2017年10月13日

太秦・牛祭の謎に迫る! 第四章

中山市朗です。

お待たせしました。「牛祭」の謎に迫る。第四弾です。

広隆寺で10月に行われていた奇祭「牛祭」。
今はもう執り行われていません。
ですから『京都魔界案内』で記録したこれらのVTRは、今となっては貴重な文化遺産の記録、じゃないでしょうか?
さて、祭りに関わっている関係者も「なんのこっちゃ、さっぱりわかりませんわ」と言いながら、しきたりに従って粛々と進行されておられました。

摩多羅神















さてさて、牛祭で勧請される、摩多羅神とは、なんでしょう?

ちょっとね、まずは、舞台となる広隆寺の歴史を調べてみましょう。
『日本書紀』に出てきます。
推古天皇11年(603)、聖徳太子が「私は尊き御仏を持っているが、誰かこれを拝みたてまつる者はいないか」と重臣たちに尋ねたところ、秦河勝が進み出て、「私めが」と、その仏のための蜂丘寺を造った。それが広隆寺であるとされるわけです。
聖徳太子が持っていた尊い御仏というのは、現在も広隆寺の霊宝殿に祀られる弥勒菩薩半跏思惟像のことのようです。国宝第一号の一つ。
これですな。

弥勒菩薩半跏
















もっとも、広隆寺が創建当時から太秦にあったのかは、不明とされます。
寺が建てられた時は、まだ平安京造営前。
現在は京都として栄えるこの土地も、1500年ほど前は原野だったようです。
巨大な扇状地の地形をした盆地は、農作物の耕作にはあまり適さなかったようです。水が先端部分へと流れ込んで、溜まれにくい。だから水田には適さない。しかし、扇状の先端部分は湧き水が豊富で、ここに、秦氏、八坂氏、粟田氏などが移住してきて、開拓を始めました。特に秦氏は、土木技術に長け、また農民の数も多かったことから、この土地を支配したと考えられます。
葛野の大堰といって、渡月橋から川底を見ると段差が設けてありますが、ああいうことは秦氏がやったんです。水を堰き止めたり、調節をしたりした。それで田畑ができだした。
ただ、秦氏がいるところに、必ず賀茂氏がいる。この関係に触れると、えらいことになりますから、今はスルーします。
そして、朝廷が、その盆地に平安京を造営して遷都をすることになります。この時、秦氏は土地を寄進し、資金を調達し、土木工事を引き受けます。この時、蜂丘寺は、現在の場所、太秦に移転したと考えられています。
まあ、よくわかっていないのは、文献が残っていないということ。
弘仁9年(818)の火災により、当寺の古記録は灰になってしまったからです。創建当時の伽藍もこの時消失。しかし、この弥勒菩薩半跏思惟像だけは、無事に今に伝えられています。

で、広隆寺は『上宮聖徳法王帝説』によりますと、聖徳太子七寺の一つ、とされています。

聖徳太子七寺とは、

法隆寺(斑鳩寺)
四天王寺(四天皇寺)
広隆寺(蜂丘寺)
中宮寺
橘寺
池尻寺(法起寺)
葛城寺

葛城寺は、廃寺。

実は、この七寺のうち、『日本書紀』に、聖徳太子との現実的な関係が記されるのは、四天王寺と広隆寺だけなんです。法隆寺の創建は『書紀』にも書かれていません。天智天皇の御代に全焼した、とは書かれていますが、それか゜『書紀』に初出なんですよ。
中宮寺の創建も曖昧なもので、池尻寺は太子の死後に創建。橘寺は用明天皇の別宮だったとされ、太子生誕の地という伝承もありますが、あくまで伝承。
しかし、四天王寺と広隆寺の二寺のみ、聖徳太子との縁がはっきりと記載さ;ているんです。
太子が亡くなった後に、新羅から遣いが来て、仏像や宝物などが朝廷に贈られ、仏像は広隆寺に、宝物は四天王寺に納められたと『書紀』は記します。
四天王寺と広隆寺。

そういえば、牛祭に、四天王というのが出てきますねえ。

そして四天王寺には、「牛王尊」という牛をお祭りした、お堂がある。

牛と四天王。

私ねえ、『京都魔界案内』をやっていた時は、この鬼の面を被った四天王のことが、よくわからなかったんですが、あれから18年。謎が解けたんです。
あの四天王は、四天王寺と関係してくるんです。
おそらくね、四天王寺でも、「牛祭」は行われていたのではなかろうかと。

今はそう思います。
だとすると、それは、秦氏の祭礼というよりも、聖徳太子の祭礼を意味することになります。
聖徳太子の祭礼?





続く。




kaidanyawa at 07:10│Comments(4)

この記事へのコメント

1. Posted by タキ・タロー   2017年10月16日 09:55
相変わらず脳を焦がしかけて読ませて頂きました…。
で、ちょっと質問といいますか、主役(?)の牛さんはどうやって選ばれてたんでしょう?
他の幾つかのサイトにも京都の三奇祭として紹介されてますが、「近年は神主さんが亡くなられたり、牛の調達が難しいので、不定期だったり、長く休止だったり云々」となってますね。
適当に見繕ってきた牛で良いなら調達にそう苦労せんやろし、やっぱ『ご神鹿』ならぬ『ご神牛』として育てられるのか、はたまた特別な『聖別』の儀式でもあるのか?なんか知りたくなりました!
ネットや本(珍祭・奇祭・とんまつりまで)パラっとですが見てみたけど、流石に先生の取材力、(特に動画・画像)凄いですわ。

ええ大人になる迄、知ったかしてでも無知は晒したない事も多かったですが、最近はアニソンやないですが、「アタマ空っぽの方が夢詰め込める」のは一理ある気がします。
てか、何か新しいコトを知る度、無知を自覚するのが楽しいのですが、我ながらケッタイな心境ですねえw

2. Posted by 中山市朗   2017年10月16日 14:58
タキ・タローさん。

牛祭の牛さんは、吉田家が調達する、と『京都魔界案内』の取材で証言を得ております。その牛でないとダメなんだそうで、調達できないときは、馬で代用したそうです。馬祭?
3. Posted by タキ・タロー   2017年10月16日 19:21
なるほど!有難うございました<m(__)m>
そら、その辺のどこの馬の骨かわからん牛(←?)は使えん、と。

昭和後期までは「牛や馬を飼っている家の割合」が各市町村の社会科副読本で載ってたようですが、(乳牛、肉牛ではないかつての労役種も牛か馬かで地域差があったみたいで個人的に調べてみたいです。少し脱線…。;)日本では、単なる家畜とは違った身近さがあるような…。
道明寺や大阪の天神さんの牛さんなんかもですが、(特に近畿、あと福岡)そういう文化もガッコで教えて欲しかったなぁ。

4. Posted by 中山市朗   2017年10月16日 23:51
タキ・タローさん。

私の幼いころ、兵庫県の但馬地方の寒村では、労役用の牛を飼っている家がたくさんありましたよ。
あと、但馬牛の産地なので、牛の競り市もやっていましたが、1970年代になると、そういう原風景も無くなりました。

天神さんの牛。あれ、怪しいですよ。
隠された神道の秘密がどうもある?

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
プロフィール
中山市朗 【なかやまいちろう】


作家、怪異蒐集家

兵庫県生まれ。


主な著書に「新耳袋」など。

作家、漫画家の育成機関「作劇塾」を主宰。


作劇塾

オフィスイチロウ


Archives