場の邪魔は許さないから、そこは監督の注文は厳しいんだ。結局そのディレクター、ノイローゼになっちゃったよ。できるかな、君に」
「黒澤監督に怒鳴られるのなら、本望です」
私、本当にそう思った。マゾではない。
川村氏、渡辺氏、また、にっこり笑った。
すると今度は、質問が専務さんに集中した。
「〇〇実業の専務さん?」
「はい」
「中山さんのこの企画のスポンサーになると?」
「はい。彼の夢に描けてみたいと思います。同時にわが社としても映像メーカーとしてのビジネス展開をと考えております」
「正直、製作費はいくらほど考えておられますか」
「まだ、ざっくりとですが、2000から4000万円は用意できます」
「その倍は必要でしょう」
「え!」
「Makingを作るわけですから、クランクインからアップまで、現場にはりついてもらいたい。となれば、滞在費だけでも大変ですよ。それにカンヌへ招待されるでしょうし、アカデミー賞のノミネートもあるでしょう。そこにも同行していたたきたい。『乱』に関するビデオ映像関係は全部、おたくに預けます。ちろん、テレビ番組の特番として放送されるでしょうし、中山さんの思惑通り、makingビデオとして市場に出るでしょう。そこで得た収益は、そちらに還元します。足りない分はそこで補充していただきたい。もちろん、その協力は惜しみません」
何か、そんな話になった。
で、どういうわけだか、黒澤エンタープライゼスはなんかこの話に積極的になっていました。
これは、後に川村氏から聞いた話ですが、この話は当然、黒澤明監督の耳にも入っていたようなんです。その経緯を説明したうえで「この企画を持ち込んだのは、無名の若者です」と。
すると黒澤監督は「それ、おもしろいじゃない」と、おっしゃったとか。
この後、ヘラルドエースの井関さんにこのことを報告。すると、4月に黒澤フィルム・スタジオにてキャスティング発表記者会見があるから、そこからビデオ・カメラを入れてもいい、という許可がでたのです。
こりゃ、大変です。そうなると、予算算出や撮影クールの編成、機材の購入、なども考えなきゃならない。先日紹介してもらったドキュメンタリーの監督さんに相談して、カメラマンを紹介してもらった。
一流の腕を持つ人らしい。それにアシスタント。芸大の仲間に声をかけた。ディレクターは私。
準備もなんとかやり終えた。
ところが、そのキャスティング発表記者会見の直前となって、出資を約束してくれていた専務から、会社に来てくれと連絡が。
行ってみると、専務が私の手を握りしめ、泣き出したのです。
「中山君。すまない。出資は出来ない。約束が果たせなくて、本当に申し訳ない……」
「え、どういうこと?」
私もいろんな意味で泣き出しそうでした。
続く。
kaidanyawa at 06:06|Permalink│Comments(5)│
2020年11月11日
NHK・BS1『黒澤明の映画はこう作られた』 黒澤明監督『乱』のmakingビデオ、秘話! part2 邦画界初のMaking企画の誕生!!
中山市朗です。
NHK-BS1『黒澤明の映画はこう作られた〜証言、秘蔵資料からよみがえる巨匠の製作現場』。
明日12日、NHK-BS1にて、20:00より再放送。
その番組に出てくる『乱』のMakingビデオの秘話!
昨日に続いて、そのpart2です。

黒澤明監督の超大作『乱』の製作現場にビデオカメラを持ち込み、making作品を作るという、大胆不敵な企画。今でこそ、映画のMaking映像は当たり前に撮影され、特番やDVD、ブルーレイの特典映像、になりますが、当時の日本映画にはそういうものはなかったのです。
企画書とシナリオを作成して、製作&配給元となるヘラルド・エースと黒澤プロダクションに郵送。
そのまま待っていて返事がある、など期待していない。そのまま東京へ直行しました。
お金が無いので、阿佐ヶ谷の友人宅に逗留し、新橋にあるヘラルドエースが入っているビルの地下の喫茶店に朝いちばんで入って、夜まで待機。コーヒーを胃が痛くなるほどお代わりをしつつ、日に何度も電話をかけます。
担当プロデューサーは井関惺氏。この人は後にイギリス映画『クライング・ゲーム』、ジョン・ローン主演の『チャイナ・シャドウ』。それに『始皇帝暗殺』『墨攻』などを手掛ける大プロデューサーであります。


ところが、いくら電話をしても秘書だか誰だか知らないけど「ただいま井関は、ロケハンに同行しておりまして、本日はこちらへは参りません」とか「今、会議中でして」とか言って、なかなかつかまらない。
これが1週間ほど続くと、さすがに居留守使われてるんやろかとか、やっぱりド素人の企画なんか相手にされんのやろうか、とか考えますよね。でも、研修生を現場に送る黒澤明という人は、そんな人じゃない。そう信じているわけですよ。
じゃあ、黒澤プロに行けばいい、ということなんでしょうが、あくまで『乱』という映画の製作やスタッフの雇用、製作費はヘラルドに主導権がある。なのでまず、出資者であるヘラルドエースのプロデューサーに理解を求めるのが筋だと思ったのです。
ある日も電話をしたら、「井関は今、席を外しております」
「お戻りはいつですか?」
「そうですね。午後3時帰社予定となっておりますが」
「ではその時間に、電話をします」
3時5分にかけた。
「井関? さっきで掛けましたが」
あかん。そういう繰り返し。無視されとる。そう思いましたが、だからこそ、下の喫茶店で待機しているわけです。
ある朝のこと。
いつものように、いつもの喫茶店に入り、また井関さんあてに電話を掛けた。当時のことなので公衆電話。
「あのう、井関さん、いらっしゃいますか?」
と、
「私が井関です」
「!!!!」
やっと、本人がつかまりました!
「あの、私、大阪から『making of 乱』の企画書を送らせていただいた中山と申します」
「あっ、中山さん? 今、どちらにおられます?」
「下の喫茶店です」
「えっ、じゃ、今すぐ、こちらへ来ていただけますか」
作戦的中です。電話で繋がって、「今、大阪です」「じゃ、いつ東京へ来られますか?」「そうですねえ」なんて悠長なことをやっている場合ではない。こういう企画を考えている人や会社は絶対に存在する。だから、迅速に、そして、熱意を伝える。若けりゃこそかも知れませんが、ともかく普通のことをやっていたのでは、こういうチャンスはモノにできない、そう思ったわけです。ですから、電話がつながったら、すぐ対処できるように、下の喫茶店で毎日毎日待機していたわけです。
えっ、という井関さんの動揺のまじりの声は、今も忘れません。
さっそく上がっていって、ヘラルドエースの井関さんと面会となりました。
井関さんが言うわけです。
「中山さん。企画書とシナリオ、読ませていただきました。黒澤明というより、映画を作るのがスタッフ、出演者全員の力と結束力であるであるというコンセプトが気に入りました。こういう内容なら黒澤監督を説得できるかも知れません。しかし、実は、NHKさんとフジテレビさんから、現場のドキュメントを撮らせてくれという話が、もう来ているんですよ。どちらに撮ってもらおうかと考えている最中なんです」
やっぱりな、ですよね。
私が発想するくらいですから、天下のテレビ局が見逃すはずがない。万事休すか。
「ところが」と井関さん。
「NHKの担当者が今、ニューヨークへ出張中で連絡が取れません。また、フジテレビさんも話はあっても、具体的な提案書がまだ何も出ていない状況です。でも、中山さんは、企画書とシナリオまで書いて、具体的な提案をされています。ここまで提案されているのは中山さんだけです。熱意と本気を感じます。私個人としては、中山さんに撮ってもらいたいと思っています。出資するという会社があるとか。どんな会社ですか……」
やっぱり、企画書と台本の提示が活かされました。ただ、決定したわけではない。井関さんが言うには、『乱』という映画の権利はヘラルドエースにあるが、黒澤明の肖像権は黒澤プロにある。ですから、黒澤プロから許可を取ってくれと。また、判断は井関さん一人で決められない。会社内で企画を通さなければならない。
いずれにしても、今度はいよいよ黒澤プロとの折衝となります。黒澤側からOKが出るとヘラルドエースが、前向きに動いてくれるはずです。とはいえ、黒澤明ですよ! いろいろな難関が待ち構えていそうな気がします。いや、待ち構えていることでしょう。
ところで、企画が通ったらスポンサーになってやる、と言っていた大阪のビデオレンタルショップの親会社。実は、母体は関西一円にチェーン店を持つお弁当屋さんだったのです。この会社が、映像関係に興味を持って、これからはビデオを中心とした映像の時代になるはずだと、専務さん以下いろいろと模索していたんです。そこに、『making of 乱』が一歩前進したという私の報告を受け、専務さんが東京へ飛んできました。会社としては、まさか、こんな話が進展するとは思ってもいなかったようです。しかし、真剣には考えてくれているようでした。
ただ、そのやり方というのが、大人というか会社というのはそう動くのかと、若い私は思ったわけです。あるいはもいらんことするなあ、と。
黒澤プロの顧問弁護士に接触し、そこから話を進めていく、というのです。また、アドバイザーということで、ある映画監督を紹介してくれたわけです。ドキュメンタリー専門の人で、ベトナム戦争の戦場にカメラ一つ持ってフィルムを回し続けたという人。精悍な目つきをした紳士でした。
でも、そういうコネクションはいらない。なにかこれ、後で権利がどうのこうのと、大人の事情が入りそうです。それが、まだまだ純粋で青い私には、邪魔だと思えたんですが、しかし、顧問弁護士の口利きがあってか、黒澤プロの方から連絡があり、一度会いましょう、ということになったのです。正確に言うと、黒澤エンタープライゼス。確か赤坂にありました。
そして当日、私は専務さんと共に、黒澤エンタープライゼスへ。

さっそく会議室に通されると、そこにいたのは!!
続く
NHK-BS1『黒澤明の映画はこう作られた〜証言、秘蔵資料からよみがえる巨匠の製作現場』。
明日12日、NHK-BS1にて、20:00より再放送。
その番組に出てくる『乱』のMakingビデオの秘話!
昨日に続いて、そのpart2です。

黒澤明監督の超大作『乱』の製作現場にビデオカメラを持ち込み、making作品を作るという、大胆不敵な企画。今でこそ、映画のMaking映像は当たり前に撮影され、特番やDVD、ブルーレイの特典映像、になりますが、当時の日本映画にはそういうものはなかったのです。
企画書とシナリオを作成して、製作&配給元となるヘラルド・エースと黒澤プロダクションに郵送。
そのまま待っていて返事がある、など期待していない。そのまま東京へ直行しました。
お金が無いので、阿佐ヶ谷の友人宅に逗留し、新橋にあるヘラルドエースが入っているビルの地下の喫茶店に朝いちばんで入って、夜まで待機。コーヒーを胃が痛くなるほどお代わりをしつつ、日に何度も電話をかけます。
担当プロデューサーは井関惺氏。この人は後にイギリス映画『クライング・ゲーム』、ジョン・ローン主演の『チャイナ・シャドウ』。それに『始皇帝暗殺』『墨攻』などを手掛ける大プロデューサーであります。


ところが、いくら電話をしても秘書だか誰だか知らないけど「ただいま井関は、ロケハンに同行しておりまして、本日はこちらへは参りません」とか「今、会議中でして」とか言って、なかなかつかまらない。
これが1週間ほど続くと、さすがに居留守使われてるんやろかとか、やっぱりド素人の企画なんか相手にされんのやろうか、とか考えますよね。でも、研修生を現場に送る黒澤明という人は、そんな人じゃない。そう信じているわけですよ。
じゃあ、黒澤プロに行けばいい、ということなんでしょうが、あくまで『乱』という映画の製作やスタッフの雇用、製作費はヘラルドに主導権がある。なのでまず、出資者であるヘラルドエースのプロデューサーに理解を求めるのが筋だと思ったのです。
ある日も電話をしたら、「井関は今、席を外しております」
「お戻りはいつですか?」
「そうですね。午後3時帰社予定となっておりますが」
「ではその時間に、電話をします」
3時5分にかけた。
「井関? さっきで掛けましたが」
あかん。そういう繰り返し。無視されとる。そう思いましたが、だからこそ、下の喫茶店で待機しているわけです。
ある朝のこと。
いつものように、いつもの喫茶店に入り、また井関さんあてに電話を掛けた。当時のことなので公衆電話。
「あのう、井関さん、いらっしゃいますか?」
と、
「私が井関です」
「!!!!」
やっと、本人がつかまりました!
「あの、私、大阪から『making of 乱』の企画書を送らせていただいた中山と申します」
「あっ、中山さん? 今、どちらにおられます?」
「下の喫茶店です」
「えっ、じゃ、今すぐ、こちらへ来ていただけますか」
作戦的中です。電話で繋がって、「今、大阪です」「じゃ、いつ東京へ来られますか?」「そうですねえ」なんて悠長なことをやっている場合ではない。こういう企画を考えている人や会社は絶対に存在する。だから、迅速に、そして、熱意を伝える。若けりゃこそかも知れませんが、ともかく普通のことをやっていたのでは、こういうチャンスはモノにできない、そう思ったわけです。ですから、電話がつながったら、すぐ対処できるように、下の喫茶店で毎日毎日待機していたわけです。
えっ、という井関さんの動揺のまじりの声は、今も忘れません。
さっそく上がっていって、ヘラルドエースの井関さんと面会となりました。
井関さんが言うわけです。
「中山さん。企画書とシナリオ、読ませていただきました。黒澤明というより、映画を作るのがスタッフ、出演者全員の力と結束力であるであるというコンセプトが気に入りました。こういう内容なら黒澤監督を説得できるかも知れません。しかし、実は、NHKさんとフジテレビさんから、現場のドキュメントを撮らせてくれという話が、もう来ているんですよ。どちらに撮ってもらおうかと考えている最中なんです」
やっぱりな、ですよね。
私が発想するくらいですから、天下のテレビ局が見逃すはずがない。万事休すか。
「ところが」と井関さん。
「NHKの担当者が今、ニューヨークへ出張中で連絡が取れません。また、フジテレビさんも話はあっても、具体的な提案書がまだ何も出ていない状況です。でも、中山さんは、企画書とシナリオまで書いて、具体的な提案をされています。ここまで提案されているのは中山さんだけです。熱意と本気を感じます。私個人としては、中山さんに撮ってもらいたいと思っています。出資するという会社があるとか。どんな会社ですか……」
やっぱり、企画書と台本の提示が活かされました。ただ、決定したわけではない。井関さんが言うには、『乱』という映画の権利はヘラルドエースにあるが、黒澤明の肖像権は黒澤プロにある。ですから、黒澤プロから許可を取ってくれと。また、判断は井関さん一人で決められない。会社内で企画を通さなければならない。
いずれにしても、今度はいよいよ黒澤プロとの折衝となります。黒澤側からOKが出るとヘラルドエースが、前向きに動いてくれるはずです。とはいえ、黒澤明ですよ! いろいろな難関が待ち構えていそうな気がします。いや、待ち構えていることでしょう。
ところで、企画が通ったらスポンサーになってやる、と言っていた大阪のビデオレンタルショップの親会社。実は、母体は関西一円にチェーン店を持つお弁当屋さんだったのです。この会社が、映像関係に興味を持って、これからはビデオを中心とした映像の時代になるはずだと、専務さん以下いろいろと模索していたんです。そこに、『making of 乱』が一歩前進したという私の報告を受け、専務さんが東京へ飛んできました。会社としては、まさか、こんな話が進展するとは思ってもいなかったようです。しかし、真剣には考えてくれているようでした。
ただ、そのやり方というのが、大人というか会社というのはそう動くのかと、若い私は思ったわけです。あるいはもいらんことするなあ、と。
黒澤プロの顧問弁護士に接触し、そこから話を進めていく、というのです。また、アドバイザーということで、ある映画監督を紹介してくれたわけです。ドキュメンタリー専門の人で、ベトナム戦争の戦場にカメラ一つ持ってフィルムを回し続けたという人。精悍な目つきをした紳士でした。
でも、そういうコネクションはいらない。なにかこれ、後で権利がどうのこうのと、大人の事情が入りそうです。それが、まだまだ純粋で青い私には、邪魔だと思えたんですが、しかし、顧問弁護士の口利きがあってか、黒澤プロの方から連絡があり、一度会いましょう、ということになったのです。正確に言うと、黒澤エンタープライゼス。確か赤坂にありました。
そして当日、私は専務さんと共に、黒澤エンタープライゼスへ。

さっそく会議室に通されると、そこにいたのは!!
続く
kaidanyawa at 00:00|Permalink│Comments(3)│
2020年11月10日
NHK・BS1『黒澤作品はいかに作られたのか〜』の資料映像。黒澤明監督『乱』のmakingビデオ、秘話!
中山市朗です。
私が尼崎城で怪談を語っていた、その時!
NHK・BS1で『黒澤作品はいかに作られたのか〜証言・秘蔵資料からよみがえる巨匠の製作現場〜』というドキュメント番組がオンエアされていました。
※12日(木)20:00〜21:50 BS1より再放送。

私は留守録をしていたのですが。
番組冒頭に、こんなシーンが。
「このスタジオ(砧の東宝撮影所)に、1985年公開された黒澤明監督がライフワークと呼んだ映画『乱』の撮影現場を収めた映像、約30時間分が運ばれてきた」というナレーション。
そこには、見慣れぬ(?)ビデオケースの箱が?
これは4分の3、あるいはUマチックという、今はほとんど再生不能(再生機が無い)のビデオ・テープ。当時はこのビデオ・フォーマットが業務用、つまりプロが使っていたビデオだったわけです。

日仏合作の超大作、しかも黒澤明監督の最後の戦国絵巻、ということで世界的な注目も浴び、また大ヒットしました。その映画の製作現場を事細かくドキュメントした企画があったわけです。
この貴重な映像を保管していたのが、番組にも出ていた河村光彦氏。
彼は破棄されそうだった貴重なこの記録を、私財をなげうって保管してくれていたのです。
この『乱』のいわばmaking映像は、日本映画で初めての本格的な映画のmakingでありました。

それまでは、NHKなどがドキュメンタリーとして現場に入ったことはありましたが、このmakingプロジェクトは、製作チームとして完全に撮影隊の中に入り、彼らと寝食を共にしながら、毎日の撮影、リハーサルの様子をビデオカメラに収める、というもので、当初から『making of 乱』というビデオ作品として市場に出す、というものでした。
実は、これを企画して、配給元のヘラルドエース、黒澤プロダクションに持ち込んだのは、この私でありました。24歳の時。
まあ、このことは過去、このブログに何度か書いたことがありますから、ご存じの方もおられるでしょう。
『乱』は、私が大阪芸大の学生だった1980年頃、宮川一夫先生(世界に誇る映画カメラマン。黒澤監督の『羅生門』『用心棒』を担当)から「クロさんがね(先生は黒澤明をクロさん、溝口健二監督をミゾさんと呼んでいた!)、どうしても撮りたいっていう映画があってね。コンテを見せてもらったんだけど、最初から凄いんだ。ファースト・シーンから、三つのお城が同じフレームに収まっていて、いっぱいの軍勢が埋め尽くしているの。こんなの日本映画じゃできない。でもね、これが映画だ、ていうイメージが凄いの。なんとか実現させてもらいたいんだ」と、聞いていたのです。
私は、高校の時、『七人の侍』を観てすっかり黒澤ワールドに魅せられ、『羅生門』『用心棒』『椿三十郎』などを観て、映画の道を志したい、と大阪芸大の映像計画学科に入ったわけです。
黒澤ファンというより、黒澤信者といっても間違いはない。黒澤明は私にとっては、ピカソやダリ、ベートーベンやドストエフスキーなどと並ぶ人だったのです。
その黒澤明監督の『乱』がいよいよ動き出したのが、1983年の頃。私は大学を卒業したものの、就職活動は一切せず、なんとか映画か作家の世界へ行きたくて、チャンスを虎視眈々と狙っていたのです。きっと、当時の私はギラギラしていたんじゃないかな。
で、最初、黒澤監督は『乱』の現場で研修生を募集する、と聞いていたのです。助監督の下で、実際に働いてもらう。映画の勉強をするのなら、現場が一番ということです。与えられたテーマをシナリオにして送ることが条件。採用は3人。
「よし、応募しよ」と、その告知が出るのを待っていたのです。が、いつの間にやら募集は締め切られ、3人の研修生は決まっていた。どうも関東の新聞などで応募されたようで……。
でも、諦められないんですよね。何とかして黒澤監督の元で働きたい。その最高の映画ができる過程を、この目で見て、体感したい。これが実現するなら、何を犠牲にしてもいい。そこまで思いつめた。
それで、makingビデオの企画を持ち込んで、現場に入ろうと思い立ったわけです。
今思うと、随分と乱暴な、後先の見えていない若造の言動です。でも、怖いもの知らず、と、絶対に現場に入る、という強い意志は、時として奇跡を生むのです。
実はこの企画を思いついたヒントは、私が学生の頃に映画作りの貴重な現場をドキュメントした、「Making of Star Wars』と『making of Raiders』という2本のハリウッド製のビデオでした。
『スター・ウォーズ』『レイダース/失われたアーク』というルーカスとスピルバーグの映画ができる過程を、ビデオで観て、研究し、参考にする。これはもう、我々映画を学ぶものとしては、これ以上の教科書はありません。しかもこの映像を撮影したのはUCLAで映画を学ぶ学生たちだとか。
若い才能を、世に出す、ということを若い監督がやっているわけです。凄いことじゃないですか。

そして今度は、そのルーカスとスピルバーグが「My Master!」と呼ぶ黒澤明が戦国絵巻を撮る。その現場をビデオで記録し、後世まで残し、かつ、映画ファンにぜひ見ていただきたい。
そういう思いがこみ上げてきて、動かざるを得なかった、というのが当時の心境でした。
後押ししてくれたのが、当時私がアルバイトをしていたビデオレンタルショップの親会社。1983年ですから、まだビデオレンタルショップは珍しかったし、映画のソフトも日本では話題作以外は出ておらず、また発売されても何万円とした時代です。外国映画は輸入盤しかない。ましてや、一般的には、makingビデオって、なに? という時代。
でも、この会社は、これからはビデオや映像配信の時代だ、と思っていたらしく、私を専属スタッフにするからと、その為の企画要請を私にしてきたのです。それでその企画案の一つとして、『Making of 乱』提案した。
「よくはわからんが、黒澤明という人が世界最高の映画監督だとは知っている。君がそれをやりたいというのなら、営業に行ってこい。ただし、成功報酬。営業費や経費は君が持つこと。もし企画が通れば、製作費は何千万になっても、うちが出す」
常務さんにそう言われました。まあ、そうでなくとも営業は言っていましたけど。しかし、スポンサーが付いているというのは、営業には有利です。
で、making用の台本と企画書を用意した……。
といっても、『乱』がどういったストーリーで、どんなキャラクターが想定され、どういうシーンをどこで撮るのか、さっぱりわからない。
さっそく、映画雑誌やスポーツ新聞の芸能欄を片っ端から読んで、『乱』に関する情報を集め、黒澤明に関する書籍を全部読み、NHKで放送された『黒澤明の世界』を何度も見直しました。これは『影武者』の撮影現場を中心に構成されたものでした。『デルス・ウザーラ』のドキュメント映像も、あるルートから入手した。
そして、なんとか、撮影風景を想定して、そのどこをどう撮るのかを台本を書きあげ、台本を製本、印刷してくれる印刷所に持ち込んで、こういうものが出来上がった。


表紙にZiggyプランニング、とあるのは、個人名じゃ、企画も通らんし仕事もくれないだろうと、個人事務所を作ったのです。もちろん私の住んでいたアパートが住所。
企画書もそうですが、台本は、営業先のプロデューサーや黒澤プロの人に「で、何を撮るの?」と聞かれた時「検討用ですが、ここに書いてあります」と言わないと、通るものも通らない。何より黒澤監督は「監督になりたいならシナリオを描きなさい」と、言っている人。その教えに忠実ですよ、というアピールもできますしね。
でもね。私のこう言った行為は、業界の人たちから猛反対されたのです。
ある映画関係者。
「中山君ね。『影武者』で勝新が降ろされたよね。原因知ってる? ビデオだよ。勝新は現場をビデオに撮って、監督の逆鱗に触れたんだ。黒澤さんはビデオ嫌いなんだよ。そんなの通るわけない」
「何の実績も無い若造が、いきなり黒澤組をビデオで撮らせてくれって? どれだけ業界舐めてんだよ。黒澤組に入れるのは、映画界でもエリート中のエリートだよ」
でも私はこれに反論しました。
「勝新太郎さんは、ビデオが問題ではなく、許可なくビデオを入れて演技プランを考えようとしたんです。それで勝手に演技プランを考えられても困る、監督は二人要らない、と監督は言ったわけで、ビデオを嫌っているわけではないでしょう」
「黒澤監督は、映画研修生の募集をしましたよ。この人たちは素人です。若い人の才能が将来の日本映画を作るんだといっている監督のもとに、若いヤツがMakingを撮らせてください、と言ってむげに断るとは思いません」
でも、黒澤監督の元で働いたというある人からは、こういわれました。
「黒澤さんが新作を撮る。これはマスコミとしてはほっとけない。君がそんな企画をかんがえるくらいだ。きっとNHKとか、フジテレビあたりが、ドキュメンタリー企画を出しているはずだよ。君一人で、そんなところとどうやって勝負するつもりだ?」
それは……、やってみなきゃ、わからんやん。
若気の至り?
ともかくも、企画書と台本を、ヘラルドエースのプロデューサーと、黒澤プロダクション宛に郵送。
でも、郵送して返事を待つなんて悠長なことはしてられない。そのまま新幹線に乗って東京へ。
阿佐ヶ谷にいる友人を頼って、わけを言って、逗留させてもらうことに。そして、新橋にあるヘラルドエースが入っているビルの地下の喫茶店に朝から夜まで待機。そこから何度も何度も、担当プロデューサーへ電話をするわけです。
ところが、会議中、ロケ先、出張中とか言われてまったく出てくれない。
ド素人の若造の送った企画など、やはり映画界の、しかもトップにいる人たちにとっては、相手にもならんか。
すると、ある朝のこと、奇跡が起こったのです!!
続く。
私が尼崎城で怪談を語っていた、その時!
NHK・BS1で『黒澤作品はいかに作られたのか〜証言・秘蔵資料からよみがえる巨匠の製作現場〜』というドキュメント番組がオンエアされていました。
※12日(木)20:00〜21:50 BS1より再放送。

私は留守録をしていたのですが。
番組冒頭に、こんなシーンが。
「このスタジオ(砧の東宝撮影所)に、1985年公開された黒澤明監督がライフワークと呼んだ映画『乱』の撮影現場を収めた映像、約30時間分が運ばれてきた」というナレーション。
そこには、見慣れぬ(?)ビデオケースの箱が?
これは4分の3、あるいはUマチックという、今はほとんど再生不能(再生機が無い)のビデオ・テープ。当時はこのビデオ・フォーマットが業務用、つまりプロが使っていたビデオだったわけです。

日仏合作の超大作、しかも黒澤明監督の最後の戦国絵巻、ということで世界的な注目も浴び、また大ヒットしました。その映画の製作現場を事細かくドキュメントした企画があったわけです。
この貴重な映像を保管していたのが、番組にも出ていた河村光彦氏。
彼は破棄されそうだった貴重なこの記録を、私財をなげうって保管してくれていたのです。
この『乱』のいわばmaking映像は、日本映画で初めての本格的な映画のmakingでありました。

それまでは、NHKなどがドキュメンタリーとして現場に入ったことはありましたが、このmakingプロジェクトは、製作チームとして完全に撮影隊の中に入り、彼らと寝食を共にしながら、毎日の撮影、リハーサルの様子をビデオカメラに収める、というもので、当初から『making of 乱』というビデオ作品として市場に出す、というものでした。
実は、これを企画して、配給元のヘラルドエース、黒澤プロダクションに持ち込んだのは、この私でありました。24歳の時。
まあ、このことは過去、このブログに何度か書いたことがありますから、ご存じの方もおられるでしょう。
『乱』は、私が大阪芸大の学生だった1980年頃、宮川一夫先生(世界に誇る映画カメラマン。黒澤監督の『羅生門』『用心棒』を担当)から「クロさんがね(先生は黒澤明をクロさん、溝口健二監督をミゾさんと呼んでいた!)、どうしても撮りたいっていう映画があってね。コンテを見せてもらったんだけど、最初から凄いんだ。ファースト・シーンから、三つのお城が同じフレームに収まっていて、いっぱいの軍勢が埋め尽くしているの。こんなの日本映画じゃできない。でもね、これが映画だ、ていうイメージが凄いの。なんとか実現させてもらいたいんだ」と、聞いていたのです。
私は、高校の時、『七人の侍』を観てすっかり黒澤ワールドに魅せられ、『羅生門』『用心棒』『椿三十郎』などを観て、映画の道を志したい、と大阪芸大の映像計画学科に入ったわけです。
黒澤ファンというより、黒澤信者といっても間違いはない。黒澤明は私にとっては、ピカソやダリ、ベートーベンやドストエフスキーなどと並ぶ人だったのです。
その黒澤明監督の『乱』がいよいよ動き出したのが、1983年の頃。私は大学を卒業したものの、就職活動は一切せず、なんとか映画か作家の世界へ行きたくて、チャンスを虎視眈々と狙っていたのです。きっと、当時の私はギラギラしていたんじゃないかな。
で、最初、黒澤監督は『乱』の現場で研修生を募集する、と聞いていたのです。助監督の下で、実際に働いてもらう。映画の勉強をするのなら、現場が一番ということです。与えられたテーマをシナリオにして送ることが条件。採用は3人。
「よし、応募しよ」と、その告知が出るのを待っていたのです。が、いつの間にやら募集は締め切られ、3人の研修生は決まっていた。どうも関東の新聞などで応募されたようで……。
でも、諦められないんですよね。何とかして黒澤監督の元で働きたい。その最高の映画ができる過程を、この目で見て、体感したい。これが実現するなら、何を犠牲にしてもいい。そこまで思いつめた。
それで、makingビデオの企画を持ち込んで、現場に入ろうと思い立ったわけです。
今思うと、随分と乱暴な、後先の見えていない若造の言動です。でも、怖いもの知らず、と、絶対に現場に入る、という強い意志は、時として奇跡を生むのです。
実はこの企画を思いついたヒントは、私が学生の頃に映画作りの貴重な現場をドキュメントした、「Making of Star Wars』と『making of Raiders』という2本のハリウッド製のビデオでした。
『スター・ウォーズ』『レイダース/失われたアーク』というルーカスとスピルバーグの映画ができる過程を、ビデオで観て、研究し、参考にする。これはもう、我々映画を学ぶものとしては、これ以上の教科書はありません。しかもこの映像を撮影したのはUCLAで映画を学ぶ学生たちだとか。
若い才能を、世に出す、ということを若い監督がやっているわけです。凄いことじゃないですか。

そして今度は、そのルーカスとスピルバーグが「My Master!」と呼ぶ黒澤明が戦国絵巻を撮る。その現場をビデオで記録し、後世まで残し、かつ、映画ファンにぜひ見ていただきたい。
そういう思いがこみ上げてきて、動かざるを得なかった、というのが当時の心境でした。
後押ししてくれたのが、当時私がアルバイトをしていたビデオレンタルショップの親会社。1983年ですから、まだビデオレンタルショップは珍しかったし、映画のソフトも日本では話題作以外は出ておらず、また発売されても何万円とした時代です。外国映画は輸入盤しかない。ましてや、一般的には、makingビデオって、なに? という時代。
でも、この会社は、これからはビデオや映像配信の時代だ、と思っていたらしく、私を専属スタッフにするからと、その為の企画要請を私にしてきたのです。それでその企画案の一つとして、『Making of 乱』提案した。
「よくはわからんが、黒澤明という人が世界最高の映画監督だとは知っている。君がそれをやりたいというのなら、営業に行ってこい。ただし、成功報酬。営業費や経費は君が持つこと。もし企画が通れば、製作費は何千万になっても、うちが出す」
常務さんにそう言われました。まあ、そうでなくとも営業は言っていましたけど。しかし、スポンサーが付いているというのは、営業には有利です。
で、making用の台本と企画書を用意した……。
といっても、『乱』がどういったストーリーで、どんなキャラクターが想定され、どういうシーンをどこで撮るのか、さっぱりわからない。
さっそく、映画雑誌やスポーツ新聞の芸能欄を片っ端から読んで、『乱』に関する情報を集め、黒澤明に関する書籍を全部読み、NHKで放送された『黒澤明の世界』を何度も見直しました。これは『影武者』の撮影現場を中心に構成されたものでした。『デルス・ウザーラ』のドキュメント映像も、あるルートから入手した。
そして、なんとか、撮影風景を想定して、そのどこをどう撮るのかを台本を書きあげ、台本を製本、印刷してくれる印刷所に持ち込んで、こういうものが出来上がった。


表紙にZiggyプランニング、とあるのは、個人名じゃ、企画も通らんし仕事もくれないだろうと、個人事務所を作ったのです。もちろん私の住んでいたアパートが住所。
企画書もそうですが、台本は、営業先のプロデューサーや黒澤プロの人に「で、何を撮るの?」と聞かれた時「検討用ですが、ここに書いてあります」と言わないと、通るものも通らない。何より黒澤監督は「監督になりたいならシナリオを描きなさい」と、言っている人。その教えに忠実ですよ、というアピールもできますしね。
でもね。私のこう言った行為は、業界の人たちから猛反対されたのです。
ある映画関係者。
「中山君ね。『影武者』で勝新が降ろされたよね。原因知ってる? ビデオだよ。勝新は現場をビデオに撮って、監督の逆鱗に触れたんだ。黒澤さんはビデオ嫌いなんだよ。そんなの通るわけない」
「何の実績も無い若造が、いきなり黒澤組をビデオで撮らせてくれって? どれだけ業界舐めてんだよ。黒澤組に入れるのは、映画界でもエリート中のエリートだよ」
でも私はこれに反論しました。
「勝新太郎さんは、ビデオが問題ではなく、許可なくビデオを入れて演技プランを考えようとしたんです。それで勝手に演技プランを考えられても困る、監督は二人要らない、と監督は言ったわけで、ビデオを嫌っているわけではないでしょう」
「黒澤監督は、映画研修生の募集をしましたよ。この人たちは素人です。若い人の才能が将来の日本映画を作るんだといっている監督のもとに、若いヤツがMakingを撮らせてください、と言ってむげに断るとは思いません」
でも、黒澤監督の元で働いたというある人からは、こういわれました。
「黒澤さんが新作を撮る。これはマスコミとしてはほっとけない。君がそんな企画をかんがえるくらいだ。きっとNHKとか、フジテレビあたりが、ドキュメンタリー企画を出しているはずだよ。君一人で、そんなところとどうやって勝負するつもりだ?」
それは……、やってみなきゃ、わからんやん。
若気の至り?
ともかくも、企画書と台本を、ヘラルドエースのプロデューサーと、黒澤プロダクション宛に郵送。
でも、郵送して返事を待つなんて悠長なことはしてられない。そのまま新幹線に乗って東京へ。
阿佐ヶ谷にいる友人を頼って、わけを言って、逗留させてもらうことに。そして、新橋にあるヘラルドエースが入っているビルの地下の喫茶店に朝から夜まで待機。そこから何度も何度も、担当プロデューサーへ電話をするわけです。
ところが、会議中、ロケ先、出張中とか言われてまったく出てくれない。
ド素人の若造の送った企画など、やはり映画界の、しかもトップにいる人たちにとっては、相手にもならんか。
すると、ある朝のこと、奇跡が起こったのです!!
続く。
kaidanyawa at 07:00|Permalink│Comments(10)│
2020年11月09日
第二回、怪談〜震えるあまがさき、いろいろ面白かったですわ〜。
中山市朗です。
第二回、怪談〜震えるあまがさき、終了いたしました。
尼崎城、といっても明治6年に廃城していて、昨年オープンした近代の建築です。
家電量販店ミドリ電化の創業者安保詮氏が、創業の地尼崎市への感謝の気持ちで私財12億円を投じて、尼崎城天守閣を建築。賛同した市民ら一般の寄付もあって、昨年3月にオープンしたお城です。
阪神尼崎駅からすぐ見えるので、簡単に近づけるのですが、正面玄関がわからない。

ようやく、正面玄関に辿り着き、

いざ、入城!! ドドーン、ドドーン(太鼓の音)。

竹内義和さんも「迷った」そうで、「そうか、仮にもここお城やからな。簡単に中に入れたら、そら、城としてダメやん」という話に。
でも、このコロナ禍のさ中、こういう怪談イベントを、こういう施設が開催してくれるのは、我々としてはありがたいことです。主催者の方に感謝。
さて、この日、怪談を語るメンバー!
みんな、え〜顔してますな。
左から私、三木大雲和尚、竹内義和さん、シンプレの渡辺裕薫さん。

私は竹内義和さんと30分ずつ語るというステージを2回。
お客さんの応募も多かったとか。暗闇の中にお客さん、待ってはりましたわ。
こんな感じ。

特に第2部では、尼崎で怪談をやる機会があったらぜひ、尼崎の人たちに聞いていただきたい話を披露。そう、西宮市、芦屋市、神戸周辺に戦後間もなく流布した「くだん」についての話。
その流れで、尼崎市の「牛の首」へと話が行くのです。
なんなんやろな、これ。
これに関する情報があれば、オフィスイチロウへご一報、と言ってステージから下りたのですが、今のところ情報はなし!!
第三部は、スペシャル怪談会ということで、独りの客さんを相手にして、30分語る、対面怪談会。
こ〜んな場所で、ふたりっきり〜。
お相手は女性がいいな、と思ってたら、おっさんでした(笑)。しかも常連さん。

さて、闘い終わったら、もう23時が迫ってました。
せっかく、尼崎城に来たんですからな、家康公と会っておかねば。
関ヶ原の後、当地尼崎は、豊臣領から徳川領になったらしい。まあ大阪も同じですけどね。
そんなこんなで、尼崎城内に家康公の御姿が。
「家康殿。貴公、不思議な体験はござらんか」

「家康殿」
「えーい、下賤の身で軽々しくわしに声をかけるでない」
……。
しかし、その後はお互い男と男、しばし二人で話し込みました。

なにかを授かった、ような気がします。
というわけで、震えるあまがさき、これにて落着!
(ドドーン)
第二回、怪談〜震えるあまがさき、終了いたしました。
尼崎城、といっても明治6年に廃城していて、昨年オープンした近代の建築です。
家電量販店ミドリ電化の創業者安保詮氏が、創業の地尼崎市への感謝の気持ちで私財12億円を投じて、尼崎城天守閣を建築。賛同した市民ら一般の寄付もあって、昨年3月にオープンしたお城です。
阪神尼崎駅からすぐ見えるので、簡単に近づけるのですが、正面玄関がわからない。

ようやく、正面玄関に辿り着き、

いざ、入城!! ドドーン、ドドーン(太鼓の音)。

竹内義和さんも「迷った」そうで、「そうか、仮にもここお城やからな。簡単に中に入れたら、そら、城としてダメやん」という話に。
でも、このコロナ禍のさ中、こういう怪談イベントを、こういう施設が開催してくれるのは、我々としてはありがたいことです。主催者の方に感謝。
さて、この日、怪談を語るメンバー!
みんな、え〜顔してますな。
左から私、三木大雲和尚、竹内義和さん、シンプレの渡辺裕薫さん。

私は竹内義和さんと30分ずつ語るというステージを2回。
お客さんの応募も多かったとか。暗闇の中にお客さん、待ってはりましたわ。
こんな感じ。

特に第2部では、尼崎で怪談をやる機会があったらぜひ、尼崎の人たちに聞いていただきたい話を披露。そう、西宮市、芦屋市、神戸周辺に戦後間もなく流布した「くだん」についての話。
その流れで、尼崎市の「牛の首」へと話が行くのです。
なんなんやろな、これ。
これに関する情報があれば、オフィスイチロウへご一報、と言ってステージから下りたのですが、今のところ情報はなし!!
第三部は、スペシャル怪談会ということで、独りの客さんを相手にして、30分語る、対面怪談会。
こ〜んな場所で、ふたりっきり〜。
お相手は女性がいいな、と思ってたら、おっさんでした(笑)。しかも常連さん。

さて、闘い終わったら、もう23時が迫ってました。
せっかく、尼崎城に来たんですからな、家康公と会っておかねば。
関ヶ原の後、当地尼崎は、豊臣領から徳川領になったらしい。まあ大阪も同じですけどね。
そんなこんなで、尼崎城内に家康公の御姿が。
「家康殿。貴公、不思議な体験はござらんか」

「家康殿」
「えーい、下賤の身で軽々しくわしに声をかけるでない」
……。
しかし、その後はお互い男と男、しばし二人で話し込みました。

なにかを授かった、ような気がします。
というわけで、震えるあまがさき、これにて落着!
(ドドーン)
kaidanyawa at 09:08|Permalink│Comments(3)│
2020年11月08日
プライベート怪談会終了! 感想は、ただただFANTASTIC!!
中山市朗です。
人数を制限して、区民ホールの会議室をお借りしての「プライベート怪談会」。
昨日、終了しましたが……。
FANTASTIC!!!!
これが感想!
夕方の部、5人
夜の部、5人
という参加者。もちろんコロナ感染対策。ほんとは和室を借りたかったんですけど、空いて無かったので会議室での開催。なんか雰囲気でませんなあ。
時間も、それぞれ1時間50分ずつ。

でもねえ、話は凄いのが出たんですよ!!
特に夕方の部。いつもなら、皆さんの怪談を聞きながら、私も思い出したり、関連した話を披露しているのですが、そんな間がない!!
次から次へと、出るわ出るわ。
しかもレベルが高い!! 高すぎる!!
もちろんみなさん、一般の方ですよ。
何話かは「これ、怪談と言えないかも知れないですけど」という始まりで語られましたが、いやいやそれ、凄いやん、という話も。幽霊が出なくても、ちゃんと怪異談になっていますよ。
夜の部になっても、そのままレベルが維持されて……。
だからまさに、FANTASTICだったんですよ。
大阪の黒門市場での怪異、首つり自殺を見た時の怪異、神様なのか妖怪なのか、という話、迷い家、カミナリ様、妊娠中にあった不思議、長篠の決戦址での怪異、などなど。みんな新しいパターンの怪異談。あるもんですなあ!!
でも、今回、というか次作の『怪談狩り』のメインモチーフになるかもしれない話が……。
冥界から来る黒いバス、の話。
これ、怖い。そして、関連した話が出てくる。
私も長年、怪異蒐集しておりまして、以前この黒いバスの話を一話蒐集していて、「なんだろ、この話」と思っていたんですよ。そしたら今回、出たのですよ。
冥界から来る黒いバスのスピンオフ、ともいえる話が。しかも別の場所にもそれが……。
おそらく冥界から来ているのであろう、黒いバスが、あちこちに出現し、人々を異界に送ってる……、らしい、という話。話してくれたのはある主婦の方。複雑な人間関係や時系列を細かくメモされていて、そのメモもいただきました。
えっ、奇妙な黒いバスの話、聞いたことあるかも、という方、ぜひ、オフィスイチロウまでメールかお電話をくださいませんか?
なんやろ、この話。
ちょっとね、『怪談狩り/四季異聞録』に「無人駅」の話を書きましたが、あれに出てくる、真っ黒の特急列車を思い出しました。関係、あるかも……?
私の中の、新しいテーマ。
まとめるのにちょっと難儀しそうな話ではありますが。
いやあ、充実した怪談会でした。一夜明けた今も、興奮冷めやらぬ、といった感じです。
夕方の部、参加者の方たちと記念撮影。なんと5人中4人が女性。
コロナもあって、ほとんどの方が顔出しNG。

夜の部も写真を撮ろうとしたら、参加者のほとんどが顔出しNG。だから記念撮影はなしに。
特に地方から来られた方は、世間体というか、いろいろ気を使ってらっしゃるようで。
皆さん、終わると「短か!」と言って帰られていました。それだけ充実していたということ。
次回は、1月下旬当たりの土日のいずれかに、同じ区民センターの和室か会議室をお借りして、昼間からやろうかなと思っております。また、詳細が決まりましたらお知らせします。
「プライベート怪談会」。
怪談好きなら、一度は参加しておいて、損はないです。なんとか1話は蒐集しておきましょう。
もう一度、FANTASTIC!!
人数を制限して、区民ホールの会議室をお借りしての「プライベート怪談会」。
昨日、終了しましたが……。
FANTASTIC!!!!
これが感想!
夕方の部、5人
夜の部、5人
という参加者。もちろんコロナ感染対策。ほんとは和室を借りたかったんですけど、空いて無かったので会議室での開催。なんか雰囲気でませんなあ。
時間も、それぞれ1時間50分ずつ。

でもねえ、話は凄いのが出たんですよ!!
特に夕方の部。いつもなら、皆さんの怪談を聞きながら、私も思い出したり、関連した話を披露しているのですが、そんな間がない!!
次から次へと、出るわ出るわ。
しかもレベルが高い!! 高すぎる!!
もちろんみなさん、一般の方ですよ。
何話かは「これ、怪談と言えないかも知れないですけど」という始まりで語られましたが、いやいやそれ、凄いやん、という話も。幽霊が出なくても、ちゃんと怪異談になっていますよ。
夜の部になっても、そのままレベルが維持されて……。
だからまさに、FANTASTICだったんですよ。
大阪の黒門市場での怪異、首つり自殺を見た時の怪異、神様なのか妖怪なのか、という話、迷い家、カミナリ様、妊娠中にあった不思議、長篠の決戦址での怪異、などなど。みんな新しいパターンの怪異談。あるもんですなあ!!
でも、今回、というか次作の『怪談狩り』のメインモチーフになるかもしれない話が……。
冥界から来る黒いバス、の話。
これ、怖い。そして、関連した話が出てくる。
私も長年、怪異蒐集しておりまして、以前この黒いバスの話を一話蒐集していて、「なんだろ、この話」と思っていたんですよ。そしたら今回、出たのですよ。
冥界から来る黒いバスのスピンオフ、ともいえる話が。しかも別の場所にもそれが……。
おそらく冥界から来ているのであろう、黒いバスが、あちこちに出現し、人々を異界に送ってる……、らしい、という話。話してくれたのはある主婦の方。複雑な人間関係や時系列を細かくメモされていて、そのメモもいただきました。
えっ、奇妙な黒いバスの話、聞いたことあるかも、という方、ぜひ、オフィスイチロウまでメールかお電話をくださいませんか?
なんやろ、この話。
ちょっとね、『怪談狩り/四季異聞録』に「無人駅」の話を書きましたが、あれに出てくる、真っ黒の特急列車を思い出しました。関係、あるかも……?
私の中の、新しいテーマ。
まとめるのにちょっと難儀しそうな話ではありますが。
いやあ、充実した怪談会でした。一夜明けた今も、興奮冷めやらぬ、といった感じです。
夕方の部、参加者の方たちと記念撮影。なんと5人中4人が女性。
コロナもあって、ほとんどの方が顔出しNG。

夜の部も写真を撮ろうとしたら、参加者のほとんどが顔出しNG。だから記念撮影はなしに。
特に地方から来られた方は、世間体というか、いろいろ気を使ってらっしゃるようで。
皆さん、終わると「短か!」と言って帰られていました。それだけ充実していたということ。
次回は、1月下旬当たりの土日のいずれかに、同じ区民センターの和室か会議室をお借りして、昼間からやろうかなと思っております。また、詳細が決まりましたらお知らせします。
「プライベート怪談会」。
怪談好きなら、一度は参加しておいて、損はないです。なんとか1話は蒐集しておきましょう。
もう一度、FANTASTIC!!
kaidanyawa at 07:01|Permalink│Comments(3)│
2020年11月07日
バルヴェーニ12年!! 映画に見る、ウイスキーのおいしい飲み方、講座??
中山市朗です。
亡くなった母へのお悔み、ということで、Nさんからこんなものをいただきました。
バルヴェーニ12年。イギリスのシングルモルト・ウイスキーです。
ウイスキーは大好物であります。
この場を借りて、御礼申し上げます。
またおいしくいただきます!!

バルヴェーニ12年というと、映画『ディ・アフター・トゥモロー』(2004年)を思い出します。
気候変動により激しい気温低下の中、その注意勧告をしながらも結局、政府に無視され、人類の滅亡が迫ってくる中でのスコットランドの3人の学者。孤立した研究所で燃料も無くなり、彼らも死を覚悟するが……。すると一人がウイスキーを見つけて「これ、燃料に使えないかな」。すると老教授。
「おいおい、気は確かか? バルヴェーニ12年じゃないか」といってグラスを3つ用意する。
3人は乾杯するんですよ。外は猛吹雪。その後、この研究所の描写はありませんので、おそらく3人の学者たちは、ウイスキーを飲んで、そのまま……。

ウイスキーは、皆さんハイボールか水割りでお飲みになりますね。
でも私は、オンザロックか、ストレート!
旨いウイスキーは、ストレートに限る!
私の好きな映画に『静かなる男』(1952年)というジョン・フォード監督の傑作があります。
フォードが故郷のアイルランドに愛情をもって作った一品。ヤンキーのジョン・ウェインが幼き日々を送ったアイルランドのイニスフリーという田舎に戻ってきて、そこで繰り広げられる恋愛あり、郷愁あり、喧嘩あり、友情ありといった、ドタバタもあるドラマ。
ジョン・ウェインが恋したモーリン・オハラの家に、仲人の挨拶として訪れる爺さん。バリー・フィツツジェラルドという役者が演じて、いい味出しているんです。
爺さんに、ウイスキーを進めるオハラ姐さん。すると爺さんは、グラスにそのまま注ぐとストレートでがぶ飲み。オハラ姐さん。「ねえ、それ、水で割ったら?」
すると爺さん。「なに、ウイスキーに水だと? ウイスキーはウイスキーで割るのが一番じゃ。水で割るとウイスキーではなくなっちまうわい」

実は、シングルモルト・ウイスキーを氷や水、ソーダなどで割ると、微妙に味が変わるということで、イギリスではストレートで飲むのが常識なのですと。
まあ、アメリカの西部劇なんか観ても、ボトルからグラスに注いで、そのまま、クイッ!
随分と質の悪いウイスキーもあったようですけど。
私は飲んだことないのですが、アメリカ式のウイスキー・カクテルに「ボイラーメーカー」というのがあるらしい。
ジョン・ウェインの刑事アクション『ブラニガン』(1975年)で、殺し屋を追ってイギリスにやってきた、ウェイン扮するブラニガン刑事。「ボイラーメーカー」をイギリスの女人禁制の社交クラブで注文するシーンがあります。ウェイターは「なに、それ?」みたいな反応。
ビールを注いだジョッキの中にウイスキーのストレートを入れて割って飲む。アルコール度高そうですな。調べてみたら、アメリカの労働者が缶ビールの中にバーボン・ウイスキーを入れて飲んだのがその発祥らしい。もちろんすぐ酔える為。

ボイラーメーカーで乾杯するジョン・ウェイン!
ロバート・レットフォード監督の『リバーランド・スルーイット』(1992年)にもボイラーメーカーは出てきます。グレイグ・シェーファー演じるノーマンが、ビールを注いだ目の前のジョッキの中に、バーボンのストレートを入れたショットグラスをそのまま、グラスの中にポトリ。それを飲む!!
いっぺん、やってみようかな〜。
バルヴェーニ12年は、もったいないからストレートで飲ませていただきます!!
ちなみに、「俺は毎日、浴びるほどウイスキーを飲んでるよ」と言ったジョン・ウェインですが、彼の造ったウイスキーがあるのはご存じ?
こんなバーボン。
Duke Kntucky Straight Bourbon 。

ジョン・ウェインは、自分好みのバーボン・ウイスキーを作ろうと実験をしていたようで、1979年に亡くなった彼の遺品から、ラベルの無いウイスキー・ボトルが数本出てきて、それはウェインがレシピしたものだったそうで、書き残したメモなんかもあったそうです。そして作ってみるとれが旨かった!らしい!
そのレシピを元にデューク・スピリッツ社から2013年に発売されたものが、Duke Kntucky Straight Bourbon 。デューク・スピリッツ社の創業者の一人は、ジョン・イーサン・ウェイン。ジョン・ウェインの息子なんだそうです。飲んだことないけど。
ウェインの遺作『ラスト・シューティスト』でも、バーボンを飲むジョン・ウェインの姿が!!

アメリカの密造酒として作られたコーン・ウイスキーというものもあります。
それについての記事も書いておりますので、興味があればお読みください。
http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54899796.html
Whiskey!!
hallelujah!!
亡くなった母へのお悔み、ということで、Nさんからこんなものをいただきました。
バルヴェーニ12年。イギリスのシングルモルト・ウイスキーです。
ウイスキーは大好物であります。
この場を借りて、御礼申し上げます。
またおいしくいただきます!!

バルヴェーニ12年というと、映画『ディ・アフター・トゥモロー』(2004年)を思い出します。
気候変動により激しい気温低下の中、その注意勧告をしながらも結局、政府に無視され、人類の滅亡が迫ってくる中でのスコットランドの3人の学者。孤立した研究所で燃料も無くなり、彼らも死を覚悟するが……。すると一人がウイスキーを見つけて「これ、燃料に使えないかな」。すると老教授。
「おいおい、気は確かか? バルヴェーニ12年じゃないか」といってグラスを3つ用意する。
3人は乾杯するんですよ。外は猛吹雪。その後、この研究所の描写はありませんので、おそらく3人の学者たちは、ウイスキーを飲んで、そのまま……。

ウイスキーは、皆さんハイボールか水割りでお飲みになりますね。
でも私は、オンザロックか、ストレート!
旨いウイスキーは、ストレートに限る!
私の好きな映画に『静かなる男』(1952年)というジョン・フォード監督の傑作があります。
フォードが故郷のアイルランドに愛情をもって作った一品。ヤンキーのジョン・ウェインが幼き日々を送ったアイルランドのイニスフリーという田舎に戻ってきて、そこで繰り広げられる恋愛あり、郷愁あり、喧嘩あり、友情ありといった、ドタバタもあるドラマ。
ジョン・ウェインが恋したモーリン・オハラの家に、仲人の挨拶として訪れる爺さん。バリー・フィツツジェラルドという役者が演じて、いい味出しているんです。
爺さんに、ウイスキーを進めるオハラ姐さん。すると爺さんは、グラスにそのまま注ぐとストレートでがぶ飲み。オハラ姐さん。「ねえ、それ、水で割ったら?」
すると爺さん。「なに、ウイスキーに水だと? ウイスキーはウイスキーで割るのが一番じゃ。水で割るとウイスキーではなくなっちまうわい」

実は、シングルモルト・ウイスキーを氷や水、ソーダなどで割ると、微妙に味が変わるということで、イギリスではストレートで飲むのが常識なのですと。
まあ、アメリカの西部劇なんか観ても、ボトルからグラスに注いで、そのまま、クイッ!
随分と質の悪いウイスキーもあったようですけど。
私は飲んだことないのですが、アメリカ式のウイスキー・カクテルに「ボイラーメーカー」というのがあるらしい。
ジョン・ウェインの刑事アクション『ブラニガン』(1975年)で、殺し屋を追ってイギリスにやってきた、ウェイン扮するブラニガン刑事。「ボイラーメーカー」をイギリスの女人禁制の社交クラブで注文するシーンがあります。ウェイターは「なに、それ?」みたいな反応。
ビールを注いだジョッキの中にウイスキーのストレートを入れて割って飲む。アルコール度高そうですな。調べてみたら、アメリカの労働者が缶ビールの中にバーボン・ウイスキーを入れて飲んだのがその発祥らしい。もちろんすぐ酔える為。

ボイラーメーカーで乾杯するジョン・ウェイン!
ロバート・レットフォード監督の『リバーランド・スルーイット』(1992年)にもボイラーメーカーは出てきます。グレイグ・シェーファー演じるノーマンが、ビールを注いだ目の前のジョッキの中に、バーボンのストレートを入れたショットグラスをそのまま、グラスの中にポトリ。それを飲む!!
いっぺん、やってみようかな〜。
バルヴェーニ12年は、もったいないからストレートで飲ませていただきます!!
ちなみに、「俺は毎日、浴びるほどウイスキーを飲んでるよ」と言ったジョン・ウェインですが、彼の造ったウイスキーがあるのはご存じ?
こんなバーボン。
Duke Kntucky Straight Bourbon 。

ジョン・ウェインは、自分好みのバーボン・ウイスキーを作ろうと実験をしていたようで、1979年に亡くなった彼の遺品から、ラベルの無いウイスキー・ボトルが数本出てきて、それはウェインがレシピしたものだったそうで、書き残したメモなんかもあったそうです。そして作ってみるとれが旨かった!らしい!
そのレシピを元にデューク・スピリッツ社から2013年に発売されたものが、Duke Kntucky Straight Bourbon 。デューク・スピリッツ社の創業者の一人は、ジョン・イーサン・ウェイン。ジョン・ウェインの息子なんだそうです。飲んだことないけど。
ウェインの遺作『ラスト・シューティスト』でも、バーボンを飲むジョン・ウェインの姿が!!

アメリカの密造酒として作られたコーン・ウイスキーというものもあります。
それについての記事も書いておりますので、興味があればお読みください。
http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54899796.html
Whiskey!!
hallelujah!!
kaidanyawa at 06:56|Permalink│Comments(4)│
2020年11月06日
はやく、コロナが収束して、今までのようなオールナイト、宴会付きの怪談会をやりてえなあ!!!
中山市朗です。
明日は、プライベート怪談会!
人数に制限を掛けて、会議室での開催。
そもそも怪談は、聞く、語る、が本来の楽しみ方です。
予約された方、忘れてはいけませんよ。人数制限でお断りした方々もおられるのです。
にしても、
はやく、コロナが収束して、今までのようなオールナイト、宴会付きの怪談会をやりてえなあ!!!
普段のプライベート怪談会。私の書斎です。

去年の東京でのプライベート怪談会の参加者の方々!

今年はとうとう、東京ではできんかった!
明日は、プライベート怪談会!
人数に制限を掛けて、会議室での開催。
そもそも怪談は、聞く、語る、が本来の楽しみ方です。
予約された方、忘れてはいけませんよ。人数制限でお断りした方々もおられるのです。
にしても、
はやく、コロナが収束して、今までのようなオールナイト、宴会付きの怪談会をやりてえなあ!!!
普段のプライベート怪談会。私の書斎です。

去年の東京でのプライベート怪談会の参加者の方々!

今年はとうとう、東京ではできんかった!
kaidanyawa at 07:25|Permalink│Comments(4)│
2020年11月05日
中山市朗★妖怪講座・天狗の巻第3弾、アップ! 今の世にも天狗はおる!!
中山市朗です。
すみません。忘れていたわけではないのですが「中山市朗YouTubeチャンネル」」、更新しました。
『日本について語ろう・48 中山市朗★妖怪講座』第17弾です。

妖怪といえば、むかしむかしの良き日本の、むかしばなし、に出てはそうなものですが、いやいやこの現代にも妖怪たちは我々の前に出現しているよ、という、いわば実話系怪談の中の妖怪譚を紹介しております。
天狗。
天狗はじかに見た、現れた、というより、それって天狗の類じゃない? みたいな、ニアミスというか、ちょっとした山での怪異が、天狗の現象として語られることもあるようですね。
今回もそんな、ふわっと不可解な話を紹介しております。
この中で語っている『山の自動販売機』についての後日談を。
この山、兵庫県のある有名な山であったことですが、この話を聞いてから数年後、やはり山の中で豪雨に遭って、同じように、ポツンとある、赤い光を遠くに見たという人がいました。ところがこの人は、私の話を聞いていたので「もしかして、あれはそうなのか?」と思って、赤い光には怖くて近づかなかったそうです。具体的な場所は言っていなかったのですが、その方から「どこ?」と聞くと、ピンポーン!
「やっぱり」と彼。彼もこの登山のコースは何度も歩いて知っていたといいますが、その山小屋は、その後取り壊されたそうで、そのことも知っていたと。
行けば、同じことが起こったのでしょうか?
すみません。忘れていたわけではないのですが「中山市朗YouTubeチャンネル」」、更新しました。
『日本について語ろう・48 中山市朗★妖怪講座』第17弾です。

日本について語ろう㊽〜中山市朗 - YouTube
妖怪といえば、むかしむかしの良き日本の、むかしばなし、に出てはそうなものですが、いやいやこの現代にも妖怪たちは我々の前に出現しているよ、という、いわば実話系怪談の中の妖怪譚を紹介しております。
天狗。
天狗はじかに見た、現れた、というより、それって天狗の類じゃない? みたいな、ニアミスというか、ちょっとした山での怪異が、天狗の現象として語られることもあるようですね。
今回もそんな、ふわっと不可解な話を紹介しております。
この中で語っている『山の自動販売機』についての後日談を。
この山、兵庫県のある有名な山であったことですが、この話を聞いてから数年後、やはり山の中で豪雨に遭って、同じように、ポツンとある、赤い光を遠くに見たという人がいました。ところがこの人は、私の話を聞いていたので「もしかして、あれはそうなのか?」と思って、赤い光には怖くて近づかなかったそうです。具体的な場所は言っていなかったのですが、その方から「どこ?」と聞くと、ピンポーン!
「やっぱり」と彼。彼もこの登山のコースは何度も歩いて知っていたといいますが、その山小屋は、その後取り壊されたそうで、そのことも知っていたと。
行けば、同じことが起こったのでしょうか?
kaidanyawa at 06:58|Permalink│Comments(7)│
2020年11月04日
MBSラジオ『茶屋町怪談〜女性怪談作家SP』、終了しての感想。このような企画を実現させたスタッフが凄い!!
中山市朗です。

!!!
昨夜のMBSラジオ『茶屋町怪談〜女性怪談作家SP』、いかがでしたか?
作家というのは、まあ、文字を書くのが仕事で、それは小説、随筆、ノンフィクション、エッセイなど多義にわたるわけですが、書くための題材探しを常にしている人種です。で、膨大な文献に当たったり、取材を繰り返したりしているわけです。そして、頭の中で構成を考えている。つまり、見たこと、聴いたこと、体感したこと、改めて知ったことをどう表現して、どんな作品に仕上げようかといつも考えているわけです。多分。
多分、というのは、作家にもいろいろタイプはあるし、取材は全くしないという天才肌の作家もいたりするのです。でも、怪談作家となると、実話系であれ創作であれ、怪異の蒐集は必須であり、蒐集したものをいかに怪談として表現するかと考えるわけです。つまり、聴いた怪異体験をいかにストーリーにするかです。作家というのは、この、物事をつなぎ合わせてストーリー化するという技に長けているのです。つまり、話を作るプロ。当然ですけど。
作家の語る怪談は、そういう技の妙とか、こだわりのテーマ性が必ずあるはずで、そこから怪談以外の何かをインスパイアさせてくれる。そういう面白さがあるわけです。
しかも、女性作家ですからねえ。まあ、女流作家という言い方もするわけですが。
女性は、生命に関する直観力、危険を察知する能力は総じて男性より敏感で、太古より日本では神を降ろしたり、依り代になるのは女性であり、霊感体質といわれる人も、私が思うに女性が圧倒的に多いように思います。呪う、のも、化けて出る、というのも昔から女性の特権(?)ですしね。
そして現に、彼女らの書く怪談には、男には書けない、いや、気が付かない、情念や愛憎が根底に流れ、そこはかとはない艶やかさがあったりします。そういう女流作家たちの語る怪談を特集するというMBS『茶屋町怪談』のスタッフ、製作者も、だんだん怪談のことが解って来たというか、怪談番組のプロとして洗礼されてきたというか……。
で、やはり、というか、今回は番組の狙い通り、興味深い、いつもとはちと切り口の違う女流作家たちの興味深い話が聴けました。
出演者一同と。右から、敬称抜きで、深津さくら、田辺青蛙、花房観音、松原タニシ、私、藤林アナ。

牛抱せん夏、川奈まり子のお二人は、関東よりリモート出演。
花房観音さんは、自身がバスガイドということから、同僚の短い体験談を重ねながら、自身の体験談にもっていく。構成力の妙ですね。作家としての洞察力が、短いエピソードの怪談をだんだん膨らませて、一つのテーマを持った怪談とする。面白かったですねえ。聞いていて私もいろいろな話を思い出しちゃいました。
田辺青蛙さんは、10年前、記念すべき第1回『Dark Night』にゲストに来ていただき、持参した市松人形が声を発した、というあの人。今回披露していただいた話も、一冊の本に書いてあったエピソードから、だんだんその噂や真相らしきものをあぶり出し、今もその不可思議なものは実はある……、という、でもあやふやさが残って、そこが怪談たらしめる。しかも大阪の歴史がリンクしているという。
牛抱せん夏さんは、本業は作家というより語り手。その語りもそうとう熟練して、芸としても落ち着いてきた感がありました。舞台とラジオ、という媒体の違いもあるでしょうが、落ち着いてきた分、説得力が出た。そして、怪談は、間。わかってはいるんですけど、演じている方は2秒、3秒の間が怖いわけです。そこを計算して演出されていた。流石です。
深津さくらさん。この人は正当怪談というより、なんだかよくわからない、何かがずれている、合点がいかない、そこがなんともイヤ〜な感覚。でも、周りの日常はいつものようにある、と。そんな話。こういう話も、話術が長けていないとできないですね。12月の『Dark Night』にゲストのお一人として呼んでいますので、彼女に注目している方はぜひ。

川奈まり子さん。今回の語りも、一つの場所から、ぐいぐい真相を暴き出そうとして、思わぬ別の怪異に遭遇し、それらが根底で繋がっている、という……。取材に裏打ちされた怪談。実際川奈さんも現場へぐいぐい行って、奇妙な写真が撮れたら、喜々としている人ですからねえ。でもやっぱり、取材を重ねて行って話を構成して、説得させるという作家ならではの怪談だったと思います。
私として興味があったのは、女流作家5人による座談会。
実話の怪談を書く時に心掛けているもの、とか、本当のことを言っているのかという見極めの方法、といった疑問を皆さんお持ちでした。怪談蒐集の難しいところ。確かに体験談を取材していたら「あれ、それどこかで聞いたぞ」とか「ネットに出てる話やん」とか、どこかの芸能人が話していた、なんて話を聞かされることもあります。でも中にはその人の話が拡散されていって、というパターンもあったりします。一人の人が何人もの作家や芸人に話を提供していることも珍しくないし。
みなさん、それぞれに取材した話をどう取捨するかの判断の基準や疑う目の必要性を説いていらっしゃいました。私も常々「怪異には懐疑的な目を持っている」というのも、まあ同じスタンスなわけです。
冷静な目でもって、判断する。
作家の場合、しゃべって終い、ではなくて作品として残りますからねえ。でも、やっぱり一話でも多くの怪談を蒐集し、そこから取捨することが、我々としたら良質な怪談を皆さんに提供できると思うのです。
今回は、私自身もいろいろ勉強になり、また参考にさせていただくものが多くあった、楽しく実りのある、いつもとは違った『茶屋町怪談』でした。
出演者3人で、チャクラ!!!

なんでチャクラって?
どうも藤林さん、第3の目をお持ちだそうでして、当日も奇妙なものが見えていたそうです。
さて、12月も『茶屋町怪談』はありまして、告知が出ました。
『北野誠の茶屋町怪談』有料配信!
12月22日(火)
19:30〜21:30
後日、一部ラジオ放送、一部YouTube配信。
出演
北野誠、松原タニシ、中山市朗、三木大雲
Apsu Shusei 下駄華緒 藤林温子(MBSアナウンサー)

チケットはこちらhttps://l-tike.com/kaidan

!!!
昨夜のMBSラジオ『茶屋町怪談〜女性怪談作家SP』、いかがでしたか?
作家というのは、まあ、文字を書くのが仕事で、それは小説、随筆、ノンフィクション、エッセイなど多義にわたるわけですが、書くための題材探しを常にしている人種です。で、膨大な文献に当たったり、取材を繰り返したりしているわけです。そして、頭の中で構成を考えている。つまり、見たこと、聴いたこと、体感したこと、改めて知ったことをどう表現して、どんな作品に仕上げようかといつも考えているわけです。多分。
多分、というのは、作家にもいろいろタイプはあるし、取材は全くしないという天才肌の作家もいたりするのです。でも、怪談作家となると、実話系であれ創作であれ、怪異の蒐集は必須であり、蒐集したものをいかに怪談として表現するかと考えるわけです。つまり、聴いた怪異体験をいかにストーリーにするかです。作家というのは、この、物事をつなぎ合わせてストーリー化するという技に長けているのです。つまり、話を作るプロ。当然ですけど。
作家の語る怪談は、そういう技の妙とか、こだわりのテーマ性が必ずあるはずで、そこから怪談以外の何かをインスパイアさせてくれる。そういう面白さがあるわけです。
しかも、女性作家ですからねえ。まあ、女流作家という言い方もするわけですが。
女性は、生命に関する直観力、危険を察知する能力は総じて男性より敏感で、太古より日本では神を降ろしたり、依り代になるのは女性であり、霊感体質といわれる人も、私が思うに女性が圧倒的に多いように思います。呪う、のも、化けて出る、というのも昔から女性の特権(?)ですしね。
そして現に、彼女らの書く怪談には、男には書けない、いや、気が付かない、情念や愛憎が根底に流れ、そこはかとはない艶やかさがあったりします。そういう女流作家たちの語る怪談を特集するというMBS『茶屋町怪談』のスタッフ、製作者も、だんだん怪談のことが解って来たというか、怪談番組のプロとして洗礼されてきたというか……。
で、やはり、というか、今回は番組の狙い通り、興味深い、いつもとはちと切り口の違う女流作家たちの興味深い話が聴けました。
出演者一同と。右から、敬称抜きで、深津さくら、田辺青蛙、花房観音、松原タニシ、私、藤林アナ。

牛抱せん夏、川奈まり子のお二人は、関東よりリモート出演。
花房観音さんは、自身がバスガイドということから、同僚の短い体験談を重ねながら、自身の体験談にもっていく。構成力の妙ですね。作家としての洞察力が、短いエピソードの怪談をだんだん膨らませて、一つのテーマを持った怪談とする。面白かったですねえ。聞いていて私もいろいろな話を思い出しちゃいました。
田辺青蛙さんは、10年前、記念すべき第1回『Dark Night』にゲストに来ていただき、持参した市松人形が声を発した、というあの人。今回披露していただいた話も、一冊の本に書いてあったエピソードから、だんだんその噂や真相らしきものをあぶり出し、今もその不可思議なものは実はある……、という、でもあやふやさが残って、そこが怪談たらしめる。しかも大阪の歴史がリンクしているという。
牛抱せん夏さんは、本業は作家というより語り手。その語りもそうとう熟練して、芸としても落ち着いてきた感がありました。舞台とラジオ、という媒体の違いもあるでしょうが、落ち着いてきた分、説得力が出た。そして、怪談は、間。わかってはいるんですけど、演じている方は2秒、3秒の間が怖いわけです。そこを計算して演出されていた。流石です。
深津さくらさん。この人は正当怪談というより、なんだかよくわからない、何かがずれている、合点がいかない、そこがなんともイヤ〜な感覚。でも、周りの日常はいつものようにある、と。そんな話。こういう話も、話術が長けていないとできないですね。12月の『Dark Night』にゲストのお一人として呼んでいますので、彼女に注目している方はぜひ。

川奈まり子さん。今回の語りも、一つの場所から、ぐいぐい真相を暴き出そうとして、思わぬ別の怪異に遭遇し、それらが根底で繋がっている、という……。取材に裏打ちされた怪談。実際川奈さんも現場へぐいぐい行って、奇妙な写真が撮れたら、喜々としている人ですからねえ。でもやっぱり、取材を重ねて行って話を構成して、説得させるという作家ならではの怪談だったと思います。
私として興味があったのは、女流作家5人による座談会。
実話の怪談を書く時に心掛けているもの、とか、本当のことを言っているのかという見極めの方法、といった疑問を皆さんお持ちでした。怪談蒐集の難しいところ。確かに体験談を取材していたら「あれ、それどこかで聞いたぞ」とか「ネットに出てる話やん」とか、どこかの芸能人が話していた、なんて話を聞かされることもあります。でも中にはその人の話が拡散されていって、というパターンもあったりします。一人の人が何人もの作家や芸人に話を提供していることも珍しくないし。
みなさん、それぞれに取材した話をどう取捨するかの判断の基準や疑う目の必要性を説いていらっしゃいました。私も常々「怪異には懐疑的な目を持っている」というのも、まあ同じスタンスなわけです。
冷静な目でもって、判断する。
作家の場合、しゃべって終い、ではなくて作品として残りますからねえ。でも、やっぱり一話でも多くの怪談を蒐集し、そこから取捨することが、我々としたら良質な怪談を皆さんに提供できると思うのです。
今回は、私自身もいろいろ勉強になり、また参考にさせていただくものが多くあった、楽しく実りのある、いつもとは違った『茶屋町怪談』でした。
出演者3人で、チャクラ!!!

なんでチャクラって?
どうも藤林さん、第3の目をお持ちだそうでして、当日も奇妙なものが見えていたそうです。
さて、12月も『茶屋町怪談』はありまして、告知が出ました。
『北野誠の茶屋町怪談』有料配信!
12月22日(火)
19:30〜21:30
後日、一部ラジオ放送、一部YouTube配信。
出演
北野誠、松原タニシ、中山市朗、三木大雲
Apsu Shusei 下駄華緒 藤林温子(MBSアナウンサー)

チケットはこちらhttps://l-tike.com/kaidan
kaidanyawa at 07:37|Permalink│Comments(5)│
2020年11月03日
ショーン・コネリーさん追悼〜ジェームズ・ボンドの履歴書
中山市朗です。
イギリスの名優、ショーン・コネリーさんが亡くなりましたねえ。90歳没。先日亡くなった母の1歳年上。
コネリーといえば、ジェームズ・ボンド!
ボンドは誰が適役か、というアンケートをとると、これは世代(最初見たボンド映画は何か)で変わるのでしょうけど、やっぱりショーン・コネリーでしょう。
私が見た最初のボンド映画は、テレビ放送された『’007/ゴールドフィンガー』。コネリー主演の最高傑作。
劇場で見た最初のボンド映画は『007/黄金銃を持つ男』。ロジャー・ムーア主演。
こちらは、ショーン・コネリー。

1962年に公開された『007は殺しの番号(リバイバル公開以降は『007/ドクター・ノオ』)』が、ジェームズ・ボンドのスクリーン・デビュー。もっともショーン・コネリーはいろいろ映画には出ていたのですが、日本では全くの無名。同年、『史上最大の作戦』にも出ていたのですが、日本版のパンフレットには、シーン・コナリーと表記されていました。

ジェームズ・ボンドでブレイクしたコネリーでしたが、あまりヒットしちゃうとそのイメージが災いして、役者は苦労する、ということを理解していて、彼はヒッチコック(『マーニー』)、ジョン・ヒューストン(『王になろうとした男』)、エドワード・ドミトリク(『シャラコ』)という巨匠の作品に出たり、ボンド役を降りても、シドニー・ルメット、スピルバーグ、デ・バルマ、マイケル・ベイといった監督の作品にも出て、見事ボンドのイメージを払拭し、名優としてのキャリアと名声を残しました。
さて、コネリーが役を降りた後も、ボンド役は他の役者に引き継がれ、今までコネリー以外に5人が演じていますが、これはジェームズ・ボンドというキャラクターと世界観が、今もって人々の支持を得、かつ魅力的で、映画の題材としてもエキサイティングである、というわけでしょう。

そこでジェームズ・ボンドというキャラクターを、ここで分析してみましょう。
ボンドは時代により設定は変わるのですが、ショーン・コネリーが演じたボンドは、下記のように原作に近いものであります。
ジェームズ・ボンド 履歴書(イアン・フレミングの原作による)
参考文献
『ジェイムズ・ボンド白書』(キングズリー・エイミス)
武田一男による「ジェームズ・ボンド・レポート」
※は私が補足。
*******************************
1924年2月1日、スコットランド・ハイランドで生まれる。
※あれあれ、今年96歳? 設定当時は1955年でしたから。なお、ボンドの生誕については諸説はあるが、タイガー田中が「キミはネズミ年」と言う場面があるので、これを信用するなら24年となる。ただし、この原作をもとにした年齢設定は、映画ではショーン・コネリーのボンドまでで、ロジャー・ムーアからは、演じる俳優に合わせた年齢設定となりました。
ちなみに、ボンドの風体というか、顔のイメージは、原作者のフレミングはボーギー・カーマイケルというピアニストをモデルにしたそうです。
この人です↓

さて、ジェームズ・ボンドですが、原作によれば
父・スコットランド人 アンドリュー・ボンド
母・スイス人 モニカ・テラクロア
ちなみにボンドの家系は1180年代のノルマン人、ル・ボンドまで遡るらしい。
ボンド家の紋章は“銀地にサーベルと3つのペザント”
ここから推測するに、サーレーに領地を持つベッカム准男爵サー・トーマス・ボンドの子孫かもしれない、らしい。しかしボンドはこの件に関しては関心を示してはいない。
父がヴィッガース兵器会社の海外特派員だった関係で、幼いボンドは初等教育を海外で受ける。フランス語とドイツ語が得意なのはそのためである。
※映画『007は2度死ぬ』では、ミス・マギーペニーに日本語ガイドを渡され、「日本語はケンブリッジ時代の得意科目だった」とボンドは言ってガイドブックを返しているが、原作を読む限りそんな事実は出てこない。ボンドは日本語は全く不得意である。
11歳のとき、両親がアルプスのルージュ峰にて登山事故で死亡。叔母のチャーミアン・ボンドに預けられ、ケント地方のペットボットムという山村で育つ。
12歳、イートンに入学。ところが友人のメイドと間違いを起こし退学。父の母校・フェラックスに入学。厳しい校則の中、友情とスポーツに目覚め、ライト級のボクシング代表となる。17歳で卒業するまでに、英国のパブリック・スクールとしては初の本格的な柔道部を創設。ボンドが素手での格闘に強いのは、この頃の修行の賜物といえよう。
18歳でオックスフォード大学入学。専攻は心理学と法律。
19歳で父の友人の援助もあって、在学中に政府機関のある出先機関に入る。その後、英国海軍特務中尉に任ぜられ、駆逐艦に配属。大西洋で戦歴を積む。第二次世界大戦終結時には中佐へ昇進。オックスフォード大学は中退。
1946年、英国情報部へ復帰。その後世界各国の駐在武官として1952年まで勤務。その後、国務省付国家5級公務員に任命され、本部へ復帰。その後9ヶ月の訓練を受ける。
1953年、英国海外情報部に配属。「007」のコードネームが与えられる。初任務はジャマイカ。
1962年、ユニオン・コルスのマルク・アンジェ・ドラコの娘、テレサと結婚。しかし数時間後、妻を失う。
身長183センチ 体重76キロ
体格は骨細、目は明るいブルー、右頬に縦に、さらに左肩に傷痕。右手の甲に整形手術の跡。
浅黒い顔でヒゲは無い。まっすぐでかなり長い眉の下に、大きな鋭い目。髪は黒で左分け。ばっさりと前髪が右の眉にかかるような無造作な櫛の入れ方…。
勤務は英国海外情報部○○課。このセクションには006と009がいる。秘書はローリア・ボンソビー、後にソアリー・グッドナイトに交替(※ミス・マギー・ペニーはMの秘書)。海外情報部は表向きには、ユニバーサル貿易となっていて、ロンドン・リーゼントパーク側にある9階建てのビル内にある。
○○課はビルの8階(のち7階に移転)、ボンドの上司Mこと、サー・マイケルズ・メッサヴィ海軍中佐は9階にいる。
地下室は20ヤードの射撃場になっている。
海外情報部員は無論公務員であり、勤務時間は普通10時から18時半。海外勤務が終わると2週間の休暇がもらえる。
俸給は年1500ポンド。この他に税金のかからないものや、特殊手当てが1000ポンドほど。これは当時の日本円にして200万円。
※ただし1955年の数字なので、今に換算すると15〜20倍。かなりの高給取りである。国家公務員の高級事務官待遇と考えてよいだろう。
これに海外任務の場合、経費は自由に使えることになっている。
これは彼の能力に対する評価であろう。
※キングズリー・エイスミスは「ボンドの職業意識は身についた資質の中でも最上のもののひとつである」と、情報部員としての資質を最大評価している。
能力
スポーツ万能、拳銃、拳闘、ナイフ投げの名人。外国語はフランス語、ドイツ語が堪能。喫煙多量。悪癖は飲酒。ただし度は越さない。そして…女。
※柔道は7段である。
住居
チェルシーのアパートに、スコットランド人の家政婦メイと住んでいる。19世紀初頭に作られたシックで小さな建物だが、芝生とすずかけの木のある小さな広場がある。広間には多量の蔵書を収めた本棚、古風なデスク、皮張りの椅子など凝った家具、大きな窓。白と金の葉模様の壁紙、えんじ色のカーテン、濃紺のベッドカバーのダブルベッドのある小さな寝室。
住所は、ウェントリン広場30番地。
食事
在宅時はメイの作る朝食。濃いコーヒーは米国ケメックス製で、大きなカップで2杯ブラックで飲む。卵は3分30秒間ゆでたものをひとつ。これはメイが田舎の友人から仕入れてくるフレンチ・ラマン鶏の茶のまだらのもの。これを金の縁取りのある濃紺のタマゴカップに入れて食べる。白卵は嫌いらしい。粗麦パンの圧切りトースト2枚、黄色の濃いジャージ・バターとティブトリーのスカーレットいちごジャム、フランククーバー製のオックスフォード・マーマレード、ノルウェーのヒース蜂蜜。
英国人には珍しく「紅茶は泥水みたいだ」と口にしない。
※ただし日本のお茶には抵抗がないようだ。日本ではキャシー鈴木と白米と豆腐という朝食を食べた後、お茶を飲んでいる。
昼食は普段は本部食堂で。
舌平目のグリルとからしをそなえたドレッシングの大盛ミックスドサラダ、ブルーチーズにトースト、ボルドーの白い小瓶のワイン、ブラックコーヒー2杯。
夕食は色んな場所で。
ある日のディナーは上司Mとブレイズ・クラブで。
鮭の薫製、ベルギーのキャビア、腎臓のからし焼きにベーコンを添えた小羊のカツレツ、オランダソースをかけたアスパラガス、新鮮なジャガイモと豆、パイナップル、酒はドム・ペリニョン46年のシャンペンとストリチナヤのウォッカ。
もっともこの日のメニューは、ロンドンでは稀だということである。
※「牛肉は嫌いだ」と原作でははっきり言っている。しかし日本では神戸牛のステーキをタイガー田中に勧められ、これほどのステーキは食べたことがないと言わしめた。
『007は二度死ぬ』では、タイガー田中を演じる丹波哲郎さんと共演。

酒に関しては、激務の場合でない限り、60度から70度の酒類を半ビンほど。
好みの酒類はウォッカやジンをベースにした強いカクテル。ゴードン3、ウォッカ1、キナ、リレのベルモットを1/2割り、氷のように冷たくなるまでシェイクして、レモンの皮を薄く切ったものを入れたドライ・マティーニ。スコッチは好まないらしいが、バーボンはよく飲む。ジャック・ダニエル、オールドグラント、IWハーバーなどをオンザロックか水で割る。
シャンペンはドン・ペリニョン。
※オリエント急行でロシアの殺し屋をワインの注文の仕方で見破る。ワインの知識も豊富と思われる。
※『007は2度死ぬ』の原作ではボンドがサントリー・ウィスキーをソーダで割って飲む場面があるが、ボンドはサントリーをやや好んでいる節がある。また映画ではサントリー・オールドがテーブルに乗っていた。原作ではタイガー田中と熱燗の日本酒を飲んだり、ふぐ料理を食べたりしている。盃のことを「ばかげた指輪みたいに小さいもの」とめんどくさがって、コップに熱燗を注いでふた口で飲み干した。ふぐに関しては舌触りはいいが、何の味もしない、と言っている。
タバコ
マケドニア産のバルカンシガレットを1日50本。ただし1960年、健康を損ねて以来、デューク・オブ・デュアレムのキングサイズに変更。ニコチンが少ないことが理由。海外ではチェルスター・フィールド。常に黒イブシのロンソンライターを持ち歩く。シガレット・ケースは黒い研金製のものを使用。
※ちなみに東京では、しんせい、を吸った。

銃
ボンドにとって銃は身体の一部である。腕前は一流。
勤務地では1957年まではベレッタ25口径オートマチック。クリップは骨組みだけを残して飾りを取り、早く撃てるようにテープで巻き直してあった。これをセミ皮のホルスターに入れ、脇下3センチ辺りにくるように左肩に吊ってある。しかし1957年以後は上司Mと武器係のブースロイド少佐の助言によりワルサーPPK7-65ミリ・32口径自動拳銃に替えた。

********************************
この他、愛用車、ゴルフの腕前、友人関係、服装、化粧品(石鹸やシャンプー)、時計(ロレックスを愛用、映画ではセイコーも)、新聞、愛読書など多岐に渡って細かく設定してありますが、もうキリがないのでこの辺で。
しかし、時代、情勢、役者は変わっても、ジェームズ・ボンドというキャラクターがずっと生きてスクリーン上で活躍し続けている秘訣が、この履歴書にあるように思いませんか?
イギリスの名優、ショーン・コネリーさんが亡くなりましたねえ。90歳没。先日亡くなった母の1歳年上。
コネリーといえば、ジェームズ・ボンド!
ボンドは誰が適役か、というアンケートをとると、これは世代(最初見たボンド映画は何か)で変わるのでしょうけど、やっぱりショーン・コネリーでしょう。
私が見た最初のボンド映画は、テレビ放送された『’007/ゴールドフィンガー』。コネリー主演の最高傑作。
劇場で見た最初のボンド映画は『007/黄金銃を持つ男』。ロジャー・ムーア主演。
こちらは、ショーン・コネリー。

1962年に公開された『007は殺しの番号(リバイバル公開以降は『007/ドクター・ノオ』)』が、ジェームズ・ボンドのスクリーン・デビュー。もっともショーン・コネリーはいろいろ映画には出ていたのですが、日本では全くの無名。同年、『史上最大の作戦』にも出ていたのですが、日本版のパンフレットには、シーン・コナリーと表記されていました。

ジェームズ・ボンドでブレイクしたコネリーでしたが、あまりヒットしちゃうとそのイメージが災いして、役者は苦労する、ということを理解していて、彼はヒッチコック(『マーニー』)、ジョン・ヒューストン(『王になろうとした男』)、エドワード・ドミトリク(『シャラコ』)という巨匠の作品に出たり、ボンド役を降りても、シドニー・ルメット、スピルバーグ、デ・バルマ、マイケル・ベイといった監督の作品にも出て、見事ボンドのイメージを払拭し、名優としてのキャリアと名声を残しました。
さて、コネリーが役を降りた後も、ボンド役は他の役者に引き継がれ、今までコネリー以外に5人が演じていますが、これはジェームズ・ボンドというキャラクターと世界観が、今もって人々の支持を得、かつ魅力的で、映画の題材としてもエキサイティングである、というわけでしょう。

そこでジェームズ・ボンドというキャラクターを、ここで分析してみましょう。
ボンドは時代により設定は変わるのですが、ショーン・コネリーが演じたボンドは、下記のように原作に近いものであります。
ジェームズ・ボンド 履歴書(イアン・フレミングの原作による)
参考文献
『ジェイムズ・ボンド白書』(キングズリー・エイミス)
武田一男による「ジェームズ・ボンド・レポート」
※は私が補足。
*******************************
1924年2月1日、スコットランド・ハイランドで生まれる。
※あれあれ、今年96歳? 設定当時は1955年でしたから。なお、ボンドの生誕については諸説はあるが、タイガー田中が「キミはネズミ年」と言う場面があるので、これを信用するなら24年となる。ただし、この原作をもとにした年齢設定は、映画ではショーン・コネリーのボンドまでで、ロジャー・ムーアからは、演じる俳優に合わせた年齢設定となりました。
ちなみに、ボンドの風体というか、顔のイメージは、原作者のフレミングはボーギー・カーマイケルというピアニストをモデルにしたそうです。
この人です↓

さて、ジェームズ・ボンドですが、原作によれば
父・スコットランド人 アンドリュー・ボンド
母・スイス人 モニカ・テラクロア
ちなみにボンドの家系は1180年代のノルマン人、ル・ボンドまで遡るらしい。
ボンド家の紋章は“銀地にサーベルと3つのペザント”
ここから推測するに、サーレーに領地を持つベッカム准男爵サー・トーマス・ボンドの子孫かもしれない、らしい。しかしボンドはこの件に関しては関心を示してはいない。
父がヴィッガース兵器会社の海外特派員だった関係で、幼いボンドは初等教育を海外で受ける。フランス語とドイツ語が得意なのはそのためである。
※映画『007は2度死ぬ』では、ミス・マギーペニーに日本語ガイドを渡され、「日本語はケンブリッジ時代の得意科目だった」とボンドは言ってガイドブックを返しているが、原作を読む限りそんな事実は出てこない。ボンドは日本語は全く不得意である。
11歳のとき、両親がアルプスのルージュ峰にて登山事故で死亡。叔母のチャーミアン・ボンドに預けられ、ケント地方のペットボットムという山村で育つ。
12歳、イートンに入学。ところが友人のメイドと間違いを起こし退学。父の母校・フェラックスに入学。厳しい校則の中、友情とスポーツに目覚め、ライト級のボクシング代表となる。17歳で卒業するまでに、英国のパブリック・スクールとしては初の本格的な柔道部を創設。ボンドが素手での格闘に強いのは、この頃の修行の賜物といえよう。
18歳でオックスフォード大学入学。専攻は心理学と法律。
19歳で父の友人の援助もあって、在学中に政府機関のある出先機関に入る。その後、英国海軍特務中尉に任ぜられ、駆逐艦に配属。大西洋で戦歴を積む。第二次世界大戦終結時には中佐へ昇進。オックスフォード大学は中退。
1946年、英国情報部へ復帰。その後世界各国の駐在武官として1952年まで勤務。その後、国務省付国家5級公務員に任命され、本部へ復帰。その後9ヶ月の訓練を受ける。
1953年、英国海外情報部に配属。「007」のコードネームが与えられる。初任務はジャマイカ。
1962年、ユニオン・コルスのマルク・アンジェ・ドラコの娘、テレサと結婚。しかし数時間後、妻を失う。
身長183センチ 体重76キロ
体格は骨細、目は明るいブルー、右頬に縦に、さらに左肩に傷痕。右手の甲に整形手術の跡。
浅黒い顔でヒゲは無い。まっすぐでかなり長い眉の下に、大きな鋭い目。髪は黒で左分け。ばっさりと前髪が右の眉にかかるような無造作な櫛の入れ方…。
勤務は英国海外情報部○○課。このセクションには006と009がいる。秘書はローリア・ボンソビー、後にソアリー・グッドナイトに交替(※ミス・マギー・ペニーはMの秘書)。海外情報部は表向きには、ユニバーサル貿易となっていて、ロンドン・リーゼントパーク側にある9階建てのビル内にある。
○○課はビルの8階(のち7階に移転)、ボンドの上司Mこと、サー・マイケルズ・メッサヴィ海軍中佐は9階にいる。
地下室は20ヤードの射撃場になっている。
海外情報部員は無論公務員であり、勤務時間は普通10時から18時半。海外勤務が終わると2週間の休暇がもらえる。
俸給は年1500ポンド。この他に税金のかからないものや、特殊手当てが1000ポンドほど。これは当時の日本円にして200万円。
※ただし1955年の数字なので、今に換算すると15〜20倍。かなりの高給取りである。国家公務員の高級事務官待遇と考えてよいだろう。
これに海外任務の場合、経費は自由に使えることになっている。
これは彼の能力に対する評価であろう。
※キングズリー・エイスミスは「ボンドの職業意識は身についた資質の中でも最上のもののひとつである」と、情報部員としての資質を最大評価している。
能力
スポーツ万能、拳銃、拳闘、ナイフ投げの名人。外国語はフランス語、ドイツ語が堪能。喫煙多量。悪癖は飲酒。ただし度は越さない。そして…女。
※柔道は7段である。
住居
チェルシーのアパートに、スコットランド人の家政婦メイと住んでいる。19世紀初頭に作られたシックで小さな建物だが、芝生とすずかけの木のある小さな広場がある。広間には多量の蔵書を収めた本棚、古風なデスク、皮張りの椅子など凝った家具、大きな窓。白と金の葉模様の壁紙、えんじ色のカーテン、濃紺のベッドカバーのダブルベッドのある小さな寝室。
住所は、ウェントリン広場30番地。
食事
在宅時はメイの作る朝食。濃いコーヒーは米国ケメックス製で、大きなカップで2杯ブラックで飲む。卵は3分30秒間ゆでたものをひとつ。これはメイが田舎の友人から仕入れてくるフレンチ・ラマン鶏の茶のまだらのもの。これを金の縁取りのある濃紺のタマゴカップに入れて食べる。白卵は嫌いらしい。粗麦パンの圧切りトースト2枚、黄色の濃いジャージ・バターとティブトリーのスカーレットいちごジャム、フランククーバー製のオックスフォード・マーマレード、ノルウェーのヒース蜂蜜。
英国人には珍しく「紅茶は泥水みたいだ」と口にしない。
※ただし日本のお茶には抵抗がないようだ。日本ではキャシー鈴木と白米と豆腐という朝食を食べた後、お茶を飲んでいる。
昼食は普段は本部食堂で。
舌平目のグリルとからしをそなえたドレッシングの大盛ミックスドサラダ、ブルーチーズにトースト、ボルドーの白い小瓶のワイン、ブラックコーヒー2杯。
夕食は色んな場所で。
ある日のディナーは上司Mとブレイズ・クラブで。
鮭の薫製、ベルギーのキャビア、腎臓のからし焼きにベーコンを添えた小羊のカツレツ、オランダソースをかけたアスパラガス、新鮮なジャガイモと豆、パイナップル、酒はドム・ペリニョン46年のシャンペンとストリチナヤのウォッカ。
もっともこの日のメニューは、ロンドンでは稀だということである。
※「牛肉は嫌いだ」と原作でははっきり言っている。しかし日本では神戸牛のステーキをタイガー田中に勧められ、これほどのステーキは食べたことがないと言わしめた。
『007は二度死ぬ』では、タイガー田中を演じる丹波哲郎さんと共演。

酒に関しては、激務の場合でない限り、60度から70度の酒類を半ビンほど。
好みの酒類はウォッカやジンをベースにした強いカクテル。ゴードン3、ウォッカ1、キナ、リレのベルモットを1/2割り、氷のように冷たくなるまでシェイクして、レモンの皮を薄く切ったものを入れたドライ・マティーニ。スコッチは好まないらしいが、バーボンはよく飲む。ジャック・ダニエル、オールドグラント、IWハーバーなどをオンザロックか水で割る。
シャンペンはドン・ペリニョン。
※オリエント急行でロシアの殺し屋をワインの注文の仕方で見破る。ワインの知識も豊富と思われる。
※『007は2度死ぬ』の原作ではボンドがサントリー・ウィスキーをソーダで割って飲む場面があるが、ボンドはサントリーをやや好んでいる節がある。また映画ではサントリー・オールドがテーブルに乗っていた。原作ではタイガー田中と熱燗の日本酒を飲んだり、ふぐ料理を食べたりしている。盃のことを「ばかげた指輪みたいに小さいもの」とめんどくさがって、コップに熱燗を注いでふた口で飲み干した。ふぐに関しては舌触りはいいが、何の味もしない、と言っている。
タバコ
マケドニア産のバルカンシガレットを1日50本。ただし1960年、健康を損ねて以来、デューク・オブ・デュアレムのキングサイズに変更。ニコチンが少ないことが理由。海外ではチェルスター・フィールド。常に黒イブシのロンソンライターを持ち歩く。シガレット・ケースは黒い研金製のものを使用。
※ちなみに東京では、しんせい、を吸った。

銃
ボンドにとって銃は身体の一部である。腕前は一流。
勤務地では1957年まではベレッタ25口径オートマチック。クリップは骨組みだけを残して飾りを取り、早く撃てるようにテープで巻き直してあった。これをセミ皮のホルスターに入れ、脇下3センチ辺りにくるように左肩に吊ってある。しかし1957年以後は上司Mと武器係のブースロイド少佐の助言によりワルサーPPK7-65ミリ・32口径自動拳銃に替えた。

********************************
この他、愛用車、ゴルフの腕前、友人関係、服装、化粧品(石鹸やシャンプー)、時計(ロレックスを愛用、映画ではセイコーも)、新聞、愛読書など多岐に渡って細かく設定してありますが、もうキリがないのでこの辺で。
しかし、時代、情勢、役者は変わっても、ジェームズ・ボンドというキャラクターがずっと生きてスクリーン上で活躍し続けている秘訣が、この履歴書にあるように思いませんか?
kaidanyawa at 06:56|Permalink│Comments(4)│
2020年11月02日
明日、茶屋町怪談〜女性怪談作家SP 私はご意見番として出演します!
中山市朗です。
『怪チャンネル』、いかがでしたでしょうか?
私の謎の腰痛から端を発して、呪いについてちょっとだけ考察してみました。
呪いは、腰に来るのでしょうか??
まあ、ほんとうに「呪い」というものが発動するものかどうかは、わかりませんが、「生首村」に関しては、これだけ怪しげなことが起きるとなると、どこまでが偶然? 思いこみ? と聞きたくもなります。
京都の幽霊マンションのみ〇おさんもそう。
呪い、祟りのメカニズムについては、いろいろ地雷を避けながら、追及していきたいと思っております。
さて、いよいよ明日です。
私はご意見番として出演いたします。
茶屋町怪談 女性怪談作家SP 11/3(火)20:00-22:00 #MBSラジオ とYouTubeで同時生放送 出演は #松原タニシ #中山市朗 #藤林温子 そして怪談を語る花の五人は、
#花房観音
#川奈まり子
#田辺青蛙
#牛抱せん夏
#深津さくら
https://www.mbs1179.com/kaidan/

是非ご覧下さい
『怪チャンネル』、いかがでしたでしょうか?
私の謎の腰痛から端を発して、呪いについてちょっとだけ考察してみました。
呪いは、腰に来るのでしょうか??
まあ、ほんとうに「呪い」というものが発動するものかどうかは、わかりませんが、「生首村」に関しては、これだけ怪しげなことが起きるとなると、どこまでが偶然? 思いこみ? と聞きたくもなります。
京都の幽霊マンションのみ〇おさんもそう。
呪い、祟りのメカニズムについては、いろいろ地雷を避けながら、追及していきたいと思っております。
さて、いよいよ明日です。
私はご意見番として出演いたします。
茶屋町怪談 女性怪談作家SP 11/3(火)20:00-22:00 #MBSラジオ とYouTubeで同時生放送 出演は #松原タニシ #中山市朗 #藤林温子 そして怪談を語る花の五人は、
#花房観音
#川奈まり子
#田辺青蛙
#牛抱せん夏
#深津さくら
https://www.mbs1179.com/kaidan/

是非ご覧下さい
kaidanyawa at 08:00|Permalink│Comments(3)│
2020年11月01日
本日『怪チャンネル』!! 「呪い」「祟り」そして「怖い」という感情
中山市朗です。
本日は『怪チャンネル』。第79回目の配信となりまして、残すところあと2回となります。
先日、突如の腰痛を発症いたしましたが、 なにもしていないのに2日で完治。しかも発症したのは「生首村」について語ることを構成していた時……。
偶然なのか、やっぱりソレなのか、私にはわかりませんが……。
でもこういう言葉を紹介しましょう。
「信仰の無い人は悪魔も信じていない。しかし神を信じる人は悪魔は存在すると知っている」ピンツェオ・タラボレッリ神父。彼はそう、バチカン公認のエクソシストなのです。
今回はこれを機に、「呪い」「祟り」そして「怖い」という感情について、考察してみます。
こういうテーマも『怪チャンネル』だからこそできる話題だと思います。
11月1日(日)
21:00〜 (前半15分はお試し視聴できます)
https://freshlive.tv/ichiroukai/281833…

本日は『怪チャンネル』。第79回目の配信となりまして、残すところあと2回となります。
先日、突如の腰痛を発症いたしましたが、 なにもしていないのに2日で完治。しかも発症したのは「生首村」について語ることを構成していた時……。
偶然なのか、やっぱりソレなのか、私にはわかりませんが……。
でもこういう言葉を紹介しましょう。
「信仰の無い人は悪魔も信じていない。しかし神を信じる人は悪魔は存在すると知っている」ピンツェオ・タラボレッリ神父。彼はそう、バチカン公認のエクソシストなのです。
今回はこれを機に、「呪い」「祟り」そして「怖い」という感情について、考察してみます。
こういうテーマも『怪チャンネル』だからこそできる話題だと思います。
11月1日(日)
21:00〜 (前半15分はお試し視聴できます)
https://freshlive.tv/ichiroukai/281833…

kaidanyawa at 00:00|Permalink│Comments(4)│


![圓山町 怪談倶楽部 ~遠国奇譚~ [DVD]](https://m.media-amazon.com/images/I/51fS--U5+kL._SL160_.jpg)







