2021年01月18日
祖父が提唱する但馬の古代史に関する説! 多遅摩(但馬)湖の実在説!!
中山市朗です。
昨日、祖父のことを書きましたが、本日も祖父について書かせていただきます。
ここに一冊の本があります。
『多遅摩湖』という題名の本です。
これも国会図書館にないもので、祖父・中山東華によって書かれました。
多遅摩湖って、なに?

多遅摩は、たじま、と読みます。現在兵庫県の北部を但馬といいますが、古代は多遅摩と書いたのです。

JAたじまより地図拝借。
つまり、但馬湖のことです。
んん? そんな湖あったっけ?
ありません。
ただ、古代において但馬は湖であったということが、この祖父の書いた『多遅摩湖』に記されているのです。
その目次です。創作・多遅摩湖目次、とありますが、これは小説ではなく、祖父が打ち立てた説、誰もそんなことは言っていないが、私はこのような理由で多遅摩湖は存在したという説だ、という意味のようです。昭和36年ごろの著述です。

伊邪那岐からはじまる日本の古代史を解説しながら、そこに登場する我が里、但馬の古記録を調べ上げ、伝説、伝承、神社の祭神などをあげながら、かつて但馬に大きな湖があったと祖父は解説しています。
大まかにいうと、まず風土記の出来たころに書かれた『舊記』によると、「太古、但馬はみず海なりき大八州の諸国は既に開けたるもこの地のみは未だ開けず。濁水洋洋として高き峯頂きを現わし、点々として島を成し水よどみて泥海の如く……」とあり、これを見た彦炎々見尊が、大巳貴、少彦名の二神に託して、大勢の人を集めて北の崎を切り開き、北海に水を出し、陸地が現れ、この国が多遅摩の国と名付けられた、と続けて記されていて、祖父はまずこの記述を持って、但馬国の中央平原が湖水であったと推測しています。
そこで祖父は、その湖を「多遅摩湖」と仮称し、調べてみたというのです。
昨日、祖父のことを書きましたが、本日も祖父について書かせていただきます。
ここに一冊の本があります。
『多遅摩湖』という題名の本です。
これも国会図書館にないもので、祖父・中山東華によって書かれました。
多遅摩湖って、なに?

多遅摩は、たじま、と読みます。現在兵庫県の北部を但馬といいますが、古代は多遅摩と書いたのです。

JAたじまより地図拝借。
つまり、但馬湖のことです。
んん? そんな湖あったっけ?
ありません。
ただ、古代において但馬は湖であったということが、この祖父の書いた『多遅摩湖』に記されているのです。
その目次です。創作・多遅摩湖目次、とありますが、これは小説ではなく、祖父が打ち立てた説、誰もそんなことは言っていないが、私はこのような理由で多遅摩湖は存在したという説だ、という意味のようです。昭和36年ごろの著述です。

伊邪那岐からはじまる日本の古代史を解説しながら、そこに登場する我が里、但馬の古記録を調べ上げ、伝説、伝承、神社の祭神などをあげながら、かつて但馬に大きな湖があったと祖父は解説しています。
大まかにいうと、まず風土記の出来たころに書かれた『舊記』によると、「太古、但馬はみず海なりき大八州の諸国は既に開けたるもこの地のみは未だ開けず。濁水洋洋として高き峯頂きを現わし、点々として島を成し水よどみて泥海の如く……」とあり、これを見た彦炎々見尊が、大巳貴、少彦名の二神に託して、大勢の人を集めて北の崎を切り開き、北海に水を出し、陸地が現れ、この国が多遅摩の国と名付けられた、と続けて記されていて、祖父はまずこの記述を持って、但馬国の中央平原が湖水であったと推測しています。
そこで祖父は、その湖を「多遅摩湖」と仮称し、調べてみたというのです。
北の崎というのは、城崎のことであり、近くの来日山中腹に貝殻塚がたくさんあるが、これは淡水貝のものであって、それは捨てられたものではなく淡水貝が生息した痕跡であるとの発掘報告などと照らし、祖父は、来日山の貝塚を起点として但馬の地図に、貝塚と同じ標高を基準として赤線を引いてみたといいます。すると、城崎郡、出石郡、養父郡、朝来郡の四郡にわたる広大な面積の湖が浮かび上がる。ただし、これでは標高が高いので、標高30メートル(つまり水深30メートル)として青線を引いてみると、出石郡の出島、島、尾崎、豊岡市の大浜、亀ケ崎、江野、丹谷、養父郡、朝来郡では、赤崎、網野、長砂、江の鼻、等々の地名が浮かび上がり、大湖水があったと思われること。その他、但馬一帯にある名所の由緒や地形、岩石の特徴などとその地に伝わる伝承や神社の祭神なども考慮に入れて、祖父独特の「但馬湖」実在説を繰り広げております。
但馬には天日槍(あめのひぼこ)の神話があるのですが、彼は但馬湖の淡水が放出された後の、沼地を開拓し、人々に水田農業を教えた。現在但馬国水田農業の祖神として出石神社に天日槍が祀られるのはそのためである、としています。出石神社の由緒を見てみますと、天日矛槍は「当時入江湖であった但馬地方の瀬戸の岩戸を切り開いて泥水を日本海へ流し、耕地とした」とあります。
但馬はもともと丹波国であったが、7世紀後半に丹波国から分割され成立したという説もあり、文献に、多遅摩、という国の名が出る最初は『日本書紀』の天武天皇4年(675)からのようです。
縄文時代の遺跡はありますが、確かに山の高地に点在しており、弥生時代になって平野部に人が住みつきだしたことは考古学的にも明らかなようです。古墳は3世紀頃から出現しますので、1世紀には勾玉の大工房があった丹後地方より開発が遅れていたのは事実でしょう。
地形的にも、但馬の町村は山に囲まれていて、日本海に沿った沿岸も断崖も多く、谷は深く、かつては陸の孤島とまで言われていました。太古は火山活動も活発であったようで、大きな湖が一帯に形成されていたとしても不思議ではありません。
ただ、私の小学生の頃、あるおじさん(彼が何者かは知らない)が、但馬の地名を見ると大きな湖があったことがほわかる、といろいろと地名をあげ、そこには貝塚がある、なんて話していましたが、これは祖父の受け売りなのか、別の研究でもそのことが調査されていたのでしょうか。
私は、古代史の考察は、まず古代の地図を見ることが必須だと思うのです。邪馬台国論争なども、今の日本地図から推察されていますが、古代の日本列島は、列島の形は変わりませんが、湖と河川は大きく変化しております。そして湖と河川こそが、水路であり、街道であったわけです。
近畿でいうと、大阪府の東には河内湖が。奈良県の平野部は奈良湖があり、秦氏が造った大和川と琵琶湖の関係を見るべきでしょう。
奈良湖が実在したとすると、斑鳩に住んだ聖徳太子は、市場の栄えた現在の桜井市や信仰のあった信貴山、都のあった飛鳥へは船で通えたというわけです。石上神宮も、石上(いそのかみ)は磯の神とも考えられましょう。
もしも、但馬湖の存在が実証されたなら、様々な古代の謎がきっと明かされるのではないかと思います。
祖父が想定した多遅摩湖。

但馬には天日槍(あめのひぼこ)の神話があるのですが、彼は但馬湖の淡水が放出された後の、沼地を開拓し、人々に水田農業を教えた。現在但馬国水田農業の祖神として出石神社に天日槍が祀られるのはそのためである、としています。出石神社の由緒を見てみますと、天日矛槍は「当時入江湖であった但馬地方の瀬戸の岩戸を切り開いて泥水を日本海へ流し、耕地とした」とあります。
但馬はもともと丹波国であったが、7世紀後半に丹波国から分割され成立したという説もあり、文献に、多遅摩、という国の名が出る最初は『日本書紀』の天武天皇4年(675)からのようです。
縄文時代の遺跡はありますが、確かに山の高地に点在しており、弥生時代になって平野部に人が住みつきだしたことは考古学的にも明らかなようです。古墳は3世紀頃から出現しますので、1世紀には勾玉の大工房があった丹後地方より開発が遅れていたのは事実でしょう。
地形的にも、但馬の町村は山に囲まれていて、日本海に沿った沿岸も断崖も多く、谷は深く、かつては陸の孤島とまで言われていました。太古は火山活動も活発であったようで、大きな湖が一帯に形成されていたとしても不思議ではありません。
ただ、私の小学生の頃、あるおじさん(彼が何者かは知らない)が、但馬の地名を見ると大きな湖があったことがほわかる、といろいろと地名をあげ、そこには貝塚がある、なんて話していましたが、これは祖父の受け売りなのか、別の研究でもそのことが調査されていたのでしょうか。
私は、古代史の考察は、まず古代の地図を見ることが必須だと思うのです。邪馬台国論争なども、今の日本地図から推察されていますが、古代の日本列島は、列島の形は変わりませんが、湖と河川は大きく変化しております。そして湖と河川こそが、水路であり、街道であったわけです。
近畿でいうと、大阪府の東には河内湖が。奈良県の平野部は奈良湖があり、秦氏が造った大和川と琵琶湖の関係を見るべきでしょう。
奈良湖が実在したとすると、斑鳩に住んだ聖徳太子は、市場の栄えた現在の桜井市や信仰のあった信貴山、都のあった飛鳥へは船で通えたというわけです。石上神宮も、石上(いそのかみ)は磯の神とも考えられましょう。
もしも、但馬湖の存在が実証されたなら、様々な古代の謎がきっと明かされるのではないかと思います。
祖父が想定した多遅摩湖。

kaidanyawa at 07:01│Comments(2)│
この記事へのコメント
1. Posted by ひろみつ 2021年01月18日 14:18

お祖父様、お話を伺えば伺うほど大変なお方ではないですか!
多遅摩って読み方もわからなかったので調べたら「たじま」と読むのですね。
興味を持ってちょっと調べたら、こんなのを見つけました。
https://nihonsinwa.com/page/2891.html
これによる古事記に登場する人物に「多遅摩毛理(タヂマモリ)」とする人物が記されてて、日本書紀では田道間守と記述されてるとありました。
性別は不明だが一般的には男性。
三宅連の先祖となっていますね。
多遅摩がいまの兵庫県の但馬になり、そこにかつて湖があったというお祖父さまの仮説は壮大なロマンを感じます
第3弾も拝見できるのでしょうか?
2. Posted by 鈴木 2021年01月18日 20:14
自分が以前、住んでた場所も海底だったのか貝塚でもあったのか貝の化石が沢山出ました。
子供の頃、放課後になると掘りに行くわけです。
大きな貝が出た時は嬉しかったですね。
保管してると、親がうるさかったですけど 笑
湖があった...何かロマンを感じますね。今の自分が住んでる所は昔は山みたいだったようです。
子供の頃、放課後になると掘りに行くわけです。
大きな貝が出た時は嬉しかったですね。
保管してると、親がうるさかったですけど 笑
湖があった...何かロマンを感じますね。今の自分が住んでる所は昔は山みたいだったようです。