人道の箱舟 陽明丸   総括  ②-4 陽明学的行動派の知識人

③ 以下は、ライリー・アレンや茅原基治船長、ルドルフ・B・トイスラー博士と同じく、陽明丸事蹟で重要な役割を演じた勝田銀次郎についての執筆者なりの考察である。


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勝田銀次郎 (神戸市長時代 昭和10年代)


勝田銀次郎の人生は、心を打つ様々な魅力的なエピソードで彩られている。
今日まで伝わるこれらのエピソードを整理してみると、彼の実に非凡な資質とキャラクターが浮かび上がってくるのだ。
勝田の人生は大ざっぱに言うと、前後期の二期に区切ることができる。

前期は、青雲の志を抱いて郷里松山を飛び出し、東京で苦学の後に関西で貿易業の仕事に就いた時から始まる。
彼の青春期であった明治期前半は文明開化の波が最も急激に押し寄せていた頃で、殖産興業や富国強兵が国家の至上命題であった。
いわゆる疾風怒涛の時代であった。
それまで理不尽な封建制度で縛られてきた人々は、明治維新でいっきに桎梏から解き放され、自由人となった。
才能に溢れ、覇気のある若者は中央地方の在を問わず、青雲の志を抱いて、立身の道をまっしぐらに目ざした。
世はまさに司馬遼太郎の謂う、「坂の上の雲」の時代。
そして、奇しくも勝田はその主人公の秋山真之や正岡子規と同じく、愛媛松山出身であった。
さらに言うと、彼らと同じく、当時の県立松山中学校を卒業しており、数年の後輩にあたる。
ここにも何か運命的なものを感じる。

つまり、秋山は富国強兵の日本を代表する軍人。
そして子規は日本の文芸を革新した文化人。
それぞれ名を轟かせわけだが、勝田は殖産興業の分野、海運業での成功者となった。
後に「三大船成金」の一人として名を馳せた勝田だが、あとの二人 (山下亀三郎と内田信也 ) のうち、山下も愛媛(宇和島)の出であった。
つまり、明治期前半の愛媛という地は、軍事、文芸、そして実業の三分野にわたり、傑出した人材を次々と生み出した、ということになる。
ただ、「三大船成金」の呼称だが、現代の我々が抱く語感からすると、決してよい意味には取れないのも事実だ。
放縦きわまる 「お大尽遊び」 や、金ピカのいわゆる「成金趣味」の負のイメージがどうしても付き纏うからだ。

だが、この「成金」という名詞の語意は、時代によって意味が多少異なっていた。
戦前では、もちろん羨望や侮蔑のニュアンスもあったが、それとは別に優れた才覚と度胸、そして強運で無一文からのし上がった人物の呼称として、多分に敬意の念も込められていた。
そのあたりは、現代のIT企業の成功者たち、いわゆる「ニューリッチ」に対して、我々凡人が抱く感覚とさほど変わらないものであろう。

そして、彼ら明治の男にとっては、立身出世というのは、大金を儲けたり、権力を得て贅沢な生活に耽ることなど、現代の小市民的ゴールを必ずしも意味するものではなかった。
立身出世をして大臣や大将、博士や企業家になるということは即、国家の繁栄興隆に貢献することであった。
明治政府の国家スローガンを信じた若者たちは、まことに純粋な思いで立身出世の階段を駆け上ろうとしたのである。
それこそ維新の大革命を導かれた明治天皇の深い御恩に報いる忠義の発露でもあったのだ。


勝田銀次郎は明治六年、愛媛松山の米穀商の家に生を受けた。
明治二十四年、地元の松山中学を出た勝田は19歳。
当時の青年の夢をかきたてた未開拓地、北海道に憧れ、四国から決然と向かった。
だが、その汽車の中で、青山学院の前身、東京英和学校の本田庸一校長と偶然席が隣り合わせた。
これが運命的な出遭いとなった。
そして、人格者として知られた本田校長から、おそらくその天性の資質を一目で見抜かれたのだろう。
彼の学校で学ぶことを熱心に勧められた。
勝田青年は躊躇することなく、これに応じた。
東京の同校予備学部に進み、苦学に励んだ。

執筆者の意見では、この東京英和学校に入学したことは、彼のその後の人格形成に決定的な影響を与える重要な出発点であった。
つまり、同校はキリスト教系の学校だが、敬虔な信仰教育とともに、合理主義的精神が教育理念にあった。
良き意味での英米流の功利主義が謂う、「最大多数の最大幸福」(ベンサム)の実現を目ざすこと。
それは、神の教えそのものであり、また国家国民にも奉仕するという概念を、勝田は学びとったに違いない。
そして、そこから得た欧米流の合理主義に則った精神的基軸が、勝田のその後の人生に一貫しているような気がしてならない。
晩年の彼は不遇であり、老いのうちの病を得て亡くなった。
それでも、この基軸だけは決してぶれることはなかったと確信する。

同校の予備学部を終了の後、勝田青年は大阪、神戸で貿易業の商店に入り、実務を身につけた。
当時の貿易業や海運業は一種のギャンブルのように投機的、冒険的な一面があった。
そして、日露戦争、さらに第一次世界大戦の特需の波に乗り、勝田は海運業で大勝負を挑み、短期間で空前の成功をおさめた。
しかし、この絶頂期はそれほど長く続かなかった。
大戦は終結し、それまでの好景気は潮が引くように去り、海運業は戦後不況に見舞われた。
何事にも前向きな勝田の積極投資は裏目に出て経営は失敗し、やがて大方の財を失ってしまった。

だが、その高潔な人柄と愛郷心、ぬきんでた能力によって神戸市長に推され、彼の愛する港町のために第二の人生を歩み出した。
これが、勝田の後半の人生である。
二期八年間市長職にあって獅子奮迅し、歴代でも有数の名市長として市史に足跡を残した。
ただし執筆者の見解では、これら彼が辿った人生航路は、全て青山学院時代に培われた精神に基づいていたと考えるのだ。


当時の人々の追想では、企業家時代の勝田は大儲けした時でも、また大損をしたときもさほど変わらず、常に泰然としていたといわれる。
彼にとっては金銭というのは、文字通り天下の回り物であり、それ以上でも以下でもなかったのだろう。
むやみに溜め込む対象ではなく、己の信念にかなった理由のために使ってこそ価値がある、と考えていたようだ。
わが身にやってきた時には、できるだけ綺麗に使った。
損をして失なえば、それはそれで金を必要とする別の所に行ったまで、という合理主義的、諦念的な金銭観に徹していたようだ。
企業家時代の勝田には、上述のように金銭にまつわる、いかにも彼らしい清爽なエピソードがいくつも残されている。
穿ちすぎかもしれないが、これは彼特有の倫理観であったでけではなく、一種の美学でもあったのではないだろうか。
つまり、今日ではあまり聞かれなくなった仏語、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)、 「財産や権力、地位を持つ高貴な人間ほど、それに伴う大きな倫理的な義務を負う。」 という騎士道的な美学であるが。


勝田にとっては、海運業で大きな財をなしたことも、市長職に就いて市民に尽くしたことも、均しく世に奉仕することであり、大した違いがあるわけではなかった。
決して、利己主義的な享楽を求めたり、権勢欲を得ることが目的ではなかった。

一貫して金銭には恬淡で、個人的な蓄財にはさほど関心がなかったこと。
俗悪な成金趣味にも興味を示さなかったこと。
そして、教育の援護や社会事業には身銭を惜しまず、大金を投じて貢献したこと。
これらの残された様々なエピソードは、青山学院仕込みの彼の精神的基軸が生涯ぶれなかったことを示すものと見る。

海運業成功者として絶頂期であった大正七年に、勝田は母校青山学院に立派な校舎(通称「勝田ホール」を建築して寄贈した。
当時の建築費が25万円以上という、巨費が掛けられたものであった。
落成式には、時の元勲、大隈重信元総理・侯爵以下、多くのVIPも駆けつけ、祝辞を述べた。
現在の通貨価値で換算すれば、少なくとも五億円以上、おそらく十億円近い桁はずれの寄付であった。

ただ残念なことに、当時の一流建築家、辰野金吾の設計であった壮麗なこの校舎も、落成後わずか五年後に関東大震災で倒壊し、取り壊されてしまった。
だが、建造物は破壊されたが、勝田の社会事業に賭ける無私で熱い思いは、そこに学んだ青山学院の後輩たちに十分伝わったようだ。
勝田銀次郎の遺した、無形ではあるが尊い精神的遺産として、これからも語り継がれることだろう。
まさに、「モミの木は残った」 のである。

彼が母校、青山学院にこのような世間の度肝を抜くような高額な寄付をした理由。
超リッチな校友としての義務感でそれを行ったという説明が一応はつくだろうが、それだけではなかったと見る。
青山学院がその後の勝田の人生に与えた深い恩恵に報いるものであったのだろう。
海運業と神戸、双方を生涯の仕事に選んだということ自体、リベラルな国際主義を気風とする青山学院で学んだ成果ではなかったか。
勝田はこれに限らず、意義のある社会事業には、方々で多額の寄付を惜しまなかった。


勝田の性格は、俊敏且つ短気であったようだ。
侠客の親分のように、ある種の潔さがあった。
恵まれない社会的弱者や災害にあった者たちにも、常に慈父のように暖かい目を注いだ。
機会があるごとに、惜しまず援助の手を差し伸べた。
だが、一方では、社会的に恵まれた者の不正には常に厳しくかった。
そのひとつとして、伝えられていることがある。
神戸市長時代に市会議員たちが出張名目で、市費で贅沢な物見遊山の視察旅行に出る悪弊に対し、青筋を立てて怒ったことだ。
現代にあっても行われている公費の無駄遣いであるが、はるか昔の戦前にそれに抵抗し、勝田市長は市民の尊い血税を断固として守ろうとした。
その姿勢、厳しい倫理観には頭が下がるものだ。


また、これも青山学院時代に培われたものと確信するが、勝田は一貫して国際主義、平和主義を信奉した。
国際連盟の神戸支部長も務めたが、国籍の異なる多くの人々が仲良く暮らす国際都市神戸の指導者にいかにもふさわしい仕事であった。
市長時代、昭和10年に落成した市内の回教寺院の落成式にも駆けつけ、心を打つ祝辞も述べている。

勝田もやはり明治時代人であり、近代国家日本が強力な軍隊を持つことを当然なことと考えていた。
だが、それと同時に国境を越えたフェアな海運貿易活動により、世界の人々が同等に恩恵を受ける平和な国際社会の実現を理想とみなした。
彼が国際的なスケールで活躍し、大成功をおさめた海運業であったが、それは同時に平和な国際社会のあるべき姿として、彼の強い信念に基づく実践でもあったものだろう。
国同士が軍艦や軍隊で血を流し争うのではなく、平和な経済活動を通じて、ともに手を携えようという国際協調主義、平和主義。
それらを常に勝田は念頭に置いていたはずだ。

第一次大戦終結の戦後不況で、船舶業界は急激な縮小傾向となった。
だが、勝田は逆に大型船舶をどんどん作らせて就航させた。
それが裏目に出て、結局は勝田は企業家としては敗退したのだが、執筆者の見解では、これは彼なりの時流への抵抗であったと考える。
つまり、世界に進出する商船の大軍団で、理想的な国際社会実現を推進しようとした彼の人生哲学を、あくまでも貫こうとしていたのではないかと。
勝田は、幕末の坂本竜馬や明治の福沢諭吉が唱えたような、七つの海を越える壮大な経済活動による理想社会実現に賭けていたのではないだろうか。


残念な事に、勝田は自伝の類を残しておらず、彼の生涯を研究しようとすれば資料はごく限られたものしかない。
執筆者が主に参考にしたものは、「評伝 勝田銀次郎」(昭和55年発行 松田重夫 著)である。
彼の傑出した人柄、人生の一端を十分に示す貴重な文献である。
ただ、残念なことに、勝田自身の直接的な言動については多くを収録しておらず、伝聞や引用が多いので、彼の世界観、人生哲学のナマの声を捉えにくいもどかしさが残る。

ところで、この評伝の中では、勝田は神戸市議会議長時代の1921年10月に欧米に向けて長期の視察旅行を行っていることが、さりげなく述べられている。
だが、執筆者が驚愕したのは、その視察期間は何と6ヶ月間に及んでいることだ。
今日では、大きな海運会社の経営者であり、大都市の市議会議長でもあった重要人物が、半年間という長期にわたって海外視察をするということは普通は考えにくい。
ゆえにそれを決行した勝田の思い切った行動に思わず目を見張ったのだ。
名目は欧米の海運業、都市計画等の現地視察であるが、視察というよりはむしろ滞在留学に近い印象を受ける。
だが、欧米流の合理主義を精神的基軸にしていた勝田ならば、その本場を訪れ、徹底的に学びとって今後の市政に生かしたいという決意の現れとも考えられる。

さて、ここに着目し、執筆者が欧米での彼の足跡を調べているうちに、海外のアーカイブで発見した資料が下記のものだ。
ここでも再度驚愕した。
なんと勝田は、米国滞在時に代表的な新聞社、ニューヨーク・タイムス紙に大きなパブリシティ記事を発表していた。
タイトルは「THE BUSINESS VOICE OF JAPAN」。
しかも、すばらしい点は一介の海運事業者、地方都市の市議会議長という枠組みを超え、日本の経済人(代表)としての意見を堂々と陳述していることだ。
当時、日米関係はさまざまな経緯と事情により、すでに相当ぎくしゃくしていた。
軍事的には、双方とも既に的仮想敵国として相手を捉えはじめていた。
両国がいつかは戦端を開くであろうことを、双方の指導者たちは薄々予感していたのである。


全ての文章を紹介しきれないが、この中で最も力点が置かれている主張の要旨は、
「日米両国の互いの不幸な誤解により、双方の緊張が高まっている。
だが、軍事決着だけは絶対回避すべきであり、防止しなければならない。
それを実行する唯一の方法は、冷静で穏やかなコミュニケーションを通した両国の経済提携であり、協調的な経済活動である。」 ということのようだ。
だが、勝田は決して米国に媚びてはおらず、「極東周辺で行われてきた日本の政治軍事的活動を帝国主義と呼ぶのなら、英国やフランスが世界中で植民地を支配している現実は一体何なのか、日本は自国防衛の理念に基づき国際ルールに則っているのだ。」 という主張も決して忘れてはいない。
富士山をバックに威嚇している巨大な鎧武者がおそらく日本軍部を意味し、それを両手を開いて阻止しようとしている勝田自身と思われる人物のイラストが描かれている。
だが、勝田のこのような憂国の至情、大胆な勇気も結局は無駄となってしまった。
20年後の太平洋戦争の惨禍は結局避けられなかった。
勝田にすれば、「言わんこっちゃない」 という思いであったことだろう。
それにしても、私心がない故に高所から俯瞰できた、彼ならではの直観力には、ただただ敬服するのみである。

執筆者の推論では勝田自身がこれほどの英語を書けるはずがないと思うので、おそらく同行した「シバタ」なる日本人が彼の意見を口述筆記し、英訳したものであろう。
だが、このまとまった小論文には、勝田銀次郎の人生哲学、価値観の根本部分が要約されている、と確信する。
今後の勝田銀次郎研究において、有益なな発掘史料として位置づけられるものであろう。


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勝田が神戸市長を辞めたのは、昭和16年12月下旬。
つまり、日本に破滅をもたらせた太平洋戦争が開始してから、直後のことであった。
一応は任期途中の辞職ではなく、任期終了とたまたま同時期であったという見方がある。
だが、執筆者としては、これは明らかに彼が戦争の先行きを悲観して、政府に強い抗議の意味を込めての辞職であったと見る。
そのわずか数年後、彼がこよなく愛した第二の故郷、神戸は米軍の空襲で徹底的に破壊された。
また、軍に強制的に徴用された民間船舶もその多方が戦争中沈められ、海の藻屑となった。
全国の無数の海員たちの尊い生命が失われた。
これらは全て、勝田にとっては、耐え難い深い悲しみであったことだろう。
そして、このような理不尽で、無謀な戦争を引き起こした国家指導者には心底憤ったことだろう。

戦後の勝田は連合軍の不当な公職追放にも耐え、ささやかな隠遁生活に入っていた。
だが、長年連れ添った老妻に先立たれて気落し、本人の病も重なり、昭和24年12月、ついに帰らぬ人となった。
享年79歳。
戒名は興源院正覚積善得山大居士。
如何にも彼の非凡な人徳と偉大な功績が集約されており、万人が納得するものであろう。
翌年、名市長であった勝田銀次郎の神戸市民葬が盛大に行われた。
そこには、彼の高邁な人柄を偲んで駆けつけてきた多くの市民たちの姿があった、という。


我々が調査を続けている陽明丸の事跡であるが、勝田のこのような公平無私で慈父のような暖かい人柄、且つ真の国際平和を願った彼ゆえに実現したことを、決して忘れるべきではない。
我々が発見した茅原船長の手記の巻頭に掲げられていた一行書、「敬天愛人」。
これこそが、この事跡に共に深く関わった勝田と茅原、二人の暗黙のキーワードではなかったか。





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「評伝 勝田銀次郎」に掲載された市長時代の勝田のスナップ写真と書道の作品。

企業家として絶頂期であった頃の勝田は、一時は使いきれないほどの金があったせいか、 茶道具の蒐集など多少の趣味事も一応は経験したようだ。
だが、もともと淡白な性格であり、 モノに執着することがなかったので長続きせず、最後まで残ったのは書道しかなかったようだ。
ただ、残された彼の書道の作品は流麗で格調が高く、勝田の人間として際立った資質人柄を如実に示すものである。 
 

人道の箱舟 陽明丸   総括 ②-3 陽明学的行動派の知識人

③ 以下は、ライリー・アレンや茅原船長と同じく、陽明丸事蹟で重要な役割を演じたルドルフ・B・トイスラー博士についての執筆者なりの考察である。

トイスラー博士


























シベリア救護隊の隊長時代、軍服姿のトイスラー博士


さて、もしシベリアに出兵した日本軍と米軍との違いについて想起するならば、イソップ寓話の「北風と太陽」が当てはまりそうだ。
誰でも知っている話ではあるが、要するに北風と太陽の力比べである。
彼らの勝負を決める対象となったのは、独り、野を歩む旅人。
まず、最初に挑んだのは北風。
力まかせに冷たい風を吹きつけて旅人の上着を脱がせようとした。
だが、旅人は逆に抵抗して、ますます上着をしっかりと押さえ込んだので、北風の努力は徒労に終わった。
次に挑んだのは太陽。
ポカポカと暖かい陽光で包み込んだので、旅人は暑くなり、思わず上着を脱いでしまった。
太陽の勝負勝ちであった。

古今東西、この有名な話の寓意に当てはまる事象は、数限りなくあったのではないだろうか。
ここでは、相対する他者を攻略するには、力任せにかかるのではなく、暖かく包み込むことを推奨している。
つまり、相手に敵愾心を放棄させ、心服させるのが一番の近道という、経験則から導かれた古代人の智恵であろう。
ここで、それぞれに当てはめるならば、旅人はロシア民衆、そして北風は日本軍、太陽は米軍であった、と言えようか。


大正7年8月、シベリア出兵でウラジオストクに上陸した日本軍は、各国の派遣軍の中でも、断トツに目立つ存在であった。
最大動員時には7万人を超える大兵力、しかも各国派遣軍では最強の軍隊であった。
英軍(約1500名)、フランス軍(約800名)なども一応は派遣されたのだが、いずれも僅かな兵力で且つ戦意も乏しいと判定された。
ゆえに、日本の派遣軍参謀たちも、彼らには、「お付き合い程度」の役割しか期待できず、敵対する過激派パルチザン討伐は日本軍が専ら行った。

米軍は約7000人と、日本軍に次ぐ大きな兵力であったが、これも討伐など積極的な戦闘行動に加わった形跡はほとんどない。
当時の米国政府の方針、つまり出兵目的はあくまで孤立していたチェコ軍団兵の救出であり、ウラジオストクに集積された連合国軍の多量の軍需物資が過激派に渡らないための拠点警備などが主体であったからだ。
つまり当初から、過激派軍との積極的な軍事上の対決は受命されておらず、視野にも入れていなかったのだ。

その背景には、ウィルソン大統領のロシア革命への同情的な姿勢があった。
前近代的、専制的なロシア帝政を嫌っていた大統領は、ロシア革命を社会の進化形態におけるひとつの段階と捉えていた。
ゆえに、相手がたとえボルシェビキ過激派政府であっても、「話せばわかる」 という宥和的な姿勢を留保していた。
英仏日など各国とともにロシア革命への軍事的干渉は行ったが、強硬派ではなかった。
また、白人同士であり、同じ西洋文化圏に属していたロシアの方が、得体の知れないアジアの新興国家、日本帝国よりは何かと親近感もあったのだろう。
当然ながら、その宥和路線の仮面の下には打算もあったはずだ。
特に米国の永年の念願であるシベリア鉄道への資本・経営参加やシベリアの自然資源、満州への利権参入の機会などを視野に入れていただろう。
他方、日清日露の戦争で勝利した結果、極東で大いに国威を発揚した日本帝国は、さらに第一次世界大戦で青島のドイツ軍を下し、当時まさに破竹の勢いであった。
だが、日本、米国ともに極東及び太平洋の広大な地域の利権をめぐり、いつかは衝突するであろうと双方とも予感していた。

そして、その当然な帰結として、米国の派遣軍に与えられた重要な役目のひとつが、現地日本軍の動向の監視である。
ホワイトハウスの指導者たちは、日本がどさくさに紛れてシベリアで抜け駆けし、領土併合など自国の利権を追求するのではないか、という疑念を抱いていた。
彼らの日本政府・軍への疑念は米国の派遣軍司令官、グレーブス少将の浦塩派遣軍への厳しい批判にも反映されている。

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米国シベリア派遣軍司令官 ウィリアム・グレーブス将軍

米国は、英仏両国が特に強く後押していたコルチャーク提督の白軍オムスク政府(「全ロシア臨時政府」)を一応は支援していた。
だが、英仏は白軍支援を通じて、モスクワ政府の打倒と対ドイツ戦線の再構築を目ざしていた。
また日本はバイカル湖以東、東シベリア方面での、自らの勢力圏確保に特に熱心であった。
これらとはスタンスを異にして、米国は いわば「ハト派」として明らかに一線を画していた。

本国で上記の方針を訓示されていたグレーブス将軍は特に、日本軍が白軍コサック系の軍人(セミョーノフやカルムイコフなど)を優遇して資金や武器を与え、傀儡としていることに憤っていた。
なぜなら、これらの連中は日本軍という虎の威を借りて、シベリア民衆を力づくで過酷に支配したからで、当然ながら現地では非常に評判が悪かった。
ゆえに、グレーブス将軍は、これら 「野蛮な」 白軍のコサック頭領たちは日本軍の走狗であるとみなして、蛇蝎のように嫌っていた。
そして彼らのパトロンであった日本軍に対しても、常に手厳しく批判的であった。
その一方で、日本軍は日本軍で、過激派軍に対する米軍の「軟弱な方針」に不満を抱き、「米軍は一体敵か味方か、どちらなのか」と不信感を募らせていた。
事あるごとに、日米両国の派遣軍は互いに感情的に反目していたのである。
文字通り、同床異夢であった。
後年の太平洋戦争の原点が、このあたりにあったとする説もあるくらいだ。

それでは、シベリア民衆の彼ら両軍への好感度はどうであったか。
強面で精強、武断的行動に専念していた日本軍は恐れられ、一方の米軍は持ち前の陽気さと気前の良さで大人気であった。
米軍兵士は特に若いロシア女性の憧れの的であり、石もて追われるごとくシベリアから撤退した日本軍とは対照的であった。
米軍撤退時のウラジオストク港は別れを惜しむ人々で溢れかえっていた。


これら両者の相違は、まず日本軍は過激派軍を掃討し、進撃して確保した占領地域に付随するシベリア鉄道の保安警備などを主眼に置いていた。
そして、米軍は兵力数の関係もあって、主要な拠点警備を行ったに過ぎず、それよりも鉄道自体の維持管理や住民の宣撫工作を重視していたことにも反映されている。
この相違は際立っていたもので、いわば現代の中東での戦争で派遣された米軍と自衛隊の違いと似ているかもしれない。
つまり、前者は主として戦闘行動に従事し、後者は主として人道復興支援など民生向上に関わったことだ。
まことに皮肉なことだが、シベリア出兵においては、日米二ヶ国の軍隊はそれぞれ現代とはまったく逆の行動に出たわけである。


このような状況下で、米軍の現地作戦行動の一環として、医療・民生方面を受け持ったのがトイスラー博士の率いた米国赤十字シベリア救護隊であった。
彼ら救護隊は、形式的には米軍の管轄下にあって、基本的な任務はチェコ軍団兵や白軍軍人、そして派遣軍兵士の戦時医療に当たることであった。
だが、トイスラー博士の精力的な活動は、決してそのような狭い枠に自らを限定しなかった。
シベリア救護隊は、敵味方、軍・民を問わず、救援や緊急医療を必要としていた者たちに、分け隔てなく手を差し伸べた。
活動地域も、比較的安全なウラジオストク近辺だけではなく、パルチザン出没による身の危険も顧みず、東部シベリアの各都市にまで拡げていった。
彼らの活動の最盛期には遥か遠く、ウラルに近い白軍コルチャーク政府首都オムスク近辺にまで手を拡げていた。
ロシア人現地雇員を含めたシベリア救護隊の人員は、多いときで1000人を超えていた。
各都市に臨時の病院を開設し、また腸チフスなど当時シベリアの恐るべき伝染病の防疫にも最大限の力を尽くした。
活動領域についても、医療分野だけではなく、初等教育や職業訓練など民生全般にまで拡げていた。
中核となる米国人スタッフは、その多くがライリー・アレンのように強い使命感を持ったボランティアであった。
彼らは、赤十字の人道主義精神を自ら実践すべく、熱い心を抱いて米国本土やアジア各地からシベリアにやってきた人々であった。

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内戦中のロシア国内で、医療活動に従事していた米国赤十字関係者たち


まことに幸いであったのは、当時の米国は第一次世界大戦の戦時特需で好景気に湧いていたこと。
政府には積極的な平和外交実現のための潤沢な予算があり、懐が豊かになった国民も気前よく多額の寄付してくれた。
その結果、米国赤十字には膨大な資金が集まっていた。
さらに、欧州大戦も終結が間近であったので、欧州向け援助物資の余剰分もウラジオストクに多量に送られていた。
つまり、当時の米国赤十字の国際人道救援活動には、ふんだんに使える「人」と「金」と「物」が揃っていたのである。
一方で、無理をして決行したシベリア出兵の財政負担にあえいでいた貧乏な日本帝国とは、まさに雲泥の差であった。

800人の児童難民の救出と、陽明丸による大航海は、これらの時代背景が重なって実現したものである。
しかしながら、これら米国が全面的にバックアップした広範な人道支援活動であったが、トイスラー博士の傑出した人柄と情熱抜きでは決して語られるべきではない。
そして、博士の国際人道主義の精神は後任の救護隊隊長となったアレンへと引き継がれた。
彼ら二人の連携によって、博士のシベリアでの壮大な国際人道主義の事業は、その締めくくりとして陽明丸の大航海で完結されたのである。


ルドルフ・ボリング・トイスラー(Rudolf Bolling Teusler)博士は1876年(明治9年)に米国ジョージア州ローム市で生を受けた。
名前がドイツ風であることからわかるように、父親は元々ドイツのプロイセン出身であり、科学者の家系の出であった。
父親は青年期に渡米し、後にバージニア州の医者の娘と結婚し、ついには米国に帰化した人物である。
その独り息子として、ルドルフは生を受け、バージニア州立医科大学を卒業後、医学者としての人生をスタートさせた。
ちなみに、彼の従姉妹の一人は後にウィルソン大統領の夫人となり、彼らの縁戚関係はトイスラー博士の後年の業績と深い係わりがあったと推察される。

やがて、トイスラー博士は妻の親族が米国聖公会の宣教医師であった縁により、日本での病院開設を思い立ち、1900年(明治33年)に妻を伴って来日した。
ほどなく東京築地で聖路加病院(後に「聖路加国際病院」と改称)を開設し、米国大使館などのバックアップも得て、米国の先進的医療の日本国内での普及に尽力し始めた。
彼の顕著な功績のひとつは、日本国内ではそれまで社会的地位が低かった看護婦という職業を、医者を補助する看護医療エキスパートとして養成するべく、その専門教育に力を入れたことである。

米国流に教育されたこれらプロフェッショナルな看護婦たちは、その後の聖路加国際病院の先進的看護医療の担い手となり、シベリア出兵の際にも現地でのトイスラーの初期の医療活動を支えた。
博士がその基礎を作った、聖路加国際病院のこの優れて先進的な実践医学の伝統は現代にまで引き継がれている。
オウム真理教の「地下鉄サリン事件」での多数の被害者の緊急治療も、いかなる異常事態にも即応体制が整っていた同病院で行われたこともよく知られている。

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日本で発行されたトイスラー博士の伝記「聖路加国際病院創設者 トイスラー小伝」
中村徳吉 著 昭和43年初版発行。
(執筆者蔵)



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米国で発行されたトイスラー博士の伝記「Dr. Rudolf Bolling Teusler   AN ADVENTURE IN CHRISTIANITY」
Howard Chandler Robbins 及び George K. MacNaught 著 昭和16年発行。
(執筆者蔵)



このような、トイスラー博士の抜きん出て優れた医療活動は、やがて日本政府関係者や皇室にも知られるところとなり、彼は在日外国人の中でも名士として各界から尊敬を集めていた。


そして、第一次世界大戦からロシア革命や内戦へと推移していくにつれ、米国のシベリアへの共同出兵が始まった。
その戦時医療の最適任者として、当然ながら彼の名が米国国務省などから挙がり、博士自身も熱い使命感を抱いて、上述の米国赤十字救護隊の指導者としてシベリアに渡ったものである。


トイスラー博士は、1934年(昭和9年)にそのきわめて非凡な業績と高邁な人柄を惜しまれつつ他界した。
享年58歳。
その生涯は、凡人ではおよそあり得ないほどの、極めて密度の濃いものであった。
今日の尺度では若死であろう博士の人生であったが、その強い倫理観とともに発揮された驚異的な精神力と行動力は今なお人を魅了してやまない。
だが、一方で考えてしまうことは、彼をここまで一心に導いたものは何であったか、という素朴な疑問である。
献身的な医学者であり、同時に聖公会という敬虔なキリスト教宗派の宣教師でもあった彼ならば、その一途な行動原理は一応、説明はつく。
だが、他に何か重要なものを見落としているのではないか、という獏とした思いにも駆られるのだ。


では、それは果たして何かということになる。
執筆者としては、彼自身の出自に深く関わりがあったのではないか、と考える。
博士が没した七年後(1941年)に米国で発行された彼の詳細な伝記によれば、同名の父親、ルドルフ・トイスラーは学業期に渡米し、たまたま訪れた米国南部の人々と懇意になり、その素朴で大らかな土地柄にすっかり魅了されてしまった。
父ルドルフは長身、金髪でハンサムな風貌であった、という。

やがて南北戦争が勃発すると、彼は勇躍、再渡米し、義勇兵として南軍部隊に加わった。
約二年間、南軍の側で戦った。
幸いなことに戦傷こそしなかったが、腸チフスに罹り、バージニア州の病院に入院を余儀なくされた。
だが、症状は次第に重篤になり、高熱に苦しみ、うわ言を発するようになった。

見るに見かねた院長のアーキバルド・ボリング氏は彼を自らの邸宅に引き取り、家族ぐるみで懇篤な治療を施した。
数ヶ月の懸命な治療の甲斐あって、奇跡的に命をとりとめ、全快した。
やがて彼は、世話になっているうちにボリング家の当時18歳の末娘、メァリー・ジェファーソン・ボリングと恋に陥ってしまった。

そうこうするうちに、南軍総司令官のリー将軍が降伏し、四年余にわたった米国の熾烈な内戦、南北戦争もやっと終息した。
かれらは結婚し、父ルドルフは晴れて米国市民となった。
だが、その頃は南軍の拠点であったバージニア州のボリング家の優雅な邸宅は、進軍してきた北軍の破壊によって廃墟と化していた。
ボリング氏も病を得て、やがて亡くなり、彼ら新婚夫婦は人生をゼロから再スタートしなければならなかった。
このあたりは、まさに往年の名作 「風とともに去りぬ」を地でゆくものだが、実話である。

このように、トイスラー博士のミドルネームであるボリングは母親の旧姓であり、命の恩人であった義父の姓を、父ルドルフが息子の出世時に、彼の思い出として大切に添えたものであろう。
両親を結びつけた、これら劇的な原体験を、博士自身ずっと心に留どめていたに違いない。

つまり、一介の異邦人であった父を同胞として扱い、献身的な医療で命を救ってくれた米国人の懐の深さ、その人道主義の高邁な魂が胸に刻み込まれていたのではないだろうか。
そして、革命と内戦で過酷な運命に弄ばれていたロシア民衆の姿と、敗戦にうちひしがれた米国南部の人々の姿が彼の脳裏には終生オーバーラップしていたのではないだろうか。

これは、あくまで推論にすぎない。
だが、そのような二世代に跨がるトイスラー家の原体験が、助けを必要とする異郷の人々への博士のたゆまざる救援活動の熱意の原点であったような気がしてならない。
そしてその延長線上に陽明丸の事跡があったと思えてならないのだ。


さて、再びイソップの寓話、北風と太陽の話に戻ろう。

まず、「北風」であった日本帝国。
シベリア出兵では「武闘派」を貫き、日本以外の各国派遣軍が全て撤退した後も、ウラジオストクや沿海州近辺にずるずると駐屯を続けた。
だが、出兵初期の討伐主体の勇ましい軍事戦略は、情勢全般の悪化から徐々に後退し、変化していった。
当初の過激派への軍事出動は、年を追って次第に消極的なものになっていった。
しまいには、苦し紛れに中立性を標榜するような奇妙な立場となり、出兵の大義が曖昧模糊となってしまった。
それにつれて、当然ながら派遣軍将兵の心理にも悪影響を及ぼし、士気は次第に低下していった。
まさに、後年のベトナム戦争のような泥沼に陥ってしまったわけである。
派遣軍司令部は、それでも態勢を立て直そうと、モスクワ政府との緩衝国家をめぐる駆引きなど、あれこれと懸命に策動した。
だが、結局はどうにもならず、ついには全面撤退を余儀なくされた。
10億円という当時巨額の国家予算をつぎ込み、張り切って開始されたシベリア出兵であったが、得たものは約一万人の戦死傷者と国際的な不評のみであった。

この日本軍のシベリア出兵は、当時糾弾されたように 「無名の師」、平たく言えば失敗ではあった。
だが、失敗は失敗として、一方では多くの貴重な教訓を残したことも間違いないのだ。
それらは、シベリアの荒野で斃れた多くの皇軍将兵の尊い血で購ったものである
しかしながら、昭和の政・軍の指導者たちが、これらの教訓を十分に学び取った形跡は、残念ながら見当たらない。
シベリア出兵は日本にとっては、多国籍軍の一部として行われた最初で最後の本格的且つ大掛かりな軍事出動であった。
彼らは、まずその手痛い失敗の原因について、徹底分析すべきであった。
そこから導かれた結果をもとに、ロシアという大国の隣人に対して、和戦両様に柔軟に対応できる、もっとも賢明な外交軍事戦略を真剣に模索すべきであった。
且つて、万事に周到な江戸幕府や明治政府がそうであったように。


ところが、昭和の指導者たちは最も組むべきではない相手(独伊)と手を組み、最も戦うべきではない相手(米英支那)に戦を仕掛け、最も警戒すべき相手(スターリンのソ連)に油断して自らを無防備に曝してしまった。
これら国家指導者の致命的な失策がまねいた代償はあまりにも大きい。
すなわち、目を蔽いたくなるような太平洋戦争の惨敗であり、終戦間際のソ連軍による満州・北方諸島への侵攻であり、日本軍兵士のシベリア抑留であった。

だが、これからの日露両国民は、不幸な歴史の連鎖を断ち切り、互いの「負」の感情を捨て去るべきであろう。
その上で、真に平和的な友好関係を今後は築いてゆくことに、双方が努めていく責務がある。
シベリアの原野で眠る多くの日本軍兵士の英霊や、革命と内戦で犠牲となった無数のシベリア民衆の霊魂のためにも。



そして「太陽」、つまりシベリア出兵の際の米国の行動であるが、過激派とは極力武力衝突をせず、宥和の姿勢を維持した。
その一方で、トイスラー博士の活動が象徴するように、シベリアの民生福祉に膨大な資金と援助物資、そしてマンパワーをつぎ込んだ。
ただし、これらの活動はあくまで、各国派遣軍が支援した白軍側のテリトリーでのみ可能であった。
ゆえに、白軍の牙城、コルチャーク政権の首都オムスクが赤軍の総攻撃で陥落し、総崩れとなってからは米国赤十字隊員たちも東へ東へと避難しなければならなかった。
彼らがせっかく開設した多くの病院や諸施設も、追撃してきた赤軍、つまりモスクワ政府側に大方が接収されたことであろう。
そして、ここにおいて結局は、米国シベリア救護隊の奮励努力は壮大な徒労、無駄ではなかったか、という見方があるかもしれない。

だが、執筆者は、これらは徒労でも無駄であったとも、決して思わない。
彼らが残していったものは、軍事施設や兵器など人を殺傷するものではない。
病院や教育施設などは人を癒し、人を活かし、人を育てるものである。
だから、いずれ内戦が去り、ロシアがそれなりに平和になれば、必ず住民の役に立つものであった。
そして、米国赤十字の献身的な世話になった人々は、米国への恩義、米国人との友誼の記憶を世代を超えて、ひそかに伝えていったことだろう。
丁度、陽明丸に救われた子供たちがそうであったように。
トイスラー博士の率いたシベリア救護隊の功績は、その意味で決して歴史に埋もれることはない。
国際連帯と人道主義を象徴する不滅のモニュメントとして、シベリア住民の意識の基層でいつまでも光を放ち続けることだろう。








人道の箱舟 陽明丸   総括 ②-2 陽明学的行動派の知識人

②以下は、ライリー・アレンとともに陽明丸事蹟の最重要キーパーソンであった茅原船長についての執筆者なりの総括である。

茅原船長


























茅原基治船長(1885~1942)


彼の本事績に係わった経緯、及びその功績の詳細については、これまで述べてきた通りであり、重複を避ける。
ただ、どうしても強調しておきたいことがある。
それは、本事蹟についての我々の精査が進むにつれて感じることだが、やはり彼が陽明丸船長として選ばれたことが如何に理にかなっていたか、ということだ。
言い換えれば、この事蹟における彼の役割は まさに「運命的な」 ものであった、との表現がより適切かもしれない。

まず、断言できるとことは、彼以外の誰が船長であっても、あの大航海が途中のどこかで挫折していた確率は非常に高かったということに尽きる。

これは、外洋航路の船長としての高い能力、経験もさることながら、何よりも彼の際立って優れた「人間力」がなければ、あの破天荒な航海は決して成立し得なかった、と確信するのだ。
執筆者の展開する仮説では、この航海の船長としての彼の人選は、これまで述べたように当時のウラジオ派遣軍諜報機関の幹部であった親族、石坂少将(当時)の深慮遠謀であったと見ている。

この大航海の特殊性については、これまで見てきたとおりである。
最も留意すべき点は「積み荷」は赤色ロシアの準首都から流れてきた多勢の児童難民であり、敵側の帰国捕虜であり、且つ傭船者は米国赤十字であった、ということだ。
「取り扱い要注意」の、ある種の「危険物」であった、とも言えなくもない。
これが、何故「危険物」であったかは、当時の時代的背景を飲み込んでおかないと、理解できないであろう。


ロシア革命が世界を大きく震撼させたことは周知の通りだ。
これが当時の各国支配層に如何に深刻な衝撃を与えたか。
何しろ、第一次大戦の頃までは、欧州とアジアにまたがる大帝国であったロシアが、革命によって社会が基底からいっきに激変したのだ。
まるで煮えたぎった大鍋をひっくり返したようなものだ。
帝位を追われた皇帝の一家は惨殺され、今や政府を支配しているレーニン一派は危険きわまりない革命家たちであった。
厄介なことに、彼らは世界同時革命をスローガンに叫び出した。
その政治影響力は、各国の底辺層の大衆にその危険思想を感染させ、扇動し、核連鎖反応としての暴力革命を起こさせる破壊的なパワーが伴っていた。
日本でも、その革命思想の伝播は、当時の強権的な保守政治に反発する知識階級への浸透から始まり、労働争議や小作争議、普選運動をはじめ各種の社会運動にも広範に影響が広がっていた。
また、それだけにとどまらず、支配層へのテロリズム(原敬暗殺事件や皇太子狙撃事件など)という究極的な非合法手段にも思想的根拠を与えることとなった。


ところで、陽明丸のロシア難民は大方が児童とはいえども、各国当局から警戒されていた危険思想、つまり共産主義の「牙城」からやってきた連中である。
中には、成人に近い年齢の者たちも含まれていた。
また、一行には児童だけではなく、引率の教師たちなど、大人も若干混じっていたのである。
故に、もし治安当局の眼から見ると、思想的には要注意の「御一行様」であったことだろう。
それゆえであろう、彼らがあれほど歓迎攻めにあった米国でも, 一方では治安対策担当の連邦捜査官たちが陽明丸に乗り込み、ロシア側の書籍など「危険物」の押収までやっている。

陽明丸は室蘭にも途中寄港したわけだが、この折りの行政当局の対応から推定すると、彼らの上陸についても当初は難渋した様子が推察される。
結局、ロシア人であっても多方が罪のない子供たちであり、茅原船長が個人保証したことで許可されたが、治安上の警戒本能が働いたことは間違いないであろう。

これら各国当局の警戒心は決して杞憂であったわけではない。
実際に思想問題に触れるような事件は、陽明丸の航海途上で起きているのだ。
例えば、寄港地ニューヨークではモスクワ政府のエージェントたちが公開の場で彼らを激しく扇動するというプロパガンダ戦を仕掛けており、米国赤十字に抗議されている。
(同時に右側、つまり旧帝政派の白系ロシア人たちからのプロパガンダも受けてはいるが)

また、「革命の聖地」ペトログラードの住民であったから、年長の子供たちの中には、社会主義政治活動の手法に影響されていた者も少なからずいた。
例えば、当初の最終目的地であったフランスのボルドーが、フィンランドに途中変更になったのも、彼らの組織的な抵抗によるものだった。
彼らは当時反ソ勢力を軍事支援していたフランス政府の中立性を疑い、拘留されて反ソ戦争に利用されることを危惧した。
そこで、船内で年長の子供の「代表委員」たちが米国赤十字と 「団交」 し、絶対にフランス政府に彼らを委ねないことを要求し、渋々譲歩させた結果であった。

だから、児童たちも、決して唯々諾々と米国赤十字に従っていたのではなく、彼らなりの判断による自己主張を曲げなかったのだ。
さすがに、その意味では、「革命の聖地」 ペトログラードの子供たちであった。
このように、きわめて扱いにくい連中が「積み荷」の大方であったから、船長はそれなりに思想上の理解をしていないと、状況把握ができないし、下手をすれば衝突する恐れがあった。

ところで、茅原船長は叩き上げの水夫上がり、苦学して船長になった苦労人である。
平船員など底辺の人々のマインドをよく掌握しており、彼らからの強い人望があった。
当時の船長としては異例であったが、欧米発祥であろう「新思潮」についての月刊誌を購読しており、トレンディな社会思想には見識を備えていた。
その中には、おそらくマルクス主義のことも含まれていたことだろう。
ちなみに、船長自身も後年、無産政党 「社会民衆党」の熱心な活動家として、革新的な政治運動にも関与していたことが我々の調査でわかっている。
ゆえに、航海中に起きたさまざまな思想文化の相違による衝突の意味も、よく理解していたに違いないのだ。
つまり「積み荷」の連中の思想上の扱い方について、彼には斟酌できる素地があった、いうことである。
逆に、商船学校出の凡庸なエリート船長では、状況を把握できず、対応を誤まる恐れが大であった、と思われる。



もう一つの厄介な問題は、傭船者であった米国人たちの扱いであった。
これも、当時の時代背景を知っておかないと理解しにくいのだが、陽明丸が航海した1920年頃は日米関係が急速に冷え込み始めた時期だ。

これには、様々の複雑な要因があった。
巨視的に見ると、日清、日露、第一次大戦と対外戦争を勝ち進み、アジアで頭角を顕してきた日本帝国を米国が仮想敵として強く意識し出したことだ。
つまり、地政学的上の仮想敵と捉え、同時に日本帝国もまた米国を同様に仮想敵とする戦略を練りつつあったのだ。

そして、広大な東アジア・太平洋地域の利権を巡り、どうしても日米の利害が相反する事態が急速に増え始めた。
日本の軍事力、影響力の急速な拡大への懸念が米国内で高まっていた。
また、米国では急増する日本移民が現地の労働者の給与、生活水準を圧迫し、大いに反感を招いていた。
これは数年後の1924年に「排日移民法」となって立法化され、米国の反日姿勢はさらに強まっていった。


そして日本政府の極東における尚武的な外交姿勢も大きな原因であった。
特に大戦中のドサクサに紛れて行い、弱体化した中国に突きつけた「対華21ヶ条要求」は米国の対日姿勢の硬化の一因ともなった。
当時、中国贔屓きであった米国政府の眼には、日本が強大な軍事力で理不尽にも中国を屈服させようとしていると映ったのだ。
第一次世界大戦から教訓を得た欧米列強が民主主義国家へと脱皮しつつあるのに、日本帝国のみは従来の古典的な帝国主義の荒っぽい手法を墨守していると、とみなされたわけだ。
何よりも、シベリア出兵での日本軍の、列強各国から抜け駆けするような独断専行の姿勢は、米国の要らざる警戒心を大いに招いてしまった。


これら一連の背景により醸成された反日的空気は、当然ながら普通の米国市民にも共有された。
つまり、陽明丸に乗り込んだ米国赤十字の連中も、当然ながらそのような厳しいフィルターを通した目で船長以下、乗組員を見ていたわけである。
彼らにすれば、できれば日本以外の船を調達たかったのだが、以前に述べた理由で、どうしても陽明丸しか確保できなかった。
おそらく、その事も彼らの米国人としてのプライド上、気に食わなかったのだろう。

それに加えて、傭船者としての優越した立場があった。
米国人たちは事あるごとに、日本人乗組員に上から目線で接遇しがちであった。
例えば、体力を持て余して血の気の多いロシア人 「児童」 と、ストレスで鬱屈した小柄な日本人水夫が他愛もないことで衝突した際も、米国赤十字は必ずロシア側 「児童」に味方し、日本側の不手際として非難した。

実際に、サンフランシスコからニューヨークに向かう船中で、日露の若者同士の喧嘩が発端で、その処置を巡り日米双方で揉めたこともあった。
不運なことに、アレンが所用で不在であったため、憤った米国赤十字の副隊長は日本側に、臨時寄港して米国の武装官憲を呼ぶぞ、と詰め寄ったのだ。
これも結局、それ以上事を荒げることを我慢した茅原船長が譲歩し謝罪、どうにか大ごとにはならなかった。
ここで彼が、溜まり溜まった鬱憤で 「ブチギレ」て いたら、その後の陽明丸の航海はなかったであろう。

それだけではない。
米国側の記録や当時の関係者が書き残した手記等には、日本側に関する辛口の記述が散見される。
さすがに、万事に公平なアレンの残したものには見当たらないようだが。
しかし、彼の片腕として活躍したブラムホールやキャンプベル夫人の手記やメモ等からは、残念ながら日本人への一方的な不信感が随所で見られる。
これらは当然ながら、この事績の米国サイドでの総括に、そのまま反映されているものだ。

ゆえに後世、米国で出版された本事蹟関係の書籍には、陽明丸はパッとしない二流の船であり、船長は偏屈で無能な変人、乗組員に至っては不躾な乱暴者であったかのような、ひどくネガティブな描写が方々に見られる。
要するに、このように日本人には不愉快、不公平と思われる記述が、米国側の「正史」 の一部になっていたのだ。
平たく言えば、文字通り、「書かれ放題」 であったのだ。 

そして、これらの偏見が覆ったのは、我々が茅原船長を特定し、彼の手記を見つけて以後のことである。
実に一世紀近くも、米国では陽明丸の日本人たちは、無実のままに負のイメージを着せられたままであった。

現在、我々の同志であるロシアと米国の識者たちの手で、この手記の露訳、英訳作業が進められているが、まもなく完成の見込みである。
この手記の翻訳版がロシアと米国で読み進まれることで、不当に貶められていた陽明丸関係者の名誉回復がさなされることは間違いない。
そして、不条理なストレスに耐え忍びながら、大航海を完遂した彼らの貢献の真実がやっと日の目を見ることになる。
何とも慶ばしいことではないか。


結論としては、このような一連の超難題に、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」べく、茅原船長に因果を含め、尽力を促すことができた唯一の人物の存在。
それが、彼の親族であり、ウラジオ派遣軍諜報幹部であった石坂少将であったと推理するのだ。

つまり、ロシア児童たちの背後には物騒なソヴィエト政府が見え隠れし、また米国赤十字の背後では反日姿勢を強めていた米国政府が目を光らせていた。
陽明丸の船長としては、これら厄介な連中とは微妙な距離を保ち、且つ日本帝国と勝田汽船の発言権をしっかりと留保しておくことが絶対必要であった。
一旦事が生じると、例え船上であっても、これら関係三ヶ国或いはそれ以上の多国間に跨る外交問題に発展するリスクを内包していた。
ゆえに、航海が無事終わるまでは、船長には単なる運航の指揮だけではなく、外交官のような調整能力と強い自制心が求められていたはずだ。

このように、想定される様々な船中トラブルが発生しても、茅原船長なら乗り越えられると、石坂少将は彼の親族である基治の資質、能力、人柄に賭けたのであろう。
そして、結果が何よりも証明するものだ。
以上の仮定が正しいとすれば、その人選はまことに正鵠を射たものであった、とは言えないであろうか。


km[3]














晩年の茅原船長(戦前昭和期)




boys on Yomey Maru















陽明丸船上の「児童」たち














人道の箱舟 陽明丸   総括 ②-1 陽明学的行動派の知識人

総括①で、様々な国際人道救助の事蹟に関与した「心優しきスパイ」たちについて述べた。
では次に、それらの中でも特に陽明丸の事蹟に(いわゆる水面上で)貢献した日米四人の男たちの総括を以下に試みたい。


これら四人の男たち、つまりライリー・アレン、茅原基治、ルドルフ・B・トイスラー、そして勝田銀次郎に共通するキーワードは何であろうか。
執筆者は、それは彼ら四人とも、苦難にある弱者救済に貢献する、強い使命感を持つ行動派の知識人であったと見る。



①ライリー・アレンは米国赤十字救護隊に志願し、革命と内乱で荒廃の極みにあったシベリアに決然と赴く前は、ハワイの新聞 「ホノルル・スター・ビュレティン」 で活躍する第一線ジャーナリストであった。
地元では花形記者として、既に確固たる地歩を築いていた。
優れた資質ゆえに、たとえ一時でも彼を手放すことを渋る新聞社オーナーの手を振り切って、はるばる遠いシベリアに向かった。
では、ここまで彼を強く動かし、シベリアに向かわせた根本的動機は一体何であったか。

ライリーアレン







ライリー・アレン(     ~1961)


当時、米国は遅ればせながら、第一次世界大戦に参戦していた。
多くの若者が独墺同盟軍と戦うべく、勇躍して欧州に旅立っていった。
アレンも、当初は米国市民の一人としての愛国的責務を感じ、じっとしてはおられず、行動に移そうとしたものだろう。
この場合、普通の男性であれば軍に身を投じ、まずは戦場で祖国に貢献したいと願うのではないだろうか。
だが、アレンが選択した道は軍人ではなく、シベリアでの赤十字活動に広報官として参加することであった。
この選択の理由については、アレンは多くを述べていない。
だが、彼のその後の一貫した行動自体が何よりも雄弁に物語っていると言えよう。


we need you













第一次世界大戦中、傷病兵を看護する補助看護婦を募集する米国赤十字のポスター


おそらくは熟慮の末に、彼が決断したこと。
それは、戦場で敵を殺傷することはなかった。
そうではなく、当時戦争と革命、そして内乱で地獄の苦しみにあえいでいたロシア民衆、そして敵味方なく苦しむ傷病兵の救済に尽くしたいと考えたのであろう。

つまり、破壊殺傷ではなく、救護救済を選んだということだ。
彼は敢えて、敵国と敵軍を憎悪することを第一義的に選択しなかった。
もちろん、彼はジャーナリストであったから、「ペンは剣より強し」という格言どおり、自らの社会的使命は銃を執ることではなく、言論であると思ったのも動機であろう。
だが何よりも、民族国籍の違いを超え、戦争の惨禍に苦しむ民衆や兵士に深く同情し、彼らを救うことが先決と考えたのではないだろうか。
いかなる形であろうと、彼が絶対的に重きを置いたのは、人間の死ではなく生の側面、つまり人命の尊重であった、ということを確信する。

また、彼の人格には他にも極めて尊敬すべき美点があった。
それは、如何に権威があろうと他者の目、他者の考えに安易に盲従するのではなく、自身の目で確かめ、自身の頭で物事を判断することに努めたことだ。
この点は彼の行動倫理に終始一貫していたものと確信する。
客観的な事実が全てと考える優れた報道人の倫理的姿勢に基づくものであろう。
また、それは同時に、人それぞれが個々に、厳粛に神と向き合う西洋倫理学の最も際立った側面を想起させるものだ。
世間に極力逆らわず、とかく付和雷同しがちなムラ社会の住民、我々日本人には最も欠けている素質であろう。

この彼の美点がフルに発揮されたものとして、ウラジオで米国政府や赤十字本社に半ば黙殺されながら、結局はロシア児童たちを見捨てずに、陽明丸で脱出させた功績を第一にあげたい。
当時、それまで救援船の調達については、上記の「親方星条旗」の積極的な支援が得られず、責任者のアレンは悶々としていた。
ゆえに、彼らを全て置き去りにしてモスクワ政府側に委ねることもできたし、そうすべきだという意見さえあった。
だが、仮にそうしていたら、おそらくは子供たちの半数も故郷に戻ることはできなかったであろう。
今日でも、オルガたち遺族会の人々が最も彼に恩義を感じてることは、その点に尽きる。
その時の彼の熟慮断行が、数百人のロシア人児童の命、そして彼らの多くの子孫たちの命を左右したと言って
も過言はないであろう。

シベリア救護隊長であったトイスラー博士が、東京の聖路加国際病院の事業発展のために止むなく離任した折に、躊躇なく後事を託したのはアレンであった。
この事だけでも、彼が如何に博士の信頼を得ていたかは明瞭であろう。
そして、彼は見事にその信頼に応えたのも、これまで述べてきたとおりである。
このあたりは、上司と部下、双方とも非凡な実行力、統率力を持ち、且つ高い人間性を備えていたわけで、組織経営学上の理想像とも言える名コンビであった。


シベリアからハワイに無事戻った彼は、古巣である新聞社に復帰した。
やがて、月日は流れた。
そして、運命の1941年12月8日が訪れた。
日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾を急襲したのだ。
アレンは頭上に日本海軍機が激しく飛び交う最中に、危険も顧みず、歴史的な第一報の記事に着手した。
ジャーナリストとしての、この沈着且つ果断な行動も、いかにもアレンらしいと舌を巻かざるを得ない。
そして、日本軍の攻撃はようやく去った。
甚大な被害で茫然となり、次いでヒステリックになった米国政府や国民は日本に激怒した。
興奮したマスメディアには蔑称  「ジャップ (JAP)」 の文字が溢れ始めた。
だが、アレンはこの日本人の蔑称を、たとえ憎き敵であっても感情的になって使うべきではない、と自らの新聞での使用を断固として拒み通した。
彼の新聞社の日系の社員さえもが 「ジャップ」と表記することを求めたが、決して応じなかった。

一方の日本でも新聞メディアなどが「鬼畜米英”!」と叫んでいたのだがら、「ジャップ」と書かれても仕方がなかったと思うのだが、アレンの考えは異なっていた。
「好戦的な日本軍国主義」 と、一般国民としての日本人を峻別せず、民族、人種全体をまとめて蔑む表現はフェアではなく、ジャーナリズムの品位にかかわると判断したものだろう。

だが、執筆者としてはそれに加えて、彼の遠い記憶、且つて日米の固い連携により達成された陽明丸大航海の思い出が一瞬脳裏を横切らなかった、とは言えないと思うのだが。

np















号外で日本軍のハワイ真珠湾攻撃を報じたアレンの記事。ジャーナリズ厶史にも登場する有名なものである。


彼の如何なる状況でも貫き通した冷静沈着さと非凡な行動力。
そして、内なる神と向き合うように自律的な倫理基準を、アレンが確固として併せ持っていたこと。
これらに、我々は今なお静かな感動を覚えるものだ。
今日あまり見ることはできないような古風なタイプであろう。
昔日の米国にのみ存在していたストイックな内面性、ぶれない良心。
それが、今では残照となりつつある、彼(か)の国の骨太の開拓者魂に裏打ちされていたと言うべきか。

今さらながら痛感すること。
彼、ライリー・アレンはかくも普遍的な人間的魅力に溢れていた好漢であった。
まことに尊敬すべき、古き良きアメリカ人であった。



 

人道の箱舟 陽明丸   総括 ① 心優しきスパイたち

オスカー・シンドラー、石坂善次郎(将軍)、樋口季一郎(将軍)、杉原千畝、松平恒雄。

以上、シンドラー以外は、このブログでこれまで登場した馴染みのある人物たちである。
そして、執筆者はこれらの人物には、或る共通した因子があると見ている。
それは何であろうか。

それは彼ら全て、且つては諜報員、ないしは諜報任務も仕事であった外交官であったことだ。
オスカー・シンドラーは映画 「シンドラーのリスト」では単に実業家としか描かれていないので、なぜ諜報員なのかと疑問を持たれるであろう。


シンドラー











 オスカー・シンドラー (1908~1974)

だが、彼は実業家になる前には、ナチスドイツの諜報員として活動した時期があった。
シンドラーは元々はチェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)生まれのドイツ系住民、つまりドイツ系のチェコ人であった。
兵役期間などを経て、1935年にドイツ民族主義系の右翼政党に入党した。
この当時は丁度アドルフ・ヒトラーがドイツの中央政権を握って間もなくの頃。
ナチス党はまさに日の出の勢いであった。
そのプロパガンダ活動はドイツ国内だけに止まらず、ドイツ系住民がいる周辺の国々にも猛烈に浸透しはじめた。

熱烈なドイツ民族主義者となったシンドラーは、ドイツ国防軍情報部( 略称 Abweher  アブヴェーア)所属の秘密諜報員となり、主としてチェコ国内やポーランドでの軍事情報収集に従事した。
だが、その後にチェコ政府当局に逮捕され、国家反逆罪で死刑を宣告された。
だが、彼にとっては幸いなことに、まもなくチェコはナチスドイツに武力で解体、併合され、シンドラーは危ういところを逃れることができた。
それから、彼はナチス党に入党し、諜報員から一転、ナチス当局や軍に取り入って幅をきかせる実業家としての後半の人生が始まったのだ。
映画では、このような事実は特に描かれていないが、執筆者の見解では、この前半の履歴、つまりが彼がスパイであったことは、後になし遂げたユダヤ人救済と不可分であった、と見る。


映画でまさに描かれているように、シンドラーは大量殺戮されつつあったユダヤ人たちを少しでも救おうと決意し、その方策を次々と実行していった。
だが、対峙する相手は生半可な連中ではなく、悪名高いナチス親衛隊(SS)であった。
彼らの最重要任務にはユダヤ人の根絶が含まれていた。
SSはまるでドイツ製精密機械のように、東方占領地域等でのユダヤ人の大量殺戮を極めて組織的、能率的に遂行していたのである。
そのように冷血で、危険極まりない連中の裏を掻いてユダヤ人たちを救出したシンドラーであった。
当然ながら露見すると彼自身にも確実な死が訪れていたはずだ。

このような想像を絶する修羅場での、命懸けの綱渡りのような彼の行動であった。
この大胆さ、神経の図太さは並み大抵の実業家のものでは決してありえない、と見る。
猜疑心の強いSS当局さえ丸め込む、駆け引きの手際の良さ、考え抜かれた欺瞞の手法はまさに熟練スパイの手口であろう。
まことに皮肉なことであるが、且つてナチスのスパイとして培った彼の技能が、ナチスSSを欺いてユダヤ人を救出した決め手になったと言えないだろうか。


さて、我々が陥りやすい先入観だが、「スパイ」と聞くとすぐ思い浮かぶイメージがある。
冷血で非人間的、狡猾で裏切りを事とする非情な男たち、というようなものだろうか。
これは主として、映画やテレビのスパイドラマの影響によるものだろう。
つまりステレオタイプとしての「スパイ」である。
だが、スパイの実像は決してそのような単純なものではなかった。
たしかに、我々の先入観どおりのダーティなスパイも少なくはなかっただろう。
金や利得、愛欲のために祖国を平気で裏切るスパイも多勢いたことだろう。

だが、実際のスパイには、そのようなタイプの連中だけではなかったようだ。
至って「真面目な」 動機により、その道に入った連中も多かったのだ。
つまり、その動機や目的はさまざまであったわけである。
例えば純粋に愛国心や、信奉する思想信条であったり、或いは選んだ職業(例えば軍人、外交官など)に付随するものあったりした。
それ以外にも、単なる知的好奇心からとか、冒険心からとか、様々な理由や経緯で情報員になった連中もいたのだ。

これらのカテゴリーに属するスパイたちだが、二三の例を挙げてみよう。
まず、愛国心ないしは思想信条に従ったのはナチス諜報員時代のシンドラーであり、また戦前日本で捕まり死刑となったソ連の二重スパイ、リヒャルト・ゾルゲの顔も浮かんでくる。

次に、職業柄、スパイ任務に従事したのは主に軍人であった。
我が国でも明治維新以降、多くの優秀な軍事スパイが輩出し、国外を任地として華々しく活躍した。
我々には、特になじみが深い石坂将軍や樋口将軍もそれらの中に数えあげられる。
彼らこそ、頗る危険な任務に生命を賭したプロフェッナルたちと言えよう。
杉原千畝も外交官の裏の顔は、一流の技能と実績を持つ優秀な諜報員であった。
彼が欧州に派遣されたのは、そもそも単なる領事館勤めではなく、大戦中の彼の地での機密情報収集であった。

また、松平恒雄の場合は、最上級の外務官僚ではあったが、彼が活躍した時期は戦争に次ぐ戦争の時代であった。
戦時の外交官というのは、外交だけでなく政治軍事情報の収集、分析が任務としては不可欠であった。
だから、シベリア出兵の折には派遣軍政務部長として、対ソ諜報の取り扱いもその職務に含まれていた。
また、その後、大使クラスの大物外交官として欧米各国に赴任した時も、外交と諜報を表裏で使い分けていたはずだ。
それ故に、彼も一種の諜報員(ただし最上級クラスの)であった、と見なしても満更間違いないであろう。

一方、知的好奇心や冒険心、人間学的興味でスパイになった連中は英米に多いようだ。
その中には著名な作家が幾人も含まれる。
たとえば、英国の小説家サマセット・モー厶が諜報員であったことはよく知られている。
同じく英国の作家ジョン・ル・カレも外交官の身分で従事した諜報任務の経験を生かし、後にスパイ小説の大家となった。
また、「007」シリーズの原作者、英国人イアン・フレミングが現役時代は軍事諜報員であったこともよく知られている。
そして、米国の著名作家、「ジャッカルの日」のフレデリック・フォーサイスも英国秘密情報部(MI6) と繋がりがあったことが、後年明らかにされた。


ことほどさように、スパイになった人々の多くは、決して単なる 「狡猾非情な輩(やから)」ではなかった。
むしろ、知性豊かで鋭い直感力があり、人間観察にも非常に長けていたことがわかる。
平たく言えば、プロのスパイとして敵地で活動するには、相当に優れた頭脳と体力、そして度胸を併せ持っていることが必須条件であった。
特に戦時スパイとなると、もし捕まれば国際協定(当時はハーグ陸戦協定)で保障される軍人捕虜としての権利を認められず、外交官でない場合は死刑になることも多かった。
相当に危険な割には、あまり報われない地味な仕事であった。


だから、一口に「スパイ」といっても、いわゆるステレオタイプのスパイ像とはほど遠い、傑出した資質を持つ人々が少なからず存在してたことは紛れもない事実であった。
そして、このような人々が同時に、人一倍センスティヴで人間性豊かで且つ人道主義にも敏感でなかった、と決めつけるべきでもない。
逆に言えば、凡人である我々よりも、或る意味で優れた能力、感性を持っていたであろうから、彼らが心優しい男たちではなかった、とも決して言えないであろう。

そして、執筆者の深読みの見解を述べる。
彼らの中でもとりわけ人間性に溢れる心優しい男たち、例えばシンドラー、樋口将軍、石坂将軍、杉原千畝、松平恒雄などが、成り行きの結果として国際人道救援に係わったというのは、決して偶然ではなかったと見る。
それどころか、これらの事蹟は、彼ら 「心優しきスパイたち」 が生み出した必然的な産物とではなかったか、と見るのだ。

彼らは苦境にある弱者に運命的に出会ったが、高い人間性ゆえに内面でさぞ葛藤したことだろう。
深く同情はするが、彼らを救援することの困難さをよく認識していたからだ。
だが、熟慮の末、彼ら自身にできることはやってやろう、と思い立ったのではないだろうか。
そしてとにかく熟慮決行したが、彼らの信念と非凡な能力ゆえに、幸いなことに無事に成し遂げられた、ということではなかったか。

ただし、物事全て、水面下で秘密裡に進めるという職業的習性を持つ彼らである。
したがって、事蹟そのものの存在も当初より、数十年経過して,やっと明らかになる宿命を帯びていたことだろう。






 

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(28)

では、次に述べるのは、リトアニアでのユダヤ難民救出のヒーロー、「命のビザ」であまりにも有名な杉原千畝領事代理についての所見である。


千畝











杉原千畝 (1900~1886)

杉原の事蹟については、「日本のシンドラー」と讃えられ、テレビや映画などでよく取上げられている。
おそらくは、知らない方がむしろ少ないであろう。
ただ、「日本のシンドラー」 という形容はいかにも安易であり、あまりフィットしているとは思えない。
自らの危険も顧みず、多くの苦境のユダヤ人を救ったという点では確かにオスカー・シンドラーと同列である。
だが、それぞれの事件の複雑な背景やシチュエーションが余りにも違いすぎるのだ。
かなり昔に流行った、ローカル都市を引き立たせる呼称、「○○市の銀座通り」や「○○地方の小京都」 のような安直さを感じるのは執筆者だけであろうか。


ともあれ、執筆者として興味をそそるのは、巷に知られている彼の偉業のそもそもの出発点である。

ちょうど20世紀が始まった年、1900年に岐阜県賀茂郡八百津町で生を受けた杉原千畝。
旧制の愛知県立第五中学を卒業後、上京した。 

やがて早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学。(1918年)

それから一年余の在学後、思い切って外務省留学生試験に応募、難関であったがみごと合格した。

まもなく、ロシア語学生として満州の国際都市ハルビンへと官費留学を命じられた。(1919年)

当初は民間での個人レッスンでロシア語習得に励んだのだが、1922年から 「日露協会学校」に入学し、より本格的な教育訓練を受け始めた。
 

日露協会学校は日本政府に繋がる専門教育機関であったが、後に「哈爾浜(ハルビン)学院」という校名となり、昭和に入って満州国が建国されて後は、同国の国立大学として再編された。

戦前の日露関係分野で活躍する官吏やビジネスマンを育成する、特殊な性格を帯びた教育機関であった。
だが、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦とともに必然的に閉校となり、その歴史的使命を終えた。

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哈爾浜学院(昭和初期)

ここで注目したいのは、杉原が現地ハルビンで官費留学生として学んでいた時期と、石坂少将がハルビン特務機関長として赴任していた時期が部分的にオーバーラップしていることだ。
つまり、石坂がいわば日本軍情報機関のハルビン支局長であった1919年2月~1921年3月までの間と、杉原の現地留学期間が一部重なっていたことだ。(※この間に杉原は途中、朝鮮で一年間の兵役期間を過ごしているが)


言い換えれば、杉原がハルビンにやってきて学んだ時期というのは、日本軍がシベリア出兵していた頃であった。
そのことは、彼がハルビンに滞在していた初期の頃に、陽明丸のロシア児童難民やポーランド孤児難民の救援が行われたことも同時に意味するものだ。
我々としては、この点にもっと注目しても良いように思う。 



日露協会学校(ハルビン学院)は上記で述べたように、表向きは日露間の交易交流に必要な人材を養成する教育機関であったが、一般の学校とやや異なる面があった。
それは当時、シベリアや満州など外地での日本帝国の国策遂行に必要な特殊人材を育成することに重点が置かれていたことだ。
同校卒業生は外務省だけではなく、満州鉄道や満州国の日本人官吏、そして日本軍(浦塩派遣軍、後に関東軍)特務機関の要員などに採用されて巣立っていった。
ちなみに杉原の場合は卒業後、外務省書記生となり、在ハルビン大使館員を経て、満州国建国の後には同国外交部の官吏となった。
ちなみに満州国官吏時代には、その非凡な資質能力を見込まれて関東軍の情報機関員としてスカウトされかかったが、これは本人が拒否している。
大正時代と異なり、満州国建国後の関東軍の傲慢さに杉原が嫌気をさし始めていた頃だ。 



さて、戦前当時のハルビンは華やかな国際都市であったが、同時に各国の情報機関員が出入りする 「スパイ天国」 としての一面もあった。
特に日本軍及び外務省としては、戦前の主要仮想敵国であったソビエトロシアとの絡みで、対ソ情報収集及び諜報工作の重要な基地と位置づけられていた。
だが、このことは逆の見方から言えば、ソ連側情報機関からの浸透も当然あり得たわけだ。
つまり、ハルビンは東アジアにおける日ソ間の諜報合戦の主戦場でもあったと言えよう。


日露協会学校もその性質上、様々なロシア人が出入りしていたわけである。
その中には、
機密情報の収集のためにソ連の潜入工作員が混じり込んでくることも十分ありえた。
また、同校卒業生は国家機関や民間の重要部署に配属されることも多かったので、教師や学生をスパイにするために洗脳工作を仕掛けてくるリスクもあったわけだ。


それ故であろうが、次の大正15年の公文書はハルビン特務機関通訳を兼ねていた同校教師であった人物の談が日本官憲に注目され、内務省や外務省、陸軍省に報告、回覧されているものだ。


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要旨は、この教師は(ハルビン)特務機関から命ぜられた任務であろうが、同校教師たち(国籍としては日本、ロシア、支那三ヶ国にまたがっていた)や生徒の思想チェックも内密に行っていたようだ。


「過激思想二感染セシムルコトナカラシムル為」 とあるが、一応、彼の在任中は「憂慮スベキ傾向」 はなかったとも述懐している。
だが、ハルビン特務機関としては、防諜という点で神経を尖らせる必要のある、要注意監視対象であったのだろう。


さらに付言すると、杉原の在ハルビン初期の頃に起きたポーランド児童難民の救援の事蹟については、彼自身も関知していたと見る方が自然であろう。
否むしろ、そのロシア語能力ゆえに、日本軍官憲によるハルビンでの児童捜索や救出にも動員され、直接関与していた可能性さえ十分あると思われる。

何しろ、その頃は彼にとっては一番多感な青年期であった。
特に、ハルビンは彼が若き外務省留学生として、最初に長期滞在した場所であった。
また、杉原が最初の妻、白系ロシア人のクラウディアと結婚したのも、当地に来てまだ5年目であった。
そして、彼の在ハルビン期に行われたポーランド孤児難民救出作戦は、その背後に複雑な国際情勢が絡んでいたにせよ、日本軍が行った数少ない国際人道救助であった。
日本人によるポーランド孤児難民救出を目のあたりにして、何らかの強いインパクトが彼の胸に響かなかったとは言い切れまい。

これらの一連の経験が鮮烈な記憶となり、彼の以後の人間観、倫理観のベースとなったのではないだろうか。
それが後年のリトアニアでのユダヤ人救済の精神的下地であったことを否定する理由はあろうか。


なお、もうひとつのユダヤ難民救出事蹟、「オトポール事件」が起きたのも、その主役であった樋口少将がハルビン特務機関長在任中の時であった。
樋口はハルビン特務機関長としては、大先輩である石坂少将のはるか後輩であったわけだ。

ハルビンというまことにユニークな国際都市はロシア、支那、日本三ヶ国の外交軍事上の利害関係、そして民族文化が複雑に入り組む不思議な街であった。
ハルビン住民は白系ロシア系、中国系、満州系、日本系、朝鮮系、ポーランド系など多岐にわたっていたが、比較的穏やかに暮らしていたようだ。
住民同士は互いに民族、人種、宗教などの相違を超えて、共存共栄にでき得るかぎり努めていたのだろう。
その意味で、ハルビンは或る意味では
西洋と東洋が平和裡に融合していた、まことにユニークな都市であった。
一種の擬似コスモポリタン(世界市民)都市であったとも言えるだろう。

そのような意味でも、且つて住んだことのある人たちには決して忘れられない魅力的な街であったことであろうう。
特に、石坂少将、杉原千畝、そして樋口少将のような研ぎ澄まされた国際感性を合わせ持つ人たちにとっては。

そして、ハルビンの街で、
日本人には希な、人種や民族を超えた豊かなコスモポリタン的素養が自然に培われたのではないだろうか。
その素養は、彼らの良心の赴くままに、後に成し遂げたそれぞれの国際人道救助のバックボーンとなったのではないだろうか。


彼ら、真に心ある人々は異文化に自ら溶け込もうと懸命に努めるうちに、いつしか夜郎自大、偏狭な民族主義の愚かさを悟ったのではないだろうか。
極限状況にある弱者を見棄てるのではなく、人種・民族を超えて可能な限り救いの手を差し伸べるのが人としての道ではないか、という獏たる思い。
つまりそれは、国際赤十字や緒方洪庵適塾の根本理念にも通じる、素朴ではあるが彼らなりの確固としたコスモポリタニズム精神ではなかったか。 


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哈爾浜   夜の哈爾浜駅 (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

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哈爾浜   満州人商店街 (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

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哈爾浜  街角にて (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵

(画像をクリックすると大きくなります)

哈爾浜  日本領事館 (昭和初期 絵葉書) 執筆者蔵
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人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(27)

次は戦前昭和期、代表的な国際人道主義の主役であった二人の日本人、つまり 「オトポール事件」の樋口季一郎中将、そして「命のビザ」の杉原千畝領事代理に関する所見である。
彼らについては、これまで述べた幾つかの大正期の事蹟と多少の関わりがあると執筆者は見ている。


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樋口季一郎中将



①樋口中将の 「オトポール事件」については、ご存知の方が多いと思うので特に詳細には触れない。
概略としては、1938年(昭和13年)3月、シベリア経由で迫害を逃れてきた多数のユダヤ難民を彼が救済した事跡である。
彼らユダヤ人はナチスの手をようやく逃れてソ満国境までたどり着いたのだが、満州国政府から入国を拒否され、オトポール周辺で極寒の中での野宿を強いられていた。
日独伊三国同盟化が急速に進んでいた時期であった。
ユダヤ人迫害を進めていたナチスドイツの目を意識して、満州国やその背後にいた関東軍は彼らに救いの手を差し伸べず、放置したままだった。

ところが、関東軍ハルビン特務機関長であった樋口少将(当時)が「人道上の問題」として、見るに見かねて職権で介入したものだ。
部下のユダヤ問題専門家、安江仙弘大佐とともに入国ビザの発行や特別列車の手配、食料衣服等の支給、緊急医療班などを満州国政府や満鉄に働きかけ、彼らの救出に急行させた。
もう既に凍死者、餓死者が出始めていたので、実にきわどいタイミングであった。
また、その後の満州国内への入植や上海共同租界への移動についても、できるだけの便宜をはかっている。

彼の決断によって救われたユダヤ難民の数については諸説があり一定しない。
数百人から二万人と幅がありすぎるので、はっきりとした数字は未だに掴めていない。
だが、合理的な推定と思われるのは、この救済時当初は数百人であったが、1941年のドイツ軍のソ連侵攻により欧州方面からの流入が遮断されるまでの約3年間、この「ゼネラル樋口ルート」を使って死から逃れることができたユダヤ難民は数千人に昇ったであろう、とする説だ。
これは、樋口自身が戦後に残した手稿に「数千人」と一旦は書いた形跡があるので、それにも合致し、信憑性が高いと思われる。

だが、このユダヤ難民救済については、樋口少将自身の独断で行ったに等しく、全責任を一身に背負って敢行されたものだ。
当然ながら、関東軍司令部の正規な許可を得ていなかった。
ゆえに処罰として、特務機関長としての職位を剥奪されるどころか、下手をすると独断専行、命令不服従で軍から訴追される恐れさえあった。
この点については、案の定ドイツ外務省から抗議があり、ひと悶着あったようだが、当時の関東軍参謀長であった東條英機中将の裁断で、結局は不問に付された。
後年、首相の座に就いて国民を破滅の戦争に導いた張本人のイメージが定着している東條だが、この時はなぜか非常に物分りの良い上司としての英断を下している。
おそらく東條は満州のユダヤ人の扱いについては彼なりの思いがあっただろうし、何よりも樋口の私心のない高潔な人品を高く評価していたようだ。
だからであろう、この後、樋口は左遷どころか、陸軍参謀本部第二部長という軍中央の要職に栄転している。
それにしても、自身のキャリアを賭けてでも人道主義を貫いた樋口の勇気、侠気には、いくら賞賛してもしきれるものではない。

この事件について補足すると、樋口少将はハルビン特務機関長に就任後、既に満州在住の亡命ユダヤ人団体との友好的な交流を始めていた。
その代表者はアブラハム・カウフマンという人物で、親しくなった樋口に難民の窮状を伝えて救済を直訴した。
樋口の果断な処置はこれに応えるものであり、カウフマンたちは終生その恩義を忘れなかった。
日本の敗戦の後、ソ連は後に述べる 「占守島の戦い」 での屈辱を晴らすため、そして対ソ諜報活動の幹部であった樋口を戦犯として名指しし、引渡しを要求した。
だが、カウフマンたちは大恩人の樋口を守るため、世界ユダヤ協会を通じて米国内で猛烈な救援運動を起こした。
その結果が実り、ソ連への身柄引渡しはマッカーサーのGHQによって拒絶された。

米軍は念のために、樋口の部隊について戦時中の米軍捕虜等への虐待がなかったかを独自に調査している。
だが、これについても一切そのような容疑事実がなく、適切で人道的な扱いであったことが判明し、米軍調査官に深い感銘を与えている。 


さて、このオトポール事件ひとつだけでも十分に凄い功績なのだが、彼は他にも非凡な功績を幾つか残している。
まず、樋口が1943年(昭和18年)7月の「キスカ島撤退作戦」時の北方軍司令官であったこと。
実際にこの「奇跡の救出作戦」を行ったのは木村昌福少将率いる海軍部隊だが、陸軍の方面軍司令官 ( 司令部:札幌) として、海軍としっかりと連携していたのは樋口中将であった。
特に、成功の決め手となった要因の一つとして、海軍艦艇による救出時、約5千人にものぼる守備隊兵士の兵器類を全部海中投棄させたことだ。

帝国陸軍にあっては、全ての兵器類は国軍の大元帥である天皇からお預りしたものであった。
それゆえに、軍艦の艦首や三八式歩兵銃には皇室の菊の御紋章が入っていたのである。
徴兵された新兵は鬼のような古参兵から、「貴様らの命よりは銃の方がずっと大事なんだから大切に扱え!」と、どやしつけられた時代であった。
だが、撤退作戦時は既にこの海域の制空権、制海権は米軍に握られていたので、海軍側からは救出時の乗船完了に要する時間はわずか一時間に制限する旨、強く要求されていた。
もしそうであれば、兵器類を一緒に艦内に持ち込んでいては、時間的にはとても間に合わない。
モタモタして手間取り、厳重に監視している米軍に発見されれば、救う方も救われる方も皆一巻の終わりである。 

樋口は決断し、兵器類の海中投棄を指示した。
それ故に守備隊兵士たちは各自の兵器を投棄し、約五千人の兵士が最短時間で乗船することができた。
また濃霧であったことも幸いし、米軍の目を逃れることができ、全員かろうじて無事救出された。
まさに文字通り、奇跡の救出 作戦であった。

ただ、この兵器の投棄は大本営から事前に許可を取っておらず、事後報告となった。
それゆえに大本営幕僚たちから、後にかなりの批判を浴びている。
ほとんど消耗品同然の下級兵士の命より、軍の建前を優先させるのが昭和期軍部の悪しき習性であった。
ゆえに、彼らからすれば、「恐れ多くも陛下の御紋章入りの銃を投棄してくるとは何ごとか!」 という憤懣であろう。
だが、樋口中将の判断は絶対に正しかったと言えよう。
もし事前にこの件について、頭の固い大本営に許可を仰いでいれば、まず否決されるか、たとえ許可になってもかなり時間が費やされた恐れがあり、救出作戦は時機を逸していたであろうから。

これも幸い、結果的には不問とされたようだ。
やはり、樋口中将のあくまで人命尊重の合理主義に基づく判断には、たとえ大本営の頑迷な首脳部でも論破できなかったのだろう。

この点も補足すると、この奇跡の救出作戦には明暗を分けた悲しいできごとがあった。
この作戦の少し前にアッツ島玉砕戦が起きていることだ。
彼らはキスカ島の近くのアッツ島に展開していた守備隊であり、同じく樋口の北方軍管轄の部隊であった。
だが、大本営はミッドウェー作戦の大敗の余波でこの島を見捨てる方針を固めた。
これにはいくら樋口であっても、冷酷にその決定を下した大本営には逆らえなかった。
涙を飲んで従わざるを得なかった樋口であったが、二千数百人の部下をむざむざ見棄ててしまった痛恨でひとり慟哭し、彼らが壮烈な玉砕を遂げた直後から激痩せしたといわれている。
人一倍、部下思いの樋口であったから、これは相当の心の負担となったものだ。
そのためであろう、敗戦後は自宅でアッツ島を描いた絵に毎朝礼拝するのが晩年まで続けた日課であった。
彼の苦悩の深さは我々が伺い知ることもできないほどであったようだ。
一方で、キスカ島守備隊に兵器を投棄させてでも全員救出したかったのは、そのような無意味な悲劇を繰り返すべきではない、という樋口の断固たる意思の現れであったと見る。

樋口自身はキスカ島守備隊救出に関与した自らの功績を終生誇ることもなかった。
戦後に書かれた彼の手稿では、「キスカ島の撤退作戦が成功したのは、ひとえにアッツ島で散った英霊たちのご加護である」 旨、淡々と述べられている。
この文脈からも、彼の指揮官としての品格の高さ、そして謙虚な人柄が滲み出ているのではないだろうか。


それにしても、昭和の多くの高級将校の中にはこのように名将もいたが、ひどい連中も多くいた。
例えば大戦末期のフィリッピン戦線で後にほぼ全滅した一万人の部下を置き去りにして飛行機で逃亡してきた司令官もいた。
また、現実無視のひどい作戦立案で、ビルマ戦線の二万人の兵士たちをジャングルでのたれ死させたインパール作戦の例もある。
この作戦の大失敗をめぐり、醜い責任のなすり合いに終始した現地の司令官たちや大本営参謀の行状と、樋口中将をどうしても比較してしまう。
彼らが同じ日本人であったかと思うと慄然とせざるを得ない。


そして彼のもう一つの大きな功績は、1945年8月の千島列島の占守島(しゅむしゅとう)の対ソ連防衛戦であった。
終戦まもなく、日ソ平和条約を破棄し、突如9千人の大部隊で島に侵攻してきたソ連軍と守備隊の戦闘である。
ソ連の国際法無視の不法な侵攻を阻止するために、北方軍司令官であった樋口は断固として戦うことを決断し、守備隊に反撃を厳命した。
樋口は元来、対露諜報の専門家であったから、ソ連の危険な侵略的意図については、終戦で混乱の極みにあった東京の軍・外務省首脳よりも先が読めた。
幸いにも同島守備隊は精鋭、関東軍の一部で士気が高く、少数ながらも戦車や軍用機も備えていたので、押し寄せるソ連軍相手に非常に善戦した。
死傷者数では、侵攻ソ連軍が日本軍を大きく上回ったものだ。
結局は停戦になったが、この手痛い反撃はソ連首脳には大きなショックであり、日本軍がいまだ相当に手ごわい軍隊であることを渋々認めざるを得なかった。
また、対日戦の実質的な勝利者であった米国も、トルーマン大統領が国際法を無視したソ連の火事場泥棒のようなやり方に厳しい目を向けたことも幸いした。
ついにスターリンは日本の本土である北海道への侵攻を諦めるしかなかった。
もし、この時に樋口中将が断固たる反撃命令を出さず、或いは樺太を含めた辺境の守備隊があれほど敢闘しなかったら、今頃は北海道はロシア領になっていたことはまず間違いない。
樋口はスターリンの野望を打ち砕き、日本が旧ドイツや朝鮮のような惨めな分断国家になることを防いだのだ。 


このように昭和の大戦争の折、重要な局面でこれほど大きな功績を幾つも残し得た将官は彼を除いてどれほどいただろうか。
彼ほどの優れた識見、高い指揮能力については、昭和期の他の幾人かの名将たちも併せ持っていたことだろう。
だが、特に樋口中将の場合、それだけではなく、我々の心を真に打つものは、その人一倍豊かなヒューマニズムである。
彼の高潔で、世界にも普遍的なヒューマニズムが溢れた人柄は、彼を知る人々だけでなく、天つ神にも愛されたことであろう。
そして、神は真の意味での選良である彼を守護し、彼を通して救済をひたすらに待つ人々を救い、またソ連軍の理不尽な侵略から我が国の北方を守らせたのではないだろうか。


ところで、この人格識見共に優れた名将、樋口中将だが、元々は石坂中将と同じく主としてロシア方面を専門とする情報将校であった。
明治21年(1888年)、兵庫県本庄村(現 南あわじ市)で生を享け、明治42年に陸士卒(21期)、卒業後は歩兵第一連隊(東京)に配属された。
第一次大戦中の大正7年に陸軍大学卒業。(30期)
大正8年には陸軍参謀本部勤務となり、まもなく浦塩派遣軍司令部の特務機関員に抜擢されてシベリアに渡った。
派遣軍司令部ではやがて優れたロシア語能力、交渉能力が評価され、最前線のハバロフスク特務機関長に任命され、情報将校として現地に赴任した。
まだ、三十歳そこそこの若さであった。
当時、ハバロフスクはシベリア出兵の日本軍の勢力下にあったが、戦線の縮小に伴い、翌年の大正9年には日本軍は同市を撤退している。
樋口大尉(当時)は、派遣軍司令部の命により、日本軍撤退の後に市内に進駐してきた赤軍と交渉し、ハバロフスク特務機関の駐屯存続をどうにか認めさせた。
だが、敵中で孤立した中での情報収集活動であったので、危険極まる任務であった。
赤軍がもしその気になって彼の特務機関(樋口以下、数名のスタッフに過ぎなかった)に攻撃をかければ、ひとたまりもなく全滅していたことだろう。
パルチザン軍による邦人の残虐な大量殺戮、尼港事件からあまり月日が経っていない物騒な時期であった。
人の命が鴻毛より軽い内戦期のロシアであった。
この命懸けの綱渡りのような危機を乗り越えられたのは、彼の抜群の交渉能力と誠実な人柄が、敵軍にあっても高く評価されたからだろう。
当時の赤軍は後の時代のような硬直した官僚組織ではなく、様々な個性ある人物で成り立っていた。
個人としてのロシア人は国家としてのロシアと異なり、基本的には大らかで人好きであり、一旦打ち解けると日本人よりもフレンドリーになることが多い。
おそらく彼らは樋口大尉を「 敵ながら天晴れな奴 」 と認め、内心敬意を払っていたのであろう。
 
同市での彼の特務機関は大正11年まで存続したというから、その勇気、豪胆さには舌を巻かざるを得ない。
その間、同市には白軍部隊が侵攻してきたり、再び別の赤軍部隊が入ってきたりして、樋口も心の安まる暇もなかったに違いない。
この間、赤白両軍の戦闘で、巻き添えをくったハバロフスク特務機関とウラジオの派遣軍司令部の電信連絡は一時途絶えてしまった。
そのせいだろうが、毎日新聞からは「樋口大尉、ハバロフスクで戦死?」という誤報さえ出たらしい。
当時、樋口は新婚からわずか数年であったから、夫人の気苦労もさぞかし大変であったことだろう。 


以下の公文書は、当時のハバロフスク特務機関長であった樋口大尉から派遣軍・陸軍省に送られた定期的なレポートの一部である。
内容は同市に駐屯していた赤軍の詳細な軍事情報だけでなく、政情や民情なども極めて精緻に分析、報告されているものだ。
枚数は全部で数十頁にわたるもので、全部を掲載できないので、これはそのごく一部に過ぎない。
これらから、樋口大尉が当時から如何に有能な情報将校であったかが十分に伝わってくるであろう。


 
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シベリア出兵の終了後は、樋口は参謀本部に戻り、それからは大正14年ポーランド公使館付武官、昭和12年のベルリン出張、そして同年のハルビン特務機関長、昭和13年の参謀本部第二部長と、主として情報・参謀将校としての活躍の場が次々と与えられた。
その後、 昭和14年には陸軍中将に昇級して第九師団(金沢)師団長に天皇から親補された。
そして太平洋戦争では新たに北方軍司令官(司令部:札幌)に任命された。
ここでいよいよ、戦局の重大な局面となるキスカ島撤退作戦及び占守島防衛の両作戦の最高指揮官となる運命を迎えたわけだ。





















人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(26)

②次に、「松平・石坂コンビ」のうち、もう一方、石坂少将の本事蹟への関与についての推論を述べたい。


執筆者としては、浦塩派遣軍が本事蹟にコミットした一連の経過は下記の如くではなかったか、と見ている。
まず、 アンナ・ビルケウィッチ女史は渡邉領事の紹介状を東京に持参してきたのだから、当然ながらウラジオを立つ前に渡邉と接触しているわけだ。
そして渡邉はまずは外交官としての立場で、彼女の陳情を受け付けたものであろう。
これが通常の領事業務なら、政務部に案件を回すことなく独自の判断と権限で処理していただろう。
だが、事が事であった。
当然ながら、政務部案件として松平政務部長に報告し、指示を仰いだはずだ。

なぜ政務部案件かといえば、このような極めてデリケートな案件は相当に熟慮し、慎重に処理する必要があったからだ。
まず、シベリアでのポーランド人孤児救済については、日本軍駐屯地域の 「護民官」 的立場であった松平部長の職域に関わることであった。
さらに当時、事実上の同盟関係を築きつつあったポーランド政府との連帯の姿勢を示すことは、日本にとっては外交上の大きな意味があったはずだ。
片方で多数のポーランド兵の母国送還をせっせと手伝っても、一方で孤児たちの救済に無関心であれば、日本の真心が彼の国の人々に伝わるはずがなかった。
つまり、仏造って魂入れず、というやつである。

ここはどうしても、孤児たちも併せて救うことにより、ユーラシア大陸の向こう側で赤軍を相手に戦ってくれているポーランド政府と連帯する外交上の意思表示をする必要があった。
なぜなら、ポーランド軍が奮戦するということは、それによって東シベリアに振り向けられる赤軍兵力を少しでも減らすことで、日本軍への軍事的脅威を如何ほどか減殺することができたからだ。
その意味において、派遣軍司令部では、多分に軍事的要素のある事案として受け止めたのではないだろうか。


したがって松平部長は派遣軍司令官に報告し、軍としての方針を固める必要がある旨、意見具申をしたはずだ。
そして、松平部長も交えた派遣軍首脳の協議になったと見ている。
当然ながら、ポーランド兵の送還に直接関与していた石坂少将も協議に参画したことだろう。

孤児たちの救済については、ほぼ全員一致で特に異存がなかったと思われるが、派遣軍自ら取り組むには不適当と判断され、また必要財源も手当できない。
加えて、戦後恐慌や尼港事件で気が立っており、とかく軍部に反発しがちな国民世論にも配慮しなければならなかった。
故に、外務省及び陸軍省を通して日赤を動かすこと以外の選択肢がないことで、衆議一致したことだろう。
陸軍省(田中義一陸相)については派遣軍司令官または参謀長から意見具申が行われ、結果から考えると特に問題なく速やかに了承されたのだろう。
そして、外務省を通じた裏工作については、松平部長が行うことが決まり、それも速やかに実行されたであろう。


ただ、問題が一つ残っていたとすれば、外務省の工作はOKにしても、肝心の日赤への根回しはどうするかということだ。
それが抜けているようでは、裏工作は決して完璧とは言えない。
そこで、この問題を解決するにあたって、石坂少将に白羽の矢が立てられ、彼が工作を担当することになった、と見ている。
では、それはどういう風に実行されたか。 


ところで、この事跡において、孤児たちの救済を全面的に引き受けることを快諾したのは当時の日本赤十字社社長、石黒忠悳(いしぐろ ただのり)であった。

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石黒忠悳


記憶力の良い方は、彼の名は本ブログで以前に登場したことを思い出されることだろう。
つまり、以下の記述である。

**********************************************

また、これも興味深いものだが、石坂は文豪、森鴎外が若き日の軍医時代の直接の上官であった。
鴎外と石坂との関わりについては「石黒忠悳日記」に次の記述があるようだ。
石黒も石坂と同じく草創期の帝国陸軍の軍医であり、後に日本赤十字社の第四代社長になった人物である。


  (明治21年) 一〇月六日 来ル

           一〇月七日 朝林太郎母並弟妹来ル

           一〇月八日 石坂ヨリノ事ヲ内談アル 、


当時は、石坂は軍医学舎(軍医学校)の舎長(校長)、鴎外が軍医学舎教官、そしてこの石黒は軍医監であった。
鴎外は後年、大先輩であった石坂軍医と同じく陸軍軍医総監になっている。
この日記の頃、鴎外は小説「舞姫」のヒロインのモデルとなったドイツ女性との恋に悩み、職を辞することまで考えていたようだ。
その処理をめぐる記述と見られる。
おそらく、石黒、石坂の両上官が鴎外の才能を惜しんで必死に慰留したものであろう。

**********************************************

このように、石黒忠悳は且つて石坂惟寛と同じく明治陸軍の軍医であり、そして軍医としての階段を昇りつめた後に、日赤の第四代社長に就任したものだ。 
石黒も石坂もともに幕末の生まれで同世代であったが、石黒は幕府の西洋医学所の出身であり、将軍家の侍医であった松本良順に師事している。
石坂は前に述べたように緒方洪庵の適塾出身なので、この二人は西洋医学を学んだ際の系統を異にしていた。
しかしながら、二人は共に明治維新後は、ほぼ同じ時期から草創期の陸軍の軍医として活躍を始めた。

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石坂惟寛


両名とも明治十年の西南戦争に出征し、また明治二十七年の日清戦争にもそれぞれ共に軍医の高官として貢献している。
また、上記のように軍医学校の幹部として共に働く時期もあったものだ。


そして、次の文書はこの二人の職務上の密接な関係性を物語るものとして、最もふさわしいものであろう。 

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これが何を意味するかと言えば、日清戦争での日本軍勝利の後に割譲された台湾に出征した近衛師団の師団長、北白川宮能久(よしひさ)親王殿下が不幸にも現地でマラリアに罹り、戦病死された折りの機密電報である。
重症に陥った親王を八方手を尽くして治療に当たったのが、当時の台湾総督府軍医部長として従軍していた石坂惟寛であった。
文面からは刻一刻と悪化してゆく親王の容体が読み取れ、石坂軍医の憂慮が伝わってくる。
だが、懸命な手当も虚しく、親王はやがて危篤となり、ついには陣没された。
石坂軍医はその死を見取ったことになる。
親王の薨去は国の極秘事項としてしばらくは公表されず、柩は東京に運ばれてから丁重に国葬が執り行われた。
享年48歳。



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北白川宮能久殿下


北白川宮殿下は実に波乱万丈の生涯を送られた、特異な皇族であった。
幕末には皇族でありながら、親幕府のお立場を取られ、東征大総督の有栖川宮熾仁親王に直談判をするなど、徳川家の存続のために尽力した。
上野の寛永寺の貫主であったことから、血の気の多い彰義隊に担がれ、彼らの敗走後は奥羽列藩同盟のトップにも祭り上げられた。
やがて明治維新となり、しばらくは謹慎の身であったが、やがて明治天皇からお許しを得た。
間もなく、一念発起してドイツに留学された。
ドイツでは陸軍大学で軍事学を学び、職業軍人の道を歩まれ始めた。
だが、ドイツで或る上流婦人と恋に陥り、結婚までなされるつもりだったのだが、皇室や政府首脳に大反対されたあげく、婚約は取り消しとなり、悄然として帰国なされた。
それからは軍人の道一筋に精進されて、日清戦争の頃には近衛師団の司令官(中将)として台湾に赴かれたものだ。


この機密文書は、親王の劇的なご生涯の最期に立ち会った石坂が当時、大本営の野戦衛生長官の要職にあった石黒に宛てた報告電文である。

石黒と石坂、両名はこのように、明治日本が経てきた歴史的事件の折々のシーンに共に遭遇してきた仲であった。
そして、共に日本赤十字社の創立及び創成期にも深く関与し、それぞれ多大な貢献をしている。
日赤においては、石黒だけは社長にまで昇り詰めたが、それ以前に二人は共に常議員として肩を並べていた時期もあった。


このように、石坂惟寛と石黒忠悳は現役時代は非常に近しい職務関係にあったことから、浦塩派遣軍としては、その点を見逃さなかったと考えられる。
すなわち、惟寛の子息である石坂少将から石黒社長に、特務機関長として軍と外務省の内々の判断を伝え、日赤として善処することを希望する旨の要請をした可能性があると見ている。
そして、その代わり派遣軍としては陰で全面的にサポートすることも当然付け加えたことだろう。
或いは、惟寛がまだ存命中であったので、彼からも口添えしていた可能性も十分考えられる。
むしろ、その方がより効果があったとも考えられる。

単なる平凡な文官上がりではなく、叩き上げの軍医として戦場の悲惨をよく知る石黒であったはずだ。
大人たちの理不尽な戦いに巻き込まれた、罪のない孤児たちの憐れむべき境遇には心を動かされたであろう。
そして、裏工作を受けたことは機密事項として、決して口外せず、記録にも残さないように配慮もなされた、と見るのだ。


以上、①と②で述べたように、このように「松平・石坂コンビ」がそれぞれ関与することで、外務省と日赤双方への根回しが円滑に行われ、裏工作が完成したのではと考えられないか。


人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(25)

上記1枚目の文書は大正7年8月、連合国各国とシベリアに共同出兵した際の陸軍省から発令された浦塩派遣軍政務部設置に関する訓令案の一部である。
同政務部は派遣軍の司令部に置かれ、現地の外交政務、つまり軍事以外での地域各政治勢力との折衝、民生雑務や各国外交機関との折衝・調整等が任務とされた。
この一覧表にあるとおり、政務部部員は軍人ではなく、全て外務省から出向した文官であった。
部長の松平恒雄の肩書きが大使館参事官とあるのは、彼はこの辞令の直前まで在米大使館の参事官であったので、そのまま表記されているものだ。
部員及び書記官等は木村鋭市以下8名であり、その中に副領事の渡邉理恵の名が見える。

つまり、渡邉領事はシベリア出兵時には既に浦塩派遣軍政務部の一員であり、松平部長の指揮下にあったことを示している。
2枚目の文書は翌年大正8年のものだが、副領事から領事に昇格した渡邊が浦塩派遣軍政務部部員を兼務することをあらためて辞令されたものだ。
この人事を発令したのも、やはり陸軍省である。
要するに松平部長も渡邉領事もこの頃は外交官であると同時に浦塩派遣軍所属の文官であった。
俗にいう、二足の草鞋を履いていたということだ。
そして、指揮系統上は外務省というより、陸軍省に優先的に帰属していたことになる。


故に、アンナ・ビルケウィッチ女史が渡邉領事から紹介状を預かったという事実も、渡邉が独断で好意として渡したということは有り得なかっただろう。
その場合は必ず、松平部長及び派遣軍首脳の指示ないしは承認を経ていたはずだ。
だが、あくまでも体裁としては、一領事である渡邉が孤児救済委員会に同情し、紹介状を善意で書いて彼女に託したという形を取る必要があったのだろう。
その理由としては、浦塩派遣軍がこの事案で水面上に出ることには、日本側及び孤児救済委員会側双方でデメリットがあり、逆に水面下にいた方が双方メリットがあった、ということではなかろうか。

救済委員会としてのデメリットは、もし浦塩派遣軍に直接且つ全面的に頼ったとすれば、政治的中立性が破綻して、親モスクワ勢力から「親日反露政治団体」という烙印を押されかねない。
そうすると、それ以降のシベリアでの救済活動に支障をきたす恐れがあった。
逆にメリットとすれば、派遣軍とはワンクッションを置き、日本赤十字社との連携を持つことで、中立的な人道救助団体としての一貫性は維持できるからだ。
現に、同救済委員会は日本軍撤退後もウラジオでの活動をソ連当局から認められ、第三次の孤児救済活動も無事終えている。

日本にとってのデメリットは、あくまでシベリアへの出兵目的は軍事作戦であり、民間の孤児を救出することではなかったから、ということに尽きる。
チェコ兵など帰還軍人の母国送還については派遣各国軍との共同作戦なので問題はなかった。
広義の意味では、軍事作戦の一環とも言えるであろう。
だが、ポーランド孤児の救出、輸送となると純然たる民生問題であり、派遣軍が直接取り扱うには馴染まなかった。
派遣軍はあくまでも軍事作戦を行う軍隊であり、大掛かりの民間人救護は日赤主体で行う方が適切との判断が下されたことだろう。
また、国家機関で予算使途ががんじがらめの軍や外務省に比べて、日赤は財政面でも多少の融通が利き、この点もメリットが大きい。


当時、大正9年春~夏は未曾有の大戦好景気の反動で、いわゆる大正の大恐慌に突入していた頃だ。
株価は大暴落、企業は続々と倒産し、巷に失業者が溢れ、日本は大変なことになっていたのである。
シベリアでは尼港事件が起きて国民を憤激させ、且つ出口の全く見えない出兵の先行きに人々の政府への不信、不満は相当に高まっていた。
そういう状況で、もし派遣軍が前面に出て孤児たちの救助作戦を始めていたら、野党、国民世論、そしてメデイアが黙ってはいなかったと思われる。
なぜなら、出兵本来の目的から逸脱することになり、「陛下の軍隊と我々の血税をそのような他国の慈善事業に費やすつもりであるか。浦塩派遣軍はそのように暇であるのか。」 などとコテンパンに叩かれていた可能性がある。
だから、この場合は派遣軍はあくまで陰で支え、外務省と日本赤十字社を前面に押し出す必要があり、またメリットもあると判断されたのではないだろうか。
そのメリットについては、以前に随所で述べたとおりである。
要するにこの場合は、軍が表だって関与せず、赤十字主導の国際的美談として仕立てた方が八方丸く治まったのだ。
実際には、派遣軍は救助活動にはノータッチどころか、孤児の捜索や輸送などで全面的にサポートしている。
それはあくまで日赤の救援活動のサブ的立場という大義名分を得たので可能になったと見る。


また、当時の外務省ヒエラルキーに於いては、松平部長は武者小路課長より上位に位置し、外務省に派遣軍の真の意図を伝え、その意を汲み善処することを促すことが可能であったと見る。
なぜなら、松平は文官高等試験外交科(外交官試験)の明治35年合格者であり、武者小路は四期下の明治39年合格者であった。
また、埴原次官は明治31年試験の合格者で、松平より四期先輩であった。
つまり、彼らは三人とも先輩後輩の間柄で、強い仲間意識で結ばれていたはずだ。
明治時代の外交官試験の合格者は年に数名程度の超エリートであり、彼らは正真正銘、外務省のサラブレッドであった。
松平も武者小路も後にそれぞれ大使級の高官となって国際舞台で縦横に活躍している。
おそらく、ビルケウィッチ女史の訪日以前の段階で、この三名によってストーリーが大方出来上がっていたと推定されるのである。

また、彼らは共に皇室に近しく供奉する名流であったので、貞明皇后の孤児へのお見舞い行啓もアレンジすることも十分可能であったことだろう。
貞明皇后の孤児たちへのまことに仁慈の御心に溢れた行啓は、この救済事業への国民の疑義を払拭させたことだろう。
松平の娘、節子は貞明皇后に気に入られ、この三年後の大正12年、秩父宮雍仁親王(大正天皇第二皇子・昭和天皇の弟宮)に嫁いで皇族となっている。
国外向けでは、「日本はシベリアに軍隊を送ってはいるが、救済を求める他国の弱者にも慈愛で応える一等文明国」としてのイメージアップに抜群の効果があったはずだ。
その頃は、大戦後のヴェルサイユ体制において、五大国の一つに躍り上がった日本帝国の大事なデビューの時だったのである。

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松平恒雄


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武者小路公共
1937年 駐独大使時代 ベルリンを訪れた女優の原節子と


下記の文書は昭和6年のジュネーブ一般軍縮会議の代表団一覧表である。
首席全権委員が松平であり、首席随員が武者小路であったことがわかる。
彼ら二人がエース級の日本外交官コンビとして活躍していたことを示すものだ。

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また、松平は戦後、参議院議長に就任間もなく急逝したのだが、武者小路は彼の功績を顕彰するために設けられた 「故松平恒雄氏追憶会」の発起人に名を連ねている。
そして、その分厚い追想録の中で、心を打つ追悼文も寄稿している。
彼ら二人の固い人間的結びつきと親交を偲ぶ史料といえるであろう。


また、ポーランド孤児救済に関する或る海外の文献には、下記の記述が見られる。(出典は不明)

The first children flowed from Vladivostok to Japan in July 1920, was made ​​possible with the help of the Japanese military mission in this city, at the head of Count Matsudaira, consul Watanabe and Major Hasebe.

1920年のポーランド孤児の第一回送還にあたっての日本側の貢献を記述しているのだが、派遣軍の松平(恒雄)伯爵、渡邉領事の名が見え、そしてMajor Hasebe とあるのは、当時浦塩派遣軍参謀であった長谷部照悟陸軍少佐であろう。
厳密に言えば、松平は元会津藩主の容保(子爵)の庶子であった故に会津松平本家を継いでいなかったので、授爵されてはいなかったが、海外ではそのように受け止めていたのであろう。
この記述からも、孤児救済事業の陰には浦塩派遣軍が組織ぐるみで関与していたことが暗示されていると言えないだろうか。

なお、下記のように、松平恒雄も先の浦塩派遣軍の四将官と同じく、ポーランド共和国からオドロゼニア・ポルスキー勲章を授与されている。
しかも、等級は一等であり、大井元成大将と同格の「グランクロア」(大十字勲章)である。
経歴を見る限り、松平は外交官として在ポーランドの公館には一度も赴任したことがなく、単なる外交儀礼的な勲章授与ではないはずだ。
また、受章の時期も四将官と同じなので、彼らと同じくウラジオでのポーランドに対する温情溢れた措置に報いる叙勲であろう。

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人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(24)

この「松平・石坂コンビ」が何故そういう遠回りのことをする必要があったか、つまり推定される動機面についてはこれまで随所で述べてきた。
では、実行面で彼らがどのように一連の事を運んだか、という推論は次のとおりである。


①ウラジオを拠点にしていても、ポーランド孤児救済委員会は活動の性格上、政治的には中立的な立場であらねばならなかった。
それを堅持した成果であろう、同委員会は日本軍のウラジオ撤退後も同地で活動を続けており、第三次の孤児送還事業をソ連当局と取引をする形をとり、シベリア鉄道経由で成功裏に達成している。
第一次、第二次の孤児送還事業では日本が全面的に協力したのだが、それは米英など出兵していた各国に救助を依頼して全部断られたからで、最後に残った日本に頼ることになったという経緯がある。
このあたりは、妙な話だが、陽明丸事蹟の脱出船確保の経過とよく似ている。
シベリアでは強面の好戦的な軍隊として恐れられ、欧米と毛色が違う日本はどちらかというと敬遠されていたのだろう。
そういう経緯で、救済委員会は各国からノーと言われて八方塞がりになっても、なるべく日本(政府・軍)には頼りたくなかったらしく、アンナ・ビルケウィッチ女史は上海の教会関係者、さらに函館のトラピスト修道院にも出かけて協力を依頼している。
だが、残念なことに、これらも全て断られてしまった。

このようにアンナ・ビルケウィッチ女史は、思い切って東京に来るまでは、いわば迷走状態で必死にあちこちと駆けずり回っていたわけだ。
熟練した政治家でも外交官でもない、一介の善良な女性に過ぎない身であったから、各国の海千山千の男たちと駆け引きする術(すべ)は乏しかったはずだ。
それ故、そのような彼女と、東京に現れた時の、外務省高官相手に完璧なほどの交渉上手な彼女とは全く別人のような印象を受けてしまうのである。

東京では、在ウラジオの渡辺領事やポーランド総領事他の紹介状だけではなく、嘆願書や状況報告書など必要書類も一式揃えて持参していた。
このあたりで直感することは、日本外務省に陳情し、交渉する場合の「必勝テクニック」のノウハウを事前に同女史に授けていた人物の存在である。

その人物が渡辺領事であったとしても、特に不思議ではない。
彼であれば、職掌柄そのあたりのノウハウは知っていただろうから。
だが、渡辺領事にしても、あくまでウラジオの在外公館の領事であって、本省の高官を動かせるような地位ではなく、そのような力は持っていたとは思えない。
それでは、そういう人物がもし存在していたとしたら、一体誰であったか、ということになる。

これを解く鍵は以下の文書からおそらく見えてくるのではないだろうか。

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※画像をクリックすると拡大します。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(23)

次に、ポーランド孤児難民救出の事蹟が実際はどのように為されたか、という点について執筆者なりの推論を述べてみたい。
陽明丸と同じく、これも心打たれる人道主義的美談であるが、既に多くの書籍などで経緯が詳しく述べられているので、詳細は省略する。
 

執筆者も入手可能な限り、それらの資料に目を通したのだが、読後にある一つの素朴な疑問が頭を離れなかった。
それは何かといえば、日本側がこの事跡を引き受けた際の唐突さ、且つその割には事案を処理するプロセスが妙にスピーディではなかったか、という印象なのだ。

在ウラジオストクのポーランド孤児救済委員会の会長アンナ・ビルケウィッチ女史が意を決して、東京の外務省を訪れたのは大正9年6月18日。
丁度、陽明丸がウラジオストクを出航する前月であった。

外務省で親身になって応対してくれたのは武者小路公共 政務局第二課長であり、彼は大臣宛の文書作成などについて、いろいろと適切な助言を彼女に与えたようだ。
やがて一連の文書は埴原事務次官にまで到達し、彼の判断で外務省では同救済委員会に協力する意向を固めたが、国としての予算措置が難しい。
そこで、次官自ら日本赤十字社社長に書状で協力を要請した。
それを行ったのが何と同女史が訪れた18日のわずか翌々日、20日であったというから驚きである。

そして幸いなことに、日本赤十字社側の全面的な賛同も滞りなく得られ、翌月7月5日の同社の常議員会で速やかに可決された、というのだ。
つまり、女史の外務省訪問からわずか17日間という短期間で、これら全てがトントン拍子に運んでいったというのである。

ただ、いくらなんでも17日間というのは、この種の大きな事案の処理をするには、あまりにも早いような気がするのだが。
ところが、ほぼ全ての資料・書籍等はその点については何ら疑問を呈していない。
異口同音、それは専ら外務省関係者(武者小路課長、埴原次官)の英断であり、そして日赤側の同情、共感も極めて速やかに得られたからだ、というような説明である。
つまり、人道主義的感動が彼らを異例に迅速な処理を促した、というような印象を与えるものだ。
特に武者小路課長は華族名流の武者小路家の当主(子爵)であり、弟の実篤氏は作家として名高い存在なので、そのあたりの高い人間性とも結び付けられている。
たしかにそうではあったにせよ、事はそれほど単純なものであったのか、と疑問に思わざるを得ない。

これら文献上で述べられている大凡については、公文書にも残っているので大体其のとおりに事が運んだのは間違いないのだろう。
危機的状況にある同胞の孤児たちを救いたい一心で、藁をもつかむ思いで訪れた、このポーランド女性の必死の訴えが当時の関係者のセンシティブな心を動かしたのも事実であったには違いない。
だが、実際にそのようなことだけで、あれだけ大変な事案が極めてスムーズに、極めて短期間で処理されたというのは、にわかには信じがたい。


ところで、日本は官僚制システムが完備された国家であることに異議を唱える方はいないだろう。
官僚制国家であるので、或る官庁が所定の行政事務を処理する際には、必ず一定の、役所特有の規範ないしはマニュアルに基づいて執行されるものである。
これは今も昔もさほど変わらないはずだ。
そして、日本特有の「根回し」の文化により、行政事務の処理については、ケースによっては縦からの上意下達だけでなく、横同士の調整・連絡などを通じたシェアリングも重要とされる。
当然ながら、これらのプロセスを経るには一定の時間が必要とされ、大きな事案であればあるほどその時間が長くかかるのが普通だ。
要は、これら時間をかけて為される縦横のコンセンサスとシェアリングは、役所の事務を円滑に行わせ、且つ個々の責任を分散させる大きなメリットがあるので、おそらく太古から続く日本社会独特の慣行でもあるのだろう。

だが、上記のような観点から、今一度プロセスを眺めてみると、どうも何か腑に落ちないのである。
外国から訪れた一婦人が、まず応対した外務省の担当者(武者小路課長)の心を動かし、彼を通じてすぐに外務省事務方トップ(埴原次官)の理解・協力も得られた。
それから二週間たらずで外務省からの要請により赤十字社が一切を引き受ける機関決定をした。
そういうことが戦前日本で一体可能だったのかと。
何せ事案の大きい割には、17日間という異様な短期間である。
人道主義に基づく感動の連鎖反応がいっきに事を解決し、全ての事を運ばせたというには、戦前日本の強固な官僚制システムを考えると、それをナイーブに信じるにしても、かなり無理があるような気がするのだ。
完全なトップダウンが珍しくはない米国など外国では、特に不思議なことではないだろうが。

とにかく、戦争と革命、内乱が荒れ狂った大変な世紀であった。
当時、救援が必要とされる孤児というものはシベリアだけでなく、国内外どこにでも溢れていたはずだ。
彼らの代表者が大挙して陳情に来るとしたら、外務省は一々感動して、迅速に救済事務を行ったのだろうか。
それこそ、杉原千畝が書きなぐった「命のビザ」状態になりかねなかった、のではと思う。
とにかく、どこか腑に落ちないものがある。


なるほど、この婦人は在ウラジオストク日本領事館の渡辺領事やポーランド総領事の紹介状を持参してきたということだ。
だから、それなりの処遇を受けてもおかしくないかもしれない。
だが、それだけでは、本省の高官を即座に動かし、あれほどの大きな事案が劇的な速さで処理されていくには不足ではなかったか。
何しろ、政府直接ではないにせよ、日赤としてはかなり大きな財政支出であり、また官民をあげてのマンパワーも投入された一大事業であった。
在外公館の領事たちの紹介状程度で事を動かせるものではなかっただろう。

しかも、単にそれだけではなく、対象となっている場所は日本軍が出兵・駐屯して赤軍やパルチザンと交戦していた東部シベリア地域である。
いわば戦場であった。
その重要な当事者であった陸軍省及び浦塩派遣軍の意向を飛び越えた形で物事がスイスイと進んでいった印象だが、いくら民生に関わることといえ、果たしてそういうことは当時可能であったのか。


以上の数々の疑問を解くとすれば、執筆者の推論では、同女史の東京訪問の前に、シナリオはもう既に全部出来上がっていたと考えるのである。
つまり、水面下での必要な根回しがほぼ終わっており、あとは女史本人の訪問で仕上がるだけだったと見るのだ。
そして、そのシナリオはウラジオで書かれていたと見る。
そのシナリオライターは、浦塩派遣軍司令部の松平政務部長と石坂少将であったのではないか、と考える。
そう、つまり陽明丸の場合と同じ、例のコンビである。
以下にその根拠を述べてみよう。



人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(22)

これら一連の文書だが、石坂中将を含む政府・軍の関係者に対して、外国から勲章が授与されたことを示すものだ。
昭和元年~2年にかけての日付だから、石坂中将が靖国神社の遊就館館長をしていた頃だろう。
当時は官僚や軍人などが外国から勲章を授与される場合、必ず政府に届け出て裁可を得なければならなかった。
この一連の書類はその手続きの折りのものだ。

この折の受章者リストを見ると、軍関係ではトップの大井成元大将以下、稲垣三郎中将、星野庄三郎中将、そして 石坂善次郎中将と続いている。
ここで注目するのは、この陸軍四将軍は全て、ポーランド共和国から勲章を授与されていることである。

彼らが受章したオドロゼニア・ポルスキー勲章は 別名「ポーランド復興勲章」といわれるものだ。
ポーランド語では 「 Odrodzenia  Polski 」 と表記されるものであり、同国の勲章でもかなり高位のものである。
日本の勲章と同じく伝統があり、現代でも傑出した功績がある外国人などに授与されている。
フランスのレジオンドヌール勲章に倣って五つの位階があり、その最高位、一等が大井大将に授与された「グランクロア」(大十字勲章)である。
次いで、二等が稲葉中将以下三名に授与された「星章附コマンドール」。
ただ二等といっても、受章対象は軍人なら将官レベルの高位のもので、日本でいえば勲二等旭日重光章あたりに匹敵するものであろうか。


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オドロゼニア・ポルスキー勲章 (二等)
(左が胸章、右が首章)

日本人で、このオドロゼニア・ポルスキー勲章が授与された例はさほど多くなかったようだ。
戦前では東郷平八郎元帥、高橋是清総理大臣、田中義一総理大臣などが挙げられる。
戦後では、「命のビザ」で有名な杉原千畝 元リトアニア領事代理にもその際立った人道主義の功績を讃えて授与されている。
また、満州で多数のユダヤ人亡命者の命を救った樋口季一郎 元ハルビン特務機関長・陸軍中将にも授与されている。


それでは、この時なぜこれら四名の陸軍将官にこのような高位の勲章がポーランド政府から授与されたか、ということになる。

関係書類のうち一枚に、これら四名の叙勲理由が書かれたものがある。
それには、「シベリア戦役関係 シベリア撤退に際し尽力」 云々の記載が見える。
つまり、ポーランド政府は、この四名の将官のシベリア出兵時の功績を授章理由としているのだ。

このうち、大井大将は出兵当初は第十二師団長であり、後に大谷大将の後任として二代目の浦塩派遣軍司令官となった。(司令官在任期間 大正8年8月~大正9年7月)
稲垣中将は出兵当初は浦塩派遣軍参謀であり、後に由比中将の後任として二代目の参謀長となった。
(参謀長在任期間 大正8年6月~大正9年7月)
星野中将は大正8年から大正9年にかけて、浦塩派遣軍野戦交通部長を務めている。
そして、石坂中将だが、ご存知のように当時はハルビン特務機関長として浦塩派遣軍司令部付きであった。


叙勲理由の「シベリア戦役関係 シベリア撤退に際し」というのは、単にシベリア出兵と撤退に関わったという、漫然としたものではないはずだ。
当然ながら、出兵時に於けるポーランド人白衛軍部隊(第五ポーランド師団)との連携、そして彼ら白軍側に属したポーランド人の母国送還協力のことを指すものに違いない。
そして、この二つの事案が同時に大きく存在していたのは、シベリア出兵時でも一定の時期に絞られる。
つまり、日本軍のシベリア出兵初期と最末期の期間はそれほど深い関係がなかったはずで、その中間の第二期に顕著であった。
そして、日本軍の出兵を取り巻く環境がもっとも困難を極めたのも、この第二期の頃であった。
これら四名の受章者は、その第二期に在シベリア・ポーランド人との連帯に深く関わった者として、受章対象に絞られたものだろう。

なぜなら、浦塩派遣軍司令官は三代にわたり、また参謀長は五代にわたって交代しているからだ。
これらの中で、第二期の大井大将、稲垣中将のみがポーランドから勲章を授与されたのは、彼らの在任期間が重大な事件が一番多発した頃だ。 (特に重要なものとしてオムスク白軍政権樹立と崩壊、尼港事件の勃発、日本軍の過激派軍武装解除作戦、極東共和国建国など)

星野中将は派遣軍野戦交通部長として、鉄道等による軍事輸送の責任者として、ポーランド人の帰還輸送に協力したものと察せられる。

石坂少将が彼ら在シベリアのポーランド人たちとの連携や母国送還に実務的に関わっていたことを示す公文書については、以前に提示したとおりである。

要するに大井司令官、稲垣参謀長、星野野戦交通部長、石坂特務機関長ら当時の浦塩派遣軍幹部が、以上のような日本にとっても大変困難な時期にも拘らず、彼らポーランド人たちとの連携や母国送還に最大限に尽力したというのが功績理由であったと思われる。


また、これは執筆者の推論であるが、これら叙勲理由にはポーランド孤児難民の救助と輸送に関与した功績も含まれるものと考えている。
その根拠については以前に書いたとおりだ。
要するに、ポーランド孤児難民と義勇兵の母国送還は全然無関係の別個の事案どころか、ポーランド人にとっては同等に差し迫った、同じ次元の話であったはずだ。
浦塩派遣軍首脳としても、当然同じカテゴリーに入れていたと見るのが自然ではないだろうか。
当時の日本を取り巻く軍事・外交環境を分析した上で考慮された、重要な「宣撫工作」という意味合いであるが。

そして、彼ら派遣軍首脳部にとっては、陽明丸の事案も同じカテゴリーのものではなかったか。
これについても、同様に高度な軍事・外交的な思料に基づいて、適宜処理しようと試みたと思うのだ。

つまり、以上の三つの事案(ポーランド孤児難民の救助・母国送還、ポーランド義勇兵との連携と母国送還、そして陽明丸事蹟) は皆、背後で浦塩派遣軍当局が絡んでいたと見る方がもっとも自然ではないだろうか。
その、絡んでいた背景には、彼らなりの理由ないしは目的、或いは不可避の事情があったものと見るのだ。


とにかくポーランド政府は、ロシア帝国によってシベリアに追いやられ未曾有の難儀を強いられた同胞たちをかくも親身に扱ってくれた日本への恩義を忘れていなかった、ということだろう。
特に浦塩派遣軍には、彼らは人種民族を超えて、シベリアで共に苦労した戦友同士のような強い連帯感を持っていたに違いない。
その連帯の証として、これら四将軍が代表して勲章を授与された、という象徴的な意味合いがあったということではないか。

ポーランドは近世の終わり頃までは、「ポーランド・リトアニア王国」が東欧の地域大国として栄えていた。
だが、周囲をオーストリア帝国やプロイセン王国、ロシア帝国など軍事強国と接していた地政学的な関係で、18世紀末にはこれらの国々に蹂躙、分割されて国家自体が消滅してしまった。
以来、亡国の悲哀を味わってきたポーランド人の愛国精神は、燃え盛る炎のように代々人々の心の中に灯り続けた。
そして、ロシア革命及び第一次世界大戦の終結を転機に、ようやく長年の他国の軛から解放され、再び自らの国家を取り戻したのが1918年であった。
だが、三国による分割前の版図回復を求めるポーランドと、それを否定するソ連の利害が衝突、モスクワ政府との関係が急速に悪化し、ポーランド・ソヴィエト戦争となって両国は戦火を交えることとなった。

この戦争ではポーランドがソヴィエト・ロシアの大軍を相手に非常に善戦したのだが、これは一世紀以上もの間、属領の民として悲哀を嘗めてきた彼らの愛国心に火がついたからであろう。

明治大正期の日本はそのような建国の意欲に燃えたポーランド人に力強い精神的支援を与えていたのだ。
明治後期の日露戦争のさ中には、明石大佐などが対露謀略工作の一環として、ロシアからの独立を企図するポーランドの民族主義者に様々な支援活動を行った。
大正時代に入ると、貞明皇后は、シベリアで保護され日本に送られてきたポーランド孤児の一人をそっと抱きしめられ、暖かいお言葉を賜られた。
救出された孤児たちや、母国に帰還できた義勇兵たちは感激し、その後日本への恩義を決して忘れなかったことだろう。
両国政府はソヴィエト・ロシアの脅威に対抗し、その東端西端で事実上、連携連帯していたわけである。
東西それぞれに対峙していたソヴィエトの軍事力を分裂させるメリットがあったからだ。
また、そのことはそれぞれの対ソ外交交渉の際には相手への牽制の切り札として大いに役にたったことであろう。
日本; ソ連との緩衝国家 「極東共和国」 をめぐる交渉。
ポーランド: ソ連との停戦後の平和条約 (リガ平和条約)」締結。
つまり、両国は対ソ連の軍事同盟こそ結ばなかったが、事実上は互いに安全保障上の重要なパートナーであったといえないか。
そのことはあまり日本国民には意識されてはいなかったかもしれないが。


日本・ポーランド両国のこの良き友好関係は昭和初期まで続いていた。
だが日本がヒトラードイツの威勢に魅せられ、日独防共協定(1936年)を締結した頃から雲行きがあやしくなっていった。
やがて1939年、ナチスドイツとソ連、両軍に東西からほぼ同時に攻め込まれて、ポーランド国家は消滅、人々は再び属領の民となってしまった。
ナチスはポーランド人を劣等民族とみなし、圧倒的な軍事力にものを言わせて苛酷きわまる占領統治を行った。
同国で平和に暮らしていた多くのユダヤ人国民を強制収容所に入れ、百万人単位で集団虐殺をした。
ソ連はソ連で、独裁者スターリンはポーランド人の反抗の芽を削ぐために、軍将校など知識階級を集団虐殺した。(「カチンの森」事件)
このように、敬虔で信仰深い人々であるポーランド国民に降りかかった、繰り返される酷い受難の歴史を知るにつれて、我々の心は暗澹としてくるものだ。

そして、第二次大戦はこの時点から開始され、実質的に日本がナチスと心中する運命が決まり、ポーランドを支援した英仏米を相手に戦うことになってしまった。
且つて美しい友情を育んでいた日本とポーランドは、心ならずも敵同士となってしまったのだ。
そして大戦後に独立を取り戻すまでの6年の間、ポーランド国民は筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めることになった。
歴史に 「もしも」 は通じないし、想定すること自体がナンセンスかもしれない。
だが、日本がせっかく繋がりのあったポーランドとの親善を維持し、第一次大戦時のように英米仏側で戦っていたか、せめて中立を保っていたならば、我々の国の運命はかなり違っていたのではないだろうか。


28th April 1929 Warsaw Gen Kwasniewski

















1929年(昭和3年)
ポーランド復興勲章受章のためにワルシャワを訪れた松井石根陸軍大将。(当時は中将)

松井大将は陸軍大学を首席で卒業した英才。
シベリア出兵当時は浦塩派遣軍参謀やハルビン特務機関長などを歴任している。
この点も授章理由として考慮されたものだろう。
当時、松井は参謀本部員として外遊中であり、日本軍部を代表しての親善訪問を兼ねてワルシャワを訪れた。
一説では、その真の目的は日本軍とポーランド軍との対ソ軍事外交情報収集に関する協力関係を築くためであった、といわれる。

右側の日本人は当時在ポーランド日本公使館付き武官、鈴木重康中佐。
松井大将は中国や欧州の海外事情に詳しく、陸軍でも中国との宥和を重視し、和平推進派で知られていた。
だが、主戦派の陸軍主流からは次第に孤立、支那事変における中支派遣軍司令官を最後に現役を退いた。
戦後の極東裁判で、南京事件の責任を一身に背負い、B級戦犯として処刑された。


なお、提示した証明書にもあるとおり、上記四将官の受章当時の陸軍大臣は石坂の盟友、宇垣一成であった。
石坂中将の浦塩時代の活躍ぶりを誰よりも知悉していた宇垣である。
ゆえに、おそらく宇垣は叙勲調書作成の折、ポーランド政府担当官に、誰よりも受章にふさわしい功績のある人物として、石坂のことを告げていたとも考えられる。












 

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(21)

さて、ここで石坂少将のハルビン特務機関長としての活動歴に戻るとしよう。

次の公文書は石坂少将とポーランド人白衛軍との関わりの一端を示すものと見られる。


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これらの通信は、石坂少将から浦塩派遣軍参謀長を経由して送られた東京の陸軍次官宛の伺い書、及び同省からの返答である。
この文書のやり取りの時期は、大正9年5月であり、丁度アレンがウラジオからの脱出船の調達がうまくいかず焦っていた頃のものだ。

大意は、日本軍と同じくシベリアで赤軍と戦っていたポーランド人白衛軍からの申し出に関するもので、同軍所有の赤十字病院列車を3~4ヶ月間、日本軍に提供する旨のオファーである。
その条件としては、西方戦線から(赤軍に追われて)遁走してくるポーランド(義勇)兵があれば収容することだが、それ以外の目的でも日本軍が随意使用することも認めている。
しかも軍医、看護婦他、乗務員の給与はポーランド側が負担するという好意的なものだ。
陸軍省としても反対する理由などあろうはずもない。
「その提供を受け、我軍に於いて使用することに取り計らいありたし」と承認している。
石坂少将とポーランド軍との良好な関係を伺い知ることができる記録文書であろう。


ポーランド人の白軍兵士は在シベリアの同国人から成る反赤軍義勇兵たちであり、これはそのままシベリア・ポーランド人のコミュニティの人々と言い換えることもできるだろう。
なぜ東シベリアにまでポーランド人が住んでいたかというと、ロシア帝国の厳しいポーランド属領統治などに逆らった政治犯や人々、そしてその家族たちの流刑地であったものだ。
それまで未開の地であったシベリア開発や鉄道の敷設のための労働者として当てられていた面もあるだろう。
そして、やがてロシア革命が起こったのだが、モスクワの過激派政府は彼らの境遇に特に同情したわけではなく、無関心に近かった。
それ故か、チェコ軍団の一斉蜂起が起きた時に同調した男たちのポーランド義勇兵部隊が反モスクワ白衛軍の戦列に加わることになった。(第五ポーランド師団)

「波蘭国 (ポーランド国)」と表記されているが、これはロシア革命の混乱を契機に樹立されたポーランドの独立政府を我が国が既に承認していたからで、実質的には在シベリア・ポーランド人で組織されていた反モスクワ民族独立勢力であろう。
「タルゴフスキー」なる人物についてはまだ未調査だが、通信文の文脈から察するにポーランド軍関係者というよりは、在シベリアのポーランド赤十字社或いはポーランド人組織の関係者であろうか。

「東京 軍 五師団 済」とあるのは、同様の文書が参謀本部 (或いは外務省?)、浦塩派遣軍司令部、そして在シベリアの第五師団司令部にも回っていることを示すものか。



また、次の文書も石坂少将及び彼が在籍した浦塩派遣軍が、在シベリアのポーランド人たちと浅からぬ関係にあったことを物語る史料として提示したい。

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人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(20)

以上、陽明丸事蹟における 「石坂特務機関長主犯説」について、執筆者なりの論考を述べてきた。
彼についての論考はまだ数回は続ける予定だが、このあたりで中間総括をしてみたい。


まず、申し上げたいこと。
それは、証拠至上主義者の方々にとっては、この程度の論述では簡単に納得ゆかないであろうことは百も承知の上、ということだ。
何しろ、彼の「犯行」を裏付ける決定的な「直接証拠」 が未だ見つかっていないからだ。


しかしながら、この事績を丹念に追ってゆくと、やはり彼の「犯行」であった可能性を示す材料が次々と浮上し続けていることも事実だ。
ゆえに、執筆者にとっては、彼への 「嫌疑」 はますます深まるばかりである。

まず、「アリバイ」について。
1920年5~7月という 「犯行時間」の時期に、「犯行現場(ウラジオストク)」と関連の深い場所(ハルビン)に特務機関長として在職していた事実から、「犯行」は十分あり得たことになる。
したがって、石坂少将の「アリバイ」は成立しない。

「犯行能力」についても、既に見てきたように、石坂少将の群を抜いたキャリア、地位、職務権限などを考えれば、十分過ぎるほど有していたと考えても良い。

また、「犯行動機」についても、様々な次元角度から論考してきたように、これも十分過ぎるものではなかったか。
そして何よりも、一連の事蹟関係者の人間関係を検証すると、今まで目に見えなかった横の繋がりが浮き彫りなってきたことが既にお解りいただけたと思う。
特に、彼が茅原船長とごく近しい親族であったこと。
そして養父の家が代々、誰でも分け隔てなく傷病者を救済し、人徳にも秀でた名医の家系であったこと。
特に、養父(血筋上は叔父)、石坂惟寛は緒方洪庵適塾出の俊才で、軍医総監まで昇り詰め、日本赤十字社創立にも貢献した明治医学界の名士であったこと。
これらも、石坂少将の 「犯情」 解明にあたり、重要な手掛かりであることは言うまでもない。

一方、「状況証拠」に至っては、これまで数年の間に、それらしきものを幾つも見つけてきたつもりだ。
これからも一つづつ、本ブログで継続的に提示し、論考してゆきたい。

つまり、「直接証拠」と「本人自供」 こそ得られていないものの、石坂少将は既に犯罪捜査で謂う 「重要参考人」 レベルにまで容疑が濃厚と見ている。

以上を集約すると、あくまで直接証拠が無いと何も信じられない懐疑主義の方々には、同時に彼の「無実」 を証明する証拠も何一つないという事実もぜひ指摘したい。
執筆者の見解では、彼はグレーであっても、かなり黒に近いグレーという捉え方をしている。


ただ、「肝心の直接証拠の史料が揃っていないのでは、推論を立てても一体意味があるのか?」 と考える方も世の中にはいるだろう。
特に、史料至上主義に陥りやすい学問畑の方々に時々見受けることがある。
だが、それは極めて偏狭且つ不条理な批判、と言わざるを得ない。

犯罪捜査で言えば、或る容疑者がいても、「決め手となる直接証拠や本人自供が得られてないなら、捜査会議を開く価値もない、無駄だ。」 と決めつけるようなものだ。
それでは、いつまでたっても真犯人を特定できるはずもない。
マークした容疑者がシロかクロかを決めるためにも、まずは状況証拠等に基づいて分析検討すること。
それらをベースに様々な推論を重ね、さらなる有力な証拠の採取に努め、最終的に真相にたどり着くこと。
そのような地味な捜査努力こそが事件解決の王道であるからだ。


歴史上の様々な事件、例えば忠臣蔵や本能寺の変などでも、背景にあった因果関係は今だに十分解明されていない。
だから、昔からさまざまな人による諸説が入り乱れている。
また、坂本竜馬暗殺事件の真犯人に関する諸説も同様だ。
本職の歴史学者だけでなく、それ以外の様々な識者、果ては巷の好事家までもが加わって、喧々囂々とさまざまな推論が立てられてきた。
だが、遺憾なことに、はるか昔の出来事であるので、やはり直接証拠の史料の確保は相当に困難に決まっている。
大方の場合は、自説を補強する状況証拠を、かき集めてくるしか方法論がなかっただろう。

だが、たとえそうであっても、諸説が並存する百家争鳴的論争は肯定的に見るべきであろう。
これは是非とも強調しておきたい。
なぜなら、研究者たちが互いに切磋琢磨し、情報を交換ないしは共有することができるからだ。
その結果、調査研究が総体として深化、発展してゆくからだ。
そして或る日突然、事の真相が天女の羽衣のように静かに空から舞い降りてくるのだろう。
カヤハラ船長発見の時のように。


執筆者としての基本的他立場もこの際に明確にしておきたい。
決して陽明丸事蹟に関する歴史学的な学術論文を書いているのではない。
想像上の出来事、つまりフィクションを書いているわけでもない。
本職の歴史学者ではないし、小説家でもない。
実証性を可能な限り重んじて、素人なりの調査研究を黙々と行ってきたつもりだ。
本ブログではそれらに基づいて構築された推論を淡々と書き連ねているだけに過ぎない。
所詮はアマチュアであり、巷の好事家程度のものであろう。
だが、この陽明丸事跡は日本人が大きな誇りとするに足る価値がある、という揺るぎのない確信だけは持っている。
ゆえに、主として後世の人々のための記録ないしは参考資料として役に立つ日が来ることを念頭に書き連ねているのである。

それでも、我々がこの事蹟の調査研究のパイオニアであることだけは、強い自負も持っている。
何しろ、我々が着手するまで、日本国内ではまず誰にも知られていない事蹟であったのだから。
また、カヤハラ船長の特定や手記の発見をはじめ、様々な重要な史料の発掘も我々自身の手で行ってきた。

他にも我々が達成したささやかな貢献としては、米露の研究者がそれまで抱いていた、陽明丸航行に関わる日本側関係者への過小評価をドラスティックに是正させたことだ。
それまでの米国サイドの定説では、専らアメリカ赤十字シベリア救護隊、特にライリー・アレン隊長のみにスポットライトが当てられていた。
その他は、「ちょい役」 程度の脇役かエキストラ程度の扱いであった。
カヤハラ船長と乗組員に至っては、程度の低いハイヤー運転手のような描写で、不当に貶められていた。


だが、5年半前に我々が関わったことで、船長手記の発見その他の史料発掘により、まず船長及び乗組員の名誉を全面的に回復することができた。
同時に、それまでは名前すら出なかった勝田銀次郎をクローズアップし、その隠れた人徳と功績を明らかにすることができた。
ルドルフ・B・トイスラー博士についてもそれまでは米国内では、さほど重要ではない、いわば端役に毛が生えた扱いであった。
これも、我々の事実関係の検証により、アレンに勝るとも劣らない重要な功績があったことを彼らに知らしめ、再評価を促した。
こうした陽明丸航行を巡る日本サイドの関係者に対する米露側の的がはずれた見解、ないしは極めて不十分な情報を是正してもらうために、我々は米露研究者を日本に招いた。

彼らと膝を突き合わせた熱心なディスカッション、そして様々な発見事実を突きつけることによって、ようやくこれら諸点について軌道修正に応じてくれたのである。
現在では、これら日米四人のヒーローが共通してロシア児童難民800人の命の恩人であることは、既に日露米三ヵ国研究者(少なくとも我々の交流範囲の人々に限っては)の共有する定説とされているのは言うまでもない。


ただ、調査のスタート時点で 我々が最も困ったことは、上記の理由により、日本国内では陽明丸事蹟に関する文献、参考資料はほぼ皆無であったことだ。
誰にでも知られている他の歴史的事件や事蹟であれば、それこそ「腐るほど」 書籍等の文献が出回っている。インターネットを使えば、たとえ自分が探さなくとも、他人様の集めた豊富な知識情報を容易に入手することだってできる。

だが、我々の場合は、まさにその正反対、ほぼゼロという絶望的なハンディキャップがあった。
ゆえに、調査研究に着手した当初は文字どおり盲人の手探り状態であった。
数年間、諦めずに進めてきた成果がやっと見えだしたのは、ごく最近のことだ。
独力でゼロから出発し、五年の歳月をかけた五里霧中の登山であった。
正直な話、試行錯誤を重ねながらのジグザグ歩行で、やっとここまでたどり着いたというのが実感である。


この事蹟の全容が解明されるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
我々が生きている間にそれを達成するのは無理かもしれない。
だが、それならそれで良いとも考えている。
その時は、後世の誰かがこの事蹟に興味を抱き、調査研究を引き継いでくれれば、それで十分である。
我々は夢見るのだ。
いつの日か彼らが、「陽明丸ジグゾーパズル」の最後の一片を嵌めて、一幅の絵を完成させることを。


人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(19)

さて、このようにロシア児童難民、ポーランド孤児難民それぞれの場合を比較検討すると、一見似ているようだが、本質的には性格が全く異なるものであることをご理解いただけたと思う。
但し、これら二つの事蹟は互いに無関係どころか、根っこの部分ではしっかりと繋がっていたと執筆者は見ている。

二つの事蹟の共通点としては、以下のことであろう。

①ほぼ同時期に起きた事蹟であること。
(特に、双方ともウラジオからの出立が米国のシベリア派遣軍の撤退以降であることに注目願いたい。)

②双方とも基幹とする地がウラジオストクであること。
(アンナ・ビルケウィッチ女史の「波蘭児童救済会」が設立されたのも同地であった。)

③双方ともに、当時の日本が関係していること。

ポーランド孤児難民救済もたしかに万人の心を打つ、国際人道主義の美談であることは間違いない。
日本以外の各国が振り向きもしなかったシベリアのポーランド孤児の惨状を見かねて、暖かい手を差し伸べた。
日本軍の力が及ぶ全域を捜索して彼らを保護し、まず十分な衣食を与え、必要な者には手厚い医療看護も施した。
それだけではなく、最終的には地球の向こう側の彼らの故国まで船で送りとどけたのだ。
これぞ我が国が世界に誇ることができる民族的美徳の発露として、ぜひとも後世に語り継がれるべき史実のひとつであろう。
だが、その反面、この事蹟についての昨今の評価は、やや一面的に過ぎるのではないかと感じるのは執筆者だけであろうか。

ポーランド孤児の事蹟については、既に多くのマス・メディアに取り上げられていることは言うまでもない。
だが、それらの紹介で専ら共通していることだが、当時の日本人関係者の義侠心、孤児への同情心の方に、あまりにも力点がかかり過ぎと思えてならない。
つまり、日本のこの事蹟への貢献は、主として彼らの博愛主義的心情から発したものであり、ほぼそれに尽きるかのような、どちらか言うと平板な印象しか残らないのである。

たしかに、ビルケウィッチ女史の必死の陳情は日本政界要人の心を動かし、国としての救済を決断させ、日赤やシベリア派遣軍も動員して達成されたことは言うまでもない。
ただ、忘れてはならないことは、当時は多くの日本兵が東シベリアに出征し、各地に展開して赤軍勢力と日夜対峙していたことである。
平たく言えば、日本は多国籍軍の一部としてロシアという隣国に攻め入り、ロシアの革命勢力と対決していたのだ。
現地での任務は、決して自衛隊の平和維持活動や災害救助活動のようなものではなかった。
たしかに日本軍が孤児救出、輸送に関与したのは間違いない事実である。
だが、上記のようなマス・メディアの描写では、現地の日本軍が東京の政府からの命令一下、戦闘もそっちのけで、「ポーランドの孤児はいねぇか~」と連呼して捜しまわったかのような牧歌的な印象を与えかねない。


執筆者としては、以下の事実を検討してゆくと、この事蹟への日本軍の関与は、そのような呑気なものでは決してなかった、という見解を持たざるを得ない。

当時のウラジオには浦塩派遣軍の司令部があり、シベリアの他のいくつかの拠点には陸軍の特務機関が置かれて、諜報活動を活発に行っていた。
ウラジオストクやハルビンはロシア各地や東欧からの流民だけではなく、世界各国の軍人や外交官、ビジネスマンなどが出入りしており、いわば国際情勢に係わる情報の宝庫でもあった。
特務機関の任務は単なるエリアの軍事情報収集だけにとどまらず、数多の国際情報の中から重要なものをいち早くキャッチして、東京(参謀本部及び外務省)に伝えることも任務であった。
また、石坂少将のような幹部将校は最新の国際情報に基づく情勢分析も行い、その見解は東京にも具申され、政府の軍事及び外交方針を決定する判断材料ともなった。

つまり、実際にはポーランド孤児難民救済問題については、当初より浦塩派遣軍当局が実態を逐一把握しており、その後の一連のプロセスも全て、彼らの是認のもとに行われたものと見ている。
それどころか、是認という受動的な行為にとどまらず、むしろ派遣軍当局が密かに「波蘭児童救済会」と日本政府の橋渡しをしていた可能性があると見ている。

その理由としては、ご存知のように、浦塩派遣軍司令部というのは軍の単なる一出先機関ではなかったからだ。
各国との外交折衝を日々担当する政務部や、国際諜報・防諜などを担当する特務機関は、きわめて精力的に働いていた。
ゆえに、ポーランド孤児の惨状や、ビルケウィッチ女史を中心とする支援組織の設立・陳情の動きのような重要な事案を彼らの情報網が見落とすはずもなかった、と見る。


何よりも忘れてならないのは、当時の陸海軍は今日のような文民統制ではなく、憲法上は天皇陛下御自ら統帥権を握られていたことだ。
いわば半独立的に皇室と政府の間に位置し、皇国の御楯としての権威が付与された特別の存在というのが実態に近かったのではないか。
そして、陛下からお預りした神聖な軍旗を奉じ、極寒の地に外征していたのがシベリア派遣軍であった。
ゆえに、いかに総理大臣と言えども軍、とりわけ最前線で戦っていたウラジオ派遣軍の意向を無視、或いは素通りして、ウラジオ自体に関わる重要なことを決定するのは不可能であったはずだ。


ところで、前に述べたように、この当時1920年はソヴィエト・ポーランド戦争の真っ最中であった。
ユーラシア大陸の反対側では、この二カ国の軍隊が正面から激突していた。
ポーランドとロシアは同じスラブ系民族同士なのだが、不幸なことに地政学的要因ゆえか、はるか昔から数世紀にわたり抗争を続けてきた間柄である。
第一大戦終結後に念願の独立を勝ち取った、そのポーランドが宿敵ロシアと領土上の問題をめぐり、戦っていたのである。
そのポーランドの背後には、共産ロシアを敵視するフランスが付いていた。
つまり、モスクワからすれば、これはシベリアに残っている日本軍部隊と連携した反ソヴィエト・防共戦争の一環である、と捉えたことであろう。
たしかにそれを否定することはできないだろう。
日本は日本で、既に1919年にポーランドとは国交を結んでいた。
さらに、何かとポーランドとの親善に努めたのも、このような国際情勢のリアリズムとは無縁ではなさそうだ。

ところで、ポーランド軍はこの戦争ではかなりの善戦をしていた。
局地戦では度々ソヴィエト軍を撃破したので、モスクワ政府はパワー・ポリテックス上での大きな失点を重ねていた。
また、ポーランドとの全面戦争により、モスクワ政府が東シベリアの日本軍と全面衝突する軍事的エネルギーを削がれていたことは、日本帝国にとっては何よりも嘉とすべきでことであった。

また、米国をはじめ西洋各国が手も差し伸べなかったポーランド孤児難民を国を挙げて救済したことは、ヴェルサイユ条約後に名誉ある「五大強国」の地位(the rank among the Five Great Powers) を手にした我が国国際イメージアップに大いに貢献するものであった。


ゆえに結論すれば、ポーランド孤児難民救済は、たしかに日本人の義侠心、博愛精神の発露として行われたものであったが、それと並行して冷厳な情勢分析に基づく軍事外交戦略にも符合していた点も見落とすべきではない、と思うのだ。
さらに言うならば、この並行する諸要素は、陽明丸の事蹟にもそのまま当てはまるものではなかったか。


これは、いかにも執筆者の空想的推理と取られそうだが、このポーランド孤児救済の一件についても、背後には石坂少将が動いていたという気がしてならない。
これらの諸要素は、いかにも彼自身の職責、能力、そして行動理念に合致しているからである。

つまり、高級情報将校としての彼自身の任務遂行が、現実に生死の淵にあった多くのポーランド孤児たちの命を救うことになり、且つ日本政府及びシベリアの日本軍に大いに利するものとなり得たという意味だ。
陽明丸と同じくこの案件も、これら双方の要素が乖離することなく、見事に融合したものではなかったか。
つまり、彼にとっては何ら疚しい思いはなかったと見る。

ゆえに、石坂少将は浦塩派遣軍の司令官や参謀長に、ポーランド孤児救済がいかに日本にとってメリットがあるかを自信を持って意見具申したと考えられないか。
その意見具申には、「波蘭児童救済会」と東京との水面下での橋渡しをすることも含まれていたと見るのが自然であろう。

いったん派遣軍司令官の承認さえ得られれば、軍中央の承認もさほど困難ではなかったはずだ。
そして、彼ら軍側の総意としての支持も得られて、日本政府は軍民一体となって孤児たちの救済事業を進めることができた、と見る。

また、当時の白軍にはチェコ軍団だけではなく、シベリア在住のポーランド人志願兵も多く混じっていて、日本軍の友軍として赤軍勢力と戦っていたことはあまり知られていない。
大戦終了後は、これらポーランド兵たちもチェコ軍団兵と同じく、国際赤十字が進めた送還事業により、故国に向けて船舶輸送されていた。

次の公文書は、石坂少将がこれらポーランド兵の故国送還にも関わっていたことを示すものである。

DSCN5544




























この文書は、丁度この時期1920年(大正9年)3月7日付の電報である。
浦塩派遣軍の参謀長から東京の陸軍次官宛のものであるが、陸軍大臣までもが目を通したことも示している。
通信文の大意は、チェコ軍団兵のシベリアからの送還の件であり、当時のチェコ軍団統率者であったフランス軍のジャナン将軍から南満州経由で大連港から彼らを船に乗せたいので便宜をはかってほしい旨の要請があった。
しかしながら、軍中央より以前からそのような要請は断る旨の指示があったので、現地では一応は拒絶した。
だが、今回再び、石坂少将経由で同軍団輸送に引き続いて、2000余名の波蘭(ポーランド)軍帰還兵を大連より乗船させたい旨の非公式の要請を受けたので、これについての指示をあらためて仰いでいるものだ。
ここにあるように、石坂少将はポーランド兵を含む帰還兵輸送業務にも直接関係していたことがわかる。
特に注目すべき箇所は、「船ハ心配二及バズ」という部分で、輸送用の船舶が既に調達されていたのだろう。
だが、解釈によっては石坂少将が船の手配までしていたとも受け取れる。
もしそれが勝田汽船であったとすれば、この時点で彼らの接点は既に存在していたことになる。


そして、彼らポーランド帰還兵は故国に戻ったのちは、今度は対ソヴィエト戦争に身を投したであろうことは言うまでもない。
つまり、日本軍はロシアの東側にとどまっていたポーランド人の兵力を、結局は地球を回って西側の戦線に送り込んだことになる。
この事案も、石坂少将の熟練した情報将校としての職責と、人道主義的精神は乖離することなく溶け合っていたことを示すもの、と言えないだろうか。


なお、以前にふとしたことでポーランド孤児救済事蹟の研究者の方と意見交換する機会があった。
彼が投げかけた疑問は、「シベリア各地で、どうやって日本赤十字関係者や日本軍があれだけ多くの孤児たちを見つけられたのか。」 ということであった。
現地の言葉もわからない日本兵や少数の日赤関係者が、同じスラヴ系のロシア人とポーランドの子供を識別することさえ、まず難しかったのでは、と困惑げであった。
だが、この謎については、執筆者にとってはごく簡単に解けそうだ。

通常の戦闘部隊の兵隊をいちいち村々や街頭に出してポーランド孤児を捜させるわけにはいかなかっただろう。
まず第一に、彼らの通常任務はそのような慈善活動ではなく、敵との戦闘や鉄道線路など重要施設の警備であった。
赤軍パルチザンがいつ襲って来るかわからないのに、本来の軍務をそっちのけで呑気なことを果たしてやっていられるものか。
何しろ、最大時でもたかだが3個師団程度で東シベリアのとてつもない広大な土地に展開していたのだ。
この時期1920年春頃は財政上の問題や各国の厳しい目もあって、派遣軍の規模は次第に縮小されていた。
日本軍の勢力範囲は沿海州やザバイカル州あたりに過ぎなかったが、長大なシベリア鉄道の守備だけでも、兵員数はとても足りるものではなかった。
ポーランド孤児の捜索活動のみに当てる余分な兵隊などいるはずもなかった。
それでは、現に救出された孤児たちは一体どうやって捜し当てたか、ということになる。


これには現地ごとの実情に照らした様々な方法が執られていただろうが、執筆者はここでも各地の特務機関員が活躍したと見ている。
まず、特務機関より日本軍の指揮系統を通じて、連携する白軍部隊、つまりコサック兵やポーランド人たちに協力を要請し、彼らを使って孤児の情報を集めさせた。
彼らであれば、村々の隅々まで見知っており、ポーランド系住民やロシア人住民を通じて孤児たちの存在を探り当てることは大して難しくはなかったはずだ。
このような特殊任務ではロシア語によるコミュニケーション能力が要求されるので、日本軍でも通常の部隊には不向きであっただろう。
シベリアはとにかく広い。
歩兵による捜索行などは効率が悪すぎるし、下手をするとパルチザンに包囲されて殲滅されかねない。


おそらくは、もっと機動性のある方法が取られたのではないだろうか。
つまり、それぞれ騎乗の特務機関員と案内役のポーランド人、そして少部隊の白軍コサック騎兵と日本軍騎兵が斥候兼護衛として随伴したチームである。
これであれば効率が良く、比較的安全に近辺の町村を回れたことであろう。
孤児の存在の確認さえできれば、あとはしかるべき集結場所に連れてきてもらえばよいだけだ。
ただし、特務機関の活動に関わることゆえ、そのような一連の任務が実際に遂行されていても、記録上はまず残されていないと思われるが。

ゆえに、ロシア語に長け、外国人の扱いに手慣れた特務機関員たちが一連の作業、つまり孤児の発見確保及び集結などの処理を指揮したとすれば、簡単に説明がつくことだ。
ウラジオだけでなく、日本軍が駐屯していた方々で孤児たちが一応は確保されたのは、そのエリアでの特務機関が動いた結果と見る。

ちなみに、石坂少将の任地、ハルビンでも222人のポーランド孤児が発見、保護されている。
これも現地の特務機関員などを陣頭指揮して行った成果ではないか、と見ている。





人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(18)

さて、陽明丸事蹟の分析において、意外と見落とされがちなポイントがあり、ここで少々述べてみたい。


陽明丸の児童難民輸送と、とかく並列的に見られがちなのが、ポーランド難民孤児送還及び第一次大戦の帰還兵・戦争捕虜の母国送還である。
前にも述べたように、ポーランド難民孤児の場合は日本政府が全面的に支援協力し、日本赤十字社や浦塩派遣軍も動員して行った事蹟として知られている。
救助・輸送したのが難民児童であったために、陽明丸のものと同一の事蹟として間違われることが屡々ある。
また、後者の大戦帰還兵(チェコ軍団兵など)や戦争捕虜(トルコ兵など)の母国送還を、勝田銀次郎の会社が別に請け負って行った形跡もあるようだ。( しかも陽明丸の場合とは異なり、英国や日本政府などから直に請け負っていた、と見られる。)

これらの事蹟をご存知の方が、陽明丸の児童難民輸送も同じカテゴリーに収まるものと考えられても、さほど不思議ではない。


では、陽明丸の児童難民の場合と、ポーランド難民孤児及び大戦帰還兵・戦争捕虜送還において、似て非なる点は何であろうか。
決定的な違いは、前者は 「母国を脱出させて」 、後者が「母国に戻すために」 船で輸送されたことだ。


まず、ポーランド難民孤児だが、彼らを救出して母国に送還させることは、どこから見ても人道主義そのもので、非難される余地はありえない。
ゆえに、日本政府は何ら臆することなく、むしろ国内外へのイメージ・アップ効果さえ計算していたふしがある。
だから、問題性がなかったどころか、貞明皇后陛下も孤児たちの一時収容された病院に行啓されているほどだ。
つまり、国としては、むしろ大変「晴がましい」出来事と位置づけしていたわけだ。


そして、戦争捕虜や大戦帰還兵の場合もポーランド難民孤児の場合と同様であった。
彼らは民間人(非戦闘員)とは異なり、戦闘員として戦争の当事者であり、戦時国際法的には捕虜になっても一定の処遇を受ける権利を保障されていた。
戦争そのものが終わった後は、本国へと送還される権利も一応は含まれていた。
だが、元々は戦死戦傷を覚悟で戦場に向かったはずの連中だ。
たとえ母国送還中に船が沈んで死亡しても、児童難民の場合とは異なり、それほど騒がれることもなかっただろう。
先の大戦の終戦後、外地から帰還してきた日本兵と同じで、身一つで帰れるだけでも有り難かっただろう。
ゆえに、勝田汽船が彼らの送還を請け負ったにしても、それほど気を張らなかったはずだ。
いわば 「 送還ビジネス」 として、ドライに処理し得る次元のものであった。


これら 「母国に戻すため」 の送還については、そもそもモスクワ政府がクレームをつける理由がなく、逆に、「厄介者だから、さっさと連れ出してくれ」 というのが本音ではなかったか。



ところが、 「母国を脱出させて」 輸送した、ペトログラードの児童たちの場合はこれらとは真逆であった。
モスクワ政府は一貫して彼らの返還を要求し続けた。
「我らソ連政府や親たちの承諾もなしに、勝手に子供たちをウラジオまで運び、そのうえ国外に連れ出すとは何事か」というのが彼らの言い分であっただろう。
執筆者の見解では、米国赤十字には残念ながら、国際法的にはモスクワ側の方に理があったと見る。
たしかに、米国赤十字は凍餓死の危機にあった児童たちを緊急救助し、手厚い医療や教育を行った。
これは、国際人道救助の一環として、賞賛されることはあっても、非難されるものではない。

そして、当時の緊迫した極東シベリア情勢による、ウラジオでの別の危機から彼らを守るために船出したわけだ。
だが、モスクワ政府側からすれば、不法にシベリアに侵入してきた外国の勢力が、自国民を勝手に国外に拉致したとみなした。
そういうことを行う権利が米国赤十字に有り得るのか、と。

ロシアが全くの無政府状態であるのならともなく、当時はオムスクの白軍政府も既に崩壊しており、モスクワ政府の統治機構が曲がりなりにも確立していた頃だ。
ゆえに、モスクワ政府にしてみれば、児童たちを国外に連れ去ることは、彼らの国家主権を著しく侵害するものであり、メンツを潰された、と憤慨したのではないだろうか。

警察権や徴税権と同じく、国民の保護・管理も国家主権の根幹に関わるものだからだ。
現在の日本政府が北朝鮮の拉致事件追求の手を緩めないのも、被害者のためだけではなく、国家主権の重大な侵害を決して見過ごせないからであろう。


ところで、このケースを米露それぞれの立場を逆にして考えてみよう。
以下のような事が起った場合は、どうなるのか。

「南北戦争の折に、北軍政府側のワシントン市の児童たちが疎開中に南軍側地域に取り残された。
戦争が激化して、親元に帰れなくなり、厳しい冬が訪れ、生命の危機が生じた。
南軍側を支援していたロシア帝国の米国派遣軍の一部として人道支援活動をしていたロシア赤十字が、それを見かねて救出し、南軍の拠点、リッチモンドで保護していた。
ところが、北軍側の攻勢が激しくなり、リッチモンドが包囲され、児童たちが激しい戦闘に巻き込まれる恐れが生じた。
ロシア赤十字はそれを憂慮して、親や北軍政府の承諾なしに船を調達し、世界一周の大航海に出た。
その後、ようやく太平洋側に到達し、そして鉄道でワシントンに戻った.....」


ここで、もし大きな問題点があるとすれば、米国人の親たちや北軍政府は、ロシア政府やロシア赤十字に対して感謝というよりは、「我々の承諾なしに勝手なことをしては困る」と抗議していたのではないだろうか。

つまり、親権が無視され、米国政府の国家主権への侵犯である、と受け止めたのではないだろうか。
当時も20世紀初頭と同じく、航海というのはそれなりにリスクを伴うものであった。
児童たちは犬猫の類ではなく、れっきとした米国政府の国民であり、ロシア人が勝手に国外に連れ出すことは許されるのか、という論点になっていたことだろう。


事実、米国赤十字でも、「子供たちをウラジオに置いてゆくべきである」 という意見もあったようだ。
また、国際法上は、その方が筋が通ったものであっただろう。
これらの子供たちは国外に緊急輸送すべき人道的理由、例えば政治難民など、残していけば明らかに迫害を受ける恐れがある人々の範疇に入れるのには無理があった。
ポーランド孤児たちのように保護者もなく、異国で放置されて生命の危機にあるという境遇とも明らかに異なっていた。

仮に、アレンが諦めて彼らをウラジオに置いていったとすれば、子供たちは極東共和国を通じてモスクワ政府側に引き渡されていただろうし、浦塩派遣軍も気を揉む種がなくなり、安堵したことだろう。
陽明丸の航海も始めからなかったことになる。
ところが、アレンは子供たちを決して置き去りにしなかったのだ。


前に述べたように、アレンが勇断の末に陽明丸で連れ出していなかったら、子供たちの処遇、つまり生活環境は急激に悪化していたはずだ。
ウラジオに置きざりにされることは、いわば、地獄からせっかく天国に引き上げられたのに、再び地獄へと突き落とされるようなものであった。
むしろ、天国を一度見せた分だけ、その方がよほど罪作りであったかもしれない。

だが、モスクワ政府とすれば、彼らを取り戻しさえすれば大義名分が立つので、それでよかったのだ。
当時、飢えや伝染病に苦しんでいた数百万の一般ロシア人児童と同様に扱って当たり前であり、彼らだけを特別扱いにする理由などなかったからだ。
特別扱いどころか、懲罰的な意味合いで、「並以下」の扱いも十分有り得た。
もしそうなっていたら、親元に無事たどり着けたのは、せいぜい彼らの半数程度であったかもしれない。
何しろ、故郷の保護者たちから余りにも遠く離れた土地、シベリアの果てで放り出されるわけであったから。


これらの厳しい現実を踏まえて、敢えて大航海を決行したアレンは相当に悩み抜いたのではないだろうか。
だが、結局は、「ここで、この子たちを見捨てることは人間としてできない。」
「なんとしても彼ら全員の命を全うしてやらねば...」 という強い使命感が彼を突き動かしたのではないだろうか。


そして、そのような勇断を敢えて行ったアレンに、我々としては限りない敬意と共感を覚えるのだ。
執筆者が来日時のオルガ自身から聞いた次の感想は、このことを裏付けるものだ。

「米国赤十字は”’これ以上もう何もしてやれることはないから” と言って、児童たちをウラジオに置き去りにしていくこともできたのです。
でも、実際は彼らを見捨てることなく、地球をほぼ一周して親元に無事届けてくれました。
このことにどれだけ感謝したらよいものか、簡単に表現できるものではありません。」


そのかわり、ポーランド孤児や帰還兵等送還の場合と正反対で、いわば「頬かむりをして」、ひっそりと航海に出ざるを得なかった、と見る。
しかも、日米両政府とも表向きは関与できなかった。
ゆえに、石坂中将の水面下のサポートを経て、民間委託の形を取るしかなかったのであろう、と見るわけだ。



Historical items concerning Yomei-maru Incident or Siberian Intervention by Empire of Japan.


The following items are my personal belongings that I have been collecting one by one, spending years while our reserching task as to the Yomei-maru Incident was going on.

I have some other various items apart from those, but it would take some time to finish the listing all of them
We exhibit those items in the show room of our NPO headquarter in Nomi city.

I am going to take the pictures of all items, and will put them on the blog, though I need to spare some time for the job....



1、シベリア出兵当時の大砲の薬莢

シベリア出兵当時に現地で使用された大砲砲弾の薬莢。

「西比利亜出征記念」の文字、花鳥などが彫金されている。

従軍した日本兵が帰国時に記念として持ち帰ったものであろう。

真鍮製。


An empty cartridge of cannon possibly once used at the battle of the era of Siberian Intervention War.

This was brought as a souvenir by one of Japanese soldiers belonging to the dispatched army troop, when he came back to Japan, so it can be guessed.

Later he had It elegantly engraved to be decorative with classical Japanese tastes, with the words “Memento of my going to fight in Siberia”.. .

 


2、シベリア出兵軍人の記念品・一輪ざし

「西比利亜出征記念」「大正七年十二月 勲七等 佐藤祐弘」の文字が鋳込まれている。

無事帰国し、叙勲を受けた軍人が発注し、各所に配ったものであろう。

鋳鉄製。 

A flower vase, manufactured in memory of the “Victorious Returning from Siberia “ by the Japanese soldier who had been posted there.

We can read his name as“ Sukehiro Sato “ on it, together with the title of military award he was bestowed, and the memorial date “ December 1918 ”

 

 

3.シベリア出兵軍人の軍事郵便

新潟県の叔父に送った軍事郵便(手紙)

「浦塩(ウラジオ)派遣軍」「在尼市(ニコリスク市)」などの文字が見える。

1919年6月9日の消印。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his uncle in Japan by military postal service..

Stamped June 9th 1919.

 

  

4.シベリア出兵軍人の軍事郵便

山梨県の知人に送った軍事郵便(手紙)

「浦塩(ウラジオ)派遣軍」「第二兵站司令部」などの文字が見える。

陸軍の公式便箋に書かれている。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service.

We can see the words, “(Japanese) Expeditionary Force to Vradiostok”,

” Headquarter of the second transportation regiment)

The letter paper was official stationery of Imperial Japanese Army.

 

  

5.シベリア出兵軍人の軍事郵便

広島県の知人に送った軍事郵便(葉書)

「派遣(軍)第五師団歩兵第十一連隊」などの文字が見える。

裏の文面には「過激派の掃討」などの文字が読みとれる。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service..

We can see the words, “Chasing battle against (‘Russian) partisan troop” in the sentences.

 

 
 

6.シベリア出兵軍人の軍事郵便

栃木県の知人に送った軍事郵便(葉書)

「西伯利亜派遣軍 在哈府(ハバロフスク市)」などの文字が見える。

裏の文面には「尼港事件」などの文字が読みとれる。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service..

We can see the words, “ (Japanese) Expeditionary Force to Siberia” “Khabarovsk”, “Nikolayevsk  (massacre)  Incident” etc.

 

  

7.シベリア出兵軍人への功労金授与証書

退役した元陸軍軍曹への陸軍省からの証書及び関係書類。

功労金として金参拾五円が支給されたことがわかる。

大正11年11月1日付。

 

A certificate awarding a retired army sergeant, who served as a member of the dispatched troop to Siberia.

He was paid 35 yen, as the reward from the national government.

Issued on November 1st 1922.

 

 

8.大正七年版 最新東部シベリア戦地一覧図

出兵当時の日本軍部隊の配置の書き込みがあるが、

最前線部隊指揮官の将校によるものか。

「(帝国陸軍)参謀本部検閲済」の文字が印刷されている。

 

A military map of east Siberia. There are handwritten letters by someone who is supposed to be the commander of the small troop posted there.

The map was inspected by Imperial Japanese Army General Staff Office, so it is printed.

Printed in 1918.

 

 
 

9.大正七年版 時事新報シベリア全図

サブタイトルに「伯林(ベルリン)から極東まで」とある。

当時のシベリア各都市の人口も記載されており、興味深い。

 

A map of whole Siberia.

As its subtitle, “ from Berlin to Far East.”

Printed in Japan, in 1918.

We can see the estimated population of main local cities in Siberia in those days.

 

 

 

10.シベリア出征忠死者人名簿 大正9年6月

「茨城県臨時招魂祭」のために制作されたもの。

茨城県内からシベリアに出征し、戦死した兵士の詳細情報が記載されており、

たいへん貴重な史料である。

 

A list of the deceased soldiers who were residents of Ibaraki prefecture, who died while being posted in Siberia. We can see their names and how and when they died on the list.

This is a very valuable historical document.

Published in June 1920.

 

 

11.シベリア出兵兵士への感謝状 大正9年12月

或る村の村長より、シベリア出兵時に従軍し、無事「凱旋」した陸軍上等兵の村民に授与された感謝状。手書きである。

「欧州戦乱の余波」「シベリアの風雲急なる」云々と大仰な文章だが、当時の日本国民の国防意識を反映しているのであろう。

 

A hand-written letter of gratitude toward a soldier who could return alive “victoriously” from the Siberian Intervention War, by the village chief.

The soldier was the resident of the village.

We can see some exaggerated nationalistic style in the sentences, which might have reflected the era in those years of Japan.

Dated December 1920.

 
 

 

12.シベリア出兵時、日本軍兵士に宿営を提供する居留民への布告

シベリア現地の日本人居留民の家に兵士たちが泊まる際の、居留民の取るべき心得を示したもの。

「居留民ハ陸軍官憲ノ要求ニ対シ便宜ヲ与フル義務アルモノトス」とかなり高圧的である。さらに、これらに不服ないしは拒めば、「帝国陸軍官憲の制裁」を受けることがある、と警告している。 大正9年7月の布告。

 

An announcement by the Imperial Japanese Army to the Japanese civilians living at some (unknown) area of Siberia.

It orders these Japanese civilians there to lend their houses to the  soldiers, if they are asked.

If they are not obedient with the order, it warns that they might be punished by the military officials.

Dated July 1920.

 
 

13.「尼港事件」の被害者への追悼歌謡小冊子

極東ロシア、ニコラエフスクの日本軍守備隊と居留民多数が過激派パルチザン軍に包囲され孤立、戦闘の末に惨殺された事件に日本国民は大いに憤慨した。

この事件を追悼するために作られた歌謡の小冊子である。

 

A leaflet of songs for mourning the deceased Japanese people who were killed as victims at the massacre incident of Nikolaevsk.

This massacre happened there, around the time of the siege by the Japanese military troop posted there, then after the surrender to the extremist-partisan troop, the most of the captured Japanese including many civilians were mass-killed by them.

 

 

14.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章と「シベリア出征記念」の文字が入っている。

真鍮製。

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, and the words “ Memento of my going to fight in Siberia.”
 

 

15.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章、交差する日章旗、「シベリア凱旋記念」の文字が入っている。

磁器製。

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, crossed rising-sun flags, and the words “ Memento of my victorious returning from Siberia.”
 

 

16.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章、軍旗、武人の象徴である桜花に、「シベリア出征」「凱旋記念」の文字が入っている。

磁器製。
 

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, regimental flag, cherry flowers as the symbol of warriors, and the words as the Memento of victorious returning fromSiberia.

 

17.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

表には「シベリアの」云々の短歌、裏には「大正七八年シベリア出征記念」「工三(工兵第三大隊か)」の金文字。

漆器製。
 

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the short poem about the memory when he was staying there,   and the words as the memento of his going to fight in Siberia 1918~1919, Engineer 3rd battalion etc.

 

18.日本人男性三名―シベリアにて 大正初期のキャビネット写真

三名の日本人男性、一見ビジネスマン風であるが、目付きが鋭く面構えが一癖ありげである。いったい何の目的で現地に居るのか興をそそる。

シベリア出兵以前にも、多くの日本商人たちが極東ロシアに進出しており、様々な商売に携わっていた。

これら商人たちが日本軍の密偵を兼ねていたことも多かった。

或いは、このトリオもそうであったのかもしれない。

 

An old cabinet photo of three Japanese men who are supposed to be on the travel in Siberian Russia.

We feel that they were not ordinary Japanese travelers, considering their evil-looking, guarding faces.

Decades before the Siberian Intervention, many Japanese businessmen or merchants had been active in Siberia, doing various jobs there.

They often served as intelligence agents for the Imperial Japanese Army  or the government if they were asked.

Therefore, those three men could be military spies, we can presume.

 

 

19.日本陸軍シベリア派遣軍の「記念写真帖」

ウラジオ派遣軍の第八師団及び石川県の地元師団である第九師団の「撤兵凱旋」を記録した出版物。

大正11年9月発行。
 

A memorial photo album of the Expeditionary Imperial Japanese Army to Siberia.

Printed in September 1922.

It photographically records the military activity and the” victorious returning fromSiberia” of 8th Division and 9th Division.

 
 

20.日本陸軍シベリア派遣軍の「記念写真帖」

シベリア出兵当時に起きた大事件の二つ、「尼港虐殺事件」と「哈府(ハバロフスク市)武装解除事件」を特集した記念写真帖。

外国メディアを意識してか、日英二ヶ国語で解説。

 

A memorial photo album of the Expeditionary Imperial Japanese Army to Siberia.

Printed in September 1922.

It photographically records the military activity in Siberia.

Together with English translation, reflecting their consciousness toward the foreign medias which were critical to the prolonged Japanese military activity in Siberia in those years..
 

 

21.シベリア出兵当時の日本の新聞

第一次世界大戦の戦況ニューズなどに混じって、「尼港事件」や(日本軍の)「シベリア派兵交代」の記事が見える。

 

A newspaper reporting the news about the military situation of the WW1 mainly in Europe, and the activity of Japanese expeditionary force to Siberia, and the Massacre Incident  at Nikolaevsk etc….

 
 

22.第一次世界大戦を伝える写真解説冊子(三冊)

ドイツで発行されたもの1冊、及び日本で発行されたもの2冊。
 

Booklets reporting the news about the military situation of the WW1 mainly inEurope, one was published in Germany, and two were in Japan.

 

 

23.シベリア出兵当時の各種の絵ハガキ

 .

     シベリア派遣各国軍の拠点、ウラジオストク市関連。

 

Postcards depicting the Massacre Incident  at Nikolaevsk. etc….

Siberian Intervention by countries in connection, and the city of Vladivostok where those military activity has mainly started.

 

     ニコラエフスクの日本軍守備隊と居留民多数が過激派パルチザンに惨殺された「尼港事件」関連。
 

Postcards depicting the This massacre happened there, around the time of the siege by the Japanese military troop posted there, then after the surrender to the extremist-partisan troop, the most of the captured Japanese including many civilians were mass-killed by them.

 

 

     当時のウラジオストクの地図を示す葉書。陽明丸の子供たちが保護されていた「ルッスキー島」の文字も見える。
 

A postcard showing the map of Vladivostok, we can see the location of  “Russky Island “, where many of those children were staying.

 

 

●第一次世界大戦の講和会議のあったフランスのヴェルサイユ宮殿の記念葉書。

勝利者側の主要国であった米英仏各国首脳に並んで、日本代表の西園寺全権大使も紹介されている。
 

A postcard depicting the historical event, “Paris Peace Conference, 1919” after the end of WW1.

Among them, We can see the face of Mr. Saionji who attended there as a chief representative of Japanese government as the ambassador extraordinary and plenipotentiare.

 

 

24.シベリア出兵の従軍勲章

シベリア出兵に従軍し、軍功があった軍人に与えられた国家勲章。
 

A  reward medal for military servicemen who were dispatched to Siberia, and  finely contributed to the military activity, given by  of Imperial Japanese government..



25.シベリア出兵関係の関連書籍

 

Various reference books as to the history of Siberian Intervention War by ImperialJapan.

 

26.陽明丸の事績関係の書籍

オルガ・モルキナ女史の著作(ロシア)一冊と米国で発行された二冊(Various books as to the historical story of Wild Children of Urals, written by two American writers, and Ms. Olga Molkina, respectively.

 
 

27・勝田銀次郎氏の評伝

 

A book featuring the life of Katsuda Ginjiro.

 
 

28・ルドルフ・トイスラー博士関係の書籍

戦前に米国で発行された1冊(在シベリア救援活動の章はライリー・アレンが執筆)

と戦後に日本で発行された1冊。

Two books featuring the life of Dr. Rudolf B. Teusler, one was published in USA, and another was publiseh in Japan.

 


陽明丸事蹟関連ないしはシベリア出兵関連の蒐集品リスト

以下は、陽明丸事蹟の調査研究の傍ら、執筆者が数年をかけて蒐集してきた関連アイテムのリストである。

これら以外にも、まだ様々な物があるのだが、全てのリストアップが終了するまで、多少の時間がかかりそうだ。

これらの現品は、当NPO本部施設の資料展示室で随時展示されている。
個々の画像についても、これから時間をかけて少しづつ撮影し、本ブログに掲載していきたい。



1、シベリア出兵当時の大砲の薬莢

シベリア出兵当時に現地で使用された大砲砲弾の薬莢。

「西比利亜出征記念」の文字、花鳥などが彫金されている。

従軍した日本兵が帰国時に記念として持ち帰ったものであろう。

真鍮製。


An empty cartridge of cannon possibly once used at the battle of the era of Siberian Intervention War.

This was brought as a souvenir by one of Japanese soldiers belonging to the dispatched army troop, when he came back to Japan, so it can be guessed.

Later he had It elegantly engraved to be decorative with classical Japanese tastes, with the words “Memento of my going to fight in Siberia”.. .

 


2、シベリア出兵軍人の記念品・一輪ざし

「西比利亜出征記念」「大正七年十二月 勲七等 佐藤祐弘」の文字が鋳込まれている。

無事帰国し、叙勲を受けた軍人が発注し、各所に配ったものであろう。

鋳鉄製。 

A flower vase, manufactured in memory of the “Victorious Returning from Siberia “ by the Japanese soldier who had been posted there.

We can read his name as“ Sukehiro Sato “ on it, together with the title of military award he was bestowed, and the memorial date “ December 1918 ”

 

 

3.シベリア出兵軍人の軍事郵便

新潟県の叔父に送った軍事郵便(手紙)

「浦塩(ウラジオ)派遣軍」「在尼市(ニコリスク市)」などの文字が見える。

1919年6月9日の消印。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his uncle in Japan by military postal service..

Stamped June 9th 1919.

 

  

4.シベリア出兵軍人の軍事郵便

山梨県の知人に送った軍事郵便(手紙)

「浦塩(ウラジオ)派遣軍」「第二兵站司令部」などの文字が見える。

陸軍の公式便箋に書かれている。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service.

We can see the words, “(Japanese) Expeditionary Force to Vradiostok”,

” Headquarter of the second transportation regiment)

The letter paper was official stationery of Imperial Japanese Army.

 

  

5.シベリア出兵軍人の軍事郵便

広島県の知人に送った軍事郵便(葉書)

「派遣(軍)第五師団歩兵第十一連隊」などの文字が見える。

裏の文面には「過激派の掃討」などの文字が読みとれる。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service..

We can see the words, “Chasing battle against (‘Russian) partisan troop” in the sentences.

 

 
 

6.シベリア出兵軍人の軍事郵便

栃木県の知人に送った軍事郵便(葉書)

「西伯利亜派遣軍 在哈府(ハバロフスク市)」などの文字が見える。

裏の文面には「尼港事件」などの文字が読みとれる。

 

A letter sent from a soldier who belonged to the dispatched army to Siberia, to his friend in Japan by military postal service..

We can see the words, “ (Japanese) Expeditionary Force to Siberia”Khabarovsk”, “ Nikolayevsk  (massacre)  Incident” etc.

 

  

7.シベリア出兵軍人への功労金授与証書

退役した元陸軍軍曹への陸軍省からの証書及び関係書類。

功労金として金参拾五円が支給されたことがわかる。

大正11年11月1日付。

 

A certificate awarding a retired army sergeant, who served as a member of the dispatched troop to Siberia.

He was paid 35 yen, as the reward from the national government.

Issued on November 1st 1922.

 

 

8.大正七年版 最新東部シベリア戦地一覧図

出兵当時の日本軍部隊の配置の書き込みがあるが、

最前線部隊指揮官の将校によるものか。

「(帝国陸軍)参謀本部検閲済」の文字が印刷されている。

 

A military map of east Siberia. There are handwritten letters by someone who is supposed to be the commander of the small troop posted there.

The map was inspected by Imperial Japanese Army General Staff Office, so it is printed.

Printed in 1918.

 

 
 

9.大正七年版 時事新報シベリア全図

サブタイトルに「伯林(ベルリン)から極東まで」とある。

当時のシベリア各都市の人口も記載されており、興味深い。

 

A map of whole Siberia.

As its subtitle, “ from Berlin to Far East.”

Printed in Japan, in 1918.

We can see the estimated population of main local cities in Siberia in those days.

 

 

 

10.シベリア出征忠死者人名簿 大正9年6月

「茨城県臨時招魂祭」のために制作されたもの。

茨城県内からシベリアに出征し、戦死した兵士の詳細情報が記載されており、

たいへん貴重な史料である。

 

A list of the deceased soldiers who were residents of Ibaraki prefecture, who died while being posted in Siberia. We can see their names and how and when they died on the list.

This is a very valuable historical document.

Published in June 1920.

 

 

11.シベリア出兵兵士への感謝状 大正9年12月

或る村の村長より、シベリア出兵時に従軍し、無事「凱旋」した陸軍上等兵の村民に授与された感謝状。手書きである。

「欧州戦乱の余波」「シベリアの風雲急なる」云々と大仰な文章だが、当時の日本国民の国防意識を反映しているのであろう。

 

A hand-written letter of gratitude toward a soldier who could return alive “victoriously” from the Siberian Intervention War, by the village chief.

The soldier was the resident of the village.

We can see some exaggerated nationalistic style in the sentences, which might have reflected the era in those years of Japan.

Dated December 1920.

 
 

 

12.シベリア出兵時、日本軍兵士に宿営を提供する居留民への布告

シベリア現地の日本人居留民の家に兵士たちが泊まる際の、居留民の取るべき心得を示したもの。

「居留民ハ陸軍官憲ノ要求ニ対シ便宜ヲ与フル義務アルモノトス」とかなり高圧的である。さらに、これらに不服ないしは拒めば、「帝国陸軍官憲の制裁」を受けることがある、と警告している。 大正9年7月の布告。

 

An announcement by the Imperial Japanese Army to the Japanese civilians living at some (unknown) area of Siberia.

It orders these Japanese civilians there to lend their houses to the  soldiers, if they are asked.

If they are not obedient with the order, it warns that they might be punished by the military officials.

Dated July 1920.

 
 

13.「尼港事件」の被害者への追悼歌謡小冊子

極東ロシア、ニコラエフスクの日本軍守備隊と居留民多数が過激派パルチザン軍に包囲され孤立、戦闘の末に惨殺された事件に日本国民は大いに憤慨した。

この事件を追悼するために作られた歌謡の小冊子である。

 

A leaflet of songs for mourning the deceased Japanese people who were killed as victims at the massacre incident of Nikolaevsk.

This massacre happened there, around the time of the siege by the Japanese military troop posted there, then after the surrender to the extremist-partisan troop, the most of the captured Japanese including many civilians were mass-killed by them.

 

 

14.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章と「シベリア出征記念」の文字が入っている。

真鍮製。

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, and the words “ Memento of my going to fight in Siberia.”
 

 

15.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章、交差する日章旗、「シベリア凱旋記念」の文字が入っている。

磁器製。

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, crossed rising-sun flags, and the words “ Memento of my victorious returning from Siberia.”
 

 

16.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

帝国陸軍の星章、軍旗、武人の象徴である桜花に、「シベリア出征」「凱旋記念」の文字が入っている。

磁器製。
 

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the star emblem of Imperial Japanese Army, regimental flag, cherry flowers as the symbol of warriors, and the words as the Memento of victorious returning from Siberia.

 

17.シベリア出兵軍人の「兵隊盃」

表には「シベリアの」云々の短歌、裏には「大正七八年シベリア出征記念」「工三(工兵第三大隊か)」の金文字。

漆器製。
 

A sake-cup manufactured by the order of an army soldier who had been dispatched to Siberia.

With the short poem about the memory when he was staying there,   and the words as the memento of his going to fight in Siberia 1918~1919, Engineer 3rd battalion etc.

 

18.日本人男性三名―シベリアにて 大正初期のキャビネット写真

三名の日本人男性、一見ビジネスマン風であるが、目付きが鋭く面構えが一癖ありげである。いったい何の目的で現地に居るのか興をそそる。

シベリア出兵以前にも、多くの日本商人たちが極東ロシアに進出しており、様々な商売に携わっていた。

これら商人たちが日本軍の密偵を兼ねていたことも多かった。

或いは、このトリオもそうであったのかもしれない。

 

An old cabinet photo of three Japanese men who are supposed to be on the travel in Siberian Russia.

We feel that they were not ordinary Japanese travelers, considering their evil-looking, guarding faces.

Decades before the Siberian Intervention, many Japanese businessmen or merchants had been active in Siberia, doing various jobs there.

They often served as intelligence agents for the Imperial Japanese Army  or the government if they were asked.

Therefore, those three men could be military spies, we can presume.

 

 

19.日本陸軍シベリア派遣軍の「記念写真帖」

ウラジオ派遣軍の第八師団及び石川県の地元師団である第九師団の「撤兵凱旋」を記録した出版物。

大正11年9月発行。
 

A memorial photo album of the Expeditionary Imperial Japanese Army to Siberia.

Printed in September 1922.

It photographically records the military activity and the” victorious returning from Siberia” of 8th Division and 9th Division.

 
 

20.日本陸軍シベリア派遣軍の「記念写真帖」

シベリア出兵当時に起きた大事件の二つ、「尼港虐殺事件」と「哈府(ハバロフスク市)武装解除事件」を特集した記念写真帖。

外国メディアを意識してか、日英二ヶ国語で解説。

 

A memorial photo album of the Expeditionary Imperial Japanese Army to Siberia.

Printed in September 1922.

It photographically records the military activity in Siberia.

Together with English translation, reflecting their consciousness toward the foreign medias which were critical to the prolonged Japanese military activity in Siberia in those years..
 

 

21.シベリア出兵当時の日本の新聞

第一次世界大戦の戦況ニューズなどに混じって、「尼港事件」や(日本軍の)「シベリア派兵交代」の記事が見える。

 

A newspaper reporting the news about the military situation of the WW1 mainly in Europe, and the activity of Japanese expeditionary force to Siberia, and the Massacre Incident  at Nikolaevsk etc….

 
 

22.第一次世界大戦を伝える写真解説冊子(三冊)

ドイツで発行されたもの1冊、及び日本で発行されたもの2冊。
 

Booklets reporting the news about the military situation of the WW1 mainly in Europe, one was published in Germany, and two were in Japan.

 

 

23.シベリア出兵当時の各種の絵ハガキ

 .

     シベリア派遣各国軍の拠点、ウラジオストク市関連。

 

Postcards depicting the Massacre Incident  at Nikolaevsk. etc….

Siberian Intervention by countries in connection, and the city of Vladivostok where those military activity has mainly started.

 

     ニコラエフスクの日本軍守備隊と居留民多数が過激派パルチザンに惨殺された「尼港事件」関連。
 

Postcards depicting the This massacre happened there, around the time of the siege by the Japanese military troop posted there, then after the surrender to the extremist-partisan troop, the most of the captured Japanese including many civilians were mass-killed by them.

 

 

     当時のウラジオストクの地図を示す葉書。陽明丸の子供たちが保護されていた「ルッスキー島」の文字も見える。
 

A postcard showing the map of Vladivostok, we can see the location of  “Russky Island “, where many of those children were staying.

 

 

●第一次世界大戦の講和会議のあったフランスのヴェルサイユ宮殿の記念葉書。

勝利者側の主要国であった米英仏各国首脳に並んで、日本代表の西園寺全権大使も紹介されている。
 

A postcard depicting the historical event, “Paris Peace Conference, 1919” after the end of WW1.

Among them, We can see the face of Mr. Saionji who attended there as a chief representative of Japanese government as the ambassador extraordinary and plenipotentiare.

 

 

24.シベリア出兵の従軍勲章

シベリア出兵に従軍し、軍功があった軍人に与えられた国家勲章。
 

A  reward medal for military servicemen who were dispatched to Siberia, and  finely contributed to the military activity, given by  of Imperial Japanese government..



25.シベリア出兵関係の関連書籍

 

Various reference books as to the history of Siberian Intervention War by Imperial Japan.

 

26.陽明丸の事績関係の書籍

オルガ・モルキナ女史の著作(ロシア)一冊と米国で発行された二冊(Various books as to the historical story of Wild Children of Urals, written by two American writers, and Ms. Olga Molkina, respectively.

 
 

27・勝田銀次郎氏の評伝

 

A book featuring the life of Katsuda Ginjiro.

 
 

28・ルドルフ・トイスラー博士関係の書籍

戦前に米国で発行された1冊(在シベリア救援活動の章はライリー・アレンが執筆)

と戦後に日本で発行された1冊。

Two books featuring the life of Dr. Rudolf B. Teusler, one was published in USA, and another was publiseh in Japan.

 


当NPO法人 第三回顕彰記念式典開催のご報告③

記念式典を報道した新聞記事。


北國151110

 中日151112 (2)

当NPO法人 第三回顕彰記念式典開催のご報告②

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開始時刻に至り、式典はまず、当NPOの徳野副理事長の発声にて、力強い開会宣言から始まりました。

総合司会は、且つて北陸放送の名物アナウンサーとして活躍、今なお市民に広く親しまれている当NPOの辰巳理事が担当。

続いて、主催者を代表して、北室理事長がご来賓と参加会員にご挨拶を申し述べました。

さらに、陽明丸事跡に関係した、国籍を超えた多くの物故者に対し、列席者一同から黙祷が捧げられました。


続きまして、ご臨席の来賓各位のご紹介があり、各々から真摯でお心のこもったご祝辞の言葉を頂戴いたしました。
(衆議院議員 佐々木紀様、参議院議員 山田修路様 石川県議会議員 善田善彦様 )

また、ご本人公務ご多用のため、代理として列席いただいた方々からのご祝辞も有り難く拝聴いたしました。
(参議院議員 岡田直樹様代理 
石川良巳秘書様、
能美市長 酒井悌二郎様代理 
高塚善衛副市長様)


また、ご所用の為に折り悪しくご欠席の元内閣総理大臣 森喜朗様からの力強い励ましのご祝辞が、司会者から朗読されました。
また、石川県議会議員の井出敏彦様からも当会活動への深いご理解を示されたご祝辞が司会者により披露されました。

続いて、茅原船長の郷里である岡山県笠岡市の市長 三島紀元様から、当NPO活動へのご理解ご賛同を
表明されたご祝辞も朗読されました。

最後に、遠くロシア・サンクトペテルブルク市の当NPO名誉会員・ペテログラード児童難民子孫の会代表オルガ・モルキナ様からも、故茅原船長への深謝のメッセージを預かっており、同じく司会者より朗読されました。


以上、いかにも陽明丸事蹟らしい、荘重なセレモニー部分が滞りなく終了し、次に今回の特別プログラムとして下記の文化イベントに移りました。


 

◇基調講演 講師

聖路加国際大学 学術情報センター 大学史編纂資料室

 藪 純夫(やぶ すみお)様

*演題「陽明丸大航海を陰で支えた功労者、ルドルフ・B・トイスラー博士」

 


◇パネル・ディスカッション

藪 純夫 様、

東京外国語大学留学生(日本研究)レブロワ・マリヤ様、

及び当NPO北室理事長の三名。

*テーマ「陽明丸の事蹟とは何であったのか、私たちの思い」

 

聖路加国際大学の職員として、当該分野の研究者としてご活躍の藪さまより、陽明丸事蹟の功績者の一人、トイスラー博士の生涯について、パワーポイントや大変貴重な動画映写も交えて、詳しくご解説をいただきました。
参加者一同、トイスラー博士の人間性と偉大な功績に、改めて深い敬服の念を懐かざるを得ませんでした。 



続いて行われたパネルディスカッションでは、陽明丸の事績を巡り、上記のゲスト及びNPO関係者も交えた、熱心で実りのある意見交換が行われました。
特に、ロシア国籍のレブロワ・マリヤ様の当事蹟に対する理解の深さ、そして表現力豊かで雄弁な日本語は大変印象的でした。
彼女には当NPOの今後の活動にも、格別なご協力を是非期待したいものです。

これらのメインイベントが滞りなく終了すると、最後にミニコンサートとして、下記の方々の邦楽生演奏が始まり、参加者一同、繊細で美しい音色に酔いしれました。


◇ミニコンサート(筝曲)

筝:須田 雅楽静うたしず   十七弦中橋 りゅうせい  尺八山田 寒山
 


式典の締めくくりとして、司会者の辰巳理事がおごそかに閉会を宣し、参加者一同、活動の今後のさらなる前進のために心を新たにして、会場を後にしました。


夕刻6時過ぎより、会場と雰囲気を変えて、親睦交流晩餐会が能美市下ノ江町の料亭「八松苑」にて、行われました。
季節料理を楽しみ、美酒を堪能して互いの友誼交流を深め、参加者一同、日露文化交流などをテーマに談笑の花を咲かせました。
また、遠路をはるばる御夫婦でお越しいただき参加された神馬会員に乾杯の労をお取りいただき、即席のスピーチもご披露いただきました。
神馬会員はお仕事の関係で在露経験が豊富で、ロシアの内実を深く知られる方の興味深いエピソードに、一同感銘を新たにしました。


今回のアトラクションとしては、当NPO徳野副理事長の親族、真珠子ちゃんの可愛い日本舞踊のご披露がありました。
幼少より藤間流舞踊を一生懸命に習っている由で、少し緊張していたようですが、とても品よく、愛らしい舞姿でした。

締めくくりとして、式典開催の裏方を担ってきた当NPOの井上事務局長の一本締めで、めでたく全てのイベントを無事終了させていただきました。
式典やイベントを陰で支えたNPOの全スタッフの皆さん、本当にお疲れさまでした。

当NPO法人 第三回顕彰記念式典開催のご報告①

NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会

第三回顕彰記念式典開催のご報告


過日11月8日(日)、能美市根上学習センターに於いて、当NPO法人の第三回顕彰記念式典が行われました。

下記は会員に送付された案内状の写し。

**********************************************
 

平成27年10月吉日

 

 

NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会

第三回顕彰記念式典 開催のご案内

 

 

会員並びに関係各位

 

NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会

      理事長   北室 南苑

 

 拝啓 中秋の候、各位におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

平素より当NPOの活動に格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、お陰様にて当会は特定非営利活動法人として発足以来三ヶ年余、極めてエネルギッシュに事業を推進してまいりました。

昨年度は、皆様方の有り難きご協力に加えて、日本財団及び自治体各位より

御助成も賜り、日露米三か国交流も兼ねた様々な顕彰事業を盛大に実施することができました。

特に、地元能美市での第二回記念式典、また東京の日本外国特派員協会における国際交流会議では多くの反響がありました。

さらに、本年三月には神戸市にて陽明丸展等を開催し、多数の関西市民のご来訪をいただきました。

私どもでは、今後共さらにこの素晴らしい国際連携による人道救助の事績を精査検証し、それらの成果を広く国内外に周知して参りたいと願うものです。

つきましては、ここに謹んで第三回顕彰記念式典のご案内を致しますので、

各位におかれましては、万障お繰り合わせの上ご出席をお願い申し上げます。

 

敬具

 

 

●第三回顕彰記念式典  

Ø        日 時:平成27118日 日曜日 午後1時30分~4

Ø        場 所:能美市根上学習センター

石川県能美市大成ヌ111   ℡0761-55-8570

 

特別プログラム

◇基調講演 講師

聖路加国際大学 学術情報センター 大学史編纂資料室

 藪 純夫(やぶ すみお)様

*演題「陽明丸大航海を陰で支えた功労者、ルドルフ・B・トイスラー博士」

 

◇パネル・ディスカッション

上記の藪 純夫様、

東京外国語大学大学院生(日本研究)レブロワ・マリヤ様(ロシア国籍)、

及び当NPO北室理事長の三名。

*テーマ「陽明丸の事蹟とは何であったのか、私たちの思い」

 

◇ミニコンサート

筝曲演奏: 須田 雅楽静(うたしず) 他

 

 

 

  交流夕食会(参加自由・ご都合の良い方は是非ご参加ください)  

日 時 平成27年11月8日(日) 午後5時30分より

   場 所 能美市下ノ江町申8 八松苑(式典会場より送迎バスあり)

    

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(17)

では、これら一連の文書のやりとりは気の抜けたサイダーのように、全く無意味だったのだろうか?
これについては、「いや、あながちそうでもなかった。」 という見方もできるかもしれない。


というのは、少なくともこの時点で、「米国赤十字が救出した800人のペトログラード児童難民を帰郷させる」 という事案は、米国赤十字だけの単独の課題から、日本をも巻き込んだ外交案件(foreign affairs)に昇格したと見なされるのではないか。

「 例えそうであっても、どれほどの違いがあるのか?、」 と疑問を持たれる方もいるかもしれない。
だが、執筆者が仮に石坂少将の立場であったなら、「下手をすれば、厄介なことになる。」 と危惧し始めたかもしれない。

というのは、これら外交文書のやり取りによって、米国赤十字と800人のロシア児童難民の安否という案件については、日本は国際法上の責任の一端にコミットする形となったと思うからだ。
もし、これらのやり取りがなかったら、米国人一行と児童難民にどんな災厄が降りかかろうが、「誠に遺憾に思うが、我らの関知するところではなかった」 と一応は抗弁することができたと思われる。
だが、このやり取りの後では、言い訳はよくよく考えて行うべきだろう。

何しろ、元々は米国赤十字の単独案件であったはずの本件について、あまり背景の情報を精査せず、とりあえず、「できる限りの便宜を与えるように」 との指示を出してしまったのだ。
米国赤十字の強引な交渉の勢いに押されて、日本は不本意にもコミットしてしまった、という印象がぬぐえない。


西洋人特有の性癖で、国際問題で何か不祥事が起きると、必ず責任追求を始めるのは今さらのことではない。
それも、大方の場合は、あくまでも彼らの「上から目線」であることは、今も昔も同じであろう。
当然ながら、西洋人が振りかざす法的倫理的根拠は、彼らの先祖が長年構築してきた国際法の体系なのであるから。

この大正時代当時の日本は、非西洋諸国の中では群を抜いて西洋文明への理解度が高かったし、列強が取り仕切っていた国際社会に一応は順応していたと言えるだろう。
だが、国際法の運用や解釈、高度な外交的駆け引きなどにかけては、何世紀も鍛え抜かれた海千山千の欧米列強は、まだとてもかなう相手ではなかった。

ゆえに、もし米軍完全撤兵後のウラジオで、米国人や児童たちの安否に何か好からぬことが起きれば、その非難の矛先はロシア政府ではなく、警備していた浦塩派遣軍に向けられることは必定ではなかったか。


事実、その折の日本軍の武装解除作戦の際に、児童たちの収容施設にも流れ弾が飛来し、甚だ危険であった旨、米国赤十字側の非難めいた記録が残されている。
また、この日本軍作戦行動は、赤軍の武装解除だけが目的ではなかった。
当時、朝鮮を併合して十年目であり、ロシア領に逃れて反日運動を続けていた朝鮮人闘士たちをついでに検挙する治安作戦も兼ねていたようである。

朝鮮併合に逆らう 「不逞鮮人」の捜索、逮捕という治安出動であり、対赤軍の正規の戦闘行動よりも、むしろ荒っぽいものであったようだ。
米国赤十字の記録では、臨時雇用していた朝鮮人労働者数名を日本軍兵士が逮捕連行していったので、アレンが浦塩派遣軍の松平政務部長に緊急抗議し、危ういところで全員釈放させているようだ。


いずれにせよ、無理やり厄介な荷物を背負い込む形となった浦塩派遣軍とは反対に、外交案件化されたことは難民児童たちの安全という観点からすると、むしろ良かったと言えるかも知れない。

例えば、現代に於いて日本・北朝鮮間の懸案の問題である「拉致問題」。
これについても、外交案件としてずっと引っ張られているが、その一方で日本政府や国民が被害者の運命を注視し続けることで、彼らの命を闇に葬ることをさせにくくしていることも事実であろう。
また、ビルマで長年自宅拘禁されていたアウンサンスーチー女史の例もあり、虐殺者集団ポルポト派でさえ幽閉していたシアヌーク国王だけは殺さなかった。
これらは、その対象となった人々をメディアが注視することで、結局はそれ以上の危害や迫害を加えることを抑止することができた好例ではないだろうか。


さて、これら800人の児童難民は、ウラジオから出航した際は、訳あって粛々としたものだったが、米国に到着するや否や市民たちからは熱心な歓迎攻めにあった。
何しろ、いまだ神秘のベールに包まれていた「赤い国」、共産ロシアからやってきた大勢の子供たちである。
しかも、米国市民が賄った資金で、赤十字が保護、救出し、アメリカまで連れてきた連中だ。
人種的にも同族の白人であり、年齢からいっても可愛い盛りの子供たちである。
彼らの数奇な運命に同情した市民からの養子縁組の申し出さえあった。

そして、当然ながら米国の新聞社は、ここぞとばかり報道し、記事にしている。


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1920年8月29日付 ニューヨークタイムズ
(画像ファイルは全て、二度クリックするとズームアップします。)
DSCN4219





























1920年9月12日付 ニューヨークタイムズ
(画像ファイルは全て、二度クリックするとズームアップします。)

このように、国家間の外交案件となったり、マス・メディアに報道されるということは、対象となった人々の運命について、時には良い結果をもたらすことがあるようだ。
この800人の児童難民の場合が正にそうであった、と言えるのではないか。

この数回の新聞記事で、アメリカ国民の間には内戦に翻弄され、放浪を余儀なくされた児童たちに同情が集まり、論議を呼んだ。
そして、何よりもそのことは、共産ロシアに帰国して暫くの間は、非情な治安当局も手荒な扱いができない国際世論の力となって、子供たちを守ったと見ることができるのではないだろうか。

逆に言えば、これがもし当初の計画に沿って、シベリア鉄道経由で帰郷を目ざしていたとしたら、どうであっただろう。
米国を通過していないので、新聞社も記事にしようがなく、結局800人の子供たちは名前も顔もわからない、anonymous (アノニマス...無名、特徴のない、匿名などの概念を指すが)となっていたわけだ。
酷い話だが、彼らの運命についても、その場合大戦や内戦での無数の犠牲者の一人として、凄惨なロシア史の中に埋没するしかなかったであろう。
少なくとも、彼らが無事故郷に戻れるという保障はあろうはずもなかった。
数十年間も平和呆けしている現代人の我々には、到底理解しがたいことだが、それが当時のロシアの冷厳な現実であった。


1920年当時は「鉄の規律」の戦時共産主義、革命ロシアは非常に荒々しい時代であった。
江戸期の鎖国日本と同様、たとえ不可抗力であろうとも勝手に国外に出ること自体、御法度であった。
しかも日米という、内戦では白軍を支援するためシベリアに出兵してきた憎き帝国主義列強 の世話になった連中である。
成人であれば、反革命の裏切り者として処断されても仕方がなかった、厳しい時代状況であった。
未成年であったこと、そして国際世論もしばらくは注視していたので、児童たちはあからさまな虐待だけは免れたようだ。
だが、治安当局はその後も彼らを要注意人物として、マークし続けたことは間違いない。


当然ながら、子供たちはペトログラードを離れていた2年数ヶ月間のことは外部に語ることも、思い出の品を所持することも厳禁であった。
現に、成人になってから、この800人の一人であったことが遠因で、粛清に遭った不運な人物もいたようだ。

そうでなくとも、長期にわたりあれやこれやの陰湿なハラスメントを受けていたであろうことが推察できる。
彼らが、これら不条理なタブーから完全に解放されるのは、1990年代に入ってソ連が崩壊してからのことだった。



 


 

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(16)

パリ、東京、そして浦塩派遣軍司令部の間でやり取りされた、これら一連の文書の写し或いは要旨は、派遣軍の高級情報将校であった石坂少将の元にも職掌柄、報告されていたものと見て良いだろう。

そして、その折の彼の反応を想像してみるのだが、
おそらくは、苦虫を噛み潰したような表情だったのではないだろうか。
或いは、以下のように呟き、舌打ちしたかもしれない。
「ロシアの現状を知らない能天気な米国人めが。
今頃になって、トンチンカンなことを言い出しおって........」


まず第一に、このウィリアムス大尉なる人物が、5月初旬に在仏日本大使館に申し入れてきた事柄というのは、実現の見込みはほぼ無かったであろうと考えられる。
たしかに、この1920年早春頃のアレンの計画には、米国赤十字の特別列車を仕立てて、シべリア鉄道で子供たちを陸路、故郷に戻すことも視野に入れていた。
実際、その準備に着手した形跡もあるようだ。
だが、その計画は間もなく放棄された。
この書類のやり取りがあった頃は、もう既に航海のための船探しに懸命になっていたのだ。
そのような予定変更が在仏の米国赤十字には十分に伝わっておらず、上述のやり取りになったものだろう。 

アレンたちが当初考えていた目論見だが、まず世界大戦自体が終わったこと、そしてオムスクの白軍政権も崩壊したのだから、シベリアに出兵していた各国軍はそれ以上駐兵する大義名分が無く、当然撤兵するものと思っていた。
実際に、日本軍を除く米英仏など各国軍は全て6月頃までにシベリアからの撤兵を完了している。
ところが、アレンの思惑外れは、我が日本軍の想定外の行動に依るものだった。
日本軍のみは各国と歩調を合わさず、いろいろ理屈を捏ねながら、完全徹兵を先延ばしにしていた。
日本は、日本なりの事情があったのだが、説明すると長くなるので、ここでは省くことにしよう。


ところで、鉄道による長距離輸送というものは、当然ながら、鉄道区間を管理する当事者が単一であれ、複数であれ、平穏裡に管理していることが大前提である。
その場合、できれば鉄道管理主体は単一であることが最も望ましいことは言うまでもない。
つまり、シベリア鉄道にあっては、白軍であろうが赤軍であろうが、或いは日本軍であろうが、いずれかが線路自体と沿線地域をしっかりとコントロールしていない限り、長距離列車の運行自体は不可能なのだ。

 
アレンたちは、日本軍も各国軍と歩調を合わせて、遠からず撤兵すると思い込んでいたふしがある
外国軍が全て撤兵すれば、シベリア鉄道自体も近いうちにモスクワ政府ないしは緩衝国家の一元的な帰属となることだろう。
そうすれば、米国赤十字という国際人道救助団体の特別列車を全線通過させて、子供たちを無事故郷に戻すことは実現可能と見ていたのだろう。
 

ところが、日本の浦塩派遣軍は突然、意表を突く行動に出た。
まるで米軍撤兵のタイミングを見計らっていたかのように、4月初めに革命軍に対する武装解除の軍事行動を開始したのだ。
これは日本軍が得意とした、綿密に計画が練られた作戦行動であり、それまで日本軍を舐めてかかっていた革命軍に不意打ちを食らわせる形となった。
その結果、ウラジオから沿海州各地に至る広汎な地域での戦闘で、正規軍・パルチザンを問わず、多数の敵兵の武装解除に成功し、大きな戦果を挙げたようだ。


ウラジオ派遣軍としては、米軍が去ることで、ただでさえ守備範囲の広すぎるシベリアで孤軍奮闘することを懸念していた。
かと言って、肝心の政府や参謀本部の方針からは、対外的なポーズはともかくとして、完全撤兵を急ぐ姿勢は見えてこない。
ゆえに、派遣軍司令部では、まだ多少の兵を温存しているうちに、皇軍の威力を敵に知らしめておく必要あり、と判断したのかもしれない。
つまり、大日本帝国は 「外交と軍事行動」、この双方を遂行するに当っては、他者の思惑など気にせず全くのフリーハンドなのだという示威行動ではなかったか。

だが、その反面、共同出兵各国からは「日本、シベリアに居座る。領有の野心ありや?」 との決定的な悪印象、疑惑を与えてしまったことは否めない。
何よりもデメリットは、モスクワの共産党政府に、日本との全面的な軍事対決の覚悟を抱かせたこと。
そして、 「侵略者日本軍と戦う」 という統一スローガンの下に、ロシア大衆を隷属させる大義名分をモスクワ側に与えてしまったことだろう。
彼らが得意とした政治プロパガンダの術中に、まんまと嵌った、とも言えるかもしれない。
 

以上のような現地情勢であったので、ウラジオからヨーロッパロシアまでの大シベリア鉄道は、未だ文字どおりの細切れ状態にあり、ウィリアムズ大尉のせっかくの申し入れであったが、実現性のない、絵に描いた餅であったと言えるだろう。


また、もし仮に、アレンたちの想定したような特別列車が仕立てられたとしよう。
そして、列車が一旦赤軍側の支配地区に入ったらどうなっていたか。
まず、武装兵たちに十重二十重に囲まれ、付き添いの米国人一行は銃を突きつけられて、全員拘束されたであろう。
もし運が良ければ、米国人たちは長期拘留されず、国外追放程度の処分で済んだことだろう。 
だが、800人の児童たちはそうはいかなかったはずだ。
保護されるどころか、そのまま 「最寄りの」 臨時収容所にでも連行され、連日の容赦のない尋問が始まっていただろう。
やはり親元に直接送り届ける場合とでは、その扱いには天と地の開きがあったと言うべきだろう。 

彼らが、もし子供ではなく成人であったならば、間違いなく犯罪人として追求されていただろう。
その場合は、もし運が良ければシベリア極寒地の労働収容所送りで済んだかもしれない。
だが、「侵略者と通じた反革命の者ども」 として糾弾されれば、全員銃殺になったとしても何の不思議もなかったはずだ。
たとえ子供として大目に見られても、急変して劣悪な環境を生き延びて、再び故郷ペテログラードの土を踏めた者は、おそらく半数 も居たら良い方ではなかったか。
 

何しろ、当時1920年春頃といえば、モスクワの指導者たちにとっては、革命ロシアに次々と襲いかかる国家的災厄と必死になって戦っていた試練の時であった。
たしかに、オムスクのコルチャーク白軍政権は打倒したが、東シベリア、特に沿海州ではまだ強力な日本軍が居座り、白軍の残党も一掃されていなかった。
ロシア西方では強敵ポーランドやウクライナとの戦争状態に突入していた。
国内の経済状態は劣悪であり、むしろ破滅的とも言えるものであった。

慢性的に続いていた酷い飢餓も、戦時共産主義という過酷な手段により、貧しい農民から収奪した食料を都市住民に配ることで、かろうじて破滅から逃れていた。
シベリアだけではなくロシア全土、どこに行っても飢餓と病気でやせ細った人々で溢れかえっていた。
加えて、赤軍白軍を問わず、兵士たちによる無防備な一般市民、農民へのテロ行為 が日常茶飯事であった。
それに追い打ちをかけて、シベリアでは栄養失調と不衛生ゆえに腸チフスなど伝染病が蔓延しており、ほとんどの人々が恐ろしいシラミの攻撃に苛まされていた。

このような、史上最悪といっても過言ではない、酷い状況のシベリアであった。
そして、「侵略者」 米国人から、至れり尽くせりの手厚い保護を受けていた800人の子供たち。
親元を遠く離れた彼らが、そういう地獄に突然投げ出され、目を血走らせて襤褸をまとった赤軍兵士たちの手に落ちれば、一体どんな目に合うことか......
想像するだけでも、胸が痛むというものだ。 


モスクワ政府の支配地域では悪名高い秘密警察、チェカ ー(「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」 )の要員たちが厳しく目を光らせていた。
共産党の方針に沿わない、という毛筋ほどの疑いを持たれたら最後、相手が誰彼容赦なく逮捕、投獄、拷問、処刑を独自で行う権限が与えられていた。
「子供だから」、「老人、女性だから」、などという、つまらない抗弁は非情な彼らには一切通じなかった。
チェカーの手によって、老若男女を問わず極めて多数の人々が処断されていた。


当初は、パンを求め、無益な殺戮であった世界大戦を終わらせたいという大衆の切実な願いから出発したはずのロシア革命。
だが、それはいつしか、母なる大地を壮大な監獄に変貌せしめる悪魔の仕掛けに変わりつつあったのだ。


「ヤンキーの奴らはそういう単純な事も想像できないほど馬鹿なのか!」 と石坂少将は嘆息したかもしれない。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(15)

さらに次なる文書は、一番先の外務次官から陸軍次官宛の連絡文書への回答であり、陸軍省としては事の処理を米国赤十字からの要請の通りに行う旨を外務省に回答したものである。

(画像ファイルは全て、二度クリックするとズームアップします。)

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つまり、陸軍省では米国赤十字のウィリアムス大尉の申し入れの趣旨を忠実に浦塩派遣軍に伝え、 「 出来得ル限リノ便宜供与方 」 を現地軍へ電信指示することを承知したという回答である。

そして、それに続く文章は、浦塩派遣軍の参謀長宛に一連の事情を説明し、 「 貴軍守備管区内ノ鉄道輸送二際シテハ出来得ル限リノ便宜供与ヲル様取リ計ハレタシ、尚(なお)外務省ヨリモ松平政務部長二対シ同様二電報アリタル筈、 」 と締めくくって、ウィリアムス大尉からの申し入れ事項に対する派遣軍の協力体制を要請している。


なお、ここに登場する松平政務部長というのは、ウラジオストクの浦塩派遣軍司令部の要職であった政務部長  ( 文官 ) のポストに就いていた松平恒雄である。
彼は、その姓から推察できようが、幕末に官軍の総攻撃を受けて降伏した会津藩主にして京都守護職、松平容保公の六男であった。
この当時は辣腕の外交官として、国際色豊かなウラジオストク方面での日本政府及び浦塩派遣軍の外交責任者として赴任していたのである。

彼はライリー・アレンとも一定の信頼関係を築いていたことが米国側の記録に残されており、執筆者の仮説では、 「 陽明丸の謎 」 をめぐるキーパーソンの一人である。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(16)

パリ、東京、そして浦塩派遣軍司令部の間でやり取りされた、これら一連の文書の写し或いは要旨は、派遣軍の高級情報将校であった石坂少将の元にも職掌柄、届けられたものと見て良いだろう。

そして、その折の彼の反応を想像してみるのだが、
おそらくは、苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情だったのではないだろうか。
或いは、以下のように呟き、舌打ちしたかもしれない。
「無知なヤンキーどもめが。
今頃になって、トンチンカンなことを言い出しおって........」


まず第一に、このウィリアムス大尉なる人物が、5月初旬に在仏日本大使館に申し入れてきた事柄というのは、実現の見込みはほぼ無かったであろうと考えられる。
たしかに、この1920年早春のアレンの計画には、シベリア鉄道で米国赤十字の特別列車を仕立てて、子供たちを陸路、故郷に戻すことを視野に入れていた。
実際、その準備に着手した形跡もあるようだ。
だが、その計画は間もなく放棄された。

アレンたちが当初考えてていた目論見だが、まず世界大戦自体が終わったこと、そしてオムスクの白軍政権も崩壊したので、シベリアに出兵していた各国軍はそれ以上駐兵する大義名分を失い、当然撤兵するものと思っていた。
実際に、日本軍を除く米英仏など各国軍は全て6月頃までにシベリアからの撤兵を完了している。
ところが、アレンの思惑外れは、我が日本の想定外の行動であった。
日本のみは各国と歩調を合わさず、徹兵を先延ばしにし始めたのた。
日本は、日本なりの情勢判断があったのだが、長くなるので、ここでは省くことにしよう。


ところで、鉄道による長距離運輸というものは、当然ながら、鉄道区間を管理する当事者が単一であれ、複数であれ、戦争など異常な状態になく、平穏であることが大前提である。
その場合、できれば鉄道管理主体は単一であることが最も望ましいことは言うまでもない。
つまり、シベリア鉄道にあっては、白軍であろうが赤軍であろうが、或いは日本軍であろうが、いずれかが沿線地域や線路をしっかりとコントロールしていない限り、長距離列車の運行自体は不可能なのだ。

 
アレンたちは、日本軍も各国軍と歩調を合わせて、遠からずうちに撤兵すると思い込んでいたようだ。
そうすると、シベリア鉄道自体、いずれはモスクワ政府ないしは緩衝国家の全面管理となることだろう。
そうすれば、米国赤十字という人道救助国際団体の特別列車を通過させて、子供たちを無事故郷に 戻すことは可能と見ていたのだろう。
 

ところが、日本の浦塩派遣軍は米軍の撤兵を待っていたかのように、4月初めに革命軍に対する武装解除の軍事行動を突然開始した。
これは日本軍が得意とした、綿密に練られた作戦行動であり、それまで日本軍を舐めてかかっていた革命軍に不意打ちを食らわせたものだ。
その結果、ウラジオから沿海州各地に至る広範なエリアでの戦闘行動で、多数の敵兵の討伐、武装解除に成功し、大きな戦果を挙げた。

ウラジオ派遣軍としては、米軍が去ることで、当分はシベリアで孤軍奮闘することになるので、兵が少しでも多く残っているうちに、皇軍の実力を敵に知らしめておく必要あり、と判断したのであろう。
それと同時、日本軍のシベリアでの軍事行動にとかく厳しい目を向けていた米軍が撤兵したので、「これ幸い」とばかり占領地域の基盤強化もめざしたと判断される。
つまり、大日本帝国は 「外交と軍事行動」、この両方を遂行するに当っては、他者の思惑など気にかけないいフリーハンドである、という示威行動ではなかったか。

だが、その一方では、共同派兵各国からは「日本、シベリアに居座る、領有の野心ありや?」 との決定的な悪印象、疑惑を与えてしまったことは否めない。
何よりも、モスクワの共産党政府に、日本との全面的な軍事対決の覚悟を持たせ、大義名分を与えてしまったことだろう。
彼らが得意とした政治プロパガンダの術中にまんまと嵌ってしまった、とも言えるかもしれない。
 

以上のような状況であったので、ウラジオからヨーロッパロシアまでの大シベリア鉄道は、文字どおり細切れのカオス状態であり、ウィリアムズ大尉の申し入れ自体は、実現性のない絵に描いた餅に過ぎなかった。

また、もし仮に、そのような特別列車が仕立てられて、一旦赤軍側の支配地区に入ったらどうなっていたか。
まず、武装兵たちに十重二十重に取り囲まれ、付き添いの米国人一行は全て拘束されたであろう。
800人の児童たちは、保護されるどころか、臨時収容所に連行され、連日の厳しい尋問が始まっていただろう。
彼らが、もし成人であったのなら、良くても労働収容所送り、たとえ全員が銃殺になっていても全然不思議ではなかっただろう。

何しろ、当時1920年春頃といえば、共産党の指導者たちは、革命ロシアに次々と襲いかかる危機的な状況と必死になって戦っていた頃である。
たしかに、オムスクのコルチャーク白軍政権は打倒したが、東シベリア、特に沿海州ではまだ強力な日本軍が居座っていた。
ロシア西方ではポーランドやウクライナとの激しい戦争に突入していた。
ロシア国内の経済状態は最悪で、破滅的とも言えるものであった。

慢性的に続いていた酷い飢餓状態も、戦時共産主義という過酷な手段により、飢餓寸前の農民から奪うようにして取り上げた食料を都市住民に配ることで、かろうじて破滅を逃れてた。
シベリアだけではなく、ロシア国内ではどこに行っても飢餓と病気でやせ細った人々で溢れかえっていた。
それに加えて激しい内戦により、白軍赤軍による無防備な一般市民、農民へのテロ行為が日常化していた。

それらに追い打ちをかけて、シベリアでは腸チフスなど多くの疫病が蔓延しており、ほとんどの人々が恐ろしいシラミの攻撃に悩まされていた。

このような、最悪といっても過言でなはない、酷い状況であったシベリアなのだ。
そういう地獄に近い状況で、それまで米国人から手厚く保護されていた800人の子供たちが、目を血走らせていた赤軍兵士たちに 「解放」されるとしたら、一体どんな目に合うか。

「ヤンキーの奴らはそういう単純な事も想像できないのか!」、と石坂少将は吐き捨てるように、呟いたのではないだろうか。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(14)


では、次に下記の古文書に注目していただきたい。


陽明丸の大航海がそれなりの必然性を帯びていた理由が、これによりある程度ご理解いただけるかもしれない。
これらは、政府で保管されているシベリア出兵関連の公文書の一部(コピー)である。

 (画像ファイルは全て、二度クリックするとズームアップします。)
 
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形式上は当時の外務次官から陸軍次官宛てとなっている。
要するに関係省庁にまたがる、役人の重要文書を回覧する体裁のひとつと考えてよいだろう。

その内容であるが、
まず、在仏日本大使館から東京の外務省への或る至急電文に基づくものから始まっている。
大正9年5月というのは、米国赤十字のアレンが子供たちを連れてウラジオストクを無事に脱出しようと焦り、その方法について必死に模索していた頃だ。

この文書のタイトルを現代風にわかりやすく直すと、 「 在ウラジオストクの米国赤十字保護下の露国小児をリガ( バルト三国の一つ、ラトビアの首都 )へ送還方問い合わせに関する件 」 である。

そして文章の大意は、5月6日に在フランス米国赤十字輸送部長のウィリアムス大尉なる人物が、パリの日本大使館を訪れ、「 ウラジオストクで保護されているロシア子供難民たち約800名をシベリア鉄道経由でヨーロッパ方面、具体的には在リガ米国赤十字 ( 支部 ) にできるだけ速やかに、陸路送還したい。
そのための客車調達の費用など一切は米国赤十字が負担する。
そのための支援人員もパリより70名を派遣しようと思うが、問題はシベリア鉄道の正常な運行にかかっている。
つまり、( 白軍赤軍の戦闘の余波がまだ続いており ) それには日本軍の鉄道沿線治安警備の如何にかかっているだろうし、( 当然ながら )  その許可が必要であろうと思料する。
故に、この件での打診を貴職を通じて要請したい。 」 云々という申し入れのようだ。

これに対して、在パリ日本大使館の担当官は、当然ながらイエス・ノーを即答できず、 「 それについては、在ウラジオストクの米国赤十字 ( つまり、アレンたちシベリア方面チーム ) と日本軍憲 ( つまり、シベリア現地派遣軍 ) との間で交渉する他はない、と思料する。
だが、この申し出は(つまり、重要案件として処理する故) 東京の外務省に報告し、本省から在ウラジオの軍憲に通報することになるであろう。」  と先方に回答したというものだ。


そして、次の文書が、このやり取りの元になった、在フランス日本大使館の松井大使から本省の内田外務大臣宛の電信文である。


DSCN1405DSCN1406 
























































 
日付は同年5月9日付、パリ発。
内容は先の文書内容と同一であるが、要は在パリ大使館はこの一件に関して云えば、並々ならぬ重要性を認識していたということになろう。
それほど日を経ない間に、大使から本省外務大臣に電信による連絡がなされているからだ。


これら一連の古文書は、陽明丸の子供たち、つまりペトログラードから流れてきた800人の児童難民たちのことが日本政府及び軍当局にて言及されている、今のところ唯一の公文書である。


ところで、前に述べたように、これらの情報はハルビン特務機関トップであった石坂少将も職権上、共有していたと見てよいだろう。


そこで、我々としては、日露米それぞれの内部事情を知悉していたであろう熟練情報将校であった彼が、これをどのように情報分析したであろうかが、まず気にかかるのだ。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(13)

茅原基治の船長としての実務能力の高さは、幾多の困難を乗り越えて無事達成された陽明丸の大航海を見ても明らかだ。
では、この非常に特殊な状況下で行われた航海だが、船長としての能力が高い者は誰でも達成できたのか?という問いに対しては、ハッキリと 「否」 と言いたい。


他にも、様々の優れた資質が備わっていた彼、茅原基治という人物だけが、やり遂げられたであろうと確信するのだ。
それが、我々がこの事蹟について掘り下げた数々の調査の結論である。

おそらく当時、他にも実務能力が優れた遠洋航路の日本人船長は少なからず居たに違いない。
だが、それだけでこの特別ミッションを達成できたか、というと大いに疑問だ。


前に述べたように、相当に複雑な政治的軍事的背景のある事案であり、非常に厄介な「積み荷」であり、しかも日本人を快く思わない米国人一行が傭船者として乗り込んで常に厳しい目を光らせていた。
二つの大洋を越える長旅であり、目的地の近海には大戦時の機雷がまだ多数残留していた。 
肝心の船は、貨物船を無理やり突貫工事で改造した、欠陥だらけの臨時 「客船」 であった。
乗組員は貨物船の船員で、客船サービスの経験はほぼゼロか、それに近かったと見て良い。


これだけ重なる悪条件をカバーするため、船長には船舶指揮能力以外の幾つかの要素がどうしても必要であったと考えるのだ。
では、その要素とは何かというと、
まず第一には、この特別ミッションの成功、不成功が日本の国益に直結しているという自覚であり、使命感であろう。
この困難極まる航海はたとえ上手くいっても、形式上は民間契約であり、且つ隠密行動に近いものだから、国から勲章一つもらえるものではない。
一方、米国赤十字は傭船者だが、日本に対しては何かにつけて批判的で、航海が上手くいっても当たり前としか思わなかった。
だが、いったん致命的な事故、特に機雷による爆沈など起きれば、想像を絶するほど大変なことになるのだ。
そこまでゆかなくとも、船内で揉め事が起きて、航海が頓挫するだけでも、ただでは済まないであろう。
いずれにせよ、請け負った勝田汽船の責任だけでは済まず、日本政府、日本国民にまで大迷惑をかけてしまうことになる。

その辺りの複雑な背景と、事の重要性は、親族同士であった石坂少将と茅原船長であった故にこそ、腹を割って話せるものではなかったか。
「基治、この航海はお前にしかできない。 だが失敗は許されない。 いざとなったら腹を切る覚悟でやってもらいたい。 だが、その時は俺も腹を切る。」
などと因果を含めて説得したかもしれない。


そして、茅原基治の、現場から叩き上げの苦労人キャリアも、このような特殊な航海には大いにプラス要因であったことだろう。
現場を隅々まで熟知し、部下の船員たちの心を目的に向かって一つにしなければならなかった。
この航海のような 「ストレスのデパート」 のような特殊環境下では、商船学校出の頭でっかちな船長では到底務まらなかったことだろう。

そして、執筆者としては、もしこの大航海に石坂少将が関与し、茅原基治が特に選ばれた理由としては、さらに別の要素に着目したのでは、と思うのだ。
それは、茅原船長の思想的な傾向である。


船長は、我々の調査では若い時分から、船舶業務における旧弊打破、不当に搾取されていた下級船員たちの待遇改善運動にも熱心に取り組んでいたようだ。
それ故に、下級船員たちからは慕われていたし、また実務能力が極めて高いことにも定評があったので、船主たちからも一目置かれていた。
勝田銀次郎もその一人であったことだろう。 
当時発行された高級船員の紳士録では、彼は「新思潮に関する月刊雑誌を愛読」 していると紹介されている。

要するに、考え方が常に前向きで理性を重んじるとともに、船乗り仲間、特に下級船員の待遇向上にも目を配る社会活動家の一面があったわけだ。
それ故の帰結であろう、昭和初期の1928年、日本で初めて行われた普通選挙では、居住していた大阪の府会議員選挙に出馬していたことが判明している。
所属政党は、当時の無産政党、社会民衆党である。
その多方が保守系政党であった戦前日本では、異色の社会主義(右派)系の政党であり、ここに彼が在籍していたことに注目したい。

下記の選挙用ポスターは、執筆者がインターネット上で見つけたものだ。
1928年当時、同時に行われた大阪市議会選挙での、社会民衆党の演説会用のものである。
ここでは読めないが、下部にごく小さな文字で、このポスターの法定発行人として、茅原基治の名前が記されているものだ。
応援演説者の一人に日本海員組合関係者の名があり、茅原基治もおそらくは同組合を基盤に活動していたものであろう。

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この選挙では、彼は惜しくも落選しており、政治家としての茅原基治は誕生していなかったわけだ。

加えて、この普通選挙法と抱き合わせて法制化された、悪名高い治安維持法により、主として共産主義者や無政府主義者が大弾圧されたのだが、彼のような無産政党関係者も当局に当然マークされたに違いない。
茅原一族の或る方の話では、どうも船長はその頃から思想警察関係者から目をつけられていたらしいのだ。
さもありなん、と思う。
だから、船長手記の執筆/公開もその延長上で捉える必要があると我々は見るのだ。


執筆者は、このような思想的傾向のある茅原船長ゆえに、当時は進歩的合理主義が主流であった米国人、そして国籍上は赤色ロシアの市民であった露国児童たちへの理解と配慮が可能であったと思うのだ。
基本的に、彼らは権利意識の高い欧米人であり、 日本や中国など東洋人とは扱いを異にする必要があったはずだ。
 
何ごとも細心の気配りをしたであろう石坂少将は、陽明丸の乗客たちと乗員のこのような思想的なバランス、相性も考慮したのではないだろうか。
摩擦は必然的に起こるにせよ、決裂に至ることなく最小限に留める必要があった。 
そして、この摩擦は航海中、実際に起きている。(米露対日本、或いは米対露など様々に変化しながら) 
欧米と革命ロシアの思想的動向をリアルタイムで熟知していた石坂少将であろうから、そのような懸念は当然持ったであろう。


そして、さらに付け加えなければならないのは、船長自身の赤十字活動への深い理解である。
以前に、船長手記の唯一の現品を所蔵する金光図書館の館長から直接お伺いした話に、その鍵があることを実感した。

郷里岡山県の金光中学校を卒業した茅原船長は、律儀にも毎年欠かさず、恩師であった佐藤範雄校長に年賀状を出し続けている。
この佐藤校長は優れた教育者のみならず、戦前の金光教における傑出した指導者の一人でもあった。
そして、明治前期には日本赤十字運動にも共鳴し、赤十字社の地元エリアの指導者にもなっていたようだ。

上記の図書館長のお話によれば、佐藤師は石坂惟寛とも親交があったらしく、それは惟寛が地元出身で中央の名士であったことからも頷ける。
おそらくは、佐藤師が赤十字活動に入った契機も、石坂軍医総監からの強い勧めによるものではなかったか。
そうであれば、自然に納得できる話だ。


そして、それは同時に、我々が唱えている仮説、つまり陽明丸事跡における茅原船長と石坂惟寛、そして石坂少将の線上での結びつきを補強するものとなる。


結論的に言えば、茅原船長は、思想的にも、赤十字社の活動への理解度においても、こと陽明丸航海に関する限りは、並みの船長よりはずっと適合性があった、いうことになる。
そして、この点を石坂少将が重視し、あの困難極まる大航海を失敗させず成功に導いたポイントであると確信するのだ。
 

茅原船長が、恩師であった佐藤師に手記を贈呈した時の手紙の現物を図書館長から見せていただいた。
文面は当たり障りのないものであったが、執筆者はこれは思想警察が職権で見ることを用心していたからであろう、と推察する。

そして、茅原船長が恩師にこの時最も伝えたかったメッセージは、「先生にお教えいただいた、赤十字の尊い精神による或る国際人道救助に、私も微力ながら関わりました。
それを是非知っていただきたかったので、この手記を敬愛する先生にお贈りいたします。」 ということではなかったか。


人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(12)

さて、陽明丸の事蹟に日本軍当局が関与していたと見る仮説の状況証拠については、いろいろ採集してきたつもりだが、まずこれはどうか。


昭和9年元旦に年賀状代わりに、船長がごく近しい身内や友人に配布したという手記 「赤色革命余話 露西亜小児團輸送記」。
この船長手記の冒頭近くに、以下のような記述がある。


「 陽明丸が(ウラジオストク港に)入港すると、我が警備艦肥前から何か頻りに手旗で信號して居たが、投錨するや否や、一團の水兵がボートで漕ぎ着けた。」
この文章の後に、この海軍水兵の一隊と陽明丸の乗組員らがすぐ打ち解けた旨の描写が続く。

軍事方面には疎い後世の我々が何気なく読むと、この下りには特にひっかかるものを感ずることなく、素通りすることだろう。
だが、注意深く考察すると、執筆者の印象では、これはどう見ても 「警備艦肥前」 が陽明丸の到着を事前に知らされ、待ち受けていたとしか思えない。

この「 警備艦肥前 」 というのは、元々ロシア海軍の戦艦であり、「レトヴィザン」という艦名だった。
日露戦争では、旅順港や黄海海戦で日本軍との間で激しい砲撃を交わして勇戦している。
戦後は、勝者となった日本軍に接収され、修理改装の後に日本海軍一等戦艦 「肥前 」 として生まれ変わった。

「 警備艦 」 というと、どちらかいうと小型艦を連想しがちだが、この船は排水量12,700トンの大きな軍艦だった。
第一次世界大戦にも活躍し、アメリカ西海岸やメキシコ方面にも遠征している。
その後、シベリア出兵に動員され、ウラジオストク市の海防の要として、湾内に停泊して周囲に睨みをきかせていた。
船長手記には、「少将旗を高く掲げて」 いた云々の記述もあり、シベリア出兵当時の海軍派遣部隊司令官の旗艦でもあったのだろう。

そのような、ウラジオストク港を警備する要の軍艦が到着を待ち受けていて、陽明丸が「投錨するや否や」、水兵の一隊が臨検に訪れるというのは尋常なシチュエーションと言えるだろうか。
同港を訪れる船舶に対して、いちいち水兵の一隊をボートで差し向けていたとは、とても考えられない。
しかも相手が軍艦ならともかく、陽明丸は単なる一民間船に過ぎなかったはず。
これは考えてみると、妙ではないだろうか。
むしろこれは、浦塩派遣軍司令部から事前に連絡を受けていた海軍側が、陽明丸の到着に際して入港を確認するため、水兵を差し向けたと見るのが妥当ではないだろうか。
 

そして、船長手記では、次のような陸軍側対応の描写も続く。

「一日、訪問を受けた某参謀大尉に」  云々と文章が続くものだが、大方の読者は特に気に留めないことだろう。
だが、考えてみると、これも不思議なことではないだろうか。

海軍だけではなく、陸軍も将校を差し向けて、陽明丸の到着をチェックさせているわけだ。
しかも、単なる警備隊の指揮官ではなく、浦塩派遣軍司令部付と思われる幹部将校、参謀飾緒を吊るした大尉である。
警備隊の指揮官将校であれば、単なるルーティンとしてのチェックということもあり得ただろう。
だが、軍艦でもない一民間船の出入りに、派遣軍司令部の参謀が一々訪れるという暁鐘(ぎょうしょう)しい事は極めて考えにくい。


以上、船長自身による、手記の上でのさりげない描写ではある。
だが、執筆者にはこれらの描写からは、浦塩派遣軍当局が陽明丸の特別ミッションに関与していたことを匂わせること以外、考えられない。
「 関与していた」 と軽々に断定すると、お叱りを受けるかもしれない。
だが、少なくとも多大な関心を寄せて、 「関知」 していたことだけは確かであろう。


では、もしそうであれば、いっそのこと茅原船長が 「 この航海には日本軍が関与していた」 な どと、はっきり書けばよかったのに、と 反論されるかもしれない。
たしかに、その方が論旨が直截的でわかりやすい。

だが、それには当然、書けない理由があったからだろう、と応えるしかない。
一口で言えば、用心深い茅原船長の防御策であろうと推測する。
これが正規な出版物であれば、出版法に基づき、当時は内務省への届出・献本が必要であった。
そうなれば例えば、 陸軍諜報将校が関与して昭和当時には仮想敵国であった米露の人々を助けた、などと書けば検閲にひっかかり、相当にまずいことになったであろう。
親英米または親露を片鱗でも表明することは、軍部主流や右翼運動が主導していた国策に反するもので、「国賊」の烙印を押されかねなかった。

何せこの手記発行の三年前には満州事変が起きており、軍部の暴走は既に始まっていた。
二年後には2.26事件も起きており、大正期までかろうじて回っていた議会政治が終焉期を迎えていた。
そして、勝田銀次郎、トイスラー博士、石坂中将などがまだ存命の頃であった。
下手をすれば、これらの人々も巻き込んでしまう恐れがあり、十分に注意を払う必要があった。
また、もし陽明丸事蹟に宇垣一成大将まで関与していたとすれば、当時クーデター未遂事件 「三月事件」が原因で陸軍大臣を辞め、朝鮮総督に就いていた彼の足まで引っ張る恐れもあったことだろう。
国粋主義に染まりつつあった陸軍首脳の中にあっても、大正期風の合理主義者であり続けた宇垣は、宇垣なりに暗雲の立ち込めた日本を危惧していた。


それ故に、さらに用心して、船長は内務省への手続きを必要としない 「年賀状代わり」の私的文書の体裁にしたのだろうと推察する。
現代とは異なり、「 言論の自由」 などあり得なかった昭和前期である。
迂闊な事を書くと特高警察や憲兵隊に引っぱられることも覚悟しなければならなかった。
また、軍部急進派と結託した行動右翼のテロを受ける恐れもあった。


このような時代背景で書かれた手記だが、船長は何故そうまでリスクを犯してでも、手記を残そうとしたのか不審に思われるかもしれない。
その理由だが、自らが加わったこの国籍を超えた人道救助の記録を、後世の我々に残しておかねば、と強い使命感に駆られていたからではないだろうか。
それが、世をあげて偏狭な国粋主義に憑かれて迷走する暗い世相への、船長の精一杯の抗議ではなかったのだろうか。

そして、船長は軍関係者の関与があったことを、この手記でそれとなく仄めかしているような気がする。
それが、意識的にせよ、無意識であったにせよ...

 
01













ロシア海軍時代の「肥前」
(戦艦 「 レトヴィザン」 )

Seven riddles of Yomei-maru , the Ark of Humanity Ⅰ-③

To our foreign friends.


Then we found the certificate of appreciation on the other page, from Riley Allen representing the ARC to Captain Kayahara.
Mr.Allen was introduced as the commander of ARC Siberian team, who was directly responsible for the series of the rescue operation, and as the most contributed man for the task.

11 12 14





























It was a really touching letter.
Above all, it was reflecting the extraordinary, noble character of the sender, Mr. Allen.

Once if you glance at this, you would easily understand how much did the whole passengers, not only Mr. Allen and ARC officials, but also the 800 small refugees and even the returning prisoners of war showed their deep gratitude and friendship toward the Yomei-maru crewmen.

I wish you would kindly understand the point I am telling.
There was specifically no mention about this letter in those two US books.
That would be OKay, yes. 
But, at any rate, they never mentioned their readers about such a emotional or rather sentimental aspect between the passengers and crew.
" It was just the business matter, no more than that, no less too." 
They simply believed so themselves, possibly....
Or they might have been just indifferent toward the sentimental relationship between both sides.

On the contrary, one writer thought that it was his divine duty to describe how bad was the
relationship between both sides, especially he persistently wrote how strange or even evil the Japanese Captain and his men behaved on the ship....


However, I am afraid that only presenting those facts above just shows after all how did those four great men ( Mr. Allen, Dr.Teusler, Cap.Kayahara, Mr. Katsuda)
 contribute in each way cooperating wisely together. 
Or it might be regarded merely as one of the international heartwarming stories, that happned anywhere in the world for centuries.......


By the way, on the other hand we Japanese side which has been following this Yomei-maru incident for nearly six years is getting to reach the quite different landing point.

We are getting to believe that there were some more complicated circumstances in the background of the Yomei-maru's voyage.
And those circumstances have been hidden for the purpose, and had to be so, we guess.

In addition, we think that we are discovering a figure who is supposed to be a man, who manipulated the adventurous voyage from the beginning to the end behind the scenes, wrote its scenario, then controled it by himself....

I will gradually introduce this shadow man to you, and will mention the concrete basis from the next chapter.










Seven riddles of Yomei-maru , the Ark of Humanity Ⅰ-②

To our foreign friends.


We would never forget the heart-beating excitement at the moment when we opened the first page of our Captain's memoir.

It was the day,  soon after the discovery of his identity and the memoir too in the summer of 2011.
The mild sunlight was soothing me, and I felt as though the soul of the Captain was tenderly appreciating our patient effort for two years.

The first thing that shook my heart was the vertical calligraphy letters by Katsuda Ginjiro on the first page, simply consisted of four profound Chinese characters,
敬天愛人 (Kei Ten Ai Jin).

"Respect the Heaven. Love the people."

With the noble and artistically-arranged flowing calligraphy letters.
That must reflect the excellent character of the calligrapher himself.
So confident were we.

Then, we saw his poet name as Tokuzan 得山 elegantly arranged beside the letters.
The reason why we were impressed so deep to see it, is following.


Katsuda pleasantly accepted the emergent request for the US rescue operation with the chivalrous spirit, in order to help the 800 Russian children who had been wandering across
Siberia, too far away from their parents due to the civil war.

Moreover, it became known for the first time by the memoir of the Captain, that Katsuda privately spent considerably a large sum of the money for the difficult voyage.

It was only for the poor children who were desperately dreaming the day to come back home, safely back to their beloved parents in Petersburg.

Seven riddles of Yomei-maru , the Ark of Humanity Ⅰ-①

To our foreign friends.

Well.... as for the research on specifying Capt. Kayahara, it appeared utterly impossible in 2009.
However, we 'Yomei-maru Holmes & Watson team' fortunately managed to achieve that, as you now know its process.
And as you see, we were able to obtain another big harvest which we had never expected even to see, when we began our difficult task.
It is the private memoir by Captain himself, 
" Extra episodes of  Red Revolution, the report of transporting Russian children "
It was issued in 1934 only for the limited people, especially to some close relatives or close  friends of the captain in those days.  
It was early Showa-era,  only three years before the start 
of Second Sino-Japanese War.

I sincerely would like to beg our foreign friends understand that he needed considerable bravery for the issue of this memoir.
Though it was pretended to be private for defending, not public.
Because in those days, the dark shadow of the militarism was beginning to wrap our country.

They thought that  those two countries were getting to be the main obstacles for the territorial development of the Greater Japanese Empire, and that means those two were exactly the hostile countries.
And in such a politically sensitive situation, any expression like this, boldly confessing that he and his sailors once helped Russian children and US officials with their ship, would have easily turned the suspicious eyes to him from the violent right wing activists and the notorious Thought Police.

Then, if so, why did he dare to do it?
You would naturally wonder so, yes, I can easily imagine.
I will give you my own opinion for the question soon, but not now. 


Then,more than 30 years later, two books of the related motif were published in the United States.
But being quite different from those two American books, as to the author of this memoir, he was one of the major members who actually joined to the historical incident, and I am sure that we can find the great meaning there.

Those two books published in the United States, were based on the documents detailed in the rescue operation of the Ural children refugees, and to be accurate, they were not written directly by the members of those days.

These contents were composed by the American writers some decades later after the incident, on the basis of fragmentary records or documents of American Red Cross officials in connection.

Among them, any materials from the Japanese side had not be included. 
And yes, it was quite natural, because around the time of the publication, it was thought that any material of the Japanese side did NEVER EXIST.
Yes, there were some unavoidable circumstances for that.

The description of Yomei-maru itself is as if it was like the taxi that arrived, as it was simply called, and as for the description of the captain and the crew are difficult to say friendly.
Our Captain in one of the books (issued in the 1960s) has been portrayed as though an incompetent weirdo, sailors also close to the rogues, and it was terribly unfair description, I must say. 

As the context in which some ethnic distrust toward Japan is remarked everywhere in the book, we only regret to guess that possibly the American author held such a one-way viewpoint toward Japan and our people.....

We would like to tell the author that we have an old proverb " Dead men tell no tales" or " Hares may pull dead lions by the beards"....

In this connection, the discovery of captain's memoir has not only the important historical value for the research of Yomei-maru Incident, but also it provides us with the proofs that helps to restore the honor of the captain and the sailors who had been unfairly portrayed in the book.

English translation of the leaflet published by our NPO

To our foreign friends.

English translation of the leaflet published by our NPO last year.

陽明丸 翻訳対応リーフ写真 001
 
 
 





















陽明丸 翻訳対応リーフ写真 002































Welcome to Yomei—maru!

My name is Kayahara, the captain of this ship.

Now we are sailing for your hometown, and it will be long journey across two oceans.

But, we will be good companions while the ship is on the voyage.

Let's make a comfortable ship-journey together!

 

 

Youmei-maru's wake that shows the love and chivalrous spirit transcending nation's border.


● Memorandum written by the captain for one of the Russian children in the ship.

●   Yomei-maru, when she arrived at port New York.

●   Cover of the memoirs by the captain.

       The title, "The memory of escorting voyage for the group of Russian children"

  

What is the " Yomei-maru, The Ship of Humanity"?

 

The untold history of the international humanitarian rescue activity achieved by US-Japan joint operation in Taisho era.

 

About a century ago, Russian people was in the miserable situation, trapped in the chaotic situation due to the World War , (continuously happened) Revolutions and Civil war.

Then, we must mention about 800 children who had peacefully lived in the capital, Pertograd, but they were protectively sent to Ural by the parents due to the serious food-supply problem in the capital caused by the compound emergent situation..

 

However,  one day soon after their settlement at Ural,  those children unfortunately got involved with the fierce civil war at the areas they were brought in, were trapped between two political sides (so called, Red verses While), inevitably isolated as the result without any effective protection and supporting. 

Then, the severe General Winter of Russia was approaching toward them step by step, beginning to scare with the terror of death by starvation and cold.

 

It was the team of the Siberian Commission of American Red Cross, lead by Dr. Rudolf Teusler, that could manage to find and rescue them with very narrow escape shortly before the tragic catastrophe. 

Then, after some months refreshing and nourishing, those rescued children were escorted toVladivostok, which was at that time thought to be much safer than Ural. (where the severe battle was going on between two political sides)

 

However, ( by the rapid change of the political and military situation),Vladivostok also got to be no more safe, and was getting to be dangerous place with the heightening risk of the fierce battle by both sides.( the presence of Imperial Japanese Army which was occupying some areas of Russian Far East supporting the White side, made the things tremendously complicated.)

In such a worsening situation around them, it was Mr. Riley Allen who was deeply anxious about the safety and future of the rescued Russian children.

He had succeeded the post of the chief of the Siberian Commission from Dr. Teusler, who had to return to Tokyo for his own important hospital works.)

 

After the careful consideration, he finally made an important  decision.

To have the children get on a ship, making a long voyage to their back home around the world.

However, this plan was not easily accepted by the people in connection including USgovernment itself, being accompanied with various complicated problems.

Therefore, soon he faced the serious difficulty to charter the ship for the transportation.
(But as he felt that they did not much time left, that made him irritated)

Then, only one Japanese ship company appeared, (introduced by Dr. Teusler in Tokyo) and accepted the difficult request.

It was Mr. Ginjiro Katsuda who as the president, pleasantly offered the cooperation. ( despite that the task was very risky for his company.)

The name of the cargo ship was Yomei-maru.

 
Almost 1000 persons consisting of crews and passengers including returning-home war prisoners did their best to cooperate each other for the great voyage transcending the nationalities.

The ship went across two oceans, safely passed the dangerous North Sea where many mines were still drifting.

They arrived at Finland, then at last could come back home.

Around two years and some months had passed since they left for Ural.

 

Well, as for this ship Yomei-maru, despite that she achieved such a great contribution to the Mr. Allen's large-scaled final operation, afterward she had been completely left in the darkness of history for a century.( been kept only in the memory of the rescued Russian children, then their descendents too)

 

Then, when our NPO president Ms. Nan-en Kitamuro held her art exhibition in Saint. Petersburg in 2009, she was eagerly asked to search about the captain, about his later life and the dependents, by Ms. Olga Molkina who visited her exhibition.

Ms. Kitamuro's energetic searching activity began, as soon as she returned to Japan.

Then, after the patient effort of two years for the difficult task, she could finally attain the promised task by discovering the identification of the captain, with his detailed personal information.

The captain's name was Motoji Kayahara, born in old family of Kasaoka city in Okayamaprefecture. His relatives who knew the captain were still alive.

 

Her another important discovery was a note privately published by the captain.

( it was written as  his memoir concerning the great voyage, and as the contents, so many interesting matters are written in detail observed from the point of view of the Japanese captain with deeply affectionate feeling.)

 

In 2011, Ms. Molkina made her first visit to Japan, and Ms. Kitamuro took her to Kasaoka city where a solemn memorial service for the late captain took place.

 

In 2013, our NPO invited Ms. Molkina to Japan in order to hold the first memorial events for the Yomei-maru Incident in Nomi city where our NPO'S head office is placed.

 

In 2014, we are going to hold the second memorial events, and this time, (not only Ms. Molkina, but also) from USA, professor Adele Lindenmeyr, who has been researching this unique historical incident, is expected to join our events.

 

 

 

Several tens degree below zero.

   Severe winter in Russia...

 

800 small children wandering (in the Ural), too far way from their beloved parents....

In the threatening danger of the death by starvation and cold.

 

Four men, who finally rescued them by the tight US-Japan joint-operation, bringing them back to their hometown after the great voyage of around the world.

 

Now, the secret history of their unselfish, chivalrous deed is getting to be unveiled at last...

 

●Dr. Rudolf Teusler, founder of Saint Luke's International Hospital of Tokyo, commanding officer of American Red Cross Siberian Commission. (Allen's  predecessor)

 

●Motoji Kayahara, captain of Yomei-maru, born in the old family in Kasaoka city, Okayama prefecture.

 

●Riley Allen, journalist came from Hawaii, commanding officer of American Red Cross Siberian Commission.

 

●Ginjiro Katsuda, president of Katsuda Shipping Co., ex-Mayor of Kobe city.

 

 

  Children who managed to escape from the terrible disaster of the bloody Civil War...

Yomei-maru was a peaceful paradise, as it were Noah's Ark for them, enjoyable even though it was a brief time. 

 Crew members of Yomei-maru

 

   

Various honoring activities that Ms. Kitamuro and our NPO members have been promoting

 

● Asked by Ms. Molkina, the search of the captain. (2009 Saint. Petersburg)

 

●The first memorial ceremony of Yomie-maru Incident held by our NPO (2013 Nomi city, Ishikawa prefecture)

 

● Getting interview at Japan National Press Club (2013 Tokyo)

 

Asked by Ms. Molkina, the search of the captain. (2009 Saint. Petersburg)

 

●The first memorial ceremony of Yomei-maru Incident held by our NPO (2013 Nomi city, Ishikawa prefecture)

 

   

Why can’t we do it today ?

      Living in such a peaceful world.

      THEY did it one century ago!  

      At the severe time of the World War.

      We will keep questioning it to the world. 

 

 

    Dr.Teusler’s Memorial House (Tokyo)

 

●Calligraphy article by Ginjiro Katsuda,

      " To respect Heaven (God), To love people"

● Letter of appreciation by Mr. Allen to the captain.

   

 

●Ms, Olga Molkina, president, the society of Descendants of Refugee Children of Ural

 

● Ms. Nan-en Kitamuro, president, Non-Profit Organization: Honoring Association of Yomei-maru, The Ark of Humanity

   

●Professor Adele Lindenmeyr,  Villanova University (History)

 

 

About our NPO

 

It was the first stage of 20th century, there were about 800 children who were unfortunately left in Siberia due to the severe Civil War caused by the confusing situation of Russian Revolution.

Then, a Japanese ship appeared to rescue them, made them get on her, made a great voyage around the world, finally bring them back to their parents.

 

Our NPO was established in order to research and honor this historical incident, then to pass this untold fact down to our younger generations, based on the international exchange mainly by JapanRussia and USA.

We think that there is a profound and universal significance in this incident, and we think that it would be our duty to make our people to recognize again that once we had wonderful ancestors like them who could naturally express both of their spirit of international solidarity and chivalry, through this wonderful history.

 

We only hope that we can get new members who can support the promotion of this grand mission.

We only hope that someday we will pluck the ripen fruits (international goodwill, cultural exchange etc) together.

We only hope from our genuine heart that you would give us the help. 

 

Non-Profit Organization:

Honoring Association of Yomei-maru, The Ark of Humanity

******************************************************************

Exhibition room annexed to the head office of our NPO.

 We exhibit articles including the bag once belonged to the captain, and the photo of his later years etc

 

link: (homepage) Tenkoku Art by Nan-en Kitamuro

   (blog)  Yomei-maru, The Ark of Humanity

      (you tube) press release interview at Japan National Press Club



 


人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(11)

アガサ・クリスティの最高傑作の一つに 「オリエント急行殺人事件」 という推理小説がある。
ベルギー人の名探偵、エルキュール・ポワロがオリエント急行列車内で起きた殺人事件の謎解きに挑戦したものだ。

或る米国人富豪が一等車両内で殺された。

当然、殺人事件だが、状況から外部からの殺人者ということは考え難く、ポワロは乗り合わせた他の一等乗客たち12人の誰かの犯行だろう、と目星をつけた。
だが、これら全員の申し立てによって、彼らには皆完璧なアリバイが成立することが明らかになった。
また、彼らは貴族や外交官など立派な市民ばかりで、富豪を殺すような凶暴な動機も考えつかない。
天才ポワロの懸命な推理でも解明できず、事件は迷宮入りかと思われた。

だが、最終局面で意外な真相が明らかになった。
彼ら12名全員が共謀して富豪を殺したものだった。
動機は、富豪がかつて犯した殺人事件の被害者女性のための復讐であった。
つまり、全員が結託して、互いのアリバイを証言したのであった。
そして、彼らの国籍も米英露伊ハンガリー・スウェーデンとバラバラであり、よもや全員が共謀しているとは普通は考えつかない。
これらの人々が乗り合わせたのは、単に偶然であったと誰しも考えてしまうだろう。
ポワロは以上の真相を突きとめて、事件の謎がやっと解かれたというストーリーである。


だが、このストーリー構成にどことなく似ているのが、我らの陽明丸の事案ではないだろうか。
この事跡の表舞台に登場する紳士たちを見る限り、何か特別なことを陰で企図するような者などいない、と誰しも考えるであろう。
だが、裏で見え隠れする石坂中将の存在を結びつけると、印象が俄然異なってくる。

つまり、一連の主要な関係者である茅原基治、勝田銀次郎、ルドルフ・トイスラー、ライリー・アレン、そして我々が「主犯」として目星をつけている石坂中将、
これら全ての登場人物が示し合わせたかのように、妙に沈黙を保っているように思えるからだ。
現在では、当然ながらこれらの人々は全て故人であり、今さら告白を聞くこともできない。

だが、この事跡を精査してゆけばゆくほど、この沈黙は故意に示し合わせたもの、との印象が強まってゆくばかりである。
つまり、彼らはこの件に関しては、沈黙することが一番良いのだという結論を共有していた、ということになる。
それを履行するため、墓場まで秘密を持っていった、ということになる。


そして、いつしか歳月が流れた。
6年前に、ペテルブルクでのオルガ・モルキナと北室南苑理事長の遭遇により、陽明丸の事跡が日本にも初めて知らされた。
我々の調査が開始され、事跡の全容が少しづつ明らかになってきた。
当初は我々も、ロシアや米国サイドの見解と同じで、一見ただの国際的な美談と位置づけていた。

だが、いろいろと丹念に掘り起こしていくと、どうもそれだけではない、という考えに傾きはじめた。
今では、この陽明丸大航海の背景には、米国もロシアも知らない、実に複雑なエレメントが存在していたことを、ほぼ確信している。

これは、平坦なただの地面を何気なく掘り起こしたら、土器やら化石やらが次々と出てきたような驚きに近いものかもしれない。
ここ数年間かけて「採取」 してきた、それら発掘物を整理して、これから少しづつ提示してゆきたい。
だが、これらは彼ら全員が共犯である、という仮説を立証する直接証拠ではない。
ただ、限りなく状況証拠に近いものである、と確信している。
これらをジグゾーパズルの断片のように並べてゆくと、あの出来事の全体像が朧げながら見えてくると思えるのだ。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(10)

次に、彼の二番目の動機。
これは石坂少将の当時の心情面としての動機であるが、もはや当人に訊くわけにもいかない。
だから、以下は全て執筆者の当て推量である。
 


世の中には様々なタイプの人間がいるものだ。
人が一億人いれば、そのメンタリティは当然ながら、一人一人全部異なっていて当たり前である。
一億のタイプがある、ということになる。

石坂少将のような軍人という職業も、その例外ではない。
個々の資質能力と同じく、彼らにも一人一人の別個のメンタリティがあったというのが真実であろう。
政治家は政治家の、経営者は経営者の、料理人は料理人のメンタリティや個性の違いは比較的論議されやすい。
これは個性というものが尊重される民間人だからであろう。
ただ、我々の陥穽として、軍人という職業人のみは違うようだ。
彼ら全てを同じステレオタイプに括りがちでなかろうか。
メンタリティや個性を見落として、どの人物も画一的に見がちではないだろうか。


これには理由があると思われる。
つまり、彼ら全員、軍服という没個性の衣服に身を包み、戦争遂行という単純にして崇高な任務に奉仕する人々である。
だから、どうしても軍隊という精密な機械装置の一歯車として捉えてしまうのだろう。


この傾向は昭和の戦争の頃が最も著しく、例えば当時の御用出版物では特にそうだ。
どの兵隊さんも勇敢で躊躇なく突撃し、敵を銃剣でさんざん懲らしめる英雄として描かれている。
だが、実際の戦場では英雄も多かっただろうが、卑怯者、未練者も多くいたはずだ。
何しろ、兵隊さんも煩悩の塊、人間なのだから。 
そして戦死する時も、全て一様に 「天皇陛下万歳!」と叫んでこと切れるという、紋切り型描写が実に多い。

これらが如何に間違っていたかは、戦後に語られた兵士たちのリアルな体験談により明らかだ。
例えば、「護国の神兵」としてにっこり微笑んで飛び立っていったはずの特攻隊員。
彼らにしても、その内的な苦悩や葛藤の深さは、残された手記類が雄弁に物語っている。


以上、遠回りの物言いで恐縮だが、石坂少将という軍人も、やはり人の子であった、と申し上げたいのだ。
つまり、頭脳明晰な諜報将校であった彼の職務遂行上の判断だけではなかった。
彼自身の人間環境も、陽明丸との関わりに色濃く反映していたと思えてならない。


より具体的に言おう。
彼の代以前の石坂家数代は献身的な医療従事者であった。
医学者としての高度の知識能力だけではなかった。
文字通り、「医は仁術」というモットーを具現化した、人格的にも優れた人々であった。
彼らの先進医療は直接、間接を問わず、多くの傷病者を救ったのだ。
これら数代の祖先の優れてヒューマンな業績を、石坂少将は終生誇りにし、深い敬愛の念を抱いていたに違いない。


だが残念なことに、彼自身は軍人という、ある意味で正反対な仕事を選んでしまった。
軍人というのは古来、医者のように人の命を救うのと反対で、敵を殺傷することを前提に成り立つ職業である。
おそらくだが、彼は先代までの祖先と彼自身とのギャップというか、パラドックスに悩んだこともあったのでは、と
思う。

このような当推量だが、執筆者としては、ある程度の根拠に基づくものだ。
まず、彼が自らの超エリートとしてのキャリアに潔く終止符を打ったこと。
彼がもしその気になれば、多くの高級軍人がそうであったように、もっと旨みがあり、権力に連なる天下りポストを手に入れることも可能であったことだろう。
だが、彼が望んだのは靖国神社の遊就館長という、相当に地味なポストのみだった。

彼の生涯の盟友であり、しまいには親族にまでなった宇垣一成とは全くの正反対であった。
宇垣は軍人の頂点をほぼ極めた後も、政治家として縦横に活躍した。
総理大臣になる機会が数度も巡ってきたほどの成功者であった。
それと好対照を為す石坂善次郎の余生、ということになる。
だが、宇垣自身は彼をかけがえのない親友として終生大切にしたようだ。
石坂の息子や娘のことまで気にかけ、細かく面倒を見続けた形跡がある。
 


執筆者としては、超エリートであった石坂が華麗な軍歴を弊履のように投げ捨てたこと。
そして、いわば草庵の主になったことが長年解せなかった。
だが、最近になって、その理由が少しづつ分かりかけてきた。


要するに、石坂善次郎という男は、軍人という職業に倦み疲れたのではないかと。
若い時分から、日露戦争も皮切りに、軍事諜報部員として様々な国を駆け巡った。
第一次世界大戦では観戦武官として、凄惨な独露戦の戦場も体験した彼だ。
露国首都では、革命の混乱と暴力、破壊をつぶさに目撃した。 
そしてシベリアでは、内戦で苦悩するロシア国民の目を蔽うような惨状を冷厳に観察する任務であった。
軍の謀略戦の現地指揮官として、記録にも残せないダーティな仕事にも関わってきたことだろう。
つまり、流血の戦場と、どろどろした謀略に明け暮れたのが彼の前半生であった。 


これらに、一気に倦み疲れたのではないだろうか。
そして、一切の生臭いものから遠ざかり、靖国神社の史料館という草庵で、静かに余生を過ごそうと決意したのではあるまいか。
靖国神社及び遊就館は、近代以降の戦争で散った日本の英霊たちを祀る場所である。
だが、彼にすれば単にそれだけではなかったと思うのだ。

知性感性ともに抜群に優れた彼である。
おそらくは、敵味方を問わず、自ら駆け巡った幾多の国々の無数の戦死者の霊魂も安らぐ聖廟、と受け留めたのでは、と思う。


退役後の彼のライフワークは、郷里岡山藩の名君、池田光政公の伝記の編纂の指揮であった。
昭和七年に出版されたこの分厚い本は、光政公の研究には今日でも欠かせない精緻な専門書であり、光彩を放っている。

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国立国会図書館 蔵






このように、全く畑違いの学芸的分野に没頭したことも、殺伐とした軍務に明け暮れた前半生から遠ざかりたかったからでは、と思うのは飛躍であろうか。


頭脳明晰なベテラン諜報将校であった彼だが、このように非常に鋭敏な文人的側面があったことを見落とすべきではないと思う。
これはやはり、彼が石坂家の人間であり、茅原家の一族でもあったことに起因するものと考えてしまう。

この両家系から多くの医療関係者や知識人が輩出しているからだ。
この中には、茅原基治のような外洋航路の船長も含まれる。 
むしろ彼のような軍人は例外であったようだ。


前置きが長くなってしまった。
結論としては、彼が関わったと推測する陽明丸やポーランドの児童救助作戦。
この双方から、「苦難にある弱者、特に子供たちは例外なく救うべきである」 という強い思いが伝わってくるのだ。

特に、陽明丸の子供たちは、彼の思い出深い任地ペテルブルクから遠く彷徨ってシベリアにたどり着いた気の毒な連中だ。
「この子たちだけは、これ以上戦禍に巻き込むべきではない」
「何とかして異邦の地から、故郷の親元に戻してやれれば........」 という思いに駆られなかった、と断言できようか。
しかも、彼らを救助した米国赤十字隊の責任者は、養父の惟寛から高名を聞いていたであろうルドルフ・ トイスラー博士であった。


そして、その時の彼の脳裏には、石坂家三代の人々の家訓のようなもの、がこだましていたのではないだろうか。
それは、養父の惟寛が設立者として名を連ねた日本赤十字社の根本理念と同一であったかもしれない。 

「人間の生命は尊重されなければならない。」
「苦しんでいる者は、敵味方の別なく救われるべきだ。」 と。


以上、陽明丸事跡における石坂中将 「真犯人説」だが、その「犯行」」能力、機会、動機等について、ひととおり述べた。
次回より、これらを補強すると思われる様々な 「状況証拠 」を提示してゆきたい。


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人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(9))

さて、 以上の仮定に基づき検討すると、陽明丸事跡の黒幕は石坂少将とする可能性は十分有り得た、とお分かりと思う。
少なくとも、彼には 「犯行」の能力 と機会があったということは確かである。

ただ、大きな問題は、もし彼の仕業であれば、なぜそういう面倒なことをわざわざ行う必要があったか、という 「動機」 解明であろう。


執筆者はこの点については、主として二つの側面があった、と考えている。
一つ目は、当時のウラジオでの軍事上、外交上の情勢判断。
そして二つ目は、石坂少将個人の心情面の動機である。


まず、軍事的外交的側面。
前に述べたように、英仏日米など反過激派の共同出兵各国が支援していたコルチャーク白軍政権(オムスク政府)が赤軍の大攻勢で崩壊したのが、前年1919年末頃。
そして、敗軍を追ってシベリアに押し寄せた赤軍本隊に勢いづいた地方過激派ゲリラもまた白軍/日本軍に攻勢をかけてきた。
これに危機感を抱いた東京の政府・軍指導者は、それまで掃討一辺倒であった過激派軍への対応を微妙に変化させていた。

現地ウラジオ派遣軍司令部も、東京の指導者たちの政策転換に合わせて、対応の変化を迫られ、四苦八苦することになる。
つまり、この年1920年春頃になると、現地ではモスクワ政府側・赤軍勢力との全面対決の回避を模索し始めた。
具体的には、内戦での政治的中立への転換をアピールし、敵との戦闘を極力回避しつつ双方勢力の共存をはかるところまで妥協を図った。

漸次撤兵による兵力減少のため、少数の拠点都市周辺にまで追い込まれていた日本軍は、次第に勢いを増す親共産政治勢力との外交的駆け引きにも必死に応じていた。
それらの結果として、この年4月、双方とりあえずの利害を一致させる緩衝国家として 「極東共和国」が生まれた。

浦塩派遣軍の外交実務者として、この緩衝国家の情報収集と分析にあたった松平政務部長は、極東共和国が本質的にはモスクワ政府の傀儡国家であることを見抜いていた。
モスクワ政府は、当時はポーランドとの戦争状態にあり (ポーランド・ソヴィエト戦争)、主要戦力を欧州ロシアに集中する必要があった。
ゆえに、向こうは向こうで、シベリアでの日本軍との全面対決については当面これを回避し、先延ばしにしようと考えたわけだ。
ただ、これも浦塩派遣軍がいまだ強力な戦力を維持していたからに過ぎない。
日本軍が弱体化し、抵抗力がそれほど無いと判断されれば、在シベリアの共産勢力諸軍をかき集めて一挙に押し寄せることも有り得ただろう。
現に、この時期になっても、日本軍/白軍側と極東共和国軍の間で小競り合いの戦闘は絶えなかった。

これらを整理すると、まずモスクワ政府ー極東共和国は、日本軍を過度に追い詰めぬように自勢力をある程度コントロールしていた。
そして、時間の経過とともに旗色が悪くなっていた現地日本軍も、相手側をことさらに刺激せず、且つ平静を装うことで弱みを見せまいとしていた。
そういうことではなかったか。 
ただ、浦塩派遣軍としても受け身の対応一辺倒ではなく、それなりに局面打開の策を必死に繰り出していたと思われる。

例えば、800人のロシア児童難民救出とほぼ同時期に行われた東シベリアのポーランド児童難民救助である。(第一回輸送 1920年7月 第二回輸送 1922年3月)
これについては、前に少し述べたが、要は帝政ロシアの流刑地シベリアで遺児となったポーランド児童数百人に、日本政府が救助作戦を行い、船で無事故国に届けたものだ。
まず、在シベリアのポーランド人有志の嘆願に応じて、日本赤十字や現地日本軍を動員し、子供たちの搜索と救助にあたらせた。
それから、ウラジオから敦賀港まで陸軍輸送船で運び、日本国内で必要な厚生保護を与えた上、チャーター船で故国ポーランドまで輸送したというものだ。
この事跡は、当時のメディアには別に隠されず、政府公文書にも記録がしっかりと残されている。
むしろ、積極的にアピールしたような印象だ。
いわば頬かむりをして、こそこそと隠密裡に出航した陽明丸と、あまりにも対照的である。


この際立った対照の理由は何だったのであろうか。
まずポーランド児童救助の場合も、同じく人道主義に基づく救助であったことは確かであろう。

さらに、執筆者としては、これに加えて、日本政府・日本軍の一種の示威行動でもあったと見るのだ。
シベリアに展開した日本軍は、モスクワ政府側から侵略者として強く非難されていた。
そして、日本軍はセミョーノフやカルムイコフなどコサック系の白軍諸将に軍事援助を行った。
だが、彼らは傀儡軍として、日本軍という虎の威を借り、ロシア人への略奪など蛮行を繰り返していた。
日本軍は日本軍で、そういう彼らを走狗として使い、パルチザン掃討を熱心に行ったものだ。
後のベトナム戦争と似た構図である。

また、派遣された兵員数が他国よりも圧倒的に多かったことや全面撤兵を渋っていたことも、米英など他の共同出兵国からは疑惑の目で見られていた。
日本はシベリアを切り取る領土的な野望あり、と疑われたわけだ。

つまり、そのような負のイメージをできれば払拭したい、という思惑があったと見る。
ゆえに、大日本帝国は正義人道の国家であり、弱者、特に災厄にある児童たちを保護する「白馬の騎士」であるというアピール、これを欧米、ロシア及び日本国内に向けて行ったものと見ている。

この日本政府による「国際イメージアップ作戦」は次のような背景もあったと考える。
つまり、当時1920年の1月には国際連盟が発足し、その初会合がパリで行われていた。
日本は戦勝国として、その前年のベルサイユ講話会議会議にも列席し、世界五大国の一つに祭り上げられて有頂天になっていた頃だ。
国際連盟の常任理事国として、以前の極東の一匹狼的存在から、世界列強のメンバーとして華々しくデビューして間もなくであった。
当然ながら、デビュー直後の新人タレントのように、我が国としては古株、つまり欧米列強の評判
を非常に気にしなければならなかった。
彼らの国際スタンダードに合格した、人道を重んじる文明国家であるという印象をアピールする必要があった。
このようなことも、理由として背後にあったのではないだろうか。
 

さらに付言すると、この時期にソヴィエト軍と戦っていたポーランドは、いわば日本軍の友軍であり、彼の国への軍事的外交的連帯をアピールするものであった、と思うのだ。
この極東の友軍は、且つてロシア帝国を破った国、大日本帝国ではないか。
その栄えある無敵の国家が、彼の国への連帯行動を取ることによってポーランド軍の勇気を鼓舞する。
その結果、彼らにソヴィエト軍と拮抗させれば、その分だけシベリアの日本軍への対峙エネルギーを減殺することができた。
つまり、モスクワへの牽制球としての効果も得られると計算したものではなかったか。 

一方で 「無許可」で、ロシア人児童たちを国外に出さざるを得なかった米国赤十字と異なり、ポーランド児童の場合は、純粋に人道的な問題であった。
ゆえに、モスクワ政府もクレームをつけにくかったであろう。
この点も、際立った対照の大きな理由ではと考えるのだ。
執筆者はこのポーランド児童難民救助の一件についても、石坂少将の関与があったと見ている。
だが、その論拠の提示は別の機会にしたい。 


そして、ポーランド児童たちのケースと反対に、陽明丸のロシア児童たちの国外輸送は、モスクワ政府の険しい目と厳しいクレームを覚悟しなければならなかった。
だが、それを恐れて、そのままウラジオに置かせておくことも非常にまずかった。
米国の派遣軍はこの年の4月に、アレンたちと児童難民を残して、さっさと全面撤退していったからだ。

浦塩派遣軍としては非常にナーヴァスにならざるを得なかったことだろう。
尼港事件の悪夢が常に脳裏をよぎっていた彼らである。
ウラジオに残留する米国人率いる多数のロシア児童難民は、頭の痛いお荷物であったはずだ。
もし、最悪の事態になれば、日本政府と日本軍の大失態となってしまうのだ。
米国からもモスクワ政府からも、さらに世界中からも非難の嵐を受けるに違いない。
もはや米国軍と責任を折半することができなくなっていたからだ。


このジレンマを解決するためには、やはりアレンたちが熱望するままに、児童たちを船で洋上に連れ出してもらうのが最上策と判断したのではないか。
ただし、日本政府も米国政府と同じ立場であり、国としては絶対にタッチできない。
モスクワを無用に刺激すれば、日本政府も米国の「ロシア人児童拉致」の片棒を担いだ、とコミンテルンの絶好の宣伝材料に 使われてしまうだろう。
何よりも、在シベリア日本軍や邦人への危険度が増すことにもなる。
モスクワ政府にそれ以上付け入る隙を与えてはならず、あくまで純粋な民間ビジネスの形をとらねばならない。

このような判断に、松平政務部長もそうであろうが、石坂特務機関長も同様の結論に至ったものと推定するのだ。
そうであれば、彼ら二人の分析と情勢判断は浦塩派遣軍の参謀長を通じて司令官にも上申され、彼の決裁(あくまで内密のものであっただろうが) も得たはずである。
そして後は、速やかに水面下の行動に着手するのみであった。
手遅れの事態が起きぬ前に。






人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(8)

さて、このように親族同士であった茅原基治と石坂善次郎は、陽明丸事跡についても一定期間は空間的、時間的関係を共有する位置にいたわけだ。

これを単なる偶然と見るか、あるいは決して偶然ではなかったと見るか。
見解は真っ二つに分かれることだろう。
正直なところ、どちらにも決定的な証拠というものはない。
今のところは、であるが。
その意味ではグレーと言えば限りなくグレーである。

ただ、我々のように「偶然ではない」という仮説を取る者は、それなりに理由があるのだ。


その一つ一つの論拠については、「陽明丸七つの謎」の章で述べたとおりである。
素直に考えると、こと陽明丸の確保と運航については、米国赤十字シベリア救護隊と勝田銀次郎、茅原基治の力だけでは、達成はそもそも無理であったと見るのだ。
いわば水面下で彼らをしっかりと支え、グイグイと押していたと思われる、或る存在と力がなかったら、頓挫していたとしか思えてならない。

そしてこの水面下の存在こそ、石坂善次郎と彼の同志たちではなかったか。
アレンやトイスラーのシベリアでの献身的な救護活動、そして救出されたロシア人児童難民の一件の全てを俯瞰する立場で、彼ほど特等席の位置にいたものはいない。
陸大出のエリート軍人、将官であり、ウラジオ派遣軍の諜報の元締めとして枢要な位置を占めていた石坂である。
陽明丸運航に必要な若干のアレンジメントは、さほど困難でなかったと見ている。


そして、前に述べたように、この仮説が正しいとすれば、以下のように事が運んでいたのではないだろうか。

石坂少将はまず、従兄弟甥で(いとこおい)である茅原基治に事情を打ち明け、協力を求めた。
少将の親族である基治であれば、このミッションの重要さを信頼して打ち明けることはできたであろう。

そして、基治の船長としての優れた技量と強い責任感を熟知していたであろう善次郎である。
まず、彼の説得から着手したのではないだろうか。 
そして、ひとまず基治を味方につけることができたとしよう。 

次に一番大きな問題は船の確保であった。
これが簡単でなかった事情は前に述べた。 
だが、これについては、かねてより基治船長が敬服していた勝田銀次郎を置いて他にはいない、という結論に、石坂も同意したことだろう。
そうすると次のプロセスは、誰かが勝田を説得しなければならない。
石坂少将自身は、責任の重い職務上ハルビンを離れて遠路、日本に向かうことは難しかったであろう。

だが、ハルビンでそのまま、のんびりと構えているわけにはいかなかった。
アレンの焦慮を思えば、時間的にもそれほど余裕がないことはわかっていたはずだ。 
ゆえに密使ないしは連絡将校としてウラジオ・東京方面に出張する、信頼できる部下の特務機関員に処理を委ねたかもしれない。
基治との連絡も含めて。 


そして、次の出番は、石坂の盟友というより刎頚の友であった宇垣少将である。
宇垣はその少し前まで、東京の参謀本部第一部長という要職にあったが、陽明丸事跡の当時は陸軍大学校校長に移動していた。
だが、前に述べたように宇垣が、陸軍の頂上部を構成しつつあった彼ら陸大の同期生たちに手を回すことは、容易であったと見る。
次世代の陸軍トップリーダーであり、信望が高かった宇垣が彼らのネットワークを間接的に動かすことで、前に述べたような様々なアレンジメントはさほど難しくなかったと見る。

そうすると、勝田銀次郎への説得工作も、東京で行われたと見るのが自然であろう。
その場合は、陸軍省か参謀本部に勝田を呼び出したと考えられる。 
当然ながら、基治船長もその前に勝田に連絡し、事前に事の次第を打ち明け、協力を要請したと考えられる。



ただ、もしこのシナリオに弱点があるとすれば、アレンが必死になって船探しをしていたことを石坂少将がなぜ察知することができたか、という点だ。
派遣軍幹部として司令部と情報機密を共有し、或いは米国赤十字の通信も傍受でき得た彼ならハルビンにいても可能ではあったであろうが、やはり距離的にはウラジオは遠かった。 

これについては、執筆者の推理を補完するものとして、さらにもう一人の人物に焦点を当てたい。
それは、当時ウラジオ派遣軍司令部の政務部長という要職にあった松平恒雄である。

ウラジオ派遣軍の政務部長というのは、共同出兵した各国や赤白各派の臨時ロシア地方政府との外交交渉、現地露人や邦人の民政業務など多岐にわたる非軍事部門を扱った責任者であった。
そして、この重要ポストは軍人ではなく、松平のような生粋のキャリア外交官が任命された。

その名から察せられるかもしれないが、彼は元会津藩主、松平容保の六男として生まれ、外交官になった生粋のエリートである。
後に、駐英大使、駐米大使、宮内大臣を歴任し、戦後は初代の参議院議長に選ばれた大物である。
同志・吉田茂と同じく鳩派政治家として、軍部がはじめた無謀な太平洋戦争を深く憂慮し、昭和天皇を通して停戦に持ち込もうと画策したことでも知られる。

このように松平は一貫して、英米をよく知る極めて有能な外交官であり、ウラジオに赴任している間はライリー・アレンとは互いに良き関係にあったことが米国赤十字側の記録にも散見される。
極端に言えば、日本軍を嫌っていたアレンが唯一信頼していた日本人であったようだ。

また、これは執筆者の私見だが、単に親英米的な外交官というだけではなかったと思うのだ。
松平は、幕末の会津の惨めな敗戦の姿をトラウマとして、たえす胸にしまいこんでいたことだろう。
つまり、彼の父、会津松平家は官軍との凄惨な内戦で敗北し、藩の士民も否応なく戦闘に巻き込まれてしまったことだ。
会津白虎隊の悲劇のような、無辜の子供たちに災難が降りかかるのを見るのは、辛かったのではあるまいか。
ゆえに、アレンが連れてきたペテルブルクの子供たちにも、「できれば助けてやりたい」、という思いを抱いても不思議ではない、と思うのだ。

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 松平 恒雄

アレンが船の確保がうまく行かず、焦っていたこと。
情報収集に長けた外交官である松平は、それをおそらくキャッチしていたことだろう。
或いは、アレンが信頼する松平自身に事情を打ち明けて、相談したことも大いに考えられる。 
そして、そのことは間もなく、彼らの動向を以前から気にかけていたウラジオ派遣軍司令部の同僚であり、諜報将校上層部の石坂少将の知るところとなった、と見る。
 

我々は、一連のことは、大まかに言えばこのように事が運んでいったのではないか、と仮定している。
ただ、解明すべき大きなポイントは、なぜ彼ら(石坂や松平など)がそこまでアレンたちをバックアップする必要があると判断したか、である。

ここが大変重要で、犯罪学でいうなら、そもそもの 「動機 」 というやつだ。 

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(7)

さて、このように石坂中将の養父は日本近代医学の先駆者の一人であり、軍医としての頂点もきわめた逸材であった。

そして、この石坂惟寛の養い親は石坂堅壮(いしざか けんそう)といい、彼もまた幕末に活躍した蘭方医であった。

文献によれば、堅壮は岡山藩の藩医も務め、電気器具を医療に使っていたようだ。
また緒方洪庵の適塾から伝授された種痘法も行っていた、とされる。
当時として非常に先進的な医療を既に実践していたことになる。
他にも、明治維新になって間もない頃、人体解剖の折に肝臓ジストマを発症させる肝吸虫を日本で初めて発見し、これも彼の功績とされている。

また堅壮は石坂空洞という雅号でも知られ、書画や琴などをたしなみ、多方面に才を発揮した文人でもあった。
勤皇の心が厚く、南北朝時代の忠臣、児嶋高徳(こじま たかのり)の研究家としても知られ、その方面の著作も残している。
(「児嶋備州補伝」)
 

さらに言うと、この石坂堅壮も実は養子であった。
養父は美作の人で、石坂桑亀(いしざか そうき)という医者であった。
桑亀は、江戸期に麻酔手術を初めて行った有名な華岡青洲の門人として医学を学んだ。
その後、長崎に来ていたシーボルトにも師事し、後に請われて備中の足守(あしもり)藩主の侍医にもなったほどの名医である。


このように、石坂桑亀、石坂堅壮、石坂惟寛の石坂家三代は互いに血の繋がりこそなかったが、三名ともに当時の先進医学を学び、それを医療に実践した。
彼らは揃って、その時代では傑出した英才であり、人格にも優れた医学者であった事実が注目される。
そして、石坂惟寛の次世代に、この石坂家の一員となった善次郎もまた養子であった。


これらを系図にするならば、

 
石坂桑亀ーー石坂堅壮ーー石坂惟寛ーー石坂善次郎 となる。




ところで、次に掲げるのは茅原基治船長の一族、茅原家の家系図である。

七郎兵衛――林助――源助――牧右衛門清長――清右衛門清信

――貞蔵美雄  ――  女)志計
              (室赤松氏)    (女)富子
   (室吉岡氏)    (男)禎蔵政方  ――(男)正太郎―― (男)基治                                       (女)   ―― (男)
            (男) 
            (男)宇三郎
            (男)正五郎
              (山本家嗣)
            (男)逸造
              (石坂家嗣)
            (女)梅
            (女)満津
                      

ここで突然、なぜ茅原家が出てくるのか、と不思議に思われるかもしれない。
だが、それには立派な理由があるのだ。

彼の一族の先祖は家系図の上では江戸前期の貞享年間まで遡ることが出来、岡山県小田郡甲弩(こうの)村の地主格、地方の代々の旧家であった。
先祖をさらに遠く遡ると、南北朝時代の忠臣である武将、児島高徳(こじま たかのり)にまで至るという家伝がある。
ゆえに代々の屋号は「児島屋」 とされていた。 

             
これを見てわかるように、茅原基治は家系図に名が見える七郎兵衛から数えて九代目直系であり、「甲弩茅原家」 の当主であった。
そして、ここで注目したいのは船長の曽祖父である六代目の貞蔵美雄の子供たちである。

跡取りは長男の禎蔵(ていぞう)政方、まり基治の祖父が継いでおり、他の男子二人(三男、四男)は養子に出されている。
そのうち、四男の名が逸造とあり、どこかで聞いたような名だと思われるであろう。
たしかにその通りで
、(石坂家嗣)とあるように、この逸造が後に石坂惟寛となったものだ。
それについては、「逸造」と「逸蔵」とは文字が異なり、別人ではないかと言われるかもしれない。
また、単なる偶然で、根拠のないこじつけと疑われるかも知れない。

だが、戸籍法が確立する以前の江戸時代にあっては、人物の名前にも当て字や異体字が日常的によく使われていた。
名前表記が厳密である現代に比べればかなり自由であり、いい加減でもあったと言えよう。
例えば、石坂堅壮の名の表記にしても、文献上に登場するものは石坂堅壮であったり、石阪堅壮であったりする割合が半々くらいである。
茅原逸造の場合も、おそらくは、逸造、逸蔵ともに、当時は日常的に使われていたものだろう。

この逸造=石坂惟寛同一人物説が、こじつけではない証拠は、茅原家の人々は一族から「石坂惟寛」という偉人が輩出したことを大変誇りにしてきたことを、或る郷土史家から聞いた。
この郷土史家自身も甲弩茅原家の一員の方であるので、これは間違いがない事実である。

そして郷土史に詳しい方に教わったのだが、Wikipedia に見える石崎惟寛の親の名、「赤松秀」とあるのは、茅原家家系図にある貞蔵美雄の長女、志計の夫である赤松秀桂であり、彼を仮親として養子縁組をしたものらしい。 


さらに、もうひとりの男子、三男の正五郎(山本家嗣)だが、この名前にも漠然とした記憶があるかもしれない。
そのとおりで、石坂善次郎の実父は、山本庄五郎であった。
これも、当時の当て字として見られ、逸造、逸蔵と同じで、この正五郎も時には庄五郎と名乗り、また書かれることもあったのだろう。


つまり、基治船長の祖父の
禎蔵政方、逸造(石坂惟寛)と正五郎(山本床五郎)の三名は血を分けた兄弟であった。
そして、この山本庄五郎(茅原庄五郎)の次男が善次郎であり、彼はまだ少年の時分に叔父の石坂惟寛(茅原逸造)に養子にもらわれた、ということだ。


これらを親族関係の呼称で言うと、基治の父、正太郎にとっては
石坂惟寛は従兄弟(いとこ)であり、善次郎は従兄弟甥(いとこおい)、基冶船長にとってはそれぞれ大叔父(おおおじ)従兄弟叔父(いとこおじ)に当る。
親等でいうならば、それぞれ正太郎の三親等、四親等、基冶船長の四親等、五親等となる。
単なる戸籍上の繋がりだけではなく、血筋上もしっかりと繋がっている。
民法の上での親族というのは六親等以上であるので、彼らは遠縁どころか立派な親族同士であったと言い切れる。
それどころか、もし茅原逸造と茅原正五郎が他家に養子に出ていなかったら、石坂善次郎は「茅原善次郎」であり得たわけだ。


なお、石坂堅壮
が茅原逸造(石坂惟寛)を養子に取ったことについては、執筆者の見解では、彼自身が忠臣、児嶋高徳の熱心な崇拝者であったことからきていると思うのだ。
つまり、高徳の子孫という家伝を持つ旧家、甲弩茅原家の利発な男子を喜んで養子に引き取ったということではなかったか。

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木版画 児嶋高徳 錦旗を拝する図  明治29年 竹田敬万 作 執筆者蔵





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石阪堅壮著 
「児嶋備州補伝」
国立国会図書館蔵


このように、茅原基治船長と石坂善次郎中将は、まぎれもなく血を分けた親族同士であった。
そして、基治船長がウラジオに向かい、陽明丸で大航海を行ったときは、親族である善次郎少将(当時)はウラジオ派遣軍の首脳のひとりとして、ハルビンで事の一部始終を見守る立場にいたわけだ。

そのことが一体何を意味するものか。
それを次回以降でさらに述べてみたい。



 

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(6)

石坂中将の軍歴の概要は以上のとおりであるが、次に彼の出自について触れてみたい。


彼は明治4年(1971年)兵庫県神戸市生まれである。
実父は山本庄五郎とあり、石坂中将は生来は山本善次郎であったわけだ。
だが、11才頃の少年期に岡山県出身の軍医、石坂惟寛に引き取られ、その養子となった。

彼の養父、石坂惟寛だが、略歴がこれまたWikipediaに詳しく記述されており、以下のとおりである。
 

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石坂 惟寛 (いしざか いかん 又は いしざか これひろ) 

生誕 1840年3月25日

備前国

死没 1923年7月29日(満83歳没)

軍歴 1872 - 1900

最終階級 陸軍軍医総監


石坂 惟寛は、幕末から明治にかけての医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。幼名、逸蔵。


経歴

備前国出身。赤松秀の二男として生れ、岡山藩医・石坂堅壮の養子となる。1860年(万延元年)9月、適塾に入門し西洋医学を学び、のちに岡山藩侍医となる。

1872年(明治5年)1月、陸軍軍医となり二等軍医副に任官。
1875年(明治8年)11月、広島鎮台病院長に就任。
1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征。その後、陸軍本病院第1課長、大阪鎮台病院長、東京陸軍病院治療課長、陸軍軍医本部庶務課長、陸軍省医務局第1課長などを歴任し、1887年(明治20年)5月、軍医監に昇進。同年5月から翌年12月まで陸軍軍医学舎長(後の陸軍軍医学校長)を務めた。

1888年(明治21年)12月、第1師団軍医部長兼衛生会議議長となり、1894年(明治27年)8月、軍医総監に進級し第1軍軍医部長に発令され翌月から日清戦争に従軍した。
1895年(明治28年)9月、台湾総督府陸軍局軍医部長となり、翌年1月まで務め5月から(明治29年)12月、第4師団軍医部長として復帰した。

1897年(明治30年)3月、制度改正により軍医監(少将相当官)となった。
同年9月、(*陸軍省)医務局長となり、翌年8月に休職した。
1900年(明治33年)12月1日、後備役に編入され、1905年(明治38年)10月16日に退役した。


栄典  
1895年(明治28年)8月20日 - 勲二等旭日重光章

著書  手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』

親族  養嗣子   石坂善次郎(陸軍中将)


このように、石坂惟寛は蘭方医、緒方洪庵の適塾を出た英才であり、明治期の日本医学の先駆者の一人であった。

そして、幕末期の岡山藩医としてキャリアが始まったが、維新後は草創期の帝国陸軍の軍医総監(旧制度)、新制度での軍医監(少将担当官)にまで昇り詰めた逸材であった。

またそれ以外にも、陽明丸事跡を追う我々にとっては看過できない様々の興味深い事実がある。



まず、石坂は日本赤十字社の創立者の一人であり、下記のように明治25年の公文書には、同社の常議員に名を連ねているのがわかる。

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明治10年の西南戦争に出征した石坂軍医は、戦場で仆れ、傷ついた多くの兵士たちの救護に当たった。
だが、そこでは戦場で敵側に放置されたままの傷病兵の悲惨な境遇に心を痛めた。
故に、戦場という極限状況においては、敵味方の区別なく傷病者を救護するという西欧的先進思想に強く共鳴したようだ。
(石坂軍医の手稿『鞍頭日録 - 明治十年西南役』)

そして、この軍医としての経験に基づくヒューマンな医学が、近代国家として欠くべからざることを明治政府の指導者たちに訴えた。
それ故に、佐野常民の日本赤十字社設立運動に現場の医務官として全面的に協力したものであろう。
佐野常民は適塾での大先輩にあたり、彼らは共に緒方洪庵の医学を通して西欧的な博愛精神に強く感化されていたものだろう。 


この当時の日赤常議員のポストは、華族や政府高官で大方占められていたようだが、石坂の場合は軍医の先達であり、赤十字社創立者の一人として任命されたものに違いない。


また、これも興味深いものだが、石坂は文豪、森鴎外が若き日の軍医時代の直接の上官であった。
鴎外と石坂との関わりについては「石黒忠悳日記」に次の記述があるようだ。
石黒も石坂と同じく草創期の帝国陸軍の軍医であり、後に日本赤十字社の第四代社長になった人物である。


  (明治21年) 一〇月六日 来ル

           一〇月七日 朝林太郎母並弟妹来ル

           一〇月八日 石坂ヨリノ事ヲ内談アル 、


当時は、石坂は軍医学舎(軍医学校)の舎長(校長)、鴎外が軍医学舎教官、そしてこの石黒は軍医監であった。
鴎外は後年、大先輩であった石坂軍医と同じく陸軍軍医総監になっている。
この日記の頃、鴎外は小説「舞姫」のヒロインのモデルとなったドイツ女性との恋に悩み、職を辞することまで考えていたようだ。
その処理をめぐる記述と見られる。
石黒、石坂の両上官が鴎外の才能を惜しんで必死に慰留したものであろう。

 
また、石坂は大正12年7月に亡くなっているが、次の公文書は彼の死亡直後に皇室より叙位が与えられたことを示すものだ。

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丙 受付大正十二年八月十日 第八〇一号 立案 大正十二年七月三十一日 陸軍軍医監石坂惟寛
特旨叙位ノ件外一件 大正十二年七月三十日裁可七月三十日達 台帳記入月七月三十一日官報報告済 陸軍軍医監石坂惟寛特旨叙位ノ件外一件 右謹テ裁可ヲ仰ク 大正十二年七月三十日 内閣総理大臣男爵加藤友三郎 内閣 陸位第二四九号 大正十二年七月三十日 内閣書記官 宮内事務官御中 通牒 従四位勲二等石坂惟寛 右本日特旨ヲ以テ位一級被進正四位ニ被叙ノ儀御裁可有之候ニ付至急発令方取計相成度 陸位第二四九号 起案 大正十二年七月二十日 裁可 年 月 日 陸軍軍医監従四位勲二等石坂惟寛ハ別紙陸軍大臣上奏ノ通功績顕著ナル者ニ候処目下病気危篤ノ趣ニ付特旨叙位ノ件上奏相成然ルヘシ

 

このように、石坂中将の養父、石坂
惟寛は歴史に名を留める日本医学の先駆者の一人であり、名士であった。
軍医の高官、そして日本赤十字社の重役として、石坂は当時の日本の医学界でも指導的な役割を果たした一人であった。

当時、石坂と聖路加病院院長であったトイスラー博士とが懇意であったという確証は特にない。
だが、共に東京で活躍し、双方ともに当時の日本
医学界での高いステータスを有していたこと考えると、少なくとも交流ないしは面識があったと見るのが自然であろう。
ちなみに陽明丸の航海前後の頃は、石坂惟寛はまだ存命中で、神奈川県三崎の別荘で余生を送っていたらしい。
そして、同時期にはトイスラー博士は東京に戻っていた。
したがって、陽明丸の話に石坂惟寛自身も何らかの関与をしたとしても不思議ではない、と考えるのだ。 


石坂中将は、幼少期から養父の、このような先進的な医学者としての活躍ぶりをよく見聞きしていたはずだ。
自身は医学に進まず、軍人の道を歩むことを選んだわけであるが。
だが、極限状況での弱者の差別なき救護という崇高な人道主義については、養父からは薫陶を受けていたことだろう。


ゆえに、養父の知己でも有り得たトイスラー博士の米国赤十字シベリア救護隊の献身的な活動ぶりを、ハルビン特務機関長として知った時、少なからず彼の心を揺さぶったものと確信する。

石坂惟寛、石坂善次郎父子は現在は東京の多磨霊園、「石坂家の墓」で仲良く眠っている。


人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(5)

さて、石坂中将は、このように露国首都の日本大使館付き武官として、きわめて重要な任務を終えて1918年4月に帰国した。
国内で待ち受けていた軍務は、野戦重砲兵第1旅団(横須賀 近衛師団)の旅団長である。
約4年間の外国での軍務を終えての帰国だから、再び故国の土を踏みしめた時はさぞ感慨が深かったことだろう。

何しろ、外国での観戦従軍や諜報任務というのは、体力と頭脳を振り絞る相当の激務であった。
それを遠いロシアで数年もこなしていた彼だ。
帰国後の旅団長生活などは、まるで休養みたいに感じていたのではないだろうか。

旅団長というのは軍のラインからすれば、師団長の次、連隊長の上であり、陸軍の職位の中では相当に偉いランクである。
日本陸軍にあっては通常、一個師団は二個旅団で構成され、さらに一個旅団は二個連隊で成り立っていた。
歩兵科の場合、一個連隊の兵員数は大体3000人程度であったから、歩兵科一個旅団の大まかな兵員は6000人以上になる。
彼の重砲兵旅団は一種の技術者集団なので、これよりは少ない兵員数ではあっただろうが。 
それでも、司令官の石坂少将(当時)は多くの将兵にかしづかれていたわけで、ちょっとした大名のような快適な軍務であったはずだ。
長年にわたった孤独な激務の骨休みとしては、丁度良かったと思われる。


ところが、陸軍は彼をそれほど長く、休ませてはくれなかった。
帰国した年、1918年の夏に日本軍のシベリア出兵が始まったのだ。
七万人を超える日本軍の大部隊は、シベリア沿海州方面や満州方面から分かれて侵攻、地方の過激派軍と交戦しながら快調に進撃した。
季節は夏であり、進軍は迅速に行われた。
瞬く間にバイカル湖以東の東シベリア主要地域のいくつかを制圧してしまった。

そして、軍事行動だけではなく、占領軍としての地保を固めるのが次の重要課題であった。
すなわち、占領行政や共同派兵をした各国派遣軍との調整、白系及び過激派政治勢力の動向把握、白系露人の親日傀儡勢力の擁立など非常に多岐にわたる分野であった。
だが、このように軍事と行政、外交にまたがる複雑な仕事を処理するには、高度な能力を持つ専門家が必要であった。

戦闘するだけの猪突猛進型の軍人では、到底務まるものではない。
しかも、国際経験が豊かで、欧米人とも対等に渡り合え語学力も必須条件であった。
だが、日本陸軍ではそのような資質をを満たす軍人は、ほんのごくひと握りであった。
それらの中のトップクラスとして、石坂少将に白羽の矢が立ったのは、当然といえば当然な人選であった。
いわばエース級の国際諜報専門官を登板させたわけだ。 


そして、彼の新しい赴任先は満州ハルビンの陸軍諜報組織出先機関、ハルビン特務機関であった。
この部署のトップ、特務機関長を彼は1919年2月から1921年3月の二ヵ年余にわたり務めることになる。

ここで特に注目してほしいのは、上記の期間が米国赤十字によるロシア児童800人の救出保護活動と陽明丸の出航、郷里ペテルブルクへの帰還までの時系列とほぼオーバーラップしていることだ。


さて、石坂少将(当時)のハルビン特務機関への赴任だが、小さい記事で当時の新聞、「 国民新聞 」 に報じられている。
これも貴重な史料と言える。
新聞記者がはっきりと「ハルビン特務機関」と書けず、「 突然重要任務を帯びて某方面に転任 」 としか表現できなかったのは、当然ながら軍の機密に属することだからだ。

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国民新聞 1919.2.24(大正8)

重砲兵旅団長転任

横須賀重法兵旅団長たりし陸軍少将石坂善次郎氏は今回突然重要任務を帯びて某方面に転任を命ぜられ二十三日午前十一時五分横須賀発列車にて家族と共に赴任の途に就く後任は野砲兵第一旅団長陸軍少将鈴木孝雄氏著任の予定なるが是等転任の関係上陸軍当局に二三小異動あるべし(横須賀電話)  



特務機関というのは、日露戦争時から本格的に活動し始めた陸軍の対露諜報組織の現地出先機関である。
特に、シベリア出兵以降は、東シベリアで占領した幾つかの拠点都市や、満州の重要都市ハルビンなど各地に置かれたものだ。
特にハルビン特務機関はそれらの中でも重要なもので、守備範囲は満州だけではなく、東部シベリアの横腹に近い地理的関係ゆえにロシア勢力の南下や満州への浸透を監視し、抑制することが目的であった。
これらの特務機関はシベリア出兵時の現地軍司令部、ウラジオ派遣軍司令部に直属していた。
諜報組織に伴う機密性であろうが、その存在は他の部署とは異なって外部には閉鎖的であった。
石坂少将の身分も、対外的には「ウラジオ派遣軍司令部付き」とされていた。


このうち、シベリア出兵終了後もハルビン特務機関だけは存続し、1940年からは「関東軍情報部」と名を変えて活動を続けている。
ちなみに、満州という外国領土に日本軍の諜報機関を置けたのも、武力侵攻によるものではなく、日本と中国の対等な外交交渉の成果だった。
すなわち、石坂の刎頚の友であった宇垣一成少将(当時は参謀本部第一部長 作戦担当)がこの年1918年に中華民国に出向き、締結された「日支陸軍共同防衛軍事協定」に基づいていた。


自らが関東軍情報部の将校であった故・西原征夫氏(元陸軍大佐)の著書 「 全記録ハルビン特務機関 」 によれば、特務機関の仕事は多岐にわたり、「政治及び軍事情報の収集、反過激派分子の選別繋留、白色政権の育成培養、白衛軍との連絡並びに支援、避難露人の救護、潜在過激派の監視摘発、宣伝、外国軍との折衝等々、純軍隊による統帥では解決し得ないいろいろな業務」と規定されている。

ハルビンはシベリア鉄道の重要な中継駅であり、当時ロシア西部からウラジオストクまで走る列車の大方は東清鉄道経由でハルビン駅に停まり、ここを通過して最終地に向かった。
そして、800人のロシア児童難民を乗せた列車もここハルビンを通過している。

当時の鉄道駅というのは、重要な軍事施設でもあり、また人の出入りも多いので各種の情報収集の宝庫であった。
だから、ハルビン特務機関も当然ながら、これらの子供たちの通過については把握していたはずだ。
何よりも、彼らは米国赤十字が輸送してきた「特殊な荷物」だったから、石坂少将の特別な関心を惹いたことは間違いない。
有能な諜報将校である彼であれば、さらにその背景も詳しく探ろうとしたはずである。
そして、彼らがペテルブルクから来た子供たちと知って、特別の感慨も抱いたことだろう。
その胸中を、且つての任地であったロシア革命時の露都の風景、人々の記憶が懐かしくよぎったのではあるまいか。



また、当時は欧州・ロシア方面から極東への電信電報も必ずハルビンを経由していたので、特務機関は敵味方を問わずかなりの量の通信を傍受することができた。
それらの分析とウラジオ派遣軍司令部/東京の参謀本部への報告も彼らの重要任務であった。

軍が石坂少将以下、国際経験豊かで外国語に堪能な幹部将校を特務機関に配置したのも、その目的でもあった。


当ブログ執筆者より: 次回、「人道の箱舟 陽明丸 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(6)」の章では、石坂中将と陽明丸の人々との関わりについて、さらに踏み込んで書き進めます。
ご興味があれば、是非またご訪問くださいね。
更新予定は九月初頭。 

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(4)

以上のように、石坂中将の軍人としての本領は、対ロシア諜報将校であったことはご理解いただけたかと思う。
しかも単なる下級スパイではなく、高度に専門的な知識と経験を有する幹部諜報将校であった。
そして、このことが彼と陽明丸事跡との関わりの接点であった、と我々は推定するのだ。


何事も、例え些細なことでも機密の保持は世界のあらゆる諜報関係者の務めであろう。
石坂中将も例外ではなく、自身が関わる全ての事柄を秘密裡にしておく周到さでは、むしろ徹底していたというのが我々の印象だ。
しかしながら、いくら忍者のように隠密行動を常とした彼でも、同時に栄えある陸軍のエリート軍人であったわけである。
したがって、公文書等の史料を閲覧することによって、現代では彼の行動履歴はある程度伺い知ることはできるようだ。

例えば、明治39年3月6日付、陸軍の機密文書、

二第三四五号 参謀本部 石坂中佐露国ヘ赴任ニ付海外旅券請求ノ件 
外務次官ヘ照会案 陸軍砲兵中佐 石坂善次郎 右今般御用有之露国ヘ被差遣不日出発赴任候ニ付海外旅券交付相成候様御取計相成度此段及照会候也 送乙第三七七号 参内第五八号 明治三十九年三月六日 参謀本部総務部長岡市之助 陸軍省副官立花小一郎殿 陸軍歩兵中佐 石坂善次郎 右御用有之露国ヘ被差使不日出発赴任候ニ付テハ記名海外旅券第葉御差越相成度及御照会候也

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これは、日露戦争での諜報任務が終わり、戦後の明治39年(1906年)ロシアのオデッサに駐在武官として赴任した際のものだろう。
対外上は外交官と同列の駐在武官の身分ではあっても、事実上の任務は軍事情報収集のための諜報活動であったことは言うまでもない。 


また、海軍将官たちが自らの海軍人生を振り返った証言記録集、「小柳資料」では、次の記述が見られる。

この一人称の語り手は山梨勝之進海軍中将(当時)。
山梨がまだ海軍大佐であった頃、ロシア国内でクロパトキン(*日露戦争時のロシア軍敗将)を訪れた秋山真之海軍少将(当時)に随行しており、その折の会談についての懐古談である。

『会談を申し込んだところ心よく承知して呉れ、案内の石坂砲兵大佐が通訳をした。
当時のクロパトキンは頬が落ち、肉は痩せて皮膚はたるんで気勢があがらず昔の面影はなかった。
彼は挨拶して「いろいろ連合国に御世話になっている。
よく見ていってくれ。日露戦争ではあなたがたサムライと戦った。いまはドイツの盗賊と戦っている。実に不愉快だ。然しどうあってもこの戦は負けられぬ」
秋山将軍はこれに対して「自分は戦争運のよい男だ。自分の行ったところは必ず勝った。あなたも成功されるに違いない」と励まされた。
しかし、その後の戦ではクロパトキンは余り名声を発揮しなかったようである。』」

秋山真之は日露戦争時に連合艦隊の参謀として作戦を練り、大勝利に導いた海軍軍人。
功なり名を遂げた彼が後年、欧米を視察した時の回顧である。
ご記憶の方もあると思うが、秋山はNHKで放映された大作「坂の上の雲」の主人公であり、東郷平八郎元帥と並んで日本海海戦での功労者である。
この欧州視察は、第一次世界大戦も中盤の頃、1916年3月であった。

そして、この「石坂砲兵大佐」が、我々の追う石坂善次郎であることは言うまでもない。
この頃、彼は大戦での同盟国、ロシア軍の大本営付き観戦武官として従軍していた。
現地での事情通であり、また優れたロシア語能力を請われて、本国の英雄であった秋山提督のために案内役兼通訳を行ったものだろう。


また、こういうものもある。

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これらは、彼が在露日本大使館付き武官として首都ペテルブルクに滞在中に勃発したロシア革命を報じた機密電報である。
まだ沢山あるのだが、そのうちのごく一部だ。
 
世界を揺るがせたロシア革命に関する現地大使館関係者の公電として、日露関係史の学術論文にもしばしば引用されているものだ。
この大事件について、東京の政府首脳と参謀本部に何事が起きているのか正確に知らせる必要があった。
そして、石坂少将(当時)は迅速に対応し、このような極秘電報を次々と本国に送ったものだ。
軍人であるので、発信先は主として陸軍参謀総長や参謀次長など軍首脳であった。
どれも、当時の緊迫するロシア情勢が詳細的確に述べられている。
石坂少将の諜報将校としての本領が、ここに遺憾なく発揮されているように思う。


他にも、当時の公文書類等に彼に関する様々な記録が残されているので、調べてみるとなかなか興味深いものだ。
そして、我々としては石坂中将は本国を離れて国際舞台で活躍していた頃が、彼の本領を発揮して一番生き生きしていたのではと思うのだが、穿ちすぎであろうか。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(3))

彼のように戦前の帝国陸軍のエリート教育を受けたキャリア組の場合であるが、その後に辿るコースは決して各人一様ではなかった。

これら選び抜かれたエリートの中でも、とりわけのエリートは陸軍大学校卒業時の成績が上位数名(卒業年次によって異なるが、首席1名プラス次席以下5名程度)の者であり、俗に 「恩賜組 」 と呼ばれた。
これらの者たちにはその成績を賞でて、天皇陛下より特別に軍刀或いは銀時計など恩賜の品が下賜されたからである。
それにとどまらず、これら恩師組の卒業生には、将来にわたって出世の最先端を走ることがほぼ保障されていた。
実際、戦前日本では、彼らから多くの大将・元帥や政府高官が輩出している。

我々のXこと、石坂中将は残念ながら、この恩賜組には入っていなかったようだ。
だが、彼に割り当てられたその後の軍務内容を見るかぎり、それに準ずる上位の成績を残して陸大を卒業したことは間違いない。

これら恩賜組の者たちも、海外(特に欧米)への留学・赴任については、当然ながら享受した。
ただ、彼らの場合は、いわば新幹線でも最速車両のようなもので、その大方は他の者よりも早く軍中枢のポストにたどりついている。
つまり、帝国陸軍にあっては、参謀本部や陸軍省の中の幾つかの中枢部署である。
明治時代から昭和の敗戦時まで、このあたりの然るべきポストに就くことが、エリート軍人が目ざす当面のゴールであったようだ。
そこまで到達すると、さらにそれから上の元帥や大臣など政府高官への階段も昇りやすかった。

もちろん、いくら彼らでも一直線に昇れるわけではなく、それまでに海外での赴任、そしてラインにあたる師団や連隊などでの通常の軍務もひととおり経験しなければならなかった。

これとやや異なり、石坂中将のように恩賜組ではない者は、最終的には然るべき重要ポストにたどりつけなかった者も多かった。
彼らも断然エリートであることには間違いないのだが、恩賜組に比べて進級が微妙に遅れたりした。
また、望んでも宛てがわれるポストは必ずしも花形の軍統括部署や作戦立案部署ではなかった。
ラインである各部隊での軍務に長期間追いやられたりすることも多々あったりした。
やはり、恩賜組、非恩賜組の暗黙の差別は平時の人事面では、特に顕著であったものだろう。

だが、一旦戦争にでもなれば軍人はただ敵に勝ちさえすればよく、所詮は実力主義である。
ゆえに、たとえ陸大の卒業順位が下位であろうと、或いは士官学校しか出ていなくても、手柄さえ立てれば大栄進することは夢ではなかった。


我らの石坂中将の場合は、本人の特異な資質能力が考慮されたせいだろうが、主として対露諜報専門官としての軍歴を歩むことになったようだ。

このように、陸大卒のエリートたちは互いに終生ライバルであったが、その反面として同期の者たちは強い連帯感で結びついていたのも事実である。
(この点は、士官学校の同期生でも同じであった。)

例えば、石坂と士官学校(第1期)及び陸大(第14期)共に同期生であった宇垣一成 (うがき かずしげ) 大将の場合がそうであった。

宇垣は陸大14期の恩師組(卒業成績第三位)の中でも出世コース最先端を走った逸材だ。
大正末期から昭和初期にかけての日本陸軍の巨頭として、歴史に名を留めた大物軍人である。
陸軍大臣や外務大臣まで昇りつめ、あともう一歩で首相になるはずだったが、敵も多かったので、ついになれずじまいだったが。
陸軍の実力者として、有名な 「宇垣軍縮」 を断行した故に、皮肉なことに陸軍自体から裏切られたからだと言われる。

だが、石坂と宇垣は陸士、陸大同期生であることに加えて、共に郷里が備前岡山であった。
このあたりの事情もあり、彼らは生涯の刎頚の友であったようだ。
ついには、互いの息子と娘を婚姻させて、親戚関係にまでなったくらいだから。
そして、この二人の親密な関係も、我々が追う陽明丸事跡にも関係があると睨んでいるのだ。



さて、石坂中将について、あれこれ述べてきたが、やはり顔写真でもないとイメージが沸かないことだろう。
それで、我々が苦労して見つけた彼のポートレート写真をここに掲載する。
昔の印刷物にあったものを撮影した関係で、ボヤけていて恐縮だが。


我々が知る限り、石坂中将は諜報将校としての職業倫理のなせる業か、自身についての情報は極力漏らさないようにしていたとしか思えない。
なぜならば、陸軍中将まで栄達し、世界を股にかけて活躍していた高級将校であったにも関わらず、我々はこの4年間、彼の肖像写真一枚さえ( 集合写真でさえも! ) 見つけ出すことができなかったからだ。
これもおそらくは、退役した後の機密保持も職業柄徹底してやっていたのではないか、と勘ぐっているほどだ。
掲載写真は、あれこれと苦労して探し続けた末にやっと見つけたもので、大変貴重なものである。


ただ、この写真を見たときの第一印象であるが、それまで我々が描いていたイメージとおりの風貌だったので、妙に感激したことを覚えている

日本人離れした、端正で彫りの深いハンサムな風貌。
そして、洗練されたスマートさが垣間見える。
何よりも、目から鼻に抜けるような怜悧なダンディズムを感じる。
柔和な表情だが、隙というものがない。

およそ武人という押し出しではない。
むしろ熟練した外交官ないしは際立った能吏という印象である。

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人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(2)

以上が、我々が問題の人物Xと推論する軍人のおおざっぱな略歴である。

これを一読すれば、ミリタリーにある程度詳しい方なら帝国陸軍での彼のステータスについては大体おわかりいただけると思う。
だが、ミリタリーにさほど詳しくない方のために、敢えて捕捉説明させてただくことにしよう。


まず、陸軍幼年学校を出て、士官学校に進み、さらに陸軍大学校まで卒業したという学歴。
これだけでも、彼はあまたの陸軍軍人の中でも超エリートであったことが明らかだ。
どれだけ凄いエリートであったかといっても、わかりにくいと思うので、これを現代に置き換えてみよう。
ほぼ匹敵するキャリアというと、まず国立の中高一貫の名門校を出て、東大法学部に進み、更に国家公務員上級試験に合格、生え抜きの財務官僚ないしは外務官僚となる人物であろうか。

これに加えて、父親が陸軍軍医総監(軍医の長官)であったので、毛並みの方も申し分なく、いわば生粋のサラブレッドというところだろう。
時は明治時代である。
これに出身地が薩長閥、とりわけ長州であったなら、末は元帥・総理大臣を目ざす完璧な出世コースであったのだろうが、残念ながらこれだけは本流から外れる備前岡山であった。
だが、岡山と言えば、あの茅原船長もたしか同郷であった。 

さて、石坂中将の場合は、この他にも更に陸軍砲工学校も出ており、エリート軍人の中でも並外れて高い学歴であったと言えるだろう。
そして、最初に少尉に任官して配置された連隊は、陛下をお守りする栄えある近衛師団の旗下であった。

超エリートしか入れない陸軍大学校を卒業してからは、キャリア軍人のお決まりコースであった陸軍参謀本部の参謀に任官。
そして、これまたキャリア軍人の特権であった海外赴任先として、まずロシアのウラジオストクに差し向けられた。
陸軍大学校を上位で卒業する者には、優先的に海外(特に欧米)での留学や軍務が割り当てられ、それに応じた語学研修が必須であった。
彼の場合は、ロシア語であったわけだ。 
つまり、石坂中将の場合は、「ロシア屋」 として、戦前の一貫した仮想敵国ロシアについての軍事研究が任務として与えられたのが、軍務の出発点、と見て良い。
 
さらに東京の大本営参謀を経て、1904年の日露戦争の勃発とともに、満州の遼東半島方面に布陣した第二軍 (司令官 奥保鞏大将) の諜報担当幕僚となった。
ここの軍務でも、彼の対ロシア専門家としての能力が縦横に発揮されたことだろう。 

そして日露戦争後は、語学力と対露諜報将校のキャリアを買われたためであろう、ロシア帝国ウクライナの要衝オデッサに派遣され、駐在武官となった。
帰国後は野砲兵第5連隊(広島)連隊長を拝命、さらに第五師団(広島)の参謀長に昇格。

1914年の第一次世界大戦開始とともに同盟国であったロシア帝国に派遣され、現地で観戦武官としてロシア軍に従軍、東部戦線でのドイツ軍との戦闘も間近で見聞した。
この大戦のさなかに陸軍少将にめでたく進級、晴れて将軍となった。

さらに、ロシア通であることを買われて、大戦後期である1917年から1年数ヶ月にわたり、在露日本大使館付武官を務めた。
ここで重要なのは、首都ペテルブルクでロシア革命に遭遇したことである。
外交官や一民間人としてではなく、世界を震撼させたロシア革命に日本の軍人として立ち会ったのは彼を含めて数えるほどしかいなかったはずだ。
しかも、その舞台は例の800人の子供たちの故郷、ペテルブルクであった。
 
帰国後は野戦重砲兵第1旅団(横須賀 近衛師団)旅団長に進んだ。
さらに、1918年のシベリア出兵では、浦塩派遣軍司令部付となり、翌年1919年2月から1921年3月まで陸軍の諜報組織の重要出先機関であったハルピン特務機関(満州)のトップ(機関長)を務めた。
1920年8月には陸軍中将に進級。

だが、彼の軍人としての華々しいキャリアはこのあたりでピークに達したようだ。
翌年1921年にはリタイア前の腰掛けであろう、閑職である由良要塞(大阪湾)司令官を務めた。
彼のようなエリート軍人であれば通常は最後の花道であるはずの師団長にも就くことなく、翌年8月に待命となった。
1924年3月には予備役となり、ここで軍歴は一応終わる。

戦前は陸軍将官というのは名士中の名士であり、もし彼に野心があれば、ここで他の 日の当る名誉職にいくらでも転身できたことだろう。
ところが、何故かその後は一転、輝かしい前歴とはさほど関係の無い地味なポスト、東京靖国神社の展示施設、遊就館の館長に就任した。
また、故郷備前の名君、池田光政公の伝記( 「池田光政公伝」 ) を編集してもいる。
要するに、リタイア後はエリート軍人としてのキャリアに頼らず、趣味人として悠々自適の余生を送った、ということのようだ。
死没は1949年であり、第二次世界大戦も終わって後のこと。
享年77歳。
 

ざっと、このような人生であった。
その中で我々が特に注目するポイントとしては、日露戦争以前から第一次世界大戦、そしてシベリア出兵に至る長期間の、彼の対露諜報専門家としての特異なキャリアである。

人道の箱舟 陽明丸 大正期日本の007 米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長(1)

以上、陽明丸の大航海を巡る七つの謎について、それぞれ提示した。
仮に、これらを一つの方程式とするならば、それを解くにあたってキーとなる変数に相当する(と我々が推論する)或る人物を紹介したい。


(以下は、インターネット百科事典 Wikipediaに掲載されている情報)

氏名     石坂 善次郎
生誕   1871年9月17日
死没   1949年2月26日(満77歳没)
所属      大日本帝国陸軍
軍歴   1890 - 1924
最終階級   陸軍中将
除隊後   遊就館長

石坂 善次郎(いしざか ぜんじろう、1871年9月17日(明治4年8月3日) - 1949年2月26日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。

経歴:

兵庫県出身。山本庄五郎の二男として生まれ、陸軍軍医総監・石阪惟寛の養嗣子となる(本籍・岡山県)。
陸軍幼年学校を経て、1890年7月、陸軍士官学校(1期)を卒業し、翌年3月、砲兵少尉に任官し近衛砲兵連隊付となる。
1895年11月、陸軍砲工学校を卒業。さらに、1900年12月、陸軍大学校(14期)を卒業。
陸軍参謀本部出仕、参謀本部員、ウラジオストク駐在、大本営付などを経て、1904年3月、第2軍諜報参謀として日露戦争に出征した。
戦後、ロシア差遣、オデッサ駐在となった。
1909年11月、野砲兵第5連隊長となり、第5師団参謀長を務めた。
第一次世界大戦ではロシア大本営付となり観戦武官としてロシア軍に従軍。
1916年8月、陸軍少将に昇進。
翌年1月から1918年4月までロシア大使館付武官を務めた。
野戦重砲兵第1旅団長を経て、シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付となり、1919年2月から1921年3月までハルピン特務機関長を務める。
1920年8月、陸軍中将に進級。
1921年4月から由良要塞司令官を務めた後、翌年8月に待命となる。
1924年3月、予備役に編入、その後、遊就館長を務めた。


人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(7)

そして、最後の謎である。

⑦そもそも、なぜ日本がロシア児童難民の船舶輸送に関わってしまったのか、という謎。


よくよく考えてみれば、いくら米国赤十字シベリア救護隊が子供たちを連れての洋上への脱出を焦っていても、所詮は彼ら自身の問題であった。
日本には直接の関係のない話であった(はずである)。
ところが、実際には深く関わってしまった。
この点は、あまり考えもせず素通りしてしてしまいがちだが、何か腑に落ちないものをずっと感じていた。


形としては、一応は「民間ビジネス」の体裁を取ってはいるが、日本が割に合わない大変なリスクを負担して陽明丸大航海を実現させた、と見る。
それは何故か。 

この点を米国赤十字やロシア側が何ら疑問を呈示していないので、つい我々も看過しがちであるが、不思議と言えば不思議ではないか。


我々が立てた仮説では、こと陽明丸の航行に関しては日本政府ないしは日本軍が水面下で関与していたのではないか、というものだ。
では、日本側がなぜそのような煩わしいことを敢えて行う必要があったのか。
以下に推論を述べよう。


陽明丸がウラジオを出航したのは、1920年の7月。

実は、この時期はアレンや子供たちにとっても、さらに日本にとっても実に重要な出来事が次から次と起きていたのだ。

まず、この頃の日本軍シベリア派遣軍の状況。
約二年前の出兵開始以来の戦果といっても、決して芳しいものではなかった。

当初は、出兵の大義名分であった 「チェコ軍団の救出」 を掲げながら、多国籍軍の主力として勇躍やってきた。
だが、実体は東部シベリアで跋扈していたロシア過激派武装勢力の掃討と日本の利権の保護・拡大という、「一石二鳥 」 を目ざしたものだった。
だが、敵は精強な日本軍との正面対決を極力避け、もっぱらゲリラ戦で対抗した。
つまり、いくら日本軍が敵の主力を補足して撃滅しようとしても、本隊自体はするりと逃げ去ることが多かった。
その一方で巧みなゲリラ戦を行い、日本軍の孤立した部隊を不意打ちして被害を与えることが多々あった。
( たとえば、「田中大隊全滅事件」 )
 
広大なシベリアの地の利を、過激派軍は知り尽くしていた。
いくら日本軍が必死に追っかけても、大部隊ごと捕捉して殲滅することは難しかった。
数万人規模の軍を送ったところで、広大な東シベリアの点と線の一部をかろうじて守備していたに過ぎなかった。

これに零下数十度という、冬期シベリアの想像を絶する寒さ、つまりロシア冬将軍が過激派パルチザンの援軍に加わる。
極寒の冬装備がきわめて不十分であった日本軍は、パルチザンと冬将軍の挟撃に深刻に悩まされていた。



そうこうしているうちに、この前年の11月にはウラル・オムスクの白軍政権が赤軍大攻勢で崩壊し、敗残兵やその家族が東シベリアに逃げ込んできた。
それを追撃し、勢いづいた赤軍主力部隊が大挙してシベリアに押し寄せてきたのであった。
土着の過激派武装勢力と連携し、白軍や日本軍に一段と強い攻勢をかけてきたのだ。

日本軍の出兵の大義名分も次第にあやしくなってきたのもこの頃。
第一次大戦自体の終結、そして内戦の泥沼化や支援していた白軍の劣勢が進むにつれて、日本軍の当初の戦略が次々と破綻していった。
つまり、共同出兵の意義がなくなり、日本以外の国の各部隊が次々と撤兵していったこと。
そして、モスクワ政府の軍事・外交を硬軟織り交ぜた巧みな政治攻勢に、ウラジオ派遣軍は翻弄され始めていたこと。

アレンが必死に脱出方法を考えていた1920年春頃には、多数の日本軍守備隊・在留邦人がパルチザン軍に虐殺された「尼港事件」 が起きた。
日本国民を憤激させた大事件であったが、現地のウラジオ派遣軍やアレンたち米国赤十字隊にも強い衝撃を与えたはずだ。
彼らが状況判断を一歩でも誤れば、同様な危機に見舞われることになるのだ。

歴史を知る後世の我々は、「日本軍はもっと早めに撤兵していればよかったのに」 とつい思ってしまう。
だが、あまりにも複雑な状勢に追い込まれていた当時の人々の、状況判断の迷いを攻めるのはフェアではないかもしれない。

とにかく、ここまで状況が悪化すると、日本軍の撤兵自体が逆に難しくなっていった。
何しろ、無敵皇軍の軍旗を奉じて、シベリアに勇ましく進軍したのだ。
莫大な戦費を使い、戦況がまずくなった挙句に何の成果も得ず撤退するなんてことは、大元帥陛下に申し開きが立たない。
そして、「無力無能な日本軍」 として世界中の笑い者になることを極度に恐れたのに違いない。

丁度、「世界の警察官 」 米国がベトナム戦争にずるずると、はまっていったのと酷似している。
「大国」 「強国」という過剰な自信、プライドが逆に桎梏となって国の大局を誤らせてしまったわけだ。
この種の致命的な過ちを、昭和の軍部は性懲りもなく繰り返すことになるのだが.....
人間とは所詮、歴史からは 何も学ばない愚かしい生き物であるかもしれない。
 

ただ、大正時代の軍部を弁護するならば、彼らは猪突猛進なだけの昭和軍部と異なり、多少の柔軟性は持っていた。
山形有朋など、幕末維新の元老の最後の世代がまだ存命であった時期だ。
当時の皇室や軍・政指導者の後見人であった元老たちの冷厳なリアリズムを、軍部といえども黙殺するわけにはいかなかったはずだ。
陸海軍は天皇の統帥権に基づき、形式上は内閣の指揮権外にはあったが、軍部は暴走することなく統制は一応保たれていた。


それゆえに、現地ウラジオ派遣軍司令部も、東京の指導者たちの政策転換に合わせて、かなり柔軟な状況判断を強いられていた。
つまり、1918年の出兵当初は掃討一辺倒であった戦略を次第に後退させ、この1920年5月頃になると、現地ではモスクワ政府側・赤軍勢力との和平への道を模索していた。
具体的には、内戦での政治的中立への転換をアピールし、敵との戦闘を極力回避しつつ双方勢力の共存をはかるところまで妥協し始めたのだ。
少数の拠点都市周辺にまで追い込まれていた日本軍は、次第に勢いを増す親共産政治勢力との外交的駆け引きにも必死に応じていた。
それらの結果として、双方とりあえずの利害を一致させる緩衝国家として 「極東共和国」が樹立されたのも、丁度この頃である。(この年、1920年4月)


だが、どういう風に取り繕っても、これは結局は無敵皇軍の屈辱的な譲歩であることには変わりない。
だから、実際に戦闘を担ってきた現地の将兵は、この猫の目のような方針の変化に動揺した。
部隊の士気も、一段と低下していった。
もはや、東シベリアで政治的・軍事的に孤立していた日本軍は、いずれは全面撤退するしか道はなかった。
それも、皇軍のメンツや撤兵時の安全を保ちながら行わなければならない。

いわば、「 狂犬の駆除」 にやってきたつもりが、数を増した 「 狂犬の群れ 」 に十重二十重に囲まれ、ゆっくりと後じさりしながら逃げ出さなければならない状況だったのだ。
情けないと言えば情けない。
だが、丁度その頃にはそういう難しい状況判断を、時の政府や軍首脳が強いられていたわけだ。


そして、一方では、衰退した英国に代わって超大国に躍り出た米国からも警戒され、白眼視されつつあった日本。
つまりこの頃は、急速に強大化した米露両国に大日本帝国が挟撃され始めた歴史的原点であったと言えなくもない。

ゆえに、日本政府、日本軍ともに非常にナーヴァスになっていたはずで、特にウラジオ派遣軍は高所で綱渡りをしていたのと同じ思いであったに違いない。
安全且つ名誉ある撤兵のために、米露両国政府を極力、不用意に刺激せず、摩擦も起こしたくなかったはずだ。



このような薄氷を渡るような状況下、例えばウラジオで突発的に激しい衝突が起き、それに巻き込まれた800人のロシア児童や米国赤十字隊が多数死傷したらどうなるか....
これは、彼らにとっては想像しただけでも、ぞっとするものではなかったか。
米国軍はもう既に撤兵しており、日本軍のみが執拗に駐留を続けていたのだ。 (出兵各国の撤兵方針に逆らってまで)
だから、そのような大不祥事が起きても、米軍とも責任を折半するわけにはいかない。
そして米露のみならず、世界中から日本の不手際への非難の合唱が轟々と沸き起こるだろう。
国内外ともに、ただでさえ評判の悪い日本軍シベリア出兵である。
さらにトドメを刺すほどのダメージを受けることになるだろう。
 
この恐ろしいリスクを回避するには、ただひとつの方法しかあり得ない。

つまり、思いきって日本軍当局が秘密裏に関与し、彼らを洋上に逃すことである。
だが、政府や軍が表に立つとまずかったであろう。

なぜなら、アレンたち米国赤十字シベリア救護隊は子供たちを勝手に国外に連れ出そうとしていたのだ。
これは、下手をすれば国際法上の「拉致事件」 と認定されかねない事案であった、と見る。
なぜなら、ロシア児童は犬猫ではなく、緊急保護のためいえども、一応はモスクワ政府側の国民であった。
ゆえに、少なくとも国外に出すには親やモスクワ政府の同意を得る必要はあったはずだ。
だが、それどころかモスクワ政府は、彼らは米国赤十字に拉致されたと声高に非難していたのである。
彼らが陽明丸で米国にたどり着き、上陸した時点でも親モスクワの大衆を扇動し、間接的にしつこく攻撃を続けたくらいだ。 
 

ゆえに、そのような類のことに日本政府が直接関わることを、共産ロシアと米国政府は面子に賭けて絶対に認めたくなかったであろう。
表面上はあくまでも  「 民間ビジネス 」  を装いつつ、波風立てずにマスコミからの注目を避け、とにかく早急に出立させねばならない。

以上のような、せっぱつまった動機が日本政府・現地の軍に生じていたのではないだろうか。

そして、このような重要な判断に深く関与したのが、例の人物Xであったと我々は見ている。 




人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(6)

⑥他の船舶会社が全て断ったのに、勝田銀次郎はなぜ陽明丸の提供を引き受けたのか、という謎。


傭船者であった米国赤十字の記録のみから、この事跡を読み取ろうとすれば、陽明丸は手をあげたら来てくれたハイヤー程度にしか思われないだろう。
しかも、彼らにいわせれば、船はパッとしない貨物船、船長以下の乗組員は何を考えているのかわからない粗野な東洋人であった。

幸いなことに船長手記が見つかり、そして我々日本側の調査研究が進むにつれて、このような不当な評価は百八十度修正されつつある。
また、この大航海の難事業を引き受けた勝田銀次郎の役割も、同じく再評価されて然るべきというのが我々の考えである。

とにかく米国サイドの記録に基づく見解で気に入らない点は、「陽明丸が確保されたのは全くビジネス上の偶然だ、ただそれだけだ。」 というような単純な決めつけだ。
その根拠とは、「 米国赤十字は勝田汽船に傭船料を払っているはずだ。 それを目当てに引き受けたのだろうから、 これは完全なビジネスである。」 という見解であろう。
その帰結として、日本側の善意、侠気というものを全く評価しなかったのだ。
これには何かにつけて、「 全ての正義は米国が行い、米国の思想・行動だけが正義である。」 というアメリカ特有の独善主義の匂いがプンプンする。

たしかに、ロシア国内で児童たちを救出し、彼らを地球を一周して無事親元に届けた崇高な行為はいくら賞賛してもしきれない。
それは素直に認めよう。 
ところが、彼らにはもう一度よく考えてほしいことがある。
アレンが一日も早く子供たちとウラジオを脱出しようと、船舶会社にかたっぱしから要請しても、全てにべもなく断られていた、という事実を。

「下手な鉄砲数打てば当たる」 どころか、勝田汽船が引き受けなかったら一発も当たらなかったところなのだ。
実際の話、最も頼りにしていた米国政府、米国赤十字に懇願しても振られていたくらいだ。
これには、当然理由があり、もしこれがビジネスとして旨みがあれば、国籍問わずどこの船舶会社でも喜んで引き受けていただろう。
それが、全て断られたということは、それなりの理由があるからに違いない。


我々からすれば、それはごく単純な話である。
要するに引き受けるには、あまりにもヤバ過ぎる仕事だった。
米国赤十字流に言えば、「 ただそれだけのこと」 ではなかったか。

何せ、船客は例の、どう扱えば良いかさっぱりわからない面倒な連中、約1000人。
予想される幾多のトラブルを処理しながら、彼らを乗せて二つの大洋を超え、機雷の浮かぶぶっそうな北海、バルト海をくぐり抜け、地球の向こう側まで届けよ、というのだ。
1000人の船客を運べるような客船は当時はそう多くなかったから、貨客船ないしは貨物船を突貫工事で、大改装しなければならない。
これらのことに恐れをなさない船舶会社は果たしていたものか、と訊きたいくらいだ。

しかも、これだけ高いリスクを背負いながらも、何かのトラブルで運航中止にでもなれば、その責任を米国側から追及されるのだろうし、もし機雷に触雷して爆沈しようものなら世界中から袋だだきに合うだろう。
今も昔も、交通事故や海難というものは実際の運行当事者に責任がかるものであるからだ。
そうなれば会社自体が潰れるだけでは済まず、政府と国民に大迷惑をかけてしまうのである。 

殊に、モスクワの共産党政府は800人の児童たちは米国赤十字に拉致されたと強く主張していたのだから、その片棒を担ぐ船舶会社及びその母国も米国同様に赤色ロシアから糾弾される恐れがあった。
このことも彼らを怯ますのには十分であっただろう。

執筆者は、肝心の米国政府と米国赤十字が二の足を踏んだのは、まさにこの点であろうと推論している。
当時、内戦に勝利しつつあった赤色ロシアはどんどん勢力を拡大しつつあった。
モスクワを司令部に、世界革命を起こすことを目ざすコミンテルンも設立されたばかりだ。
後に権力を掌握したスターリンが1924年、一国社会主義論に方針変換するまでは、モスクワの指導者たちは、本気で世界革命を推し進めようとしていた。
つまり、共産ロシアに敵対ないしは好意的でない国々には 「お前の国で革命を起こさせるぞ!」 と恫喝し始めていたのだ。
クレムリンの連中にしてみれば、シベリア出兵で聖なる大地ロシアに土足で乗り込み、 熾烈な内戦で敵側を支援してきた国々( 特に、日本、英仏米の各国 ) は特に許せなかったことだろう。
「懲らしめてやらねば」、という、 「リベンジ」 の思いに相当に駆られていたはずだ。
 

このような、いわば 「超問題物件」の傭船オファーであったわけであり、一流の企業人であった勝田銀次郎が単なる義侠心だけでそれを引き受けたとは、到底思えない。
大きな会社の最高経営責任者として、株主や従業員にも責任のある立場であった彼だ。
このような途方もないリスクを人情だけで引き受けたとするのは、余りにも短絡的ではないだろうか。

当時の日本の船舶会社は、勝田汽船以外にも日本郵船や山下汽船など、大手が幾社もあった。
それらの会社は名乗りをあげず沈黙し、なぜ勝田の一社のみが引き受けたのか?

たしかに、勝田は人一倍博愛精神に満ち、義侠心に富んだ、稀なる仁者であったには違いない。
だが、失敗した時の恐ろしいリスクを考えると、それだけで簡単にイエスと言えたものだろうか。
しかも、その傭船者とは、日本とは外交的軍事的にも利害が衝突しがちな米国の赤十字。
それも日本軍のシベリア派遣軍の本拠地、ウラジオから船を出す特別ミッションであった。

形の上では民間ビジネスではあろうが、外交・軍事にも微妙に影響する極めて特殊な事案であり、勝田が国や軍部に無断で受け入れるものだろうか。
義侠心に加えて、もう一つ何か、強い力学がそこに働いたのではないだろうか。

例えばの話、これが逆に日本政府ないしは軍から勝田に、内密に強い協力要請があったのだとすれば、どうだろう。
因果を含められて、「 この仕事の成否は、大日本帝国の浮沈に係わるものだ。なんとか引き受けてもらえないか。」 と迫られていたとすればどうなるか。
愛国心の強い勝田でもあったから、その場合は腹を据えるしか選択肢がなかったのではないか。
観念して、俎板の上の鯛となり、「そこまでわしに頼まれるのでしたら、わかりました。 お国のためにやってみましょう。」 と。
ついに覚悟を決めて、あの難事業を引き受けてしまったのではないだろうか。

そして執筆者、そのような裏工作を仕掛けたのも、問題の人物Xではなかったか、という推論を立てている。

人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(5)

⑤陽明丸の船長が茅原基治であったことは果たして偶然か、という謎。

以前に詳しく述べたように、陽明丸の大航海は、実は我々の想像を絶するほどの難事業であった。
貨物船を無理やり大特急の突貫工事で改装し、多国籍の船客約1000人を積み込み、約三ヶ月をかけて二つの大洋を超えた。

乗客の主な人々は次のとおりである。

親元から離れて、極寒と内戦のロシアを生き延びたロシア人児童約800人。
彼らは子供ながらも過酷なサバイバルで、幾多の危機をくぐってきた子供たちである。
米国赤十字でも扱いに持て余すほど、一筋縄でいかないワイルドな連中であった。
そして当時からクレーマーとして定評のあった米国人の赤十字隊員たち。
彼らが監督役として船に乗り組んでいた。
彼らは傭船者として、日本人乗員には厳しく要求することが多々あったようだ。
他にも、かつての敵国の帰還捕虜も多数乗船していた。
幾多の戦場をかいくぐってきた屈強な 男たちであった。
その気になれば叛乱を起こして船を乗っ取ることもできたはずだ。

そして、乗組員たちは客船サービスの経験はほぼゼロであるところに、洋上という逃げ場のない環境で皆がストレスを溜めていたので、船員とロシア悪童たちとの喧嘩沙汰も起きた。

そのような場合は、米国人たちの眼差しは日本人乗組員には常に厳しく、「 喧嘩両成敗 」ではなかった。
米国赤十字側の記録でも、その都度、船長を筆頭に日本側の非を咎めている。
ゆえに、前に紹介した米国人ライターが書いた本では船長は無能な変人、船員たちは粗暴な男たちとしてネガティブに描かれているわけだ。 

そして何よりも、最終目的地フィンランドに至る北海からバルト海にかけての海域は十分に掃海されておらず、大戦時の危険な機雷がまだ多く残っていた。
陽明丸はそれらを避けて慎重に航行しなければならず、一個でもうっかり見落とせば爆沈する危険があった....



このような、いわば 「ストレスの総合デパート」 のような酷い環境で、ひたすら耐え抜き、任務を最後まで全うした茅原船長には日本人として心からの敬意と感謝を捧げたい。
船員たちにも同じく 、「あなたたちは本当に偉かった。よくがんばって耐えてくれた。」とその苦労をねぎらいたい。

特筆すべきは、このような過酷なミッションを、彼以外の並みの船長が成就できたとは到底思えないことだ。
まず当初から懼れをなして引き受けなかったであろうし、もし万が一引き受けても一週間も耐えられなかったのではあるまいか。
また、船内でのトラブルが深刻化すると、運航自体に支障をきたし、寄港地のどこかで中止になっていた可能性も十分あり得た。
何よりも、船長の運行指揮能力が低ければ、船は機雷に触れて全員が海の藻屑と消えていただろう。

これらの難関を全てクリアーできたのは、ひとえに茅原船長の並外れた忍耐強さ、自己抑制力、そして指揮能力の高さによるものとはっきりと断言できる。

一方で、茅原船長は航海中は上記のようなストレス漬けの毎日であったにも拘わらず、暖かい心遣いでロシア児童たちの室蘭上陸にも尽力し、市民との交流で子供たちの閉ざされた心を開こうとした。
また、これは米国赤十字の記録にも残っているのだが、船長は船内で病没した或る少女のために、実に丁重に船葬を執り行っている。
これにはさすがに日本人には厳しかった米国赤十字隊員たちも感銘を受けたようだ。 
ロシア児童たちの心にも、日本人への好印象が深く刻み込まれたものとして伝えられた。
これら陽明丸の小さな船客と乗員たちは、大西洋に出て、最終寄港地に向かうころにはすっかり仲良くなっていた。、
いつしか冒険的な大航海を共にやり遂げたという連帯感で、言語、年齢等を超えて強く結ばれていたのだろう。


神は米国赤十字隊を極寒のロシアに送り込み、危機にあったロシア児童難民たちをきわどいところで救出させた。
そして、次には茅原基治を陽明丸船長として送り込み、地球を無事一周後に親元に返させた、と理解したい。

だが、このように幸いにも最も優れた船長が送り込まれたことは、果たして偶然と考えてよいものか。
否、我々は決してそう思わないのだ。

この、神のような人選も、結局は例の人物Xが行ったのではないか、と考え始めている。
つまり、これまでのところ定説であった陽明丸及び船長確保の経緯、すなわち 「アレン隊長⇒トイスラー博士⇒勝田銀次郎⇒茅原基治」 ではなく、実のところはその真逆の 「 問題の人物X ⇒茅原基治 ⇒ 勝田銀次郎⇒トイスラー博士⇒アレン隊長」 というふうに事が進んでいったのではないか、との推理を立てている。

人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(4)

④陽明丸の水夫たちが、水兵服を着用して撮った集合写真に関する謎。


我々がこの写真に最初に出会ったのは、まだ船長の身元特定に至っていない2010年5月頃。
1970年代の旧ソ連時代に発行された日本向け月刊ジャーナル誌 「 今日のソ連邦 」 での「ヨウメイマル」 事跡紹介記事の中で掲載されていたものだ。
「ヨウメイマルの乗組員」と紹介されていた。
それが下記の写真である。

DSCN2072

 


















ご覧のとおり、水夫たちの服は、水兵服である。
水兵風の下級船員以外では、船長や航海士など、階級別に見合った通常の船員服である。
手前側の左側には茅原船長の姿が見える。
ここで不思議に思ったのは、民間貨物船であったはずの陽明丸の水夫たちが、なぜ水兵服を着ているのか、という点だ。

一方で、オルガや米国赤十字関係者の資料写真、そして後に見つけた船長手記に掲載された陽明丸水夫たちの写真では、全て船内作業服のようなものを着ている。
上記の一枚のみが水兵服を着用しているのだ。
長い間、その理由についての疑問が解けなかった。

このことについて、その後ある時に海運史関係の専門家に思い切って訊いてみたことがあった。
戦前の日本で、一体このようなケースは有り得ただろうか、と。

彼の意見では、あくまで水兵服は基本的には軍艦のセーラー、つまり下級の海軍水兵が着用していたもの、とのこと。
ただし、海軍が民間船を輸送任務等で徴用ないしは傭船したことがあり、その場合は海軍水兵が乗員として乗り込むことがあって、民間船に水兵服の男たちがいても不思議ではなかっただろう、とのこと。
ただし、船自体が民間船で水夫もただの民間人である場合は、そういうことが有り得たかは疑問だ、とのことだった。
要するに、民間船の乗員がその種の軍服のようなものを着ることはまぎらわしく、普通はあまり考えられない、いうことらしい。
それはそうであろう、と納得した。
 

現代でも、例えば海上自衛隊の隊員服に似た制服を民間船の船員が着ることは、お遊びなどの場合を除いて基本的にはありえないし、当時も同じであったと思われる。
だが、現にこのように水夫一同、海軍兵のような格好で写真に収まっているではないか。
とてもおふざけのようなものに見えない。
体にも合っているようだし、実際に彼らに支給されたものであろう。 
この点に関してどう解釈して良いものか、困惑するものがあった。

だが、執筆者の仮説どおりに、もし日本軍が陽明丸の航海に何らかの関与をしていたとすれば、このようなシチュエーションは有り得たのではないか、と思うのだ。


第一次世界大戦当時、海外の戦地で活動する米国赤十字の隊員たちは政府から軍人と同様のステータスを付与されていた。
すなわち軍隊階級の付与、軍服などが支給されていたものだ。
例えばトイスラー博士は大佐の階級を与えられ、アレンも中佐、その他のシベリア救護隊の幹部たちも尉官の階級を与えられていたと記録に残っている。
また、危険な任地で活動する場合は自衛のために拳銃を携行することもあった。

そして、米国赤十字の要請で出航した陽明丸であるので、そのような米国式スタイルに合わせて水夫にも軍服系の服をあてがったとすれば筋が通るようにも思うのだ。
世界大戦が終結してから間もない時期で、海上も治安が決して良くなかった。
洋上を航海中に、モスクワ共産政府側の艦船など敵性の船舶や海賊等の拿捕・襲撃も有り得たはず。
そういうものに備えるための配慮でもあった可能性があるように思う。
ただし、実際にはわずかの儀礼的な場合を除いて、着用される機会は少なかったことだろう。 

だが、当時は日本と米国とは、第一次大戦後の国際秩序を巡る摩擦が起き始めていた頃。
米国が日本を仮想敵国とみなして太平洋戦略を本気で再構築するのは、大体この頃からである。
また日本もそれに対抗して米国を仮想敵国と意識し、将来の軍事的衝突を想定し始めた。


そして、そのように日米関係が次第に険悪になり始めた頃に組まれたのが、陽明丸の特別ミッションであったわけだ。
船主の勝田汽船も双方の顔色を見ながらナーヴァスになって当然ではないだろうか。
ゆえに、日本政府、特に軍の承諾なしにこのような水兵服もどきの服を、米国赤十字が傭船した船の乗組員に着せることを無断でやるとは思えない。  

一応、以上のような推定が成り立つとすれば、これはやはり軍ないしは政府自体の黙認があってこそ可能であったといえないか。


以上の推量に基づくと、この写真自体も陽明丸大航海への軍の関与を匂わす証拠といえないだろうか。

また、もしそうであれば、問題のこの人物、Xのステータスと権限から考えれば、以上のことは可能であったとも思われるのである。







人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(3)

さらなる疑問について述べてみよう。


③貨物船陽明丸は急遽大改装されたが、その工事期間はたった1ヶ月余であった。
 担当官庁の許認可があまりにもスムーズに得られたのは何故か、という謎。


米国赤十字との傭船契約が交わされた貨物船陽明丸であったが、急遽大改装し、約千人分の船客の収容スペース・設備等を無理やり設け、 臨時の「準 ・ 客船」 に仕立てられたわけだ。
いわば、超大型トラックを無理やり改装し、荷台にいろいろな構造物をくっつけて、臨時の大掛かりなキャンピングカーに仕立てたようなものだ。

現代ではこのような突貫工事の改装自体を管轄の監督官庁(国土交通省海事局)が簡単に認可するとは考えられない。
それどころか、そういう申請をするだけでも、目を剥いて却下されるのが落ちであろう。

この一ヶ月余という期間については米国側の記録にも残っているので、間違いない事実である。
その事自体、我々は何気なく看過しがちであるが、これは考えてみれば不思議なことではないだろうか。
 
アレンたちにとっても貨物船を急遽客船に大改装するようなことは 「 むちゃくちゃ 」 であることは、十分認識していたことだろう。
だが、刻々と危機が迫るウラジオストクから一日でも早く脱出しようと焦っていたから、背に腹は変えられない、と腹を括っていたことだろう。

だが、たとえ突貫工事で物理的には改装を終えたにしても、通常では担当官庁(当時は逓信省管船局)から安々と許認可が得られたとは考えにくい。
単に船の総トン数が増加する だけでなく、多数の船客を運ぶのであるから、臨時の船室・設備など構造上の安全性チェックも必要であろうからだ。
船会社が、改装後のこれらの項目の変更登記を申請し、当局がそれを承認し、登記がなされるという手順が必要であったはずだ。 

いくら大正時代の昔であっても、法治国家としての官僚統治は既に完成していたので、これらの手続きを省いて勝手に船出することは違法であった。
車の改装も船舶の改装も基本的には関係法規に基づく届出・許認可が必要であることは今も昔もさほど変わらないはずだ。
否、当時はむしろ現代よりも役人の権威、命令は絶対的であった時代である。
手続きの簡素化とスピーディさが進んでいる現代よりも、かえってやっかいであったかもしれない。
これらのことは、念のために海運史関係の 専門家にも意見を聞き、確認してあるので間違いないと思われる。

では、どうしてそのようにスムーズに事を運ぶことが可能であったのか?

執筆者としては、当該関係官庁にこの無茶な突貫工事を黙認させ、速やかに許認可を与えるように何者かが圧力をかけたからとしか思えないのだ。
では、国家の官僚機構にその種のことを押しつけるほどの力のある、特別な存在というのは一体何であったのか?

これも、あくまで推量であるが、戦前の大日本帝国にあっては、そのような存在でありえたのは、まず軍部と考えるのが自然ではないだろうか。
後の昭和軍国ファシズム時代ほど、大正時代の日本の軍部はさほどワンマンでもオールマイティでもなかった。
それでも帝国陸海軍は天皇の直接の統帥権の下、行政最高機関であった内閣からも半独立的な存在として隠然たる権威があった。

ましてや、当時は我が国はシベリア東部に数万という兵を送り込み、大々的な軍事作戦を行っていた頃である。
特に、最前線で強力な敵と日夜対峙していたシベリア派遣軍の発言は誰も無視し得なかったと見る。
もし彼らが東京の陸軍省を通じて、「帝国の命運にかかわる軍事的事案であるから、貴官の協力を求める」 と官僚に圧力をかけたとすれば、文官である役人どもが拒むことは困難ではなかったか。

ちなみに、この人物Xはそれに加えて、陸軍や憲兵隊の上層部にも個人的な盟友がいたこともわかっている。
ゆえに、これらの強面の連中を通じて、必要な命令を関係部署の官僚たちに下すことは十分可能であったと見ている。

人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(2)

我々チームがこの人物(便宜上、彼をXと呼ぶことにしよう)の存在に行きあたったのは2011年秋であり、四年も前の話である。

ようやくカヤハラ船長の氏素性が明らかとなり、その茅原基治及び勝田銀次郎の周辺の様々な人間関係を探っていた頃である。

前にも述べたように、陽明丸の事跡の経緯を注意深く検討すると、様々な素朴な疑問が湧いてくるのだ。

その要点を列記すると以下のようなものだが、これらの疑問を解こうとすると、どうしてもそれらの背後に、作為的なしかも大きな力が働いているとしか思えない。
仮にそれを一つの方程式にするならば、そのキーとなる変数をこの人物、Xに当てはめると、謎の多方が氷解するように思えてならない。



①この事跡に関する記録類が船長手記以外はほとんど何も残っていないのは不自然さを通り越して、むしろ奇妙ではないか? という謎。

船長手記を除いて、公式・非公式、或いは官庁・民間を問わず、この事跡に係わる何らかの記録、報道記事というものがゼロに等しいほど残されていないのである。
これは、相当に不自然ではないだろうか。

なぜなら、ほぼ同じ頃に、非常に似通った事件が同じ東シベリアの地で起きているのだ。
あまりにも似ているので、陽明丸の事跡と混同される人もいるくらいだ。

それは、東シベリアで困窮し、生命の危機にあった多数のポーランド児童の保護要請を受けた日本政府が日本赤十字や軍を総動員し、救助活動を行ったことだ。
そしてウラジオから、彼らを乗せた軍調達の船がまず敦賀まで運び、国内で手厚い救護を施した後に、さらに故国ポーランドまで遠路を送り届けていたのである。(太平洋経由及びインド経由)
この時は、日本政府・日本軍当局は情報を隠さず、当初から全部公開している。
むしろ、国威発揚のためであろうが、鳴り物入りで宣伝していたふしがある。
ゆえに、記録もしかりであるが、つまり事績の痕跡が方々でしっかりと残されているということだ。
 

つまり、これと全く反対で、陽明丸事跡では、米露二ヶ国でのみ様々な記録が残されているだけだ。
一方で、唯一日本側だけが、あたかも 「 あのような事件は始めから無かった、存在しなかったのだ 」と云うような感覚を自然に持たされてしまう状況のまま、大正時代から最近まで一気に時が流れてしまったのだ。

これが人為的な力が働いた結果とすれば、何者かによるある種の情報操作ということになる。
より具体的な表現で云うと、報道規制や箝口令(かんこうれい)であり、さらに関係者への一切の記録不可の命令ということになるのである。

では、誰が何のためにそういう面倒なことを行う必要があり、実際に行なったというのだろうか?



戦前の大日本帝国という、当時世界有数の強力な官僚統治機構において、これらのことが可能であった唯一の存在は官、つまり国家権力のみであった。

つまり、唯一考えられるのは、あの陽明丸の事跡には何らかの形で、何らかの事情により、官つまり日本の国家権力が関与していたと見るしかないのである。
しかも、隠密裡に、ということになる。

この人物、Xは当時の国家権力に連なる位置にいたことがわかっており、彼ならばそのような情報統制、箝口令に関与することは十分可能であったと思われるのだ。



②なぜ、あのように都合良く、絶妙なタイミングで陽明丸が確保できたのか?、という謎。

何しろ、シベリア救護隊のアレン隊長は、ウラジオに出入りする各国の多くの舶会社に傭船を依頼し続けたのだが、全てかたっぱしから断られていた。
傭船料に見合わない、あまりにも難しい仕事である上に、リズクが途方もなく大きかったからであろう。
政治的な理由であろうが、自国米国政府や米国赤十字自体からも手を差しのべられることはなかった。

頼りにしていた米国のシベリア派遣軍は完全撤兵し、ウラジオストクには米国人の彼から見れば好ましからざる存在であった日本軍しか駐留していなかった。
記録によれば、当時の八方ふさがりのアレンの心境では、二種類の敵(ロシア過激派軍、日本軍)に二重に包囲されたような焦燥感に苛まれていたらしい。
そして、そこに突然もたらされたのが日本船、陽明丸確保の朗報である。
そのあたりが如何にも唐突である。いや、唐突過ぎるような気がする。

一応、東京に帰っていたシベリア分遣隊の元上司、トイスラー博士が斡旋して確保されたということになっているが、どうもそれでは話が出来すぎていると思うのだ。
そして、不思議なことに、アレン自身、そのあたりの事情は特に詳しく語っていないようだ。
むしろ、意図的に沈黙しているようにも思えてならない。

執筆者は、その点についても、その理由は、アレンにとって妥協できる何らかの調整がなされたからである、と見るのだ。
敢えて言えば、アレンのシベリア救護隊側とシベリア現地の日本軍とで、水面下での利害の一致が得られたとみるのが自然ではないだろうか。

つまり、内々ではアレンや児童難民たちにウラジオを一刻も早く立ち去ってもらいたい、という事情を抱えていたと思われる日本側当事者、特に ウラジオ派遣軍当局が裏工作を行い、「助け舟」を出してやった、ということではなかったか。

この場合も、Xはそのような裏工作に関与できる立場にいたので、それも十分可能であったはずである。


人道の箱舟 陽明丸 陽明丸の七つの謎(1)


さて、2009年当初はまず到底不可能と思われたカヤハラ船長の特定に関する調査を、かような経過によりどうやら達成することができた我々「陽明丸ホームズ&ワトソン」チームであった。

既にご存じのように、この船長特定の発見には、芋蔓式ではあったが想像もしていなかった興味深い別の大きな収穫も得ることができた。
カヤハラ船長自らが残した手記である。

茅原基治船長の手記、「 赤色革命余話 ―露西亜小児団輸送記 」が船長の近しい身内などに配布されたのが昭和9年(1934年)。
昭和も初期、はるか戦前の昔である。

戦後になって米国で発行された二冊の関連書籍より30年以上も前に出されており、しかも著者は当時の主要な当事者の一人であったところに、大きな意味があると言えよう。

米国で出版された二冊は、当時のウラル児童難民の救出劇の経過を詳しく扱ってはいるが、どちらも関係当事者自身が執筆したものではない。
米国赤十字社や関係者の断片的な記録文書に基づいて、第三者が再構成し、書いたものである。
その中には、日本側からの資料は何一つ含まれてはいなかった。
(それらの出版当時は日本側の資料は存在していなかったと、というやむを得ない事情もあったが)

特に、陽明丸自体の扱いは、「呼んだら来てくれたハイヤー」 程度の扱いであり、船長や乗組員の描写はフレンドリーとは到底言い難い。
特に、うち一冊(1960年代に発行)でのカヤハラ船長は、まるで無能な変人として描かれており、船員もならず者に近い、ひどい描写であった。
どういうわけか、日本という国、民族自体への軽侮と不信感が看取される文脈が随所に見られ、おそらくそのような日本人観を持った著者であったのだろう。

その意味において、この発見された船長手記は陽明丸事績探究の上で、まさに画期的な価値があり、それまでほとんど顧みられなかった日本側の大きな関与を解明するための重要な史料として位置付けられよう。
また、それと共に、それまで不当にネガティブに描写されていた船長や船員たちの名誉を回復することにも役立つことになった。
 

我々が初めて船長の手記を開いた時の胸のときめきは今でも忘れられない。
真っ先に、感銘を受けたもの。
それは、手記の巻頭ページにある、勝田銀次郎の縦一行、「敬天愛人」の書であった。
その脇には、「得山 勝田 鐐」という勝田の雅号が恭しくしたためられていた。
なぜこれに心を打たれたかは、以下の理由による。

これを見るまでは、筆者たちは茅原船長と勝田銀次郎とは単なる傭船契約だけの関係であると推定し、特別な間柄であるとは思ってみなかった。
なぜなら、当時の外国航路の船長というのは相当に高度な専門職であり(今でもそうであろうが)、試験の難関さでは、現在の司法試験や大型旅客機の機長試験に匹敵するものであったらしい。
ゆえに、そのような外国航路船長の多くは一介のサラリーマンというより、社会的地位はかなり高く、通常は船会社とほぼ対等な契約で職務を請け負っていたようである。

 しかしながら、このように茅原船長が自らの手記の巻頭に勝田銀次郎の書を掲げるには、両者に単なるビジネス上の関係以上に近しい、ある種の深い人間的な信頼関係があったからに違いないと感じさせる何物かがあった。 

天を敬い、人を愛す。

これほどまでに勝田銀次郎の人生哲学を端的に現わすものがあるだろうか。 
「船成金」であった彼の私財の一部とはいえ、かなりの大金を投じてまでも、流浪していた可哀そうなロシア難民子供たちを親たちが必死の思いで待つ母国に帰す救援船を義侠心で提供した勝田銀次郎。
そして、この途方もなくリスクの大きな運航責任者として、至難の航海をやり遂げた茅原船長。

さらに、次に掲げられていたのは、この一連のロシア子供難民救出作戦の実質的な責任者であり、同時に最大の功労者でもあったライリー・アレンの礼状の写しである。

 
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この邦訳(執筆者の拙訳であるが)については以前のブログで書いたとおりであるが、これを見れば、米国の二冊の本では決して触れられていない、アレン他米国赤十字関係者とロシア児童難民や帰還捕虜など凡ゆる船客が、如何に陽明丸とその乗員たちに謝意と友情を示していたか、が十分に感じ取れるものだ。


しかしながら、このような総括の一端を呈示するだけでは、この事績の達成も、主として日米四人の偉大な男たち(ルドルフ・トイスラー博士、ライリー・アレン隊長、茅原基治船長、勝田銀次郎船主)が連携して成し遂げたものの、ありふれた国際美談のひとつとしか捉えられないかもしれない。

ところが、この事蹟をほぼ6年間にわたり追ってきた我々チームの見解では、この大航海が無事達成された背景には、非常に興味深い事実があったと確信しているのである。
そして、この事績の壮大なシナリオを描き、その最終到達まで水面下でコントロールしたと思われる、或る人物の存在が浮かび上がってきたのだ。

では、以下にその具体的根拠を述べてみよう。

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