2007年11月

ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」 −男女を超える創造−






ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」


シェイクスピア全集


エロゲ総合一覧






(創造者は)女のような男、あるいは男のような女でなければならない。


(ヴァージニア・ウルフ)






フェミニズム文芸批評におけるシェイクスピア批評の最高峰と評される、


ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」読了――面白かった!





人間の営みを描写し創造(create)することは、創造者(creator)が、男女の


本質主義的な先入見を越えて、構築主義的な視点から男女を捉え直すこと


であり、そのとき、創造者は、男にもなれるし女にもなれる、可変する性を


持つことができるという批評の視点が、凄く面白い。ぶっちゃけて述べると、


例えばエロゲライターは、男であっても、”本当にヒロインを魅力的に生き生き


と描くならば”そのとき、女になりきるを越えて”女になっている”、生れの性を


越えているんだよ〜!男性が女性を魅力的に生き生きと描いたり、逆に女性が


男性を魅力的に生き生きと描く時、創造者は性差の境界を超越しているんだよ!


って感じですね。この考え方、私は好きですね。エロゲライターに読んで欲しい(爆)






マサキ


「ぼくは(女性の)秋戸さんがうらやましいよ。ぼくは少女マンガをやめるつもりなんだ」


秋戸


「えっ……なぜ!?」


マサキ


「男だからね。これからどんどん少女マンガは描けなくなる」


(衛藤ヒロユキ「がじぇっと」)






上記、男性のマサキが、自分は男だから少女マンガは描けないと考えるシーンですが、


本著「シェイクスピアの女性像」はこういった見方の否定、男であっても、女性のように


感じ考えようとするならば、女性を描くことができるという考え方なんですね。ちなみに


上記の引用を行った作品「がじぇっと」は非常に少女マンガ的な物語で(マッグガーデン


の作品ですが、ここの出版する作品は、少年マンガという枠組を越えた少女的な繊細な


感性で描かれる作品が多い)、男性の衛藤ヒロユキさんが、少女マンガ的な感性の物語を


見事に創り上げているわけで、それがマサキの言葉に対する反論になっているのが面白い。


衛藤さんの「魔法陣グルグル」なんかも、実に少女マンガ的な作品、そこが魅力的ですからね。





本著で更に面白いのは、シェイクスピア劇における性差の超越において、少年(少年俳優)


の存在が大きいという分析ですね。男でありながら女らしさを持つ、女性を演じる少年という


存在を劇内でおいて反映するものとして、女でありながら男っぽい男まさりの女性像が、


シェイクスピア劇の中から生まれてくる。少年俳優の両性性が、土台となる。男(少年俳優)が


女を演じ、そしてその演じられる女の役が今度は男装して男を演じるという作劇の意図に


おいて、衣服による人為と、それが本質でないことが示される。モンテーニュ的な自由論です。


本質主義的・男尊女卑的な人々が、男女の定められた本質的役割として考えていた服装に


対し、シェイクスピア劇や他演劇は、異性装の要素を取り込むことで、それをぶっ壊したのです。






(女装する)少年俳優は、男装してエリザベス朝とジェイムズ朝の(本質主義的・


男尊女卑的)社会から反感を買った女性達と特別な類似性を持っていた。


少年俳優は演劇に反対する人々から女性の服装をするといって非難されたが、


さらにその(演じる)女性をしばしば(劇において)男装させるという罪も犯した。………





ジェイムズ一世は、ズボンを履いた女性(男装の女性)を、きちんとした社会に対する


脅威とみなし、ジョン・チェンバレンの手紙のうち一通によれば、1620年には聖職者たち


に次のように命じたのであった。「我が国の女性の傲慢さと、彼女達のうちにはつばの


広い帽子をかぶり、結び紐のついた胴着を着込み、髪を短く切ったり刈り込んだりして、


小刀や短剣、その他同程度の価値のつまらない装飾品をつける者もあることを、激しく


非難するように」。男性的な女性というのはジェイムズ朝フェミニズムの兆候だ。………





衣服が人間の間に人為的な相違を作り出した。モンテーニュに言わせれば、何の違い


もないところに服装が差異を定めるのだ。「作男と国王、貴族と職人、高官と庶民、


金持ちと貧乏人を比べてみると、我々の目にすぐそれと分かるような大きな違いが


あるが、それは言うなればほかでもない、単に着ているものの違いでしかない」


(モンテーニュ)。シェイクスピアの描く王は、皆このことをはっきりと認識している。


リアは裸の乞食に自分自身の姿を見てとり、へつらいばかり言う社会からの借り物


だといって自分の服を脱ぎ捨てる。「ぼろ服の破れ目からは小さな悪事でも顕れるが、


礼服や毛皮の式服ならすべてが隠れてしまう」(シェイクスピア「リア王」)。………





(異性装に反対する人々の)特にいらだちを誘ったのは、こういった女性(男装する


女性)が、(服装の)慣習への懐疑に対して立派な権威者を引き合いに出すことが


できた点だ。モンテーニュは、もし自然の女神が男性にズボン、女性にペチコートを


はかせるつもりだったら、衣服に覆われない体の部分――目、顔、口、鼻、耳――を


保護するようにと注意しただろうと、と主張した。モア(トマス・モア)は女性にも男性同様、


善を求める性質があると主張して(キリスト教が広めた「女性は男性より劣っている」と


いう論に対する反論)、その本質を歪めてしまう慣習(本質主義的、男尊女卑的慣習)を


非難した。慣習はズボンが男のものだと決めるかもしれないが、慣習それ自体が


偶然発展したり衰えたりするものであり、時代に支配されるものなのだ。





何しろ私の力で法を覆し、ほんの一時間の間に慣習を植え付け、しかも


それをひっくり返すこともできるのだから。(シェイクスピア「冬物語」)





「冬物語」の「時」は自ら劇作家となり、舞台上の二時間のやり取りの間に


慣習を作り上げて壊して見せる。(女でありながら男らしさを)演技する者


(俳優)としてののしられて、男性的な女性が「私達は男と同じように自由の


身に生まれ、自由な選択権を持ち、同じような要素から成っていて、同じように


自由に自分を活用してもいいのだ」と主張したとき、彼女は当然劇作家の


うちに味方を得た。劇作家は女らしさの慣習から解き放たれた場合の女性の


本質に関して、ズボンが何を明らかにするのかと自問したのだ。………





(女装してヒロインを演じる)少年俳優が刺激となって、男性的精神をもっていると


言われるヒロインが作り出された。少年劇団の特徴だった意気軒昂さと当意即妙


のやり取りは、シェイクスピアのヒロインの鋭い機知、豪放さ、独立心に蘇った。


だがリリーの劇のフィリダとガラシアが、女性に対する少年の見方を体現している


ので少年俳優にとって近づきやすいものであるのに対し、シェイクスピアの女性は、


女であるとともに、少年でもある(両性的な要素を持つヒロインで)あるのだ。………





ヴァージニア・ウルフは「シェイクスピアの心は男女両性の心、男でもある女の心の


模範だ……性を特殊なもの、あるいは別個のものと考えないことは、十分に発展した


心を象徴する……物を書く人間(creator)にとって、自分の性を(固定されたものと)


考えるのは致命的だ。完全に純然たる男、あるいは女であることは、(創造の


営みにおいて)致命的なことなのだ。(創造する者は、異性を見事に描くために)


女のような男、あるいは男のような女でなければならない」と述べている。………





シェイクスピアは女性の本質(女らしさ)を、男性世界における女性の無力の産物と


見ていた。だが彼はそれ(女らしさとしての反暴力性、優美さ、繊細さ、優しさetc)を、


粗暴な力(男らしさとしての暴力)の原始的闘争を越えた文明の守護者とも見ていた。


エリザベスの支配は、ブリトマートの場合より気高い。人文主義者達が


戦争(暴力)の価値を引き下げた時、彼らは女性の地位を高めたのだ。………





シェイクスピアは男性と女性は平等でないと公言していた世界の中で男女を


平等なものと見ていた。彼は人間の本質を男性的なものと女性的なものに


分けるのではなく、個々の女性、あるいは男性を通して、対立する衝動が


結合する際の無限の多様性を見ているのだ。シェイクスピアの女性について


語ることはシェイクスピアの男性について語ることだ。彼は男性と女性の


世界を肉体的にも、知的にも、精神的にも、区別することを拒んでいるからだ。


(ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」)






いやあ…名著ですね、流石はフェミニズム文芸批評の最高峰の一つ。


実に優れたシェイクスピア論です。お勧めの作品ですね。作品を


創造する方々が読むと、更に面白いんじゃないかなと思います(^^)





創造する者は、女のような男、あるいは男のような女でなければならない――。





参考作品(amazon)


ジュリエット・デュシンベリー「シェイクスピアの女性像」


スティーヴン・オーゲル「性を装う シェイクスピア・異性装・ジェンダー」


シェイクスピア全集


衛藤ヒロユキ「がじぇっと」


衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル」


モンテーニュ「エセー」


エロゲ総合一覧




ナチスの暗黒の魅力と手塚治虫のエッセイ −不信と悲劇の感覚−







「TBSニュース」の「エコー」掛かり過ぎ 「ユーチューブ」になぜか英語の書き込み


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071127-00000001-jct-soci


TBS系ニュース「JNNニュース」が2007年11月24日に報じた北海道の


雪崩死亡事故で、およそ75秒間、現地からの中継した音声に強い


エコーがかかった。「ユーチューブ」にもこの放送がアップされ、


なぜか英語で300近いカキコミがされている。………


「ユーチューブ」にも画像がアップされていて、コメント欄には300近く


カキコミが出ている。その殆どが英語だが、この雪崩の死亡事故とエコーから、


外国人はなぜか、戦争やナチス、侵略と言ったものを連想してしまったようで、


「ナチスドイツのような大虐殺計画しています」


「日本人が真珠湾で私たちの海軍を攻撃したという事実です。


はい、私たちは長崎またはヒロシマで何千人も殺したかもしれません。


しかし、さらに多くが両側で虐殺されたでしょう?」


「24日、日本企業のグラウンドゼロの男性が殺されました」


などとニュースとは関係のないコメントが多い。






なんだこのお馬鹿ニュースは…(^^;


つうか、日本と同じく欧米でもなんでもナチス症候群(なんでも


ナチスネタにしちゃう症候群)は廃らずに流行ってるらしい…。


手塚治虫がエッセイで、「ナチスはどうしようもない悪い奴らだが、


奴らがめっちゃカッコよい魅力を持っているのはどうしようもない


事実で、みんな(手塚や三島由紀夫や様々な映画監督や芸能人達も)


そこに魅了されちゃうんだなあ…」みたいなことをしみじみ書いているけど、


それを思い出したよ…。ナチスの暗黒の魅力の影響は、


これからも世界中の文化に対してずっと続くんだろうな…。


ちなみに、「ナチスに比べると、大日本帝国はダサいね」とはっきり


云うところが、手塚治虫のいいところ、私の大好きなところだな(^^)






こういっちゃなんだけど、ナチってのは憎らしいが、なんでああカッコいいんだろうね。


………(映画の)「荒鷲の要塞」「特攻大作戦」「特攻大戦略」「ナバロンの要塞」


「コンバット」……それから、ひとクセある大スターは、たいがい一回はナチの服を


着ている。「バルジ大作戦」のロバート・ショー、「レマゲン鉄橋」のロバート・ボーン、


「将軍たちの夜」のピーター・オトゥール、ちゃんとサマになってる。………





ところでなぜナチはこうも映画でモテるんだろう。


それは、カッコいいからだと思う。


暗く、ニヒルで、残忍なカッコよさだ。


アメ横のモデルガン店で、いろんな国のモデル軍服を売っているが、


いちばんよく出るのがナチの制服だそうだ。


いちどぐらい、ハリウッドスターが日本軍の制服を着たら


どうだと思うんだが、これは着ないね。どうも泥くさくって。………





今回、なぜこんな話をするかってえと、昔、「沙漠の鬼将軍」(ヘンリー・ハサウェイ


監督――ああ、若き日のあこがれの名匠)という、ロンメル将軍を描いた映画が


あった(テレビで何度もやっている)。このロンメルに扮したのが、ジェームズ・メイスン。





このメイスンのカッコよさ。ぼくはすぐさま、ぼくの(マンガの)持ちスターの中に、


メイスンという名の悪役を加えたぐらいだ。………





(手塚が虫明亜呂無との座談会で)「メイスンのに、「ゼンダ城の虜」というのも


あったっけね」といったら、虫明亜呂無さんが、思わず、「出たァー」と叫んでよろこんだ。


この「ゼンダ城の虜」で、悪役ルパートに扮するメイスンが、また印象が強かったからだ。


ナチをモデルにしたと思われる、ボタンがキラキラと


たくさんついた軍服を着て、スカーッとして出てくる。


「よかったですねエ」


「いや、あの映画、三島由紀夫さんが好きだっていいましてねエ」





それを聞いて、ぼくはハッとなった。


すぐあとで、三島氏が死ぬ前につくった私設軍隊「盾の会」の写真を探した。


三島氏の着ている制服を見てギョッとした。


「ゼンダ城の虜」の悪役ルパートの服とソックリ同じではないか。


「盾の会」の制服の原型はこの映画だったのだ!


おそらく三島氏は――あの映画のメイスンに惚れこんで――


三島美学の象徴をあの服装に見出したのじゃないだろうか。


そしてそのデザインを流用した……。


偶然の一致なら申し訳ない。だが、三島氏のナルシシズムの追求を


考えると、ありえないことじゃない。そのくらいカッコよかったのだ。


(手塚治虫「ナチの軍服――「ゼンダ城の虜」と三島由紀夫」「ぜんぶ手塚治虫!」より)






手塚治虫のエッセイはアカデミズムからカルチャーまで、物凄い博覧強記の


教養の土台の上で、自由気まま縦横無尽に物事を語っていくところがあって、


私はとても好きですね…。漱石のような、驚くべき先見の明を感じる文章もある。


手塚のエッセイは私の理想のエッセイ、残忍さは持たないけれど、暗さやニヒル


なところはマンガと同じくある、ほんとうにカッコいいエッセイと思っていますね。






私は、手塚治虫の全作品の中に共通するものがあると感じる。


それは、テーマというよりも、むしろ姿勢である。


あらゆる価値を突き放して見ているような、不信の姿勢である。………





大東亜戦争が敗戦という形で終わるのを見た時、青年手塚治虫は、


おそらく不信の姿勢の第一歩を固めただろう。それは後に彼が時に口に


する批判精神に近いが、批判精神という言葉にまつわる楽天性はない。


もっとさめた冷めたものだったはずだ。不信の対極にあるのは、


抽象的で無色の、それだけに可塑的な知性であった。


手塚のこの知性こそ、近代的なマンガの文体を作り出したものである。


(呉智英「ある戦後精神の偉業 手塚治虫の意味」「ぜんぶ手塚治虫!」より)




手塚治虫


「ストーリーマンガというのは、ぼくが付けた名前じゃなくて、マスコミが付けたんです。


それからストーリーマンガの元祖が手塚だというのも間違いで、その前に


「スピード太郎」とか、「正ちゃんの冒険」だって長編マンガじゃないかということを


よく言われます。だけどぼくがはっきり胸を張って創造したと言えるのは、マンガに


悲劇の要素を持ってきたということだと思うんです。これは誰もやっていなかった。………


深刻にさせる、暗い気持ちにさせる、あるいはやりきれなさみたいなものを描く。


こういうことはマンガではタブーでした。タブーというよりも、誰も考えつかなかった。」


(手塚治虫・石ノ森章太郎対談にて。「ぜんぶ手塚治虫!」より)






最後に、マスコミは手塚治虫を、まるでヒューマニスティックな聖人かなにかのように


担ぎ上げていて、呉智英さんとか違和感を表明しておりますが、私も同じく感じるな。


手塚治虫は、能天気なヒューマニズムでは割り切れない、もっと暗い、虚無を湛えた


作品を創ってきたし、そういった、虚無に近接する悲劇的な感覚を持っていたからこそ、


マンガの世界に驚くべき功績を残すことが出来たのだと、私は思いますね…。






人間は「希望」に駆り立てられ、やがて疲労し、「正義」を唱え、


やがてそれにも倦み、殺し合い、傷つけ合いながら生存しつづけるだろう。


(江藤淳「エデンの東にて」「江藤淳コレクション1」より)






関連エントリ


「School Days」自主規制で打ち切り? −立往生のススメ−


参考図書(amazon)


手塚治虫「ぜんぶ手塚治虫!」


手塚治虫著作一覧


江藤淳「江藤淳コレクション1」




ベェーカリィー「強姦獣〜狙われた11.1学生〜」 −同人ゲーの傑作!!−






ベェーカリィー公式サイト


エロゲ総合一覧


マルキ・ド・サド著作一覧






「わたしたちは何度となく繰り返し繰り返し、悪というものが存在する物語や


計画に惹きつけられてきたのよ。悪魔や、神がその存在を許されている霊や、


あなたのお友達の言葉を借りれば、敵対者が存在する物語にね」


(アン・ライス「悪魔メムノック」)






同人エロゲ「強姦獣〜狙われた11.1学生〜」コンプリート。凄く面白かった!


いやあ、これは傑作です。現時点の2007年度マイベスト同人ゲーを2本選ぶなら、


SPLUSHWAVE「ドラゴンマージャン2」と並んで外せない見事な同人エロゲでした(^^)





この作品、凄く良い出来なんですが、どうもタイトルで損をしている気がするな(^^;


タイトルがとんでもなく直球豪速球って感じで、鬼畜エロゲーマー以外お断り


みたいな感じですからね。私みたいなマルキ・ド・サド大好き鬼畜エロゲどんとこい!


というハードコアな鬼畜ゲーマー向けみたいな感じがいかにもして…。でもですね、


この作品、タイトルからすると単なる鬼畜陵辱ゲーみたいですが、ところがどっこい、


シナリオが結構ハートフルなシナリオで、SFファンタジーとしてもなかなか良く出来て


いるのですね。そして何より、ゲーム性がかなり高くて、ゲームとして普通に面白い。


鬼畜ゲーマーのみに限らず、大勢のエロゲーマーにプレイして欲しい逸品です(^^)





本作は人間以外のあらゆる動物に変身できる超動物たる主人公(彼は人間とは


全く違う異種たる存在です)が、人間に近づき、人間と並び、人間を超えるために、


人間を孕ませることで、人間と異種の混ざった超存在を産み出そうとします。


そのために、ターゲットとしたヒロイン達を陵辱して孕ませようとする物語でして、


主人公は人知を超えたモンスターなので、人間以外のあらゆるものに変身して、


ヒロインを陵辱しますが、映画の「エイリアン」におけるエイリアン孕ませみたいな


もので、人間的な性欲や女性に対する暗い衝動みたいなものはないので、


エロシーンはかなり乾いた感じですね。鬼畜エロゲーマーには物足りないかも


知れませんが、鬼畜エロゲは苦手という方でも、こういうドライな鬼畜エロなら


人間が人間を陵辱するといったような鬼畜エロよりは入りやすいかなと思います。


あらゆる生物に変化しながら陵辱するので、あまりに突拍子がなくて笑えるところも。





ただ、本作の本題はエロではなく、ゲーム性とシナリオにあると云えるでしょうね。


まずゲーム性は、戦闘のあるスタジオメビウス「絶望」というか、鬼畜版のアリスソフト


「オンリーユー」というか、基本的に、同級生型のマップ移動フラグ立て型のシステム


に戦闘がついている感じです。この戦闘が、非常に面白い!!本作はヒロインや


ヒロインのボディガード等と戦闘して、倒すことでヒロインを陵辱することが可能に


なるのですね。あらゆる動物に変身できる主人公は基本形態は犬の形をとっている


のですが、その形態を利用して、犬の振りをしながら近づいたり、気配を消してこっそり


近づいたり、強行突破で突撃を敢行したり、戦闘時の駆け引きが凄く面白いのです!


初回プレイで、トゥルーエンディングを見るのは結構難しい(終盤の敵はかなり強い)


かも知れませんが、ED後、ある程度戦闘能力を次回プレイに引き継いだりできるので、


気長にプレイすれば、きちんとコンプリートできる絶妙に調整された難易度です。





また、マップ移動フラグ立て型のシステムを上手に使っており、ヒロインそれぞれは、


主人公からしたら単なる狩の獲物なんですが、ヒロイン一人一人は、みんな魅力的に


キャラクターが立っていることが、プレイしているとだんだん分かってくるんですね。


スタジオメビウス「絶望」もそうでしたが、獲物になる犠牲者のヒロインのキャラクターが


きちんと造形されていることは、とても好感が持てるな。陵辱される犠牲者ヒロインの


造形をきっちり行うというのは、ポルノの古典、サドの「ジュスティーヌ」からのお約束!!





シナリオもとても面白くて、万物の霊長を気取る人間によって、人間の下位と


された動物生命の反逆というSFファンタジー的なテーマを上手に使っています。


最終的にC・G・ユング的なファンタスティックの戦い、神話的な光と闇の戦いにまで


物語が広がっていくのが、良い意味で驚きましたね。GJなストーリーテリングです!






これは、光と闇、知識と無知、静謐と情念、驕りと敬神の物語だ。


それも人間の次元ではなく永遠の存在の次元での物語である。


永遠の存在も苦悩と迷いを免れてはいないのだ。


(ハンス・ヨナス「グノーシスの宗教」)






本作、「ドラゴンマージャン2」と並んで、2007年度における同人ゲー最高傑作の


一つであると思います。ぜひにお勧めの作品です!!こんな素晴らしい作品が


鬼畜ゲーマーぐらいにしか広まらないとか、それは悲しい!!ほんとに良い作品、


ぜひ、大勢にプレイして欲しい作です。やっぱ、ゲーム性のあるゲームは楽しいよ(^^)





参考リンク


ベェーカリィー公式サイト


SPLUSHWAVE公式サイト


参考作品(amazon)


スタジオメビウス「めびにゃ!」


アリスソフト「Only you〜リ・クルス〜」


エロゲ総合一覧


アン・ライス「悪魔メムノック 上巻」


アン・ライス「悪魔メムノック 下巻」


ハンス・ヨナス「グノーシスの宗教」


マルキ・ド・サド「ジュスチーヌ物語又は美徳の不幸」


マルキ・ド・サド著作一覧


DVD「エイリアンシリーズ」




日本政府が東欧から排出権買うよ〜の巻 −東欧諸国とかと仲良くできたらいいなあ…−







ハンガリーから排出権取得へ・政府、近く正式合意


http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071126AT3S2600626112007.html


政府は京都議定書が課す温暖化ガスの削減目標を達成するため、


ハンガリー政府から直接排出権を取得する方針を決めた。


日本が他国の政府から直接取得するのは初めてで、近く正式合意する。


ハンガリーは2008年に二酸化炭素(CO2)換算で排出権を1000万トン


売却する計画で、取得量や金額は今後詰める。日本は代金の使い道を


省エネなどの環境対策に絞るようハンガリー側に求める方針だ。


議定書はハンガリーに温暖化ガスの排出を08―12年に1990年比6%


減らすよう求めているが、経済低迷などで大幅に余剰が発生する見通し。


余剰分は目標達成が難しい国などに排出権として売却でき、ハンガリーは


日本や他の欧州諸国と交渉を進めている。ロシアや他の東欧諸国も余剰枠を


抱えており、日本はこうした国々とも交渉中という。






ハンガリーと云えば私にとってアゴタ・クリストフの祖国なのです!!


スタニスワフ・レムの祖国ポーランドやチェコとも日本は交渉しているようですね。


東欧諸国やロシアには私の好きな芸術家・芸術作品がとても沢山、その点で


個人的には好感を抱いているところがあるので、これ(排出権を買うこと)


をきっかけに、日本が東欧諸国やロシアともっと文化的にも仲良く出来たら素敵だな…(^^)





参考図書(amazon)


アゴタ・クリストフ著作一覧


スタニスワフ・レム著作一覧


沼野充義「スラヴの真空 東欧・ロシアの20世紀末を遊覧する」


沼野充義「夢に見られて ロシア・ポーランドの幻想文学」


沼野充義著作一覧




食材専門店のススメ −肉屋八百屋魚屋そしてさぷりめ〜んと!!−






高田明和「脳によく効く栄養学 ボケたくなければ肉を食え」


エロゲ総合一覧






モエリロンさん「肉中心のコンビニ弁当は思ったほどカロリーが多くないか?」


http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20071026/p3


これも意味不明。タンパク質の摂取量ではなく、「肉の」摂取量と明示


しているのだから、誤読・曲解だと言わざるを得ない。肉の他にも卵や


大豆などでタンパク質を取っている前提だから、当然500gは食べ過ぎである。


逆に、肉の他に一切タンパク質を取らないという想定は極端ではないか。




finalventの日記さん「ま、ちょっと」


http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20071126/1196032808


で、上限ではなく推奨量だとして、そんなにコンビニで満たせる?


というかそのあたりを他のタンパク源と合わせて考えることが重要。


コンビニ弁当の肉の量についてはむしろ少ないし(原価がかかる)。






finalventさんはちゃんと、「他のタンパク源と合わせて〜」って書いてますよ(^^;


文脈としては、肉をアミノ酸補給のタンパク源として考えての言葉なのかと思います。


アミノ酸が欠乏すると脳に影響すると云われますしね…。これはカロリーよりも


栄養素重視の考え方で、栄養学でも栄養素をまず重視するのでは…。


ちなみにコンビニ弁当を二回に分けて食べる時は、


これも一緒に飲んだ方がいいですね…。





アミノ酸サプリメント





ちなみにエロい人はこれも一緒に飲んだ方がいいですね(爆)





亜鉛サプリメント





後、コンビニ弁当より、肉屋でお惣菜の肉買って(肉屋のお惣菜肉は


スーパーより安い)ご飯やパンと一緒に食べる方が、安上がりですね。


肉屋さんだとコンビニの五百円以上もする弁当の半分以下の値段で


遥かに量が多くてカロリーの低い焼肉(調理済み)とか買えますから。


それに、ご飯やパンで食べれば、コンビニ弁当より遥かにバランスは良い


のではないかな…。コンビニ弁当の油分とか、ちょっと心配ですしね…。


野菜はレタスを八百屋で買って生で齧ると結構安上がりです(爆)


レタスはそのまま食えるという超アドバンテージが…。


トマトでもいいんだけど、トマト高いし、トマトは汁飛んだり丸ごと食うのは結構大変。


レタスの場合は(これも高めの野菜だけど)ちょびちょび食べることができて、貧乏生活的にGJ(爆)


あとはキュウリとか、そのまま食べれるのは他にも結構ありますが、私はレタスが好みな感じ。


ちなみに高めのコンビニ弁当をぼんぼん買うことは、それはコストパフォーマンスが


激しく良くない、即ちお金モッタイナイです!!私としては、普通に食材専門店


(肉屋さん、八百屋さん、魚屋さん等)を使うことを貧乏食生活ではお勧め致しますね。





ちなみに私は最近、ファンケルのマカを飲んでいるのですが、


これエロゲプレイ時にすっげえ効く感じだよ!!(プラシーボ効果発動の予感も)





参考作品(amazon)


ヘルスケア「アミノ酸」


ヘルスケア「亜鉛」


ヘルスケア「マカ」


ヘルスケア総合


高田明和「脳によく効く栄養学 ボケたくなければ肉を食え」


エロゲ総合一覧




アニメ「もっけ」第八話「ヤマウバ」 −暗黒面からの誘い−






もっけ公式サイト


DVD「もっけ」


熊倉隆敏「もっけ」


アニメ総合一覧






恐怖は暗黒面へと繋がっておる。恐怖は怒りへ、怒りは憎しみへ、


憎しみは苦痛へ繋がる。おまえの心にはおそれがある。


(ヨーダ。麻宮騎亜「スターウォーズ ファントム・メナス」)






私が毎週楽しく見ている今クールのアニメに「もっけ」が


あるんですが、今週放映した第八話は、特にとても良かったな…。






マンガとかアニメの感想録さん「第八話「ヤマウバ」」


http://blogs.yahoo.co.jp/chihaya1023/27684401.html






ビルドゥングスロマンにおける成長の過程の基本の一つ、暗黒面からの誘いの


物語ですが、暗黒面を完全に退けるのではなく、いずれは暗黒面に近づくかも


知れないという暗い余韻を残してあるところ、そして、誘いをかけてくる暗黒面


(山姥)もまた、一面的な悪としては描かれていないところがとても良かったな…。





ウィキペディア「山姥」





元々、山姥というのは、両義的な存在で、一概に悪とはできない存在です。


その辺を上手に使っていて、物語に深みを出していて、とても良かった。


善の側と悪の側の規範的な分け方として、利他主義=善、利己主義=悪


という分け方があり(キリスト教の影響が大きい分け方)、今回の「もっけ」も


それを踏襲していますが(利己主義的な悪(深田さん)を憎んで、瑞生も利己的な


存在になれと、山姥が誘いを掛ける)、その利己主義が、憑くもの(瑞生の負担と


なるもの)から瑞生を救うことになる(と山姥は教える)というテーマも入っていて、


一概には割り切れない、善悪の入り交じった複雑性を東洋性(両義的な存在


としての山姥)を入れることで描いており、実に見事な出来と思いますね(^^)






憎悪がお前に力を与えたのだ。お前の運命を成就し、父に代って我が配下となれ。


(皇帝パルパティーン。「スターウォーズ ジェダイの帰還」)






「もっけ」は利他主義的な善に寄り過ぎないところ(利己を認めるところ)が好感が持てる。


こういった地味だけど質の高いアニメが、きちんと評価されてくれると嬉しいな…。






アリストテレスという人は、きっと皆さんもご存知でしょう。古代ギリシアの


大哲学者です。この人はちょっと気のきいたことを言いました。


「悲劇というのは下剤みたいなものだ」と。「同情」という病的でムカムカ


するものを、さっぱりさせるには悲劇を観るのが一番であると言ったのです。


下剤を飲んで出してしまえ、と。これはさすがだと思います。


(ニーチェ「現代語訳 アンチクリスト」)






参考作品(amazon)


DVD「もっけ」


熊倉隆敏「もっけ」


アニメ総合一覧


ニーチェ「現代語訳 アンチクリスト」


アリストテレス「詩学」


麻宮騎亜「スターウォーズ ファントム・メナス」


DVD「スターウォーズシリーズ」




パンキッシュなエロゲの精神 −ノーフューチャー!!−






OVERDRIVE「キラ☆キラ」


エロゲ総合一覧


任天堂DS


DSトレーニングシリーズ






ボクは…王子なんてイヤなんだ。ギターひいたりバンドを組んだり、


グリム・グリッチみたいに有名になりたい!


(衛藤ヒロユキ「衛星ウサギテレビ」)






風邪を引きました…。暖房のない部屋で徹夜で「キラ☆キラ」を延々と


やり続けたのがまずかったのかな…、いや、これこそパンクなんだ!!


寒い部屋にて徹夜でエロゲをやり続ける、これがパンキッシュロックの精神、


ノーフューチャーの精神なんだ!!と思いながら風邪を引きました(爆)


まさにこれは「ひとりっきりのコンサートIN MY ROOM」(by衛星ウサギテレビ)


実に破滅的でパンキッシュなエロゲライフだなあと自分でも思うところ(マテ





しかも、ロックの精神には「ロックをやると女の子にモテる!(ようになるかも?)」


という期待が「キラ☆キラ」でも描かれているように、確実に入っているのですが、


パンキッシュなエロゲの精神にはそのファクターは全く皆無、ゼロ、マイナスです!!


ロックには仲間や女の子がいますが、エロゲプレイは一人で行っていますから!!


すなわち、これはロック以上にノーフューチャーでパンキッシュなスタイルだね!!(マテ






じつはロック以前、ブルースの歌詞には、「俺はもうカチカチだ(Rock)。あの子


のジェリー・ロール(roll)が待っている」(超意訳)といったものがときどきでてくる。


ちなみにジェリー・ロールというのは、やや細長い菓子パンのことだ。


このパン、スポンジケーキを用いることもあるが、縦にも複雑な割れめ!


がはいっていて、しかもそこにツヤツヤのテラテラ、ジェリー(ゼリー)あるいは


甘くて酸っぱいジャムがコーティングされていて、粘液っぽく!濡れている。





まあ歌詞自体、ミュージシャンの先輩から受け継ぎ、多少手直しをして自分ふうに


歌うといった口承伝承芸能的側面があるので、ロックになったお兄さんとロールが


ジェリー状態のお姉さん、ロック・アンド・ロール(性交)の歌曲のバリエーションは


無限といっていい。だから超意訳(あるいは筆者のこじつけ)としたのだが、


こうした性的な側面が、ロックンロールには端からまぶされていたわけだ。





だからこそ、黒人歌曲が白人DJのアラン・フリードにより白人の子供たちに紹介され、


さらにプレスリー(最初のヒット曲である<That's All Right>は、黒人ブルースマン、


アーサー・ビッグボーイ・クルーダップの同名曲の露骨な物真似だ)によって万遍なく


白人子弟に拡がったときに、白人の親たちから猛烈な反発を受けたわけだ。


(花村萬月「ロック・ステディ」)






風邪を引くと体力の限界を感じるね…。特に頭が回らなくなって、頭の働きが


昔に比べると衰えたなあと感じる…。昔はもっとぎゅんぎゅん頭の中が回った


のに…これはDSで脳内トレーニングをやらねば!と、ノーフューチャーには


ほど遠いことを考えてしまうのも風邪の魔力なのかと思う今日この頃なのです。






最近私は、脳が弱っている気がする。顔は浮かぶのに名前が思い出せない事


なんて、しょっちゅうどころか、いつもだ。ごはんを食べようと思って台所に行く


途中にトイレに寄れば、もうごはんの事は忘れて用事が済んだ気になったり、


お茶を汲もうと思って台所に行く途中でせんべいに気をとられて急にせんべいを


食べ始めてお茶の事を忘れたり、そういう感じで一日が終わっている。


完全に脳が弱っているとしか思えない。ボケが始まっているのだ。


これはまずいと思い、100マス計算と漢字の練習をすることにした。漢字検定の


一級ドリルには、見た事もきいた事もないような漢字ばかりが載っていて、すごいね。


二級も相当難しいよ。なんか、覚えている最中にボケそうな感じ。


(さくらももこ「ももこの21世紀日記」)






私がリスペクトする漫画家、さくらももこさんと同じ症状が風邪を引いた私にも!!


オーマイガッ!!急いでDSで脳トレーニングを始めなければ!魚編の漢字激ムズ!!


と、このように考えて脳トレを始める発想はパンクなノーフューチャーの精神から


遠く離れた超小市民的発想であるなあと、寝床でDSの脳トレしながら思いました(^^;





これではいけない!!風邪にも関わらずエロゲをやり続けなければ!!そう、


まずは「ツイ☆てる」から始めよう!!風邪のなかショタエロゲをやる…パンクだぜ(爆)






男女関係なくかわいければイケちゃうもん


(宮下キツネ「おいでませ新婚さん」)






参考作品(amazon)


OVERDRIVE「キラ☆キラ」


C:drive.「ツイ☆てる」


エロゲ総合一覧


任天堂DS


DSトレーニングシリーズ


衛藤ヒロユキ「衛星ウサギテレビ 第1巻」


衛藤ヒロユキ「衛星ウサギテレビ 第2巻」


さくらももこ「ももこの21世紀日記」


宮下キツネ「おいでませ新婚さん」




機動戦士ガンダム00と帝国の平和 −THE IMPERIAL GUNDAM−






ガンダム00関連作品一覧





今回のガンダム00、世界各国と共同してテロとの戦い


を行う話になってて今迄で一番面白かったですね。


ガンダム00って、私設武装組織ソレスタルビーイングは


オーバーテクノロジー(ガンダム)でハードウェア(武力)


を担当するから、各国はデモクラシーの元にソフトウェア


(人民の意志)の方面を担当せよ、但し、最終的な決定権


はハードウェアの方が持つ、みたいな話なのかな…。


これって、典型的な「THE IMPERIAL」(帝国)の思想ですね…。


ソレスタルビーイングが目指している平和は、過去にローマが


ヨーロッパにおいて成し遂げ、近現代ではアメリカが挑戦したが


なかなか上手くいかない「帝国の平和」ってやつですね…。





「IMPERIAL」の形態というのは、主義ではなく構造にあるんですね。


ハードウェアが優先的(超越的)にその共同体を管轄できる形態を示します。


ソレスタルビーイングは人が死んでいく戦争・紛争をハード的に止めるから、


それは超越的に正しいというようなニュアンスのことを主人公のセイエイが


云っておりましたが(ソレスタルビーイングは明らかにエリート主義的


組織であり、名前は精鋭と掛けてあるのかな)、こういった、他なるものに


対する超越的な管轄の意志と管轄を実際に可能にするハード的な構造


(ガンダム00だとオーバーテクノロジーなガンダムの武力)を持つことが、


「IMPERIAL」の基本的な統治形態として考えられていますね。





物凄く大雑把かつ乱暴に云ってしまうと、帝国の形態は、「剣はペンより強し」です。


ただ、「ペン」というものは物凄い力、剣を動かす力を持っていますから、実際は


ペンと協力しなければやっていけません。また逆に、「ペンは剣より強し」がデモクラシー


の理念でありますが、これも、ペンだけではやっていけないので、剣と協力してゆかねば


立ち行きません。ペンも、剣も、圧倒的な力を持つんですね。最終的にどちらに優先権


を与えるかで、純然たる帝国と、反帝国的色彩デモクラシーが分けられるとされています。






万葉の詩人は日本を、「言霊の幸はふ国」と歌ったが、わが国に限らず、どこの国の


古代人も、言葉には、(人を動かすことで世界を変革する)不思議な力が宿っている


ことを信じていた。現代人はこれを過去の迷信と笑うことはできない。何故かといふと、


この古い信仰は、私達の、言葉に対する極めて自然な態度を語っているからだ。


古代人は言葉という事物や観念の記号を信じたのではない。言葉という人を動かす


不思議な力を信じたのである。物を動かすのに、道具が有効であることを知ったように、


人を動かすのに、驚くほどの効果を現す言葉という道具の力を、率直に認め、これを


言霊と呼んだのである。なるほど、呪文によって自然を動かさうとしたのは愚かであった


らうが、言葉の力は、自然に対する人間の態度を変えることが出来る、態度が変れば、


自然が変ったのと同じ効果が上がる、さういふことを知らなかったほど愚かではなかった


のである。彼らにとって言葉とは、現実の対象や実際の行為の際に、有効に働く、


さういふ一種の機能を持つ力であった。今日も、詩人はこの古い信仰を継承している。


(小林秀雄「言葉の力」「白鳥・宣長・言葉」より)






ガンダム00というのは、平和主義を世界に広げる話では全く無くて、


平和主義を名目に掲げる世界帝国を目指す組織ソレスタルビーイング


の物語だったんですね…。思ったより面白い展開で好感が持てます。


帝国というのは、意外と寛容なもので、帝国の意志内における自由は


認めるんですね。だから今回の話のような、各国が帝国の意志内に


おいて働くこと(ソレスタルビーイングへの各国諜報機関への協力)は、


帝国は認める。逆に、帝国の意志に逆らうことは、決して認めない。





ソレスタルビーイングの姿、すなわち平和主義を掲げる帝国の姿というのは、


多分、戦前の大日本帝国と、戦後の日本が融合された姿として描かれている


のではないかなと、私は感じますね…。ソレスタルビーイングのやっている


こと(武力介入)は、普通に帝国主義的覇権戦略ですが、ソレスタルビーイング


の掲げる人命優先平和主義は、実に戦後日本らしい思想でありますからね…。


ソレスタルビーイングの戦略を立てているのは、「スメラギ」(皇)ですしね…。





ガンダム00の今後の展開ですが、ローマ帝国が絶えず戦っていたように、そして


スペースオペラ「スターウォーズ」の帝国が絶えず戦っていたように、帝国は


大きければ大きいほど、帝国の超越的ハードウェアに挑戦してくる存在との


常なる不断なき戦いを強いられます。圧倒的なオーバーテクノロジーを持つ


ソレスタルビーイングと、それに挑戦する存在達の戦いが常に続き、その戦い


が戦争になるのではないかなと、帝国の歴史的に見ればそう思われますね…。





最後に、現実における今後の政治状況は、ガンダム00が描くような、


超越的帝国(覇権帝国)を目指すような世界形態ではなく、もっと


混沌とした多極的なものになるのではないかと、云われておりますね…。


カント的な理念的世界平和の方向とは全く逆に、秩序ではなく混沌の方向へと


国際世界は向かって行くと、国際政治学では予想されていることが多いですね。






多極化する21世紀の世界では、諸大国は合従連合を繰り返しながら


競争し、衝突し、連合していくにちがいない。だが、そのような世界では、


一極・多極体制の世界の特徴である超大国と諸大国の緊張や対立は


なくなる(米対ソや覇権国家対反覇権国家連合といった二元的な対立


がなくなる)。そのため、アメリカにとっては、多極体制の世界における


大国の一つとなるほうが、唯一の超大国(覇権国家)であったときよりも


要求されるものは少なく、論争も減り、得るもの(経済利益)は大きくなるだろう。


(サミュエル・ハンチントン「孤独な超大国」「文明の衝突と21世紀の日本」より)






参考作品(amazon)


DVD「機動戦士ガンダム00 第1巻」


DVD「機動戦士ガンダム00 第2巻」


ガンダム00関連作品一覧


アニメ総合一覧


小林秀雄「白鳥・宣長・言葉」


サミュエル・ハンチントン「文明の衝突と21世紀の日本」


カント「永遠平和のために」


DVD「スターウォーズシリーズ」




OVERDRIVE「キラ☆キラ」 −青春物の傑作!瀬戸口廉也さんと光の道−






キラ☆キラ公式サイト


気まま日記(作者さんブログ)


OVERDRIVE「キラ☆キラ」


エロゲ総合一覧





OVERDRIVE「キラ☆キラ」、樫原紗理奈シナリオクリア。とても良かったな…。


エロゲ界で最も実力あるシナリオライター、瀬戸口廉也さんの新作です。


瀬戸口廉也さんの過去作、「CARNIVAL」「SWANSONG」に比べると、過去の


二作が、主に人間の絶望とか憎悪とか、人の抗えぬ最終的な破滅的要素、


作家でいうと「ケッチャム」的な絶望、人の世の絶望的な背景が非常に強く


クローズアップされているのに比べると、今作は実に真っ直ぐでてらいのない


青春物で、驚きましたが、これはこれで良いとても出来です。青春物の傑作!





前二作の「心中全てタナトス一直線!」みたいな破滅的登場人物達の心理に比べると、


今作の登場人物達は非常にバランスが取れている、人格的に遥かに円熟した登場人物達。


過去作の登場人物達と同じく、今作の登場人物達もそれぞれ家族関係等に起因する


トラウマを抱えてはおりますが、心の暗い部分は創作表現活動、パンクバンドの活動で


発散し、実生活は、より良い方向へ進めるように一生懸命努力する賢明さを持っている。





ロック、パンクとか、世俗的には、人間に悪影響を与えるとか云われますが、本作だと


全く逆で、傷ついた彼らの魂を救っている。彼らの魂の傷が、創作に意欲と深みを与え、


そして、創造の営みの中で彼ら自身を癒して、その結果、彼らは破滅を回避できる。


いわば、本作の登場人物達は、芸術を営んでいる過去作の登場人物達なんですね。


芸術(創作表現、本作だとロック)が与えられることが彼らを救い上げ、導いている。





瀬戸口廉也さんというのは、芸術の善なる力を描くことができる作家さんなのだなあと、


プレイしていてしみじみと思いましたね…。ニヒリズムではなく希望、混沌ではなく調和、


不信ではなく信頼、醜ではなく美、闇ではなく光、それら、真善美的諸価値の優越が


本作では全面に押し出され、作家でいうとゲーテっぽい作風になってて、瀬戸口さんは


「光の道」を選んだんだなと強く感じられる作品でした。過去作の場合は、希望に満ちた


真善美の光の道か、冷笑的でニヒリスティックな闇の道か、どちらに行くか、分からない


ようなところがありましたが、本作では完全に光の道、希望の道を選んでいますね…。





瀬戸口廉也さんはエロゲシナリオライターというよりは、小説向けの作家的才能の方が


抜群に優れている方で、本作ではその腕前が更に洗練され、とても爽やかな青春小説


を読んでいるような感覚でプレイできる作品でした。これはこれでとても良い作品ですが、


いずれ、「闇の道」の方向性や、どちらにも行かずに踏みとどまるような作品も読んで


みたいなとの思いも感じますね…。ただ、普通に青春物語として良質な出来でお勧め


できる作品です。青春の甘酸っぱい想い出に浸りたい方とかには特にお勧めですね。





物凄く個人的なことを書くと、良い作品だと思いますが、ただ、個人的には、もうちょっと


毒というか、ニヒリスティックな視点は、もうちょっとでいいから、欲しかったかな…(^^;


私なんかは、メフィストフェレスの声が聞こえちゃうタイプなんで、もうちょっとこの辺の


虚無に主人公を寄らしても良かったかなと。その方が、虚無を愛が超えるということに


おいても、愛の力というものがより感じられるものになりますしね…。本作のヒロインは


客観的に見て、不幸を負っていますが、私はどうしてもメフィストの声が聞こえてしまって…。






ファウスト


「あの娘は囚われているのだ。とりかえしのつかぬ悲惨な身となっているのだ。


呵責の霊に悩まされ、冷酷な裁判官の手に委ねられているのだ。しかも


そのあいだ、貴様は俺に面白くもない気晴らしなどをさせてたぶらかし、日増しに


つのるあの娘の苦悩をひた隠しに隠して、あの娘を頼るものなき破滅に陥れた」





メフィストフェレス


「なにもあの女がはじめてというわけでもありませんさ」


(ゲーテ「ファウスト」)






まあ、メフィストフェレスの声が聞こえない、”善良”な人々は数多くおりますし、


そういった人々にとっては、本作は最高の青春作品だと思うのですが、


私は少し物足りないものを感じてしまったのも否めないところではあります。





ただ、エロゲの平均から見れば群を抜いて良い出来のエロゲです。お勧め作品ですね。





参考作品(amazon)


OVERDRIVE「キラ☆キラ」


S.M.L「CARNIVAL」


LeChocolat「SWANSONG」


瀬戸口廉也「CARNIVAL」


エロゲ総合一覧


ゲーテ「ファウスト 第一部」


ゲーテ「ファウスト 第二部」


ジャック・ケッチャム著作一覧




OVERDRIVE「キラ☆キラ」 −エロゲの大傑作!!非在の位相−






キラ☆キラ公式サイト


気まま日記(作者さんブログ)


OVERDRIVE「キラ☆キラ」


エロゲ総合一覧






僕は僕の心を探した、それが泣くようにと、僕は息吹を見つけた、ああ、夏の、


それはあなたのようだった。


僕は涙が溢れた。僕はその布きれを織った。


(パウル・ツェラン「黒い雪片」)






OVERDRIVE「キラ☆キラ」コンプリート!!素晴らしい素晴らしい素晴らしい!!





最後にきらりシナリオをプレイしてコンプしたのですが、このシナリオの


素晴らしさは称える言葉が見当たらないほどに素晴らしい!!!!!


ああ、こういう素晴らしいシナリオに出会えるからエロゲは止められない(^^)





きらり以外のヒロインのシナリオが、全体的に、瀬戸口廉也さんの過去作に


比べると文体洗練の度は過去作より上がったけれど、ある種の深みは


なくなった、ハイデガー風に云うと、「物語の基層において過去作にはあった


存在論的位相が消滅した」という感覚を覚え、悲劇性が消滅して普通の


エロゲになったな、というやや残念な思いを抱きながらプレイしておりましたら…、


最後にプレイしたきらりシナリオで全てが引っくり返された!!何という嬉しい


誤算か!!きらりシナリオにおける葛藤は他ヒロインシナリオとは全く違い、


ヒューマニスティックな還元及び除去は”決して不可能なもの”として存在する。


他シナリオが”深刻・恐れ”の領域に留まるのに比べ、きらりシナリオは


悲劇として完成する。素晴らしい!!悲劇こそが人間を存在論的位相へ導く!!


AIRに引き続き、再び存在論的悲劇的位相の傑作エロゲが誕生した、素晴らしい!!






葛藤が技術的ないし社会的な手段で解決できる場合には、深刻な(悲惨な)劇は


あっても、悲劇はない。離婚についての法律がゆるやかになっても、アガメムノンの


運命は変わらないし、社会的精神医学はオイディプスの問題を解決してくれない。………





悲劇とはとりかえしのつかないもののことだ。過去の苦しみが正義に則って、


また物質的に、つぐなわれることで悲劇が終わることはありえない。………





悲劇は我々に向って、理性と秩序と正義の領域は恐ろしく限られていること、また


我々の科学や技術の力がどれほど進歩しようともこの領域は広がりはしないことを、


教えてくれる。人間の外と内には、《他者》が、世界の《他者性》がある。………





(悲劇に対してなぜそれが起こるのかの根源的な)合理的説明や慈悲を


求めても無駄なのである。この世のあり方はどうにもならない。


仮借なく、不条理なのだ。我々は犯した罪よりもはるかに大きな罰を


受けるのである。ここには人生における恐るべき洞察が現れている。


(ジョージ・スタイナー「悲劇の死」)




(ハイデガーは)「無は<でない>や否定作用よりも根源的である」と述べる。


カルナップは異議を唱えるだろうが、ハイデガーがここで言おうとしている


ことは、否定作用として「無」を論理的に理解することは、否定作用を知性で


持って理論的に考えることだということである。この講義(ハイデガー


「形而上学とは何か」)でのハイデガーの論点は(「存在と時間」では印象的に


詳論されているが)、ものごとを知性的にではなく考える仕方があるということ


である。彼は、事物に関する理論的開示以前に感情的・情緒的開示が存在する


と主張する。こうした開示は、ハイデガーが「情態性」と呼ぶものにおいて生じるが、


これはハイデガーによるアリストテレスのパトス(感情)概念の言い換えである。


こうして、人間は、憂鬱であれ、高揚した気分であれ、たんなる無関心であれ、


常にある種の情態性のうちにあり、彼ないし彼女がものごとを見る仕方はこの


情態性によって規定されている。ハイデガーにとって、この情態性はたんなる


感情と理解されてはならないのであり、それ(情態性)以外は合理的でモノクロの


われわれの精神生活に、心理的な彩りを与えるようなものと理解されてはならない。


情態性は、人間が世界における生を経験する仕方を規定しているのである。





そうすると問題は、無をあらわにするような情態性があるのか、ということになる。


ハイデガーの答えはイエスであり、彼はそれが「不安」、ドイツ語のAngstの機能


だと主張する。確かに人は常にあれこれの不安を抱えている。試験、蜘蛛やネズミ


への病的な恐れ、等々。そうではない。ハイデガーの力説するところでは、そうした


特殊な不安は「恐れ」と呼ぶのがもっともよい。蜘蛛、ネズミ、試験といった原因が


取り除かれれば、恐れは消える。不安に関するハイデガーの主張の眼目は、


不安は人の存在の背後に響くノイズのように、あらゆる恐れに先立って存在し、


固執するということである。不安はしたがって、あれやこれやに関する不安ではなくて、


人の全体に関する不安である。不安において生じることは――ここでハイデガーの


散文は素晴らしい記述力を呈するが――、すべての個別的なものが人の手を


すり抜け、人は一人残されて奇妙で不気味な感覚を味わうという事態である。





不安が生み出す不気味さの経験において、静寂やさらに平穏さにおいて、


人はすべてのものの無を感じ、ライプニッツによって初めて提起された


次のような形而上学的問いを問い始める。すなわち、「なぜそもそも


或るものが在って、むしろ無ではないのか」という問いがそれである。





そういうわけで、ハイデガーにとっては、不安の経験において開かれる無は、


存在の意味に関する唯一の形而上学的問いの提起へと人を導く。


奇妙に聞こえるかもしれないが、無についての問いはハイデガーをまっすぐに


形而上学の核心へと導くのであり、こうした探求はウィーン学団によって


唱えられたような科学的世界把握に還元できないのである。哲学は本質的に


形而上学であり、「哲学は決して科学の観念の基準で測ることはできない」。


ハイデガーは結論する。「人間的現存在(実存)は、それが自らの無のうちへ


与え入れておく場合にのみ存在者へと立ち向かいうる。越え出ることは現存在の


本質において生じる。しかしこの越え出ることが形而上学そのものである」。


(サイモン・クリッチリー「ヨーロッパ大陸の哲学」)






「葛藤が技術的ないし社会的な手段で解決できる場合には、


深刻な(悲惨な)劇はあっても、悲劇はない」





「蜘蛛、ネズミ、試験といった原因が取り除かれれば、恐れは消える。


不安に関するハイデガーの主張の眼目は、不安は人の存在の背後に響く


ノイズのように、あらゆる恐れに先立って存在し、固執するということである」





本作(「キラ☆キラ」)においては、KEYの「AIR」や瀬戸口廉也さんの


過去作(「CARNIVAL」「SWANSONG」)に存在した不安的葛藤(存在論的


位相における葛藤)がきらりシナリオにおいて顕現し、恐れ的葛藤(人間論的


位相における葛藤)に人物達の葛藤のレベルが一元的形態に収束している


他ヒロインシナリオ(ほとんどのエロゲはこの形態)を遥かに凌駕する領域、


存在論的悲劇の領域に達している!!ああ、これこそが、我が求むる物語!!





存在論的悲劇、つまり現存在のAngst(不安)がどこから由来(存在の声)として


現れるかということ、それが、きらりシナリオにおいて語らぬもの、すなわち


「非在」として現れていると考えるべきでしょう。無への対置としての幻覚は、


実際は無に従属するものでしかなく、ただ、否定作用――無のみが意識される。


神学的に見れば、主人公が罪を意識する物語として解釈することも可能でしょう。


ハイデガーはここに人間(現存在)の存在論的構造(根源的悲劇)を見てとった。






ハイデッガーの良心の分析においては、(良心の)四要素は


全て自己である。(一)、呼びかけを行う者は自己である。


(二)、呼びかけられる者も自己である。(三)、それは自己に


ついて呼びかけられるのである。(四)、人は自己へと――


すなわち己自身の単独的、本来的自己に呼びかけられるのである。


無論、これらの要素は全てそれぞれ自己の異なった側面を反映


している。たとえば呼びかけを行う自己は不安(Angst)の内に


あって、「不気味な」(unheimlich)ものである。すなわち、呼びかけを


行う自己は群衆に属しているという居心地のよさを失った自己


である。これは良心というものが実際に起こる場合のことをまことに


鋭く洞察したものであって、我々が否応なしに「良心の問題」に心を


悩ませる時には、ひどく淋しく孤立した心持がするものである。………





ハイデッガーは「罪あること」を否定的形式の一形式と解釈する。


すなわち、罪は「……でない」を含んでいるということである。


それはどんな意味なのだろうか。………





存在論的に言うならば、罪が単独なる自己へと焦点をあてるという


ことは、自己が可能性を受け入れるばかりでなく、可能性を排除できる


というその能力(選択)に焦点をあてているということなのである。


(マイケル・ゲルヴェン「ハイデッガー「存在と時間」註解」)




――現存在は現存在である限り、既に負い目ある者である、ということを意味する。


(ハイデガー「存在と時間」)






そして、ここから始まり、実存性が現れる。きちんとそこまで、描ききっている!!





小説的な文体によって、まさしく「小説を越える」ようなエロゲを創る作家さん


として、瀬戸口廉也さんさんは最も優れた稀有なる作家さんとしてありますね…。


本作は実に素晴らしい作品、エロゲーマーならプレイする価値は勿論あり、


エロゲーマーでなくてもプレイする価値は深く深く在る、素晴らしい作品です。


後、存在と時間を読むのが好きでたまらない、私みたいな変わり者の方にもお勧め。





本作において、無の深淵、存在論的な位相、悲劇の位相が確りと描かれている。


ぜひ、プレイを最も強くお勧めする、極めて優れた作品、本当にお勧めです!!






パウル・ツェラン


「糸の太陽たち」


糸の太陽たちが


灰黒色の荒野の上に。


ひとつの木の


高さの考えが


光の音を捕える――


人間たちの


あちら側には まだ歌われる歌たちがある。






参考作品(amazon)


OVERDRIVE「キラ☆キラ」


S.M.L「CARNIVAL」


LeChocolat「SWANSONG」


瀬戸口廉也「CARNIVAL」


エロゲ総合一覧


パウル・ツェラン「パウル・ツェラン詩集」


サイモン・クリッチリー「ヨーロッパ大陸の哲学」


ジョージ・スタイナー「悲劇の死」


ジョージ・スタイナー「マルティン・ハイデガー」


テリー・イーグルトン「甘美なる暴力 悲劇の思想」


マルティン・ハイデガー「存在と時間 上巻」


マルティン・ハイデガー「存在と時間 下巻」


マルティン・ハイデガー著作一覧


マイケル・ゲルヴェン「ハイデッガー「存在と時間」註解」




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