下北に来て、まず最初には土地勘を養おうと週末・休日に色々なところを車を使って訪ねたり、ついでに趣味の野草についても関東地方とどれほど違っているのだろうと花の写真を撮って歩いていました。変化に富んだ地形・急峻な崖、きれいな川等、ますます下北半島は面白いという感想を持ちました。

あちこち訪ね歩いている中で、半島の西部;“マサカリの刃”にあたる佐井から仏が浦、牛滝、脇野沢、九艘泊の辺りに行ったときのことですが、『地形が厳しいなあ、とりわけ昔の人は大変だったろうなあ』と思い、またふと『待てよ、昔、日本地図を最初に作った伊能忠敬はホントにここを歩いて測量したのだろうか?ほんとにそんなこと出来たのだろうか?』という疑問でした。
(写真等はクリックして戴ければ拡大します)
下北1






佐井(サイ)の南方;願掛岩から  仏ヶ浦
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九艘泊(クソウドマリ)付近から平館(タイラダテ)海峡を望む
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  その日、アパートに帰ってすぐにネットで色々調べてみると、とにかく驚いたことは伊能忠敬たちがこの下北半島を測量したのは新暦に直すと11月の下旬ということです。現在でもあの辺りの道路は雪のため封鎖される時期だというのですが、その時期に測量調査をしたというのです。エ~っと驚き、これは真面目に調べなければと思ったのです。また、ちょうどその時、『天の囁き』かNHKTV番組「歴史秘話ヒストリア」で伊能忠敬が取り上げられたのです。今年が伊能忠敬没後200ということで番組が企画されたらしく、そのTV番組の内容は一言でいうと日本地図を作った時に行く先々でその土地の人達が伊能測量隊に協力したことが紹介され、『皆さんのご先祖さん達が伊能隊と一緒になって世界に誇る正確な日本地図を作り上げた』という内容となっていました。

『ウ~ン なるほど!』と感心はしましたが、最初の疑問、『ほんとに冬にここを測量したの?少なくとも厳しいところは遠くから彼の得意な図学の知識を利用してチャっチャっとやったんじゃないの?』という疑問は残ったので、TV番組の基にもなったという彼らの測量日記を当たる必要があると思ったのです。

伊能忠敬の日本地図は、現在、国宝になっており彼のゆかりの地;千葉県香取市佐原には記念館が作られ関連記録・資料が整備されており、さらにInopedia という一般市民もアクセスできるデータベースも作られていて、嬉しいことに比較的安い値段で記録をダウンロードできる仕組みになっています。これは大変な世の中になったなあと思いつつその恩恵に浴したわけです。

その日記を手に入れて、また同じく整理・公表されている彼らの作図した地図等をもとに現在の地形図と比較したところ、およそ彼らが下北で成し遂げた状況が掴めたし、また冒頭の疑問も解けたのでした。はっきり言って感動モノ! ついつい他の人達に知らせたくなりまして本ブログに数回に分けて掲載したいと思います。

 

下北半島での伊能忠敬の行動を記載する前に、ほんの触りだけ伊能忠敬についてご紹介しますと(ご存知の方は飛ばしてください)、西暦でいうと1745年に生まれ1818年に73歳で亡くなっています。有名な火付け盗賊検方長官の長谷川平蔵と同じ年に生まれています。長谷川平蔵は1795年に50歳で亡くなっていますが、伊能忠敬は佐原の造酒屋に、4才年上で子供がいる後家さんの結婚相手として彼が17才の時にその利発さを見込まれて親戚筋の紹介により婿養子として入ったとのこと。その後、実直に勤め上げ、家運を盛り上げ佐原の名主、大店の主人として成功をおさめていたのですが、まさに平蔵が亡くなったその年50歳で息子に家督を譲り、隠居して測量・天文学を集中して勉強し始めたとのこと。因みに桜吹雪の遠山金四郎1793年に生まれています。従いまして伊能が第2の人生を始めたとき、金さんの肩にはまだ桜吹雪はなかったはずです。

 

伊能忠敬は非常に興味深い人で、井上ひさしの小説「四千万歩の男;忠敬の生き方」や関連する多くの書き物で紹介されていますので、そちらに委ねることとして下北半島測量行に絞りたいと思いますが、どのような体制・チームでこれをやったかだけをちとご紹介しますと;

 隊長が伊能忠敬本人、それに隊員として伊能の内弟子が4名おりましてそれが平山郡蔵さん、平山宗平さん(お二人は兄弟で伊能さんとは親戚です)、伊能秀蔵さん(伊能さんの息子さん)、さらに尾形慶助さんです。またいわゆる下僕の役割として嘉助さんが同行し、計6人が本隊を構成していたとのこと。

 また毎日毎日測量をしつつ進んでいき、宿泊するごとに荷物等を入れた長持ちの担ぎ手4名(おそらく交代要員含めて)駕籠とその担ぎ手 2名(駕籠は伊能忠敬が乗るのではなく、病気になったときとか体調が悪い人を乗せたようです)、馬(荷物を運ぶんでしょうね)とその馬の手綱を持つ馬子 1名 計7名が今でいうロジスティック部隊。彼ら7名のロジスティック部隊は、宿泊地毎に交代して、おそらく地元の人を臨時に雇っていったと思われます。

 現地につく数日前に先ぶれと称して、「伊能測量隊がいくから色々準備しておいてね」とそれぞれの役所に情報を伝えていったわけです(一応、本プロジェクトは幕府の計画ということで、資金が出され、いく先々で『この一行に協力すべし』ということを指示する幕府からの書状があったようです)。但し、最初の測量行の頃はほとんど伊能忠敬が私費で始めたもので(測量することを幕府が公認してくれるだけで伊能には良かったらしい)、その後も十分な資金はなかなか回って来なかったようで、伊能忠敬の財力があったから(そしてそれを了解し、支援した跡継ぎがいたからこそ)成されたことのようです。

因みに、伊能は先触れにおいて宿の手配に関して「食事は1汁1菜他無用。」ということで、「お酒等は決して出さないでね。夜は晴れていれば星を観測するし、1日の測量記録のまとめを行うので構わないでね」ということを徹底していたらしいです。この辺から『私にはマネ出来ないなあ・・』と思い始めます。

 

測量方法は、決まった長さの縄を張って、その方位を記録するというやり方で、また夜に星が見える日は天測をやって進んでいったわけです。

基本的にはこのやり方で日本地図を作ったのですが、第1回の測量が西暦1800年、伊能が56歳の時に開始し、1815年伊能が72歳の時に第10回を行い測量の現地調査は完了しました。伊能忠敬は1818517日(新暦換算)に74歳で亡くなるのですが、それまでもそしてその後もずっと測量データの整理・まとめは行われて最終的に地図が完成して、江戸城で幕府の高官達にお披露目されたのが伊能忠敬の死後3年目の1821年ということです。

 下北測量はいつ実施したかというと第2回測量の1801年、彼が57歳の時です。因みに忠敬が亡くなったときに遠山の金さんは25才で一応結婚はしていたらしい(たぶん桜吹雪は入っていた)のですが、家督は譲られておらず修行の身、彼が活躍するのはもっと後のことのようです。

 

 さて、いよいよ下北測量ですが、端折ったつもりでも前置きがかなり長くなってしまいました。とりあえず、ここまでを伊能測量下北半島記(1)とさせていただき、次回、乞うご期待とさせていただきます。

 

 なお、上記文中に記述しました伊能忠敬の測量日記に関しましては、

『Ino Arc 伊能忠敬e史料館』 をweb検索しますと、測量日記等を入手することが出来ます。測量行毎にダウンロードできます(1測量日記で2,000円前後)。私は目的上、解読されたバージョンを入手しました。

また、『伊能忠敬研究会』あるいはInopediaで検索したTop Pageから『伊能図資料室』に入り『伊能図総覧』によって大図207枚が閲覧(無料)できます(これを眺めているだけで涙が出るほど感動もの)。このブログのテーマの下北半島の測量行は、39 青森40 野辺地 41 大間 の3枚に該当します。
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 因みにこのInopedia に携わっている方々は、本当に伊能忠敬を尊敬し誇りに思っているのでしょう、上記の測量日記を入手した際には非常に丁寧にご対応をしていただきそのことにも感動しました。

(本ブログ中の地形図等は、市販の地形図ソフトウェア『カシミール3D』により作成し、地形図データは国土地理院発行の電子データです)

伊能測量下北半島記(2)に続く

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