新刊書 「陽明丸と800人の子供たち」について(ご案内)

  • 陽明丸と800人の子供たち 単行本(ソフトカバー) – 2017/4/6

    北室 南苑 編著

    発売中: 単行本(ソフトカバー)  ¥ 1,620 (税込価格)
    北室南苑 編著 

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内容紹介

今から100年ほど前、ロシア革命後の混乱期に800人の子供難民を救った日本の船がある。
貨物船「陽明丸」は米国赤十字社の要請に応じ、当時の首都ペトログラードからシベリアまで避難してきた子供たちを親元に返すため、2つの大洋を横断し機雷が漂うバルト海を通過するという、危険だが失敗は許されない大航海に出航する──。
それから1世紀の時を経て子供たちの子孫から「日本人船長に感謝を伝えたい」と、船長探しを依頼された書家が、2年の歳月をかけて船長の子孫を探し当て、船長の貴重な手記を発見した。
日米連携で子供たちを故郷に戻した四人の男たちと陽明丸の知られざる偉業に迫る!

 

出版社からのコメント

私にとって茅原船長は、子供時代からずっと伝説的なヒーローのような存在でした。
……1920年当時、茅原船長は35歳で、まだ若い男性ではありましたが、腕白盛りの子供たちを扱うには、気配りと寛容さが大切なことを、その賢明な洞察力で理解されていました。
手記の中で、私が最も心を打たれたのは、そういう腕白な子供に対しても、彼らを優しく包み込むような実に温かいお言葉で述べられていることです。
彼らの子孫の1人として、私はその紛れもなく高潔であられたあなたに心からの敬意を捧げるものです。
「『ウラルの子供たち』子孫の会」代表オルガ・モルキナ

  • 単行本(ソフトカバー):268ページ
  • 出版社:並木書房 (2017/4/6)
  • 言語:日本語
  • ISBN-10:4890633618
  • ISBN-13:978-4890633616
  • 発売日:2017/4/6
  • 商品パッケージの寸法:18.6 x 13 x 2.2 cm

 

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(6)

次に、「松平・石坂コンビ」のうち、もう一方、石坂少将の本事蹟への関与についての推論を述べたい。


筆者としては、浦塩派遣軍が本事蹟にコミットした一連の経過は下記の如くではなかったか、と見ている。
まず、 アンナ・ビルケウィッチ女史は渡邉領事の紹介状を東京に持参してきたのだから、当然ながらウラジオを立つ前に渡邉と接触しているわけだ。
そして渡邉はまずは外交官としての立場で、彼女の陳情を受け付けたものであろう。
これが通常の領事業務なら、政務部に案件を回すことなく独自の判断と権限で処理していただろう。
だが、事が事であった。
当然ながら、政務部案件として松平政務部長に報告し、指示を仰いだはずだ。

なぜ政務部案件かといえば、このような極めてデリケートな案件は相当に熟慮し、慎重に処理する必要があったからだ。
まず、シベリアでのポーランド人孤児救済については、日本軍駐屯地域の 「護民官」 的立場であった松平部長の職域に関わることであった。
さらに当時、事実上の同盟関係を築きつつあったポーランド政府との連帯の姿勢を示すことは、日本にとっては外交上の大きな意味があったはずだ。
片方で多数のポーランド兵の母国送還をせっせと手伝っても、一方で孤児たちの救済に無関心であれば、日本の真心が彼の国の人々に伝わるはずがなかった。
つまり、仏造って魂入れず、というやつである。

ここはどうしても、孤児たちも併せて救うことにより、ユーラシア大陸の向こう側で赤軍を相手に戦ってくれているポーランド政府と連帯する外交上の意思表示をする必要があった。
なぜなら、ポーランド軍が奮戦するということは、それによって東シベリアに振り向けられる赤軍兵力を少しでも減らすことで、日本軍への軍事的脅威を如何ほどか減殺することができたからだ。
その意味において、派遣軍司令部では、多分に軍事的要素のある事案として受け止めたのではないだろうか。


したがって松平部長は派遣軍司令官に報告し、軍としての方針を固める必要がある旨、意見具申をしたはずだ。
そして、松平部長も交えた派遣軍首脳の協議になったと見ている。
当然ながら、ポーランド兵の送還に直接関与していた石坂少将も協議に参画したことだろう。

孤児たちの救済については、ほぼ全員一致で特に異存がなかったと思われるが、派遣軍自ら取り組むには不適当と判断され、また必要財源も手当できない。
加えて、戦後恐慌や尼港事件で気が立っており、とかく軍部に反発しがちな国民世論にも配慮しなければならなかった。
故に、外務省及び陸軍省を通して日赤を動かすこと以外の選択肢がないことで、衆議一致したことだろう。
陸軍省(田中義一陸相)については派遣軍司令官または参謀長から意見具申が行われ、結果から考えると特に問題なく速やかに了承されたのだろう。
そして、外務省を通じた裏工作については、松平部長が行うことが決まり、それも速やかに実行されたであろう。


ただ、問題が一つ残っていたとすれば、外務省の工作はOKにしても、肝心の日赤への根回しはどうするかということだ。
それが抜けているようでは、裏工作は決して完璧とは言えない。
そこで、この問題を解決するにあたって、石坂少将に白羽の矢が立てられ、彼が工作を担当することになった、と見ている。
では、それはどういう風に実行されたか。 


ところで、この事跡において、孤児たちの救済を全面的に引き受けることを快諾したのは当時の日本赤十字社社長、石黒忠悳(いしぐろ ただのり)であった。

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石黒忠悳


記憶力の良い方は、彼の名は本ブログで以前に登場したことを思い出されることだろう。
つまり、以下の記述である。

**********************************************

また、これも興味深いものだが、石坂は文豪、森鴎外が若き日の軍医時代の直接の上官であった。
鴎外と石坂との関わりについては「石黒忠悳日記」に次の記述があるようだ。
石黒も石坂と同じく草創期の帝国陸軍の軍医であり、後に日本赤十字社の第四代社長になった人物である。


  (明治21年) 一〇月六日 来ル

           一〇月七日 林太郎母並弟妹来ル

           一〇月八日 石坂ヨリノ事ヲ内談アル 、


当時は、石坂は軍医学舎(軍医学校)の舎長(校長)、鴎外が軍医学舎教官、そしてこの石黒は軍医監であった。
鴎外は後年、大先輩であった石坂軍医と同じく陸軍軍医総監になっている。
この日記の頃、鴎外は小説「舞姫」のヒロインのモデルとなったドイツ女性との恋に悩み、職を辞することまで考えていたようだ。
その処理をめぐる記述と見られる。
おそらく、石黒、石坂の両上官が鴎外の才能を惜しんで必死に慰留したものであろう。

**********************************************

このように、石黒忠悳は且つて石坂惟寛と同じく明治陸軍の軍医であり、そして軍医としての階段を昇りつめた後に、日赤の第四代社長に就任したものだ。 
石黒も石坂もともに幕末の生まれで同世代であったが、石黒は幕府の西洋医学所の出身であり、将軍家の侍医であった松本良順に師事している。
石坂は前に述べたように緒方洪庵の適塾出身なので、この二人は西洋医学を学んだ際の系統を異にしていた。
しかしながら、二人は共に明治維新後は、ほぼ同じ時期から草創期の陸軍の軍医として活躍を始めた。

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石坂惟寛


両名とも明治十年の西南戦争に出征し、また明治二十七年の日清戦争にもそれぞれ共に軍医の高官として貢献している。
また、上記のように軍医学校の幹部として共に働く時期もあったものだ。


そして、次の文書はこの二人の職務上の密接な関係性を物語るものとして、最もふさわしいものであろう。 

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これが何を意味するかと言えば、日清戦争での日本軍勝利の後に割譲された台湾に出征した近衛師団の師団長、北白川宮能久(よしひさ)親王殿下が不幸にも現地でマラリアに罹り、戦病死された折りの機密電報である。
重症に陥った親王を八方手を尽くして治療に当たったのが、当時の台湾総督府軍医部長として従軍していた石坂惟寛であった。
文面からは刻一刻と悪化してゆく親王の容体が読み取れ、石坂軍医の憂慮が伝わってくる。
だが、懸命な手当も虚しく、親王はやがて危篤となり、ついには陣没された。
石坂軍医はその死を見取ったことになる。
親王の薨去は国の極秘事項としてしばらくは公表されず、柩は東京に運ばれてから丁重に国葬が執り行われた。
享年48歳。



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北白川宮能久殿下


北白川宮殿下は実に波乱万丈の生涯を送られた、特異な皇族であった。
幕末には皇族でありながら、親幕府のお立場を取られ、東征大総督の有栖川宮熾仁親王に直談判をするなど、徳川家の存続のために尽力した。
上野の寛永寺の貫主であったことから、血の気の多い彰義隊に担がれ、彼らの敗走後は奥羽列藩同盟のトップにも祭り上げられた。
やがて明治維新となり、しばらくは謹慎の身であったが、やがて明治天皇からお許しを得た。
間もなく、一念発起してドイツに留学された。
ドイツでは陸軍大学で軍事学を学び、職業軍人の道を歩まれ始めた。
だが、ドイツで或る上流婦人と恋に陥り、結婚までなされるつもりだったのだが、皇室や政府首脳に大反対されたあげく、婚約は取り消しとなり、悄然として帰国なされた。
それからは軍人の道一筋に精進されて、日清戦争の頃には近衛師団の司令官(中将)として台湾に赴かれたものだ。


この機密文書は、親王の劇的なご生涯の最期に立ち会った石坂が当時、大本営の野戦衛生長官の要職にあった石黒に宛てた報告電文である。

石黒と石坂、両名はこのように、明治日本が経てきた歴史的事件の折々のシーンに共に遭遇してきた仲であった。
そして、共に日本赤十字社の創立及び創成期にも深く関与し、それぞれ多大な貢献をしている。
日赤においては、石黒だけは社長にまで昇り詰めたが、それ以前に二人は共に常議員として肩を並べていた時期もあった。


このように、石坂惟寛と石黒忠悳は現役時代は非常に近しい職務関係にあったことから、浦塩派遣軍としては、その点を見逃さなかったと考えられる。
すなわち、惟寛の子息である石坂少将から石黒社長に、特務機関長として軍と外務省の内々の判断を伝え、日赤として善処することを希望する旨の要請をした可能性があると見ている。
そして、その代わり派遣軍としては陰で全面的にサポートすることも当然付け加えたことだろう。
或いは、惟寛がまだ存命中であったので、彼からも口添えしていた可能性も十分考えられる。
むしろ、その方がより効果があったとも考えられる。

単なる平凡な文官上がりではなく、叩き上げの軍医として戦場の悲惨をよく知る石黒であったはずだ。
大人たちの理不尽な戦いに巻き込まれた、罪のない孤児たちの憐れむべき境遇には心を動かされたであろう。
そして、裏工作を受けたことは機密事項として、決して口外せず、記録にも残さないように配慮もなされた、と見るのだ。


以上、述べたように、このように「松平・石坂コンビ」がそれぞれ関与することで、外務省と日赤双方への根回しが円滑に行われ、裏工作が完成したのではと考えられないか。

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(5)

上記1枚目の文書は大正7年8月、連合国各国とシベリアに共同出兵した際の陸軍省から発令された浦塩派遣軍政務部設置に関する訓令案の一部である。
同政務部は派遣軍の司令部に置かれ、現地の外交政務、つまり軍事以外での地域各政治勢力との折衝、民生雑務や各国外交機関との折衝・調整等が任務とされた。
この一覧表にあるとおり、政務部部員は軍人ではなく、全て外務省から出向した文官であった。
部長の松平恒雄の肩書きが大使館参事官とあるのは、彼はこの辞令の直前まで在米大使館の参事官であったので、そのまま表記されているものだ。
部員及び書記官等は木村鋭市以下8名であり、その中に副領事の渡邉理恵の名が見える。

つまり、渡邉領事はシベリア出兵時には既に浦塩派遣軍政務部の一員であり、松平部長の指揮下にあったことを示している。
2枚目の文書は翌年大正8年のものだが、副領事から領事に昇格した渡邊が浦塩派遣軍政務部部員を兼務することをあらためて辞令されたものだ。
この人事を発令したのも、やはり陸軍省である。
要するに松平部長も渡邉領事もこの頃は外交官であると同時に浦塩派遣軍所属の文官であった。
俗にいう、二足の草鞋を履いていたということだ。
そして、指揮系統上は外務省というより、陸軍省に優先的に帰属していたことになる。


故に、アンナ・ビルケウィッチ女史が渡邉領事から紹介状を預かったという事実も、渡邉が独断で好意として渡したということは有り得なかっただろう。
その場合は必ず、松平部長及び派遣軍首脳の指示ないしは承認を経ていたはずだ。
だが、あくまでも体裁としては、一領事である渡邉が孤児救済委員会に同情し、紹介状を善意で書いて彼女に託したという形を取る必要があったのだろう。
その理由としては、浦塩派遣軍がこの事案で水面上に出ることには、日本側及び孤児救済委員会側双方でデメリットがあり、逆に水面下にいた方が双方メリットがあった、ということではなかろうか。

救済委員会としてのデメリットは、もし浦塩派遣軍に直接且つ全面的に頼ったとすれば、政治的中立性が破綻して、親モスクワ勢力から「親日反露政治団体」という烙印を押されかねない。
そうすると、それ以降のシベリアでの救済活動に支障をきたす恐れがあった。
逆にメリットとすれば、派遣軍とはワンクッションを置き、日本赤十字社との連携を持つことで、中立的な人道救助団体としての一貫性は維持できるからだ。
現に、同救済委員会は日本軍撤退後もウラジオでの活動をソ連当局から認められ、第三次の孤児救済活動も無事終えている。

日本にとってのデメリットは、あくまでシベリアへの出兵目的は軍事作戦であり、民間の孤児を救出することではなかったから、ということに尽きる。
チェコ兵など帰還軍人の母国送還については派遣各国軍との共同作戦なので問題はなかった。
広義の意味では、軍事作戦の一環とも言えるであろう。
だが、ポーランド孤児の救出、輸送となると純然たる民生問題であり、派遣軍が直接取り扱うには馴染まなかった。
派遣軍はあくまでも軍事作戦を行う軍隊であり、大掛かりの民間人救護は日赤主体で行う方が適切との判断が下されたことだろう。
また、国家機関で予算使途ががんじがらめの軍や外務省に比べて、日赤は財政面でも多少の融通が利き、この点もメリットが大きい。


当時、大正9年春~夏は未曾有の大戦好景気の反動で、いわゆる大正の大恐慌に突入していた頃だ。
株価は大暴落、企業は続々と倒産し、巷に失業者が溢れ、日本は大変なことになっていたのである。
シベリアでは尼港事件が起きて国民を憤激させ、且つ出口の全く見えない出兵の先行きに人々の政府への不信、不満は相当に高まっていた。
そういう状況で、もし派遣軍が前面に出て孤児たちの救助作戦を始めていたら、野党、国民世論、そしてメデイアが黙ってはいなかったと思われる。
なぜなら、出兵本来の目的から逸脱することになり、「陛下の軍隊と我々の血税をそのような他国の慈善事業に費やすつもりであるか。浦塩派遣軍はそのように暇であるのか。」 などとコテンパンに叩かれていた可能性がある。
だから、この場合は派遣軍はあくまで陰で支え、外務省と日本赤十字社を前面に押し出す必要があり、またメリットもあると判断されたのではないだろうか。
そのメリットについては、以前に随所で述べたとおりである。
要するにこの場合は、軍が表だって関与せず、赤十字主導の国際的美談として仕立てた方が八方丸く治まったのだ。
実際には、派遣軍は救助活動にはノータッチどころか、孤児の捜索や輸送などで全面的にサポートしている。
それはあくまで日赤の救援活動のサブ的立場という大義名分を得たので可能になったと見る。


また、当時の外務省ヒエラルキーに於いては、松平部長は武者小路課長より上位に位置し、外務省に派遣軍の真の意図を伝え、その意を汲み善処することを促すことが可能であったと見る。
なぜなら、松平は文官高等試験外交科(外交官試験)の明治35年合格者であり、武者小路は四期下の明治39年合格者であった。
また、埴原次官は明治31年試験の合格者で、松平より四期先輩であった。
つまり、彼らは三人とも先輩後輩の間柄で、強い仲間意識で結ばれていたはずだ。
明治時代の外交官試験の合格者は年に数名程度の超エリートであり、彼らは正真正銘、外務省のサラブレッドであった。
松平も武者小路も後にそれぞれ大使級の高官となって国際舞台で縦横に活躍している。
おそらく、ビルケウィッチ女史の訪日以前の段階で、この三名によってストーリーが大方出来上がっていたと推定されるのである。

また、彼らは共に皇室に近しく供奉する名流であったので、貞明皇后の孤児へのお見舞い行啓もアレンジすることも十分可能であったことだろう。
貞明皇后の孤児たちへのまことに仁慈の御心に溢れた行啓は、この救済事業への国民の疑義を払拭させたことだろう。
松平の娘、節子は貞明皇后に気に入られ、この三年後の大正12年、秩父宮雍仁親王(大正天皇第二皇子・昭和天皇の弟宮)に嫁いで皇族となっている。
国外向けでは、「日本はシベリアに軍隊を送ってはいるが、救済を求める他国の弱者にも慈愛で応える一等文明国」としてのイメージアップに抜群の効果があったはずだ。
その頃は、大戦後のヴェルサイユ体制において、五大国の一つに躍り上がった日本帝国の大事なデビューの時だったのである。

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松平恒雄


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1937年 駐独大使時代 ベルリンを訪れた女優の原節子と


下記の文書は昭和6年のジュネーブ一般軍縮会議の代表団一覧表である。
首席全権委員が松平であり、首席随員が武者小路であったことがわかる。
彼ら二人がエース級の日本外交官コンビとして活躍していたことを示すものだ。

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また、松平は戦後、参議院議長に就任間もなく急逝したのだが、武者小路は彼の功績を顕彰するために設けられた 「故松平恒雄氏追憶会」の発起人に名を連ねている。
そして、その分厚い追想録の中で、心を打つ追悼文も寄稿している。
彼ら二人の固い人間的結びつきと親交を偲ぶ史料といえるであろう。


また、ポーランド孤児救済に関する或る海外の文献には、下記の記述が見られる。(出典は不明)

The first children flowed from Vladivostok to Japan in July 1920, was made ​​possible with the help of the Japanese military mission in this city, at the head of Count Matsudaira, consul Watanabe and Major Hasebe.

1920年のポーランド孤児の第一回送還にあたっての日本側の貢献を記述しているのだが、派遣軍の松平(恒雄)伯爵、渡邉領事の名が見え、そしてMajor Hasebe とあるのは、当時浦塩派遣軍参謀であった長谷部照悟陸軍少佐であろう。
厳密に言えば、松平は元会津藩主の容保(子爵)の庶子であった故に会津松平本家を継いでいなかったので、授爵されてはいなかったが、海外ではそのように受け止めていたのであろう。
この記述からも、孤児救済事業の陰には浦塩派遣軍が組織ぐるみで関与していたことが暗示されていると言えないだろうか。

なお、下記のように、松平恒雄も先の浦塩派遣軍の四将官と同じく、ポーランド共和国からオドロゼニア・ポルスキー勲章を授与されている。
しかも、等級は一等であり、大井元成大将と同格の「グランクロア」(大十字勲章)である。
経歴を見る限り、松平は外交官として在ポーランドの公館には一度も赴任したことがなく、単なる外交儀礼的な勲章授与ではないはずだ。
また、受章の時期も四将官と同じなので、彼らと同じくウラジオでのポーランドに対する温情溢れた措置に報いる叙勲であろう。

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陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(4)

この「松平・石坂コンビ」が何故そういう遠回りのことをする必要があったか、つまり推定される動機面についてはこれまで随所で述べてきた。
では、実行面で彼らがどのように一連の事を運んだか、という推論は次のとおりである。


①ウラジオを拠点にしていても、ポーランド孤児救済委員会は活動の性格上、政治的には中立的な立場であらねばならなかった。
それを堅持した成果であろう、同委員会は日本軍のウラジオ撤退後も同地で活動を続けており、第三次の孤児送還事業をソ連当局と取引をする形をとり、シベリア鉄道経由で成功裏に達成している。
第一次、第二次の孤児送還事業では日本が全面的に協力したのだが、それは米英など出兵していた各国に救助を依頼して全部断られたからで、最後に残った日本に頼ることになったという経緯がある。
このあたりは、妙な話だが、陽明丸事蹟の脱出船確保の経過とよく似ている。
シベリアでは強面の好戦的な軍隊として恐れられ、欧米と毛色が違う日本はどちらかというと敬遠されていたのだろう。
そういう経緯で、救済委員会は各国からノーと言われて八方塞がりになっても、なるべく日本(政府・軍)には頼りたくなかったらしく、アンナ・ビルケウィッチ女史は上海の教会関係者、さらに函館のトラピスト修道院にも出かけて協力を依頼している。
だが、残念なことに、これらも全て断られてしまった。

このようにアンナ・ビルケウィッチ女史は、思い切って東京に来るまでは、いわば迷走状態で必死にあちこちと駆けずり回っていたわけだ。
熟練した政治家でも外交官でもない、一介の善良な女性に過ぎない身であったから、各国の海千山千の男たちと駆け引きする術(すべ)は乏しかったはずだ。
それ故、そのような彼女と、東京に現れた時の、外務省高官相手に完璧なほどの交渉上手な彼女とは全く別人のような印象を受けてしまうのである。

東京では、在ウラジオの渡辺領事やポーランド総領事他の紹介状だけではなく、嘆願書や状況報告書など必要書類も一式揃えて持参していた。
このあたりで直感することは、日本外務省に陳情し、交渉する場合の「必勝テクニック」のノウハウを事前に同女史に授けていた人物の存在である。

その人物が渡辺領事であったとしても、特に不思議ではない。
彼であれば、職掌柄そのあたりのノウハウは知っていただろうから。
だが、渡辺領事にしても、あくまでウラジオの在外公館の領事であって、本省の高官を動かせるような地位ではなく、そのような力は持っていたとは思えない。
それでは、そういう人物がもし存在していたとしたら、一体誰であったか、ということになる。

これを解く鍵は以下の文書からおそらく見えてくるのではないだろうか。

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陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(3)

次に、ポーランド孤児難民救出の事蹟が実際はどのように為されたか、という点について執筆者なりの推論を述べてみたい。
陽明丸と同じく、これも心打たれる人道主義的美談であるが、既に多くの書籍などで経緯が詳しく述べられているので、詳細は省略する。
 

筆者も入手可能な限り、それらの資料に目を通したのだが、読後にある一つの素朴な疑問が頭を離れなかった。
それは何かといえば、日本側がこの事跡を引き受けた際の唐突さ、且つその割には事案を処理するプロセスが妙にスピーディではなかったか、という印象なのだ。

在ウラジオストクのポーランド孤児救済委員会の会長アンナ・ビルケウィッチ女史が意を決して、東京の外務省を訪れたのは大正9年6月18日。
丁度、陽明丸がウラジオストクを出航する前月であった。

外務省で親身になって応対してくれたのは武者小路公共 政務局第二課長であり、彼は大臣宛の文書作成などについて、いろいろと適切な助言を彼女に与えたようだ。
やがて一連の文書は埴原事務次官にまで到達し、彼の判断で外務省では同救済委員会に協力する意向を固めたが、国としての予算措置が難しい。
そこで、次官自ら日本赤十字社社長に書状で協力を要請した。
それを行ったのが何と同女史が訪れた18日のわずか翌々日、20日であったというから驚きである。

そして幸いなことに、日本赤十字社側の全面的な賛同も滞りなく得られ、翌月7月5日の同社の常議員会で速やかに可決された、というのだ。
つまり、女史の外務省訪問からわずか17日間という短期間で、これら全てがトントン拍子に運んでいったというのである。

ただ、いくらなんでも17日間というのは、この種の大きな事案の処理をするには、あまりにも早いような気がするのだが。
ところが、ほぼ全ての資料・書籍等はその点については何ら疑問を呈していない。
異口同音、それは専ら外務省関係者(武者小路課長、埴原次官)の英断であり、そして日赤側の同情、共感も極めて速やかに得られたからだ、というような説明である。
つまり、人道主義的感動が彼らを異例に迅速な処理を促した、というような印象を与えるものだ。
特に武者小路課長は華族名流の武者小路家の当主(子爵)であり、弟の実篤氏は作家として名高い存在なので、そのあたりの高い人間性とも結び付けられている。
たしかにそうではあったにせよ、事はそれほど単純なものであったのか、と疑問に思わざるを得ない。

これら文献上で述べられている大凡については、公文書にも残っているので大体其のとおりに事が運んだのは間違いないのだろう。
危機的状況にある同胞の孤児たちを救いたい一心で、藁をもつかむ思いで訪れた、このポーランド女性の必死の訴えが当時の関係者のセンシティブな心を動かしたのも事実であったには違いない。
だが、実際にそのようなことだけで、あれだけ大変な事案が極めてスムーズに、極めて短期間で処理されたというのは、にわかには信じがたい。


ところで、日本は官僚制システムが完備された国家であることに異議を唱える方はいないだろう。
官僚制国家であるので、或る官庁が所定の行政事務を処理する際には、必ず一定の、役所特有の規範ないしはマニュアルに基づいて執行されるものである。
これは今も昔もさほど変わらないはずだ。
そして、日本特有の「根回し」の文化により、行政事務の処理については、ケースによっては縦からの上意下達だけでなく、横同士の調整・連絡などを通じたシェアリングも重要とされる。
当然ながら、これらのプロセスを経るには一定の時間が必要とされ、大きな事案であればあるほどその時間が長くかかるのが普通だ。
要は、これら時間をかけて為される縦横のコンセンサスとシェアリングは、役所の事務を円滑に行わせ、且つ個々の責任を分散させる大きなメリットがあるので、おそらく太古から続く日本社会独特の慣行でもあるのだろう。

だが、上記のような観点から、今一度プロセスを眺めてみると、どうも何か腑に落ちないのである。
外国から訪れた一婦人が、まず応対した外務省の担当者(武者小路課長)の心を動かし、彼を通じてすぐに外務省事務方トップ(埴原次官)の理解・協力も得られた。
それから二週間たらずで外務省からの要請により赤十字社が一切を引き受ける機関決定をした。
そういうことが戦前日本で一体可能だったのかと。
何せ事案の大きい割には、17日間という異様な短期間である。
人道主義に基づく感動の連鎖反応がいっきに事を解決し、全ての事を運ばせたというには、戦前日本の強固な官僚制システムを考えると、それをナイーブに信じるにしても、かなり無理があるような気がするのだ。
完全なトップダウンが珍しくはない米国など外国では、特に不思議なことではないだろうが。

とにかく、戦争と革命、内乱が荒れ狂った大変な世紀であった。
当時、救援が必要とされる孤児というものはシベリアだけでなく、国内外どこにでも溢れていたはずだ。
彼らの代表者が大挙して陳情に来るとしたら、外務省は一々感動して、迅速に救済事務を行ったのだろうか。
それこそ、杉原千畝が書きなぐった「命のビザ」状態になりかねなかった、のではと思う。
とにかく、どこか腑に落ちないものがある。


なるほど、この婦人は在ウラジオストク日本領事館の渡辺領事やポーランド総領事の紹介状を持参してきたということだ。
だから、それなりの処遇を受けてもおかしくないかもしれない。
だが、それだけでは、本省の高官を即座に動かし、あれほどの大きな事案が劇的な速さで処理されていくには不足ではなかったか。
何しろ、政府直接ではないにせよ、日赤としてはかなり大きな財政支出であり、また官民をあげてのマンパワーも投入された一大事業であった。
在外公館の領事たちの紹介状程度で事を動かせるものではなかっただろう。

しかも、単にそれだけではなく、対象となっている場所は日本軍が出兵・駐屯して赤軍やパルチザンと交戦していた東部シベリア地域である。
いわば戦場であった。
その重要な当事者であった陸軍省及び浦塩派遣軍の意向を飛び越えた形で物事がスイスイと進んでいった印象だが、いくら民生に関わることといえ、果たしてそういうことは当時可能であったのか。


以上の数々の疑問を解くとすれば、筆者の推論では、同女史の東京訪問の前に、シナリオはもう既に全部出来上がっていたと考えるのである。
つまり、水面下での必要な根回しがほぼ終わっており、あとは女史本人の訪問で仕上がるだけだったと見るのだ。
そして、そのシナリオはウラジオで書かれていたと見る。
そのシナリオライターは、浦塩派遣軍司令部の松平政務部長と石坂少将であったのではないか、と考える。
そう、つまり陽明丸の場合と同じ、例のコンビである。
以下にその根拠を述べてみよう。


陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(2)

これら一連の文書だが、石坂中将を含む政府・軍の関係者に対して、外国から勲章が授与されたことを示すものだ。
昭和元年~2年にかけての日付だから、石坂中将が靖国神社の遊就館館長をしていた頃だろう。
当時は官僚や軍人などが外国から勲章を授与される場合、必ず政府に届け出て裁可を得なければならなかった。
この一連の書類はその手続きの折りのものだ。

この折の受章者リストを見ると、軍関係ではトップの大井成元大将以下、稲垣三郎中将、星野庄三郎中将、そして 石坂善次郎中将と続いている。
ここで注目するのは、この陸軍四将軍は全て、ポーランド共和国から勲章を授与されていることである。

彼らが受章したオドロゼニア・ポルスキー勲章は 別名「ポーランド復興勲章」といわれるものだ。
ポーランド語では 「 Odrodzenia  Polski 」 と表記されるものであり、同国の勲章でもかなり高位のものである。
日本の勲章と同じく伝統があり、現代でも傑出した功績がある外国人などに授与されている。
フランスのレジオンドヌール勲章に倣って五つの位階があり、その最高位、一等が大井大将に授与された「グランクロア」(大十字勲章)である。
次いで、二等が稲葉中将以下三名に授与された「星章附コマンドール」。
ただ二等といっても、受章対象は軍人なら将官レベルの高位のもので、日本でいえば勲二等旭日重光章あたりに匹敵するものであろうか。


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オドロゼニア・ポルスキー勲章 (二等)
(左が胸章、右が首章)

日本人で、このオドロゼニア・ポルスキー勲章が授与された例はさほど多くなかったようだ。
戦前では東郷平八郎元帥、高橋是清総理大臣、田中義一総理大臣などが挙げられる。
戦後では、「命のビザ」で有名な杉原千畝 元リトアニア領事代理にもその際立った人道主義の功績を讃えて授与されている。
また、満州で多数のユダヤ人亡命者の命を救った樋口季一郎 元ハルビン特務機関長・陸軍中将にも授与されている。


それでは、この時なぜこれら四名の陸軍将官にこのような高位の勲章がポーランド政府から授与されたか、ということになる。

関係書類のうち一枚に、これら四名の叙勲理由が書かれたものがある。
それには、「シベリア戦役関係 シベリア撤退に際し尽力」 云々の記載が見える。
つまり、ポーランド政府は、この四名の将官のシベリア出兵時の功績を授章理由としているのだ。

このうち、大井大将は出兵当初は第十二師団長であり、後に大谷大将の後任として二代目の浦塩派遣軍司令官となった。(司令官在任期間 大正8年8月~大正9年7月)
稲垣中将は出兵当初は浦塩派遣軍参謀であり、後に由比中将の後任として二代目の参謀長となった。
(参謀長在任期間 大正8年6月~大正9年7月)
星野中将は大正8年から大正9年にかけて、浦塩派遣軍野戦交通部長を務めている。
そして、石坂中将だが、ご存知のように当時はハルビン特務機関長として浦塩派遣軍司令部付きであった。


叙勲理由の「シベリア戦役関係 シベリア撤退に際し」というのは、単にシベリア出兵と撤退に関わったという、漫然としたものではないはずだ。
当然ながら、出兵時に於けるポーランド人白衛軍部隊(第五ポーランド師団)との連携、そして彼ら白軍側に属したポーランド人の母国送還協力のことを指すものに違いない。
そして、この二つの事案が同時に大きく存在していたのは、シベリア出兵時でも一定の時期に絞られる。
つまり、日本軍のシベリア出兵初期と最末期の期間はそれほど深い関係がなかったはずで、その中間の第二期に顕著であった。
そして、日本軍の出兵を取り巻く環境がもっとも困難を極めたのも、この第二期の頃であった。
これら四名の受章者は、その第二期に在シベリア・ポーランド人との連帯に深く関わった者として、受章対象に絞られたものだろう。

なぜなら、浦塩派遣軍司令官は三代にわたり、また参謀長は五代にわたって交代しているからだ。
これらの中で、第二期の大井大将、稲垣中将のみがポーランドから勲章を授与されたのは、彼らの在任期間が重大な事件が一番多発した頃だ。 (特に重要なものとしてオムスク白軍政権樹立と崩壊、尼港事件の勃発、日本軍の過激派軍武装解除作戦、極東共和国建国など)

星野中将は派遣軍野戦交通部長として、鉄道等による軍事輸送の責任者として、ポーランド人の帰還輸送に協力したものと察せられる。

石坂少将が彼ら在シベリアのポーランド人たちとの連携や母国送還に実務的に関わっていたことを示す公文書については、以前に提示したとおりである。

要するに大井司令官、稲垣参謀長、星野野戦交通部長、石坂特務機関長ら当時の浦塩派遣軍幹部が、以上のような日本にとっても大変困難な時期にも拘らず、彼らポーランド人たちとの連携や母国送還に最大限に尽力したというのが功績理由であったと思われる。


また、これは執筆者の推論であるが、これら叙勲理由にはポーランド孤児難民の救助と輸送に関与した功績も含まれるものと考えている。
その根拠については以前に書いたとおりだ。
要するに、ポーランド孤児難民と義勇兵の母国送還は全然無関係の別個の事案どころか、ポーランド人にとっては同等に差し迫った、同じ次元の話であったはずだ。
浦塩派遣軍首脳としても、当然同じカテゴリーに入れていたと見るのが自然ではないだろうか。
当時の日本を取り巻く軍事・外交環境を分析した上で考慮された、重要な「宣撫工作」という意味合いであるが。

そして、彼ら派遣軍首脳部にとっては、陽明丸の事案も同じカテゴリーのものではなかったか。
これについても、同様に高度な軍事・外交的な思料に基づいて、適宜処理しようと試みたと思うのだ。

つまり、以上の三つの事案(ポーランド孤児難民の救助・母国送還、ポーランド義勇兵との連携と母国送還、そして陽明丸事蹟) は皆、背後で浦塩派遣軍当局が絡んでいたと見る方がもっとも自然ではないだろうか。
その、絡んでいた背景には、彼らなりの理由ないしは目的、或いは不可避の事情があったものと見るのだ。


とにかくポーランド政府は、ロシア帝国によってシベリアに追いやられ未曾有の難儀を強いられた同胞たちをかくも親身に扱ってくれた日本への恩義を忘れていなかった、ということだろう。
特に浦塩派遣軍には、彼らは人種民族を超えて、シベリアで共に苦労した戦友同士のような強い連帯感を持っていたに違いない。
その連帯の証として、これら四将軍が代表して勲章を授与された、という象徴的な意味合いがあったということではないか。

ポーランドは近世の終わり頃までは、「ポーランド・リトアニア王国」が東欧の地域大国として栄えていた。
だが、周囲をオーストリア帝国やプロイセン王国、ロシア帝国など軍事強国と接していた地政学的な関係で、18世紀末にはこれらの国々に蹂躙、分割されて国家自体が消滅してしまった。
以来、亡国の悲哀を味わってきたポーランド人の愛国精神は、燃え盛る炎のように代々人々の心の中に灯り続けた。
そして、ロシア革命及び第一次世界大戦の終結を転機に、ようやく長年の他国の軛から解放され、再び自らの国家を取り戻したのが1918年であった。
だが、三国による分割前の版図回復を求めるポーランドと、それを否定するソ連の利害が衝突、モスクワ政府との関係が急速に悪化し、ポーランド・ソヴィエト戦争となって両国は戦火を交えることとなった。

この戦争ではポーランドがソヴィエト・ロシアの大軍を相手に非常に善戦したのだが、これは一世紀以上もの間、属領の民として悲哀を嘗めてきた彼らの愛国心に火がついたからであろう。

明治大正期の日本はそのような建国の意欲に燃えたポーランド人に力強い精神的支援を与えていたのだ。
明治後期の日露戦争のさ中には、明石大佐などが対露謀略工作の一環として、ロシアからの独立を企図するポーランドの民族主義者に様々な支援活動を行った。
大正時代に入ると、貞明皇后は、シベリアで保護され日本に送られてきたポーランド孤児の一人をそっと抱きしめられ、暖かいお言葉を賜られた。
救出された孤児たちや、母国に帰還できた義勇兵たちは感激し、その後日本への恩義を決して忘れなかったことだろう。
両国政府はソヴィエト・ロシアの脅威に対抗し、その東端西端で事実上、連携連帯していたわけである。
東西それぞれに対峙していたソヴィエトの軍事力を分裂させるメリットがあったからだ。
また、そのことはそれぞれの対ソ外交交渉の際には相手への牽制の切り札として大いに役にたったことであろう。
日本; ソ連との緩衝国家 「極東共和国」 をめぐる交渉。
ポーランド: ソ連との停戦後の平和条約 (リガ平和条約)」締結。
つまり、両国は対ソ連の軍事同盟こそ結ばなかったが、事実上は互いに安全保障上の重要なパートナーであったといえないか。
そのことはあまり日本国民には意識されてはいなかったかもしれないが。


日本・ポーランド両国のこの良き友好関係は昭和初期まで続いていた。
だが日本がヒトラードイツの威勢に魅せられ、日独防共協定(1936年)を締結した頃から雲行きがあやしくなっていった。
やがて1939年、ナチスドイツとソ連、両軍に東西からほぼ同時に攻め込まれて、ポーランド国家は消滅、人々は再び属領の民となってしまった。
ナチスはポーランド人を劣等民族とみなし、圧倒的な軍事力にものを言わせて苛酷きわまる占領統治を行った。
同国で平和に暮らしていた多くのユダヤ人国民を強制収容所に入れ、百万人単位で集団虐殺をした。
ソ連はソ連で、独裁者スターリンはポーランド人の反抗の芽を削ぐために、軍将校など知識階級を集団虐殺した。(「カチンの森」事件)
このように、敬虔で信仰深い人々であるポーランド国民に降りかかった、繰り返される酷い受難の歴史を知るにつれて、我々の心は暗澹としてくるものだ。

そして、第二次大戦はこの時点から開始され、実質的に日本がナチスと心中する運命が決まり、ポーランドを支援した英仏米を相手に戦うことになってしまった。
且つて美しい友情を育んでいた日本とポーランドは、心ならずも敵同士となってしまったのだ。
そして大戦後に独立を取り戻すまでの6年の間、ポーランド国民は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めることになった。
歴史に 「もしも」 は通じないし、想定すること自体がナンセンスかもしれない。
だが、日本がせっかく繋がりのあったポーランドとの親善を維持し、第一次大戦時のように英米仏側で戦っていたか、せめて中立を保っていたならば、我々の国の運命はかなり違っていたのではないだろうか。


28th April 1929 Warsaw Gen Kwasniewski

















1929年(昭和3年)
ポーランド復興勲章受章のためにワルシャワを訪れた松井石根陸軍大将。(当時は中将)

松井大将は陸軍大学を首席で卒業した英才。
シベリア出兵当時は浦塩派遣軍参謀やハルビン特務機関長などを歴任している。
この点も授章理由として考慮されたものだろう。
当時、松井は参謀本部員として外遊中であり、日本軍部を代表しての親善訪問を兼ねてワルシャワを訪れた。
一説では、その真の目的は日本軍とポーランド軍との対ソ軍事外交情報収集に関する協力関係を築くためであった、といわれる。

右側の日本人は当時在ポーランド日本公使館付き武官、鈴木重康中佐。
松井大将は中国や欧州の海外事情に詳しく、陸軍でも中国との宥和を重視し、和平推進派で知られていた。
だが、主戦派の陸軍主流からは次第に孤立、支那事変における中支派遣軍司令官を最後に現役を退いた。
戦後の極東裁判で、南京事件の責任を一身に背負い、B級戦犯として処刑された。


なお、提示した証明書にもあるとおり、上記四将官の受章当時の陸軍大臣は石坂の盟友、宇垣一成であった。
石坂中将の浦塩時代の活躍ぶりを誰よりも知悉していた宇垣である。
ゆえに、おそらく宇垣は叙勲調書作成の折、ポーランド政府担当官に、誰よりも受章にふさわしい功績のある人物として、石坂のことを告げていたとも考えられる。












 

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(1)

さて、ここで石坂少将のハルビン特務機関長としての活動歴に戻るとしよう。

次の公文書は石坂少将とポーランド人白衛軍との関わりの一端を示すものと見られる。


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これらの通信は、石坂少将から浦塩派遣軍参謀長を経由して送られた東京の陸軍次官宛の伺い書、及び同省からの返答である。
この文書のやり取りの時期は、大正9年5月であり、丁度アレンがウラジオからの脱出船の調達がうまくいかず焦っていた頃のものだ。

大意は、日本軍と同じくシベリアで赤軍と戦っていたポーランド人白衛軍からの申し出に関するもので、同軍所有の赤十字病院列車を3~4ヶ月間、日本軍に提供する旨のオファーである。
その条件としては、西方戦線から(赤軍に追われて)遁走してくるポーランド(義勇)兵があれば収容することだが、それ以外の目的でも日本軍が随意使用することも認めている。
しかも軍医、看護婦他、乗務員の給与はポーランド側が負担するという好意的なものだ。
陸軍省としても反対する理由などあろうはずもない。
「その提供を受け、我軍に於いて使用することに取り計らいありたし」と承認している。
石坂少将とポーランド軍との良好な関係を伺い知ることができる記録文書であろう。


ポーランド人の白軍兵士は在シベリアの同国人から成る反赤軍義勇兵たちであり、これはそのままシベリア・ポーランド人のコミュニティの人々と言い換えることもできるだろう。
なぜ東シベリアにまでポーランド人が住んでいたかというと、ロシア帝国の厳しいポーランド属領統治などに逆らった政治犯や人々、そしてその家族たちの流刑地であったものだ。
それまで未開の地であったシベリア開発や鉄道の敷設のための労働者として当てられていた面もあるだろう。
そして、やがてロシア革命が起こったのだが、モスクワの過激派政府は彼らの境遇に特に同情したわけではなく、無関心に近かった。
それ故か、チェコ軍団の一斉蜂起が起きた時に同調した男たちのポーランド義勇兵部隊が反モスクワ白衛軍の戦列に加わることになった。(「第五ポーランド師団」など)

「波蘭国 (ポーランド国)」と表記されているが、これはロシア革命の混乱を契機に樹立されたポーランドの独立政府を我が国が既に承認していたからで、実質的には在シベリア・ポーランド人で組織されていた反モスクワ民族独立勢力であろう。
「タルゴフスキー」なる人物についてはまだ未調査だが、通信文の文脈から察するにポーランド軍関係者というよりは、在シベリアのポーランド赤十字社或いはポーランド人組織の関係者であろうか。

「東京 軍 五師団 済」とあるのは、同様の文書が参謀本部 (或いは外務省?)、浦塩派遣軍司令部、そして在シベリアの第五師団司令部にも回っていることを示すものか。



また、次の文書も石坂少将及び彼が在籍した浦塩派遣軍が、在シベリアのポーランド人たちと浅からぬ関係にあったことを物語る史料として提示したい。

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陽明学的行動派知識人 外伝③ 杉原千畝とハルビン

では、次に述べるのは、リトアニアでのユダヤ難民救出のヒーロー、「命のビザ」であまりにも有名な杉原千畝領事代理についての所見である。


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杉原千畝 (1900~1886)

杉原の事蹟については、「日本のシンドラー」と讃えられ、テレビや映画などでよく取上げられている。
おそらくは、知らない方がむしろ少ないであろう。
ただ、「日本のシンドラー」 という形容はいかにも安易であり、あまりフィットしているとは思えない。
自らの危険も顧みず、多くの苦境のユダヤ人を救ったという点では確かにオスカー・シンドラーと同列である。
だが、それぞれの事件の複雑な背景やシチュエーションが余りにも違いすぎるのだ。
かなり昔に流行った、ローカル都市を引き立たせる呼称、「○○市の銀座通り」や「○○地方の小京都」 のような安直さを感じるのは執筆者だけであろうか。


ともあれ、筆者として興味をそそるのは、巷に知られている彼の偉業のそもそもの出発点である。

ちょうど20世紀が始まった年、1900年に岐阜県賀茂郡八百津町で生を受けた杉原千畝。
旧制の愛知県立第五中学を卒業後、上京した。 

やがて早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学。(1918年)

それから一年余の在学後、思い切って外務省留学生試験に応募、難関であったがみごと合格した。

まもなく、ロシア語学生として満州の国際都市ハルビンへと官費留学を命じられた。(1919年)

当初は民間での個人レッスンでロシア語習得に励んだのだが、1922年から 「日露協会学校」に入学し、より本格的な教育訓練を受け始めた。
 

日露協会学校は日本政府に繋がる専門教育機関であったが、後に「哈爾浜(ハルビン)学院」という校名となり、昭和に入って満州国が建国されて後は、同国の国立大学として再編された。

戦前の日露関係分野で活躍する官吏やビジネスマンを育成する、特殊な性格を帯びた教育機関であった。
だが、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦とともに必然的に閉校となり、その歴史的使命を終えた。

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哈爾浜学院(昭和初期)

ここで注目したいのは、杉原が現地ハルビンで官費留学生として学んでいた時期と、石坂少将がハルビン特務機関長として赴任していた時期が部分的にオーバーラップしていることだ。
つまり、石坂がいわば日本軍情報機関のハルビン支局長であった1919年2月~1921年3月までの間と、杉原の現地留学期間が一部重なっていたことだ。(※この間に杉原は途中、朝鮮で一年間の兵役期間を過ごしているが)


言い換えれば、杉原がハルビンにやってきて学んだ時期というのは、日本軍がシベリア出兵していた頃であった。
そのことは、彼がハルビンに滞在していた初期の頃に、陽明丸のロシア児童難民やポーランド孤児難民の救援が行われたことも同時に意味するものだ。
我々としては、この点にもっと注目しても良いように思う。 



日露協会学校(ハルビン学院)は上記で述べたように、表向きは日露間の交易交流に必要な人材を養成する教育機関であったが、一般の学校とやや異なる面があった。
それは当時、シベリアや満州など外地での日本帝国の国策遂行に必要な特殊人材を育成することに重点が置かれていたことだ。
同校卒業生は外務省だけではなく、満州鉄道や満州国の日本人官吏、そして日本軍(浦塩派遣軍、後に関東軍)特務機関の要員などに採用されて巣立っていった。
ちなみに杉原の場合は卒業後、外務省書記生となり、在ハルビン大使館員を経て、満州国建国の後には同国外交部の官吏となった。
ちなみに満州国官吏時代には、その非凡な資質能力を見込まれて関東軍の情報機関員としてスカウトされかかったが、これは本人が拒否している。
大正時代と異なり、満州国建国後の関東軍の傲慢さに杉原が嫌気をさし始めていた頃だ。 



さて、戦前当時のハルビンは華やかな国際都市であったが、同時に各国の情報機関員が出入りする 「スパイ天国」 としての一面もあった。
特に日本軍及び外務省としては、戦前の主要仮想敵国であったソビエトロシアとの絡みで、対ソ情報収集及び諜報工作の重要な基地と位置づけられていた。
だが、このことは逆の見方から言えば、ソ連側情報機関からの浸透も当然あり得たわけだ。
つまり、ハルビンは東アジアにおける日ソ間の諜報合戦の主戦場でもあったと言えよう。


日露協会学校もその性質上、様々なロシア人が出入りしていたわけである。
その中には、
機密情報の収集のためにソ連の潜入工作員が混じり込んでくることも十分ありえた。
また、同校卒業生は国家機関や民間の重要部署に配属されることも多かったので、教師や学生をスパイにするために洗脳工作を仕掛けてくるリスクもあったわけだ。


それ故であろうが、次の大正15年の公文書はハルビン特務機関通訳を兼ねていた同校教師であった人物の談が日本官憲に注目され、内務省や外務省、陸軍省に報告、回覧されているものだ。


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(画像をクリックすると大きくなります)


要旨は、この教師は(ハルビン)特務機関から命ぜられた任務であろうが、同校教師たち(国籍としては日本、ロシア、支那三ヶ国にまたがっていた)や生徒の思想チェックも内密に行っていたようだ。


「過激思想二感染セシムルコトナカラシムル為」 とあるが、一応、彼の在任中は「憂慮スベキ傾向」 はなかったとも述懐している。
だが、ハルビン特務機関としては、防諜という点で神経を尖らせる必要のある、要注意監視対象であったのだろう。


さらに付言すると、杉原の在ハルビン初期の頃に起きたポーランド児童難民の救援の事蹟については、彼自身も関知していたと見る方が自然であろう。
否むしろ、そのロシア語能力ゆえに、日本軍官憲によるハルビンでの児童捜索や救出にも動員され、直接関与していた可能性さえ十分あると思われる。

何しろ、その頃は彼にとっては一番多感な青年期であった。
特に、ハルビンは彼が若き外務省留学生として、最初に長期滞在した場所であった。
また、杉原が最初の妻、白系ロシア人のクラウディアと結婚したのも、当地に来てまだ5年目であった。
そして、彼の在ハルビン期に行われたポーランド孤児難民救出作戦は、その背後に複雑な国際情勢が絡んでいたにせよ、日本軍が行った数少ない国際人道救助であった。
日本人によるポーランド孤児難民救出を目のあたりにして、何らかの強いインパクトが彼の胸に響かなかったとは言い切れまい。

これらの一連の経験が鮮烈な記憶となり、彼の以後の人間観、倫理観のベースとなったのではないだろうか。
それが後年のリトアニアでのユダヤ人救済の精神的下地であったことを否定する理由はあろうか。


なお、もうひとつのユダヤ難民救出事蹟、「オトポール事件」が起きたのも、その主役であった樋口少将がハルビン特務機関長在任中の時であった。
樋口はハルビン特務機関長としては、大先輩である石坂少将のはるか後輩であったわけだ。

ハルビンというまことにユニークな国際都市はロシア、支那、日本三ヶ国の外交軍事上の利害関係、そして民族文化が複雑に入り組む不思議な街であった。
ハルビン住民は白系ロシア系、中国系、満州系、日本系、朝鮮系、ポーランド系など多岐にわたっていたが、比較的穏やかに暮らしていたようだ。
住民同士は互いに民族、人種、宗教などの相違を超えて、共存共栄にでき得るかぎり努めていたのだろう。
その意味で、ハルビンは或る意味では
西洋と東洋が平和裡に融合していた、まことにユニークな都市であった。
一種の擬似コスモポリタン(世界市民)都市であったとも言えるだろう。

そのような意味でも、且つて住んだことのある人たちには決して忘れられない魅力的な街であったことであろうう。
特に、石坂少将、杉原千畝、そして樋口少将のような研ぎ澄まされた国際感性を合わせ持つ人たちにとっては。

そして、ハルビンの街で、
日本人には希な、人種や民族を超えた豊かなコスモポリタン的素養が自然に培われたのではないだろうか。
その素養は、彼らの良心の赴くままに、後に成し遂げたそれぞれの国際人道救助のバックボーンとなったのではないだろうか。


彼ら、真に心ある人々は異文化に自ら溶け込もうと懸命に努めるうちに、いつしか夜郎自大、偏狭な民族主義の愚かさを悟ったのではないだろうか。
極限状況にある弱者を見棄てるのではなく、人種・民族を超えて可能な限り救いの手を差し伸べるのが人としての道ではないか、という獏たる思い。
つまりそれは、国際赤十字や緒方洪庵適塾の根本理念にも通じる、素朴ではあるが彼らなりの確固としたコスモポリタニズム精神ではなかったか。 


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哈爾浜   夜の哈爾浜駅 (昭和初期 絵葉書) 筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)

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哈爾浜   満州人商店街 (昭和初期 絵葉書) 筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)



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哈爾浜  街角にて (昭和初期 絵葉書) 筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)

なお、戦前のハルビンに関する別の記事がブログ内にありますので、ご興味があればご高覧ください。

陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 1

陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 2-②

陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 2-①
陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料  3

陽明学的行動派知識人 外伝② 樋口季一郎将軍

ここからは、戦前昭和期、代表的な国際人道主義の主役であった二人の日本人、つまり 「オトポール事件」の樋口季一郎中将、そして「命のビザ」の杉原千畝領事代理に関する所見を述べてみたい。
彼らについては、これまで述べた幾つかの大正期の事蹟と多少の関わりがあると執筆者は見ている。


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樋口季一郎中将



樋口中将の 「オトポール事件」については、ご存知の方が多いと思うので特に詳細には触れない。
概略としては、1938年(昭和13年)3月、シベリア経由で迫害を逃れてきた多数のユダヤ難民を彼が救済した事跡である。
彼らユダヤ人はナチスの手をようやく逃れてソ満国境までたどり着いたのだが、満州国政府から入国を拒否され、オトポール周辺で極寒の中での野宿を強いられていた。
日独伊三国同盟化が急速に進んでいた時期であった。
ユダヤ人迫害を進めていたナチスドイツの目を意識して、満州国やその背後にいた関東軍は彼らに救いの手を差し伸べず、放置したままだった。

ところが、関東軍ハルビン特務機関長であった樋口少将(当時)が「人道上の問題」として、見るに見かねて職権で介入したものだ。
部下のユダヤ問題専門家、安江仙弘大佐とともに入国ビザの発行や特別列車の手配、食料衣服等の支給、緊急医療班などを満州国政府や満鉄に働きかけ、彼らの救出に急行させた。
もう既に凍死者、餓死者が出始めていたので、実にきわどいタイミングであった。
また、その後の満州国内への入植や上海共同租界への移動についても、できるだけの便宜をはかっている。

彼の決断によって救われたユダヤ難民の数については諸説があり一定しない。
数百人から二万人と幅がありすぎるので、はっきりとした数字は未だに掴めていない。
だが、合理的な推定と思われるのは、この救済時当初は数百人であったが、1941年のドイツ軍のソ連侵攻により欧州方面からの流入が遮断されるまでの約3年間、この「ゼネラル樋口ルート」を使って死から逃れることができたユダヤ難民は数千人に昇ったであろう、とする説だ。
これは、樋口自身が戦後に残した手稿に「数千人」と一旦は書いた形跡があるので、それにも合致し、信憑性が高いと思われる。

だが、このユダヤ難民救済については、樋口少将自身の独断で行ったに等しく、全責任を一身に背負って敢行されたものだ。
当然ながら、関東軍司令部の正規な許可を得ていなかった。
ゆえに処罰として、特務機関長としての職位を剥奪されるどころか、下手をすると独断専行、命令不服従で軍から訴追される恐れさえあった。
この点については、案の定ドイツ外務省から抗議があり、ひと悶着あったようだが、当時の関東軍参謀長であった東條英機中将の裁断で、結局は不問に付された。
後年、首相の座に就いて国民を破滅の戦争に導いた張本人のイメージが定着している東條だが、この時はなぜか非常に物分りの良い上司としての英断を下している。
おそらく東條は満州のユダヤ人の扱いについては彼なりの思いがあっただろうし、何よりも樋口の私心のない高潔な人品を高く評価していたようだ。
だからであろう、この後、樋口は左遷どころか、陸軍参謀本部第二部長という軍中央の要職に栄転している。
それにしても、自身のキャリアを賭けてでも人道主義を貫いた樋口の勇気、侠気には、いくら賞賛してもしきれるものではない。

この事件について補足すると、樋口少将はハルビン特務機関長に就任後、既に満州在住の亡命ユダヤ人団体との友好的な交流を始めていた。
その代表者はアブラハム・カウフマンという人物で、親しくなった樋口に難民の窮状を伝えて救済を直訴した。
樋口の果断な処置はこれに応えるものであり、カウフマンたちは終生その恩義を忘れなかった。
日本の敗戦の後、ソ連は後に述べる 「占守島の戦い」 での屈辱を晴らすため、そして対ソ諜報活動の幹部であった樋口を戦犯として名指しし、引渡しを要求した。
だが、カウフマンたちは大恩人の樋口を守るため、世界ユダヤ協会を通じて米国内で猛烈な救援運動を起こした。
その結果が実り、ソ連への身柄引渡しはマッカーサーのGHQによって拒絶された。

米軍は念のために、樋口の部隊について戦時中の米軍捕虜等への虐待がなかったかを独自に調査している。
だが、これについても一切そのような容疑事実がなく、適切で人道的な扱いであったことが判明し、米軍調査官に深い感銘を与えている。 


さて、このオトポール事件ひとつだけでも十分に凄い功績なのだが、彼は他にも非凡な功績を幾つか残している。
まず、樋口が1943年(昭和18年)7月の「キスカ島撤退作戦」時の北方軍司令官であったこと。
実際にこの「奇跡の救出作戦」を行ったのは木村昌福少将率いる海軍部隊だが、陸軍の方面軍司令官 ( 司令部:札幌) として、海軍としっかりと連携していたのは樋口中将であった。
特に、成功の決め手となった要因の一つとして、海軍艦艇による救出時、約5千人にものぼる守備隊兵士の兵器類を全部海中投棄させたことだ。

帝国陸軍にあっては、全ての兵器類は国軍の大元帥である天皇からお預りしたものであった。
それゆえに、軍艦の艦首や三八式歩兵銃には皇室の菊の御紋章が入っていたのである。
徴兵された新兵は鬼のような古参兵から、「貴様らの命よりは銃の方がずっと大事なんだから大切に扱え!」と、どやしつけられた時代であった。
だが、撤退作戦時は既にこの海域の制空権、制海権は米軍に握られていたので、海軍側からは救出時の乗船完了に要する時間はわずか一時間に制限する旨、強く要求されていた。
もしそうであれば、兵器類を一緒に艦内に持ち込んでいては、時間的にはとても間に合わない。
モタモタして手間取り、厳重に監視している米軍に発見されれば、救う方も救われる方も皆一巻の終わりである。 

樋口は決断し、兵器類の海中投棄を指示した。
それ故に守備隊兵士たちは各自の兵器を投棄し、約五千人の兵士が最短時間で乗船することができた。
また濃霧であったことも幸いし、米軍の目を逃れることができ、全員かろうじて無事救出された。
まさに文字通り、奇跡の救出 作戦であった。

ただ、この兵器の投棄は大本営から事前に許可を取っておらず、事後報告となった。
それゆえに大本営幕僚たちから、後にかなりの批判を浴びている。
ほとんど消耗品同然の下級兵士の命より、軍の建前を優先させるのが昭和期軍部の悪しき習性であった。
ゆえに、彼らからすれば、「恐れ多くも陛下の御紋章入りの銃を投棄してくるとは何ごとか!」 という憤懣であろう。
だが、樋口中将の判断は絶対に正しかったと言えよう。
もし事前にこの件について、頭の固い大本営に許可を仰いでいれば、まず否決されるか、たとえ許可になってもかなり時間が費やされた恐れがあり、救出作戦は時機を逸していたであろうから。

これも幸い、結果的には不問とされたようだ。
やはり、樋口中将のあくまで人命尊重の合理主義に基づく判断には、たとえ大本営の頑迷な首脳部でも論破できなかったのだろう。

この点も補足すると、この奇跡の救出作戦には明暗を分けた悲しいできごとがあった。
この作戦の少し前にアッツ島玉砕戦が起きていることだ。
彼らはキスカ島の近くのアッツ島に展開していた守備隊であり、同じく樋口の北方軍管轄の部隊であった。
だが、大本営はミッドウェー作戦の大敗の余波でこの島を見捨てる方針を固めた。
これにはいくら樋口であっても、冷酷にその決定を下した大本営には逆らえなかった。
涙を飲んで従わざるを得なかった樋口であったが、二千数百人の部下をむざむざ見棄ててしまった痛恨でひとり慟哭し、彼らが壮烈な玉砕を遂げた直後から激痩せしたといわれている。
人一倍、部下思いの樋口であったから、これは相当の心の負担となったものだ。
そのためであろう、敗戦後は自宅でアッツ島を描いた絵に毎朝礼拝するのが晩年まで続けた日課であった。
彼の苦悩の深さは我々が伺い知ることもできないほどであったようだ。
一方で、キスカ島守備隊に兵器を投棄させてでも全員救出したかったのは、そのような無意味な悲劇を繰り返すべきではない、という樋口の断固たる意思の現れであったと見る。

樋口自身はキスカ島守備隊救出に関与した自らの功績を終生誇ることもなかった。
戦後に書かれた彼の手稿では、「キスカ島の撤退作戦が成功したのは、ひとえにアッツ島で散った英霊たちのご加護である」 旨、淡々と述べられている。
この文脈からも、彼の指揮官としての品格の高さ、そして謙虚な人柄が滲み出ているのではないだろうか。


それにしても、昭和の多くの高級将校の中にはこのように名将もいたが、ひどい連中も多くいた。
例えば大戦末期のフィリッピン戦線で後にほぼ全滅した一万人の部下を置き去りにして飛行機で逃亡してきた司令官もいた。
また、現実無視のひどい作戦立案で、ビルマ戦線の二万人の兵士たちをジャングルでのたれ死させたインパール作戦の例もある。
この作戦の大失敗をめぐり、醜い責任のなすり合いに終始した現地の司令官たちや大本営参謀の行状と、樋口中将をどうしても比較してしまう。
彼らが同じ日本人であったかと思うと慄然とせざるを得ない。


そして彼のもう一つの大きな功績は、1945年8月の千島列島の占守島(しゅむしゅとう)の対ソ連防衛戦であった。
終戦まもなく、日ソ平和条約を破棄し、突如9千人の大部隊で島に侵攻してきたソ連軍と守備隊の戦闘である。
ソ連の国際法無視の不法な侵攻を阻止するために、北方軍司令官であった樋口は断固として戦うことを決断し、守備隊に反撃を厳命した。
樋口は元来、対露諜報の専門家であったから、ソ連の危険な侵略的意図については、終戦で混乱の極みにあった東京の軍・外務省首脳よりも先が読めた。
幸いにも同島守備隊は精鋭、関東軍の一部で士気が高く、少数ながらも戦車や軍用機も備えていたので、押し寄せるソ連軍相手に非常に善戦した。
死傷者数では、侵攻ソ連軍が日本軍を大きく上回ったものだ。
結局は停戦になったが、この手痛い反撃はソ連首脳には大きなショックであり、日本軍がいまだ相当に手ごわい軍隊であることを渋々認めざるを得なかった。
また、対日戦の実質的な勝利者であった米国も、トルーマン大統領が国際法を無視したソ連の火事場泥棒のようなやり方に厳しい目を向けたことも幸いした。
ついにスターリンは日本の本土である北海道への侵攻を諦めるしかなかった。
もし、この時に樋口中将が断固たる反撃命令を出さず、或いは樺太を含めた辺境の守備隊があれほど敢闘しなかったら、今頃は北海道はロシア領になっていたことはまず間違いない。
樋口はスターリンの野望を打ち砕き、日本が旧ドイツや朝鮮のような惨めな分断国家になることを防いだのだ。 


このように昭和の大戦争の折、重要な局面でこれほど大きな功績を幾つも残し得た将官は彼を除いてどれほどいただろうか。
彼ほどの優れた識見、高い指揮能力については、昭和期の他の幾人かの名将たちも併せ持っていたことだろう。
だが、特に樋口中将の場合、それだけではなく、我々の心を真に打つものは、その人一倍豊かなヒューマニズムである。
彼の高潔で、世界にも普遍的なヒューマニズムが溢れた人柄は、彼を知る人々だけでなく、天つ神にも愛されたことであろう。
そして、神は真の意味での選良である彼を守護し、彼を通して救済をひたすらに待つ人々を救い、またソ連軍の理不尽な侵略から我が国の北方を守らせたのではないだろうか。


ところで、この人格識見共に優れた名将、樋口中将だが、元々は石坂中将と同じく主としてロシア方面を専門とする情報将校であった。
明治21年(1888年)、兵庫県本庄村(現 南あわじ市)で生を享け、明治42年に陸士卒(21期)、卒業後は歩兵第一連隊(東京)に配属された。
第一次大戦中の大正7年に陸軍大学卒業。(30期)
大正8年には陸軍参謀本部勤務となり、まもなく浦塩派遣軍司令部の特務機関員に抜擢されてシベリアに渡った。
派遣軍司令部ではやがて優れたロシア語能力、交渉能力が評価され、最前線のハバロフスク特務機関長に任命され、情報将校として現地に赴任した。
まだ、三十歳そこそこの若さであった。
当時、ハバロフスクはシベリア出兵の日本軍の勢力下にあったが、戦線の縮小に伴い、翌年の大正9年には日本軍は同市を撤退している。
樋口大尉(当時)は、派遣軍司令部の命により、日本軍撤退の後に市内に進駐してきた赤軍と交渉し、ハバロフスク特務機関の駐屯存続をどうにか認めさせた。
だが、敵中で孤立した中での情報収集活動であったので、危険極まる任務であった。
赤軍がもしその気になって彼の特務機関(樋口以下、数名のスタッフに過ぎなかった)に攻撃をかければ、ひとたまりもなく全滅していたことだろう。
パルチザン軍による邦人の残虐な大量殺戮、尼港事件からあまり月日が経っていない物騒な時期であった。
人の命が鴻毛より軽い内戦期のロシアであった。
この命懸けの綱渡りのような危機を乗り越えられたのは、彼の抜群の交渉能力と誠実な人柄が、敵軍にあっても高く評価されたからだろう。
当時の赤軍は後の時代のような硬直した官僚組織ではなく、様々な個性ある人物で成り立っていた。
個人としてのロシア人は国家としてのロシアと異なり、基本的には大らかで人好きであり、一旦打ち解けると日本人よりもフレンドリーになることが多い。
おそらく彼らは樋口大尉を「 敵ながら天晴れな奴 」 と認め、内心敬意を払っていたのであろう。
 
同市での彼の特務機関は大正11年まで存続したというから、その勇気、豪胆さには舌を巻かざるを得ない。
その間、同市には白軍部隊が侵攻してきたり、再び別の赤軍部隊が入ってきたりして、樋口も心の安まる暇もなかったに違いない。
この間、赤白両軍の戦闘で、巻き添えをくったハバロフスク特務機関とウラジオの派遣軍司令部の電信連絡は一時途絶えてしまった。
そのせいだろうが、毎日新聞からは「樋口大尉、ハバロフスクで戦死?」という誤報さえ出たらしい。
当時、樋口は新婚からわずか数年であったから、夫人の気苦労もさぞかし大変であったことだろう。 


以下の公文書は、当時のハバロフスク特務機関長であった樋口大尉から派遣軍・陸軍省に送られた定期的なレポートの一部である。
内容は同市に駐屯していた赤軍の詳細な軍事情報だけでなく、政情や民情なども極めて精緻に分析、報告されているものだ。
枚数は全部で数十頁にわたるもので、全部を掲載できないので、これはそのごく一部に過ぎない。
これらから、樋口大尉が当時から如何に有能な情報将校であったかが十分に伝わってくるであろう。


 
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シベリア出兵の終了後は、樋口は参謀本部に戻り、それからは大正14年ポーランド公使館付武官、昭和12年のベルリン出張、そして同年のハルビン特務機関長、昭和13年の参謀本部第二部長と、主として情報・参謀将校としての活躍の場が次々と与えられた。
その後、 昭和14年には陸軍中将に昇級して第九師団(金沢)師団長に天皇から親補された。
そして太平洋戦争では新たに北方軍司令官(司令部:札幌)に任命された。
ここでいよいよ、戦局の重大な局面となるキスカ島撤退作戦及び占守島防衛の両作戦の最高指揮官となる運命を迎えたわけだ。




















陽明学的行動派知識人 外伝① 心優しきスパイたち

オスカー・シンドラー、石坂善次郎(将軍)、樋口季一郎(将軍)、杉原千畝(副領事)、松平恒雄(シベリア派遣軍政務部長)。

以上、シンドラー以外は、このブログでこれまで登場した馴染みのある人物たちである。
そして、筆者はこれらの人物には、或る共通した因子があると見ている。
それは何であろうか。

それは彼ら全て、且つては諜報員、ないしは諜報任務も仕事であった外交官であったことだ。
オスカー・シンドラーは映画 「シンドラーのリスト」では単に実業家としか描かれていないので、なぜ諜報員なのかと疑問を持たれるであろう。


シンドラー











 オスカー・シンドラー (1908~1974)

だが、彼は実業家になる前には、ナチスドイツの諜報員として活動した時期があった。
シンドラーは元々はチェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)生まれのドイツ系住民、つまりドイツ系のチェコ人であった。
兵役期間などを経て、1935年にドイツ民族主義系の右翼政党に入党した。
この当時は丁度アドルフ・ヒトラーがドイツの中央政権を握って間もなくの頃。
ナチス党はまさに日の出の勢いであった。
そのプロパガンダ活動はドイツ国内だけに止まらず、ドイツ系住民がいる周辺の国々にも猛烈に浸透しはじめた。

熱烈なドイツ民族主義者となったシンドラーは、ドイツ国防軍情報部( 略称 Abweher  アブヴェーア)所属の秘密諜報員となり、主としてチェコ国内やポーランドでの軍事情報収集に従事した。
だが、その後にチェコ政府当局に逮捕され、国家反逆罪で死刑を宣告された。
だが、彼にとっては幸いなことに、まもなくチェコはナチスドイツに武力で解体、併合され、シンドラーは危ういところを逃れることができた。
それから、彼はナチス党に入党し、諜報員から一転、ナチス当局や軍に取り入って幅をきかせる実業家としての後半の人生が始まったのだ。
映画では、このような事実は特に描かれていないが、執筆者の見解では、この前半の履歴、つまりが彼がスパイであったことは、後になし遂げたユダヤ人救済と不可分であった、と見る。


映画でまさに描かれているように、シンドラーは大量殺戮されつつあったユダヤ人たちを少しでも救おうと決意し、その方策を次々と実行していった。
だが、対峙する相手は生半可な連中ではなく、悪名高いナチス親衛隊(SS)であった。
彼らの最重要任務にはユダヤ人の根絶が含まれていた。
SSはまるでドイツ製精密機械のように、東方占領地域等でのユダヤ人の大量殺戮を極めて組織的、能率的に遂行していたのである。
そのように冷血で、危険極まりない連中の裏を掻いてユダヤ人たちを救出したシンドラーであった。
当然ながら露見すると彼自身にも確実な死が訪れていたはずだ。

このような想像を絶する修羅場での、命懸けの綱渡りのような彼の行動であった。
この大胆さ、神経の図太さは並み大抵の実業家のものでは決してありえない、と見る。
猜疑心の強いSS当局さえ丸め込む、駆け引きの手際の良さ、考え抜かれた欺瞞の手法はまさに熟練スパイの手口であろう。
まことに皮肉なことであるが、且つてナチスのスパイとして培った彼の卓抜な技能が、ナチスSSを欺いてユダヤ人を救出した決め手になったと言えないだろうか。


さて、我々が陥りやすい先入観だが、「スパイ」と聞くとすぐ思い浮かぶイメージがある。
冷血で非人間的、狡猾で裏切りを事とする非情な男たち、というようなものだろうか。
これは主として、映画やテレビのスパイドラマの影響によるものだろう。
つまりステレオタイプとしての「スパイ」である。
だが、スパイの実像は決してそのような単純なものではなかった。
たしかに、我々の先入観どおりのダーティなスパイも少なくはなかっただろう。
金や利得、愛欲のために祖国を平気で裏切るスパイも多勢いたことだろう。

だが、実際のスパイには、そのようなタイプの連中だけではなかったようだ。
至って「真面目な」 動機により、その道に入った連中も多かったのだ。
つまり、その動機や目的はさまざまであったわけである。
例えば純粋に愛国心や、信奉する思想信条であったり、或いは選んだ職業(例えば軍人、外交官など)に付随するものあったりした。
それ以外にも、単なる知的好奇心からとか、冒険心からとか、様々な理由や経緯で情報員になった連中もいたのだ。

これらのカテゴリーに属するスパイたちだが、二三の例を挙げてみよう。
まず、愛国心ないしは思想信条に従ったのはナチス諜報員時代のシンドラーであり、また戦前日本で捕まり死刑となったソ連の二重スパイ、リヒャルト・ゾルゲの顔も浮かんでくる。

次に、職業柄、スパイ任務に従事したのは主に軍人であった。
我が国でも明治維新以降、多くの優秀な軍事スパイが輩出し、国外を任地として華々しく活躍した。
我々には、特になじみが深い石坂将軍や樋口将軍、明石将軍もそれらの中に数えあげられる。
彼らこそ、頗る危険な任務に生命を賭したプロフェッナルたちと言えよう。
杉原千畝も外交官の裏の顔は、一流の技能と実績を持つ優秀な諜報員であった。
彼が欧州に派遣されたのは、そもそも単なる領事館勤めではなく、大戦中の彼の地での機密情報収集であった。

また、松平恒雄の場合は、最上級の外務官僚ではあったが、彼が活躍した時期は戦争に次ぐ戦争の時代であった。
戦時の外交官というのは、外交だけでなく政治軍事情報の収集、分析が任務としては不可欠であった。
だから、シベリア出兵の折には派遣軍政務部長として、対ソ諜報の取り扱いもその職務に含まれていた。
また、その後、大使クラスの大物外交官として欧米各国に赴任した時も、外交と諜報を表裏で使い分けていたはずだ。
それ故に、彼も一種の諜報員(ただし最上級クラスの)であった、と見なしても満更間違いないであろう。

一方、知的好奇心や冒険心、人間学的興味でスパイになった連中は英米に多いようだ。
その中には著名な作家が幾人も含まれる。
たとえば、英国の小説家サマセット・モー厶が諜報員であったことはよく知られている。
同じく英国の作家ジョン・ル・カレも外交官の身分で従事した諜報任務の経験を生かし、後にスパイ小説の大家となった。
また、「007」シリーズの原作者、英国人イアン・フレミングが現役時代は軍事諜報員であったこともよく知られている。
そして、米国の著名作家、「ジャッカルの日」のフレデリック・フォーサイスも英国秘密情報部(MI6) と繋がりがあったことが、後年明らかにされた。


ことほどさように、スパイになった人々の多くは、決して単なる 「狡猾非情な輩(やから)」ではなかった。
むしろ、知性豊かで鋭い直感力があり、人間観察にも非常に長けていたことがわかる。
平たく言えば、プロのスパイとして敵地で活動するには、相当に優れた頭脳と体力、そして度胸を併せ持っていることが必須条件であった。
特に戦時スパイとなると、もし捕まれば国際協定(当時はハーグ陸戦協定)で保障される軍人捕虜としての権利を認められず、外交官でない場合は死刑になることも多かった。
相当に危険な割には、あまり報われない地味な仕事であった。


だから、一口に「スパイ」といっても、いわゆるステレオタイプのスパイ像とはほど遠い、傑出した資質を持つ人々が少なからず存在してたことは紛れもない事実であった。
そして、このような人々が同時に、人一倍センスティヴで人間性豊かで且つ人道主義にも敏感でなかった、と決めつけるべきでもない。
逆に言えば、凡人である我々よりも、或る意味で優れた能力、感性を持っていたであろうから、彼らが心優しい男たちではなかった、とも決して言えないであろう。

そして、筆者の深読みの見解を述べる。
彼らの中でもとりわけ人間性に溢れる心優しい男たち、例えばシンドラー、樋口将軍、石坂将軍、杉原千畝、松平恒雄などが、成り行きの結果として国際人道救援に係わったというのは、決して偶然ではなかったと見る。
それどころか、これらの事蹟は、彼ら 「心優しきスパイたち」 が生み出した必然的な産物とではなかったか、と見るのだ。

彼らは苦境にある弱者に運命的に出会ったが、高い人間性ゆえに内面でさぞ葛藤したことだろう。
深く同情はするが、彼らを救援することの困難さをよく認識していたからだ。
だが、熟慮の末、彼ら自身にできることはやってやろう、と思い立ったのではないだろうか。
そしてとにかく熟慮決行したが、彼らの信念と非凡な能力ゆえに、幸いなことに無事に成し遂げられた、ということではなかったか。

ただし、物事全て、水面下で秘密裡に進めるという職業的習性を持つ彼らである。
したがって、事蹟そのものの存在も当初より、数十年経過して,やっと明らかになる宿命を帯びていたことだろう。






 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第壱拾弐號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第壱拾弐



「オリエント急行殺人事件」 



アガサ・クリスティの最高傑作の一つ、 「オリエント急行殺人事件」 という推理小説がある。
ベルギー人の名探偵、エルキュール・ポワロがオリエント急行列車内で起きた殺人事件の謎解きに挑戦したものだ。

或る米国人富豪が一等車両内で殺された。
当然、殺人事件だが、状況から外部からの殺人者ということは考え難い。
ポワロは乗り合わせた他の一等乗客たち12人の誰かの犯行だろう、と目星をつけた。
だが、これら全員の申し立てによって、彼らには皆完璧なアリバイが成立することが明らかになった。
また、彼らは貴族や外交官など立派な市民ばかりで、富豪を殺すような凶暴な動機も考えつかない。
天才ポワロの懸命な推理でも解明できず、事件は迷宮入りかと思われた。

だが、最終局面で意外な真相が明らかになる。
彼ら12名全員が共謀して富豪を殺したものだった。
つまり、全員が結託して、互いのアリバイを証言したのであった。
そして、彼らの国籍も米英露伊ハンガリー・スウェーデンとバラバラであり、よもや全員が共謀しているとは普通は考えつかない。
これらの人々が乗り合わせたのは、単に偶然であったと誰しも考えてしまうだろう。
ポワロは以上の真相を突きとめて、事件の謎がやっと解かれたというストーリーである。

このストーリー構成にどことなく似ているのが、陽明丸の事案ではないだろうか。
同じく、陽明丸に登場する人々を見る限り、何か特別なことを陰で企図するような者などいない、と誰しも考えるであろう。
だが、裏で見え隠れする石坂将軍の存在を結びつけると、印象が俄然違ってくる。
つまり、一連の主要な関係者である四人の男。
そして筆者が、「主犯」と目星をつける石坂将軍。

これら全ての登場人物が示し合わせたかのように、妙に沈黙を保っているように思えるからだ。
彼らの全ては故人であり、今さら「自白」を得ることもできない。


だが、この事蹟を精査してゆけばゆくほど、この沈黙は故意に示し合わせたもの、との印象が強まってゆくばかり。

つまり、彼らはこの件に関しては、沈黙することが一番良いという結論を共有していた、ということになる。

それを履行するため、墓場まで秘密を持っていった、ということになる。

 

 

そして、いつしか歳月が流れた。
7年前に、ペテルブルクでのオルガ・モルキナと北室南苑の遭遇により、陽明丸の事蹟を日本も知ることになった。

調査が開始され、事蹟の全容が少しずつ明らかになってきた。

当初は筆者も、ロシアや米国サイドの見解と同じ、一見ただの国際的美談くらいに思っていた。
だが、いろいろと丹念に掘り起こしていくと、どうもそれだけではない、という考えに傾きはじめた。
今では、この大航海の背景には、米国もロシアも知らない、日本だけの複雑な事情が存在していたことを確信している。

だが、石坂将軍が深く関与していたという仮説については、あくまで筆者の私論の域を出ない。

この仮説を立証する直接証拠はまだ得られていない。
状況証拠なら、既に述べたように様々な有力なものが出てきた、と思っている。
これらをジグゾーパズルの断片のように並べている段階だ。

そうすると、あの出来事の全体像が朧げながらも見えてきている。
石坂将軍の「容疑」は、限りなく濃厚になりつつあると思う。 
いつの日か、「陽明丸ジグゾーパズル」の最後の一片を嵌めて、一幅の絵が完成することを願うのみだ。


石坂惟寛、石坂善次郎父子は、現在は東京の多磨霊園、「石坂家の墓」で仲良く眠りについている。
昨年、2015年のうららかな秋晴れの日、彼らへの墓参を行った。
広壮な霊園内、ほど良く陽ざしのあたる一角に、それはあった。
心をこめて、お参りをさせていただいた。
そして、その古いお墓の側面に回り、彫られているさまざまな銘文を観察させていただいた。
思わずハッとする箇所があり、手でそっとなぞってみた。
大変古い文字が彫られており、確かに 「茅原●●」 とある。
且つて、石坂・茅原両家の親戚関係が深かった頃の名残であろう。
言葉にならぬ感慨に、暫しふけった。
晩秋にしては一風心地よい秋風が、頭上をくすぐるように、そっと通り過ぎていった。
*************************************** 

 
なお、この事蹟に関連する記事を幾つか書き足しているので、もしご興味があればご高覧ください。
右上の「最新記事」ご参照のこと。

陽明学的行動派知識人 外伝①心優しきスパイたち

陽明学的行動派知識人 外伝②樋口季一郎将軍

陽明学的行動派知識人 外伝③杉原千畝とハルビン

陽明学的行動派知識人 外伝④石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(1)

陽明学的行動派知識人 外伝④石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(2)

陽明学的行動派知識人 外伝④石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(3)

陽明学的行動派知識人 外伝④石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(4)

陽明学的行動派知識人 外伝④石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(5)

陽明学的行動派知識人 外伝④石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(6)



石坂中将

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第壱拾壱號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第壱拾壱




国際人道主義を遵守した、心優しきスパイ?

 

さて、石坂将軍がこれら人道主義的事蹟に係わった、二つの動機。

一つ目は、彼のシベリア派遣軍幹部としての職務遂行上の動機であると見る。
その論拠となる、当時の軍事上、外交上の情勢判断については、既に述べた。
そして二つ目は、石坂将軍個人の心情面の動機と見ている。

彼の心情面の動機。

これは、もはや当人に訊くわけにもいかない。

だから、以下は全て推論である。

彼の代以前の石坂家三代は献身的な医者であった。
一介の町医者ではなく、それぞれ藩医のステータスを持つ指導的な医学者であった。                               

しかも、医学者としての高度の知識能力を身につけていただけではなかった。
文字通り、「医は仁術」というモットーを具現化した、人格的にも優れた人々であった。

彼らの先進医療は直接、間接を問わず、多くの傷病者を救ったのだ。

これら三代の祖先の優れてヒューマンな業績を、石坂将軍は終生誇りにし、深い敬愛の念を抱いていたに違いない。

 

だが残念なことに、彼自身は軍人という、ある意味で正反対な仕事を選んでしまった。

軍人というのは古来、医者のように人の命を救うのと反対で、敵を殺傷することを前提に成り立つ職業である。

おそらくだが、彼は先代までの祖先と彼自身とのギャップというか、パラドックスに悩んだこともあったのでは、と思う。

 

若い時分から、日露戦争も皮切りに、軍事諜報員として様々な国を駆け巡った。
第一次世界大戦では観戦武官として従軍し、凄惨な独露戦の戦場も体験した彼だ。
ペトログラードでは、革命による混乱と暴力、破壊をつぶさに目撃した。 

そしてシベリアでは、内戦で苦悩するロシア国民の目を蔽うような惨状を冷厳に観察するのが、任務であった。

軍の謀略戦の現地指揮官として、記録にも残せないダーティな仕事にも多く関わってきたことだろう。
つまり、流血の戦場と、どろどろした謀略に明け暮れたのが彼の前半生であった。 

 

これら一切の生臭いものから遠ざかり、靖国神社の宝物館という草庵で、文人として余生を過ごそうと決めたのではあるまいか。

靖国神社及び遊就館は、近代以降の戦争で散った日本軍の英霊たちを祀る神聖な場所である。
その遊就館が、彼が現役を退いた丁度その頃、関東大震災で大破し、瓦礫となっていた。
石坂とすれば、何としても彼自身が全力を尽くして再建する、という新しい人生目標を得たのであろう。
筆者は、この石坂の館長就任人事の背後には、間違いなく盟友、宇垣将軍の差配があったとみている。

それまで陸軍次官であった宇垣は、石坂が予備役編入となる二ヵ月前(19241月)に陸軍大臣(清浦
吾内閣)に就任している。
このような軍関連施設のポストの人事を左右する権限を既に手にしていた。 

おそらく、宇垣は盟友の長年にわたる現場第一線の激務をいたわり、


「石坂、お前は御国のために、長い間本当によくがんばってきたな!
それは俺が一番よく知ってるよ。

だが、少しくたびれてるようだから、ここらあたりで気分を変えて、違った仕事をやってみないか。
これは、軍人に似合わず、心が人一倍繊細なお前にしかやれない重要な任務だよ! 」
 
と、遊就館再建の課題を与えて、石坂の人生再スタートを励まし、且つ祝したのではないだろうか。 

 


退役後の石坂のライフワークは他にもある。
郷里岡山藩の名君、池田光政公の伝記の編纂発行がそれだ。

昭和七年に出版されたこの分厚い本は、光政公の研究には今日でも欠かせない精緻な専門書であり、光彩を放っている。
池田家(宗家)三十一万石は、石坂家及び茅原家の地元、備前岡山の代々の領主である。
石坂がこの伝記発行に携わったのは、特に石坂堅壮、惟寛の二代にわたり藩医として取り立ててくれた池田家の篤い恩顧に報いるためであろう。
編纂兼発行者として、「侯爵池田家 家令 石坂善次郎」と記載されているは、その尊崇の念を表現したものであろう。

 

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国立国会図書館 蔵

このように、全く畑違いの学芸的分野に没頭したことも、殺伐とした軍務に明け暮れた前半生から遠ざかりたかったからでは、と思うのは飛躍であろうか。

 

頭脳明晰なベテラン諜報将校であった彼だが、このように鋭敏な文人的側面があったことを見落とすべきではない。

これはやはり、彼が石坂家の人間であり、茅原家の一族でもあったことに起因するものと考える。

この両家系から多くの医療関係者や知識人が輩出しているからだ。
この中には、茅原基治のような外洋航路の船長も含まれる。 

むしろ彼のような職業軍人は例外であった。

 

 

前置きが大変長くなってしまった。
結論としては、彼が関わったと推論する陽明丸の航海。
そして、これも筆者が関与していたと推論するポーランドの難民孤児救出作戦。
これら双方から、「苦難にある弱者、特に子供たちは救ってやらねば」 という強い思いがメッセージとして伝わってくるのだ。


特に、陽明丸の子供たちは、石坂の思い出深い任地ペトログラードから遠く彷徨ってシベリアにたどり着いた気の毒な連中だ。

「この子たちには罪はない。これ以上彼らを戦禍に巻き込むべきではない。」
「何とかして異邦の地から、故郷の親元に戻してやれれば良いが........」 という思いがよぎらなかった、と断言できようか。
しかも、彼らを救助した米国赤十字救護隊の責任者は、養父から高名を聞いていたであろう トイスラー博士であった。


その時の彼の脳裏には、石坂家三代の人々の家訓のようなもの、がこだましていたのではないだろうか。
それは、養父が設立者として名を連ねた日本赤十字社の根本理念と同一であったかもしれない。 

「人間の生命は尊重されなければならない。」
「苦しんでいる者を見れば、敵味方の別なく救助すべきだ。」 と。

 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第壱拾號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第壱拾



陽明丸事蹟とポーランド難民孤児救出との関わり



、陽明丸の子供難民輸送と、とかく並列的に見られがちなのが、ポーランド難民孤児送還及び第一次大戦の帰還兵・戦争捕虜の母国送還である。
前にも述べたように、ポーランド難民孤児の場合は日本政府が全面的に支援協力し、日本赤十字社や軍も動員して行った事蹟として知られている。
救助・輸送したのが小児難民であったために、陽明丸のものと同一の事蹟として間違われることが屡々ある。
また、これらの事蹟をご存知の方が、陽明丸の子供難民輸送も同じカテゴリーに収まるものと考えられても、さほど不思議ではない。

では、陽明丸の子供難民の場合と、ポーランド難民孤児及び大戦帰還兵・戦争捕虜送還において、似て非なる点は何であろうか。
決定的な違いは、前者は 「母国を脱出させて」、後者が「母国に戻すために」 船で輸送されたことだ。

まず、ポーランド難民孤児だが、彼らを救出して母国に送還させること。
それは、どこから見ても人道主義そのもので、非難される余地はない。
ゆえに、日本政府は何ら臆することなく、むしろ国内外へのイメージ・アップ効果さえ計算していたふしがある。
つまり、国としては、むしろ大変「晴れがましい」出来事と位置づけしていたわけだ。
このポーランド難民孤児の母国に戻すため の送還については、そもそもモスクワ政府がクレームをつける理由はなかった。
逆に、「厄介者だから、さっさと連れ出してくれ」 というのが本音ではなかったか。
帰還兵・戦争捕虜の送還も同様であろう。
彼らは軍人の権利義務を定めた「ハーグ陸戦条約」によって、終戦後は母国に帰還する権利を留保していた。 
「第20条:平和克復の後はなるべく速やかに、俘虜をその本国に帰還させなければならない。」

ところが、 「母国を脱出させて」 輸送した、ペトログラードの子供たちの場合はこれらとは真逆であった。                                 モスクワ政府は一貫して彼らの返還を要求し続けていた。              「我らソビエト政府や親たちの承諾もなしに、勝手に子供たちをウラジオまで運び、そのうえ国外に連れ出すとは何事か」というのが彼らの言い分であっただろう。

筆者の見解では、国際法的には米国赤十字にではなく、残念ながらモスクワ側の方に理があったと見る。
たしかに、米国赤十字は凍餓死の危機にあった子供たちを緊急救助し、手厚い医療や教育を行った。
これは、国際人道救助の一環として、賞賛されることはあっても、非難されるものではない。
そして、当時の緊迫した東シベリア情勢による、ウラジオでの軍事的危機から彼らを守るために船出したわけだ。
だが、モスクワ政府側からすれば、不法にシベリアに侵入してきた外国の勢力が、自国民を勝手に国外に拉致したとみなしたであろう。
そういうことをする権利が米国赤十字に有り得るのか、と。
ロシアが全くの無政府状態であるならともかく、当時はモスクワ政府の国内統治機構が曲がりなりにも確立していた頃だ。
彼らが全ロシアの大方を、実効支配していたのだ。
ゆえに、モスクワ政府にしてみれば、子供たちを国外に連れ去ることは、彼らの国家主権を侵害するものであり、メンツを潰される、と憤慨したのではないだろうか。
警察権や徴税権と同じく、国民の保護・管理も国家主権の根幹に関わるものだからだ。
現在の日本政府が北朝鮮の拉致事件追求の手を緩めないのも、被害者のためだけではなく、国家主権の重大な侵害を見過ごせないからであろう。

事実、米国赤十字でも、「子供たちをウラジオストクに置いてゆくべき」 という意見もあったようだ。
また、国際法上は、その方が筋が通ったものであっただろう。
これらの子供たちは国外に緊急輸送すべき人道的理由、例えば政治難民など、残していけば明らかに迫害を受ける恐れがある人々の範疇に入れるのには無理があった。
ポーランド孤児たちのように保護者もなく、異国で放置されて生命の危機にあるという境遇とも明らかに異なっていた。

仮に、アレンが諦めて彼らをウラジオストクに置いていったとすれば、子供たちはモスクワ政府側に引き渡されていただろう。
日本側、特にシベリア派遣軍も気を揉む種がなくなり、安堵したことだろう。
陽明丸の航海も始めからなかったことになる。
ところが、アレンは子供たちを決して置き去りにしなかったのだ。

しかし、モスクワ政府とすれば、彼らを取り戻しさえすれば大義名分が立つので、それでよかったのだ。
彼らを、当時、飢えや伝染病に苦しんでいた数百万の一般ロシア人の子供と、同様に扱って当然だった。
「なぜ、こいつら800人だけ、特別扱いにしなければならないのか?」
特別扱いどころか、懲罰的な意味合いで、「並以下」の待遇でさえ、十分有り得た。
もしそうなっていたら、親元に無事たどり着けたのは、半数以下であったであろう。
何しろ、故郷の保護者たちから余りにも遠く離れた土地、シベリアの果てで放り出されるわけであったから。

これらの厳しい現実を踏まえて、敢えて大航海を決行したアレンは相当に悩み抜いたのではないだろうか。
だが、結局は、「ここで、この子たちを見捨てることは、人間としてできない。」
「なんとしても彼ら全員の命を全うしてやらねば...」 という強い使命感が彼を突き動かしたのではないだろうか。
そのかわり、ポーランド孤児や帰還兵等送還の場合と正反対。
「頬かむりをして」、ひっそりと航海に出ざるを得なかった、と見る。

 

そして、このポーランド孤児救済の一件についても、筆者は背後には石坂将軍が関与していたと推論する。

この事案における諸要素も、いかにも彼自身の職責、能力、そして行動理念に合致しているからだ。

つまり、彼自身の任務遂行が、現実に生死の淵にあった多くのポーランド難民孤児たちの命を救ったこと。
且つ日本政府及びシベリア派遣軍に大いに利するものとなり得たという意味だ。

陽明丸と同じくこの事案も、これら双方の要素が乖離することなく、見事に融合したものではなかったか。

つまり、彼にとっては極めて合理的な判断であり、何ら疚しい思いはなかったと見る。

 

当時の白軍にはチェコ軍団だけではなく、シベリア在住のポーランド人志願兵も多く混じっていて、日本軍の友軍として赤軍勢力と戦っていたことはあまり知られていない。
大戦終了後は、これらポーランド兵たちもチェコ軍団兵と同じく、国際赤十字が進めた帰還事業により、故国に向けて船舶輸送されていた。

 

次の公文書は、石坂将軍がこれらポーランド兵の故国送還にも関わっていたことを示すものである。

 
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陽明丸大航海に四か月先立つ1920年(大正9年)3月7日付の電報である。

浦塩(ウラジオ)派遣軍の参謀長から東京の陸軍次官宛のものであるが、陸軍大臣までもが目を通したことも示している。


通信文は、チェコ軍団兵のシベリアからの送還の件である。
要旨は、下記のようなものだ。

「(当時のチェコ軍団総督、フランス軍の)ジャナン将軍から南満州経由で大連港から彼らを船に乗せたいので便宜をはかってほしい旨の要請があった。

しかしながら、軍中央より以前からそのような要請は断る旨の指示があったので、現地では一応は拒絶した。
だが、今回再び、石坂少将経由で同軍団輸送に引き続いて、2000余名の波蘭(ポーランド)軍帰還兵を大連より乗船させたい旨の非公式の要請を受けたので、これについての指示をあらためて仰ぐ。」


ここにあるように、石坂はポーランド兵を含む帰還兵輸送任務にも直接関係していたことがわかる。
特に注目すべき箇所は、「船ハ心配二及バズ」という部分で、輸送用の船舶が既に調達されていたのだろう。

だが、解釈によっては石坂が船の手配までしていたとも受け取れる。

もし、それが勝田汽船であったとすれば、この時点で彼らの接点は既に存在していたことになる。

なお、チェコ軍団兵輸送を軍中央が拒絶した理由として推定されるのは、仏人総督ジャナン将軍が白軍総帥コルチャークの身柄を赤軍に身柄を引き渡したので、日本軍は裏切り者として快く思っていなかったからだろう。

 

これらを総合すると、ポーランド孤児難民と義勇兵の母国送還は、全然無関係の別個の事案どころか、ポーランド人にとっては同等に差し迫った、同じ次元の話であったと見る。
シベリア派遣軍としても、当然同じカテゴリーに入れて処理したと見るのが自然ではないだろうか。
当時の日本を取り巻く軍事・外交環境を分析した上で考慮された、重要な「宣撫工作」という意味合いである。
そして、彼ら派遣軍首脳にとっては、陽明丸の事案も同じカテゴリーのものではなかったか。

ポーランドは第一次世界大戦の終結を転機に、ようやく長年のロシアの軛から解放され、再び自らの国家を取り戻した。
だが、ほどなくモスクワ政府と利害が衝突、関係が急速に悪化し、ポーランド・ソヴィエト戦争となって両国は激しい戦火を交えた。
そして、ポーランドは同じくロシアからの独立を求めて戦っていたウクライナ
独立派民族主義者とも連携していた。
それが、丁度この時期、1920年前後である。
当時、赤色ロシアはこれら両国と、大戦争の真っ最中であった。

日本帝国によって救出されたポーランド孤児たちや、母国に帰還できた義勇兵たち。
彼らは、日本への恩義を決して忘れなかったことだろう。
つまり、日本帝国・ポーランド両国及びウクライナ独立派民族主義者はソヴィエト・ロシアの脅威に対抗し、その東端西端で事実上、連携連帯していたわけである。
東西それぞれに対峙していた赤軍の軍事力を分断させるメリットがあった、と見る。
また、そのことはそれぞれの対ソ外交交渉の際には相手への牽制の切り札として役立ったことであろう。

 

また、こうして日本帝国はポーランドと非常に親密な友好関係を築いたのだが、これ以降の外交、軍事の両面にわたって、両国は縁が繋がっていた。

例えば、ポーランド軍の暗号技術は大変進んでいたので、日本陸軍も係官を派遣して交流し、学びとっている。

また、1939年にナチスドイツとソ連がポーランドに同時侵攻し、両国によって蹂躙された。

その亡命政府(ロンドン)はやがてドイツの同盟国日本とも敵味方になってしまった。

しかし、日本は同国の運命には同情的であり、水面下では両国の軍部は友好的なコンタクトを維持していた、といわれる。

同国に多く住んでいたユダヤ人がナチスに理不尽な迫害を受けていたことにも、日本の多くの良識ある人々は眉をひそめていた。

結局、このポーランドの迫害された民の一部を救出する人道救助に日本帝国も一役買うことになったのが、杉原千畝の「命のビザ」であり、満州における樋口季一郎将軍のユダヤ難民救済であり、関東軍によるユダヤ人入植「河豚(ふぐ)計画」であった、と筆者は見る。

 

ゆえに結論として、石坂将軍がこれら一連の人道救助の事蹟に全て関与していたと見ても、何ら不思議はない、と考えるのだ。
彼の熟練した情報将校としての職責と、人道主義的精神は乖離することなく、見事に溶け合っていたことを示すもの、と言えないだろうか。

 
※なお、この章の記事については、別にさらに詳述しているので、ご興味のある方はブログ内の下記記事をご高覧ください。

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(1)

陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(2)
陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(3)
陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(4)
陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(5)
陽明学的行動派知識人 外伝④ 石坂少将とポーランド孤児難民等の救援(6)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第九號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第九



ロシア子供難民に関する唯一の日本側公文書

 

では次に、下記の文書に注目いただきたい。


陽明丸の航海が、日本政府・軍とそれなりの関係性を帯びていたことが、これによりご理解いただけるであろう。

これらは、シベリア出兵関連の公文書の一部(コピー)である。
まず、以下3枚の文書は、外務次官から陸軍次官宛てのもの。

 DSCN1400DSCN1401DSCN1404

 

 

 





 

 

 

 

































































その内容だが、

まず、在仏日本大使館から東京の外務省への或る至急電文に基づくものから始まっている。

大正9年5月というのは丁度、アレンが子供たちを連れてウラジオを脱出しようと焦っていた頃だ。

 

この文書のタイトルを現代風にわかりやすく直すと、 「 在ウラジオストクの米国赤十字保護下の露国小児をリガ( バルト三国の一つ、ラトビアの首都 )へ送還方問い合わせに関する件 」 である。

 

文章の大意は、5月6日に在フランス米国赤十字輸送部長のウィリアムス大尉なる人物が、パリの日本大使館を訪れ、「 ウラジオストクで保護されているロシア子供難民たち約800名をシベリア鉄道経由でヨーロッパ方面、具体的には在リガ米国赤十字 ( 支部 ) にできるだけ速やかに、陸路送還したい。

そのための客車調達の費用など一切は米国赤十字が負担する。

そのための支援人員もパリより70名を派遣しようと思うが、問題はシベリア鉄道の正常な運行にかかっている。

つまり、( 白軍赤軍の戦闘の余波がまだ続いており ) それには日本軍の鉄道沿線治安警備の如何にかかっているだろうし、( 当然ながら )  その許可が必要であろうと思料する。

故に、この件での打診を貴職を通じて要請したい。 」 云々という申し入れのようだ。

 

これに対して、在パリ日本大使館の担当官は、当然ながらイエス・ノーを即答できず、 「 それについては、在ウラジオストクの米国赤十字 ( つまり、アレンたちシベリア救護隊 ) と日本軍憲 ( つまり、シベリア派遣軍 ) との間で交渉する他はない、と思料する。

だが、この要請は(つまり、重要案件として処理する故) 東京の外務省に報告し、本省から在ウラジオの軍憲に通報することになるであろう。」  と先方に回答したというものだ。


そして、次の文書が、このやり取りの元になった、在フランス日本大使館の松井大使から本省の内田外務大臣宛の電信文である。

   

 DSCN1405

 

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日付は同年5月9日付、パリ発。

内容は先の文書内容と同一であるが、要は在パリ大使館はこの一件に関して云えば、並々ならぬ重要性を認識していたということになろう。

それほど日を経ない間に、大使から本省外務大臣に電信による連絡がなされているからだ。

さらに次なる文書は、陸軍次官より外務次官への回答を示し、「陸軍としては事の処理を米国赤十字からの要請の通りに行い、その旨を現地派遣軍参謀長に電報で訓令する」旨のものだ。

 

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つまり、陸軍省では米国赤十字ウィリアムス大尉の要請の趣旨を忠実に浦塩派遣軍に伝えている。

そして、それに続く文章は、浦塩派遣軍の参謀長宛に一連の事情を説明し、 「 貴軍守備管区内ノ鉄道輸送二際シテハ出来得ル限リノ便宜供与ヲル様取リ計ハレタシ、尚(なお)外務省ヨリモ松平政務部長二対シ同様二電報アリタル筈、 」 と締めくくって、この事項に対する派遣軍の協力体制を要請している。
ここに見える、「松平政務部長」というのは、以前に紹介した外務省より出向の派遣軍政務部長 松平恒雄である。
この件については、外務省からも松平に 電報したというから、日本政府はそれなりに重要な案件として捉えていたことがわかる。
 
これら一連の通信文は、陽明丸の子供たち、つまりペトログラードから流れてきた800人の子供難民のことが日本政府及び軍当局で言及されている、今のところ唯一の公文書である。

パリ、東京、そして浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部の間でやり取りされた、これら一連の文書の写し或いは要旨は、派遣軍の高級情報将校であった石坂将軍の元にも職掌柄、届けられていたと見て良い。
そこで、筆者としては、彼がこれをどのように情報分析したであろうかが、まず気にかかるのだ。

日露米それぞれの内部事情を知悉していた、熟練の情報分析官であった石坂将軍だからだ。


 
そして、その折の彼の反応を想像してみるのだが、
おそらくは、苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情だったのではないだろうか。

或いは、以下のように呟き、舌打ちしたかもしれない。

「無知なヤンキーどもめが。

今頃になって、トンチンカンなことを言い出しおって........

 

アレンたちが当初考えていた目論見。
まず世界大戦自体が終結し、そしてオムスクの白軍政権も崩壊したので、シベリアに出兵していた各国軍はそれ以上駐兵する大義名分を失い、当然撤兵するものと思っていた。

実際に、日本軍を除く米英仏など各国軍は全て4月頃までにシベリアからの撤兵を完了している。

ところが、アレンの思惑外れは、我が日本軍の想定外の行動であった。
日本のみは各国と歩調を合わさず、徹兵を先延ばしにしていた。

アレンたちは、日本軍も各国軍と歩調を合わせて、遠からぬうちに撤兵すると思い込んでいたようだ。
そうすると、シベリア鉄道自体がいずれはモスクワ政府ないしは緩衝国家の全面管理となるだろう。
そうなれば、米国赤十字の特別列車を通過させて、子供たちを無事故郷に戻すことは可能と見ていたのだろう。
 

ところが現実は、当時のウラジオストクからヨーロッパロシアまでの大シベリア鉄道は、内戦による各所での線路の破壊と復旧のいたちごっこが続いていた。
もし、特別列車を仕立てて運行させるにしても、無事シベリアを通過し、ウラルを抜けてヨーロッパロシアにたどりつけるかは、皆目不明であった。
もし、たどりつけても、それまで一体何週間、いや何ヶ月かかるのか、誰も答えられなかったであろう。

 

また、もし仮に、そのような特別列車が仕立てられて、一旦赤軍側の支配地区に入ったらどうなっていたか。

まず、間もなく多くの武装兵に取り囲まれ、付き添いの米国人一行は全て拘束された可能性が高い。
わずかな護衛兵が付いていても、すぐ武装解除されてしまうだろう。 

800人の子供たちは、保護されるどころか、下手をすれば環境劣悪な臨時収容所に入れられて、厳しい尋問が始まっていただろう。

彼らが、もし成人であったのなら、運が良くても労働収容所送り、悪ければ銃殺になっていても不思議ではないからだ。
当時、革命政府の秘密警察組織、悪名高いチェーカー(
  ЧК  反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」)が目を光らせて大衆を監視していた。

彼らにいったん怪しまれたら最後、問答無用で処刑されたり、シベリアの強制労働送りとなった。
老若男女の別なく、「反ボルシェビキ、反革命的言動」と当局から烙印を押されると一切容赦はされなかった。

 

何しろ、当時1920年春頃といえば、ソ連指導者たちは、革命ロシアに内外から襲いかかる危機的状況と必死になって戦っていた頃である。
ヨーロッパロシア方面では、ポーランド軍や
ウクライナ独立派民族主義者との激しい死闘が続いていた。 

そして、慢性的に続いていた酷い飢餓状態。

この頃には、ロシア国内では記録的な大旱魃が始まっており、最終的には数百万人も餓死している。
戦時共産主義という過酷な体制下、ソビエト政府は零細な農民から奪うようにして取り上げた食料を都市住民に配ることで、かろうじて破局を逃れていた。

シベリアだけではなく、ロシア国内ではどこに行っても飢餓と病気でやせ細った人々で溢れかえっていた。

それに追い打ちをかけて、シベリアでは腸チフスなど多くの疫病が蔓延しており、人々は恐ろしいシラミの攻撃にも悩まされていた。

 

このような、史上最悪といっても過言ではない、酷い状況であったシベリアなのだ。

そういう極めて劣悪な環境で、それまで米国人から手厚く保護されていた800人の子供たちが、目を血走らせた赤軍兵士たちに 「解放」されるとしたら、一体どんな目に遭うか.....

「ヤンキーの奴らは、そういう単純な事も想像できないのか!」、
と石坂将軍は吐き捨てるように、呟いたのではないだろうか。

以上のように、このウィリアムス大尉なる人物が、5月初旬に在仏日本大使館に申し入れてきた計画は、元々成功の見込みは薄く、リスクが高すぎるものであった。                                            当然ながら、その計画は間もなく放棄され、アレンは発想を切り替えて、洋上に逃れるプランに転換しした。
アレンの鉄道輸送計画の放棄を伝え聞いたハルビンの石坂少将は、とりあえずホッとしたのではないだろうか。


米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第八號)


米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第八



もう一人のキーパーソン? 松平恒雄シベリア派遣軍政務部長



 
ただ、もしこのシナリオに難点があるとすれば、アレンが必死になって船探しをしていたことを石坂将軍がなぜ探知できたか、という点だ。
シベリア派遣軍幹部として司令部と情報機密を共有し、或いは米国赤十字の電信も傍受でき得た石坂であった。
彼なら、ハルビンにいても探知は可能ではあったであろうが、やはり距離的にはウラジオストクは遠かった。 

 

これについては、筆者の推理を補完するものとして、さらにもう一人の人物に焦点を当てたい。

それは、当時シベリア派遣軍司令部の政務部長という要職にあった松平恒雄である。

シベリア派遣軍の政務部長というのは、現地の外交政務、つまり軍事以外での地域各政治勢力との折衝、各国外交機関との折衝・調整等が主要な任務とされた。

そして、この重要ポストには軍人ではなく、松平のような生粋のキャリア外交官が任命された。

その名から察せられるかもしれないが、彼は元会津藩主、松平容保の六男として生まれ、外交官になった生粋のエリートである。

駐英大使、駐米大使、宮内大臣を歴任し、戦後は初代の参議院議長に選ばれた超大物である。

長女の節子は昭和初期に秩父宮親王妃となり、皇族となっている。

同志の吉田茂と同じく親英米派政治家として、軍部がはじめた無謀な太平洋戦争を深く憂慮し、昭和天皇を通して停戦に持ち込もうと秘密裡に画策したことでも知られる。


このように松平は一貫して、英米をよく知る極めて有能な外交官であった。
注目する点は、ウラジオに赴任している間はライリー・アレンとは互いに良き関係にあったことが米国赤十字側の記録にも散見されることだ。

極端に言えば、日本軍を好まなかったアレンが唯一信頼していた日本人が、松平政務部長であった。

また、これは筆者の私見だが、単に親英米的な外交官だから、というだけではなかったと思うのだ。
松平は、幕末会津の惨めな敗戦の姿をトラウマとして、たえず胸にしまいこんでいたことだろう。
つまり、彼の父、会津の殿様、松平容保公が官軍との凄惨な内戦で敗北し、藩の多くの士民も否応なく死闘に巻き込まれてしまったことだ。
会津白虎隊の悲劇のような、無辜の子供たちに災難が降りかかるのを見るのは、辛かったのではあるまいか。
ゆえに、アレンが連れてきたペトログラードの子供たちにも、「できれば助けてやりたいが.. という思いを抱いても不思議ではない、と考えるのだ。

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 松平 恒雄

アレンが船の確保がうまく行かず、焦っていたこと。
情報収集に長けた外交官である松平は、それをおそらくキャッチしていたことだろう。
或いは、アレンが信頼する松平自身に事情を打ち明けて、相談したことも大いに考えられる。 

そして、そのことは間もなく、松平の同僚であり、彼らの動向を以前から気にかけていたハルビンの石坂将軍の知るところとなった、と見る。

 

筆者は、一連のことは、大まかに言えばこのように事が運んでいったのではないか、と仮定している。



米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第七號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第七



陽明丸運航に至る、筆者が推定するシナリオ


筆者が掘り起こした、以上の諸事実に基づき、当初からの経過を従来の「定説」に拘らず、初心に帰って考察してみた。
そうすると、陽明丸の確保と運航については、米国赤十字シベリア救護隊と勝田銀次郎、茅原基治の力だけでは、達成はそもそも無理ではなかったか、と考えざるを得ない。

いわば水面下で彼らを支え、強力に後押しするパワーを持つ存在がなかったら、成り立たなかったのではと。

 

そしてこの水面下の存在こそ、石坂善次郎ではなかったか。

アレンやトイスラーのシベリアでの献身的な救護活動、そして救出されたロシア人子供難民の一件の全てを俯瞰する立場で、彼ほど特等席の位置にいたものはいない。

陸大出のエリート軍人、将官であり、シベリア派遣軍の諜報機関の幹部として枢要な位置を占めていた石坂少将である。
陽明丸の出航に必要な種々のアレンジメントは、やろうと思えば、さほど困難でなかったと見る。

もし、この仮説が正しいとしよう。

そうであれば、以下のように事が運んでいたのではないか、と推論する。


+******************************


石坂少将はまず、以下の一連の計画実行について、シベリア派遣軍の参謀長を通じて、司令官の許可を事前に得ておいたはずだ。
派遣軍幹部として責任ある立場上、独断専行はあり得ず、同時に軍首脳のコンセンサスも得ておく必要があったからだ。
次に、茅原本家筋の従兄弟甥で(いとこおい)である茅原基治をウラジオストクの派遣軍司令部に呼び、事情を腹蔵なく打ち明け、協力を求めた。

従兄弟の息子である基治であれば、このミッションの重要さを信頼して打ち明けることはできたであろう。

そして、基治の船長としての優れた技量と強い責任感を熟知していたであろう石坂である。
まず、彼の説得から着手したのではないだろうか。 
茅原一族の出藍の誉として敬愛する従兄弟伯父の善次郎から、国の安危に関わる重要ミッションを打ち明けられた基治は、それを断る理由はなかった。

そして、ひとまず基治を味方につけることができたとしよう。 

 

次に、一番大きな問題は船の確保であった。
これが簡単でなかった事情は前に述べた。 

だが、これについては、かねてより基治が敬服していた勝田銀次郎を置いて他にはない、という結論になった。
これには、石坂も即座に同意したことだろう。

そうすると、次のプロセスは、誰が勝田を説得するか、である。

石坂将軍自身は、責任の重い軍務上、ハルビンを離れて遠路、日本に向かうことは難しかったであろう。
だが、ハルビンでそのまま、のんびりと構えているわけにはいかない。
アレンの焦慮を思えば、時間的にもそれほど余裕がないことはわかっていたはず。 
ゆえに、連絡将校として、信頼できる副官ないしは部下を東京に差し向けたであろう。

もちろん、盟友というより、刎頚の友であった宇垣将軍への緊急要請のためだ。 

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宇垣一成

そして、次の出番は、宇垣将軍である。

宇垣はその少し前まで、東京の参謀本部第一部長という要職にあったが、陽明丸事跡の当時は陸軍大学校校長に移動していた。

その関係で、勝田銀次郎への説得工作も、東京で行われたと見るのが自然であろう。

説得場所としては、陸軍省か参謀本部に勝田を呼び出したと考えられる。 
好都合なことに、石坂ら「ロシア屋」グループのトップであり、且つ宇垣将軍のボスでもあった田中義一中将は当時、陸軍大臣の要職にあった。 

軍の実力者、宇垣の説得により、仁者であり且つ愛国心の強い勝田は、どうやら引き受けた。

ただ、勝田は次のような懸念を表明した。

「弊社でご用立てきる貨物船が一隻あります。昨年完成した新しい船で、性能上は問題はありません。
ですが、臨時の客船に改造するには、応急工事が必要です。
大がかりなものになるでしょう。
問題は、それに付随する許認可が早急に逓信省から得られるかどうか、です。 」 


頭脳明晰な宇垣は、すぐさま対策を講じた。

次世代の陸軍トップリーダーであり、信望が高かった宇垣だ。
彼のネットワークを動かせば、対官庁アレンジジメントはさほど難しくなかったと見る。
その ネットワークとは、石坂と宇垣の陸軍大学同期の朋友たちである。
全て軍のエリートであり、陸軍省や参謀本部、憲兵隊など枢要な部署の上級ポストを占めていた。                                      また、陽明丸の出航については、できるだけ目立たぬように、人々の耳目を集めることのないようにしなければならない。
すぐさま、これも再び、宇垣ネットワークを通じて、関係者への緘口令が敷かれた。   報道関係にも、情報が漏れないように、遮断された。
それゆえに、事を全て隠密裏に運ぶことができた。 

 
次のステップは、勝田が何食わぬ風をよそおって、トイスラー博士に次のような打診をする事である。
「シベリアの米国赤十字で、ロシア人の子供難民を輸送するための船をお探しですか?                                             巷の噂で聞いたのですが。
もし弊社の船でよろしかったら、ちょうど空いているのが一隻あります。
昨年進水したばかりの、新しい船です。
貨物船なので、客船用に改造しなければなりませんが。
外洋航路に慣れた、優秀な船長も知っています。
もし、よろしかったらお世話しましょうか。」

トイスラー博士が、
 これぞ天祐!」とばかりに、一も二もなく飛び付いたのは言うまでもない。
そして、ウラジオストクで悶々としていたアレンに、陽明丸確保の吉報が伝えられた........ 
ただ、何事にも思慮深いアレンのことだから、「話がどうも、出来すぎてはいないか...
と、心中に微かな疑念を抱いたかもしれない。
だが特段、文句があるわけではなく、自分一人の胸にしまい込んだであろう。 


以上が、可能性として最もあり得た、一連のシナリオではなかったか。

 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第六號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第六



最近発見された、茅原船長と石坂将軍の強い繋がりを示す史料

 

以下に示すものは、ごく最近(2016年晩秋)に筆者を含む関係者が船長の郷里、笠岡で発見した史料である。

この日、午前中に茅原船長への墓参を済ませた我々は、茅原一族にゆかりの或るお方とお遭いする手はずとなっていた。

その方が、船長の近親者の一人(既に故人であるが)から遺品として譲られたという、「茅原船長家の紙物類」を見せていただくためである。

実は、笠岡行きの直前に、その方から「大したものではないと思うが、良かったら見に来ないか」という親切な打診をいただいていたからだ。

 

そして、その日の午後、笠岡市内某ホテルの食堂―。

やがて奥様を伴われてご来訪された、そのお方とのご挨拶が終わるや否や、テーブルの上で、おもむろに持参された風呂敷包みが解かれた。

充分に時代があり、黒みがかった貫録のある大きな文箱が姿を現した。

蓋を開けると、内部には10点ほどの様々な古い紙類が収納されていた。        船長家ゆかりの品々であるというので、胸をときめかせて拝見させていただいた。

そして、次々と現れ出たのは、実に驚くべき内容の貴重な古文書類であった。

一目見てすぐに、大変なものが出てきたと瞬時に理解した。

つまり、筆者が5年前から構築し始めていた、「石坂将軍仕掛人説」を裏付ける、有力な状況証拠であるという意味だ。

 

その中の主なるものを紹介してみよう。

まず、石坂善次郎から茅原船長に宛てた個人書簡(封筒入り)が見つかった。

 
 
4 0234 0184 024
 

 



 































































 

大正13年(1924年)12月下旬に書かれ、郵送されたものだ。         この当時は、石坂中将は既に予備役となっており、悠々自適の第二の人生、靖国神社の遊就館館長をつとめ始めていた頃だ。

陽明丸大航海(1920年)から四年ほど後の頃である。

発信者の石坂将軍の住所は東京、そして受信者の船長の住所は大阪市となっている。

便箋5枚の文面に万年筆により、びっしりと文語調の几帳面な文字が書き連ねられている。

ここでは詳しい内容は省くが、書面で力点が置かれているのは、石坂・茅原両家の緊密な繋がりである。

善次郎自身の出自についても、下記のように述べられている。

「善次郎の父は山本庄五郎と稱し、惟寛の異母系なり。母方の関係不明。又、善次郎は幼少の頃、戸籍法の未完の時代に叔父惟寛の下に養○○せられ、戸籍上養子登記せられ」云々。

 

他にも、石坂家の家族事情が様々、赤裸々に述べられており、大変興味深いものである。

残念ながら、陽明丸大航海の一件には、この書面では特に言及されていない。

ただ、冒頭の「其後御無音に打過居り」という箇所には、何となく 「あの大航海の時以来、すっかり御無沙汰しているが」 という含蓄があるような気がしてならないのだが、穿ち過ぎであろうか。

 

その他の文書にも、大変なものが見つかった。

つまり、船長の大叔父であり、善次郎の叔父であり且つ養父の石坂惟寛 元軍医総監・陸軍少将直筆の巻物である。

昭和初期当時、甲弩茅原家の惣領であり、船長の実兄であった耕治の注文によるものであろう、金質の優れた分厚い金箔があしらわれた巻物である。耕治自身の達筆な文章も添えられている。

内容は、地域の名家であった茅原家に纏わる伝承、家系、そして惟寛自身が血統的には紛れもなく茅原家の血筋に属する者であることが誇り高く述べられている。

 

 石坂家史料 018石坂家史料 027石坂家史料 029石坂家史料 030石坂家史料 031石坂家史料 032石坂家史料 040

 

 
























































































 

 

これらの文箱には、他にも茅原・石坂家両家の強い紐帯を物語る史料が含まれており、今後時間をかけて全ての文書をじっくりと研究する予定である。

 

 

また、この文箱の文書とは全然別の茅原御親戚筋からも、時をほぼ同じくして下記のようなものが見つかったとの連絡を受けた。

これにも、驚愕した。

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こちらは、大正6年6月の消印で、陽明丸大航海の3年前の頃である。

石坂少将(当時)はペトログラードの日本大使館付武官として赴任しており、激動のロシア革命のさ中(二月革命と十月革命の間)の頃であった。

発信の住所が神奈川県三崎とあるが、これは惟寛が退官した後の住所である。

風光明媚な同地を激動の生涯の終(つい)の棲家としたものだろう。

船長宛ての個人書簡であるが、大変流麗な、古い書体の草書ゆえに、解読がすこぶる難しい。

現在、我々の地元、石川県の歴史博物館の専門家に解読を依頼しているので、いずれ全文の内容がほぼ明らかになると思われる。

この専門家の意見では、「ひとつ言えるこことは、当時の明治大正当時の慣例としては、これほどの崩した草書体の手紙を送り相手は、近親などよほど親しい間柄であろう、ということだ。

なるほど、それは大いに首肯されるものだ・

 

 

ここでの筆者の結論だが、これらの新発見の史料からわかることは、茅原・石坂両家の濃厚な血の繋がりを当事者(船長や、その実兄の耕治、石坂惟寛、そして善次郎)全ての構成員が強く自覚していたことであろう。

筆者が特に心を打たれるのは、石坂家と茅原家の家格の違いを超越した両家の強い連帯感である。

 

なるほど茅原家は地域の由緒ある旧家であったが、一方の石坂家も備前岡山の医学系統の名家であり、特に茅原家から移籍した惟寛の代には、栄えある陸軍軍医総監となり、押しも押されぬ中央政府の名士となっていた。

そして、善次郎自身も軍人として順調にエリートコースの道を歩み、世界を股にかけて活躍し、陸軍中将まで栄達した人物である。

時の政軍界の実力者、宇垣一成大将は刎頚の友であり、ごく近い縁戚関係を結んでいた。

もはや、社会的地位においては、石坂善次郎と茅原船長には歴然とした開きがあった。

 

それにも拘わらず、石坂父子(惟寛と善次郎)共に終生、自らの本来のアイデンテティは笠岡の茅原家にあると高らかに宣言していたのである。

そして、善次郎の船長宛ての書面でも、両家の現実の差異を誇るどころか、むしろ自らを卑下するかのように、きわめて謙虚に彼ら父子の本来の出自は茅原家にあることに力点を置いているのだ。

二人とも如何にも昔気質の人間らしく、本家筋に対する尊崇の念をしっかりと胸に保持していたことが如実に感じられる。

 

これらの新たに発見された諸史料からは、当時の茅原・石坂両家の人々の、血族同士の極めて強い帰属意識が伝わってくるとしか、今のところは表現しようがないものだ。

 

 

筆者は本来、迷信の類は一切信じないのだが、こと陽明丸事蹟の研究を進めるにつれ、あまりにも不思議なことが次から次と起こるので、正直なところ気味が悪くなるほどだ。

文箱の史料を発見した日も、我々はその午前中には船長の墓前にて真摯に祈りを捧げた。

そして午後には、船長の霊がそれに褒美で報いるかのように、このような驚愕すべき新史料の発見に巡り合った。

この世には、いまだ人智で計り知ることができない事象が起こり得る不可思議さを、今さらながら思い知らされる。

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第五號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
(第五號)




石坂、茅原両家の繋がりについて



ところで、次に掲げるのは茅原基治船長の一族、茅原家の家系図の一部である。
彼の一族、茅原家の先祖は家系図の上では江戸前期の貞享年間まで遡ることが出来、岡山県小田郡甲弩(こうの)村の地主格、地方の代々の旧家であった。
伝説上の祖先は、南北朝時代の南朝忠臣であった武将、
児島 高徳(こじま たかのり)である。

DSCN2928












児島 高徳(明治期の版画 筆者蔵) クリックすると大きくなります。 


下記にある
清右衛門清信は家系図にある、江戸前期の先祖から数えて五代目で、江戸後期の人である。


....清右衛門清信―貞蔵美雄―禎蔵政方
                               宇三郎
               正五郎(山本家
嗣)

              逸造(石坂嗣)-善次郎(正五郎実子)



       禎蔵政方正太郎― 耕 治
                          基 治
                 収 三 
                 誠四郎 

                                                        

              

ここで唐突に、なぜ茅原家が出てくるのか、と不思議に思われるかもしれない。
だが、それには立派な理由があるのだ。


茅原基治は家系図に名が出てくる先祖、七郎兵衛から数えて九代目直系であり、「甲弩茅原家」の当主であった。

(基治は次男であったのだが、後年に長男の耕治が死去後に跡目相続をしたようだ。)

そして、ここで注目したいのは船長の曽祖父である六代目の貞蔵美雄の子供たちである。

跡取りは長男の禎蔵(ていぞう)政方、つまり基治の祖父が継いでおり、他の男子三人のうち二人(三男、四男)は養子に出されている。
そのうち、四男の名が
逸造とあり、どこかで聞いたような名だと思われるであろう。
たしかにその通りで、(
石坂家嗣)とあるように、この逸造が後に石坂惟寛となったものだ。

それについては、「逸造」と「逸蔵」とは文字が異なり、別人ではないかと言われるかもしれない。
また、単なる偶然で、根拠のないこじつけと疑われるかも知れない。

だが、戸籍法が確立する以前の江戸時代にあっては、人物の名前にも当て字や異体字が日常的によく使われていた。
名前表記が厳密である現代に比べればかなり自由であり、いい加減でもあったと言えよう。
茅原逸造の場合も、おそらくは、逸造、逸蔵ともに、当時は日常的に使われていたものだろう。

この逸造=石坂惟寛同一人物説が、こじつけではない証拠は、茅原家の人々は一族から「石坂惟寛」という偉人が輩出したことを大変誇りにしてきたことを、或る郷土史家から聞いた。
この郷土史家自身も甲弩茅原家の一員の方であるので、これは間違いのない事実である。


さらに、もうひとりの男子、三男の
正五郎山本家嗣)だが、この名前にも漠然とした記憶があるかもしれない。

そのとおりで、石坂善次郎の実父は、山本庄五郎であった。
これも、当時の当て字として見られ、逸造、逸蔵と同じで、この正五郎も時には庄五郎と名乗り、また書かれることもあったのだろう。

正五郎は神戸の山本家(旅館業といわれる)に養子として入り、山本正五郎となった。

つまり、基治船長の祖父の禎蔵政方逸造(石坂惟寛)正五郎(山本床五郎)の三名は血を分けた兄弟であった。

そして、この山本庄五郎旧姓 茅原庄五郎)の次男が善次郎であった。


正五郎の弟の
逸造(旧姓 茅原逸造、後の石坂惟寛)が軍務か何かで神戸に立ち寄った時に、幼少期の善次郎の非常な利発さに感心し、その場で自らの養子にしたい、と頼み込んで貰い受けた。
そういう話を或る郷土史家の方から聞いた。

逸造(石坂惟寛)には既に実子の男子二人いたのだが、おそらく善次郎の非凡さを見抜き、自らの手でひとかどの人物にしてやりたい、と考えたのだろう。


これらを親族関係の呼称で言うと、基治の父、正太郎にとっては石坂惟寛は伯父(いとこ)であり、善次郎は従兄弟、基冶船長にとってはそれぞれ大伯父(おおおじ)従兄弟伯父(いとこおじ)に当る。

親等でいうならば、それぞれ正太郎の三親等、四親等、基冶船長の四親等、五親等となる。
単なる戸籍上の繋がりだけではなく、血筋上もしっかりと繋がっている。
民法の上での親族というのは六親等以上であるので、彼らは遠縁どころか立派な親族同士であったと言い切れる。
それどころか、もし茅原逸造と茅原正五郎が他家に養子に出ていなかったら、石坂善次郎は「
茅原善次郎」であり得たわけだ。

このように、茅原基治船長と石坂善次郎中将は、まぎれもなく血を分けた親族同士であった。
船長にとっては、石坂将軍は父の従兄弟にあたる。
そして、基治船長がウラジオストクに向かい、陽明丸で大航海を行ったとき、親族の善次郎少将(当時)はシベリア派遣軍の首脳のひとりとして、ハルビンで事の一部始終を見守る立場にいたわけだ。
そのことは、一体何を意味するものだろうか。
 

このように、親族同士であった茅原基治と石坂善次郎は、陽明丸事跡についても一定期間は時間的、空間的関係を共有する位置にいたわけだ。

これを単なる偶然と見て、「単なるこじつけだろう!」と一笑に付すのは勝手だ。
ただ、筆者は「偶然ではない」という直観に基づき、或る仮説を立てた。

その論拠のおおよそについては、本の中での「陽明丸七つの謎」の章で述べたとおりだ。
  

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長  (第四號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第四


 
石坂善次郎の家系

 

石坂将軍の軍歴の概要は以上のとおりであるが、次に彼の出自について触れてみたい。


彼は明治4年(1971年)兵庫県神戸市生まれである。
実父は
山本庄五郎とあり、石坂善次郎は生来は山本善次郎であったわけだ。

だが、幼少期に岡山県出身の軍医、石坂惟寛に引き取られ、その養子となった。


彼の養父、石坂惟寛だが、略歴がWikipediaに詳しく記述されており、以下のとおりである。

Ishizaka_Ikan

















石坂 惟寛 (いしざか いかん 又は いしざか これひろ)

 

生誕  1840325

備前国

死没  1923729日(満83歳没)

軍歴  1872 - 1900

最終階級    陸軍軍医総監

 

石坂 惟寛は、幕末から明治にかけての医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。幼名、逸蔵

 

経歴 (※一部略)

 

備前国出身。赤松秀の二男として生れ、岡山藩医・石坂堅壮の養子となる。1860年(万延元年)9月、適塾に入門し西洋医学を学び、のちに岡山藩侍医となる。

1872年(明治5年)1月、陸軍軍医となり二等軍医副に任官。

1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征。

1887年(明治20年)5月、軍医監に昇進。同年5月から翌年12月まで陸軍軍医学舎長(後の陸軍軍医学校長)を務め、1894年(明治27年)8月、軍医総監に進級し第1軍軍医部長に発令され翌月から日清戦争に従軍した。

1900年(明治33年)121日、後備役に編入され、1905年(明治38年)1016日に退役した。

 

 栄典  1895年(明治28年)820 - 勲二等旭日重光章

 著書  手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』

 親族  養子   石坂善次郎(陸軍中将)

 


このように、石坂惟寛は蘭方医、緒方洪庵の適塾を出た英才であり、明治期の日本医学の先駆者の一人であった。

そして、幕末期の岡山藩医として医学のキャリアが始まったが、明治維新後は草創期の帝国陸軍の軍医総監(旧制度)、新制度での軍医監(少将担当官)にまで昇り詰めた逸材であった。

またそれ以外にも、陽明丸事跡を追う筆者にとっては看過できない様々の興味深い事実がある。

まず、石坂は日本赤十字社の創立者の一人であり、下記のように明治25年の公文書には、同社の常議員に名を連ねているのがわかる。

DSCN2863



























明治10年の西南戦争に出征した石坂軍医は、戦場で仆れ、傷ついた多くの兵士たちの救護に当たった。
だが、そこでは戦場で敵側に放置されたままの傷病兵の悲惨な境遇に心を痛めた。
故に、戦場という極限状況においては、敵味方の区別なく傷病者を救護するという西欧的な先進思想に強く共鳴したようだ。
(石坂軍医の手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』)

そして、この軍医としての経験に基づくヒューマンな戦場医学が、近代国家として欠くべからざることを明治政府の指導者たちに訴えた。
それ故に、佐野常民の日本赤十字社設立運動に、現場の医務官として全面的に協力したものであろう。
佐野常民は適塾での大先輩にあたり、彼らは共に緒方洪庵の医学を通して西欧的な博愛精神にも強く感化されていたと思われる。 
この当時の日赤常議員のポストは、華族や政府高官で大方占められていたようだが、石坂の場合は軍医の先達であり、赤十字社創立者の一人として任命されたものに違いない。


また、これも興味深いものだが、石坂は文豪、森鴎外が若き日の軍医時代の直接の上官であった。
鴎外と石坂との関わりについては「石黒忠悳日記」に次の記述があるようだ。
石黒も石坂と同じく草創期の帝国陸軍の軍医であり、後に日本赤十字社の第四代社長になった人物である。

 

  (明治21年) 一〇月六日 来ル

           一〇月七日 林太郎母並弟妹来ル

           一〇月八日 石坂ヨリノ事ヲ内談アル 、

 

当時は、石坂は軍医学舎(軍医学校)の舎長(校長)、鴎外が軍医学舎教官、そしてこの石黒は軍医監であった。
鴎外は後年、大先輩であった石坂軍医と同じく陸軍軍医総監になっている。
この日記の頃、鴎外は小説「舞姫」のヒロインのモデルとなったドイツ女性との恋に悩み、職を辞することまで考えていたようだ。
その処理をめぐる記述と見られる。
石黒、石坂の両上官が鴎外の才能を惜しんで必死に慰留したものであろう。

 

このように、石坂中将の養父、石坂惟寛は歴史に名を留める日本医学の先駆者の一人であり、名士であった。
軍医の高官、そして日本赤十字社の重役として、石坂は当時の日本の医学界でも指導的な役割を果たした一人であった。

当時、石坂と聖路加国際病院院長であったトイスラー博士とが懇意であったという確証はない。
だが、共に同時期の東京で活躍し、双方ともに当時の日本医学界の中央での高いステータスを有していたこと考えると、何らかの交流ないしは面識があっても不思議ではない。
ちなみに陽明丸の航海前後の頃は、石坂惟寛はまだ存命中で、神奈川県三崎の別荘で余生を送っていた。
そして、同時期にはトイスラー博士は東京に戻っていた。
したがって、陽明丸確保の一件に、石坂惟寛自身も何らかの関与をしたとしても不思議ではない、と考えるのだ。 


石坂将軍は、幼少期から養父の、このような先進的な医学者としての活躍ぶりをよく見聞きしていたはずだ。
彼自身は医学に進まず、軍人の道を歩むことを選んだわけであるが。
だが、極限状況での弱者の差別なき救護という人道主義精神については、養父からは薫陶を受けていたことだろう。
ゆえに、養父の知己でも有り得たトイスラー博士の米国赤十字シベリア救護隊の献身的な活動ぶりを、ハルビン特務機関長として、もし知ったとすれば、少なからず彼の心を動かした可能性がある。


さて、このように石坂将軍の養父は日本近代医学の先駆者の一人であり、軍医としての頂点もきわめた逸材であった。

そして、この石坂惟寛の養父は石坂堅壮(いしざか けんそう)といい、彼もまた幕末に活躍した蘭方医であった。

堅壮は岡山藩の藩医も務め、緒方洪庵の適塾から伝授された種痘法も行っていた、とされる。

当時として非常に先進的な医療を既に実践していたことになる。

さらに言うと、この石坂堅壮も実は養子であった。

養父は美作の人で、石坂桑亀(いしざか そうき)という医者であった。
桑亀は、江戸期に麻酔手術を初めて行った有名な華岡青洲の門人として医学を学んだ。
その後、長崎に来ていたシーボルトにも師事し、後に請われて備中の足守(あしもり)藩主の侍医にもなったほどの名医である。

 

特筆すべきことは、このように、石坂家三代は互いに血の繋がりこそなかったが、三名ともに当時の先進医学を学び、それを医療に実践した名医であった。
彼らは揃って、その時代では傑出した英才であり、人格にも優れた医学者であった事実が注目される。
そして、石坂惟寛の次世代に、この石坂家の一員となった善次郎もまた養子であった。


これらを系図にするならば、

 
石坂桑亀ーー石坂堅壮ーー石坂惟寛ーー石坂善次郎 となる。

 

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長 (第参號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
 (第参


シベリア派遣軍の高級幹部(諜報担当)として



ところが、軍は彼をそれほど長く、休ませてはくれなかった。

帰国した年、1918年の夏に英仏米等各国とともに、日本軍のシベリア出兵が始まったのだ。

三個師団、約七万人の日本軍の大部隊は、シベリア沿海州方面や満州方面から分かれて侵攻、地方の過激派軍と交戦しながら快調に進撃した。

季節は夏であり、進軍は迅速に行われた。                                       瞬く間に、バイカル湖以東のシベリア鉄道沿線地域のいくつかの重要拠点を制圧してしまった。

次の重要課題は、占領地での軍の地保をしっかりと固めることである。                                       すなわち、占領行政や共同派兵をした各国派遣軍との調整、白系及び過激派勢力の動向把握、親日勢力への指導支援など多岐にわたる分野であった。                                            しかしながら、このように軍事と外交にまたがる複雑な仕事を処理するには、それなりの高度な能力を持つ専門家が必要であった。戦闘するだけの猪突猛進型の軍人では、到底務まるものではない。


しかも、国際経験が豊かで、欧米人とも対等に渡り合える教養と語学力も必須条件であった。

だが、日本陸軍では上記の資質を全て満たす軍人は、ほんのひと握りであった。

それらの中の一人として、石坂将軍に白羽の矢が立ったのは、当然といえば当然な人選であった。

いわばエース級のロシア専門諜報員の一人としてマウンドに登板させたわけだ。 

 

そして、彼の新しい赴任先は満州ハルビンの陸軍諜報出先機関、ハルビン特務機関であった。

この部署のトップ、特務機関長を1919年2月から1921年3月の二ヵ年余にわたり務めることになる。

ここで特に注目したいのは、上記の期間がロシアの小児800人の救出保護活動と陽明丸の出航、郷里ペトログラードへの帰還までの時系列とほぼオーバーラップすることだ。

 

石坂将軍のハルビン特務機関への赴任だが、小さい記事で当時の新聞に報じられている。

記者がはっきりと「ハルビン特務機関」と書けず、「 突然重要任務を帯びて某方面に転任 」 としか表現できなかったのは、当然ながら軍事機密に属することだからだ。
 

DSCN2776









 


国民新聞 1919.2.24(大正8)


重砲兵旅団長転任

横須賀重砲兵旅団長たりし陸軍少将石坂善次郎氏は今回突然重要任務を帯びて某方面に転任を命ぜられ二十三日午前十一時五分横須賀発列車にて家族と共に赴任の途に就く後任は野砲兵第一旅団長陸軍少将鈴木孝雄氏著任の予定なるが是等転任の関係上陸軍当局に二三小異動あるべし(横須賀電話)  


特務機関というのは、日露戦争時から本格的に活動し始めた陸軍の諜報組織の現地出先機関である。

特に、シベリア出兵以降は、東シベリアで占領した幾つかの拠点都市や、満州の重要都市ハルビンなど各地に置かれたものだ。


その任務は次のように規定されている。


一、    極東露領各政治団体トノ連絡及指導

二、    極東二於ケル露軍の編成、訓練、補給及之二関スル指導

三、    露国将校ノ繋留及指導

四、    我指導機関ノ運用及指導

五、    特別諜報勤務

六、    露軍支持費及指導二要スル経費ノ運用

七、    前諸項二関スル政務部及内外関係部トノ連絡並交渉

八、    前記諸項二関スル計画、命令、報告、通報等ノ起案


(憲兵司令部編 「西伯利出兵憲兵史」)


ハルビン特務機関はそれらの中でも特に重要なもので、守備範囲は満州だけではなく、東部シベリアの横腹に近い地理的関係ゆえに、ロシア勢力の南下や満州への浸透を監視し、抑制することが目的であった。

これら数か所の特務機関はシベリア出兵時の現地軍司令部、浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部に直属していた。

諜報組織に伴う機密性であろうが、その存在は他の部署とは異なって外部には閉鎖的であった。

石坂将軍の身分も、対外的には「浦塩派遣軍司令部付き」とされていた。


このうち、ハルビン特務機関だけはシベリア出兵終了後も存続し、1940年からは「関東軍情報部」と名を変えた。                                       同地には赤色革命から逃れてきた白系ロシア人が多く棲みつき、彼らを抱き込んで対ソ連諜報活動の重要拠点として活動を継続した。                                            また、昭和に入るとハルビンは上海や天津と並んで、日本軍諜報機関による中華政府や地方軍閥への謀略工作の重要基地となった。

それら謀略活動の中心人物であった土井垣賢二大佐(最終階級は大将 戦後A級戦犯として処刑)も一時、ハルビン特務機関長を努めていた。                                    


ハルビンはシベリア鉄道の重要な中継駅であり、当時ロシア西部からウラジオストクまで走る列車の多くは東清鉄道経由でハルビン駅に停まり、ここを通過して最終地に向かった。

戦前のハルビンは華やかな国際都市であったが、同時に各国の諜報員が入り乱れて暗躍する 「スパイ天国」 としての一面もあった。


そして、800人のロシア子供難民を乗せた列車も、ここハルビンを通過している。

当時の鉄道駅というのは、重要な軍事施設でもあり、また人の出入りも多いので各種の情報収集の宝庫であった。

ハルビン特務機関も当然ながら、これらの子供たちの通過については把握していたはずだ。

何よりも、彼らは米国赤十字が輸送してきた「特殊な荷物」だったから、石坂将軍の特別な関心を惹いたことは間違いない。

有能な諜報将校である彼であれば、さらにその背景も探ろうとしたはずである。

そして、彼らがペログラードから来た子らと知って、特別の感慨も抱いたことだろう。

その胸中を、且つての任地であったロシア革命時の露都の風景、人々の記憶が懐かしくよぎったのではあるまいか。


1918年のポストカード。

ウラジオストクで撮影された、シベリア出兵各国軍の司令官、参謀長クラスの集合写真。

正面前列の左から4番目に、日本軍(浦塩派遣軍)司令官の大谷大将の姿が見える。
その向かって左隣が、米国からの派遣軍司令官、グレーブス少将。

(クリックすると大きくなります)

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米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(第弐號)

米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長
(第弐號)

 

軍事諜報員として活躍、ロシア革命に遭遇

 

このように、石坂将軍の本領は、対ロシア諜報将校であったことはご理解いただけたかと思う。

しかも下級スパイではなく、高度に専門的な知識と能力を有する幹部級軍事諜報員であった。

そして、このことが彼と陽明丸事跡との関わりの接点であった、と筆者は推論する。


何事も、例え些細なことでも機密の保持は、世界のあらゆる諜報関係者の職務上の務めであろう。

石坂も例外ではなく、自身が関わる全ての事柄を秘密裡にしておく周到さでは、むしろ徹底していたという印象だ。

しかしながら、いくら忍者のように隠密行動を常とした彼でも、同時に栄えある帝国陸軍のエリート軍人であった。

したがって、公文書等の史料を閲覧することによって、現代では彼の行動履歴はある程度伺い知ることができる。

 

例えば、日露戦争開戦の前年、明治36年7月24日付、陸軍の機密文書

 

庶秘第一一九号ノ一 七月二十四日 次長ヨリ外務総務長官ヘ案 左記ノ電報ハ貴省ノ秘密暗号ヲ以テ甲号ハ在露国公使館附明石中佐へ乙号電報ハ在浦港貿易事務官ヘ宛発信方御取計相成度及御依頼候也 追テ費用ハ当方ニテ負拯可致候也 明石中佐へ電報案 第三十五師団ノ一旅団ハ如何セシカ田村 乙号 在浦港貿易事務官ヘ電報案 石坂少佐ニ左ノ事ヲ伝ヘラレタシ 欧露ヨリ軍隊輸送セラレ智多ニ下車セシヤノ報アリ貴官自ヲ行テ之ヲ確メヨ 電文原案ハ発電綴ニ在リ

 
石坂少佐

 












 

 

これは、欧州で対ロシアの謀略工作を行っていた明石中佐(「明石機関」)にロシア軍第35師団所属の一旅団の移動状況に関する情報収集を命じるもの。
その一方で、ウラジオストクに貿易事務官の身分で潜入していた石坂少佐に、シベリア鉄道で欧露より送られてきた軍隊がチタ駅で下車した報告があるので、自ら現地で確認せよ、との命令文の伝達のようだ。

 

 

そして、明治39年3月6日付、陸軍の機密文書、

 

二第三四五号 参謀本部 石坂中佐露国ヘ赴任ニ付海外旅券請求ノ件 外務次官ヘ照会案 陸軍砲兵中佐 石坂善次郎 右今般御用有之露国ヘ被差遣不日出発赴任候ニ付海外旅券交付相成候様御取計相成度此段及照会候也 送乙第三七七号 参内第五八号 明治三十九年三月六日 参謀本部総務部長岡市之助 陸軍省副官立花小一郎殿 陸軍歩兵中佐 石坂善次郎 右御用有之露国ヘ被差使不日出発赴任候ニ付テハ記名海外旅券第葉御差越相成度及御照会候也


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これは、日露戦争での諜報任務が終わり、戦後の明治39年(1906年)ロシアのオデッサに駐在武官として赴任した際のものである。
対外上は外交官と同列の駐在武官の身分ではあっても、事実上の任務は諜報活動であったことは言うまでもない。 

 


また、海軍将官たちが自らの海軍人生を振り返った証言記録集、「小柳資料」では、次の記述が見られる。

この一人称の語り手は山梨勝之進海軍中将(当時)。
山梨がまだ海軍大佐であった頃、ロシア国内でクロパトキン(
日露戦争時のロシア軍敗将)を訪れた秋山真之海軍少将(当時)に随行しており、その折の会談についての懐古談である。

 

『会談を申し込んだところ心よく承知して呉れ、案内の石坂砲兵大佐が通訳をした。

当時のクロパトキンは頬が落ち、肉は痩せて皮膚はたるんで気勢があがらず昔の面影はなかった。

彼は挨拶して、
「いろいろ連合国に御世話になっている。よく見ていってくれ。
日露戦争ではあなたがたサムライと戦った。いまはドイツの盗賊と戦っている。実に不愉快だ。然しどうあってもこの戦は負けられぬ」(後略)



秋山真之は日露戦争時に連合艦隊の参謀として作戦を練り、大勝利に導いた海軍軍人。
功なり名を遂げた彼が後年、欧米を視察した時の回顧である。

ご記憶の方もあると思うが、秋山はNHKで放映された大作「坂の上の雲」の主人公であり、東郷平八郎元帥と並んで日本海海戦での功労者である。

この欧州視察は、第一次世界大戦も中盤の頃、1916年3月であった。

そして、この「石坂砲兵大佐」が、筆者のマークする石坂善次郎であることは言うまでもない。

この頃、彼は大戦での同盟国、ロシア軍の大本営付き観戦武官として従軍していた。

現地での事情通であり、またそのロシア語能力を請われて、本国の英雄であった秋山提督のために案内役兼通訳を行ったものだろう。

 

また、こういうものもある。

これは、彼が在露日本大使館付き武官として首都ペテログラードに滞在中に勃発したロシア革命を報じた機密電報である。
まだまだ多くあるのだが、これはそのうちのほんの一部だ。
世界を揺るがせたロシア革命に関する現地大使館関係者の公電として、日露関係史の文献に、時には引用されるものだ。

この大事件について、東京の政府首脳と参謀本部に何事が起きているのか正確に知らせる必要があった。

そして、石坂将軍は迅速に対応し、このような極秘電報を次々と本国に送った。

軍人であるので、発信先は主として陸軍参謀総長や参謀次長など軍首脳であった。

  

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どれも、当時の緊迫するロシア情勢が詳細且つ的確に述べられている。

石坂将軍の国際諜報分析官としての本領が、ここに遺憾なく発揮されているように思う。

他にも、当時の公文書類等に彼に関する様々な記録が残されているので、調べてみるとなかなか興味深いものだ。

そして、筆者としては石坂将軍は本国を離れて国際舞台で活躍していた頃が、彼の本領を発揮して一番生き生きしていたと思うのだが、穿ちすぎであろうか。



さて、石坂将軍は、このように在ペトログラード日本大使館付き武官として、きわめて重要な任務を終えて19184月に帰国した。

国内で待ち受けていた軍務は、野戦重砲兵第1旅団(横須賀 近衛師団)の旅団長である。

約4年間の外国での軍務を終えての帰国だから、再び故国の土を踏みしめた時はさぞ感慨深いものであったはずだ。

何しろ、外国での観戦従軍や諜報任務というのは、体力と頭脳を振り絞る相当の激務であった。
それを遠いロシアで何年もこなしていた彼だ。

帰国後の旅団長生活などは、まるで休養みたいに感じていたのではないだろうか。

旅団長というのは軍のラインからすれば、師団長の次、連隊長の上であり、通常は少将があてられ、陸軍の官職の中では相当に偉いランクである。

石坂将軍は多くの将兵にかしずかれていたわけで、割と快適な軍務であったはずだ。

長年にわたった孤独な激務の骨休みとしては、丁度良かったと思われる。

 

 


米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長 (第壱號)

 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長

 (第壱

 

石坂善次郎中将とは

 

さて、筆者が陽明丸大航海の陰の仕掛人と推定する石坂将軍のおおざっぱな経歴については、既に刊行された図書 「陽明丸と800人の子供たち」で筆者が担当した第二部の末尾で述べた通りである。

 

まず、陸軍幼年学校を出て、士官学校(1期)に進み、さらに陸軍大学校(14期)まで卒業したという学歴。

この一行の経歴だけでも、彼があまたの軍人の中でも、相当のエリートであったことは明らかだ。

どれほどのエリートであったかといっても、わかりにくいと思うので、これを現代に置き換えてみよう。

ほぼ匹敵するキャリアというと、まず、中高一貫の名門校を卒業。そして、現役で東大法学部に進み、更に国家公務員種試験に合格。
生え抜きの財務官僚ないしは外務官僚となる人物であろうか。

これに加えて、父親(養父)が陸軍軍医総監(軍医の長官)であったので、毛並みの方も申し分ない。
いわば生粋のサラブレッドというところか。

軍務の期間は、明治後期から大正にかけてだが、まだ薩長出身者を優遇する藩閥人事の残滓があった時期だ。
出身が薩長閥、とりわけ長州であったなら、末は元帥・総理大臣を目ざす有望な出世コースであったはずだ。
しかし、残念ながらこれだけは主流から外れる兵庫・岡山系統であった。
だが、岡山と言えば、あの茅原船長もたしか同郷であった。 


石坂将軍の場合は、当初より砲兵科を選択していたので、更に陸軍砲工学校も出ている。
エリート軍人の中でも、必須の作戦・戦闘技術面だけでなく、理数系方面の専門知識も学んだわけで、とりわけ高い学歴であったと言えるだろう。

そして、最初に少尉に任官して配置された連隊は、陛下をお守りする栄えある近衛師団の旗下であった。

抜群の秀才しか入れない陸軍大学校(14期)を卒業したのは明治33年だが、後に同期生39人のほぼ全員が将官(少将~大将)となっている。

卒業後は、キャリア軍人のお決まりコースであった参謀本部の参謀に任官。

そして、これまたキャリア軍人の特権であった海外赴任先として、まずロシアのウラジオストクに差し向けられた。
陸軍大学校を優良な成績で卒業する者には、優先的に海外(特に欧米)での留学や軍務が割り当てられ、それに応じた語学研修が必須とされた。
彼の場合は、ロシア語であったわけだ。 
つまり、石坂将軍の場合は、「ロシア屋」 として、戦前の一貫した仮想敵国ロシアに関する軍事研究が任務として与えられたのが、軍務の出発点と見て良い。

軍の最高幹部を養成する戦前の陸軍大学校では、卒業時の成績最優秀者数名(いわゆる「恩賜組」)には軍中枢の花形コースである作戦部門の要員になる最短距離の道が宛てがわれていた。
その次に成績優秀な者たちにも華やかな出世コースが約束されていたが、トップ数名の「恩賜組」とは微妙に差があった。
海外での情報収集や在外公館武官などの現場経験を、「恩賜組」より多少長く務めることが多かったようだ。
石坂将軍のその後の軍歴から察するに、後者のグループに属していたと思われる。

戦前の陸軍では軍制上 「ドイツ屋」が一目置かれたが、この当時は日露戦争の関係で「ロシア屋」も威勢が良かった。
当時の陸軍実力者、参謀次長で後に総理大臣となった田中義一中将も、若いころにロシア駐在武官を経験した、典型的なロシア通であった。

ロシアにのめり込むあまり、ロシア正教に入信したり、ロシア風に「ギイチ・ノブスケヴィッチ・タナカ」と自称していたくらいだ。
一方ではシベリア出兵を陰で主導した田中であったが、ロシア人を知り抜いていた故に、警戒心も人一倍高かったのであろう。
田中は長州出身であり、陸軍のドンであった元老山縣有朋の覚えも目出度く、いずれは陸軍トップとなることが目されていた。

同じく「ロシア屋」の一人、荒木貞夫(最終階級は大将)も昭和前期には、いわゆる「皇道派」の巨頭として陸軍大臣や文部大臣に就いて権勢を振るった。
このように、石坂将軍は、田中参謀次長を出世頭とする陸軍の対ロシア専門グループの一員であった、と言えよう。

 

さて、石坂善次郎だが、さらに1904年の日露戦争の勃発とともに、満州の遼東半島方面に布陣した第二軍 (司令官 奥保鞏大将) の諜報担当幕僚となった。
ここの軍務でも、彼の対ロシア専門家としての資質能力が十分に発揮されたであろう。 
欧州では、有名な明石機関(明石元二郎大佐)が対露謀略工作を行っていたが、それと軌を一にして、極東ロシアや満州でも、日本軍は諜報活動を行っていた。 
石坂少佐(当時)もその一人。
軍事諜報員として、敵地潜入の危険な任務もこなしていたことが、当時の機密文書で確認されている。

また、関係文献には次のような記述もある。

 

「また(日露戦争)開戦直前の三六年冬、参謀本部第二部参謀の石坂善次郎大尉が、苦力(クーリー)に変装して(旅順)要塞内に潜入しようとしたが、堡塁の内部まで立ち入れず、往復の汽車でも車窓は全部ブラインドが降ろしてあり、地形すら偵察できなかった。」

(「情報戦の敗北  日本近代の戦争Ⅰ」)

これなどもロシア軍に見つかると銃殺間違いなしの極めて危険な諜報活動であった。

 

そして日露戦争の終結後も、さらなる諜報任務のためにロシア帝国ウクライナの要衝オデッサに派遣され、駐在武官となった。

帰国後は野砲兵第5連隊(広島)連隊長を拝命、さらに第五師団(広島)の参謀長に転任。

 

1914年の第一次世界大戦勃発とともに同盟国であったロシア帝国に再び派遣され、現地で観戦武官としてロシア軍に従軍、東部戦線でのドイツ軍との激戦も間近で体験した。

この大戦のさなかに陸軍少将にめでたく進級し、晴れて将官となった。


さらに、ロシア通であることを買われて、大戦後期である1917年から1年数ヶ月にわたり、在露日本大使館付武官を務めた。
ここで重要なのは、首都ペトログラードでロシア革命に遭遇したことである。
外交官や一民間人としてではなく、世界を震撼させたロシア革命に日本の軍人として立ち会ったのは彼を含めて数えるほどしかいない。
しかも、その舞台は例の800人の子供たちの故郷であった。
 

帰国後は野戦重砲兵第1旅団(横須賀 近衛師団)旅団長を拝命。

さらに、1918年のシベリア出兵では、翌年1919年2月から1921年3月まで陸軍諜報組織の重要出先機関、ハルピン特務機関(北部満州)のトップ(機関長)を務めた。

1920年8月には陸軍中将に進級。

 

だが、彼の軍人としての華々しいキャリアはこのあたりでピークに達した。
翌年1921年にはリタイア前の腰掛けであろう、由良要塞(大阪湾)司令官に転任。
彼のようなエリート軍人であれば、最後の花道である師団長に就いても不思議ではないのだが、それもなく、翌年8月に待命となった。

1924年3月には予備役となり、ここで実質的に軍歴は一応終わる。

石坂将軍にとって不運だったのは、丁度この頃は平和の到来とともに世界的に軍縮が推進された時期であった。
日本も例外ではなかった。
陸軍だけでも全国で将校を含む多くの兵員の整理が行われていたのだ。
それでも、彼は軍の関連施設、東京靖国神社の宝物館、遊就館の館長に就任することができた。

遊就館は、その前年の1923年(大正12年)関東大震災で建物が大破しており、彼の就任は再建計画が着手された頃だ。
また、備前岡山の名君、池田光政公の伝記( 「池田光政公伝」 ) を編集してもいる。

死没は1949年であり、第二次世界大戦も終わって後のこと。

享年77歳。
 
ざっと、このような彼の人生であった。

その中で、筆者が特に注目するのは、日露戦争以前から第一次世界大戦、そしてシベリア出兵に至る長期間の、彼の対露諜報専門官としてのキャリアである。

 


陸大卒エリートの同期生の者たちは、互いに陸軍の階段の頂点を目ざす終生のライバルであった。

だが、その反面、同時に彼らが強い連帯感で結びついていたのも事実である。
(この点は、士官学校の同期生でも同じであった。)

石坂と士官学校(第1期)及び陸大(第14期)共に同期であった宇垣一成 (うがき かずしげ) 大将の場合がそうであった。
宇垣は石坂ら陸大14期の中でも、出世コースの最先端を走った逸材だ。
大正末期から昭和初期にかけての日本陸軍の巨頭として、歴史に名を留めた大物軍人である。
陸軍大臣や外務大臣まで昇りつめ、あともう一歩で首相になるはずだったが、敵も多かったので、ついになれずじまいだった。
彼が主導した、有名な 「宇垣軍縮」 を断行した故に、皮肉なことに陸軍自体から裏切られたからだ、というのが定説である。

だが、石坂と宇垣は陸士、陸大同期生であることに加えて、共に郷里が備前岡山系統であった。
このあたりの事情もあり、彼らは生涯を通じて刎頚の友となった。
ついには、互いの息子と娘を婚姻させて、親戚関係にまでなった仲である。性格も、その後のキャリアも異なる彼らであったが、西欧的合理主義を尊重する点において、互いに意気投合したのではないか、と推察する。
そして、この二人の盟友関係は、後に述べるように陽明丸の航海にも関係があった、というのが筆者の見方である。


石坂将軍について、あれこれ述べてきた。だが、やはり顔写真でもないとイメージが沸かないことだろう。

それで、大変苦労して見つけた彼のポートレート写真をここに掲載する。

昔の印刷物にあったものを撮影した関係で、少しボヤけているが。

 

筆者が見る限り、石坂将軍は諜報将校としての職業倫理のなせる業か、自身についての情報は極力漏らさないようにしていたとしか思えない。

なぜならば、陸軍中将まで栄達し、世界を股にかけて活躍していた高級将校であったにも関わらず、以前は彼の肖像写真一枚さえ( 集合写真でさえも! ) 見つけ出すことができなかったからだ。
戦前の陸軍中将というのは相当にステータスの高い名士であった。
ゆえに、何がしかの講演活動をしたり、揮毫した書など残っていて当り前なのだが、そういう形跡は全く見当たらない。

おそらくは、退役した後の機密保持も職業柄徹底してやっていたのではないか、と勘ぐっているほどだ。


この写真を見たときの第一印象。

それ以前に筆者が描いていたイメージとおりの風貌だったので、妙に感動したことを覚えている
撮影時期は陸軍中将の頃のようだ。
日本人離れした、端正で彫りの深いハンサムな風貌。
 

そして、洗練されたスマートさが垣間見える。
何よりも、目から鼻に抜けるような怜悧なダンディズムを感じる。
柔和な表情だが、隙というものがない。
およそ武人という押し出しではない。

むしろ熟練した外交官ないしは際立った能吏という印象である。

石坂中将



陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 8

1920年頃のポストカード。

1920年の春、沿海州二コラエフスクで起きた地方パルチザンによる大虐殺事件、「尼港事件」。
700人以上の日本人軍民、そして反革命白系と疑われたロシア人市民数千人が惨殺され、歴史と由緒ある街は徹底的に破壊され、焼き払われた。

当時の惨劇を再現して描かれた絵である。
黒竜江河岸で惨殺される邦人や白系露人と疑われた市民たち。

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 7

1920年頃のポストカード。

1920年の春、沿海州二コラエフスクで起きた地方パルチザンによる大虐殺事件、「尼港事件」。
700人以上の日本人軍民、そして反革命白系と疑われたロシア人市民数千人が惨殺され、歴史と由緒ある街は徹底的に破壊され、焼き払われた。

パルチザン幹部三名の肖像がモチーフである。
中央白服の男が首領、ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン。
左の女が彼の情婦で、参謀長であったニーナ・レベジェワ。
右の男が副首領、ラプタ。

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 6

1920年頃のポストカード。

1920年の春、沿海州二コラエフスクで起きた地方パルチザンによる大虐殺事件、「尼港事件」。
700人以上の日本人軍民、そして反革命白系と疑われたロシア人市民数千人が惨殺され、歴史と由緒ある街は徹底的に破壊され、焼き払われた。

パルチザン幹部たちの下記の写真がモチーフである。
中央白服の男が首領、ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン。(当時25歳)
その隣の女が彼の情婦で、参謀長であったニーナ・レベジェワ。(当時28歳)
後方に、捕えた日本人から奪った屏風が見える。
彼ら二人とも、後に逃亡中に逮捕され、赤軍の粛清裁判で死刑を宣告され、銃殺に処された。

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 5

1918年のポストカード。

ウラジオストクで撮影された、シベリア出兵各国軍の司令官、参謀長クラスの集合写真。

正面前列の左から4番目に、日本軍(浦塩派遣軍)司令官の大谷大将の姿が見える。
その向かって左隣が、米国からの派遣軍司令官、グレーブス少将。


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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 4

1918年~1920年頃のポストカード。

日本のシベリア派遣軍の部隊が赤軍部隊との戦闘で勝利し、鹵獲した装甲列車のようだ。
日本兵と並んで立っているのは白軍の兵士であろう。
場所はロシア沿海州と中国東北部との境目、ウスリー付近。


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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 3

満州の国際都市、ハルビンの絵葉書。

白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラな街角が魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 2-②

満州の国際都市、ハルビンのカラフルな絵葉書。

タイトル 「大哈爾浜 東洋の巴里(パリ)」
白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラな街角が魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵


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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 2-①

満州の国際都市、ハルビンのカラフルな絵葉書。

タイトル 「大哈爾浜 東洋の巴里(パリ)」
白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラなストリートファッションや街角が魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵 

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陽明丸/シベリア出兵/日露関係 史料・資料 1

満州の国際都市、ハルビンのカラフルな絵葉書。

タイトル 「ハルビン街角スナップ」
白色ロシア系、中国系、日本系入り乱れたハイカラなストリートファッションが魅力的である。

・製作時期 昭和初期  おそらく満州国建国(昭和7年 1932年)頃のものと推定。
筆者蔵 

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Historical items concerning Yomei-maru Incident or Siberian Intervention by Empire of Japan.


The following items are my personal belongings that I have been collecting one by one, spending years while our reserching task as to the Yomei-maru Incident was going on.

I have some other various items apart from those, but it would take some time to finish the listing all of them
We exhibit those items in the show room of our NPO headquarter in Nomi city.

I am going to take the pictures of all items, and will put them on the blog, though I need to spare some time for the job....



1、シベリア出兵当時の大砲の薬莢

シベリア出兵当時に現地で使用された大砲砲弾の薬莢。

「西比利亜出征記念」の文字、花鳥などが彫金されている。

従軍した日本兵が帰国時に記念として持ち帰ったものであろう。

真鍮製。


An empty cartridge of cannon possibly once used at the battle of the era of Siberian Intervention War.

This was brought as a souvenir by one of Japanese soldiers belonging to the dispatched army troop, when he came back to Japan, so it can be guessed.

Later he had It elegantly engraved to be decorative with classical Japanese tastes, with the words “Memento of my going to fight in Siberia”.. .

 


2、シベリア出兵軍人の記念品・一輪ざし

「西比利亜出征記念」「大正七年十二月 勲七等 佐藤祐弘」の文字が鋳込まれている。

無事帰国し、叙勲を受けた軍人が発注し、各所に配ったものであろう。

鋳鉄製。 

A flower vase, manufactured in memory of the “Victorious Returning from Siberia “ by the Japanese soldier who had been posted there.

We can read his name as“ Sukehiro Sato “ on it, together with the title of military award he was bestowed, and the memorial date “ December 1918 ”

 

 

3.シベリア出兵軍人の軍事郵便

新潟県の叔父に送った軍事郵便(手紙)

「浦塩(ウラジオ)派遣軍」「在尼市(ニコリスク市)」などの文字が見える。

1919年6月9日の消印。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his uncle in Japan by military postal service..

Stamped June 9th 1919.

 

  

4.シベリア出兵軍人の軍事郵便

山梨県の知人に送った軍事郵便(手紙)

「浦塩(ウラジオ)派遣軍」「第二兵站司令部」などの文字が見える。

陸軍の公式便箋に書かれている。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service.

We can see the words, “(Japanese) Expeditionary Force to Vradiostok”,

” Headquarter of the second transportation regiment)

The letter paper was official stationery of Imperial Japanese Army.

 

  

5.シベリア出兵軍人の軍事郵便

広島県の知人に送った軍事郵便(葉書)

「派遣(軍)第五師団歩兵第十一連隊」などの文字が見える。

裏の文面には「過激派の掃討」などの文字が読みとれる。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service..

We can see the words, “Chasing battle against (‘Russian) partisan troop” in the sentences.

 

 
 

6.シベリア出兵軍人の軍事郵便

栃木県の知人に送った軍事郵便(葉書)

「西伯利亜派遣軍 在哈府(ハバロフスク市)」などの文字が見える。

裏の文面には「尼港事件」などの文字が読みとれる。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service..

We can see the words, “ (Japanese) Expeditionary Force to Siberia” “Khabarovsk”, “Nikolayevsk  (massacre)  Incident” etc.

 

  

7.シベリア出兵軍人への功労金授与証書

退役した元陸軍軍曹への陸軍省からの証書及び関係書類。

功労金として金参拾五円が支給されたことがわかる。

大正11年11月1日付。

 

A certificate awarding a retired army sergeant, who served as a member of the dispatched troop to Siberia.

He was paid 35 yen, as the reward from the national government.

Issued on November 1st 1922.

 

 

8.大正七年版 最新東部シベリア戦地一覧図

出兵当時の日本軍部隊の配置の書き込みがあるが、

最前線部隊指揮官の将校によるものか。

「(帝国陸軍)参謀本部検閲済」の文字が印刷されている。

 

A military map of east Siberia. There are handwritten letters by someone who is supposed to be the commander of the small troop posted there.

The map was inspected by Imperial Japanese Army General Staff Office, so it is printed.

Printed in 1918.

 

 
 

9.大正七年版 時事新報シベリア全図

サブタイトルに「伯林(ベルリン)から極東まで」とある。

当時のシベリア各都市の人口も記載されており、興味深い。

 

A map of whole Siberia.

As its subtitle, “ from Berlin to Far East.”

Printed in Japan, in 1918.

We can see the estimated population of main local cities in Siberia in those days.

 

 

 

10.シベリア出征忠死者人名簿 大正9年6月

「茨城県臨時招魂祭」のために制作されたもの。

茨城県内からシベリアに出征し、戦死した兵士の詳細情報が記載されており、

たいへん貴重な史料である。

 

A list of the deceased soldiers who were residents of Ibaraki prefecture, who died while being posted in Siberia. We can see their names and how and when they died on the list.

This is a very valuable historical document.

Published in June 1920.

 

 

11.シベリア出兵兵士への感謝状 大正9年12月

或る村の村長より、シベリア出兵時に従軍し、無事「凱旋」した陸軍上等兵の村民に授与された感謝状。手書きである。

「欧州戦乱の余波」「シベリアの風雲急なる」云々と大仰な文章だが、当時の日本国民の国防意識を反映しているのであろう。

 

A hand-written letter of gratitude toward a soldier who could return alive “victoriously” from the Siberian Intervention War, by the village chief.

The soldier was the resident of the village.

We can see some exaggerated nationalistic style in the sentences, which might have reflected the era in those years of Japan.

Dated December 1920.

 
 

 

12.シベリア出兵時、日本軍兵士に宿営を提供する居留民への布告

シベリア現地の日本人居留民の家に兵士たちが泊まる際の、居留民の取るべき心得を示したもの。

「居留民ハ陸軍官憲ノ要求ニ対シ便宜ヲ与フル義務アルモノトス」とかなり高圧的である。さらに、これらに不服ないしは拒めば、「帝国陸軍官憲の制裁」を受けることがある、と警告している。 大正9年7月の布告。

 

An announcement by the Imperial Japanese Army to the Japanese civilians living at some (unknown) area of Siberia.

It orders these Japanese civilians there to lend their houses to the  soldiers, if they are asked.

If they are not obedient with the order, it warns that they might be punished by the military officials.

Dated July 1920.

 
 

13.「尼港事件」の被害者への追悼歌謡小冊子

極東ロシア、ニコラエフスクの日本軍守備隊と居留民多数が過激派パルチザン軍に包囲され孤立、戦闘の末に惨殺された事件に日本国民は大いに憤慨した。

この事件を追悼するために作られた歌謡の小冊子である。

 

A leaflet of songs for mourning the deceased Japanese people who were killed as victims at the massacre incident of Nikolaevsk.

This massacre happened there, around the time of the siege by the Japanese military troop posted there, then after the surrender to the extremist-partisan troop, the most of the captured Japanese including many civilians were mass-killed by them.

 

 

14.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章と「シベリア出征記念」の文字が入っている。

真鍮製。

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, and the words “ Memento of my going to fight in Siberia.”
 

 

15.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章、交差する日章旗、「シベリア凱旋記念」の文字が入っている。

磁器製。

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, crossed rising-sun flags, and the words “ Memento of my victorious returning from Siberia.”
 

 

16.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章、軍旗、武人の象徴である桜花に、「シベリア出征」「凱旋記念」の文字が入っている。

磁器製。
 

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, regimental flag, cherry flowers as the symbol of warriors, and the words as the Memento of victorious returning fromSiberia.

 

17.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

表には「シベリアの」云々の短歌、裏には「大正七八年シベリア出征記念」「工三(工兵第三大隊か)」の金文字。

漆器製。
 

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the short poem about the memory when he was staying there,   and the words as the memento of his going to fight in Siberia 1918~1919, Engineer 3rd battalion etc.

 

18.日本人男性三名―シベリアにて 大正初期のキャビネット写真

三名の日本人男性、一見ビジネスマン風であるが、目付きが鋭く面構えが一癖ありげである。いったい何の目的で現地に居るのか興をそそる。

シベリア出兵以前にも、多くの日本商人たちが極東ロシアに進出しており、様々な商売に携わっていた。

これら商人たちが日本軍の密偵を兼ねていたことも多かった。

或いは、このトリオもそうであったのかもしれない。

 

An old cabinet photo of three Japanese men who are supposed to be on the travel in Siberian Russia.

We feel that they were not ordinary Japanese travelers, considering their evil-looking, guarding faces.

Decades before the Siberian Intervention, many Japanese businessmen or merchants had been active in Siberia, doing various jobs there.

They often served as intelligence agents for the Imperial Japanese Army  or the government if they were asked.

Therefore, those three men could be military spies, we can presume.

 

 

19.日本陸軍シベリア派遣軍の「記念写真帖」

ウラジオ派遣軍の第八師団及び石川県の地元師団である第九師団の「撤兵凱旋」を記録した出版物。

大正11年9月発行。
 

A memorial photo album of the Expeditionary Imperial Japanese Army to Siberia.

Printed in September 1922.

It photographically records the military activity and the” victorious returning fromSiberia” of 8th Division and 9th Division.

 
 

20.日本陸軍シベリア派遣軍の「記念写真帖」

シベリア出兵当時に起きた大事件の二つ、「尼港虐殺事件」と「哈府(ハバロフスク市)武装解除事件」を特集した記念写真帖。

外国メディアを意識してか、日英二ヶ国語で解説。

 

A memorial photo album of the Expeditionary Imperial Japanese Army to Siberia.

Printed in September 1922.

It photographically records the military activity in Siberia.

Together with English translation, reflecting their consciousness toward the foreign medias which were critical to the prolonged Japanese military activity in Siberia in those years..
 

 

21.シベリア出兵当時の日本の新聞

第一次世界大戦の戦況ニューズなどに混じって、「尼港事件」や(日本軍の)「シベリア派兵交代」の記事が見える。

 

A newspaper reporting the news about the military situation of the WW1 mainly in Europe, and the activity of Japanese expeditionary force to Siberia, and the Massacre Incident  at Nikolaevsk etc….

 
 

22.第一次世界大戦を伝える写真解説冊子(三冊)

ドイツで発行されたもの1冊、及び日本で発行されたもの2冊。
 

Booklets reporting the news about the military situation of the WW1 mainly inEurope, one was published in Germany, and two were in Japan.

 

 

23.シベリア出兵当時の各種の絵ハガキ

 .

     シベリア派遣各国軍の拠点、ウラジオストク市関連。

 

Postcards depicting the Massacre Incident  at Nikolaevsk. etc….

Siberian Intervention by countries in connection, and the city of Vladivostok where those military activity has mainly started.

 

     ニコラエフスクの日本軍守備隊と居留民多数が過激派パルチザンに惨殺された「尼港事件」関連。
 

Postcards depicting the This massacre happened there, around the time of the siege by the Japanese military troop posted there, then after the surrender to the extremist-partisan troop, the most of the captured Japanese including many civilians were mass-killed by them.

 

 

     当時のウラジオストクの地図を示す葉書。陽明丸の子供たちが保護されていた「ルッスキー島」の文字も見える。
 

A postcard showing the map of Vladivostok, we can see the location of  “Russky Island “, where many of those children were staying.

 

 

●第一次世界大戦の講和会議のあったフランスのヴェルサイユ宮殿の記念葉書。

勝利者側の主要国であった米英仏各国首脳に並んで、日本代表の西園寺全権大使も紹介されている。
 

A postcard depicting the historical event, “Paris Peace Conference, 1919” after the end of WW1.

Among them, We can see the face of Mr. Saionji who attended there as a chief representative of Japanese government as the ambassador extraordinary and plenipotentiare.

 

 

24.シベリア出兵の従軍勲章

シベリア出兵に従軍し、軍功があった軍人に与えられた国家勲章。
 

A  reward medal for military servicemen who were dispatched to Siberia, and  finely contributed to the military activity, given by  of Imperial Japanese government..



25.シベリア出兵関係の関連書籍

 

Various reference books as to the history of Siberian Intervention War by ImperialJapan.

 

26.陽明丸の事績関係の書籍

オルガ・モルキナ女史の著作(ロシア)一冊と米国で発行された二冊(Various books as to the historical story of Wild Children of Urals, written by two American writers, and Ms. Olga Molkina, respectively.

 
 

27・勝田銀次郎氏の評伝

 

A book featuring the life of Katsuda Ginjiro.

 
 

28・ルドルフ・トイスラー博士関係の書籍

戦前に米国で発行された1冊(在シベリア救援活動の章はライリー・アレンが執筆)

と戦後に日本で発行された1冊。

Two books featuring the life of Dr. Rudolf B. Teusler, one was published in USA, and another was publiseh in Japan.

 


当NPO法人 第三回顕彰記念式典開催のご報告③

記念式典を報道した新聞記事。


北國151110

 中日151112 (2)

当NPO法人 第三回顕彰記念式典開催のご報告②

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開始時刻に至り、式典はまず、当NPOの徳野副理事長の発声にて、力強い開会宣言から始まりました。

総合司会は、且つて北陸放送の名物アナウンサーとして活躍、今なお市民に広く親しまれている当NPOの辰巳理事が担当。

続いて、主催者を代表して、北室理事長がご来賓と参加会員にご挨拶を申し述べました。

さらに、陽明丸事跡に関係した、国籍を超えた多くの物故者に対し、列席者一同から黙祷が捧げられました。


続きまして、ご臨席の来賓各位のご紹介があり、各々から真摯でお心のこもったご祝辞の言葉を頂戴いたしました。
(衆議院議員 佐々木紀様、参議院議員 山田修路様 石川県議会議員 善田善彦様 )

また、ご本人公務ご多用のため、代理として列席いただいた方々からのご祝辞も有り難く拝聴いたしました。
(参議院議員 岡田直樹様代理 
石川良巳秘書様、
能美市長 酒井悌二郎様代理 
高塚善衛副市長様)


また、ご所用の為に折り悪しくご欠席の元内閣総理大臣 森喜朗様からの力強い励ましのご祝辞が、司会者から朗読されました。
また、石川県議会議員の井出敏彦様からも当会活動への深いご理解を示されたご祝辞が司会者により披露されました。

続いて、茅原船長の郷里である岡山県笠岡市の市長 三島紀元様から、当NPO活動へのご理解ご賛同を
表明されたご祝辞も朗読されました。

最後に、遠くロシア・サンクトペテルブルク市の当NPO名誉会員・ペテログラード児童難民子孫の会代表オルガ・モルキナ様からも、故茅原船長への深謝のメッセージを預かっており、同じく司会者より朗読されました。


以上、いかにも陽明丸事蹟らしい、荘重なセレモニー部分が滞りなく終了し、次に今回の特別プログラムとして下記の文化イベントに移りました。


 

◇基調講演 講師

聖路加国際大学 学術情報センター 大学史編纂資料室

 藪 純夫(やぶ すみお)様

*演題「陽明丸大航海を陰で支えた功労者、ルドルフ・B・トイスラー博士」

 


◇パネル・ディスカッション

藪 純夫 様、

東京外国語大学留学生(日本研究)レブロワ・マリヤ様、

及び当NPO北室理事長の三名。

*テーマ「陽明丸の事蹟とは何であったのか、私たちの思い」

 

聖路加国際大学の職員として、当該分野の研究者としてご活躍の藪さまより、陽明丸事蹟の功績者の一人、トイスラー博士の生涯について、パワーポイントや大変貴重な動画映写も交えて、詳しくご解説をいただきました。
参加者一同、トイスラー博士の人間性と偉大な功績に、改めて深い敬服の念を懐かざるを得ませんでした。 



続いて行われたパネルディスカッションでは、陽明丸の事績を巡り、上記のゲスト及びNPO関係者も交えた、熱心で実りのある意見交換が行われました。
特に、ロシア国籍のレブロワ・マリヤ様の当事蹟に対する理解の深さ、そして表現力豊かで雄弁な日本語は大変印象的でした。
彼女には当NPOの今後の活動にも、格別なご協力を是非期待したいものです。

これらのメインイベントが滞りなく終了すると、最後にミニコンサートとして、下記の方々の邦楽生演奏が始まり、参加者一同、繊細で美しい音色に酔いしれました。


◇ミニコンサート(筝曲)

筝:須田 雅楽静うたしず   十七弦中橋 りゅうせい  尺八山田 寒山
 


式典の締めくくりとして、司会者の辰巳理事がおごそかに閉会を宣し、参加者一同、活動の今後のさらなる前進のために心を新たにして、会場を後にしました。


夕刻6時過ぎより、会場と雰囲気を変えて、親睦交流晩餐会が能美市下ノ江町の料亭「八松苑」にて、行われました。
季節料理を楽しみ、美酒を堪能して互いの友誼交流を深め、参加者一同、日露文化交流などをテーマに談笑の花を咲かせました。
また、遠路をはるばる御夫婦でお越しいただき参加された神馬会員に乾杯の労をお取りいただき、即席のスピーチもご披露いただきました。
神馬会員はお仕事の関係で在露経験が豊富で、ロシアの内実を深く知られる方の興味深いエピソードに、一同感銘を新たにしました。


今回のアトラクションとしては、当NPO徳野副理事長の親族、真珠子ちゃんの可愛い日本舞踊のご披露がありました。
幼少より藤間流舞踊を一生懸命に習っている由で、少し緊張していたようですが、とても品よく、愛らしい舞姿でした。

締めくくりとして、式典開催の裏方を担ってきた当NPOの井上事務局長の一本締めで、めでたく全てのイベントを無事終了させていただきました。
式典やイベントを陰で支えたNPOの全スタッフの皆さん、本当にお疲れさまでした。

当NPO法人 第三回顕彰記念式典開催のご報告①

NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会

第三回顕彰記念式典開催のご報告


過日11月8日(日)、能美市根上学習センターに於いて、当NPO法人の第三回顕彰記念式典が行われました。

下記は会員に送付された案内状の写し。

**********************************************
 

平成27年10月吉日

 

 

NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会

第三回顕彰記念式典 開催のご案内

 

 

会員並びに関係各位

 

NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会

      理事長   北室 南苑

 

 拝啓 中秋の候、各位におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

平素より当NPOの活動に格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、お陰様にて当会は特定非営利活動法人として発足以来三ヶ年余、極めてエネルギッシュに事業を推進してまいりました。

昨年度は、皆様方の有り難きご協力に加えて、日本財団及び自治体各位より

御助成も賜り、日露米三か国交流も兼ねた様々な顕彰事業を盛大に実施することができました。

特に、地元能美市での第二回記念式典、また東京の日本外国特派員協会における国際交流会議では多くの反響がありました。

さらに、本年三月には神戸市にて陽明丸展等を開催し、多数の関西市民のご来訪をいただきました。

私どもでは、今後共さらにこの素晴らしい国際連携による人道救助の事績を精査検証し、それらの成果を広く国内外に周知して参りたいと願うものです。

つきましては、ここに謹んで第三回顕彰記念式典のご案内を致しますので、

各位におかれましては、万障お繰り合わせの上ご出席をお願い申し上げます。

 

敬具

 

 

●第三回顕彰記念式典  

Ø        日 時:平成27118日 日曜日 午後1時30分~4

Ø        場 所:能美市根上学習センター

石川県能美市大成ヌ111   ℡0761-55-8570

 

特別プログラム

◇基調講演 講師

聖路加国際大学 学術情報センター 大学史編纂資料室

 藪 純夫(やぶ すみお)様

*演題「陽明丸大航海を陰で支えた功労者、ルドルフ・B・トイスラー博士」

 

◇パネル・ディスカッション

上記の藪 純夫様、

東京外国語大学大学院生(日本研究)レブロワ・マリヤ様(ロシア国籍)、

及び当NPO北室理事長の三名。

*テーマ「陽明丸の事蹟とは何であったのか、私たちの思い」

 

◇ミニコンサート

筝曲演奏: 須田 雅楽静(うたしず) 他

 

 

 

  交流夕食会(参加自由・ご都合の良い方は是非ご参加ください)  

日 時 平成27年11月8日(日) 午後5時30分より

   場 所 能美市下ノ江町申8 八松苑(式典会場より送迎バスあり)

    

お知らせ⑨「人道の船 陽明丸顕彰館」の館内写真

顕彰館 006顕彰館 001顕彰館 007顕彰館 002顕彰館 004顕彰館 003

お知らせ⑧「人道の船 陽明丸顕彰館」の館内写真

顕彰館 016顕彰館 015顕彰館 019顕彰館 017顕彰館 018顕彰館 014

お知らせ⑦「人道の船 陽明丸顕彰館」の外観写真

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お知らせ⑥「人道の船 陽明丸顕彰館」の概要・外観写真

●「人道の船 陽明丸顕彰館」の概要


石川県能美市に在り、元々は
当NPO団体の北室南苑理事長の生家であった。
昭和初期、戦前に建てられた住居を手間隙かけて改築改装したもの。
館内は「篆刻アーティスト 北室南苑」 独特の感性によりコーオーディネイトされ、現在の姿となっている。
レトロチックに洗練された雰囲気に現代的な快適さがたくみに融合した文化的空間を演出している。

今後は陽明丸事蹟を中心とした展覧や日露米国際交流の拠点として活用するとともに、地元能美市当局や市民とも連携して地域エリアの教育文化施設としての汎用性についても検討してゆく。

所在地  石川県能美市福岡町ロ10番地

敷地は820平米、約250坪。
和風二階建て、室数は14。

(内訳) 展示室 1、 会議室 7、 研修室 3、 その他 3
      合計14室



顕彰館 034 




 















顕彰館 021

 


















顕彰館 039


 

















顕彰館 042 

お知らせ⑤当NPOの第一回通常総会の折、佐々木衆議院議員からのご祝辞

過日の当NPO通常総会開催の折に、地元選出の衆議院議員 佐々木 紀(ささき はじめ)様より眞に心を打たれる有り難いご祝辞も頂戴した。

※画像をクリックすると拡大します。

13 06 23 顕彰会記事 005

 

お知らせ④当NPOの第一回通常総会と顕彰館開設を伝えた報道記事

去る6月14日に当NPOの2013年度通常総会が開催されたことと、事業活動の拠点としての本部施設 「人道の船 陽明丸顕彰館」 が開設されたことを伝える報道記事。(北國新聞)

※画像をクリックすると拡大します。

13 06 23 顕彰会記事 002

お知らせ③ 訪露した森元総理がプーチン大統領に陽明丸事蹟のことを伝えた報道記事

●本年2月、森喜朗元総理は安倍首相の特使としてロシアを訪問、日露間の懸案の問題についてプーチン大統領と会談した。
その折、元総理が陽明丸の事蹟についてプーチン大統領に披露、関連資料も直接手渡した。
日露友好親善に長年尽くしてこられた森先生はプーチン氏とは個人的に親しく、大統領と腹を割って話せる、唯一の日本人であるといわれる。
森先生は北室理事長とは同郷のよしみで、この事蹟についても何かと気に懸けていただいている。

「プーチンは一見クールに見えるのだが、内心は意外と男気があり、熱い心の人物。
だからこの素晴らしい日露の国際人道救助の話はわかってくれるだろうし、是非伝えてやらねば」 と、訪露の少し前に北室理事長に意気込んでおられたとのこと。

森先生はその約束をきちんと果たされて、タイミングよく実行していただいたのだが、当団体としては思いがけず、まことに喜ばしいニュースとなった。

下記はその折りの報道記事。(北國新聞)

※画像をクリックすると拡大します。

13 06 23 顕彰会記事 003
 



















13 06 23 顕彰会記事 004





 

お知らせ② NPO設立を報道する新聞記事


●当団体NPO設立認証を報じた地元新聞記事(北國新聞)

※画像をクリックすると拡大します。

13 06 23 顕彰会記事 001 

お知らせ① 当団体NPO設立などについて

お知らせ

特定非営利活動法人(NPO)の設立及び、
「人道の船 陽明丸顕彰館」 開館について

 

当団体、「人道の船 陽明丸顕彰会」は2011年の設立以来、任意団体として当該課題達成のために様々な活動を行なってきました。

しかしながら、事業規模の拡大につれて、それに伴う安定した財務内容、また今後の事業運営に必要なボランティア人員の確保が急務になってきたことから、特定非営利活動法人(NPO)への移行を進めておりました。

つきましては、本年2013年2月に目出度く認証され、NPO法人設立の運びとなりました。
また、今月14日には会員多数の出席により、第一回通常総会も開催され、今後の事業予定等が策定されました。


一方、このNPOの本部機能と陽明丸事蹟に関する展示施設を兼ねた「人道の船 陽明丸顕彰館」を日露友好親善ゆかりの地、石川県県能美市にて立ち上げました。

所在地 石川県能美市福岡町ロ10番地

当顕彰館を今後の事業発展の拠点と位置づけ、地元市民との連携も視野に、その有効活用に努めてまいります。

ただ、展覧展示物については、まだまだ収集の端緒であり、とても多いとは云えない段階ですが、これから時間をかけて充実してゆきたいと考えております。

現在はまだ常時開館にはなっておりませんが、どなたでも見学をご希望の向きがありましたら、受け入れ可能であり、その場合は下記までemaiにてご照会を願います。 

但し入館料は有料とさせていただきます。(大人 500円 高校生以下 250円) 

◎不定期開館(見学ご希望日の場合は、三日前までにご連絡願います)
 

nanen@aqua.ocn.ne.jp

見学ご予定者のお名前、人数、希望日時、連絡電話番号などをお知らせください。
折り返し、当日の受け入れ可能の諾否を事務局より ご連絡さしあげます。

人道の船 陽明丸顕彰会 設立について

パブリシティ

※任意団体「陽明丸顕彰会」が設立されたので、当ブログ読者各位にお知らせいたします。



「人道の船 陽明丸顕彰会」の設立について(お知らせ)



今年6月下旬より最近まで新聞各紙で報道され、既にご存知の方々もいらっしゃるかとは存じますが、約九十年前の大正時代、内乱と混乱のシベリアに取り残された多数のロシア子供難民を日本船に乗せ、地球をほぼ一周する大航海の末に、親元に送り届けた歴史的事実がありました。

この快挙をなし遂げた日本船・陽明丸ですが、船長は「カヤハラ」という名前であったということしかわからず、その後一世紀近くも歴史の闇の中に埋もれていたのです。


ところが、一昨年九月、ロシアのサンクトペテルブルク市で開催した私の個展に訪れた女性(この方の祖父母は陽明丸に乗船した子供でした)オルガ、・モルキナさんから突然、「船長のその後の消息についての探索をぜひお願いしたい」と懇願されました。

その、あまりの熱意につい引き受けてしまったのですが、それからは自分なりに出来得る限りの調査探索を進めてまいりました。


そして、今年の夏頃、ついにこの船長が「茅原基治」氏であり、岡山県笠岡市に生まれ、墓所もそこにあることを突き止めました。

あのときオルガさんから必死の顔で頼まれ、私なりに懸命に尽力してきたこの二ヶ年でしたが、不思議なことに、その間ずっと、これはいつか必ず見つかるものとの確信めいた直感を持ち続けてまいりました。


今になって思いますれば、ある時ふと、天から一滴の真珠の雫が静かに落ちてきた、というようなミステリアスな思いがいたします。

また、おそらくこれは、天上の茅原船長が、オルガを通じて私のみに与えてくれた神聖な課題ではないかとも・・・


 さて、この奇跡の大航海の国外での評価ですが、これまで閉ざされ気味であったロシアサイドの情報と、ロシア内陸地からの子供らの救出に大きく係わった米国赤十字社の記録に基づくものしか公表されておらず、その結果、遺憾なことに日本側の献身的な協力の部分が大きかったことについては、ほとんど語られてきませんでした。


その意味で、今回の茅原船長の特定及び手記等の新事実発見により、会社としての大きなリスクを承知で快諾した陽明丸船主・勝田銀次郎氏の度量の広さ、義侠心をも併せて、この救出劇では米国赤十字に次ぐ功績のあった日本側関係者への再評価を促すスタートラインに、今やっと立てたという思いでございます。

 

かくして私儀、船長手記の紹介をも含めた探索顚末記を執筆中で、今後も関連の新たな事実関係の発掘にも地道に努力していきたいと考えております。



つきましては、これら将来的な課題については、既に私個人の次元を超えているものと考え、この夏、関係有志が集まり、「人道の船 陽明丸顕彰会(仮称)」を立ち上げました。

 

まことに残念ながら、国内外ともに、日本及び日本人への評価が著しく低下している厳しい現実があり、そのためにも「日本はそれほど捨てたものではない!」という信念を、もう一度、国内外に向けて発信することが必要なのではないでしょうか。


そのためにも、一億自信喪失に陥っている現在の日本人に、「かつて国際連帯と義侠心の双方をこのように自然に発露した、素晴らしい祖先を持っていたこと」の歴史的事実を知っていただくことは大きな意味があることと考えるのです。

もし出来得るとすれば、これら陽明丸関係者たちの事跡をさらに精査検証し、それらを整理保存してゆくことを通して、日本人の美徳にもう一度日矢が差し込むことを願うものです。


関係各位に於かれましては、今後とも何かとご支援ご協力を賜りますよう、何とぞよろしくお願い申し上げる次第でございます。


                                          北室南苑

                                            平成二十三年十月五日


 リンク 北室南苑ホームページへ


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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