陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 3

満州の国際都市、ハルビンの絵葉書。

白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラな街角が魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 2-②

満州の国際都市、ハルビンのカラフルな絵葉書。

タイトル 「大哈爾浜 東洋の巴里(パリ)」
白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラな街角が魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵


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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 2-①

満州の国際都市、ハルビンのカラフルな絵葉書。

タイトル 「大哈爾浜 東洋の巴里(パリ)」
白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラなストリートファッションや街角が魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵 

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 1

満州の国際都市、ハルビンのカラフルな絵葉書。

タイトル 「ハルビン街角スナップ」
白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラなストリートファッションが魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵 

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陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド人白衛軍 (6)

②次に、「松平・石坂コンビ」のうち、もう一方、石坂少将の本事蹟への関与についての推論を述べたい。


執筆者としては、浦塩派遣軍が本事蹟にコミットした一連の経過は下記の如くではなかったか、と見ている。
まず、 アンナ・ビルケウィッチ女史は渡邉領事の紹介状を東京に持参してきたのだから、当然ながらウラジオを立つ前に渡邉と接触しているわけだ。
そして渡邉はまずは外交官としての立場で、彼女の陳情を受け付けたものであろう。
これが通常の領事業務なら、政務部に案件を回すことなく独自の判断と権限で処理していただろう。
だが、事が事であった。
当然ながら、政務部案件として松平政務部長に報告し、指示を仰いだはずだ。

なぜ政務部案件かといえば、このような極めてデリケートな案件は相当に熟慮し、慎重に処理する必要があったからだ。
まず、シベリアでのポーランド人孤児救済については、日本軍駐屯地域の 「護民官」 的立場であった松平部長の職域に関わることであった。
さらに当時、事実上の同盟関係を築きつつあったポーランド政府との連帯の姿勢を示すことは、日本にとっては外交上の大きな意味があったはずだ。
片方で多数のポーランド兵の母国送還をせっせと手伝っても、一方で孤児たちの救済に無関心であれば、日本の真心が彼の国の人々に伝わるはずがなかった。
つまり、仏造って魂入れず、というやつである。

ここはどうしても、孤児たちも併せて救うことにより、ユーラシア大陸の向こう側で赤軍を相手に戦ってくれているポーランド政府と連帯する外交上の意思表示をする必要があった。
なぜなら、ポーランド軍が奮戦するということは、それによって東シベリアに振り向けられる赤軍兵力を少しでも減らすことで、日本軍への軍事的脅威を如何ほどか減殺することができたからだ。
その意味において、派遣軍司令部では、多分に軍事的要素のある事案として受け止めたのではないだろうか。


したがって松平部長は派遣軍司令官に報告し、軍としての方針を固める必要がある旨、意見具申をしたはずだ。
そして、松平部長も交えた派遣軍首脳の協議になったと見ている。
当然ながら、ポーランド兵の送還に直接関与していた石坂少将も協議に参画したことだろう。

孤児たちの救済については、ほぼ全員一致で特に異存がなかったと思われるが、派遣軍自ら取り組むには不適当と判断され、また必要財源も手当できない。
加えて、戦後恐慌や尼港事件で気が立っており、とかく軍部に反発しがちな国民世論にも配慮しなければならなかった。
故に、外務省及び陸軍省を通して日赤を動かすこと以外の選択肢がないことで、衆議一致したことだろう。
陸軍省(田中義一陸相)については派遣軍司令官または参謀長から意見具申が行われ、結果から考えると特に問題なく速やかに了承されたのだろう。
そして、外務省を通じた裏工作については、松平部長が行うことが決まり、それも速やかに実行されたであろう。


ただ、問題が一つ残っていたとすれば、外務省の工作はOKにしても、肝心の日赤への根回しはどうするかということだ。
それが抜けているようでは、裏工作は決して完璧とは言えない。
そこで、この問題を解決するにあたって、石坂少将に白羽の矢が立てられ、彼が工作を担当することになった、と見ている。
では、それはどういう風に実行されたか。 


ところで、この事跡において、孤児たちの救済を全面的に引き受けることを快諾したのは当時の日本赤十字社社長、石黒忠悳(いしぐろ ただのり)であった。

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石黒忠悳


記憶力の良い方は、彼の名は本ブログで以前に登場したことを思い出されることだろう。
つまり、以下の記述である。

**********************************************

また、これも興味深いものだが、石坂は文豪、森鴎外が若き日の軍医時代の直接の上官であった。
鴎外と石坂との関わりについては「石黒忠悳日記」に次の記述があるようだ。
石黒も石坂と同じく草創期の帝国陸軍の軍医であり、後に日本赤十字社の第四代社長になった人物である。


  (明治21年) 一〇月六日 来ル

           一〇月七日 朝林太郎母並弟妹来ル

           一〇月八日 石坂ヨリノ事ヲ内談アル 、


当時は、石坂は軍医学舎(軍医学校)の舎長(校長)、鴎外が軍医学舎教官、そしてこの石黒は軍医監であった。
鴎外は後年、大先輩であった石坂軍医と同じく陸軍軍医総監になっている。
この日記の頃、鴎外は小説「舞姫」のヒロインのモデルとなったドイツ女性との恋に悩み、職を辞することまで考えていたようだ。
その処理をめぐる記述と見られる。
おそらく、石黒、石坂の両上官が鴎外の才能を惜しんで必死に慰留したものであろう。

**********************************************

このように、石黒忠悳は且つて石坂惟寛と同じく明治陸軍の軍医であり、そして軍医としての階段を昇りつめた後に、日赤の第四代社長に就任したものだ。 
石黒も石坂もともに幕末の生まれで同世代であったが、石黒は幕府の西洋医学所の出身であり、将軍家の侍医であった松本良順に師事している。
石坂は前に述べたように緒方洪庵の適塾出身なので、この二人は西洋医学を学んだ際の系統を異にしていた。
しかしながら、二人は共に明治維新後は、ほぼ同じ時期から草創期の陸軍の軍医として活躍を始めた。

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石坂惟寛


両名とも明治十年の西南戦争に出征し、また明治二十七年の日清戦争にもそれぞれ共に軍医の高官として貢献している。
また、上記のように軍医学校の幹部として共に働く時期もあったものだ。


そして、次の文書はこの二人の職務上の密接な関係性を物語るものとして、最もふさわしいものであろう。 

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これが何を意味するかと言えば、日清戦争での日本軍勝利の後に割譲された台湾に出征した近衛師団の師団長、北白川宮能久(よしひさ)親王殿下が不幸にも現地でマラリアに罹り、戦病死された折りの機密電報である。
重症に陥った親王を八方手を尽くして治療に当たったのが、当時の台湾総督府軍医部長として従軍していた石坂惟寛であった。
文面からは刻一刻と悪化してゆく親王の容体が読み取れ、石坂軍医の憂慮が伝わってくる。
だが、懸命な手当も虚しく、親王はやがて危篤となり、ついには陣没された。
石坂軍医はその死を見取ったことになる。
親王の薨去は国の極秘事項としてしばらくは公表されず、柩は東京に運ばれてから丁重に国葬が執り行われた。
享年48歳。



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北白川宮能久殿下


北白川宮殿下は実に波乱万丈の生涯を送られた、特異な皇族であった。
幕末には皇族でありながら、親幕府のお立場を取られ、東征大総督の有栖川宮熾仁親王に直談判をするなど、徳川家の存続のために尽力した。
上野の寛永寺の貫主であったことから、血の気の多い彰義隊に担がれ、彼らの敗走後は奥羽列藩同盟のトップにも祭り上げられた。
やがて明治維新となり、しばらくは謹慎の身であったが、やがて明治天皇からお許しを得た。
間もなく、一念発起してドイツに留学された。
ドイツでは陸軍大学で軍事学を学び、職業軍人の道を歩まれ始めた。
だが、ドイツで或る上流婦人と恋に陥り、結婚までなされるつもりだったのだが、皇室や政府首脳に大反対されたあげく、婚約は取り消しとなり、悄然として帰国なされた。
それからは軍人の道一筋に精進されて、日清戦争の頃には近衛師団の司令官(中将)として台湾に赴かれたものだ。


この機密文書は、親王の劇的なご生涯の最期に立ち会った石坂が当時、大本営の野戦衛生長官の要職にあった石黒に宛てた報告電文である。

石黒と石坂、両名はこのように、明治日本が経てきた歴史的事件の折々のシーンに共に遭遇してきた仲であった。
そして、共に日本赤十字社の創立及び創成期にも深く関与し、それぞれ多大な貢献をしている。
日赤においては、石黒だけは社長にまで昇り詰めたが、それ以前に二人は共に常議員として肩を並べていた時期もあった。


このように、石坂惟寛と石黒忠悳は現役時代は非常に近しい職務関係にあったことから、浦塩派遣軍としては、その点を見逃さなかったと考えられる。
すなわち、惟寛の子息である石坂少将から石黒社長に、特務機関長として軍と外務省の内々の判断を伝え、日赤として善処することを希望する旨の要請をした可能性があると見ている。
そして、その代わり派遣軍としては陰で全面的にサポートすることも当然付け加えたことだろう。
或いは、惟寛がまだ存命中であったので、彼からも口添えしていた可能性も十分考えられる。
むしろ、その方がより効果があったとも考えられる。

単なる平凡な文官上がりではなく、叩き上げの軍医として戦場の悲惨をよく知る石黒であったはずだ。
大人たちの理不尽な戦いに巻き込まれた、罪のない孤児たちの憐れむべき境遇には心を動かされたであろう。
そして、裏工作を受けたことは機密事項として、決して口外せず、記録にも残さないように配慮もなされた、と見るのだ。


以上、①と②で述べたように、このように「松平・石坂コンビ」がそれぞれ関与することで、外務省と日赤双方への根回しが円滑に行われ、裏工作が完成したのではと考えられないか。

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド人白衛軍 (5)

上記1枚目の文書は大正7年8月、連合国各国とシベリアに共同出兵した際の陸軍省から発令された浦塩派遣軍政務部設置に関する訓令案の一部である。
同政務部は派遣軍の司令部に置かれ、現地の外交政務、つまり軍事以外での地域各政治勢力との折衝、民生雑務や各国外交機関との折衝・調整等が任務とされた。
この一覧表にあるとおり、政務部部員は軍人ではなく、全て外務省から出向した文官であった。
部長の松平恒雄の肩書きが大使館参事官とあるのは、彼はこの辞令の直前まで在米大使館の参事官であったので、そのまま表記されているものだ。
部員及び書記官等は木村鋭市以下8名であり、その中に副領事の渡邉理恵の名が見える。

つまり、渡邉領事はシベリア出兵時には既に浦塩派遣軍政務部の一員であり、松平部長の指揮下にあったことを示している。
2枚目の文書は翌年大正8年のものだが、副領事から領事に昇格した渡邊が浦塩派遣軍政務部部員を兼務することをあらためて辞令されたものだ。
この人事を発令したのも、やはり陸軍省である。
要するに松平部長も渡邉領事もこの頃は外交官であると同時に浦塩派遣軍所属の文官であった。
俗にいう、二足の草鞋を履いていたということだ。
そして、指揮系統上は外務省というより、陸軍省に優先的に帰属していたことになる。


故に、アンナ・ビルケウィッチ女史が渡邉領事から紹介状を預かったという事実も、渡邉が独断で好意として渡したということは有り得なかっただろう。
その場合は必ず、松平部長及び派遣軍首脳の指示ないしは承認を経ていたはずだ。
だが、あくまでも体裁としては、一領事である渡邉が孤児救済委員会に同情し、紹介状を善意で書いて彼女に託したという形を取る必要があったのだろう。
その理由としては、浦塩派遣軍がこの事案で水面上に出ることには、日本側及び孤児救済委員会側双方でデメリットがあり、逆に水面下にいた方が双方メリットがあった、ということではなかろうか。

救済委員会としてのデメリットは、もし浦塩派遣軍に直接且つ全面的に頼ったとすれば、政治的中立性が破綻して、親モスクワ勢力から「親日反露政治団体」という烙印を押されかねない。
そうすると、それ以降のシベリアでの救済活動に支障をきたす恐れがあった。
逆にメリットとすれば、派遣軍とはワンクッションを置き、日本赤十字社との連携を持つことで、中立的な人道救助団体としての一貫性は維持できるからだ。
現に、同救済委員会は日本軍撤退後もウラジオでの活動をソ連当局から認められ、第三次の孤児救済活動も無事終えている。

日本にとってのデメリットは、あくまでシベリアへの出兵目的は軍事作戦であり、民間の孤児を救出することではなかったから、ということに尽きる。
チェコ兵など帰還軍人の母国送還については派遣各国軍との共同作戦なので問題はなかった。
広義の意味では、軍事作戦の一環とも言えるであろう。
だが、ポーランド孤児の救出、輸送となると純然たる民生問題であり、派遣軍が直接取り扱うには馴染まなかった。
派遣軍はあくまでも軍事作戦を行う軍隊であり、大掛かりの民間人救護は日赤主体で行う方が適切との判断が下されたことだろう。
また、国家機関で予算使途ががんじがらめの軍や外務省に比べて、日赤は財政面でも多少の融通が利き、この点もメリットが大きい。


当時、大正9年春~夏は未曾有の大戦好景気の反動で、いわゆる大正の大恐慌に突入していた頃だ。
株価は大暴落、企業は続々と倒産し、巷に失業者が溢れ、日本は大変なことになっていたのである。
シベリアでは尼港事件が起きて国民を憤激させ、且つ出口の全く見えない出兵の先行きに人々の政府への不信、不満は相当に高まっていた。
そういう状況で、もし派遣軍が前面に出て孤児たちの救助作戦を始めていたら、野党、国民世論、そしてメデイアが黙ってはいなかったと思われる。
なぜなら、出兵本来の目的から逸脱することになり、「陛下の軍隊と我々の血税をそのような他国の慈善事業に費やすつもりであるか。浦塩派遣軍はそのように暇であるのか。」 などとコテンパンに叩かれていた可能性がある。
だから、この場合は派遣軍はあくまで陰で支え、外務省と日本赤十字社を前面に押し出す必要があり、またメリットもあると判断されたのではないだろうか。
そのメリットについては、以前に随所で述べたとおりである。
要するにこの場合は、軍が表だって関与せず、赤十字主導の国際的美談として仕立てた方が八方丸く治まったのだ。
実際には、派遣軍は救助活動にはノータッチどころか、孤児の捜索や輸送などで全面的にサポートしている。
それはあくまで日赤の救援活動のサブ的立場という大義名分を得たので可能になったと見る。


また、当時の外務省ヒエラルキーに於いては、松平部長は武者小路課長より上位に位置し、外務省に派遣軍の真の意図を伝え、その意を汲み善処することを促すことが可能であったと見る。
なぜなら、松平は文官高等試験外交科(外交官試験)の明治35年合格者であり、武者小路は四期下の明治39年合格者であった。
また、埴原次官は明治31年試験の合格者で、松平より四期先輩であった。
つまり、彼らは三人とも先輩後輩の間柄で、強い仲間意識で結ばれていたはずだ。
明治時代の外交官試験の合格者は年に数名程度の超エリートであり、彼らは正真正銘、外務省のサラブレッドであった。
松平も武者小路も後にそれぞれ大使級の高官となって国際舞台で縦横に活躍している。
おそらく、ビルケウィッチ女史の訪日以前の段階で、この三名によってストーリーが大方出来上がっていたと推定されるのである。

また、彼らは共に皇室に近しく供奉する名流であったので、貞明皇后の孤児へのお見舞い行啓もアレンジすることも十分可能であったことだろう。
貞明皇后の孤児たちへのまことに仁慈の御心に溢れた行啓は、この救済事業への国民の疑義を払拭させたことだろう。
松平の娘、節子は貞明皇后に気に入られ、この三年後の大正12年、秩父宮雍仁親王(大正天皇第二皇子・昭和天皇の弟宮)に嫁いで皇族となっている。
国外向けでは、「日本はシベリアに軍隊を送ってはいるが、救済を求める他国の弱者にも慈愛で応える一等文明国」としてのイメージアップに抜群の効果があったはずだ。
その頃は、大戦後のヴェルサイユ体制において、五大国の一つに躍り上がった日本帝国の大事なデビューの時だったのである。

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松平恒雄


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武者小路公共
1937年 駐独大使時代 ベルリンを訪れた女優の原節子と


下記の文書は昭和6年のジュネーブ一般軍縮会議の代表団一覧表である。
首席全権委員が松平であり、首席随員が武者小路であったことがわかる。
彼ら二人がエース級の日本外交官コンビとして活躍していたことを示すものだ。

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また、松平は戦後、参議院議長に就任間もなく急逝したのだが、武者小路は彼の功績を顕彰するために設けられた 「故松平恒雄氏追憶会」の発起人に名を連ねている。
そして、その分厚い追想録の中で、心を打つ追悼文も寄稿している。
彼ら二人の固い人間的結びつきと親交を偲ぶ史料といえるであろう。


また、ポーランド孤児救済に関する或る海外の文献には、下記の記述が見られる。(出典は不明)

The first children flowed from Vladivostok to Japan in July 1920, was made ​​possible with the help of the Japanese military mission in this city, at the head of Count Matsudaira, consul Watanabe and Major Hasebe.

1920年のポーランド孤児の第一回送還にあたっての日本側の貢献を記述しているのだが、派遣軍の松平(恒雄)伯爵、渡邉領事の名が見え、そしてMajor Hasebe とあるのは、当時浦塩派遣軍参謀であった長谷部照悟陸軍少佐であろう。
厳密に言えば、松平は元会津藩主の容保(子爵)の庶子であった故に会津松平本家を継いでいなかったので、授爵されてはいなかったが、海外ではそのように受け止めていたのであろう。
この記述からも、孤児救済事業の陰には浦塩派遣軍が組織ぐるみで関与していたことが暗示されていると言えないだろうか。

なお、下記のように、松平恒雄も先の浦塩派遣軍の四将官と同じく、ポーランド共和国からオドロゼニア・ポルスキー勲章を授与されている。
しかも、等級は一等であり、大井元成大将と同格の「グランクロア」(大十字勲章)である。
経歴を見る限り、松平は外交官として在ポーランドの公館には一度も赴任したことがなく、単なる外交儀礼的な勲章授与ではないはずだ。
また、受章の時期も四将官と同じなので、彼らと同じくウラジオでのポーランドに対する温情溢れた措置に報いる叙勲であろう。

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陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド人白衛軍 (4)

この「松平・石坂コンビ」が何故そういう遠回りのことをする必要があったか、つまり推定される動機面についてはこれまで随所で述べてきた。
では、実行面で彼らがどのように一連の事を運んだか、という推論は次のとおりである。


①ウラジオを拠点にしていても、ポーランド孤児救済委員会は活動の性格上、政治的には中立的な立場であらねばならなかった。
それを堅持した成果であろう、同委員会は日本軍のウラジオ撤退後も同地で活動を続けており、第三次の孤児送還事業をソ連当局と取引をする形をとり、シベリア鉄道経由で成功裏に達成している。
第一次、第二次の孤児送還事業では日本が全面的に協力したのだが、それは米英など出兵していた各国に救助を依頼して全部断られたからで、最後に残った日本に頼ることになったという経緯がある。
このあたりは、妙な話だが、陽明丸事蹟の脱出船確保の経過とよく似ている。
シベリアでは強面の好戦的な軍隊として恐れられ、欧米と毛色が違う日本はどちらかというと敬遠されていたのだろう。
そういう経緯で、救済委員会は各国からノーと言われて八方塞がりになっても、なるべく日本(政府・軍)には頼りたくなかったらしく、アンナ・ビルケウィッチ女史は上海の教会関係者、さらに函館のトラピスト修道院にも出かけて協力を依頼している。
だが、残念なことに、これらも全て断られてしまった。

このようにアンナ・ビルケウィッチ女史は、思い切って東京に来るまでは、いわば迷走状態で必死にあちこちと駆けずり回っていたわけだ。
熟練した政治家でも外交官でもない、一介の善良な女性に過ぎない身であったから、各国の海千山千の男たちと駆け引きする術(すべ)は乏しかったはずだ。
それ故、そのような彼女と、東京に現れた時の、外務省高官相手に完璧なほどの交渉上手な彼女とは全く別人のような印象を受けてしまうのである。

東京では、在ウラジオの渡辺領事やポーランド総領事他の紹介状だけではなく、嘆願書や状況報告書など必要書類も一式揃えて持参していた。
このあたりで直感することは、日本外務省に陳情し、交渉する場合の「必勝テクニック」のノウハウを事前に同女史に授けていた人物の存在である。

その人物が渡辺領事であったとしても、特に不思議ではない。
彼であれば、職掌柄そのあたりのノウハウは知っていただろうから。
だが、渡辺領事にしても、あくまでウラジオの在外公館の領事であって、本省の高官を動かせるような地位ではなく、そのような力は持っていたとは思えない。
それでは、そういう人物がもし存在していたとしたら、一体誰であったか、ということになる。

これを解く鍵は以下の文書からおそらく見えてくるのではないだろうか。

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陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド人白衛軍 (3)

次に、ポーランド孤児難民救出の事蹟が実際はどのように為されたか、という点について執筆者なりの推論を述べてみたい。
陽明丸と同じく、これも心打たれる人道主義的美談であるが、既に多くの書籍などで経緯が詳しく述べられているので、詳細は省略する。
 

執筆者も入手可能な限り、それらの資料に目を通したのだが、読後にある一つの素朴な疑問が頭を離れなかった。
それは何かといえば、日本側がこの事跡を引き受けた際の唐突さ、且つその割には事案を処理するプロセスが妙にスピーディではなかったか、という印象なのだ。

在ウラジオストクのポーランド孤児救済委員会の会長アンナ・ビルケウィッチ女史が意を決して、東京の外務省を訪れたのは大正9年6月18日。
丁度、陽明丸がウラジオストクを出航する前月であった。

外務省で親身になって応対してくれたのは武者小路公共 政務局第二課長であり、彼は大臣宛の文書作成などについて、いろいろと適切な助言を彼女に与えたようだ。
やがて一連の文書は埴原事務次官にまで到達し、彼の判断で外務省では同救済委員会に協力する意向を固めたが、国としての予算措置が難しい。
そこで、次官自ら日本赤十字社社長に書状で協力を要請した。
それを行ったのが何と同女史が訪れた18日のわずか翌々日、20日であったというから驚きである。

そして幸いなことに、日本赤十字社側の全面的な賛同も滞りなく得られ、翌月7月5日の同社の常議員会で速やかに可決された、というのだ。
つまり、女史の外務省訪問からわずか17日間という短期間で、これら全てがトントン拍子に運んでいったというのである。

ただ、いくらなんでも17日間というのは、この種の大きな事案の処理をするには、あまりにも早いような気がするのだが。
ところが、ほぼ全ての資料・書籍等はその点については何ら疑問を呈していない。
異口同音、それは専ら外務省関係者(武者小路課長、埴原次官)の英断であり、そして日赤側の同情、共感も極めて速やかに得られたからだ、というような説明である。
つまり、人道主義的感動が彼らを異例に迅速な処理を促した、というような印象を与えるものだ。
特に武者小路課長は華族名流の武者小路家の当主(子爵)であり、弟の実篤氏は作家として名高い存在なので、そのあたりの高い人間性とも結び付けられている。
たしかにそうではあったにせよ、事はそれほど単純なものであったのか、と疑問に思わざるを得ない。

これら文献上で述べられている大凡については、公文書にも残っているので大体其のとおりに事が運んだのは間違いないのだろう。
危機的状況にある同胞の孤児たちを救いたい一心で、藁をもつかむ思いで訪れた、このポーランド女性の必死の訴えが当時の関係者のセンシティブな心を動かしたのも事実であったには違いない。
だが、実際にそのようなことだけで、あれだけ大変な事案が極めてスムーズに、極めて短期間で処理されたというのは、にわかには信じがたい。


ところで、日本は官僚制システムが完備された国家であることに異議を唱える方はいないだろう。
官僚制国家であるので、或る官庁が所定の行政事務を処理する際には、必ず一定の、役所特有の規範ないしはマニュアルに基づいて執行されるものである。
これは今も昔もさほど変わらないはずだ。
そして、日本特有の「根回し」の文化により、行政事務の処理については、ケースによっては縦からの上意下達だけでなく、横同士の調整・連絡などを通じたシェアリングも重要とされる。
当然ながら、これらのプロセスを経るには一定の時間が必要とされ、大きな事案であればあるほどその時間が長くかかるのが普通だ。
要は、これら時間をかけて為される縦横のコンセンサスとシェアリングは、役所の事務を円滑に行わせ、且つ個々の責任を分散させる大きなメリットがあるので、おそらく太古から続く日本社会独特の慣行でもあるのだろう。

だが、上記のような観点から、今一度プロセスを眺めてみると、どうも何か腑に落ちないのである。
外国から訪れた一婦人が、まず応対した外務省の担当者(武者小路課長)の心を動かし、彼を通じてすぐに外務省事務方トップ(埴原次官)の理解・協力も得られた。
それから二週間たらずで外務省からの要請により赤十字社が一切を引き受ける機関決定をした。
そういうことが戦前日本で一体可能だったのかと。
何せ事案の大きい割には、17日間という異様な短期間である。
人道主義に基づく感動の連鎖反応がいっきに事を解決し、全ての事を運ばせたというには、戦前日本の強固な官僚制システムを考えると、それをナイーブに信じるにしても、かなり無理があるような気がするのだ。
完全なトップダウンが珍しくはない米国など外国では、特に不思議なことではないだろうが。

とにかく、戦争と革命、内乱が荒れ狂った大変な世紀であった。
当時、救援が必要とされる孤児というものはシベリアだけでなく、国内外どこにでも溢れていたはずだ。
彼らの代表者が大挙して陳情に来るとしたら、外務省は一々感動して、迅速に救済事務を行ったのだろうか。
それこそ、杉原千畝が書きなぐった「命のビザ」状態になりかねなかった、のではと思う。
とにかく、どこか腑に落ちないものがある。


なるほど、この婦人は在ウラジオストク日本領事館の渡辺領事やポーランド総領事の紹介状を持参してきたということだ。
だから、それなりの処遇を受けてもおかしくないかもしれない。
だが、それだけでは、本省の高官を即座に動かし、あれほどの大きな事案が劇的な速さで処理されていくには不足ではなかったか。
何しろ、政府直接ではないにせよ、日赤としてはかなり大きな財政支出であり、また官民をあげてのマンパワーも投入された一大事業であった。
在外公館の領事たちの紹介状程度で事を動かせるものではなかっただろう。

しかも、単にそれだけではなく、対象となっている場所は日本軍が出兵・駐屯して赤軍やパルチザンと交戦していた東部シベリア地域である。
いわば戦場であった。
その重要な当事者であった陸軍省及び浦塩派遣軍の意向を飛び越えた形で物事がスイスイと進んでいった印象だが、いくら民生に関わることといえ、果たしてそういうことは当時可能であったのか。


以上の数々の疑問を解くとすれば、執筆者の推論では、同女史の東京訪問の前に、シナリオはもう既に全部出来上がっていたと考えるのである。
つまり、水面下での必要な根回しがほぼ終わっており、あとは女史本人の訪問で仕上がるだけだったと見るのだ。
そして、そのシナリオはウラジオで書かれていたと見る。
そのシナリオライターは、浦塩派遣軍司令部の松平政務部長と石坂少将であったのではないか、と考える。
そう、つまり陽明丸の場合と同じ、例のコンビである。
以下にその根拠を述べてみよう。


陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド人白衛軍 (2)

これら一連の文書だが、石坂中将を含む政府・軍の関係者に対して、外国から勲章が授与されたことを示すものだ。
昭和元年~2年にかけての日付だから、石坂中将が靖国神社の遊就館館長をしていた頃だろう。
当時は官僚や軍人などが外国から勲章を授与される場合、必ず政府に届け出て裁可を得なければならなかった。
この一連の書類はその手続きの折りのものだ。

この折の受章者リストを見ると、軍関係ではトップの大井成元大将以下、稲垣三郎中将、星野庄三郎中将、そして 石坂善次郎中将と続いている。
ここで注目するのは、この陸軍四将軍は全て、ポーランド共和国から勲章を授与されていることである。

彼らが受章したオドロゼニア・ポルスキー勲章は 別名「ポーランド復興勲章」といわれるものだ。
ポーランド語では 「 Odrodzenia  Polski 」 と表記されるものであり、同国の勲章でもかなり高位のものである。
日本の勲章と同じく伝統があり、現代でも傑出した功績がある外国人などに授与されている。
フランスのレジオンドヌール勲章に倣って五つの位階があり、その最高位、一等が大井大将に授与された「グランクロア」(大十字勲章)である。
次いで、二等が稲葉中将以下三名に授与された「星章附コマンドール」。
ただ二等といっても、受章対象は軍人なら将官レベルの高位のもので、日本でいえば勲二等旭日重光章あたりに匹敵するものであろうか。


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オドロゼニア・ポルスキー勲章 (二等)
(左が胸章、右が首章)

日本人で、このオドロゼニア・ポルスキー勲章が授与された例はさほど多くなかったようだ。
戦前では東郷平八郎元帥、高橋是清総理大臣、田中義一総理大臣などが挙げられる。
戦後では、「命のビザ」で有名な杉原千畝 元リトアニア領事代理にもその際立った人道主義の功績を讃えて授与されている。
また、満州で多数のユダヤ人亡命者の命を救った樋口季一郎 元ハルビン特務機関長・陸軍中将にも授与されている。


それでは、この時なぜこれら四名の陸軍将官にこのような高位の勲章がポーランド政府から授与されたか、ということになる。

関係書類のうち一枚に、これら四名の叙勲理由が書かれたものがある。
それには、「シベリア戦役関係 シベリア撤退に際し尽力」 云々の記載が見える。
つまり、ポーランド政府は、この四名の将官のシベリア出兵時の功績を授章理由としているのだ。

このうち、大井大将は出兵当初は第十二師団長であり、後に大谷大将の後任として二代目の浦塩派遣軍司令官となった。(司令官在任期間 大正8年8月~大正9年7月)
稲垣中将は出兵当初は浦塩派遣軍参謀であり、後に由比中将の後任として二代目の参謀長となった。
(参謀長在任期間 大正8年6月~大正9年7月)
星野中将は大正8年から大正9年にかけて、浦塩派遣軍野戦交通部長を務めている。
そして、石坂中将だが、ご存知のように当時はハルビン特務機関長として浦塩派遣軍司令部付きであった。


叙勲理由の「シベリア戦役関係 シベリア撤退に際し」というのは、単にシベリア出兵と撤退に関わったという、漫然としたものではないはずだ。
当然ながら、出兵時に於けるポーランド人白衛軍部隊(第五ポーランド師団)との連携、そして彼ら白軍側に属したポーランド人の母国送還協力のことを指すものに違いない。
そして、この二つの事案が同時に大きく存在していたのは、シベリア出兵時でも一定の時期に絞られる。
つまり、日本軍のシベリア出兵初期と最末期の期間はそれほど深い関係がなかったはずで、その中間の第二期に顕著であった。
そして、日本軍の出兵を取り巻く環境がもっとも困難を極めたのも、この第二期の頃であった。
これら四名の受章者は、その第二期に在シベリア・ポーランド人との連帯に深く関わった者として、受章対象に絞られたものだろう。

なぜなら、浦塩派遣軍司令官は三代にわたり、また参謀長は五代にわたって交代しているからだ。
これらの中で、第二期の大井大将、稲垣中将のみがポーランドから勲章を授与されたのは、彼らの在任期間が重大な事件が一番多発した頃だ。 (特に重要なものとしてオムスク白軍政権樹立と崩壊、尼港事件の勃発、日本軍の過激派軍武装解除作戦、極東共和国建国など)

星野中将は派遣軍野戦交通部長として、鉄道等による軍事輸送の責任者として、ポーランド人の帰還輸送に協力したものと察せられる。

石坂少将が彼ら在シベリアのポーランド人たちとの連携や母国送還に実務的に関わっていたことを示す公文書については、以前に提示したとおりである。

要するに大井司令官、稲垣参謀長、星野野戦交通部長、石坂特務機関長ら当時の浦塩派遣軍幹部が、以上のような日本にとっても大変困難な時期にも拘らず、彼らポーランド人たちとの連携や母国送還に最大限に尽力したというのが功績理由であったと思われる。


また、これは執筆者の推論であるが、これら叙勲理由にはポーランド孤児難民の救助と輸送に関与した功績も含まれるものと考えている。
その根拠については以前に書いたとおりだ。
要するに、ポーランド孤児難民と義勇兵の母国送還は全然無関係の別個の事案どころか、ポーランド人にとっては同等に差し迫った、同じ次元の話であったはずだ。
浦塩派遣軍首脳としても、当然同じカテゴリーに入れていたと見るのが自然ではないだろうか。
当時の日本を取り巻く軍事・外交環境を分析した上で考慮された、重要な「宣撫工作」という意味合いであるが。

そして、彼ら派遣軍首脳部にとっては、陽明丸の事案も同じカテゴリーのものではなかったか。
これについても、同様に高度な軍事・外交的な思料に基づいて、適宜処理しようと試みたと思うのだ。

つまり、以上の三つの事案(ポーランド孤児難民の救助・母国送還、ポーランド義勇兵との連携と母国送還、そして陽明丸事蹟) は皆、背後で浦塩派遣軍当局が絡んでいたと見る方がもっとも自然ではないだろうか。
その、絡んでいた背景には、彼らなりの理由ないしは目的、或いは不可避の事情があったものと見るのだ。


とにかくポーランド政府は、ロシア帝国によってシベリアに追いやられ未曾有の難儀を強いられた同胞たちをかくも親身に扱ってくれた日本への恩義を忘れていなかった、ということだろう。
特に浦塩派遣軍には、彼らは人種民族を超えて、シベリアで共に苦労した戦友同士のような強い連帯感を持っていたに違いない。
その連帯の証として、これら四将軍が代表して勲章を授与された、という象徴的な意味合いがあったということではないか。

ポーランドは近世の終わり頃までは、「ポーランド・リトアニア王国」が東欧の地域大国として栄えていた。
だが、周囲をオーストリア帝国やプロイセン王国、ロシア帝国など軍事強国と接していた地政学的な関係で、18世紀末にはこれらの国々に蹂躙、分割されて国家自体が消滅してしまった。
以来、亡国の悲哀を味わってきたポーランド人の愛国精神は、燃え盛る炎のように代々人々の心の中に灯り続けた。
そして、ロシア革命及び第一次世界大戦の終結を転機に、ようやく長年の他国の軛から解放され、再び自らの国家を取り戻したのが1918年であった。
だが、三国による分割前の版図回復を求めるポーランドと、それを否定するソ連の利害が衝突、モスクワ政府との関係が急速に悪化し、ポーランド・ソヴィエト戦争となって両国は戦火を交えることとなった。

この戦争ではポーランドがソヴィエト・ロシアの大軍を相手に非常に善戦したのだが、これは一世紀以上もの間、属領の民として悲哀を嘗めてきた彼らの愛国心に火がついたからであろう。

明治大正期の日本はそのような建国の意欲に燃えたポーランド人に力強い精神的支援を与えていたのだ。
明治後期の日露戦争のさ中には、明石大佐などが対露謀略工作の一環として、ロシアからの独立を企図するポーランドの民族主義者に様々な支援活動を行った。
大正時代に入ると、貞明皇后は、シベリアで保護され日本に送られてきたポーランド孤児の一人をそっと抱きしめられ、暖かいお言葉を賜られた。
救出された孤児たちや、母国に帰還できた義勇兵たちは感激し、その後日本への恩義を決して忘れなかったことだろう。
両国政府はソヴィエト・ロシアの脅威に対抗し、その東端西端で事実上、連携連帯していたわけである。
東西それぞれに対峙していたソヴィエトの軍事力を分裂させるメリットがあったからだ。
また、そのことはそれぞれの対ソ外交交渉の際には相手への牽制の切り札として大いに役にたったことであろう。
日本; ソ連との緩衝国家 「極東共和国」 をめぐる交渉。
ポーランド: ソ連との停戦後の平和条約 (リガ平和条約)」締結。
つまり、両国は対ソ連の軍事同盟こそ結ばなかったが、事実上は互いに安全保障上の重要なパートナーであったといえないか。
そのことはあまり日本国民には意識されてはいなかったかもしれないが。


日本・ポーランド両国のこの良き友好関係は昭和初期まで続いていた。
だが日本がヒトラードイツの威勢に魅せられ、日独防共協定(1936年)を締結した頃から雲行きがあやしくなっていった。
やがて1939年、ナチスドイツとソ連、両軍に東西からほぼ同時に攻め込まれて、ポーランド国家は消滅、人々は再び属領の民となってしまった。
ナチスはポーランド人を劣等民族とみなし、圧倒的な軍事力にものを言わせて苛酷きわまる占領統治を行った。
同国で平和に暮らしていた多くのユダヤ人国民を強制収容所に入れ、百万人単位で集団虐殺をした。
ソ連はソ連で、独裁者スターリンはポーランド人の反抗の芽を削ぐために、軍将校など知識階級を集団虐殺した。(「カチンの森」事件)
このように、敬虔で信仰深い人々であるポーランド国民に降りかかった、繰り返される酷い受難の歴史を知るにつれて、我々の心は暗澹としてくるものだ。

そして、第二次大戦はこの時点から開始され、実質的に日本がナチスと心中する運命が決まり、ポーランドを支援した英仏米を相手に戦うことになってしまった。
且つて美しい友情を育んでいた日本とポーランドは、心ならずも敵同士となってしまったのだ。
そして大戦後に独立を取り戻すまでの6年の間、ポーランド国民は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めることになった。
歴史に 「もしも」 は通じないし、想定すること自体がナンセンスかもしれない。
だが、日本がせっかく繋がりのあったポーランドとの親善を維持し、第一次大戦時のように英米仏側で戦っていたか、せめて中立を保っていたならば、我々の国の運命はかなり違っていたのではないだろうか。


28th April 1929 Warsaw Gen Kwasniewski

















1929年(昭和3年)
ポーランド復興勲章受章のためにワルシャワを訪れた松井石根陸軍大将。(当時は中将)

松井大将は陸軍大学を首席で卒業した英才。
シベリア出兵当時は浦塩派遣軍参謀やハルビン特務機関長などを歴任している。
この点も授章理由として考慮されたものだろう。
当時、松井は参謀本部員として外遊中であり、日本軍部を代表しての親善訪問を兼ねてワルシャワを訪れた。
一説では、その真の目的は日本軍とポーランド軍との対ソ軍事外交情報収集に関する協力関係を築くためであった、といわれる。

右側の日本人は当時在ポーランド日本公使館付き武官、鈴木重康中佐。
松井大将は中国や欧州の海外事情に詳しく、陸軍でも中国との宥和を重視し、和平推進派で知られていた。
だが、主戦派の陸軍主流からは次第に孤立、支那事変における中支派遣軍司令官を最後に現役を退いた。
戦後の極東裁判で、南京事件の責任を一身に背負い、B級戦犯として処刑された。


なお、提示した証明書にもあるとおり、上記四将官の受章当時の陸軍大臣は石坂の盟友、宇垣一成であった。
石坂中将の浦塩時代の活躍ぶりを誰よりも知悉していた宇垣である。
ゆえに、おそらく宇垣は叙勲調書作成の折、ポーランド政府担当官に、誰よりも受章にふさわしい功績のある人物として、石坂のことを告げていたとも考えられる。












 

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド人白衛軍 (1)

さて、ここで石坂少将のハルビン特務機関長としての活動歴に戻るとしよう。

次の公文書は石坂少将とポーランド人白衛軍との関わりの一端を示すものと見られる。


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これらの通信は、石坂少将から浦塩派遣軍参謀長を経由して送られた東京の陸軍次官宛の伺い書、及び同省からの返答である。
この文書のやり取りの時期は、大正9年5月であり、丁度アレンがウラジオからの脱出船の調達がうまくいかず焦っていた頃のものだ。

大意は、日本軍と同じくシベリアで赤軍と戦っていたポーランド人白衛軍からの申し出に関するもので、同軍所有の赤十字病院列車を3~4ヶ月間、日本軍に提供する旨のオファーである。
その条件としては、西方戦線から(赤軍に追われて)遁走してくるポーランド(義勇)兵があれば収容することだが、それ以外の目的でも日本軍が随意使用することも認めている。
しかも軍医、看護婦他、乗務員の給与はポーランド側が負担するという好意的なものだ。
陸軍省としても反対する理由などあろうはずもない。
「その提供を受け、我軍に於いて使用することに取り計らいありたし」と承認している。
石坂少将とポーランド軍との良好な関係を伺い知ることができる記録文書であろう。


ポーランド人の白軍兵士は在シベリアの同国人から成る反赤軍義勇兵たちであり、これはそのままシベリア・ポーランド人のコミュニティの人々と言い換えることもできるだろう。
なぜ東シベリアにまでポーランド人が住んでいたかというと、ロシア帝国の厳しいポーランド属領統治などに逆らった政治犯や人々、そしてその家族たちの流刑地であったものだ。
それまで未開の地であったシベリア開発や鉄道の敷設のための労働者として当てられていた面もあるだろう。
そして、やがてロシア革命が起こったのだが、モスクワの過激派政府は彼らの境遇に特に同情したわけではなく、無関心に近かった。
それ故か、チェコ軍団の一斉蜂起が起きた時に同調した男たちのポーランド義勇兵部隊が反モスクワ白衛軍の戦列に加わることになった。(第五ポーランド師団)

「波蘭国 (ポーランド国)」と表記されているが、これはロシア革命の混乱を契機に樹立されたポーランドの独立政府を我が国が既に承認していたからで、実質的には在シベリア・ポーランド人で組織されていた反モスクワ民族独立勢力であろう。
「タルゴフスキー」なる人物についてはまだ未調査だが、通信文の文脈から察するにポーランド軍関係者というよりは、在シベリアのポーランド赤十字社或いはポーランド人組織の関係者であろうか。

「東京 軍 五師団 済」とあるのは、同様の文書が参謀本部 (或いは外務省?)、浦塩派遣軍司令部、そして在シベリアの第五師団司令部にも回っていることを示すものか。



また、次の文書も石坂少将及び彼が在籍した浦塩派遣軍が、在シベリアのポーランド人たちと浅からぬ関係にあったことを物語る史料として提示したい。

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陽明学的行動派知識人 外伝③ 杉原千畝とハルビン

では、次に述べるのは、リトアニアでのユダヤ難民救出のヒーロー、「命のビザ」であまりにも有名な杉原千畝領事代理についての所見である。


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杉原千畝 (1900~1886)

杉原の事蹟については、「日本のシンドラー」と讃えられ、テレビや映画などでよく取上げられている。
おそらくは、知らない方がむしろ少ないであろう。
ただ、「日本のシンドラー」 という形容はいかにも安易であり、あまりフィットしているとは思えない。
自らの危険も顧みず、多くの苦境のユダヤ人を救ったという点では確かにオスカー・シンドラーと同列である。
だが、それぞれの事件の複雑な背景やシチュエーションが余りにも違いすぎるのだ。
かなり昔に流行った、ローカル都市を引き立たせる呼称、「○○市の銀座通り」や「○○地方の小京都」 のような安直さを感じるのは執筆者だけであろうか。


ともあれ、執筆者として興味をそそるのは、巷に知られている彼の偉業のそもそもの出発点である。

ちょうど20世紀が始まった年、1900年に岐阜県賀茂郡八百津町で生を受けた杉原千畝。
旧制の愛知県立第五中学を卒業後、上京した。 

やがて早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学。(1918年)

それから一年余の在学後、思い切って外務省留学生試験に応募、難関であったがみごと合格した。

まもなく、ロシア語学生として満州の国際都市ハルビンへと官費留学を命じられた。(1919年)

当初は民間での個人レッスンでロシア語習得に励んだのだが、1922年から 「日露協会学校」に入学し、より本格的な教育訓練を受け始めた。
 

日露協会学校は日本政府に繋がる専門教育機関であったが、後に「哈爾浜(ハルビン)学院」という校名となり、昭和に入って満州国が建国されて後は、同国の国立大学として再編された。

戦前の日露関係分野で活躍する官吏やビジネスマンを育成する、特殊な性格を帯びた教育機関であった。
だが、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦とともに必然的に閉校となり、その歴史的使命を終えた。

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哈爾浜学院(昭和初期)

ここで注目したいのは、杉原が現地ハルビンで官費留学生として学んでいた時期と、石坂少将がハルビン特務機関長として赴任していた時期が部分的にオーバーラップしていることだ。
つまり、石坂がいわば日本軍情報機関のハルビン支局長であった1919年2月~1921年3月までの間と、杉原の現地留学期間が一部重なっていたことだ。(※この間に杉原は途中、朝鮮で一年間の兵役期間を過ごしているが)


言い換えれば、杉原がハルビンにやってきて学んだ時期というのは、日本軍がシベリア出兵していた頃であった。
そのことは、彼がハルビンに滞在していた初期の頃に、陽明丸のロシア児童難民やポーランド孤児難民の救援が行われたことも同時に意味するものだ。
我々としては、この点にもっと注目しても良いように思う。 



日露協会学校(ハルビン学院)は上記で述べたように、表向きは日露間の交易交流に必要な人材を養成する教育機関であったが、一般の学校とやや異なる面があった。
それは当時、シベリアや満州など外地での日本帝国の国策遂行に必要な特殊人材を育成することに重点が置かれていたことだ。
同校卒業生は外務省だけではなく、満州鉄道や満州国の日本人官吏、そして日本軍(浦塩派遣軍、後に関東軍)特務機関の要員などに採用されて巣立っていった。
ちなみに杉原の場合は卒業後、外務省書記生となり、在ハルビン大使館員を経て、満州国建国の後には同国外交部の官吏となった。
ちなみに満州国官吏時代には、その非凡な資質能力を見込まれて関東軍の情報機関員としてスカウトされかかったが、これは本人が拒否している。
大正時代と異なり、満州国建国後の関東軍の傲慢さに杉原が嫌気をさし始めていた頃だ。 



さて、戦前当時のハルビンは華やかな国際都市であったが、同時に各国の情報機関員が出入りする 「スパイ天国」 としての一面もあった。
特に日本軍及び外務省としては、戦前の主要仮想敵国であったソビエトロシアとの絡みで、対ソ情報収集及び諜報工作の重要な基地と位置づけられていた。
だが、このことは逆の見方から言えば、ソ連側情報機関からの浸透も当然あり得たわけだ。
つまり、ハルビンは東アジアにおける日ソ間の諜報合戦の主戦場でもあったと言えよう。


日露協会学校もその性質上、様々なロシア人が出入りしていたわけである。
その中には、
機密情報の収集のためにソ連の潜入工作員が混じり込んでくることも十分ありえた。
また、同校卒業生は国家機関や民間の重要部署に配属されることも多かったので、教師や学生をスパイにするために洗脳工作を仕掛けてくるリスクもあったわけだ。


それ故であろうが、次の大正15年の公文書はハルビン特務機関通訳を兼ねていた同校教師であった人物の談が日本官憲に注目され、内務省や外務省、陸軍省に報告、回覧されているものだ。


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要旨は、この教師は(ハルビン)特務機関から命ぜられた任務であろうが、同校教師たち(国籍としては日本、ロシア、支那三ヶ国にまたがっていた)や生徒の思想チェックも内密に行っていたようだ。


「過激思想二感染セシムルコトナカラシムル為」 とあるが、一応、彼の在任中は「憂慮スベキ傾向」 はなかったとも述懐している。
だが、ハルビン特務機関としては、防諜という点で神経を尖らせる必要のある、要注意監視対象であったのだろう。


さらに付言すると、杉原の在ハルビン初期の頃に起きたポーランド児童難民の救援の事蹟については、彼自身も関知していたと見る方が自然であろう。
否むしろ、そのロシア語能力ゆえに、日本軍官憲によるハルビンでの児童捜索や救出にも動員され、直接関与していた可能性さえ十分あると思われる。

何しろ、その頃は彼にとっては一番多感な青年期であった。
特に、ハルビンは彼が若き外務省留学生として、最初に長期滞在した場所であった。
また、杉原が最初の妻、白系ロシア人のクラウディアと結婚したのも、当地に来てまだ5年目であった。
そして、彼の在ハルビン期に行われたポーランド孤児難民救出作戦は、その背後に複雑な国際情勢が絡んでいたにせよ、日本軍が行った数少ない国際人道救助であった。
日本人によるポーランド孤児難民救出を目のあたりにして、何らかの強いインパクトが彼の胸に響かなかったとは言い切れまい。

これらの一連の経験が鮮烈な記憶となり、彼の以後の人間観、倫理観のベースとなったのではないだろうか。
それが後年のリトアニアでのユダヤ人救済の精神的下地であったことを否定する理由はあろうか。


なお、もうひとつのユダヤ難民救出事蹟、「オトポール事件」が起きたのも、その主役であった樋口少将がハルビン特務機関長在任中の時であった。
樋口はハルビン特務機関長としては、大先輩である石坂少将のはるか後輩であったわけだ。

ハルビンというまことにユニークな国際都市はロシア、支那、日本三ヶ国の外交軍事上の利害関係、そして民族文化が複雑に入り組む不思議な街であった。
ハルビン住民は白系ロシア系、中国系、満州系、日本系、朝鮮系、ポーランド系など多岐にわたっていたが、比較的穏やかに暮らしていたようだ。
住民同士は互いに民族、人種、宗教などの相違を超えて、共存共栄にでき得るかぎり努めていたのだろう。
その意味で、ハルビンは或る意味では
西洋と東洋が平和裡に融合していた、まことにユニークな都市であった。
一種の擬似コスモポリタン(世界市民)都市であったとも言えるだろう。

そのような意味でも、且つて住んだことのある人たちには決して忘れられない魅力的な街であったことであろうう。
特に、石坂少将、杉原千畝、そして樋口少将のような研ぎ澄まされた国際感性を合わせ持つ人たちにとっては。

そして、ハルビンの街で、
日本人には希な、人種や民族を超えた豊かなコスモポリタン的素養が自然に培われたのではないだろうか。
その素養は、彼らの良心の赴くままに、後に成し遂げたそれぞれの国際人道救助のバックボーンとなったのではないだろうか。


彼ら、真に心ある人々は異文化に自ら溶け込もうと懸命に努めるうちに、いつしか夜郎自大、偏狭な民族主義の愚かさを悟ったのではないだろうか。
極限状況にある弱者を見棄てるのではなく、人種・民族を超えて可能な限り救いの手を差し伸べるのが人としての道ではないか、という獏たる思い。
つまりそれは、国際赤十字や緒方洪庵適塾の根本理念にも通じる、素朴ではあるが彼らなりの確固としたコスモポリタニズム精神ではなかったか。 


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哈爾浜   夜の哈爾浜駅 (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)

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哈爾浜   満州人商店街 (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)



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哈爾浜  街角にて (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)

哈爾浜  日本領事館 (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

陽明学的行動派知識人 外伝② 樋口季一郎

次は戦前昭和期、代表的な国際人道主義の主役であった二人の日本人、つまり 「オトポール事件」の樋口季一郎中将、そして「命のビザ」の杉原千畝領事代理に関する所見である。
彼らについては、これまで述べた幾つかの大正期の事蹟と多少の関わりがあると執筆者は見ている。


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①樋口中将の 「オトポール事件」については、ご存知の方が多いと思うので特に詳細には触れない。
概略としては、1938年(昭和13年)3月、シベリア経由で迫害を逃れてきた多数のユダヤ難民を彼が救済した事跡である。
彼らユダヤ人はナチスの手をようやく逃れてソ満国境までたどり着いたのだが、満州国政府から入国を拒否され、オトポール周辺で極寒の中での野宿を強いられていた。
日独伊三国同盟化が急速に進んでいた時期であった。
ユダヤ人迫害を進めていたナチスドイツの目を意識して、満州国やその背後にいた関東軍は彼らに救いの手を差し伸べず、放置したままだった。

ところが、関東軍ハルビン特務機関長であった樋口少将(当時)が「人道上の問題」として、見るに見かねて職権で介入したものだ。
部下のユダヤ問題専門家、安江仙弘大佐とともに入国ビザの発行や特別列車の手配、食料衣服等の支給、緊急医療班などを満州国政府や満鉄に働きかけ、彼らの救出に急行させた。
もう既に凍死者、餓死者が出始めていたので、実にきわどいタイミングであった。
また、その後の満州国内への入植や上海共同租界への移動についても、できるだけの便宜をはかっている。

彼の決断によって救われたユダヤ難民の数については諸説があり一定しない。
数百人から二万人と幅がありすぎるので、はっきりとした数字は未だに掴めていない。
だが、合理的な推定と思われるのは、この救済時当初は数百人であったが、1941年のドイツ軍のソ連侵攻により欧州方面からの流入が遮断されるまでの約3年間、この「ゼネラル樋口ルート」を使って死から逃れることができたユダヤ難民は数千人に昇ったであろう、とする説だ。
これは、樋口自身が戦後に残した手稿に「数千人」と一旦は書いた形跡があるので、それにも合致し、信憑性が高いと思われる。

だが、このユダヤ難民救済については、樋口少将自身の独断で行ったに等しく、全責任を一身に背負って敢行されたものだ。
当然ながら、関東軍司令部の正規な許可を得ていなかった。
ゆえに処罰として、特務機関長としての職位を剥奪されるどころか、下手をすると独断専行、命令不服従で軍から訴追される恐れさえあった。
この点については、案の定ドイツ外務省から抗議があり、ひと悶着あったようだが、当時の関東軍参謀長であった東條英機中将の裁断で、結局は不問に付された。
後年、首相の座に就いて国民を破滅の戦争に導いた張本人のイメージが定着している東條だが、この時はなぜか非常に物分りの良い上司としての英断を下している。
おそらく東條は満州のユダヤ人の扱いについては彼なりの思いがあっただろうし、何よりも樋口の私心のない高潔な人品を高く評価していたようだ。
だからであろう、この後、樋口は左遷どころか、陸軍参謀本部第二部長という軍中央の要職に栄転している。
それにしても、自身のキャリアを賭けてでも人道主義を貫いた樋口の勇気、侠気には、いくら賞賛してもしきれるものではない。

この事件について補足すると、樋口少将はハルビン特務機関長に就任後、既に満州在住の亡命ユダヤ人団体との友好的な交流を始めていた。
その代表者はアブラハム・カウフマンという人物で、親しくなった樋口に難民の窮状を伝えて救済を直訴した。
樋口の果断な処置はこれに応えるものであり、カウフマンたちは終生その恩義を忘れなかった。
日本の敗戦の後、ソ連は後に述べる 「占守島の戦い」 での屈辱を晴らすため、そして対ソ諜報活動の幹部であった樋口を戦犯として名指しし、引渡しを要求した。
だが、カウフマンたちは大恩人の樋口を守るため、世界ユダヤ協会を通じて米国内で猛烈な救援運動を起こした。
その結果が実り、ソ連への身柄引渡しはマッカーサーのGHQによって拒絶された。

米軍は念のために、樋口の部隊について戦時中の米軍捕虜等への虐待がなかったかを独自に調査している。
だが、これについても一切そのような容疑事実がなく、適切で人道的な扱いであったことが判明し、米軍調査官に深い感銘を与えている。 


さて、このオトポール事件ひとつだけでも十分に凄い功績なのだが、彼は他にも非凡な功績を幾つか残している。
まず、樋口が1943年(昭和18年)7月の「キスカ島撤退作戦」時の北方軍司令官であったこと。
実際にこの「奇跡の救出作戦」を行ったのは木村昌福少将率いる海軍部隊だが、陸軍の方面軍司令官 ( 司令部:札幌) として、海軍としっかりと連携していたのは樋口中将であった。
特に、成功の決め手となった要因の一つとして、海軍艦艇による救出時、約5千人にものぼる守備隊兵士の兵器類を全部海中投棄させたことだ。

帝国陸軍にあっては、全ての兵器類は国軍の大元帥である天皇からお預りしたものであった。
それゆえに、軍艦の艦首や三八式歩兵銃には皇室の菊の御紋章が入っていたのである。
徴兵された新兵は鬼のような古参兵から、「貴様らの命よりは銃の方がずっと大事なんだから大切に扱え!」と、どやしつけられた時代であった。
だが、撤退作戦時は既にこの海域の制空権、制海権は米軍に握られていたので、海軍側からは救出時の乗船完了に要する時間はわずか一時間に制限する旨、強く要求されていた。
もしそうであれば、兵器類を一緒に艦内に持ち込んでいては、時間的にはとても間に合わない。
モタモタして手間取り、厳重に監視している米軍に発見されれば、救う方も救われる方も皆一巻の終わりである。 

樋口は決断し、兵器類の海中投棄を指示した。
それ故に守備隊兵士たちは各自の兵器を投棄し、約五千人の兵士が最短時間で乗船することができた。
また濃霧であったことも幸いし、米軍の目を逃れることができ、全員かろうじて無事救出された。
まさに文字通り、奇跡の救出 作戦であった。

ただ、この兵器の投棄は大本営から事前に許可を取っておらず、事後報告となった。
それゆえに大本営幕僚たちから、後にかなりの批判を浴びている。
ほとんど消耗品同然の下級兵士の命より、軍の建前を優先させるのが昭和期軍部の悪しき習性であった。
ゆえに、彼らからすれば、「恐れ多くも陛下の御紋章入りの銃を投棄してくるとは何ごとか!」 という憤懣であろう。
だが、樋口中将の判断は絶対に正しかったと言えよう。
もし事前にこの件について、頭の固い大本営に許可を仰いでいれば、まず否決されるか、たとえ許可になってもかなり時間が費やされた恐れがあり、救出作戦は時機を逸していたであろうから。

これも幸い、結果的には不問とされたようだ。
やはり、樋口中将のあくまで人命尊重の合理主義に基づく判断には、たとえ大本営の頑迷な首脳部でも論破できなかったのだろう。

この点も補足すると、この奇跡の救出作戦には明暗を分けた悲しいできごとがあった。
この作戦の少し前にアッツ島玉砕戦が起きていることだ。
彼らはキスカ島の近くのアッツ島に展開していた守備隊であり、同じく樋口の北方軍管轄の部隊であった。
だが、大本営はミッドウェー作戦の大敗の余波でこの島を見捨てる方針を固めた。
これにはいくら樋口であっても、冷酷にその決定を下した大本営には逆らえなかった。
涙を飲んで従わざるを得なかった樋口であったが、二千数百人の部下をむざむざ見棄ててしまった痛恨でひとり慟哭し、彼らが壮烈な玉砕を遂げた直後から激痩せしたといわれている。
人一倍、部下思いの樋口であったから、これは相当の心の負担となったものだ。
そのためであろう、敗戦後は自宅でアッツ島を描いた絵に毎朝礼拝するのが晩年まで続けた日課であった。
彼の苦悩の深さは我々が伺い知ることもできないほどであったようだ。
一方で、キスカ島守備隊に兵器を投棄させてでも全員救出したかったのは、そのような無意味な悲劇を繰り返すべきではない、という樋口の断固たる意思の現れであったと見る。

樋口自身はキスカ島守備隊救出に関与した自らの功績を終生誇ることもなかった。
戦後に書かれた彼の手稿では、「キスカ島の撤退作戦が成功したのは、ひとえにアッツ島で散った英霊たちのご加護である」 旨、淡々と述べられている。
この文脈からも、彼の指揮官としての品格の高さ、そして謙虚な人柄が滲み出ているのではないだろうか。


それにしても、昭和の多くの高級将校の中にはこのように名将もいたが、ひどい連中も多くいた。
例えば大戦末期のフィリッピン戦線で後にほぼ全滅した一万人の部下を置き去りにして飛行機で逃亡してきた司令官もいた。
また、現実無視のひどい作戦立案で、ビルマ戦線の二万人の兵士たちをジャングルでのたれ死させたインパール作戦の例もある。
この作戦の大失敗をめぐり、醜い責任のなすり合いに終始した現地の司令官たちや大本営参謀の行状と、樋口中将をどうしても比較してしまう。
彼らが同じ日本人であったかと思うと慄然とせざるを得ない。


そして彼のもう一つの大きな功績は、1945年8月の千島列島の占守島(しゅむしゅとう)の対ソ連防衛戦であった。
終戦まもなく、日ソ平和条約を破棄し、突如9千人の大部隊で島に侵攻してきたソ連軍と守備隊の戦闘である。
ソ連の国際法無視の不法な侵攻を阻止するために、北方軍司令官であった樋口は断固として戦うことを決断し、守備隊に反撃を厳命した。
樋口は元来、対露諜報の専門家であったから、ソ連の危険な侵略的意図については、終戦で混乱の極みにあった東京の軍・外務省首脳よりも先が読めた。
幸いにも同島守備隊は精鋭、関東軍の一部で士気が高く、少数ながらも戦車や軍用機も備えていたので、押し寄せるソ連軍相手に非常に善戦した。
死傷者数では、侵攻ソ連軍が日本軍を大きく上回ったものだ。
結局は停戦になったが、この手痛い反撃はソ連首脳には大きなショックであり、日本軍がいまだ相当に手ごわい軍隊であることを渋々認めざるを得なかった。
また、対日戦の実質的な勝利者であった米国も、トルーマン大統領が国際法を無視したソ連の火事場泥棒のようなやり方に厳しい目を向けたことも幸いした。
ついにスターリンは日本の本土である北海道への侵攻を諦めるしかなかった。
もし、この時に樋口中将が断固たる反撃命令を出さず、或いは樺太を含めた辺境の守備隊があれほど敢闘しなかったら、今頃は北海道はロシア領になっていたことはまず間違いない。
樋口はスターリンの野望を打ち砕き、日本が旧ドイツや朝鮮のような惨めな分断国家になることを防いだのだ。 


このように昭和の大戦争の折、重要な局面でこれほど大きな功績を幾つも残し得た将官は彼を除いてどれほどいただろうか。
彼ほどの優れた識見、高い指揮能力については、昭和期の他の幾人かの名将たちも併せ持っていたことだろう。
だが、特に樋口中将の場合、それだけではなく、我々の心を真に打つものは、その人一倍豊かなヒューマニズムである。
彼の高潔で、世界にも普遍的なヒューマニズムが溢れた人柄は、彼を知る人々だけでなく、天つ神にも愛されたことであろう。
そして、神は真の意味での選良である彼を守護し、彼を通して救済をひたすらに待つ人々を救い、またソ連軍の理不尽な侵略から我が国の北方を守らせたのではないだろうか。


ところで、この人格識見共に優れた名将、樋口中将だが、元々は石坂中将と同じく主としてロシア方面を専門とする情報将校であった。
明治21年(1888年)、兵庫県本庄村(現 南あわじ市)で生を享け、明治42年に陸士卒(21期)、卒業後は歩兵第一連隊(東京)に配属された。
第一次大戦中の大正7年に陸軍大学卒業。(30期)
大正8年には陸軍参謀本部勤務となり、まもなく浦塩派遣軍司令部の特務機関員に抜擢されてシベリアに渡った。
派遣軍司令部ではやがて優れたロシア語能力、交渉能力が評価され、最前線のハバロフスク特務機関長に任命され、情報将校として現地に赴任した。
まだ、三十歳そこそこの若さであった。
当時、ハバロフスクはシベリア出兵の日本軍の勢力下にあったが、戦線の縮小に伴い、翌年の大正9年には日本軍は同市を撤退している。
樋口大尉(当時)は、派遣軍司令部の命により、日本軍撤退の後に市内に進駐してきた赤軍と交渉し、ハバロフスク特務機関の駐屯存続をどうにか認めさせた。
だが、敵中で孤立した中での情報収集活動であったので、危険極まる任務であった。
赤軍がもしその気になって彼の特務機関(樋口以下、数名のスタッフに過ぎなかった)に攻撃をかければ、ひとたまりもなく全滅していたことだろう。
パルチザン軍による邦人の残虐な大量殺戮、尼港事件からあまり月日が経っていない物騒な時期であった。
人の命が鴻毛より軽い内戦期のロシアであった。
この命懸けの綱渡りのような危機を乗り越えられたのは、彼の抜群の交渉能力と誠実な人柄が、敵軍にあっても高く評価されたからだろう。
当時の赤軍は後の時代のような硬直した官僚組織ではなく、様々な個性ある人物で成り立っていた。
個人としてのロシア人は国家としてのロシアと異なり、基本的には大らかで人好きであり、一旦打ち解けると日本人よりもフレンドリーになることが多い。
おそらく彼らは樋口大尉を「 敵ながら天晴れな奴 」 と認め、内心敬意を払っていたのであろう。
 
同市での彼の特務機関は大正11年まで存続したというから、その勇気、豪胆さには舌を巻かざるを得ない。
その間、同市には白軍部隊が侵攻してきたり、再び別の赤軍部隊が入ってきたりして、樋口も心の安まる暇もなかったに違いない。
この間、赤白両軍の戦闘で、巻き添えをくったハバロフスク特務機関とウラジオの派遣軍司令部の電信連絡は一時途絶えてしまった。
そのせいだろうが、毎日新聞からは「樋口大尉、ハバロフスクで戦死?」という誤報さえ出たらしい。
当時、樋口は新婚からわずか数年であったから、夫人の気苦労もさぞかし大変であったことだろう。 


以下の公文書は、当時のハバロフスク特務機関長であった樋口大尉から派遣軍・陸軍省に送られた定期的なレポートの一部である。
内容は同市に駐屯していた赤軍の詳細な軍事情報だけでなく、政情や民情なども極めて精緻に分析、報告されているものだ。
枚数は全部で数十頁にわたるもので、全部を掲載できないので、これはそのごく一部に過ぎない。
これらから、樋口大尉が当時から如何に有能な情報将校であったかが十分に伝わってくるであろう。


 
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シベリア出兵の終了後は、樋口は参謀本部に戻り、それからは大正14年ポーランド公使館付武官、昭和12年のベルリン出張、そして同年のハルビン特務機関長、昭和13年の参謀本部第二部長と、主として情報・参謀将校としての活躍の場が次々と与えられた。
その後、 昭和14年には陸軍中将に昇級して第九師団(金沢)師団長に天皇から親補された。
そして太平洋戦争では新たに北方軍司令官(司令部:札幌)に任命された。
ここでいよいよ、戦局の重大な局面となるキスカ島撤退作戦及び占守島防衛の両作戦の最高指揮官となる運命を迎えたわけだ。




















陽明学的行動派知識人 外伝① 心優しきスパイたち

オスカー・シンドラー、石坂善次郎(将軍)、樋口季一郎(将軍)、杉原千畝、松平恒雄。

以上、シンドラー以外は、このブログでこれまで登場した馴染みのある人物たちである。
そして、執筆者はこれらの人物には、或る共通した因子があると見ている。
それは何であろうか。

それは彼ら全て、且つては諜報員、ないしは諜報任務も仕事であった外交官であったことだ。
オスカー・シンドラーは映画 「シンドラーのリスト」では単に実業家としか描かれていないので、なぜ諜報員なのかと疑問を持たれるであろう。


シンドラー











 オスカー・シンドラー (1908~1974)

だが、彼は実業家になる前には、ナチスドイツの諜報員として活動した時期があった。
シンドラーは元々はチェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)生まれのドイツ系住民、つまりドイツ系のチェコ人であった。
兵役期間などを経て、1935年にドイツ民族主義系の右翼政党に入党した。
この当時は丁度アドルフ・ヒトラーがドイツの中央政権を握って間もなくの頃。
ナチス党はまさに日の出の勢いであった。
そのプロパガンダ活動はドイツ国内だけに止まらず、ドイツ系住民がいる周辺の国々にも猛烈に浸透しはじめた。

熱烈なドイツ民族主義者となったシンドラーは、ドイツ国防軍情報部( 略称 Abweher  アブヴェーア)所属の秘密諜報員となり、主としてチェコ国内やポーランドでの軍事情報収集に従事した。
だが、その後にチェコ政府当局に逮捕され、国家反逆罪で死刑を宣告された。
だが、彼にとっては幸いなことに、まもなくチェコはナチスドイツに武力で解体、併合され、シンドラーは危ういところを逃れることができた。
それから、彼はナチス党に入党し、諜報員から一転、ナチス当局や軍に取り入って幅をきかせる実業家としての後半の人生が始まったのだ。
映画では、このような事実は特に描かれていないが、執筆者の見解では、この前半の履歴、つまりが彼がスパイであったことは、後になし遂げたユダヤ人救済と不可分であった、と見る。


映画でまさに描かれているように、シンドラーは大量殺戮されつつあったユダヤ人たちを少しでも救おうと決意し、その方策を次々と実行していった。
だが、対峙する相手は生半可な連中ではなく、悪名高いナチス親衛隊(SS)であった。
彼らの最重要任務にはユダヤ人の根絶が含まれていた。
SSはまるでドイツ製精密機械のように、東方占領地域等でのユダヤ人の大量殺戮を極めて組織的、能率的に遂行していたのである。
そのように冷血で、危険極まりない連中の裏を掻いてユダヤ人たちを救出したシンドラーであった。
当然ながら露見すると彼自身にも確実な死が訪れていたはずだ。

このような想像を絶する修羅場での、命懸けの綱渡りのような彼の行動であった。
この大胆さ、神経の図太さは並み大抵の実業家のものでは決してありえない、と見る。
猜疑心の強いSS当局さえ丸め込む、駆け引きの手際の良さ、考え抜かれた欺瞞の手法はまさに熟練スパイの手口であろう。
まことに皮肉なことであるが、且つてナチスのスパイとして培った彼の技能が、ナチスSSを欺いてユダヤ人を救出した決め手になったと言えないだろうか。


さて、我々が陥りやすい先入観だが、「スパイ」と聞くとすぐ思い浮かぶイメージがある。
冷血で非人間的、狡猾で裏切りを事とする非情な男たち、というようなものだろうか。
これは主として、映画やテレビのスパイドラマの影響によるものだろう。
つまりステレオタイプとしての「スパイ」である。
だが、スパイの実像は決してそのような単純なものではなかった。
たしかに、我々の先入観どおりのダーティなスパイも少なくはなかっただろう。
金や利得、愛欲のために祖国を平気で裏切るスパイも多勢いたことだろう。

だが、実際のスパイには、そのようなタイプの連中だけではなかったようだ。
至って「真面目な」 動機により、その道に入った連中も多かったのだ。
つまり、その動機や目的はさまざまであったわけである。
例えば純粋に愛国心や、信奉する思想信条であったり、或いは選んだ職業(例えば軍人、外交官など)に付随するものあったりした。
それ以外にも、単なる知的好奇心からとか、冒険心からとか、様々な理由や経緯で情報員になった連中もいたのだ。

これらのカテゴリーに属するスパイたちだが、二三の例を挙げてみよう。
まず、愛国心ないしは思想信条に従ったのはナチス諜報員時代のシンドラーであり、また戦前日本で捕まり死刑となったソ連の二重スパイ、リヒャルト・ゾルゲの顔も浮かんでくる。

次に、職業柄、スパイ任務に従事したのは主に軍人であった。
我が国でも明治維新以降、多くの優秀な軍事スパイが輩出し、国外を任地として華々しく活躍した。
我々には、特になじみが深い石坂将軍や樋口将軍もそれらの中に数えあげられる。
彼らこそ、頗る危険な任務に生命を賭したプロフェッナルたちと言えよう。
杉原千畝も外交官の裏の顔は、一流の技能と実績を持つ優秀な諜報員であった。
彼が欧州に派遣されたのは、そもそも単なる領事館勤めではなく、大戦中の彼の地での機密情報収集であった。

また、松平恒雄の場合は、最上級の外務官僚ではあったが、彼が活躍した時期は戦争に次ぐ戦争の時代であった。
戦時の外交官というのは、外交だけでなく政治軍事情報の収集、分析が任務としては不可欠であった。
だから、シベリア出兵の折には派遣軍政務部長として、対ソ諜報の取り扱いもその職務に含まれていた。
また、その後、大使クラスの大物外交官として欧米各国に赴任した時も、外交と諜報を表裏で使い分けていたはずだ。
それ故に、彼も一種の諜報員(ただし最上級クラスの)であった、と見なしても満更間違いないであろう。

一方、知的好奇心や冒険心、人間学的興味でスパイになった連中は英米に多いようだ。
その中には著名な作家が幾人も含まれる。
たとえば、英国の小説家サマセット・モー厶が諜報員であったことはよく知られている。
同じく英国の作家ジョン・ル・カレも外交官の身分で従事した諜報任務の経験を生かし、後にスパイ小説の大家となった。
また、「007」シリーズの原作者、英国人イアン・フレミングが現役時代は軍事諜報員であったこともよく知られている。
そして、米国の著名作家、「ジャッカルの日」のフレデリック・フォーサイスも英国秘密情報部(MI6) と繋がりがあったことが、後年明らかにされた。


ことほどさように、スパイになった人々の多くは、決して単なる 「狡猾非情な輩(やから)」ではなかった。
むしろ、知性豊かで鋭い直感力があり、人間観察にも非常に長けていたことがわかる。
平たく言えば、プロのスパイとして敵地で活動するには、相当に優れた頭脳と体力、そして度胸を併せ持っていることが必須条件であった。
特に戦時スパイとなると、もし捕まれば国際協定(当時はハーグ陸戦協定)で保障される軍人捕虜としての権利を認められず、外交官でない場合は死刑になることも多かった。
相当に危険な割には、あまり報われない地味な仕事であった。


だから、一口に「スパイ」といっても、いわゆるステレオタイプのスパイ像とはほど遠い、傑出した資質を持つ人々が少なからず存在してたことは紛れもない事実であった。
そして、このような人々が同時に、人一倍センスティヴで人間性豊かで且つ人道主義にも敏感でなかった、と決めつけるべきでもない。
逆に言えば、凡人である我々よりも、或る意味で優れた能力、感性を持っていたであろうから、彼らが心優しい男たちではなかった、とも決して言えないであろう。

そして、執筆者の深読みの見解を述べる。
彼らの中でもとりわけ人間性に溢れる心優しい男たち、例えばシンドラー、樋口将軍、石坂将軍、杉原千畝、松平恒雄などが、成り行きの結果として国際人道救援に係わったというのは、決して偶然ではなかったと見る。
それどころか、これらの事蹟は、彼ら 「心優しきスパイたち」 が生み出した必然的な産物とではなかったか、と見るのだ。

彼らは苦境にある弱者に運命的に出会ったが、高い人間性ゆえに内面でさぞ葛藤したことだろう。
深く同情はするが、彼らを救援することの困難さをよく認識していたからだ。
だが、熟慮の末、彼ら自身にできることはやってやろう、と思い立ったのではないだろうか。
そしてとにかく熟慮決行したが、彼らの信念と非凡な能力ゆえに、幸いなことに無事に成し遂げられた、ということではなかったか。

ただし、物事全て、水面下で秘密裡に進めるという職業的習性を持つ彼らである。
したがって、事蹟そのものの存在も当初より、数十年経過して,やっと明らかになる宿命を帯びていたことだろう。






 

総括に代えて  陽明学的行動派の知識人たち

陽明丸の事蹟を追っていると、つくづく 「神」 なる存在の不可思議さを思う。
世俗の宗教家は、神様(仏様、エホバ、アッラー等も全て同列として)の全智全能を説く。
邪悪なる存在の対極、至高にして有難い存在、と子供の頃から教えられてきた。

ところで、現実の我々は、災厄に遭遇する不安の中に常に生きている。
臆病な鼠のようなものだ。
誰しも、いつ何どき天井から 「ダモクレスの剣」が降ってくるか分からない。
そして、あらゆる災厄の中でも、最たるものが大戦争。
人類は前世期に何故か二度もそれを強いられた。
二大戦で数千万人の命が消え、その中には無数の一般人も含まれる。
なぜ我々に、そういう邪悪な試練を幾度もしつこく押しつけてくるのか。
もし、神様が全智全能というのなら。
それが、凡人の筆者にはどうしても解らない。

ただし、神様も、たまには神様らしいことをする時もある。
陽明丸の子供たちの場合が、まさにそれであろう。
何百万という無辜の子供が、虫けらのように死んでいった動乱の時代、修羅の世。
その中で、彼ら八百人のほぼ全員が無傷で生き延び、三年近い放浪の末、奇跡的に故郷に戻った。
飢餓も冬将軍も、殺気だった革命軍も反革命軍も、ぶっそうな機雷もついに彼らの命を奪えなかった。
縁もゆかりもない米国人と日本人とが、何故か懸命に力を合わせ、地球を回って親元に返してくれた。

神様にも憐憫の情が湧いたのだろうか。
幼い少年少女だけの心もとない集団ゆえに。
老子が謂う、 「含徳の厚きは、赤子に比す。 蜂蠆虺蛇(ほうたいきだ)も刺さず猛獣も襲わず。」 というところか。
だが、やはり神様の気まぐれとしか、今のところは思いつかない。



ところで、戦前のフランス映画に 、「大いなる幻影 La Grande Illusion (1937年)」 という含蓄に富む名画がある。

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「大いなる幻影」




ストーリーは、第一次世界大戦の欧州が舞台。
捕えられたフランス軍の将校がドイツ軍の捕虜収容所から脱走する、というもの。
その後の、一連の 「脱走もの」映画のハシリとなった作品。
だが、感銘を与えるのは、第一次大戦がもたらした近代西洋の二つの時代の決定的な断絶を、象徴的に描いた視点である。
つまり、第一次世界大戦が、西洋世界という魔女の大鍋を一気にひっくり返してしまった、いうことだ。
立場を超えて友情で結ばれた、独仏の教養階級の将校たちが交わす名セリフの数々で、それが見事に暗示され、表現されている。

これまでの総括で取り上げてきた、陽明丸事蹟に関与した四人の男たち。
ライリー・H・アレン、茅原基治、ルドルフ・B・トイスラー、そして勝田銀次郎。
彼らも同じく、世界のこの二つの時代の断絶に遭遇した、知識階級の人々であった。


第一次大戦直前まで、西洋はベル・エポック期 (仏語の Belle Époque 「良き時代」)にあった。
そして、この未曾有の第一次大戦を境に、世界は現代にまで連なる 「狂乱の時代」
(仏語 Les Années Folles  レ・ザネ・フォル)に突入してしまったのだ。

例えば、戦争。
ベル・エポック期までの戦争は、その後の二つの世界大戦にくらべると、随分のんびりとしたものだった。
戦争とは、軍人たちによる大がかりな格闘技のような感覚に近かった、といえよう。
戦場とは、兵士たちにとっては英雄的行為や愛国的勇気、国王への忠誠などを発露する、人生の晴れの舞台でもあった。
19世紀の西洋では、「決闘」という私闘がよく行われていた。
動機はさまざまであったが、要するに二人の男がフェアな立会人の前で、剣や銃で戦う 「果たし合い」で あった。
プロイセンの鉄血宰相ビスマルクは、血の気の多い学生時代に数多くの決闘を行ったことで知られている。
哲学者ニーチェや経済学者マルクスでさえ行っていたという記録もある。
決闘した男たちは、サーベルで醜い裂傷を負った顔面を、むしろ自慢げにひけらかしていた。

おそらく、これと似たようなものだ。
ベル・エポック期の戦争という国家的な軍事力の行使は、多分にこの個人間の「決闘」の延長のような感覚であった。
この当時、列強の主要国間の戦争では、互いに国家的 な致命傷に至らぬように努めていた。
各国とも、戦いは長期戦に陥る前に収束されることが、理想とされた。
ゆえに、ヤマ場であった主戦場で勝敗が決まると、だいたい停戦に傾くことが多かった。
勝者は敗者に賠償金や領土の割譲その他を要求し、敗者は応じるのがしきたりであった。
共倒れになるに至らぬよう配慮された、いわば一種のゲームといえなくもない。
太古以来の、男たちのむき出しの闘争本能をコントロールする、苦肉の策といえるかもしれない。
且つては、ニューギニアの首狩り族も、似たようなスタイルで部族間の戦いをしていた。

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19世紀の戦争(普仏戦争)




ゆえに、第一次世界大戦に勇躍して出陣した各国軍兵士の脳裏に描かれていたもの。
それは、おそらく19世紀浪漫派の絵画にあるような戦場の情景であった。
戦場とは突撃する歩兵や、疾駆してサーベルを振り下ろす騎兵の勇壮な白兵戦であった。
一種の集団格闘技場であった。
決戦が終った頃には、勲章の一つや二つを手土産に凱旋し、家族に手柄話を聞かせる、というのが当時の出征兵士の共通願望であったことだろう。


第一次世界大戦の開戦当初。
このような古い形態の戦争の名残りをとどめ、彼らの共通価値観である一定のルールに則って戦われた。
だが、それも開戦束の間だけであった。

その前世記的な戦争の様相を一変させててしまったのは、当時既に高度に発達していた軍事科学である。
ただし、新しい戦争の形態は、既に日露戦争で出現していた。
だが、その頃の西洋人はそれが間もなく、我が身に降りかかることなど予期もしていなかった。
後進国ロシアと「東洋の猿」 日本が、リング上で他愛もなく殴り合うショーくらいとしか見ていなかった。

ところが、西欧諸国が現実に直面した大戦の戦場とは。
無数に撃ち込まれる高性能砲弾、騎兵集団をも瞬時に薙ぎ倒す大量の機関銃、堅固なコンクリート製の要塞、装甲列車、鉄条網などなど....
これら、当時の近代兵器が従来の戦場光景を一変させてしまった。
全く予期せざる膨大な人的損害に、両軍ともにパニックに陥った。

そして、必死に増強を重ねた両軍の前線はしだいに膠着し、大規模で長期間の塹壕戦、要塞戦となっていった。
双方で数百万人という甚大な戦死者を出しながらも、局地戦での勝敗がなかなかつかず、やがて軍用機や戦車などの新兵器も繰り出した。
はては、なりふり構わず、非人道兵器の毒ガスにまで手をだしてしまった。
戦死傷者は際限もなく増え、国民も巻き添えを食って疲弊し、欧州すべての交戦国は戦前とは見る影もなく悲惨な有様となった。

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第一次世界大戦(ヴェルダンの要塞攻防戦)



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第一次世界大戦(戦車の出現)

また、戦争はもはや前世期のような、特定の戦場だけに限られるものではなくなった。
戦場は当事国の国土全域に拡がり、都市への砲爆撃も始まった。
多くの一般国民、つまり女性や子供、老人など非戦闘員も無慈悲に否応なく戦闘に巻き込んでいった。

つまり、第一次大戦以降、世界は本格的な国民総力戦の時代に入ってしまったのだ。
敵味方が死に物狂いで、相手国民の息の根を止めるまで激闘するものだ。
第一次大戦の、この生き地獄のような恐ろしい戦争の様相は、第二次大戦でも再び繰り返された。
それも、前大戦より規模が格段に大きくなり、しまいには原爆まで使われたのも、記憶に新しい。


だが、第一次大戦が生み出したものは新兵器や総力戦だけではなかった。
大戦後の疲弊した欧州には、さまざまな進歩的な思想が潮流となって渦巻きはじめた。
自由主義と民主主義、民族自決や婦人解放運動など。
これらは、大戦で凋落した英国に代わって、列強の覇者となった米国が主導したものだ。

また、ロシア革命の影響で、社会主義や共産主義も新しく、世界的な思想潮流に加わった。
大戦後は、戦争を主導した各国の王室、帝室の多くが没落し、政体に民主的改革の機運がいっきに盛り上がって、共和政体が多く生まれた。
だが、資本主義を否定する共産主義国家、ソ連の誕生は列強支配層に警鐘を鳴らし、国防や思想面での非常な脅威として受けとめられた。
それが初めて、形となって現れたのが、革命ロシアへの軍事干渉。
日本を含む連合国のシベリア共同出兵であった。


ところで、陽明丸事蹟の一つのキーワード、国際赤十字であるが、これもベル・エポックの初期、1860年代にスイス人アンリ・デュナンが提唱し、その後発展したものだ。
人道、公平、中立、独立、奉仕の五つの徳目が至高の原則とされる。
一世紀半以上にわたり、国際的な活動を行ってきた。
本来は博愛を旨とするキリスト教精神に立脚しているものだが、そこには同時に西洋伝統の騎士道的精神も脈々と流れていることも感得される。

日本赤十字社の創立も本場の西洋に負けないほど歴史が古く、明治二十年に結成された。
シベリア出兵時にも動員され、現地で日本人医師、看護婦たちが献身的に活動していた。
だから、シベリア出兵時の現地での医療奉仕活動はトイスラー博士の米国赤十字救護隊だけではなく、日本赤十字社も立派にコミットしていたことも忘れるべきではない。
同時期のシベリアのポーランド孤児救出作戦の折りも、日本赤十字社は総力をあげて取り組み、世界に誇るべき人道的救援を行った。
孤児らを懸命に看護していた若い看護婦が伝染病で殉職し、人々の涙をさそったことも長く記録にとどめられている。

明治大正の日本帝国は、対外戦争を行っていた一方で、西洋列強の国際スタンダードの順守にも最大限に気を遣っていた。
例えば、戦争捕虜の取り扱いである。
日露戦争でのロシア兵捕虜や、青島陥落後のドイツ兵捕虜の待遇の良さは当時から世界の語り草であった。
昭和の戦争時とは異なり、この頃の日本軍部は、戦争捕虜の処遇を定めた戦時国際法の遵守に努めた。
交戦中の軍紀の維持にも、心を砕いた。
それらが一流の文明国家である証であることを、正しく認識していたからだ。
この正しい認識が崩れていったのは、魔がさしてシベリア出兵や「事変」と称した中国大陸での宣戦布告なしの戦争に手をだして以降のこと。
このように、古来の武士道精神に基づく日本近代の人道主義は、西洋世界にあまねく理解され、深い共感を得た。
それらは、日本帝国が東洋の文明国家として、世界列強に伍することの証として、多大な寄与を為したものだ。


さて、陽明丸の事蹟に係わった四人の男たち。
彼ら全員が、このような古き良き時代に生を受け、多感な青少年期を過ごした人々である。
人間が人間たるべき徳目をひたすら信じ、且つ躊躇なく実践することが、君子或いは ジェントルマンとしての当然の行動と考えられていた時代であった。
このベル・エポック期、日本でも明治大正期の人々の高い倫理観は、何よりも自律的内面性を特徴としていた。
彼らは、大衆消費時代のマス(大衆)の軽薄な集団主義に押し流されることを拒んだ。
あくまで己の内面の声に忠実に従い、行動しようとした。

彼ら四人は決して、歴史を推進した高い地位にいた者ではなかった。
あくまでも現場の人間として、個々の良心が命じるままに、日々の活動を献身的に行っていたに過ぎない。
そして各々、或る日或る時、逆境に陥っている弱者の一団に遭遇してしまったのだ。
彼らの運命を深く憐れみ、己れにできるだけのことはしなければ、と秘かに決意したのだろう。
そのまま見過ごすことは、彼らのベル・エポック的倫理観に反するものであったからだ。
彼らは、安逸と享楽のみを貪る 「町人」ではなかった。
心の底から「武士」であり、「騎士」であった。

それは同時に、相当にリスクを伴う行為ではあった。
だが、ただ黙々と、敢然と実行に移した。
彼ら四人こそ、仏語でいうノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)、すなわち 「財産や権力、地位を持つ高貴な人間ほど、それに伴う大きな倫理的な義務を負う。」 の精神を体現した真の勇者たちであった。


なりゆきながらも、国籍人種を超えた人道主義的救助に深く係わった彼ら。
その意味では古来から謂うところの、陽明学的な徳目を発揮したともいえないだろうか。
すなわち、知行合一の精神であり、実行の伴わない精神は無意味であるという中国思想である。
実践的な行動に最も大きな力点が置かれていた。
この陽明学の思想は、「義を見てせざるは勇無きなり」 という論語の言葉を最も忠実に実践すべき徳目として位置づけている。

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陽明学の祖、王陽明(1472~1529)


高貴な武士道、そして騎士道的精神を備えた彼らを結びつけた日本船、陽明丸。
この船の命名は、はたして偶然であったのだろうか。
或る意味では 「陽明学徒」であった四人の男たち。
彼らに、最もふさわしい船名ではなかったか。

そして、同じく身命を賭して、逆境にある多くの弱者を救済したオスカー・シンドラー、杉原千畝副領事、樋口季一郎将軍などにも、同じくこの「陽明学徒」 の桂冠を冠すべきであろう。


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陽明学を奉じ、天保の大飢饉の困民救済のために武装決起した大阪町奉行所与力、大塩平八郎 (1793~1837)


しかしながら、よくよく考えてみる。
はるか昔から、世界中で彼らのような 「陽明学徒」 が無数に存在し、活躍していたに違いない、と。
人種や国、民族の違いを超えて。
彼らの勇気ある行動の多くは、美談として記録に留どまることなく、歴史のひとコマとして泡のように消えていったのであろう。 
だが、彼らの義挙を通して、改めて我々が肝に銘じるべきこと。
それは、人間の人間たる由縁は、同胞である種族を殺することではない、救うことという平凡な定理ではないだろうか。
それが、緒方洪庵の適塾の精神であり、「敬天愛人」の精神であった。
国際赤十字の精神であり、「国境なき医師団」の精神でもあろう。

人間以外の大概の生物は、かくも無慈悲、無意味に同種、同族を殺戮しない。
いくらもがいても 「狂乱の時代」 から脱することができず、畜生以下の存在に成り果てた現代人の我ら。
浮薄な町人ばかりが巷にあふれ、真のサムライが絶滅危惧種となった昨今。
重い教訓として受け止めるべきであろう。

彼ら、全ての 「ドン・キホーテ」、古き良き時代の好漢たちの霊が安らかなることを祈りたい。



米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(16)

アガサ・クリスティの最高傑作の一つ、 「オリエント急行殺人事件」 という推理小説がある。
ベルギー人の名探偵、エルキュール・ポワロがオリエント急行列車内で起きた殺人事件の謎解きに挑戦したものだ。

或る米国人富豪が一等車両内で殺された。

当然、殺人事件だが、状況から外部からの殺人者ということは考え難い。
ポワロは乗り合わせた他の一等乗客たち12人の誰かの犯行だろう、と目星をつけた。

だが、これら全員の申し立てによって、彼らには皆完璧なアリバイが成立することが明らかになった。
また、彼らは貴族や外交官など立派な市民ばかりで、富豪を殺すような凶暴な動機も考えつかない。
天才ポワロの懸命な推理でも解明できず、事件は迷宮入りかと思われた。

だが、最終局面で意外な真相が明らかになる。
彼ら12名全員が共謀して富豪を殺したものだった。
つまり、全員が結託して、互いのアリバイを証言したのであった。
そして、彼らの国籍も米英露伊ハンガリー・スウェーデンとバラバラであり、よもや全員が共謀しているとは普通は考えつかない。
これらの人々が乗り合わせたのは、単に偶然であったと誰しも考えてしまうだろう。
ポワロは以上の真相を突きとめて、事件の謎がやっと解かれたというストーリーである。



このストーリー構成にどことなく似ているのが、陽明丸の事案ではないだろうか。
同じく、陽明丸に登場する人々を見る限り、何か特別なことを陰で企図するような者などいない、と誰しも考えるであろう。
だが、裏で見え隠れする石坂将軍の存在を結びつけると、印象が俄然違ってくる。

つまり、一連の主要な関係者である四人の男。
そして筆者が、「主犯」と目星をつける石坂将軍。
これら全ての登場人物が示し合わせたかのように、妙に沈黙を保っているように思えるからだ。
彼らの全ては故人であり、今さら「自白」を得ることもできない。


だが、この事蹟を精査してゆけばゆくほど、この沈黙は故意に示し合わせたもの、との印象が強まってゆくばかり。
つまり、彼らはこの件に関しては、沈黙することが一番良いという結論を共有していた、ということになる。
それを履行するため、墓場まで秘密を持っていった、ということになる。


そして、いつしか歳月が流れた。
7年前に、ペテルブルクでのオルガ・モルキナと北室南苑の遭遇により、陽明丸の事蹟を日本も知ることになった。
調査が開始され、事蹟の全容が少しづつ明らかになってきた。
当初は筆者も、ロシアや米国サイドの見解と同じ、一見ただの国際的美談くらいに思っていた。
だが、いろいろと丹念に掘り起こしていくと、どうもそれだけではない、という考えに傾きはじめた。
今では、この大航海の背景には、米国もロシアも知らない、日本だけの複雑な事情が存在していたことを確信している。


だが、彼ら全員が共犯である、という仮説を立証する直接証拠はまだ得られていない。
状況証拠なら、いろいろ出てきた、と思っている。
これらをジグゾーパズルの断片のように並べている段階だ。
そうすると、あの出来事の全体像が朧げながら見えてきている。
筆者は夢見るのだ。
いつの日か、「陽明丸ジグゾーパズル」の最後の一片を嵌めて、一幅の絵が完成することを。


石坂惟寛、石坂善次郎父子は、現在は東京の多磨霊園、「石坂家の墓」で仲良く眠りについている。
昨年、2015年のうららかな秋晴れの日、彼らへの墓参を行った。
広壮な霊園内、ほど良く陽ざしのあたる一角に、それはあった。
心をこめて、お参りをさせていただいた。
そして、その古いお墓の側面に回り、彫られているさまざまな銘文を観察させていただいた。

思わずハッとする箇所があり、手でそっとなぞってみた。
大変古い文字が彫られており、確かに 「茅原●●」 とある。
且つて、石坂・茅原両家の親戚関係が深かった頃の名残であろう。
言葉にならぬ感慨に、暫しふけった。
晩秋にしては一風心地よい秋風が、頭上をくすぐるように、そっと通り過ぎていった。


米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(15)

そして、このポーランド孤児救済の一件についても、筆者は背後には石坂将軍が関与していたと推論する。
この事案における諸要素も、いかにも彼自身の職責、能力、そして行動理念に合致しているからだ。

つまり、彼自身の任務遂行が、現実に生死の淵にあった多くのポーランド難民孤児たちの命を救ったこと。
且つ日本政府及びシベリア派遣軍に大いに利するものとなり得たという意味だ。
陽明丸と同じくこの事案も、これら双方の要素が乖離することなく、見事に融合したものではなかったか。
つまり、彼にとっては何ら疚しい思いはなかったと見る。


当時の白軍にはチェコ軍団だけではなく、シベリア在住のポーランド人志願兵も多く混じっていて、日本軍の友軍として赤軍勢力と戦っていたことはあまり知られていない。
大戦終了後は、これらポーランド兵たちもチェコ軍団兵と同じく、国際赤十字が進めた帰還事業により、故国に向けて船舶輸送されていた。

次の公文書は、石坂将軍がこれらポーランド兵の故国送還にも関わっていたことを示すものである。

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陽明丸航海に四か月先立つ1920年(大正9年)3月7日付の電報である。
浦塩(ウラジオ)派遣軍の参謀長から東京の陸軍次官宛のものであるが、陸軍大臣までもが目を通したことも示している。

通信文は、チェコ軍団兵のシベリアからの送還の件である。

要旨は、下記のようなものだ。

「(当時のチェコ軍団総督、フランス軍の)ジャナン将軍から南満州経由で大連港から彼らを船に乗せたいので便宜をはかってほしい旨の要請があった。
しかしながら、軍中央より以前からそのような要請は断る旨の指示があったので、現地では一応は拒絶した。
だが、今回再び、石坂少将経由で同軍団輸送に引き続いて、2000余名の波蘭(ポーランド)軍帰還兵を大連より乗船させたい旨の非公式の要請を受けたので、これについての指示をあらためて仰ぐ。」


ここにあるように、石坂はポーランド兵を含む帰還兵輸送業務にも直接関係していたことがわかる。
特に注目すべき箇所は、「船ハ心配二及バズ」という部分で、輸送用の船舶が既に調達されていたのだろう。
だが、解釈によっては石坂が船の手配までしていたとも受け取れる。
もし、それが勝田汽船であったとすれば、この時点で彼らの接点は既に存在していたことになる。
なお、チェコ軍団兵輸送を軍中央が拒絶した理由として推定されるのは、仏人総督ジャナン将軍が白軍総帥コルチャークの身柄を赤軍に身柄を引き渡したので、日本軍は裏切り者として快く思っていなかったからだろう。


これらを総合すると、ポーランド孤児難民と義勇兵の母国送還は、全然無関係の別個の事案どころか、ポーランド人にとっては同等に差し迫った、同じ次元の話であったと見る。
シベリア派遣軍としても、当然同じカテゴリーに入れて処理したと見るのが自然ではないだろうか。
当時の日本を取り巻く軍事・外交環境を分析した上で考慮された、重要な「宣撫工作」という意味合いである。
そして、彼ら派遣軍首脳にとっては、陽明丸の事案も同じカテゴリーのものではなかったか。

ポーランドは第一次世界大戦の終結を転機に、ようやく長年のロシアの軛から解放され、再び自らの国家を取り戻した。
だが、ほどなくモスクワ政府と利害が衝突、関係が急速に悪化し、ポーランド・ソヴィエト戦争となって両国は激しい戦火を交えた。
そして、ポーランドは同じくロシアからの独立を求めて戦っていたウクライナとも連携していた。
それが、丁度この時期、1920年前後である。
当時、赤色ロシアはこれら両国と、大戦争の真っ最中であった。


日本によって救出されたポーランド孤児たちや、母国に帰還できた義勇兵たち。
彼らは、日本への恩義を決して忘れなかったことだろう。
つまり、日本・ポーランド両国及びウクライナはソヴィエト・ロシアの脅威に対抗し、その東端西端で事実上、連携連帯していたわけである。
東西それぞれに対峙していた赤軍の軍事力を分裂させるメリットがあった、と見る。
また、そのことはそれぞれの対ソ外交交渉の際には相手への牽制の切り札として大いに役にたったことであろう。


ゆえに結論として、
石坂将軍がこれら一連の事蹟に全て関与していたと見ても、何ら不思議はない、と考えるのだ。
彼の熟練した情報将校としての職責と、人道主義的精神は乖離することなく、見事に溶け合っていたことを示すもの、と言えないだろうか。

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(14)

ところで、陽明丸事蹟の分析において、意外と見落とされがちなポイントがあり、ここで少々述べてみたい。


陽明丸の児童難民輸送と、とかく並列的に見られがちなのが、ポーランド難民孤児送還及び第一次大戦の帰還兵・戦争捕虜の母国送還である。
前にも述べたように、ポーランド難民孤児の場合は日本政府が全面的に支援協力し、日本赤十字社やシベリア派遣軍も動員して行った事蹟として知られている。
救助・輸送したのが難民児童であったために、陽明丸のものと同一の事蹟として間違われることが屡々ある。
また、これらの事蹟をご存知の方が、陽明丸の児童難民輸送も同じカテゴリーに収まるものと考えられても、さほど不思議ではない。


では、陽明丸の児童難民の場合と、ポーランド難民孤児及び大戦帰還兵・戦争捕虜送還において、似て非なる点は何であろうか。
決定的な違いは、前者は 「母国を脱出させて」 、後者が「母国に戻すために」 船で輸送されたことだ。


まず、ポーランド難民孤児だが、彼らを救出して母国に送還させること。
それは、どこから見ても人道主義そのもので、非難される余地はない。
ゆえに、日本政府は何ら臆することなく、むしろ国内外へのイメージ・アップ効果さえ計算していたふしがある。
つまり、国としては、むしろ大変「晴がましい」出来事と位置づけしていたわけだ。
このポーランド難民孤児の母国に戻すため の送還については、そもそもモスクワ政府がクレームをつける理由はなかった。
逆に、「厄介者だから、さっさと連れ出してくれ」 というのが本音ではなかったか。
帰還兵・戦争捕虜の送還も同様であろう。


ところが、 「母国を脱出させて」 輸送した、ペトログラードの児童たちの場合はこれらとは真逆であった。
モスクワ政府は一貫して彼らの返還を要求し続けていた。
「我らソ連政府や親たちの承諾もなしに、勝手に子供たちをウラジオまで運び、そのうえ国外に連れ出すとは何事か」というのが彼らの言い分であった。
筆者の見解では、国際法的には米国赤十字にではなく、残念ながらモスクワ側の方に理があったと見る。
たしかに、米国赤十字は凍餓死の危機にあった児童たちを緊急救助し、手厚い医療や教育を行った。
これは、国際人道救助の一環として、賞賛されることはあっても、非難されるものではない。

そして、当時の緊迫した東シベリア情勢による、ウラジオでの軍事的危機から彼らを守るために船出したわけだ。
だが、モスクワ政府側からすれば、不法にシベリアに侵入してきた外国の勢力が、自国民を勝手に国外に拉致したとみなしたであろう。
そういうことをする権利が米国赤十字に有り得るのか、と。

ロシアが全くの無政府状態であるならともなく、当時はモスクワ政府の国内統治機構が曲がりなりにも確立していた頃だ。
彼らが全ロシアの大方を、実効支配していたのだ。
ゆえに、モスクワ政府にしてみれば、児童たちを国外に連れ去ることは、彼らの国家主権を著しく侵害するものであり、メンツを潰される、と憤慨したのではないだろうか。

警察権や徴税権と同じく、国民の保護・管理も国家主権の根幹に関わるものだからだ。
現在の日本政府が北朝鮮の拉致事件追求の手を緩めないのも、被害者のためだけではなく、国家主権の重大な侵害を見過ごせないからであろう。


事実、米国赤十字でも、「子供たちをウラジオストクに置いてゆくべき」 という意見もあったようだ。
また、国際法上は、その方が筋が通ったものであっただろう。
これらの子供たちは国外に緊急輸送すべき人道的理由、例えば政治難民など、残していけば明らかに迫害を受ける恐れがある人々の範疇に入れるのには無理があった。
ポーランド孤児たちのように保護者もなく、異国で放置されて生命の危機にあるという境遇とも明らかに異なっていた。

仮に、アレンが諦めて彼らをウラジオストクに置いていったとすれば、子供たちはモスクワ政府側に引き渡されていただろう。
日本側、特にシベリア派遣軍も気を揉む種がなくなり、安堵したことだろう。
陽明丸の航海も始めからなかったことになる。
ところが、アレンは子供たちを決して置き去りにしなかったのだ。


だが、モスクワ政府とすれば、彼らを取り戻しさえすれば大義名分が立つので、それでよかったのだ。
彼らを、当時、飢えや伝染病に苦しんでいた数百万の一般ロシア人児童と、同様に扱って当然だった。
「なぜ、こいつら800人だけ、特別扱いにしなければならないのか?」
特別扱いどころか、懲罰的な意味合いで、「並以下」の待遇でさえ、十分有り得た。
もしそうなっていたら、親元に無事たどり着けたのは、せいぜい半数程度であったであろう。
何しろ、故郷の保護者たちから余りにも遠く離れた土地、シベリアの果てで放り出されるわけであったから。


これらの厳しい現実を踏まえて、敢えて大航海を決行したアレンは相当に悩み抜いたのではないだろうか。
だが、結局は、「ここで、この子たちを見捨てることは、人間としてできない。」
「なんとしても彼ら全員の命を全うしてやらねば...」 という強い使命感が彼を突き動かしたのではないだろうか。

筆者がオルガ自身から聞いた次の感想は、このことを裏付けるものだ。
「米国赤十字は『これ以上もう何もしてやれることはないから』と言って、児童たちをウラジオストクに置き去りにしていくこともできたのです。
でも、実際は彼らを見捨てることなく、地球をほぼ一周して親元に無事届けてくれました。
このことにどれだけ感謝したらよいものか、簡単に表現できるものではありません。」


そのかわり、ポーランド孤児や帰還兵等送還の場合と正反対。
「頬かむりをして」、ひっそりと航海に出ざるを得なかった、と見る。


米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(13)

さて、陽明丸の航海には、日本軍が関与していたとする推論の状況証拠。
これについては、いろいろと採集してきたつもりだ。
まずこれはどうか。


茅原船長の手記 「赤色革命余話 露西亜小児團輸送記」。

冒頭近くに、以下のような記述がある。



「陽明丸が(ウラジオストク港に)入港すると、我が警備艦肥前から何か頻りに手旗で信號して居たが、投錨するや否や、一團の水兵がボートで漕ぎ着けた。」

この文章の後に、この海軍水兵の一隊と陽明丸の乗組員らがすぐ打ち解けた旨の描写が続く。

 

軍事方面には疎い後世の我々が何気なく読むと、この下りには特にひっかかるものを感ずることなく、素通りすることだろう。

だが、注意深く考察すると、筆者の印象では、これはどう見ても 「警備艦肥前」 が陽明丸の到着を事前に知らされ、待ち受けていたとしか思えない。

 

この「 警備艦肥前 というのは、元々はロシア海軍の戦艦であり、「レトヴィザン」という艦名だった。

日露戦争では、旅順港や黄海海戦で日本軍との間で激しい砲撃を交わして勇戦している。

戦後は、勝者となった日本軍に接収され、修理改装の後に日本海軍一等戦艦 「肥前 として生まれ変わった。

 

警備艦 というと、どちらかいうと小型艦を連想しがちだ。
だが、この船は排水量12,700トンの大きな軍艦だった。

第一次世界大戦にも活躍し、アメリカ西海岸やメキシコ方面にも遠征している。

その後、シベリア出兵に動員され、ウラジオストク市の海防の要として、湾内に停泊して周囲に睨みをきかせていた。

船長手記には、「少将旗を高く掲げていた」 云々の記述もあり、シベリア出兵当時の海軍派遣部隊司令官の旗艦でもあったのだろう。



そのような、ウラジオストク港を警備する要の軍艦が到着を待ち受けていて、陽明丸が「投錨するや否や」、水兵の一隊が臨検に訪れるというのは、尋常なシチュエーションと言えるだろうか。

同港を訪れる船舶に対して、いちいち水兵の一隊をボートで差し向けていたとは、とても考えられない。

しかも相手が軍艦ならともかく、陽明丸は単なる一民間船に過ぎなかったはず。
考えてみると、妙ではないか。

むしろこれは、シベリア派遣軍司令部から事前に連絡を受けていた海軍側が、陽明丸の到着に際して、入港を確認するため、水兵を差し向けたと見るのが妥当ではないだろうか。
 

 

そして、船長手記では、次のような陸軍側対応の描写も続く。

 

「一日、訪問を受けた某参謀大尉に」  云々と文章が続くものだが、大方の読者は特に気に留めないことだろう。

だが、考えてみると、これも不思議なことではないだろうか。

 

海軍だけではなく、陸軍も将校を差し向けて、陽明丸の到着をチェックさせているわけだ。

しかも、単なる警備隊の指揮官ではなく、シベリア派遣軍司令部付と思われる幹部将校、参謀飾緒を吊るした大尉である。

警備隊の指揮官であれば、単なるルーティン・チェックということもあり得ただろう。

だが、軍艦でもない一民間船の出入りに、派遣軍司令部の参謀が一々訪れるという仰々しい事は極めて考えにくい。

 


以上、船長自身による、手記の上でのさりげない描写ではある。

だが、筆者にはこれらの描写からは、浦塩派遣軍当局が陽明丸の特別ミッションに関与していたことを匂わせること以外、考えられない。

関与していた」 と軽々に断定すると、お叱りを受けるかもしれない。
だが、少なからぬ関心を寄せて、 「関知」 していたことだけは確かであろう。


では、もしそうであれば、いっそのこと茅原船長が この航海には日本軍が関与していた」 どと、はっきり書けばよかったのに、と 反論されるかもしれない。
たしかに、その方が論旨が直截的でわかりやすい。

だが、それには当然、書けない理由があったからだろう、と応えるしかない。
一口で言えば、用心深い茅原船長の防御策であろうと推測する。
これが正規な出版物であれば、出版法に基づき、当時は内務省への届出・献本が必要であった。
そうなれば例えば、 陸軍関係者が関与して米露の人々を助けた、などと書けば検閲にひっかかり、まずいことになったであろう。
昭和九年当時は、これら二ヶ国は日本の仮想敵国ナンバーワンであったからだ。

親英米または親露を片鱗でも表明することは、軍部主流や右翼が主導していた国策に反するもので、「国賊」の烙印を押されかねなかった。

何せこの手記発行の三年前には満州事変が起きており、昭和軍部の暴走は既に始まっていた。
二年後には2.26事件も起きており、かろうじて回っていた議会政治が終焉期を迎えていた。
そして、勝田銀次郎、石坂将軍、宇垣将軍などがまだ存命の頃であった。
下手をすれば、これらの人々も巻き込んでしまう恐れがあり、十分に注意を払う必要があった。
だが、一方では、船長は軍関係の関与があったことを、手記でそれとなく仄めかしているような気がする。
それが、意識的にせよ、無意識であったにせよ...

 

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ロシア海軍時代の「肥前」

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(12)

そして、その折の彼の反応を想像してみるのだが、
おそらくは、苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情だったのではないだろうか。
或いは、以下のように呟き、舌打ちしたかもしれない。
「無知なヤンキーどもめが。
今頃になって、トンチンカンなことを言い出しおって........」


アレンたちが当初考えてていた目論見。
まず世界大戦自体が終結し、そしてオムスクの白軍政権も崩壊したので、シベリアに出兵していた各国軍はそれ以上駐兵する大義名分を失い、当然撤兵するものと思っていた。
実際に、日本軍を除く米英仏など各国軍は全て6月頃までにシベリアからの撤兵を完了している。
ところが、アレンの思惑外れは、我が日本軍の想定外の行動であった。
日本のみは各国と歩調を合わさず、徹兵を先延ばしにしていた。
 
アレンたちは、日本軍も各国軍と歩調を合わせて、遠からぬうちに撤兵すると思い込んでいたようだ。
そうすると、シベリア鉄道自体、いずれはモスクワ政府ないしは緩衝国家の全面管理となるだろう。
そうすれば、米国赤十字の特別列車を通過させて、子供たちを無事故郷に 戻すことは可能と見ていたのだろう。
 
ところが現実は、当時ウラジオストクからヨーロッパロシアまでの大シベリア鉄道は、内戦による各所での線路の破壊と復旧のいたちごっこが続いていた。
もし、特別列車を仕立てて運行させるにしても、無事シベリアを通過し、ウラルを抜けてヨーロッパロシアにたどりつけるかは、皆目不明であった。
もし、たどりつけても、それまで一体何ヶ月かかるのか、誰も答えられなかったであろう。

だから、ウィリアムズ大尉の申し入れ自体は、実現性のない絵に描いた餅に過ぎなかった。

また、もし仮に、そのような特別列車が仕立てられて、一旦赤軍側の支配地区に入ったらどうなっていたか。
まず、間もなく多くの武装兵たちに取り囲まれ、付き添いの米国人一行は全て拘束されるであろう。
わずかな護衛兵が付いていても、すぐ武装解除されてしまうだろう。 
800人の児童たちは、保護されるどころか、臨時収容所に連行され、厳しい尋問が始まっていただろう。
彼らが、もし成人であったのなら、良くても労働収容所送り、悪ければ全員が銃殺になっていても不思議ではないからだ。

何しろ、当時1920年春頃といえば、ソ連指導者たちは、革命ロシアに内外から襲いかかる危機的状況と必死になって戦っていた頃である。
ヨーロッパロシア方面では、ポーランド軍やウクライナ軍との激しい戦争が続いていた。 
そして、慢性的に続いていた酷い飢餓状態。
戦時共産主義という過酷な手段により、飢餓に苦しむ農民から奪うようにして取り上げた食料を都市住民に配ることで、かろうじて破局を逃れていた。
シベリアだけではなく、ロシア国内ではどこに行っても飢餓と病気でやせ細った人々で溢れかえっていた。
それに追い打ちをかけて、シベリアでは腸チフスなど多くの疫病が蔓延しており、ほとんどの人々が恐ろしいシラミの攻撃に悩まされていた。
 
このような、史上最悪といっても過言ではない、酷い状況であったシベリアなのだ。
そういう地獄に近い状況で、それまで米国人から手厚く保護されていた800人の子供たちが、目を血走らせていた赤軍兵士たちに 「解放」されるとしたら、一体どんな目に遭うか.....

「ヤンキーの奴らは、そういう単純な事も想像できないのか!」、
と石坂将軍は吐き捨てるように、呟いたのではないだろうか。


ただし、日本軍/政府とすれば、アレンたちが子供たち800人を連れて、ウラジオから鉄道で出て行ってくれるのなら異議はないどころか、大賛成であったことだろう。 
「これで、とにかく厄介の種が消えてなくなる。
あいつらが、その後どうなろうと、我が軍の知ったことではない。」

 ゆえに、「貴軍守備管区内ノ鉄道輸送二際シテハ出来得ル限リノ便宜供与ヲル様取リ計ハレタシ」
とにかく、日本軍の守備範囲の区間だけは出来るだけ便宜を図り、「奴らにはとにかく出てってもらうのが一番」、という指示になった、と見る。


以上のように、このウィリアムス大尉なる人物が、5月初旬に在仏日本大使館に申し入れてきた計画は、元々成功の見込みは薄く、リスクが高すぎるものであった。
当然ながら、その計画は間もなく放棄され、アレンは発想を切り替えて、洋上に逃れるプランを練り始めたわけだ。

アレンの鉄道輸送計画の放棄を伝え聞いたハルビンの石坂将軍は、とりあえずホッとしたのではないだろうか。


 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(11)

次に、下記の文書に注目いただきたい。


陽明丸の航海が、日本政府・軍とそれなりの関係性を帯びていたことが、これによりご理解いただけるであろう。
これらは、シベリア出兵関連の公文書の一部(コピー)である。
まず、以下3枚の文書は、外務次官から陸軍次官宛てのもの。
 
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形式上は当時の外務次官から陸軍次官宛てとなっている。
要するに関係省庁にまたがる、役人の重要文書を回覧する体裁のひとつと考えてよいだろう。



















その内容だが、

まず、在仏日本大使館から東京の外務省への或る至急電文に基づくものから始まっている。
大正9年5月というのは丁度、アレンが子供たちを連れてウラジオを脱出しようと焦っていた頃だ。

この文書のタイトルを現代風にわかりやすく直すと、 「 在ウラジオストクの米国赤十字保護下の露国小児をリガ( バルト三国の一つ、ラトビアの首都 )へ送還方問い合わせに関する件 」 である。

文章の大意は、5月6日に在フランス米国赤十字輸送部長のウィリアムス大尉なる人物が、パリの日本大使館を訪れ、「 ウラジオストクで保護されているロシア子供難民たち約800名をシベリア鉄道経由でヨーロッパ方面、具体的には在リガ米国赤十字 ( 支部 ) にできるだけ速やかに、陸路送還したい。
そのための客車調達の費用など一切は米国赤十字が負担する。
そのための支援人員もパリより70名を派遣しようと思うが、問題はシベリア鉄道の正常な運行にかかっている。
つまり、( 白軍赤軍の戦闘の余波がまだ続いており ) それには日本軍の鉄道沿線治安警備の如何にかかっているだろうし、( 当然ながら )  その許可が必要であろうと思料する。
故に、この件での打診を貴職を通じて要請したい。 」 云々という申し入れのようだ。

これに対して、在パリ日本大使館の担当官は、当然ながらイエス・ノーを即答できず、 「 それについては、在ウラジオストクの米国赤十字 ( つまり、アレンたちシベリア救護隊 ) と日本軍憲 ( つまり、シベリア派遣軍 ) との間で交渉する他はない、と思料する。
だが、この要請は(つまり、重要案件として処理する故) 東京の外務省に報告し、本省から在ウラジオの軍憲に通報することになるであろう。」  と先方に回答したというものだ。


そして、次の文書が、このやり取りの元になった、在フランス日本大使館の松井大使から本省の内田外務大臣宛の電信文である。


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日付は同年5月9日付、パリ発。
内容は先の文書内容と同一であるが、要は在パリ大使館はこの一件に関して云えば、並々ならぬ重要性を認識していたということになろう。
それほど日を経ない間に、大使から本省外務大臣に電信による連絡がなされているからだ。


さらに次なる文書は、陸軍次官より外務次官への回答を示し、「陸軍としては事の処理を米国赤十字からの要請の通りに行い、その旨を現地派遣軍参謀長に電報で訓令する」旨のものだ。

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つまり、陸軍省では米国赤十字ウィリアムス大尉の要請の趣旨を忠実に浦塩派遣軍に伝えている。
そして、それに続く文章は、浦塩派遣軍の参謀長宛に一連の事情を説明し、 「 貴軍守備管区内ノ鉄道輸送二際シテハ出来得ル限リノ便宜供与ヲル様取リ計ハレタシ、尚(なお)外務省ヨリモ松平政務部長二対シ同様二電報アリタル筈、 」 と締めくくって、この事項に対する派遣軍の協力体制を要請している。
ここに見える、「松平政務部長」というのは、以前に紹介した外務省より出向の派遣軍政務部長 松平恒雄である。
この件については、外務省からも松平に 電報したというから、日本政府はそれなりに重要な案件として捉えていたことがわかる。
 

これら一連の通信文は、陽明丸の子供たち、つまりペトログラードから流れてきた800人の児童難民たちのことが日本政府及び軍当局で言及されている、今のところ唯一の公文書である。

パリ、東京、そして浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部の間でやり取りされた、これら一連の文書の写し或いは要旨は、派遣軍の高級情報将校であった石坂将軍の元にも職掌柄、届けられたものと見て良い。
そこで、筆者としては、彼がこれをどのように情報分析したであろうかが、まず気にかかるのだ。
日露米それぞれの内部事情を知悉していた熟練の情報分析官であった石坂将軍だからだ。

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(10)


ところで、茅原基治の船長としての実務能力の高さは、幾多の困難を乗り越えて無事達成された陽明丸の大航海を見ても明らかだ。
だが、それだけでこの特別ミッションを達成できたか、というと大いに疑問だ。

この大航海の複雑な事情と、事の重要性は、親族同士であった石坂将軍と茅原船長であった故にこそ、腹を割って話せるものではなかったか。

「基治、この航海はお前にしかできない。 だが失敗は許されない。 いざとなったら腹を切る覚悟でやってもらいたい。 だが、その時は俺も腹を切る。」

などと因果を含めて説得したかもしれない。



そして、さらに付け加えなければならないのは、茅原船長自身の赤十字活動への深い理解である。
以前に、船長手記の唯一の現品を所蔵する金光図書館の館長から直接お伺いした話に、その鍵があることを実感した。

郷里岡山県の金光中学校を卒業した茅原船長は、律儀にも毎年欠かさず、恩師であった佐藤範雄校長に年賀状を出し続けている。
この佐藤校長は優れた教育者のみならず、戦前の金光教における傑出した指導者の一人でもあった。
そして、明治前期には日本赤十字運動にも共鳴し、赤十字社の地元エリアの指導者にもなっていた。
上記の図書館長のお話によれば、佐藤師は石坂将軍の養父、石坂惟寛とも親交があったらしい。
それは惟寛が地元岡山出身で、中央の名士でもあったことからも頷ける。
おそらくは、佐藤師が赤十字活動に入った契機も、石坂軍医総監からの強い勧めによるものではなかったか。
そうであれば、得心できる話だ。

そして、それは同時に、筆者が唱える仮説、つまり陽明丸事跡における茅原船長と石坂惟寛、そして石坂善次郎の結びつきを補強するものとなる。


結論的に言えば、茅原船長は、思想的にも、赤十字社の活動への理解度においても、並みの船長より遥かに適合性があった、いうことになる。
そして、この点も石坂将軍は重視した。
それが、あの困難極まる大航海を失敗させず成功に導いた一つのポイントであると思うのだ。
 

茅原船長が、恩師であった佐藤師に手記を贈呈した時の手紙の現物を、図書館長から見せていただいた。
文面は当たり障りのないものであったが、これは思想警察が職権で見ることを用心していたからであろう、と推察する。

この時に、茅原船長が恩師に最も伝えたかったメッセージ。
それは、「先生にお教えいただいた、赤十字の尊い精神による或る国際人道救助に、私も微力ながら関わりました。
それを是非知っていただきたかったので、この手記を敬愛する先生にお贈りいたします。」 ということではなかったか。

そして、その一冊が、今日ただ一部だけ現存している船長手記なのだ。

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(9)

石坂将軍がこれら人道主義的事蹟に係わった、二つの動機。

一つ目は、彼のシベリア派遣軍幹部としての職務遂行上の動機である。
その根拠となる、当時の軍事上、外交上の情勢判断については、既に述べた。
そして二つ目は、石坂将軍個人の心情面の動機と見ている。

彼の心情面の動機。
これは、もはや当人に訊くわけにもいかない。
だから、以下は全て推論である。
 

彼の代以前の石坂家三代は献身的な医者であった。
一介の町医者ではなく、それぞれ藩医のステータスを持つ指導的な医学者であった。 
しかも、医学者としての高度の知識能力を身につけていただけではなかった。
文字通り、「医は仁術」というモットーを具現化した、人格的にも優れた人々であった。
彼らの先進医療は直接、間接を問わず、多くの傷病者を救ったのだ。
これら三代の祖先の優れてヒューマンな業績を、石坂将軍は終生誇りにし、深い敬愛の念を抱いていたに違いない。

だが残念なことに、彼自身は軍人という、ある意味で正反対な仕事を選んでしまった。
軍人というのは古来、医者のように人の命を救うのと反対で、敵を殺傷することを前提に成り立つ職業である。
おそらくだが、彼は先代までの祖先と彼自身とのギャップというか、パラドックスに悩んだこともあったのでは、と
思う。
 
要するに、石坂善次郎という男は、軍人という職業に倦み疲れたのではないかと。
若い時分から、日露戦争も皮切りに、軍事諜報員として様々な国を駆け巡った。
第一次世界大戦では観戦武官として従軍し、凄惨な独露戦の戦場も体験した彼だ。
ペトログラードでは、革命の混乱と暴力、破壊をつぶさに目撃した。 
そしてシベリアでは、内戦で苦悩するロシア国民の目を蔽うような惨状を冷厳に観察するのが、任務であった。
軍の謀略戦の現地指揮官として、記録にも残せないダーティな仕事にも多く関わってきたことだろう。
つまり、流血の戦場と、どろどろした謀略に明け暮れたのが彼の前半生であった。 


これらに、一気に倦み疲れたのではないかと。
そして、一切の生臭いものから遠ざかり、靖国神社の宝物館という草庵で、文人として余生を過ごそうと決めたのではあるまいか。
靖国神社及び遊就館は、近代以降の戦争で散った日本軍の英霊たちを祀る神聖な場所である。
だが、彼にすれば単にそれだけではなかったと思うのだ。
知性感性ともに抜群に優れた石坂である。
おそらくは、敵味方を問わず、自ら駆け巡った幾多の国々の無数の戦死者の霊魂も安らぐ聖廟、と受け留めたのでは、と思う。

その遊就館が、彼が現役を退いた丁度その頃、関東大震災で大破し、瓦礫となっていた。
石坂とすれば、何としても彼自身が全力を尽くして再建する、という新しい人生目標を得たのであろう。
筆者は、この石坂の館長就任人事の背後には、間違いなく盟友、宇垣将軍の差配があったとみている。

陸軍次官であった宇垣は、石坂が予備役編入となる二ヵ月前(1924年1月)に陸軍大臣(清浦吾内閣)に就任している。
このような軍関連施設のポストの人事を左右する権限を既に手にしていた。 

おそらく、宇垣は盟友の長年にわたる現場第一線の激務をいたわり、

「石坂、お前は御国のために、長い間本当によくがんばってきたな!
それは俺が一番よく知ってるよ。
だが、少しくたびれてるようだから、ここらあたりで気分を変えて、違った仕事をやってみないか。
これは、軍人に似合わず、心が人一倍繊細なお前にしかやれない重要な任務だよ! 」
 
と、遊就館再建の課題を与えて、石坂の人生再スタートを励まし、且つ祝したのではないだろうか。 


退役後の石坂のライフワークは他にもある。
郷里岡山藩の名君、池田光政公の伝記の編纂発行がそれだ。
昭和七年に出版されたこの分厚い本は、光政公の研究には今日でも欠かせない精緻な専門書であり、光彩を放っている。
池田家(宗家)三十一万石は、石坂家及び茅原家の地元、備前岡山の代々の領主である。
石坂がこの伝記発行に携わったのは、特に石坂堅壮、惟寛の二代にわたり藩医として取り立ててくれた池田家の篤い恩顧に報いるためであろう。
編纂兼発行者として、「侯爵池田家 家令 石坂善次郎」 と記載されている。


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国立国会図書館 蔵






このように、全く畑違いの学芸的分野に没頭したことも、殺伐とした軍務に明け暮れた前半生から遠ざかりたかったからでは、と思うのは飛躍であろうか。


頭脳明晰なベテラン諜報将校であった彼だが、このように非常に鋭敏な文人的側面があったことを見落とすべきではない。
これはやはり、彼が石坂家の人間であり、茅原家の一族でもあったことに起因するものと考える。
この両家系から多くの医療関係者や知識人が輩出しているからだ。
この中には、茅原基治のような外洋航路の船長も含まれる。 
むしろ彼のような軍人は例外であった。


前置きが長くなってしまった。
結論としては、彼が関わったと推論する陽明丸の航海。
そして、これも筆者が関与していたと推論するポーランドの難民孤児救出作戦。
これら双方から、「苦難にある弱者、特に子供たちは救ってやらねば」 という強い思いがメッセージとして伝わってくるのだ。

特に、陽明丸の子供たちは、石坂の思い出深い任地ペテログラードから遠く彷徨ってシベリアにたどり着いた気の毒な連中だ。
「この子たちには罪はない。これ以上彼らを戦禍に巻き込むべきではない。」
「何とかして異邦の地から、故郷の親元に戻してやれれば良いが........」 という思いがよぎらなかった、と断言できようか。
しかも、彼らを救助した米国赤十字救護隊の責任者は、養父から高名を聞いていたであろう トイスラー博士であった。


その時の彼の脳裏には、石坂家三代の人々の家訓のようなもの、がこだましていたのではないだろうか。
それは、養父が設立者として名を連ねた日本赤十字社の根本理念と同一であったかもしれない。 

「人間の生命は尊重されなければならない。」
「苦しんでいる者は、敵味方の別なく救われるべきだ。」 と。




 






米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(8)

さて、このように親族同士であった茅原基治と石坂善次郎は、陽明丸事跡についても一定期間は空間的、時間的関係を共有する位置にいたわけだ。
これを単なる偶然と見て、「単なるこじつけだろう!」と一笑に付すのは勝手だ。
ただ、筆者は「偶然ではない」という直観に基づき、或る仮説を立てた。
その論拠のおおよそについては、「陽明丸七つの謎」の章でに述べたとおりだ。
 

当初からの経過を、米露の「定説」に拘らず、客観的に検討してみた。
そうすると、陽明丸の確保と運航については、米国赤十字シベリア救護隊と勝田銀次郎、茅原基治の力だけでは、達成はそもそも無理ではなかったか、と考えざるを得ない。
いわば水面下で彼らを支え、強力に後押しする存在がなかったら、成り立たなかったのではと。

そしてこの水面下の存在こそ、石坂善次郎ではなかったか。
アレンやトイスラーのシベリアでの献身的な救護活動、そして救出されたロシア人児童難民の一件の全てを俯瞰する立場で、彼ほど特等席の位置にいたものはいない。
陸大出のエリート軍人、将官であり、シベリア派遣軍の諜報活動の元締めとして枢要な位置を占めていた石坂将軍である。
陽明丸の出航に必要な種々のアレンジメントは、やろうと思えば、さほど困難でなかったと見る。


そして、もし、この仮説が正しいとしよう。
そうであれば、以下のように事が運んでいたのではないか、と推論する。

+***************************************

石坂将軍はまず、以下の一連の計画実行について、シベリア派遣軍の参謀長を通じて、司令官の許可を事前に得ておいたはずだ。
派遣軍幹部として責任ある立場上、独断専行はあり得ず、同時に軍全体のコンセンサスも得ておく必要があったからだ。

次に、従兄弟甥で(いとこおい)である茅原基治をウラジオストクの派遣軍司令部に呼び、事情を腹蔵なく打ち明け、協力を求めた。
従兄弟の息子である基治であれば、このミッションの重要さを信頼して打ち明けることはできたであろう。

そして、基治の船長としての優れた技量と強い責任感を熟知していたであろう石坂である。
まず、彼の説得から着手したのではないだろうか。 
一族の誉として敬愛する従兄弟伯父の善次郎から、国の安危に関わる重要ミッションを打ち明けられた基治は、それを断る理由はなかった。
そして、ひとまず基治を味方につけることができたとしよう。 

次に一番大きな問題は船の確保であった。
これが簡単でなかった事情は前に述べた。 
だが、これについては、かねてより基治が敬服していた勝田銀次郎を置いて他にはない、という結論になった。
これには、石坂も即座に同意したことだろう。
そうすると、次のプロセスは、誰が勝田を説得するか、である。
石坂将軍自身は、責任の重い職位上、ハルビンを離れて遠路、日本に向かうことは難しかったであろう。

だが、ハルビンでそのまま、のんびりと構えているわけにはいかない。
アレンの焦慮を思えば、時間的にもそれほど余裕がないことはわかっていたはず。 
ゆえに、連絡将校として、信頼できる副官ないしは部下を東京に差し向けたであろう。
もちろん、盟友というより、刎頚の友であった宇垣将軍への緊急要請のためだ。 

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宇垣一成


そして、次の出番は、宇垣将軍であった。
宇垣はその少し前まで、東京の参謀本部第一部長という要職にあったが、陽明丸事跡の当時は陸軍大学校校長に移動していた。
その関係で、勝田銀次郎への説得工作も、東京で行われたと見るのが自然であろう。
説得場所としては、陸軍省か参謀本部に勝田を呼び出したと考えられる。 
好都合なことに、石坂ら「ロシア屋」グループのトップであり、且つ宇垣将軍のボスでもあった田中義一中将は当時、陸軍大臣の要職にあった。 

軍の実力者、宇垣の説得により、仁者であり且つ愛国心の強い勝田は、どうやら引き受けた。
ただ、勝田は次のような懸念を表明した。

「弊社でご用立てきる貨物船が一隻あります。 昨年完成した新しい船で、性能上は問題はありません。
ですが、臨時の客船に改造するには、応急工事が必要です。
大がかりなものになるでしょう。
問題は、それに付随する許認可が早急に逓信省から得られるかどうか、です。 」 

頭脳明晰な宇垣は、すぐさま対策を講じた。
次世代の陸軍トップリーダーであり、信望が高かった宇垣だ。
彼のネットワークを動かせば、対官庁アレンジジメントはさほど難しくなかったと見る。
その ネットワークとは、石坂と宇垣の陸軍大学同期の朋友たちである。
全て軍のエリートであり、陸軍省や参謀本部、憲兵隊など、枢要な部署の上級ポストを占めていた。

また、陽明丸の出航については、できるだけ目立たぬように、人々の耳目を集めることのないようにしなければならない。
すぐさま、これも再び、宇垣ネットワークを通じて、関係者への緘口令が敷かれた。
報道関係にも、情報が漏れないように、遮断された。
それゆえに、事を全て隠密裏に運ぶことができた。 

 
次のステップは、勝田が何食わぬ風をよそおって、トイスラー博士に次のような打診をする事である。
「シベリアの米国赤十字で、ロシア児童たちを輸送するための船をお探しですか?
巷の噂で聞いたのですが。
もし弊社の船でよろしかったら、ちょうど空いているのが一隻あります。
昨年進水したばかりの、新しい船です。
貨物船なので、客船用に改造しなければなりませんが。
外洋航路に慣れた、優秀な船長も知っています。
もし、よろしかったらお世話しましょうか。」

トイスラー博士が、「 これぞ天祐!」とばかりに、一も二もなく飛び付いたのは言うまでもない。
そして、ウラジオストクで悶々としていたアレンに、陽明丸確保の吉報が伝えられた........ 
ただ、何事にも思慮深いアレンのことだから、「話がどうも、出来すぎてはいないか...」
と、微かな疑念を抱いたかもしれない。
だが特段、文句があるわけではなく、自分一人の胸にしまい込んだであろう。 

以上が、可能性として最もあり得た、一連のシナリオではなかったか。
***************************************
 
ただ、もしこのシナリオに難点があるとすれば、アレンが必死になって船探しをしていたことを石坂将軍がなぜ探知できたか、という点だ。
シベリア派遣軍幹部として司令部と情報機密を共有し、或いは米国赤十字の電信も傍受でき得た石坂であった。
彼なら、ハルビンにいても探知は可能ではあったであろうが、やはり距離的にはウラジオストクは遠かった。 

これについては、筆者の推理を補完するものとして、さらにもう一人の人物に焦点を当てたい。
それは、当時シベリア派遣軍司令部の政務部長という要職にあった松平恒雄である。

シベリア派遣軍の政務部長というのは、共同出兵した各国や赤白各派のロシア地方政府との外交交渉、現地邦人や露人の民政業務など多岐にわたる非軍事部門を扱った責任者であった。
そして、この重要ポストは軍人ではなく、松平のような生粋のキャリア外交官が任命された。

その名から察せられるかもしれないが、彼は元会津藩主、松平容保の六男として生まれ、外交官になった生粋のエリートである。
後に、駐英大使、駐米大使、宮内大臣を歴任し、戦後は初代の参議院議長に選ばれた超大物である。
同志・吉田茂と同じく鳩派政治家として、軍部がはじめた無謀な太平洋戦争を深く憂慮し、昭和天皇を通して停戦に持ち込もうと画策したことでも知られる。

このように松平は一貫して、英米をよく知る極めて有能な外交官であった。
注目する点は、ウラジオに赴任している間はライリー・アレンとは互いに良き関係にあったことが米国赤十字側の記録にも散見されることだ。
極端に言えば、日本軍を好まなかったアレンが唯一信頼していた日本人が松平政務部長であった。

また、これは筆者の私見だが、単に親英米的な外交官だから、というだけではなかったと思うのだ。
松平は、幕末の会津の惨めな敗戦の姿をトラウマとして、たえす胸にしまいこんでいたことだろう。
つまり、彼の父、会津の殿様、松平容保公が官軍との凄惨な内戦で敗北し、藩の士民も否応なく死闘に巻き込まれてしまったことだ。
会津白虎隊の悲劇のような、無辜の子供たちに災難が降りかかるのを見るのは、辛かったのではあるまいか。
ゆえに、アレンが連れてきたペトログラードの子供たちにも、「できれば助けてやりたいが..」 という思いを抱いても不思議ではない、と思われるのだ。

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 松平 恒雄

アレンが船の確保がうまく行かず、焦っていたこと。
情報収集に長けた外交官である松平は、それをおそらくキャッチしていたことだろう。
或いは、アレンが信頼する松平自身に事情を打ち明けて、相談したことも大いに考えられる。 

そして、そのことは間もなく、松平の同僚であり、彼らの動向を以前から気にかけていたハルビンの石坂将軍の知るところとなった、と見る。
 

筆者は、一連のことは、大まかに言えばこのように事が運んでいったのではないか、と仮定している。
ただ、解明すべき大きなポイントがある。
なぜ、石坂がそこまでアレンたち米国赤十字をバックアップすることに決めたか、という点だ。

ここが大変重要で、犯罪学でいうなら、そもそもの 「動機 」 というやつだ。 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(7)

さて、このように石坂将軍の養父は日本近代医学の先駆者の一人であり、軍医としての頂点もきわめた逸材であった。

そして、この石坂惟寛の養父は石坂堅壮(いしざか けんそう)といい、彼もまた幕末に活躍した蘭方医であった。
堅壮は岡山藩の藩医も務め、緒方洪庵の適塾から伝授された種痘法も行っていた、とされる。
当時として非常に先進的な医療を既に実践していたことになる。
他にも、明治維新になって間もない頃、人体解剖の折に肝臓ジストマを発症させる肝吸虫を日本で初めて発見し、これも彼の功績とされている。
また堅壮は石坂空洞という雅号でも知られ、書画や琴などをたしなみ、多方面に才を発揮した文人でもあった。

さらに言うと、この石坂堅壮も実は養子であった。
養父は美作の人で、石坂桑亀(いしざか そうき)という医者であった。
桑亀は、江戸期に麻酔手術を初めて行った有名な華岡青洲の門人として医学を学んだ。
その後、長崎に来ていたシーボルトにも師事し、後に請われて備中の足守(あしもり)藩主の侍医にもなったほどの名医である。


特筆すべきことは、このように、石坂家三代は互いに血の繋がりこそなかったが、三名ともに当時の先進医学を学び、それを医療に実践した名医であった。
彼らは揃って、その時代では傑出した英才であり、人格にも優れた医学者であった事実が注目される。
そして、石坂惟寛の次世代に、この石坂家の一員となった善次郎もまた養子であった。


これらを系図にするならば、

 
石坂桑亀ーー石坂堅壮ーー石坂惟寛ーー石坂善次郎 となる。




ところで、次に掲げるのは茅原基治船長の一族、茅原家の家系図である。

七郎兵衛――林助――源助――牧右衛門清長――清右衛門清信

――貞蔵美雄  ――  女)志計
              (室赤松氏)    (女)富子
   (室吉岡氏)    (男)禎蔵政方 ―(男)正太郎― (男)基治                                       (女)   ―― (男)
            (男) 
            (男)宇三郎
            (男)正五郎
              (山本家嗣)
            (男)逸造
              (石坂家嗣)
            (女)梅
            (女)満津
                      

ここで唐突に、なぜ茅原家が出てくるのか、と不思議に思われるかもしれない。
だが、それには立派な理由があるのだ。

彼の一族、茅原家の先祖は家系図の上では江戸前期の貞享年間まで遡ることが出来、岡山県小田郡甲弩(こうの)村の地主格、地方の代々の旧家であった。
これを見てわかるように、茅原基治は家系図に名が見える七郎兵衛から数えて九代目直系であり、「甲弩茅原家」 の当主であった。
そして、ここで注目したいのは船長の曽祖父である六代目の貞蔵美雄の子供たちである。

跡取りは長男の禎蔵(ていぞう)政方、まり基治の祖父が継いでおり、他の男子二人(三男、四男)は養子に出されている。
そのうち、四男の名が逸造とあり、どこかで聞いたような名だと思われるであろう。
たしかにその通りで
、(石坂家嗣)とあるように、この逸造が後に石坂惟寛となったものだ。
それについては、「逸造」と「逸蔵」とは文字が異なり、別人ではないかと言われるかもしれない。
また、単なる偶然で、根拠のないこじつけと疑われるかも知れない。

だが、戸籍法が確立する以前の江戸時代にあっては、人物の名前にも当て字や異体字が日常的によく使われていた。
名前表記が厳密である現代に比べればかなり自由であり、いい加減でもあったと言えよう。
茅原逸造の場合も、おそらくは、逸造、逸蔵ともに、当時は日常的に使われていたものだろう。

この逸造=石坂惟寛同一人物説が、こじつけではない証拠は、茅原家の人々は一族から「石坂惟寛」という偉人が輩出したことを大変誇りにしてきたことを、或る郷土史家から聞いた。
この郷土史家自身も甲弩茅原家の一員の方であるので、これは間違いのない事実である。


さらに、もうひとりの男子、三男の正五郎(山本家嗣)だが、この名前にも漠然とした記憶があるかもしれない。
そのとおりで、石坂善次郎の実父は、山本庄五郎であった。
これも、当時の当て字として見られ、逸造、逸蔵と同じで、この正五郎も時には庄五郎と名乗り、また書かれることもあったのだろう。


つまり、基治船長の祖父の
禎蔵政方逸造(石坂惟寛)正五郎(山本床五郎)の三名は血を分けた兄弟であった。
そして、この山本庄五郎(茅原庄五郎)の次男が善次郎であり、彼はまだ少年の時分に叔父の石坂惟寛(茅原逸造)に養子にもらわれた、ということだ。


これらを親族関係の呼称で言うと、基治の父、正太郎にとっては
石坂惟寛は従兄弟(いとこ)であり、善次郎は従兄弟甥(いとこおい)、基冶船長にとってはそれぞれ大叔父(おおおじ)従兄弟叔父(いとこおじ)に当る。
親等でいうならば、それぞれ正太郎の三親等、四親等、基冶船長の四親等、五親等となる。
単なる戸籍上の繋がりだけではなく、血筋上もしっかりと繋がっている。
民法の上での親族というのは六親等以上であるので、彼らは遠縁どころか立派な親族同士であったと言い切れる。
それどころか、もし茅原逸造と茅原正五郎が他家に養子に出ていなかったら、石坂善次郎は「茅原善次郎」であり得たわけだ。


このように、茅原基治船長と石坂善次郎中将は、まぎれもなく血を分けた六親等の親族同士であった。
船長にとっては、石坂将軍は父の従兄であった。
そして、基治船長がウラジオストクに向かい、陽明丸で大航海を行ったとき。
父の従兄、善次郎少将(当時)はシベリア派遣軍の首脳のひとりとして、ハルビンで事の一部始終を見守る立場にいたわけだ。

そのことは、一体何を意味するものだろうか。


 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(6)

石坂将軍の軍歴の概要は以上のとおりであるが、次に彼の出自について触れてみたい。


彼は明治4年(1971年)兵庫県神戸市生まれである。
実父は山本庄五郎とあり、石坂中将は生来は山本善次郎であったわけだ。
だが、11才頃の少年期に岡山県出身の軍医、石坂惟寛に引き取られ、その養子となった。

彼の養父、石坂惟寛だが、略歴がこれまたWikipediaに詳しく記述されており、以下のとおりである。
 

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石坂 惟寛 (いしざか いかん 又は いしざか これひろ) 


生誕 1840年3月25日

備前国

死没 1923年7月29日(満83歳没)

軍歴 1872 - 1900

最終階級 陸軍軍医総監


石坂 惟寛は、幕末から明治にかけての医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。幼名、逸蔵。


経歴 (※一部略)
 

備前国出身。赤松秀の二男として生れ、岡山藩医・石坂堅壮の養子となる。1860年(万延元年)9月、適塾に入門し西洋医学を学び、のちに岡山藩侍医となる。

1872年(明治5年)1月、陸軍軍医となり二等軍医副に任官。
1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征。
1887年(明治20年)5月、軍医監に昇進。同年5月から翌年12月まで陸軍軍医学舎長(後の陸軍軍医学校長)を務め
、1894年(明治27年)8月、軍医総監に進級し第1軍軍医部長に発令され翌月から日清戦争に従軍した。

1900年(明治33年)12月1日、後備役に編入され、1905年(明治38年)10月16日に退役した。

 
栄典  1895年(明治28年)8月20日 - 勲二等旭日重光章

 著書  手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』

  親族  養嗣子   石坂善次郎(陸軍中将)


このように、石坂惟寛は蘭方医、緒方洪庵の適塾を出た英才であり、明治期の日本医学の先駆者の一人であった。

そして、幕末期の岡山藩医として医学のキャリアが始まったが、維新後は草創期の帝国陸軍の軍医総監(旧制度)、新制度での軍医監(少将担当官)にまで昇り詰めた逸材であった。

またそれ以外にも、陽明丸事跡を追う筆者にとっては看過できない様々の興味深い事実がある。



まず、石坂は日本赤十字社の創立者の一人であり、下記のように明治25年の公文書には、同社の常議員に名を連ねているのがわかる。

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明治10年の西南戦争に出征した石坂軍医は、戦場で仆れ、傷ついた多くの兵士たちの救護に当たった。
だが、そこでは戦場で敵側に放置されたままの傷病兵の悲惨な境遇に心を痛めた。
故に、戦場という極限状況においては、敵味方の区別なく傷病者を救護するという西欧的な先進思想に強く共鳴したようだ。
(石坂軍医の手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』)

そして、この軍医としての経験に基づくヒューマンな医学が、近代国家として欠くべからざることを明治政府の指導者たちに訴えた。
それ故に、佐野常民の日本赤十字社設立運動に、現場の医務官として全面的に協力したものであろう。
佐野常民は適塾での大先輩にあたり、彼らは共に緒方洪庵の医学を通して西欧的な博愛精神に強く感化されていたものだろう。
この当時の日赤常議員のポストは、華族や政府高官で大方占められていたようだが、石坂の場合は軍医の先達であり、赤十字社創立者の一人として任命されたものに違いない。



また、これも興味深いものだが、石坂は文豪、森鴎外が若き日の軍医時代の直接の上官であった。
鴎外と石坂との関わりについては「石黒忠悳日記」に次の記述があるようだ。
石黒も石坂と同じく草創期の帝国陸軍の軍医であり、後に日本赤十字社の第四代社長になった人物である。


  (明治21年) 一〇月六日 森来ル

           一〇月七日 朝林太郎母並弟妹来ル

           一〇月八日 石坂ヨリノ事ヲ内談アル 、


当時は、石坂は軍医学舎(軍医学校)の舎長(校長)、鴎外が軍医学舎教官、そしてこの石黒は軍医監であった。
鴎外は後年、大先輩であった石坂軍医と同じく陸軍軍医総監になっている。
この日記の頃、鴎外は小説「舞姫」のヒロインのモデルとなったドイツ女性との恋に悩み、職を辞することまで考えていたようだ。
その処理をめぐる記述と見られる。
石黒、石坂の両上官が鴎外の才能を惜しんで必死に慰留したものであろう。

 

このように、石坂中将の養父、石坂惟寛は歴史に名を留める日本医学の先駆者の一人であり、名士であった。
軍医の高官、そして日本赤十字社の重役として、石坂は当時の日本の医学界でも指導的な役割を果たした一人であった。

当時、石坂と聖路加国際病院院長であったトイスラー博士とが懇意であったという確証はない。
だが、共に東京で活躍し、双方ともに当時の日本
医学界での高いステータスを有していたこと考えると、少なくとも交流ないしは面識があってもおかしくなかったであろう。
ちなみに陽明丸の航海前後の頃は、石坂惟寛はまだ存命中で、神奈川県三崎の別荘で余生を送っていた。
そして、同時期にはトイスラー博士は東京に戻っていた。
したがって、陽明丸の話に石坂惟寛自身も何らかの関与をしたとしても不思議ではない、と考えるのだ。 


石坂将軍は、幼少期から養父の、このような先進的な医学者としての活躍ぶりをよく見聞きしていたはずだ。
自身は医学に進まず、軍人の道を歩むことを選んだわけであるが。
だが、極限状況での弱者の差別なき救護という崇高な人道主義については、養父からは薫陶を受けていたことだろう。
ゆえに、養父の知己でも有り得たトイスラー博士の米国赤十字シベリア救護隊の献身的な活動ぶりを、ハルビン特務機関長として、もし知ったとすれば、少なからず彼の心を動かした可能性がある。


米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(5)

さて、石坂将軍は、このように在ペトログラード日本大使館付き武官として、きわめて重要な任務を終えて1918年4月に帰国した。
国内で待ち受けていた軍務は、野戦重砲兵第1旅団(横須賀 近衛師団)の旅団長である。
約4年間の外国での軍務を終えての帰国だから、再び故国の土を踏みしめた時はさぞ感慨が深かったことだろう。

何しろ、外国での観戦従軍や諜報任務というのは、体力と頭脳を振り絞る相当の激務であった。
それを遠いロシアで数年もこなしていた彼だ。
帰国後の旅団長生活などは、まるで休養みたいに感じていたのではないだろうか。

だが、旅団長というのは軍のラインからすれば、師団長の次、連隊長の上であり、陸軍の職位の中では相当に偉いランクである。
日本陸軍にあっては通常、一個師団は二個旅団で構成され、さらに一個旅団は二個連隊で成り立っていた。
彼の重砲兵旅団は砲兵の特技兵集団なので、これよりはずっと少ない兵員数ではあっただろうが。 
それでも、司令官の石坂将軍は多くの将兵にかしづかれていたわけで、割と快適な軍務であったはずだ。
長年にわたった孤独な激務の骨休みとしては、丁度良かったと思われる。


ところが、陸軍は彼をそれほど長く、休ませてはくれなかった。
帰国した年、1918年の夏に日本軍のシベリア共同出兵が始まったのだ。
三個師団、約七万人の日本軍の大部隊は、シベリア沿海州方面や満州方面から分かれて侵攻、地方の過激派軍と交戦しながら快調に進撃した。
季節は夏であり、進軍は迅速に行われた。
瞬く間にバイカル湖以東のシベリア拠点地域のいくつかを制圧してしまった。


次の重要課題は、占領地での軍の地保をしっかりと固めることである。
すなわち、占領行政や共同派兵をした各国派遣軍との調整、白系及び過激派勢力の動向把握、親日勢力への支援など非常に多岐にわたる分野であった。
だが、このように軍事と行政、外交にまたがる複雑な仕事を処理するには、高度な能力を持つ専門家が必要であった。

戦闘するだけの猪突猛進型の軍人では、到底務まるものではない。
しかも、国際経験が豊かで、欧米人とも対等に渡り合え語学力も必須条件であった。
だが、日本陸軍ではそのような資質をを満たす軍人は、ほんのごくひと握りであった。
それらの中のトップクラスとして、石坂将軍に白羽の矢が立ったのは、当然といえば当然な人選であった。
いわばエース級の国際諜報専門官を登板させたわけだ。 


そして、彼の新しい赴任先は満州ハルビンの陸軍諜報出先機関、ハルビン特務機関であった。
この部署のトップ、特務機関長を彼は1919年2月から1921年3月の二ヵ年余にわたり務めることになる。
ここで特に注目したいのは、上記の期間がロシア児童800人の救出保護活動と陽明丸の出航、郷里ペテログラードへの帰還までの時系列とほぼオーバーラップすることだ。


石坂将軍のハルビン特務機関への赴任だが、小さい記事で当時の新聞に報じられている。
新聞記者がはっきりと「ハルビン特務機関」と書けず、「 突然重要任務を帯びて某方面に転任 」 としか表現できなかったのは、当然ながら軍事機密に属することだからだ。

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国民新聞 1919.2.24(大正8)

重砲兵旅団長転任

横須賀重砲兵旅団長たりし陸軍少将石坂善次郎氏は今回突然重要任務を帯びて某方面に転任を命ぜられ二十三日午前十一時五分横須賀発列車にて家族と共に赴任の途に就く後任は野砲兵第一旅団長陸軍少将鈴木孝雄氏著任の予定なるが是等転任の関係上陸軍当局に二三小異動あるべし(横須賀電話)  



特務機関というのは、日露戦争時から本格的に活動し始めた陸軍の諜報組織の現地出先機関である。
特に、シベリア出兵以降は、東シベリアで占領した幾つかの拠点都市や、満州の重要都市ハルビンなど各地に置かれたものだ。
特にハルビン特務機関はそれらの中でも重要なもので、守備範囲は満州だけではなく、東部シベリアの横腹に近い地理的関係ゆえに、ロシア勢力の南下や満州への浸透を監視し、抑制することが目的であった。

これらの特務機関はシベリア出兵時の現地軍司令部、浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部に直属していた。
諜報組織に伴う機密性であろうが、その存在は他の部署とは異なって外部には閉鎖的であった。
石坂将軍の身分も、対外的には「浦塩派遣軍司令部付き」とされていた。

このうち、シベリア出兵終了後もハルビン特務機関だけは存続し、1940年からは「関東軍情報部」と名を変えて対露諜報活動の重要拠点として活動を続けた。
また、ハルビンはシベリア鉄道の重要な中継駅であり、当時ロシア西部からウラジオストクまで走る列車の大方は東清鉄道経由でハルビン駅に停まり、ここを通過して最終地に向かった。
戦前のハルビンは華やかな国際都市であったが、同時に各国の情報機関員が出入りする 「スパイ天国」 としての一面もあった。

そして、800人のロシア児童難民を乗せた列車も、ここハルビンを通過している。
当時の鉄道駅というのは、重要な軍事施設でもあり、また人の出入りも多いので各種の情報収集の宝庫であった。
ハルビン特務機関も当然ながら、これらの子供たちの通過については把握していたはずだ。
何よりも、彼らは米国赤十字が輸送してきた「特殊な荷物」だったから、石坂将軍の特別な関心を惹いたことは間違いない。
有能な諜報将校である彼であれば、さらにその背景も探ろうとしたはずである。

そして、彼らがペテログラードから来た子供たちと知って、特別の感慨も抱いたことだろう。
その胸中を、且つての任地であったロシア革命時の露都の風景、人々の記憶が懐かしくよぎったのではあるまいか。




米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(4)

このように、石坂将軍の本領は、対ロシア諜報将校であったことはご理解いただけたかと思う。
しかも下級スパイではなく、高度に専門的な知識と経験を有する幹部諜報将校であった。
そして、このことが彼と陽明丸事跡との関わりの接点であった、と筆者は推論する。


何事も、例え些細なことでも機密の保持は、世界のあらゆる諜報関係者の職務上の務めであろう。
石坂も例外ではなく、自身が関わる全ての事柄を秘密裡にしておく周到さでは、むしろ徹底していたという印象だ。
しかしながら、いくら忍者のように隠密行動を常とした彼でも、同時に栄えある陸軍のエリート軍人であった。
したがって、公文書等の史料を閲覧することによって、現代では彼の行動履歴はある程度伺い知ることができる。

例えば、明治39年3月6日付、陸軍の機密文書、

二第三四五号 参謀本部 石坂中佐露国ヘ赴任ニ付海外旅券請求ノ件 
外務次官ヘ照会案 陸軍砲兵中佐 石坂善次郎 右今般御用有之露国ヘ被差遣不日出発赴任候ニ付海外旅券交付相成候様御取計相成度此段及照会候也 送乙第三七七号 参内第五八号 明治三十九年三月六日 参謀本部総務部長岡市之助 陸軍省副官立花小一郎殿 陸軍歩兵中佐 石坂善次郎 右御用有之露国ヘ被差使不日出発赴任候ニ付テハ記名海外旅券第葉御差越相成度及御照会候也

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これは、日露戦争での諜報任務が終わり、戦後の明治39年(1906年)ロシアのオデッサに駐在武官として赴任した際のものである。
対外上は外交官と同列の駐在武官の身分ではあっても、事実上の任務は政治軍事情報収集の諜報活動であったことは言うまでもない。 


また、海軍将官たちが自らの海軍人生を振り返った証言記録集、「小柳資料」では、次の記述が見られる。

この一人称の語り手は山梨勝之進海軍中将(当時)。
山梨がまだ海軍大佐であった頃、ロシア国内でクロパトキン(※日露戦争時のロシア軍敗将)を訪れた秋山真之海軍少将(当時)に随行しており、その折の会談についての懐古談である。

『会談を申し込んだところ心よく承知して呉れ、案内の石坂砲兵大佐が通訳をした。
当時のクロパトキンは頬が落ち、肉は痩せて皮膚はたるんで気勢があがらず昔の面影はなかった。
彼は挨拶して、
「いろいろ連合国に御世話になっている。
よく見ていってくれ。
日露戦争ではあなたがたサムライと戦った。いまはドイツの盗賊と戦っている。実に不愉快だ。然しどうあってもこの戦は負けられぬ」(後略)


秋山真之は日露戦争時に連合艦隊の参謀として作戦を練り、大勝利に導いた海軍軍人。
功なり名を遂げた彼が後年、欧米を視察した時の回顧である。
ご記憶の方もあると思うが、秋山はNHKで放映された大作「坂の上の雲」の主人公であり、東郷平八郎元帥と並んで日本海海戦での功労者である。
この欧州視察は、第一次世界大戦も中盤の頃、1916年3月であった。

そして、この「石坂砲兵大佐」が、筆者のマークする石坂善次郎であることは言うまでもない。
この頃、彼は大戦での同盟国、ロシア軍の大本営付き観戦武官として従軍していた。
現地での事情通であり、またそのロシア語能力を請われて、本国海軍の英雄であった秋山提督のために案内役兼通訳を行ったものだろう。


また、こういうものもある。

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これらは、彼が在露日本大使館付き武官として首都ペテログラードに滞在中に勃発したロシア革命を報じた機密電報である。
まだ沢山あるのだが、そのうちのごく一部だ。
 
これらは世界を揺るがせたロシア革命に関する現地大使館関係者の公電として、日露関係史の文献に時には引用されるものだ。
この大事件について、東京の政府首脳と参謀本部に何事が起きているのか正確に知らせる必要があった。
そして、石坂将軍は迅速に対応し、このような極秘電報を次々と本国に送った。
軍人であるので、発信先は主として陸軍参謀総長や参謀次長など軍首脳であった。
どれも、当時の緊迫するロシア情勢が詳細的確に述べられている。
石坂将軍の国際諜報分析官としての本領が、ここに遺憾なく発揮されているように思う。


他にも、当時の公文書類等に彼に関する様々な記録が残されているので、調べてみるとなかなか興味深いものだ。
そして、筆者としては石坂将軍は本国を離れて国際舞台で活躍していた頃が、彼の本領を発揮して一番生き生きしていたと思うのだが、穿ちすぎであろうか。

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(3)

さて、陸大卒エリートの同期生の者たちは、互いに陸軍の階段の頂点を目ざす終生のライバルであった。
だが、その反面、同時に彼らが強い連帯感で結びついていたのも事実である。
(この点は、士官学校の同期生でも同じであった。)

石坂と士官学校(第1期)及び陸大(第14期)共に同期生であった宇垣一成 (うがき かずしげ) 大将の場合がそうであった。
宇垣は陸大14期のいわゆる「恩師組」(卒業成績上位者)で、出世コース最先端を走った逸材だ。
大正末期から昭和初期にかけての日本陸軍の巨頭として、歴史に名を留めた大物軍人である。
陸軍大臣や外務大臣まで昇りつめ、あともう一歩で首相になるはずだったが、敵も多かったので、ついになれずじまいだった。
彼が主導した、有名な 「宇垣軍縮」 を断行した故に、皮肉なことに陸軍自体から裏切られたからだと言われる。

だが、石坂と宇垣は陸士、陸大同期生であることに加えて、共に郷里が備前岡山系統であった。
このあたりの事情もあり、彼らは生涯の刎頚の友となった。
ついには、互いの息子と娘を婚姻させて、親戚関係にまでなった二人である。
性格も、その後のキャリアも異なる彼らであったが、西洋的合理主義を尊重する点において、互いに意気投合したのでは、と推察する。
そして、この二人の盟友関係は、後に述べるように陽明丸の航海にも役立った、というのが筆者の推論である。


さて、石坂将軍について、あれこれ述べてきた。
だが、やはり顔写真でもないとイメージが沸かないことだろう。
それで、苦労して見つけた彼のポートレート写真をここに掲載する。
昔の印刷物にあったものを撮影した関係で、ボヤけていて恐縮だが。


筆者が知る限り、石坂将軍は諜報将校としての職業倫理のなせる業か、自身についての情報は極力漏らさないようにしていたとしか思えない。
なぜならば、陸軍中将まで栄達し、世界を股にかけて活躍していた高級将校であったにも関わらず、以前は彼の肖像写真一枚さえ( 集合写真でさえも! ) 見つけ出すことができなかったからだ。
おそらくは、退役した後の機密保持も職業柄徹底してやっていたのではないか、と勘ぐっているほどだ。

この写真を見たときの第一印象。
それ以前に筆者が描いていたイメージとおりの風貌だったので、妙に感動したことを覚えている

日本人離れした、端正で彫りの深いハンサムな風貌。
そして、洗練されたスマートさが垣間見える。
何よりも、目から鼻に抜けるような怜悧なダンディズムを感じる。
柔和な表情だが、隙というものがない。
およそ武人という押し出しではない。
むしろ熟練した外交官ないしは際立った能吏という印象である。

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米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(2)

これが、筆者が問題の人物Xと推論する人物の、おおざっぱな略歴である。

まず、陸軍幼年学校を出て、士官学校に進み、さらに陸軍大学校まで卒業したという学歴。
この一行の学歴だけでも、彼があまたの軍人の中でも、相当のエリートであったことは明らかだ。

どれほどのエリートであったかといっても、わかりにくいと思うので、これを現代に置き換えてみよう。
ほぼ匹敵するキャリアというと、まず国立ないしは私立の中高一貫の名門校を卒業。
そして、現役で東大法学部に進み、更に国家公務員Ⅰ種試験に合格。
生え抜きの財務官僚ないしは外務官僚となる人物であろうか。
これに加えて、父親が陸軍軍医総監(軍医の長官)であったので、毛並みの方も申し分ない。
いわば生粋のサラブレッドというところだろう。
軍務の期間は、明治後期から大正にかけてだが、まだ藩閥人事の残滓があった時期だ。
出身が薩長閥、とりわけ長州であったなら、末は元帥・総理大臣を目ざす完璧な出世コースであったはずだ。
しかし、残念ながらこれだけは本流から外れる兵庫・岡山系統であった。
だが、岡山と言えば、あの茅原船長もたしか同郷であった。 


さて、石坂将軍の場合は、当初より砲兵科を選択していたので、更に陸軍砲工学校も出ている。
エリート軍人の中でも、相当に高い学歴であったと言えるだろう。
そして、最初に少尉に任官して配置された連隊は、陛下をお守りする栄えある近衛師団の旗下であった。
超秀才しか入れない陸軍大学校を上位の成績で卒業してからは、キャリア軍人のお決まりコースであった陸軍参謀本部の参謀に任官。
そして、これまたキャリア軍人の特権であった海外赴任先として、まずロシアのウラジオストクに差し向けられた。
陸軍大学校を上位で卒業する者には、優先的に海外(特に欧米)での留学や軍務が割り当てられ、それに応じた語学研修が必須であった。
彼の場合は、ロシア語であったわけだ。 
つまり、石坂将軍の場合は、「ロシア屋」 として、戦前の一貫した仮想敵国ロシアについての軍事研究が任務として与えられたのが、軍務の出発点、と見て良い。
戦前の陸軍では軍制上 「ドイツ屋」が一目置かれたが、この当時は日露戦争の関係で「ロシア屋」も威勢が良かった。
当時の陸軍実力者、参謀次長で後に総理大臣となった田中義一中将も、若いころにロシア駐在武官を経験した、典型的なロシア通であった。
ロシアにのめり込むあまり、ロシア正教に入信したり、ロシア風に「ギイチ・ノブスケヴィッチ」と自称していたくらいだ。
一方ではシベリア出兵を陰で主導した田中であったが、ロシアを知り抜いていた故に、警戒心も人一倍高かったのであろう。
田中参謀次長は長州出身であり、陸軍のドンであった元老山縣有朋の覚えもめでたく、いずれは後継者となることが目されていた。
このように、石坂将軍は出世グループのトップ、田中参謀次長を頭とする 「ロシア屋 」の有力な一員であった、と言えよう。

 
石坂は、さらに大本営参謀を経て、1904年の日露戦争の勃発とともに、満州の遼東半島方面に布陣した第二軍 (司令官 奥保鞏大将) の諜報担当幕僚となった。
ここの軍務でも、彼の対ロシア専門家としての能力が十分に発揮されたであろう。 
欧州では、有名な明石機関(明石元二郎大佐)が対露謀略工作を行っていたが、それと軌を一にして、極東ロシアでも、日本軍は諜報活動を行っていた。 
石坂少佐(当時)もその一人。
軍事諜報員として、007ばりに’敵地潜入の危険な任務もこなしていたことが、当時の機密文書で確認されている。

そして日露戦争の終結後も、さらなる諜報任務のためにロシア帝国ウクライナの要衝オデッサに派遣され、駐在武官となった。
帰国後は野砲兵第5連隊(広島)連隊長を拝命、さらに第五師団(広島)の参謀長に転任。

1914年の第一次世界大戦開始とともに同盟国であったロシア帝国に再び派遣され、現地で観戦武官としてロシア軍に従軍、東部戦線でのドイツ軍との戦闘も間近で見聞した。
この大戦のさなかに陸軍少将にめでたく進級、晴れて将官となった。

さらに、ロシア通であることを買われて、大戦後期である1917年から1年数ヶ月にわたり、在露日本大使館付武官を務めた。
ここで重要なのは、首都ペテログラードでロシア革命に遭遇したことである。
外交官や一民間人としてではなく、世界を震撼させたロシア革命に日本の軍人として立ち会ったのは彼を含めて数えるほどしかいなかった。
しかも、その舞台は例の800人の子供たちの故郷であった。
 
帰国後は野戦重砲兵第1旅団(横須賀 近衛師団)旅団長を拝命。
さらに、1918年のシベリア出兵では、翌年1919年2月から1921年3月まで陸軍諜報組織の重要出先機関、ハルピン特務機関(満州)のトップ(機関長)を務めた。
1920年8月には陸軍中将に進級。


だが、彼の軍人としての華々しいキャリアはこのあたりでピークに達した。
翌年1921年にはリタイア前の腰掛けであろう、由良要塞(大阪湾)司令官に転任。
彼のようなエリート軍人であれば、通常は最後の花道である師団長に就いても不思議ではないのだが、それもなく、翌年8月に待命となった。
1924年3月には予備役となり、ここで実質的に軍歴は一応終わる。

石坂将軍にとって不運だったのは、丁度この頃は平和の到来とともに世界的に軍縮の時期であった。
日本も例外ではなかった。
陸軍だけでも全国で10万人の大量の兵員がリストラされていたのだ。
それでも、彼は軍の関連施設、東京靖国神社の宝物館、遊就館の館長に就任することができた。
遊就館は、その前年の1923年(大正12年)関東大震災で建物が大破しており、彼の就任は再建計画が着手された頃だ。
また、故郷備前の名君、池田光政公の伝記( 「池田光政公伝」 ) を編集してもいる。
死没は1949年であり、第二次世界大戦も終わって後のこと。
享年77歳。
 

ざっと、このような彼の人生であった。
その中で、筆者が特に注目するのは、日露戦争以前から第一次世界大戦、そしてシベリア出兵に至る長期間の、彼の対露諜報専門官としてのキャリアである。

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(1)

以上、陽明丸の大航海を巡る、筆者なりの七つの謎を提示した。
そして、その謎を解く方程式のキーとなる変数、これに相当すると思われる、或る人物を紹介したい。

(以下は、インターネット百科事典 Wikipediaに掲載されている情報)

氏名     石坂 善次郎
生誕    1871年9月17日
死没    1949年2月26日(満77歳没)
所属      大日本帝国陸軍
軍歴    1890 - 1924
最終階級   陸軍中将
除隊後    遊就館長

石坂 善次郎(いしざか ぜんじろう、1871年9月17日(明治4年8月3日) - 1949年2月26日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。

経歴:

兵庫県出身。山本庄五郎の二男として生まれ、陸軍軍医総監・石阪惟寛の養嗣子となる(本籍・岡山県)。
陸軍幼年学校を経て、1890年7月、陸軍士官学校(1期)を卒業し、翌年3月、砲兵少尉に任官し近衛砲兵連隊付となる。
1895年11月、陸軍砲工学校を卒業。さらに、1900年12月、陸軍大学校(14期)を卒業。
陸軍参謀本部出仕、参謀本部員、ウラジオストク駐在、大本営付などを経て、1904年3月、第2軍諜報参謀として日露戦争に出征した。
戦後、ロシア差遣、オデッサ駐在となった。
1909年11月、野砲兵第5連隊長となり、第5師団参謀長を務めた。
第一次世界大戦ではロシア大本営付となり観戦武官としてロシア軍に従軍。
1916年8月、陸軍少将に昇進。
翌年1月から1918年4月までロシア大使館付武官を務めた。
野戦重砲兵第1旅団長を経て、シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付となり、1919年2月から1921年3月までハルピン特務機関長を務める。
1920年8月、陸軍中将に進級。
1921年4月から由良要塞司令官を務めた後、翌年8月に待命となる。
1924年3月、予備役に編入、その後、遊就館長を務めた。

陽明丸の七つの謎(7)

そして、最後の謎である。

⑦そもそも、なぜ日本がロシア児童難民の船舶輸送に関わってしまったのか


よくよく考えてみれば、いくら米国赤十字シベリア救護隊が子供たちを連れて洋上への脱出を焦っていても、所詮は彼ら自身の問題であった。
日本には直接の関係のない話であった(はずである)。
ところが、実際には深く関わってしまった。
この点は、あまり考えもせず素通りしてしまいがちだ。
だが、何か腑に落ちないものをずっと感じていた。


形としては、一応は「民間ビジネス」の体裁を取っている。
だが、日本側が割に合わない大変なリスクを負担して陽明丸大航海を実現させた、と見る。
それは何故か。 
この点を米国赤十字やロシア側は何ら疑問を呈示していないので、つい看過しがちだ。
だが、不思議と言えば不思議ではないか。


筆者の立てた仮説では、こと陽明丸の航行に関しては日本の官憲が水面下で関与していたから、というもの。
では、日本側がなぜそのような煩わしいことを敢えて行う必要があったのか。
以下に推論を述べよう。


陽明丸がウラジオを出航したのは、1920年の7月。
実は、この時期はアレンや子供たちにとっても、さらに日本にとっても大事件が次から次と起きていたのだ。
まず、この頃の日本軍シベリア派遣軍の状況。
この前年の11月にはオムスクの白軍政権が赤軍大攻勢で崩壊、敗残兵やその家族が東部シベリアに逃げ込んできた。
それを追撃し、勢いづいた赤軍主力部隊が大挙して、同じく押し寄せてきていた。
土着のパルチザンと連携し、白軍勢力と日本軍に一段と強い圧力をかけてきたのだ。

アレンが必死に脱出方法を考えていた1920年春頃、「尼港事件」 の惨劇が起きた。
シベリア沿海州のニコラエフスク。
ここで約七百人の日本軍守備隊・在留邦人が包囲され、パルチザン軍に虐殺されたものだ。
しかも、この時に殺戮されたのは、日本人だけではない。
白系と疑われた、ロシア人市民も数千人が虐殺されたが、これは同市人口の半分であった。、
ニコラエフスクは街ごと焼き払われて、同市は廃墟と化してしまった。
日本国民を憤激させた大事件であった。
だが、現地の日本軍やアレンたち米国赤十字にも、強い衝撃を与えたはずだ。
彼らが状況判断を一歩でも誤れば、同様な危機に見舞われることになる。

もはや、シベリアで政治的・軍事的に孤立していた日本軍は、いずれ全面撤退するしか道はなかった。
それも、皇軍のメンツや撤兵時の安全を保ちながら行わなければならない。
だが、丁度その頃にはそういう難しい状況判断を、 「待ったなし」で時の政府や軍部は強いられていた。
一方では、衰退した英国に代わって超大国に躍り出た米国。
その米国から警戒され、白眼視されつつあった日本。


つまりこの頃は、急速に強大化する米露両国に日本帝国は、挟撃され始めていたのだ。
現地のシベリア派遣軍は、ナーヴァスになっていた。
彼らにすれば、高所で綱渡りをしていたのと同じ思いであったに違いない。
安全且つ名誉ある撤兵のために、これら両国との駆け引きにしくじるわけにいかない。
特に、この頃は 赤色政府と日本軍支配地域との緩衝国家、「極東共和国」 がやっと出来たばかりだ。
その、極めて微妙な時期に、彼我のバランスを崩すような事が起きてはならなかった。


このような薄氷を渡るような状況下。
ウラジオストクで、突発的な軍事衝突が起きたとしよう。
それに巻き込まれた800人のロシア人児童や米国赤十字隊が多数死傷したらどうなるか....
これは、彼らにとっては想像するだけでも、ぞっとしたのではなかったか。
米軍はもう既に撤退しており、日本軍のみが駐留を続けていた。
しかも、出兵各国の撤兵方針に逆らってまで。

米露のみならず、世界中から日本の不手際への非難の合唱が沸き起こるだろう。
国内外ともに、ただでさえ評判の良くない日本軍シベリア出兵であった。
さらにトドメを刺すほどのダメージを受けることになりかねない。

この懸念を裏付ける出来事が、既に発生していた。
その年の4月、米軍の全面撤退直後に、日本軍は沿海州一帯で、過激派パルチザンの大規模な武装解除作戦を行った。
各地で、激しい戦闘が起き、ウラジオストク市内も例外ではなかった。
ペトログラードの子供たちも幾人か、この時は危ない目に遭っている。
殺気だった日本兵たちが、救護隊の朝鮮人臨時職員を十数名、パルチザンと見て、連行していった。
すぐさま、アレンが派遣軍司令部に抗議し、処刑寸前で無事返されたことも、米国側の記録にある。 


とにかく、このような日米双方が共倒れになるような破局を回避するには、ただひとつの方法しかあり得ない。
つまり、厄介な存在である彼らを、一日でも早く洋上に逃すことだ。
それには、思いきって派遣軍当局が秘密裏に関与する必要があった。

政府や軍が表に立つとまずかったであろう。
なぜなら、アレンたち米国赤十字シベリア救護隊は子供たちを勝手に国外に連れ出そうとしていたのだ。
これは、下手をすれば国際法上の「拉致事件」 と認定されかねない事案であった。
ロシア人児童は犬猫ではない。
緊急保護のためといえども、一応はモスクワ政府側の国民である。
ゆえに、少なくとも国外に出すには、親やモスクワ政府の同意を得る必要はあったはずだ。
だが、それどころかモスクワ政府は、彼らは米国赤十字に拉致されたと非難していたのである。
 

以上の背景により、ロシア人児童の輸送に日本政府ないしは軍が直接関わることを、赤色ロシアと米国政府は面子に賭けて認めるはずがない。
ゆに、表面上はあくまでも  「 民間ビジネス 」  を装いつつ、とにかく早急に出立させねばならない。

そのような動機が、現地のシベリア派遣軍に生じていたのではないだろうか。
また、そのような判断に関与したのが、例の人物Xであったと筆者は見ている。 



陽明丸の七つの謎(6)

⑥他の船舶会社が全て断ったのに、勝田銀次郎はなぜ陽明丸の提供を引き受けたのか


傭船者であった米国赤十字の記録のみから、この事蹟を読み取ろうとしてみよう。
そうすると、陽明丸は手をあげたら来てくれたハイヤー程度にしか思われていない。
とにかく米国サイドの記録に基づく見解で気に入らない点。
それは、「陽明丸が確保されたのは全くビジネス上の偶然、ただそれだけ。」
というような単純な決めつけだ。
その当然の帰結として、日本側の善意、侠気というものが全く評価されていなかった。


たしかに、ロシア国内で児童たちを救出し、彼らを地球を一周して無事親元に届けた崇高な行為はいくら賞賛してもしきれない。
それは素直に認めよう。 
ところが、彼らには忘れてほしいないことがある。
アレンが一日も早く子供たちとウラジオを脱出しようと、船会社にかたっぱしから要請しても全て、にべもなく断られていた、という事実を。

「下手な鉄砲数打てば当たる」 どころか、勝田銀次郎が引き受けてなかったら、一発も当たらなかったのだ。
実際の話、最も頼りにしていた「親方星条旗」 に懇願しても、ていよく断られたのだ。
これには、当然理由があったはず。
もしこれがビジネスとして旨みがあり、政治的に何ら問題なければ、国籍問わずどこの船会社でも喜んで引き受けただろう。
それが、全て断られたということは、それなりの理由があったからだ。

筆者にすれば、それはごく単純な話だ。
要するに引き受けるには、あまりにもヤバ過ぎる仕事だった。
ただそれだけのことだ。

何せ、船客は例の、どう扱えば良いかさっぱりわからない面倒な連中、約1000人。
予想される幾多のトラブルを処理しながら、彼らを乗せて二つの大洋を超え、機雷の浮かぶぶっそうな海域をくぐり抜け、国交のない共産国ロシアにまで届けよ、というのだ。
しかも、進水して間もない新しい貨物船を、一か月の突貫工事で無理やり大改装しろというのだ。
これらのことに恐れをなさない船会社は果たしてあるものか、と訊きたいくらいだ。

しかも、これだけ高いリスクを背負いながらも、何かのトラブルで運航中止にでもなれば、その責任を米国側から追及されるのは必至である。
最悪の場合、もし機雷で爆沈しようものなら世界中から袋だだきに合う。
今も昔も、交通事故や海難というものは実際の運行当事者に責任がかるものだからだ。
そうなれば会社自体が潰れるだけでは済まず、日本政府と国民に大迷惑をかけてしまうのだ。 

殊に、モスクワの共産党政府は800人の児童たちは米国赤十字に拉致されたと強く主張していた。
ゆえに、その片棒を担げば、米国同様に赤色ロシアから糾弾される恐れがあった。
このことも各国の海運業者・政府を怯ますのには十分であっただろう。


筆者は、肝心の米国政府が二の足を踏んだのも、まさにこの点であろうと推論する。
当時、内戦に勝利しつつあった赤色ロシアはどんどん勢力を伸長しつつあった。
モスクワを司令部に、世界革命を起こすことを目ざすコミンテルンも設立されたばかりだ。
後にスターリンが一国社会主義論に方針変換するまでは、モスクワの指導者たちは、本気で世界革命を推し進めようとしていた。
つまり、共産ロシアに敵対ないしは好意的でない国々には 「お前の国で革命を起こさせるぞ!」 と恫喝し始めていた。
クレムリンの連中にしてみれば、シベリア出兵で母なる大地ロシアに土足で乗り込み、 内戦で敵側を支援してきた国々( 特に、日本、英仏米の各国 ) は特に許せなかったことだろう。
「奴らを懲らしめてやらねば」、という、 リベンジ の思いに相当に駆られていたはずだ。
 

このように、いわば 「超問題物件」の傭船オファーであった。
一流の企業人であった勝田銀次郎が単なる義侠心だけでそれを引き受けたとは、到底思えない。
大きな会社の最高経営責任者として、株主や従業員にも責任のある立場であった彼だ。
このような高いリスクを、人情だけで引き受けたとするのは、余りにも短絡的ではないか。

当時の日本の船舶会社は、勝田汽船以外にも日本郵船や山下汽船など、大手が幾社もあった。
それらの会社は名乗りをあげず沈黙し、なぜ勝田の一社のみが引き受けたのか?

たしかに、勝田は人一倍、義侠心に富み、稀なる仁者であったには違いない。
だが、失敗した時のリスクを考えると、それだけで簡単にイエスと言えたものだろうか。
形の上では民間ビジネスではあろうが、実際は外交・軍事にも微妙に影響する極めて特殊な事案であった。
勝田が国や軍部に無断で受け入れるものだろうか。
義侠心に加えて、もう一つ何か、強い力学がそこに働いたのではないだろうか。


例えばの話、これが逆に日本の官憲から、勝田に内密に強い協力要請があったのだとすれば、どうだろう。
因果を含められて、「 この仕事の成否は、日本帝国の浮沈に係わるものだ。
なんとか引き受けてもらえないか。」 と迫られていたとすればどうなるか。

愛国心の強い勝田でもあったから、その場合は腹を据えるしか選択肢がなかったのではないか。
観念して、俎板の上の鯛となり、
「そこまでわしに頼まれるのでしたら、わかりました。 お国のためにやってみましょう。」 と。
ついに覚悟を決めて、あの難事業を引き受けてしまったのではないだろうか。

そして、そのような裏工作を仕掛けたのも、問題の人物Xではなかったか、という推論を筆者は立てた。

陽明丸の七つの謎(5)

⑤陽明丸の船長が茅原基治であったことは果たして偶然か

陽明丸の大航海は、実は我々の想像を絶するほどの難事業であった。
貨物船を無理やり大特急の突貫工事で改装し、多国籍の船客約1000人を積み込み、約三ヶ月をかけて二つの大洋を超えた。
乗組員たちは客船サービスの経験はほぼゼロであった。
陽明丸は、船員にとっては、いわば 「ストレスの総合デパート」 のような酷い環境であったはずだ。
だが、結果的には、これらのハードルを見事に全部クリアーしたのだ。
それは、ひとえに茅原船長の並外れた忍耐強さ、自己抑制力、そして指揮能力の高さによるものとはっきり断言できる。

神は米国赤十字救護隊を極寒のウラルに送り込み、危機にあったロシア児童難民たちをきわどいところで救出させた。
そして、次には茅原基治を陽明丸船長として送り込み、地球をほぼ一周後に親元に返させた。
一応、そういうことになるかもしれない。 


だが、幸いにも、このように最優秀、最適の船長が送り込まれたこと。
それは、果たして偶然、単なる僥倖と考えてよいものか。
否、筆者にはそう思えない。

この、神のような人選も、結局は例の人物Xが行ったのではないか、と考え始めた。
つまり、これまでのところ定説であった陽明丸及び船長確保の経緯。
すなわち 「アレン隊長⇒トイスラー博士⇒勝田銀次郎⇒茅原基治」 ではなく、
実のところはその真逆、
「 問題の人物X ⇒茅原基治 ⇒ 勝田銀次郎⇒トイスラー博士⇒アレン隊長」 というふうに事が進んでいった可能性がある、という推論を立てた。

陽明丸の七つの謎(4)

④陽明丸の船員たちが、水兵服を着用して撮った集合写真に関する謎。


筆者がこの写真と最初に出会ったのは、まだ船長の身元特定に至っていない2010年5月頃。
1970年代の旧ソ連時代に発行された日本向け月刊ジャーナル誌 「 今日のソ連邦 」 での、「ヨウメイマル」 事跡紹介記事の中で掲載されていたものだ。
「ヨウメイマルの乗組員」と紹介されていた。
それが下記の写真である。

DSCN2072

 


















ご覧のとおり、下級船員たちの服は、まるで水兵服である。
それ以外では、船長や航海士など、階級に見合った通常の船員服のようだ。
手前中央には、茅原船長の姿が見える。
ここで不思議に思ったのは、民間貨物船であるはずの陽明丸の下級船員たちが、なぜ水兵服を着ているのか、という点。

一方で、オルガや米国赤十字関係者の資料写真、そして後に見つけた船長手記に掲載された他の写真では、彼らは全て普通の船員服を着ていた。
上記の一枚のみが水兵服らしきものを着用している。
長い間、その理由についての疑問が解けなかった。


このことについて、その後ある時、海事関係の専門家に思い切って訊いてみたことがあった。
戦前の日本で、一体このようなケースは有り得ただろうか、と。
彼の意見では、あくまで水兵服は基本的には軍艦のセーラー、つまり下級の海軍水兵が着用していたもの、とのこと。
なるほど、それはそうだろう。 
ただ、海軍が民間船を輸送任務等で徴用ないしは傭船したことが昔はあった。
その場合は海軍水兵が乗組員として乗り込んだり、本来の乗組員が海軍に丸ごと懲用された例もあり、民間船に水兵服の男たちがいても不思議ではなかったであろう、とのこと。
実際、日清日露の戦争では、多くの商船が輸送任務のために軍に懲用されたことがあった。 
しかし、軍に全く関係がなく、船自体が民間船、船員もただの民間人である場合は、そういうことが有り得たかは聞いたことはない、とのことだった。
要するに、民間船の乗員がその種の軍服のようなものを着ることはまぎらわしく、原則としてあまり考えられない、ということらしい。
それはそうであろう、と納得した。
 

現代でも、例えば海上自衛隊の隊員服に似た制服を民間船の船員が着ることは、お遊びなどの場合を除いて基本的にはありえないし、当時も同じであったと思われる。
だが、現にこのように下級船員一同、海軍兵のような格好で写真に収まっているではないか。
とても、おふざけには見えない。
体にも合っているようだし、実際に彼らに支給されたものであろう。 
この点に関してどう解釈して良いものか、頭をひねった。

だが、筆者の仮説どおり、もし日本の官憲が陽明丸の航海に何らかの関与をしていたとすれば...
このようなシチュエーションは有り得たのではないか、と思えてならない。


第一次世界大戦当時、海外で活動する米国赤十字隊員たちは、軍人とほぼ同様のステータスを付与されていた。
すなわち軍隊階級の付与、赤十字記章入りの軍服などが支給されていた。
例えばトイスラー博士は大佐の階級、アレンは中佐、その他のシベリア救護隊の幹部たちも尉官の階級を与えられていた。
また、危険な任地で活動する場合は、拳銃を携行することもあった。

その関連で解釈すると、米国赤十字の傭船で出航した陽明丸なので、米国式スタイルに合わせて船員にも軍服系の服をあてがったとすれば筋が通るようにも思える。
世界大戦が終結してから間もない時期。
海上の治安は決して良くなかった。
航海中に、例えばモスクワ政府側の艦船など敵性の船舶や海賊等の拿捕・襲撃も有り得たはず。
そういうものに備えるための用心であった可能性も考えてみた。
ただし実際には、わずかの儀礼的な場合を除いて、着用される機会は少なかったことだろう。 


だが、当時の日本と米国には、第一次大戦後の国際秩序を巡る摩擦が起き始めていた頃。
そのような、日米関係が次第に険悪になりつつある時に組まれたのが、陽明丸の特別ミッションである。
船主の勝田汽船も、双方の顔色を見ながらナーヴァスになって当然ではないだろうか。
ゆえに、日本政府、特に軍の承諾なしにこのような水兵服もどきを、米国赤十字が傭船した船の乗組員に着せることを無断でやるとは考えにくい。  
一応、このような推定が成り立つとすれば....
これはやはり軍ないしは政府自体の黙認があってこそ可能であったといえないか。


以上の推量に基づくと、この写真自体も陽明丸大航海への軍の何らかの関与乃至は認知を匂わす証拠といえないか。
また、もしそうであれば、問題のこの人物、Xのステータスと権限から考えれば、十分可能であったとも思われるのだ。






陽明丸の七つの謎(3)

③貨物船陽明丸は急遽大改装されたが、その工事期間はたった1ヶ月余であった。
 担当官庁の許認可があまりにもスムーズに得られたのは何故か


米国赤十字との傭船契約が交わされた貨物船、陽明丸。
急遽大改装、約千人分の船客の収容スペース・設備等を無理やり設け、 臨時の「改造客船」 に仕立てられた。
いわば、超大型トラックを無理やり改装し、荷台にいろいろな構造物をくっつけて、臨時の大掛かりなキャンピングカーに仕立て上げたようなものだ。

現代ではこのような突貫工事の改装自体を管轄の監督官庁(国土交通省海事局)が簡単に認可するとは思えない。
それどころか、そういう申請をするだけでも、目を剥いて却下されるのが落ちであろう。
この一ヶ月余という期間については、米国側の記録にも残っているので、間違いない事実。
その事自体、我々は何気なく看過しがちであるが、これも考えてみれば不思議なことではないだろうか。
 
アレンたちにとっても、貨物船を急遽「客船もどき」に大改装するようなことは 「 むちゃくちゃ 」 であることは、十分認識していたことだろう。
しかし、刻々と危機が迫るウラジオストクから一日でも早く脱出しようと焦っていた。
背に腹は変えられない。

だが、たとえ突貫工事で物理的には改装を終えたにしても、通常では担当官庁(当時は逓信省管船局)から安々と許認可が得られたとは考えにくい。
単に船の総トン数が増加する だけでなく、多数の船客を運ぶのだから、臨時の船室・設備など構造上の安全性チェックも必要であろうからだ。
船会社が、改装後のこれらの項目の変更登記を申請し、当局がそれを承認し、登記がなされるという手順が必要であったと思われる。 

いくら大正の昔であっても、法治国家としての官僚統治機構は既に完成していた。
ゆえに、法に規定された手続きを省いて勝手に船出することは違法であったはず。
自動車の改装も船舶の改装も、基本的には関係法規に基づく届出・許認可が必要であることは、今も昔も変わらない。
否、当時はむしろ現代よりも役人の権威、命令は絶対であった時代だ。
手続きの簡素化とスピーディさが進んでいる現代よりも、かえって厳しかったと見るのが自然だろう。
これらのことは、念のために海事関係の 専門家にも意見を聞き、確認を取った。
では、どうしてそのようにスムーズに事を運ぶことが可能であったのか?

筆者としては、当該関係官庁にこの無茶な突貫工事を黙認させ、速やかに許認可を与えるよう、何者かが圧力をかけたからとしか思えない。
では、国家の官僚機構にその種のことを押しつけるほどの力のある、特別な存在というのは一体何であったのか?

これも、筆者の当て推量だが、戦前の日本帝国にあって、ある種の超法規的存在でありえたのは、二つのみ。
皇室か軍部である。
だが、皇室が絡んだ事柄では到底ありえず、そうすると消去法で軍部ということになる。
大正期の日本の軍部は、後の昭和の軍部ほどワンマンでもオールマイティでもなかった。
それでも帝国陸海軍は天皇の直接の統帥権の下、行政最高機関であった内閣からも半独立的な存在として隠然たる権威があった。

ましてや、当時の我が国はシベリア東部に数万という兵を送り込み、大々的な軍事作戦を行っていた頃。
特に、最前線で強力な敵と日夜対峙していたシベリア派遣軍の発言は誰しも無視し得なかったと見る。
もし彼らが東京の陸軍省を通じて、「帝国の命運にかかわる軍事的事案であるから、貴官の協力を求める」 と官僚に圧力をかけたとしよう。
その場合、文官である役人どもが拒むことは困難ではなかったか。

ちなみに、この人物Xはそれに加えて、陸軍省や参謀本部、憲兵隊の上層部にも朋友がいたこともわかっている。
ゆえに、これら強面の連中を通じて、必要な命令を関係部署の官僚たちに下すことは十分可能であったと見ている。

陽明丸の七つの謎(2)

②なぜ、あのように都合良く、絶妙なタイミングで陽明丸が確保できたのか?、という謎。

何しろ、シベリア救護隊のアレン隊長は、ウラジオストクに出入りする多くの舶会社に傭船を依頼し続けた。
だが、かたっぱしから断られた。
傭船料に見合わない、あまりにも難しい仕事である上に、リズクが途方もなく大きかったから、としか言えない。
政治的な理由であろうが、「親方星条旗」 米国政府さえも手を差しのべることはなかった。
白系露人の会社にも頼んだが、「積み荷」がペトログラードの子供たちと知ると拒否。
「彼らが赤色政府に戻れば、いずれは兵士となって我々に立ち向かってくるだろう。」
なるほど、ごもっともである

頼りにしていた米国のシベリア派遣軍は完全撤兵していた。
ウラジオストクには、米国人の彼から見れば好ましからざる存在、日本軍しか駐留していなかった。
米国側記録による、当時の八方ふさがりのアレンの心境。
彼は、「二種類の敵(ロシア赤軍、日本のシベリア派遣軍)に二重に包囲されたような焦燥感に苛まれていた」 らしい。
そこに突然もたらされたのが日本船、陽明丸確保の朗報である。
そのあたりが如何にも唐突である。
いや、唐突過ぎないか。

一応、東京に帰っていたシベリア救護隊の上司、トイスラー博士が斡旋して確保したということになっている。
だが、どうもそれでは話が出来すぎていないか。
また、不思議なことに、アレン自身、そのあたりの事情は特に語っていないようだ。
だが、何しろ、「二種類の敵」の一方の国、日本からやってきた船なのだ。
あまり、「当たり前」に思ってほしくない、というのが筆者の本音である。
その辺が妙にひっかかった。
アレンがむしろ意図的に沈黙しているように思えてならない。


筆者が考える、彼の沈黙の理由。
それは、アレンにとっても妥協できる何らかの調整がなされたからだ、と見る。
敢えて言えば、水面下での彼我の利害の一致が得られたとみるのが、自然ではないだろうか。
アレンのシベリア救護隊と日本のシベリア派遣軍との間で。
つまり、日本のシベリア派遣軍は、内々ではアレンや児童難民にウラジオを一刻も早く立ち去ってほしい、という内部事情があった、と見る。
そのために裏工作を行い、「助け舟」を出してやった、ということではなかったか。

この場合も、Xはそのような裏工作に関与できる立場にいた。
ゆえに、彼ならそれも十分可能であったはずである。

陽明丸の七つの謎(1)


さて、2009年当初はまず到底不可能と思われた、カヤハラ船長の特定に関する調査。
天祐を得て、どうやら達成することができた。
この大航海の成功は、主として日米四人の男たち(ルドルフ・B・トイスラー博士、ライリー・H・アレン隊長、茅原基治船長、勝田銀次郎船主)、彼らが連携して成し遂げたものだ。
しかしながら、このような総括の一端を示しても、ありふれた国際美談のひとつとしか捉えられないかもしれない。

ところが、当初よりこの事蹟を追ってきた筆者の見解では、これらの背景には、さらに興味深い事実があったと考えている。
そして、この事蹟のシナリオを描き、その最終到達まで水面下でコントロールしたと思われる、或る人物の存在が浮かび上がった。

以下にその論拠を述べてみよう。


筆者がこの人物(便宜上、Xと呼ぶことにしよう)の存在に行きあたったのは2011年秋。
五年も前の話だ。
ようやくカヤハラ船長の氏素性が明らかとなった頃。
その茅原基治及び勝田銀次郎の周辺の様々な人間関係を探っていた時である


陽明丸の事蹟の経緯を注意深く検討すると、幾つかの素朴な疑問が湧いてきた。
その要点を列記すると、次のように七点となる。
これらの疑問を解こうとした。
すると、どうしてもその背後に、作為的な、しかも大きな力が働いているとしか思えない。
仮に、それを一つの方程式にするとしよう。
その方程式にキーとなる変数をこの人物、Xに当てはめてみた。
そうすると、謎の大方が氷解するように思えてならない。



①この事蹟に関する日本側の記録類は船長手記以外は何も残っていない。
これは不自然さを通り越して、むしろ奇妙ではないか? 

船長手記を除いて、公式・非公式、或いは官庁・民間を問わず、この事跡に係わる何らかの記録、報道記事というものがゼロに等しいほど残されていない。
これは不自然ではないか。

なぜなら、ほぼ同時期に、非常に似通った事件が同じ東シベリアで起きている。
あまりにも似ているので、陽明丸の事績と混同される向きもあるくらいだ。
それは、日本による「シベリアのポーランド難民孤児救出」の事蹟である。

シベリアで困窮し、生命の危機にあった多数のポーランド難民孤児。
彼らの保護要請を受けた日本政府が、日本赤十字や軍を動員し、救出活動を行った事蹟だ。
ウラジオストクから、彼らを乗せた軍調達の船がまず敦賀まで運んだ。
国内で手厚い医療救護を施した後に、さらに故国ポーランドまで遠路を送り届けたものだ。
この時は、日本の政府・軍当局は情報を包み隠さず、当初から全部公開している。
むしろ、国威発揚のためであろうが、鳴り物入りで宣伝していたふしがある。
ゆえに、記録もしかりであるが、出来事の痕跡が各所でしっかりと残されている。
 
これとは全く正反対なのが、陽明丸の事蹟である。
米露二ヶ国でのみ、若干の記録が残されているだけ。
その一方で、日本側はどうか。
まるで、あたかも 「 あのような事件は始めから無かった、存在しなかった。」
と云うような感覚を自然に持たされてしまっているのだ。
そのまま、大正から現代まで一気に時が流れてしまったような。

これが、もし作為的な力が働いた結果とすれば、何者かによるある種の情報操作ということになる。
より具体的な表現で云うと、報道規制や箝口令(かんこうれい)である。
さらに関係者への一切の記録不可の指令ということになる。
では、誰が何のためにそういう面倒なことを行う必要があり、実際に行なったというのだろうか?


戦前の日本帝国は、世界有数の強力な官僚統治機構。
これらのことが可能であった唯一の存在は官、つまり国家権力のみと考えるしかない。
つまり、唯一考えられること。
それは、あの陽明丸の事跡には何らかの形で、何らかの事情により、官つまり日本の国家権力が関与していた可能性である。
しかも、秘密裡に、ということになる。
だとすれば、上記の疑問に対して、納得できる解答にならないだろうか。

この人物、Xは当時の国家権力に連なる位置にいたことがわかっている。
彼ならばそのような情報統制、箝口令に関与することは、十分可能であったと思われる。




陽明丸の四人の男たち    勝田銀次郎

20111022 001


























勝田銀次郎 (神戸市長時代 昭和10年代)


大航海を行った陽明丸の船主であった勝田銀次郎。
また、陽明丸を改造客船にするために、数万円(現代の貨幣価値で数千万円)分の材料を気前よく寄贈したことも、茅原船長の手記で記されている。


彼の人生は、心を打つ様々な魅力的なエピソードで彩られている。
今日まで伝わるこれらのエピソードを整理してみると、彼の実に非凡な資質とキャラクターが浮かび上がってくるのだ。
勝田の人生は大ざっぱに言うと、前後期の二期に区切ることができる。

前期は、青雲の志を抱いて郷里松山を飛び出し、東京で苦学の後に関西で貿易業の仕事に就いた時から始まる。
彼の青春期であった明治期前半は文明開化の波が最も急激に押し寄せていた頃で、殖産興業や富国強兵が国家の至上命題であった。
いわゆる疾風怒涛の時代であった。
それまで理不尽な封建制度で縛られてきた人々は、明治維新でいっきに桎梏から解き放され、自由人となった。
才能に溢れ、覇気のある若者は中央地方の在を問わず、青雲の志を抱いて、立身の道をまっしぐらに目ざした。
世はまさに司馬遼太郎の謂う、「坂の上の雲」の時代。
そして、奇しくも勝田はその主人公の秋山真之や正岡子規と同じく、愛媛松山出身であった。
さらに言うと、彼らと同じく、当時の県立松山中学校を卒業しており、数年の後輩にあたる。
ここにも何か運命的なものを感じる。


勝田銀次郎は明治六年、愛媛松山に生を受けた。
明治二十四年、地元の松山中学を出た勝田は19歳。
当時の青年の夢をかきたてた未開拓地、北海道に憧れ、四国から決然と向かった。
だが、その汽車の中で、青山学院の前身、東京英和学校の本田庸一校長と偶然席が隣り合わせた。
これが運命的な出遭いとなった。
そして、人格者として知られた本田校長から、おそらくその天性の資質を一目で見抜かれたのだろう。
彼の学校で学ぶことを熱心に勧められた。
勝田青年は躊躇することなく、これに応じた。
東京の同校予備学部に進み、苦学に励んだ。

筆者の意見では、この東京英和学校に入学したことは、彼のその後の人格形成に決定的な影響を与える重要な出発点であった。
つまり、同校はキリスト教系の学校だが、敬虔な信仰教育とともに、合理主義的精神が教育理念にあった。
良き意味での英米流の功利主義が謂う、「最大多数の最大幸福」(ベンサム)の実現を目ざすこと。
それは、神の教えそのものであり、また国家国民にも奉仕するという概念を、勝田は学びとったに違いない。
そして、そこから得た欧米流の合理主義に則った精神的基軸が、勝田のその後の人生に一貫しているような気がしてならない。
晩年の彼は不遇であり、老いのうちの病を得て亡くなった。
それでも、この基軸だけは決してぶれることはなかったと確信する。


同校予備学部を終了の後、勝田青年は大阪、神戸で貿易業の商店に入り、実務を身につけた。
当時の貿易業や海運業は一種のギャンブルのように投機的、冒険的な一面があった。
そして、日露戦争、さらに第一次世界大戦の特需の波に乗り、勝田は海運業で大勝負を挑み、短期間で空前の成功をおさめた。
しかし、この絶頂期はそれほど長く続かなかった。
大戦は終結し、それまでの好景気は潮が引くように去り、海運業は戦後不況に見舞われた。
何事にも前向きな勝田の積極投資は裏目に出て経営は失敗し、やがて大方の財を失ってしまった。

だが、その高潔な人柄、ぬきんでた能力によって神戸市長に推され、彼の愛する港町のために第二の人生を歩み出した。
これが、勝田の後半の人生である。
二期八年間市長職にあって獅子奮迅し、歴代でも有数の名市長として市史に足跡を残した。
ただし執筆者の見解では、これら彼が辿った人生航路も、全て青山学院時代に培われた精神に基づいていたと考えるのだ。


当時の人々の追想では、企業家時代の勝田は大儲けした時でも、また大損をしたときもさほど変わらず、常に泰然としていたといわれる。
彼にとっては金銭というのは、文字通り天下の回り物であり、それ以上でも以下でもなかったのだろう。
むやみに溜め込む対象ではなく、己の信念にかなった理由のために使ってこそ価値がある、と考えていたようだ。
わが身にやってきた時には、できるだけ綺麗に使った。
損をして失なえば、それはそれで金を必要とする別の所に行ったまで、という合理主義的、諦念的な金銭観に徹していたようだ。
企業家時代の勝田には、金銭にまつわる、いかにも彼らしい清爽なエピソードがいくつも残されている。
穿ちすぎかもしれないが、これは彼特有の倫理観のみならず、一種の美学でもあったのでは、と思う。


勝田の性格は、俊敏且つ短気であった、というのが定評である。
侠客の親分のように、ある種の毅然とした潔さがあった。
恵まれない社会的弱者や災害にあった者たちには、常に慈父のように暖かい目を注いだ。
機会があるごとに、惜しまず援助の手を差し伸べた。
教育事業や国民のための社会事業には、巨額の寄付もいとわなかった。


また、これも青山学院時代に培われたものと確信するが、勝田は一貫して国際主義、平和主義を信奉した。
国際連盟の神戸支部長も務めたが、国籍の異なる多くの人々が仲良く暮らす国際都市神戸の指導者にいかにもふさわしいポストであった。
市長時代、昭和10年に落成した市内の回教寺院の落成式にも駆けつけ、心を打つ祝辞も述べている。

一方で、勝田もやはり明治人であり、近代国家日本が強力な軍隊を持つことを当然なことと考えていた。
だが、それと同時に国境を越えたフェアな海運貿易活動により、世界の人々が同等に恩恵を受ける平和な国際社会の実現を理想とみなした。
彼が国際的なスケールで活躍し、大成功をおさめた海運業であったが、それは同時に平和な国際社会のあるべき姿として、彼の強い信念に基づく実践でもあったものだろう。
国同士が軍艦や軍隊で血を流し争うのではなく、平和な経済活動を通じて、ともに手を携えようという国際協調主義、平和主義。
それらを常に勝田は念頭に置いていたはずだ。


ところで、或る評伝の中では、勝田は神戸市議会議長時代の1921年10月に欧米に向けて長期の視察旅行を行っていることが、さりげなく述べられている。
だが、筆者が驚愕したのは、その視察期間は何と6ヶ月間に及んでいることだ。
今日では、大きな海運会社の経営者であり、大都市の市議会議長でもあった重要人物が、半年間という長期にわたって海外視察をするということは普通は考えにくい。
ゆえにそれを決行した勝田の思い切った行動に思わず目を見張ったのだ。
名目は欧米の海運業、都市計画等の現地視察であるが、視察というよりはむしろ滞在留学に近い印象を受ける。
だが、欧米流の合理主義を精神的基軸にしていた勝田ならば、その本場を訪れ、徹底的に学びとって今後の市政に生かしたいという決意の現れとも考えられる。






































勝田が神戸市長を辞めたのは、昭和16年12月下旬。
つまり、日本に破滅をもたらせた太平洋戦争が開始してから、直後のことであった。
一応は任期途中の辞職ではなく、任期終了とたまたま同時期であったという見方がある。
だが、筆者としては、これは明らかに彼が戦争の先行きを悲観して、政府に強い抗議の意味を込めての辞職であったと見る。
そのわずか数年後、彼がこよなく愛した第二の故郷、神戸は米軍の空襲で徹底的に破壊された。
また、軍に強制的に徴用された民間船舶もその多方が戦争中沈められ、海の藻屑となった。
全国の無数の海員たちの尊い生命が失われた。
これらは全て、勝田にとっては、耐え難い深い悲しみであったことだろう。
そして、このような理不尽で、無謀な戦争を引き起こした国家指導者には心底憤ったことだろう。


戦後の勝田は連合軍の不当な公職追放にも耐え、ささやかな隠遁生活に入っていた。
だが、長年連れ添った老妻に先立たれて気落し、本人の病も重なり、昭和24年12月、ついに帰らぬ人となった。
享年79歳。
戒名は興源院正覚積善得山大居士。
如何にも彼の優れた人徳と功績が要約されており、万人が納得するものであろう。
翌年、名市長であった勝田銀次郎の神戸市民葬が盛大に行われた。
そこには、彼の高邁な人柄を偲んで駆けつけてきた多くの市民たちの姿があった、という。


陽明丸の事跡であるが、勝田のこのような公平無私で慈父のような暖かい人柄、且つ真の国際平和を願った彼ゆえに実現したことを、決して忘れるべきではない。
発見された茅原船長の手記の巻頭に掲げられていた一行書、「敬天愛人」。
これこそが、この事跡に共に深く関わった勝田と茅原、二人の暗黙のキーワードではなかったか。



陽明丸の四人の男たち    ルドルフ・B・トイスラー


トイスラー博士


























シベリア救護隊の隊長時代、軍服姿のトイスラー博士


さて、もしシベリアに出兵した日本軍と米軍との違いについて想起するならば、イソップ寓話の「北風と太陽」が当てはまりそうだ。
誰でも知っている話ではあるが、要するに北風と太陽の力比べである。
彼らの勝負を決める対象となったのは、独り、野を歩む旅人。
まず、最初に挑んだのは北風。
力まかせに冷たい風を吹きつけて旅人の上着を脱がせようとした。
だが、旅人は逆に抵抗して、ますます上着をしっかりと押さえ込んだので、北風の努力は徒労に終わった。
次に挑んだのは太陽。
ポカポカと暖かい陽光で包み込んだので、旅人は暑くなり、思わず上着を脱いでしまった。
太陽の勝負勝ちであった。

古今東西、この有名な話の寓意に当てはまる事象は、数限りなくあったのであろう。
ここでは、相対する他者を攻略するには、力任せにかかるのではなく、暖かく包み込むことを推奨している。
つまり、相手に敵愾心を放棄させ、心服させるのが一番の近道という、経験則から導かれた古代人の智恵であろう。
ここで、それぞれに当てはめるならば、旅人はロシア民衆、そして北風は日本軍、太陽は米軍であった、と言えようか。


大正7年8月、シベリア出兵でウラジオストクに上陸した日本軍は、各国の派遣軍の中でも、断トツに目立つ存在であった。
最大動員時には7万人を超える大兵力、しかも各国派遣軍では最強の軍隊であった。
米軍は約7000人と、日本軍に次ぐ大きな兵力であった。
だが、米軍がシベリアでパルチザン討伐など、積極的な戦闘行動に加わった形跡はまず見当たらない。
当時の米国政府の方針、つまり出兵目的はあくまで孤立していたチェコ軍団兵の救出であった。
次いで、ウラジオストクに集積された連合国軍の多量の軍需物資がモスクワ政府を通して敵国側に渡らないための警備任務であった。
つまり当初から、過激派軍との積極的な軍事上の対決は受命されておらず、視野に入れていなかったのだ。


米国は、英仏両国が特に強く後押していたコルチャーク提督の白軍オムスク政府(「全ロシア臨時政府」)を一応は支援していた。
だが、英仏は白軍支援を通じて、モスクワ政府の打倒と対ドイツ東部戦線の再構築を目ざしていた。
また日本はバイカル湖以東、東シベリア方面での、自らの勢力圏確保しか眼中になかった。
これらとは同床異夢であった米国は いわば「ハト派」を自認して、明らかに一線を画していた。


それでは、シベリア民衆の日米両軍への好感度はどうであったか。
強面で精強、武断的行動に専念していた日本軍は恐れられ、一方の米軍は持ち前の陽気さと気前の良さで大人気であった。
米軍兵士は特に若いロシア女性の憧れの的であり、石もて追われるごとくシベリアから撤退した日本軍とは対照的であった。
米軍撤退時のウラジオストク港は別れを惜しむ人々で溢れかえっていた。

これら両者の相違は何であったのだろう。
まず日本軍は過激派軍を掃討し、進撃して確保した占領地域に付随するシベリア鉄道の保安警備などを主眼に置いていた。
そして、米軍は兵力数の関係もあって、主要な拠点警備を行ったに過ぎず、それよりも鉄道自体の維持管理や住民の宣撫工作を重視していたことにも反映されている。
この相違は際立っていたもので、いわば現代の中東での戦争で派遣された米軍と自衛隊の違いと似ているかもしれない。
つまり、前者は主として戦闘行動に従事し、後者は主として人道復興支援など民生向上に関わったことだ。
まことに皮肉なことだが、シベリア出兵においては、日米二ヶ国の軍隊はそれぞれ現代とはまったく逆の行動に出たわけである。


このような状況下で、米軍の現地作戦行動の一環として、医療・民生方面を受け持ったのが、トイスラー博士の率いた米国赤十字シベリア救護隊であった。
彼ら救護隊は、形式的には米軍の管轄下にあって、基本的な任務はチェコ軍団兵や白系軍人、そして米国派遣軍兵士の戦時医療に当たることであった。
だが、トイスラー博士の精力的な活動は、決してそのような狭い枠に自らを限定しなかった。
シベリア救護隊は、敵味方、軍・民を問わず、救援や緊急医療を必要としていた者たちに、分け隔てなく手を差し伸べた。
活動地域も、比較的安全なウラジオストク近辺だけではなく、パルチザン出没による身の危険も顧みず、東部シベリアの各都市にまで拡げていった。

彼らの活動の最盛期には遥か遠く、ウラルに近い白軍コルチャーク政府首都オムスクにまで手を拡げていた。
ロシア人現地雇員を含めたシベリア救護隊の人員は、多いときで約1000人を数えた。
各都市に臨時の病院を開設し、また腸チフスなど当時シベリアの恐るべき伝染病の防疫にも最大限の力を尽くした。
活動領域についても、医療分野だけではなく、初等教育や職業訓練など民生全般にまで拡げていた。
中核となる米国人スタッフは、その多くがライリー・アレンのように強い使命感を持ったボランティアであった。
彼らは、赤十字の人道主義精神を自ら実践すべく、熱い心を抱いて米国本土やアジア各地からシベリアにやってきた人々であった。

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内戦中のロシア国内で、医療活動に従事していた米国赤十字関係者たち


まことに幸いであったのは、当時の米国は第一次世界大戦の戦時特需で好景気に湧いていたこと。
政府には積極的な平和外交政策のための潤沢な予算があり、懐が豊かになった国民も気前よく多額の寄付してくれた。
その結果、米国赤十字には膨大な資金が集まっていた。
さらに、欧州大戦も終結が間近であったので、欧州向け援助物資の余剰分もウラジオストクに多量に送られていた。
つまり、当時の米国赤十字の国際人道救援活動には、ふんだんに使える「人」と「金」と「物」が揃っていたのである。
一方で、無理をして決行したシベリア出兵の財政負担にあえいでいた貧乏な日本帝国とは、まさに雲泥の差があった。


800人の児童難民の救出と、陽明丸による大航海は、これらの時代背景が重なって実現したものである。
しかしながら、これら米国が全面的にバックアップした広範な人道支援活動であったが、トイスラー博士の傑出した人柄と情熱抜きでは決して語られるべきではない。
そして、博士の国際人道主義の精神は後任の救護隊隊長となったアレンへと引き継がれた。
彼ら二人の連携によって、博士のシベリアでの壮大な国際人道主義の事業は、その締めくくりとして陽明丸の大航海で完結されたのである。


ルドルフ・ボリング・トイスラー(Rudolf Bolling Teusler)博士は1876年(明治9年)に米国ジョージア州ローム市で生を受けた。
名前がドイツ風であることからわかるように、父親は元々ドイツのプロイセン出身であり、科学者の家系の出であった。
父親は青年期に渡米し、後にバージニア州の医者の娘と結婚し、ついには米国に帰化した人物である。
その独り息子として、ルドルフは生を受け、バージニア州立医科大学を卒業後、医学者としての人生をスタートさせた。
ちなみに、彼の従姉妹の一人は後にウィルソン大統領の夫人となり、彼らの縁戚関係はトイスラー博士の後年の業績と深い係わりがあったと推察される。

やがて、トイスラー博士は妻の親族が米国聖公会の宣教医師であった縁により、日本での病院開設を思い立ち、1900年(明治33年)に妻を伴って来日した。
ほどなく東京築地で聖路加病院(後に「聖路加国際病院」と改称)を開設し、米国大使館などのバックアップも得て、米国の先進的医療の日本国内での普及に尽力し始めた。
彼の顕著な功績のひとつは、日本国内ではそれまで社会的地位が低かった看護婦という職業を、医者を補助する看護医療エキスパートとして養成するべく、その専門教育に力を入れたことである。

米国流に教育されたこれらプロフェッショナルな看護婦たちは、その後の聖路加国際病院の先進的看護医療の担い手となり、シベリア出兵の際にも現地でのトイスラーの初期の医療活動を支えた。
博士がその基礎を作った、この優れて先進的な実践医学の伝統は現代にまで引き継がれている。
オウム真理教の「地下鉄サリン事件」での多数の被害者の緊急治療も、いかなる異常事態にも即応体制が整っていた同病院で行われたこともよく知られている。

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日本で発行されたトイスラー博士の伝記「聖路加国際病院創設者 トイスラー小伝」より
中村徳吉 著 昭和43年初版発行。
(筆者蔵)


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米国で発行されたトイスラー博士の伝記「Dr. Rudolf Bolling Teusler   AN ADVENTURE IN CHRISTIANITY」より
Howard Chandler Robbins 及び George K. MacNaught 著 昭和16年発行。
(筆者蔵)




トイスラー博士は、1934年(昭和9年)にそのきわめて非凡な業績と高邁な人柄を惜しまれつつ他界した。
享年58歳。
その生涯は、凡人ではおよそあり得ないほどの、極めて密度の濃いものであった。
今日の尺度では若死であろう博士の人生であったが、その強い倫理観とともに発揮された驚異的な精神力と行動力は今なお人を魅了してやまない。


そして「太陽」、つまりシベリア出兵の際の米国の行動であるが、過激派とは極力武力衝突をせず、宥和の姿勢を維持した。
その方針に沿って、トイスラー博士の活動が象徴するように、シベリアの民生福祉に膨大な資金と援助物資、そしてマンパワーをつぎ込んだ。
ただし、これらの活動はあくまで、各国派遣軍が支援した白軍側のテリトリーでのみ可能であった。
ゆえに、白軍の牙城、コルチャーク政権の首都オムスクが赤軍の総攻撃で陥落し、総崩れとなってからは米国赤十字隊員たちも東へ東へと避難しなければならなかった。
彼らがせっかく開設した多くの病院や諸施設も、追撃してきた赤軍、つまりモスクワ政府側に大方が接収されたことであろう。
そして結局は、米国シベリア救護隊の奮励努力は壮大な徒労、無駄ではなかったか、という見方があるかもしれない。


だが、筆者は、これらは徒労でも無駄であったとも、決して思わない。
彼らが残していったものは、軍事施設や兵器など人を殺傷するものではない。
病院や教育施設などは人を癒し、人を活かし、人を育てるものである。
だから、いずれ内戦が去り、ロシアがそれなりに平和になれば、必ず住民の役に立つものであった。
そして、米国赤十字の献身的な世話になった人々は、米国への恩義、米国人との友誼の記憶を世代を超えて、ひそかに伝えていったことだろう。
丁度、陽明丸に救われた子供たちがそうであったように。
トイスラー博士の率いたシベリア救護隊の功績は、その意味で決して歴史に埋もれることはない。
国際連帯と人道主義を象徴する不滅のモニュメントとして、シベリア住民の意識の基層でいつまでも光芒を放ち続けることであろう。

トイスラー博士の遺骨は、聖路加国際病院の礼拝堂に安置されている。
彼が手塩にかけて育てた病院の発展を静かに見守っておられるはずだ。







陽明丸の四人の男たち    茅原基治


茅原船長



























陽明丸航海中の茅原基治船長







Yomei maru in the Baltic Sea












航海中の陽明丸




茅原基治の本事蹟に係わった経緯については、これまで述べてきた通りだ。
ただ、どうしても強調しておきたいことがある。
それは、筆者の精査が進むにつれて感じること。
やはり、彼が陽明丸船長として選ばれたことが、如何に理にかなっていたか、ということだ。
言い換えれば、この事蹟における彼の役割は まさに「運命的な」 ものであった。
そのような表現しか、言い得ない。

彼以外の誰が船長であっても、あの大航海は途中のどこかで挫折していたであろう。
外洋航路の船長としての高い能力、経験。
そして、何よりもその際立って優れた「人間力」がなければ、あの破天荒な航海は決して成立し得なかった、と確信する。
 

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この写真は、陽明丸事蹟を報道する新聞などでよく掲載されているもの。
ただ、下方のロシア語の走り書き文字に気を留める方は少ないであろう。
これは、『「ハロー! 自由ソヴィエト・ロシア社会主義プロレタリア共和国の子供たち!
ソヴィエト・ロシアの児童集団 ニューヨーク 1920年8月28日』という意味である。これを書いた人物については不明。
プロパガンダめいているが、揶揄か真面目なのかも、現在不明。
ただ、当時ニューヨークに到達した子供たちと赤色ロシアの結びつきが、強く意識されていたことを示すものであろう。

各国の治安当局からすれば、間違いなく思想的には要注意の御一行様であった。
それゆえであろう、彼らがあれほど歓迎攻めにあった米国でも, 一方では連邦司法省・治安対策部(後のFBI、連邦捜査局の前身)の私服捜査官たちが児童らの動向を監視していた。
ロシア系市民からの贈り物の類は、中身を全部検閲しようとした。
彼らが子供たちに寄贈したトルストイ、ドストエフスキーなど古典文学全集も何故か押収されて焼却されている。

また、陽明丸は室蘭にも途中寄港した。
この折りの水上警察当局の対応だが、彼らの上陸についても当初は難渋した様子が船長手記にも記されている。
結局、ロシア人であっても罪のない児童であり、且つ茅原船長が個人保証したことで許可された。
だが、治安上の警戒本能が働いたことは間違いない。


児童たちも、決して唯々諾々と米国赤十字に従っていたのではない。
彼らなりの判断による自己主張は絶対曲げなかった。
さすがに、その意味では、「革命の聖地」 ペトログラードの子供たちであった。
船長はそれなりに思想上の理解をしていないと、状況把握ができないし、下手をすれば衝突する恐れが多分にあった。
茅原船長は叩き上げの水夫上がり、苦学して船長になった苦労人である。
平船員など底辺の人々のマインドをよく掌握しており、彼らからの強い人望があった。
欧米発祥であろう「新思潮」についての月刊誌を購読しており、トレンディな社会思想には見識を備えていた。
その中には、おそらくマルクス主義のことも含まれていたことだろう。

ちなみに、船長自身も後年、無産政党 「社会民衆党」の熱心な活動家として、革新的な政治運動にも関与していたことが、我々の調査でわかっている。
ゆえに、航海中に起きたさまざまな思想文化の相違による衝突の意味も、よく理解していたに違いない。
つまり、「積み荷」の連中の思想上の扱い方について、彼には斟酌できる素地があった、ということだ。
逆に、商船学校出の凡庸なエリート船長では、状況を把握できず、対応を誤まる恐れが大であった、と思われる。

鞄















茅原船長の愛用鞄
大航海の折りも、持参していたはずだ。
茅原好子氏所蔵 人道の船 陽明丸顕彰館寄託展示


もう一つの厄介な問題は、傭船者であった米国人たちの扱いであった。
陽明丸が航海した1920年頃は日米関係が急速に冷え込み始めた時期。
日清、日露、第一次大戦と対外戦争を勝ち進み、アジアで頭角を顕してきた日本帝国を、米国は仮想敵として強く意識し出した。
極東・太平洋地域の利権を巡り、どうしても日米の利害が相反する事態が急速に増え始めた。
米国内でも急増する日本移民が現地の労働者の生活水準を圧迫し、大いに反感を招いていた。
これは数年後の1924年に「排日移民法」となって立法化され、米国の反日姿勢はさらに強まっていった。

これらの背景により醸成された反日的空気は、当然ながら普通の米国市民にも共有された。
つまり、陽明丸に乗り込んだ米国赤十字の連中も、当然ながら厳しいフィルターを通した目で船長以下、乗組員を見ていたのである。
彼らにすれば、できれば日本以外の船を調達したかったのだが、既に述べた理由で、どうしても陽明丸しか確保できなかった。
おそらく、その事も彼ら米国人としてのプライド上、気に食わなかったのだろう。

実際に、サンフランシスコからニューヨークに向かう船中でも、日露の若者同士の喧嘩が発端で、その処置を巡り日米双方で揉めたこともあった。
不運なことに、アレンは所用でサンフランシスコで下船していて不在であった。
憤った米国赤十字の副隊長は日本側に、臨時寄港して米国の武装官憲を呼ぶぞ、と詰め寄ったのだ。
これも結局、それ以上事を荒げることを懸念した船長が譲歩して謝罪、どうにか大ごとにはならなかった。
ここで船長が、溜まり溜まった鬱憤で 「ブチギレ」て いたら、その後の陽明丸の航海はなかったであろう。

それだけではない。
米国側の記録や当時の関係者が書き残した手記等には、日本側に関する辛口の記述が散見される。
さすがに、万事に公平なアレンの残したものには見当たらないようだが、彼の片腕として活躍した人々の手記やメモ等からは、残念ながら日本人への一方的な不信感が随所で見られる。

これらは当然ながら、この事蹟の米国サイドの総括に、そのまま反映されているものだ。
日本人には不愉快、不公平と思われる記述が、米国の「正史」 となっていた。
平たく言えば、文字通り、「書かれ放題」 であった。 
そして、これらの偏見が覆ったのは、我々が茅原船長を特定し、彼の手記を見つけて以後のことだ。
実に一世紀近くも、米国では陽明丸の日本人たちは、無実のままに負のイメージを着せられたままであった。


そして、さらに付け加えなければならないのは、茅原船長自身の赤十字活動への深い理解である。
以前に、船長手記の唯一の現品を所蔵する金光図書館の館長から直接お伺いした話に、その鍵があることを実感した。

郷里岡山県の金光中学校を卒業した茅原船長は、律儀にも毎年欠かさず、恩師であった佐藤範雄校長に年賀状を出し続けている。
この佐藤校長は優れた教育者のみならず、戦前の金光教における傑出した指導者の一人でもあった。
そして、明治前期には日本赤十字運動にも共鳴し、赤十字社の地元エリアの指導者にもなっていた。
上記の図書館長のお話によれば、佐藤師は石坂将軍の養父、石坂惟寛とも親交があったらしい。
それは惟寛が地元岡山出身で、中央の名士でもあったことからも頷ける。
おそらくは、佐藤師が赤十字活動に入った契機も、石坂軍医総監からの強い勧めによるものではなかったか。
そうであれば、得心できる話だ。

そして、それは同時に、筆者が唱える仮説、つまり陽明丸事跡における茅原船長と石坂惟寛、そして石坂善次郎の結びつきを補強するものとなる。

結論的に言えば、茅原船長は、思想的にも、赤十字社の活動への理解度においても、並みの船長より遥かに適合性があった、いうことになる。
そして、この点も石坂将軍は重視した。
それが、あの困難極まる大航海を失敗させず成功に導いた一つのポイントであると思うのだ。
 

茅原船長が、恩師であった佐藤師に手記を贈呈した時の手紙の現物を、図書館長から見せていただいた。
文面は当たり障りのないものであったが、これは思想警察が職権で見ることを用心していたからであろう、と推察する。
船長の手記は日米の国家間で緊張が高まりつつあった時期に、執筆されたものだ。
軍部だけでなく国民の間でも対米戦の現実の可能性について、だんだん強く意識され始めていた頃だ。
「 アメリカは日本帝国の邪魔をするけしからん国である! 」 という感情的な反米論が幅をきかせ始めた頃だ。
日本が、あの悲惨な太平洋戦争への坂道を転がり出そうとしていた、丁度その頃だった。 
 
当時の輿論はそのような方向性であった。
ゆえに、船長が手記で著した 「 ロシア子供難民の輸送を米国赤十字と共にやってのけた 」 というテーマを語ることは、今から思えばかなり勇気が要ったはずだ。
なぜなら、過去の出来事とはいえ、これら二つの仮想敵国の国民と関わりを持ったことを、彼自身が述懐したものであるからだ。
彼らをあまり、ポジティブに描きすぎると、当局からあらぬ疑いをかけられる恐れがあった。
そこまで気を遣う必要のある、窮屈な時代であった。

この時に、茅原船長が恩師に最も伝えたかったメッセージ。
それは、「先生にお教えいただいた、赤十字の尊い精神による或る国際人道救助に、私も微力ながら関わりました。
それを是非知っていただきたかったので、この手記を敬愛する先生にお贈りいたします。」 ということではなかったか。
そして、その一冊が、今日ただ一部だけ現存している船長手記なのだ。

現在、米露の識者たちの手で、この手記の露訳、英訳作業が進められている。
まもなく完成の見込みである。
この手記の翻訳版がロシアと米国で読み進まれることで、不当に貶められていた船長以下、陽明丸関係者の名誉回復がさらに進むことは間違いない。
そして、不条理なストレスに耐え忍びながら、大航海を完遂した彼らの貢献の真実が全て明らかになる。
何とも慶ばしいことではないか。


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晩年の茅原船長


ところで、発見された文献では、茅原船長の結婚生活の項では、「 夫人は 35歳 、未だ子なし 」 とある。
現代なら女性人権団体が目を剥くような書き方なので、時代を感じさせて面白い。
残念ながら、昭和に入って以後の彼のことは、今の時点では大方不明で、今後の調査で解明してゆきたい。


船長は、昭和17年8月18日に死去した。
享年は57歳であった。
平均寿命の長い現代からみると、あまりにも早い死であった。
そのあたり、惜しまれて仕方がない。


郷里、笠岡市郊外に自ら立てた生前墓であるが、陽射しがよく手入れが行き届いた敷地に、歴代の一族の墓とともに整然と並んでいる。
船長の名と、リク夫人の名が仲良く刻まれている。

茅 原  基 治       定光院照海基範居士
         リ ク            定真院照圓利楽大姉
「 ペアルック 」 のような、お揃いの素敵な法名である。

人一倍、心優しい船長のこと。
きっと、愛妻家であったに違いないと思うのだ。


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茅原船長夫妻の墓















陽明丸の四人の男たち    ライリー・H・アレン

このように、陽明丸の事蹟は、次から次と起きた歴史的大事件を横糸に、そして時の流れを縦糸として織りなされたものだ。
では次なるは、この事蹟に貢献した日米四人の男たちの列伝である。

これら四人の男たち。
つまりライリー・H・アレン、茅原基治、ルドルフ・B・トイスラー、そして勝田銀次郎に共通するキーワード。
それは何であろうか。
筆者は、それは彼ら四人とも、義侠心に篤い行動派の知識人であったと見る。
では、その義侠心とは何か。
それは、もし苦難にある弱者に遭遇すれば、何とか救ってやりたいという思いであろう。
だが、それは何も特別なことではなく、人間の善なる本能の発露ともいえる。
例えば、誰しも川で溺れている者を見れば、反射的に助けようと思う。
それと同じことだ。


ライリー・H・アレンは1884年(明治17年)の生まれである。
1885年(明治18年)生まれの茅原基治船長より、一歳年長であったことがわかる。

米国赤十字救護隊に志願し、革命と内乱で荒廃の極みにあったシベリアに決然と赴く前は、ハワイの地元紙 「ホノルル・スター・ビュレティン」 で活躍する第一線のジャーナリストであった。
地元では花形編集者として、既に確固たる地歩を築いていた。
抜きんでて優れた資質ゆえに、たとえ一時でも彼を手放すことを、新聞社の経営者は渋った。
だが、アレンはその手を振り切って、はるばる遠いシベリアに決然と旅立った。
1918年11月18日のこと。
ハワイから太平洋の彼方のウラジオストクまで乗船した船は、奇しくも日本船であった。
「シンヨウマル」という船名らしい。


では、ここまで彼を強く動かし、シベリアに向かわせた根本的動機。
それは一体何であったのだろう。

ライリーアレン







陽明丸船上のライリー・アレン


当時、米国は遅ればせだが、開戦三年目の1917年4月、第一次世界大戦に参戦していた。
多くの若者がドイツ・オーストリア中央同盟国軍と戦うべく、勇躍して欧州に出征した。
アレンも、米国市民の一人としての愛国的責務を感じていた。
じっとしてはおられず、何らかの行動に移そうとしていたはずだ。
この当時の男性であれば、軍に身を投じ、まずは戦場で祖国に貢献したいと願うのが普通であった。
だが、米国参戦時の彼の年齢は33歳であったので、もし軍に志願しても年齢的な理由で敬遠されていたことだろう。
そうこうしているうちに、米国参戦翌年の1918年11月、大戦は早くも中央同盟国の降伏で幕切れとなってしまった。

そして、終戦間際にアレンが選択した道。
それは、遠くシベリアでの赤十字活動に広報官として奉仕することであった。
この選択の理由については、アレンは多くを語っていない。
だが、彼のその後の一貫した行動自体が何よりも雄弁に物語っていると言えよう。


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第一次世界大戦中、傷病兵を看護する補助看護婦を募集する米国赤十字のポスター


熟慮の末に、彼が決断したこと。
当時、戦争と革命、それに続く内戦で塗炭の苦しみにあえいでいたロシア民衆、
そして敵味方の区別なく苦しむ傷病兵の救済に尽くしたいと考えたのであろう。

ジャーナリストゆえに、「ペンは剣より強し」という格言どおり、自らの社会的使命は銃を執ることではなく、言論であるという思いも動機であろう。
だが何よりも、民族国籍の違いを超え、戦争の惨禍に苦しむ民衆や兵士に深く同情し、彼らを救うことが先決と考えたのではないだろうか。
いかなる状況であろうと、彼が絶対的に重きを置いたこと。
それは、人間の死ではなく生の側面、つまり人命の尊重であった、ということは明らかだ。

また、彼の人格には他にも極めて敬服すべき美点があった。
如何に権威があろうと他者の目、他者の考えに決して盲従することはなかった。
常に、己れの目で確かめ、己れの頭で物事を判断することに努めた。
この点は、彼の行動倫理に終始一貫していたと確信する。
客観的な事実が全てと考える、優れた報道人の倫理的姿勢に基づくものであろう。
また、それは同時に、人それぞれ個々に、厳粛に神と向き合う西洋倫理学の最も際立った側面をも想起させるものだ。
世間に極力逆らわず、とかく付和雷同しがちなムラ社会の住民、我々日本人には最も欠けている資質である。


この彼の美点が、最も発揮された出来事は二つに絞られよう。
その一つが、八百人のロシア児童を決して見捨てずに、ウラジオストクから陽明丸で脱出させた功績。
救援船の調達については、「親方星条旗」を含めて、どこからも支援が得られず、責任者のアレンは悶々としていた。
米国からの現地派遣軍は既に撤退していた。
その庇護をもはや得られないシベリア救護隊は、本国への撤収を米国赤十字本部から促されていた。
ゆえに、彼らを全て置き去りにして、ソ連側に委ねることもできたし、そうすべきという意見さえあった。
だが、仮にそうしていたら、おそらくは子供たちの半数も故郷に戻ることはできなかったであろう。
今日でも、オルガたち遺族会が最もアレンに恩義を感じていること。
実に、その点に尽きる。
その時の彼の決断が、八百人のロシア人児童の命、そして彼らの多くの子孫たちの生命を左右したと言っても過言ではない。

シベリア救護隊長であったトイスラー博士が、東京の聖路加国際病院の事業発展のために止むなく離任した折に、躊躇なく後事を託したのはアレンであった。
このことからも、彼が如何に博士の信頼を得ていたかは明瞭だ。
そして、彼が見事にその信頼に応えたのも、これまで述べてきたとおりである。
このあたりは、上司と部下、ともに非凡な実行力、統率力を持ち、且つ高い人間性を備えていたと言えよう。
組織経営学上の理想像とも言える名コンビであった。


そして、彼の美点が発揮された二つ目の出来事。
ウラルの児童難民を全て親元に送りとどけて以後の彼は、古巣である「スター・ビュレティン」紙に復帰した。
やがて、20年の月日が流れた。
そして、運命の1941年12月8日が訪れた。
日本海軍連合艦隊の機動部隊がハワイ真珠湾を急襲したのだ。

アレンは頭上に日本海軍機が唸りながら激しく飛び交う最中に、危険も顧みず、歴史的な第一報の号外記事に着手した。
ジャーナリストとしての、この沈着且つ果断な行動も、いかにもアレンらしいと舌を巻かざるを得ない。
そして、嵐のような日本軍の攻撃はようやく去った。
甚大な被害でただ茫然となり、次いでヒステリックに昂じた米国政府や国民は日本に激怒した。
興奮したマスメディアには、蔑称  「ジャップ (JAP)」 の文字が一面に溢れ始めた。
だが、アレンはこの日本人の蔑称を、たとえ憎き敵であっても感情的になって使うべきではない、と自らの新聞での使用を断固として拒み通した。
彼の新聞社の日系の社員さえもが、 「ジャップ」と表記することを求めてきたが、決して許さなかった。

一方の日本では、新聞メディアなどが「鬼畜米英”!」と叫んでいた。
だから、「ジャップ」と書かれても仕方がないか、と思うのだが、アレンの考えは異なっていた。
「好戦的な日本軍国主義」 と、一般国民としての日本人を峻別せず、民族、人種全体をまとめて蔑む表現はフェアではない、ジャーナリズムの品位にかかわると判断したようだ。
彼のこの人種、民族差別反対へのこだわりは、その後も終始一貫していた。
米国内のあらゆる人種マイノリティの市民を擁護する言論により、後年に名誉ある表彰も受けている。

だが、筆者としてはそれに加えて、彼の或る遠い記憶も、そのこだわりの素ではなかったか、と推測する。
つまり、その時一瞬脳裏を横切ったのではあるまいか、と。
且つて日米の固い連携により達成された、陽明丸大航海の思い出が。

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日本軍のハワイ真珠湾攻撃を報じたアレンの歴史的な号外記事。
ジャーナリズ厶史にも登場する、大変有名なものである。


彼の如何なる状況でも、貫き通した冷静沈着さと非凡な行動力。
そして、内なる神と向き合うように自律的な倫理基準を、確固として併せ持っていたこと。
これらに、我々は今なお静かな感動を覚える。
今日あまり見ることはできない、古風なタイプであろう。
昔日の米国にのみ存在していたストイックな内面性、ぶれない良心。
それが、今では残照となりつつある、彼(か)の国の骨太の開拓者魂に裏打ちされていたと言うべきか。


アレンはその後も第一線ジャーナリストとして長く活躍し続けた。
地元ハワイの名士、優れたオピニオンリーダーとして、人々に敬愛され続けた。
そして、1966年、八十二歳の天寿を全うした。
今頃は、満ち足りた安らかな眠りについていることだろう。
彼がこよなく愛した、美しいハワイの何処かの墓地で。

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後年のライリー・H・アレンの写真  「スター・ビュレティン」紙の名編集長時代。
1957年当時。 筆者蔵


今さらながら痛感する。
彼、ライリー・アレンはかくも普遍的な人間的魅力に溢れた好漢であった。
まことに敬服すべき、古き良きアメリカ人であった。



 

航海中の陽明丸あれこれ(8)

ここで一人の人物が登場してくる。

彼の名はウォード ・ ウォーカー。 ( Ward Walker )
米国赤十字シベリア救護隊隊員。
技術部門担当の将校 ( 大尉 ) である。
アレンの信任が厚く、当然ながら幹部隊員として陽明丸の大航海にも最後まで同行している。

ウォーカー大尉は、船長手記で述べられている、陽明丸の米国寄港時に起きた 「 天長節国旗掲揚事件 」 の際、機転を利かせて騒ぎを鎮めてくれた人物。

茅原船長がこのことに好感を持ったせいかわからないが、下の画像のように、手記の中には彼の船内スナップがある。
コメントに 「 ウォーカー大尉と愛猿 」 とあるから、いつもペットの 「 愛猿 」 を連れていたのだろう。

 
image















ここに、米国赤十字の記録が基になっている米国の本の、次の一節がある。

陽明丸を傭船確保できたのは良かったが、それを大至急、客船に改装しなけれなならないという判断の下りである。

There was no time for structural changes in the Yomei Maru, it would have to be makeshift. Allen sent his engineering officer, Ward Walker, to Japan to supervise the refitting of the ship, instructing him to bring her to Vladiostok no later than the first week in June.

大意は、「 陽明丸の構造そのもの改変は時間的に無理だ。
( ゆえに ) 、makeshift の refitting 、つまり間に合わせでもいいから何がしかの改装をしなければならない。
そのために、アレンはその仕事を監督させるために、技術担当将校ウォード ・ ウォーカーを日本に派遣した。
その時に、彼に指示したことは、遅くとも 6月の第一週までには、 (  陽明丸を ) ウラジオストクに回航させてくることである。」

原文の最後の部分が the first week in June となっているが、これは明らかに作家の書き写しミスか、本の誤植である。
いくらなんでも、5月末に確保した貨物船に6月初めまでに改装を終わらせてウラジオまで来させろ、という無茶なことをアレンが申し渡すはずがない。
明らかに、June は July の間違いであろう。
実際、改装を終えて、「 準客船 」 となった陽明丸がようやくウラジオに現れたのは7月9日午後のことであった。


こうして、アレンがウォーカー大尉を因島の陽明丸改装工事の監察に差し向けたのは、当然であろうが適切な処置であったと言えよう。

改装費用を負担する傭船者としての立場はもちろんのこと、「ユーザー側 」 としてのニーズが完全に満たされているかの厳しいチェックはどうしても必要であったろう。
三ヶ月間にわたる大航海での安全性、居住性、快適性など全てが、改装工事の良否にかかっていたのであるから。

ただし、契約にうるさいことでは世界的に定評?のあるアメリカ人である。
彼が工事の監察にやってきた因島の大阪鉄工所としては、たいへんなプレッシャーをかけられたことが容易に想像できる。
ウォーカー大尉と改装工事業者者たち、双方とも一生懸命であっただろうから、時には緊迫して火花が散るようなシーンもあったのではないだろうか。

現代から考えても、このような大掛かりな改装工事で、工期1ヶ月というのは、いくら何でも短すぎるのではないか、というのが我々の感想である。
現代でも、小さな家の改築工事でも1ヶ月以上かかることはごく普通のことだ。

おそらく、文字通り24時間フル労働の突貫工事ではなかっただろうか。
それも、スポンサー兼ユーザー側代理人の米国人が、工事の全てに始終眼を光らせているのだ。
船長の手記には 「 大阪鉄工所因島工場の犠牲的奉仕があった 」 ことが述べられている。
彼は、同社がかなり無理をしてでも突貫工事を行い、またベストを尽くしたこともよく知っていたのだろう。

また、船長は手記で、「勝田汽船社長 勝田銀次郎氏から数萬円の材料の寄付があった」ことも述べている。
当時の数万円は相当の大金であった。
この年、大正9年の教員初任給が大体45円だったから、現代の貨幣価値に換算すると数千万円になろうか。
いかにも男気に富む勝田銀次郎らしい、豪勢なプレゼントだ。


以上のように、陽明丸の大航海は、日米の男たちがきわめて真剣且つスピーディに準備し、信頼関係に基づく固い協力の上に達成されたものである。

航海中の陽明丸あれこれ(7)

アレンたちにとって、この大航海の出港までに、どうしても解決しておかなければならない問題があった。
それは、陽明丸という、ごく普通の貨物船を急遽大改装し、約千人分の船客の収容スペース・設備等を無理やり設け、 「準 ・ 客船」 に仕立てることであった。
いわば、超大型トラックを無理やり改装し、荷台にいろいろな構造物をくっつけて、臨時の大掛かりなキャンピングカーに仕立てるようなものだ。

現代では、まず、こういう発想は考えられないだろう。
何もわざわざそういう面倒なことをせずとも、立派な客船がたくさんあるのだから。
何よりも、そういう発想自体が必要とされる状況が、我々にはなかなか想像しにくい。

だいたい、現代ではこのような改装自体を、管轄の監督官庁が認可するはずがない。
担当官にそういう申請をするだけで、目を剥いて却下されるのが落ちではないだろうか。
このあたりに、当時の時代状況と現代との、歴然たる隔たりがあるということだろう。


とにかく、アレンたちが相当に焦っていたことだけは間違いない。
赤軍勢力がひしひしとウラジオストク方面を取り囲むように、迫っていたためだ。
日本軍も殺気だっている。
いっぽう、母国アメリカ政府をはじめ、ありとあらゆる方面に配船を頼んだのだが、どこからも、にべもなく断ってきた。  
だが、幸いなことに、東京のトイスラー博士を通じて、陽明丸の傭船をゲットできた。
アレンたちにしても、貨物船を急遽客船に大改装するようなことは 「 むちゃくちゃ 」 であることは、十分認識していたことだろう。
そのために、大変な不安を抱えていたことは間違いないであろう。

だが、背に腹は代えられないのだ。
一日でも早く、子供たちを連れて洋上に逃れなければならない。
それが、至上命題であった。 

実質的に日本軍が支配していたエリアでの 「 籠の鳥 」 のような境遇。
これは、彼ら誇り高い米国人たちにとっては非常に不安な状況であり、苛立つものであった。
そして、さらに赤軍と日本軍による大規模な戦闘が起きるようなことになれば、彼らの居留地まで戦火が及ぶことになるのだ。
そのようなことになれば、せっかく保護した子供たちを再び、生命の危機にさらすことになってしまう。  
砂時計から、砂がどんどん落ちつつあった。 
とにかく、大改装に取りかかった。

米国側の記録では、アメリカ赤十字シベリヤ派遣隊の見積もりとして、改装費用だけで10万ドルが計上されたことが書かれている。
また、船長の手記にも、 「 工事費拾数万円を要した 」 云々の記述があるので、いずれにせよかなり大きな金額が注ぎ込まれたことは間違いないだろう。

それも、工期は一箇月間のみの突貫工事であった。
改装工事で設けたのは、1000人分のハンモックを収容する臨時船室だけではない。
病室、診察室、隔離室、調理室、パン焼き室、シャワー室、氷室、野菜貯蔵庫、空調/配管システムなど、多岐にわたっていた。

これら設備内容から考えると、単に児童たちを物理的に運べば事足りるというものでは決してなかった。
航海時の医務管理、最低限の快適な生活水準の維持などにも細やかな配慮がなされていることがわかる。
このあたりは、いかにも米国らしい、優れて合理的な人間管理システムと云えるだろう。
ただ、アレンとしては、これらの大改装工事を請け負った大阪鉄工所因島工場に対して、 「 これだけの予算で、これだけの工事内容で、一ヶ月程度でやってください、あとはよろしく 」 と工事完了まで放置しておく訳にはいかなかった。

当然ながら、これらの作業が注文どおりにきちんと遂行されているか、リアルタイムで細かく検分することが必要であった。
工事が完了してから文句を言っても 埒があかないだろうし、何よりも やり直しをさせる時間そのものがなかったからだ。

航海中の陽明丸あれこれ(6)

さて、以前のことだが、イタリアの豪華客船や韓国のフェリー船が沈没した事件があった。
事故の真相を知れば知るほど、日本人としては、これら外国人船長のひどい行状に唖然とする思いだ。
また、これらの船長の資質に大きな疑問をもたれていたことを、運営会社が放置していた怠慢も許されるものではない。

ただ、言えることは、ことほど左様に船旅というものは、いったん大事故が起きれば、相当に深刻な事態となる。
特に、船が大きく、或いは乗船者数が多ければ多いほど、大変だ。
そういう危険と隣合わせであることは、昔も今も変わらない。
もし船客になることがあれば、常にこのことを頭の中に入れておくべきだろう。

「 板子一枚下は地獄 」 
昔の船乗りは、航海というものに付き物の大きな危険を、そのように適切に言い習わしていた。


陽明丸の航海についても、終わった後は、当たり前のこととして、ほとんど忘れ去られていた。
しかし、あの航海は既に述べたように、抱えていた種々の大きなリスクを、乗員・乗客たちが協力して回避し、成功裏に終らせたものであることを決して忘れるべきではない。

また、船の安全運航というものが、如何に船長の技倆や精神性に密接に関わっているかを、改めて認識させられるのだ。
いかに科学が発達していようが、航空機、船舶、鉄道、自動車を問わず、それらを運行させる主体は人間である。
それぞれ与わった肉体と頭脳を持った人間である。
航行機器類の性能が船の安全を決めるのではなく、船長の 「人間力 」 がそれを決める。
上述の事故は、そのような古代からの航海の基本をおろそかにした報いとは云えまいか。

また以前に、読売新聞のコラム、 「 編集手帳 」 になかなか味のあることが書いてあった。

「 胃を酷使する仕事は数ある中で、『 船長 』 はおそらく五本の指に入るだろう。
≪胃潰瘍にならないと一人前じゃない、といわれるくらいで.......≫
四半世紀にわたって外洋客船の船長を務めた弓場通義さんの言葉である。 」

陽明丸の出来事の実相を知るにつれ、我々としては理屈抜きで共感してしまうのだ。
きっと茅原船長も苦笑しながら、似たようなことを人に言っていたのではないだろうか。

航海中の陽明丸あれこれ(5)

つぎに、以下の一覧は、手書きの船員名簿から、彼らの職掌の部分を苦労して拾い上げ、集計してまとめたものである。

Captain 1名
(船長)

Chief Officer 1名
(一等航海士)
 
Second Officer 1名
(二等航海士 )
 
Third Officer 1名
(三等航海士)
   
Fourth Officer 1名
(四等航海士)

Apprentice (Officer) 1名
見習航海士 
 
Chief Operator 1名
(一等船舶通信士)

Second Operator 1名
(二等船舶通信士)

Boatswain 1名
(甲板長 )
  
Quarter Master 4名
(操舵手)

Fire Man   16名
(操缶手)  

Store Keeper 2名
(甲板庫手) 
 
Sailor Man  10名
(甲板員)
   
Chief Engineer 1名
(機関長)
 
First Enginner 1名
(一等機関士)

Second Engineer 1名
(二等機関士)

Third Engineer  1名
(三等機関士) 

Fourth Engineer  1名
(四等機関士) ※ハンブルクで負傷のため、往路のみ

Apprentice (Engineer) 2名
(見習機関士)

Oiler  8名
(操機手) 

Cook 2名
(調理士)

Steward  1名
(司厨士)
  
Boy 5名
(司厨員)

以上64名 ( 帰路のみの人員総数は、ハンブルクで負傷の四等機関士を除くと63名 )

航海中の陽明丸あれこれ(4)

また、これら63名の陽明丸の男たちの姓名、年齢を読み取って、表示したものが以下のものだ。

Name       

1. Motoharu,Kayahara 37y
2. Shozo,  Matsubayashi 30y


Name

1. Alunewo, Kimura       22y
2. Ataru, Nakazawa       37y
3. Chotoku, Kajiwara 24y
4. Chuhei, Midzushima 35y
5. Genjiro, Fujii       26y
6. Gensabaro, Naka       34y
7. Ginosuke, Ishii       25y
8. Goroichi, Yoshimaru 27y
9. Heihachi,  Takihara 26y
10. Hideo, Fujita       22y
11. Hideo, Matsuda       27y
12. Hisaki, Toya       27y
13. Hisawo, Hashiguchi 22y
14. Hitoshi, Saito       27y
15. Ichiro, Komura       37y
16. Isamu, Masumoto       24y
17. Jihei, Tabata       28y
18. Jyunmei, Hara       21y
19. Kadzuichi,  Kawada 23y
20. Kameo, Torigoshi     30y
21. Katayoshi,Abe       24y
22. Kenji,Ito       24y
23. Kesajiro,Sumi       20y
24. Kintaro,Hide       19y
25. Komajiro,Kato       30y
26. Kumawo,Moriyasu 20y
27. Kumazo,Nishishige 26y
28. Kunimitsu,Kuwabata 28y
29. Kyonawo,Matsugani 30y
30. Kyujiro,Nakamura 32y
31. Magoya,Yamazaki 51y
32. Masataro,Shirai 25y
33. Masawa,Yasui       33y
34. Masawo,Handa       20y
35. Masayoshi,Fujimoto 24y
36. Masayuki,Nakamura 51y
37. Motomitsu,Nakano 23y
38. Nintaro,Yamamoto 23y
39. Rokutaro,Yajima 21y
40. Shimaichi,Hirashima 28y
41. Shiro,Hori       44y
42. Shiro,Kobuki       26y
43. Shokichi,Horinouchi 25y
44. Suekichi,Sato       27y
45. Taichiro,Fukuda 31y
46. Takashi,Miyazato 18y
47. Takasuke,Asahara 24y
48. Takataro,Ohnishi 34y
49. Takiwo,Yamazaki 21y
50. Teikichi,Anazawa 24y
51. Tokihisa,Mori        29y
52. Tomojiro,Wakasa 17y
53. Tonawo,Shimada       31y
54. Toshitaka,Yamamota 18y
55. Tsuneichi,Tanaka 29y
56. Tsuruwo,Morinaga 22y
57. Tyusaburo,Kitazawa 20y
58. Yasuhara,Kitajima 31y
59. Yoshiichi,Yoshikawa 27y
60. Yoshijiro,Nishino 30y
61. Yotomi,Sagara       21y


最初の別枠2名は、茅原船長と一等航海士の 「 マツバヤシ ショウゾウ 」 氏のもの。

残りは61名分で、西洋式ファースト・ネームのアルファベット順で並んでいる。

このリストは、当時の記録文書を基に所蔵者の米国公文書保存機関によって作成されたもの。
ただ、米国人ゆえに日本人の姓名についての知識がないので、ミススペリングがあるかもしれない。
例えば、一般船員リスト一番目、見習機関士の 「 キムラ 」 氏の場合はファーストネームが、Alunewoとなっており、まるでイタリア人(!)みたいだ。
だが、原文を見ると、たしかにそう読めないこともない。


船長の年齢が37歳となっているが、これは満年齢ではなく、当時の慣行であった 「 数え年 」 によるものであろう。
なぜなら、彼は明治18年(西暦1885年)生まれなので、このリストが提出された1921年には満年齢では35歳ないしは36歳でなければならない。
平均寿命が延びた現代では、35歳はまだ 「 青年 」 のイメージに近く、現に男女ともにこの年齢あたりで結婚する人も少なくない。
大正時代のこの頃、茅原船長は35歳そこそこで、1万トン級の船を預かっていたことになるが、どうも現代とは隔世の感があるように思う。

それでも船長はまだ年長の方で、彼より年齢が上の乗組員は 「 51歳 」 2名と 「 44歳 」 1名のみで、残りの大方は二十代である。

十代の船員も4人いたことがわかる。
最年少は、甲板員の 「 ワカサ トモジロウ 」君の17歳。
彼にしても  「  数え年 」  表記だろうから、実年齢はまだ16歳であったということになる。

船客のロシア人 「 小児 」  たちの中には18歳に達する者が何人もいたようだから、これでは一体、どちらが  「 小児 」 なのかわからない。
これに加えて、体格でも、一般に大柄なロシア人と、小柄な部類の日本人との差が歴然とあったわけだ。

事実、オルガの話によれば、船内で日本人の若い船員とロシアの 「 小児 」  がレスリングの真似事をしたことが幾度もあったようだ。
当然ながら いつも 「 小児 」  の方が強かったようだ。
こういう、体力を持て余した 「 腕白盛りの小児 」 が山ほどいたわけだから、船員たちもさぞ大変だったに違いない。


体格といえば、彼らの身長・体重の記録も全員分が残っているのも興味を引くものだ。
例えば船長の身長は、英米式の 「 ヤール・ポンド法 」 表記で 5.5フィート、体重140ポンドとなっている。

これを、現代のメートル法に換算すると、身長約 168センチ、体重約 63キログラムということになる。

統計によると、大正9年 (1920年) 当時の日本人成人男性の平均身長は163センチであった。
それからすると、船長の体格は当時の 「 中肉中背 」 のスタンダードをいくぶん上回るものであったことがわかる。
それどころか、威厳のある風貌と相まって、人にはむしろ、「 大柄  」 な 印象さえ与えたかもしれない。

航海中の陽明丸あれこれ(3)

次に示すものは、陽明丸が1921年2月18日に米国ニューヨーク港に寄港したときの船員名簿である。
船員が米国人ではなく、外国人の場合は、入国審査の関係でこのようなリストの提出が義務付けられていた。
船長以下、63名分のクルーの氏名その他の情報が細かく記載されている。
( 日本出航当初は全64名であったが、翌1921年1月に機関士1名がハンブルクで怪我をして入院したようで、この時は乗船しておらず、差引き 63名 となる )

陽明丸の帰国航路を追跡する我々としては、たいへん重要な資料であり、興味深いものだ。 

12 01 14 00112 01 14 002































この書面のタイトルの下部あたりに、船名として 「 S.S (※ steamship  気船  )  Yomei Maru  」  の文字が見える。
N.Y はニューヨークの略号。
日付は Feb.18, 1921とあり、1921年2月18日に提出されたものとわかる。

「~港から来た 」  という  from the port of ~ の欄は空欄なので不明であるが、この関連で同時に発見した資料により、ドイツないしは英国から出航したことはほぼ間違いない。

クルーの名簿に設けられた欄は、以下のような細々としたことを記入させるものだ。

 1. 通し番号
 2.  姓名
 3.  船内での職掌
 4. 船員労働契約がなされた時、または当該船舶が出航した日の年月日、場所
 5.  その時点で、当該船員労働契約が無効でないことの確認
 6.  文字が読めるか (  要するに、文盲であるかどうか  )
 7.  年齢
 8.  性別
 9.  人種
10.  国籍
11.  身長
12. 体重
13. その他の身体的特徴

なお、一番上の、船長の氏名には  「 カヤハラ モトハル 」  と書かれている。
当然ながらこれは間違いで、正しくは  「  カヤハラ  モトジ  」 である。
何故こういう間違いが生じたかというと、これを書いたのは船長の 「 基治 」 という名の正しい呼び方を知らなかった日本人ということになる。
船長本人や航海士などが、そういうミスをすることはあり得ない。
考えられるのは、勝田汽船の事務担当者あたりではなかったか、ということだ。
おそらく陽明丸が日本を出航した1920年7月直前、数部同じものが作成されていて、必要な都度に使えるように、船長にまとめて手渡されていたものだろう。

航海中の陽明丸あれこれ(2)

ところで、陽明丸がその後どうやって日本に帰ってきたか。
これが、手記ではほとんど語られていないのだ。
米国赤十字関係者も、関心がなかったらしく、特に触れていない。
しかし、我々としては、帰路の状況がどうであったか、どういうコースで、いつ帰国したかが気になる。
これについては、どこにも記録されたものがないので、独自に調査するしかない。

というわけで、再びいろいろとトライした。
その結果、ある程度の情報を集めることができた。
それらをまとめると、陽明丸の帰国の航跡は次のとおりであったことがわかる。

1920年 10月15日頃にコイビストを出港、デンマークのコペンハーゲン港に着いた。
そこでドイツ・オーストリア人戦争捕虜たちを下ろし、改造船室等一切の臨時施設を取り除き、船は元の貨物船に戻された。
それが、約2週間後の10月28日。
ここまでは、船長の手記に書かれているし、米国赤十字社の記録にも似たような記述がある。
それ以降のことは、ほぼ不明。


やがて、米国の或る公文書保存機関に当たった結果、幸いなことに興味深い関係文書がいろいろ見つかった。
以下、その関係史料を示しながら、述べてみよう。

まず、陽明丸のその後の航路について。
翌1921年 ( 大正10年 )1月26日にドイツのハンブルク、及び1月31日には英国の港に居たことが確認されている。
そして、同年2月18日になってニューヨークに寄港している。

なんとまぁ、四ヶ月ほども、まだ大西洋方面でウロウロしていたことになるのだ!
あれだけの大任を果たした後だ。
一路、日本まで直行すれば良いものを、と我々誰しも考えるだろう。
だが、或る海運関係の方に尋ねると、戦前の長期航路では、そういうことは特に珍しいことではなかった、とのこと。
考えられる可能性は、復路は勝田汽船の現地ビジネスとして、何らかの運送業務をこなしていた、ということだろうか。
欧州では、第一次大戦で多くの商船が沈められたので、その船舶需要に合致したことも考えられる。


また、当時の乗員や乗客の一部のリストも、同文書保存機関で入手した。
まず、陽明丸がニューヨークに寄港した記録は、
1920年8月28日と1921年2月18日、つまり日本からの往復時の計二件分が見つかっている。

そして、8月28日の記録には、ロシア人など当時の乗船者の名前の記録が、ごく一部であるが残っている。
その中には、下記のように、若いロシア人女性、Elizabeth  Simion の名も見える。

First Name: Elizabeth
Last Name: Simion
Ethnicity: Russia, Russian
Last Place of Residence: Vladivostok, Siberia
Date of Arrival: Aug 28, 1920
Age at Arrival:  23y 8m    Gender:  F    Marital Status:  S  
Ship of Travel: Yomei Maru
Port of Departure: Vladivostok, Siberia

彼女は、米国側の記録には書かれてないようだが、船長手記のエピソードの一つに登場する女性だ。
ロシア人らしからぬ名前なので、或いは、ユダヤなど他国の血が混じった人かもしれない。
ウラジオストクは国際都市だから、当時はかなりの数の外国人が居住していた。

シベリアに派遣されていた米国人鉄道技師と恋仲になり、婚約。
胸をときめかして陽明丸に乗り、彼のもとへと一路ニューヨークにたどり着いたものの、やがて届いたのは一方的な  「 婚約破棄 」  の非情な電報。
幸福の絶頂から絶望の淵に追いやられ、「 シベリアに戻してほしい!」 と米国赤十字スタッフに泣きながら懇願し、悲しみに沈んだ女性。

心優しい船長は、深く傷つけられた彼女に義憤を感じ、「 シベリアにおけるヤンキーの不徳行為  」 として、非難している下りがある。

その時の彼女の名前は 「 シミオン 」 となっているが、これを見るとファーストネームはエリザベスで、年齢23歳8ヶ月、未婚、ロシア国内での最終居住地として米国赤十字が設けた居留地ウラジオストク、出港地も同港であったことなどが克明に記録されている。
船長の話が決していい加減なものでなく、根拠のあることを立証するものであろう。


時として、古い記録/文書から、その当時に生きていた人々の喜怒哀楽、生活の息吹き、果ては人生ドラマまで読み取ることができるものだ。
人々の生きざまの一部が、本人の知らぬ間に切り取られ、その断片が時間という琥珀の中に永久に留め置かれているということだろうか。
その後、この 気の毒な 「 シミオン 」 嬢の人生がどうなったのか、大変気になるのではあるが..... 

航海中の陽明丸あれこれ(1)

さて、我らの陽明丸だが、フィンランドのコイビスト港までロシア児童難民たちを輸送し終えた。
どうにか無事に大任を果たしたわけだ。

現代の感覚からすれば、「うまくいって当たり前 」 と思われるかもしれない。
だが、これまで述べてきたように、実際は 「うまく行かない 」 方のリスクは相当に高かったのだ。
だから、船長以下の乗組員には、「実によくやった!」と賛嘆するしかない。

オルガは、この航海を 「 Great Adventure、偉大なる冒険  」 と表現している。
これは 、「 子供たちにとっての大冒険 」 というくらいの意味であろう。
だが、我々から見ると、実際は 「 勝田汽船、船長以下乗組員、さらに日本帝国にとっての大冒険 」 と呼ぶ方が適切ではないか、と思ってしまう。

というのは、何か重大な事故、たとえそれが不可抗力のものであっても、実際に起きたとしよう。
それが、どんな事態に陥ることを意味するか、全く想像もつかない。
当時も今も、交通機関の運航当事者の責任というのは相当に重い。
重大な事故の場合は、責任は傭船者である米国赤十字だけでは済まないだろう。
勝田汽船も、日本帝国も国際的に轟々たる非難を浴びていたことは間違いない。

そういうリスクをものともせず、ひたすら黙々と、最後までがんばり抜いた陽明丸の乗員たち。
現代人のように脆弱ではなかった。
精神力が極めて強く、何事にも一本芯の通っていた明治生まれの男たち。
そういう彼らであらばこそ、遂行できたのではあるまいか。
 
三ヶ月もの間、毎日が相当のストレス漬けの生活であったはず。
だから、やり遂げた後の達成感、安堵感は言葉に表現できないほどであったろう。
おそらく、千人の多国籍の船客全てが下船した後。
乗組員思いの船長ゆえに、船員一同甲板に集め、
 「 皆よくがんばってくれた! 今から無礼講だ!」と感謝を込めて訓示したことだろう。

船長手記の発見について(8)


船長発見の翌々年の2013年、我々はNPO「人道の船 陽明丸顕彰会」を立ち上げた。
以来、展示講演や式典等の活動を精力的に展開してきたが、2014年にはロシアと米国の関係識者をそれぞれ招聘し、記念行事を盛大に行った。
その折に、手記の所蔵者である金光図書館に手記贈呈方ご協力を要請していたところ、幸いにもご快諾をいただいた。
すぐに、のし紙付きの綺麗な船長手記二冊が送られてきた。
我々は、NPO本部の石川県能美市での記念式典で、これら二冊を、盟友である米露の関係識者に正式に贈呈したのである。

彼らが帰国して数ヵ月後、嬉しい知らせが届いた。
船長手記の正式な写しを贈られて感動した彼らは、それぞれの国で翻訳作業を開始したというのだ。
オルガのロシアでは露訳、米国の関係識者(リンデンマイヤー教授・ロシア近代史)の方では英訳を進められており、2016年現在、どちらも完成間近ということだ。

これら各国語に翻訳された船長手記が掛け橋となり、関係三ヶ国のさらなる友情と連帯に寄与することを信じて疑わない。


 



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