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ロサンゼルス暴動(ロサンゼルスぼうどう)とは、1992年4月末から5月頭にかけて、アメリカ合衆国・ロサンゼルスで起きた大規模な暴動。新旧の人種問題、陪審制の難しさなど、暴動の背景にある多くの問題が浮き彫りになった。(ウィキペディア)
海外の反応をまとめました。




ロサンゼルス暴動はロドニー・キング事件に対する白人警察官への無罪評決をきっかけとして、突如起こったかのような印象で日本では報道されることが多かったが、その潜在的要因として、ロサンゼルスにおける人種間の緊張の高まりが挙げられる。アフリカ系アメリカ人の高い失業率、ロサンゼルス市警察(以下「LA市警」)による黒人への恒常的な圧力、韓国人店主による黒人少女(ラターシャ・ハーリンズ)射殺事件とその判決に対する不満などが重なり、重層的な怒りがサウスセントラル地区の黒人社会に渦巻いていた。そこにロドニー・キング事件のLA市警警官に対して無罪評決が下されたことが引き金となって、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件であるといえる。

1992年4月29日、LA市警の警官への無罪評決が下されたこの日、評決に怒った黒人たちが手の付けられない暴徒と化し、ロサンゼルス市街で暴動を起こして商店を襲い、放火や略奪をはじめた。

また、小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダ の一部にまで波及したようである(「本部長は辞任せよ」「4人の警官は全員有罪だ」「暴力警官からバッジを取り上げろ」のプラカードを掲げて抗議デモをし たグループもあった)。


レジナルド・デニー集団暴行事件

この暴動が勃発した初日、LA市内をトラック輸送仕事でいつも通り走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーは フローレンス通りとノルマンディーアベニューの交差点で信号待ちをしていた際、主に若者を中心とした暴徒化した黒人らにキャビンから引きずり出されて暴行 を受けた。その内容は、コンクリート塊でこめかみを強打したり、倒れた被害者の頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とすなどだった。また この様子は地元TV局の取材ヘリから空撮されており、この衝撃的なシーンは幾度となく繰り返し全米にTV放送され、彼はロサンゼルス暴動におけるもっとも 著名な被害者となった。なお、暴行を受けた後、彼はTVニュースでその暴行のライブ中継を見ていた地域住民の黒人によって助け出され、病院で開頭手術など を受け一命を取り留めている。

LA市警と非常事態宣言

主な襲撃目標となったLA市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはまったくできなくなっていた。その証拠に前述の、中継 されたデニー集団暴行事件でも最後まで警察は現れる事はなかった。この時、LA市警は現場に黒人警官のみを行かせるよう編成をしており、現場近くにいた白 人制服警官達には「現場に近づくな」との命令がディスパッチャー(通信司令)を通して発せられていた。

4月30日、当時の市長トム・ブラッドリー(黒人。翌93年9月末退任)は非常事態宣言を発令した。

韓国人商店街への襲撃

もうひとつの主たる襲撃目標となったのが韓国人商店である。襲撃による被害額の半分弱が韓国人商店のものであるともされる。韓国人商店主らが防衛のために拳銃を水平発射しているシーンも幾度となくテレビにおいて放映された。ちなみに彼ら韓国人店主らの多くはベトナム戦争の 帰還兵だった。ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵に米国政府が移住許可を与えたため、70年代に韓国系移民が4倍も増えた。彼らは主に競合相手のいない 黒人街で商売を始め、従業員には黒人でなくヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、そそくさと韓国人街へ帰るというスタイルで商売してい た。黒人の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうした黒人による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃 へと結びついたといわれている。また、当初は韓国人商店が襲撃されたが後には他のヒスパニック系/白人/黒人/日系/中国系の店も襲撃されるようになった。

鎮圧

暴動鎮圧のために州兵は元より、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、ロドニー・キング事件について、公民権法違反(第7篇。人種差別行為禁止)容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見た。

(ウィキペディア)


・暴動の間、俺はカリフォルニアのロングビーチの電気屋で働いていた。
恐ろしい時代だった。
オーナーたちは、もし俺達が仕事中に銃を携帯したいなら、支持すると言っていた。
ただ銃を使うのは自分たちの身を守る為だけで、商品を守る為には使うなと言っていた。


・↑ワオ。起きたことを詳しく話してくれないか?
当時、俺はまだ2歳だった。
だから目撃談を聞くことにとても興味がある。
それとそのオーナーは、とても思慮深くて素晴らしいボスだな。


・↑これは私の話だが。
俺の両親は、警察が封鎖した場所から数ブロックの所に住んでいた。
父はこのように言っていた、「暴動は夜から日中までずっとつづき、一時間ごとに銃撃が近づいてきた。だから小さな拳銃を持って、大家と共にバルコニーに座って待った。どこにも行く場がなかったし、金もなかった。それに家族を道で寝かせるつもりも、家を失うつもりもなかった。
」と。
幸いなことに、州兵が市内に到着して、家から3ブロックの所で暴動を鎮圧した。
もし何か聞きたかったら、聞いてくれ。


・↑こういうことを聞くたびに、どうやってこんなに狂ったことが起きたのか推測することが出来ない。
これが起きた時に、俺はまだすごく幼かったから、すごく驚くよ。


・ああ、アジア人の店主たちと一般的なアジア人達は、スラム街に住んでいたからな。
そして、よかれあしかれ時代の波に乗っていた。
面白い話がある。
マルコムXの自伝によると、1940年代にハーレムで暴動が起きた際に中国人のコインランドリーのオーナーは、「俺も有色人種だ」という看板を店に掲げた。
暴動を起こした者たちは、店には手をつけなかった。
笑うのに忙しかったから。
南部、特にミシシッピでは、多くの黒人たちが中国人やフィリピン人の祖先を持っていた。
1900年代初頭に多くのアジア人男性がプランテーションにやって来て、そこで働いていたから。


・↑その事件は、スパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」に出てくる韓国人の登場人物に影響を与えたのだろうか?


・ああいう状況で、店主たちには略奪者達を撃つ権利があったのだろうか?


・あのハチマキの意味は何なんだ?


・↑たぶん汗が目に入るのを防いでいたのだろう。


・↑敵味方を区別するためだろう。


・当時、サンタカタリナ島に住んでいた。
ロスの地平線はオレンジ色の光を放っていた。






・これを見てみろ。
銃撃戦や防衛策を映している。





・↑俺が理解出来ないのは、車で通りかかった近所の住人に石を投げつけることだ。


・↑サングラスの指揮官は準備万端だな。


・↑韓国の男性には兵役の義務がある。
屋上にいる男たちのほとんどは、軍で訓練を受けた経験があると思う。
別に特殊部隊というわけではないが、彼らは銃を綺麗にしてメンテナンスしたり、銃を撃つことは出来たと思うし、射撃訓練を受けた経験はあったとはずだ。


・すべての人々がこの件に関係したことをとても悲しく思う。


まるでグランド・セフト・オートの世界から出てきたようだ。


・こんなことがアメリカで起きたなんて狂っているよ。
しかもそんなに前のことではない。


・↑シンシナティの暴動は、もっと最近だぞ。




・状況が如何に急速に展開していくことや如何に無意味なことか思い出させてくれるよな。
白人の警官に怒る黒人?
アジア人の店から強奪して焼き払ってしまおう。


・↑この暴動の大きな原因は、長い間黒人と韓国人の間に緊張状態が続いていたことだ。
だけど確かに暴動が起きると、自分たちの住む地域を破壊している。


・黒人たちは韓国人たちにも怒っていた。
ロドニー・キング事件
の13日後に、韓国人のオーナーが武器を持っていない黒人の少女を射殺した。
彼女には執行猶予がついただけだった。
ロドニー・キング事件

1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道され黒人たちの激しい憤りを招いた。

この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパ ニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手で は押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあご を砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を 下した。これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員に黒人は含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる。(ウィキペディア)

ラターシャ・ハーリンズ射殺事件

ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた黒人少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズを、韓国系アメリカ人の女性店主、斗順子(トウ・スンジャ、Soon Ja Du、当時49歳)が射殺したのである。事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけた。

その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜い た。Duは逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものであった。この判決は黒人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実の黒人少女を射殺するというこの事件により、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。(ウィキペディア)


・↑ああ、でもこの事件後の数年で韓国人店主が30人以上殺された黒人地区はどこだ?
日常的に起きた韓国人店主の殺人事件のウィキペディアのページはどこにある?


・当時の黒人の貧困地区にあるアジア人の店の緊張を描いた一流の映画が3つある:ドゥ・ザ・ライト・シング、フォーリング・ダウン、ポケットいっぱいの涙だ。

http://goo.gl/gS8bcy

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