コロナの緊急事態宣言が全国に拡大(4月16日)しました。翌日には青森県知事から全国展開に対応した県内に向けた措置の発表とメッセージ。なお全国拡大宣言の日が、「八戸市で桜の開花がありました」とのニュースがあった日でしたが、すっかりコロナにかき消されてしまいました。
4月中旬になってグーッと冷えてきて早朝など氷点下になることも多く、天気もぐずついており、このぶんですと桜前線はなかなかこちらまで上がって来れないかもしれません。しかし、せっかく咲いた花も今年はコロナ禍で誠に残念な状況になってしまいました。このブログで桜のツボミの状況を3月中旬からお伝えしていましたが、その標準木がある早掛沼公園も、そしてもう一つの桜の名所の大湊水源地公園も閉鎖・立入禁止になってしまいました。これからがほんとに素晴らしい時期になるのでありますが、甚だ残念ではありますが、出来るだけ Stay Home とすることとしましょう。
長いGWをどのように過ごすか・・結構頭をひねる必要ありですが、まずはこれまで撮り貯めた写真類の整理あたりから始めよう思うのです。ただ、やっているうちにアソコの写真が無いかな?とか次はこんな構図の写真が欲しかった等と思わずカメラに手が伸びるのですが、ここはグッと堪えることにしましょう。おーっと、TVをつけながらブログを書いていたら『尻屋崎も封鎖!』とのニュース。
今日のブログはこれまでの撮溜め分からです。
野辺地から大湊駅までJR大湊線。青森―八戸は青い森鉄道ですので、JRはここで宙いた形で運用されているんですね。ここが本州最北の終着駅;大湊駅。看板には”てっぺんの終着駅”と書いてあります。


確かに線路の向こうは止まっています。戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩として転封された縁で、むつ市と会津若松市は姉妹都市。この大湊駅と会津若松駅も姉妹駅になっています。


これは駅の玄関の横に展示・保管されている「腕木式信号機」とのこと。


ちょうど入ってきた列車;鉄道オタクではないので車両の形式等はあまり興味ありません。駅から見える釜臥山;私の趣味・興味はこちらの方。


●ここで 終着駅に関する歌謡曲をご紹介。私の一番好きな曲は、八代亜紀が歌う『愛の終着駅』
唄:八代亜紀 作詞:池田充男 作曲:野崎真一
♪
●もう一つ、ずばり大湊駅を歌った歌謡曲があります。むつ市出身の盲目のシンガーソングライター;板橋かずゆき の作詞・作曲、宮古市出身の歌手;金澤未咲が歌う 『北の終着駅』
それぞれよろしいですな。
さて、その昔、大湊の一つ手前の下北駅から北上し津軽海峡側に出て大畑を経由し、さらに海岸沿いに大間まで繋げる鉄道建設計画があり、その第1期として1939年(昭和14年)に大畑まで完成し、運用が始まりました。大畑から大間までの工事は引き続き継続されたとのことですが、戦局の悪化、建設資材の不足で結局 1943年12月に工事は中止され、戦後も復活しませんでした。その後、大畑線は1985年に経営がJRから下北交通に引き継がれましたが、2001年4月1日に廃線になったとのこと。いまでも下北の各地に大間線や大畑線の様々な遺構が残っています。
現在の下北駅。むつ市の玄関。 航空写真リファレンス地図。


このブログで示す白黒の航空写真は国土地理院電子地形図からみることが出来る過去の航空写真から得ました。ほぼ1963-64年頃に撮影したものです。よくみると旧大畑線線路がはっきりと映っています。
大湊周辺 田名部中心部


旧田名部駅周辺の現在。 旧プラットホーム。左端の屋根は『イベント広場』。


ここは現在、JRバスの発着点になっています。また、むつ市の観光拠点である『来さまい館』や『まさかりプラザ』がすぐ近くにあります。
旧田名部駅の駅前通り。 いまはチト寂しい。


デパート旧松木屋の前には今も下北交通のバスターミナル(現役)があります。ここ、たいへん味わいがあります。


昭和レトロ満載の空間です。バス出発の時間になると写真奥のスタッフの女性からマイクで案内が流れます。そのマイクの声の質感や少し地元の訛りがある話し方が『遠くに来た感』あるいは『昔に戻った感』を呼び起こします。ここの空間は重要文化財級!

以前、ここに行ったとき、恐らく三沢の米軍基地の関係者の方々でしょう;恐山に観光に行こうとしておりこの時刻表を見ていました。『あなたがたこれわかるの?』と聞いたら、『恐山のだいたいの位置は調べてあり、地図上のその位置に書いてある漢字 ”恐山”と時刻表のそれぞれの目的地らしい一番上の文字と照合し、その場所の一群を見て、そこにある和数字は何となくわかる。次の恐山行は9:20だろう?』と聞いてきたので、『そのとおり!!』と返事をして、「いいねマーク」を指で示しました。

左が1960年代前半の田名部周辺。旧田名部駅は写真中央の十字マークより少し上にあります。右が現在のGoogle Earth。一番目立つのが田名部川の河川改修。街の密集度は多少増えましたが、そんなに劇的には変わっていません。線路の跡もまだよく残っています。


下北駅から出発し、田名部駅に到着するまえに旧田名部川を渡ります。

その鉄橋の現在の姿。 右の写真はちと衝撃的。途切れていることがハッキリ!


さらに北上して溜池の早掛沼の横をとおります。写真中央辺りが跨線橋になっています。左写真に見える道路の左側からみた旧線路の跡。


跨線橋の上から見た旧線路。左側が早掛沼。右は1960年代前半の航空写真。写真中央右側に早掛沼が黒く写っています。その横を大畑線が走っています。この写真を見ると早掛沼は当時はかなり浅く、沼の真ん中あたりは向こう岸に繋がっていたような様子が判ります。


なお右の航空写真の数年後、1968年5月16日に当時は十勝沖地震といわれ、現在は三陸北部地震#1968と呼ばれているM7.9の地震が発生、むつ市は震度5とされています。そのとき、この早掛沼の堤防が崩壊し、大畑線の線路も流され大きな被害を受けたとのことです。
これはミズバショウ等が見事な関根湿地の近くに残る線路跡、そこの踏切の跡。自転車専用道路に活用すれば良いかもと思ったりします。でもここクマが出ます。


さらに北上すると津軽海峡が見えます。


出戸川(でとがわ)鉄橋の遺構がよく残っています。


大畑線の終着駅 旧大畑駅の今の姿です。少し寂しくおそらく駅があったころは賑わったろうと推測される街並みが今では一層寂しさを漂わせています。


但し、鉄道遺構としてはよく整備されています。私、いまひとつ興味がくくっと動かないのですが、使われていた列車も動態保存されており、愛好会が整備して時々動かしているとのことで、その道の人達には涎が出そうな場所らしいです。


この写真は三陸北部地震1968で被害をうけた大湊線の状況とのことです。

出戸川鉄橋と大畑駅の間の状況とのことです。
1960年代前半の大畑です。大畑駅は中央十字マークから少し下の辺りです。 右は現在です。
この航空写真を見ると大畑から先の大間線の計画路線がよく判ります。工事が進んでいたところはその後道路に変わったということでしょう。Google Earth からは現在のバイパスがさらに川の上流側に橋を通して繋がったということなのでしょう。


大間鉄道は結局完成しませんでしたが、津軽海峡に沿っていろいろな遺構が残っています。ここは二枚橋鉄橋跡。右の写真の床屋さんは昨年(2019年)NHK「新日本風土記」でも紹介されました。


ここは釣屋浜。ここから最初の難所;木野部(きのっぺ)峠越え。大間鉄道はここを海岸のすぐ横の断崖にトンネルを掘って進むこととしており、実際にトンネルは完成したとのことで、戦後、一時期、自動車が通れるトンネルとして利用されていたとのことですが、幅が狭く結局、山を巻く木野部峠越えの自動車国道が作られたとのこと。近くにいくと大間鉄道の工事の遺構をみることが出来ます。右は線路ルートすぐ横にある塩釜神社。


ここは下風呂温泉の温泉街を横切る大間鉄道ルート跡。鉄道が開通していたらすごく賑わったであろうと想像できる泉質抜群の温泉です。

現在は、遺構を利用して観光施設になっています。


下風呂温泉を海側の公園から眺めた写真です。


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4月中旬になってグーッと冷えてきて早朝など氷点下になることも多く、天気もぐずついており、このぶんですと桜前線はなかなかこちらまで上がって来れないかもしれません。しかし、せっかく咲いた花も今年はコロナ禍で誠に残念な状況になってしまいました。このブログで桜のツボミの状況を3月中旬からお伝えしていましたが、その標準木がある早掛沼公園も、そしてもう一つの桜の名所の大湊水源地公園も閉鎖・立入禁止になってしまいました。これからがほんとに素晴らしい時期になるのでありますが、甚だ残念ではありますが、出来るだけ Stay Home とすることとしましょう。
長いGWをどのように過ごすか・・結構頭をひねる必要ありですが、まずはこれまで撮り貯めた写真類の整理あたりから始めよう思うのです。ただ、やっているうちにアソコの写真が無いかな?とか次はこんな構図の写真が欲しかった等と思わずカメラに手が伸びるのですが、ここはグッと堪えることにしましょう。おーっと、TVをつけながらブログを書いていたら『尻屋崎も封鎖!』とのニュース。
今日のブログはこれまでの撮溜め分からです。
野辺地から大湊駅までJR大湊線。青森―八戸は青い森鉄道ですので、JRはここで宙いた形で運用されているんですね。ここが本州最北の終着駅;大湊駅。看板には”てっぺんの終着駅”と書いてあります。


確かに線路の向こうは止まっています。戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩として転封された縁で、むつ市と会津若松市は姉妹都市。この大湊駅と会津若松駅も姉妹駅になっています。


これは駅の玄関の横に展示・保管されている「腕木式信号機」とのこと。


ちょうど入ってきた列車;鉄道オタクではないので車両の形式等はあまり興味ありません。駅から見える釜臥山;私の趣味・興味はこちらの方。


●ここで 終着駅に関する歌謡曲をご紹介。私の一番好きな曲は、八代亜紀が歌う『愛の終着駅』
唄:八代亜紀 作詞:池田充男 作曲:野崎真一
♪
寒い夜汽車で 膝をたてながら 書いたあなたの この手紙
文字のみだれは 線路の軋み 愛の迷いじゃ ないですか
よめばその先 気になるの
君のしあわせ 考えてみたい あなた何故なの 教えてよ
白い便箋 折目のなかは 海の匂いが するだけで
いまのわたしを 泣かせるの
北の旅路の 淋しさにゆられ 終着駅まで ゆくという
あなたお願い 帰ってきてよ 窓にわたしの まぼろしが
見えたら辛さを 解ってほしい♪
●もう一つ、ずばり大湊駅を歌った歌謡曲があります。むつ市出身の盲目のシンガーソングライター;板橋かずゆき の作詞・作曲、宮古市出身の歌手;金澤未咲が歌う 『北の終着駅』
♪
あなたが愛した北の街 一人列車に揺られている
ハマナスの花 杉林 海に溶ける夕日
あー大湊駅 釜臥の山 ヒバの香り
あー山背(やませ)に吹かれて 心が凍える
一人たたずむ 本州最北の 終着駅
あなたの俤(おもかげ)探す旅 あてもないまま歩き出す
どこへ行くのか渡り鳥 あなたのもとへ行きたい
あー大湊駅 あなたに似ている話し方
あー思い出 流して 陸奥(むつ)の波に
あなた恋しい 本州最北の 終着駅
あー大湊駅 釜臥の山 ヒバの香り
あー山背(やませ)に吹かれて 心が凍える
一人たたずむ 本州最北の 終着駅 終着駅
それぞれよろしいですな。
さて、その昔、大湊の一つ手前の下北駅から北上し津軽海峡側に出て大畑を経由し、さらに海岸沿いに大間まで繋げる鉄道建設計画があり、その第1期として1939年(昭和14年)に大畑まで完成し、運用が始まりました。大畑から大間までの工事は引き続き継続されたとのことですが、戦局の悪化、建設資材の不足で結局 1943年12月に工事は中止され、戦後も復活しませんでした。その後、大畑線は1985年に経営がJRから下北交通に引き継がれましたが、2001年4月1日に廃線になったとのこと。いまでも下北の各地に大間線や大畑線の様々な遺構が残っています。
現在の下北駅。むつ市の玄関。 航空写真リファレンス地図。


このブログで示す白黒の航空写真は国土地理院電子地形図からみることが出来る過去の航空写真から得ました。ほぼ1963-64年頃に撮影したものです。よくみると旧大畑線線路がはっきりと映っています。
大湊周辺 田名部中心部


旧田名部駅周辺の現在。 旧プラットホーム。左端の屋根は『イベント広場』。


ここは現在、JRバスの発着点になっています。また、むつ市の観光拠点である『来さまい館』や『まさかりプラザ』がすぐ近くにあります。
旧田名部駅の駅前通り。 いまはチト寂しい。


デパート旧松木屋の前には今も下北交通のバスターミナル(現役)があります。ここ、たいへん味わいがあります。


昭和レトロ満載の空間です。バス出発の時間になると写真奥のスタッフの女性からマイクで案内が流れます。そのマイクの声の質感や少し地元の訛りがある話し方が『遠くに来た感』あるいは『昔に戻った感』を呼び起こします。ここの空間は重要文化財級!

以前、ここに行ったとき、恐らく三沢の米軍基地の関係者の方々でしょう;恐山に観光に行こうとしておりこの時刻表を見ていました。『あなたがたこれわかるの?』と聞いたら、『恐山のだいたいの位置は調べてあり、地図上のその位置に書いてある漢字 ”恐山”と時刻表のそれぞれの目的地らしい一番上の文字と照合し、その場所の一群を見て、そこにある和数字は何となくわかる。次の恐山行は9:20だろう?』と聞いてきたので、『そのとおり!!』と返事をして、「いいねマーク」を指で示しました。


左が1960年代前半の田名部周辺。旧田名部駅は写真中央の十字マークより少し上にあります。右が現在のGoogle Earth。一番目立つのが田名部川の河川改修。街の密集度は多少増えましたが、そんなに劇的には変わっていません。線路の跡もまだよく残っています。


下北駅から出発し、田名部駅に到着するまえに旧田名部川を渡ります。

その鉄橋の現在の姿。 右の写真はちと衝撃的。途切れていることがハッキリ!


さらに北上して溜池の早掛沼の横をとおります。写真中央辺りが跨線橋になっています。左写真に見える道路の左側からみた旧線路の跡。


跨線橋の上から見た旧線路。左側が早掛沼。右は1960年代前半の航空写真。写真中央右側に早掛沼が黒く写っています。その横を大畑線が走っています。この写真を見ると早掛沼は当時はかなり浅く、沼の真ん中あたりは向こう岸に繋がっていたような様子が判ります。


なお右の航空写真の数年後、1968年5月16日に当時は十勝沖地震といわれ、現在は三陸北部地震#1968と呼ばれているM7.9の地震が発生、むつ市は震度5とされています。そのとき、この早掛沼の堤防が崩壊し、大畑線の線路も流され大きな被害を受けたとのことです。
これはミズバショウ等が見事な関根湿地の近くに残る線路跡、そこの踏切の跡。自転車専用道路に活用すれば良いかもと思ったりします。でもここクマが出ます。


さらに北上すると津軽海峡が見えます。


出戸川(でとがわ)鉄橋の遺構がよく残っています。


大畑線の終着駅 旧大畑駅の今の姿です。少し寂しくおそらく駅があったころは賑わったろうと推測される街並みが今では一層寂しさを漂わせています。


但し、鉄道遺構としてはよく整備されています。私、いまひとつ興味がくくっと動かないのですが、使われていた列車も動態保存されており、愛好会が整備して時々動かしているとのことで、その道の人達には涎が出そうな場所らしいです。


この写真は三陸北部地震1968で被害をうけた大湊線の状況とのことです。

出戸川鉄橋と大畑駅の間の状況とのことです。
1960年代前半の大畑です。大畑駅は中央十字マークから少し下の辺りです。 右は現在です。
この航空写真を見ると大畑から先の大間線の計画路線がよく判ります。工事が進んでいたところはその後道路に変わったということでしょう。Google Earth からは現在のバイパスがさらに川の上流側に橋を通して繋がったということなのでしょう。


大間鉄道は結局完成しませんでしたが、津軽海峡に沿っていろいろな遺構が残っています。ここは二枚橋鉄橋跡。右の写真の床屋さんは昨年(2019年)NHK「新日本風土記」でも紹介されました。


ここは釣屋浜。ここから最初の難所;木野部(きのっぺ)峠越え。大間鉄道はここを海岸のすぐ横の断崖にトンネルを掘って進むこととしており、実際にトンネルは完成したとのことで、戦後、一時期、自動車が通れるトンネルとして利用されていたとのことですが、幅が狭く結局、山を巻く木野部峠越えの自動車国道が作られたとのこと。近くにいくと大間鉄道の工事の遺構をみることが出来ます。右は線路ルートすぐ横にある塩釜神社。


ここは下風呂温泉の温泉街を横切る大間鉄道ルート跡。鉄道が開通していたらすごく賑わったであろうと想像できる泉質抜群の温泉です。

現在は、遺構を利用して観光施設になっています。


下風呂温泉を海側の公園から眺めた写真です。


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