2012年02月

今村元市さん追悼展

朝日新聞2月25日(土)に、「海峡派」同人だった故今村元市さんの追悼展の記事 が掲載されました。ぜひ足をお運びください。

場所:北九州文学館
時  :4月8日まで  ※月曜は休館です(問い合わせ 093-671-1505)


記事を抜粋します

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北九州の郷土史研究の第一人者として知られた故今村 元市さんの追悼展が、小倉北区の市立文学館で開かれている。

今村さんは昨年10月、肺炎のため90歳で亡くなった。追悼展では、今村さんのゆかりの品を展示し、その功績をたたえている。

今村さんは旧門司市出身。戸畑高校などで教壇に立ち、旧小倉市立図書館などで司書を務めた。小倉と門司の郷土会長も兼任。2007年には、市教育文化功労章を受章した。地元の町名の由来を調べた辞典や明治から昭和にかけて撮影された市内の写真集など、多数の著書などを残した。

資料収集にも尽力し、郷土史研究をリードした。
追悼展には、今村さんの著書や論文、編集した写真集など約20点が並ぶ。

綿密な周財に基づいた記録文学や歴史小説などで知られ、06年に死去した作家吉村昭さんが門司を訪れた際には、今村さんが案内したこともあったという。吉村さんから届いた直筆の礼状や、吉村さんから贈られた特殊な印鑑も飾られている。

文学館の竹光玲子学芸員は「北九州市のことを調べる時、まず今村さんを訪ねた作家の方は少なくありません」と話す。

「群系」掲示板に 122号の感想

根保孝栄様より「群系」掲示板「海峡派」122号の感想を書いているとコメントをいただきました
さっそく拝見。
根保さん、ありがとうございます
根保さんに感想をいただいた同人にお知らせします。喜びます

「海峡派」122号・坂本梧朗「財布譚」と神川こづえ「サンディと月下美人」 投稿者:根保孝栄・石塚邦男 

「群系」掲示板はこちら
   ↓  ↓  ↓

 
http://8614.teacup.com/snagano/bbs

以下、抜粋します。
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坂本梧朗「財布譚」

よく財布をなくして慌てる男の話。主人公は男か財布かなんて思いながら読み進んだ。
誰しもが一度は体験する話だろうが、主人公はよく無くす男のようだ。
60枚の作品には幾度かの失敗談が披露されているのだが、財布を無くすたび慌てる主人公の姿が自分の体験と重なるので、読者は何となく最後まで読まされてしまうだろう。
そういう意味では、この作者は、なかなかのエンターテナーと言えるかもしれない。

神川こづえ「サンディと月下美人」は、福岡宗像市に住む「私」が新聞で南国の花が咲いたという記事を読んで、沖永良部島で育った幼少の頃を思い出すという話。終戦から八年後に日本に復帰した島だが、進駐軍がやってきた記憶や女性と親しくなると家を借りて住み始める米兵がいて、近所の幽霊屋敷に住み着いた米兵のサンディと親しくなった幼年期の私の話が、土地の様子と共に良く描かれた作品は印象的だ。

伊藤幸雄「モンスター・ペアレント」は、流行作家の先生のところに原稿を取りに行った若い編集員が、なかなか仕上がらない原稿にヤキモキしている。先生のところにはひっきりなしに電話がある。時代考証が間違っているの、歴史認識がどうのと。先生は手書きで原稿を書いている古いタイプ。なかなか筆は進まない。どんな人がいちゃもんつけてくるのか、聞いてみると。
「明智光秀からなんだ」
「えっ、本能寺で織田信長を討った、あの明智光秀ですか、そんな・・」
「いや、まだ説明してなかったかな。これは異次元電話といって、歴史上の人物と直接話ができる電話なんだ。
「・・・・・・」
若い編集者は驚く。見た目は普通のアナログの黒電話なのだが・・。
また電話がかかってきた。
「もしもし、ああ織田信長君か、今度の文句はなんだね・・」
そんなシニックな人を馬鹿にしたようなSFショート・ショートなのだが、読んでいて星新一の作品のようで面白かった。10枚にも満たない小品だが、これもアイデア次第で読ませるエンターテイメント文学になる。

犬童架津代「母の日」は母の日のカーネーションを用意していた矢先に母死すと義姉から電話がある。仰天したヒサは、正月母の住む近くまで行ったのだが、何となく行きそびれて寄らなかったことを後悔した。母は身体が不自由になり、必死にリハビリに努力していたのだーというような娘の心境を書いた15枚ほどの小品ながら、娘の悔いる悔しさと寂しさがさらりと書けていた。

現代詩はどこへ行くか 「海峡派」122号 吉本洋子
の作品「帰還」を例として

石は眠っていた訳ではなかった

静かな意志を抱えてそこに居たのだ

家を見渡せる公園の滑り台の上に

暫く留守をしていた縁側の籐椅子の上に


これは吉本洋子の詩「帰還」と題する作品の第一連である。
この場で私が語りたいのは、「現代詩」とは何かということである。
この作品を一読したとき、「石」と「意志」の同音の言葉のどちらかが誤植ではないかと思った人もいたろう。
なぜなら「石は眠っていた訳ではなかった」という第一連の一行目からして「普通」の表現ではないと思うからだろう。「石」は動物のように物質だから眠る眠らないという表現はあてはまらない、と思うからだろう。
しかし、そのような疑問を脇にして、四行目まで読むと、不思議な世界が読者の目の前に立ち上がって見えてくるだろう。
「石は眠っていず意志を抱えてそこに居る」
公園の滑り台にある石は子供がそこへおいたのだろうか、籐椅子の上にあるのも子供がもってきたのか、それともだれかが置いたのか。でも、石は意志を抱えてそこに居る・・と作者は語る。哲学的でもあり、禅的な存在論的でもある。
しかし、現代詩の鑑賞とは論理的に説明しているだけでは十分ではないものなのだ。これはイメージである。石の置かれた映像を読者は頭に描けばいい。ただそれだけでいいのである。その映像は滑り台の上の石、籐椅子の上の石であるだけだが、しかしそれだけではない。「静かな意志を抱えているように見える石」である。
そのような映像を読者が想像できればいい。
現代詩とは散文のように論理的に突き詰めるものではない。読者は素直に詩人の映像を共有すればいいのである。それは音楽の鑑賞、抽象画の絵画の鑑賞ににているかもしれない。
「では、それが何だ」と言う方もいるだろう。
しかし、吉本さんの作品は佳作であるとだけ言っておきたい。

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