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A Largely Indian Victory in World War II, Mostly Forgotten in India

インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。(ウィキペディア)


海外の反応をまとめました。




・(スレ主)このスレを立てた理由。

1 本当に凄まじい戦いだったのに、世界に忘れさられつつある。

2 日本側には5万3000人の死傷者が出た。イギリス・インド側にはテ1万6500人の死傷者が出た。テニスコートでの勇敢な抵抗。

3 この戦いの70周年を記念するために、
歴史家と国家が何を行っているか描かれている良い記事だから。


・↑イギリス人は、芝のコートではいつも勝る。


・俺の祖父が米軍兵士として最初に派遣された場所がビルマだった。
最初の8か月間は、兵士の身元確認と遺体を埋葬することばかりをしていたそうだ。
彼は自分の妻に対しても、そのことを語ったことはない。
彼が潜り抜けたことを想像も出来ないし、どうやってその後2年も軍に残ることに向き合うことが出来たんだろう。


・この戦いは最近、イギリスの大衆によって歴史上最も偉大な戦いに選ばれた。
たぶん歴史に気付いている人々の一部を代表しているにすぎないのかもしれないが、コヒマが完全に忘れ去られていない良い証拠だと思う。
1944年、第二次世界大戦中に、日本軍によるインパール作戦の一環として南に位置するインパールと同時にコヒマにも進撃し、実際に佐藤幸徳陸軍中将率いる日本軍第31師団はコヒマを制圧した。しかし連合軍の抵抗は頑強であり、その上連合軍の強力な反撃でインパール方面が瓦解し無残な状態となり、佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将の命令に反発し、独断でビルマ方面に撤退している。このインパール作戦が東南アジア戦線の転換点となり、アウンサン率いるビルマ軍の反乱を呼ぶなどこの方面での日本軍の優位は失われた。コヒマでの白兵戦では双方が大きな被害を出し、日本軍はインドの平野部に入るための重要な高地を制圧できなかった。テニスコートの戦いで知られるコヒマの激戦地「ギャリソン・ヒル」の斜面には現在、これらの戦いで命を落としたイギリス連邦出身者など連合軍兵士の大きな墓地がある。テニスコートの戦いは英語版のwikipediaでは「東のレニングラード」と記載されているほど,凄惨なものであった。(ウィキペディア)

・記事「インドは独立後に6つの戦いを経験したが、どの戦いにも記念行事はない。
↑これが一番目立っていた。


・俺の曽祖父は、ビルマで橋を建設したが、日本軍が渡れないように破壊されるのを監督しなければいけなかった。






・現在はパキスタン人の祖父は、イギリス領インド軍として日本軍と闘った。
彼は勇敢な行為を称えられ、戦功十字章を受け取った。
どうして勲章を受け取ったか聞いたことがある。
彼が歩いていると日本軍と遭遇したそうだ。
彼の隊は、彼と2人の偵察兵を除いて退却したそうだ。
彼と偵察兵たちは日本軍の集団を打ち負かした。
それから彼は殺害した日本軍の士官の刀を奪った。
今でもその刀は家にある。


・↑写真をアップしてくれないか。
君のことは信じている。
ただ写真が見たい。
頼む。


・もちろん。
http://i.imgur.com/inOHD9Z.jpg


・↑とても興味深いデザインだ。
刀が騎兵用のサーベルのつばと合っている。


・何?
俺はインドの学校に通ったが、学校でこのことは触れられていなかったぞ?


・この戦いが忘れさられつつあるのは、歴史は勝者によって書かれるからだよ。
イギリスとインドは、植民地主義に包まれたことだから、語りたくない。
日本は忘れていないだろう。


・オーストラリア人だが、学校で教わったよ。
だから憶えている。





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