現代では、監査の必要性が広く国民に認識されており、監査は組織の信頼性を担保するための制度として浸透し、有効に機能している。例えば、予算が僅か数十、数百万円の地域の自治会でも、住民から徴収した町会費の収入と、町会の諸行事や街路灯の維持管理などの費用支出について、支出項目の妥当性、領収書とのチェックなどの徹底した精査を行い、年度末の定期総会で会計監査報告が行われ、その年度の活動実績の承認、翌年度予算案の承認を住民の総意で決定している。監査が行われないと、信頼性が失われ、最悪、組織の崩壊につながるのは歴史が教える教訓でもある。

 単刀直入に言えば、命の次に大切なのが、お金であろう。お金の問題がいい加減に扱われると、すべての信頼性が容易に失われる。組織も容易に崩壊する。だから、いくらの収入があり、支出が不正なしに使われたかどうかをチェックする制度が必要なのだ。監査が、どんな社会でも、社会を健全に維持するために必須の制度である。

 
 例えば、2011.3.11の災害時には、多くの人から多額の援助寄付金が日本赤十字社等の公的機関に寄せられた。これらの援助金などが災害の被害者にしっかりと早く届けられることが必要だ。これらの膨大な金額について、どのような基準で、誰にいつ、いくら配分され、届けられたのか、今いくら未配分で残っているかなどについて、機関の実行責任(Responsibility)が果たされているだろうか?きちんとした監査は行われていないだろうという疑念を持っている人が少なからずいる。

 仮に、一部の限定された人たちに監査報告が行われたとしても、寄付をした主たる利害関係者である国民に、新聞やウェブなどの媒体を通じて、監査の結果が報告されなければ、公的機関の報告責任、説明責任
(Accountability) が果たされたとは言えない。僅かな金額を管理する町会でさえ、監査報告があるのに、何千億円の寄付金の監査が行われないなんて、国民の情報リテラシーが低すぎないか。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」国民性も相俟って、国民の関心が薄いのは残念だ。お金が災害で困っている人に届かなければ、寄付をした人の単なる自己満足で終わり、せっかくの好意が災害被害者に届かず、最終的に寄付の目的が達成されたとは言えまい。

 「会計のあるところ、監査あり」と言われる。日本のような民主主義国家では、会計と監査は表裏一体を成し、監査が欠けたら、会計の信頼性は極度に低下する。組織の健全な維持と安定運営に、監査は必要不可欠なインフラ制度なのである。

 東京都が都の会計制度を民間企業と同レベルの会計報告制度に変更できたのも、当時の知事が、情報(会計と監査が中核を成す)に対する深いリテラシー(理解)を持っていたから、実行できたのだ。それまでの知事には、問題点としてさえ、認識されなかった可能性がある。現に導入できなかった。新しい会計制度が導入されると、それに伴って、監査が行われ、企業と同じようなガバナンスが機能するようになる。

 どんな組織であれ、組織のトップや幹部が情報リテラシーに深い理解を持つと、本当に心強い。会計は情報リテラシーの中核である。反対に、トップの理解が薄いと、組織も心もとなくなる。