2006年12月
2006年12月18日
十二月寸描
小さな里山の、小さな山あいに溜池がある。おだやかに輝く水面には浮草が浮かび、数羽の鴨が泳いでいる。波紋が幾重にもひろがり、かさなりながら葦の群生する岸辺に消えていく。周囲をクヌギやコナラやクリなどの落葉樹が取り囲み、林の中には落葉がふんわりと降り積もり、温かそうな陽射しがあふれている。
たまたま出合った景色に足をとめて、しばらく池のほとりに立っていると、殺伐とした濁世のあれこれが嘘のようだ。
タバコを取り出して火を点ける。風がないので青白い煙が指先からまっすぐに立ち昇り、吐き出した煙だけが微妙な渦をつくりながら空中に消えていく。
しばらく陶然として光の中にいると、ふいにモズの声が上がって雲ひとつない空に罅が入ったようだ。
しかしそれも、たちまち元にもどって、空は溜池の水に青い一枚の布のように揺れているだけだ。
平仮名で、それも旧仮名遣いで書かれたような風景だな、という考えが脳裏をよぎったとき、今度は山鳩のまるっこい声が響いた。
ああ、この里山には、いにしえの神々がいる。
耳を澄ましていると、すこし訛りのある神々が埒もない話に花を咲かせているようだ。
たとえば、今年の山芋は出来がよかったとか、栗は駄目だったとか。
あるいは、また、隣村から嫁いできた働き者の女の噂とか。
さて、私は、どのくらいの時間を立ちつくしていたのだろうか。
指先にタバコの火の熱さを感じて我に返ると、相変わらず溜池には鴨が泳いでいる。水に映った空も変わらない。
残り少なくなったタバコを深々と吸って火を揉み消すと、ようやく、その場を立ち去って家に帰った。
仕事に倦んで、息抜きのつもりで出かけた散歩だったが、長い旅から帰ったような心地だった。
そして、渇いた喉を潤そうとコップ一杯の水を飲むと、私の中に、たちまち陽射しのあふれた溜池ができたような気がした。
二〇〇六年十二月十八日