2012年02月01日
貝から見える世界〜その2<河口と砂浜>
前回に引き続き、沖縄本島の屋嘉田潟原という干潟の環境を紹介します。


亜熱帯気候の沖縄の川の河口には、マングローブ林という、海水と真水が混じり合う湿地帯の環境に適応した木々のしげるところがあります。沖縄本島では、那覇港へと流れる国場川河口、満湖干潟にはかなりマングローブ林が発達しています。そこよりも規模は小さいですが,ここにもそんな環境がちゃんと見られ、そういう場所にはやはりその環境に適応した貝が居る、というわけで、こちらはマングローブ林の木の上で生息する巻貝です。


現在は道路橋がマングローブの上を跨いでいますが、その昔に架けられた橋の跡や、石積みの防波堤などが残っています。その石垣の中にも、貝がひそんでいる。そしてマングローブ林には、シオマネキというカニもよく見られます。


そして、川が海へと流れるところ。満潮時には海水中に沈んでしまう川筋が、干潮のときには表に現れます。そういった、新鮮な水や、川が運んで来た栄養分が流れ込むところには、やはりそれを求める貝が集まっているのです。また、浜辺をよ〜く見ると、砂の中から水が湧き出しているところもあり、そういう場所にも貝がちゃんと居る。(※わき水の動画をちょっと撮りました。すぐうしろが道路なので車の音がうるさいですが・・。)


貝の色はよ〜く見るとほんと様々ですね。


こちらはこの干潟に初めて行った、昨年の2月下旬の大潮の日。浜辺で潮干狩りをしている人がいました。他にも、足元の岩についたアオサ(アーサー)などもきれいなのを選んで採っていたようですね。


岸辺近くの浅い水の中で見られた貝。左は、腐った肉などを食べる海の掃除屋、バイガイの一種。象の鼻のような口吻で臭いを探りながら歩いているのでしょうか。右は、タカラガイの一種が、自分の殻を外套膜で包んでいるところ。こうして身を守るんですね。


砂浜に露出した岩には、無数の縞模様が。これは、かつて浅い海に堆積した砂が層になっているのでしょうか。大昔の海底が、新しい波に洗われている。


ある雨の降った日、浜辺に佇むカニ(ツノメガニ)を見つけました。このカニ、けっこう逃げ足が早いはずなんですが、この時は雨の中だったからか、近づいても全然逃げずに、じっくりと観察することができました。岸辺の植物にはチョウなど色々な虫も見られ、陸と海の生物が出会う場所になっているんだな〜と思いましたね。


潮が引くと、波が作った砂の紋が現れる。そして、岸辺にはわき水の無数の水脈が。水が作った風景は、循環する水のようにつねに生まれ変わりながら、それが繰り返されて来た悠久の時を感じさせてくれますね。


亜熱帯気候の沖縄の川の河口には、マングローブ林という、海水と真水が混じり合う湿地帯の環境に適応した木々のしげるところがあります。沖縄本島では、那覇港へと流れる国場川河口、満湖干潟にはかなりマングローブ林が発達しています。そこよりも規模は小さいですが,ここにもそんな環境がちゃんと見られ、そういう場所にはやはりその環境に適応した貝が居る、というわけで、こちらはマングローブ林の木の上で生息する巻貝です。


現在は道路橋がマングローブの上を跨いでいますが、その昔に架けられた橋の跡や、石積みの防波堤などが残っています。その石垣の中にも、貝がひそんでいる。そしてマングローブ林には、シオマネキというカニもよく見られます。


そして、川が海へと流れるところ。満潮時には海水中に沈んでしまう川筋が、干潮のときには表に現れます。そういった、新鮮な水や、川が運んで来た栄養分が流れ込むところには、やはりそれを求める貝が集まっているのです。また、浜辺をよ〜く見ると、砂の中から水が湧き出しているところもあり、そういう場所にも貝がちゃんと居る。(※わき水の動画をちょっと撮りました。すぐうしろが道路なので車の音がうるさいですが・・。)


貝の色はよ〜く見るとほんと様々ですね。


こちらはこの干潟に初めて行った、昨年の2月下旬の大潮の日。浜辺で潮干狩りをしている人がいました。他にも、足元の岩についたアオサ(アーサー)などもきれいなのを選んで採っていたようですね。


岸辺近くの浅い水の中で見られた貝。左は、腐った肉などを食べる海の掃除屋、バイガイの一種。象の鼻のような口吻で臭いを探りながら歩いているのでしょうか。右は、タカラガイの一種が、自分の殻を外套膜で包んでいるところ。こうして身を守るんですね。


砂浜に露出した岩には、無数の縞模様が。これは、かつて浅い海に堆積した砂が層になっているのでしょうか。大昔の海底が、新しい波に洗われている。


ある雨の降った日、浜辺に佇むカニ(ツノメガニ)を見つけました。このカニ、けっこう逃げ足が早いはずなんですが、この時は雨の中だったからか、近づいても全然逃げずに、じっくりと観察することができました。岸辺の植物にはチョウなど色々な虫も見られ、陸と海の生物が出会う場所になっているんだな〜と思いましたね。


潮が引くと、波が作った砂の紋が現れる。そして、岸辺にはわき水の無数の水脈が。水が作った風景は、循環する水のようにつねに生まれ変わりながら、それが繰り返されて来た悠久の時を感じさせてくれますね。
2012年01月28日
貝から見える世界/その1<山と川>
昨年、沖縄本島北部、恩納村の屋嘉田潟原(やかたかたばる)という干潟に何度か行きました。えころんで知り合った,貝好きのNwさんや、地元でちゅらさティールームを開いているNkさんなどに案内してもらったりしながら。ここの干潟は、山から海へと至る水の繋がりがまだよく保存されているということで、その中の様々な環境に適応したたくさんの種類の貝が見られるのだそうです。貝はゆっくりとしか歩けませんから、行動範囲も狭い。だからわずかに見える環境の変化の中にも、それぞれにそこにしか居ない貝がいるのだとか。僕も虫とかカニは好きでしたが、貝はそれほど詳しく見たことはなかった。けれど、そういう目で見直してみると、そこからあらためて豊かな水辺の世界が広がっていく感じがしましたね。そんな貝から見える水辺環境の世界を、昨年に屋嘉田潟原で撮った写真で少し紹介してみたいと思います。


屋嘉田潟原から見える恩納岳。ここの海に流れ込む多くの川の水源地です。この写真を撮ったのは3月下旬。常緑樹の新芽が鮮やかな季節です。


その森の中を流れる渓流。海から1キロも歩かないところに、こんな風景がありました。水辺で鮮やかなハンミョウに遭遇。


かつて山麓には、水田が多く作られていたそうで、地元のNkさんからはそんな話も聞きました。今では草が茂る湿地になっています。でもこういう泥の中にも、そこにしか居ない貝がいるのだとか。


畑の用水路のようなところに生えている藻をすくってみました。するとそこにも、何種類もの貝がいました。どれも殻の大きさ数ミリのもので、しかもこれで大人の貝なのだそうです。


淡水の川の中にも、様々な形の貝がいることを知りました。こんなサザエのような刺のある貝が淡水に居るなんて、知りませんでしたね〜!


・・そして、川はいよいよ海へ。<その2〜海岸編>に続きます。
またフォトアルバムにも、だいたい山→海という順番で写真を(400枚以上)アップしてるので、良かったら見てみて下さい。
2012年01月23日
「竹富島の種取り祭」「久高島のイザイホー」

民映研アチックフォーラム、新年最初の上映作品は「竹富島の種取祭」「イザイホー1990〜久高島の女たち」。
種取祭には10年ほど前、西表島のユースホステルでヘルパーをしていた時に誘われて見物に来たことがあるが、夜中に家を廻る「ユークイ」に参加したことと、芸能を見ていた記憶しかない。 当時はまだそんなに民俗的なことを良く知らなかったから。
沖縄のまつりは本土のものに対して一般に女性が中心の役目を持つまつりであると言われることが多い。
でも、あらためて流れを見ていると、御嶽を中心とした女性の世界と、来訪神「ミルク(弥勒)」を中心とした男性の世界とが出会うことで「豊穣」を願う、というストーリ,イメージがとても明快なんだなだと思った。
また広場で舞われる踊りは女性のものが多かったり、反対に舞台で行われる芸能は男性の演じるものが多かったりするような気もした。
舞台の芸能の始めに白髭の翁が出て来る所は、日本の神楽とも共通するし、子どもたちに手を引かれた「ミルク」はまるで権現さまだ。
おまつりを見ていると、その土地でどういう人が暮らしていて、そこに住み始めた先祖がどのように暮らして来たか、何を願って来たか? そんなことが想像できるような気がする。そんなことも、最近、各地の色々なお祭りを見て来て気付くことで、面白いな〜と思う。
続いて見た、「イザイホー1990〜久高島の女たち」
久高島で12年に一度午(うま)年に行われていたイザイホー。
だがこの年はそれが中止された初めての年だった。まつりの中心となる2人のノロの一人が亡くなり、一人が入院していた。
映像はイザイホーがあれば参加することになっていた女性たち数人へのインタビューと、12年前の写真によって構成され、またイザイホー以外の行事も少し記録されている。
竹富島との比較で言えば、種取り祭は農耕を中心とした世界のお祭りであるのに対し、久高島では漁業が生活を支える割合が高いらしく、海のめぐみを願う要素が強かったような気がした。これからの望みを祈るというよりも、これまでの恵みに感謝するような・・より内面に入って行く祈りを感じた。
男は漁に出て、女が畠を耕すという役割が分かれているせいか、男女の行事も種取り祭のように象徴的に重なるということがないようにも思えた。
イザイホーの中では、「7」という数字が繰り返し出てくる。中でも知られるのは冥界へと向かう?「七つ橋」。
それを見て、そういえば人間を始めほ乳類の首の骨は(キリンもクジラも)7つだったなあ、ということを思いだす。 (※例外もあり) ・・昔の人は、今よりも具体的な「遺体」に触れる機会は多かっただろう。 胴体から頭、肉体から魂へと渡る7つの骨・・ふとそんなイメージが頭をよぎる。
正式なイザイホーは行われなかったこの年、それでも数名の女性たちによって、7つ橋を渡る神事が、早朝ひそやかに行われている様子が映されていた。
まつりの形はそのままには引き継げなかったが、それでも何かを伝えて行きたい、という思いは何なのだろう?
最近まつりが文化財として保護されることも多いが、生活の本質が抜けて形が保護されることがどうなのかという議論もある。その一方で、その形の中に込められたふるい暮らしの断片が、保存されることで息を吹き返すということもあるかも知れない。
「くらし」も「まつり」も、元々人が持って生まれるものではなく、人と人の間で受け継がれて来たものである。それを繋いで行きたいという気持ちは、自分の身体をこえて命を繋いで行きたいという思いに通じているような気がした。
(上の写真は沖縄本島・知念岬から見た久高島)
2012年01月17日
神楽の里を訪ねて
以前紹介した「神楽と自然信仰講座」をきっかけに、独特な形を残す神楽のいくつかを実際見に行きました。
「神楽」というと神社のもの、というイメージがありますが、実際には「神」を招いて人々がそれを囲む、原初的な「祭り」の姿を伝えるもののように思います。今回訪ねたのは、お湯をたてるかまどが使われるもので、冬季に生命の再生を願って行われるものと言われています。
地域的にもだいたい長野県南部〜愛知県の県境に位置する山間部のものばかりなのですが、そこにはやはり各地域ごとの人々の暮らしの歴史が刻まれて、それぞれに独特な内容を持っていました。
まずは「奥三河(御園)の花祭り」。この神楽はとりわけ祝祭性を強く感じました。きらびやかな5色の紙の飾り、夜中に子どもたちによって舞われる「花の舞」、豪快な鬼の登場、翌日昼頃に豪快にお湯を振りまく「湯囃子」。また観衆が周りを囲んで歌い、踊り明かす姿などが印象的でした。


その他の写真はフォトアルバムにアップしています。
つづいて、遠山(中郷)の霜月祭り。こちらは煮立ったお湯を素手ではねるところが有名ですが、そのかまどの存在感、また白一色の色あいと淡々としながら深く持続して行くような祈りの姿を感じたように思います。
遠山郷というところは地域的にもすごく特色のある所で、歴史的にも気になる所です。


その他の写真はフォトアルバムにアップしています。
最後に、今年に入ってすぐに行った「坂部の冬祭り」。天竜川の荒々しい谷から、山に入った所にある集落。その立地もとても面白かったです。また行われる演目もとてもユニークで、それをかなり良いお年の方が嬉々としてやっている姿に心洗われました。前の2つの神楽とは違い、観衆は屋外で見ることになります。前日雪もちらついていて寒かったけどよい体験でした。


その他の写真はフォトアルバムにアップしています。
いずれの神楽も、夜通し行われるもので、その時間の経過もまつりの重要な要素になっているように思いました。真夜中とか、夜明けに誰もが感じる神秘的な気持ち。それをそこに暮らす人が皆で迎えること。「まつり」というのは生活から切り離された娯楽ではなく、そうあって欲しいという世界を迎え入れる切実な行為なのだと思いました。そして、その根本にはここで生きて来られたというよろこびがあるのだろうなあと。
そういう気持ちには、山間地も都会も変わりはないのだろうと思います。都会にはまた都会の環境の厳しさがありますし、その中でどうやって生きてゆけるかを今も人は探しているのではないでしょうか。
「神楽」というと神社のもの、というイメージがありますが、実際には「神」を招いて人々がそれを囲む、原初的な「祭り」の姿を伝えるもののように思います。今回訪ねたのは、お湯をたてるかまどが使われるもので、冬季に生命の再生を願って行われるものと言われています。
地域的にもだいたい長野県南部〜愛知県の県境に位置する山間部のものばかりなのですが、そこにはやはり各地域ごとの人々の暮らしの歴史が刻まれて、それぞれに独特な内容を持っていました。まずは「奥三河(御園)の花祭り」。この神楽はとりわけ祝祭性を強く感じました。きらびやかな5色の紙の飾り、夜中に子どもたちによって舞われる「花の舞」、豪快な鬼の登場、翌日昼頃に豪快にお湯を振りまく「湯囃子」。また観衆が周りを囲んで歌い、踊り明かす姿などが印象的でした。


その他の写真はフォトアルバムにアップしています。
つづいて、遠山(中郷)の霜月祭り。こちらは煮立ったお湯を素手ではねるところが有名ですが、そのかまどの存在感、また白一色の色あいと淡々としながら深く持続して行くような祈りの姿を感じたように思います。遠山郷というところは地域的にもすごく特色のある所で、歴史的にも気になる所です。


その他の写真はフォトアルバムにアップしています。
最後に、今年に入ってすぐに行った「坂部の冬祭り」。天竜川の荒々しい谷から、山に入った所にある集落。その立地もとても面白かったです。また行われる演目もとてもユニークで、それをかなり良いお年の方が嬉々としてやっている姿に心洗われました。前の2つの神楽とは違い、観衆は屋外で見ることになります。前日雪もちらついていて寒かったけどよい体験でした。

その他の写真はフォトアルバムにアップしています。
いずれの神楽も、夜通し行われるもので、その時間の経過もまつりの重要な要素になっているように思いました。真夜中とか、夜明けに誰もが感じる神秘的な気持ち。それをそこに暮らす人が皆で迎えること。「まつり」というのは生活から切り離された娯楽ではなく、そうあって欲しいという世界を迎え入れる切実な行為なのだと思いました。そして、その根本にはここで生きて来られたというよろこびがあるのだろうなあと。
そういう気持ちには、山間地も都会も変わりはないのだろうと思います。都会にはまた都会の環境の厳しさがありますし、その中でどうやって生きてゆけるかを今も人は探しているのではないでしょうか。
2012年01月15日
箕と籠
民映研アチックフォーラムで昨年見た作品の中に、「箕」と「籠」づくりの記録映像があった。
「箕」は籾殻などを風で飛ばすための農具。ドジョウすくいが持っているやつと言う方が今は分かるのかもしれない。
一見ただザルを平たくしたようなだけに見えるのだが、そこには桜の皮やコウゾなど、数種類の植物が組み合わされて使われている。そうすると、それらの植物が生えている場所、またそれを採集する季節なども作る人は知っていなければならない。
また作り方も面白く、背骨のような素材を中心に、縦と横それぞれ別な素材で編み込んでゆく。それはまるで衣服を作るようでもあった。
箕づくりは、山地生活者がその記述を伝えて来たという話もあるが、この映像が記録されたのも、山近い秩父地方だった。
一方の籠作りは、同じ埼玉県でもやや街寄りの地方で撮影されたもの。こちらの素材は竹である。竹の籠なんてありふれたもの、と思うけれど、でも北海道と沖縄の人から、本州に来た時、竹が珍しかったという話を聞いたことがある。竹取物語などもあるように、ある意味日本の地域性を象徴するような植物なのかも知れない。
籠作りは、放射状に並べた縦の素材を、弧を描くように横の素材を編み込んで作られて行く。

「箕」づくりと「籠」づくり、完成品は一見似通ったものに見えるが、その構造は結構違うことに驚く。左右対称形につくられる箕はほ乳類を始め多くの動物の身体の構造を思わせるし、一方の籠は放射状の構造がベースになっていて、植物であるとか、棘皮動物(ウニやナマコ)の身体の構造を思わせる。
また、円形を積み重ねていく籠の作り方は、縄文土器の製作法と言われる(ろくろの無い時代の)輪作りを連想させる。
そういえば、このように植物を編み込む技術は、土器作りよりもはるかに古いものだろう。このような籠作りの技術がベースにあって、その上に土器作りが発展した、と考えると、縄文土器の縄目はこれら植物繊維の編み目を模したものだったのでは?とも思えてくる。
・・・・・・・・
アチックフォーラム、今後の上映予定はこちら→
続きを読む
「箕」は籾殻などを風で飛ばすための農具。ドジョウすくいが持っているやつと言う方が今は分かるのかもしれない。
一見ただザルを平たくしたようなだけに見えるのだが、そこには桜の皮やコウゾなど、数種類の植物が組み合わされて使われている。そうすると、それらの植物が生えている場所、またそれを採集する季節なども作る人は知っていなければならない。
また作り方も面白く、背骨のような素材を中心に、縦と横それぞれ別な素材で編み込んでゆく。それはまるで衣服を作るようでもあった。
箕づくりは、山地生活者がその記述を伝えて来たという話もあるが、この映像が記録されたのも、山近い秩父地方だった。
一方の籠作りは、同じ埼玉県でもやや街寄りの地方で撮影されたもの。こちらの素材は竹である。竹の籠なんてありふれたもの、と思うけれど、でも北海道と沖縄の人から、本州に来た時、竹が珍しかったという話を聞いたことがある。竹取物語などもあるように、ある意味日本の地域性を象徴するような植物なのかも知れない。
籠作りは、放射状に並べた縦の素材を、弧を描くように横の素材を編み込んで作られて行く。

「箕」づくりと「籠」づくり、完成品は一見似通ったものに見えるが、その構造は結構違うことに驚く。左右対称形につくられる箕はほ乳類を始め多くの動物の身体の構造を思わせるし、一方の籠は放射状の構造がベースになっていて、植物であるとか、棘皮動物(ウニやナマコ)の身体の構造を思わせる。
また、円形を積み重ねていく籠の作り方は、縄文土器の製作法と言われる(ろくろの無い時代の)輪作りを連想させる。
そういえば、このように植物を編み込む技術は、土器作りよりもはるかに古いものだろう。このような籠作りの技術がベースにあって、その上に土器作りが発展した、と考えると、縄文土器の縄目はこれら植物繊維の編み目を模したものだったのでは?とも思えてくる。
・・・・・・・・
アチックフォーラム、今後の上映予定はこちら→
続きを読む
2012年01月10日
龍

今年の干支は辰(龍)、ということで、去年いろいろ歩きまわった海辺、とりわけ山から海へと連続する水系の繋がりを求めて歩いた、沖縄本島の干潟のことを想って描きました。深く命をはぐくむ龍神。それが時に暴れることがあっても、やはりそれをおそれ敬う気持ちは変わらないのだと思います。そのいろいろな海辺のことは、またあらためて書きたいと思います☆

2011年12月31日
浦島太郎はどこへ行ったか?
「おとぎ話」にしては、亀を助けた親切心に対する返礼が決して開けては行けない玉手箱、というのはどこか意地悪で理不尽ではないか?と、「浦島太郎」のおはなしに最近ふと疑問を抱くことがありました。
昔話には何らかの教訓が含まれているとすれば、浦島太郎の話にも、「弱い動物をいじめてはいけません。」そして「約束は守ること。(玉手箱は開けない)」というごく一般的といえる美徳が含まれてはいますが、その間をつなぐストーリーがどこかちぐはぐ。
そんなような事を考えていた時に、図書館でふと目に留まったのが「浦島太郎の文学史」という本。やはり同じような疑問を抱く人は多いらしい。この本によれば、浦島太郎の話には、日本の地域伝承とは異質な、中国からもたらされた「神仙思想」の影響があるという。まあ簡単に言えば、「仙人」の住んでいる世界。
浦島太郎が竜宮城に行く事によって手にしてしまったのは、永遠の幸せ、永遠の生命(その象徴としての亀)、というものなのではないか。そしてそれは、「純粋な善行」と同じように、それまでの日本人の”野生”の思想にはなかった価値観だったのではないか?まるで、決して開けては行けない玉手箱のように、爆発的な魅力を放った。
太宰治は「御伽草子」の中で、浦島太郎を取り上げ、「たちまち、おじいさん」になることを”不幸”と見てしまう事が、私たちの盲点だと言う。
確かに古来、老人は人間の完成された姿で、苦労の多く変化の激しい若者の状態こそ不安で不幸、と見る事も出来るだろう。時々若い女性から「早くおばあちゃんになりたい」というつぶやきを聞く事がある。
しかし、もちろん実際にはおじいちゃん、おばあちゃんであっても変化を免れる存在ではない。ここで若者が老人に一種の憧れを抱くのは、ただその”変化の恐怖”から解き放たれる「悟り」の境地だろう。

そういえば、亀は長寿のシンボルであると同時に、「銭亀」のようにお金にまつわるイメージも多い。そして、「お金」という言葉を見てみればそれはもともと「金属」を意味しているのだろう。固くて、変化しない、永遠の象徴。日本にも、水銀の混じった水を飲んで永遠の生命を得ようとしたという、仏教にまつわるミイラ伝説が残っている。
そういえば、浦島太郎のお話をあらためて読んでみると、亀の背中に乗った太郎は「海に潜って」竜宮城に行った、とは書かれていない。竜宮城のある場所を、現代の日本人がほとんど海の底だと思っているのは何故だろう? それは、「海の上」はすべて人間の世界である、という了解があるからではなか。
しかし、数百年さかのぼれば、コロンブスの発見があるまで、海はどこまでも続くものではなく「果て」のあるものと考えられていた。岸辺を離れる船を見送ると、やがてマストの先端が水平線に消えて行く。その時、船は「異界」へと旅立ったとついこの前までの人間は考えていたのではないか。日本海の岸辺に立って、中国大陸が目視できるという話は聞いた事がない。そのような「海の向こう」の国から、これまでにない進んだ文明がやって来た。「竜宮」とは、どこか中国の皇帝の宮殿のようだ。
そこに行ってきた人が、ふたたび日本の民の暮らしを見た時に何を感じただろうか?やっぱり「おくれている」と驚いたのではないだろうか?
浦島太郎のように、知り合いがすべて居なくなる2〜3百年ものギャップは感じなくても、わたしたちも、旅から「日常」に帰ってくると、それが今までと違って見える事はよくある。その自分のズレた意識が日常の方に戻って行くのは、どこか心の底がうずくものだ。・・「玉手箱」の名前の由来は、魂を閉じ込めた箱である、という説があるらしい。太郎がふたたび竜宮城に戻って来られるように、人間の世界に一時帰る間、一時的に魂を閉じ込めておくための箱。そこには、2つの世界のどうしようもない価値観のギャップがある。
竜宮城がもし海の底にあるとして、亀に寄り添ってそこへ潜っていく太郎の姿には、どこかイルカと共に素潜りで100メートルを超える「グラン・ブルー」の世界に潜ったジャック・マイヨールの姿がダブる。彼が地上で自らの命を絶ったというエピソードは、イルカと人間の世界の価値観の、どうしようもない断絶を表していると言えないだろうか?そしてまた、クマの世界に行った写真家、星野道夫さんのことも思いだす。引き裂かれた魂が、それでも引き合う力を感じて。2011年12月26日
「イヨマンテ」の絵

今年の7月に、原宿のミニシアターで一週間、民映研の記録映画代表作6作品を上映する企画がありました。このとき観たそれぞれの作品について、1枚ずつ絵を描きたいなあ、と思っていたのですが、気がついたら半年が過ぎ、ようやく最初に観た「イヨマンテ」の絵を描きました。
上映会感想のページにもこの絵を貼付けておきます。
他の作品についても、時間を見つけて絵を描いてみたいです。
・・・・
「民映研アチックフォーラム」来年1〜3月の予定を紹介しておきます(※webにはまだ載ってません)。興味のある方はお気軽にお越し下さい。
2012年
続きを読む
2011年12月24日
冬至とクリスマス
クリスマスやハロウィン、バレンタインデーなどについてよく「商業主義によって本来の形が歪められた」と言われるが、年中行事がもともと共同体の構造と深く関わっているのなら、現代の共同体が商業主義と深く関わっているということではないでしょうか?クリスマスは深夜に新しい誕生が訪れる冬至のお祭りのようだし<※写真は遠山郷(長野県飯田市)で行われる「霜月祭り」。日が短くなる時期に、新しい誕生を願って行われる行事。>、ハロウィンのような子どもがお菓子をもらって歩く行事も、にたような風習が日本の古くからのお祭りに見られる。
・・新しく入って来た行事をただ否定するのではなく、そこで自分たちが何をしているのかを見つめる事で、現代の共同体の姿を捉え直して行くことができるのではないでしょうか。
冬至のお祭りである遠山の霜月祭りなどでは湯を沸かすかまどのまわりで神事が行われる。そして(?)サンタクロースも煙突をとおって暖炉からやってくる!
(そういえばドイツのクリスマスケーキ、ブッシュ・ド・ノエルも薪をかたどってますよね。)人類の歴史の大きな転換点は火を手に入れたこと。火を絶やさないための、「家」という秩序が生まれた。そう語ったのは、核破棄物の最終処分場を描いたドキュメンタリー「10万年の安全」のマイケル・マセドン監督。台所を守る主婦の存在は、家の中の「火」と深い関わりがあると。
家庭、という閉じた世界の中で子どもにどう、いつまでサンタさんを信じさせるか、子どもの欲しいものをどうやって親が知るか、そういうやり取りもまた、大げさに言えば一つの民族の中で神話世界が作られて行くことと関わっているんですね。
そんな「クリスマス商戦」の時期に、アウトドアメーカー「パタゴニア」は「商品を買わないで下さい」という広告を出したそうです。
2011年12月21日
100分de名著「銀河鉄道の夜」
NHKの「100分で名著」という番組では現在、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を取り上げています。番組テキストも発売されているので、読んでみました。
この番組で「銀河鉄道の夜」を解説するのは、ロジャー・パルバースさんという方。
以前このブログで紹介した、同じくNHKの番組「こだわり人物伝・宮沢賢治」4回シリーズの最終回に登場し、ここでも銀河鉄道の夜の話をしていました。
日本に来て、日本語を勉強しようと思い、知人に「美しい日本語が書かれた本は何か?」と訪ねた所、宮沢賢治の作品を勧められた。
(それで初めて読んだのが「ざしき童子の話」)
外国語で書かれている事なので,現実と空想の区別がつきづらく、書かれている事はすべて本当の事だと思った。そう思ったことで宮沢賢治の書いている事がとても腑に落ちた、のだという。
実際、この方の賢治作品の見方にはしばしばハッとさせられるものがありますね。
〜東北出身の作家には、同時代にも石川啄木や、太宰治、また少し最近では寺山修司などがいる。しかし、彼らが皆、活動の拠点を東京に置いていたのに、賢治だけは岩手に留まり創作を続けた。これは特異なことである〜
なんてことも、賢治が岩手に居たのは当たり前の事、と僕たちなら思ってしまいますよね。でも現代でさえ、地方で、東京とほとんど関わらず創作活動を続けるということが果たしてできるでしょうか・・?また作家の明らかとなっている「日本文学」と呼ばれるものの多くが京都や江戸等の「都」を通じて生み出された事を思いだしても、賢治の特異性を考えさせられるでしょう。
ロジャー・パルバースさんの「銀河鉄道の夜」の見方で、特にユニークなのは、「この作品でいちばん好きな場面は最後にカムパネルラのお父さんが出てくる場面だ」と言っている事。ふつう、カムパネルラが消えた悲しみこそがこの物語りのクライマックスで、あとはゆるやかなエンディング、だと考えてしまいますよね。
地上に戻って来たジョバンニが、カムパネルラが川で溺れたことを知り、自分の天上の汽車の旅の意味を悟る、その時に話しかけるのは初期形〜第3稿では「ブルカニロ博士」というある種全能の存在でした。
それを、最終形で「ふつうの子どもの父親」に書き換えた意図。
そして、その普通の人間が、普通でないことをする。
『「もう駄目です。落ちてから45分経ちましたから。」・・子どもを持つ普通の父親なら、こんな言葉は出て来ないなずです。もし僕が同じ子を持つ立場だったら、絶対にたった45分ではあきらめ切れないでしょう。』
『このカムパネルラの父親も、心の中では同じだったはずです。彼は「右手に持った時計をじっと見つめていた」のです。悲しみや切なさをぎゅっと自分の中に押し殺して、無理に平静を装っているように見えます。』
『カムパネルラの父親が、ジョバンニに話しかけ「お父さんはきっともうすぐ帰って来るはず」と伝えてくれたからこそ、ジョバンニは悲しみの感情から解き放たれて、お母さんに届ける牛乳をとりに行く、という現実に目を向ける事ができたのです。』
『この場面で賢治は、自分が悲しいときこそ、相手を思いやるべきだ、というメッセージを伝えたかったのではないでしょうか?』
「銀河鉄道の夜」は妹トシの死がその大きな発端になったと言われます。その度の果て、誰に読ませるでもないような推敲の果てに辿り着いたこのささやかな瞬間を、もっとも美しい場面だというロジャー・パルバースさんの読み方が僕はとても好きだと思います。
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
「永訣の朝」
(※写真は先日訪れた花巻の、「羅須地人協会」のあった敷地周辺でとったものです。建物自体は農業高校に移築されていて、「雨ニモ真ケズ」の詩を高村光太郎が彫った詩碑が立てられています。)
