(創造者は)女のような男、あるいは男のような女でなければならない。
(ヴァージニア・ウルフ)
フェミニズム文芸批評におけるシェイクスピア批評の最高峰と評される、
ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」読了――面白かった!
人間の営みを描写し創造(create)することは、創造者(creator)が、男女の
本質主義的な先入見を越えて、構築主義的な視点から男女を捉え直すこと
であり、そのとき、創造者は、男にもなれるし女にもなれる、可変する性を
持つことができるという批評の視点が、凄く面白い。ぶっちゃけて述べると、
例えばエロゲライターは、男であっても、”本当にヒロインを魅力的に生き生き
と描くならば”そのとき、女になりきるを越えて”女になっている”、生れの性を
越えているんだよ〜!男性が女性を魅力的に生き生きと描いたり、逆に女性が
男性を魅力的に生き生きと描く時、創造者は性差の境界を超越しているんだよ!
って感じですね。この考え方、私は好きですね。エロゲライターに読んで欲しい(爆)
マサキ
「ぼくは(女性の)秋戸さんがうらやましいよ。ぼくは少女マンガをやめるつもりなんだ」
秋戸
「えっ……なぜ!?」
マサキ
「男だからね。これからどんどん少女マンガは描けなくなる」
(衛藤ヒロユキ「がじぇっと」)
上記、男性のマサキが、自分は男だから少女マンガは描けないと考えるシーンですが、
本著「シェイクスピアの女性像」はこういった見方の否定、男であっても、女性のように
感じ考えようとするならば、女性を描くことができるという考え方なんですね。ちなみに
上記の引用を行った作品「がじぇっと」は非常に少女マンガ的な物語で(マッグガーデン
の作品ですが、ここの出版する作品は、少年マンガという枠組を越えた少女的な繊細な
感性で描かれる作品が多い)、男性の衛藤ヒロユキさんが、少女マンガ的な感性の物語を
見事に創り上げているわけで、それがマサキの言葉に対する反論になっているのが面白い。
衛藤さんの「魔法陣グルグル」なんかも、実に少女マンガ的な作品、そこが魅力的ですからね。
本著で更に面白いのは、シェイクスピア劇における性差の超越において、少年(少年俳優)
の存在が大きいという分析ですね。男でありながら女らしさを持つ、女性を演じる少年という
存在を劇内でおいて反映するものとして、女でありながら男っぽい男まさりの女性像が、
シェイクスピア劇の中から生まれてくる。少年俳優の両性性が、土台となる。男(少年俳優)が
女を演じ、そしてその演じられる女の役が今度は男装して男を演じるという作劇の意図に
おいて、衣服による人為と、それが本質でないことが示される。モンテーニュ的な自由論です。
本質主義的・男尊女卑的な人々が、男女の定められた本質的役割として考えていた服装に
対し、シェイクスピア劇や他演劇は、異性装の要素を取り込むことで、それをぶっ壊したのです。
(女装する)少年俳優は、男装してエリザベス朝とジェイムズ朝の(本質主義的・
男尊女卑的)社会から反感を買った女性達と特別な類似性を持っていた。
少年俳優は演劇に反対する人々から女性の服装をするといって非難されたが、
さらにその(演じる)女性をしばしば(劇において)男装させるという罪も犯した。………
ジェイムズ一世は、ズボンを履いた女性(男装の女性)を、きちんとした社会に対する
脅威とみなし、ジョン・チェンバレンの手紙のうち一通によれば、1620年には聖職者たち
に次のように命じたのであった。「我が国の女性の傲慢さと、彼女達のうちにはつばの
広い帽子をかぶり、結び紐のついた胴着を着込み、髪を短く切ったり刈り込んだりして、
小刀や短剣、その他同程度の価値のつまらない装飾品をつける者もあることを、激しく
非難するように」。男性的な女性というのはジェイムズ朝フェミニズムの兆候だ。………
衣服が人間の間に人為的な相違を作り出した。モンテーニュに言わせれば、何の違い
もないところに服装が差異を定めるのだ。「作男と国王、貴族と職人、高官と庶民、
金持ちと貧乏人を比べてみると、我々の目にすぐそれと分かるような大きな違いが
あるが、それは言うなればほかでもない、単に着ているものの違いでしかない」
(モンテーニュ)。シェイクスピアの描く王は、皆このことをはっきりと認識している。
リアは裸の乞食に自分自身の姿を見てとり、へつらいばかり言う社会からの借り物
だといって自分の服を脱ぎ捨てる。「ぼろ服の破れ目からは小さな悪事でも顕れるが、
礼服や毛皮の式服ならすべてが隠れてしまう」(シェイクスピア「リア王」)。………
(異性装に反対する人々の)特にいらだちを誘ったのは、こういった女性(男装する
女性)が、(服装の)慣習への懐疑に対して立派な権威者を引き合いに出すことが
できた点だ。モンテーニュは、もし自然の女神が男性にズボン、女性にペチコートを
はかせるつもりだったら、衣服に覆われない体の部分――目、顔、口、鼻、耳――を
保護するようにと注意しただろうと、と主張した。モア(トマス・モア)は女性にも男性同様、
善を求める性質があると主張して(キリスト教が広めた「女性は男性より劣っている」と
いう論に対する反論)、その本質を歪めてしまう慣習(本質主義的、男尊女卑的慣習)を
非難した。慣習はズボンが男のものだと決めるかもしれないが、慣習それ自体が
偶然発展したり衰えたりするものであり、時代に支配されるものなのだ。
何しろ私の力で法を覆し、ほんの一時間の間に慣習を植え付け、しかも
それをひっくり返すこともできるのだから。(シェイクスピア「冬物語」)
「冬物語」の「時」は自ら劇作家となり、舞台上の二時間のやり取りの間に
慣習を作り上げて壊して見せる。(女でありながら男らしさを)演技する者
(俳優)としてののしられて、男性的な女性が「私達は男と同じように自由の
身に生まれ、自由な選択権を持ち、同じような要素から成っていて、同じように
自由に自分を活用してもいいのだ」と主張したとき、彼女は当然劇作家の
うちに味方を得た。劇作家は女らしさの慣習から解き放たれた場合の女性の
本質に関して、ズボンが何を明らかにするのかと自問したのだ。………
(女装してヒロインを演じる)少年俳優が刺激となって、男性的精神をもっていると
言われるヒロインが作り出された。少年劇団の特徴だった意気軒昂さと当意即妙
のやり取りは、シェイクスピアのヒロインの鋭い機知、豪放さ、独立心に蘇った。
だがリリーの劇のフィリダとガラシアが、女性に対する少年の見方を体現している
ので少年俳優にとって近づきやすいものであるのに対し、シェイクスピアの女性は、
女であるとともに、少年でもある(両性的な要素を持つヒロインで)あるのだ。………
ヴァージニア・ウルフは「シェイクスピアの心は男女両性の心、男でもある女の心の
模範だ……性を特殊なもの、あるいは別個のものと考えないことは、十分に発展した
心を象徴する……物を書く人間(creator)にとって、自分の性を(固定されたものと)
考えるのは致命的だ。完全に純然たる男、あるいは女であることは、(創造の
営みにおいて)致命的なことなのだ。(創造する者は、異性を見事に描くために)
女のような男、あるいは男のような女でなければならない」と述べている。………
シェイクスピアは女性の本質(女らしさ)を、男性世界における女性の無力の産物と
見ていた。だが彼はそれ(女らしさとしての反暴力性、優美さ、繊細さ、優しさetc)を、
粗暴な力(男らしさとしての暴力)の原始的闘争を越えた文明の守護者とも見ていた。
エリザベスの支配は、ブリトマートの場合より気高い。人文主義者達が
戦争(暴力)の価値を引き下げた時、彼らは女性の地位を高めたのだ。………
シェイクスピアは男性と女性は平等でないと公言していた世界の中で男女を
平等なものと見ていた。彼は人間の本質を男性的なものと女性的なものに
分けるのではなく、個々の女性、あるいは男性を通して、対立する衝動が
結合する際の無限の多様性を見ているのだ。シェイクスピアの女性について
語ることはシェイクスピアの男性について語ることだ。彼は男性と女性の
世界を肉体的にも、知的にも、精神的にも、区別することを拒んでいるからだ。
(ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」)
いやあ…名著ですね、流石はフェミニズム文芸批評の最高峰の一つ。
実に優れたシェイクスピア論です。お勧めの作品ですね。作品を
創造する方々が読むと、更に面白いんじゃないかなと思います(^^)
創造する者は、女のような男、あるいは男のような女でなければならない――。
参考作品(amazon)
スティーヴン・オーゲル「性を装う シェイクスピア・異性装・ジェンダー」