通い弟子だった頃ですが、師に来客があったり、また出向く時などは、必ずといってよいほど同行していました。
そしてお会いした先生方の技をよく体験させてもらいました。
手加減しない方もいましたので、時折痛い思いもしましたが、とても良い経験をさせてもらいました。
きっと呑み込みも要領も悪い私を見兼ねた、師の優しい配慮だったのでしょう。
師はよく「私を梯子にしなさい」と仰っていました。
遅蒔きの至りではありますが、それが何を意味しているのかを理解できたのは、師の門を離れてからであります。
その師という梯子をどう使うのかは、きっと弟子各々が熟考すべきことなのでしょう。
ですから、師という梯子を上手く使って登いく人、全然登れない人、逆に梯子を下りてしまう人もいます。
厳しい言い方になりますが、梯子を上手く登れるか否かは、個々の努力と理解の度合いによるものですから、当の本人次第という他ありません。
どの世界でもそうだと思いますが、絶対に外してはいけない枠組みがあります。
例えばサッカーが面白いのは、手が使えないという不自由さがあるからです。
その不自由さの中でいかにして自由自在にボールを巧みに操るかというところにサッカーの醍醐味があるわけです。
何でもかんでも自由にやってもよいということになってしまうと、逆につまらなくなることも多々あります。
枠の締め付けの中で、いかに自分をフリーにできるか。
私が師という梯子に登ることができたのは、いや登らせてもらえたのは、ある意味自由であった師のもとで、守るべき枠を自ずと守っていたからなのかも知れません。
恐らくそれは最低限の「礼儀」と「礼節」であったのではないでしょうか。
崇拝思想などは皆無であり、また何事にも盲信せずに生きてきたわけですが、疑いの心を抱かずに打ち込めた姿勢が、自然と「礼儀」と「礼節」を躾てくれたように思います。
「守一【しゅいつ】」とは、日々の自他に対する姿勢が成すものなのかも知れませんね。


 ◆丹錬会◆
今月からオープン参加型稽古会の丹錬会がスタートします。
たくさんの方々とご一緒できますことを心から楽しみに致しております。

深井信悟

◆月例オープン稽古 丹錬会◆  
http://alterna-vision.com/studio/2018/06/04/180604/ 

 ◆丹錬会の目的と丹錬法について◆
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