教育改革

2007年05月12日

教育改革に必要なのは慎重さと合理的な判断だと思う

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061110/1163087610で紹介したことがあるが、藤田英典氏は、

 (前略)それから今、先程ご指摘ありましたように、この問題は1980年代からあるいはもっと遡れば、公選制の教育委員会制度が任命制に変わったときからずっと問題になってきてたことだと思います。
 そして、改革の議論は、特に1980年代以降盛んになって、この教育委員会制度をどうするかということを、繰り返し提案がなされており、そしてまた現に様々な改革がなされてきておりますけれども、未だに事態は改善していないと言われてるわけです。
 同様のことは、いじめ、校内暴力、不登校、学級崩壊、少年犯罪も、1980年代から一貫して改革の理由として言われ続けてきました。先程、町村委員の方から、私の考えについて異論を発言されましたけれども、その点について25年間、これが問題だと言って改革をし続けて、未だにそれが最大の問題だ。だから、改革しなければいけないとするならば、これまでの25年間の改革、政策は何をしてきたのか。成功したのかどうか。そのことを今一度考える必要があると思います。
 改革のための改革のほうが批判のための批判、反対のための批判よりはるかに危険です。もちろん、対立的に暴力的に反対するなんていうことは論外でありますし、そういうことは許されるべきではありませんが、反対しても実害はありません。しかし、改革は結果が伴いますから必ず改悪であれば実害が伴います。その点を十分に考えて教育基本法の問題についても検討していただければと思います。

と述べている。教育改革に限ったことではないけれど、常に良いものにしていこう、いい方向に向けていこうとするのはいいが、そこに必要なのは慎重さと合理的な判断なのだと思う。
 全国学力テストを例として考えてみたい。
 http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/kariya/05_1.htmlで苅谷剛彦氏は、「悉皆調査」について取り上げている。その中で指摘されているのは、「一般的に、全員が参加する、いわゆる悉皆調査のほうが、調査対象者の数が多い分だけ、正確な情報を得られると思われがちである」が、「全国的な学力調査の実施方法等に関する専門家検討会議(以下、検討会議)」で次のような指摘がなされていることを紹介する。

 客観的なデータを取ることが重要である。悉皆調査で一番懸念されることは、成績の悪い子どもを休ませたり、学力調査の結果において高いパフォーマンスを得るための特別な努力をすることで、データが変質してしまうことである。取ったデータがすでに変質してしまっていれば、それをどれだけ分析しても意味がない。
 例えば、教育課程実施状況調査やアメリカの全国学力調査では、複数種類の問題冊子を使うなど、現場に直接的な影響を与えないで、客観的なデータを取るための工夫をしている。悉皆調査であっても、問題冊子をブロック別にすることや、サンプリングを工夫するなど、技術的な点で工夫できないか。
 変質してしまったデータをとってはならないことと、一方で、きめ細やかなデータを取り、きちんと教育の現場にフィードバックすることが社会の要請に応える意味で重要である。
(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/031/gijigaiyou/06020309.htm)より引用。

 そして、苅谷氏は、

 もしも、全国学力調査の目的が、「国の責務として果たすべき義務教育の機会均等や一定以上の教育水準が確保されているかを把握し、教育の成果と課題などの結果を検証する」(「全国的な学力調査の具体的な実施方法等について(報告)」)ことにあるとすれば、データが変質してしまう可能性をもった全員参加というデータ収集の方法は、実態把握をゆがめてしまう。とりわけ、「国は、義務教育における機会均等や全国的な教育水準の維持向上の観点から、すべての児童生徒の学習到達度を把握するための全国的な学力調査を実施することにより、各地域等における教育水準の達成状況をきめ細かく適切に把握する必要がある」(同報告)というのであれば、なおさらのことである。たとえ一般には公表されない――その危険性が全くないわけではないが――としても、学校ごとのテスト結果が教育委員会などに把握されるおそれを抱いた学校が、前述の委員が懸念するような行動を取れば、とくに学習に困難を来している生徒たちの情報は正確さを欠いたものになってしまうだろう。そうなれば、このテストの目的である、「教育の成果と課題などの結果を検証する」上での判断を読み誤ることにもなりかねない。

というように指摘する。
 苅谷氏が指摘しているように、全国学力テストが「実態を把握する」ために行われるとしたら、そのために「悉皆調査」を選択することは「合理的な判断」であったと言えるだろうか。
 もし、検討会議が本当に全国学力テストによって実態を把握したいと考え、全国学力テストを今後も継続させようと考えるなら、「悉皆調査」よりも、収集するデータの信頼性が高く、より広い範囲をカバーできるhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070509/1178642759で紹介したようなPISAやNAEPと同様のものを選択するのではないか。

 生徒にとっても負担軽減になり、予算も少なくてすむ。しかも、全国すべての児童生徒たちを、同じ物差しで序列づける危険性を回避できる。このようなテストの方法があるのに、それを用いない。4月24日に実施される日本の全国学力テストは、こうしたテスト技術・テスト研究とは無縁の、旧態依然とした「全国学テ」の方法を踏襲している、と言わざるを得ないだろう。

と苅谷氏が指摘するように、先日実施された全国学力テストは先行事例やこれまでの成果をきちんと検討し、取り入れたものではない。それは、たとえ検討開始から実施まで時間が限られていたからという理由があるとしても、検討か会議は「合理的な判断」をしたという評価を与えられることはないだろう。
 確かに教育の実態を把握することは必要なことだし、改善すべき問題は山積みにされている。しかし、そうだとしても、全国学力テストを絶対に今この時期に行わなければいけないということにはならない。
 各自治体ごとに学力テストが実施され、その結果を分析し、対策を検討し、対策を講じてきた。また、文部科学省でも教育課程実施状況調査を行い、その結果を分析し、対策を検討し、公表している。
 そうであるなら、全国学力テストについては時間をかけてでも、検討し、試行錯誤を繰り返し、PISAやNAEPの水準に近いものが実施可能になった段階で、実施しても差し支えない。
 また、地方で実施されている学力テスト、教育課程実施状況調査も、全国学力テストの研究・開発とリンクさせながら、改善を施していくということを同時に行う。そうすることで、全国学力テストの実施まで、切れ目なく教育の実態を学力テストを用いて把握するということはできる。
 イギリスもアメリカでも、様々な問題は指摘されているが、学力テストによる実態把握は行われている。イギリスやアメリカと日本との大きな違いは、学力テストの開発や改善にきちんと多くの資源を投入してきたし、し続けているということだ。そうすることで、学力テストは教育政策を検討したり、検証したりする上で信頼感のある根拠として用いられている。日本では、そういうことをやっているだろうか。
 よく「やってみなければ」とか「まずは実態を把握すること」などと言われるが、やってみる前に十分な検討を重ねたり、試行錯誤を繰り返す慎重さが必要だし、試行錯誤の結果合理的な判断を下していくことが必要なのではないか。慎重さや合理的な判断を欠いた教育改革は、「改革のための改革」であり、「改革は結果が伴いますから必ず改悪であれば実害が伴」なうことになる。だからこそ、慎重さと合理的な判断が教育改革では何よりも優先されるべきことではないか。

kaikai00 at 08:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年05月28日

教育に関する資料

 最近、『危機に立つ国家』の原文を探してこのサイトを訪れる方がいらっしゃるのでリンクしておきます。

『危機に立つ国家』(原文)

kaikai00 at 23:54|Permalinkclip!

2006年05月05日

学校を変えるのは

 読売新聞の「教育ルネサンス」で「民間出身校長が行く」というのを今やっている。様々な素晴らしい取り組みが紹介されている。
 その取り組みは民間出身校長にしかできないということではない。民間出身でない校長でも同様の取り組みをしているところはある。また、新しい制度などを取り入れるだけでなく、従来あるものを活用して改革を行っているところもある。
 浜之郷小学校の校長だった大瀬敏昭氏は次のように述べている。

 学校という職場は、あくまでも個人の集合体である。はじめに学校(全体)ありき、ではない。教師一人ひとりが、自分がこうしたい、こうありたいという強いモチベーションを持たない限り本当の学校改革などできるわけがない。つまり、強い個が全体を支えなければ全体として学校改革はできない。自律した個をつくるには、誰からか言われてやるのではなく、自分で判断し行動し、自分を成長させていけるような自発性と自主性が必要であり、そのためには型やシステムに個をあてはめていくようでは強い組織はつくれない。まず自分で考え自分で行動する「強い個」をつくることが強い組織をつくるには必要である。

kaikai00 at 11:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年03月23日

教育改革は審議会の改革から始めよう

 最近は、各自治体で教育に関する審議会や諮問機関を設けている。そこで気になるのは構成メンバーについて。中教審も同じだが、「有識者」というメンバーの方々には正直「なぜ」という方がいらっしゃる。
 様々な角度から「教育」について議論してもらうことには反対しない。しかし、専門的な問題について議論する審議会のメンバーに畑違いの「有識者」メンバーが選ばれている。それで議論の内容を見ると、データにしても動向に関する資料でも事務方が提出したものをそのまま使っている。出てきたデータや資料を検討することはあまりない。それで良いのだろうか。有識者なら、資料やデータでもっと良いものがあるということを指摘できるほうが議論が深まると思う。
 教育系学部の学部長だとか、教育関係の研究者で名誉教授だとか肩書きのある人がメンバーに入っていて中心的な役割を担っているが、研究の分野が全く違うとかいうのが多い。そういう人じゃなくてもっと違う適任者がいるだろうと思う。
 事務方の用意した原案に、御墨付きを与えるだけの審議会や諮問機関は無駄だからやめようという議論が必要ではないだろうか。飾りだけの審議会ではなく、開かれた所で議論を積み重ねていく方がいいのではないか。

kaikai00 at 03:39|PermalinkComments(3)TrackBack(5)clip!

2006年01月19日

現場の先生方の力量と創意を最大限に引き出す

 先程のエントリーで引用した荻原氏の論文に、

 日本の教師は「どのように」教えるかについては世界有数の力量とノウハウを持っています。しかし、そもそも「何を」教えるべきか、とは考えてこなかったし、それを考えてよしとする教育政策・行政の枠組みも存在しませんでした。教えるべき内容は国の基準としてほぼ確定していて、優れた教育方法を現場で編み出して実践するのが、日本の学校教育の高い水準を維持してきた良き伝統ともいえるのです。
 そう考えると、一つの思考実験として、教科書検定と指導要領による国の事前評価システムを維持し続けるのなら、出口まで国がチェックする必要はない、との考え方も成り立ち得ます。国が全国一斉テストなどしなくても、子どもたちの到達度を熟知しているのは現場の先生方です。受け持ちの子どもたちの学力を向上させたい、そのために工夫するのが腕の見せどころだと多くの教師は考えているわけです。
 時間と資源さえ与えられれば、国がチェックの枠組みをつくるのとは別のレベルで、例えば学校ごとにあるいは地域のレベルから学力水準保証の道筋はつけられるのではないでしょうか。むろん、そうした熱意と能力のある先生だけを前提にした制度設計はできないので、やや理想論に過ぎるかも知れませんが、全国悉皆テストによる結果評価だけにこだわるよりも、現場の先生方の力量と創意を最大限に引き出すような評価制度、支援策がもっと探られてよいはずです。

というように指摘されている。私はこれに賛成だ。学力テストは現場を管理する一つの道具になる。各教員ではどうしようもない状況であってもそういう個別の事象はテストの得点からは見えない。個別の事情は捨象されていく。子どもも教員もその個別の事情に苦しんでいるはずなのに。
 国が実施する施策の評価の手段の一つとして学力テストは考えられる。しかし、それは国の施策を評価するものにはならず、現場の評価の手っ取り早い方法として採用されるだろう。現場を信頼したり、良くしようというものがないまま、「揺るぎない信頼を確立」していくことはできない。政治家の横槍に耳を貸すよりも、もう少し現場からの意見を採り入れることをしたほうがいい。

kaikai00 at 01:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

やりっぱなしにしないために必要なことは

 文部科学省が「教育改革のための重点行動計画」を発表した。ほとんどの施策は平成19年度までに何とか目途をつけるというものだ。
 荻原克男・上越教育大学学校教育学部助教授 「市民・地域が支える教育へ向けて
─可能性としての地方分権・学校裁量権の拡大─」『BERD』No.3 ベネッセ の中で次のように指摘している。

 地方へ財源を移譲し権限を委譲したら、国が教育水準を維持管理する何らかのシステムは必要です。けれども、意図と裏腹に教育現場に予期せざる結果をもたらす場合もあります。そのこと自体を織り込んだ政策決定がなされるべきなのですが、予想される帰結の検討を踏まえた上で導入し、検証しながら修正していくという政策枠組みが未だ確立していないので、なおさら危惧されるのです。
 46答申の「先導的試行」では、数年間のスパンで検証しつつ導入するという政策アイデアが提唱されました。今の教育改革の進め方は、政治主導で官僚が実施せざるを得ない環境をつくっています。かつては「検討する」と書いてあれば官僚としては「限りなくやらない」を意味したのですが、近年の内閣府などの政策文書では「○○年度内に検討して結論を出す」と期限が明示されるため、速やかに対応せざるを得ま
せん。
 その点では確かに改革の実施率とスピードは上がったのですが、やりっ放しになっているものも多い。進行途上の一定期間ごとに検証し微調整していく必要があるでしょう。

 荻原氏は、「予想される帰結の検討を踏まえた上で導入し、検証しながら修正していくという政策枠組みが未だ確立していない」ということを指摘している。今回、文部科学省が発表した行動計画の資料の中に、「Plan・Do・See」ということを図で示しているが、計画では「Plan・Do」まではおよそどのようになるのかというのは分かるが、「See」の部分はよく分からない。
 例えば、事業評価の枠組みをつくらないまま、事業を実施し後になって評価の枠組みをつくって評価をする。それが妥当な評価になるだろうか。既に莫大な予算を注ぎ込んでいる事業を止められないのは荻原氏がまさに指摘しているようにそういう政策の枠組みがないからだ。
 今、実施しようとしている全国統一の学力テストについて、未だにどのような枠組みで実施していくのか決まってもいないし、その学力テストという事業をどうやって評価するのかということも決まっていない。
 期限を明示しているにもかかわらずほとんどが議論され始めたばかりのものか、これから議論していくものだ。そういう状況なのに期限だけは決まっている。議論が深まらないまま実施されていくのが予想できる。
 計画に示されたものを見ていると、既存のものをもう少しきちんと活用したらできるんじゃないかと思うようなことがある。既存のものを活用できないかというような議論ももっとすべきだ。そして、中教審自身の改革ももっと議論すべきだ。

kaikai00 at 01:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年01月17日

これは子どもにとって本当に良いことなのだろうか

 「何となく息苦しさを感じてしまう」というエントリーで紹介した記事についてもう少し書いておきたいことがある。
 土曜日や長期の休みに学校に子どもを集めて補習などを行うことは、子どもにとって良いことなのだろうか。
 以前、「時間どろぼう」「家庭や地域で学ぶ」「受け皿作りの弊害」というエントリーで同じようなことを書いてきた。
 例えば、学校で人間関係などで何らかの問題を抱えている子ども、その子どもにとっては学校へ通うというのは苦痛だ。しかし、学校へ行かないという選択をするのは容易なことではない。そういう子どもにとって休日はその苦しみから解放されることになる。
 しかし、「学力向上」というような錦の御旗が掲げられ、学校へ行くことが求められた時、その子は自らの意志によって選択したのではなく、学校へ行かなければならない状況に追い込まれてしまう。
 土曜日に学校へ行くかどうかは子どもの判断で決めればいい。だから強制ではない。というようなことを言われるかもしれない。しかし、学力向上というようなことを掲げられたり、自宅や他の場所にいることが憚られるような状況では、子どもが選択したというよりも、そう選択しなければならなくなっているというのが正しいのではないか。
 私の主観的な見方でしかないが、このような取り組みは、子どもの時間や居場所を奪うことにつながっていないだろうか。藤田英典氏は、


学び合う共同体

の中で次のように指摘している。

 <生活共同体>が特定の成員を排除することなしに展開するための必要条件は、協同性ではなくて、むしろ共存性だということである。協同性はポジティブな契機を拡大するが、そのありようによっては、排除や抑圧の契機にもなる。<生活共同体>は、そこで一緒に過ごしたということ、いろいろの出来事や活動が生起し展開した場所に一緒に居合わせたということ、すなわち共存したという事実のゆえに、<想像の共同体>の基盤になる。したがって、諸活動の編成やその進め方が、協同性を過度に要求するあまり、共存性を抑圧することのないように注意することが肝要である。そのことは<心の居場所>を圧縮し、奪い取ることのないようにするということにも通じる。言い換えれば、日常生活の場が息の詰まるような空間にならないように配慮するということ、積極的に関わることのできない生徒、遅れがちな生徒、さまざまの障害や困難を抱えている生徒にも<居場所>を用意するということ、そのための適切な配慮をするということである。

 このエントリーを書くきっかけになった記事では、「受験指導の強化ではない」「中学生に勉強の習慣をつける目的で始めた」「塾や私立に通う余裕がない家庭の子に同等の教育を施すのが、公立校の責務ではないか」というようなことが言われている。このようなものはあまり反対されるものではない。しかし、そうであるからこそ子どもにとっては参加を強要されるものとなるし、大人は子どもをそういう状況へと追い込みやすくなる。そのことをきちんと考えなければ、子どもにとって「息の詰まるような空間」になる。それは学校だからではなく、地域の活動でも同じことだ。
 「小中学校の土曜日の過ごし方」を行うことは、土曜日はただどこかで何かをして過ごすというものではなく、「教育的なこと」を「教育的な場所」で行うことを子どもに求めることにつながる。「教育的」という言葉は決して子どもではなく、それ以外の大人から見た価値観であり、それを過度に強調することは子どもの居場所を奪うことにならないだろうか。
 大人でも常に何かをしていることを強いられるのは苦痛なのに、子どもにはそれを強いてしまう。そういう状況が最近は強まってきているように見える。そういうことから、記事にあるような取り組みについては否定的な立場をとっている。

kaikai00 at 00:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年01月16日

学校の特色というのはどういうものか

 あるショップで、見栄えの良い商品があった。店員にその商品について評判などを聞いた。
 「その商品はあまりお薦めできませんね。見栄えは良いけれど中身はあまり良くないですから。その会社の商品は短期的にはすごく売れるけど、すぐに人気が無くなりますよ。だから、その会社は売れなくなってくるとすぐに、中身はあまり変えないで外見を変えて新商品だと言って売ってますよ。変わり身が早いですね。」
 それを聞いて買うのは止めた。帰ってその会社について調べると、商品開発のモットーは「特色のあるものをつくる」というものだった。その会社の商品はそのうち店頭からは消えていた。

 これは作り話だ。「何となく息苦しさを感じてしまう」というエントリーで紹介した記事にある「特色づくり」はこの話の中に出てきた「特色ある商品」と同じことだ。
 いわゆる「ゆとり教育」が皮相な教育論であったとしたら、この「特色づくり」も皮相な教育論だ。「学校は学ぶ所」という言葉の「学び」には多様な意味が込められていたはずだ。しかし、最近の学校では、テストの点数を上げる、「学力偏重」の学びになっている。
 なぜこのようなことになるのか。実態とは懸け離れた所で危機が叫ばれ、場当たり的な対策が打ち出され、その対策をこなすことに精一杯になっている。その対策が本当に必要かどうか、良いか悪いかという議論はほとんどされないまま、いつの間にか消えていき、新たなものが次々に導入されていく。そういう状況の中からは皮相な教育論しか生み出されない。
 なぜこのような外見だけの特色というものにこだわるのか。進学実績というような面ばかりを強調した所で他の問題は山積したままで解決できるわけではない。見栄えにばかり気を遣って善悪さえも区別がつかず、平気で子どもを犠牲にする。そういうものを「教育」というのだろうか。

kaikai00 at 23:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年01月10日

あれもこれもと、何でも詰め込まれた教育改革

幼稚園から義務教育、延長幅1〜2年…政府・与党方針 読売新聞

幼保一元化、まず課題…財源や法改正も 読売新聞

 この記事に関しては、文部科学省が否定しているので義務教育の延長や幼保一元化などがどうなるかはまだ分かりません。
 今回は、義務教育の延長や幼保一元化についてではなく、この記事から教育改革の問題点を少し指摘してみたい。

 義務教育をめぐっては、近年、小学校低学年で、集団生活になじめない児童が騒いで授業が混乱する「小1問題」が起きている。

 幼稚園―小学校―中学校と進学するにつれ、指導の内容、難易度などが大きく変わり、成績格差が拡大する問題も指摘されている。

 自民党は、05年9月の衆院選の政権公約(マニフェスト)に、「幼児教育の無償化」を盛り込んだ。1月にも、政調会の下に「幼児教育小委員会」を設置し、無償化の具体策として、義務教育延長を議論する。

 記事に書かれているこれら3つはすべて個別に背景を持っていて容易に解決できることではないし、義務教育の延長という一つのシステムの変更で解決できるものではない。
 個々の教育問題はリンクする部分もあるが、それ以上に固有の要因があり、その要因は複雑に絡み合っている。そうであるにもかかわらず、教育改革ではそれら個別の問題を一つのシステムを変更することで解決できるようなことが言われる。
 義務教育の延長というシステムの変更で記事に上げられた課題が解決できる部分はある。しかし、それは部分であって問題をすべて解決できるのではない。
 例えば、教育に市場原理を導入すれば問題が解決できない、免許更新制の導入だけでは教師の資質の向上も不適格教師の問題も解決できないのと同じで、一つのシステム変更では限界がある。
 その限界をきちんと示さない、または、考えないであるシステムの変更、それも限られた狭い範囲の変更に様々な問題の解決を期待する。問題の個別性を無視して個々の問題をまとめてパッケージ化してしまう。あれもこれもと一つに詰め込んでしまうことで、個々の問題の本質を見えなくする。何もかも詰め込もうとするから、何もかも済し崩し的になって、個々の成果も上がらない。あらゆることが中途半端になっている。
 これは、様々な教育改革に共通しているように思う。個々の問題をきちんと議論せずに改革を進めるから後になって問題が噴出してしまう。議論も充分に尽くさないでその時々の流れの中で思い付きのように改革を進めている。そこに戦略、特に長期的な戦略など無い。日本の教育改革にとって「不断の見直し」というのは、単に変わり身が早いと言うこと。
 そう言う改革で何が変わったのかと考えてみても、本当はほとんど変わっていない。今やいわゆるゆとり教育路線は終わったというように見ている方もあるが、ゆとり教育路線のなかで打ち出された多くのものは今でも存続しているし、さらに強化されているものもある。
 ここで取り上げた義務教育の延長というのは、決して容易なことではない。それこそ抜本的に教育システム全体を改革しなければいけないような問題だ。その議論の過程で様々な問題とどう関連付けていくかというのも課題になっていく。その時にこの改革では何ができて何ができないかというようなことをきちんと議論していくことも必要だ。そして、できない所を他のシステムの変更で補うか、新しくシステムを作るかという議論をして欲しい。中教審の義務教育特別部会が何もかも議論したことで、結局はすべてが中途半端で終わったような、そういうのは繰り返してはいけない。


このエントリーをトラックバックしたブログ(livedoor Blogのみ掲載)

http://blog.livedoor.jp/okanyan599/archives/50314809.html

kaikai00 at 00:24|PermalinkComments(1)TrackBack(1)clip!

2006年01月09日

中にあるものや既存のものを活かす

県教委:過疎地の教育、民間事業者と提携 南会津の6中学、4月から /福島 毎日新聞

 私は小学校から中学校まで同級生が十数人という小さなクラスで学んだ。中学校卒業までクラスの顔ぶれは何人か転入・転校した子もいたがほとんど変化しなかった。小学校の卒業を前にして、ある先生が大きな私立の学校を受験したらどうかと言われた。その理由は記事にあるように刺激が少ないよりも刺激の多い所へ行った方が良いということだった。しかし、断った。
 この記事では、

 都市部の生徒に比べて競争の機会が少ない子供たちに刺激を与え、学習意欲を向上させることができる

とされているが、私自身の経験のみから言えばそれは疑問だ。今の子どもたちが学習意欲を低下させているのは競争(私は競争という言葉ではなく切磋琢磨という言葉をこういう場合は使いたい)がないからだとよく言われるが、本当にそうだろうか。競争する環境を持ち込めば学習意欲が向上するというのは今の子どもたちにとって本当に有効な手段だろうか。この問題はもう少しよく考えないといけない。
 それよりも、

ノウハウのある業者の活力を有効利用したい

と記事では書かれているが、学校が持っているノウハウや活力をうまく利用できていない現状を何とかするのが先ではないかと思う。業者のノウハウや活力を利用し、それが契機となって、学校が本来持っているノウハウや活力が有効利用されるようになればいいが、これは外部に委託することでそれに依存し、学校のノウハウや活力は失われてしまうような気がする。
 今の教育改革は、何でもかんでも外から持ち込んできて、それが中にある活力などを低下させている。それは、短期間で何とかしようということが強いからかもしれない。そう簡単に何とかなるような問題というのは少ないのだけど。もう少し既存のものや中にあるものを活用していくことが必要ではないだろうか。

kaikai00 at 18:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!
kaikaiより
おいでいただきありがとうございます。記事の内容、引用、リンクなどで問題がある場合は、こちらまで(kaikai00@mail.GOO.ne.jp)ご連絡ください。
月別アーカイブ
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: