2006年09月18日

文章の”間”

 中山市朗です。

 申し訳ありません。
 14、15日に配信したこのブログに微妙な不祥事がありました。
 文章の間、という微妙な話題ですので、もう一度配信し直します。
 尚、引用文献につきましては、パソコン画面では伝え切れないニュアンスもありますので、できれば原文を参照してください。



 以前、”間”について書いたところ、それが文章でできるといいんですが、という質問が来ましたので、文章の間について少し。

 もちろん文章で間は表現できます。
 もちろん、文章で”間”は表現できます。

 、と” ”で間ができてませんか?

 まあ、こういう”パソコン”とか”ケータイ”というメディアでは、微妙な間合いはわかりにくいかも知れませんが、やっぱり印刷物となると、や。というのがまず間を感じさせます。・・・や ― をどこでどう使うか。段落、一行開ける、これも間です。
 書き手は、読み手に、どこで、どれくらいの間をおいてもらうのがいいのかを、計算しながら書くわけです。ゆっくり読ませるとか、タタタッと読ませるのか、というテンポも含めて。


 これはある小説の冒頭です。句読点無しで載せてみます。

結婚はしてもいいものであるししないで済むものならしなくてもいいものだねと初之輔が云った。その初之輔はいつも神色自若を自慢しているのだがこの遊覧バスに乗ると同時に空色の制服を着た案内嬢のふきかけてくれる会社の宣伝香水には一寸驚いた様子である。

 とても読み辛いですな。成瀬巳喜男監督の映画にもなった『めし』なんですけど。でも、名文もこれでは台無しです。では、あなたなりに、読みやすくしてみてください。どこに句読点つけて、あるいは段落をつけたかが、あなたのリズムです。でも、書き手には、読んでもらいたいテンポ、リズム、間、があります。
 それを含めての文章、つまり小説となります。

 これを書いた林芙美子は、こう間をとってます。

 結婚は、してもいいものでもあるし、しないで、済むものなら、しなくてもいいものだね、と初之輔は云った。
 その初之輔は、いつも、神巳自若を、自慢にしているのだが、この、遊覧バスに乗ると同時に、空色の制服を着た、案内嬢のふきかけてくる、会社の、宣伝香水には、一寸驚いた様子である。


 読む方は、ゆったりとこの文章を味わいますよね。それが林芙美子の世界。


 次は講談調のこの名文。原文のまま載せます。

 ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉で笑った。
 「またの日はよかったな。道場破りにまたの日も何時の日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」
 片手で突き出した板に神変夢想流指南小野塚鉄斎道場と筆太の一行!
 や! 道場の看板! さては、門を這入りがけに外して来たものと見える。己れッ! と総立ちになろうとした時、
 「こうして呉れるのだッ!」
 と丹下左膳、字看版を離して反りかえりざま、
 カアッ、ペッ!
 青痰を吐っかけた。


 林不志のご存知『丹下左膳』の一文。こちらはアクションを読者に想像させるために、キャラクターの動きを活字化しています。ゲッ、や! カアッ、ペッ! という擬音が多用してあり、!との使用が目立ちます。ちょっと映画のシナリオに似た書き方です。喉という一字で”のど”と読めるんですが咽喉と二文字で表記した方が、この左膳の喉が、クローズアップされます。


 小説というものは、そもそも、くどくどと説明するものです。映画や舞台、漫画なら背景や状況は見れば分かります。登場人物の表情や服装なんかもそう。しかし小説では説明しなければならないんです。でも、ホントの説明文になってしまうと、これはツラい。やっぱり小説として読まさないと。
 古代中国に我々を誇ってくれる吉川英二の『三国志』の冒頭はこうです。

 後漢の建寧元年の頃。
 今から約千七百八十年ほど前のことである。
 一人の旅人があった。
 腰に、一剣を佩いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉は秀で、唇は紅く、とりわけ聡明そうな眸や、豊かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賎しげな容子がなかった。
 年の頃は二十四、五。
 草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
 悠久と水は行く ―
 微風は爽やかに鬌をなでる。
 涼秋の八月だ。
 そしてそこは、黄河の畔の ― 黄土層の低い断り岸であった。
 「おーい」
 誰かが河でよんだ。
 「 ― そこの若い者ゥ。なにを見ているんだい。いくら待っていても、そこは渡し舟の着く所じゃないぞ」
 小さな漁船から漁夫がいうのだった。
 青年は笑くぼを送って、
 「ありがとう」と、少し頭を下げた。
 漁船は、下流へ流れ去った。けれど青年は、同じ所に、同じ姿をしていた。膝をかかえて坐ったまま遠心的な眼をうごかさなかった。
 「おい、おい、旅の者」
 こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。


 どうです。この描写と間の運び。中国の歴史を描く大河小説の始まりだけに、描写が立体的じゃないですか。
 悠久と水は行く ―
 この ― が間を作ると同時に悠久さをイメージさせます。膝をかかえて、ぽつねんと坐っている男、彼こそが劉備玄徳なのですが、彼の容姿も見えてきます。それが季節や、やってくる風と共に描写されていますから、映像となるんですな。おまけに黄河の遥かな流れが目の前を流れている。そして人物の運びが絶妙です。
 遠くから漁夫が呼びかけます。
「 ― そこの若い者ゥ。なにを見ているんだい・・・」
 ― が漁夫の声をかけようとする一間置く呼吸を強調し、若い者ゥ、と、ゥが漁夫と劉備の距離感を表現してます。
 これ落語のテクニックです。
 「こんにちは」「おっ、おまえかいな、こっち入り」
 これは入って来た人と中にいる人の距離感が近い。
 「こんちはーっ」「おーっ、おまえかいな、まあまあ、こっち入りィ」
二人の距離、遠い。これも間です。この距離感がムズかしいんです。

 さて、劉備と漁夫のやりとりがあった後、今度は真後ろから農夫に声をかけられる。この人物配置はさすが、です。「おい、おい」という呼びかけは、ほんの、そこにいる、という呼びかけです。鶏の足をつかんで下げ、というのがリアルです。これは動きです。農夫を説明するのにこんなモノ着てた、とかこんな顔してた、というより動きを与えた方がイメージしやすいし、シンプルです。
 ちょっと前、擬音について書きましたが、まさに擬音は動きの表現です。これは文章にも生かされます。ぽつねんと坐って、というのがそうですね。坐っているということは、まあ動きがないということなんですが、動きのないものに動きを与える。それが、ここでは、ぽつねん、という表現なんです。

 さきほど紹介した林不志の『丹下左膳』同様、この『三国志』も講談調で書かれています。
 もう何十年も前のことですが、黒澤プロダクションのプロデューサーの方とお話していると、その人がこう言ったのを覚えています。
 「オヤジ(黒澤明)の撮る映画はなんでオモシロイか、わかります? 講談調なんですよ、語り口が」

 ムムッ、語り口?


 その話はまた次回。

kaidanyawa at 15:57│Comments(1)

この記事へのコメント

1. Posted by キャロッセ   2012年11月28日 20:11
それでもいささか、文に、、が多すぎるのでは?

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プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


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