田名部から脇野沢周辺にいく時に、波静かな陸奥湾沿いの国道338号線をドライブします。その途中、いつの頃からか気が付いたことがあります。それは、この沿線の集落はどこも道路や街中を丁寧に大変きれいに手をかけて維持しているということです。
一般に日本の街はどこも非常にきれいに整備されていますが、それを超えて『今日もスゴイ!いつもスゴイ!』と感心させられていました。
その中で私が一番好きな集落が蛎崎(かきざき)です。これまでここを何回か散歩していますが、散歩するうちにこの地には興味深い歴史もあり、大変面白い場所であると分かりました。全国的にはほとんど無名の街です。商店もなく、飲み物の自動販売機が2-3機あるだけ全く静かな集落ですが、じっくり2-3時間過ごせますし、そして「いいとこ来たな」と実感できます。
なお、昨年冬に日本中に衝撃を与えた“電線を渡るサル軍団”もこの蛎崎の周辺の出来事です。2017年の資料によると広い意味の蛎崎地区の世帯数は130世帯、250人が住まわれているとのことです。
田名部から川内を経て、宿野部を過ぎると穏やかな長浜海岸があります。その西端から蛎崎の街が始まります。
街に入ってすぐの左側に地区の公民館があり、車が駐車できる広場がありますので私はいつもそこに車を置かせてもらいます。
なにげない風景ですが、よく見るとチリ一つ落ちていないのです。
道路も自宅の敷地内も一帯として町全体がとてもきれいにされているのです。
とりわけ神社は“磨き上げられている”とでも表現したくなるほどキレイなのです。近いうちにお祭りがあるわけでもなく、これがいつもの風景なのです。
集落の外れに近いところもきれいです。因みに下の2つの写真の両方に写っている茶色の板壁のある小さな小屋はゴミ出し場です。この地方では雪対策で小屋になっています。これ、なじみが無い人には結構珍しいのですが、すぐに慣れてこれまで写真撮っていません。なお、ゴミ出しの基本的なルールは都会含めて各地とほぼ同様です。
そして、この地区の西の外れ、蛎崎城址の入口まで続きます。
さて、公民館のところに戻り、これから歩いてゆっくりと街を散歩します。
蛎崎集落を拡大した地図に番号をふりました。1番の公民館のところから5番の傘松の付近までだいたい1.5km弱くらいです。
1 公民館と駐車スペース(すぐそこに海岸があります)
ここは案内板にあるようにもとはこれから行く蛎崎城を守る東の砦だったとのこと。蛎崎城は中央の松の向こうに位置しています。
3 蛎崎八幡神社 最近塗りなおされた朱い鳥居が目に沁みます。
境内もチリ一つありません。石造りの灯篭ですが、この石は脇野沢安山岩層に相当し、角礫凝灰岩です。蛎崎地区には分布していないので脇野沢辺りからもってきたものでしょう。
この神社の向かい側(海側)に小さなお寺があります。説明文は50年近く前に書かれた趣のあるもので字もかすれて判読不明です。かすかに字を辿ると道施庵;川内の本覚寺の末庵と読めまして、蛎崎一族の菩提所であったと書かれているようです。また、明治の初めにここの和尚さんが村の子弟を庵内に集めて教育をして、それが蛎崎小学校になった。今年は創立百一年目にあたる(昭和51年(1976年))。と書かれているようです。
4 男川を渡り、少し進むと旧蛎崎小学校の手前に地蔵堂があると立て札があります。小さなお堂があり、中を覗くとお地蔵様がおられましたのでガラス越しに写真を撮らせて頂きました。
その横が蛎崎小学校跡。明治8年(1875年)開校、平成20年(2008年)閉校。道施庵の寺小屋から始まった大きな重い歴史があります。この国道338号沿いには廃校の跡がたくさんあります。
5 蛎崎城(錦帯城)址の入口。ここに枯れた松の木が立っています。これが蛎崎の傘松と呼ばれているもので幹回りは4.8mほどありましたが、現在は枯死してしまっており、安全のためいつ撤去されるかわかりません。看板には元気な当時の傘松の様子が記されています。
6 蛎崎城の見張り曲輪まで登るため、小学校の横の道を上がっていきます。
標高60m余なので楽に上がれます。なお丘の頂上部は見張曲輪、主郭は旧蛎崎小の辺りとされているとのこと。頂上に蛎崎蔵人の供養塔があります。よく見ると昭和53年(1978年)で蛎崎さんという方によって建立されたと書かれています。ご子孫ということなのでしょう。
さきほどの城址入口のところに戻ると石碑の裏に漢詩が書かれていることに気づきます。
古舘址空草露繁
山雲帯雨暗平原
村翁為説当年事
祠畔旧杉猶有根
言いたいことは伝わります。またその横に少し古くなった説明文もあり、蛎崎氏の歴史概要が書かれています。これに触発されこのブログの最後に蛎崎氏関係のことを少しまとめてみましたので関心があれば読んでください。いつものように少しクドイかもしれません。
菅江真澄がここに来たことが書かれています。
蛎崎詳細地図(再掲)
7 蛎崎の街中に戻ります。男川と大きく書かれた看板に興味をそそられます。その橋上から上流を眺めました。川の中にはシラウオ漁の網が仕掛けられていました。
8 そのすぐ東に男川の支流の女子川があります。その海側は親水公園になっています。
ちょっと面白いのは道路・街中にはチリ一つ落ちておらず、雑草もほとんどないのですが、公園という公共施設ではあまり手が入っていないという感じなのです。地域の人達は家の周囲、古くからある道や神社、お寺などは、おそらく、みんなできれいに維持しようと生活の一部としてやって来られているのでしょうが、その暗黙のルールがあるなかで、後から市が作ったモノの維持管理は当然、市がやるんだろう、それに勝手に手を入れてはいけないと思っているのかなと思われます。”箱”を作る時に非常に考えさせられる問題です。
9 街の裏手にあたるところに出てみました。ここもよく手が入った畑が広がっていました。街中ではほとんど人影を見ませんでしたが、ここに来ると多くの人がそれぞれに畑仕事をしており、「土地の人達の多くは昼は畑や海に出ているんだ」ということが分かります。
・畑側から見た八幡神社。クリの木の若葉が出始めています。
・(左)男川に沿ってヤナギの木が沢山あり、花のモヤモヤがもうじき空に舞いそうです。
(右)男川の中流です。川底は円礫です。上流の様々な地質の円礫が見られます。
・菅江真澄が旅行記に書いていた鷺の湯とすぐ近くの薬師堂まで足を伸ばしました。
・飲むことが出来まして、成分表も示されています。なお、隣の薬師堂を示す石標が立っており『薬師堂』と刻まれています。この石標も脇野沢層の角礫凝灰岩です。温泉(冷泉)とお薬師さんはここでも密接な関係があることを示しています。
薬師堂の祠にお参りしました。ここはお堂の中に入れました。薬師如来さまにコロナ平癒をお願いしました。
【歴史;蛎崎城】
蛎崎城の築城時期や築城主は明確ではないようですが、一般には次のように考えられているとのことです。
鎌倉時代の下北半島は津軽地域と同様に安東氏が支配しており、この地には安東氏の支流;宇曽利・安東氏一族が住んでいたようです(なお、南部地方は鎌倉幕府樹立に貢献した南部光行の一党が支配を任されていました)。そして鎌倉幕府が滅び、建武の新政等のドサクサの時(1334年)、宇曽利郷・順法寺城主の安東元親が部下の新井常安の謀反で殺され、宇曽利・安東氏は滅亡しました。(※ 大湊の江戸時代までの地名は安渡(アンド)。この由来は安東氏から来ています。海上自衛隊大湊基地の山側に市の観光施設;安渡館があります。)
さて、その直前(1333年)、後醍醐天皇側に付き鎌倉幕府の倒幕に貢献したのが山梨に残っていた南部氏の支流・南部師行であり、後醍醐側のスター達;楠正成、新田義貞、北畠顕家等と並び称せられていたようです。建武の新政で東北の管理を任された北畠家を補佐する形で南部師行は八戸・根城に入り、城を築きます。(なお、三戸を拠点にしていた南部本家は、鎌倉幕府側を支持する側に付いたようで、しばらく神妙にしていたようです。この時、同じ一族が北奥州に入ってきたけど、まずは穏便に仲良く・・といったところでしょうか)。
・八戸の根城の隣の市立博物館前にある南部師行像
陸奥国代を任じられた南部師行は、謀反をおこした新井常安を直ちに討伐し、部下の赤星五郎を田名部に、武田修理信義を蛎崎に配置して、この下北地方の管理を任せたとのことです。蛎崎城はおそらくその時に武田信義によって築かれ、武田氏はそれから蛎崎と名乗ることになったようです。このとき、蛎崎八幡神社も勧請されたようです。武田信義は甲斐武田の庶流ということで、南部氏も武田氏も甲斐から出た同郷の人達ということでしょう。
後醍醐天皇の建武の新政はなかなかうまくいかず、組織統率力で一枚上手の足利尊氏が足利幕府を設立することになります(1336年)。これらの戦で楠木正成が戦死し、次に北畠顕家そして新田義貞が戦死(1338年)します。八戸・根城の南部師行は北畠顕家と運命を共にして、大阪・堺の辺りで戦死しました。ほぼこれで大きな戦は終わり、足利尊氏は後醍醐天皇を廃し、別の天皇(いわゆる北朝)をたてますが、後醍醐天皇は吉野に逃げ南朝の天皇をたてて、南北朝時代が始まり、いろいろ足利幕府に抵抗しました。一番大きな戦は楠正成の息子・正行の抵抗でしたが、これも1348年に終結し大勢が決定しました。しかし南北二朝廷の並列と様々な抵抗はこのあともズーッと続き、南北朝合一は圧倒的な力を誇った足利義満によって1392年になされました。
さて時代は少し遡り、大勢が決した1348年に後醍醐の息子;大塔宮護良(おおとうのみや・もりよし)親王の息子とされる南朝側の良尹王(この辺りから伝説なのか事実なのかよく判らなくなります;一般的には、尹良(ゆきよし)親王という方は、護良親王の弟の宗良(むねよし)親王(この方は南北朝時代ズーッと地方を転々としながら抵抗し続けた方です)の息子さんとしておられますが、良尹王という名前は“正統”な歴史本には出てきません)が、京都を追われ、既に戦死している南部師行の息子の政長を頼ったと伝えられています。政長は先年の部下の反乱で滅んだ宇曽利・安東氏の本拠地であった順法寺城に良尹王一行を迎え、部下の蛎崎氏と武田氏を良尹王の臣下にして『北部王家(きたべおうけ)』として独立させたとのこと。八戸・根城の系統の(建武の時に奥州に来た)南部氏は歴史を通して一貫して南朝派・勤皇派を貫いており、南部宗家三戸の南部氏とは微妙に趣が異なります。
・順法寺城址を示す説明文 その裏手の神明宮
このすぐ隣は海上自衛隊航空基地の広い敷地になっています。
さて南北朝時代およびそれが終わった後も八戸根城南部氏も本家の三戸南部氏もそれぞれの領土を守っていったのですが、この足利時代というのは義満以外は強い将軍はいなかったようで、権威はそれほどでもなくかなり自由な時代で特に北東北では色々なことが起こったようです。
15世紀前半にはそれまで日本海側・津軽地方を中心に勢力を持っていた安東氏(十三湊は非常な繁栄をしていたと言われています)を南部氏の一族が攻め、北海道のほうに追いやってしまったとか。この時期(応仁の乱にはまだ至っていないのですが)、この地域はほとんど中央の権威から離れてしまっていたようです。
そんな状況をジックリみていた野心満々の人間が蛎崎家の五代目;蛎崎蔵人信純だったということでしょう。彼は主家で宮家の血筋を継ぐ順法寺城主新田義純(義純王)を謀殺するという事件(1448年)を引き起こしたとされています。
それは蛎崎城の修繕完成の披露の場に主君筋の義純王等を招き、その余興として御座船に乗せ(現在の蛎崎漁港辺りから出港か)、沖に出たあとその船を沈めてしまうという手段を取ったとのこと。
そして巧妙に立ち回り(状況は謀殺が明らかであったにもかかわらず事故だと言い切ったようです)、次に田名部の赤星氏も滅ぼし、実質的に力で下北半島を制圧してしまったとのこと。
その時、勤王派をお家の旗印にしていた根城南部氏は、津軽方面で別の事件の対応に忙しく、結果として蛎崎蔵人の乱は長期化してしまったようです。この間に蛎崎蔵人は蝦夷地に逃れていた安東氏と結んだり、アイヌの兵も率いたりして八戸領まで攻撃したとのことです。
根城の南部政経(まさつね)は蛎崎討伐の勅許を受けて反撃を開始し(1455年)、2年ほどの戦いののちに蛎崎蔵人を攻めて、蝦夷地に追い落とした(1457年)とのことです。なお、このとき蛎崎蔵人は男川を遡って逃げ、そこから下北半島西海岸・武士泊あるいは九艘泊の入江から船で蝦夷地に逃げたと伝えられています。
この功績で下北半島(宇曽利郷)が根城南部氏の領土になったとのこと。
なお、根城南部氏と下北の関係、三戸南部氏と下北の関係は江戸時代の初めに大きな出来事があるのです。それは三戸本家(既に盛岡に本拠を変えています)が根城南部氏を石高も小さく統治も難しい遠野に移封し、お米がとれる八戸や鉄・金銀・名馬そしてヒバを産する下北を本家直轄にしてしまったということです。その首謀者は南部本家の南部利直;とにかくエグイ!対するは根城南部の女城主;清心尼。そのあたりを書いているのが直木賞作家の中島京子さん;「かたづの!」という作品です。さて、その後、南部本家の跡継ぎ問題が兄弟間で発生し、結局新たに八戸藩を作り(城は現在の八戸市役所の隣)、盛岡南部から独立させることを幕府が認めました(なお、下北は盛岡管理のまま。北郡(きたごおり)として代官所支配。)。なお、超余談ですが、明治維新・戊辰戦争のとき盛岡南部藩は幕府側でしたが最後の最後まで遠野(家訓なんでしょうね)は朝廷・新政府側を支持し、結局それが南部藩の御咎めが少なかった要因ともいわれているそうです。わたくし、筋を通す人たちが結構好きで、朝廷派の旧根城・南部の人達、あるいは幕府派の旧会津藩(下北に藩ごと流されましたが)の人達、いずれも共感します。
話を戻しますが、この時、蝦夷地に逃げた蛎崎蔵人が松前氏の祖になったという伝承があります。ちょうど蛎崎蔵人が蝦夷地に渡ったとされる翌年に蝦夷地でコシャマインの乱が起こっており、蝦夷地は風雲急を告げていました。それを平定したのが武田信広という人とのことですが、彼はその土地の蛎崎家(おそらく数代前に渡っていた蛎崎家の一族)を継ぎ、結局その家系が150年後、豊臣・徳川氏に従った功績で蝦夷地を治めることになり松前氏(それまでは蛎崎氏)と名乗ることが出来たとされています。
蛎崎蔵人の反乱は江戸初期に成立した東北太平記という読み物に書かれていることでして、必ずしも歴史的事実かは判明しません。また、松前氏と反乱児・蛎崎蔵人との関係も諸説ありということでしょうが、下北の蛎崎の土地にいた一族が様々な生活活動に伴い、蝦夷地にも進出してアイヌの人達とも関係を築き、あるいは津軽半島の安東氏とも関係を築き密接な関係をもっていたということは、むしろ当然のことと思われます。
蛎崎城の上から海をみると津軽半島が圧倒的に近く、蝦夷地も近く、一方、八戸方面は遠いということがよく判ります。

蛎崎八幡宮のすぐ横に趣のある立て札があります。それには、蛎崎蔵人が南部正経の討伐軍に敗れた戦いのさなか、娘の松子姫が自害し、八幡神社の近くにその墓標として杉の木が植えられ、「姫小杉」と呼ばれていたと書かれています。

しかし明治末にそれが伐採され売却されてしまったのですが、その後、伐採し売り飛ばした人は樹霊の祟りで病没したということだそうです。
その最後に「昭和10年4月に松前靖広公が来村した際に、姫小杉が伐採されてしまったことを知った靖広公はそれを惜しみ、その朽ちた切株の横に杉の苗木を手植えして今日に至る」と記されています。 おしまい