2007年10月29日

酔芙蓉

8a3af5d0.JPG 酔芙蓉

  哀歓の常に酒あり酔芙蓉 福田蓼汀

 いつも、里山が点在する谷間を散歩するのだが、早朝の庭に出て空を見上げると、西に残月が懸かっている。そこで、広々とひろがる牧草地の中の道を西に向かって歩くことにした。
 強い香りを放っている金木犀の傍らを急ぎ足で通り抜け、牧草地に出ると、すでに草は刈り取られたあとで、朝の湿気を帯びた畑の土が黒々としていた。
 そこで、畑を横切って川の見える場所まで行くと何枚かある畑の境に、白い花が咲いている。近づいてみると背丈ほどはある一本の木に、微かな黄みを帯びた花が幾つも付いている。葉蔭には身を隠すように赤い蕾が付いている。
 「ああ、酔芙蓉だ!」
 私は、思わず花の名をつぶやきながら近づいた。
 ひろがった花びらの奥に黄色い蕊が立っている。まるで花びらが灯火を手のひらで囲っているようだ。
 さらに顔を近づけて花の中を覗くと、そこには、すでに小さな虫がひそんで蠢いている。何やら秘め事を盗み見しているような疚しさが胸中に兆したが、目を逸らすことも出来ず、いつも散歩に持ち歩くデジタルカメラを取り出して花芯を撮影しながら、明け方の悩ましい夢を思い出していた。
 そして、その夢の記憶を払うように深呼吸をして空を見上げると、まだ残月が懸かっている。
 古語に残月を「残んの月」という言い方があるが、その「残んの月」が少し欠けているのが夢の残滓のようで、慌てて踵を返した。
 朝の清浄な空気と光の中、誰も見ていないのに羞恥心を覚えたのは何故だろう。未だ閉じている赤い蕾が、時ならず胸中でひらいたような感じだった。
 早朝なのに、ふいに酒が欲しくなった。しかし、飲むわけにはいかない。そこで思い出したのが冒頭に掲げた俳句である。
 嬉しいといっては飲み、哀しいといっては飲む酒のつくづく想われることであった。

 告げられぬ夢一つ秘め酔芙蓉


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2007年08月21日

真夏の一日

ae0e6989.JPG 真夏の一日

 蜜柑畑いちめんに夏草が繁っている。ついこのまえ刈ったばかりなのに、もう膝小僧の高さを超えて茂っている。
 草を刈ったときに一緒に刈った光も、ともに蘇り、草とともに揺れている。
 ありふれ、手垢のついた言い回しには違いないが、やはり「草の波」という比喩が脳裡に浮かぶ。
 光の飛沫が真昼のホタルのように飛び交う草むらの上を、熊のような雲の影が、いくつも、いくつも過ぎていき、一瞬、岩礁のような切り株につまづいたと思うのは暑さのせいで生じた眩暈のせいだ。
 風が、涼しい風が欲しい。そう願ったら、八重葎に蔽われた畑の畔に風が起こって草の海を波立たせながら吹き渡ってきた。
 私は蜜柑の木陰に入り、いびつな幹にもたれ、シャツの胸をひらいて風を入れる。
 とてもいい気持ちだ。
 一本の草も刈らぬうちに汗ばみ、疲れてしまった体。
 きょうは、もう草刈りは中止だ。暑すぎる。
 私は、そそくさと家に戻って冷蔵庫の扉をあける。缶ビールを取りだす。蓋をあける。一気に喉の奥へ流し込む。うまい!
 仕事をしなくてもビールはうまい。
 居間の自分の場所に陣取り、クーラーのスイッチを入れる。窓越しに光の氾濫する蜜柑畑を眺めながら、「夕方、涼しくなってから刈ろう」と内心で呟きながらビールを飲み干してゴロリと横になり昼寝を決め込む。

  *

 おれは、炎天下の道に現象した逃げ水を追う、いっぴきの野良犬だった。
 咽喉が渇き、だらりと垂れた舌をユラユラ揺らしながら、土埃のする道を歩いていた。灼けた地面が足の裏をヒリヒリと焼き、照りつける太陽が背中をジリジリと焦がした。
 おれをとりまく水田は罅割れ、稲の葉は茶褐色に変色し枯れかかっていた。
 まったく風は無く、道端の草の葉も脱水症状を起こしてへばっていた。
 すでに人間が死に絶えた世界で、おれは、自らの貧弱な影だけが頼りの、たったいっぴきの生存者のようだった。
 おれが一歩を踏み出せば、そのぶん遠のく逃げ水。
 一日の終わる頃、おれは、ついに逃げ水に追いつけないまま野垂れ死にしているだろうという考えが、痺れた頭の隅をよぎった。
 そのとき、遥か後方で、おれを呼ぶ声がした。
 おれは、ありったけの力をふりしぼって耳を立てながら振り返った。
 しかし、そこにも逃げ水の現象する道が真っ直ぐに伸びていて、呼び声は、その道の彼方から聞こえてくるのだった。
 おれは、声のする方へ向きを変えた。
 前進しようが後退しようが逃げ水との距離が縮まらないのなら、せめて、おれを呼ぶ者のいる方を目指そうと思ったのだ。
 すると、貧弱な影もまた、おれに先だって一歩を踏み出していた。
 おれは、影に引きずられるように従いていった。
 後方が前方に、前方が後方に逆転したが、だからといって何かが好転するというわけではなかった。
 垂れた舌はますます垂れ下がり、灼けた地面を舐めてしまうのではないか。太陽は、背骨を焦がすのではないか。足の裏は焼けただれてしまうのではないか。
 不安が一段と大きくなったときだ。
 眼の前に、この世から去って既に久しい飼い主が立っていた。
 おれの名を呼び、手を差し伸べてきた。
 おれは、なつかしい飼い主の腕のなかに倒れ込んでいき、そして気を失った。

  *

 不快な夢から覚めると、畑で犬の鳴き声がしている。
 居間の柱に掛かった十分遅れの時計が、四時を示していた。窓の外に目をやると、ずいぶんと陽が傾いていたが、まだまだ陽射しは衰えてはいない。
 寝汗で湿った体が、生乾きの雑巾のように臭っていた。
 私は洗面所に行き、おもいきり顔を洗い、それからタオルを濡らして体を拭いた。
 喉がカラカラだった。歯磨き用のコップで口を湿らせたが、それで水を飲む気にはなれなかった。冷蔵庫の中で冷えている缶ビールが脳裡を掠めたからだ。
 私は、急いで台所に行き、冷蔵庫から缶ビールを取り出して蓋をあけると、一気に喉に流し込んだ。
 うまかった。
 私は、口のまわりに付いた泡を舐め、舐めきれなかった泡を手の甲で拭うと、まだ少し残っているビールを飲み干した。すると、ほとんど同時に、げっぷが出た。
 混濁した意識が、ようやくハッキリしてきた。
 私は、椅子に座って煙草に火を点けた。深呼吸するように大きく煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら、あらためて、畑で鳴きつづけている犬の声を聞いた。
 (あの犬は、もしかしたら夢の中で逃げ水を追っていた犬ではないか)
 私は、急いで煙草を揉み消すと外に出て畑に向かった。
 犬が草の波を掻き分けて駆け寄ってきた。かつて飼っていたウインディだ。とっくに死んだはずの純白の犬だ。
 照りつける陽射しのなかに、突如として出現した幻だ。
 私は思わず、「ウインディ!」と名を呼んで両手をひろげた。
 ウインディは、腕の中に飛び込んでくると、私の顔を舐めまわした。
 「よく帰ってきたな!」
 腕に力を入れて抱きしめると、ウインディは、それこそ煙のように消えてしまった。
 私は錯乱してしまったのか。あるいは夢の中で、さらなる夢を見つづけているのだろうか。
 不可解な夏の一日が、意味の上死点を超えているのかもしれない。
 熱気のこもった空に熊蝉の鳴き声だけが充ち満ちて、いまにも爆発しそうだ。
 そして、私は草の海に、たった一人とりのこされて朦朧としているばかりである。
                           二〇〇七年八月十六日 


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2007年07月13日

洪水(幼年記)

b57c559e.JPG洪水(幼年記)


 あたりに立ち籠めている空気が生暖かくなり、風が湿度を増すとともに生臭くなってくると、やがて空を黒雲が覆いはじめます。
 田畑に立ち並ぶ電柱に蟋蟀が密集して這いのぼります。森や林で鳴き交わしていた鳥が鳴きやみ、嫌な静けさが、じんわりと世界を支配しはじめると、野の果てから雨が近づいてきます。
 ようやく、あちこちで雨戸を打ち付ける音が高くなります。
 音質の悪いラジオが興奮して台風の接近を報じます。古新聞が早くも水を含んで伸びはじめ、それでなくても水を含んで年中濡れている土間の土が水を吐きはじます。
 じわじわと父母たちの不安がつのり、しかし子供たちは不思議な興奮を覚えはじめる頃になって、にわかに最初の大雨が地上を叩くのです。
 たちまち雨水は屋根瓦のくぼみを流れ、樋を走り、噴き出して、木戸口の坂をめざして庭を洗います。そして側溝に入ると、沸騰したように飛沫を上げて流れ下ってようやく花をつけた稲田に流れ込んでいきます。
 その頃になると、増水した川から競りあがり押し寄せてくる泥水や、谷川を流れ下ってきた山水と混じって、見る間に田圃を水浸しにするのです。
 すぐに村を囲繞している堤防が切れます。田圃は泥水の淵となり、稲は濁流の底に沈みます。
 そして一面、水浸しになった世界を見ていると、ある虚しさと安堵が交錯しはじめるのです。それは、永年にわたる人間の営為がまさに水泡に帰す虚しさと、川が雨水をもって原始の形態を取り戻そうとする活力が、私の心の奥底に眠っている荒々しい活力に気づかせてくれる安堵感といったものなのです。
 水嵩が増し、わずかな野の起伏が波立つ泥水の下に隠されると、視野にあるのは森と山ばかりです。
 創世記の「ノアの方舟」の挿話が真実みを帯びてくるのは、そんな時です。生まれたてのような世界は生臭い水の匂いに満ちています。
 しかし、鳩も鴉もどこかに隠れひそんで、空を翔ぶものの姿はありません。
 毎年のことながら、濁流に呑まれた村の人々が泥の海と化した田園の上を、筏に乗って右往左往する光景だけが悲しく展開されるのです。
 種籾を播き、苗を育て、苗代をつくって苗を植え、草取りをして育て、ようやく花をつけた稲が、またたくまに泥水の下で腐れはじめるのです。
 あっ!
 川上から家が流れてきます。浮き沈みする屋根の上で、人が手を振っています。助けを願って手を振っているのです。しかし、濁流にはばまれて誰も助けに行くことはできません。河口はもうすぐそこです。荒れ狂う海が手招きしているはずです。救いの岸はどこにもありません。橋も流れています。彼らは、すぐに波に呑まれるでしょう。
 暴風雨が容赦なく吹き荒れます。残酷な葬送歌に聞こえます。
 あっ! 馬も流されてきました。
 いつでも、ノアの方舟づくりは間に合ったためしがありません。
 聞こえませんが、彼らの呪いの言葉が雨音に混じります。木という木から水が噴きこぼれます。身を絞って慟哭しているようです。しかし、やがて木々も山崩れによって泥の海に呑まれます。
 一部始終を見ていながら何もできない私の内部に泥水が流れ込んできます。私は内側から濁流に呑まれ溺死寸前です。
 おねがいです。助けてください。


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2007年06月14日

詩の価値は・・・

056c544c.jpg詩の価値は…

 詩の価値は、田舎の山里にひろがる豊かな田畑に似ているかも知れないと思う。しかし金銭的価値があるかと言われれば、「ない」というしかない。
 たとえば一年にいちど、全国の土地価格が公示されるが、そのとき真っ先に目に付くのが東京銀座の服部時計店のあたりの価格である。一坪(ん)百万だか「ん」千万だかの金額を見て、田舎住まいの私なんか、この世の話ではないと思ってしまう。
 ちなみに、私が住んでいる村で聞いた話によると、百五十万円の金に困って一反(三百坪)の土地を売ろうとしたところ、高すぎるという理由で買い手がつかなかったというのである。
 この坪数に、日本で一番高い銀座の土地の坪単価を掛けたら、約三十億になる勘定だ。
一坪といえば畳二枚の広さだから、まあ軽トラックの荷台よりも僅かに広いくらいのものだが、それが約一千万円するということだ。
 土地を運べるなら、軽トラック一台ぶんくらい売りに行きたいと言った老人がいたが、無理もない話だと思う。
 だが、よく考えてみると、投機の対象物である銀座の土地は金を生むかもしれないが農作物は決して生まないのであって、田舎の田畑のように米や芋や西瓜や苺や葱や大根や、ナズナやキンポウゲやスミレやシロツメグサやドクダミ、蝶や蜻蛉や百足や蚯蚓や蛇や蜥蜴などは決して生まないのである。
 田舎の土地は森羅万象とともにあるが、都会の土地は金と隣り合わせにしか存在しない。
 こうして考えると、冒頭に言ったように、詩は田舎の土地に似ているだろう。


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2007年05月02日

初夏

3aa4a94a.JPG 初夏

 白い花が蜜柑の葉の濃緑を凌駕している。蜂や蝶が近づくと、その気配だけで炸裂して、一瞬にして五弁の花となる蕾が枝を飾っている。
 僕は、青い香気の立ち籠めた蜜柑畑の中を、静かに歩く。木の下には木賊や犬稗が生い茂り、カラスノエンドウやナズナの種が弾ける音が、まるで砲声のようだ。
静かだが騒然とした畑の切株に座っていると、足元から、空で死ねなかった鳥獣の霊たちの囁きも聞こえてくる。
 風もないのに揺れる草むらでは、かつて飼っていた犬猫の霊も駆け回っている。
 いま、僕が呼べば一万年前の馬だって、すぐに現われるに違いない。
 なぜなら僕は、いま、おそらく自分でも知らないうちに、それらの霊と同じようなものになっているのだから。僕が生まれる以前の記憶も、ここでは眼の前にあり、草木の記憶と交感し合っている。苦悩や悔恨や悲哀だって、いまはもう風に洗われ、浄化されて枝々を飾る花の蕾になっているかも知れないし、あるいは花のあいだを飛び回る蜂や蝶や鳥になっているかも知れない。
 そんなことを考えていると、畑を囲繞する青い山の向こうから、水を、たらふく飲んだ牝牛のような雨雲が近づいてきた。あとから、あとから続いてくる牛の群れは、いつの間にか頭上にあふれて、空は、まるで牧場のよう。轟きはじめた雷が、まるで地響きのようだ。
 僕は立ち上がり、脅える犬のように畑をあとにする。道を一つ隔てたところに建つ家の二階に上がり、畑を見下ろすと、すでに降りはじめた雨が枝葉に溜まり、小さな光の卵のようだ。白い花の蕾と見分けがつかない。そして、雨に打たれる蜜柑の木の下には白い花びらが散っていて、それもまた、精霊の抜け殻のように思われる。
ふいに、僕の脳裏にレイモン・クノー詩の一節が蘇える。
  ……
  時間の宿泊所 それは ぼくの記憶だ
  未来の時を爆撃したいと願う ぼくの記憶だ
  抄という時がつもれば 経歴ができあがり
  それから巨大な穴と考えられているもののなかに
  ぼくらは横たわる
  思い出のない時間の宿泊所のなかに
  ……
 もはや僕には、僕の肉体が記憶で出来ており、記憶で出来た肉体こそが時間の宿泊所と思われる。
レイモン・クノー、檸檬・苦悩。美しい音韻。
                             二〇〇五年五月二日


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2007年03月01日

三月になった

e0e0721b.JPG 草の光

 三月になった日の、とても寒い朝、つまり今朝、家の周囲にひろがる牧草地を散歩した。昨日、耕したばかりの畑の土も下に覆われて真っ白だった。
 もう三月、まだ三月という思いを交錯させながら歩いた。スニーカーを濡らしながら、露と見まがうナズナの白い花の粒子を見ながら歩いた。また、畑の隅に植えられたブロッコリーが摘み取られないまま花を咲かせている。このブロッコリーも淡い黄色の花を咲かせている。そして、それらの花々に、東の杉林を洩れて射してくる朝日がひろがっている。
 その朝日を背に、さらに歩いていくと、そこが行き止まりの牧草地があり、おびただしい緑の剣が天を刺していた。すべての葉という葉に露が宿り、白い光を撒き散らしている。
 地に生い茂るものすべてに露が宿っていることに、はじめてのように驚き、はじめてのように目を瞠る。

 日は、何者かにより、一夜にして更新されたのだ。
 私は、はたして更新されたのだろうか。
 世界は、刻一刻と変容しつづけている。
 昨日と今日が同じなどということは、けっして有り得ないことなのだ。
 私は、草地の中の道で空を仰ぎ、深呼吸をしてから踵を返す。
 来た道を引き返す。
 その道は、もう来た時とはすっかり違ってしまっている。
 私は、朝日に向かって歩きはじめる。

 牧草地が逆光の中で光り輝いている。先の方は、有り余る光のために霞んでいる。しかし、そのために緑の剣に宿った露が光を跳ね返している。照らすものが、照らされている。
 私は光の草の中に立ち止まる。周囲を見回す。
 すると、すっかり葉を振るい落として枯木のように見える樫の木や小楢の木は、そのために却って輪郭を際立たせている。光が隈取りをしているのだ。
 空中に張られた電線も光の露を滴らせている。電線に止まった鴉の羽も、ひときわ鮮やかに輝いている。
 視線を落としてみれば、踏みつけてきたスミレも、落葉も輝いている。物みなすべてが光をまとい、露をまとっているのだ。
 凍える指で草の葉を撫でると、その冷たさが、とても気持ちよかった。朝の冷気と、露の冷たさは、私の中で惰眠を貪っているものまで覚醒させた。
 私は帰宅し、急いで朝食を済ませてから机に向かった。それから、昨夜、どうしても書けなかった一篇の詩を書きあげた。          二〇〇七年三月一日


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2007年02月06日

春の訪れ

6c08dfe5.JPG 蕗の薹

 我が地方では自家の畑と、隣家の畑と見分けがつくように茶の木が植えられている。何とも美しい境界線だ。
 植えたときは境界線上に一本ずつだったものが、やがて歳月とともに株が増えてゆき、幅一メートルほどの緑の境界線となる。それは、もう境界線というよりも垣根の風情である。
冬には気品のある純白の花を咲かせ、濃い黄色の蕊が輝く。香りもいい。
八十八夜の初夏の頃ともなると、隣家の人々と垣根越しに談笑しながら茶摘みをする。もちろん、ここには鉄条網などの境界線とは違って兵士も存在しなければ、銃声が聞こえることもない。畑を囲む林からは四季折々に訪れる鳥の鳴き声が聞こえてくるだけだ。
それはさておき、ふと思い立って、立春を過ぎたばかりの畑に出てみると、茶の木に寄り添うように蕗の葉が茂っている。濃く茂った葉を支える茎の根元を見ると、出ている、出ている! 薄緑の若葉に包まれた蕗の薹が、なんとも愛らしい角のように顔を出している。

 こみあぐる土のあくびや蕗の薹 和田祥子

早朝の畑には、弱いが柔らかな春の朝日が射しはじめたばかりだ。それでも、茶の垣根の隙間からこぼれてくる光に優しく縁どられて、くきやかな輪郭を見せている。
生い茂った蕗の葉を掻き分けてみれば、まだ芽を出したばかりの小さな、小さな蕗の薹がいくつもあって、心が浮き立ってくる。
「今夜は、もう天婦羅だな」
私の思いは、すでに春のはしりを食することでいっぱいになっている。さらに、かすかな苦味と青臭い香りの入り混じった天婦羅に塩をふりかけて口にし、それを肴に酒を飲むこと、何とも贅沢な至福を味わうことを思っている。朝から不謹慎とも思うが、こうした楽しみも、この季節ならではのものだ。
と、まあ馬鹿なことを考えていると鋭い鵙の声が響きわたった。まるで、私に対する戒めのようだった。すると、それを合図のように庭の木立の中で、さまざまな鳥の鳴き声が湧き上がり、朝の静寂が破れた。
軒端ではジョウビタキが飛び交っている。
気がつけば、薄物の羅のような陽射しが畑一面を被っている。その光の中のあちこちに蕗の葉が茂っている。隣家の、すでに春耕を終えた畑の黒々とした畝は種蒔きを待つばかりだ。その畑の隅にも蕗の群落が残されている。やはり、春を味わうために、刈り払わずに残してあるのだ。                     
二〇〇七年二月六日


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2007年01月19日

新年の旅

5894e49b.JPG新年の旅

 年明け早々の一月九日から十四日まで韓国に行ってきた。これまでに知り合った詩人たちの他に、今回は初めての出会いが数多くあった。
 現在の韓国詩壇で最も人気のある鄭浩承(チョン・ホスン)さんを初め、朴柱澤(パク・ジュテク)、許恵貞(ホ・ヘジョン)さん。また、文泰俊(ムン・テジュン)、権赫雄(クォン・ヒョクウン)さんなど、実に個性的な詩人たちである。
 この出会いの機会を作ってくれたのは、一九九五年の出会い以来、やがて十二年になる韓成禮さんである。もちろん、それぞれの詩人の印象は異なるが、いずれも感じのよい雰囲気と、静かな熱気を秘めていた。
 中でも、鄭浩承氏と語り合った時間は豊かなものだった。
 彼は、自己紹介ののちに、大分の臼杵の石仏を見に行ったことがあるという話題から話しはじめた。敬虔なクリスチャンだが仏像に、それも微笑する仏に興味を持っているということだった。拈華微笑といわれる神秘的な笑み、アルカイックスマイル、モナリザの微笑みなどを語りながら、彼の柔和な笑顔も印象深かった。
 詩を読んでみよう。一篇でも読めば彼の笑顔の秘密が解かるはずだ。

  生のマダコのために
              鄭浩承/韓成禮訳

 新村の裏通りで酒を飲んでも
 これからはゴマ油で和えた生のマダコは食べない
 降りプラスチックの皿の上で
 生のマダコの切られた足がうごめく間
 海はどんなに悲しかっただろう
 私たちが生のマダコの足一つを口に入れて
 もぐもぐと噛んで食べる間
 海はまたどれほど多く
 絶壁の下へ飛びおりただろう
 生のマダコの死にも品性が必要だ
 生のマダコは死んで行きつつも海をしのぶ
 全身がバラバラになったままで
 生のマダコが力を尽くしてうごきまわるのは
 最後にもう一度
 海の母を見ようとするからだ

 韓国の居酒屋や屋台で、よく食べられるマダコのぶつ切りがあるが、それを題材にして、食べる人間の悲しさ、食べられるマダコの悲しさを描く。さらに、マダコの生死に寄り添う海の悲しみ、海を恋うマダコの悲しみを自分自身の悲しみとする詩人が、「生のマダコは食べない」と決心するのは至極当然の成り行きである。
 だからといって、人は食べないで生きるわけにはいかない。たとえ「生のマダコは食べない」と決心し、目の前であがいているものを口にすることは止められても、湯がいてあれば食べるであろう。
 食べることの痛み悲しみは、つまるところ、生きる痛み悲しみに直結しているのだ。だからこそ「品性」が必要なのに違いない。
 帰国して、鄭浩承さんの詩を読みながら、あらためて彼の眼差しと微笑の温かさを思いだしている。
 そして、いずれまた、ゆっくりと話せる日が来ることを夢みている。
                             二〇〇七・一・一九
 *写真は鄭浩承さんと

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2006年12月18日

十二月寸描

5abaefdd.JPG十二月寸描

 小さな里山の、小さな山あいに溜池がある。おだやかに輝く水面には浮草が浮かび、数羽の鴨が泳いでいる。波紋が幾重にもひろがり、かさなりながら葦の群生する岸辺に消えていく。周囲をクヌギやコナラやクリなどの落葉樹が取り囲み、林の中には落葉がふんわりと降り積もり、温かそうな陽射しがあふれている。
 たまたま出合った景色に足をとめて、しばらく池のほとりに立っていると、殺伐とした濁世のあれこれが嘘のようだ。
 タバコを取り出して火を点ける。風がないので青白い煙が指先からまっすぐに立ち昇り、吐き出した煙だけが微妙な渦をつくりながら空中に消えていく。
 しばらく陶然として光の中にいると、ふいにモズの声が上がって雲ひとつない空に罅が入ったようだ。
 しかしそれも、たちまち元にもどって、空は溜池の水に青い一枚の布のように揺れているだけだ。
平仮名で、それも旧仮名遣いで書かれたような風景だな、という考えが脳裏をよぎったとき、今度は山鳩のまるっこい声が響いた。
ああ、この里山には、いにしえの神々がいる。
耳を澄ましていると、すこし訛りのある神々が埒もない話に花を咲かせているようだ。
たとえば、今年の山芋は出来がよかったとか、栗は駄目だったとか。
あるいは、また、隣村から嫁いできた働き者の女の噂とか。

 さて、私は、どのくらいの時間を立ちつくしていたのだろうか。
指先にタバコの火の熱さを感じて我に返ると、相変わらず溜池には鴨が泳いでいる。水に映った空も変わらない。
残り少なくなったタバコを深々と吸って火を揉み消すと、ようやく、その場を立ち去って家に帰った。
仕事に倦んで、息抜きのつもりで出かけた散歩だったが、長い旅から帰ったような心地だった。
そして、渇いた喉を潤そうとコップ一杯の水を飲むと、私の中に、たちまち陽射しのあふれた溜池ができたような気がした。
                          二〇〇六年十二月十八日


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2006年11月17日

ツワブキの花がさかりです

c7a2a21a.jpg石蕗の花

  静かなるものに午後の黄石蕗の花  後藤比奈夫
  石蕗咲いていよいよ海の紺たしか  鈴木真砂女

 我が家の庭に植えてある幾株かの石蕗が、いま黄の花を咲かせている。葉が照葉樹の葉のようにツヤツヤしているところから、古くは「つやぶき」と呼ばれていたものが訛って、いまは「つわぶき」と呼ばれている。
 地面近くに重なる葉があり、その中心から柔毛の生えた茎がスッと立ち上がり、その先に菊に似た黄色い花が咲く。
 早いところでは十月末頃から咲きはじめるが、我が家の庭ではいまが盛りである。
 小春日と呼ばれる初冬の暖かく明るい陽射しの中で、黄色い花が、ひときわ鮮やかに輝いているのは、実に美しい。
 冒頭に掲げた後藤比奈夫の「静かなるもの」という措辞が、素直に腑に落ちてくるのは、この句が季節の真実を言いあてているからに他ならない。
 そして、「静かなるもの」は単に石蕗の花を指すばかりか、小春日の穏やかな世界の静けさをも表現し、その静かな世界にある森羅万象も「静かなるもの」として包含されている。
一見、小さな存在に焦点を合わせているかに見えるが、実は、その小さな存在を静かに輝かせている大いなる世界の静けさも表現しているようである。
 さて、私の住む宮崎の日南海岸沿いの崖には石蕗の群落があり、いまが花の盛りである。二句目は、つい先年まで新橋で小料理屋をしていた鈴木真砂女の句である。どこかに旅をされたときの句であろうか。
 咲き誇る石蕗の黄色い花と「海の紺」の対比が鮮やかだ。それでなくても濃い紺の海が、海岸沿いに一斉に咲いた石蕗の黄色い花のせいで、ますます紺を深く濃くしているというのである。光る海や、濃い水平線の上にひろがる雲ひとつない空まで想像させてくれる一句である。
 後藤比奈夫の句が、狭い庭に咲く石蕗の花を詠んでいると思われるのに対して、鈴木真砂女の句は、広々とした景の中に咲く石蕗の花を詠んでいる。しかし、いずれも大いなるものに触れているという点では共通している。
 五七五という、たった十七文字しかない小さな器に、よくこれだけ大きな景が詠み込めるものだと感心させられる。
 伝統というものがもつ力でもあろうか。

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