写真と図を主に使って、平山宗平さんと尾形慶介さんが実施した『牛滝越え』を紹介します。推定行程は以下の通りです。(下北行動の宿泊地は、Inopedia2次・下北 に示してあります)
(6)でご紹介したように、田名部代官所の「警備日記」によって、新暦11月26日(旧暦10月21日)に佐井を出発し、計7日間掛かり新暦12月2日(旧暦10月27日)に田名部に到着したことが判明しています。彼らの辿ったルートは佐井から福浦までは 伊能大図の大間 、 福浦より南は 伊能大図の青森 で凡そ判ります(極めて正確)。そして伊能日記が記載するこれら7日間の天候、さらに「警備日記」の情報から脇野沢、川内に宿泊した日も判明しています。宿泊地については、ほぼこの行動に近い1795年の各村々の戸数や人数((6)の参考表として掲載)も参考にしました。これらのなかで最も厳しい狭い意味の「牛滝越え」である「牛滝―源藤城」間には、家がなく泊まることができません。ここは1日でやらざるを得なかったということを前提として、その前後の日は準備や休養にも充てたと考えて行動表を作ると上の表になります。一番悩んだのが11月29日を脇野沢で宿泊したか九艘泊まで行ったかでしたが、「警備日記」では少なくとも12月1日の朝は脇野沢で確定ですので九艘泊―脇野沢をマル1日も費やすのは不自然ということで、現時点では取り合えずこれにしました。ロジ面、宿泊面それに付属した牛滝越えの測量データ整理は脇野沢が圧倒的に便利なはずです。但し、九艘泊宿泊を決定的に否定するものではありません。日程表におとした全体の行程における天気は結構厳しいです。特に「牛滝越え」当日は天気がドンドン悪くなる方向です。因みに当日の日の出は06:40頃、日没は16:10頃ですので、9時間程度でこれをやらねばなりません。
さて、平山さんと尾形さんの他に支援の方がいたのかについては、絶対いたはずで道案内人がいなければ牛滝越えは不可能。いても天候が悪ければこの時期、遭難して死ぬと確信してはおりました。なかなか裏付けが無かったのですが、Inopediaの戸村さんから送って戴いた資料(「忠敬先生日記」)のなかに佐井から平山分隊のために出した先触れがありました。古文苦手なのですが、見かねた戸村さんがInopediaの会員の方に解読して戴いたということで有難くその下に引用させて戴きました。ここまでくると何とか判ります。 (6)の「島々の事」の中に記されている方位盤や間縄等の測量器具の運搬を支援する人の計2名の存在が見えます。牛滝越えは平山さん、尾形さん、案内人、荷物運び人の計4人と考えられます。
十月廿一日 佐井村南部領平山宗平手分の先触
一、我等此度伊豆国より当国迄海辺為測量御用、当村迄罷越候所、牛滝村九艘泊・脇之澤村海辺山越難所ニ而、長持駕籠其外馬付荷物等通行難成由ニ付、我等当村より大畑町へ立帰り、夫より田名部野辺地へ相廻り候、依之手付之者両人測量致手分差遣候、右乃者申談次第、乍案内人足一両人宛御定之賃銭請取差出し、且又止宿川越等之儀差支無之様執斗可給候、 以上
酉 十月廿一日 伊能勘解由
従佐井村
野辺地迄
余ハ同前Inopediaの皆様に読み下して戴いた上記の文章は以下になります。
一、我等、この度、伊豆国より当国迄海辺測量御用に当村迄罷越候所、牛滝村、九艘泊、脇ノ沢村海辺山越難所にて長持、駕籠、その外馬付荷物等通行成り難き由に付、我等は当村より大畑町へ立帰り、それより田名部、野辺地へ相廻り候。之に依り、手付の者両人 測量に手分致し差遣わせ候。右の者申談次第、案内乍ら、人足一両人宛、御定の賃銭を請取り差出し、且又、止宿、川越等の儀差支無之様執計可給候。
以上。
酉十月二十一日 伊能勘解由
従佐井村 野辺地迄
余は同前
伊能下北半島測量記(5)では、想定されるルートを示しました。現在でも基本はほぼあっていると考えています。但し、地元の方やここをよく知る方々何人か(ご年配の方が多いのですが)に聞いてみました。
1) 私が(5)で信じられないと書いた牛滝出発直後の急崖については、佐井の中学の校長先生から、『自分が牛滝の学校に勤めていた30年ほど前は、あそこの岸壁直下の海岸線をつたって小荒川まで行ってそこでお昼の弁当というのが小学校の遠足だったよ』とのこと。『今はガケ崩れ等で基本的に通行止めになっているようだが、子供達は大変身軽で、大人が驚くほどヒョイヒョイ渡っていったんですよ。』とのこと。 ・・・・衝撃!!
2) 脇野沢―仏ヶ浦の間の観光遊覧船の方は、『小荒川(こあらかわ)―大荒川(おあらかわ)の間も以前は海岸線に道はあった。ただガケ崩れで基本通行禁止。いくつかの箇所は鉄の小橋を架けていたがすぐに波で壊された。小橋がなければいけないルート。』とのこと。
3) で、その方が言うには、『道が使えた時、牛滝から小荒川、小荒川から大荒川までは慣れている人が歩けば、それぞれ1時間で計2時間で行けた(時もあった)』。また『大荒川については国道338号(海峡ライン)の上のほうから大荒川に出る道があり、それを使って行ったこともある。但し、小荒川から山を巻いて大荒川へ抜けるルートのことは知らない。』とのこと。
4) 『同じく国道338号(海峡ライン)から武士泊の海岸へ出る道も歩いたことはある。但し、大荒川の上流を登っていき、尾根を越えて直接に脇野沢川を下る道の話は聞かない。海峡ラインが出来てからそんなことをする人はいないと思う。とにかくその辺りは、いまでは営林署も入らない場所になってしまっている・・』とのこと。
5) 佐井―仏ヶ浦間の遊覧観光船の方からは、長後から福浦の間の海岸線(通称 長浜)は昔、国道338号が通る前までは土地の人が使う道だったとのこと。途中にあるいくつかの大岩を巻くルートがあったとのこと。長浜は砂浜というよりかなりのゴロタ石からなる海岸です。山歩きには登山靴かトレッキングシューズが必須ですが、あの時代そんなものは無かったはずですし、ワラジ?それを履いて?・・想像すらできません。前日は雪・霰が厳しかったと伊能さん自身も記録しているそんなところを歩いたんですね・・・。
6) 同じ観光船の方に、仏ヶ浦の周辺で海岸を歩けるところはあるか?と聞いたところ、即座に『無理(キッパリ)!』、『不可能だから我々の商売が成り立つ』とのこと。
ということで上記の情報のもと1)の部分を少し書き換えたルートです。a) 牛滝―>小荒川―>小荒川沢
b) 小荒川沢―>尾根越えー>大荒川―>大荒川沢
c) 大荒川沢上流
d) 脇野沢川上流から武士泊分岐
e) 脇野沢川中流―>源藤城
地形図に赤い線で国道338号(海峡ライン)が示されています。牛滝越えルートの主要部分はそこから大きく離れ道路は現在ありません。牛滝越えルートの断面図をご参考までに添付します。山歩きソフトウェアでは休み無しで6時間半の行程という参考時間が出ています。日のある時間は約9時間。天気は悪く午後から雪が激しくなっています。
これから、カシミール3Dソフトを用いて作った様々な角度からの立体地形図とその上に表した牛滝越えのルート及びいくつかの実際の写真をお示しします。
まずは牛滝から小荒川までです。
牛滝の港、奥のほうに集落が見えます。
牛滝越えの第1歩;ここを平山さん達は越えたはずです。向こうに見えるのは仏ヶ浦に続く白い壁です。
これから約2kmにわたって海岸線はこんな地形です。この日は珍しく海は穏やかでした。ガケ崩れが激しいです。
海からみるとここはこんな感じです。
しばらく行くと小荒川の沢が見えてきました。小荒川より南(右側)は急に崖が厳しくなります。この写真では色がうまく出ていませんが、実物は光の状態によってはもっと赤く見えます。
平山さん達一行は小荒川のこの沢を登っていき、右側のピーク(新山)より少し左側の尾根に出てそこを越えたと思われます。大荒川周辺の立体地形図です。
小荒川から山を巻いて大荒川の河口の少し上流側に出ました。
大荒川を海側から見るとこんな具合です。
船がもう少し南に行って振り返ると以下のように見えます。左に大荒川の河口、右側は焼山崎(やけやまざき)の赤い壁がずっと連なります。写真中央に見えるゴツゴツした岩は、縫道石(ぬいどういし)という名の岩峰で酸性火山岩が噴出する前に地中で冷えて固まったもので岩頸(がんけい)というものです。米国に有名なデビルスタワーという岩山がありますが成因は同じです。この近くには日本のデビルスタワーと言われている縫道石山(ぬいどういしやま)があります。
(参考写真;縫道石山 この近くにあります;下北ジオパークの一部を構成)
焼山崎の赤い壁(下北ジオパークの一部)
大荒川と焼山の立体地形図 (まだ未熟で立体地形図にうまい色付けが出来ませんが、焼山の壁の色はオドロオドロシイ赤です)平山さん達は焼山崎の断崖を避けて、大荒川の沢に沿って焼山を巻いていきました。
大荒川沢の上流の立体地形図
上にお示したルート断面図でも判りますが、この尾根越えはかなりの急坂です。また案内人がいなければルートを間違いやすいところです。
下の図は、大荒川沢から脇野沢川への尾根越えです。513mピークに達して少し尾根沿い歩き、脇ノ沢川の最上流部に降りていきます。ここもルートを間違いやすいように思えます。
武士泊の南から北を眺めています。
同じく、少し海側からの眺めです。
武士泊の浜の辺りを海から見た写真です。仏ヶ浦からの帰りの船上から武士泊の浜をみたら黒いモノがゆっくり動いているのが見えました。おそらくクマです。
国道338号(海峡ライン)から見た平館海峡です。わずかにかすんで津軽半島が見えます。中央の谷筋の海側出口が武士泊です。平山さん達はこちら手前側の大きな沢を北(右)から南(左側)へ下っていきました。現在、人は入っていない地帯です。それも冬です。彼らは時刻にして何時ごろこのあたりを通過したか心配になります。
脇野沢川上流部から源藤城方向の眺め(立体地形図)。日没のまでの時間との勝負だったのでしょう。頑張れ平山さん!尾形さん!とついつい力が入ってしまいます。
源藤城(げんどうしろ)の集落 脇野沢川にかかる源藤城橋の上から
伊能大図 青森 には実際に歩いたルートが朱線で示されています(正確に)ので200年以上後の現在でも再現が可能です。私は大図の海岸線(点線ではあるものの)が実際の地形図とかなりいい線いっていることについて驚いてもいました。当初は、対岸の津軽半島側から眺めた情報をもとに書いたのかなとも思っていたのですが、第2次測量でそこに行っているときは悪天候で相当な難儀をしていますので、下北半島側はおそらく良く見えなかったと思われます。ではこの牛滝越えの時にルート上の高いところから見えたか?ということでカシミール3Dソフトで“新山・縫道石尾根”と”513mピーク“付近からの眺めを確認してみました。
“新山・縫道石尾根”から南西を眺める(尾根上1mの視線)
”513mピーク付近“から南南西を眺める(地上1mからの視線)
・・ということで、どこからも広く海岸線の形状を見渡せる場所はありませんでした。ではどうしたかというと、宿泊した牛滝や脇野沢で土地の人達から聞いたということでしょう。小荒川、大荒川、武士泊分岐、九艘泊等実際に測量したポイントを軸にして聞いた話から簡易な絵図をその場で描いて確認したということだろうと考えています。これの最大の問題は、土地の人の言葉がなかなか難しいのです。現在でも漁師言葉(浜言葉)は難しい!でも絵図をもとにやったら何とかなったかな。
(参考として、九艘泊の港や周辺地形の写真です。風情あります!)
伊能測量下北半島記(2)のところで、尻労―尻屋間を“伊能の道”として復活させたら良いのにと書きました。それは今も変わらないのですが、当初、この牛滝越えも“宗平・慶介の道”として残せば良いのかなと思っていましたが、今は少し考えが変わっています。“道”として残すということは多くの人が追体験できるよう、観光に寄与する目的があるのですが、残念ながらこの道は非常に難しいと思っています。牛滝―小荒川間の紹介でご紹介しましたが、このルートは非常に脆くガケ崩れが多いのです。コンクリート等で壁の補強工事をするとこの場所の良さ、意味を台無しにしてしまうという危惧もあります。そもそも人が安全に歩けるように整備することはほとんど不可能と思われるほどの場所です。
現在、そして将来はもっと簡単にパソコン上で追体験が出来てしまう世の中になるでしょう。パソコンと合わせて車や観光船での遠望等で十分に体験を共有できるそんな時代になったということでしょうか。ドローンも飛ばせばさらに臨場感は増します(ただしドローンを飛ばすことが出来る天候はかなり限られるはずです)。そんなやり方もあるかなと思っています。しかし、ここに来てみないと感じられないものが確実にあります!
基本的にこれで終了させていただきます。6月の初めにInopediaを通じて伊能日記を入手して以来ほぼ4ヶ月。ブログにまとめようと思い立ち材料集めから2ヶ月。(1)~(5)の第1弾をブログにアップして1か月。9月の1ヶ月は夜や休日は結構集中しましたが、Inopediaの戸村さんや横溝さんから多くの貴重なご意見・資料等を戴き、大感謝です。(6)に書きましたが、尻屋で一瞬ですが伊能忠敬さん達の存在を感じた時の感覚は忘れられません。ありがとうございました。
なお、現在やり残したものとして、実際に彼らが下北半島測量を行ったのは11月下旬ですので、その季節にここがどういう状況であるか?ということは私自身も大変興味があります。その季節の伊能下北半島測量のいくつかのポイントの写真をまとめて、伊能測量下北半島記(8) を追加したいと思っています。
以上
(本ブログ中の地形図等は、市販の地形図ソフトウェア『カシミール3D』により作成し、地形図データは国土地理院発行の電子データです。)
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